十年……

久保田万太郎




 ――まど子さん、何年になつたの、今度?……
 と、ぼくは、たま/\逢つたKさんの、上のはうのお嬢さんに、何んの気なしに訊いた。
 ――来年、卒業です。
 と、まど子さんは、ニッコリ、口もとをほころばした。
 ――えッ、来年、卒業?……
 ぼくは、おもはず大きな声をだして、
 ――ほんと、まど子さん?……
 と、改めて、まど子さんの顔をみた。
 ――えゝ。
 まど子さんは、もう一度、ニッコリした。
 ――へえ、それァ……
 ぼくは、おもはず今度は、溜息を……自分だけにわかる溜息をついた。……のは、嘗て、まど子さんの慶応義塾の大学の入学試験をうけるときの心配と、そして、首尾よく合格したときの喜びの幾分とを、まど子さん、及び、まど子さんのお母ァさんとゝもにわけ合つたぼくだからである。……お父さんのKさんは、ちやうど、そのとき、フランスへ行つてゐた。……そして、それが、そのまど子さんの返事を聞くまで、ついまだ、昨日きのふの出来事のやうにしか、ぼくには思へなかつたのである……
 ――驚いたなァ、それァ……
 いつ、そんな……いゝえ、いつのに、そんな、三年も五年もの年月がすぎたのだらう?……そのあひだで、一たい、ぼくは、何をしたといふのだらう?……すくなくとも、一人のお嬢さんが大学に入り、やがてもう、来年は卒業するといふその間で……
 ぼくは、いまさらのやうに、ぼくをめぐつて去つた年月のかげを追ひ、身のまはりをみまはした。

     □

 東京にでゝゐて、七八日ぶりで鎌倉に帰ると、下河原しもがはらの雅楽多堂といふ、文字どほりのガラクタばかり並べた古道具屋が、いつのにか、八百屋になつてゐた。
 ――はて?
 と、ぼくは、わが目を疑つた。……しかし、みれば、その八百屋の店で働いてゐるのは、いつもの、よれ/\の古洋服を無精ッたらしく着た、もとの、矢つ張、雅楽多堂の老主人だつた。
 すれば、雅楽多堂が転業したので、だいの替つたのでないことはあきらかだ。
 しかし、古道具屋と八百屋……
 はんじものだ、どうしたつて、これ。……
 下河原には、もう一けん、同じやうな店がある。雅楽多堂よりはあたらしくできた……といふことは、ぼくが鎌倉に住むやうになつてからできた店だが、雅楽多堂とはちがつて、このはうは上物屋じやうものやだつた。一二度、買物をしたのが縁で、顔なじみになり、ときには、必要がなくつても、ぼくは、その店のまへに立つた。……すなはち、ぼくは、そこに寄つて、道具屋、化して、八百屋になつたわけを聞いてみた。
 ――うちかたたちが、いやになつたんださうです、道具屋が……
 と、年のわかいその店の主人のこたへは、しごく簡単だつた。
 ――しかし、いやになつたからつて、右からひだり、道具屋なんてものが、すぐに?……
 ――められるか、と被仰るんですか?……
 ――と思ふけれど、われ/\にすると。……手もちのものを処分するだけだつて、君……
 ――そんなことは、あなた。……トラックに積んで、市場いちばにさへもつて行けば、何んにも苦労は入りません。……市場で、適当に、処理してくれます。
 ――なるほど、さういふ手があれば……
 ――ですから、逆に、はじめようと思つたら、金とトラックをもつて市場にさへ行けば、明日あしたからでもすぐ開業できます。……道具屋なんてものは、ですから、思ひやうによつちやァ、こんなわけのない稼業しやうばいはないんで……
 ――八百屋はどうだらう?
 ――八百屋ですか?……このはうは知りませんが、これだつて、なかへ入つてみたら、存外、わけなくできるんぢやアないでせうか?……何分、値段のきまつてるものを売るんですから。……そこへ行くと、道具屋のはうは……
 ぼくは、主人のすゝめてくれた、店頭みせさきの、売りものゝ大きな椅子に腰を下ろし、さうした話をしつゝ、みるともなしに往来のはうをみた。曇つて、底冷えのする二月の末の、たま/\人通りの絶えた、白く、しんとした道のまん中に、素足にサンダルを穿いた、パン/\としか思へない洋服の女が二人、何かヒソヒソ、話をして立つてゐた。
 ――鎌倉ッてところ、こんなにも寂しいところだつたのか?
 ヒョイと、ぼくは、さう思つた。……途端に、血の退くやうに、すべての希望の身うちから消えるのを感じた。

