「親分、
「ヘエ――、朝から変った人が来るものだね、丁寧に通すがいい」
銭形の平次は居ずまいを直して、客を迎えました。
「親分、早速だが、
良庵はろくに挨拶もせずに、キナ臭そうな顔をするのでした。
「聞きましたよ。それがどうかしましたかえ?」
「どうもしないから不思議なんで」
「ヘエ――」
「大徳屋さんは丈夫な人だから、私を
「すると?」
平次は膝を進めました。
「早合点をしちゃいけない。ね、親分、私は今死骸を診て来たばかりなんだが、変死でないことだけは確かで」
「…………」
「殺されたわけでも、自害したわけでもなく、卒中でポックリ逝ったに違いないが、どうも、私には
服部良庵はつままれたような調子でした。が、後になって考えると、さすがに長い間の経験と、専門家らしいカンで、大事件の匂いを、この時から嗅ぎ出していたことに思い当りました。
「腑に落ちない――にもいろいろあるだろうが、一体どこがどう腑に落ちなかったんで?」
「胸をはだけて見ると、身体がびっくりするほど
「…………」
「それに、あんな
「それから?」
「昨日逢った時あんなに元気だったが、死顔を見ると――もっとも死顔は相好の変るものだが、――
良庵の言うことは取り止めもありませんが、とにかく、大徳屋孫右衛門の死に、一抹の陰影があることは疑いもありません。これだけの報告を済ませると、良庵は、気が軽くなったように、そそくさと帰って行きました。
「八」
その後を見送って、平次は隣の部屋に遠慮しているガラッ八の八五郎を呼びます。
「ヘエ――」
「聞いたろうな」
「障子一重だもの、耳でも
八五郎はニヤリニヤリと膝で
「それなら言うことはあるめえ、――気の毒だが、また
「やけに
「良庵さんのような、物事に馴れた医者が、せっかくあんなに言ってくれるんだから、念のために皆んなの顔色でも見て来るがいい――こんな霜枯れ時には、葬い酒に酔うのも、洒落ているぜ」
「へッ」
八五郎は平手で額を叩きながら、それでも素直に出かけて行きました。
大徳屋孫右衛門というのは、お蔵前札差衆の一人、先代までは大町人中でも手堅い家風を褒められましたが、孫右衛門の代になると、商売よりは遊びの方が面白くなり、
お蔵前から引越した、松永町の家にだけでも、お柳、お辰、お村と
「親分、驚いたぜ」
「どうした八、孫右衛門が化けて出たか」
「そんな洒落た話じゃねえ」
ノソリと宵のうちに帰って来た八五郎、苦い顔をして平次の前へ、長火鉢を挟みました。
「酔った様子もねえが、――解った、お通夜に酒の出ねえのが気に入らなかったんだろう」
「それどころじゃねえ、酒は浴びるほど出たが、――あれを見せられちゃ呑む気はしねえ」
「どうしたんだ」
「まア、聞いておくんなさい、こうだ、親分」
「フーム」
ガラッ八の話は別に変ったことではありません。
「ね親分、
「…………」
「町内の衆は二三十人来ているが、朝っから、まるでお祭騒ぎだ。酒屋から
「家の者はどうしたんだ」
「それが面白いんで――
「…………」
「一人の身体が動くと、五六人の眼が動く。一人が立ち上がると、五六人ゾロゾロ
ガラッ八が、つくづくそんな事を言うのです。
「まアいいやな、どうせ金持にも大通にもなれるお互じゃねえ」
「今日ばかりは、貧乏に生れ付いて良かったと思ったぜ。アア厭だ厭だ」
「何を言やがる、
平次は半分茶にしながら聞いておりました。
「あんな浅ましい図に比べりゃ、腐った
「ハッハッ、大層悟りやがったな」
二人は
その晩真夜中過ぎ――。
「親分さん、た、大変です、すぐ願います」
息せき切って戸を叩く者があります。
「誰だい」
うら淋しい心持で、親分の家へ泊り込んだ八五郎は、居候並みに入口の二畳に敷いた床の中から鎌首をもたげました。
「大徳屋から
「どうしたッてんだ」
てっきり遺産争いが
「旦那が殺されたんです」
「何?」
「
「何だと? どこの旦那が殺されたんだ」
「大徳屋の主人孫右衛門で」
「馬鹿野郎、人の
どこかの悪童の
「本当ですよ、親分、旦那が殺されたんですよ」
外から叩く
「
