随筆銭形平次

平次読む人読まぬ人――三人の政治家――

野村胡堂





 吉田首相が「銭形平次」を読むとか読まないとかで、かなりうるさい問題を巻き起こした。吉田首相にとっては、随分迷惑なことであったに違いないが、「銭形平次」にとって、冷やかしの種にはなったが、良い宣伝にもなったことは確かである。かつて二十世紀のはじめの頃、ドイツで素晴らしい人気を博した、美しい歌い手のジェラルディン・ファーラーが、時の皇太子(後のカイゼル)と浮名を流し、一時は大変な評判になったことがあるが、その噂が下火になった時、新聞記者の臆面おくめんもないのが、その真相を訊ねると、ファーラー少しも騒がず「確かに宣伝にはなったワ」と軽くいなしたという欧羅巴ヨーロッパ交際社会の一つの話がある。
 銭形平次に関する噂も、吉田首相は迷惑をしたことであろうが、私にとっては、ファーラーくらいの軽い気持になって一向差支えはあるまいと思う。吉田首相にしても、毎朝有難いお経を読むとか、ジイドの『狭き門』を愛読するとか、ありそうもない噂を立てられるより「銭形平次」の方が、どんなに気が楽かもわからないのである。
 私はある結婚の披露式で、吉田首相に一度逢ったことがある。その印象によれば、少し皮肉っぽいが、座談も巧みで、なかなか好感の持てる老人であった。世の政治家という概念からみると、非常にうち解けた感じで、私は四十年前政治記者として、明治大正の多くの政治家にも逢っているが、その中では、何人かの親しみ深い政治家の一人といえるだろう。この人柄は単純で強さは感じさせるが、世にいう政治家らしい空々そらぞらしさや無気味なところはなく、私の老妻が、首相を前にして、「お目にかかるまで、怖いお方かと思っておりました」と無遠慮なことをいうと、吉田首相莞爾かんじと受けて「実際お逢いになってみると少しも怖くはないでしょう」とすこぶる上機嫌であった。その時一座したお歴々は、自由党の幹部会ほどの顔ぶれであったが、その中で、抜群の座持ちは吉田首相であり、諧謔かいぎゃくに富んだ明るい応酬は、なかなかに忘れ難い。やはり外交官としても、一流の人であったという感じであった。
 もし首相が、文学青年的な愛読書を列挙したとしたら、一部の青白きインテリは喜ぶかもしれないが「銭形平次」を読むと言い切ったほどの人気は湧かなかったであろう。「銭形平次」の著者なる、私がそう考えることを許してもらいたい。


