銭形平次捕物控

雪の精

野村胡堂





 昼頃から降り続いた雪が、宵には小やみになりましたが、それでも三寸あまり積って、今戸いまどの往来もハタと絶えてしまいました。
 越後屋佐吉えちごやさきちは、女房のおいちと差し向いで、長火鉢ながひばちに顔をほてらせながら、二三本あけましたが、寒さのせいか一向発しません。
「銭湯へ行くのはおっくうだし、按摩あんまを取らせたいにも、こんな時は意地が悪く笛も聞えないね」
「お前さん、そんな事を言ったって無理だよ、この雪だもの、目の不自由な者なんか、歩かれはしない」
 そんな事を言いながら、ちょうど三本目のしずくを切った時でした。ツイ鼻の先の雨戸をトン、トン、トンと軽く叩く者があったのです。
「おや――」
 お市はひざを立て直しました。宵とはいってもこの大雪に、往来の方へ向いた、入口の格子こうしを叩くならまだしも、川岸かしへ廻って、庭の木戸から縁側の雨戸を叩く者があるとすると、全く唯事ただごとではありません。
「どうしたんだい」
 と、佐吉。
「雨戸を叩く者があるんだよ。こんな晩にいやだねえ、本当に」
「開けてみな、むじなたぬきなら、早速煮て食おうじゃないか。酒はまだあるが、さかなときた日には、ろくな沢庵たくあんもねえ」
 佐吉は少し酔っているせいもあったでしょう。爪楊枝つまようじで歯をせせりながら、太平楽をめますが、いくらか酒量の少ない女房のお市は、さすがに不気味だったとみえて、幾度も躊躇ためらいながら、それでも立上がって、雨戸へ手を掛けました。
 同時に、もう一度トン、トン、トンと軽く叩く音、続いて若い女の声で、
「ここを開けて下さいな――」
 と、大地の底から響くような細い声が、ハッキリ雨戸の外に聞こえるのです。
「誰だえ」
 お市は心張棒しんばりぼうを外すと、思い切ってガラリと開けました。
 角兵衛獅子かくべえじしの親方を振り出しに、女衒ぜげん真似まねをやったり、遊び人の仲間へ入ったり、今では今戸に一戸を構えて、諸方へ烏金からすがねを廻し、至って裕福に暮している佐吉の女房です。鬼の亭主に鬼神おにがみで、大概たいがいの物に驚くような女ではありませんが、この時ばかりは全くギョッとしました。
 外は真っ白――。
 人間はおろか、貉も狸もいる様子はなかったのです。
 好い加減に積った雪は、狭い庭を念入りに埋めて、その上に薄月うすづきが射しているのですから、その辺には、物のくまもありません。ひさしの下はほんの少しばかり埋め残してありますが、物馴れたお市の眼には、そこに脱ぎ捨ててある、沓脱くつぬぎの下駄までハッキリ読めるのです。
「誰も居はしない。変だねえ」
「そんな事があるものか、今も人の声がしていたじゃないか」
「そう言ったってお前さん、猫の子もいないよ」
 お市はそう言いながら、戸袋に左手でつかまったまま、まだサラサラと降る雪の中へ、何の気もなく顔を突き出したのでした。
「あッ」
 恐ろしい悲鳴。
 驚いて佐吉が立上がった時は、お市の身体は、もんどり打って、雪の庭へ――、真っ逆さまに落ちてしまったのでした。
「何て間抜けな事をするんだ。怪我けがをしないか」
 佐吉はそう言いながら、縁側へ飛出して差し覗くと、お市の身体は雪の中に転落して、ノタ打ち廻りながら、
「お化けだッ」
 からくもそう言ったきり、がっくり崩折くずおれてしまった様子です。見ると、頸筋くびすじから噴き出した恐ろしい血潮が、お市の半身と、その辺の雪を物凄ものすさまじく染めておりますが、見渡したところ、縁の下にも、庭の中にも、お化けはおろか、人間のかけらも見えません。
 佐吉はそれでも、ようやく気を取直して、女房の身体を縁側へ抱き上げましたが、いつの間にやら、行灯あんどん蹴飛けとばして、あかりを消してしまった事に気が付きました。
「おこま、大変だッ、を持って来い」
 少し離れているお勝手へ怒鳴どなると、
「ハ、ハイ」
 居眠りでもしていたらしい、下女のお駒は、手燭てしょくを持って飛込んで来ましたが、その時はもう、何もかも済んでおりました。お市はすっかりこと切れて、三十女の豊満な肉体を、浅ましく歪めたまま夫の膝に抱き上げられ、越後者の、身体だけは丈夫そうな下女のお駒は、手燭を持ったまま、ガタガタふるえているのでした。


「八、こういうわけだ。石原いしはら兄哥あにきの縄張だが、利助兄哥はあのとおり身体が悪くて、娘のおしなさんが代って仕事をしている有様だから、どうすることも出来ない。それに、越後屋佐吉という人が自分でやって来て、相手が人間だか化け物だか知らないが、あんまり人を馬鹿にしたやり口だから、何とでもして女房のかたきを討ってくれという頼みだ」
