「親分、松が取れたばかりのところへ、こんな話を持込んじゃ気の毒だが、玉屋にとっては、この上もない大難、――聴いてやっちゃ下さるまいか」
町人ながら諸大名の御用達を勤め、
「御用聞には盆も正月もありゃしません。その大難というは一体何で?」
銭形の平次は膝を進めます。往来にはまだ
「
「…………」
平次は黙って聴いておりますが、玉屋金兵衛の困惑は容易のものでないのはよく解ります。
「親分は、お上の御用を勤める
玉屋金兵衛は、畳に手を突かぬばかりに頼み入ります。大町人らしい風格のうちに、茶や香道で訓練された、一種の奥床しさがあって、こうまで言われると、平次もむげには断り切れません。
「
「有難い、親分」
「ところで、無くなったのはいつのことでございます」
「昨夜の宵のうち、――詳しく言えば、
「怪しいと思った者はありませんか」
「外からは容易に入れるはずはないから、家の中の者だろうと思うが、困ったことに、その部屋は一方口で、手前の部屋に居たのは、私の娘お幾の踊友達、親類のように付き合っている、お糸という十九になったばかりの娘だけなんだが――」
玉屋金兵衛の調子は、その娘に疑いをかけたくない様子でした。
「とにかく、お店へ行って、皆に引き合せて貰いましょう。その上間取りの具合でも見たら、また何か気が付くかも知れません」
「それじゃ親分、何分よろしく頼みますよ」
少し言い足らぬ顔ですが、さすがに
その後ろ姿を見送って、
「親分、大変なことになったネ」
ガラッ八の八五郎は乗出します。
「何が大変なんだ、――大名高家では、青磁の香炉一つと、人間の命と釣替に考えているようだが、こちとらの眼から見れば、猫の子のお椀と大した違いがあるものか。そんな事で玉屋の主人が首でも
「そんな話じゃねえ、親分、大変と言ったのは、あの娘ですよ」
「玉屋のか」
「いえ、玉屋の娘のお幾は世間並の
「何が大変なんだ」
「親は本郷一丁目の古道具屋与次郎という、大跛者の愛嬌者だが、娘は本郷一番のきりょうですよ。あんなピカピカするのは、江戸一番と言っても文句を言う奴はありゃしません。玉屋の息子の金五郎が、命がけの参りようで、貧乏人の娘を承知の上、貰うとか貰われるとか、町内の若い衆をワクワクさせていますぜ」
「そいつは初耳だ。何か筋が深そうじゃないか、行ってみるとしよう」
平次は立ち上がりました。が、煙草入を懐に入れて、お静に羽織を出させていると、
「
おずおずした声が入口に立っております。
「私は本郷一丁目の古道具屋与次郎でございます。お願いでございます、娘をお助け下さい。娘のお糸が盗人の疑いを受けて、大名屋敷へ引渡されそうになっております。引渡されたが最後、生きて帰りっこはありません」
そう言うのは、五十に近かろうと思われる見る蔭もない男、涙と鼻水と一緒にかなぐり上げて、一生懸命さが無精
ガラッ八の言った通り、右の脚は大怪我でもしたらしい跛で、生活に疲れ果てた顔には、いたましいやつれさえ見えます。
「娘がどうしたと言いなさるんだ。それだけじゃ解らない、落着いて話してみるがいい」
平次はさり気なく
「有難うございます、親分さん。私はまア、どうなることかと思いましたが、フト思い付いたのは銭形の親分さんの事で、打明けてお願い申上げたら、ヒョッと助けて下さることもあろうかと――」
話は要点を遥かに
「そんな事はまアどうでもいいとして、娘がどうしたというんだ。それを聴こうじゃないか」
「ヘエ――、実はこういうわけでございます」
与次郎はたどたどしい調子で話し始めました。
女房に死に別れたのは十八年前、一人娘のお糸が、竹の中から生れた伝説のお姫様のように、美しく輝かしく育つのを楽しみに、
養い娘のお幾は、金五郎と一緒にするはずでしたが、自然
「これで八方
ともすれば愚痴になる与次郎の話の中から、平次は
