深川の材木問屋
三千両の小判は三つの千両箱に詰められ、主人治兵衛の手で封印を施し、番頭の
「悪い雲が出て来たね、鳶頭、この辺で夕立に降り込められるより、一と思いに
番頭の源助はそう言いながら、額の汗を拭き拭き、お
「この空模様じゃ
辰蔵は釣台を
同時に、ピカリ、と凄まじい稲光り、灰色に沈んだ町の
「あれッ」
ちょうどその時、――
「
「引っこ抜いたぞ」
「危ないッ、
「わッ」
という騒ぎ。両国広小路の人混みの中に
「どうした、
「喧嘩ですよ、浪人と遊び人で」
「荷物が大事だ、中へ入れろ」
「ヘエ――」
もっとも釣台を
鳶頭の辰蔵は、釣台の上に掛けた
続いて、もう一と打、二た打、すさまじい稲光りが走ると、はためく大雷鳴、耳を覆う間もなく
向う側の家並も見えないような雨足に叩かれて、ムッと立昇る土の香、――近頃の東京と違って電気事業も
まだ六月になったばかり、暑さは例年にないと言われましたが、それにしても、真昼の大夕立は滅多にないことでした。
お蔭で素っ破抜きに始まった大喧嘩も流れて、
お通の茶店へも十二三人、
「おッ、なんて
「まア、
ポンと飛込んで来たのは、舞台で本雨を浴びて来たような意気な兄イ、濡れた
「ほら、ざっと
無雑作に
「まア、裸でどこへ行くつもりなのさ、松さん」
お通は追っ掛け、戸口まで出ましたが、もう男の姿はその辺に見えません。また一としきり、ぶり返した大降り、光る、鳴るの伴奏で、しばらくは
その晩、清養寺の
寺の境内に起ったことは、寺社奉行の支配で、町方は関係しないのが普通ですが、
そこで、早速町方へ渡りがついて、
「平次」
「ヘエ、御呼びで」
ちょうど八丁堀の役宅へ顔を出した、銭形平次が呼び出されました。
「寺社から頼まれて、万一手落ちがあっては町方の恥だ、御苦労だがお前も行ってくれ」
「ヘエ――」
平次はおよそ
「不服か、平次」
「とんでもない、旦那、御申付けに
「町方一統、――引いては御奉行の顔が潰れても構わぬと言うのか」
「ヘエ、恐れ入りました、――それでは潮時を見て出て参りますが、万七兄哥の顔も立ててやるように、差向き八五郎をやって下さいまし、あれなら三輪のも腹を立てません」
「八五郎で大丈夫か」
「あの野郎は馬鹿みたいな顔をしておりますが、あれで、なかなか
「それじゃ、八五郎を呼べ」
笹野新三郎の声に応じて、敷居の外からヌッと
「旦那、ここに居ります、へッへッ」
「何だ。そんな所に居たのか、へッへッ――て挨拶はないぜ」
と平次。
「でもね、親分、――馬鹿みたいな顔――はひどいでしょう」
「何だ、聞いていたのか」」
「ヘエ、――」
「見掛けよりは
「ヘエ」
「
「なるほどね、さすがは銭形の親分だ、眼のつけどころが違う」
「褒められたって
平次は相変らず子分思いの癖にポンポン言います。
「ところで、親分」
「何だ、まだ言い遺すことがあるのか」
「三輪の万七親分の鼻を明かしても構わないでしょうね」
ガラッ八は少し
「馬鹿野郎、
「へッ、へッ、それじゃ行って参ります」
ガラッ八は笹野新三郎の前を滑ると、八丁堀から谷中まで、尻をからげて宙を飛びます。
「おや八
三輪の万七とその子分のお
「三輪の親分、当りはつきましたかい」
「いや、まだついたというほどではねえ」
「笹野の旦那が――寺社御奉行のお頼みだから、三輪のも精いっぱいの働きを見せるだろう、やい八五郎、鼻毛なんぞ抜いてる暇があるなら、谷中へ行って万七親分の仕事振りを見習って来い、好い修業になるぞッ――ってね、へッへッ」
八五郎にしては一世一代のお世辞です、もっとも八丁堀から谷中まで考えて来たんで、これくらいの事が言えたのでしょう。
「そうかい、まだたいした働きも仕事もしたわけじゃねえ、まア、見てくれ」
万七も悪い心持はしなかったでしょう、ツイ先に立って庫裡へ入ると、調べ口の
「柳橋で大夕立に逢ったので、千両箱の釣台が寺の門を
「ヘエ――」
「夜中過ぎまでは確かにあったというが、番人がウトウトする間に、三つとも綺麗にやられた。気の付いたのは
