井上正夫におくる手紙

久保田万太郎




 井上さん。
 ……あなたに手紙を書かうと思つてからもう半年になります。――と、藪から棒にかういつてもあなたには分らないかも知れませんが、去年の九月、あなたがほんたうに公園のみくに座へ出ることになつたとき、初日にあの「胡蝶蘭」といふ芝居を見て、早速「井上正夫に与ふるの書」をあなたに書かうとじつは思つたのでした。が、二三枚書いて、厭になり、そのまゝ途中でよしてしまつたのであります。
 がその後でも、新聞に何かあなたのことが出てゐたり、みくに座の前を通つたりすると、なぜかその度に、さうだ、私は一度井上君に手紙を書かなければいけなかつたのだ、といふやうな心もちを掻立てられました。
 考へてみると、一昨年の春、花月にハアゲマンの歓迎会があつたとき、かへりに松山君のところで初めてあなたにお目にかゝつた以来、大金の惜春会で一度、本郷座の楽屋で一度――私はまだあなたに二三度しか逢つてゐません。だが、私にとつては真砂座以来の深馴染、どこか銀座あたりで邂逅することでもあれば、無論私はあなたと「暫く」「暫く」位なことをいひ合ふやうな関係にあるものと、以前から固くさう思つてゐました。いまでも何うかすると、「近頃はどうしてゐます。」と、思ひもかけずあなたが、私のところへ遊びに来るのではないかといふやうなことさへときどき思はれるのです。
 ところで、私はあなたに一度話したいと思つてゐることがあります。有楽座の新時代劇であなたが「馬泥坊」をやつたときのことです。それは丁度私が慶應義塾の予科二年のときで――そのときにはまだ、小説や芝居の好きな世間見ずの苦労のない学生にしかすぎませんでしたが、忘れもしない、クラス会があつて横浜へ遊びに行つたかへり、四五人の同級のものと途中でわかれて、一人有楽町の停車場で電車を下りたのでした。
 だがもうそれは八時すぎ、丁度番組の第一の「秋のかなしみ」の切れたところで、場内の灯火あかりのいろがなぜか暗く疲れ切つた感じでした。――私はなんともいへない、空漠な、便りない気もちに襲はれました。
 今から思ふと、それは、五にも足りない心細いいりでした。
 やがて「馬泥坊」の幕があきました。自由劇場の一回も二回も見なかつた私にとつては西洋の芝居を舞台の上にみるのはこれが最初だといつてもいゝのでした。今でこそシヨオでもあるまいといふやうな口幅つたいこともいひますけれど、そのときはまだ、勿論シヨオについて何の知識も持つてゐず、牧師が出て来て、罪人が出て来て、シエリフが出て来て、私窩児ぢごくが出て来て――さうして最後に罪人が卓の上に躍り上つて演説するまで、私はなんともいへない強い力で胸の上を圧迫へつけられるやうに感じました。――二時間あまりといふもの、私は全くあなたに依つて話されるブランコオの台詞に惹きつけられました。――私は全くあなたの真実に動かされました。
「お袋の身につけたものを欲しがつたなぞとセンチメンタルな名にうたはれたくないんだ。」と怒鳴つたあなたの声が、何故かいまだに耳に残つてゐるやうな気がします。
 幕になると――甚だそれは心細い喝采の中に――私より二側ばかり前にゐた三人づれの若い人がすぐに席を立つのでした。何の気なしに顔をみると、その中の一人は、その時分まだ大学にゐた「新思潮」の後藤(末雄)君でした。
 後藤君と私とは以前一しよの中学にゐた関係があります。
『君は一人かい。』といはれて、『あゝ一人。』とそのとき私のこたへたのを覚えてゐます。――その時分にはまだ、私も、一人で芝居をみることが出来るほど、落ちついた、染々した心もちに生きてゐられたのでした。
 時計をみるともう十時でした。あとのチエホフの芝居を残して、『帰らないか。』とさそはれたまゝ『あゝ帰らう。』と、そのまゝ一しよに外へ出ました。
 三人のあとの二人は、一人は和辻哲郎氏、一人は木村荘太氏でした。――和辻氏は「新思潮」に「ウオーレン夫人の職業」を訳して、その時分でのシヨオ通でした。
 芝居を出てから電車まで、「シヨオも面白いね。」といふやうなことで、和辻氏と木村氏とがしきりにシヨオの議論をする後から、私は黙つて暗い路をボンヤリあるきました。数寄屋橋の近所がいまのやうにまだ開けてゐず――僅の間にこのごろは自棄やけにあの辺、賑やかになりましたが……
 それからもう七年になります。

