芳年写生帖

野村胡堂




絵師の誇り


 霖雨りんうと硝煙のうちに、上野の森は暮急くれいそぐ風情でした。その日ばかりは時の鐘も鳴らず、昼頃から燃え始めた寛永寺の七堂伽藍がらん、大方は猛火に舐め尽された頃までも、落武者を狩る官兵の鬨の声が、遠くから、近くから、全山に木精こだまを返しました。
「今の奴、何処どこへ逃げた」
「味方を四五人騙し討ちに斬って居るぞ。逃してはならぬ奴だ」
「まだ遠くへは行くまい」
「見付かったら、朋輩の敵、と太刀ずつ斬るのだぞ」
 背負しょい太刀、ダン袋、赤い飾毛をなびかせた官軍が五六人、木立をさぐり、藪を分けて鶯谷うぐいすだにの方へ降りて行きます。
 その背後うしろから、物の影のように現われたのは、彰義隊士しょうぎたいし日下部欽之丞くさかべきんのじょう、二十四五の絵に描いたような美男ですが、軽傷あさでを受けた上、幾人か斬った返り血が、乱鬢みだれびんと、蒼い頬と、黒羽二重くろはぶたえを絞った白襷しろたすきに反映して、凄まじさというものはありません。
「――――」
 不敵な舌鼓を一つ、四辺あたりを見廻した欽之丞は、又も近づく人影に驚いて、木立の蔭に身を潜めました。
「畜生ッ、――俺は怪しい人間じゃねえ」
 血の臭いに酔って、無暗むやみに吠え付く犬を叱りながら、桐油とうゆをすっぽりかぶって、降りしきる細雨の中をやって来たのは、絵師の月岡米次郎つきおかよねじろうこと、大蘇芳年たいそよしとしの一風変った姿です。
 明治元年五月十五日の夕刻。
 その時芳年は三十歳、御家人の子に生れて武士の血をけたはずですが、月岡雪斎せっさいに養われ、菊池容斎きくちようさい葛飾北斎かつしかほくさいの風を学んで、心も姿もすっかり町絵師になり切って居りました。
 浅葱あさぎの股引に草鞋わらじがけ、桐油に上半身を包んで、目ばかり出した風体ふうていは、腰の矢立てと懐の画帳が無かったら、葛飾在から来た水見舞と間違えられるでしょう。
 油のような生温かい雨が降るのに、芳年の身体からだは、ガタガタ小刻みにふるえて、時々はしゃっくりをして居ります。その上足許あしもとも不確かで、ヒョロヒョロと行っては、ぬかるみに足を取られて、泥の中へヘタヘタと坐ったりしました。
 そのくせ、藪の中や道の上に、斬られて死んでいる死骸を見ると、彰義隊であろうと官兵であろうと一々覗いて、その相好と、歪んだ姿態を見極めずには居られなかったのです。
「ひどい傷だが、――仏様のような穏かな顔をして居る」
 そんな無事な死顔は、芳年の興味を引かなかったのでしょう。
「これは凄い」
 時々は死体の前にしゃがんで、懐から出した半紙横綴の帳面に矢立の筆を抜いて――細雨をかばい乍ら、写生の筆を走らせました。
 不意に――
「居たぞ居たぞ」
 バラバラと取巻とりまく官兵、ギラリギラリと幾条いくすじかの刃が芳年の眼に焼け付きました。
「あッ、お許し」