「証拠でもあったのかい、――娘さんが盗ったという――?」
「甚助さんが改めると、娘の稽古本を包んだ風呂敷には灰が一パイ付いております。香炉でも隠したんでなければ、風呂敷へ灰なんか付くわけはないと申します。それに、困ったことに親の私は古道具屋で、骨董には一応眼が利くだろうし、隠すにも売るにも、なにかと都合がよかろうと、こう思っている様子でございます。――でも、親分さん、私などは古道具屋と申しても、店にある品と申しては、鍋や釜や、古いお勝手道具や、せいぜい化けそうな仏様ばかり。大それた品を持込んだら、すぐ知れてしまいます」
「――で、娘さんはどうしたんだ」
際限もない愚痴を封じて、平次は話の要領を辿りました。
「品が出てくるまで、娘は玉屋さんが預ると申して、甚助さんが一緒に
与次郎の愚痴は際限もありません。
「よしよし、解ったよ。それじゃ、玉屋へ行ってみよう、香炉が出さえすれば文句はあるまいから」
「有難うございます、親分さん」
平次とガラッ八は、すぐ本郷一丁目へ飛びました。玉屋金兵衛の大名屋敷ほどの家と、古道具屋与次郎の小さい汚い店は半丁とも離れておりませんが、なるほど提灯と釣鐘以上の
最初に行ったのは玉屋、打合せがあったので、待ち構えたように主人が迎えて、早速奥へ案内しました。
「香炉の無くなったのはこの部屋だが、雨戸を締めると、どこからも入りようはない――」
「香炉はあの箱に入れてあったのでしょうね」
平次は違い棚に載せてある
「その通りだよ親分、箱から抜かれたのを、
「紐は結んでありましたか」
「確かに結んであったはずだが、今朝見ると解いたのをいい加減につくねて、正面から見ると結んであるように見せていた」
「よほど急いだのですね」
「…………」
金兵衛は平次の顔を見ました。紐を結んでなかったということが、何か手掛りの一つのように聞えたのです。
「隣の部屋に一と晩泊った者が盗ったのなら、紐ぐらい結ぶ
平次は明らかに、お糸の
「もっとも、お糸さんが誰かを手引して入れると別ですね、親分さん」
誰やら口を
「お前さんは?」
「ヘエ、番頭の甚助でございます、ヘエ」
甚助は口の過ぎたのに気が付いたものか、
「お糸をつれて来たそうだが、お上の御用も勤めるのかい」
平次の舌は
「と、とんでもない。支配人の申付けで、よんどころなくあんな事を致しました、ヘエ」
「支配人を呼んで貰おうか」
「ヘエ――」
甚助はキリキリ舞いをしながら飛んで行きました。
「あれは子飼いですか、旦那」
「いや、三年ほど前、名古屋から添状を持って来た男だが、よく気の付く働き者で、今では支配人の片腕のようになっていますよ」
そんな話を聞きながら、平次は縁側から、霜解けのひどい庭などを見ております。
「
「そう、凍らなかったようだが――」
「人が歩けば、足跡が付くはずですね、庭石の上もあのとおり綺麗だし」
平次はここでも、お糸が曲者を手引したという、甚助の疑いを粉砕したのです。
そこへ支配人の庄八が飛んで来ました。
「親分さん、御苦労さまで。――私の指金で、お糸さんに来てもらいましたが、とんだお
六十近い、よく光る頭を
「叱言を言うわけじゃないが、嫁入前の娘へ、傷を付けちゃ悪いと思って、ツイあんな事を言ってみたのさ」
「ヘエ――」
「そのお糸さんがどこに居るんだ、ちょいと逢ってみたいが」
「これへつれて参りましょう」と庄八。
「いや、こちらから行こう」
「ヘエ、――それじゃこうお出でなさいまし」
平次とガラッ八は、庄八と甚助に案内されて、廊下続きの裏の
が、縁側をグルリと廻ると、多勢の足音に驚いた様子で、障子を中から開けて、パッと飛出した者があります。
「あ、若旦那」
声を掛ける庄八を突き飛ばすように、
「庄八、甚助、お前達は、寄ってたかってお糸を泥棒にする気かい」
「とんでもない、若旦那」