 捕物名人銭形の平次は、子分の八五郎――一名ガラッ八へ妙にしんみりした調子で話して聞かせました。
 少し人間は半間はんまですが、案外鼻の利く八五郎に、少しでも事件を扱わせて、行く行く立派な御用聞に仕立ててやろうという平次の腹でしょう。
「親分、大変面白そうだが、下手人は一体何でしょう」
「それが解らない」
鎌鼬かまいたちか何かじゃありませんか」
 小さい旋風せんぷうが空中に真空の場所を作るために、そこへ行合わせた人の皮肉を破って、体内の空気が出ることがあるのを、昔は鎌鼬または神逢太刀かみあいたちと言って恐れたものです。
「相変らずお前はお先っ走りだね、庭の雪には下駄の跡があったんだよ」
「ヘエ――」
「鎌鼬がまさか下駄を履いて来はしまい」
 と、平次。
「それじゃやはり人間かな」
 どうもはなはだ血の廻りが宜しくありません。
「お市とかいう女房の喉笛のどぶえを下から飛付いて掻き切ったんだ。とにかく人間には相違ないだろう」
「佐吉夫婦にうらみのある人間はありませんか」
「ありすぎるほどだ」
「厄介な野郎だネ」
「角兵衛獅子の親方と、女衒ぜげんと、金貸しをやってたんだ。どこに敵がいるかわかるものか」
「ヘエ――」
「ここで考えたって始まらないよ。とにかく、行ってみるがいい、思いの外手軽に解るかも知れない」
「親分は?」
「俺はそれからの事にしよう。他に用事もあるから、とにかく、今戸の殺しはお前に任せるよ。いいかい、ガラッ八」
「弱ったなア」
「弱ることがあるものか、八五郎もこの辺が手柄の立て所じゃないか」
「そういえばそれに相違ないが」
 子分思いの平次は、これほどの手柄を、ガラッ八に譲ってやるつもりでしょう。二つ三つ肝腎な注意をすると、わが子の初陣ういじんを送り出す親のように、緊張した心で今戸の現場へ送り出してやるのでした。
 ガラッ八が越後屋へ着いたのは、事件のあったあくる日の昼頃、係り同心が町役人と一緒に引揚げた後で、お市の死体は奥の一と間へ寝かし、三輪みのわの万七という顔の古い御用聞が、二人の子分と、振舞酒ふるまいざけに酔って、ボツボツ引揚げようという間際でした。
「お、八兄哥あにいか、大層鼻が良いんだネ」
 と万七。まさか主人の佐吉が、親分の平次へ頼みに行ったとは知りません。相手が甘いとみて、少しからかい面になります。
「三輪の親分御苦労様で、――石原のが身体が悪いんで、あっしが申し訳だけに覗きに来ましたよ。三輪の親分が居て下されば、ここから帰ってもいいくらいのもので、――へッへッへッ」
 これは、親分の平次に、万一、三輪の万七に逢ったらこうとくれぐれも教わってきた口上。まことに行届いておりますが、お仕舞のへッへッへッだけが余計です。
 そう言われると、万七も悪い心持はしなかったのでしょう。それに、どっちにしても石原の利助の縄張うちで、八五郎をからかいすぎるわけにもいかず、もう一つは、事件がいやに神秘的で、容易に見当が付きそうもないと思ったのでしょう。
「そう言われると年寄りの出しゃ張る幕じゃないようだ。八兄哥、話は聞いたろうが、どうもこの殺しは見当が付かないぜ」
 そう言いながら、二人の子分と顔を見合わせて、妙にニヤニヤしております。
 意地の悪そうな四十男。世上のうわさでは、二足の草鞋わらじも履いているという話。八五郎の相手には、少し荷が勝ち過ぎます。


 越後屋佐吉というのは、四十を越したばかりの、北国者ほっこくものらしい鈍重どんじゅうなうちに、なんとなくしたたか味のある男ですが、女房が不思議な殺されようをしたので、さすがに、すっかり度を失っております。
 早速八五郎を一と間へ案内して、北枕きたまくらに寝かしてある、女房お市の死体を見せてくれました。覆いを取ると、斬られて死んだ者によくある、白蝋はくろうのような感じのする顔で、年の頃三十五六、神経質な口やかましい女ということは、八五郎にもよく受取れます。
 傷はくびの右の方から喉笛へかけて、斜め一文字に深々と口を開いて、見るも不気味な有様、これでは一たまりもなかったでしょう。
「血が出ましたか」
「出たの出ないの――庭の雪が真っ赤になりましたよ」
 有名な銭形の平次が来ずに、少し好人物らしい子分の八五郎が来たのが、佐吉のしゃくにさわったのでしょう、物の言いようが少しばかり、突慳貪つっけんどんです。
「フーム」
 ガラッ八はうなりました。
「八兄哥、血のことを気にするようじゃ、鎌鼬かまいたちという見当だね。鎌鼬は傷の深い割に血の出ないものだっていうが、江戸は上様うえさまのお膝元で、鎌鼬は昔から出ねえことになっているぜ」
