随筆銭形平次

捕物小説は楽し

野村胡堂





 捕物小説というものを、私は四百二三十篇は書いているだろう。その上、近ごろは毎月五六篇は書いているから、幸いに私の健康が続く限り、まだまだこの多量生産は止みそうもない。
 私が「銭形平次捕物控」という捕物小説を書いたのは、昭和六年ごろで、「オール読物」の創刊と同時であった。最初は勿論六回と十二回でよす積もりであったが、調子に乗って十何年か書き続け(その間半歳だけ休んだが)戦争末期のオールの廃刊までに、実に百五十五回と書き続けた。
 その後オールの復活とともにまた書き続けているし「新報知」その他の新聞雑誌に書いたのを加えると、銭形だけで、ざっと三百二十篇くらいにはなっているだろう。
 ほかに「池田大助捕物日記」が約八十篇、韓信かんしん丹次、平柄銀次、はやぶさの吉三などの捕物帳がそれぞれ五六篇ずつ、総計四百二三十の捕物小説を書いているだろうと思う。我ながらいささか呆れ返っているが、先日大佛おさらぎ次郎氏に逢ってその話が出ると、大佛氏は「人間業じゃないね」とっぱい顔をしていた。化物扱いされるようになれば、作者もまことに本懐の至りだ。
 将棋の木村名人は、十数年間、私と机を並べていた友人の一人だが、あの人は第一級の探偵小説ファンで、「あんな詭計トリックをどうして考えるのだ」と幾度も私に訊いた。「詰将棋の題を考えるようなものさ」といつでも私の答はきまっていた。ある科学者が、同じ問いを私に出したとき、私はこう答えた。「数学の問題を考えるようなものですよ。X=0エックスイコールゼロから逆に考えていくのだ」と。

 私の先生は、生前一度もお目に掛かったことのない岡本綺堂先生であったといって宜い。私の「銭形平次捕物控」は、「半七捕物帳」に刺戟しげきされて書いたもので、私は筆が行き詰まると、今でも「半七捕物帳」を出して何処どこともなく読んでいる。「半七捕物帳」は探偵小説としては淡いものだが、江戸時代の情緒を描いていったあの背景は素晴らしく、芸術品としても、かなり高いものだと信じている。
 岡本綺堂先生の真似はとても出来ないが、私の捕物小説は、その代わりもう少し探偵小説的でありたいと思った。そして同じく探偵的な捕物小説を書くなら、少しでもモラルの高いものでありたいとも念願した。私の銭形平次は平気で犯人を逃がしたが、その代わり旧式の義理人情――低俗な偽善的なものを憎み続けた。
 探偵小説は一度読むと捨てられるものが多い。本格物ほど詭計や推理に重点を置いて、人間味の温かさを忘れるからだ。私は自分の力を顧みずに、二度も三度もくり返して読んで貰える探偵小説を、捕物小説の形で書きたいと念願した。滅多めったに古本屋へ出てこない芸術小説――少なくとも一度読んでしまっても、容易に手離せない程の愛情を持たれる小説が書けたら、私は本当に嬉しい。勿論それは容易のことではない。恐らく――北斎ではないが――百まで生きなければ思う存分なものが書けないだろう。

 コナン・ドイルの自叙伝を読むと、あれほどの人でも「私がシャーロック・ホームズを書かなかったら、文壇的にもう少し高く評価されたろう」と書いている。作者自身としては、まことに同情すべき言葉だが、我々読者からいうとシャーロック・ホームズを書かないコナン・ドイルなどは到底考えられず、またドイルの歴史小説や長篇小説などは、そんなに面白いものだとはどうしても思えないのである。
 私は――私風情ふぜいはといった方がいいだろう――銭形平次や池田大助を書いたことを少しも後悔はしていない。反対に、シャーロック・ホームズの愛読者であった父――五十五歳で三十幾年前に死んだ私の父に、私の銭形平次を読んで貰えなかったことが、何よりも口惜くやしいことだと思っている。
 私は救いのない小説は嫌いだ、したがって、誰にでも安心して読んでもらえる探偵小説を書きたいと思っている。したがってそれはハッピー・エンドになり、甘くなるのはやむを得ない。私は犯罪小説は書きたくないと思っている。探偵小説が探偵小説であればあるほど、明るくて救いのあるものでありたいとも思っている。
 私の捕物小説は、翻案だという汚名を私は幾度かせられた。その度ごとに私は、翻案なら原作を提示しろといっている。私の捕物小説には――あえて断言するが、たった一つも翻案は無い。ことごとく私の創作だ。私は作り出す興味で数百篇の捕物小説を続けたといっても宜い。自由奔放に飛躍する想像力と、それを整理して論理的に筋立てをしていく興味、それが探偵小説を作る面白さだ。その上、捕物小説には、時代のカムフラージュによる夢がある。作家の労作は苦しいが一面それは限りなく楽しいことでもある。