 もう一人かつての総理大臣芦田均君は、一高で席を並べた、間違いもない私の同窓の一人である。彼は総理大臣になったかもしれないが、私にとってはただの芦田君で、逢えばお前仕掛で話すのも、旧友のよしみというものだろう。
 もっとも芦田君は、ある文学者の会合で、チェホフについて蘊蓄うんちくを傾け、三十分以上も論じたという、文学好き政治家としての記録保持者である。その時の拝聴者たちは、随分当てられた様子であり、にがにがしがったロシア文学の専門家もあったらしいが、ともかく文筆で御飯を頂戴している数百人の前で、三十分に及ぶチェホフ論をブチまけるというのは、一知半解の老文学青年ではできることではない。そうだったからといってそれだからなどと、芦田内閣の領分に因果いんがづけてはいけない。
 ある座で芦田君は私を紹介したことがある。曰く「野村君の銭形平次を、私はかつて読まないが、私の家内は非常に愛読している様子である」と――まことに有難いことである。挂冠けいかん首相芦田均君に読んで貰うより、私はまだ、かけ違ってお目にかかったことはないが、有名な美人――現代政治家の夫人としては、並ぶものなしといわれる、芦田夫人に愛読して貰う方が、どんなに有難いかわからないのである。
 だが、芦田君が、もう少し政治家的俗才があったならば、夫人が読んでいるのを、しばらく失敬して「私が愛読している」といってくれたら、旧阿蒙きゅうあもうの老胡堂が、よき友人を持ったことに感激するだろう。――これほどさように芦田君は正直であり、無技巧であり、お世辞などをいわない男である。銭形平次などを読むよりは、やはりチェホフを読んだ方が、お為になることは、銭形平次の著者なる私もよく知っている。
 私どもが一高へ入った時、若くて死んだ仏文学者の福岡易三郎やすさぶろう君(後の白水社主)が一番で、芦田君はさまで振るわなかったが、学年が進むと共に、河上弘一君と芦田均君が頭角を現わし、爾来じらい卒業まで、この二人が首席を争ったようである。はばかりながら私などは野次馬学の優等で、喧嘩には強かったが、学校の成績の方は、二人の秀才に及びもつかなかった。
 芦田君はその頃から怜悧れいりな青年で、三年間下宿屋から一高へ通っていたようである。発祥の地は丹波の篠山ささやまだが、お国名物のデカンショ節とは縁が遠く、下宿の本棚には、何やら六つかしいものをならべて置くといった肌合いであったと思う。
 一高卒業の時、私は病気になって、摂生せっせい室にもらされてしまった。そのため幾らかの学科試験を受けることができなかったために、危うく落第をしそうになったが、芦田君がクラスの交渉委員として、先生方を歴訪し、私のためになかなか良い見こみ点を獲得してきたことがある。日本へはじめてラグビーを輸入したクラーク先生は、慶応と一高を教えていたが、リョーマチで松葉杖を離さない不自由な身体にかかわらず、スポーツの指導者としても有名な人であった。芦田君がこの先生を訪ねて、私のために八十五点の見こみ点を獲得し「お前はまともに試験を受けても、こうはいかないぞ」と恩に着せられたことを今でも知っている。
 芦田君が冷たい老獪ろうかいな感じを与えるのは、あの多くの漫画のせいで、人間としてはなかなか良いところがあり、友人たちにも感謝されている例を、私はいくつか知っている。これは友人の一人として、銭形平次は読んでくれないが――芦田君のために大提灯を持っておきたい。