「いいよ、解ったよ。お前達が、それほどお糸を目の敵にするなら、俺がこの家を出て行くか、お前達に身を
「若旦那、そんなわけじゃございません。現に銭形の親分さんも、お糸さんに怪しい事はないとおっしゃったばかりで――」
庄八にそう言われると、金五郎は始めて気の付いた様子で、
「あ、銭形の親分、助けて下さい、――こやつらが企らんで、お糸を殺してしまいます」
いきなり平次に飛付きました。
平次は静かに
「…………」
平次はしばらく黙って見ておりましたが、誇りを傷つけられた
「八、お糸さんを家へ送って行くがいい、後から俺も行くから」
八五郎を顧みて、率直に言います。
「ヘエ――」
ガラッ八はほんの少しばかり
平次はそれから、養い娘のお幾に逢いました。これは世間並の平凡な娘で、踊は天才的だと聴きましたが、きりょうは一向つまりません。
その上、金五郎とは
店の者にも一と通り逢って、
「蝉丸の香炉はこの
平次はこう結論するより外にはなかったのでした。
間もなく平次は、与次郎の古道具屋に現われました。
「有難うございます。親分さんのお蔭で、娘も無事に戻りました。縁談には面白くないことですが、後のところは若旦那が、何とかして下さることでございましょう」
与次郎は、金五郎の純情に委ね切って、娘の幸福を疑う様子もありません。
「安心するのは早かろうよ、まだ香炉が出たわけじゃないからな――」
平次は、しかし、釈然とした様子もありません。
「ヘエ――、すると、どんなことになりましょう? 親分さん」
「香炉が出てこなきゃ、玉屋は申訳が立つまい。大名一軒に
「ヘエ――」
「金にも宝にも代え難い品だというから、玉屋の
「ヘエ――」
与次郎の顔には、ありありと失望の色が読めます。
「ところで、ほんの念のためだ。十手捕縄に物を言わせるわけじゃないが、――家の中を見せて貰いたい」
「ヘエ――」
不満らしい響きが平次の心を
「玉屋も念入りに調べ、奉公人の荷物もみんな見せて貰った」
「香炉はございませんでしたか、やはり」
「無い」
「それじゃ致し方がございません。存分に御覧下さいまし」
「気の毒だがそうさして貰おう」
平次はガラッ八をさし招くと、二人で狭い家の中を捜し始めました。
ガラクタの山のような店から、たった一と間の居間、お勝手、狭いといっても、商売柄道具が多いので、相当の手間を取りますが、
床下から天井裏から、水瓶の中までも覗いて、
「無い」
平次とガラッ八は、元の店に顔を見合せておりました。与次郎はおどおどしながらそれを眺めるばかり、娘のお糸は、見るに堪えない様子ながら、逃げも隠れもならず、美しい顔を
「親分、香炉は
ガラッ八も少し不平そうです。この気品の高い娘の怒りの前に、いつまで続く家捜しでしょう。
「よし、よし、これも念のためだ。玉屋にもここにも無く、外から盗人の入った様子もないとすると、消えて無くなったとでも思わなきゃなるまい。こんな事で引揚げようか、八」
なんという器量の悪さ、二人はスゴスゴと神田へ引揚げます。
「親分、今朝玉屋から出た者はありませんか」
「不思議なことに、お糸が出たっきり、猫の子も外へ出ないとよ」
二人は歩きながらこんな事を言っておりました。
「外から来た客は?」
「それもない」
「じゃ、香炉は玉屋にあるわけですね」
「お糸が持出さなきゃ、そういうわけだ」
「御用聞に持出させる
「それも考えたが、酒屋米屋の御用聞は、お勝手口で下女に逢ったきりだ。香炉を受取る
二人はしばらく黙って歩き続けました。
「親分、番頭の甚助は朝のうちに出ているでしょう」
ガラッ八は顔を挙げます。
「それを忘れていたのさ。甚助はお糸の迎いに出た、――こいつは筋が立ち過ぎているから、朝のうちに出た人間に勘定するのを忘れたのさ」
「その途中で香炉は隠せないでしょうか、親分」