 驚き騒ぐ芳年、桐油を引き※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしられて襟髪を掴まれたまま、二つ三つ小突き廻されます。
「何者だッ、うぬッ」
「お許し、お許し下さりませ。私は怪しい者じゃございません」
 行儀の悪い猫の子のようにつまみ上げられた芳年は、意気地無くもガタガタ顫え乍ら、両手を合せて居ります。
「怪しくないことがあるものか。其処そこで何をして居た」
 風体は落武者とも見えません。多分戦塵のまだ納まらぬ山内に潜り込んで、掠奪を目論もくろむ泥棒とでも思ったのでしょう。
「絵を描いて居ります。私は、私は芳年と言う浮世絵師で――」
「何? 浮世絵師? 出鱈目でたらめな事を言えい。浮世絵師と言えば、美人や、役者や、道中の景色などを、面白可笑おかしく描いて、女子供の慰み物にするのが稼業ではないか、――どれ見せい、貴様の絵は――んだこりゃ、どれもこれも、気味の悪い、斬り合いや、死骸や、さらし首ばかり、これでも浮世絵師と言うのか、怪しい奴ッ」
 頭立かしらたった一人の武士、芳年の写生帳をバラバラと開いて、不審の眉を顰めます。
「そ、それは違います。あなたのおっしゃる遊女や役者や道中絵を描くのは、泰平の世の浮世絵師、――女子供の慰みにする気はなくとも、世の中に事が無いと自然絵までが穏かになりますが、此節このせつのように、斬った張ったの世の中、耳元で鉄砲の音のする時節には、それ相応の浮世絵がなくてはなりません。この世の中に様々な姿を、あるがままに写して、後の世に伝えるのは、絵筆とる者の勤めでござります。――今時華魁おいらんや役者の絵を描いて、一人で悦に入っていられましょうか」
 芳年は一所懸命でした。自分に掛けられた疑惑を解くというよりも、硝煙と血潮の洗礼を受けた浮世絵師の、精一杯の誇りを――う高らかに言ってやりかったのです。
可笑おかしな奴だ、言う事は一と通り筋道が立っているが――そのくせガタガタ顫えて居るじゃないか。そんな臆病者に、血腥ちなまぐさい場面が写せると思うか」
「写しますとも、ヘエ、身体の顫えるのはかんのせいで、私の臆病のせいじゃございません。こんな時本当に突き詰めた人間の姿を写して置かなきゃ、――私は浮世絵師に生れた甲斐かいがありません。何んの」
「よし、それじゃ、もっと凄いところを見せてやろう、一緒について来い」
「ヘエ――」
「さア」
 促されて芳年は起ち上りましたが、意気地無くも膝の蝶番ちょうつがいが崩れて、ヘタヘタと綿のように泥濘ぬかるみへ坐ってしまいます。
「た、起てません」
「ハッハッ、馬鹿な奴だ。腰が抜けたのか、そんな事で本当の戦が描けるものか」
「少し気を落付おちつけさせて下さい、ぐ治ります」
「よしよし、何時いつまでも腰抜の相手になっても居られまい。誰か二人ばかり、此辺で見張って居るがい、我々はもう一度落武者を狩り出して来よう」
 芳年は腰の抜けたまま、松の根方に縛り付けられ、官兵二人はそれを見張るともなく残されました。
 あとの一隊はバラバラと上野の森へ、暮れ残る道を取って返します。

