判官三郎の正体

野村胡堂





「泥棒の肩を持つのは穏かではないな」
 唐船からふね男爵は、心持その上品な顔をひそめて、やや胡麻塩になりかけた髭に、葉巻の煙を這わせました。
 日曜の午後二時、男爵邸の小客間サロンに集った青年達は、男爵を中心に、無駄話の花を咲かせて、長閑のどかな春の日の午後を過して居ります。
「肩を持つという訳ではありませんが、あの『判官三郎』と名乗る泥棒ばかりは憎めませんよ。第一あれは驚くべきスポーツマンで……」
 というのは、会社員の黒津武、運動家らしいキリリとした身体からだ、勤柄で真面目まじめな紺の背広は着て居りますが、上着一枚脱げば、何時いつでもラケットを握る用意が出来て居ようという、気のきいた男前です。
「というと、君自身がねらわれた事でもありそうだが」
 これは宮尾敬一郎という、金持の坊ちゃんです。映画とスポーツと音楽の通で知らないものは、月給を取る方法と金を儲ける方法だけといった、典型的の有閑青年。
「僕じゃない、僕の伯父がやられたんだ」
「君の伯父さん? ……ほど、君の伯父さんというと、富豪の筒井氏だネ、何んでも避雷針を伝わって空気抜から入って、抵当に預った曲玉や管玉や、素晴らしい古代の宝玉を苦もなく奪われたというではないか」
「それだよ、伯父の悪口をいっちゃすまないが、世間から『地獄の筒井』といわれる位だから、伯父のやり口も充分悪かった」
「あの古代の宝玉というのは、有名な蒐集家しゅうしゅうかの遺族から預って、金を返す期限が二三日遅れたというので、涙を流して頼みこむ預け主へ、どうしても返さずに居た品物だというじゃないか」
「その通り、残念ながら僕も伯父の弁護だけは出来ないよ、義賊気取りの判官三郎にねらわれたのも無理は無いさ」
「マア黒津さん、そんなに伯父さんの悪口をおっしゃるものじゃありませんワ」
 後ろの方から、洗練された美しい声、振り返って見ると、次の間に通ずるドーアを背にして、オパール色の洋服を着た、目の覚めるような美しい娘が立って居ります。
「オ、栄子さん、丁度ちょうどいいところへ」
 青年達は、腰を浮かして、この美しい人を迎えました。唐船男爵の一粒種で、才色兼備の見本のような令嬢、毎月変った姿態ポーズの写真が、二枚や三枚は、婦人雑誌へ出ない事が無いという、一代の人気を背負しょって立ったような令嬢です。
「黒津君が伯父さんの悪口をいうのは、存分にお小遣が貰えないからなんですよ……」
「マア」
「コラ何を人聞の悪い事をいう、君のようなノラクラ者と違って、これでも独立独歩の月給取だぞ、お小遣に困るようなサモしいんじゃない」
「ハッハッハッ、まあ怒るな。ところで英子さん、今ここで、判官三郎の噂をして居たんですが、あなたはどうお思いになります?」
「まあ素的ネ」
「判官三郎を憎んだものだろうか、それとも讃美したものだろうかと言うのです」
「憎むところなんかありませんワ。判官三郎は神出鬼没の怪盗ですけれど、意地の悪いことや、残酷なことは決してしません。かえって悪い者をこらしめて、弱い者を助けるというじゃありませんか。丁度アルセーヌ・ルパンのようネ、身軽で、冒険好きで、快活で、大胆で、第一義侠的なところがいいワ」
「これこれ何をいうのじゃ、泥棒崇拝は少し慎しんだがよかろう、深山みやま君、君はこの問題をどう思うネ?」
「…………」
 男爵に声をかけられて、わずかに顔を上げたのは、一人離れて、長椅子いすの上に陣取った、深山茂という若い大学教授プロフェッサーです。今まで読み耽って居た、外国語の分厚な本から離した眼は、深い瞑想に沈んで、今しがた何を問いかけられたかさえ解らないよう、もう一度促すように、静かに男爵の顔を見上げて、その黒耀石こくようせきのような眼をまたたくのでした。
「判官三郎という、巨盗を君は知って居るかな」
「イヤ、一向……矢張やはり石川五右衛門といったような」
「プッ」
 とうとうみんな吹出してしまいました。


成程なるほど、深山君は矢張り深山君だ」