「玉屋から与次郎の古道具屋まで、たった半町そこそこ、その間にほんの五六軒しか家がない。物を隠す場所はないように思うが、――待ってくれ八、ともかく引っ返してみよう」
平次は
「無いな、八」
「誰かに渡したんじゃありませんか、時刻を打合せて」
「そんな暇はなかったはずだ」
「…………」
二人は黙ってまた神田へ取って返しました。万策尽きた姿です。
その晩は事なく過ぎましたが、翌る日の朝、玉屋から急の使いで、平次は飯も食わずに飛んで行きました。
「親分、香炉は出てきましたよ」
番頭の甚助の顔は店口に輝きます。
奥へ入って行くと、
「親分、とんだ騒ぎをさせて済まなかったが、このとおり蝉丸の香炉は返って来ましたよ」
主人の金兵衛は笑み崩れそうです。
「どんな具合に返りました、旦那」
と平次。
「今朝起きてみると、この部屋の床の間に、チョコンと据えてあるじゃないか、いや驚いたの驚かないの」
「誰が見付けました」
「娘だよ」
お幾の無表情な顔を、平次は部屋の隅っこに見出しました。
「戸締りはどこか変っていなかったろうか」
平次は誰へ言うともなく後ろへ振り向きます。
「気が付きませんでしたが――」
庄八甚助も、何の心当りもない様子です。
平次は奉公人達を案内させて、念入りに家の内外を見廻りましたが、戸締りにも、庭の霜柱にも、何の変りもありません。
「これ程の品を、家の中に隠してあったとは思われない。八、もう少し念入りに見てくれ」
鼻の良いガラッ八を先に立てて、庭から塀の外を捜し廻りました。
「変なところに棒があるが、誰がこんなところへ持出したんだ」
支配人の庄八は、裏口から出ると、路地の出口に立てかけた棒を指さしました。長さは二間ぐらい、かなり逞しいもので元の方には、したたかに泥が付いております。
「植木の突っかい棒ですよ、誰が持出したんだろう?」
甚助も心当りがない様子です。
「外へ出る物じゃないが、――どれどれ」
平次はいきなりその棒を取上げると、塀へ立てかけてみたり、庭へ持込んで、屋根へ掛けてみたりしましたが、
「
裏の物置から持って来た九つ梯子を雨落ちに据えると、一番上はちょうど雨戸の欄間に届きます。
それを登った平次は、黙って調べておりましたが、しばらくすると、一人で呑込んだまま降りて来ました。
「何か変ったことがありましたか、親分さん」
支配人の庄八の心許ない顔を見ながら、平次は静かに言い切ります。
「大変な奴だ、――棒一本で塀を越した上、離屋の
「泥棒が外から入って、香炉を置いて行ったのだろうか、親分」
主人の金兵衛もさすがに仰天した様子です。
「こんな芸当の出来るのは誰だろう、――棒一本で、どんなところへも忍び込むのは?」
平次は委細構わず首を捻っております。多勢の悪者を手掛けて、捕物の名人と言われた平次ですが、こんな恐ろしい人間のあることをまだ聴いたこともありません。
平次の首はどう捻ろうと、香炉が出てきた上は、もう問題も何にもありません。支度の出来たのをきっかけに、主人の金兵衛は庄八を伴につれて、香炉を大名へ返しに出かけ、早春の庭先には、平次とガラッ八と、甚助とだけが取残されました。
「番頭さん、こんなことの出来るのは誰だろう、見当は付かないかね」
「解りませんよ、親分さん」
甚助は少し不機嫌でした。
「実はね、番頭さん、こんな細工を見る前までは、曲者は外に居るに相違ないと思ったが、これを見て少しばかり、考えが変ったよ」
「へェ――それはどういうわけで? 親分」
「外から香炉を戻しに入った曲者なら、最初塀を乗越して入る時から、棒が入用だったはずだ。こんな締りの厳重な家へ、音も立てず道具も無しに入った程の曲者なら、帰る時だって棒なんか要らないはずじゃないか。わざわざ裏庭にあった植木の突っかい棒で塀を乗越して、その棒を外へ――これで出ました――と言わぬばかりに置いて行くのは
「…………」
平次の