落武者欽之丞


「やい、絵師」
「ヘエ――」
「俺を描いて見ろ」
「ヘエ――」
「この武者振りを一つ描いて見ろ、出来が良かったら、国への土産みやげにしてやる」
 一人の官兵は威儀を作りました。
「縛られて居ちゃ描けません」
 芳年は泣き出しそうでした。
「よしよし、それじゃしばらくの間縄を解いてやる。その代り絵の出来が悪いと勘弁しないぞ」
「それじゃ御免こうむります」
「何?」
「出来不出来は臨本てほん次第で、一たん筆を執った上は、私の儘にもなりません」
「俺の武者振りが悪いというのか」
「そう言うわけじゃございませんが、お気に召さないといけませんから、描くのは勘弁して下さい――死人やさらし首と並べて描いちゃ、第一気色が悪うございます」
 芳年は縛られ乍らも、頑強にはね飛ばしました。こみ上げて来る強大な自尊心がガタガタ顫え乍らも、う言わせずには措かなかったのです。
「無礼な奴だ、そんな事を言うと、痛い目を見るぞ――絵描きだと言っても、描くところを見なければその帳面の絵だって、誰が描いたか解ったものじゃない。其方そのほう、彰義隊の落武者ではないか」
「と、んでもない」
 そう言う芳年の後に廻って一人はつばを鳴らしました。
此奴こいつ、斬って捨てようか」
「フム、それも宜かろう」
 二人は何やら合図をして居ります。
「あッ、お許しを。私は、彰義隊なんかじゃございません」
 さっと来た一刀、縛られ乍らも危うく首をすくめましたが、二度目の太刀は防ぎようはありません。
 が、その時奇蹟が起りました。芳年の頭上に振りかむった一刀は宙に飛んで、
「あッ」
 飛退とびのく官兵の一人は、足を苅られて屏風びょうぶの如く倒れたのです。
「己れッ」
 飛付くもう一人の官兵の前へ、石垣を這い上ってスックと立ったのは、先刻さっき姿を隠した日下部欽之丞の満身に返り血を受けて、地獄の底から跳出とびだした、幽鬼のような物凄い姿です。
 二人の官兵はよく闘いましたが、一人は足を苅られ、一人は不意を喰って、死物狂いの欽之丞の敵ではありません。真にあッと言う間に、左右に斬って落されました。
 二人の官兵を片付けた欽之丞は、芳年の側に寄って、夕闇の中からその顔を差覗さしのぞきました。
「気をうしなったのか、馬鹿な奴」
 冷たいわらいが頬に淀んだのもほんの暫らく、次の瞬間、欽之丞の手は、芳年の縄を解いて、その着物を剥ぎ始めます。
「あッ、お助け、命ばかりは――」
 芳年はようやく気が付きました。
「命は取らぬが、その方の着物が入用なのだ、暫らく借りるぞ」
 武装を脱ぎ捨てた欽之丞は、芳年のあわせを着流し、脇差だけ一本、深々と懐に呑み、幸い道端の水溜りで、ザッと手足や顔の血潮を拭き取りました。
 心持髷を直して、芳年の手拭を取上げてかぶると、うやらうやら町人らしくなります。
「それ、これは礼だ」
 ポンとほうり出したのは小粒が二つ三つ、
「あ、もし、お武家様」
 芳年はその小粒には目もくれず、襦袢一つの姿で泥の中に起上おきあがりました。
「何んだ、金が不足か」
 振り返った欽之丞、弥蔵やぞうさえもこしらえて、頬冠ほおかぶりの中に匂う顔は、歌舞伎芝居の花道で見るような男振りです。
「その帳面だけは返して下さい、――そいつは、私の命から二番目で」
「これか」
 無意識に懐にねじ込んだ帳面を取出すと、欽之丞はポンとほうります。
「あ、泥が附くじゃありませんか」
 絵師の憤懣が、ツイ軽い抗議になりますが、欽之丞はそれを耳にも掛けず、夕闇の濃くなり行く上野、谷中、道灌山かけての木立の中を見て居ります。
「待て待てッ、怪しい奴」
 不意に藪を分けて一人、日下部欽之丞の行手に立ちふさがりました。羅紗らしゃの陣羽織、細雨をしのぐ陣笠、抜刃ぬきみのままの一刀を側構えに、一寸ちょっとの油断も無い気組です。
「ヘエヘエ、私共は土地の者でございます。戦見物と申しちゃ悪うございますが、一生に一度の事と存じまして、ツイ、ウカウカと深入りいたしました。お見逃しを願います」
 日下部欽之丞は腹からの町人らしい滑らかな調子でした。江戸侍の器用さでしょう。
「もう一人の男は裸体はだかじゃないか」
「連れは落武者に剥がれました」
 日下部欽之丞ケロリとしてこんな事を言うのです。
「頬冠りを取れ」
「ヘエ――」
「頬冠りのまま武士に挨拶する奴があるか」
「ヘエ――」
 欽之丞の左の手は挙りました。頬冠りを取ると見せて、右手は早くも懐の申の脇差の柄に――
「え――ッ」
 紫電一閃、
「わッ」
 羅紗陣羽織の肩から鮮血を吹き上げて、相手は倒れたのです。
「お助けッ」
 芳年も、あまりの事に肝を潰して、欽之丞の足許に這いました。
「馬鹿ッ、何んと言う声だ、斬られたのは貴様ではないぞ」
「ヘエ――」
「其方の住居は何処どこだ」
 血刀を拭い乍ら、欽之丞は訊ねました。
「あ、浅草の馬道でございます」
「大して遠くはないな、――今晩一と晩俺を泊めろ」
「――――」
「いやか」
 生血を拭いたばかりの刀が、芳年の眼の前へ、思わせ振りに動きます。
「と、飛んでもない」
「では、案内せい、――こんなところに長居は無用だ」
「――――」
「さア」
 促され乍ら、芳年は此処ここに釘付けになりました。夕闇の中に絶え入る、今斬られたばかりの武士の相好が、芳年の興味をひしと捕えたのでしょう。
 何時いつの間にやら取出した帳面、それをガタガタ顫える膝の上にべて、芳年は矢立の筆を噛んでいたのです。