 男爵は憐れむような慰めるような、不思議な一瞥をこの若い教授の上へ送りました。
「判官三郎が、内燃機関の改良者だといわないところが、まだしも見付けものだよ」
 宮尾敬一郎は不遠慮にあごを突き出します。
「マア一寸ちょっと待ちたまえ」
 黒津武は、もう一度外国語の本を取り上げようとする深山茂を止めて、
「君のように本ばかり読んで居る人間はあるもんじゃない、あ少し付き合って世間並の話でもして見たらどうだ」
 若い教授の手を取らぬばかりに、一座の中へ引入れました。
「有難う、だが僕にはまるっきり話題というものが無いんだよ、内燃機関の改良の事を話すと、君達に笑われるばかりだし……」
 それでも淋しくニッコリして、男爵父娘と相対して、黒津、宮尾二人の間に座を占めました。
 二十七八歳、むっつりした好青年で、何んとなく重厚な感じがあります。内燃機関の特殊な研究者で論文さえ出せば、何時いつでも博士号がもらえるという人物、その研究の助けを仮りて唐船男爵の経営して居る会社が、おびただしい利益を占めて居るという噂もあります。
 もっとも、その代り――といっては可笑おかしいかも知れませんが――英子姫とは許嫁いいなずけの間柄で、この春は正式に結婚式を挙げるというところまで話が進んで居ります。
「深山君の勉強には敬服するが、少し身体からだを粗末にし過ぎるよ、君のように頭ばかり発達すると、人類が生理的に滅亡するそうだぜ」
「有難う、けれども、僕はどうもあの運動というようなものをやる気にはなれない」
 黒津の手厳しい攻撃に対しても、軽く抗弁しながらも、ともすれば長椅子の上へ置いて来た、外国語の本の方に気を取られ相です。
「判官三郎というのは、近頃世の中を騒がして居る巨盗なんだが、この泥棒は不思議に婦人方に人気があるんだ。例えば、英子さんの今の弁護振りの如き、婚約者たる君の耳に、異常に響かなかった筈は無い……」
「マア黒津さん、何んという貴方あなたは……」
「英子さんしばらく黙っていらして下さい、……ところでだネ深山君。判官三郎の人気というのは、その任侠な点にあることは申すまでも無いが、もう一つの重大な原因は、彼は恐ろしい体力の所有者だという点にあるのだよ。誰も判官三郎の顔を見た者は無いが、彼がひさしを渡り、軒を伝い、羽目をじ、物理学的約束を無視して、縦横無尽に荒し廻る点が、物好きな婦人方の人気に投ずるところなのだ……」
「それで……」
 深山茂の顔には、解き難い疑問が、こおった雲のようにただよいました。
「それで……どうも弱ったな、君のように冷たい顔をして居ると、話が仕悪しにくくてしようが無い……」
「どんな顔をして居ればいいのだ」
「御挨拶だネ、そんな論理学的な表情を取り払って、精々社交的な表情をして居ると、おれの話は滑らかに進展する……まあいいや、結論だけ簡単にブチまけよう。こうだ、本にばかりかじり付いて、運動とか趣味とかいうものを考えないと、勢い現代の若い婦人方には受が悪い、とこういうのだ。判官三郎の体力は無くとも、せめて我輩や宮尾君のように、現代青年の身体からだはスポーツで鍛えて置いてもらいいな」
「…………」
 深山茂は、とうとう長椅子の方へ帰ってしまいました。この若い学究に取っては、許嫁いいなずけの姫の素晴らしい美しさよりは、外国語の髭文字の方が魅力に富んで居たのでしょう。まして、黒津武の冗弁じょうだんなどは、物の数でもなかったのです。
「マア深山さん」
 自分の魅力の前から、臭いものを見棄てるような無造作な態度で退いた未来の良人おっとの後姿を追って、美しい姫の眼は一方ならぬ非難に燃えて居りました。
 そこへ、若い女中が、磁器のお盆へ入れて、人数だけのコーヒー茶碗を運んで参りました。素晴らしい茶碗に、銀の小匙こさじを添えて、卓の上へ順々に並べると、得ならぬ香気が客間をこめて、午後三時らしい心持にします。
「このコーヒーは自慢で、南洋から取寄せたのを、念入りに家でひかしたんだが……」
 唐船男爵は、世間並の貴族らしく、手数をかけた飲物に軽い誇を感じながら、フト匙を取りましたが、