 その七年の間。――あなたもかはつたけれど、世間も随分かはりました。この手紙を書くについて、いまその当時の古い「歌舞伎」を引張り出して来てみて、私はなんともいへない、心細さに襲はれました。
 丁度自由劇場の第三回の試演のあつたときで――その自由劇場の「夜の宿」の評判にならんで、その「馬泥坊」の評判が出てゐます。中村春雨氏(まだこのときには吉蔵氏でなかつたものと見えます。)と、山崎紫紅氏と、岡田の奥さんとが、言葉を尽してあなたのブランコオを讃めてゐます。さうして春雨氏も、紫紅氏も、今度は見物が来なかつたやうだけれど、二回三回と辛抱してやつてゐたなら、そのうちには必ず景気がよくなるからとしきりに激励してゐます。――だが、二回三回と辛抱してなほ、あなたは終に悲しい新時代劇解散といふ結末を見なければならなかつたのでした。
 更にその前の月の「歌舞伎」をみると、あなたの新時代劇といふものを起すについての悲痛な告白が出てゐます。それと一しよに本郷座の新社会劇の評判が書き立てられてゐます。出しものが「勝利」といふピネロの翻案と、「波」といふ中村春雨氏の新作で、その「波」の女主人公に扮した花房露子といふ女優について、島村抱月氏や伊原青々園氏が、「驚嘆すべき女優である、今度の新社会劇中で第一の収穫である。」といつてゐます。わざ/\私でも本郷座まで立見に行つたから知つてゐますが、随分この「波」といふ芝居はベタ/\した気色の悪い芝居でした。だがいま伊井君の一座にゐるあづまを向うにまはして芝居をした当年のこの花房露子が、いまの田村俊子夫人だといつても嘘だといふ人があるだらうと思ひます。それは、シヨオ通の、「坪内博士に与ふる書」や「新社会劇団を葬る」といふやうなものを書いた和辻氏が、いまはもう全くシバヰのシの字も知らないやうな顔をしてニイチエやキエルケゴオルに没頭し、同時に、いい加減に学校をよして、音なしく親父のいふことをきいて商人あきんどになる筈だつた奴が、道楽で読んだり見たりした小説や芝居を役に立てて、その日/\を送ることになつたのも、これを思へばそれほど不思議ではないかも知れません。
 新時代劇の没落(といつては悪いかも知れませんが)以後、再び新派へ立戻つたあなたは、始終なんとなく落ちつかない工合にみえました。新派の纏りがつかなくなつたのもその時分からです。――そのうちにだん/\世間が調子づいて来て、自由劇場と文芸協会とを中心に、試演劇場だの土曜劇場だの近代劇協会だのといふやうなものが続々と出来上つて来ました。森先生の「一幕物」と「続一幕物」とが飛ぶやうに売れて、まさに時代は新しい芝居でなければ夜も日もあけなくなるのではないかといつた景気になつて来ました。――私は痛ましい犠牲になつたあなたとあなたの新時代劇とのために泪なきをえませんでした。
 自由劇場が、「寂しき人々」をやることになつたとき、あなたがそれに出てヨハンネスをやるといふ風説が行はれました。あなたのために喜ぶべきことと思つてゐると、単にそれは風説ばかりだつたことを残念に思ひました。――だが、同時にそれは、機会さへあればいつでもまた新時代劇を再興する心もちであなたがゐるといふことを聞いて、あなたのために、さうして世間の新しい芝居のために、その機会の来ることを衷心から祈りました。
「所謂新しい芝居が西洋の翻訳劇をやることであるとすれば、大正二年の後半期は後世の驚異ワンダアでなければならない。」とある批評家がいひましたが、今にして思ふと、実際大正二年の秋は、とにかく新しい芝居の黄金時代でした。芸術座の「モンナ・ワンナ」公衆劇団の「エレクトラ」近代劇協会の「マクベス」――さうして自由劇場では小山内氏が西洋からかへつて来たところで、三年前に一度やつた「夜の宿」を再演して、われ/\を十二分に満足させて呉れました。――ほんとにそれは、この分で行つたら、始終はどういふことになり行くのだらうと思はれるほどの景気でした。目のあたりにかういふ渾沌とした世の中の来たのをみて、私はこゝに再び、志を抱いて、半途に空しく斃れた新時代劇の運命を悲しまないわけに行きませんでした。
 この渾沌とした世の中にあつて、わづかにあなたの存在を世間にしらせたのは野外劇の試演でした。だがそれはあなたの為事として、あまりに小さく淋しいものでした。さうしてその結果からみても、それは、至つて用意の足りない、段取のつかないものでした。――丁度そのとき、私は三田文学に毎月芝居のことを書く義務をもつてゐたので、その為事のために田端まで出向きました。十一月になつたばかりの、とくにまた寒い日で、芝居をしまつたときにはもうとつぷり日が暮れてゐました。夕霜が下りて、上弦の月が心細く沈みかけてゐました。――『必ず何かやります、そのうちに必ず何かやります。』といつたあなたの閉会の辞をなぜか悲しい痛ましいことのやうに思ひながら、足許の危い、暗い崖路を、岡村柿紅君と二人でトボ/\と停車場の方へあるいたのでした。
 上野で電車を下りたとき、市内のあかるい灯火の中に、岡村君も私もはじめてほッとしました。