「これは内に居る者が、外から曲者が入ったように見せかけるために、棒を使って、つまらない細工をしたのさ。棒を外へ
「なァるほどね」
ガラッ八は長い
「この家の中に、棒一本で庇へ登って、欄間を
「…………」
「奉公人も十二三人居るようだが、他国、遠国の者は誰々だろう」
平次はここまで追い詰めて行ったのです。名古屋から添状を持って、三年前に来た甚助の苦い顔というものはありません。
それから四五日、無事に日が流れました。やがて二十日正月という時、また一つの大きい事件が起ったのです。
「親分、大変だぜ」
「なんだ八」
いきなり飛込んで来た八五郎はしばらく口も利けません。
「番頭が殺されましたよ」
「え?」
「玉屋の番頭の甚助が、湯島の聖堂裏で絞め殺されているのを、往来の人が見付けて大騒ぎしていますよ」
八五郎の報告は全く大変でした。
「それ、行ってみろ」
駆け付けたのは、まだ
「
八五郎に導かれて行ってみると、
平次はいきなり水のない大溝に飛降りて、近々と死骸を見ました。恐ろしい
「おや?」
驚いたことに、死骸の下には、山吹色の小判が一枚、キラキラと氷の中にめり込んで光っているのです。
拾い上げてみると、
「あッ」
平次が二度
「親分」
「八、大急ぎで奉行所へ飛んで行って、書き役から、近頃検印のない御用金か何か盗まれた事がなかったか、訊いて来てくれ」
「ヘエ」
八五郎は、そう
平次はその上に調べることがないと思ったか、
「銭形の親分さん、――今お迎いに行ったところでした」
すっかり
「
平次は手っ取早く調べにかかります。
「私は存じませんでしたが、店に居た小僧に聴くと、
「もう一人出たはずだが」
平次の問のさり気なさ。
「でも、若旦那はすぐお帰りになりましたよ」
庄八はツイこんな事まで釣られてしまったのです。
「その若旦那に逢いたいが――」
平次は有無を言わせませんでした。すぐ奥へ通って、若旦那の金五郎に逢うと、興奮し切っているのも構わず、グングン問を進めます。
「昨夜、甚助の後を追って出たそうだが、どこへ行きなすった?」
「どこへ行ったって構わないじゃありませんか」
金五郎は突っ張りました。
「構わないようなものだが、――甚助は殺されていますぜ」
「自業自得さ。あんな悪い野郎はない。――誰も殺してくれなきゃ、この私が殺すはずだった」
金五郎の怒りは容易に納まりません。
「それはどういうわけで?」
「お糸をつけ廻して、ここへ寄り付かれないようにしたのはあの野郎ですよ」
「だが、その甚助が殺されているんだ」
「いい気味だ」
「その殺された甚助の後を追って、出て行ったお前さんにも疑いが掛らずには済むまい。もう少し
平次は穏やかに話を進めます。
「金五郎、親分へみんな打明けるがいい。つまらない事を言うと取返しが付かないよ」
奥から、騒ぎを聴いて出て来た、主人の金兵衛も言葉を添えます。
「お糸を皆んなで邪魔にするから、こんな事になるのですよ。――お幾なんか、あんなすました顔をしているけれど、甚助をけしかけてどんなにお糸を
金五郎の怒りは、
「つまらない事を言うな、――それより昨夜お前はどうしたんだ」
金兵衛は聴き兼ねた様子で、金五郎の肩を
「どうもしやしません。甚助がコソコソ外へ出て行くから、またいずれ悪い事の支度だろうと、後を
金五郎もいくらか穏やかになって、これだけの事を説明してくれました。時間からいえば、間違いもなく甚助の殺された時誰も見ていない外に居たはずの金五郎ですが、若旦那育ちの細腕で、相当したたかな甚助を、締め殺せるとは、どうも受取れません。
平次は、疑いを残して今度はお幾に逢いました。が、これは泣くばかりで、何を訊いても解りません。多分、お糸が出現してから、金五郎の心が急速にそっちへ傾いて行くのを見て、一時は踊に没頭して、何もかも忘れようと骨を折ったのでしょう。が、端なくもこんな事件が起って、いろいろの激情的な場面を見せつけられ、ツイ胸の奥に潜んでいた、金五郎とお糸に対する深い深い