「…………」
「寝ずの番をしていた
「寝ずの番は鳶頭一人ですか」
「寺男と小坊主が二人、時々顔を出したが、それも宵のうちだけで、
「すると、宵に顔を見せて、千両箱を眺めるか触るかしたのは、その寺男と小坊主が二人というわけですね、親分」
ガラッ八は宵に帰った人間に眼をつけろと言った平次の言葉を思い出したのです。
「八
「それでも、親分の前だが、手引きは出来ましょう」
「手引きがあるなら、あんな
万七は少しムッとした様子です。
「だが、三輪の親分、外から入るなら、何もあんなに骨を折って、念入りに岩乗な潜戸などを外すまでもなかったでしょう。寺方だから本堂の方にはろくな締りもねえ、少し窓は高いが、這い上がって廊下伝いに、杉戸一枚を開けさえすれば、すぐ庫裡じゃありませんか」
ガラッ八の明察、万七は少したじろぎました。
「大層目先が見えるようになったんだね、八兄哥」
「へッ、それほどでもねえ」
「馬鹿なッ」
大舌打を一つ、この法外な
「他に宵に帰ったのはありませんか、親分」
「千両箱の釣台を担いで来た人足は、
「へッ」
八五郎一ぺんに
万七と清吉とガラッ八は、もう一度寺の中を
「ないね、三輪の親分」
とガラッ八。
「俺は二た刻も前から三度も寺内を捜したんだぜ。ないことはとうに判っているよ。泥棒が内に居るものなら、千両箱を三つも持ち出した上、御丁寧に外から
万七の言うのは
それから寺内の人を一人一人呼び出して貰って逢いましたが、三千両の大金を盗み出しそうなのは一人もありません。
住職は六十を越した老僧で、
「
「当るのは構わねえが、惚れられでもすると大変だぜ、八兄哥」
お神楽の清吉は横合から
八五郎も一応はこの飯炊き女を疑いましたが、
「いつからここに居るんだ」
「この三月の出代りからだアよ」
間違いもない
「
「そんなものは知らねえだよ」
どうも少し日当りの悪い人間らしくもみえます。それに、五六貫目の千両箱を三つ、あっという間に持出すにしては、この女は少し弱すぎるでしょう。
「もういいよ、向うへ行って猫の子とでも遊んできな。八兄哥、外廻りを見るか」
万七は先に立って、寺の外廻りをグルリと一廻りしました。
「おや」
ガラッ八は寺の後ろの墓地――取っつきにある、新仏の
「どうしたい、八兄哥」
と追っかけるように清吉。
「
「なるほど、子供の
向うを向いている塔婆を引っこ抜いて、万七は土饅頭の上に正面を向けて立ててやりました。
「
「そうだよ、目黒へ御用で行って薄暗くなる頃帰った」
「すると、この墓は早くて
「な、何だと」
ガラッ八は大変な事に気がつきました。
「塔婆の戒名で見ると子供のようだが、それにしちゃ土饅頭が大きすぎはしませんかね、親分」
ここまで聞くと、さすがに万七は老巧な御用聞でした。庫裡へ駆け込んで住職を引っ張り出すと、渋るのを無理に口説き落して、お神楽の清吉を寺社奉行役宅まで走らせました。新墓を掘り返す権力などは、寺も、遺族も、町方も持ってはいません。
手続きに暇取って、役人立会いの上墓を
幸い来合せた寄進主の春木屋治兵衛、住職と談合の上、寛永寺の役僧と、寺社奉行から出張の同心立会いの上、三つの千両箱は本堂に移され、治兵衛の手で封を切ることになりました。
「治兵衛、封に間違いはあるまいな」
と万七はさすがに黙ってはおられません。
「なにぶん土の中に埋められて、傷んでおりますから、確かな事は申されませんが、店で
治兵衛はそう言いながら、封を切って一番上の千両箱を開きました。
「あッ」
中は
続いて第二、第三の千両箱が開けられました。が、いずれも同じことで、中味は綺麗に
「…………」
並居る手先、役人、悟りすました住職や役僧も、しばらくは口も利けません。
「八兄哥、たいした手柄だ」
万七は一番先にこう言いました。危うく何もかも八五郎の手柄になるところを、千両箱の中味が砂利や金屑で、かえってホッとしたのでしょう。
「とんだ
「親分、こう言ったわけだ。三輪の親分に
