「樋口一葉全集第二卷」後記

久保田万太郎




 この卷には、前卷(第一卷)を承けて、『琴の音』以下十四篇の小説を收めた。

『琴の音』

 この作、明治二十六年十一月の「文學界」に載つた。一葉、二十二歳のときで、そのときかの女は下谷龍泉寺町(俚俗大音寺まへ)に荒物と駄菓子の店をひらいてゐた。
 この作を書いた前後のことを、かの女は、その年十一月の日記の中にかうしるしてゐる。
十八日 はれ。禿木子來訪、文界の事につきてはなし多し。
十九日 はれ。神田にかひ出しす、明日は二の酉なれば店の用事いそがはし。
 文學界に出すべきものもいまだまとまらざる上に、昨日今日は商用いとせわしくわづらはしさたえ難し。
 二の酉のにぎはひは此近年おぼえぬ景氣といへり、熊手、かねもち、大がしらをはじめ延喜物うる家の大方うれ切れにならざるもなく、十二時過る頃には出店さへ少なく成ぬとぞ、廓内のにぎはひおしてしるべし。
よの中に人のなさけのなかりせば
       ものゝあはれはしらざらましを
二十一日 晴れ。
二十二日 おなじく。
二十三日 星野子より文學界の投稿うながし來る、いまだまとまらずして今兩日は夜すがらおき居たり。
二十四日 終日つとめて猶ならず、又夜と共にす、女子の胸はいとよはきもの哉、二日二夜がほど露ねぶらざりけるにまなこはいとゞさえて氣はいよ/\澄行ものから筆とりて何事をかゝんおもふことはたゞ雲の中を分くる樣にあやしうひとつ處をのみ行かへるよ、いかで明日までにつゞり終らばや、これならずんば死すともやめじと只案じに案ず、かくて二更のかねの聲も聞えぬ、氣はいよ/\澄ゆきぬ、さし入る月のかげは霜にけぶりて朦々朧々たるけしき誠に深夜の風情めにせまりてまなこはいとゞさえゆきぬ、かくても文辭は筆にのぼらずとかくして一番どりの聲もきこゑぬ、大路ゆく車の音きこえ初ぬ、こゝろはいよ/\せはしく成てあれよりこれに移りあれよりあれにうつり、筆はさらに動かんともせず、かくて明けゆく夜半もしるく、向ひなる家となりなどにて戸あくる音、水くむなどきこえ初るまゝに唯雲の中に引入るゝ如く成て、ねるともなくしばしふしたり。
二十五日 はれ。霜いとふかき朝にてふとみれば初雪ふりたる樣也、ねぶりけるは一時計成けん、今朝は又金杉に菓子おろしにゆく、寒さものに似ざりき、しばしにてもたましゐをやすめたればにや、今日は筆のやすらかに取れて午前の内に清書を終りぬ、郵書になして星野子におくりしは一時頃成しか。
 午後禿木子にはがき出す。
 原稿用紙にしてわづか七八枚のこの小品を書くのに、かの女は、これほどの辛苦をした。がしかし、『雪の日』を書いたあと、一トたびおもひを文學に斷つたかの女の十月ぶりでの仕事とすれば無理はない。しかも、この作を書いたことによつて、かの女は、ふたゝび文學へよびもどされるゆくりなき結果をえたのである。

『花ごもり』

 この作、明治二十七年の二月及び四月の「文學界」に載つた。すなはち一葉、二十三歳になつた途端の仕事である。
 この作の書きはじめについて、かの女、その年その月の日記にかうしるしてゐる。
二月十七日 平田君より状來る、文學界の投稿うながし來る也、ほしの君よりもおなじことにて状來る。
十八日、十九日、執筆いそがし、小説花ごもり四回分二十枚斗なる。
二十日 清書、午後平田君にむけ出す。
 こえて三月十八日のくだりに
十八日 はれ。平田君よりはがき來る、本月の文學界寄稿可成澤山に得まほしきよし、二十一日頃までにといふ孤蝶子の傳言、ならびにその身も學校のいそがしさ片づき次第とはんなどあり。
 とあるのも、この作のつゞきについていはれてゐるのだらう。
 この年の五月一日に、かの女は、本郷丸山福山町に轉居した。すなはち下谷龍泉寺町の荒物と駄菓子の店を閉ぢたのである。そして「これよりいよ/\小説の事ひろく成してん」と決心したのである。
 何がかの女にその決心をさせたか? それは第四卷「日記二」の『塵中につ記』にくはしい。

