私の履歴書

放浪の末、段ボールを思いつく

井上貞治郎

日本経済新聞社




「よし偉いもんになったるぞ」


『紙にしようか、メリケン粉にするか』。私はまだ迷っていた。明治四十二年、二十九歳のときである。朝鮮から満州、香港と流れ歩いた末、やっと見つけた東京での二畳の部屋。そこへ大の字にひっくり返って、天井の雨漏りのしみをながめながら考えたのはこれからのことだった。紙というのは後に私が名づけ親となった段ボール――いまではテレビなどの電機製品の紙ばこ材料になっている、あれである。あるいはメリケン粉を練ってパン屋でも始めるか……私には思案にあまることだった。そんなとき、ふと耳にしたのは練塀町の稲荷おろしのことである。考えあぐねた私は早速そこへ飛び込んだ。
 巫女みこは白髪の老婆だった。御幣をあげさげしているうちに、体が踊り出す、目がつり上がる。巫女はうわずった声でいった。『ほかはいかん、いかん。紙じゃ、紙の仕事は立板に水じゃ……』。よし、これで決まった。私は五十銭払って、二畳のねぐらへ道を急いだ。それから五十年、私はカミのお告げにしたがって、紙にしわを寄せながら生きてきた。
 人生の道程でいくたびか出会った分かれ道、そのどこかひとつが変わっていれば、私はいまとは全く違ったものになっていたであろう。初めの奉公先を飛び出した十五のころ、汽車賃が足らず伊勢参りをやめて横浜へ流れたとき、木曜島に売り飛ばされる寸前、香港で阪大佐太郎ばんだいさたろうに救われたあの日。まるで鉛筆を立てて、その倒れぐあいで人生航路を決めていたような私だったが、私と段ボールとをつなぐ見えない糸はいつもたぐられていたのであろうか。
 段ボールを手がけてからは、人生のサイコロの目は、まずまず順調に出た。しかしそれまでの私はなんと遠回りをしたことだろう。そんなとき「寝れば一畳、起きれば半畳、五合とっても三合飯」という明るさと『いまにえろなったるぞ』との人一倍の意欲が、私の力になった。――話をさらに二十年ほど戻して、私のふるさとの村へ返そう。
 播州平野に流れる揖保川いぼがわは鮎の産地として名高い。私はその揖保川の堤から二、三町ばかり行った百戸ばかりの一寒村で、農業を営む長谷川家の三男坊として生まれた。戸籍では明治十五年十月三日生まれとなっているが、実は明治十四年の盆踊りのあった翌朝のことだったという。二歳のとき、当時は家系の跡つぎは鎮台(兵役)をのがれる特典があったので、米二俵を持って遠縁の井上家の死籍相続人になった。「初めに言葉あり」。しかし人の歴史は心に残る最初の記憶から始まる。私の場合、それは五歳のころの寺子屋時代であった。なんでも友だちのすずりを前歯でかみ割ってえらく泣かれて困ったのを薄ぼんやり覚えている。また二本の竹ん棒を友だちの肩にわたしてまん中にまたがり、得意になっていて振り落された記憶は、いまでも残っているそのときのひたいの傷あととともに、私にはなつかしいものだ。
 村の祭には、有名な太鼓が繰出した。ドドンコドンコドコ。その響きがまことに珍妙なのである。村の子供が東と西に分かれ、太鼓をかついで練り歩くけんか祭だ。チョーイなんぞい! 東所ひがししょがなんぞい! お前なんかに負けるかい! チョーイまかせ! 私はいつも西の大将であり、腕は弱いが気が強いので出しゃばった。だが私は子供のころからあまり運がいい方ではなかった。私の国では朝はオミー(雑炊)かオカユなのだが、オミーだと米の団子と粟の団子を入れる。ところがふしぎに私のわんにはいるのは粟の団子ばかり。『お母あ、また粟だったわ』とみせると『お前は運の悪い子やなあ、またお前にあたったか……』。私は黙ってそれを食べていた。しかしすべてがこんな調子なのである。
 生家はむしろ豊かな方で、私も村でただ一人高等まであげてもらったが、それでも結構追い使われた。大根売りや米つき。へとへとになって夜机に向かいながらついうとうとし、カンテラの火で着物の右そでを焦してひどくしかられたこともあった。私は高等を出たら姫路の中学にやってもらえると思い込んでいた。だがいいじいさんだが、気の小さい父は中学へ三十銭の月謝を出すより、田地の一反でもほしい性格だった。ちょっとやけ気分になっていたころ、私が全く予期しなかった奉公話が持ちあがった。
 娘のころ、大阪の住友家に奉公に出ていた母はよく『男の子は上方かみへ奉公にやらな出世しやへん』と口ぐせのようにいっていた。『よし偉いもんになったるぞ』私は当時神戸の生糸検査所の用務員をしていた同村の和助さんにつれられ、母が渡してくれた銅貨まじりのがま口をふところに、両親兄弟の見送りもなく、奉公先のある兵庫をさして網干あぼしの港をたった。

波乱の第一歩奉公先第一号


 そのころ播州と兵庫との間を二十銭の運賃で結んでいたのは百トン足らずの蒸汽船である。私は十四歳、明治二十七年の八月のことだった。次第に小さくなって行くふるさとの山をながめながら、『えらくなるまでは帰らんぞ』。私の心は武者ぶるいするほど希望にふくらんでいた。だが淡路島や明石を過ぎて兵庫の棧橋につくと、まず港に林立する帆柱の数にどぎもを抜かれた。港におり立って初めて見る都会の風景に目を奪われ、言いしれぬ心細さにただ立ちつくすばかりだった。ひんぱんな出船、入船、かけ声をかけながらせわしく立働く仲仕たちを、私はうつろな目でながめていた。
『貞やん、はよゆこか……』
 和助さんにうながされ、夢心地の私はふろ敷包みをだいて、てくてくとあとに従ったが『あれが三井銀行や、ここが米相場のたつところや』と教えられても、疲れ切った私はうなずくことさえ忘れている有様である。
 奉公先として連れて行かれたのは屋号を座古清ざこせいという川西家。川西家は当時すでに一に小曾根、二に座古清といわれるほどの兵庫きっての資産家で、帝国海上火災の代理店をしており、家業としては片手間に石炭問屋をやっている程度であった。だから奉公にきたものの、私の仕事は清ぼん、龍ぼんの二人の子供のお守役ということになった。もちろん無給である。龍ぼんこと川西龍三氏は旧川西航空機の社長になった人だが、その父君の二代目清兵衛氏は日本毛織の創立者として有名な人である。大だんなの先代清兵衛氏も当時はまだご存命で、なかなかこまかい人だったと記憶している。なにしろ、この大だんなは石炭の袋をかついで売り歩き、一代で座古清の身代を作りあげた苦労人なのだ。
 いなかからぼっと出の私は、朋輩の与吉や乳母、お手伝いさんたちからいじめられ通しだった。居眠りしている間に顔に墨を塗られて笑い者になったり、返事の仕様が悪いと小言を食ったりした。寒中のふき掃除や早朝の門前掃除で手足はしもやけで赤ぶくれになった。特に意地が悪かったのは備中の笠岡からきていたお米である。私がこっそりあたたかい飯を自分の茶わんに入れようとすると『貞吉っとん、それはおかみのんでっせ』と奥に聞えよがしにいう。新しく出したつけ物を下の方に入れて『上から取れ』というのも彼女だった。あまりしゃくなので、ある日、仕返しにぬかみその堅いところを練って寝ているお米のしりのあたりにほうり込んでおいた。次の日様子をうかがうと、お米はしきりにしりに手をやって、においをかいでみたり、そわそわしている。私はおかしさをこらえて逃出したが、結局バレてひどくしかられた。
 失敗もよくやった。若だんなに、お房を呼んでこい、といわれたので、あわてて『お房どん、お房どん、若だんなが呼んではりまっせ!』と大声をあげて廊下を走ったら、お静に『貞吉っとん、なにいうてなはんね、ごりょうさんやがな!』とどなられた。気がついてみればお房とは奥さんの名だったのである。
 またある日、奥さんから川西家の親類で「じばんじょう」を借りてくるように言いつけられた。なんだかわからないが、忘れたらたいへんと『じばんじょう、じばんじょう……』とお経のように唱えながら道を急いでいると、途中で犬がつがい合っていた。石をぶっつけておもしろがっているうちに『? ?』。肝心の「じばんじょう」を忘れてしまったのである。仕方なく先方で『あのじばんなんとか……』と口の中でごまかしたが、通ぜず、先方から電話で聞いてもらう始末。そのとき知ったのだが「じばんじょう」とは大きな「ひのし」のことだった。そんな生活の中でも、私は新聞を教科書に勉強はしていた。『おれも大だんなみたいにえろなったるぞ』と生意気にも思い続けていたのだ。
 ごりょうさんの背をふろで流すのも私の仕事だったが、ある日ふろ場でごりょうさんがいわれた。
『貞吉や、つらいやろけど、別家するまで辛抱しいや』
 親切な言葉にふっと目頭が熱くなったが、一体別家とはどんなふうにしてもらえるのかが気になり出した。そこで私はひそかに調べてみたものである。
 これまで別家した二人の奉公人のうち、友七さんはしょう油屋を、もう一人は米屋を営んでいずれも川西家に納めていた。二人とも二十年も奉公した末がこんなふうなのだから、私には別家もたいしたことはないなと子供心にも思えてくる。第一私が国からはるばるやってきたのは商売を覚えるためなのに、子守りばかりさせられている。毎日がいやでたまらなくなってくるのだった。私は有馬道からやってくる畳屋のきわさんに『どっかほかにええ店はないか』とそっと頼んでみた。その後の私を引きずり回した生来の放浪性がようやくこの時分から首をもたげてくるのであった。