 銭形平次の苦心談をよくきかれるが、実際そんなおどろおどろしき物語などがあるわけではない。私は明るい障子の下で、レコードをかきならしながら、時には鼻うたを歌いながら書いているのである。落語の「小言念仏」の主人公が、自分の小言と念仏を享楽するような心持で、自分の物語の進行を享楽しながら、平次と八五郎をおどらせているのである。
 今から二十何年か前のこと、文芸春秋社の座談会で、直木三十五と佐々木味津三が「いやでいやでたまらないけれどもやむを得ず小説を書いている」というのに対して、私が「ぼくは書くことの楽しさに引きずられて書いている」というと、私より年だけは確かに若かったはずの二人が「それは、君はまだ若いからだよ、段々書くのがいやになるに違いない」といったはずである。この座談会の記事は昭和七八年ごろの「オール読物」に載っているから、どこかに記憶しておられる人もあるだろう。
 いやいやながら小説を書いた二人は若くて死んでしまったが、それよりは十歳くらいは年上だったはずの私は、今でものんきに銭形平次を書いているのである。小説としては誠にお恥ずかしいものであるに違いないが、少なくとも「下手な小説を書くのもまた、長寿法の一つ」といえるかもしれない。それから二十年も経った後のこと、成城の横溝正史君の家で、小説を書くのも楽でないような話をすると、「うそだろう、君は面白くて面白くてたまらないようだが」と素破抜すっぱぬいたのは、なんとそのころ瓢庵先生の捕物を書き始めた水谷準君だったのである。
 私は日本流に数えて最早七十二歳の老人だ。深刻なもの、暗いもの、残虐なもの、後味の悪いものを書く気は毛頭ない。ある著名な作家は、自分の書くものを、自分の子供たちには読ませなかったということであるが、私は反対に自分の子供たちには必ず親父の書いたものを読ませて批評を聴くことにした。わけても若くて亡くなった私の長男は、私の作品の最も良い批評家で、長男が推賞した銭形平次の短篇の幾つかは二十年の後まで映画やラジオや浪花節や、いろいろの形で残っている。
 捕物小説も、タンテイ小説と同じように、コナン・ドイルの手法に還れというのが、私の年来の主張で、物々しい道具立てや、押し付けの筋や、偶然の解決などは排斥しなければならない。この種の物語には、必ずトリックを必要とすることも当然であるが、トリックの巧拙は、ほとんど作者の天分にあることで、急に心掛けたところで、最上等のトリックをこしらえあげることの出来ないのはいうまでもない。
 ヴァン・ダインは生涯四つの長篇しか書かないといっていたが、実はその倍以上も書いたことだろう。しかし本当にすぐれた作品は、予言した通り、最初の四つだったようである。クリスティは百篇に上り、クイーンは五十篇を越えた。それはいずれも堂々たる長篇で、私が四百篇以上も書いたところで、その九十パーセントまでは短篇だから、あまり威張れるわけではない。
 トリックを作ることは、その人の機智と合理的な物の考え方と、そして広い常識にまつ外はないが、私はこれを詰碁や詰将棋にたとえている。トリックも新しい機構や手のこんだ装置や、化学方程式のない毒薬を用いるより、人間の心と心のズレ、ゆがみ、などから作られる、心理的なものに興味のあることは申すまでもない。
 マゲ物の小説には、ピストルも電話も自動車も青酸カリも無い。したがってトリックが非常に制約を受けるが、その代わり十年も経つと社会情勢や経済機構がガラリと変わって、トリックがトリックでなくなるという心配はない。例えばこの十年間に東京のハガキが一銭五厘から五円になり、電車賃は八銭から十円になったが、徳川時代のソバは一杯十六文が何百年も続いた。
 捕物小説には季感があるといわれている。これは岡本綺堂の半七物語に始まることで、捕物小説の一つの形になったようである。季感は日本のあらゆる芸術の特色で、これを織り込んで、一つのノスタルジア(郷愁)を生んだ、岡本先生の手柄は大きい。
 時代考証もやかましくいわれるが、私はあまりこだわらないようにしている。捕物小説という一つの世界には、かぶき芝居のような夢があって差支えはないように思う。言葉にしても、三馬、一九の調子でやられたら、今の読者はみんな逃げ出すにきまっている。
 ともかく、江戸時代というものは、悪い時代であったに違いないが、時の濾過ろかを経ると、悪夢は大方消えうせて、美しいもの、良いもの、なつかしいものだけが残る。その舞台の上に、存分に庶民を踊らせる捕物小説は、われらにとっては、まことに素晴らしいファンタジーである。この背景の中に、いろいろの人間を描こうとする野心は、いかなる小説も変わりがあるはずはない。