『やみ夜』

 この作、明治二十七年の五月から八月にかけて「文學界」に連載された。丸山福山町に於ける最初の仕事である。といふことは、かの女の、文學への再出發を記念する作である。われ/\はこの作の中にこもつた氣魄のはげしさをみ逃してはならない。
 この作に關して、その年の七月の日記にかうしたことがしるされてゐる。
十九日 小説やみ夜の續稿いまだまとまらず、編輯の期近づきぬれば心あわたゞし、此夜馬場孤蝶子のもとにふみつかはし、明日の編輯を明後日までにのばし給はらずやと頼む。
二十一日 早朝孤蝶君よりはがき來る、續稿は二十二日中にてよしとのこと、嬉しき人也。
二十二日 晴れ。今朝やみ夜の續稿郵送。
 この作、後に再び、明治二十八年十二月の「文藝倶樂部」に載つた。

『大つごもり』

 この作、明治二十七年十二月の「文學界」に載り、後また、二十九年二月の「太陽」に載つた。
 この作によつて、われ/\は、かの女の筆意の漸くこまやかになつて來たことを感ずることが出來る。といふことは、それだけ作者の人生をみる目の漸くはツきりして來たことにもなる。

『軒もる月』

 この作、明治二十八年四月の「毎日新聞」に載つた。
 その年の一月の日記の中に、かうした記事が出てゐる。
二十日 殘花君にとはる、みなわ集一册これ見よとて也、なほ毎日新聞が日曜附録にものせよとたのまる、稿をば二十六日までにといふ、文學界のかたもせまれるを
分けいればまづなげきこそこられけれ
       しをりもしらぬ文のはやしに

『ゆく雲』

 この作、明治二十八年五月の「太陽」に載つた。
 このごろよりしてかの女の文名は漸くあがりそめた。その一つのいゝ例として、その年の五月の、この作が「太陽」に出た直後のある日の日記にしるされてゐることを摘記しよう。
六日 早朝母君は奧田へ、われは安達へたのまれの物もてゆく、老人のよろこびいとこと/″\し、新聞雜誌などに折々わが名の見え渡るを、物馴れぬ人の目にいかゞけうなる事とや思ひけん、當り難きほめ詞など中々にはなじろまれぬ、亡父君あらばいかに悦ばれん、あはれ見せたかりしなど、老人はほろ/\と打なきてさへいふめり。
 かの女の存在は文學に直接關係のない人たちの間にまでかく認められて來たのである。しかもかの女の家計はいよ/\窮乏をつげて來た。今夜この夕飯を喰べてしまつたらあとに一粒の米も殘らないといつた風な日さへあつた。かの女の母はしきりにそれを歎き、かの女の妹はさま/″\にこれを掻口説いた。しかしかの女は怯げなかつた。そしてそのかんの感懷をひそかに日記の中にしるした。
十七日 ‥‥時は今まさに初夏也、衣がへなさではかなはず、ゆかたなど大方いせやが藏にあり、夕べごろより蚊もうなり出るに、蚊や斗は手もとにあるなん、これのみこゝろ安けれど、來月は早々の會日などひとへだつ物まとはではあられず、母君が夏羽織これも急に入るべし、ましてふだん用の品々いかにして調達し出ん、手もとにある金はや壹圓にたらず、かくて來客あらば魚をもかふべし、その後の事し斗りがたければ、母君、國子が我れを責むることいはれなきにあらず、靜に前後を思ふてかしら痛き事さま/″\多かれど、こはこれ昨年の夏がこゝろ也、けふの一葉はもはや世上のくるしみをくるしみとすべからず、恒産なくして世にふる身のかくあるは覺悟の前也、軒端の雨に訪人とふひとなきけふしも、胸間さま/″\のおもひをしばし筆にゆだねて、貧家のくるしみをわすれんとす。
梅雨さみだれのふるき板やの雨もりに
       こやぬれとほる袂なるらん
『ゆく雲』の世に出た月のかの女の生活である。いせやといふのはいふまでもなく質屋である。しかも「昨年の夏」といひ「けふの一葉」といふ。かの女は、制作のよろこびを以て、あくまで世俗的の不幸に立向ふ覺悟をきめたのである。