無一文で横浜へ


 畳屋のきわさんが世話してくれたのは、神戸三の宮の松浦有平という洋紙店の住込み店員だった。ここはおもに外国人の経営している工場の紙を扱っていた。細君は混血児で目の色のちがった子供がおり、主人は病身、なんとなく活気のない店だった。私は十五歳になっていたが、この紙を扱った最初の経験は、後年私が段ボール創業の際、非常に役立った。しかし店に活気がないので働く私の張合いも抜ける。第一、ボール板紙の出し入れは肩が痛くとてもつらい。間もなくいや気がさした私はこの店も出ることにし、一人で口入屋へ出かけていった。
 そこで見つけたのは神戸栄町の熊谷回漕店である。この運送屋では幹部は通勤なので、住込んでいるのは若い店員ばかり。だから夜ともなれば、えらい人のいない気安さから向かいの店のうなどんなどをかけてトランプのバクチをやる、女遊びはする乱れ方であった。『こんなところに長くいてはいかん』、私は思案する日が多くなった。
 四月二十一日は大師参りに当る久しぶりの休日だった。私は摩耶山に登り、帰り道、おりからのなぎに油を流したような神戸港をながめて考え込んだ。
『よし、ひとつお伊勢参りに出かけてやれ』
 そう決めるとかえって心ははればれとしてきた。おあつらえ向きに国の母から二円の金が届いたばかりでもある。多少店には悪いと思ったが、私はそのまま神戸を飛び出していた。
 汽車で奈良に向かい、若草山の下の売店でついふらふらと仕込みづえを買った。当時の青年たちを支配していた壮士気取りの気風は、やはり私にもあったわけだ。値段は大枚二円。それから桃山から京都へ出て、四日市行きの汽車に乗込んだ。汽車はそこまでしかなかったのだ。だが四日市に着いて考えてみると、あの仕込みづえの買物のおかげで、伊勢参りしたところで神戸へ戻る汽車賃が足りない。しかしここから横浜までの船賃なら残っていると気がついた。
『そんならいっそお伊勢参りはやめて東京へでもいってやろう』
 私はあくる日にはもう横浜行の汽船に乗っていた。
 もちろん横浜は私にとって初めての土地である。波止場にあがって居留地を抜けその豪勢なのにびっくりした。都会の騒音、めまぐるしい人の行き来の中へ私は夢心地ではいっていった。私は都会のあらゆる構成分子からの無言の威圧をはねかえすように胸を張った。だがまるきり金はない。知っている人もいない。私は町を歩きながら、片っぱしに桂庵けいあん(口入屋)ののれんをくぐったが、保証人がなく保証人を頼む二円の金の持合わせもないのだから軒並みに断られた。それでも最後の店では多少気の毒にもなったのだろう。『国元に身元を問合わせてみるから、その間ここにいてみたらどうかね』といってくれた。こんなありがたい話はない。私はそのまま当分番頭代わりの食客という奇妙な資格でそこに居座ることになった。いよいよ小づかいに困り、しめていた角帯を持って質屋へいき『五十銭貸してくれ』といって断られたのもこの時分のことである。
 ある日『小僧をひとり世話してほしいんだが……』と翁町二丁目の大島という活版屋の主人が店を訪れた。店番をしていた私は『へい、ちょうどよい男がおりますから、すぐさしむけます』と答えながら、そっと奥をのぞくと主人は昼寝の最中である。そのままこっそり口入屋を抜け出し、聞いておいた大島活版店に足を向けた。
『ずいぶん早いじゃないか。それで当人を連れてきてくれたかい?』
『いえ、そのちょうどよい男とは私のことなんで……』
 あっけにとられている主人に横浜へきてからの事情をそっくりうちあけたが、私の率直な言い方が気に入ったのか、すぐ住込みを許された。しかしここも長くは続かなかった。インキにまみれて働くのは不満ではないが、輝かしい成功を夢見る自分がこんなところに埋もれて暮すのはたいへんな道草を食っているような気がし始めたのである。
 出入りの廃品回収業者に『もう少し給料のええとこないやろうか?』と持ちかけると『そうだな。月三円出すといってる中華料理屋があるが、行ってみるかい』
 月給三円といえば飛び切り上等なので、私は早速承諾した。その店の名前は聘珍楼へいちんろうといって、ごてごてと色看板が並んでいる南京町の中にあった。
『インヤホー・パッセー』なんの意味かわからないが、二階の客の勘定を下へ伝えるときに聘珍楼の主人はこうどなる。ここの主人は広東人だった。中華料理屋の店は活気があるが全く騒々しい。日本女の仲居は二、三人いたが、ほかに日本人といえば私だけだった。中国人はみんな弁髪で、生活は彼らと同じようにさせられた。
 私の仕事は出前持ちに皿洗いぐらいのものだったが、食事はみんな客の残り物を食わされた。ここを教えてくれた廃品回収業者の話では月給は三円のはずだったのに、二円五十銭しかくれない。そのうえ、ふとんが賃借りなので、手元には二円しか残らなかった。
 中国人は日に二食である。これは発育ざかりの私にはこたえた。一日中追い回されるので腹の減ることおびただしい。そこで目をつけたのは中国人の寝ているベッドの下に置いてある梅酒や老酒のかめである。
「チャー、ポー、ファン」。中国人たちはケンを打って、日本とは反対に勝った方が酒を飲む。しかし夜半ともなれば、南京町の灯も消え、家人もようやく寝静まる。そんなころを見はからって私はそっと起き出してかめの中のしゃくに手をかける。息を殺し、全神経を集中しないとブリキのしゃくはカーンとカン高い音を立てる。そろそろとまっすぐにすくい上げ、用意しておいた茶わんに注ぐのである。足音をしのんで寝床に帰ると、これも夜の皿洗いのときに失敬しておいた卵をソバ湯の残りでゆで、寝そべりながら夜食の味を楽しむわけだ。「一日の労苦は一日で足る」。悪いこととは知りつつも、この酒と卵の盗み食いほど楽しいものはなかった。そのころ私はよくひまがあれば横浜の波止場へいった。棧橋に立って思い切り深呼吸をし、巨大な外国船の姿やかもめの飛びかう紺ぺきの遠い海をながめながら、さまざまの空想を描くのだった。十六歳の私の胸は洋々と開けるはずの、限りない前途への期待におどるのだ。
 しかし給料については最初の約束と違うので私は不平満々である。ただちょっとした抜け道はあった。中国人のコックたちはよく女遊びに出かけるが、帰りはいつも朝方になる。帰ってくると『アマン、アマン!』(おいボーイ)と私を起こすのだが、私がねむい目をこすりこすり戸をあけてやるとだまって五銭か十銭の白銅をにぎらしてくれた。またビールの空びんや割れた皿などをこっそり廃品回収業者に売って小金をためる手も覚えた。
 だがある日、すずのへちゃげた皿を廃品回収業者に売るところを、中国人の店員に見つかった。カンカンになった中国人は『すぐ出て行け』という。しかしそこはさすがに中国人で、月給を日割り勘定で一円八十銭くれたのには感心した。こんどは私も文なしで横浜に出てきたときほど心細くはなかった。なぜならそのときためておいた金が、すでに大枚七円にもなっていたからである。
『金もあるのだから、ひとつあこがれの東京へいってやれ』と思いつくと、矢もたてもたまらず、その日のうちに汽車に乗った。新橋から上野まで馬車鉄が走っていたころの東京である。私はそれには乗らず、鍛治橋から二重橋へ向かい、うやうやしく宮城を遥拝した。
 上野の博物館へはいって、出てからふと気がつくと、がま口がない。中にはあのトラの子の七円がはいっているのだ。うろたえた私は体中を探ってみたが、やっぱりない。落したのか、すられたのか。私はただおろおろするばかりである。七円の中には聘珍楼でのくず代という悪銭がはいっているのだから、それは仕方がないとしても、少なくとも半分はまっとうな金だ。良銭まで悪銭が道連れにしたのだから実に惜しい。のちに私は苦心して建てた工場を関東大震災や戦災で失ったが、この七円のがま口ほどなくして惜しいと思ったことはない。しょんぼりと歩きながら考えたが、いまさら聘珍楼に帰れた義理でもない。ふと思いついたのは、いつもいっていた銭湯のことである。そこのおかみさんが、いつもやさしい言葉をかけてくれたが、もうそこしか頼るところはない。こんどは徒歩である。へとへとになって横浜の銭湯についたのは、夜の十時をとっくにすぎていた。

職業遍歴――三日と続かず


 私がおかみさんに泣きついて雇ってもらった銭湯は「石川湯」というのであったが、この家の仕事はかなりつらかった。夜は客の衣類入れの世話をし、昼は昼でほうぼうの建築場からたきつけを集め、荷車に積んで引いてくるのである。あまり体がつらいのでいつも湯にはいりにくる顔見知りのいきなねえさんに頼むと『じゃ、うちへおいでよ』との返事だった。多少の好奇心も手伝い、教えられた居留地の家へ出向いた。入口には「ラーレス・ハウス」という看板が出ている黒人相手のいかがわしい酒場である。ねえさんは店主の愛人さんだったのだ。すすめられるままに泊まろうとすると、驚いたことに主人の黒人は男色家らしく、変なことを言い寄ってくるので『これではたまらん』と逃げ出した。
 次の日、私は元町の木村屋というパン屋に雇われた。なにしろ当時はビスケットなどめったに口にしたこともない珍菓だったので、すきをみて私はビスケットを腹ぞんぶん食った。ところが一日好きなだけ食いまくったら、つぎの日からは見るのもいやになる。
 あとできいた話だが、製菓工場の工員や菓子屋の店員は、初め私と同じようにするそうだが、それからはピタリと菓子を食わなくなるという。すきを見て食ったつもりが、ひとつは店主の新参者教育法にかかっていたのかもしれない。
 しかし、ここもすぐやめた。理髪店に勤めている顔なじみの山田という男にすすめられて、理髪店の見習いとして住込んだわけだ。もっとも三年の年期を入れるには親の判がいるので、国へは手紙で頼み、私はそれまで臨時の住込み店員の形であった。まず私に与えられたのは、いわば当時の扇風機のモーター代わりの役目である。分厚いどんちょうの端からたれ下がっているひもを、次の間からひいたり、ゆるめたりする。するとちょうど客の頭の上でどんちょうがバタバタとゆれ、涼しい風を送るという仕組みなのだが骨が折れるばかりでたいした効果はなかった。
 間もなく国の親から返事が届いた。案に相違して「理髪店に勤めるのはまかりならぬ」というきつい文面である。
 こんな落着きのない日を送っていては取返しのつかない気もしてきた。こうなるともうじっとしていられないのが私の性分である。少しのたくわえがあったのと、足らぬ分は着物を向かいの質屋へ二円で入れて早々に横浜をあとに大阪へ帰ってきた。汽車賃はたしか四円ぐらいだったと覚えている。
 横浜から舞い戻った私は、もと家に出入りしていた大工で、大阪の新町でメガネ屋兼幻灯屋をやっていた寺田清四郎氏に身元引受人になってもらった。こうしたれっきとした引受人があるからには、少しでもいい店で働きたいものだと、私の欲も大きくなった。口入屋を通じてまず行ったのは堺筋の砂糖屋、次が心斎橋の洋服屋だったが、どれも三日と続かずじまい。砂糖屋はあまりに労働が激しすぎ、洋服屋で一日中すわって店番するのはなお一層つらかった。
 もっとも三日と続かなかったのにはほかに理由がある。当時の習慣で、口入屋から行くと三日間のお目見えがあり、三日間でやめると手数料がいらない。三日をすぎると主人と本人とが半々の出し合いで口入屋に手数料を払うのである。私のやり方もひとつは手数料節約の意味もあったわけだ。
 次に行ったのは室谷佐兵衛、室佐という四ッ橋の材木屋で、ここはしばらく続いた。私は松吉と名づけられたが、おさん(奥さん)から、『松吉や、なでさん呼んどいで、それからついでにかきをこなから買うといで……』といわれて、当時大阪では「なでさん」がマッサージ師で「こなから」が二合五勺のことであるのを初めて知った。結局ここもおさらばして問屋橋にある板問屋の俵松に住み変えた。板問屋の労働は激しかった。日のあるうちは浜から倉庫へ板をかついで運ぶのだ。
 筋肉労働にはあきがくる。私は筋肉労働ではない仕事をしてみたいものと商売を物色していたが、ある日、新聞の経済欄に載っている物価表に目を通すうち
『これだ!』
 とひざをたたいたのは石炭屋である。そのとき私は十七歳になっていた。