 と首を出した万七、冷笑気味な口吻こうふんですが、馴れた目だけに、どこか鋭いところがあります。
「…………」
 ガラッ八は黙って点頭うなずきました。鎌鼬でないことは、親分の平次にも言われましたが、傷口のり具合があまりに見事だったので、ツイ自分の最初の心に立ち返ったのでした。
「それによ、八兄哥。左利きの鎌鼬ってものはあるめえ」
 万七は言い得て妙といった顔で、死体の右の頸筋――人間の手で上から切り下げた、斜めの傷口を指すのでした。
「曲者は下駄を履いていたそうですね」
 とガラッ八。
「踏み荒らしてしまったが、まだ庭に雪がありますから、見当ぐらいは付きます。こうお出でなさい」
 佐吉に案内されて、次の間へ行くと、縁側に近く長火鉢を置いて、すべての調度は昨夜のまま、障子を開けて一と目庭を見ると、なるほどさんざんに踏み荒らしましたが、消え残る雪の上には、血ともすすとも付かぬ程度に、薄赤い斑点はんてんが見られないことはありません。
「下駄の跡は一人でしたか」
「庭の中にはかなり足跡もありましたが、みんな同じ歯の跡で、木戸から入って出たのは一人分だけでしたよ」
 ガラッ八も途方にくれました。十坪ばかりの狭い庭には、亭主の殺風景な性格を反映して、石一つ、植木一本ない有様、わずかに戸袋の側の手洗鉢ちょうずばちの下に、南天なんてんが一株ありますが、それといっても、人間が潜りもどうも出来るほどのものではなく、狭い場所一パイに建てた家で、たった一つの庭木戸のほかには、往来へ出る道も、表へ廻る路地もありません。
「木戸の向うは川岸かしぷちの往来ですね」
「そうですよ、あの雪で昨夜ゆうべは人通りも少なかったようですが、それでも宵のうちですから、チラホラ、通らないことはありません」
 と佐吉。
「この辺に、お前さんをうらんでいる者はありませんか」
「ありますよ、どうせ良く言われっこのない性分で、町内の人が皆んな敵みたいなものでさア――」
 少し言い草は乱暴ですが八五郎の半間な調子にごうを煮やしたせいもあったでしょう。佐吉は忌々いまいましそうに舌打ちをしました。


雇人やといにんは?」
「二人いますよ。一人は越後者で、お駒という下女、一人は房州者ぼうしゅうもので、これは借金の取立てや使い走りをさせておりますが、与次郎よじろうという男。もっとも、この与次郎の方は、町内の銭湯へ行っていて、女房が殺された時は家に居ませんでしたよ」
 佐吉のそう言うのを聞きながら、八五郎は障子を締めると、今度は家の中の間取りを見て廻りました。入口の格子の右が女中部屋で、その先がお勝手、お勝手はすぐ横町の路地へ、木戸一つで通ずるようになっておりますが、御用聞の出入りがあるので、この辺の雪も踏み荒らされております。
 入口をへだてて、左が死体を置いてある部屋、その奥が夫婦の居間で、これは昨夜事件のあったところ、妙な間取りで、座敷か納戸なんどを通らなければ、居間から直接お勝手へは出られません。
 下女のお駒は、流し元で遅い朝飯のお仕舞をしておりました。二十三四の色白の女で、様子もそんなに悪くありませんが、半面の大火傷やけどあとで、顔を見るとがっかりします。
 姉妹きょうだい二人、角兵衛獅子に売られたのを、佐吉が引取ってしばらくかせがせていましたが、角兵衛を廃業してからは、下女にして使って、少しは給金でも溜めさせて、故郷の越後へ帰すつもり――、と佐吉は問わず語りに説明してくれました。
 もっとも、このお駒というのは、妹の方で、姉はおさいといって、大変に良い縹緻きりょうだったが、一年ばかり前に死んでしまった――とこれも佐吉の話。自分の事を噂されながらも、お駒は鈍感な女によくある無関心さで、機械的にお勝手の仕事を続けております。
「お駒さん、昨夜ゆうべは驚いたろう」
 ガラッ八が水を向けると、
「驚いたよ、おかみさんがおっんだんだもの」
 何を当り前な事を――と言わぬばかりの面構つらがまえは、すっかり我が名御用聞の八五郎を憂鬱ゆううつにしてしまいます。
「お神さんの殺された場所で、何か見るか聞くかしなかったかい」
「旦那が大きな声で、あかりを持って来いって言うから、たなの上の手燭へ灯を移して、大急ぎで飛んで行っただよ、何を聞くもんか」
 これでは取り付く島もありません。
 角兵衛獅子をやって歩いたというのは、たぶん十年も前のことでしょう。見たところ、楽な奉公によくふとって、そんな芸当をやった身体とも見えないのです。