八五郎はすっかり取り
「騒ぐな、八、もう少し落着いて物を言え」
平次も少し持て余し気味でした。
「そればかりじゃねえ、親分、寺社の役人の言うことが
「判ったよ、八、これはなるほど、お前には荷が勝ち過ぎた。底には底がありそうだ、行ってみるとしようか」
「
「今晩はもう遅い、明日の朝早く出かけるとしよう。それだけ巧んだ仕事なら、早いから尻尾を
平次は落着き払って、容易に立上がりそうな気色もありません。出来るだけ詳しく八五郎に話させた事件の全体を、
「ところで親分、墓を掘り返した時、穴の中からこんなものを見つけたんですが」
「何だ、手紙のようじゃないか」
「泥だらけになってよくは判りませんが、こう書いてありますよ、〈今ばんうしのこく――〉と」
「どれどれ、達者な手だが惜しいことに後先がねえ、いずれ悪者どもの仲間へ
「万七親分にも見せてやろうと思ったが、千両箱の中味を見て、いやな事を言うから黙っててやりましたよ」
「人の悪い奴だ、――が、この手紙は思いの外役に立つかも知れない。
「ヘエ」
「それから柳橋へ行ってお通の茶店で見せびらかして、
「本当ですかい、親分」
「本当らしく持ちかけさえすればいい。あとの事は、またあとで考え出そうじゃないか」
「…………」
平次の言い付けは、いつでも意味深長なことを知っているだけに、八五郎はそれ以上訊き返そうともしません。
一応住職にも小僧にも逢い、壊された
「玉川砂利に古金物か、――どこかの石置場か、
「…………」
千両箱の封印も泥で滅茶滅茶、春木屋の主人に鑑定がつかないぐらいですから、平次に解るわけはありません。
「とにかく、千両箱が寺へ着いた時は、もう中味が替っていたに違いない。小判を抜いた上、用意して来た砂利や古金物を詰めて、わざわざ墓に埋める馬鹿はないだろう」
「…………」
ガラッ八はポカリと口を開いて、平次の智恵の働きを見ております。
「中味が替っているのを知らずに盗んだとすると、曲者は二た組あるわけだ、中味を掏り替えた奴と千両箱を盗んだ奴と」
「親分」
「八、黙っていろ、これは存外骨が折れそうだ、――俺は中を見て来る、
「おや?」
千両箱を三つ積んであったという床の間の
「八、もう帰るよ」
「あ、親分、もう見当がついたんですか」
ガラッ八は例の手紙を懐へねじ込みながら飛んで来ました。
「
「ヘエ――」」
「帰って昼寝でもしたら、結構な智恵が浮ぶかも知れねえ。手前は両国から深川へまわって来るんだよ、ちょうど不動様の御縁日だ、半日遊び廻るには
「有難いね、だから金はふんだんに持っていたいよ」
「穴の明いた銭じゃ金のうちに入らないよ」
「へッ、
「馬鹿、今朝、お静を拝んで借りていたじゃないか」
「あッ、それも承知か」
平次はガラッ八のとぼけた声を後に、柳橋に向いました。例の茶店にはお通も母親も居りましたが、八五郎の報告以上に、ここでも何にも解りません。
「お通、相変らず綺麗だね」
「あれ、親分さん」
「ところで一昨日の昼頃、大夕立と喧嘩と、大金と一緒に来たんだってね」
「
「三千両の釣台はどこに置いたんだ。最初は店先、喧嘩が始まったんで奥へ入れた――なるほどね。それから大雨だろう、――雨が先か、喧嘩が先か、三千両の釣台が先か」
「釣台が入ると間もなく喧嘩で、あっという間もなく大夕立でした」
「雨がすっかり上がってから釣台は出かけたろう」
「え」
「千両箱が
「そんな事はありません」
清養寺の床の間の
茶店の裏はすぐ神田川ですが、少しばかりの
「大夕立の時、ここに舟がいなかったかい」
平次は窓から顔を出しました。
「いなかったようでございますよ。いさえすればすぐ気がつくはずですから」
お通の母親がそんな事を言います。水と窓との間はほんの三尺そこそこですから、船が
「有難う、何かまた気が付いたら教えてくれ、頼むぜ」
平次は愛想よくお通に別れて、深川の春木屋へ急ぎました。
「これは銭形の親分さん、とんだお骨折りで」