キレ者安治川の“栄吉”


 石炭屋を商売に選んだ理由はいろいろある。まず第一に石炭は事業界における米のようなもので、必要欠くべからざる存在である。次に石炭を扱うのは石炭仲仕というものがいて、店員は自分の手をよごさなくていい。いわばブローカー業である。ひどい労働で疲れ切っていた私は、いくぶん肉体労働にはうんざりしていた。
 石炭屋は大阪の安治川あたりにかたまっていたので、俵松にいる間から、使いにやらされるたびに安治川の近くの口入屋には当っておいた。仕事を始めるときの用意に、ひまをみて四十八種類もある石炭の銘柄も暗記した。それほどまでにあこがれていた石炭屋になれるときがきた。九条新道の辻尾商店という石炭屋兼回漕問屋の店で、若い店員が一人いる話がはいったからである。俵松には国へ帰るといってひまをもらい、飛び立つ思いで早速出かけていって雇われた。ここでは私は「栄吉」と名づけられた。十八歳のときのことである。
『こんどこそは石炭屋でえろなってみせたるぞ!』私は大いに張切った。しかし惜しいことには、この店は木津のふろ屋の取込み詐欺にかかり、あえなく閉店のうき目にあった。私は出入りの仲仕兼助の世話で、同じ石炭屋の長谷川合名会社社長、長谷川忠七氏のもとで働くことになった。給料などは眼中になく商売につとめたかいあって、私は外交に出されるところまでこぎつけた。
 腕だめしはこのときである。私はすべてを投出したつもりで、広い大阪の市中を走り回り、煙突のあるところをみれば石炭の売込みに飛び込んだ。ふろ屋、精米所、ガラス屋から、日立造船の前身である大阪鉄工所、稲畑染工所、尼崎汽船などの大ものにも取組んでいった。長谷川合名会社は間もなく、長谷川忠七商店と鳥居熊太郎商店に分かれ、私は鳥居商店の方へ移った。そのころ私は仲仕が話しているのをふと小耳にはさんだ。
『本庄の毛布会社で石炭が切れてるそうや……』
 私は疾風のような勢いでその毛布会社にかけ込み、みごとに注文をとった。実はしけ続きで安治川筋には石炭がまるっきり入荷せず、私にも品物を手に入れる成算はなかったのだから内心は気が気ではない。しかし幸運にもしけをついて、石炭の第一船がはいってきたのだ。やっと石炭の引渡しができたときのうれしさ、全くほっと肩の荷をおろした。契約高は百斤三十二円で非常な利益になったから、同業者のなかでも『安治川の栄吉は切れる!』と一躍名をあげたものである。
 抜けがけの功名もやった。それは大阪港の築港工事に使うしゅんせつ船「大浚丸」一号から十三号までの十三隻に使う石炭二千五百万斤の大入札のときである。石炭屋一同は申合わせて談合値を決め、あらかじめ落札者を置いて、あとで割前をもらう一種の不正入札の方法をとった。ところがいざ入札になって割り込んだのが私である。私は入札者の申合わせを無視して、山陽の切込み炭百斤を斤三十一円五十銭の正価で入札、全量を落札した。入札の会場ははちの巣をつつく大騒ぎである。仲仕を使って殺してしもたる、とのうわさまでたったが、しょせん勝負は私の勝ちだった。
 いままでだれにも話したことはないが「栄吉のからふご」で評判をとったこともある。もっともこれはとても自慢にはならず、私のざんげ話だ。当時汽船に石炭を売るときには、百斤入りのふごに入れたものである。そして決済のときには、使ったあとのからふごの数で計算するわけだ。これに目をつけた私はふごを二重、三重にかさねる手を発明した。つまり百ふごのうち三十ばかりはからっぽなのである。もちろん汽船の火夫は、松島の新地へ連れていって買収してある。しかし結局この手はバレてしまった。というのはからふごの割合が多すぎ、それを買った汽船が瀬戸内海で石炭が切れてエンコしてしまったのである。だがこんなことが、ある程度通るほど、当時の石炭屋の商売にはいまからみればずいぶんひどいやり口がはびこっていた。私は二十歳、そろそろ色ざんげの材料もつくる年ごろにはなっていた。

浮草ざんげ


 二十歳をこえていた私は、もちろんすでに女の味を知っていた。たしか板問屋の俵松にいたころだったろう。店の若いものがいかにもおもしろそうに女遊びの話をしているのを聞いて、意を決して新町の女郎屋に上がったことがある。初心うぶの私は女の顔をまともに見られないほど照れていた。そして『こんなことがなんでおもしろいのやろ?』と不思議にさえ思ったものである。しかし、そのつぎの夜、もう一度新町へいって『なるほど、ええもんや』と早くも納得して帰ってきた。石炭屋の外交を始めてからは、売込みも取立ても人一倍の働きだったから金の方も多少は回った。で、夜になると仲仕の兼助の手引きで松島へ「浮かれ節」を聞きにいったり、くるわへ繰込んだりするひとかどの通人気どりだった。商売仲間のなかにも一、二の遊び友だちもできた。
 私は鳥居商店から山本峰一の店へ移っていたが、遊び仲間の一人が店の金を使い込み、私が自分の店の金で才覚してやったところ、その男はそのまま出奔してしまった。バカをみたのは私だが、仕方なくほかから借金して弁済し、主人にあやまってその店も出た。
 これを機会に、ひとつ独立して石炭ブローカーをやってみよう、という気になった。家も安治川一丁目のげた屋の裏に月四円五十銭で借りた。四畳と三畳の二間だけの長屋で路地のまん中あたりに共同便所がついている。
 男のひとり世帯である。ここへは北の芸者がよく遊びにきた。その中のひとり、およしというのをじょうだんに家の中へ閉じ込め、外からかぎをかけてほっておいたところ、その女は尿意をもよおして辛抱できず、床の間の花立てに用を足してしまった。
 商売に門司へいって宿のお手伝いさんをくどき、あくる日まっ昼間の波止場で『ゆうべの約束をどうしてくれる』とそでにとりついて泣かれ、大弱りしたこともあった。
 けれども、ここらで身を固めて出直さなければとまじめになって考えてもみた。第一、家を借りたからには家事をしてくれる女もほしい。そんなとき、得意先のアスベスト会社の支配人が女房の話を持込んだ。
『家のお手伝いの妹ですてきな女がいるんやが、どや、ひとつもろてみいへんか?』
『すてきな女? ほんなら、もらいましょ』
 ふたつ返事である。早速五円の結納金を出してふろ敷包み一つと、鏡つきの花嫁をもらったが、どうしたわけか、そりが合わず、結局五円の手切れ金を出して間もなく別れてしまった。こうした間にも芸者の出入りは続き、むしろこの結婚生活で私の茶屋遊びは拍車をかけられた形であった。
 北の芸者小勝の親から『井上さんは将来見込みのある人だから、身代金は手形でもかまわない。娘をもらってほしい』という奇妙な申し出を受けたのもこのころである。
 それからだいぶたって、小楽という若い芸者にもなじんだ。しかし一時は石炭界で「切れ者」の評判をとった栄吉も、放らつな生活がたたって落目だった。女に私を連れてどこかへかくまってくれ、といわれ、やけ気分も手伝って、別にほれたわけでもないのに、かけ落ちする気になっていた。女のちりめんの長じゅばんを持出し、知合いの清津湯にかくまったが、たった一週間でみつかってしまった。たたき売った長じゅばんから足がついたのである。私は婦女ゆうかい罪だとおどかされ、小楽の一週間分の花代として二十七円あまりも巻上げられ、それでも足らぬので下げていた銀時計まで持っていかれた。分別のない青年のうぬぼれ心には、当然のお返しだったのである。
 一方商売の方はいよいよいけなくなっていた。足が元手の稼業なので、人力車の代金がかさみ、この支払いが苦の種になった。借金で首が回らず、ついに顔を上げて町を歩くのさえ気がとがめ出した。妙なもので、広いはずの世間がまるきり狭く思えるのである。
 私は考えた。『たとえ雑草でもいい、もっと大地に根を下ろそう』と。ここで身を転じ、石炭屋よりも、地道な商売を選んでまじめにやろう、という気になった。そこで割合続いた石炭屋もこれで打切る決心もついた。私は二十三歳。そのころ私は、いまでも心に残るお雪という女と知り合った。

