平次放談

野村胡堂




江戸のよさ


 江戸のよさということを、いまの人は忘れていると思います。江戸というものは、いいものだし、たいしたものでした。
 当時、両国にはたいへん猥褻わいせつな見世物があって、いまのストリップ・ショーなんか、とても追いつくものではなかったというんですね。
 ところが、そこに行くのは、折助とか、やくざとか、田舎から出てきた江戸見物の人たちで、江戸の堅気の人たちは、決してそこに近づかなかった。
 それから比丘尼びくに(比丘尼姿の売女)とか、船饅頭ふなまんじゅう(浜辺の小舟で売色した私娼)という下等の売春婦に、江戸の市民は決して近づかない。あそこに行くのは落ちぶれた、だらしのない生活者に限られていました。
 もちろん江戸には、ずいぶんイヤなものが多く、強権でもって封建的に人を押さえつけたこともあるけれども、一方によいことも一杯ありました。江戸払いとか、江戸構えといっても、実際は名前だけで、あいかわらず江戸に入っていたそうです。つまり「叱りおく」といった程度で、江戸におることができた。かりにそれが分っても、誰も摘発なぞ、おせっかいはしませんでした。
 むかしの人には、そういった一種のたしなみとか、思いやりがあったんですね。
 いまの人には、他人が見ていなければ、何をしたってかまわないという気持がある。江戸の人は他人が見ていなくても、へんなことはしなかった。たとえば両国の見世物に入ったところを他人に見られようものなら、とんでもない恥としていた。こうした江戸の気風というものは、パリやロンドンあたりの伝統的な気風と、よく似ているように思われるんですがね。
 江戸人には、たしなみというものが、それくらい大きな支配力を持っていた。それで私は、たしなみのある女こそ一番美しい女じゃないだろうか――というテーマで小説を書いたことがあります。
 これを江戸の人は、みんな持っていました。それをいまの人は持たなくなっている。私が平次、八五郎を書くと、回顧的だとか退嬰たいえい的だとかいわれるが、それは間違いで、江戸のもつたしなみとか、江戸の所作とか、江戸の郷愁ノスタルジアとか、これを忘れてはいけない。あれを振り返って考えることは、新しい文明をつくる上に必要なことなんだから……。
 案外、日本のマゲ物小説が読まれるというのは――いまのマゲ物はチャンバラじゃない。チャンバラのマゲ物は大正末期から昭和初期のもので、いまのものは、江戸という回顧の世界のなかに、一つの理想郷ユートピアを求めるという書き方になっています。――作中に、いまの世の中になくなった道徳や心構えが出てくるが、人間は誰でもノスタルジアを持っているから、それを読んで喝采をおくるんじゃないかと、私は思っています。だから日本の思想的混乱がつづく限り、もっと混乱的な、破綻はたん的な小説よりも、かえって昔ながらの整った江戸を回顧して、読んだり書いたりするのは、むしろ当然の傾向ではないでしょうか。
 現代を舞台としては書けないことでも、徳川時代にもって行けば、すらすら書けるしね。その徳川時代の作家の人たちは、幕府の勢力があったんで、舞台を鎌倉に借りて物語を書いていたんだね。だから『鎌倉三代記』なんか、じつは大坂城のことだったりします。