 ガラッ八は仕様事なしにお勝手口の外を眺めました。取込んでろくに雪もかなかったのでしょう、下男の与次郎が、浅黄あさぎの手拭を頬冠ほおかむりに、竹箒たけぼうきでセッセと雪を払っております。師走しわすの薄い日に、昨夜の雪がまだ解けそうにもないのですから、仕事をしていると、寒さが骨身にこたえるのでしょう、時々立止まっては、ハアーと拳骨げんこつに息を吹掛けております。
「八兄哥あにい
 後ろから、肩を叩いたのは、三輪の万七。
「何ですえ、親分」
「気が付かないか」
「ヘエ――?」
「それならいい、後で縄張がどうの、石原がこうのって文句は言わないだろうな?」
 妙にからんだ物の言い廻しです。
「下手人の目星でも付きましたか」
「そうだよ。八兄哥、後学のために話そう、あれを見るがいい」
 万七の指したのは、お勝手の外を掃いている、与次郎の箒を持つ手です。
「…………」
「あの箒を持つ手が、恐ろしく不自由なのに気が付かないかい」
「そう言えばそうかも知れませんネ」
「そうかも――じゃないよ、あの与次郎という男は確かに左利きだ」
「えッ」
先刻さっき、下手人は左利きだ――って俺が口を滑らしたのを小耳に挟んで、疑われたくないばかりに、不自由な思いをして右利きのような顔をして、俺達から見えるところで雪を掃いてるんだ。イヤな細工じゃないか」
「なるほど」
 万七に注意されて、そっと与次郎の方へ目を走らせると、箒を持ったのは右手には相違ありませんが、なるほど不自由そうで、その作為のあとが、一と目でわかります。
「主人に聞くと、あの野郎、たしかに左利きだという事だ。ね、八兄哥、御用聞はこういう細かいところへ眼が届かなくちゃ物にならねえよ」
 万七はそう言いながら女物の下駄を突っかけてお勝手口へ出る。
「与次郎とかいったネ、ちょいと訊きてえことがある、番所へ一緒に来て貰おうか」
 釘抜くぎぬきのような手が、ピタリと、箒を持つ手頸に掛りました。
「あっ、何をするんだ」
 立ちすくんだ与次郎、浅黄の頬冠りこそしておりますが、苦味走った三十男、咄嗟とっさの間に、万七の手を振りもぎって逃げようとすると、
「御用ッ」
「神妙にしろッ」
 路地から二人の子分が疾風しっぷうのごとく飛込んで来るのでした。


 万七にしてやられて、ガラッ八の八五郎は、驀地まっしぐらに神田へ取って返しました。
「親分どうかしておくんなさい。あっしはこんな恥を掻かされたことがない」
「馬鹿野郎、また何かドジな真似をしたんだろう。見てきた通り、真っ直ぐに話してみな」
 銭形の平次は、八五郎をしかり飛ばして、報告の順序を立てさせました。
「何? 庭には、川岸かしの往来に向いた木戸よりほかに入口も出口もねえ、――銭湯へ行ったと言う、与次郎が疑われるわけだな、足跡の様子では下駄は、女物か、男物か」
「それが時が経っているのと、さんざんに踏み荒らしているから、まるっきり解らねえ」
「仕様がねえなア、銭湯へは行って訊いたろうな、越後屋の女房が殺された時刻に、与次郎が行っていたかどうか」
「そんな事に抜かりはねえ。朝日湯の番台の親爺おやじに訊くと、亥刻よつ(十時)少し前にやって来て、自慢の喉で新内を唸りながら半刻はんとき(一時間)ばかりポチャポチャやっていたって言いますぜ」
「人でも殺そうというほどの野郎なら、わざと半刻ぐらいは下手な新内でも唸っているだろう。後か先に、ほんのちょいと庭口へ廻れば、仕事は済むんだから」
「親分までそのつもりじゃ話が出来ねえ」
 ガラッ八はすっかり悄気しょげてしまいます。
「ところで、死骸の傷は斜め横に真一文字に付いてると言ったね」
「そうですよ」
鎌鼬かまいたちなら、銭形に付くか、筋か骨に沿って曲った傷が付くから、やはり人が切ったに間違いはないね、――ところで、切口の肉は、どんな工合になっているんだ」
「それが可怪おかしいんだよ、親分、恐ろしくって、何かこうまさかりででも割いたような工合だ」
おのや鉞で、のどを割く奴はあるまい、峰の高い刃物――たぶん合せ剃刀かみそりかな」
「えッ」
 合せ剃刀と睨んだのは慧眼けいがんですが、それにしても下手人はますますわからなくなるばかりです。
 平次はとうとう今戸まで出掛けてみる気になりました。三輪の万七の鼻を明かすつもりは毛頭なかったのですが。
「下手人は左利きと聞いて、自分の左利きを隠そうとしたというのはおかしいな。そんな事をしたところで、主人か下女に訊かれれば、すぐ解ることだから、すねに傷持つ者なら、かえってそんな細工はしないはずだ。これは少し面倒なことになるかも知れないよ」
 平次はそう言いながら、ガラッ八を案内に、今戸へ出かけて行ったのです。
 越後屋へ行く前に、近所でいろいろ噂を聞いてみましたが、佐吉夫婦の評判はまことにさんざんで、冗談にも褒める者は一人もありません。