平次も奥から起きて来ました。
「大徳屋の奉公人ですよ、
「あの小僧さんか、――それじゃ
「ヘエ――」
大徳屋は煮えくり返る騒ぎでした。棺の中に納められて、ろくに線香をあげる人もない心細い有様であったにしても、とにかく一度は確かに死んだはずの主人孫右衛門が、
見付けたのは小僧の勘次、十七になったばかりの生真面目さで、こればかりは酒も呑まず、遺産争いの渦巻へも入らず、うら淋しく人目を避けていると、仏間の後ろから、ただならぬ悲鳴、驚いて飛んで行った真ッ暗な廊下で、バタリと人に突当りましたが、その袖の下を
勘次の声に、お祭騒ぎも、遺産争いも、一瞬にして吹き飛ばされました。家の中を吹き
その中から、勘次は飛出して来て、平次に救いを求めたのでした。
平次とガラッ八が大徳屋へ行った時は、さすがに一通り騒ぎは落着いておりましたが、それでも、町内の衆は半分ほど逃げ帰り、家の者は、遺産争いとはまた別の心持で睨み合っておりました。
「あ、親分、ちょうどいいところへ」
一番先に冷静を取戻したのは、さすがに浪人崩れの草間六弥です。
「大変な事があったんですってね、まず仏様を見せて貰いましょうか」
眼ばかり光らせている男女を尻目に、平次とガラッ八はいきなり仏間に通りました。型のごとき逆さ
蓋を開けると、
「あッ」
ゾロゾロと
棺の中は空っぽ――と思いきや、昨夜卒中で死んだ主人の孫右衛門が、白い
平次はそれを確かめると、横手の
「フーム」
そこは血の海、
その位置と、傷口をほんの一と通り調べた平次は、元の仏間に取って返すと、不安と焦躁に、遠巻の顔を一とわたり見廻してから、
「草間さん、ちょいとお顔を」
一番後ろの方に、落着き払って差控えた、草間六弥に声をかけた。
「私も話したいことがある、どうぞこちらへ」
草間六弥は
二人は
「承りましょうか、草間さん」
平次は
「何から話したものであろう」
「第一に、あの棺の中の仏様の素姓は?」
「土手の煮売屋の
「綱七なら五十以上のはずだが――なるほど、
「その通り、さすがは平次親分、目が届くね」
「褒めちゃいけません」
「でも、私が何もかも知っていると睨んだのはエライ」
「この作者は、草間さんに決っていますよ、皆んなお祭騒ぎをしたり、形見分けに睨み合っている中で、殊勝らしく湿っていたのは、お前さんばかりだったと言うじゃありませんか、――それに、棺の蓋をあけて、中の仏に変りのないのを見て、皆んな胆を冷やした中で、少しも驚いた様子のないのは、草間さんばかりだ」
「もう一人、
「いえ、そいつはわざとのけ
「そう言ったものかも知れぬな」
平次の打ち解けた調子に、草間六弥も何となく心持がほぐれた様子です。
「
草間六弥は話し続けました。
大徳屋孫右衛門は、金を湯水のごとく
そう考えた末に、孫右衛門は、「もう一度生き返って来られるものなら、たった一日だけ死んでみたい、多勢の俺の讃美者崇拝者の
何千両、何万両となくバラ撒いた金が、人間の真情まで
「綱七が死んだと聞くと、そいつが俺だったらと思ったに違いない。すぐ土手の煮売屋まで飛んで行って、投げ出した小判で三百両、綱七の棺へは石っころと古
「それから」
平次は静かにその先を促します。
「着物を換えたり、
「手の混んだ事をしたものですね、――それで本当に泣いたのは何人ありました」
「たった一人さ」
「そいつは面白い、誰です」
「この私さ、――あんまり情けないからだ」
「なるほど」
平次は笑う気にもなりません。
「町内の衆や遊び友達は、押かけて来てお祭のような騒ぎだ、
「…………」
「それより気の毒なのは、三人の女だ、
「…………」
「番頭の才吉などは、朝から
「…………」
「この様子じゃ、形見分けと身代の始末で、どんな騒ぎが始まるかも知れない。跡取りは甥の千代次郎だが、気の弱い千代次郎にどれだけの物が遺るか判ったものじゃない」
「…………」
「この様子を、納戸に隠れて見ていた
「…………」
大方は察したことですが、それでも草間六弥の細かい説明を聞くと、平次も笑えない気持になります。
