釣十二ヶ月

正木不如丘




一月


 二日早起諏訪湖畔から小淵沢迄こぶちざわまで汽車、富士見駅から超大型のリユツク・サツクを背負つて、名取運転手乗り込む。去年正月れて行つた小使君は、御勘弁願ひますと逃げてしまつた。穴釣りの面白さは分つても、寒さには降参したらしい。名取のリユツク・サツクには、炭二貫目、石油缶を二つぎりにした火鉢二ツ、それに餅一臼は入つて居るだらう。
 小淵沢でしばらく待つと東京からの夜行がつく。毎年二三人の同好の士が来る。小海こうみ線へ乗り換へて、急傾斜の上りになる。小泉、大泉と海抜と共にすばらしい景色になる。
 車中の客皆立ち上つて窓外を見る。東南の方大富士がスラツと立つて裾を曳く、その右に目近く南アルプス連峯、甲府盆地は朝靄の糢糊もことして人生生活はまだ見えない。
 西北反対側の車窓に眼を転ずると、鼻先に八ヶ岳連峯が刻々と姿を変へて行く。毎週一回富士見東京間を往復して居る私は、富士見への帰路長坂駅近くなつて、右車窓に見える八ヶ岳のとゝのつた何処か女性的な姿を見て、

わが山の八ツ安泰に秋の空

の一句を吐いたほど、二十年近く、この山に親しんだのであるが、小海線から見る八ツは、わが山、とはどうしても見えぬ荒い感じの山に見える。八ツの正面は長坂から富士見迄で、小海線からは横顔である。
 小泉駅から鉄路は富士川支流の川俣溪谷を右窓から見下される。水量は余り多くないが、山女魚やまめ岩魚いわなが棲んで居る。滝が向ふ岸から落ちて居るのが見える。滝の名は知らないが、入江たか子の滝である。「月よりの使者」と云ふ映画に出た滝である。この映画の原作は久米正雄君であるが、富士見高原療養所の看護婦を主人公にして居るので、ロケーシヨンには入江たか子さんや高田稔君が富士見へ来た。あのロケーシヨンの頃、入所患者が浮世を感じたと見えて、毎晩催眠剤を請求して困つたのを今も思ひ出す。
 そのロケーシヨンの下調査の時、私はこの辺で富士の見える所は、みんな富士見高原と思つて居ます、と話して、小海線も一応見て下さいと云つたのである。それでこの滝もロケーシヨンに入つたのである。
 あの頃は小海線がやつと開通したばかりであつたが、私はそれ迄にもう二回通つて居た。最初は鉄路が清里迄やつと出来て、汽罐車だけ試運転をした時であつた。景色のすばらしさを私に宣伝させる下心があつてか、私にその試運転に便乗する交渉があつたのである。私はスイスの高山を見物して帰つた後なので、申訳ない事ながら、日本の景色ぐらゐたかが知れて居ると、いさゝかならず軽蔑して、この試運転に便乗したのである。ところが私は全くあきれ返つてしまつたのである。こんなすばらしい景色が日本にこそあつたのである。
 その後私の友人で、わがスイスが居るので、彼氏をだまして一度この線へつれて来た。彼氏曰く、これはすばらしい、全く日本ばなれがして居る、と。ほめ方に日本ばなれと云ふのは不届ふとどきであるが、とにかく世界一と日本人には思はれると確信して居る。

冬富士の高さもここに窮れり

 川俣溪谷の奥で汽車は川を渡つて清里駅に着く。富士の見えるのはこゝ迄で、それからは全くの高台の感じの野辺山のべやま原となる。八月は秋草が美しい。正月二日は白一色であるが雪の深さは一尺あるかなしである。
 次駅信濃川上は、信濃川の上流千曲川が木の根草の根を分けて流れて川の姿をして程なくの所にある。それから線路は千曲に沿ふて、公魚わかさぎの穴釣の松原湖駅まで。