ベッド・ルームの本


「銭形平次」を書きはじめてから、もう二十何年になりますかナ。……まあ二十四、五年というところでしょう。もう三百篇以上も書いている。こうした種類のものでも三百とは、例がないと思うんだが、人間ていうものは不思議なもので、ふいと書きはじめて、調子づいたというだけのものでね。格別の動機というものはありません。
「銭形平次」を、吉田首相が読んでいる。ベッドで、寝ながら読むという話ですね……。これは非常に面白いと思いました。誰でもぜひベッド・ルームで、平次と八五郎を読んでもらいたいものです。
 なぜというと、私の若い友だちがフランスに行って、あちらの上流や中流の家庭を訪問してみると、サロンに飾ってある本箱は、せいぜいヴィクトル・ユーゴーで、その他はコルネーユとか、ラシーヌといったところだという。ユーゴーと同時代の作家でも、デュマは入っていないんですね。
 それならデュマをフランス人は読んでいないかというと、どうして、巌窟王がんくつおうでも、三銃士でも、大いに愛読している。友だちが妙に思っていろいろ研究したら、そういう大衆小説は寝室におくんだというんですね。つまりそれですよ。
 書斎、サロンにかざってある本は読まないものなんです。読まれない本はご承知の通り、『戦争と平和』といったものですね。そういう本は飾ってあるだけの本で、読まない本が多いんだそうです。みな読んだような顔をしているだけで……。
 ところがベッド・ルームの本は読まれる本なんですね。幸いにして、吉田さんがベッド・ルームの本として「銭形平次」を愛読して下さるということは、作者として大変ありがたい。むろん、首相は、「なアに銭形平次なんぞ……」と言っているかも知れないけれども――。
 ともかく私は、読者が寝ながら楽しんで読む、ベッド・ルーム用の本を、今後もずっと書いて行きたい。私自身も書きながら、できるだけ楽しんで。

平次はこうして生れる


 私は執筆するとき、いつもレコードをかけています。
 今日も長時間レコードを仕入れてきたが、これは一面が二十五分だから、一枚で五十分きけます。それを伴奏にして、仕事をするんですよ。長時間レコードを十枚ばかり、自動装置の機械にかけておくと、四時間くらいは大丈夫。それを裏返しすると、また四、五時間聴けるんだから、手数はいらず、のんきに仕事ができて、実にいいんですよ。それを伴奏にしながら、仕事をするのはなかなかよいものだ。
 いまはジャズがはやっているが、これは私とは畠違いで、ジャズは何を聴いても同じに聴こえて分らない。
 というのは、ジャズの重大な要素はシンコペーション(音楽の強さ弱さが急激に変動すること)であって、これは人間の心を興奮させる。だからジャズは考えごととか、執筆向きじゃない。いつでも興奮的なんですね。
 ジャズは若い人でないとダメで、私どもはクラシックの音楽しか分らないから、興味もそちらに限られ、平次を書くとき伴奏してくれるのは、いつも古典ばかりということになる。
 ラジオも、もちろん手数がはぶけて面白いんだが、長つづきがしない。十五分から長くて三十分で、それも何が出てくるか分らないから困る。せっかくいい音楽を聴いて、好い気持で筆が進んでいるとき、次に浪花節が出てきたりするんで、八五郎のやつが胆をつぶしちゃうんですよ。
 やはり長時間レコードを十枚ならべておいて、仕事をするのが、一番、能率的ということになります。ところで私には妙な蒐集癖しゅうしゅうへきがあって、昔から小遣いをすっかりレコードにほうりこんだんで一万枚以上もたまってしまってそのために倉庫を一つ建てねばならなくなった。しかし、その中には長時間レコードは一枚もない。だから長時間レコードが発明されると、どうしても普通の盤はL・P盤(長時間レコード)に征服されて、いまではあの倉庫のものは廃物みたいになってしまいました。
 しかし、これは一方からいうと、私とは長い道連れだし、友だちだったし、あれがあったお蔭で、いろいろなものを書き散らして、そのために本も何冊かできるし、まんざら無駄にもならなかった。幸い空襲もまぬかれたので、ちゃんと保存してやらねば義理が立たないと思っています。
 このあいだ、ある雑誌に私が蓄音機を二十台もっていると書いたら、さっそく税務署から課税されたには驚きましたね。これらの蓄音機は、手でまわすといった種類の、全くの骨とう品なんで、それも長い間に心がけて集めておいたものなんですよ。それを税務署は新品と思い違えたものらしい。