「涙を流して口惜しがる主人を押えて、ともかくも今晩だけは無事に過させようとすると、やはり気になると見えて、納戸から飛出し、仏間の裏からお通夜の様子を覗いていたのだろう、――そこを誰かが見付けて、後ろからズブリとやった。――これだけの話だ。本当に死んでしまっちゃ、孫右衛門殿も気の毒だ」
草間六弥は何もかも言ってしまって、ホッとした様子で顔を挙げました。
「で、下手人の心当りは? 草間さん」
「それは判らない」
「それでは、主人が生きていちゃ困るのは誰で?」
「皆んなだよ、千代次郎も、才吉も、お柳も、お辰も、お村も、お隣の安兵衛も」
「草間さんは?」
「私と勘次だけは、主人が生きていてくれた方がよい、主人が死ねば、番頭と仲の悪い勘次は明日にも追出されるかも知れず、――居候の俺は、自分から遠慮して身を引かなきゃなるまい」
「形見分けの指図書のようなものはあるでしょうか」
「あるはずだ、才吉が預かっているだろう。身上は千代次郎のもの、三人の女どもには千両ずつ、才吉は三百両、あとの奉公人は五両三両ずつ貰うはずだ」
「草間さんは?」
「私には茶碗が一つ、茶入れが一つ、――それっきりだ」
草間六弥の唇には、薄笑いが浮びます。
平次はそれから順々に家中の者に逢ってみました。番頭の才吉は、
「ヘエ――、三百両のお形見を頂くことにはなっておりますが、旦那が亡くなれば禄に離れます。この先どうしていいか、途方に暮れましたよ」
そう言って、慎み深い目を挙げました。三十五六のちょっと
「草間さんは茶碗一つ茶入れ一つしか貰わないと言うから、三百両は少ないわけじゃあるまい」
「ヘエ――」
何やら不満らしい声です。
「何か言いたいことがあるんじゃないのか、番頭さん」
「別に、ございません、でも親分さん、あの茶碗と茶入れは主人が自慢の品で、三百両はおろか、三千両でも買えません」
「なるほど」
「こんな事を私が言ったとはおっしゃらないように願います。元が武家だけに、あの人には怖いところがございます」
「よしよし」
平次はそれ以上に追及しませんでした。
次に呼出されたのは、小僧の勘次です。
「小僧さん、
「ヘエ――」
「ところでお前、悲鳴を聞いて駆け込んだ時、廊下で人に突当ったというが、それは男かい、女かい」
「男ですよ、親分」
「どうして男と解った」
「カンで解るじゃありませんか、いきなり突当っても、ヨロリともしなかったんですもの」
「誰だか、見当はつくかい」
「それが」
勘次は首を
「背は高かったんだね、――お前が袖の下を潜って向うへ行ったと言うくらいだから」
「ヘエ――」
「背の高い男というと誰だい、才吉は小男だし、草間さんは肥った方で、千代次郎は中背の
「違いますよ、親分、出会頭、私の頭が向うの胸に当った心持は、どうも木綿物じゃなかったようで――」
「と?」
絹物を着ている男というと、千代次郎か草間六弥の外にありません。平次はしかし話頭を変えました。
「お柳とお辰とお村の三人のうち、どれが一番主人の気に入っていたんだ」
「お辰ですよ」
一番若い十八九のお辰が孫右衛門の
「一番気に入らなかったのは?」
「お村かしら?」
それは少年勘次に解らなかったでしょう。
「三人のうちで、一番力のあるのは」
「お柳でしょう、――踊りの師匠だったって言うけれど、あんなに肥って大柄ですもの」
「そんな事でいいだろう、次は千代次郎を呼んでくれ」
「ヘエ――」
入れ違いに甥の千代次郎、これは二十五六のお
「この身上がお前のものになるそうじゃないか」
「へ、ヘエ」
「叔父さんを誰が殺したか、見当が付くかい」
「へ、ヘエ」
「一度死んだ人がまた殺されたのを見て、どんな心持だったい」
「へ、ヘエ」
平次は
この時、
「親分」
ガラッ八の八五郎が
「こっちへ入れ」
千代次郎を帰して、平次の顔は憂鬱です。
「
「才吉の
「二十や三十はあるかも知れませんが、大したことはないようで」
「悲鳴の聞えた時、表の方に顔の揃っていたのは誰と誰だ」
「不思議なことに皆んな表にいましたよ、千代次郎も、才吉も、お隣の安兵衛も、勘次も」
「草間六弥は」