二月


 今月も釣りもののない月である。季節がおくれては居るが、公魚の穴釣りをする。五六年前の二月初旬、富士山麓の山中湖へ行つた事がある。
 山中湖は深いので秋の公魚釣りはなく、氷が張りつめてからの穴釣だけである。氷の張るのは一月初旬からなのが例であるが、安心して氷に乗れるのは、一月中旬からである。
 氷の上をあるき廻つたり、スケートで滑つて、バリ/\と氷が割れるのは、決して危険ではなく、むしろ氷上安全の徴候である。明方など氷上で釣つて居ると、バリ/\と形容するよりは、ゴーツと底力のある音がして、氷が割れて地震のやうに氷がゆれるので、慣れぬ人は恐怖を感ずるが、かう云ふ時ならば決して危険はないのである。足許の氷がわれて落ち込む時は、だまつて落ち込むのが普通である。氷は水より軽いから、たとへ氷がわれて一部の氷が周囲から遊離しても、のつて居る人を支へてくれるものである。
 山中湖の釣れ初めは平野村寄りからであつて、氷はこの辺から張り初める。氷上釣の環境は清浄そのものであり、又当然海抜も高いので景色もいゝものであるが、山中湖は雄大純浄な富士を眺めながら釣るのであるから、けだし釣趣満点である。氷上にポツ/\と簡単な釣小屋が立つて居るが、あの中で釣るのは寒さしのぎにはなるであらうが、折角の申分ない環境から隔離されるから、氷上釣の興趣の大半は失はれてしまふ。私はあの小屋は大嫌ひである。むしろ黎明と共に見え初める紫水晶の富士の峯が先づ紅をさして、その紅が一分々々とすそ迄流れて、スラツと純白な巨嶺となる迄の釣れ盛りの一時を、漁業を犠牲にしながら、ひとり楽しみたいのである。
 五六年前の時は季節が二月に入つて居たので、もう平野村沖は過ぎて居て、旭ヶ丘寄りに旗が立つて居た。穴釣りはどうかと思はれるどんより暖い曇天どんてんで、富士の姿は全く見えなかつた。旭ヶ丘の宿を朝五時に出たが、案内小屋にはもう焚火たきびが燃えて居た。この湖水は東京の釣人が集るので、穴掘りもしてくれるし、炭売人も蜜柑売も来るし、汁粉小屋まであつて、いさゝか俗化して居る。
 案じたよりも釣れはよかつたが、十時頃からみぞれになつて来て、冷たい水が外套を通して下着に迄透つた。その代償か漁果はすばらしかつた。正午宿に引き上げて、ぬれしづくの着物を暖炉で乾した。その前年の秋白系露人から買つた皮の上衣の染が落ちて、下に着て居た若々しいスコツチの上衣の袖がうす黒く染つてしまつて、洋服屋に裏返しを頼んだらば、安物など買ふからです、とひどく叱られた。
 もう一つ公魚をスキー場霧ヶ峯近く蓼の海で釣つた二月もあつた。霧ヶ峯はスキー場として初歩の行く所であると評判されて居た。実際池のくるみからグライダー小屋あたりは、所謂ゲレンデーであるから女学生の滑り場であらう。一体地図に見る霧ヶ峯は現場で見ては峯ではない。あの辺の高原中の丘であつて、スキーに行つた人達も、どれが霧ヶ峯か分らないであらう。あの辺一体が霧ヶ峯山なのである。だから実際上池のくるみと云ふ旧噴火口の湿原の周囲をとりまく高みと噴火口湿原そのものとを合併して霧ヶ峯と云ふべきなのである。さうなると、霧ヶ峯は全部ゲレンデーに相違ない。
 しかいやしくもスキーヤーたるものは、スキー場霧ヶ峯と云ふならば、車山から大門峠へそして親湯迄のコースを、又は池のくるみから鷲ヶ峯迄のコース迄を含めなくてはうそであらう。かう大観すればスキー場霧ヶ峯はゲレンデーのみではなく山スキーの霊場であつて、菅平すがだいらと比肩すべきものである。
 その霧ヶ峯の山小屋の人から、足許の蓼の海に何か小さな魚が棲んで居て、氷がとけるとその魚が群をなして注ぐ小川へ上つて来る話をきかされたのである。私はすぐに公魚わかさぎと直感した。川へ上るのは産卵のために相違ないし、そんな早春に産卵する魚は公魚以外にはない筈だからであつた。
 果して穴釣りで公魚が釣れたのである。早速釣友麻生豊君に密報した。どうしてあんなに穴に集つて来たものか、ここで今眼をつぶつても、穴いつぱいにうよ/\と魚の泳ぎ廻るのが見えますよ、と麻生君は五六年後になつた先日、東京で私に述懐した。ほんとによくもあれ程集つて来たものである。誰にも知られずに年魚である公魚は何代もかゝつてあんな小湖であれ程繁殖したのであつたらう。然も誰も意識的に移植したのでなく、恐らく諏訪湖から鮒子でも移植した時、偶然混つて居た数尾の親から繁殖して居たのであつたらう。
 蓼の海は、蓼の湖ではない。蓼が一面に生えて居たくぼ地だつたので蓼の海であつて、その凹地を用水池にしたので小湖が出来たので、今も昔の名が残つて居るのである。
 十二月中旬から三月中旬迄、この小湖は氷が張りつめて居るが、三年前水を乾して以来公魚は駄目になつた。今度の冬は又釣れ初めて呉れまいか。

