随筆銭形平次

捕物帖談義

野村胡堂





 あの荒唐無稽こうとうむけいな『西遊記』などを読まなかったら、私は物理学者にならなかったであろう――と、いう意味のことを、雪の学者中谷宇吉郎博士が、なんかに書いていたのを見たことがある。まことに味の深い言葉であると思う。
 私は中学時代、まことに仕様のない低能児であったが、たった一つだけ将来性のある課目があった、それはなんと「数学[#「数学」は底本では「数字」]」であったといったら、「嘘をつけ」と叱る人があるかもしれない。が、これは掛け引きのない話で、猪川塾という盛岡の中学の塾に泊って、そこから中学に通っていた私は、よく室友達に数学の宿題を教えて得意になっていたし、なまけ者で通っていた私が、当時の入学試験中一番六つかしいといわれた一高の入学試験にパスして悪友共を驚かしたのも、数学が満点近かったためではあるまいかと、今でも考えているのである。
 中谷博士は『西遊記』を耽読たんどくして雪の学者になったと同じように、私は数学が小器用に出来たおかげで小説を書くようになったのかもしれないのである。小説の中でも二二が四と数学的に整理されなければならない、捕物小説を書くようになったのは、まことに浅からぬ因縁というべきである。
 もう一つ私は、父親のすすめで法律を学ぶことになり、嫌々ながら法科大学に籍を置くことになったのであるが、なんとしても法律というものが好きになれず、愚図愚図しているうちに父親に死なれて学費の途を失い、四十年前のアルバイト学生としてようやくその日のかてを得ているうちに、大学へ出す月謝の期限を忘れて、待てしばしの用捨ようしゃもなく除名になってしまったのである。その頃の官立大学は、お金のことというと、高利貸の如くやかましかったものである。
 近代法の精神は、行為を罰して動機を罰しないことになっている、が、我々が描くところの捕物小説においては、行為を罰せずに、動機を罰してしばしば溜飲りゅういんを下げているのである。学者や実際家が見たら、随分馬鹿馬鹿しいものかもしれないが、小説の世界ではそれくらいのことは大目に見られているのである。
 捕物小説の楽しさは、この近代法の精神を飛躍した、一種のヒューマニズムにあるのかもしれず、奔放な空想のうちに、自分勝手な法治国を建設する面白さにあるのかもしれない。捕物小説国では、世界のいかなる法律も罰することの出来ない、偽善者や悪人を捉えこれを縦横に翻弄して、巧みに隠された、「悪性テメビリタ」までをも適当に処罰することが出来るのである。
 法科大学から追放された私は、二十年後捕物小説を書くようになって「御法の裏を行く」ような、銭形平次の法律を作ったのも、また因縁事というべきであろうか。
 さはさりながら、実生活の上の私は、この上もなく細心忠良な小市民であり、法律にしたがうことを以て「最小限度のたしなみ」としていることだけは明らかにしておきたい。かつてヴィクトル・ユーゴーが、『レ・ミゼラブル』の大作を公にしてこの世の苛酷なる法律の運用に一矢をむくいたのとはまったく違って、我々捕物作家は、夢の国ユートピアを建設して、丁髷ちょんまげを持った法官刑吏達に、精神的な意味を持つ「信賞必罰」の実を挙げさせているのである。捕物小説の楽しさの一つは、こんなところにも原因を持つのではあるまいか。


