一葉の日記

久保田万太郎




“ある女――斯の人は夫を持たず了ひで亡くなつたが、彼女の居ない後では焼捨てゝ呉れろと言ひ置いて、一生のことを書いた日記をのこして行つた。”

“種々な人のことが書いてあるといふ彼女の日記は、幾度か公にされるといふ噂のみで、その機会なしに過ぎた。焼捨てるのは勿体ないし、唯しまつて置くのも惜しい、世間へ出して差支の無いものなら出したい、斯ういふ妹からの頼みで、自分等は順にそれを読んで見ることに成つた。
 K君、S君と廻つて、彼女の日記は自分の手許へ来た。
 自分は往時むかしのよしみもあり、それにひとの自伝とか日記とかに殊に興味を持つ方だから、喜んで引受けるには引受けたが、なにしろ長い間のことが書いてあつて、それに達者な女文字と来てゐるから、辿るのに骨が折れた。暇々に取出しては、読んで見た。始めてT君が彼女を以前の家に訪ねて行つた時分の淋しい枯々な町のさまが、自分の心に浮んだ。それからK君が訪ねて行き、S君が行き、次第に彼女が自分等の周囲の人と近づいたことが、ところ/″\開いて見ただけでも、想像された。”

“やがて彼女の日記は、自分等から見るとずつと先輩の人達の許へ廻つて行つた。先輩はまた先輩で、女といふものをいたはるやうに、これは公にすべき性質のものでは無いと云ふ意見だつた。そんな訳で、復た奈何どうかいふ機会をりがあるまで、特にその為に書かれた先輩の序文を二つまで附けて、日記はそのまゝ彼女の妹の手許に蔵つて置くことに成つた。”
 以上は、島崎藤村先生の“女”といふ短篇小説の中から拾ひだした、それ/″\の記述であります。
“女”は、先生の“食後”時代……といふのは、明治四十四年の六月から十一月にかけてゞすが……に書かれたものであります。
 なぜしかし、突然、かうした抄出をしたのか?
 こゝにでゝ来る“彼女”といふのが、じつに、一葉であり、死後、焼き捨てられるはずだつた、かの女のその日記が、こゝにあつめられた“若葉かげ”(明治二十四年四月――六月)以下“みづの上”(明治二十九年七月)までの、“わか草”“筆すさび”“蓬生日記”“しのぶぐさ”“塵の中”“塵中日記”等、数十冊の、原稿用紙にして、約、千枚に上るであらう驚くべきかさの書き溜めに外ならないからであります。
“女”は、勿論、小説であります。しかし、そこに語られてゐる経緯ゆくたては、あくまで事実に即してをります。……でない限り、成立たない作なのでありますから……
 すなはち、“これはおほやけにすべき性質のものでない”とされ、幾たびとなく発表を阻まれたこの書き溜めに、“復た奈何かいふ機会”が、しかも間もなく来たのであります。そして、つひに、世にでることになつたのであります。それは、その“女”の書かれたあくる年の、明治四十五年の六月で、博文館から再刊された“一葉全集”の前篇に、書簡文範とゝもに、収められたのであります。