「これは仏間に居たそうで、――間違いはありません、証人は近所の衆が二三人――」
「女三人は?」
「三人とも奥に居たそうですから、やればこの三人のうちの一人ですよ」
ガラッ八は物事を簡単に片づけます。
「だが、女にあんな事が出来るかな、死んだと思った主人が生きているのを見たらその場で腰を抜かすか、目を廻すのが精一杯だろう」
「女三人のうちの一人でなきゃ、二人組んでやったとしたらどうでしょう?」
「妾同士がかい、――それもあッと言う間に気が揃うかい」
「なるほどな」
「道具箱から匕首を持出して、主人の幽霊を突き殺す胆っ玉は大抵じゃないぞ」
「すると親分」
「まア、考えさしてくれ、俺にはますます判らなくなって来たよ」
平次は深々と腕を
「それから、女三人の身持も手一杯に聞いてみましたよ」
「どうせろくな事はあるめえ」
「難のないのは一番若いお辰だけ、あとは勝手なことをしていますぜ。主人が死ぬと近所の衆は遠慮がないから何もかもヅケヅケ話してくれます」
「…………」
「お柳は今じゃあんなに肥っているが、踊りの師匠上がりで、今でも塀外に一人や二人昔の
「何をつまらない」
「お村は病身で、二三日前から寝ていたそうです。それに
「お辰は?」
「親分が会って訊いて下さい。思いの外、あんなのが
「それでよかろう。それから、今日一日のうちに、コロリと様子の変った人間はないか、それを訊き出してくれ。朝
「親分、そいつは少しむつかしいね」
そう言いながらもガラッ八は、元の店の方へ取って返しました。
女三人の調べには、平次もさすがに手を焼きました。
「お柳と言ったね」
「ヘエ――」
よく肥った、見事な
「勘次と廊下で鉢合せをしたそうじゃないか」
平次は鎌をかけました。
「驚きましたよ、あの時は、いきなり暗闇から飛出すんですもの」
お柳は何の細工もありません。
「何をしていたんだ」
「自分の部屋へ行って、羽織を引っかけて来たところでしたよ、夜更けになると、薄寒くなりますんでねエ」
「悲鳴はどこで聞いたんだ」
「勘次と鉢合せをする、ほんのちょいと前でしたよ。五六間後ろの方から何とも言えない変な声がしました」
「どんな声だった」
「クワッと言ったような、キャッと言ったような」
「やって御覧」
「まア、親分さん」
どうも少し扱いにくい女です。
次はお村、二十五六の年増で、少し華奢な女ですが、昔はさぞ美しかったであろうといった程度の魅力しかありません。――孫右衛門の寵が衰えていたというのもそんなためでしょう。
「お前はあの時どこに居たんだ」
「頭痛がして、部屋に休んでおりました」
「主人が死んで、どう思う?」
「さア――」
何か一と皮も二た皮も
「主人が生きて納戸に隠れていることを知っていたはずだが」
「いえ、そんな事は少しも知りません」
お村の顔は急に引締りました。
最後に若いお辰は、おどおどしながら平次の前に坐っておりました。たった十九になったばかり、色白の可愛らしい娘で、こんな奉公をするのが痛々しいくらい。
「お前はいつからここに来ているんだ」
「三月ほど前からでございます」
「家は?」
「市ヶ谷」
「両親はあるのかい」
「母と弟だけおります」
「主人が死ねば、すぐにも家へ帰りたかろう」
「…………」
黙ってうなずきました。
「あの悲鳴はどこで聞いたんだ」
「…………」
お辰は顔を挙げました。唇は動きますが、声は出ません。
「あの主人が殺された時の悲鳴はどこで聞いたんだ。――その時お前の居た場所が判らないと、お前も疑いを受けることになるが」
助け舟のつもりで、平次がこう言ったのはよくよくの事でしょう。
「主人の声は、あの何にも聞きません」
お辰の答は予想外でした。
「皆んなが、悲鳴を聞いたと言うぜ」
「それは、あの、私だったかも知れません」
「えッ」
「あの時奥から店の方へ行こうとして、仏間の裏の廊下を通ると、不意に――」
「…………」
お辰は
「不意に、死んだと思った旦那様に逢ったんですもの、――私は思わず、声を出したような気がします」
「幽霊と思ったのか」