三月


 桜三月、桜バヤ、と釣人は三月の声を聞くと、動意起るハヤを追ひ初める。標高千メートル近い諏訪地方では、桜はおろか梅も咲かない。諏訪湖の氷はとけて再び氷る事もないが、まだ雪解の水量に湖面が上る様子はないのである。
 諏訪湖へ注ぐ川へ、春情稍動くを感じて、やまべを釣りに行くと、二三十尾のやまべと十尾内外の公魚がかゝる。上川の支流では湖水の氷解け以来、公魚の人工授精卵を諏訪湖漁業会が真剣になつてやつて居る。その人工授精は、湖水の氷解けと同時に、湖水からさかのぼつて来る熟魚を川で網に入れて取つてやつて居るのである。雌魚のお腹を一寸きると卵がこぼれ出る。それをお皿にうけて、雄魚の精糸をかけて、ソツと毛筆で撫でる。それで授精がすむのである。授精卵は棕梠しゅろの繊維で編んだ網につけ、その網を水の出入りする隙間のある木箱に入れて川水に沈めて置くのである。水温にもよるが大体二三週間もたつと卵に眼が見えて来る、眼と云ふのは透明な卵の一部に黒く幼体が現れたもので、これがチョロ/\動いて居る。一月程でこの眼が髪の毛ほどの魚体となつて卵嚢らんのうを破つて出る、卵がむけたと云ふ。
 一尾の成魚の卵およそ三千粒、年々この人工授精卵五億五千万粒乃至ないし七億粒である、自然孵化凡そその半数と見て、計十億の幼魚が諏訪湖に出るのである。
 銀座裏の小料理屋に、諏訪湖公魚とビラの出て居るのを見た。うまいかね、と女中さんに聞いたらば、日本一です、霞ヶ浦のなどゝは段違ひです、と大宣伝であつた。然しあれは一月下旬であつたから、穴釣の出来ぬ諏訪のものではないが、とにかく諏訪湖公魚と銘をうたれると、自分がほめられて居るやうでうれしかつた。