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 一葉は、文章を稽古するつもりで、あるひは、習字をするつもりで、それこそ在合ありあはせの紙に、この日記を書いたのださうであります。ですから、勿論、書きッ放しで、べつに保存するつもりもなく、従つて、かの女自身の手で、随分と、闇から闇へ反故として捨てられた部分もあるといふことであります。六年にわたつてのこの倦まざる仕事……われ/\は、かの女の“根気”、といふよりも、かの女の、“ものを書く”といふことにむかつての、意欲の強さに驚かないわけに行かないので……
 しかし、当時にあつては、その内容に、いろ/\と割り切れない部分が発見されました。いよ/\発表と話がきまつてからでも、関係当事者の、いろ/\とそれに悩んだらしいことは、整理、編輯の衝にあたつた馬場孤蝶先生の、つぎのやうにいつてゐるのでも分ると思ひます。
“……一葉君は「日記」を焼けと遺言したといふのだ。その「日記」を公にする私どもは、人の墓を暴いて、死屍を群集の面前に曝すのと同じやうな残酷なことをて居るのではあるまいか。或はさうかも知れ無い。イヤまだそれよりも酷なことに当るかも知れ無い。
 けれども、私どもは、一葉君を優れた婦人だつたと信じてゐる。私どもは「日記」を一葉君の書き物のうちの最も重んずべきものゝ一つと考へる。私どもは、優れたる婦人樋口一葉君の人物を最もあきらかに説明すると同時に、一葉君の作物のうちで最も勝れたものゝ一つである「日記」を唯其儘に葬つて置くのは如何にも残念で堪まら無い。
 故人を辱かしめてはといふ考と、故人を本当に世に紹介したいといふ考とは、樋口家の人々は元より、私どもの胸の裡に常に相戦つてゐたものであつたが、いろ/\と相談もして見た結果、生きて居る我々の考が勝を制して、今茲に「日記」を公にするに至つたのだ。「故人の意に反して」といふ批難は辞しやうが無いが、左様さういふ批難を加へらるゝ人々に対しては、我々が故人に向つて持つ敬意を聊かは考慮せられんことを請ふて置く。”
 いまみると、この言訳いひわけ、なぜこんなことをいはなければならなかつたのか、といふ気がします。その気兼ねが、ぐるりとまはつて、ばか/\しくさへ感じられます。……が、これは、ひとへに“時”のおかげ、“時”の力が入らざる“人間”のさかしらに耳をかさず、正しい裁きをしてくれたからであります……
 なほ、この日記の世にでたについては、そこに、この馬場先生の、責任者としての献身的努力のあつたことを忘れてはならないのであります。……馬場先生なかりせば、あるひは、この日記、永久にわれ/\の目に触れることなく終つたのではないかとさへ、いさゝかそのかんの事情を知るものとして、かね/″\筆者はさう思つてをります……

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 さて、では、この日記は、どう読んだらいゝか?
 といふことは、この日記から、何をさがしだしたらいゝか?……どこに目ぐしをつけたらいゝか?
 この日記は、たとへば一つの鏡のやうに、そのまへに立つ相手によつて、どうにでも変化します。そして、その変化は、きはめて微妙で、自由で、だれをも決して失望させません。が、それと同時に、その相手が何を望まうと、結句、つまりは、一人の、わかい、貧しい、文学に精進する女性のしき運命の中にまきこまれ、かの女とゝもに、まゝならぬ人生のけはしい道をたどるより外はなくなるでせうとおもひます。
 かの女のうるさい母親。
 かの女のやさしい妹。
 かの女の権高けんだかな歌の師匠。
 かの女の心の底に秘めた恋人。
 かの女の文学の上での新しい友だちの群。
 その一人/\について掘り下げるだけでも、われ/\は、ヘタにたとへば小説を、十冊、二十冊よむ以上に、あやしく心がやしなはれるのであります。