 慾が深くて因業いんごうで、若い時からずいぶん人を泣かせてきた様子ですから、どこに深怨しんえんやいばぐ者があるかもわからない情勢です。
 下男の与次郎が、殺されたお市と何か関係でもあるのではないかという疑いも、一応は持ってみましたが、これも問題になりません。お市は四十近く、与次郎は三十になったばかり、女の方はヒステリックな、どちらかといえば醜女ぶおんなで、与次郎は、こんな仕事をしている者にはもったいないような好い男、町内の娘っ子が大騒ぎをしているばかりでなく、岡場所やけころにぎこぶしで遊びに出かけるほどの色師いろしです。
 金が目当て――ということも考えられますが、それなら、女房だけ殺して、姿を隠したんでは一文にもならず、二度出直す時間もあったはずなのに、それっきり逃げ出してしまったのは、多分、下手人の方でも、人を一人殺して、面喰らったためだろうと思われます。
 平次は一応家の内外を調べた上、いよいよ自分の考えを確かめたらしく、主人の佐吉に何やら耳打ちをして、誰を縛るでもなく、懐手ふところでのまま神田へ帰ってしまいました。

 それから三日目の朝、越後屋の佐吉は、あおくなって、平次のところへやって来ました。
「親分、昨夜ゆうべもやって来ましたよ」
「えッ」
「与次郎が縛られたから、それでいいのかと思うと、あれは三輪の親分の見当違いでしたね」
「どうなすったんだ。詳しく話してみなさるがいい」
 平次も思わずひざを乗り出します。
「こうなんです、――女房のとむらいを済ませて、やれやれと思うと、また雪でしょう。お駒に一本つけさして長火鉢の前でチビチビやっていると、かれこれ亥刻よつ過ぎだったでしょう。庭の雨戸を、またトン、トン、トンと叩く者があるのです」
「…………」
 平次も、側で聞いているガラッ八も、思わず、ぞっとしました。
「しばらく黙っていると、女の細い声で、――ちょいと開けて下さい――と言ったようですが、なにぶんあの騒ぎの後でしょう、頭から水をブッかけられたようになって、恥ずかしい話ですが動くことも出来ません。そのままじっとしていると、それっきりあきらめて帰った様子です」
「…………」
あくる朝、夜の明けるのを待ち兼ねて、庭を開けてみると、下駄の跡が一パイ」
 佐吉はゴクリと固唾かたずを呑みます。
「それは面白くなって来た――越後屋さん、帰ったら、近所中へこう言いふらして下さい――昨夜も変な野郎が来て今度は俺をおびき出そうとしたが、雪のせいで腹が痛くて顔を出せなかった。今度来たら、キッと女房の下手人の顔を見定めてやるから――と」
「少しも面白くはありませんが、やってみましょう。だが、私はもう一度来ても、顔を出すのは御免をこうむりますよ」
 したたか者らしい佐吉も、この「見えざる敵」にはすっかりおびやかされた様子です。
「大丈夫、相手は雪の晩でなきゃア来ないと解ったようなものだから、この次の雪の降る晩に、私か八五郎が、そっと戌刻いつつ(八時)前から行って庭口から入れて貰いましょう。それなら心配はないでしょう」
「ヘエ――、まア、そうまでして下されば」
 佐吉は呑込み兼ねた様子で帰って行きました。


 よく雪の降った年ですが、それから七日ばかりは晴続き、押詰って、二十四日、夕景から催した雪が、宵には綿を千切って叩き付けるような大降りになりました。
 越後屋から迎えを待つまでもなく、ガラッ八は今戸へ駆け付け、庭口からそっと例の部屋へ入り込みました。
 飲み物も食い物もフンダンに用意させましたが、人が来ることは誰にも話させず、下女のお駒も、宵のうちから床へ入れて楽寝をさせ、佐吉一人、淋しく待っているところへ、八五郎が行ったのですから、佐吉の喜びというものはありません。
 半分は手真似てまねで物を言って、長火鉢を間にした差向い、妙に黙りこくって飲んでいると、やがて、亥刻よつ(十時)過ぎ。
 雨戸は一種のリズムを持って、トン、トン、トンと鳴ります。八五郎は懐の十手を抜いて、そっと立上がると、
「待って下さい。私の顔を先に見せなきゃア、逃げるかも知れません」
 佐吉もすっかりきもが坐った様子で、八五郎を押えると、雨戸へ手を掛けてサッと押し開けました。
 闇から湧き上がったように、サッと吹込む一団の吹雪ふぶき、それに包まれると見るや、
「あッ」
 佐吉は額を押えて縁側へ倒れました。
曲者くせものッ」
 続いて飛出す八五郎、一気に闇の庭へ、跣足はだしで飛降りましたが、四方は塗りつぶしたような大吹雪で、黒い犬っころ一匹見付かりません。
 引っ返してみると、額から頬へ見事に斬り割かれた佐吉、ようやく起き直って、血だらけな半面を両手で押えているのでした。