「え、あんまり驚いて、転げるように自分の部屋へ戻りました。それっきり、しばらくは何にも知りません」
ありそうな事です。が、悲鳴を挙げたのがお辰だったとすると、今まで提供された
「それは大変なことだ、――その時主人は確かに生きていたんだね」
「え、幽霊と思い込んで逃出しましたが、私の顔を見て、何か言った様子でした」
「よしよし」
平次はこの娘からこれ以上何にも訊くことのないのを見て取りました。あまりにも正直で、あまりにも駆引のない態度です。
「親分、判りましたよ」
「何だ、八」
「
平次の無関心な態度が少し八五郎をうろたえさせました。
「忘れたわけじゃない、こっちにも大変なことがあったんだ」
「ヘエ――、どんなことで?」
「お前の方から、訊こう。誰だい、昼と夜とで様子の変ったのは?」
「お柳ですよ」
「なに」
「あの踊りの師匠ですよ。日の暮れるまで、お花見の前の日みたいに浮かれ切っていたのが、夜になって、あっしが帰ってから急にしおらしくなって、線香を上げたり、念仏を称えたり、時々は棺の前へ行って、泣いて見せたり、大変な芝居だったそうですよ」
「そんな事だろうと思った、も一度お柳を
「ヘエ――」
ガラッ八は横っ飛びに飛んで行くと、今度はお柳の手を取ってグングン引っ張って来ました。
「あれお前さん、痛いじゃないの、――私は何にも知りゃしませんよ、あれッ」
「何を神妙な悲鳴なんかあげるんだ、痛きゃ素直にあんよをしな、ブラ下がるから引摺ることになるじゃないか」
「お前さん無理だよ、そんなに早く歩けやしない」
「踊りの師匠のくせに、あんよが上手もねえもんだ。まごまごしやがると、縛り上げて引っ担ぐぞ」
「あッ、親分」
八五郎の剣幕に驚いたか、お柳は
「お柳、冗談やおどかしじゃないぞ。主人殺しの疑いはお前に掛っているんだ」
「親分」
お柳はさすがに胆を
「主人の生きているのをお前は見たはずだが、どこで見た」
「親分さん」
「嘘を
「納戸へ入ると、――死んだと思った主人が居るんですもの、驚くじゃありませんか、親分」
「それはいつのことだ」
「八五郎親分が帰ってから間もなく、
「それで、あわてて殊勝らしい顔をしたのか。
「でも、親分」
お柳の身体はまたクネクネと
「それを誰に話した」
「誰にも言やしません。言うものですか、大事な事ですもの」
「それじゃ孫右衛門殺しは
「えッ」
「悲鳴を聞いてから引っ返して主人を一と突きにし、廊下で勘次と鉢合せをしたはずだ」
「違いますよ、とんでもない。あんな結構な主人を殺していいものですか、――それに悲鳴を挙げた時はもう、旦那は刺されているじゃありませんか」
「いや、悲鳴は主人じゃない、お辰だ。主人はあの後で刺されたのだ」
「それじゃお辰ですよ、――孝行面をしやがって、あんなイヤな女はありゃしない。主人に可愛がられながら、一番
お柳は
「いや、お辰は主人の生きているのを知らなかったはずだ。
「いえいえ、お辰は勘次に聞いたに違いありません。畜生ッ、何てイヤな奴だろう」
「勘次も知ってるはずはない」
「私が教えましたよ。そっと、あの子にだけ、――それを勘次の野郎、お辰に吹き込んだに違いありません」
「なるほど、勘次なら孫右衛門を刺す隙があったはずだ。八」
「ヘエ――」
チラリと目配せ、八五郎はそのまま飛んで行きました。
平次はこの時ほど
主殺しは動機の
「親分、つれて来ました」
眼を開くと、ガラッ八は勘次の肩先を押えるように、畳の上に引据えます。
「勘次、とんでもねえ事をしてくれたなア」
平次の声には涙がありました。
「親分、あっしじゃありませんぜ」
「何?」
勘次は少年らしく引締まった顔を挙げました。
「あっしは旦那が生きていると聞いて、一と思いに殺すつもりで、刃物まで用意しました――でも、悲鳴を聞いてあっしが駆け付けた時は、旦那はもう殺されていたんです」
「何だって主殺しなんか考えたんだ」
「お辰さんが可哀相です。あの人は親孝行で、町内の評判者ですよ。旦那がお金を積んで買って来たのを私はよく知っています――同じ市ヶ谷で生れたんですもの。お辰さんは毎日泣いていましたよ」