     □

 ――今日けふ、東京のお宿をおたづねしましたら、こちらだといふことで……
 と、たま/\東京から来た客はいつた。
 ――えゝ、昨日きのふ、帰りました。
 と、ぼくはこたへた。
 ――今度は、当分、こちらで?……
 ――いゝえ、明日あした、また、出ます。
 ――それは、また。……それぢやァ、せッかく、お帰りになつても……
 ――さうなので。……何んのために帰つて来るのか、自分でも分りません。……しかし、夜、十一時十五分の終電車に乗つて帰り、あくる朝、すぐ、また、九時まへの電車に乗つて、十時までに新橋に下りたりする諸君のことを思つたら、ぜいたくはいへません。……寝に帰るばかりのわがけふの月、にしちやァ、鎌倉ッてところは、何んとしても東京から遠すぎます。
 ――しかし、どのみち、馴れておしまひになれば……
 ――ところが、馴れません。……不思議な位、馴れません。……といふことは、いつになつても、何年たつても、鎌倉、東京間の距離はちッとも短縮されません。……短縮されるどころか、年とゝもに、その逆になつて来るやうな気さへするので……
 ――それは、なぜで?……
 ――それだけ、こッちの健康も衰へて来たんでせうね、とる年で……
 ――何年におなりになります、こちらへおうつりになつて?……
 ――ちやうど、十年になります。
 ――十年?……
 ――一※(小書き片仮名ト、1-6-81)むかしです。……終戦の年の十一月ですから、こッちへ来たの……
 ――なるほど、それだと……
 ――東京から帰つて、停車場に下りても自動車はおろか、リンタクさへなかつたんです、その時分。……いやでも、この材木座まで、あるくより外に方法がなかつたんです。……仕方がない、あるきました、真つ暗な道を、二十分かけて……勿論、十時……といひたいが、じつは、九時すぎたら、人通りはなくなり、起きてゐる家なんぞ、一けんもありません。……何も、これはしかし、鎌倉にかぎつたことではなく、そのころは、銀座でもさうでしたが……
 ――わたくしも、一度、新橋演舞場のところの橋の上で、三人づれのアメリカの酔ッぱらひに追ッかけられ、“シェーム、オン、ユウ”と怒鳴りながら、逃げました、逃げました……
 ――鎌倉にはクロンボのわるい奴が出没しましてね。……だから、ぼくは、万一にそなへて、右のかくしに、ナイフに附いてゐるキリを握りづめでした。……そして、大きな声でウタを……うたふんぢやなくて、呶鳴りつゞけてあるいた。……いまは八幡まへにゐる漫画のSさんが、まだ、材木座にゐた時分で、帰る方角が同じだつたんで、しば/\一しよに合唱しながらあるいたことをおぼえてゐます。
 ――何を合唱なすつたので?……
 ――“青葉しげれる”です。……知ってますか、あの歌?……
 ――知つております。……“青葉しげれる桜井の、里のわたりの夕まぐれ……木の下蔭に駒とめて、世の行末を、つく/″\と”……、子供の時分、上の兄のうたふのを聞いておぼえました。
 ――ぼくは、好きでしてね、むかし、あの歌が。……ぼくの小学校の二三年時分に流行はやつたんですが、ぼくは、いまでも、あの歌をしまひまで知つてゐる。……“ともに、み送り、み返りて、わかれを惜しむをりからに、またもふりくるさみだれの、なかに一※(小書き片仮名ト、1-6-81)こゑ、ほとゝぎす……”といふんですが……
 ――兄は、そこまではうたひませんでした。
 ――いゝえ、だれも知りません、こゝまでは。……しかし、一寸さきもわからない真つ暗な道を、この歌をうたつてあるいてゐると、しまひには胸が一ぱいになつて、だん/\声が小さくなつた。……いまにして思へば、それこそ“世の行末”だつたんですね。……“世の行末”が案じられたんですね、いはず語らずに……
 ――じッさい、あの時分は、このさき自分がどうなるのか、まるッきり見当がつきませんでした。……そのくせ、われ人ともに、わりに平気で、カストリを飲んで酔ッぱらつてゐたといふことは、度胸がよかつたのか、バカだつたのか?……
 ――両方ですよ。
 ――両方?……左様さよですか、なるほど……
 ――だから、鎌倉でも、たッた一人、靴みがきがでゝゐたゞけの若宮大路に、そのうち、だん/\、闇市はできる、リンタクはできる、パン/\宿はできる。……さうなると、ぼくも、歌をわすれたカナリヤになつて、自然“青葉しげれる”と縁が切れた……のを、あるとき、“あなた、ちッとも、このごろ、あれをうたひませんね”と、ある人からひやかされました。……で、さういはれて、ぼくは、はッと思つた。……さういはれるまで、うッかりしていたんです、ぼくは……
 ――どなたです、そのある人といふのは?……
 ――やッぱり漫画のYさんです。……