酒と煙草の弁


 酒と煙草がなかったら書けない、という人が多いが、まあ私にはレコードがその代用品で、いまでも西洋の大家が演奏にくれば必ず聴きに行っている。そうすると何かしら一つの新しい境地を見いだして、生活上のいいうるおいになる。
 しかし私は酒も強かった。三十代の新聞記者時代、ちょっと飲んで、それから途中で二十年間よしていた。戦争がはじまって酒が配給になってから、また飲みだしたが、どうも身体によくないと思ってね、今年の春からずっとよしている。のめば身体が大きいから強い。強いからかえって毒になるんですね。飲みはじめると、私の方が若いものより、ずっと強いんですよ。
 煙草も、ひどい煙草好きだったんだが、関東の大震災によしたから、やめてちょうど三十年になります。で、私は若い人に、煙草は百害あって一利もないから、よした方がいいと、よく言うんだが、いったん喫煙癖がつくと、なかなかよせないですね。
 煙草をよす意志の力があったら、世の中のことは何でもできると言われているのは至言ですね。
 酒は簡単によせるが、煙草はなかなか止められない。

三浦環に惚れた男


 ま、禁酒禁煙の話なぞ、このくらいにして。……十九世紀の終りか、二十世紀のはじめ頃にね、ナポレオンというのは架空の人間だと称えた人があります。
 ナポレオンがおったために世界の歴史がひっくり返るような騒ぎをしたのに、それから八十何年もたたないのに、そのナポレオンは架空の人物だと言いだしました。
 この筆法で行けば、日本でも西郷隆盛は架空の人物である――といっても成り立たないこともない、理窟からは……。恐らくいつかは、そういうことを言いだすかも知れませんね。
 重野安繹しげのやすつぐという博士は、抹殺学者といわれた人で、この人は歴史上の人物をよく抹殺しようとしたものだ。児島高徳こじまたかのりは架空の人間だとか、武蔵坊弁慶は空想の人物だとかいってね。
 現に、日本の神代史は抹殺されている。われわれが常識的に知っている人は、いずれもおとぎ話の人間だということになっている始末だから……。
 根拠は実にたよりない話なんだけれども……。
 たよりないといえば、この間の新聞に、女の落語家が高座で落語をやって、やんやと言われました。彼女が女流落語家の元祖だ、と書いてあったが、そうでなく、女の落語家の元祖は、明治三十五年ごろに東京に燕嬢えんじょうという柳派の落語家がいて、これが最初の女流落語家でした。その燕嬢は当時の夜会巻やかいまきに髪を結い、黒紋付の羽織の、りゅうとしたなりで高座にでて、人気を呼んでいました。
 その頃、ブラックという英国人がいて、これも寄席にでては、ときおり真打をやっていた。つまり英語の落語を翻訳してやっていたんだね、この人は……。とにかく二人とも、非常な異色として評判でした。
 ところが燕嬢は、千葉秀輔ひですけという人の奥さんで、この秀輔という人は当時のドイツ語学者だった。これは私の勤めていた新聞社の同僚だったので知っているんですよ。
 この秀輔がのちに、三浦たまきのあとを追いかけ廻すようになってね。環がまだ未婚でザルコ・リーなんかと、帝劇でオペラをやっていた時分だったが、秀輔の惚れ方たるや大したもので、三浦環は彼のしつようなる追跡に嫌気がさして、南洋で三浦博士と結婚してしまったんですよ。
 それでも秀輔はあきらめない。全く彼は大変な男で、夢中に環を追いかけたが、この人の本当の奥さんが燕嬢で、この燕嬢がなんの因果か、私の友人が幼稚園時代に教わった先生だったという因縁があります。
 この幼稚園の先生がなかなかの達弁で、後に落語家になったんですが、落語は上手とはいえなかった。最近、この話をある人にしたら、知っていましてね。あの燕嬢なら、われわれもきいていると言っていました。
 だから、この間のは、新聞のあやまりの一つで、女流落語家の元祖は、やはり燕嬢ですよ。
(談)





底本:「銭形平次捕物控(十四)雛の別れ」嶋中文庫、嶋中書店
   2005(平成17)年8月20日第1刷発行
底本の親本:「銭形平次捕物全集第二六巻」河出書房新社
   1958(昭和33)年
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2015年9月1日作成
2019年11月23日修正
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