「銭形平次を書いているのが、いかにも楽しそうではないか」と、ある会合の席上で名ある捕物小説作家達にいわれたことがあった。その時は、こちらの腹を見透かされるのが劫腹ごうはらで、ツイ、
「いやそんな事はない、何を書いても作家の苦心は同じことだ、私だって、洒落や道楽で捕物小説を書いてるわけではない」とはいったものの、実は巧みにいい当てられたような気がして、はなはだ忸怩じくじたるものがあったのである。
 一年ほど前から、捕物小説を書き始めた、探偵作家の大先輩水谷準氏が「捕物小説を書くのは楽しいな」といったのを、横溝氏邸の座談会で、私自身この耳で聴いた。正直のところ、捕物小説というものは、そういったものなのである。百人の作家が百人まで、恐らくその楽しみの程度に差異はあっても多かれ少なかれ、楽しんで書いていることに間違いはあるまい。
 これを、嫌で嫌でたまらないような顔をして、油汗を流しながら、深刻無比な表情で生産するある種の小説と比べて、どうであろう。芸術的であるかないかは別問題として、作家自身が楽しんで書いているものの方が、読者に喜ばれることはまことに当然の結果ではないだろうか。
 捕物小説は、それだけ夢があり、楽しさがあり、詩があるのである。随分長い間、迫害と侮辱と無視と軽蔑とを受けて来たにもかかわらず、大先輩岡本綺堂先生に依ってはじめられ、我々後生がバトンを引き継いだ捕物小説は、夢と楽しさとを載せて、ますます多くの読者を、文壇の一角に確たる地歩を占めていくことであろう。
 捕物小説は江戸時代を舞台にしているだけに、道具建てにおびただしい制約を受け、江戸の風物と詩情とそして簡素な筋立てにその生命を托するが故に、感情移入の範囲が宏大になり、書く者の楽しみと共に、読む人の喜びを大きくするのではあるまいか。
 だが捕物小説を書くのが楽しいといっても、作者に苦心はないわけではない。調べる苦心、詭計算出の苦心、筋立ての苦心、起承転結に一分の隙もなくする苦心、そしてそれが、美しくあり、いささかでも芸術的でもあるための苦心は、しかめっ面で生産する小説の場合となんの変わりがあるはずもない。
 私はこれを恋にたとえている。書くものの苦心はすなわち恋するものの苦心で、全身全霊を捧げての闘いであり、本能と叡智の歓びのための苦心である。恋は子孫を遺すための本能と営みの一つならば、創作は自分を表現するための、あらゆる能力を動員しての闘いである。それはいわゆる芸術小説であろうと、捕物小説であろうとなんの変わりもあるはずはない。
 私共は少なくとも毎月二度三度、多いときは五度六度の恋をしているわけである。その完成の歓びと期待に燃えながら、深刻無比なしかめっ面の代わりに、いとも楽しく口笛を吹いて、肉体的な労苦を乗り越え乗り越え、あらゆる現世的な歓楽や安逸あんいつを無視して、――実はジャーナリズムに駆使されながら、――命を縮める思いで働いているのである。


 捕物小説は浮世絵の世界であり旧劇の舞台である。探偵小説としては、それは第二義的なものであるかもしれないが、その代わり、時代による迷彩カムフラージュに助けられて、読物としては、一段の温かさと、親しさと、そして美しき夢を加えていることも争われない。
 私は過去二十年の間に、少なくとも四百二三十篇の捕物小説を書いた。勿論それはジャーナリズムに強いられたためではあったにしても嫌いでは決して出来ないことで、探偵小説の持つ推理の興味と、髷物まげもの小説を特色づける夢とが、私を鼓舞こぶしてこの驚くべき生産を遂げさしたことだろうと思う。
 私の捕物小説に仮りに用いた主人公の名は、銭形平次、池田大助を始め――曰く何とかぞえ来ると五指にも余るだろう。そのうち銭形平次と池田大助は最も多く、その性格もまたやや対蹠的たいしょてきに書かれた積もりである。銭形平次の温かさと俊敏さは、池田大助にも共通するだろうが、平次の好謔こうぎゃくは大助の生真面目さと相対し、平次の練達は、大助の若さに、そして平次は腹の底からの江戸の庶民であるのに対して、大助は桶屋おけやせがれであるにしても、名判官大岡越前守の用人で、押しも押されもせぬ二本差しの武家である。
 銭形平次の遊びの多い叙述、換言すれば江戸の風物詩的な物語に対して、池田大助の捕物はやや本格探偵小説的で、冷たい理智的なものを用意しているはずである。共に正義を愛し、共に偽善を憎み、最後までも許さんとする心構えを持っている点においては、平次も大助も共通で、畢竟ひっきょうは同じ血をわけた兄弟といわれても致し方はない。