 社会党左派の、鈴木茂三郎委員長は、私にとっては、四十年前の新聞社の同僚であり、当代の政治家中では、最もなつかしい存在である。四十年前の私は政治部一外交記者で、政党方面などを受け持っていたが、社会部をやっていた原田譲次君が、急に大阪へ行ってしまい、社会部長の椅子がいたので、私と永井柳夢がその後を襲い、二人の寄合世帯よりあいじょたいで社会部をやっていくことになったが、夕刊を受け持った私が、他への接触が多かったので、自然社会部長らしく振る舞ったのである。
 その頃の社会部は、小姑こじゅうと沢山で随分悩まされたが、幸いにして部員に後の大阪放送部長煙山二郎君などがおり、素人の私が友人たちの後援でどうやら責を果たしていたわけである。申し遅れたが、私の入っていた新聞は、報知新聞の前身で、当時は東洋第一とうたった時代であり、社内の空気も覇気満々はきまんまんではあったが、相当に六つかしいものであった。
 鈴木茂三郎君が入社してきたのは、その翌年あたりのように記憶している。早稲田大学出の颯爽さっそうたる青年で、眼鏡をかけて、茶色の背広を着た、ニコニコした青年を、私は今でもはっきり記憶している。四十年前の若い記者を、こうまで明瞭に記憶しているということは、鈴木茂三郎君には若い時から、なんか特色的なものがあったためかもしれない。
 今の委員長鈴木茂三郎君が、慷慨激越こうがいげきえつに演説をすると、ラジオで聴いても、その武者振りはなかなかに凄まじい。だが当人としては六十幾歳の今日、老政治家となった風格のうちに言うに言われぬ、青年らしさがあり、政治家としての愛嬌あいきょうと魅力はまさに満点である。そういっては済まないが、私が見来たった五十年の間の政治家も少なくないが、鈴木茂三郎君ほどの親しめる人は少ないと思う。
 昔から、大衆の人気をつかんだ大きい政治家には、こういった、万人をひきつける魅力があったのかもしれない。鈴木君の男っ振りのために、祝盃を挙げてもよろしい。それはともかくとして、四十年前の鈴木君は、才能からいっても、申し分のない良い記者であった。社会部に号令していた私は、もちろんまだ小説などいうものは書かず、新聞の社会部の記事に、新しい方向を開拓する野心に燃えて、そのころまで新聞の社会部などが、あまり試みなかった文芸美術や政治経済の分野にまで首を突っこみ、そういった材料を柔らかく扱って、ひとかど良い心持になったものである。
 後に鈴木君が、社会党随一の財政経済通になったのも、四十年前のこの修業が素地そじになったのではあるまいか。当時鈴木君を動かした社会部長の私は、ひそかに誇りを持っていても差支えないわけである。
 それからしばらく経って、鈴木君は大正日日に走り、東京毎日に転じ、そして革命後のソ連に入国し、その旅行記を書いたりした。鈴木君の去来は、まことに端倪たんげいすべからざるものであったが、一転する毎にはくをつけ、貫禄を供え、社会運動の闘士として大きくクローズアップされるようになったのである。
 戦争中新宿駅で逢った時は、憲兵かなんかに追われている時で、鈴木君もはなはだ落ち着かぬ様子であったが、互いに肩を叩いて別れたが、間もなく戦争は終り、世の中が変わって、鈴木君は新時代の政治家、新しい指導者として華々しくわれ等の前に立っていた。
 この人の特質は、いろいろ数え挙げられるだろうが、青年時代の印象からいえば、政治家よりはむしろ、文学者になりそうな、敏感な青年であった。二十歳代は文章も美しく、恐らく心掛けさえすれば、なんでもやり遂げることができるたちの人であったかもしれない。
 前にも書いたが、今から数年前、捕物作家クラブが、浅草の花屋敷に半七塚を建てた時、吉田首相と広川弘禅氏などの花輪を飾ったから、この催しが一党一派に偏しないように、社会党からも貰ってくれないかという作家クラブの幹部からの申し出があった。もう半七塚除幕の日が迫っていた。私は長い間交渉も往来もなかった鈴木君に、その時久し振りで電話をかけた。
 鈴木君はすぐ電話へ出て来た、そして私の言葉が終るか終らないうちに「あ、いいともぜひ僕の花輪も並べてくれ、俺も銭形平次の愛読者の一人だよ」そういう鈴木君の声は好意にはずんでいた。鈴木委員長は(その頃書記長だったかもしれない)その実、シェクスピーアの愛読者であったかもしれず、あるいはツルゲネーフの愛読者であったかもしれない、しかし深夜の電話口ですっかりはずみ切って「俺も銭形平次の愛読者だよ」といってくれる心根は嬉しいではないか。


 銭形平次に関心を持つといわれる吉田首相は、書斎や事務室でなく、寝室で催眠薬の代わりに読んでくれるとも伝えられている。私にとってはなお有難いことである。これに対して右と左と政界の立場は違っても、一方の読者に鈴木茂三郎君を持つことは、対照の面白さだけでも私を鼓舞する。芦田均君が、美しき夫人をもって、愛読者を代表さしてくれたのも、この際決して悪いことではない。総理大臣の読書という題目が出るたびごとに新聞に雑誌に、吉田首相を苦笑させているに違いない銭形平次、まことにお気の毒でもあるが、再びジェラルディン・ファーラーの啖呵たんかを拝借して「こいつは案外宣伝効果があったワイ」と、ガラッ八のごとく私はあごでるのである。