「フム……」
 茶碗の中を眺めてうなって居ります。
「マア」
 英子はクルリと振り返って、ドーアを開けようとする女中を呼止めました。
「鶴や、一寸ちょっとお待ち、クリームをコーヒーへ入れて持って来る人はありませんよ。何んというわからないでしょう。もう一度入れ直しておいで、コーヒーとクリームは別々に持って来るんですよ」
 苛辣からつな言葉に、若い女中はハッと立ちすくみました。小作りの可愛らしい、けれども、山から掘り出した新しい芋か、木から取ったばかりの新らしい果物といった感じのする、如何いかにも野趣を帯びた娘です。
「そのコーヒーは下げて行って、捨てるなり、どうするなり、それから菓子を持って来るのですよ……アア後をしめて」
 すっかり面喰って、涙さえ浮べた若い女中は、アタフ夕引下って、片手でドーアをしめる拍子に、持って居たコーヒー道具の盆は、ツルリと手の上を滑って、廊下の板敷の上へ、アッと思う間もなく、微塵みじんにこわれてしまいました。
「アッ、又!」
 仏蘭西フランス製の高価な茶碗は、男爵令嬢の落付きを失わせるに充分でした。やがて、冷たい目と、厳しい言葉が降りそそぐ中に、若い女中は、熟れたトマトのような両手で、涙の顔を覆いました。


「あの娘は全く野蛮人だよ」
 唐船男爵はいくらか落付きを取り返して、二度目に入ったコーヒーを啜りながら、こう申します。
「日本にあんな人間が住んで居るのは珍らしいネ、いくら山出しにしても、およそ程度のあるもんだが、礼儀や作法は勿論のこと、文化生活に必要な知識というものは、一つも持って居ない。教育が行渡ったといっても、まだなかなか安心は出来ないよ、私は次の国会に、教育について文部大臣に質問しようと思って居る」
「が、一寸ちょっと可愛らしい娘じゃありませんか」
 ツイ口を滑らして、宮尾敬一郎は首を縮めました。美しい英子姫の瞳が、非難するともなく、自分の方をじっと見詰めて居るのです。
「マア宮尾さん。男の方はどうしてあんな無智な娘を好くでしょう?」
「イエなに」
「私にはどうしても解らない、不作法で横着で、野蛮で、そりゃ大変な娘よ……そうそうあの娘は、深山さんが御郷里の方かられて来て下すった娘でしたネ、あまり悪く言ってはすまないワ」
「どうもすみません……」
 感心に話が耳に入ったかして、例の外国語の本を伏せて、若い教授は顔を起しました、
「だけれども、あなたのお国って、あんなところでしょうか、私共とは、人情風俗がまるっきり違うんですもの」
 美しい姫の口吻くちぶりには、未だ苦い語気が残って居ります。
「何しろ、山の中で猿や熊と一緒に育った娘ですから、都会人の礼儀や作法を心得て居るわけはありません。その代り、正直で無邪気で、都会人のように、ウソを言う事も知らないのです」
「あの上嘘を言ったら、どんな事になるでしょう」
「…………」
 ちぐはぐな心持、そぐわない空気、一座は又白け渡りました。
 気まずい沈黙を破って、廊下をあわただしい足音。
「殿様、タ大変で御座います」
「何?」
「なんだ」
 総立になって客間へ転げこんだのは、日頃沈着そのもののような顔をして居る、家扶かふ本藤もとふじです。息せき切って、
何時いつの間にやら金庫の扉が開いて、中は滅茶滅茶にかき廻されて居ります」
「アッ」
 唐船男爵もさすがに顔色を失って、立ちすくみました。富と権勢とを誇る男爵家の金庫ですから、中に何があったかわかりませんが、兎に角、仏蘭西フランス製のコーヒー茶碗をこわしたような小さい問題ではありません。
 五人がとかたまりになって、階子段はしごだんを稲妻の様に飛降りて、男爵の書斎へ入って行くと、大金庫の扉は八文字に開いたまま、中の抽斗ひきだしは、滅茶滅茶にかき乱されたらしく、せわしく開けて見る男爵の手に従って、惨憺たる有様が一と目にわかります。
「宝石は?」
「大丈夫だ」
「有価証券?」
「何んともなって居ない」
「現金?」
「みんなある」
 英子と本藤の問に答えて、男爵の手はそれからそれと忙しく動きます。