帳場に居た番頭の源助は、平次の顔を見ると、型のごとく薄暗い店先へ飛出しました。まだ四十二三、
「番頭さん、あの三千両は、ここを持ち出す時は、確かに箱の中にあったに相違あるまいね」
「それはもう親分さん、主人と私が四つの眼で見たことですから――」
「それじゃ、
平次は当然の事を訊きます。
「ヘエ、ヘエ、そんなお疑いもあるだろうと存じまして、店の者一同立会いの上、あの晩の頭数を調べておきました。この通りでございます」
源助は、何やら書いたものを差出します。半紙を縦二つ折にして、それに二十五六人ほどの名前を書き、その下にいちいち証人の名を挙げて、夕方から夜明けまでの居所を
「たいそう行届いたことだね番頭さん、いやこうして下さるとこちとらは大助かりさ、――いの一番は支配人の源助さんで、
「伊之助でございます」
源助のそう言うのを聞いて、二番番頭の伊之助は、
「いい筆蹟だね、材木屋の番頭さんにはもったいないくらいのものだ」
「親分さん、ご冗談を」
「ところで源助さん、あの釣台を担いで谷中へ行った人足の名前がここにはないようだが、解っているだろうね」
「ヘエ、皆出入りの者ばかりで、よく解っております」
「じゃ、その名前をちょいと書いてくれ」
「ヘエ、――私は字が
「いや、それには及ぶまいよ、伊之さんの字はこんなに沢山あるんだから、手本にするに不足はねえ」
「へッ、へッ、恐れ入ります」
無駄を言いながらも、源助は四人の名前を書いてくれました。
「おや、源助さんは伊之さんよりも上手じゃないか、こうむつかしい字で書かれちゃあっしにゃ読めねえ。済まねえが、その側に振り仮名を書いて貰いたいな」
「御冗談で、親分」
「冗談ならいいが、これが本音さ、そんなに学がありゃ、岡っ引なんかしちゃいないよ」
「これで宜しゅうございますか」
そう言いながら源助は、ごんろく、あんじ、はつたろう、うたはち――
と四人の名前に振り仮名を付けてくれました。
それから治兵衛に逢って、奉公人の身許のことを
「何? 親分はもう
「そんなものが証拠になりましょうか」
源助と伊之助は思わず首を出しました。
「なるとも、大なりだよ、字が
ガラッ八は懐から
「ブルブルブルブル、親分に見せないうちは、滅多なことが出来ねえ。これから不動様の縁日で見世物を二つ三つ冷かして、八丁堀へ行ってみるとしよう」
そんな事を言ってガラッ八は、挨拶もせずに帰ってしまいました。
その足で八五郎は、予告の通り不動様の境内へ入って行ったものです。居合抜き、豆蔵の芸当、一寸法師の手踊り、と
「あッ、何をしやがる」
内懐の中でガラッ八の手は、袖口からそろりと入って来た細い
「あッ、御免なさい、――そんなつもりじゃ」
女は驚いて手を引こうとしましたが、自慢の強力に押えられて、どうすることも出来ません。
「待っていたぜ、自身番まで来るがいい」
ガラッ八はニヤリと笑いました。
「あッ、何をするのさ、人の手なんか握って、いけ好かない
拝み倒しでいけないとみると、女は急にいきりたちました。
打ち見たところ二十七八、どうかしたら三十というところでしょうが、洗い髪のままに薄化粧を
第一その年増振りの美しさ、ガラッ八の懐の中で手首を握られたまま、必死ともがく様子は狂暴な
「何だ何だ」
「女にからかったんだろう、
「袋叩きにしてやれ」
気の早い江戸っ子は、事情に構わず八五郎に喰ってかかりそうです。
「やいやいやい、馬鹿な事をすると勘弁しねえぞ、女
ガラッ八は左の手を袖口から出して、懐に呑んだ鉄磨きの十手を見せました。
「御用聞なものか。偽物だよ、畜生ッ」
女はなおも
「懐の手紙に釣られやがったろう。どこの
ガラッ八はそのまま女を追い立てるように、永代橋を渡って、八丁堀の笹野新三郎役宅まで参りました。
「親分、とうとう捕まえましたよ。あっしの懐を狙ったのはこの女で――」
「何だ、女巾着切りのお
待ってました、と飛んで出た平次は、八五郎の獲物を見ると、少し予想外な顔になります。
「あッ、銭形の親分さん、今日は何にも
