芳賀博士

佐佐木信綱




龜原の木立のひまに夕日しづみ悲しくも君をはふりつるはや
 これは、芳賀博士を音羽護國寺なる墓地に埋葬した日、遺族及び多くの知己門下の人々のかげに立つて、まむかひの雜司が谷龜原の冬木立の間に沈みはてた夕日を眺めつつ、心のうちに湧きおこつた感懷をさながらのべたのである。
 廬山にあつて廬山を見ずといふ如く、多年親しく博士に接してをつた爲に、却つてその傑出した點を感じつつも、明確に考へるといふやうなことはなかつたが、今その遠逝にあうて、のこされた學問上の功績を思へば、博士が、明治の中葉以後に、新國學を樹立せられたことは、まさに江戸時代に於いて、荷田春滿が國學を建設したのと、その功相通うてをるものがある。
かくの如き博士は、また人格の上に於いても、現代稀に見る所であつて、よく後進を導き、情誼に厚かつた。博士の輪廓は、その名著國民性十論の中の論旨を、そのまま具體化した如き感がある。
 我が國民性の第一の特質たる「忠君愛國」に就いては、殊にその念が深かつた。忠君の一二の例としては、博士の著國文學史概論の結末に次の如く書いてある。
「終に臨みて先帝に咫尺し奉りし余が榮譽を記念せしめよ。時は明治四十五年七月十一日、東京帝國大學卒業式に臨幸あらせられし際、余は親しく御前に於いて元暦校本萬葉集、藍紙本萬葉集等に就いての御説明を申上ぐるの榮譽を擔へり。余は元暦萬葉がかつて靈元上皇の御覽に入りたることを奏上し、又塙保己一が其の數卷を覆刻せる事等を言上せしに、一々御會釋を給ひ、玉體を屈めて其書をみそなはししかしこさ。還幸の後數日御不豫の報傳はり、萬民深憂天地に祈りしかひもあらせられず、崩御ましまししは月の三十日にて、御前講演の後僅かに三週日、當時龍顏麗しかりしかば、爭でかかる事あるべしとは思ひかけんや。其の日御疲勞殊に多かりしと後に承れるも恐懼身の措く所を知らず、此日の大學行幸の最終の御臨幸となりしぞ悲しき。」
 後、宮内省御用掛を拜命して、今上陛下の東宮におはしましし時、國文の御進講を申上げるやうになられたに就いては、最後の御奉公であると、非常に感激し、精勵してをられたことであつた。こたび大正天皇の奉悼歌の歌詞を作られた事も、いかに榮譽と喜ばれた事であらう。しかしてその作歌が、博士の文學的勞作の最後のものであり、御大葬の前日の曉世を去られたのも、御さきを仕へて大御供をせられたかとも感ぜられる。また、愛國に就いては、ある年の大學國文科の卒業生の會の折、この夏輕井澤にいつて、新玉鉾百首といふをつくり、國體に關する自分の思想をのべて見たいと思ふといはれて、すでに出來た數首を語られたこともあつた。次に、「家名を重んず」ることに就いては、博士の父眞咲翁は、井出曙覽の門人で、かの志濃夫廼舍歌集には、その眞咲に與へた作が入つてをるが、博士はそを家の誇として、よく話してをられたことであつた。(博士の最後の枕もとには、曙覽の半切六葉を貼つた屏風がすゑられてあつた。)次に、「實際的」といふ國民性の一特質に就いては、博士の學風は、ある意味に於いて實際的ともいふべきであつた。微に入り細を分つといふ學究的の學風でなく、その大學に於ける講義も、當時の聽講者の語つたのを聞くところによると、大局をとらへて人々に暗示を與へるといふ、活用を主とする學風であり、その殘された功績も、國家的功勞の多い國定教科書の編纂をはじめ、日本家庭百科事彙の如きがあり、又その著作される場合にも、非常に達筆であつた。かつて大磯にをられた頃訪うたに、折から「月雪花」を書いて居られたので、古歌に就いて問をうけ、記憶のまにまにのべたことであつたが、間もなく出版された。さういふ點から見ても、實際的であつたといへよう。また十論中に、「樂天洒落」といふ事があるが、これは實によく博士にあてはまつてゐる。その世を去られた六日の朝から、葬儀の了つた十二日の夜まで、日日坂下町の家にいつてをつて、人々とともに博士を忍びつつ語りあつたことであつたが、もし博士の逸話を集めたらば、大部な逸話集が出來るであらう。煙草についてのべると、夙くサビタのパイプを人々が用ゐてゐた頃のこと、博士は、自分は線香の香がきらひであるから、死んだならば、線香のかはりに煙草をたいてくれ、墓標はサビタの木で造つてくれといつて笑つてをられた。酒に就いての逸話は、無數というてもよからう。無名會の席上などでも、よく寐てをられた。ある時の國文談話會には、醉うてこられて、卓による、すぐ眠つてしまひ、折々眼をさまして、此處はどこである、どうしてここにゐるのだと、傍の人に聞いてをられた。去年一月廿四日、故郷の越前から蟹が來たから馳走をするとの事で招かれていつた。上田、三上、松井、藤村、岡倉氏等が來てをられた。下の室に居る間は話をして居られたが、階上にのぼると、廣間には、先立たれた夫人の寫眞の額がかかげてある。人々は、そを仰ぎ見つつ、内助の功の多かつた夫人在世の時の話などをして居る間に、博士は例の寢てしまはれた。やがて出た蟹のもてなしも終り、猶一二時間人々が話して居る間、全く眠つて居られるので、せん方なく寐て居られる博士に辭儀をして歸つて來たやうな次第であつた。しかもその樂天洒落は、眞にその爲人の天眞の發露であつたから、すべての人に許されて居た。それは博士のやうな徳のある人でなければ、到底出來難いことであつた。かの徒然草にある芋がしらを好んだなにがし僧都が酒をたしなんだらば、博士のやうであつたらうと思はれる。また「温和寛恕」であつた。その玉の如き圓滿な人格には、敵といふものが少しもなく、よく人を愛し人を助けられた。かつてある人が、自分の引きうけた仕事の上でかなり博士に迷惑をかけたので、あの男もこまつたものであるというて居られたが、後その人をよい位置に推されたことであつた。
 最後に、博士が情誼に厚く、他の喜をも自らの喜とせられた實例をいろ/\知つてをるが、自分が橋本、武田、久松の諸氏と共に多年盡瘁した校本萬葉集の事業に就いても、その再刊本が出來上つた時、心から喜んでくれられ、その話された言葉は、自分の深く銘記してをるところである。
 博士は近頃大分節酒してをられたので、健康も舊に復し、眼の力もよいと聞いて喜んでをつたに、數日のなやみで世を去られたのは實に遺憾の至である。今にしてますます、博士が學者としてまた人として尊くすぐれてをられたことを思ひ、ここにこの追悼の筆を執つた事である。





底本:「近代作家追悼文集成 第二十一巻」ゆまに書房
   1992(平成4)年12月8日発行
底本の親本:「国語と国文学 4巻4号」至文堂
   1927(昭和2)年4月1日
初出:「国語と国文学 4巻4号」至文堂
   1927(昭和2)年4月1日
※行頭の空白の有無は、底本通りです。
入力:岩澤秀紀
校正:仙酔ゑびす
2014年1月1日作成
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