『にごりえ』

 この作、明治二十八年九月の「文藝倶樂部」に載つた。後に、『たけくらべ』とゝもにかの女の代表作として殘つた名作である。
 その年の一月の日記に
‥‥となりに酒うる家あり、女子あまた居て客のとぎをする事うたひめのごとく遊びめに似たり、つねに文かき給はれとてわがもとにもて來る、ぬしはいつもかはりてそのかずはかりがたし。
まろびあふはちすの露のたまさかは
       誠にそまる色もありつや
‥‥うしろは丸山の岡にてものしづかなれど、前なるまちは物の音つねにたえず、あやしげなる家のみいと多かるをかゝるあたりに[#「かゝるあたりに」は底本では「か、ゝるあたりに」]長くあらんは、まだ年などのいとわかき身にて、終にそまらぬやうあらじと、しりうごと折々に聞ゆ。
つまごきひンのすの鳴音しかの聲
       こゝもうきよのさがの奧也
 とあるやうに、かの女の大音寺まへからうつり住んだ丸山福山町は、田圃を埋立てゝ出來た新開町で、附近には「軒に御神燈さげて盛り鹽景氣よく、空壜か何か知らず、銘酒あまた棚の上にならべ」たいふところの銘酒屋あるひはあいまい茶屋が立ちならんでゐたのである。もとめて遊廓のかたはらにさへ住んだかの女である。どうして、あだに、さうした社會に生活する女たちの上をみすごさう。すなはち、たちまちかの女に、この作がえられたのである。
 この作出でゝ、かの女の文壇的存在はゆるぎなきものになつた。あらしの如き讃嘆の聲にかの女は一身をつゝまれた。それに對してかの女は、その年の十月の日記の中にかうしるしてゐる。
‥‥おもふもかなしきはやう/\をさな子のさかいをはなれて爭ひしげき世に交る成けり。きのふは何がしの雜誌にかく書れぬ、今日は此大家のしか/″\評せりなど、唯春の花の榮えある名斗うる如くみゆる物から、淺ましきは其そこにひそめる所のさま/″\成けり、わか松、小金井、花圃の三女史が先んずるあれども、おくれて出たる此人をもて女流の一といふをはゞからず、たゝへても猶たゝへつべきは此人の才筆などいふもあり、紫清さりてことし幾百年、とつてかはるべきはそれ君ぞなどいふもあり、あるはとつ國の女文豪がおさなだちに比べ、今世に名高き秀才の際にならべぬ、何事ぞをとゞしの此ころは大音寺前に一文ぐわしならべて乞食を相手に朝夕を暮しつる身也、學は誰れか傳へし文をば又いかにして學ぶべき、草端の一螢よしや一時の光りをはなつとも、空しき名のみ、仇なるこゑのみ、我れに比べて學才のきはなみ/\ならざりしさがのやが末のはかなき事、山田の美妙が數奇の體、あはれあはれ安き世の好みに投じてこの爭ひに立まじる身、いか斗かは淺ましからざらん、されども如何はせん、舟は流れの上にのりぬ、かくれ岩にくだけざらんほどは引もどす事かたかるべきか。
極みなき大海原に出にけり
       やらばや小舟波のまに/\
 これを以て、かの女の、かの女自身、冷かにとりなしてゐるとのみゝることは出來ない。さすがにつゝみ切れないよろこびが、かの女にこの述懷をさせたのである。