 それからの騒ぎは書くまでもありません。幸い傷は浅かったので、用意の焼酎しょうちゅうで洗って、さらしでグルグル巻くと、寝呆ねぼけたお駒を叩き起して、町内の外科を呼ばせました。
 少し落着いたところで、いろいろ訊いてみましたが、ただ、雨戸を開けると同時に、一団の白い吹雪を顔へ叩き付けられたように覚えると、額から頬へ、焼鏝やきごてを当てられたように感じて引っくり返ったというだけの事、誰が斬って、どうして逃げたかまるっきり見当も付かない始末です。
 翌る朝、神田から銭形の平次が駆け付け、三輪の万七もやって来ましたが、庭の足跡は、踏み荒らされない代り、今度は雪に埋まってしまって、八五郎が入ったのも定かでない有様、曲者はどこから来て、どこへ逃げたか、嗅ぎ出す手掛りというものは一つもありません。
 さんざん責めたが、何としても白状をしない与次郎は、これを機会しおに許されて帰りました。お市を殺したのも、佐吉を襲ったのも、手口は全く同じことですから、三輪の万七も、このうえ与次郎を責める口実もありません。
 それに、銭形の平次は、
「三輪の、そう言っちゃ済まないが、下手人は左利きじゃないよ」
 と言い出したものです。
「えッ、どうしてそんな事が解るんだ」
 万七の唇は少しとがりますが、平次は事もなげに、
「刀か脇差だと、これは左利きのわざだが、傷の工合じゃ、どうしても得物えものは合せ剃刀かみそりだ。ネ、そんな短い物で人の命でもろうとすると、逆手さかてに持たなきゃア役に立たないよ。右の喉笛や、右の頬を、斜めに斬り下げたのはそのためだ。突き傷のように、恐ろしい力で下へ斬り下げているだろう」
「なある――」
 三輪の万七、一言もありません。
 しかし、右利きとわかったところで、下手人の当りが付いたわけではありません。右利きは左利きの十倍もあるのですから、わずかに、与次郎が下手人でないということが、消極的に解っただけの事です。


 その時、妙な者が訪ねて来ました。
「銭形の親分さんが来ていなさるそうですが、ちょいとお目にかかって申上げたいことがあります」
 お駒に取次がせたのは、この辺に網を張って、吉原へ通う客を拾う辻駕籠つじかごの若い者、――といったところで、四十過ぎの世帯しょたい疲れの目立つ、不景気な駕籠屋が二人でした。
「私に用事というのは、お前さん達かい。取込み中で、お通しは出来ないが、ここで聴かして貰いましょう。どんな事なんだい」
 銭形の平次は、上がりかまちへ煙草盆をブラ下げて来て、お駒に座蒲団などを持って来させました。
「昨夜、実は妙なことがあったんです。――言おうか言うまいか、相棒とも相談したんですが、此家ここのお神さんが殺されたり、旦那が怪我をなすった――ことを聞くと、黙ってもいられません」
「そうともそうとも、気の付いた事があったら、何でも話した方がいい。決して掛り合いなどにはならないようにしてやるから」
「有難うございます、実はこうなんで、親分さん――」
 年取った方の駕籠屋の話というのは、実に奇怪を極めました。
 ――昨夜、亥刻よつ少し過ぎ、この二町ばかり先の稲荷いなりほこらの前で、降る雪をしのぎながら、少し小止みになったら、馬道の方へでも出て、吉原通いの客を拾おうと相談をしていると、どこから出て来たか、チョコチョコと現れた一人の娘が、白い手拭てぬぐいを吹き流しにかぶって、観音様まで大急ぎでやってくれと言ったのだそうです。
 どうせ帰り道、相手は新造しんぞうですから、賃銀ちんぎんなんかいいかげんにめて、駕籠のたれを上げると、娘は小風呂敷包みを持ったまま、馴れた調子でポンと乗りましたが、わざわざ寒い川岸を通らせて此家ここの裏口のあたりまで来ると、急に用事を思い出したから、ここで降ろしてくれ、と言うのです。
 争うほどの事でもないので、そのまま駕籠を停めたのは、ちょうど此家ここの裏口、垂を上げると、中から出たのは、先刻の松坂木綿まつざかもめんらしい粗末な綿入れを着た娘とは似も付かぬ、縮緬ちりめん白無垢しろむくを着て、帯まで白いのを締めた、鷺娘さぎむすめのような、凄まじくも美しい新造だったというのです。
 狭い駕籠の中で、どうしてそんな早変りが出来たか、渡世の駕籠屋も想像が付きません。とにかく、急に臆病風に誘われて、定めた駕籠賃ももらわずに、山の宿しゅくの方へ一散に逃げ出してしまったという話――。
「親分さん、お狐様か雪娘か知りませんが、どうもろくなもんじゃございませんよ。御用心なさいまし。ヘエヘエ――こんなにお駄賃だちんを頂いてはすみません」