悪い相談


 それから四五日、江戸には血生臭い風が吹き続きました。
 その風に憑かれでもしたように、大蘇芳年は、朝から晩まで、街から街へと、物騒な噂を追い歩いて居たのです。
 小塚ヶ原の刑場は言うに及ばず、彼方かなたの橋のたもと此方こなたの長屋の裏で、彰義隊の落武者が、薩長の巡邏じゅんら兵に見付けられ、縛られ、斬られる有様を、吐気を催すような嫌悪と、病的な熱情とで、一々画帳に納めなければ承知しなかったのです。
 馬道の留守宅では、押かけ女房のおよつが、これも押かけ落人おちうどの日下部欽之丞を介抱して、世間を狭く暮して居りました。およつは、園花そのばなと言って千住こつで勤めた女で、ねんが明けると、大した歓迎もしない芳年のところへころげ込み、女房気取りで三月四月も納まっていると言ったたちの女でした。
「本当にあの晩ほどびっくりしたことは無いよ。襦袢一枚のあの人の後から、彰義隊へ入ったという欽さんが、のそりと入って来るんだもの――」
 およつは、芳年の留守の間、狭い六畳の、日下部欽之丞の枕許に坐り切りで、根が生えたように、う話し込んでいるのです。
「俺だって驚いたよ。此春年が明けて、千住から消えたお前が、場所もあろうに、俺が逃げ込んで来たヘボ絵描きの家の、長火鉢の前に納まって居ようとは、お釈迦様でも気が付くわけはねえ」
 欽之丞は、そんな伝法でんぽうな口をききます。腕はよく出来ますが、旗本の冷飯食いで、およつの園花とは、二年前からの深間ふかまだったのです。
「でも、うして逢えたのも、深い縁じゃないかねエ欽さん、――いくら私が図々しくたって、旗本のお屋敷へ、誓紙起証を振り廻して乗込のりこむわけにも行かず、仕様ことなしに一番甘そうなお客の絵描きの家へ轉げ込んだのさ。其処そこへ落武者になった欽さんが飛込んで来るなんて、草双紙にも滅多に無い筋じゃないか、――あの通り世間は物騒だし、幸い主人あるじ朴念仁ぼくねんじんで二人の仲に気が付かないから、五年でも十年でも、神輿みこしを据えて逗留しておくれよ、ね欽さん」
 長い煙管きせるを吸い付けて布団の中へ入れると、およつ身体からだは横っ坐りに、肘はもう、男の布団へやわやわと重しになるのでした。
「傷はもうなおったぜ、何時いつまでもうしていた日にゃ、人間の造作がゆるむよ、後生だから起してくれ」
 煙管きせるをポイとほうって、欽之丞は枕へ頬杖を突いたなりに、下からおよつしたたる風情を見上げるのです。
「あれさ、お前、起き出した時は、追い出される時じゃないか、それに縁側やお勝手でウロウロされちゃ、近所の人の手前もあるし」
「その近所に、飛んだ綺麗な娘が居るじゃないか」
「まア、呆れたよ。もうあれを見たのかい、――でもあれだけはおしよ。お浜坊はまぼうと言って、素人しろうとのくせに飛んだれっからしさ。何処どこが良いか知らないが、うちの朴念仁にポーッと来て居るんだって、ホホ」
「ヘエ――、芳年師匠、芸道ばかりと思ったら、そんな腕もあるのかい」
 欽之丞は何処どこまでも面白そうです。
「そう言うけれど、私はつくづくあの人が怖くなることがあるよ」
「あんまり物驚きをする柄では無いようだが、――何が一体怖いんだ」
「あの通り、絵を描くよりほかに望みの無い人だし、臆病なほど大人しいから、踏台に丁度ちょうどよかろうと思って連れ添って見ると――」
「――――」
 およつはごくりと固唾かたずを呑みました。
「あの通りの良い腕を持ち乍ら、右から左へ金になる、華魁おいらんや役者の絵を描くのが大嫌いで、たまたま筆を取るかと思えば、不気味な無慚絵むざんえばかり――、そんなものが金になるわけが無いから、家の中は何時いつまで経っても火の車さ」
「――――」
「上野のいくさが始まると、その病はこうじるばかり、毎日目の色を変えて飛出しては、斬りあいがあった、さらし物があったと、三里も五里も歩き廻って、暗くなってから、狐が落ちたような顔で帰って来るんだもの」
 およつはそう話し続け乍ら、何んとなく胴顫いを感ずる様子です。
「私はつくづく愛想を尽き果てたよ。幸い飛込んだお前さんは、私の為には渡りに舟さ、迷惑だろうけれど、何処どこへなと連れて逃げておくれ、ね欽さん」
「俺もそれを考えないわけじゃ無いが、何んと言っても、まだ探索の目が厳しいから、一と足路地を出たら、どんな事になるか解ったものじゃない。それに何処どこへ行くにしても先立つものは金だ」
「それなら幸い――」
 およつは、少しばかり隠して持っている、自分の虎の子のことを考えて居ました。
三河島みかわしまには縁家がある。今日芳年が出る時、一筆書いて持って行って貰ったから、今にも帰って来たら、何とか返事があるだろう」
 日下部欽之丞は、何時いつの間にやら、床の上に起直って居りました。二つ三つ受けたかすり傷は、もうすっかり癒って、此儘函館へも飛べそうな心持です。
「それじゃ、私が一緒に行けないではないか。あの人に行先まで教えてしまっては、命の鍵を握られているも同様、それに、二人の仲を薄々嗅ぎつけた様子だから、後腐れのないように、バッサリやって、何処どこか遠くへ飛ぶ工夫が肝心だと思うが――」
 およつの肝の太さ、あまり気の進まぬ日下部欽之丞を説き伏せて、底の知れない悪魔の淵へと誘い入れるつもりでしょう。