心痛むお雪の思い出


 お雪はぽっちゃりとしたかわいい娘だった。人力車の製造販売をやっている稲葉という人の養女で、私より二つ三つ年下の二十前後だったろう。私は三味線を習いに通うお雪とよく会った。そしていつとはなしに、あみだ池の「ぼんや」で人目を避けてしのび会う仲となっていた。「ぼんや」というのは、玄関をはいるとすぐ二階へ上がる階段がついていて、二階の座敷の壁には小さな穴があいている。二人連れが上がると穴から盆に乗せたお茶が出され、お客はお休み代として二十銭を盆に置く仕組みになっている。いまの連込み宿の元祖みたいなものだが、顔を見られることもなく、なかなかいいものだった。
 お雪は気のやさしい従順な女だったが、私はちょうど石炭屋に見切りをつけたころで、一時身をかくす必要もあって二人でかけ落ちして京都へ出た。当時のことばでいう「自由結婚」である。
 京都へ出たお雪と私とは出町のかなり大きな家を安い家賃で借りた。なにか不吉なことがあったとかで、借り手がつかず、そんなことから安かったのである。もちろん私たちはそれを承知で借りたわけだ。お雪はここで大学生相手の下宿をはじめ、私は私で近郊の牧場にむぎぬかとか、ふすまを納めるまぐさ屋を開業した。この下宿屋にいて、私の持って帰る牛乳と生卵ばかり食わされていた帝大生の一人に、菊池龜三郎という独法科の学生がいた。のちに日本銀行で重要な地位につかれたとの話もきいたが、この牛乳と卵攻めにはずいぶん閉口されたことだろう。お雪はそれをいつも気の毒がっていた。こうして共かせぎを続けたが、どうも下宿屋は思わしくない。大きな家も持てあましてきたので、西洞院七条下ル堀川の小さな家へ移った。ここで細々とまぐさ屋を続けたが世帯は苦しく、私は気息えんえんの有様である。ちょうど明治三十七年、日本がロシアに宣戦を布告した年で、日露戦争の歌が町に流れる戦時気分のみなぎった時代であった。
 しかし住みなれた大阪はやはり恋しい。私たちはまもなく京都を引き払って大阪へ帰ってきた。大阪へ帰ったものの、私たちはまず食わねばならなかった。とにかく幸町一丁目の桜川の川っぷちにささやかな家を構えたが、お雪と一つのパンを分け合って食べる貧しさである。食うに困ったあげく、住吉橋の中川末吉という知合いの人の世話で雑穀商の仲間入りをさせてもらった。まぐさ屋もはじめ、かたわら酒、しょう油も商ったりした。まぐさは夏の暑い盛りでも、お雪が後押しもする荷車を引いて天下茶屋の牧場へ売りにいった。地道な生活だった。
 ある日、郷里で県会議員をやっている兄が、山高帽などをかぶり、大きな顔をしてやってきた。弟の家に泊まって大阪見物を、とでもいうつもりだったのだろう。いろいろ話をしているうちに食事どきになった。『おい、飯たけ!』私がいうと、お雪はこっそり障子のかげから、米びつをふって底をみせた。からっぽなのである。『飯たけ!』私はそしらぬ顔をしてどなると、お雪はやがて外へ出ていった気配である。やがて帰ってきたときには米の一升も袋に包んだのを持っている。あとできくと、髪の道具を質において米を買ってきたという。お雪はそんな女だった。
 けれどこうした無理な生活がたたったのだろう。お雪は病気がちで、赤手拭にある病院に通っていたが、とうとう寝込んでしまった。金はなし、女房に寝込まれ、私は意気消沈、地道いっぽうの仕事にもあき、まぐさ屋もわずか数ヵ月で廃業である。時代は明治三十八年、日露戦争も終りを告げたころである。世間はさわがしく、東京では日比谷原頭の焼打ち事件、神戸では伊藤公の銅像を倒し、その首になわをかけてひきずり回す騒ぎもあった。民族の青春時代の、若々しい怒りの爆発だったのかもしれない。
 おりもおり、日露の役に出征していた次兄が戦傷がもとで病死、同年輩の知人が常陸丸で戦死したことなどをきくと、私の若い血も躍り始めた。『そうだ! 満州へでも行ってひと旗あげてやろう』と思い立った。身を捨ててこそ浮ぶ瀬もある。だが病気のお雪に『きっと成功して迎えにいく』と因果を含め、実家に帰すのはやはりつらかった。自分をはげまし、心を鬼にした。しかしこれがお雪との最後の別れとなった。幸福にしてやれなかっただけに、いまでも心に残るお雪だった。

あてもなく踏む異郷の土


 いまから思えば全く無茶である。満州へいく、といったところで別に当てがあるわけでもない。しかし狭い日本にじっとしてはいられないほど私の野心は並みはずれて大きかった。私は二十五歳であり、時代はちょうど日露戦争直後。資本主義の青春期を迎えた日本の目はようやく大陸へと開け始めたころであった。一定の職のない者、仕事にあぶれ、生活に敗れ、ひと旗あげたいともくろむ人たちにとっては、満州は期待にみちた新天地だったのである。そんな意味で、私も時代の子であったのかもしれない。
 お雪との生活の思い出を残す世帯道具をいっさい売払い、私は御堂筋で二円のカーキ色の兵隊服を買い、龍田川丸に乗込んだ。めざすは満州だが、あり金をはたいてやっと手に入れたのは仁川までの切符。あとは無一文だが、どうにかなるという気持だった。焦げるように暑い夏の最中だった。龍田川丸の甲板に立って思い出深い安治川を離れるとき、さすがに涙が流れた。
 生きて帰れるかどうか。――舷側では顔見知りの石炭仲仕たちが、船の中で荷役している。一人が私をみつけ、私を見上げながら威勢のよい声で呼びかけた。
『おーい、栄吉つぁん、どこへ行くんや……』
 私もなつかしさに胸いっぱいになり、手を口にあてて答えた。
『満州へいくんだぁ……』
『しっかりやってこいやあ……』
 われもわれもと手を振って別れを惜しんでくれる。夜になって陰気な三等船室に帰って、ひざをかかえながら考えた。一枚の紹介状もなく、もちろん知人もいない。金は仁川までの切符で全くなくなった。船が進むにつれて気は滅入るばかりである。
 私はふと隣りの話声に気がついた。十七、八のきれいな娘をつれた五十格好の婦人が、私同様眠れぬのか、娘とぼそぼそ話をしている。私もきっかけを見つけて話に加わった。聞けば婦人の夫が仁川にいるとか。私の心にはぽっと小さいがあたたかい灯がともったような気がした。無一文で知るべもない私は、この機会をのがしてはならないのだ。自分の境遇を納得してもらえるように、しかも多少の同情を引くように打ちあけ、結局上陸したら彼女たちの家へ泊めてもらえる口約束を得たのである。ほっとした私は、初めて足をゆっくり伸ばし、ぐっすりと寝込んだ。日本海海戦で沈んだロシアの軍艦、ワリヤーク、コレーツがその残がいをさらす月尾島げつびとうをすぎると仁川の港である。波止場には白い服、黒い高い帽子をきた朝鮮人たちが、長ぎせるをくわえてのんびりと座っている。青い空。仁川の町のうしろには白っちゃけたゆるい丘が横たわって、なんとなく神戸に似た風情である。初めて踏む異郷の土に、ふととまどいを感じたが落着く先があるので私の心は案外軽かった。しかし連れられていってみると、婦人の家は路地の奥の二階住い。亭主は人力車の車夫である。夫婦の方では娘の養子にするいい男を拾ってきたつもりなのには弱った。世話になっているうち、本町の山路という雑貨屋が私の同郷であるのを知り、これ幸いと身を寄せることになった。
 この雑貨屋では私は番頭格ということだったが、ひどく追い使われた。ここにも十九になる実に美しい娘がいた。先代の梅幸にちょっと似ている。しかし気の毒にもこの娘は口が不自由だった。店の方でも私をこの娘の養子に、と考えていたらしい。彼女の方も私にひそかな好意を寄せているらしいのは、そのそぶりでわかった。
 そんなころ、お雪の兄から彼女が旧の五月七日に死んだとの知らせを受取ったのである。私は思わず店を走り出して港にいき、波止場の石に腰かけその手紙をなんどもなんども読み返した。とうとう死んだのか。あのとき親もとへ着て帰ったあわせが、おれが買ってやったたった一枚の着物だったが……と思ううち、せき上げる涙をどうすることもできなくなった。成功して帰り、お雪を迎えにいくのが、ここまできた目的の一つでもあったのに……。しかしお雪の死は私をかえってはやり立たせた。お雪のとむらい合戦にでも出かけるように、再び一人ぼっちになって私は、つるから放たれた矢となって、京城をさして突っ走ったのである。
 仁川から汽車に乗り、京城の駅におり立った。例によってなんのあてもない。駅前でぼんやりしていると、電車がやってきた。私はふらりとそれに飛び乗った。電車が動き出してから、車内をひとわたり見回すと、私の筋向かいに一見請負人らしい親分ふうの男が座っている。私はその男に近づいて声をかけた。
『つかぬことをおうかがいしますが、京城のキリスト教会はどこにございますんでしょうか』
 男はぎょろとした目で私を見た。もちろんキリスト教会は、話のきっかけを作る口実である。この作戦は成功した。結局私はその男の家に世話になることができた。男の名は大宮定吉と言い、私の推察どおり大漢土木公司の親方であった。与えられた仕事は京城市の東南の龍山にある漢江の河原に出て、朝鮮人のバラスとりの監督をするのである。朝鮮語で『オソオソ!』、つまり早く早く、とせき立てながら監督するわけだ。だがこの仕事はかげひとつない炎天の河原で一日中立っていなければならない。なれないことでもあり、精神、肉体の両方から襲ってくる疲労で、私は日射病にかかって寝込んでしまった。とうてい土木のような激しい仕事は向かないとあきらめ、体が回復するのを待ってふらりとここも抜け出したのである。
 数時間あてもなく、うろついているうちに、私は龍山の度司部たくしぶ(造幣局)のあたりまできていた。みるとアン巻きを朝鮮人に売っている鼻の欠けた日本人らしい男がいる。私は近づいて声をかけた。聞けば男の生まれは新潟県だという。異郷の果てに落魄らくはくの身の二人である。話合ううちに、しみじみとお互いに心のふれ合うものがあった。
『行くところがなければ、私のところへいらっしゃい』男はそういってくれる。まっ赤な大きな夕日が西の山の端に傾くころ、アン巻きの道具を背負った男とふろ敷包みを下げた私は、広い京城街道をとぼとぼと歩き出した。
 こうしてアン巻き屋の男に連れていかれたのは、加藤清正が朝鮮出兵のときに建立したといわれる「蝋石の塔」の近くだった。彼の住んでいる家は最下級の人が住んでいる低い倉庫のような建物の一室である。
 しけている。にんにくのにおいの混ったなんともいえぬにおいが、むっとただよっていた。私はその男と二人、たたきの上にアンペラを敷き、ドンゴロスの袋をかぶって寝苦しい一夜を明かした。
 アン巻き屋の男は朝早く起きて、出かけていったが、間もなくバケツに麦半分の冷飯をぎっしり詰めて帰ってきた。三銭で軍隊の残飯を買ってきたのだという。私たちはこれに塩をかけて食った。バケツ一杯が一日分の食料なのである。朝飯後、男はまたアン巻きの道具を背負い、私を部屋に残して商売に出かけていった。一人残され小窓をのぞくと蝋石の塔が見える。あらためて部屋の中を見回すと、ふとん代わりのドンゴロスの袋、食器に使うゆがんだバケツ……。旅路の果てのどん底の生活であった。
 私には、人間がどんなことでもできる、いかなる悲惨、困窮にも耐えられる強い忍耐心を天からさずかっているように思えてくる。いよいよ食えなくなれば、往来へ大の字に寝ころんでやろう。三日ぐらい食わずとも死ぬこともあるまいと、私はこのどん底の生活に、すっかり捨て身になっていた。私はここで三晩明かした。そして男が商売に出かけたあと、お礼の置き手紙を書いてその部屋を後にした。
 京城の南大門まで来ると、町角の小さい「ふ屋」に男入用と書いた札がかかっている。とにかく眠る場所と食べる物がほしかった。私はためらいもなく飛び込んで頼み込み、やっと雇ってもらうことができた。しかしここも続かなかった。私は仲間を相手に雑談するうち、つい気炎をあげてしまったのだ。
『人間手足を労しただけの報酬なんて知れたものだ。おまけにここなんざあ、安い賃金でこき使いやがる……』これが主人の耳にはいったからたまらない。『とっとと出てうせろ!』と、どなられっぱなしで店をほうり出された。
 なけなしの全財産、銅貨まじりの二、三円の金をにぎりしめて、私は水原まで汽車に乗った。しかし駅に立って考えると二、三円の金ではどうにもならない。がっくりと肩を落して私は、駅の外の町へとぼとぼと出ていった。