「では、しかしたら、……設計図?」
「そうだ、一番大事なものが無くなって居る」
 振り返った男爵の顔は、血の気もなく真っ蒼に歪んで居りました。
「お父様、では矢張やはり……」
「これは尋常一様の泥棒ではない、深山君、御覧の通りだ、君が苦心をして発明した、あの世界を驚倒させるだろうと言われた、新式内燃機関の設計図が盗まれてしまった」
「――――」
 恐ろしい深い沈黙が、一座を支配しました。男爵の次の言葉を待つように、互に顔を見合せて、異常な緊張に任せて居ります。
「あの設計図は、とうに君に返さなければならないものであった。が、会社で君から買収する意向があったので、幾度も君から請求され乍ら、心ならずも止めて置いた――」
「――――」
「あれが無くなっては、君の損害は勿論のことだが、会社の損害が非常に重大だ」
「警察へ、電話で」
 だれやらの声に応じて、本藤が卓上電話を取り上げようとすると。
「待った」
 男爵はコードを引っ張って止め乍ら、
「競争会社の関係もあるから、なるべく表沙汰にはし度くない、あの秘密はあまりに重大だ、もう少し調べてからにしよう」
 と申します。


 どうして書斎の金庫の開いてるのが判らなかったかというと、今日は日曜で、男爵も本藤も、朝から書斎を見舞わず、掃除をした女中のお鶴は、例の山出しで、金庫が開いて居たか閉って居たか、そんな事は気にもかけなかったというのです。
 注意して見ると、「金庫には[#「「金庫には」はママ]何の損傷きずもなく、明かに合鍵を用いて開いたものに相違ありません、では、どうして組合せ文字を知ったかそれが、第一の不思議です。
 組合せ文字は、唐船男爵と本藤が知って届るだけ、あとは英子嬢さえ知らなかったのです。
「本藤、組合せ文字を人に知られるような事は無かったろうな」
「飛んでもない……」
 本藤は唐船男爵の問に、一度はいさぎよく応えましたが、何を感じたか、フト固い表情をして考え込んでしまいました。
「どうしたのだ」
「ナニ何んでも御座いません、多分何んでもないだろうと思いますが……二三日前の事、私の手帳が見えなくなって、心当りの場所を半日探して居ると、庭に落ちて居ましたといって、お鶴が返してくれた事があります」
「それで?」
「私はその日一日調べ物の仕事が忙しくて、庭へは一度も出ませんでした。不思議な事があるものだと思って居りましたが、……後で気が付いて見ると、その手帳に書いて置いた、金庫の合言葉が、一枚そっくりムシリ取られてありましたようで……」
「何? 何んでもない事があるものか、お鶴を呼べ!」
「お父様、あのは不思議ですよ、毎朝お掃除の時というと、この金庫の錠前を、長い事いじって居るのです。山出しで金庫が珍らしいからだろうとばかり思って居りましたが……」
「よしもう判った、お鶴に金庫を開ける智恵があるわけはない、お鶴を手先に使って、中から設計図を取り出した奴があるに相違ない」
 ジロリと見渡した男爵の眼は、深山茂の深沈な顔にピタリと釘付けになりました。
 大事な大事な一人娘、望まばどんな高い身分の若殿も、婿なり養子なりに迎えられるだろうと言われた才色兼備の見本のような英子嬢を犠牲にして、この素性も知れぬ若い教授をとらえようとしたのは、盗まれた設計図が手に入れ度い為ばかりでは無かったでしょうか。
 それにもかかわらず、その若い教授は、英子嬢よりも設計図に執着して、何遍も何遍も男爵に返還を迫って居たのです。
 おまけに、――これは一番重大な事ですが――お鶴は深山の郷里から来た娘で、深山とどんな関係があるか誰も知らず、ただ、一方ならず深山を慕って居ることだけは、軽い嫉妬に敏感になって居る英子嬢ならずとも、やしき中の者がみんな心付いて居ることでした。
「泥棒の手引をしたのはお前だろう」
 本藤に突き飛ばされて、絨毯じゅうたんの上へわずかに顔を挙げたお鶴は、
「いいえ、わたしゃあ、知らねエよ」