隣の娘お浜


「ちょいと」
 ひそやかな声に呼止よびとめられて、芳年は思わず足を淀ませました。今日は不思議に早く帰った路地の入口、共同井戸の前に、白い顔が自分を見詰めて居たのです。
「お浜さんじゃないか、何んか用事かい」
 芳年は気軽な調子でう立ち止りました。世帯摺れはして居りますが、十九になったばかりのお浜には、娘らしさが、顔にも姿にも、声の爽やかさにも充分過ぎるほど匂って居たのです。
「今入って行くのは、お止しなさいよ、迷惑する人が二人あるようだから」
 その娘の口に含んだ毒が、妙に芳年を焦立たせます。
「何?」
「ね、芳年さん、人のことだけど、私はもう、腹が立って腹が立って、あの彰義隊の生っ白い二本差を、いっそ屯所へ訴人してやろうかと――」
「シッ――」
 二人は継穂もなく、黙って顔を見合せました。
「お前さんが、あんまりお人よし過ぎるんですよ。あんな恩知らずの畜生は、なぶり殺しにでもされて――」
「なぶり殺し?」
「首は三尺高い木の上にさらされ、死骸は犬のにでもなりや宜いに――」
 お浜のいかりは際限もなく爆発します。芳年をいとしと思う心が、うまで極端に働いて、全く違った方角へ忿怒の形で発展して行ったのでしょう。
なぶり殺し、――さらし首、――そして死骸は犬に――」
 芳年の空想力は鼓舞されました。無慚絵の素晴しい題材が、お浜の言葉の上に、活々いきいきと築き上げられて行くのです。
「足りない、まだ足りない」
 江戸人の心を恐怖のドン底に投込んだ、私刑、暗殺、押込おしこみ斬合きりあい、――そして最後に彰義隊の戦争から、寛永寺三十六坊の炎上、八百八町の落武者狩までの、血と焔の印象が、まだまだそんな事では表現し切れなかったのです。
「何が足りないと言うんです、え?」
「凄さが足りない」
「え? ――お前さん、しっかりして下さいよ。あんな二本差なんか、芋侍に引渡ひきわたしさえすれば、それでお仕舞なんだから」
 お浜には、芳年の心持が解る筈もありません。日下部欽之丞とおよつの関係を言い当てられて、フラフラと気が変になったのであるまいか――お浜はそんな事を考えるのが精一杯だったのです。
「放って置いてくれ、お浜さん、俺にも少しは考えたことがあるから――」
 解ったような、解らないような事を言い捨てて、芳年は自分の家へ入って行きました。
「――――」
 その臆病らしい姿、作り笑いさえ浮べた横顔を、お浜はどんなに腑甲斐のないものに思ったのでしょう。
 御家人の子に生れて、その描く絵と同じように、骨っぽい男らしい人柄を見上げる心持で居たお浜は、近頃の芳年の意気地のない態度に、言いようのない憤懣を感じて居たのです。
んなあの女のせいだよ」
 お浜の眼には、恥というものを、何処どこかに置き忘れて来たような、およつ白粉焼おしろいやけのした顔が、はっきり浮ぶのでした。