「美文之資料」で就職依頼状


 水原の駅の近くをうろついていると、朝鮮人小屋の中で日本人らしい老人と娘がドラ焼きを売っていた。私はふらふらと近寄って声をかけた。やっぱり日本人である。むこうもなつかしがって話に乗ってくる。しまいにはしんみりとお互いの身上話となった。老人は山口県の人で、以前は相当な暮しをしていたとか。こちらから切出さない前に『お困りならここへお泊まりなさい』と、しきりにすすめてくれる。で私も当分の間、その好意に甘えることになった。
 私は見よう見まねで稲荷ずしや、巻ずしを作り、娘と二人で大倉組の土木場などへ売りにいったりした。また京城で鼻のかけた男がやっていたのをまねて、アン巻きの道具を作り、朝鮮人に売ることも始めた。
『イコ、オルマニ?』一個いくらか、というのである。『スーニャンヌートオップン』二厘五毛と答えるのだが、なかなかよく売れた。しかしこうして娘といっしょに出かけるのを、老人がやき始めた。年がいもないと、思いながら気をつけてみると老人と娘とは夫婦なのである。おまけに赤ん坊までいるのだ。
 全くうかつである。まさか赤ん坊が老人の子とは気がつかなかった。国もとで近所の娘か、女中をはらませ、世間に顔むけできず、水原まで流れてきたものらしい。こうなれば長居は無用である。私は早々に礼をいって大連に渡るべく平壤の西方の港、鎮南浦に向け汽車に乗った。
 鎮南浦への汽車の中で、たまたま隣りに座った三浦という人から『大連へいったら英組の菊本を頼ってごらんなさい』と教えられた。あてのない大連行きだけに、私は早速その菊本をたずねる気になった。鎮南浦から神代丸に乗って大連に着いた。大連は当時「ダルニー」と言い、ロシア風の予想外の大都会で、やたらに赤れんがの建物が目についた。放射道路の石畳の道を馬のひずめを響かせてマーチョが行き、中国人のひくヤンチョが通る。アカシヤやポプラも美しい。しかしめざす英組の菊本氏は旅順の谷口組に移ったとかでいなかった。心からあてにしていただけに落胆も大きかった。だが仕方がない。私はつてを求めて昼は炭の行商を、夜はうどんの屋台車を引っぱることにした。昼夜兼行で働かなければ、とても食っていけないからである。
 炭売りは別にむずかしいこともないが、うどん屋はなかなかつらかった。夜、大連市中の日本橋のたもとに立って、りんを振っていると、汽車が走りながら鳴らすカランカランという半鐘の音がきこえてくる。はだをさす寒風が吹きつのって手や顔はむしろ痛く、私が振るりんの音までが凍りつくようであった。そんなときうどんを買ってくれた客から『悪いことはいわないから、夜の商売だけはおよしよ』ときかされたのは妙に心に残った。そうだ、うどん屋をやめよう。といってそれでは生活できない。そこで私は旅順の谷口組にいる菊本氏に使ってくれるような依頼の手紙を書くことにした。
 しかし私には菊本氏の心を動かすほどの文才はない。一策を思いついた私は夜店の古本屋をあさって、五銭で「美文之資料」という豆本を買ってきた。その中の文章でいいところを抜き出して組み合わせ、一大美文を作り上げようというのである。苦心の末完成したのは『いまだ拝眉の光栄を得ざる貴下に……』といった調子のもので、われながらみごとなできであった。案の定、菊本氏からは『やってこい』との短い返事が届いた。
 あすは旅順をたつという晩、私は常盤公園のベンチに立って同じうどん屋仲間を集め、別れのあいさつをかねて大演説をぶった。
『諸君よ、すべからく夜の商売はやめるべし。夜の商売にロクなものはないのである。そもそもこの異郷の天地へきて、うどんの屋台をひくとはなんぞや……』
『ヒヤ、ヒヤ!』
『いま、わがはいは、大志を立てて旅順に行かんとす!』
 だいぶ「美文之資料」にいかれていたようである。もっとも一つには彼らを勇気づけるために、日ごろの考えをぶったまでであるが、うれしくなるとすぐお調子に乗るのが私の癖らしい。
 ともかく私は喜び勇んで大連を後に旅順へ向かったのだった。

ピストル持って金捜し


 旅順へ着いてから間もなく、例の豆本“美文之資料”のとんでもない効能がさっそく現われた。私は谷口組の下請けをやっている菊本氏の家に厄介になりながら、無給で苦力クーリーの監督などを手伝わされていたが、ある日、谷口組の親分が『看板の下書きをしろ』というのである。どうやら私の書いた寄せ木細工の大美文のことが親分の耳にはいったらしい。つまりあれほど文章がうまいなら、学があるに違いない、したがって字も上手だろうとの至極明快な三段論法なのだ。親分は中肉中背、眼光は鋭く馬賊の頭目みたいな男。赤裏の黒いマントなど羽織って、えらく威勢がいい。その直接のお声がかりというので、私は恐る恐る前へ進み出た。
 みると看板の場所はロシア風の倉庫を改造した高さ百尺もある事務所の壁だ。私はしり込みしたが、親分は『書かないのなら出ていけ!』である。半泣きだった。『南無三宝』私はどうにでもなれと腹をきめ目もくらむ木組みに登って、命がけで書き上げたが、当然の結果として、ひどくゆがんで変てこな字になってしまった。
『ヘタくそじゃな!』さすがの谷口組の親分も顔をしかめたが、別に書直せともいわなかった。しかもあとでペンキ屋がごていねいにも、私の字のままに塗ったものだから、文字通り恥の上塗りである。だから私の珍妙な字はかなり長い間、そこにさらし物になっていた。
 間もなく、私は二十七歳の正月を菊本氏の家で迎えた。明治四十年のことである。私はふと思いついて牛肉の行商を始め、これが案外当った。そして旅順の八島町にバラックながらも一軒の家を建て、こけおどしにビールの空きびんなどをずらり並べた菊屋洋行という雑貨店を始めたのである。私は大いに気をよくして働き続けたが、独身生活の悲しさ、地味な暮しができず、三、四人の居候をかかえる始末。たちまち酒屋の払いだけでも七十円ばかりためてしまうありさまである。
 ちょうどそのころ、満州馬賊はなやかな時分で、私たち若い者は逸見勇彦、橋口勇馬などの豪傑連の話に血をおどらせたものであった。私もその一人。仕入先に借金があるのも『たいしたこたぁない』と笑い飛ばし、居候どもと鉱山師の弟である英組の広沢を引きつれて、金鉱を見つけに満州奥地へ飛び出したのである。
 まるでドン・キホーテである。かりに金鉱を見つけたとしても、どうしようとのあてもなかった。しかし大陸放浪熱にうかされた私たちは勇み立っていた。まず大連でひそかにピストルを買い、鴨緑江をみて安東県から徒歩で九連城、寛甸かんでんを通り、懐仁地方へと進んでいった。
 満州の野は春だった。柳は芽をふき、にれの木立の芽もほころび、遠くからながめると紫のかすみがかかったようである。思いがけぬ谷間に集落があり、白い草花がまっさかりだ。また岡の上に高い望楼のある城壁をめぐらせた町があり、顔に刀傷のある男がぬっと出てくる。こんな間の中国旅館に二週間ばかり泊まったが、ある夜とうとう本物の馬賊の襲撃を受けてしまった。馬賊は鉄砲をうちながら宿の周囲をかけ回ったが、われわれに金がないのを知ると、やがて立去った。こうして冒険を続けながら、めざす二道河子あるどうこうしの鉱山にたどり着いた。しかしどうも廃鉱らしい。ともかく金鉱とおぼしきものを採掘し、草河口を回って全くの無一文で三週間ぶりに旅順へ帰ってきた。
 あとで分析してもらうと、二道河子の鉱山は金鉱でなく銅鉱で、しかも含有量がきわめて少ないものとわかった。しかし冒険旅行に満足していた私は、それを聞いても別段がっかりもしなかった。鉱山から帰ってきたものの、私の山っ気と放浪癖はいっこう収まらなかった。いちど大連にわたってから旅順に舞戻り、再び牛肉の行商を始めながら化物屋敷で野良犬と二人(?)きりで同居したこともある。奉天の掘立小屋に住んで亜炭を売り、鉄嶺では金がなくてとうふばかり食っていた。大工の細君と仲良くなり、逢引きがばれて、鉄嶺を逃げ出し上海に流れた。上海で、通称“神戸の小母さん”という女顔役の世話にもなった。上海で東亜同文書院の向かいの中華そば屋に雇われ、当時名声をはせた島貫兵太夫のチベット入りの一行に加わろうとし、一足違いで間に合わず、残念でならなかったこともあった。
 ええい! 行けるところまで行け! 私はあり金をはたいて香港行きの汽船に乗込んだ。この船の中で、私は初めて人買いの阪大佐太郎ばんだいさたろうに会ったのである。