 亢奮かうふん[#ルビの「かうふん」はママ]したせいか、少しばかり直りかけた田舎訛いなかなまりが、すっかり生地きじを出してしまいます。
「知らないとは言わさん、手帳の中に書いてあった組合せ言葉を読んで、それを誰かに知らせたに相違あるまい」
「…………」
「サア、お前の手引をした相手は誰だ、言わないと警察へやって暗い処へほうりこませるぞ」
「私ゃア、何んにも知らないよ」
 この娘が何を知って居ましょう、振り仰いだ眼は、天にまたたく星のように清らかです。
「本当に知らないな」
「本藤、そんな事で口を開かせようと思っても容易の事ではあるまい、可愛らしい顔をして居るくせにとても強情なんだから、もう少し何んとか工夫をおしよ」
 英子嬢は、あられもない事を申します。
「アッ、あれは?」
 誰やらが頓狂な声を出します。
 振り仰ぐと、鉄格子で堅めた大窓の上の、空気抜の小窓が半分開いて、この硝子ガラスへチョークで、
判官三郎
 と麗々しく四文字、ここから入りましたと言わぬばかりにしたためてあります。
「アッ」
「判官三郎だ」
「これは容易じゃない」
 驚きとも感歎とも付かぬ声が口々に爆発します。うなってはもう、判官三郎の讃美どころではありません。


「アレー、助けて!」
 お鶴は必死と争いましたが、大の男二三人にかつぎ上げられて、屋上庭園の砂利の上へ、ドタリとほうり出されてしまいました。
「サア、ブルをお出し、このはお猿を友達にして育った相で、不思議に犬を怖がるから」
 英子の美しい顔には、残虐な微笑がスーッと走ります。
「よし来た」
 二本の鎖で押えて居る、ハズミ切ったブルドック、白黒斑で小牛ほどある逸物です、それを面白半分で書生達が放すと、英子が自分で、屋上庭園に通ずる厳丈な扉を開けて、
「サアお鶴、暫らくブルと一緒においで、その犬ははずみ切って居るから、どんな事をするかも知れないよ、それが嫌なら、誰れが金庫を開けたか、設計図をどうしたか、それを打ち明けてお言い、わかったかい。打ち明ける気になったら、この扉を三つ叩くんだよ、そうしたら明けてやろう、手引した相手の名を言わない内は、何日経ってもここは開けないよ」
 ピシリ、重い鉄のを閉じて、鍵は英子の身体からだのどこかへ、スルリと滑りこませてしまいました。
「ワーッ、助けて、ヒー」
 悲鳴に交って、猛犬の吠える声、屋上庭園の物凄い情景シーンを後に、書生一人を番人に残して、英子は元の客間へ静々と帰りました。
「どうした?」
「お鶴は屋上庭園で仲よくブルと遊んで居るワ」
 父男爵に答えた英子の眼には、恋敵を鰐の口へ投げこませた、エジプトの女王のような誇りと美しさがありました。
「あの屋上庭園は下まで六十尺もある、こんな時は高い建築も悪くないな」
「それに、郊外の有難さで、おやしきの外の家へは五六丁もあるから、余程大きい声を出しても聞えませんね」
 黒津は男爵におもねるように、窓から夕暮の景色を眺め乍ら、こう言います。
 話が途切れると、再び恐ろしい沈黙が一座を領して、頭の上から、かすかに悲鳴、猛犬の唸り、手に取るようにそれが聞えます。
 抗すべからざる圧迫が、宮尾、黒津、男爵の額に冷汗を浮かせ、その眼をカッとうつろに見開かせますが、その中で二人だけは、何事も無かった以前のように、平然として事件の推移を待って居りました。
 一人は英子嬢、その輝かしく、美しい顔には、微笑をさえ浮べて居ります。もう一人は深山茂、鉄の仮面のように冷たい顔で、例の外国語の髭文字の本に読み耽って居ります。
「英子さん」
 暫らくして、静かに外国語の本を閉じた深山茂は、美しくも取すました英子の前へ歩み寄って呼びかけます。
「――――」
 黙って男の顔を見上ぐる姫の眼には、こびとも怨とも付かぬ焔がメラメラと燃えます。
「屋上庭園へ通ずる鍵をお出しなさい」
「どうなさるのです」
「お鶴を救わなければなりません」
 熱鉄を叩くような言葉、
「あのはあなたの何んです」
「愛人」
「エッ、それでは私は」
「路傍の人だ」
 これは氷を割ったような言葉です。
「いけません、いけません」