恐ろしい予感


「日下部さん、御安心なさい。三河島の御親類じゃ、日下部さんが無事と聴いて、大喜びでしたよ」
 芳年の言葉にも態度にも、何んのこだわりもありません。
「それは有難ありがたい」
 日下部欽之丞は、ツイ今しがたまで、およつと、よからぬ事を企んでいたことなどは、綺麗に忘れてしまった様子です。
「で、――馬道よりは近所が遠いだけでも身を隠す都合が宜かろうから、すぐおつれするようにと、う言うお言葉でございました。世間が物騒だから、お返事を口移しで、書いたものは持って参りませんから――」
「それで結構、飛んだ御苦労であったな、早速支度をして、今夜にも出かけるとしようか」
 欽之丞はもう、まだ癒らぬ首の傷のことも忘れて、床から飛起きて居りました。
「いえ、夜はかえって物騒ですよ。私は諸方をほッつき歩いて、其辺中の官兵の屯所は、一つ残らず顔馴染かおなじみだから、私と一緒におでなさい。とがめられたら、私の弟子ということにしましょう。陽の当るうちの方が、どんなに安心だかわかりません」
成程なるほど、そう言ったものかも知れぬな」
 日下部欽之丞は支度を始めました。月代さかやきを広く取って、根を下げた町人まげ、芳年のあわせ、手拭はわざと肩に、脇差は鍔を外して懐に隠し、突っかけ草履ぞうりで、芳年の後に続きます。
「ね、欽さん」
「――――」
 門口まで追って出たおよつ、芳年が一と足先へ行ったのを確かめて、
「わざと途中で手間取って、何処どこ人気ひとけの無いところで――」
 およつは手刀で、そっと物を切る真似まねをして見せます。
「それが、およつ――」
「待ってますよ、暗くなったら、直ぐ迎いに来て下さい。解って欽さん」
「――――」
 欽之丞はうなずくと、一と足先に行った芳年の後ろ姿を追いました。
 未刻やつから申刻ななつ頃まで、
 およつは坐っても起ってもいられない心持でした。長火鉢の前へ行ったり、門口へ出たり、お勝手を覗いたり、煙草たばこを吸ったり、茶を呑んだり、溜息をついたり、
「欽さん」
 んかよこしまなことを念ずるような心持で、不思議に胸騒ぎに悩み続けたのです。
 ヒョイと見ると、垣の間から白い顔、
 お浜の狷相ずるそうな眼と、人を馬鹿にしたような――その癖、男好きのしそうな赤い唇が見えるではありませんか。
「何んだい、お前は? 昨日も一昨日おとといも、雌犬のように、変なところから覗いたりして、いくら棟割長屋だって、垣の中は人様の城郭だよ、風の悪いことしやがると、水ブッ掛けるから」
 およつは気が立って居りました。
「芳年さんは、まだ帰らないの?」
 お浜の調子の邪念の無さ。
「それがうしたと言うのだえ?」
 ツイ釣られるともなく、およつも縁先へ泳ぎ出しました。
「だって、ツイ先刻さっき田圃たんぼで彰義隊の落武者が捕まって、斬ったとか斬られたとか、大変なさわぎをしたようだから、此方こっちに何んか変りが無きゃ宜いと思って――」
 お浜の調子のさり気ない滑らかさは、およつに取っては、此上もない威嚇でした。が、――あんなに用心深い支度をして行った欽さんに、万に一つ間違いなどある筈もありません。あの人が訴人するか、屯所へ引渡したのなら別だけれど、あんな臆病者に、そんなことが出来る筈も無し――盛上もりあがって来る恐怖を、無理にも押付けて、およつは乾く唇を噛みました。
「彰義隊の落武者? そんな者に掛り合いは無いよ。余計なお節介をするより、さっさと自分の家へ帰って、内職の楊枝でも拵えるが宜い、馬鹿馬鹿しい」
「そんなら宜いけれど――」
 お浜は煮え切らぬ事を言い乍ら、臆病な狐のように、振り返り振り返り帰って行きます。
「畜生ッ、何んて嫌な奴だろう」
 およつは縁側から引込みました。
 が、その時丁度、格子を開けて、何時いつになく、ノソリと入って来た、大蘇芳年の蒼い顔と、眼をそらしようもなく、ハタと逢ってしまったのです。
「あッ」
 恐ろしい予感が、水のようにおよつの背筋を走りました。