『うつせみ』

 この作、明治二十八年八月の「讀賣新聞」に載り、後また、三十年一月の「文藝倶樂部」に轉載された。
 この作についてはとくにしるすべきことなし。

『十三夜』

 この作、明治二十八年十二月の「文藝倶樂部」に載つた。
 この作もまた『にごりえ』の如く評判がよかつた。さうなると、聰明なかの女は、早くもそれを素直にうけとるまいとした。あくれば二十九年の一月の日記がそれを語つてゐる。
‥‥こぞの秋かり初に物しつるにごり江のうはさ世にかしましうもてはやされて、かつは汗あゆるまで評論などのかしましき事よ、十三夜もめづらしげにいひさわぎて女流中ならぶ樣なしなどあやしき月旦の聞えわたれるこゝろくるしくも有るかな、しばしばおもふて骨さむく肉ふるはるゝ夜半もありけり、かゝるをこそはうき世のさまといふべかりけれ、かく人々のいひさわぐ何かはまことのほめこと葉なるべき、たゞ女義太夫に三味の音色はえも聞わけで、心をくるはするやうのはかなき人々が一時のすさびに取はやす成るらし、されども其聲あひ集まりては友のねたみ、師のいきどほりにくしみ、恨みなどの出來つるいとあさましう情なくも有かな、虚名は一時にして消えぬべし、一たび人のこゝろに抱かれたるうらみの行水の如く流れさらんかそもはかりがたし、われはいちじるしくうき世の波といふものを見そめぬ、しかもこれにのりたるをいかにして引もどさるべき、あさましのさま少しかゝばや。
 といつたあとで、その前後、めツきりふえた訪客の、わけても稽古にかよひ來る花の如く蝶の如くうつくしい弟子たちの上を描いて、またしても
‥‥一昨年をとゝしの春は大音寺前に一文ぐわし賣りて親せき近よらず故舊音なふ物なく、來る客とては惡處のかすに舌づゝみ打つ人々成りし、およそ此世の下ざまとてかゝる如きは多からじ、身はすて物によるべなきさま成けるを、今日の我身の成のぼりしはたゞうき雲の根なくしてその中空にたゞよへるが如し、相あつまる人々この世に其名きこえわたれる紳士、紳商、學士社會のあがれる際などならぬはなし、夜更け人定まりて靜におもへば、我れはむかしの我にして、家はむかしの家なるものを、そも/\何をたねとしてかうき草のうきしづみにより人のおもむけ異なる覽、たはやすきものはひとの世にして、あなどるまじきも此人のよ成り、其こゑの大ひなる時は千里にひゞき、ひくきときは隣だも猶しらざるが如し。
 と述懷してゐる。大音寺まへの一年は一生かの女についてまはつたのである。が、所詮はこの作の結末の「憂きはお互ひの世におもふ事多し」の一句に盡きた。

『この子』

 この作、明治二十九年一月の「日本之家庭」に載つた。
『雪の日』『軒もる月』で試みた獨白體を、さらにこの作では口語をもつておこなつてゐる。かの女の作品中、唯一つの口語をもつて書かれた小説である。が、殘念なことに、かの女はその口語をほんたうによくこなし切つてゐない。
 それにしても、かの女が、どうしてかうしたものを書いたか?
 われ/\はこれを讀んで若松賤子の飜譯をおもひ出すのである。

『わかれ道』

 この作、明治二十九年一月の「國民の友」の附録に掲載された。
 この作もまた『にごりえ』及び『十三夜』をはづかしめない好評を博した。かの女の人氣はいやが上にもあがつた。かの女は順風に帆をあげてすゝんだ。
 日記は語る‥‥
‥‥國民のとも春季附ろくには江見水蔭、ほし野天知、後藤宙外、泉鏡花および我れの五人なりき、早くより人々の目そゝぎ耳引たてゝこれこそ此年はじめの花と待わたりけるなれば、世に出るよりやがて沸出るごとき評論のかしましさよ、それは新聞に雜誌にいさゝか文學に縁あるは先をあらそひてかゝげざるもなし、一月の末には大かたそれも定まりぬ、あやしうこれも我がかちに歸して讀書社會の評判わるゝが如しとさへ沙汰せられぬ、評家の大斗と人ゆるすなる内田不知庵の口を極めてほめつる事よ、皮肉家の正太夫がめざまし草の初號に書きたるには道成寺に見たてゝ白拍子一葉、同宿水蔭坊、天知坊、何がしくれがしと數へぬ、へつらふ物は萬歳/\とゝなへ、そねむ人は面を背けて我をみること仇の如かり。
 かくしてかの女のところへ傳手つてをもとめて「いかなる人ぞや」と逢ひに來るものがあり、人を介しておくりものをして來るものがあり、そして原稿の註文は殺到する、おもての表札はぬすまれる、月々の仕送りをしようといふものは出て來る‥‥かの女は、完全に、一代の寵兒となり切つたのである。