クーリー船の人買い男


 島貫兵太夫氏のチベット入りの一行に加わっていたら、それ以後の私の半生はずいぶん変わったものになっていたろう。それはともかく私はチベット行きができなくて残念でたまらなかった。島貫氏一行が泊まっていた虎屋旅館に無料で厄介になり、あくる朝、『広大号かんだいごう』という千トン足らずの、中国人の苦力クーリーを運ぶ船に乗込んだのである。船は広東行で九龍で下船し、対岸の香港へははしけで渡るわけだ。船賃はたしか二円で、食事なしである。広大号を選んだ理由は、中国船に乗れば苦力同様パスポートがいらないし、第一船賃がうんと安かったからだ。
 乗ってみると、なるほどほとんどが苦力ばかり。日本人もほんの少しはいたが、彼らは西豪州へ真珠貝取りにいく出かせぎ人たちだ。苦力はみんなこうりゃんの大きなパンを持参していたのだが、私はもとより食事の用意がない。真珠貝取りの日本人のしり馬に乗って英人の船長に米と塩をせびり、かろうじて飢をしのいだ。そんなどれい船のような広大号に、はなはだ人相のよくない、五十五、六のはげ頭の日本人が、年ごろの娘を連れて乗っていた。これが人買いの阪大佐太郎だったのである。
 二、三日の航海だった。九龍から二十銭のはしけに乗って香港の港につくと、旅館の番頭たちが、旗を立てて、声やかましく客引きにきている。私は人がきのうしろから、まっさきに目にはいった旗の名を大声で呼んだ。
『おい松原旅館。泊まってやるぞ!』
 私は大手を振って、ペコペコ頭を下げる番頭をしり目に馬車に乗込んだ。
『部屋は中ぐらいでいいよ』とすべておうようである。ふところの中は相変わらずの無一文なのだが、いかにも金がたんまりあるかのように泰然と落着くことにした。しかし最初から無銭宿泊のつもりではなかった。なんとかせねばいかん、なんとかなるだろう、という気持だった。もし万策つきれば、この体ひとつ売ってでも始末をつけよう、と最後の腹は決めていた。
 あくる日から私は町を歩いてここで石炭屋でも始めようか、などと考えた。宿の方ではどうやら、『あやしいやつ』と目をつけ出した様子である。いよいよこづかい銭にも困ってきたので、有名な香港の泥棒市場で、持っていた銀の懐中時計を二円で売った。
 こうして戦々恐々としているある夜のこと、隣りの座敷のひそひそ話が気になり、ふすまごしに聞き耳を立てると、聞いた声と思ったのも道理、広大号に乗合わせた人相のよくない男と娘らしい。そして二、三日するうちに娘の姿がみえなくなった。
『やっぱりそうか』と私は自分のひざを打った。男は人買いなのである。娘をゆうかいして、シンガポールあたりの黒人の愛人に売り飛ばして二、三千円の金にするのだ。
 一方宿からは毎日矢のような宿賃のさいそくだ。ついには領事館に突き出してやる、といわれて私も心を決めた。
『それほどいうなら、この体で宿賃を払おうじゃないか』とっておきの切札である。番頭は引下がった。あとから西豪州の真珠貝取りにいってもらおうという。英人の経営で、年期をきって身を売るのだそうだ。それもよかろう。――しかし、その夜ふろにはいって、相ぶろの人に『あしたフランスメイルで西豪州へゆきますのや』と、得意顔でいうと相手は顔色を変えた。
『そりゃいかん! それはね英人にきびしく監視されて海底深くもぐり、貝をとってくるのだが、逃走を防ぐため一年ぐらいは陸にあげてもらえず、十人おれば三人は死ぬ仕事なんだよ』
 これはえらいことになった。私は部屋に帰って考えた。どうにかこの場を切り開かなければならない。どうにか……と思いつめているうちに、私は自分がもう日本に帰る時期にきているのを感じた。『やってみよう』一種のカケである。私はわらでもつかむ気で、隣りの座敷の人買い男に頼んでみようと思いついた。人間は追いつめられるほど強くなれる。私は意を決して身づくろいすると、隣りの座敷のふすまに手をかけた。

人生再出発は元金十銭


『ちょいとごめんなすって……』
 私はふすまをあけて両手両ひざをつき、見よう見まねの渡世人の仁義をよそおい上目づかいにいざり寄った。
『まっぴらごめんなさっておくんなさい。わたしはとなり座敷のものですが、若いお娘さんはどうなされましたか?……それはともかく私は、いま非常に進退きわまっているんだが、はなはだぶしつけながら、私の体を質にとって内地へ連れて帰ってもらえないでしょうか。もし願えればあなたの仕事もわかっていることだし、手助けでもしてご恩に報いることもできると思っています。聞けばあすおたちのそうだが、ひとつ連れて帰ってくれませんか』
 唐突の侵入者のことばに相手は驚いた様子だが、こっちも必死だった。ぐいと相手の目を食入るようににらんで私は返事を待った。さすがの悪党もすねに傷持つ身、私の気迫に押されたのか、しばらく無言で私の顔をねめつけていたが、やがて『よろしい。お頼み通り引受けよう』とあっさり承知してくれた。
 計略は図に当った。私はほっと深い息をはき、肩の力を落した。あまり簡単に引受けてくれたので気の毒になり『大阪には小さいながら自宅もあります。帰りさえすれば家を売り払ってでも金は返します』と出まかせの気休めをいってしまった。私に見込まれたこの人買いの男、阪大佐太郎は、新潟県の生まれであった。
 先年、妻を連れて新潟県まで行き、身寄りの人でもいればお礼の一つでも――と思ったが、どうやら阪大佐太郎は偽名だったらしく、見つからなかった。で帰りに福井の永平寺へ立寄り、私を救ってくれたこの悪党の冥福を心から祈ったものである。
 とにかく阪大佐太郎は六、七十円ほどの宿賃を払い、横浜までの二十二円五十銭の船賃も出してくれたのだ。帰りは阪大との二人連れである。私たちは博多丸の特別三等船室に納まって思い出深い中国をあとに、いよいよ日本への帰路についた。足かけ四年の大陸放浪生活であった。船が大陸を離れていくにつれ、私は初めて自分を取戻したようにわが身を振返り、将来を考えた。朝鮮、満州、中国にわたる流浪の生活は無謀というより、むちゃくちゃであり、思い返せばわれながらぞっとする。それにこの異郷の生活によって得たものは、ただ年をとったことだけだった……と。海外へ雄飛して故国に錦を飾るのを夢みた私だが、いまやその夢はこなごなにくだけ、私はただ心身ともに疲れ、元のもくあみの裸一貫の生活に帰るのだ。金がないからこそ、人買いの悪党をも恩人とせねばならない。『ああ金がほしい。それもまじめに働いてもうけた金がほしい……』
 まじめに働こう。これまでのような放浪生活とはきっぱり縁を切って地道に暮そう。いまから思えば大陸生活で私が得た、たった一つのものはこの決心だったかもしれない。そして私は「金なくして人生なし」という私なりの哲学を持つようになった。
 こうなると妙なもので、阪大に『大阪へ帰れば家がある』とうそをついたのが気になり出した。あす神戸へ入港するという日、苦悩を重ねた末、やり切れなくなって私は阪大に事実を打ちあけ謝罪したのである。真の裸一貫から清い成功への一路を突進しようと決心した私だが、そのためには親類縁者との交渉を断ち、いっさいの虚飾を捨てた生活が必要である。大阪もいや、神戸、横浜もいや、知った人が一人もいない東京で働こう、また同じ働くなら人のいちばん集まったおひざもとの東京で働こうと私は考えた。
 阪大を誘って東京へ着いた。といって彼と離れれば、そのときから金のつるを失ってしまう。ああでもない、こうでもないと東京の町を阪大にくっついて離れずにいたのだが、これにはさすがの悪党もあきれ、ほとほと閉口してしまったらしい。あるいはそんな私が薄気味悪くなってきたのかもしれない。ある日『いつまでも東京にいても仕方がない。おれは国へ帰る。あとはお前でどうなとしなよ』と言い置いて私に十銭玉一つと、古い赤げっとをくれたまま、そそくさと私から立ち去っていった。
『この十銭から私の再出発が始まるのだ!』
 忘れもしない、それは四月十二日だった。上野公園では咲き誇る桜の下で、花見客がうかれる陽春を、私はうすぎたない冬服姿で、もらった十銭玉が汗をかくほどにぎりしめ、赤げっとを小わきに抱いて、とぼとぼ歩き出した。

段ボール機のヒントを得る


 阪大佐太郎と別れて、私はまたひとりになった。そしてどこをどう歩いたのか半蔵門のあたりまできていた。「この土手に登るべからず」と書いてあるお堀の土手に登って皇居を遥拝し、夕暮の景色をぼんやりながめている……。ひとりの救世軍士官が通りかかって声をかけた。
『“ときのこえ”を買ってくれませんか、一部二銭です』『よし買おう、その代わりに君の帽子には世を救うと書いてあるがひとつおれを救うてはくれんか?』私は土手をおりて、中国で刷った赤い名刺を差出した。『今夜の宿もないんだ』士官はアーメンとつぶやくように口の中で祈っていたが、やがて自分の名刺を出してその裏に「本所花町箱舟屋」と書いた。『この木賃宿へいけば、悪いようにはしないはずです』私はただちに士官に教えられた通り箱舟屋を訪れたが、案に相違して剣もほろろのあいさつである。しょんぼりとそこを出たが、私には行先がない。疲れ切ってとぼとぼ歩くうち、出てきたのは上野広小路の教会の前である。私はわれを忘れて教会へはいっていき、信徒にまぎれて後方の席へ腰をおろした。そうして慰めの愛の言葉も聞きたかったが、それよりも足の疲れをいやしたかった。だるい。もういうことをきかぬほど、私の足は疲れ切っている。初めのうちは説教も耳にはいったが、綿のような疲労が全身をひきずり込むようで、いつかぐっすりと眠りこけてしまった。
 どのくらいたったか私は無情にもたたき起こされた。賛美歌の声に送られながら私は再び夜の町に追い出されたのである。四月には珍しい寒い夜だった。空には星がたくさんまたたいていた。仕事を選り好みするときではない。私は本所清水町十七番地の桜井つけ物店で働かしてもらうことにした。
 仕事というのは背中に桜の印のある古はっぴを着て、天びん棒をかつぎ、たくあん、福神づけ、からしづけなどを売り歩くのである。この店はかん詰めもつくっていたので、夜は夜でかん詰用のナタ豆まできざまされる。
 しかし私がいちばん困ったのは『エーつけ物やつけ物……』の売り声がまるきり出ないことだった。初めのうちは小さい声で回っていたが、それこそ落語にある「与太郎のかぶら売り」みたいなもので、さっぱり売れない。「これではならじ」と、ある日家のまばらな日清紡績裏の空地に立って、声をふりしぼって売り声の練習をした。するとこれを聞きつけたのか、浪花節語りの前座だという若い男が出てきて、二人が競争で声を張りあげたものである。しかし練習してもだめなものはだめである。声を張りあげるほど、つけ物がくさるように思えて、われながら情なかった。そんなありさまだからつけ物はてんで売れず、ここもクビ。
 六月になるというのに、またもや満州以来のぼろ冬服に着替え、しおれ切って店を出ようとすると、出戻り娘のお光ちゃんが物かげから手招きしている。そして私の手に電車の片道券をそっと握らせてくれるのだった。行暮れて人の情が身にしみる。彼女のほのかな好意は、私の心に通じるものがあった。押しいただいたものの、切符を使ってしまうのが惜しく、私はしとしとと降る梅雨の町へ、はだしで歩き出した。
 ところが浅草小島町まできたとき、交番の巡査が私を呼んでいる。はだしで歩くのは罰金だというのだ。『ぞうりでも買ってはけよ』さすがに気の毒そうにいってくれたが、それを買う金もない。情なかった。はだしの足には六月の雨さえ冷たい。くちびるをかんでこみ上げてくるものをこらえ、ただ歩いた。そして御徒町二丁目までくると、中屋という店ののき先に、「男入用」と書いたかまぼこ板がぶら下がっている。私のはだしの足は自然にその店へ吸い込まれた。結局私はここで雇われた。中屋は紙ばこ道具、大工道具などを売っている店で、私は外交員として使われることになった。この店の片隅で、小さな綿繰り機械のようなものを見かけたが、この機械のイメージが、後年私が段ボール機械を工夫するときの「ひな型」になったのである。