 二人の駕籠屋は、余分の駄賃を貰った上、所、名前を言って帰ってしまいました。
「ね、銭形の、こいつは鎌鼬かまいたちじゃなくて、お稲荷様かも知れないぜ。主人は鳥居へ小便でも掛けたことがあるんじゃないか」
 万七は妙にニヤリニヤリしておりますが、平次はそれを聞くと、追っ立てるように外へ飛出しました。
 裏口は往来をへだてて大川。
 もう少し先へ行くと都鳥みやこどりと、瓦屋かわらやが名物ですが、この辺はまだ町の中で、岸にはいろいろのゴミが、雪と一緒に川面かわもを埋めております。
「八、物干竿ものほしざおを一本借りて鳶口とびぐちゆわえて来い」
「ヘエ――」
 持って来た二間竿。
 先に鳶口を付けて、川面の雪と雑物とを掻き廻して行くと、間もなく妙なものが引っ掛りました。
「おやッ」
 引上げてみると、少し碧血あおちに染んだ白無垢。紐で縛ってありますが、ほどくと、まぎれもない上質の白縮緬で、白羽二重帯まで添えてあるのです。
「おやッ、これはおとむらいで着るのとは違うぜ」
 と万七。
吉原なかで、花魁おいらん八朔はっさくに着る白無垢だよ。三輪の、お狐様じゃないようだね」
 平次はそう言って、考え深く水漬みずづかりの白無垢をひろげました。


 白無垢は出ましたが、下手人はそれっきりわかりません。娘を乗せて来たという駕籠屋まで引っ張り出して、来た道を逆に、稲荷のやしろまで探して行きましたが、その辺には、佐吉の烏金からすがねを借りて、ひどい目に逢わされている家は、門並かどなみの有様ですから、どこの娘をしょっ引いていいのか、縛ることを好きな万七も、手の下しようがなかったのです。
 佐吉のために、身を売った娘もあろうし、女衒ぜげんの真似をしている時、さんざん人も泣かせたはずですから、うらみを買った覚えはかぞえ切れないほどあるでしょうが、しかし、八朔の白無垢を着て、雪の夜に吉原から忍んで殺しに来るほどの大胆な花魁があろうとは想像も出来ないことです。
 佐吉の傷は間もなく平癒へいゆし、お駒と与次郎は、相変らず忠実に勤めておりますが、それからは、別に変ったこともありません。もっとも、佐吉が強慾ごうよくで、二人の給金を何年越し払わないそうで、イヤな思いをしても、急に飛出すわけにはいかない事情もあったようです。
 その次に雪の降ったのは、明けて翌年の正月十三日。この時は朝から粉雪こゆきが降り続いて、夕刻には、三寸ばかり積り、それからカラリと晴れて、大変な美しい月夜になりました。
「今晩きっと下手人を探してお目に掛けますから、掛り合いになった人を、皆んな集めておいて下さい」
 平次からの使いで、八五郎が越後屋へそう言いに行ったのは夕景。それから支度に取りかかって、三輪の万七とその子分、銭形の平次とガラッ八、それに与次郎とお駒、主人の佐吉、これだけ集めておいて、いつぞやの駕籠屋二人に、酒手さかてをやって稲荷様の前に網を張らせ、浅草へ行く娘でなければ、乗せてはならぬと言い付けておきました。
 相変らず酒が出ます。お勝手も入口も締めず、用心が悪いようですが、名代の御用聞が二人いるのですから、空巣狙いの心配もなく、今晩は例の居間の長火鉢の前へ、一人残らず集まってしまいました。
 亥刻よつ少し過ぎ、何となく夜の寒さが、背に沁み渡る頃、みんなが期待した通り、――
 トン、トン、トン、
 雨戸は鳴ります。一同はぞっと顔を見合せました。続いて、
「ちょいと、ここを――」
 と、細い女の声。佐吉も子分達もガラッ八も与次郎も顔色を失いましたが、一向平気なのは銭形の平次だけ。中でもお駒は袖に顔を埋めて、畳の上に突っ伏してしまいました。
「さア、お駒さん。お前でなきゃアならない事がある。行ってあの雨戸を開けるんだ」
 と、平次、ガタガタふるえているお駒を抱き起すように、縁側へれ出しました。
 続いて、万七、佐吉、ガラッ八、与次郎。
「お駒さん、しっかりするんだ。あれは、お前のあねさんのおさいだよ、玉屋小三郎たまやこさぶろうかかえ、一時は全盛をうたわれた玉紫花魁たまむらさきおいらんだ。怖がることはない」
「あれッ――」
 お駒は振りもぎって逃げようとしましたが、平次は後ろから羽交締はがいじめにして、離そうともしません。
 続いてまた、トン、トン、トン、と叩く音、いんこもったその物凄さというものは――。
「お駒さん、あれ、あれ、お前の姉さんが呼んでいるじゃないか。越後屋佐吉――ここの主人に、角兵衛獅子で何年となくいじめ抜かれた上、年頃になって、光り輝くように美しくなると、自分の娘分にして、玉屋へ年いっぱいに売り飛ばされ、その上、佐吉夫婦が、しぼって、絞って、絞り抜いて、悪い病気にかかって、身動きの出来なくなるまで絞り取られた姉のお才だ」