『たけくらべ』

 この作、明治二十八年の一月から十二月にかけて「文學界」に載り、後また、二十九年四月の「文藝倶樂部」に掲げられた。
 一葉といへばすなはち『たけくらべ』の、この作こそかの女と表裏一體をなす名品である。かの女にとつての名品たるばかりでなく、「われは假令世の人に一葉崇拜の嘲をうけんまでもこの人にまことの詩人といふ稱をおくることを惜まざるなり」(めざまし草・三人冗語)と鴎外博士をして感嘆せしめたほどの、明治期の文學のもつた永遠の傑作である。
 それにしても、かの女に、かうした作のどうして書けたか?
 かの女の大音寺まへ時代の生活がかの女にこれを與へたのである。もし、かの女がそこに住む機會をもたなかつたら、そして、そこで、荒物屋を兼ねた一文菓子屋を營まなかつたら、よしかの女が、かの女のもつたその一生の二倍三倍のものをもつたにしても、この作はえられなかつたのである。
 この作、美登利といふ十四歳の少女を主人公にした可憐な戀愛小説である。と同時に、吉原といふ遊廓をその背後にもつた町々の郷土色をうつし出した哀婉な抒情詩である。東京の一部の、よそ外の土地とは、それこそ日のいろさへ、空のいろさへ違ふその附近の哀しき風景と、その哀しき風景のかげにかくれた果無はかない人生とが、いかにかの女の孤獨なたましひを泪ぐましめたか?‥‥それにかの女のこたへたのがこの作である。
 が、それにしても、この作、うつしも寫した、描きも描いたとしみ/″\感じさせるのである。作者の熱意のかくまで全篇に行渡つてゐる作といふものはめツたにあるものではない。わづか一年足らずの間に、これだけの、うちに徹した觀察をなしえたかの女の非凡さに對して、たとへば作中の絶唱といはれる「春は櫻の賑ひよりかけて‥‥」の一トくだりにだけついても、われ/\は、何んといつて感心していゝか分らないのである。
 が、この作の「文學界」に連載せられたときはまだ、一部少數の讀者の目にしか觸れず、それには續きものといふ關係もあつたらう、何んの反響もよぶことなしに了つた。「文藝倶樂部」にその全篇の再掲せられたとき、いまさらのやうに世間は目をみ張つた。その一つのいゝ見本を、われ/\、その年の五月の日記にみつけることが出來るのである。
二日 の夜禿木秋骨の二子來訪、ものがたることしばしにして今宵は君がもてなしをうけばやとてまうで來つる也、いかなるまうけをかせさせ給ふぞや、これは大かたのにては得うけ引がたしとふたりながら笑ふ、何事ぞと問へば戸川ぬしふところより雜誌とり出でゝ朗讀せんかと平田ぬしをかへりみていふ、こはめざまし草卷の四成き、一昨日の發行にてわが文藝倶樂部に出したるたけくらべの細評あるよし新聞の廣告にみけるがそれならんかしと思ふにあわただしうはとふ事もせず打ゑみ居るに、いかでまうけせさせ給へ、この卷けふ大學の講堂に上田敏氏の持來てこれみよと押開きさしよせられぬ、何ぞ/\と手に取りみれば、これ見給へかく/\しか/″\の評、鴎外、露伴の手に成て、當時の妙作これにとゞめをさしぬ、うれしさは胸にみちて物いはんひまもなく、これが朗讀大學の講堂にて高らかにはじめぬ、さても猶うれしさのやる方なきに學校を出るより早くはせて發兌の書林に走り、一册あがなふより早く禿木が下宿にまろび入り君々これ見たまへと投つけしに、取りて一目みるよりはやく平田は顏を得あげず涙にかきくれぬ、さらばとく見せて此よろこびをものべ、ねたみをも聞えてんとて斯く二人相伴ひてはまうで來つる也、いかでよみ給ひてよ、我れやよまん、平田やと、詞せはしく喜びおもてにあふれていふ、今文だんの神よといふ鴎外が言葉としてわれはたとへ世の人に一葉崇拜のあざけりを受けんまでも此人にまことの詩人といふ名を送る事を惜しまざるべしといひ、作中の文字五六字づゝ今の世の評家作家に技倆上達の靈符として呑ませたきものといへるあたり、我々文士の身にして一度うけなば死すとも憾なかるまじき事ぞや、君が喜びいか斗ぞとうらやまる、二人はたゞ狂せるやうに喜びてかへられき。
 この鴎外露伴兩博士の批評が一層この作を有名にしたのである。われ/\は、この記念すべき批評の全文をこの全集の「別册」に收録することを忘れないだらう。