     □

 四五日、また、東京の宿屋ですごして、ある晩、終電車よりずッと早い、九時十五分といふのに乗つた。あたまが重く、何か、気もちがさッぱりしなかつたからである。
 電車に乗るなり、ぼくは、腐つたやうに眠つた。
 鎌倉に着くと、いつふりだしたのか、雨がビショ/\ふつてゐた。そればかりでなく停電だつた。
 ――めづらしいナ、こんなあんたんとした光景は……
 と自分にいひつゝ、ぼくは、駅まへの、“リンドウ”のドアを押した。……“リンドウ”といふのは、鎌倉ペンクラブの会員たちを定連にもつ喫茶店である。
 どのテーブルにも、蝋燭の火が瞬いてゐた。
 ぼくはそこから電話をかけた。……わが家へではない、わが家のそばのF医院へ……
 電話口にでた声は、奥さんだつた。
 ――風邪かぜだらうと思ひます。……たいしたことはないと思ひますが、一寸、これから、お寄りしますが……
 と、ぼくはいつた。
 ――じつは、宅も、いま、少々熱がありまして、休んでをりますんでございますが……
 と、奥さんはいつた。
 ――お風邪ですか?
 ――と思ひますんでございますが、……
 ――御診察ねがへなくつても、お薬だけでも頂戴に、いま、すぐ、うかゞひますから……
 F医院の院長のF博士は、満洲帰りのもと軍医で、六七年まへ、材木座に開業したのだが、二三人、むづかしい病人を直したので、たちまち“名医”だといふことになつた。そして、近所でも、おどろくほど繁昌した。ぼくとは、学校の関係で……Fさんも、ずッと、慶応義塾だつた……医者対患者の附合つきあひ以上の附合をもつた。……つまり、幾分、飲み仲間でゞもあつたわけである。
 十分ほどのあと、ぼくは、F医院の門のまへで自動車を下りた。大きな水たまりが門のまへにひろがつてゐた。こゝも停電で、蝋燭の火がたよりだつた。
 ぼくは玄関に立つたまゝ、奥さんからうけとつた検温器を腋の下にはさんだ。
 八度すこしの熱があつた。
 ――宅は、九度越してをります。
 と、奥さんはいつた。
 雨の音が、蝋燭の火の瞬きにかよつた。

     □

 Fさんは、それから十日ほどして、この世を去つた。
 何といふ、あッけなさ。……と思ったのは、ぼくが知らなかつたので、Fさんは、それまでに、幾たびも喀血してゐたのだつた。
 しかも、その胸のやまひは、患者から感染したものだつた。

     □

 ぼくは、このごろ、世の行末ならぬ身の行末についてのみ考へてゐる。……なぜだらう?……庭の、まッさかりの連翹の黄が、春の漸くふかいことをつたへてゐるのは……





底本:「日本の名随筆91 時」作品社
   1990(平成2)年5月25日第1刷発行
   1999(平成11)年8月25日第6刷発行
底本の親本:「久保田万太郎全集 第一五巻」中央公論社
   1968(昭和43)年6月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2014年9月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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