「お前とお辰は幼馴染というわけだな」
ガラッ八も妙に和やかな口を挟みました。
「それで主人を殺す気になったとは、一応
平次は苦い顔を見せます。
「ヘエ――、でも本当に殺さなかったんです」
「証拠はあるのかい」
「この匕首を見て下さい。――宵のうちに奥から持出したんです。血なんか付いちゃいません――これを持って飛込むと、もう旦那は殺されていたんです」
懐から出した小刀ほどの小さい匕首、抜いてみると、なるほど血も何にも付いてはいません。
「こんなものを、何だって捨てずに持っていたんだ」
「あわてたんです。旦那が殺されているのを見ると、自分が殺そうとした事をすっかり忘れて、今
「親分、これは一体どうしたことでしょう」
ガラッ八も妙にこの少年が可哀相になったのでした。
「…………」
平次は黙り込んでしまいました。
時は過ぎ行きます。いつの間にやら夜が明けて、まだ閉めたままの雨戸の隙から、キラキラと朝の光が射し込んでくるのに、面喰らった奉公人達は、まだ雨戸を開けようともしません。
「八、雨戸をあけて、一服やってみようか、そんな事でもしたらまた新しい智恵が浮ぶかも知れない」
「…………」
サッと流れ込む朝の光。
「良い心持だな、八」
「親分、あれを見て下さいよ。大変なものがありますぜ」
「何」
八五郎の指す方を覗くと、戸袋の下に据えた大自然石の見事な
「昨夜は誰も死骸に手を掛けなかったはずだな」
「気味を悪がって、寄り付いた者もありませんよ。揃いも揃って薄情な奴らで」
「と、あれは下手人が匕首で刺した手を洗って拭いたものに違いないわけだ」
「まア、そんな事で」
近く寄ってみましたが、それ以上は何にも判りません。
「恐ろしく落着いた奴だな。勘次やお辰の芸じゃない。雨戸を開けて手を洗って、済ましていたんだ」
「雨戸にも血が付いちゃいませんか」
ガラッ八は飛付くように雨戸をしらべましたが、よほど用心深く開けたものと見えて、そこにも何の痕もありません。
「待て待て、主人の殺されたのは、お辰が悲鳴を挙げて、お柳と勘次が鉢合わせをするまでの間だ。――その間仏間の裏の廊下へ行ける人間は――」
「…………」
「解った、八」
「え?」
「お村だ」
「お村は自分の部屋で休んでいたと言ったじゃありませんか」
「嘘だ」
「お村の様子も顔色も、朝から夜まで少しも変らなかったというのは?」
「お村は、主人の生きている事を知っても、お柳と違って様子や顔色を変える女じゃない。頭痛がすると言って奥へ引込んで用意をし、お辰の悲鳴を聞いて、物蔭から飛出して孫右衛門を刺したんだ」
「でも」
「いや、他に人間は居ない。お辰か勘次かお村のうちだ。――女では幽霊を刺せまいと思ったのも間違いだったが、孫右衛門が生きているのを見たら、少しは様子や顔色が変るだろうと思ったのが第一の間違いだ」
「…………」
「滅多な事で様子や顔色を変えない女、――相手が幽霊になっても死骸になっても、刺し殺し兼ねない怨みを持った女もある事を忘れていたのだよ」
「…………」
平次は八五郎を説き伏せるというよりは、自分自身を説き伏せるように言い切りました。自分で組み上げた間違いの構図を叩き壊して、新しい本当の構図を築き上げるためには、こうでもするより外はなかったのでしょう。
「今度は間違いはないぞ。来い、八」
*
お村は朝の化粧に余念もないところを縛られました。次第に衰えて行く容色のために、主人孫右衛門の愛を
「親分、変な捕物だね」
帰る朝の街で、八五郎は話しかけました。
「捕物はつまらねえが、自分の死んだ後の人気を見ようとした、孫右衛門の心持の方がよっぽど面白かったよ」
「そこへ行くと、こちとらは金で買った人気じゃねえから有難いね。死ぬと本当に泣いてくれるのが二三人はあるぜ」
ガラッ八の顎の長さ。
「
と平次。
「一人は銭形の親分さ」
「馬鹿野郎、俺は泣くものか」
「あとの一人は言わねえ方がいい、言うと殴られそうだ」
「明神様の森の烏だってね、ハッハッハッ」
平次の笑い声は、始めて朗々と響きました。