 探偵小説評論家の白石潔氏は、捕物小説の特色を挙げて、それは江戸の風物詩であり、日本の詩情に訴える季感きかんの芸術であり、庶民の味方であり、幕府時代の横暴なる権力階級に対する反抗の面白さであるといっている。
 まことに面白い言葉で、捕物小説を書く人達は、こんな事をはっきり意識はしていなかったかもしれないが、誰の捕物小説を読んでも、多かれ少なかれ、如上にょじょうの要件を含んでいないものはなく、その「人に愛せられる」原因もまたこの辺にあったことと思い当るのである。
 江戸川乱歩氏は現代の探偵小説界を背負って立つ貫禄と識見と天才の持主であるが、自分はたった一つの捕物小説も書かないのに、「捕物小説は日本特有の探偵小説の型である、ますますこれを成人にしていきたい」といっている。まことに理解の深い、雅量のある言葉で、戦争中まで――いや終戦後までも、しいたげられ無視され、軽蔑されて、低俗な大衆小説の下位に置かれた捕物小説が、俄然として再認識され、世の注目の的となったのは、江戸川、白石、両氏の力に依るところがはなはだ大きいといわなければならない。
 フトした事から始まった捕物作家クラブは僅か一二ヶ月のうちに結成されて、現代日本の捕物作家のほとんど全部と、捕物小説は書かなくとも、興味と同情を持つ作家を糾合きゅうごうして捕物小説の生みの親なる、岡本綺堂先生を記念するため、その作中の主人公半七の名を刻んだ「半七塚」を浅草に建立し、あわせて物故捕物作家十余名の慰霊祭をり行ったことは新聞やラジオで大方もよく御存知のことだろう。
 それは実に馬鹿馬鹿しい催しではあるが、この上もなく愉快で華やかな催しでもあったのである。若い作家達の並々ならぬ協力と、地元の物心両方面の熱心なる後援のお蔭ではあったにしても、あの成功は確かに時運のせいであり、世の期待があの威儀を生んだといっても間違いはないだろうと思う。
 恐らく架空かくうの人物に違いあるまいと思われる、半七のために塚を作ることについては、いろいろの物語はあった。最初あの委員達の会合の席上で、「小説戯曲中の人物で、墓や記念碑を建てられたものが幾人あるだろう」という、「話の泉」的な問題が持ち出され、大いに若い委員達のウンチクを傾けたことであった。今はその大部分を忘れてしまったが、それでも幾つかは記憶している。
 回向院えこういんに有名な墓を遺している鼠小僧は、あるいは実在の人物であったかもしれないが、今となっては小説と戯曲中の美化された侠賊であり、谷中やなかに墓を遺した毒婦高橋お伝と共に時の浄化によって、憎めない存在になっていることは大方の知っている通りだ。
 熱海に尾崎紅葉の「金色夜叉」の碑あり、逗子には「不如帰ほととぎす」の浪子不動が土地の名物として存在を主張している。雑司ヶ谷の島村抱月、松井須磨子の比翼塚ひよくづかは、生々しい記憶が付き纏っているが浅草には白井権八と小紫の比翼塚が伝説的な存在として、実話とはおよそ縁の遠い懐かしさを感じさせる。千葉の富山に滝沢馬琴の「八犬伝」の碑が建ったのは、随分昔のことであった。
 大阪には近松の浄瑠璃じょうるりの主人公、梅川忠兵衛や、小春治兵衛やらの碑が建っていると聴いた。この洒落ッ気は、大阪という極めて現実的な商業都市の出来事だけに、まことに嬉しい限りだと思う。
 そう数えて来ると、我々が「半七塚」を建立して、浅草に一つの名物を加えるのは、まことに意義の深いことではないか、――と若い委員達がきおい立つのも無理のないこである。こうして捕物作家クラブは結成され「半七塚」は建立された。総理大臣吉田茂氏と幹事長広川弘禅氏の花輪の隣に、社会党書記長鈴木茂三郎君の花輪が並び、それに続いて五十幾つの花輪が飾られ、十一月六日の浅草中の人気を湧かせた。
「捕物小説」が好きだといい切れる、吉田首相の率直さをエライと思う――とラジオで私は放送した。インテリらしい顔をしている癖に、実ははなはだ泥臭い趣味と教養を持った人種が、なんといおうとそれは気にすることはない。捕物小説が、あのテンポとユーモアと、夢と詩情と、新しいモラルとで、ぐいぐいとしているのである。吉田首相は恐らくそれに楽しさを感じたことであろう。それをはっきりいい切っておごらぬ総理大臣吉田茂を私は見直した。
 社会党の書記長鈴木茂三郎君は、かつての日新聞記者として私の同僚であり、友人でもあった。私が花輪を一つ寄贈してくれと注文してやると、夜中に電話を掛けて「速達は今拝見した、是非僕の花輪も加えてくれ、僕は銭形平次の愛読者だ」といってくれた。
 嬉しいではないか、かつての日の鈴木茂三郎君は、聡明そうめいで優秀で、品が良くて、腕の確かな新聞記者であった。彼の聡明と、彼の純情と、――多分にそれは文学青年的ではあるが――彼の学問と彼の押しとを以てして、将来一度は総理大臣になる男だろうが、その鈴木茂三郎君の花輪を自由党の首相吉田茂氏の花輪と並べたことは、捕物作家クラブの味噌みそでもあったのである(だが考えてみると、前首相芦田均君も私の一高時代の旧友の一人であった、吉田首相と鈴木茂三郎君の花輪の間に、芦田均君の花輪を挟むことを忘れたのは、なんとしても重大な私の手落ちであった)。