四月


 昭和十六年から十九年迄四年続けて四月五日に伊豆の網代あじろへ海釣に行つた。この海釣は私の記念日ではなく、佐々木くにさんと益田甫さんの鯛供養の記念日なのである。昭和十五年の四月五日に釣人として腕の出来て居る益田さんが素人の佐々木さんをそゝのかして、網代の沖で鯛釣りをして、真偽のほどは保証し難いが、大鯛を五枚もあげたので、その記念会に昭和十六年から私も参加する事になつたのである。
 昭和十六年迄私は海釣を知らなかつたので、鯛ではないが、小物をすばらしくあげて、こんな面白い事を今迄やらなくて残念千万だと、過ぎ去つた青春の年月の無意味だつたのを感じたほどである。
 さて昭和十八年の暮近い網代で、釣果はあまりなかつたが、海の上でコツソリぶりを買つて上陸した事があつた。その日の不漁で同行の士はもう一日頑張る事になつたが、上山草人かみやまそうじんさんと私とはその日夕暮、そのぶりを一本づゝ持つて上京した。その汽車の中で――
「よく網代でぶりが買へましたな、私はどうしても買へなくて、山の中の御殿場へ行つてやつと買つて来ましたよ」
 と私達に話しかけた老人があつた。その頃から統制が厳重になつて、海の漁師の漁果は全部配給施設に渡さなくてはならなくなつて、配給以外の横流しは厳禁されて居たのである。私達のも釣舟の漁師同志の話合ひでやつと入手出来たもので、釣つたと云ひ張つて下さいとくれ/″\も云はれて居たのであつた。
「いゝえ、とても買へやしません、間違つて釣れたのです」
 と私は答へて、草人さんにめくばせした。
 草人さんはさすが本職である。前から車内の人達は、草人だとコソ/\話しあつて居た。
「何しろ私達は甘鯛を釣つて居たんですからな、その甘鯛仕掛にかゝつたぶりですから、仕掛をきられぬやうに引つぱり上げる迄の苦心は……」
 草人さんは身振り豊かに冷々しながら釣り上げる迄の苦心を説明し初めた。きいて居る車内の人々のみならず、私迄手に汗を握つてきゝほれてしまつた。そして私もいつともなく相槌を打ち初めた。全く神技に入る草人さんの仕草は私に乗り移つて来て、私自身ぶりを釣つてしまつたのである。それが諏訪湖畔の私の家迄続いて、大ぶりを前にして子供等にぶりを釣つた苦心を話してしまつた。
 さて昭和十九年四月五日、鯛供養に網代へ同志集つた時、私はこの話をして、
うそもくり返して話して居ると、自分迄もだまされるものですな」
 と、人間の心理の面白さを語つた。さて一月過ぎた頃、諏訪湖で尺鮒を釣つて大得意になつて帰宅すると、中学生め、
「これも買つて来たんだ、去年のぶりのやうに」
 と云ふのである。咄嗟とっさの事で、私はただ目をパチクリするだけであつた。その夜書斎へ入ると机の上に、佐々木邦氏主裁のユーモア・倶楽部誌が開いて載つて居る。ふと見ると邦さんの随筆に草人不如丘ぶり釣が書いてある。佐々木邦さんとは将来大事を語らぬ事に決心した。

五月


 春遅い山国信濃も桜桃すもも一時に咲き一時に散つてやまべとなる。
 諏訪湖へ注ぐ宮川筋上川筋にハヤ釣がにぎやかになる。この土地で云ふハヤは実はやまべであつて、俗称人絹なのだ。やまべは学名おいかはで春になると、雄魚は頭がとげ/\しくなり青い地に赤と紫のお化粧を凝らす、それを土地であかずと云ひ、化粧せぬ雌魚ははやで通して居る。本バヤ即ち学名うぐいあかはら又は赤魚の名で雌雄ともに腹が赤くなるが、主として天竜に居て、諏訪湖の上流の方はうぐいは稀でおいかはが主である。
「これは諏訪湖の川にだけ居る特別のハヤです」と説明して居る釣人があるが、これは大海を知らぬ井の中の蛙さんである。
 諏訪湖へ流入する川は大体三本であるが、一つは富士見から出る宮川筋で、これは富士見から青柳駅、それから茅野ちの駅近く迄鉄道線路に沿つて流れ、その後西流し、再び北流して諏訪湖に注ぐのであるが、下流は灌漑のいくつかの用水路に分れて、春の乗込鮒のっこみぶなの水路となつて居る。その中で文出部落を流れる本流がやまべ釣の川であつて、四五ひろの深さがあるので、釣り上げる迄のたのしみも深い。
 上川と云ふのは茅野駅から東方四五里の蓼科高原から出る滝湯川と、八ヶ岳の渋の湯から出る渋川の合流したもので、上流は山女魚やまめ岩魚いわなの釣場で、下流は六斗川となつて湖水に注ぐ、この六斗本流と、お白狐神社前から諏訪の競馬場うらを流れる支流がやまべの居る水筋である、文出の宮川より浅く流れは急である。
 宮川は水が深く流れがゆるやかなので、じつと堤に腰を落着けて、ゆつくり浮子うきのチヨン、チヨン、スウと沈むのを楽しむ事が出来て、春風駘蕩の季節に溶け込める。
 上川筋は稍急流で浅場なので、足で釣らなくてはならぬが、やまべらしく案外魚籠びくは重くなる。私はもつぱら此川筋へ出漁して居る。
 餌は蜘蛛くも、寒い頃は田蜘蛛土手蜘蛛、五月になると川端の葦の葉を折つて棲んで居るべつかう色の三角蜘蛛。私はサシ一点張りである。