「…………」
平次は黙って引揚げました。この上、お幾をさいなむ残酷さをつくづく考えたのです。
その足ですぐ与次郎の古道具屋を訪ねると、与次郎は眠そうな顔をして、店に坐っておりました。
「眠そうだね」
ヌッと入った平次。
「親分さん。イヤな事ですね、私は根岸の友達が死んで、お通夜に行って何にも知らずに今帰ったばかりですが――」
与次郎はゴクリと臆病らしく
「根岸の友達?」
「ヘエ――、友達といっても、商売仲間で、十年も前から懇意にしていますが、上根岸の源三郎
こう聞くと、平次はもう押して訊ねることもありません。
平次はそれでも念のために上根岸まで
「与次郎は
平次は念のために訊ねてみました。
「引っ切りなしに飲んで食って、百万遍も
「なるほどね」
そう言われると一言もありません。昨夜のお通夜は、家族の者を別にして、
「与次郎は何をしていたろう、
幸い聖堂裏の甚助殺しもここまでは知られず、平次は思いのままこんな事が訊けたのです。
「あの男は不思議に念仏嫌いでね、――百万遍が始まると、お勝手へ行ってお
「有難う、とんだ邪魔をして済まなかった」
平次はなんの
ちょうど玉屋へ入ろうとすると、
「親分」店の中から飛んで出たのは八五郎です。
「解ったか、八」
「それが解らねえから不思議で」
二人は物蔭へ歩み寄っておりました。
「検印のない小判を
「十年この方ありませんよ」
「はてね?」
「二十年前の帳面まで調べたが、やはりありません」
「フーム」
「二十三年前、金座の後藤へ忍込んで、小判で三千両盗んだ大泥棒があったそうで――」
「少し古いな」
「
「玉屋の主人は幾つだろう」
「五十幾つでしょう」
「支配人の庄八は六十近いな」
「…………」
「死んだ甚助はまだ赤ん坊だったはずだし、古道具屋の与次郎もほんの子供だった――」
「親分、二十三年前の泥棒なんか詮索しても、何にもなりませんぜ」
「そうかも知れないな」
二人は玉屋から遠く、裏通りを
「待て待て、俺は大変な間違いをしていたらしいぞ。――殺された番頭の甚助は、あの朝香炉を持出して、古道具屋へ行く前にどこかへ隠した――とまでは考えたが、表通りばかり捜したのは大手ぬかりだ。ちょっと裏通りへ廻って、隠し場所を捜せないはずはないわけだ」
「どこへ行きなさるんで、親分」
「黙って
平次はいきなり、あさり
塀の下、石垣の崩れ、積んだ材木の隙間を見て行くうちに、
「この辺だ、甚助は家から持出した香炉をこの辺に隠して空手で古道具屋へ行ったに違いない」
平次は独り言を言いながら、狭い路地の中の、とある石垣の崩れへ手を差し込みました。人目に付かないところ、子供の手の届かないところ、泥や下水に汚されないところというとなるほど、大人の背の高さほどの、石垣の崩れた穴が一番恰好な隠し場所です。
「あッ」
平次は思わず声を立てました。引出した手には、山吹色の小判が二三十枚、そのいずれも、検印のない品ばかりではありませんか。
上根岸の喜六の葬式へ行っていた古道具屋の与次郎は、その日の夕刻、上野の鐘が六つ(六時)を打つと一緒に、大変な使いを受取りました。
「本郷の与次郎さんは居ますか、――大、大変な事が――」
息を切って飛込んだのは、顔見知りの町内の若い者です。
「お、町内の方、何が起ったんで!」
葬いの跡片付けを手伝っていた与次郎が顔を出すと、
「お糸さんが、若旦那と逃げ出したよ、書置きをして」
「えッ」
「行先は東海道だ、――江の島で心中をするんだって」
「しまったッ」
与次郎は飛出すと、
大跛足で、家の中を歩くのさえ不自由そうにしていた与次郎の足の早いこと。
その頃の江戸の町人は、滅多に