血に狂う美女


「およつ、居たか」
 うつろな声、眼はギラギラと瀬戸物のように光ります。
「お前さん、何んて顔だい、――あの人がしや?」
 およつの言葉は喉の中で消えました。
田圃たんぼで官兵に捕まったよ」
「えッ」
「上野で散々官兵を斬ったことを知って居る者があって、其場でなぶり殺し同様」
「じゃ、矢張やっぱり」
「これを見ろ」
 芳年は、ポンと画稿を投げました。
 手に取って見るまでもありません。およつの膝の前でパッと開いたのは、矢立の墨一色で描いた、至って粗末な略画乍ら、紛れもない町人姿にして出してやった日下部欽之丞が、多勢の官兵に取巻かれ、乱刃の下に斬りさいなまれているうらみの形相です。
「えッ、畜生」
 およつは画稿を叩き付けて、いきなり芳年に武者振り付きました。
「あッ、何をするんだ」
「お前と言う男は、何んと言う卑怯者だい。私とあの人の仲を疑って、力ずくで叶わないから芋兵に、訴えて召し捕らせ、こんなむごたらしい目に逢わせやがったろう」
「俺がそんな事を知るものか、離せ」
「わざわざ陽のあるうちに連れ出したのは、これを絵に描き度いために違いない。三月でも四月でも、一緒に住んだお前の心持が、私に解らないと思うのかッ」
「馬鹿なッ」
「お前は上野で官兵に斬られるところを、あの人に助けられたと言ったろう。一旦かくまった恩人を訴人して、義理も人情もない、それでも江戸っの端くれかい。畜生ッ、意気地なし、そのくせ、いけ図々しく、こんなむごたらしい絵まで描いて来やがって、ぬけぬけと私に見せるなんて、何んて根性だろう、外道ッ、鬼ッ」
 およつは半狂乱でした。揉みも揉んだ姿で、芳年の首へ胸へ、たぶさへと武者振り付くのです。
「俺じゃない――誰か訴人をしたに違いないが、この芳年じゃ無い」
「それほど潔白なら、何んだって、こんな無慚絵なんか描いたんだ。人の死ぬのをヌケヌケと見ていて宜いものか悪いものか、思い知らせてやるから、畜生ッ」
 小格子で年一杯叩き上げたおよつは、妖艶で取廻しの良い女でしたが、その代り、執拗で病的で、意地っ張りで気違い染みた女でした。
「待ちなよ、俺だって人の殺されるのが面白いわけじゃないが、今の時世を写すには、こんなものでも描くより外に仕方が無い。天下後世に、俺の芸道を遺すためには、油汗を流し乍ら、歯ぎしりして、無慚絵を描くのだ」
「まァ、何んと言う曲った根性だろう。地獄の鬼だって、そんなむごたらしい事ばかり追い廻しちゃ居まい――それほど芸とやらが大事なら、美事みごと私も成敗しておくれ。お察しの通り欽さんは私の命まで打込うちこんだ深間さ。それがどうしたんだい、畜生。さア、殺しておくれ、立派にやっておくれよ」
 半狂乱のおよつは、芳年に身体からだを摺り寄せて、四方あたり構わずわめき散らすのでした。
「馬鹿ッ、宜い加減にしないか。俺はそんなことで、人を殺す量見りょうけんなどは微塵も無い。気に入らなきゃ出て行くが宜い。どうせお前が勝手に飛込んで来た家じゃないか、死のうと生きようと、お前の好きなように――」
 芳年もツイ持て余し気味に、およつの絡み付く身体からだをおし退けました。
「私一人で死ねと言うんだね、――ようし、あの人を訴人したお前の前で、見事死んで見せよう、驚くな」
 いきなり台所へ駆け込んだおよつ、芳年がそれを追う隙もありません。キャッと言う悲鳴、――研ぎすました出刃庖丁で、我とわが喉も胸も、顔までも掻き切って、満身鮮血を浴びたまま、よろぼいよろぼい這い出して来たのです。
「あッ、何んと言うことをするんだ」
「さァ、この、私の顔をよく見ておくれ。この顔を、この姿を、――お前の筆で描けるものなら描いておくれ」
 宙に泳ぐ手、銀杏いちょう返しの根はガックリ抜けて、血潮の網目を引いた拳に、黒髪がバラリと絡みます。
 女の顔は、美しいだけに凄まじいものでした。引釣ひきつる眉、ギラギラと死の苦痛を映す、血みどろの頬も唇も痙撃して、綺麗な歯並が、締木にかけたようにギリギリと鳴ります。
「この顔を見て、お前が夜寝られるか寝られないか、――よく見ておくれ。欽さんを訴人した上に、この私まで、――手に掛けなくても、なぶり殺しにしたお前だ――」
「待て、言うことがある。何もも間違いだらけだ、――あれ、あれを聴け」
 芳年は血に狂う手負いのおよつを辛くも抱き止めて、二軒長屋の隣家――お浜の家のたたずまいを指します。
 生垣一つを隔てて、明けっ放した庭先の夕陽に、何も彼も手に取るよう。この時お浜の家には、隊長に従って官兵が七八人、ドカドカと入って来たのでした。