六月


 釜無渓谷や蓼科高原の山女魚の錆がやつととれる。四五月の雪代の頃は釣り易いが、川虫がまだ少いし、水が冷くて手が痛い。
 釜無川の山女魚の型は特に大きい。釣り上つて昼飯に薪を拾つて河原で飯盒はんごうに味噌汁を煮るのがうれしい。山吹の黄と山躑躅つつじの朱。味噌汁の中には山の幸たらの芽。

七月


 伊那山中、三峯みぶ川上流小瀬戸の御料局宿泊所。天竜支流三峯川は仙丈ヶ嶽、白根三山から源を発する大河で、俗人の全く入らぬ小瀬戸あたりでもかなりの水量で、相継ぐ滝ととろに岩魚が濃い。
 夜の七時、私達は宿泊所で若い山林技師と話して居る。
「和歌山の高農の林学科を出ましたが、肺浸潤の診断をうけましたので、三四年は山へこもる決心をして此処へ来ました」
 二十四五歳の弱々しい技師君である。
「木曾の支局から先生がおいでになると知らせて来ましたので、お待ちして居ました」
 この山中迄入つて来て、医者として待たれて居たのは意外ではあつたがうれしかつた。
 主任さん、と宿泊所へ訪ねて来る部下達は皆あらくれの山男である。
「女つ気のないこの山中なので、此処へ来た当座は恐ろしく思ひました。山男達に反抗されたらば、私のやうな青二才は滝壺に投げ込まれてそれでおしまひですから」
 主任さんはこの山中では警察権も握つて居るのである。
「喧嘩でも出来れば仲裁もしなければならないと思ひましてね、きつとばくちをやるから、それがもとの喧嘩は当然と思はれました。ところが何の心配もいらないのです。上から下迄、御料局の者だ、御料林をおあづかりして居るのだと云ふ事が、心の底まで沁み渡つて居るのです。それが分つた時、私は泣いちやいました……」
 私達も眼頭めがしらがあつくなつた。
「主任さん」
 更けた夜風にまじつて人声がした。若い技師は障子をあけて出て行つた。
「技師さん今夜はうれしいんだね」
「さうだらうよ、文学青年だからな」
「それに又病身だし、診察してやるよ」
 麻生、益田両君も私も、来てあげてよかつたと思つた。
 主任さんは五六尾の岩魚を握つてもどつて来た。
「上の飯場から……一里半もあるんです。私が病身と知つて持つて来てくれたんです」
 しばらくぶりで感傷的になつたであらう主任さんは泣いて居た。
 その夜私は何かの時と思つて持つて行つた聴診器を使い、私達三人翌朝は早いと知りながら、主任さんをなぐさめるつもりで遅く迄、文壇画壇の話をした。
 翌日の昼頃、案内の山男に、もうこれ迄ですと云はれて魚どめの滝から引き返して来たとき、大瀞の真中の離れ岩の上に、大の字なりに上向きにねて、両手をくんで枕にして澄み渡つた大空を見て居る主任さんを見付けた私達は、わざと黙つて其処を通り過ぎてしまつた。その後人伝てに、私達の釣姿の写真を主任さんは私にくれた。礼状も出し忘れたまゝなのを今気付いた。あれからもう五年、あの主任さんは今どうして居るだらう。

八月


 暗の夜、舟で諏訪湖に出て、藻の中に舟がかりして、大提灯おおちょうちんを舟べりから出して、いくつか並べた浮子を、手長海老に遊ばせる。夜涼みであるが風はソヨともしない。明日のお弁当のおさいが出来ると帰る。