娘お糸、――十九年間手塩にかけて輝くばかりに美しく育てた一人娘お糸の命を救うためには、与次郎はもう跛者なんかの真似をしていられなかったのです。事実、右の高股を切られて、跛だったには相違ありませんが、異常な体力の持主で、そんな事は見事に征服するだけの自信があったのです。
上根岸から日本橋まで、ほんの四半刻ともかかりません。この勢いで駆けて行ったら、品川手前でお糸に追い付き、その無法な道行から引戻すことも出来たでしょう。が、日本橋へ差しかかった時、与次郎は思わぬ障害に
「待て待て与次郎」
「え?」
「天狗小僧の与吉、――三千両の御用金泥捧、――玉屋の番頭甚助殺しの下手人、神妙にお縄を頂戴せい」
橋の真ん中に通せん坊をしていたのは、夕闇の中にもはっきり、銭形平次の勝ち誇った姿と判ったのです。
「あ、己れは平次」
「上根岸からここまで四半刻で駆けつけるぐらいなら、百万遍を称えているうちに、聖堂裏まで行って人を殺せるはずだ」
平次は、ツと一歩進みました。
「…………」
後ろを振り向くと、大手を拡げて突っ立ったのは、ガラッ八の八五郎。
「銭形の親分、――いかにも俺は天狗小僧、二十年堅気で暮したのは、一人娘のお糸が可愛いばかりだ、――その娘の出世を妨げる甚助、殺したのが悪いか」
与次郎の声は凄惨でした。
「人を殺して悪くないはずはない」
と平次の声は冷たく響きます。
「あの野郎は、無体の横恋慕をして、香炉を盗んだ罪を娘に着せ、玉屋との縁談をこわしにかかった、――俺は昔取った
「棒をなぜ外へ捨てた」
「あんまり
平次の明察を、与次郎は裏書きします。
「その甚助をなんで殺した」
「あの野郎の親は、俺の昔の相棒だ。それを知っていて、二十何年前に書いた、連判帳を種に脅かし、お糸を嫁にくれと言うから、その代り五十両で連判帳を買い取ると約束し、聖堂までおびき出して殺したのさ」
「その時、検印のない小判を一両落したのを気が付かなかったろう、天命だ、お縄を頂戴せい」
人立ちの次第に多くなるのを恐れて、平次はツト進みました。
「待った、銭形の親分。娘には何の罪もない。後を頼まれては下さらぬか、――天狗小僧一生のお願いだ」
与次郎の声は悲愴でした。
「よし、引受けよう。必ず金五郎と添わせてやる」
「有難え、銭形の親分が引受けて下されば思いおく事はない。お礼心に、二千両の隠し場所を申上げる」
「何?」
「二十三年前に盗んだ御用金三千両は、浜町河岸の石置場、百貫あまりの御影石の下だ――左の小さい
「よし、解った。お上へ申上げてお慈悲を願ってやる。お縄を頂戴せい」
平次とガラッ八の挟撃は次第に近くなって来ました。橋の両袂に群がる人数は、思わずワッと
「親分、天狗小僧も五十だ。今から
「あ、待て待て」と言う間もありません。与次郎は懐から取出した
*
「親分、変な捕物だね」
その帰り途、ガラッ八は寒々と愚痴をこぼします。
「これをお糸へ言うのが一と仕事だ。何か親の罪だけでも胡麻化しようはないかね」
「死骸は揚ったし、三千両の小判は出たし、隠しようはありませんよ」
「困ったね八」
平次はお糸の歎きを見るのが何より嫌だったのです。
「親分、あの石垣の穴に小判があったのは、どういうわけです」
ガラッ八はまた絵解きをせがみました。
「浜町の石置場から見せ金の積りで五十両持って来たが、死骸と一緒に置くわけには行かないし、検印がないから急には捨てる場所も思い付かない。フト殺された甚助が香炉を隠しておいた穴を思い出して、そこへ
「なるほどね」
「二十年前に足を洗った天狗小僧が、無事に天命を全うする積りで、娘の育つのを眺めていたのは殊勝じゃないか、――その娘のために、こんな事になったのは考えてみると可哀想でもあるよ」
「…………」
「これから、お糸と金五郎を添わせるのが一と仕事だ、が、お互同士の気さえ
平次はしんみり言って、遅い月を仰ぎました。寒い寒い晩でした。