 岡本綺堂先生が「半七捕物帳」というものを書いたのは、ともかくも日本の文壇には大きな「劃時代的」な事であった。捕物小説という形式は、一部に多少の非難はあるにしても大衆に愛されて育っていくに違いなく、向後こうご大きな発展を約束されているだけに、その創始者の岡本綺堂先生の業績は永く記念されていいと思う。
 コナン・ドイルはその自叙伝のうちに、「私がもしシャーロック・ホームスなどいうものを書かなかったら、文壇的にはもっと高い地位をかちたことであろう」というようなことをいっている。コナン・ドイルとしては当然の述懐で、まことに同情に堪えないが日本の愛読者なる我々にとっては、シャーロック・ホームス無しにコナン・ドイルの存在は考えられず、ホームスを書かないドイルなどは、まずどうでもいいように思うのが一般人の常識であろう。
 岡本綺堂先生は、その傑作戯曲「修禅寺物語」や「新皿屋敷」だけでも、恐らく文人として不滅であるだろう。だが、我々捕物作家群と、捕物小説を愛する一般人にとっては「半七捕物帳」無しには、岡本綺堂先生を考えられないということにもなるだろうと思う。
「半七捕物帳」に描かれた江戸の風物とあの詩情と、それに一脈のほの温かい人情味は、大衆読物の神髄しんずいに徹するものだからである。


 私の捕物小説の主人公、銭形平次については、私はもう語りすぎるほど語り尽くした、今さら何をぜいすることもあるはずはない。
 たった一つ、くり返して訊かれることに、平次の特技なる「投げ銭」は、どこから考えついたものか、なんか典拠があるなら聴かして貰いたい――ということである。典拠といって別にあるわけではないが、あれは『水滸伝すいこでん』の豪傑、没羽箭張清ぼつうせんちょうせいから思いついたことで、張清が錦の袋に入れた小石を腰に下げて、その石を飛ばして『水滸伝』の逵傑を片っ端から悩ませ、黒旋風李逵りきさえもキリキリ舞いさせられる面白さにヒントを得て、かなり重量のある四文銭や、銭形平次の当時には、まだ通貨としての生命をもっていた、永楽銭を利用させたにすぎないと答える外はなかったのである。
 鉄砲とか弓とか、大きな機構を有するものはしばらくき、徳川時代の初期に、なんの機構もない原始的な飛び道具で、しかも非常に有効なものがあったとすれば、それは実に魅力的な存在で、すでに寛永御前試合の毛利玄達の手裏剣といったものが、いと面白く講釈師の張扇はりおうぎの先から生まれて出たわけである。鉄砲か弓のような大きな機構を持たない飛び道具として、私は投げ銭という一つの新手を考え出したのは、大きな成功の一つであったと思う。野球という競技のために、物を投げることや受けることの技術に、一つの興味と自信を持った現代人はともかくとして、三百年前の銭形平次にとって、銭を投げる器用なつぶてが、一つの武器であり得たことにはなんの疑いもない。
 コナン・ドイルの成功は、助手のワトソンの発明であったから、私の銭形平次を三百篇も書き続け得たのは、子分の八五郎の手柄であったかもしれないと私は考えている。八五郎は独身で呑気者で、無慾で、純情家で、そして天成のユーモリストだ、それが銭形平次の物語のスムースな展開を助けてくれたことを、作者の私が一番よく知っている。
 何が何であろうと、捕物小説はますます盛大になっていくことであろう、そしてこの快適なテンポと夢と、ささやかなモラルの上に明日の楽しい生活が築き上げられることを念願して止まない。





底本:「銭形平次捕物控(二)八人芸の女」嶋中書店
   2004(平成16)年6月20日第1刷発行
底本の親本:「銭形平次捕物全集 別巻」同光社
   1954(昭和29)年
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2014年1月1日作成
2019年11月23日修正
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