お兼は平次の顔を見ると、急に元気になります。
「八、本当にその女が
「何だか知らねえが、いきなり内懐へ手を入れましたよ」
「親分さん、お目こぼしを願います。今日は本当に何にも盗ったわけじゃありません」
とお兼。
「盗りたいにも、その男は一両と
「とんでもない、親分さん」
「お兼、お前は巾着切りだけかと思ったら、とんでもねえ仕事へ足を踏み込んだね」
「親分さん」
「いや俺にはだんだん判って来る、――巾着切りは重くて遠島、せいぜい叩き放しか追放で済むが、三千両の盗人は、獄門か打首だぜ」
「親分」
お兼はざすがにギョッとした様子ですが、どこまでも、ガラッ八のケチな財布を狙ったんだと言い張ります。
「よしよし、それじゃお前の言う通り、巾着切りで奉行所へ送るとしよう、――だが、お兼、お前の巣はどこだい」
「…………」
「言えまい。――
「…………」
「八、大急ぎで谷中へ行ってみな。清養寺の飯炊きのお類という
平次は後ろを向いて首を垂れました。そこには
「そのお兼は、清養寺の飯炊きに化けていたのか」
「万に一つ間違いはございません。お兼の顔を御覧下さいまし」
「それに相違あるまいな、お兼」
と開き直った笹野新三郎の前に、
「恐れ入りました」
女巾着切りのお兼はとうとう観念の
清養寺の飯炊きのお類が女巾着切りのお兼の世を忍ぶ姿と解っただけで、三千両の
「千両箱を三つ盗み出して、新墓に埋めたのは、私と仲間の者の仕業に相違ございませんが、中味を
お兼にこう言われると、事件は大きい壁にハタと行詰ってしまいます。
もう一つ困ったことに、ガラッ八が穴の中から拾った密書の
さすがの平次も、この上は手の出しようがありません。
「柳橋のお通さんが、三千両の盗人の疑いを受けて、松さんと一緒に縛られたんですって。お通さんはそんな事をする人じゃありません。それに大工の松さんとはこの秋祝言する事になっていたし、可哀相じゃありませんか、助けてやってください、ね、お前さん」
お静とお通は昔水茶屋にいた頃の
「お通や松吉にそんな器用なことが出来るものか、誰がいったい縛ったんだ」
と平次。
「三輪の万七親分ですよ――松さんが大夕立の中へ飛出したのが怪しいって言うそうですが、あの仲間の
「仕様がねえなア」
平次はもう一度出直しました。女房の友達とその
「八、両国へ行ってあの辺で聞いたら解るだろう。あの大夕立のあった日に喧嘩を始めた武家と遊び人の名と所を訊き出して来てくれ、大急ぎだぜ」
「そんな事ならわけはねえ、
「馬鹿、縛って来いと言うんじゃねえ。名と所が解りゃいいんだ、が相手に嗅ぎ出されねえようにしろ」
「合点」
ガラッ八は
「解りましたよ、親分、――浪人は
「所は」
「それが不思議なんだ、親分、二人とも本所
「しめた、八、その二人を踊らせよう」
「相手は武家ですぜ」
「武家だって、押借の名人という大なまくらだ。まさか二人の手に余るような事もあるめえ、それとも二本差が怖いか」
「冗談だろう、親分。二本差が怖かった日にゃ、
「もう解ったよ、八、さア出かけよう」
二人は本所相生町へ行って惣十郎店の長屋を探し当てたのはもう夕方でした。
「踏込んでみましょうか、親分」
「待て待て、浪人と遊び人はどうせ
「…………」
「こうしようじゃないか、八」
平次は何やら八五郎の耳に
「薄暗くなって顔の判らない時分を見計ってやるんだよ、いいか、八」
「勘次、不都合なことがあるものだな」
「何です、井崎の旦那」
壁の穴の向うとこっちで、井崎八郎と白狗の勘次は話を始めました。
「今しがたあれから手紙が来たよ、――三千両の金は手に入ったが、今急に箱を開くわけにいかぬ、いずれゆるゆる取出すつもりだが、俺達二人が江戸に居ては、
「ヘエ――、判ったような判らねえ話だ、が、退散するもしねえも、路用次第じゃありませんか、千両も持って来ましたかい」
「とんでもない」
「それじゃ百両」
「百両ありゃ、ずいぶん一年や半年は江戸を
「まさか十両や、二十両じゃないでしょう」