 大政治家の読書というものは、昔からうるさい問題になっている。銭形平次をプルタークスの『英雄伝』に入れ換えたところで、今の御時世では、総理大臣を偉大にするみちではあるまい。
 街のこびを売る女たちに、愛読の書を書かせると、何十パーセントかはジイドの『狭き門』だということである。愛読書の欄に記入された本が、高尚になればなるほど、それは読まない本にきまっているからである。政治家の読書というのは、六つかしい問題である。本は読むに越したことはないが「書を読んでことごとく信ずるは書無きに如かず」で、本を沢山読んでエライと思うのは、飯を沢山食ってエライと思う思想と、あまり大した違いはない。この世の中に存在する人間の中で「物識ものしりと称する人間ほどイヤなものはない」と私は考えているほどである。本を沢山読んだから、エライ政治家になれると思うのは、飯を沢山食うから英雄になれると思う考え方と同じことだ。
 一つの面白い例がある。大正の初年ごろ、私が若い新聞記者として訪問した、ある進歩的な大政治家の書斎に、その頃流行はやった、一冊金十銭の「早わかり本」が、かなりうずたかく積まれているのを見て、胆をつぶしたことがある。「社会主義早わかり」「相対性原理早わかり」など、十銭で最上最高の知識を供給してくれると信じているらしい、日本の大政治家などというものは、大変なものだと思ったからである。
 だが、一面、その「早わかり本」の愛読者なる政治家が、その頃最も新しい政治家で、生涯のうちに、かなりの良い仕事をしてくれ、人のためにも、国のためにも、大きな手柄を立ててくれたことを考えると、ダイジェスト智恵や「早わかり本」の手柄も満更まんざらではなかったという結論が生み出せないこともないわけである。
 大正の初年は、そういうものであり、それでよかったのでもある。それに比べると、今の政治家は学識も教養も格段の違いがあることは、私が改めて証拠を持ち出すまでもなかろう。芦田君がチェホフを持ち出した如きは、まだまだやさしい。私の知っている範囲の政治家にさえ、なかなかの文化人が、どんなに多数いるか、勘定し切れないほどである。
 吉田首相は好んで英文の探偵小説を読むということである。コナン・ドイルを知ることは、英国の紳士のたしなみであり、その寝室の小卓の上に、アガサ・クリスティを置くことは、少しも恥ずかしいことではない。
 国会図書館長の金森徳次郎氏は、これも私の昔の同窓の一人で、篤学達識とくがくたっしきのつわものだ。先年アメリカ諸図書館を見学して、ある国会図書館へ行った時、館の事務員の一人に「議員さんたちはどんな本を読むのか」と訊ねると、事務員は肩をそびやかして、こう答えたということである。「大抵は探偵小説ですよ」――と。それで良いではないか。日本の政治家たちは、つかみ合いの喧嘩はするが、気のきいた探偵小説を読む人はあまりないらしい。コナン・ドイルが読めて、あの味がわかる人が多くなったら、日比谷の空気ももう少し寛闊聡明かんかつそうめいになるのかもしれない。その時は「銭形平次」などは、束ねて包んで、物置の中へほうりこんでもうらみはない。
 ムト金という代議士があった。四十年も前のことである、外交質問をぶって「英国のジェノア」といって、議場で哄笑こうしょうを招いた男である。その勇敢なる代議士が、その頃の政友会の幹部室で、葉巻をくゆらしながら「この節の新聞記者は、無学で無知で話にならない、一つ国家が新聞記者の資格試験をやったらどうかね、ハッハッハッ」と太鼓腹たいこばらをゆすって笑ったことがある。若い新聞記者であった私はフトその部屋に居合わせて、あまりのことに腹を立て「お言葉だが、新聞記者は無学で不勉強かはしらないが馬鹿じゃ勤まらない、それより先に、代議士の資格試験をしたらどうだ」とやった。ムト金代議士一句もなかったことはいうまでもない。この対話を聴いていたものに、前田蓮山君や里見謹一君や後の何やら次官になった青木精一君その他五六人の新聞記者がいたように思う。
 その頃から見ると、議員の質も向上し、立派な人物も非常に多くなったことは事実である。だが、下劣な野次やじと、乱闘はますますはなはだしく、議場の混乱は年と共にひどくなるばかりだ。新聞記者の方は、東京の大新聞の採用試験はますます峻厳を極め、近頃では百人に一人、千人に一人という採用率になっているらしい。妙な世の中だと思う。
 政治家の読書が妙な話に脱線してしまったが、決して決して、小著「銭形平次」を読む政治家がエライというわけではない、くれぐれも誤解のないように願いたい。





底本:「銭形平次捕物控(六)結納の行方」嶋中文庫、嶋中書店
   2004(平成16)年10月20日第1刷発行
底本の親本:「銭形平次捕物全集 別巻」同光社
   1954(昭和29)年
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2015年9月1日作成
2019年11月23日修正
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