 誰でも一度は喰いつくが、滅多に最後までは読み通せないという名著が、かなりおびただしく存在するものである。聖書もその一つなら、『資本論』もその一つであり、『戦争と平和』もその例に漏れ難く、近頃の人にとっては、『南総里見八犬伝』や『ドン・キホーテ』や、『アラビアン・ナイト』もそうかもしれない。いやいやそれどころではなく、こう厖大ぼうだいな全集物が氾濫はんらんしては、評判のやかましい名作も、ツンドク居士こじの蒐集の目的物でおわることも少なくはないであろう。
 それはともかくとして、書斎や客間に飾る本と、居間や寝室に置く本とは、自ら区別があるわけで、読書家の蒐集にも、他所行よそゆきと、不断着、見せる本と、読む本との間に、多少の違いのあるのはむを得ないことであるかもしれない。
 ある有名な政治家が、あまり読みそうもない背革金文字の外国語の本をズラリと棚に並べ、若い客などが来ると、わざわざ書斎に通して、まず一脅ひとおどかし脅かしたという噂もあり、また一方には、大した狭い家でもないのに、居間や書斎を空っぽにして、わざわざつかしく厳めしい本を玄関に積み重ね、来訪の学生や新聞記者のきもを奪ったという学者もある。
 もっとも我々文士の中には、必要以上の本を求める篤志家などはほとんどなく、ひどいのになると、ろくな参考書を持っていないばかりでなく、辞書一冊持っていないのを、かえって自慢の種にしているつむじ曲りもあるようである。「調べる」ことを自慢の一つにした時代に、俺は万年筆と原稿紙さえあれば、仕事をしてみせるという、痩せ我慢であったのかもしれない。
 ところで、これは非常に長くフランスにいた人の話であるが、巴里パリあたりの良い家庭の客間や広間には、古典の文学書がギッシリ並べられ、その装禎の美しさを競っているが、その著書は、コルネーユ、ラシーヌ、モリエールから精々、バルザックや、ユーゴーあたりまでで、フローベルやモーパッサンはともかく、大デュマなどは姿も見せないということである。この話は戦前に聴いたことで、近頃はまた変わっているのかもしれないが、ともかく、どこの国でも、中流以上の家庭の主婦達はかなり見栄坊であることは疑いもない。
 それならば、巴里ッ子はダルタニアンやモンテ・クリストの物語を読まないかというと、決してそうではないのである。現に寝室の小卓の上には、いともつつましやかに、大デュマ以下の親しみ深い名著が置かれてあるというのである。それがやがて、ファントマになり、ルパンになったのかもしれないが、そこまでは詮索の限りでない。
 物を書くのを職業にしている我々にとっては、自分の書いたものがサロンに飾られて、百年の埃を蒙るのも、誇らしいことであるに違いはないがむしろ差し当っての望みは、寝室の小卓に置かれて、憩いと眠りの、よき友になり、幾度かくり返して読んで貰いたい心持で一杯である。
 我々捕物作家は、そう考えたところで、少しも恥ずかしいことではないと思う。とにもかくにも、明るく楽しく、後味の良い捕物小説を提供することが作者二十年来の望みで、この激しい物語の中から、悪を憎むことだけではなくさらに人を愛することの尊さと、人を許すことの美しさを読み取って下されば、作者にとってはこの上もない喜びだ。半生を捕物小説の創作に過ごしたことに対してさえもいささかの悔いも残らない。





底本:「銭形平次捕物控(三)酒屋火事」嶋中文庫、嶋中書店
   2004(平成16)年7月20日第1刷発行
底本の親本:「銭形平次捕物全集 別巻」同光社
   1954(昭和29)年
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2016年9月21日作成
2019年11月23日修正
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