『われから』

 この作、明治二十九年五月の「文藝倶樂部」に載つた。
 量よりいへば『たけくらべ』につぐ長いものである。が、『たけくらべ』には勿論、『にごりえ』にも、『十三夜』にも、『わかれ道』にも、及ばないとされてゐるのがこの作である。かの女にあるまじき構成の混亂がこの作の感性をにぶくしてゐるからである。作者としても意にみたないものではなかつたらうか。

『うらむらさき』

 この作、明治二十九年二月の「新文壇」に載つた。
 この作は未完成である。そして、この未完成の一作を最後にかの女はこの世を去つた。
 が、未完成ながら、この作に出て來るお律と『軒もる月』のお袖とをわれ/\は比較してみたい。すなはち「東次郎[#「東次郎」はママ]どのを良人と定めて行つたのでは無いものを、形は行つても心は決して遣るまいと極めて置いたを、今更に成つて何の義理はり、惡人でも、いたづらものでも構ひは無い」と頭巾の上から耳をおさへて戀人のところへいそぐお律と、「やよ殿、今ぞ別れまゐらするなりとて、目元に宿れる露もなく、思ひ切りたる決心の色もなく、微笑の面の手もふるへて」おもかげ忘れえぬ戀人の手紙を、一通二通八九通、殘りなく寸斷して火の中に投じたお袖とをである。これによつて、われ/\は、かの女の文學が漸く自然主義的針路をとり來つたとみるのは早計だらうか。

 本卷に收めた諸篇は、前卷同樣、明治三十年六月博文館發行の「校訂一葉全集」を底本とした。これは明治三十年一月同所發行大橋乙羽編纂の「一葉全集」を齋藤緑雨の校訂したものである。監修幸田先生のお指圖による。但し、念のため、明治四十五年五月博文館發行の「一葉全集」後篇及び大正十一年六月同所發行の縮刷本を以て誤植を正す參考とした。尚『たけくらべ』に關しては、とくに大正七年十一月同所發行の眞筆版「たけくらべ」に據つたが、假名遣、ふり假名等はすべて他の諸篇にならつた。勿論、すこしでも疑はしきものは、その都度、幸田先生の高教を仰いだ。

 脚註に精粗のあつたことは殘念である。が、これは、この上とも月報「一葉ふね」で補足をつゞけつつ同時に統一もし、漸次完全なものにして行くつもりである。しかし、この仕事は一人の力のよくするところでない。げんに今度でも、慶應義塾大學文科出身の若い友人戸板康二君の助力をえた。後日のためしるす。
久保田万太郎

樋口一葉全集第二卷をはり





底本:「樋口一葉全集第二卷」新世社
   1941(昭和16)年7月18日発行
※底本における表題「後記」に、底本名を補い、作品名を「「樋口一葉全集第二卷」後記」としました。
入力:岡村和彦
校正:川山隆
2014年11月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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