「それが十両にも程遠いから驚くだろう」
「五両ですかい」
「たった一両だよ」
「えッ」
「驚いたろう、勘次」
「さア勘弁ならねえ。人面白くもねえ、大夕立の中で立廻りまでさせやがって、三千両の手間にたった一両とは何だ」
「俺のせいではないぞ」
「だから、怒鳴り込んでやりましょう、さア」
「刀の手前、このまま引っ込むわけにはいかぬな」
井崎八郎と白狗の勘次は、平次の偽手紙に釣られるとも知らず、宵闇の中を相生町から深川の方へ向いました。
行く先は、大方予想した通り木場の材木問屋、春木屋の裏口、何やら合図をすると、
「何だってこんな時分に来るんだろう。俺は、
ブツブツ言いながら出て来た者がありました。
「時分や時節で遠慮していられるか。あれほどの大仕事をさせながら、たった一両で追っ払おうとは何事だ」
井崎八郎の声は
「たった一両? いったい何がどうしたんだ、え、井崎さん」
「白ばっくれるない、――井崎さん手紙を見せてやりましょう」
これは勘次の声です。
「お、言うまでもない」
「何、何、――これは俺の書いたものじゃないぞ、誰かにだまされてここまで来たんだろう」
「えッ」
「さア、大変ッ」
三人が身構える間もありませんでした。
「御用ッ、神妙にせい」
闇の中から不意に飛出した平次とガラッ八。
「何をッ」
手が廻ったと見るや、井崎八郎早くも一刀を引抜いて身構えました。番頭風の男と勘次の手には夜目にも
「親分、三人じゃ手におえねえ。銭をッ」
「おうッ」
三方から斬りかかるのを引っ外して、平次の手が
「あッ」
一番先に匕首を叩き落された勘次は、ガラッ八の
続く一枚は番頭の額を
この闇試合は
番頭風の男というのは、言うまでもなく支配人の源助、穴の中で見つけた手紙も、この男が書いてお兼のお類に渡したに相違ありませんが、平次はそれと感づきながら、わざと
曲者は四人まで縛られました。
仲間はまだ外に二人、その日のうちに挙げられました。三千両を載せた釣台が、予定の通りお通の茶店で休んでいるところを狙い、井崎八郎と勘次は馴れ合い喧嘩をして野次馬と一緒に茶店に
筋書は不意の大夕立で少し狂いましたが、だいたい予定の通り運ばれました。もっとも、夕立は人間業で
予定の通り引渡しが夕方あったとすると、千両箱の中から砂利や古金が出て来た時、一番先に疑われるのは、何といっても源助と
店中の者の名を書いて、その晩外へ出た者のない事を平次に呑込ませたのは、
事件はこれで綺麗に片付きましたが、三つの千両箱の行方だけはどうしても解りません。
源助始め悪者の一味を、思い切った
「まだ
笹野新三郎も躍起となりますが、
平次は毎日のようにお通の茶店へ行きました。
「その時川に船はいなかった――、二人であの大夕立の中を三つの千両箱を持って遠くへ逃げられる道理はない」
平次はそういった見当で、橋の下、石垣、川の中、近所の物置、床下など、
ちょうど一と月目。
平次は捜し疲れて、お通の茶店の奥に、うつらうつらと
「おや、もう
上野の鐘を遠く聞いて、思わず起上がると、目の下の川の水肌に、何やら光る物が浮いております。平次はそのまま手摺を飛越えて、三尺の空地に腹這いになって、水の上をジッと見詰めました。
「
棒を持って来てヒョイと突いてみると、蓋の上の取手に紐が付いて、何やら水の底に沈めてある様子です。
「解った、これだッ」
平次の頭には、電光のような智恵が働きました。あれからちょうど一ヶ月目の新月、お月様の工合で潮のさしようが同じになったので、ちょうど真昼の
それから船を出して、紐を
「親分さん、お目出とう。三千両揚がったんですってね」
お通は
「お蔭で町方の恥にならずに済んだよ。これが見付かれば春木屋から百両の
「あれ親分さん、そんな事を」
「あとの三十両で八の野郎に女房を持たせると」
「まア」
「まだ四十両残るが、これはお静と俺が
「まア」
「が、それも捕らぬ
「…………」
お通はシクシク泣いておりました。十日あまりの万七の厭がらせな
それより