 だが、この黄金時代は大して長い生命いのちを持つてゐるのではないのでした。大正三年になると、問題にならないほど今度は景気が悪くなりました。種々いろ/\それには理由があつたわけですが、要は新しい芝居の役者とさうして仕打との、すべてに於いての厚かましい、微塵遠慮といふものゝないヤリ口が、世間から愛想を尽されたのでした。

 芸術座がイプセンをやつても、無名会がシユニツツラアをやつても、さうして公衆劇団が所謂創作の芝居ばかりをならべても、とてもその頽勢を挽回することは出来ませんでした。――偶々芸術座が「復活」をやつて人気になつたことが、かうなると却てそれが新しい芝居の落ち目になつたことの悲しい証拠立てにしかなりませんでした。
 しかも、その間、『必ず何かやります、そのうちに必ず何かやります』と宣言したあなたは、そのとき、明治座の伊井君の芝居で、「ちぎり伊勢屋」の伝次郎の友だちをやり、伊井君のいつもの近松研究の犠牲になつて「当流小栗判官」の郎党某を勤め、さうして新富座の大合同に「かたおもひ」の実直な下男に扮して見物の泪を強要することに力めたのでした。
 ですが、新派が今日のやうな悲しい羽目になることは、この時分からもうすでに分つてゐたといふことがいへると思ひます。

 ところで去年の春の、あの「花あだ花」の騒擾さわぎ以来、私はしばらくあなたの消息に接することが出来ませんでした。そのうちにあなたが芸術座へ出て「おもひ出」の皇太子をやるといふやうなことがまた伝つて来ました。私はそれを聞いたとき「井上君も苦しいだらう。」と何とはなしに思ひました。――それがあなたにとつて仕合しあはせだとも不仕合だとももう思へませんでした。
 だが、それもたゞ風説だけにとゞまりました。
 惜春会であなたにお目に懸つたのはそれから間のないことでした。あのときは生憎私は幹事役をしてゐたので、オチ/\あなたの側に坐ることも出来ませんでしたが、あなたは長田君や楠山君の前でたいへん元気に話をしてゐたやうに私は思ひました。
 七月になつて本郷座があきました。あなたは何のこともなくその興行で「目黒巷談」の晋太郎と「サロメ」のヨカナアンを引きうけたのでした。――だが、そのときはもうあなたの体は、公園に出るといふことに決定きまつてゐたのでした。
 八月になつて、世間にそれが知れたときには誰もその思ひがけない報知に驚きました。さうして、誰もその訛伝くわでんだらうといふことをうたがひました。――だが、その通信の新聞に出た日、「真実ほんとでせうか。」と会ふ人毎に訊かれたとき、「おそらく真実だらう。」と、言下に私は答へました。――それは、前にも一度新派を捨て、新時代劇といふものをはじめたあなたのことだからといつたら、あなたを侮辱することになるでせうか。
 恐らく、あなたは、活動写真の役者になつたといふことを、それほどの、われ/\が思つてゐるほどのそれを堕落とは思つてゐないのではないかと私は考へます。
 あなたの摯実しじつ、あなたの熱情。――私はこのごろ、五年まへ六年前の世の中のとかく恋しくなることを何うすることも出来ないのです。――といふのも、あなたといふ人は、どんなに苦しくつても、芝居のためにどこまでも身を粉にして働くべき人だと信じますから……

 気紛れで書きだした手紙が思ひのほか長くなりました。もう大分夜も更けました。今夜はこれから久しぶりで「新緑」を読みあなたの若き日をしのびながら寝ようと思ひます。
(大正五年四月)





底本:「日本の名随筆 別巻36 恋文」作品社
   1994(平成6)年2月25日第1刷発行
   1999(平成11)年7月10日第2刷発行
底本の親本:「久保田万太郎全集 第一五巻」好学社
   1948(昭和23)年12月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2015年3月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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