九月


 中央線辰野駅から飯田線に乗り換へて伊那本郷で下車、小一里あるいて天竜の養命酒本館の倉庫下の淵へ出る。岩をつたつて酒がじた/\流れて居るのでプンと河原が香つて居る。鮎のどぶ釣仕掛ではやを釣る。それは朝のうちだけにして、日が高くなると、それから上の荒瀬で、落鮎の友釣をやる。生れて初めての友釣ではあり、秋鮎なのでおとりだけでも相当の重さである。ぐぐつと来た、やつと竿を半分程立てゝ、水の中の足を石から石へと運んで下流へ動いて行くが、何としても魚が寄つて来ない。
「助けてくれ」
 先達がかけつけて来て、道糸を下流の岸で握つてくれた。竿をかついで上陸してかけつけて見ると、釣りも釣つたり、いや釣れも釣れたり囮にまさる尺鮎であつた。
「理想的です、背がかりです」
 ほめられて恥かしい。その日は五尾あげたが囮ごと二度道糸をきられたので、買つた囮迄入れて六尾眼にして漁果計二尾、買つたのを引くと腕で釣つた土産は一尾であつた。鮎の友釣は性に合はず。

十月


 諏訪湖上、公魚わかさぎ船釣。十月の湖水は、

白鷺の来しより湖の秋に入る
鷺白く来て湖と親しめり

 で実に静穏である。黎明湖上に出て大釣り数十尾の頃太陽が出ると同時に、有名な水平虹が、湖の水平線の上に出る。この水平虹は湖面近く微小の水粒が浮んで居るので生ずる虹の脚部だけが見えるのであるから、七色が横に並んで居て、厚さはおよそ一尺程に見える。かつて子供の雑誌にこの水平虹の事が書いてあつて、その画に七色をたてに並べてあるのを見たが、そんな不合理の事を子供に教へては困る。
 小粒の雨のような水粒が湖面近く浮いて居るのは、恐らく湖面からの蒸発のために起る朝靄の粒が湖上静穏の日には相合して稍大粒の水滴となり、それが湖面からの蒸発水蒸気の上昇力に支へられて居るからであらう。
 とにかく水平虹は諏訪湖名物の美しい風物に相違ない。
 日が全く昇りきると水平虹はいつともなく消えて、今度は岸の家や天竜の水門のコンクリートが水に倒映する、倒影と思へぬほど明瞭である。注意して見ると、最も高く真像、その下に倒像、その又下に水平線がある。即ち真像は勿論倒像迄上に釣り上つて居るのである。沖の漁船は水面に居らず、空中を漕いで居るやうに見える。湖面上に密度の違ふ空気が美しく層をなして重りあつて居て光を屈折するからである。
 秋の日公魚を釣りながら、毎年水平虹とこの蜃気楼をたのしむ。

十一月


 釜無支流の立場川、高原療養所近く流れて八ヶ岳山麓の本郷村立沢部落迄、もっぱら木の葉山女魚やまめ餌は蚯蚓みみずである。実は十二月のものである。長野県は九月から十一月迄渓流魚は禁漁である。木の葉にまじつて流れ下る三年魚迄の小型。偶々たまたまかゝる大型の成魚は放流して来春を待つのが釣人の良心の命令である。
 もう南アルプスも八ヶ岳も雪が降る。