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 かの女の一生の頂点は、何んといつても、明治二十六年の七月から二十七年の三月にかけての、半年ほどのあひだにあつたといへると思ひます。
 すなはち、
“……一同熟議、実業につかん事に決す、かねてよりおもはざりし事にもあらず、いはゞ思ふ処なれども、母君などのたゞ歎きになげきて、汝が志よわく、立てたる心なきから、かく成行なりゆきぬる事とせめ給ふ、家財をうりたりとて、実業につきたりとて、これに依りて我が心のうつろひぬるものならねど、おいたる人などはたゞものゝ表のみを見て、やがてよしあしを定め給ふめり、世渡りのむづかしきは、これをとるもかれを取るもおなじかるべし、これより行路難いかにぞや、されども我らはらからは、うきよのほめそしりをかへり見るものならず、唯おのれのよしとみて進む処にすゝまんのみ、霜ばしらくづれなば、又立なほさんのみ。”
 といひ、また、
“人つねの産なければ常のこゝろなし、手をふところにして月花にあくがれぬとも、塩噌なくして天寿を終らるべきものならず、かつや文学は糊口の為になすべき物ならず、おもひの馳するまゝ、こゝろの趣くまゝにこそ筆は取らめ、いでや是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤そろばんの玉の汗に、商ひといふ事はじめばや、もとより桜かざしてあそびたる大宮人のまとゐなどは、昨日のはるの夢とわすれて、志賀の都のふりにしことを言はず、さゞなみならぬ波銭小銭、厘か毛なる利はもとめんとす。”
 といつて、敢然“文学”を捨て、下谷龍泉寺町(俚俗、大音寺まへ)に荒物屋兼駄菓子屋の店をはじめたかの女が、一年とたゝないうちに、忽ち、かの女のゆめみた“実業”の煩はしさに驚き、間尺ましやくに合はなさに呆れて、
“おもひたつことあり、うたふらく
   すきかへす人こそなけれ敷島の
     うたのあらす田あれにあれしを
 いでやあれにあれしは敷島のうたばかりか、道徳すたれて人情かみの如くうすく、朝野の人士、私利をこれ事として国是の道を講ずるものなく、世はいかさまにならんとすらん、かひなき女子をなごの、何事を思ひ立たりとも及ぶまじきをしれど、われは一日の安きをむさぼりて、百世の憂を念とせざるものならず、かすか成といへども人の一心を備へたるものが、我身一代の諸欲を残りなくこれになげ入れて、死生いとはず、天地の法にしたがひて働かんとする時、大丈夫も愚人も、男も女も、何のけじめか有るべき、笑ふものは笑へ、そしるものはそしれ、わが心はすでに天地とひとつになりぬ、わがこゝろざしは国家の大本にあり、わがかばねは野外にすてられて、やせ犬のゑじきに成らんを期す、われつとむるといへども賞をまたず、労するといへどもむくひを望まねば、前後せばまらず、左右ひろかるべし、いでさらば分厘のあらそひにこの一身をつながるゝべからず、去就は風の前の塵にひとし、心をいたむる事かはと、此あきなひのみせをとぢんとす。”
 と、荒物屋兼駄菓子屋の店をやめるにはすぎた大見得を切り、そして
“国子はものにたえしのぶの気象とぼし、この分厘にいたく倦きたるころとて、前途のおもんぱかりなく、やめにせばやとひたすらすゝむ、母君もかく塵の中にうごめき居らんよりは、小さしといへども門構への家に入り、やはらかき衣類にてもかさねまほしきが願ひなり、さればわがもとのこゝろはしるやしらずや、両人ともにすゝむる事せつ也、されども年比としごろうり尽し、かり尽しぬる後の事とて、此みせとぢぬるのち、何方いづかたより一銭の入金もあるまじきをおもへば、こゝに思慮をめぐらさゞるべからず。”
 と、慎重にも考へて、ふたゝび“文学”に立ちもどる決心をした期間をいふのであります。……かの女の一生の頂点は、とりも直さず、この日記の全部を通じての頂点であり、かの女が東京の片隅の、大音寺まへのやうな町をえらんで住み、やがてその経験が、明治文学に於ける、屈指の名作“たけくらべ”を生むにいたつたことをおもひ合せて、われ/\は、いまさらながら、運命の謎のときにくさに苦しむのであります。

     □

 それにしても
“花にあくがれ、月にうかぶ折々のこゝろをかしきもまれにはあり。おもふこといはざらむは腹ふくるゝてふたとへも侍れば、おのが心にうれしともかなしともおもひあまりたるをもらすになん。さるはもとより世の人にみすべきものならねば、ふでに花なく、文に艶なし、たゞその折々をおのづからなるから、あるはあながちにひとりぼめして、今更におもなきもあり、無下にいやしうてものわらひなるも多かり。名のみことごとしう若葉かげなどいふものから、行末しげれの祝ひ心には侍らずかし。”
 といふ“若葉かげ”のたど/\しい書出しと
一昨年をとゝしの春は大音寺前に一もんぐわし売りて、親せき近よらず、故旧音なふ物なく、来る客とては悪処のかすに舌つゞみ打つ人々成りし、およそ此世のしもざまとてかゝるが如きは多からじ、身はすて物によるべなきさま成けるを、今日の我身の成のぼりしは、たゞうき雲の根なくして、その中空にたゞよへるが如し、相あつまる人々の、この世に其名きこえわたれる紳士、紳商、学士社会のあがれる際などならぬはなし、夜更け、人定まりて、しづかにおもへば、我れはむかしの我にして、家はむかしの家なるものを、そも/\何をたねとしてか、うき草のうきしづみにより、人のおもむけ異なる覧、たはやすきものはひとの世にして、あなどるまじきも此人のよ成り、其こゑの大いなる時は千里にひゞき、ひくきときは隣だも猶しらざるが如し”
 とある“水のうへ”のある部分の老成し切つた記述とを読みくらべて、かの女の二十歳と二十五歳とのあひだの開きに目をみ張るもの、筆者ばかりでせうか?
 このかん、わづかに五年……
 驚くべき文学的成長であります。……といふことは、また、人間的飛躍であります。
 では、その成長は、飛躍は、どこから来たか?
 それを探り、それをあきらかにするのが、この日記を読むものに課せられた義務なのであります。
(昭和二十六年十月)





底本:「日本の名随筆 別巻28 日記」作品社
   1993(平成5)年6月25日第1刷発行
底本の親本:「樋口一葉作品集 第二巻」創元社
   1951(昭和26)年10月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2014年1月2日作成
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