「…………」
 平次の言葉は、物凄い空気の中に、地獄の判官の宣告のように響きました。
「お前の姉が、佐吉夫婦をうらんで、糸のように痩せ細った身体で、くびくくって死んだのは、ちょうど一年前。佐吉夫婦を怨んで、よく似合うと言われた八朔はっさく白無垢しろむくを着て、雪の夜を選んで仕返しに来るのも無理はない。――これだけ話せばあの外から雨戸を叩くのは、誰だかよく解るだろう。さア、お駒、怖がることはない。思い切って開けてみるがいい。そら、また叩いているじゃないか――」
 何という恐ろしい緊張でしょう。主人の佐吉は積悪せきあくに責めさいなまれるように、縁側へ崩折れてガタガタふるえ、ガラッ八も、与次郎も、万七でさえも、顔色を失って、成行きを見詰めるばかりです。
「お駒、お前が開けなければ、俺が開けてやる。それ」
 平次の手は雨戸にかかると、アッと言う間もなく一枚引開けましたが、外は、雪の上に照る十三夜の皎月こうげつ。狭い庭はたった一と眼に見渡されますが、物のかげもありません。
「玉紫の花魁。よく聴くがいい、お前の妹のお駒は、一生困らぬだけの金を持たせて、明日にも故郷の越後へ帰してやる。もうここへ出ちゃならえぞ、解ったか――南無阿弥陀仏」
 平次が月の庭へ手を合せて拝むと、お駒も、佐吉も、ガラッ八も、釣られたように、念仏をとなえて、白々とした庭を眺めやるのでした。

 あくる日、お駒はたまった給料を受取った上、ほかに手当百両を貰い、平次とガラッ八に送られて、故郷の越後へちました。確かな道伴みちづれを見付けて、板橋から別れる時、
「親分、この御恩は忘れません」
 お駒は何べんも何べんも繰り返して、江戸へ引返す平次の後ろ姿を拝んでおります。半面大焼痕おおやけどの女ですから、道中もまず無事でしょう。平次は重い荷をおろしたような心持で、ガラッ八と一緒に帰って来ました。
「ね、親分、あの下手人は玉紫とかいう花魁の幽霊なんですかい」
 とガラッ八、少し獅子ししぱながキナ臭くうごめきます。
「馬鹿ッ、幽霊が人を殺してたまるもんか」
「すると」
「お前だから話すが、人に言うな、あれはみんな、お駒の細工さ」
「ヘエ――」
「お勝手からそっと出て、遠廻りして庭木戸を入って、姉のあだを討つつもりだったんだよ。帰る時は身体が軽いから、羽目を越して下肥汲しもごえくみの通る細い路地から、アッという間に自分の部屋へもぐり込んだのさ――」
「白無垢で、雪の晩だけねらったわけは?」
「白無垢は姉の形見さ。あんなものが、玉屋から届いたガラクタの中にあった事を、佐吉も気が付かなかったんだ。稲荷様へ行って、駕籠へ乗って中で着換えたのは、わざわざ遠方から来た、怪物えてものに見せようという細工さ。あの女はあれでなかなか馬鹿じゃないんだよ」
 平次の話は明快ですが、たった一つ、まだガラッ八にも解らないことがあります。
昨夜ゆうべのはすると誰です。お駒も中に居たはずだから――」
「馬鹿だなア、お品さんは、そんな事にかけちゃ、申分のない役者だよ。稲荷様から辻駕籠に乗って、お駒がやったとおりに運んだまでの話さ――そうでもしなきゃア、佐吉は百両という大金を出す気にならないだろうし、いつかはお駒が下手人ということが解って、三輪の万七兄哥あにきなどに縛られるよ」
 昨夜の白無垢は、石原の利助の娘のお品とは、佐吉も万七も、当のお駒も気がつかなかったでしょう。
「ヘエ、そんな事をしてもいいんでしょうか」
「何をつまらない。御法度ごはっと敵討かたきうちさえ、筋が立てば、大ビラにやらせる世の中じゃないか。姉妹二人十何年も死の苦しみをめさせられて、その上姉が首をったんだ。その仇を討った妹を縛れって言うなら俺は十手をお上へけえすよ」
 平次は感慨深くそう言いました。滅多に人を縛らぬ、一名縮尻しくじり平次は、こうして「雪の精」を見逃してしまったのです。





底本:「銭形平次捕物控(八)お珊文身調べ」嶋中文庫、嶋中書店
   2004(平成16)年12月20日第1刷発行
底本の親本:「銭形平次捕物百話 第七巻」中央公論社
   1939(昭和14)年5月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1932(昭和7)年12月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2017年6月25日作成
2019年11月23日修正
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