第二の“母の胎内”二畳座敷


 中屋はどうしたわけか、住込みではなく、そのかわり木賃宿代として日に十銭ずつくれる。こんどこそひとふんばりだと、私は業平橋の下総屋という木賃に泊まって、大張切りで中屋に通った。そして片手間に横町のシンガーミシンの外交も引受けた。
 このミシンの外交で五円の金がもうかったので、私は仲御徒町の路地のどんづまりで月九十銭の部屋を借りた。部屋といってもたった二畳である。つまり入口の格子をがらりとあけると、狭い一尺の土間があって、トンと上がったところが私の「お座敷」という寸法だった。
 貸し主の老夫婦は唐紙一つ向こうの六畳に住んでいる。じいさんは夜になると尺八をふところに家を出ていく。飲食店の門口などに立って尺八を吹き金をもらうのだ。しかしそれだけでは生活が成り立たないので、ばあさんが大阪府知事の名が顧問として載っている「汎愛扶殖会」の帳面を持って寄付金を集めてくる。もちろんインチキなのだが、この寄付金が貧しい老夫婦の生活費の一部になっていたようだ。知事は売名、会はインチキでは寄付をする人もたまったものではあるまい。おまけにばあさんはたいへんがっちり屋で、口げんかの絶え間がない。結局言い負かされて、じいさんは尺八を持って出ていくのだが、私はそのさびしげな後姿をあわれに思ったものであった。
 間もなく私は路地にある富岡紙ばこ屋の注文とりも始めた。なにしろたった二畳とはいえ、帰京以来初めての独立の安息所である。うれしかった。私は心身ともに張切って矢でも鉄砲でも持ってこい、と勢い込んだし、夜は思いっきり手足を伸ばして、のびのびと休んだ。いまから思えば、この二畳の部屋が、私の第二の“母の胎内”だったのだろう。私はひとりの天地を楽しみ、これからどう踏み出せばいいか、香港から帰途の博多丸の船上で誓った成功のスタートについて思いをめぐらした。とにかく一意直往邁進まいしんすべきである。ひとよりいい商品を安く売ることだ。こうすれば金は自然にもうかる。金はもうからないのではなく、人がもうけないのだ。そして天からさずかった福運は絶対に自分のものとすること、つまり「握ったら離すな!」。また考えた、私は人に使われるのに適していない、第一、波を打っている世の中で、その波に乗るのは使われていてはだめだと。腕をこまねいて天井を見上げ、思索を続けていくと、おもしろいほど私の決意はまとまる。この二畳の座敷で考えたことは、いまにいたるまで一貫して変わらない。だから私にとって記念すべき、忘れがたい二畳の座敷だったのである。だがさてなにをやるべきか? 私は自分でこしらえ、自分で売ることをやろうと思った。
 こんなとき私はふと、奉天で知り合った雑司ヶ谷の池田良栄をたずねてみる気になった。彼は当時善隣書院の中国語教師をしており、後には陸軍士官学校の教師にもなった男だ。つもる思い出話をしているうちに、池田が『君は大阪商人だが、なにかおもしろい商売はないかね?』と切り出してきた。なんでも彼の友人に予備の陸軍大尉の荒川という人がいて、恩給や年金でなにかいい仕事をやりたい、と捜しているというのだ。『あるよ、あるとも』私は即座に答えた。しめた! 私の事業の出資者になってもらえる。あとは口から出まかせで、中屋の店の片隅でほこりをかぶっていた変てこな機械を思い出しながら、ボール紙にしわを寄せる仕事の話を持出したのである。全く「ひょうたんからコマ」だった。池田は『ふん、なかなかおもしろそうだ』と大乗り気である。さっそく荒川と品川に住んでいる石郷岡大尉、荒川の援助者の一志茂敬の三人が出資者となる話が決まったのだ。
 当時日本で作られていたのは、もとはブリキに段をつけるロールにボール紙を通したもので、正式な名はなく一般に「電球包み紙」といわれていた。しかしこれは一枚の紙を山型のジグザグに縮ませただけで、ほとんど弾力性はなく、押えればぺしゃんこになってしまう。しかし馬喰町のレート化粧品などで使っていたドイツ製品は、波型紙をさらにもう一枚の紙にのりづけしてあり、しかも波の型が三角形でなく半円形で、弾力に富むものだった。当時は俗に「なまこ紙」といっていたが、私たちはこの国産品を作ろうと思い立ったわけであった。

段ボール完成!


 東京の片隅、はまぐり料理屋とおもしろいお茶屋にはさまれた狭い品川本通りを一歩はずれると、目黒川のほとりに本照寺という小さい古寺がある。池田良栄の仲介で荒川、石郷岡、一志の三人の出資者を得た私は、その本照寺の裏にある二十坪ばかりの平屋を月五円で借りた。この家のいちばん奥の六畳の部屋に私が考えた通称「なまこ紙」を作るトラの子の機械を据えたのだが、これが私たちが名づけた三盛舎の工場というわけである。私は二十九歳、この履歴書の最初で書いたように、稲荷おろしの「紙の仕事は立板に水じゃ」のことばもあって、とにかく懸命にボール紙にしわを寄せる仕事に取組んだのだった。
 使用人としては、原紙などの運び役に櫛原万造という大酒飲みのじいさんと、私が日給二十銭で雇った亭主持ちの女子作業員、おげんさんの二人。家の中には、くだんの機械のほか、機械のロールをあたためるための七輪二つ、それにかまと、そば屋から来てそのまま「とりこ」になったどんぶり一つというしごく簡単な生活である。
 もっとも機械といっても、波型をきざんだチクワロール二本を、左右二本の木製の支柱にわたしただけのもので、ロールについたハンドルを回しながら、原紙のボール紙をロールにかませると、しわが寄ったボール紙が出てくる仕組みになっている。
 ところがやってみればなかなかうまくいかない。まず紙のしわ――つまり段が左右不ぞろいで、出てくる紙が扇形になってしまう。これはロールの左右にかかる力を均等にすれば解決するのだが、これには台座にバネを置いたり、分銅をつるしたり苦心した。
 一方紙についての苦労も多かった。段をつけても風に当ると伸びてしまうのである。始めたのは夏だったが、こんなふうに苦労ばかり続けて二ヵ月たった。
 そして秋の気配も迫ったある日の昼前『できた!』見事に段がそろった製品ができ上がったのである。私は飛び上がって喜んだ。うっかりすると『こりゃこりゃ』と踊り出しそうだった。こんなに見事な製品を人に見せるのが惜しいと思ったほどである。おげんさんと私は、三合で四銭の「やなぎかげ」を茶わんにつぎ、ひえた焼芋を七輪であたため、それをさかなに祝杯をあげた。『できた、できたよォ――』私はデタラメの節をつけ、茶わんをたたいて歌い出した。
 そのあとの、のりづけもひと苦労だったが、こうして日本で初めて生まれた「なまこ紙」に製品名をつけるのもたいへんである。弾力紙、波型紙、しぼりボール、コールゲーテッド・ボード……などいろいろ考えた末、私は最もゴロがいい“段ボール”に決めた。しかしさて売る段になると、またたいへんである。注文がなければ作るわけにいかず私は小さな見本帳を持って外交員に早変わり。浅草の深山洋紙店へ二百枚売れたのが手始めだったが、むしろ損害の方が大きかった。
 櫛原じいさんは段ボールを束にしたのを荷車に積んでひき、本所、浅草方面の得意先へ届け、帰りに原料の紙を運んでくる。私は早く起きて、朝七時までに割引の往復切符を買って、段ボールの大きな荷物を背負い電車に乗る。しまいには荷物が大きいものだから、ほかの客に迷惑になると車掌がおこり出す。たいていの車掌に顔を覚えられてしまい、私の姿を見るとチンチンと急いでひもを引いて車を出してしまうようになった。仕方がないから私は遠くの乗換え場所まで歩いて行って、顔なじみのない電車にまぎれ込むことにしていた。現実のきびしさと、金の尊さを知っていたこともあるが、実際商売の方も赤字続きだったのである。こんな悪戦苦闘のなかで出資者たちはつぎつぎと私から離れていった。荒川など別れぎわに私の着ているどてらや、ふとんまで取上げていったものである。しかし私はかえって元気を出した。商売には浮気は禁物! あくまでやりとげよう。私は独立独歩できるのを喜び、別れていった三人の出資者にも心から感謝を捧げた。そして事業名を三盛舎から三成社に改めた。ちょうどこのころ、私が苦心して組立てた機械とその製法が実用新案特許を出願して認可されたので、製品の名も“特許段ボール”として市場に出すことになった。