 サッと英子の顔は血色を失って、両手で胸を抱いて、身体からだを揉みます。
「お出しなさい、あのはあなたより遥に神聖だ、あれは罪悪と塵埃じんあいの中で育った女ではありません、中央山脈の中の、人跡未踏の霊地で育った自然の傑作です」
「コレ、君は娘を侮辱するか、無礼だろう」
 猛り立つ男爵を尻目に、
「男爵、怒ってはいけません、猛獣と一緒に一人の娘を屋上庭園へ追い上げる婦人は尊敬に価するでしょうか」
「何をいうのじゃ、あれは泥棒の手先を働いた女ではないか、それ位の事は何んでもない」
「泥棒泥棒とおっしゃるが、男爵は一体何を盗まれたのです」
「――――」
「設計図は私のものですから、設計図の被害者なら、私でなければなりません。失礼ですが、男爵にはあの娘を窮命きゅうめいする何んの権利も持っては居られない筈です」
「深山君、言葉が過ぎようぜ、泥棒を引入れて、金庫を開けさしただけでも重大な罪ではないか」
 忠義立てする黒津武を見も返らず、
「君の知った事ではない……サア鍵を下さい」
「そんな物はありません。何処どこかへ無くしてしまいました」
 英子嬢の美しい顔は引吊ひきつって、今にも泣き出しそうです。
「仕方が無い、争って居る時間が無い。それでは、あのを救うために、私が外の手段を採っても、不服をおっしゃってはいけませんよ」
 一本止めの釘を刺して、クルクルと上着を脱ぐと、ワイシャツの袖を捲くって、見かけによらぬ見事な腕を、窓ワクへかけ乍ら、
「スポーツマン達、見て置くがいい。僕のは山男流の体術だ、諸君のとは、少しばかり訳が違う」
 と言い終らない内に、身体からだはスーッと伸びて窓の外へ、一つあおりをくれると、クルリと廻って、もう窓ワクの上へ立った気合、
「アッ」
 という間もありません。
 この客間は、武蔵野と富士山の眺望ちょうぼうを取り入れて、特別に四階に作った第二の小サロンで、その上が屋根下の物置、その上がもう屋上庭園の、古城型になった胸壁に続いて居るのです。
 窓から出て居る四つの顔を嘲けるように、若い教授プロフェッサー身体からだは目にも止まらぬ早業はやわざ、両樋をじ、出張りを伝わり、六十尺の上を平地の如く歩んで、二つ三つ勇躍すると、その姿はもう屋上庭園の胸壁の中へ隠れてしまいました。


「オ茂さん」
「お鶴、無事だったかい」
 ブルに追いすくめられて、生きた心地もなく胸壁の隅にうずくまって居た娘は、思わず若い教授に飛び付いて、その首っ玉にかじり付きました。
「私ゃア、おっかない」
 脅えた小鳩のように、ワイシャツの胸に犇々ひしひしと丸い頬をもみこみます。つぶらな黒い眼、物に脅えてこそ居りますが、それは、この世の女人のものにしては、あまりに純潔です。
「もうエエぞ、心配するな。設計図を取り返す用事さえ無けりゃ、こんなやしきへ寄り付くこっちゃ無い。お前を送って、私も山の中へ帰ろう、もう二度と東京へなんか出る気になってはいけないぞ」
「お前さん本当に山の中サ帰る気かエ」
「そうともそうとも」
「ここの男爵様の婿サアになる約束はどうするだエ」
「嫌な事だ、真平御免だよ」
「私は、茂さんの出世をさまたげてはすむまい……私は死んでもいい、お前さんお嬢様の婿サアになって上げよ」
「何を馬鹿な」
「あの山の中からも、一人位は男爵が出たら、皆んなの衆はどんなに肩身が広かろう。私が東京サア出る時も、決して茂さんの後を追うじゃ無エ、お前はお前で身を立てろ、茂さアは男爵様のお婿様になるちゅうだ。未練がましい事をして、茂さアの出世を妨げると承知をしねエぞと、くれぐれもお父さアにいわれただよ」
田舎いなかの人は正直だ、おれの気も知らないで、そんな馬鹿な事を言ってるのかい」
「だから、私は死んでもエエ、お前を男爵様やお嬢様と仲違なかたがいさして、山の中へ埋れさしては、お父さアにも合せる顔は無エ、茂さア、さらばだよ」
 娘の熱い唇がそっと、深山の頬に触れたと思うと、脱兎の如く腕の下をすり抜けて、三尺ばかりの胸壁へ攀じ上りました。
「アッ」