十二月


 昭和二十年の冬は意外に早く来た。諏訪湖へ来て居たシベリア鴨が、油断してまだ南へ行かぬうちに、月の二十日、例外として湖面全部が氷結した。前年の冬から諏訪市は湖中の七ツ釜に引湯工事を初めて居た。
 この七ツ釜は上諏訪寄りの北部の岸から三十間程はなれた湖中に湧き出して居る温泉で、最近はその三ヶ所の湧出口がはつきりして居て、波のない日は湖岸からも温泉の湧くのが見えて居た。七ツ釜と云ふ名があるから合計七ツの湧出口が隣接してあるのであらう。いつの頃からこの湯口はあつたのであらうかきいて見ぬが、恐らくは神代の時代からでもあらうか。
 その発見届を今の諏訪市、その頃の上諏訪町が県へ出したのは、大正の初年であつたと聞く。個人がこの届を出したのであつたならば随分問題になつたであらうが、公法人の町が出したのであるから、その届も別に却下されず年月が過ぎて居た。七ツ釜は湖水の中であるから、その土地は当然国有地である。
 さてこの七ツ釜の利用もされず捨てゝある超大量の温泉を利用しようと云ふ事になつて、諏訪市が県の認可をうけて工事を初めてから凡そ一年、工事は順調に運んで、温湯の一部は陸上へ引かれるやうになつて居た。その事も湖水の氷結を早からしめたかも知れないが、とにかく早く来た寒さで、年内に氷が張つたのである。
 諏訪湖の穴釣りの公魚は見込ないものとあきらめては居るが、湖畔に棲んで居る私としては、氷一面の湖水を見ると、矢張り食指動かざるを得なかつた。
 今年の秋はかなり度々湖水に出て公魚の船釣りをして、魚の寄りの動きも知つて居るし、末期の釣れ場迄つきとめて置いてもあつたので、勿論左程の期待はかけずに、暮も押しせまつた一日気早のスケーターに混つて氷湖上に出て見た。幸にも来春の松原湖行きの用意に釣餌のサシは瀬戸ものゝ瀬戸市から仕入れて置いた。
 公魚の特効餌のサシは東京も名古屋も大阪も燃えてしまつたので、入手困難になつて居たので諏訪湖の秋の舟釣りには初期には自分で製造して居たので家人に嫌はれて困つた。ふと人の噂でこの待望のサシを売つて居る所があると聞いて、早速買ひに行つた。それは諏訪の屠牛場近い所に棲むお婆さんで、屠牛場の骨で造るサシであるから案外蛹になるのが遅くて都合がよかつた。お婆さんは魚の餌にするつもりではなく、いわんやサシを買ひに来る人があるなどゝは予想もせず鶏の餌にするためにサシを造つて居たのである。
 そんな訳であるから寒くなつてはもう買へなかつた。自分で造るにも寒い諏訪では無理になつて心細くなつて居た時、偶々公魚釣りのお弟子の実業家が、瀬戸から土産にもつて来てくれて、それ以来瀬戸から仕入れる事にしてやつと安心したのであつた。
 さて氷湖上へ出て、秋の釣れじまひのあたりへ見当をつけて行つて、漁師が公魚採りに氷の下へ下して居るかすみ網の終の穴へ寄つて、どうせ駄目だと思ふので、一つ二つの鈎に餌をさして仕掛を下して見た。意外! ピクツと来た。吃驚びっくりして仕掛をたぐつて見た。型のいゝ公魚であつた。
 私はその公魚を仕掛につけたまゝ氷上に投げ出して、しばし放心状態で居た。われに帰ると心臓奴ドキ/\して居る。
 一体これはどうした事か。諏訪湖は穴釣りは出来ぬ筈ではなかつたか。今の今迄書き続けて来た「高原・釣」に諏訪湖は穴釣り出来ず、その理由は、と随所に説をのべて居たではないか。さう云へば四五年も前、秋の公魚釣の時、船宿で『もう何年か前一度穴釣りをした人がありました』と聞いた事があつたやうな記憶がある。そしてその話をきいたので、その後自分も穴釣りをする気になつて試みてことごとく失敗に終つたのであつたのかも知れない。
 私はふと気付いて氷の穴の中へ手をつき込んで見た。むやみに暖い。あゝさうか、今日は水温が案外高いのだ。今迄の失敗の日の気温とは違ふのだ。さう気付いて私はやつと安心した。
 諏訪湖で穴釣りが出来る出来ないは私としては問題ではない。水温四度前後の時公魚は食ひが立つ、水温一二度迄下ると食ひは止る。それが私の実験からの決論で、諏訪湖は浅過ぎるので氷結すると、公魚の常住する湖底も零度近くなる、従つて諏訪湖の穴釣りは不結果であると信じて来たのである。
 今日例外に釣れたのは水温が高いからであつて一向不思議でない。さうさとつたので安心して公魚を鈎から外して又仕掛を入れた。又も釣れた。三十分で十七八尾来たので私は満足して帰路についた。今迄気付かずに居たが氷はいつともなく水つぽくなつて、気味のわるい程である。私はビク/\しながら岸に近付いた。スケーターはもう一人も氷上に居らず、心細い事限りなし。
 やうやく岸に来て、スケーターのための桟橋に登つて見ると「氷上危険に付スケート禁止」と掲示が出て居た。
 今日の決論に曰く「諏訪湖の穴釣りは命がけたるべし」





底本:「集成 日本の釣り文学 第四巻 釣りと旅と」作品社
   1995(平成7)年12月10日第1刷発行
底本の親本:「釣十二ヶ月」民生書院
   1947(昭和22)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年12月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード