自伝

山之口貘




 本名山口重三郎。明治三十六年九月十一日沖縄の那覇の生れである。沖縄県立一中に学んだ。中学の二年生の頃、女性のことを気にするやうになつて、詩を書くことを覚え、詩にこるみたいに初恋にもこり出して、許婚の仲にまでまとめあげた。その頃からぼつぼつ「琉球新報」「沖縄朝日新聞」「沖縄タイムス」等の郷里の新聞に詩を書いたりした。
 大正十一年の秋に上京したが、約束の父からの送金がないために放浪状態になつてしまつた。大正十二年の九月一日の関東大震災のおかげで、一時、帰郷したのであるが、当時、父が、鰹節製造の事業に失敗したばかりのところで、家を失ひ、家族は四散し、ぼくはぼくで、許婚の女性からは棄てられ、その上、二度目の恋愛にも破れたといふ風なことばかりが重なり合つて、かうした環境が、ぼくの放浪を本定りにしたやうなもので、どうやら、詩にかぢりついて生きたくなつたのもそれからなのである。
 大正十三年の夏、着のみ着のまゝで、詩稿だけを携へて、ぼくはまた上京、昭和十四年の五月頃までの大半を、一定の住所を持たずにすごした。それでも時には、書籍問屋の発送荷造人になつたり、煖房屋になつたり、お灸屋になつたり、汲取屋にもなつてしまつたり、あるひは、隅田川で、ダルマ船の船頭さんの助手みたいになつて、鉄屑の運搬を手伝ひながら水上で暮したり、または、ニキビ、ソバカスの薬の通信販売などの職を転々とした。昭和十四年六月から、二十三年の四月頃までの戦時戦後を通じては、官吏として、職業紹介その他の事務に携つた。現代は、時に、小説に似たもの随筆に似たものなど書いて、兼業にしてゐる。
 はじめて、詩を発表したのが、昭和六年の四月の「改造」で、「夢の後」「発声」の二篇がそれである。その後は、改造社の「文芸」、「中央公論」「むらさき」「新潮」「公論」「人間」河出書房の「文芸」その他の雑誌、新聞等に発表して今日に及んでゐるのだが、寡作であることと、生活上の止むを得ない事情から、詩の専門誌には、殆ど、発表の機会を持つことが出来なかつた。
 著作には、処女詩集「思弁の苑」がある。昭和十三年に巌松堂の「むらさき」出版部から出版した。昭和十五年には、「思弁の苑」に、新作十二篇を加へて、山雅房から、「山之口貌詩集」として出版した。
 なほ、昭和十五年五月から、十月まで、平田内蔵吉とともに、「現代詩人集」全六巻を編纂して、山雅房から出版した。
 振り返つてみると、大正十一年から十三年のあたりへかけては、前に述べた事情のなかにあつて、生れた土地にゐながら、すでに住む家もなかつた。根は、やけくそなのであつたが、世間に対しては詩人ぶつて、友人知人親せきなどに迷惑をかけて歩き廻り、やがて、爪弾きや後指によつて追ひまくられてしまつて、しまひには、海岸や公園に宿をとつたりするやうになつた。
恩人ばかりをぶらさげて
交通妨害になりました
狭い街には住めなくなりました
とうたひ、その詩稿などを携へて再度上京したのである。その間に、増野三良訳で、タゴールの詩集三冊を読んだ。「新月」「園丁」「ギタンヂャリ」がそれであつた。
 しかし、上京はしたものゝ、すぐにはどうにもなる筈がなかつた。しばしば、自殺をおもひ立つのであつたが、そのたびに詩には未練がましく、もう少し書きたいといふ気持をどうすることも出来ないで、とうとう自殺をしたつもりで生きることに決めたのである。この決心は、ぼくから、見栄も外聞も剥ぎとつてしまつて、色色なことをぼくにさせることが出来たのである。それは、職歴にも反映してゐるやうだ。

(『現代日本詩人全集』第十四巻〔一九五五年 東京創元社刊〕)





底本:「山之口貘詩文集」講談社文芸文庫、講談社
   1999(平成11)年5月10日第1刷発行
底本の親本:「山之口貘全集 第三巻」思潮社
   1976(昭和51)年5月1日
初出:「現代日本詩人全集 第十四巻」東京創元社
   1955(昭和30)年
入力:kompass
校正:門田裕志
2014年1月2日作成
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