 と思ったがもう遅い、あまりの不意で、気が付いた時は、もう娘の身体からだは半分胸壁の外へ、六十尺の下は磨き抜いた御影の石畳、飛降りたら最後、千に一つも命はありません。思わず眼をつぶって、
「お鶴、待った」
 転げるように駆けて行くと、
「アレー」
 飛降りて死んだ筈の娘は、必死ひっしと深山へすがり付きます、見ると、例の小牛ほどあるブル、お鶴の裾を食えて胸壁から引戻したのでしょう、お鶴の裾にジャレ付いて、はぎもあらわに逃げ惑わせて居ります、
「オオ危ない、今度はブルに助けられたか、よしよし……そんな馬鹿な考えを起してはいけない、いいか、お前は石畳より犬の方が怖いから助かったんだ、おれ達の生れた村には、犬というものも、猫というものも居ない」
 深山は娘の背をさすり乍ら、ホッと太息といきをもらしました。
「いいか、よく聞くんだよ、あの山の中の村から出て来なければ、おれもお前もこんな苦労はしない、おれ達は、あの山の中の三軒家に閉じ籠って、何十年も、何百年も、食って寝て、静かに世を終ればよかったんだ。お前と生れぬ先からの許嫁いいなずけだというのを満更まんざら知らないではなかったが、つい自分の少しばかりの智恵に引かされて、東京でどうかして見ようと思ったり、先方の食えない腹の中がよく判って居るくせに、男爵の婿になっても悪くない、と一度でも思ったのがオレの迷いだったよ、勘弁してくれよ、なアお鶴」
 男の声には、不思議な真情がこもりました、娘は、その胸に顔を埋めて、涙繁く聞き入って居ります。
「お前も聞いて知ってるだろうが、今から十何年前、たまたま村へ入って来た山林区署の役人にれられて、おれは、この恐ろしい世間というものを見せられ、頭がいいとか何んとか、ツイおだてられて、大学までもやってもらったのだ。恩人が生きて居て下されば、おれも、この上博士にもなる気になったかも知れないが、先年フトした病気で恩人は亡くなる、今では元のおれ一人で、もうそんな野心もなんにも無くなってしまったよ。その上、此頃このごろになって、おれの踏んで来た道が、つくづく間違って居るのでは無いかと思われて仕様が無い……おれの脈管には、猿や熊と一緒になって、山から山、谷から谷と飛び廻った、先祖の荒っぽい血が躍って居るのだ。生竹を切って、谷河のます岩魚いわなを突いて、あれを生で食った生活、剣の峰、千願岩、猿の子知らず、あの剣の刃のような岩の上を飛廻って、獣や鳥を生捕いけどりにした、昔の生活が恋しくて、どうにもおれが我慢出来ない。お鶴、おれは思い切って山へ帰るよ、そして、お前と一緒に、呑気のんきな平和な世を送ろうじゃないか、おれはもう都会人の虚飾だらけな、ウソで固めた生活にはつくづく飽々あきあきした。ここの邸のハイカラな娘なんか、おれの目から見れば化物だ、心配するな、お前の方がどんなに美しいか知れはしない。――設計図を巻き上げられて居るので、仕方なしに婚約はしたが、おれはあんな化物と一緒になる気は毛頭ない。設計図だって、今になればどうでもいい。が、あの男爵の会社の手へはやり度くない、幸いおれの手に返ったから、あれを政府に献上して、お前と一緒に、元の茂さアになって山の中へ帰ろう。鱒を突いたり、ししを捕ったり、秋になればあんなに山が栗だらけになるし、山の芋も、トロロも、百合も、食い切れない程沢山たくさんある、何が面白くて、こんな薄汚い町に居ることがあるものか……」
「本当かい、それは」
「ああ、本当とも」
「茂さア」
 娘はもう「うれしい」とも言えませんでした、男の胸はグッショリ涙に濡れて、春の夕陽は、屋上庭園一パイに最後の光を投げて居ります。


 ブルの首に付いた二本の鎖と、深山のしめたバンドと、お鶴の腰紐とを合せて、避雷針から五階の窓へ、丁度一本の命の縄が下りました。
 それを伝わって、娘一人を運び下すことは、山男の深山茂に取っては、何んでもありません。
 窓の中へ、お鶴の身体からだを抱き下した深山は、長椅子の上へ脱いで置いた上着を取って羽織ると、もうすっかり若い教授プロフェッサーになり切ってしまいました。