描き出す怨女の悪相


「日下部欽之丞を訴人した、浜というのは其方か。女乍ら、賊軍の大物を討たせた手柄は抜群だ。追って褒美の御沙汰はある筈だが、取あえずお上のお言葉だけを伝えて置く」
 そう言う官兵の隊長の声が、近所合壁へも聞えよがしに、凜々と響き渡るのです。
「――――」
 それを聴いたおよつ、芳年の腕の中に、必死の眼を見開きました。
「聴いたか、およつ、――あれで、何も彼も解ったろう。改めて言うまでもないが、――俺はただの絵描きだ。世のさま、人の姿は描くが、訴人や企らみをする柄ではない、――俺の言葉も耳に掛けず、お前は飛んだ早まったことをしてくれたじゃないか」
「――――」
「どうせ勤めをしたお前だ。馴染も深間もあったところで、俺はそんな事でヤキモキするものか」
 静かに説く芳年、隣の庭からは官兵が引揚げて、お浜のいそいそとした姿が、それを送って出た様子まで手に取るよう。
「お前さん」
「解ったか、およつ
「堪忍しておくれ、私は――」
 今死ぬおよつの眼には、初めて油のような涙がみ出しました。
「解ったらそれでよい。傷は浅い。静かに手当をするが宜い」
「いえ、私は助からない。助かり度くもない、――お前さんに済まないけれど、私は、私は欽さんの後が追って行き度い」
 およつは声もなく、芳年の膝の上に、身を顫わせて泣くのです。
「それも解っている、どうせこの俺とは浅い縁だ」
「堪忍して」
「可哀想に、――お前という女は」
「お前さん、――たった一つの願い、聴いてください」
「何んだ」
「お前さんは此間から、殺しも斬合いもさらし首も描いたが、女の、怨女の末期は手本が無いと言って居なすった」
「――――」
「幸い、この私の浅ましい姿、――息のあるうちに、描いて下さい、――せめてもの恩報じ」
 芳年の膝を降りたおよつは、最後の力を絞り出すように、柱にすがったまま、フラフラと立ち上るのでした。
「それはいけない、――お前の顔に怨は消えた。死ぬ苦しみはあっても、怨女の悪相は無くなってしまった」
 まこと、法悦に似たものが、血みどろなおよつの顔を、仏作ってさえ見せているのです。
 が、形勢は一瞬にして変りました。
 此時、隣の物音に気の付いたお浜が、官兵を送り出したついでに、庭の木戸を押し開けて、ヒョイと入って来たのです。
「あッ」
 目の前に展開した、血みどろの光景に、お浜は逃げることも忘れて釘付けになりました。
「畜生ッ、お前が訴人したんだね、――この怨み、覚えてお出で」
 お浜の顔を見ると、たちまちおよつ蘇生よみがえる怨み、柱に絡んだ身体からだみにくく歪むと、眼も、口も、一瞬蒼白いほのおを潜ったように、深怨無残の悪相が、メラメラと燃え上るのでした。
「助け――てエ」
 あまりの事に、お浜は狭い庭の上に這いました。眼は縁の柱に伸上のびあがる手負に吸い付けられて、娘の身体からだはあまりの恐怖にむしほども動きません。
口惜くやしいッ」
 キリキリと鳴るおよつの歯、風の無いのに、サッとなびく黒髪、柱に絡んだ手が緩むと、手負の身体からだが、ゾロゾロと崩折くずおれて、庭のお浜を覗き加減に、ワナワナと双手もろてを差伸べます。
 最早、背に迫る死の手、お浜をつれて、八寒地獄の底までも行く積りでしょう。
 芳年は思わず画帳を取上げました。死の一瞬手前の、怨女の悪相が、名筆に従って、サラサラと描き上げられて行くのです。そのかみ、猛火の中のわが娘を見たという、仏画師良秀よしひでのように、――人の世の掟を超えた、芸道三昧の恍惚境にひたり切って、――浮世絵師芳年の顔は、名ある高僧のように澄み切ったのでした。
 大蘇芳年の傑作「英名二十八人衆句」はうして出来上りました。徳川末期の江戸を彩った、血みどろの世界が、「団七九郎兵衛だんしちくろべえ」になり「稲田新助いなだしんすけ」になり、「直助権兵衛なおすけごんべえ」になり、そして怨を含んで殺されて行く「笠森かさもりせん」の美女殺戮の図となったのです。
 芳年の無慚絵が持った境地、その生々しいリアリズムは、明治画壇に大きなスタートを与えました。それが水野年方みずのとしかたとなり、落合芳幾おちあいよしきとなり、輝方てるかた英朋ひでとも年恒としつね年英としひでとなり、そして巨匠鏑木清方かぶらぎきよかたとなったことは言う迄もありません。





底本:「野村胡堂伝奇幻想小説集成」作品社
   2009(平成21)年6月30日第1刷発行
底本の親本:「芳年写生帖」春陽堂
   1939(昭和14)年
初出:「オール読物」
   1938(昭和13)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「さア」と「さァ」、「まア」と「まァ」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2015年8月13日作成
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