同じ胸の病で第二の妻を失う


 私が段ボールを技術的に完成した明治四十二年の秋もすぎ、冬の訪れを感じられるようになったころ、築地小田原町二丁目の本願寺裏の家に引越した。たしか家賃は十二円だったが、やっと落着いてみると私の手元には葉書を五枚買う金しか残っていなかった。ここでも私は朝の六時から夜の十一時ごろまで、のりと汗にまみれて馬車馬のように働き続けた。
 間もなく迎えた明治四十三年の正月、私は三十歳になった。この年は国内では有名な幸徳秋水らの大逆事件があり、またハレーすい星が現われ、外交面では日本が韓国を併合した年である。
 私は心ばかりでもこの年の幸いを祈ろうと、一銭五厘で門松を買って飾り、年賀状を四枚買って、レート化粧品などおもだった得意先四軒にあてて出した。それから五銭でもちを買い、形ばかりの「ぞうに」をひとりで祝って三ヵ日をすごしたものだ。年始がてらにやってきた向かいのばあさんに、子供を連れて実家に戻った娘の縁談を持込まれたのもこの正月だった。もちろんこれは断ったが、「戻る」では正月早々縁起がいいと喜んでいいものかどうか……と苦笑したものである。
 ある日鎌倉河岸の光電社へ電球包装紙の注文品を届けにいったところ、主人の所浜次郎氏から女房の話を持込まれた。相手は本所松原町にある質屋の若嫁さんの妹で、お静という二十二の娘である。私は生まれて初めて見合いに出かけた。お静はおとなしく下を向いたきりで顔もよくわからなかったがとにかくもらうことにした。私は『女房をもらえば働き手がひとり助かるから安上がりだ』とひとりそろばんをはじいたわけである。
 三月に結婚して、そのあくる日から女子従業員のおげんさんを断った。お静はおげんさんの仕事をいっさい引受けたうえ、家事も切りもりし、それこそ女子従業員以上の働きである。しかしお静は半年ほどたってをわずらい、寝込んでしまった。私はやせ細ったお静を背負い病院に連れていったが、その軽さがふと胸にこたえた。痔の方はどうやらなおったが、しばらくすると、お静はまた気分が悪いと言い出した。医者は肺結核だという。環境を変えるため、下谷西町の小さいながらも庭のある家へ引越したり、千葉の療養所へ入れたりしたが病気は悪くなるばかり。一方私は商売が忙しく手が放せない。男ばかりの世帯ではどうすることもできないので、薄情のようだが当時大成中学に通っていた書生の青田をつけて実家に帰すことにした。実家へ帰してからしばらくして、私はお静が死んだとの通知を受取った。お雪を失ったのも胸の病いである。いまならパスやマイシンであるいは助かっていたかもしれない。苦労ばかりかけて、死なせたかわいそうな二人だが、私もなんと女房運の悪い男かとつくづく情けなくなった。こうして私はまたもや元の独身生活にかえった。
 下谷西町の店はすでに使用人が五、六人ほどにふえていたが、相変わらずの苦闘時代が続いた。後に聯合紙器創立の際、ひと方ならぬ世話になった東京電気(後の東芝)とは直接のつながりはなかったが、下谷根岸の栄立社を通じて多量の電球包装用紙の注文を受けたことがある。これが東京電気との最初の縁故となった。
 私は独身生活のさびしさをまぎらすためにバイオリンを習ったりしたが、ときには五十銭玉一つ握り、万一の用意に一円札をたび裏にしのばせ女遊びにも出かけた。洲崎の弁天橋のたもとで、馬肉をさかなにしょうちゅうをひっかけてからいくのだが、帰りを早く切上げるのでだれも気がつかない。近所では『井上ほど商売熱心なカタブツはない』との評判だったが、なんぞはからん、私はこの五十銭の楽しみをかかさなかったのである。
 その後、半年ばかりたって、また所氏の世話で後妻をもらい、二人の男の子をもうけた。私は初めてみるわが子の顔に、父親としての責任を感じ、ますます商売に心身を打込んでいったのである。このため商売も次第に繁盛し、大正二年には二千円の貯金もできるほどになった。私はいつまでも手工業にあまんじるべきではないと、ドイツから巻取り段ボール機械の輸入を計画し始めた。

聯合紙器創立


 銀座の島田洋紙店主に金を借りたりして、当時の金で三千円の巻取り段ボール機械をドイツから輸入した。もっとも初めはうまく運転できなかったが、苦心の結果なんとか完全にこれを扱えるようになった。こうなるとますます大量生産の成果もあがってくる。事業も順調にはかどり、島田洋紙店への借金は、間もなく利息もつけてすっぱり返すことができた。
 そのころ本町のリーガル商会からベジリン香水半ダース入りの、段ボールによる包装用紙ばこの注文を受けた。私は国産で初めての両面段ボールを使って、見よう見まねの製作にかかり、これを仕上げたが、これが日本でのいわゆるパッキング・ケースの最初のものとなった。
 店員も十数人にふえ、私は『月に一千円以上の品物が売れるようになれば、お前たちにうなどんをおごろう』といってみんなを励ましたものである。
 大正三年七月、第一次大戦が突発、戦乱が進展するにつれて、景気はにわかに上昇した。私の仕事もようやく波に乗り、マツダランプの箱がウラジオからロシアへぐんぐん伸びていった。事業は猛烈な順風に、帆もさけんばかり。躍進また躍進である。大正四年横網町の安田家の裏へ、初めて家を買い取り、ここへ工場を移し、大阪に「大阪三成社」を創立、名古屋にも支店と工場を設置した。東京の分工場として川崎工場を建てたのもこのころ。子会社の帝国紙器も創立した。
 それ以後の私の事業は、まずまず軌道に乗ったといえる。もっとも現在までの四十年間には、関東大震災、日本製紙の合併、第二次大戦後の混乱とまだまだ多くの苦難が私を待ちうけていたが、三十歳までに味わったつらさを思えば、むしろ軽いものだった。この四十年間はあまりくわしくやると、多少自慢話めくので、かいつまんでさっと走ることにしよう。
 私は業態を一段と発展させるため、三成社を株式会社組織にしようと考えていた矢先き、東京電気からもすすめられて、大阪三成社、帝国紙器を合わせ、大正九年に聯合紙器株式会社を創立した。聯合紙器の名は、当時東京電気の傍系会社に帝国聯合電球というのがあって、これからとったのだが、どうもゴロが悪く、電話では「ベンゴシ?」などと間違えられて往生した。しかしいまでは聯合紙器という名が段ボールの構成にも通じる気もするので、まんざら悪い名とは思っていない。
 大正十二年の関東大震災では本社工場を焼失したが、その苦境の中で日本製紙を合併、それが一つの契機となって、東京電気との資本関係も一応切れた形となった。震災後は本社を大阪へ移したが、第二次大戦が始まる直前には内地に十二工場、海外でも満州、朝鮮、中国、台湾に二つの分工場、一つの出張所と五つの子会社を持っていた。戦争中には陸軍から“東条閣下ご考案”の豚血液を乾燥させた粉末で防水したはこを作らされ、海軍からは中身を使用したあと、海中に捨ててもすぐ水を吸って沈むように、ブカブカのはこを作れと命令されるなど陸海軍正反対の注文を受けたりした。
 そして終戦。外地の工場はすべて接収され、国内でも半分以上が焼失した。私は残った工場と従業員たちで、軍から払下げられた一九式梱包こんぽう用の原紙を使い衣装ばこを作って売出し、家財道具を失った人々に好評を博したものである。
 私は昭和二十八年には業界視察のため渡米、帰国してからは各工場の復旧と、拡張に没頭した。そして聯合紙器はいま、年間売上げ七十億円、十五の工場と千七百名の従業員を持ち、月間使用原紙八千トン以上の会社に成長した。
 パッキング・ケースは、アメリカではいまや自動車と同様、経済のバロメーターといわれるほどの普及ぶりである。日本でもそうなる日は近かろう。私はすべての品物をみんなパッキング・ケースに入れてみせるつもりだ。
 ゆりかごから棺おけまで。もっとも段ボールのゆりかごはまだ作ったことはないが、棺おけなら戦時中にやったこともあり、戦後も一昨年(三十三年)、ある坊さんの生き葬式用に作ってみたことがある。死人に口なしで、燃え心地などあまり確かめたことはないが、きっとぐあいのいいものに違いない。その節(?)にはご愛用のほどを願っておこう。

「苦しかった過去」を持つ楽しみ


 夢のようにすぎた八十年であった。私はいま七十九歳。戸籍面は明治十五年生まれだから七十八歳、現代風に満で数えると七十七歳。ややこしいことである。
 人に比べれば、波乱の多い青春時をすごしたが、いまから思えば、私は波乱の中での経験をはだで受取り、自分の生きるための糧とすることができたのは幸いだった。ただ残念なのは、二人の息子がすでに他界したことである。二男賛次郎は大戦中陸軍大尉の資格で糧秣廠りょうまつしょうに通っていたが、疲労のため昭和十九年四月八日病没。長男庸太郎も三十三年三月十四日に病いで失った。二人の息子の生母とも別れ、大正末から世帯を持っていたいまの妻と二人きりの生活である。もっとも孫が六人おり、この成長が楽しみだ。
 苦しかった青春時代を通じて私が得たのは、最初にも書いた「寝れば一畳、起きれば半畳、五合とっても三合飯」の雑草の根強さであり、二畳の座敷で考えた「良心に従って全力をつくして働き、気になること一つもなく、ぐっすり眠れるようになろう」との気持はいまも生きている。
 しかし私はいま幸せだ。なぜならおりにふれて追憶し、楽しめる「苦しかった過去」を持っているからである。苦あればこその楽しみだ。苦しみを経た者しか、真実の喜びは味わえないと思う。
 いろいろ女の話が出たが、最後にいまの妻の話をしよう。名は晴代と言い、私より十下のばあさんである。大正末に大阪の天下茶屋で世帯を持ったのだが、島之内の紙屋の娘で、前に書いたお雪を知るより前、妻が七つぐらいのときから知っている仲だ。「女房もらえば給料分が助かる」とへらず口をたたいた私だが、本心はやはり家庭が第一と思っている。家庭をうまく治められない男に仕事ができるはずがない。私の家庭――といってもたった二人きりの生活だがしごく円満である。それにいま初めて書くことだが、私がこれまで会った女のなかで、残念ながら、いまの妻ほどの者を見たことはない。七十九にもなっていまさらのろけるわけではないが、こんな話もあった。
 私が大阪に住むようになってからのある日、東京の柳橋のお利枝という女がやってきた。これは大した美人で、当時の上流の社交界の花形。度胸もあり、弁舌もさわやかな頭のいい女だった。これがダイヤの指輪などをキラキラさせながら、飛行機に乗って私に『金を貸してほしい』といってきたのである。普通のしろうと女が太刀打ちできる相手ではない。しかし私は多少ためす気もあって、わざとかくれ、妻に応対させたが、とてもだめだろうと内心では思っていた。ところが妻はみごとにお利枝をさばいて、一銭も渡さずに東京へ追い返してしまった。みごとな腕前である。これには私もかげで大いに見直したものであった。もっとも世の中で理想の女房、あるいは夫というようなものはない。夫婦はむしろお互いが作るものなのだ。そんな意味もあって、私は太ってすっかり出無精になった妻を仕事や旅行にも引っぱり回し、私と同じように見聞を広める機会を与えるようにしている。放浪を続けた私だったが、いまさらのように、家庭こそ、夫婦が力を合わせて築いていくべき「トリデ」だとつくづく思うのである。
 だが私は過去の追憶にばかりふけっているのではない。会社の部屋に日本地図を広げて、たこの足のように八方へ伸びていく聯合紙器の未来図を描くのに忙しいのだ。私の後進たちが、存分に活躍できる舞台を用意するのがこれからの仕事でもあろう。私は農家の一少年として生まれ、だれに頼ることなく、野中の一本杉として生きてきた。いまは妻と二本杉というところだが、二人は一体なのだからやはり一本杉といわせてもらおう。そしてこれからもこの一本杉は伸びなければならぬ。だからもし冥途めいどから迎えにきたら、八十八を越してからいく。八十八を越してからまた使いがきたら、九十九までは留守と答えよう。留守なら帰りを待つというのなら、いっそいかぬと言い切ってやれ――。かつて若い“栄吉”をかり立てた並みはずれて大きい野心の炎は、いまでも七十九の老人の心に燃え続けているのである。





底本:「私の履歴書 昭和の経営者群像1」日本経済新聞社
   1992(平成4)年9月25日1刷
初出:「日本経済新聞」日本経済新聞社
   1959(昭和34)年6月28日〜7月17日
入力:sogo
校正:仙酔ゑびす
2014年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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