 そのまま、お鶴の手を取らぬばかり、固い表情をした一座へ振り向きもせず、スーッと出て行こうとすると、
「待て」
 後から呼び止めたものがあります。
「…………」
 黙って振り向く顔へ浴せるように、
「お前は判官三郎だろう」
 かさにかかるのは黒津武です。
うして?」
「その身の軽さは容易じゃない」
「馬鹿な」
「こら、出てはいかん、今警官を呼んである」
「出るなと言ったところで、この上の逗留は御免蒙ろう、お互に愉快じゃあるまい。僕の身の軽いのは、山奥に育って、猿やししと一緒に暮したからだ、君のスポーツとやらとは少しばかり仕込みが違うだけの事だよ。僕の郷里は、名題の猊鼻渓げいびけい[#ルビの「げいびけい」は底本では「けいびけい」]から又二十里ほど山奥、中央山脈のお盆の中で、三年に一度も浮世の人の来るところじゃない、あんな所に育つと、大概身軽にもなるよ、嘘だと思うなら、僕と一緒に来て見るがいい」
「イヤ弁解は警官にしろ、逃げるな」
 黒津は躍起となって、出口へ立ち塞がります。
「オイオイ邪魔をするなよ、僕は山の中へ帰るんだ。そんなに判官三郎の正体が知り度ければ教えてやろうか、それ、そこに居るその方が、君の尋ねて居る御仁だよ」
 指さした方には、富豪の坊ちゃんで、役に立たない事なら何んでも知って居るが、その代り、御飯の足しになることは何んにも知らないという、代表的のモボ宮尾敬一郎。
「コラ馬鹿な事を言っちゃいかん、あれは宮尾君じゃないか」
「そうさ、宮尾敬一郎君、一名判官三郎だ、宮尾君の体術の鮮かさは、僕のような山男流とは又違うよ」
出鱈目でたらめを言うな」
「出鱈目か出鱈目でないか、宮尾君の顔を見るがいい、そら笑ってるだろう、判官三郎は、僕の為に、男爵の金庫から設計図を取り返してくれた恩人だから、どんな事があっても言わない積りだったが、宮尾君の顔をみると、云ってもよろしいと書いてあるから、君の迷いをはらすために教えてやるんだ。判官三郎は、僕の迷惑を黙って見て居るような人では無い」
 一座の驚きは絶頂に達しました。八つの目が、思わず無能でお人好の坊ちゃんとばかり思った、宮尾敬一郎の顔に注ぐと、宮尾はニッコリ、笑みこぼれて、
「皆さん、私は新式内燃機関の設計図と、お鶴という娘の恋を深山教授に返してやりました。古代の宝玉を黒津君の伯父さんから、正当な所有者へ返してやるように、すべての物が、正当なる所有者に返るのは愉快なことです。それが私の仕事なのです。――ところが、まだ二つだけ返すものが残って居ります。一つはチョークのかけら、これは門番の小倅こせがれへ返してやって下さい。もう一つは、手帳から引むしった、金庫の合言葉を書いた紙、これは家扶の本藤へ返してやって頂き度い。左様なら皆さん、特に美しき御令嬢、英子姫の健康を祝します。貴方あなたの恋のゲームでお鶴のような小敵に負けたのは、何んという素晴らしい教訓だったでしょう。恋のゲームの切り札は、教養や学問ではなくて、たった一つ真情です。判ったでしょうネ、左様なら」
 先刻さっき深山茂がやったように、窓ワクに手がかかると、身体からだを浮かしてスーッと下へ。
「ホウ、警官隊は今門を入るところか、少し遅かったな、ここまで登って来る内に、入れ代って私の方が門を出るという寸法だ」
 サッと身を沈めると、狭い出張りを横這いに、もう一つ身を翻すと、三階の開いた窓へ、スーッと身を隠してしまいました。





底本:「野村胡堂探偵小説全集」作品社
   2007(平成19)年4月15日第1刷発行
底本の親本:「悪魔の顔」愛翠書房
   1949(昭和24)年1月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2015年9月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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