随筆銭形平次

捕物小説というもの

野村胡堂





「捕物小説」というものは、好むと好まざるとに関せず、近頃読書界の一つの流行で、大衆雑誌の編輯者へんしゅうしゃが「捕物小説を一つ入れなければ、売る自信が持てない」というのも、決して誇張やお世辞ではないようである。
 十年二十年ほど前には、やくざ小説がはやり、明治の初年には、義賊小説や泥棒芝居が恐ろしい勢いで、創作演劇の世界を風靡ふうびした。そのいずれにも共通な性格は、英雄的で、多分に反社会的な傾向を持ったものである。今日の捕物小説は同じく英雄崇拝的な傾向を持ったものであるが、むしろ根底に横たわる思想は遵法じゅんぽう的又は人道的で、その点やくざ小説又は義賊小説とまったく異なり、同じ系統の小説らしく見えながら、新しい読者を獲得した所以ゆえんだろうと思う。
 その意味において捕物小説は、単なる犯罪小説又は怪奇小説であってはいけない。あえて世道人心を裨益ひえきしようなどという、大それた自惚うぬぼれは持っていないまでも、娯楽に重点を置き過ぎ、読者の好奇心におもねって、人の子を毒するようなことでは、遅かれ早かれ、世の中から見捨てられる時期が来るだろう。捕物小説に一脈のヒューマニズムの匂うのは、捕物小説のためには、保身延命の保護策でなければならない。


 では、捕物小説は、どれだけの特色があるかといわれると、一般大衆小説と同じように、それは娯楽的な役目を果たすばかりでなく、探偵小説の範疇はんちゅうに属するものとして、スリルとサスペンスの刺戟になる読書子の食慾に満足を与え、さらに作中の主人公と共にトリックを解いていくスポーツ的興味の外に、何がなし、特別なものを持っていなければならないはずである。
 その一つは、江戸時代を描くことに依って味わい得る郷愁への訴えである。まげを結って刀を差していた江戸時代、青酸カリもピストルも無かった江戸時代は、馬鹿馬鹿しい義理人情にゆがめられた時代ではあったが、同時に、吉原と猿若町の空気が、不健康ではあるにしても、一種微妙な江戸情緒をかもし出し、そこに生まれた幾多のロマンティストが、想像も及ばぬ美しきものを織り出した時代でもあったのである。
 捕物小説の主人公は、理想化された町方役人又は御用聞きであり、その活動の舞台は、ほとんどことごとくが、江戸っ子の庶民階級である。其処へ登場する武家は、先祖の手柄で徒食する、ドン・キホーテの場合が多く、通俗小説の英雄――忠臣義士はあまり顔を出さない。
「捕物小説の与力や目明かしは、決して賄賂わいろを取らない」とある人はいった。いかにも面白い言葉である。現代の世智辛さに疲れ果てた人が、江戸時代への回顧に、一脈の慰安を感ずるように、毎日眼に触れる収賄贈賄の新聞記事に中毒している人達は、江戸時代の御用聞きの清廉さに、涼風腋下えきかの快感を覚えることであろう。


 これはすべての探偵小説について考えることであるが、探偵小説又は捕物小説はしばしば人間の猛烈な本能の発動を抑制するための安全弁をなすことである。本能の発展盲動は、多種多様で限りもなく、その動きは猛烈で、容易のことで抑えようはない。これを調節抑制して、社会生活の平衡へいこうを保ち得るものは、その人の教養――わけてもたしなみと打算と、想像力だけであるといっても良い。
 多くの性格異常者や犯罪者は、想像力を持たないのが普通で、「こうすればああなる」「ああすればこうなる」という推理と想像を欠くために、少しばかりの金の欲しさや、一時の慾望の衝動に駆られて、とんでもない事件をき起こすのである。最近当局が売春婦狩りをして、一人一人について調べた結果、彼女等の七八十パーセントまでは、花柳病に対する知識がなく、病毒の危険に対して、全く無関心であったといわれている。無知と想像力の欠如ほど、人の生活の平衡を危うくするものはない。
 恐るべきは探偵小説を読む害毒よりも、探偵小説をさえ読まぬ無知と、探偵小説を解し得ぬほどの想像力の欠如であるといって宜い。


 捕物小説は義理人情小説であるという人がある、それは捕物小説を低級なチャンバラ小説と同一視する程度の、恐るべき浅見といわなければならない。捕物小説には、原則としてチャンバラはなく、捕物小説には、絶対に低級な義理人情の鼓吹こすい又は讃美はないのである。
 捕物小説の一つの傾向は、単なる殺人の技術と、その詭計きけい解釈の小説であってはいけないために、法の適用に、一つのユートピア的な自由さを持たせた点を特色とする。
 探偵小説は、エドガー・アラン・ポーに始まると思われているが、中国には早くもげん代に『棠蔭とういん比事』があり、日本には三百年前の井原西鶴に『桜蔭比事』がある。以後『桃蔭比事』を経て『大岡政談』に至るまで、多くは探偵小説であるというよりは、むしろ裁判小説であり、名判官の名裁判をもって終始しているが、一貫せる思想は、達眼たつがんをもって情理を見極める、一種の大岡裁きで、もっぱら法の運用の面白さを描いたものである。
 冷酷無残な人情と、仮借なき法の運用に対する反抗は、昔から小説のよき題材ではあるが、わけてもヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』は代表的で、法の冷たい執拗さの影に、人間の果敢はかなさ弱さを強調したものである。
 この思想は何時いつの世にも民衆の喝采を呼ぶことに変わりはなく、やや不健康な程度にまで奔逸ほんいつしたのは、泥棒小説とやくざ小説の題材になっているのである。
 法の精神は、動機を罰せずして、行為を罰する。動機がいかに兇悪無残でも、行為として直接現われない限り、法はこれを罰することは出来ない。しかし、大岡裁きや捕物小説においては、しばしば行為を罰せずして、動機を罰することさえ許されているのである。捕物小説の面白さ、読者にやんやといわれる原因は、その辺にもあることだろうと思う。


 だが、私は決して捕物小説の現状に満足しているものではない。捕物小説も、娯楽小説であると共に、文学としての一つの形式を確立し、芸術的作品にまで地位を高めなければならないのである。ドストイェフスキーの『罪と罰』がかつて試みたように、人間の心のうちから、天使と悪魔とを抽出して、最高文学の領域にまで、その創造を高めなければならないのである。





底本:「銭形平次捕物控(五)金の鯉」嶋中文庫、嶋中書店
   2004(平成16)年9月20日第1刷発行
底本の親本:「錢形平次捕物全集別巻」同光社
   1954(昭和29)年
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2015年12月13日作成
2019年11月23日修正
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