つまり詩は亡びる

山之口貘




 かつて、アンドレ・ジイドのソヴィエットへの関心を知るや否や、それを以て直ちに、赤化したアンドレ・ジイドと見なしたかのような観方をした人々が、日本の国にあったと記憶する。
 彼等は、ジイドのソヴィエット旅行に就て、いよいよジイドが、ソヴィエットから土産として持って帰るものは、赤色ジイドに違いないと想像位はしていたかも知れないのであるが、さて、ジイドの帰りを迎えて見れば、振ら下げて来たものは、相変らず彼の批判や感想やらにまつわりついているソヴィエットからの痛烈な非難であった。
 いま、再び世間は、旅行帰りのジイドに就て、色々の検討をなし騒ぎ立てているのにもかかわらず、その声達のなかには、どうしたことか、かつてジイドを赤化したのであるかのように見なしていた彼等の声がきこえないのだ。いま、彼等はどこにいてどのようにジイドを観ていることか。
 それを僕が知りたいわけは、かような機会に於てこそ、外国人の所謂、「日本的観方」という日本の姿を見なおして見たいそのためにだ。

 これもまた、ジイドの赤化云々が伝えられたその頃のことだった。或る新聞で、或る日本人のジイド訪問記を読んだのであるが、その日本人が、ひとりのフランス人氏同伴でジイドを訪ねての帰途に、ジイドも先ずあの莫大な財産を清算しなくてはなるまい、というような意味のことを言ったことに対し、フランス人氏は立ち所に、それは日本的考え方だよ、とか言ったという。
 僕は、そのフランス人氏の言葉の指ざしているこの日本に、ひとつの思想的傾向を帯びるや否やあの莫大な財産を清算したかつての有島武郎氏を思い出した。

 もうひとつ、これも日本的というものであろうか、どうせ食えない時代だから、食えないことを覚悟の上で、文学に精進するのだという作家の心構えだ。そういう心構えはフランスあたりに流行していたのであろうか。そのような作家をいながらにして見せつけられるということは、日本の文学の意気地なさが感じられる。食えない覚悟まで文学のために持たなくてはならぬのだから日本の作家は瘠せ細って死んでしまう傾向がある。食えない覚悟を文学のために持つだけのほんとうの勇気があるならば、食えない時代のためになぜ食う覚悟を持たないで、しかも文学を舐めてばかりいるのだろうか。
 時代が食えない時代だから、食えない覚悟で、文学の消費は、ジイドを舐めヴァレリイを舐め相当に行われているにもかかわらず、その生産面に於ては彼等の比でないと考えられようが、それは仕方がないと答えることによってすますつもりでいるのだろうか。
 ファンク博士はその手記で、仕方がないということを、日本人の特長として挙げていたようだ。
 この時代が、食えない時代であるということを、ほんとうに自覚しているならば、食う覚悟、それは僕みたいにつらの皮を厚くしてまでも持たねばならぬ覚悟なのだ。そうして文学は、日本の文学が気に入らないなら、さしあたり外国の文学を真似てもよろしい。が舐めさせるだけにでも値するような、なるべくは真似もばれない位の文学を生産するという覚悟で、持つ覚悟も健康な覚悟を持ちなおしたらどうであろう。

 詩は亡びる。と菊池寛氏が言ったので、詩人達の間に騒がれた。小学生が言ったのなら、振り向くものもなかったろうに、菊池寛氏が言ったというので騒がざるを得なかったわけなのだ。
 詩が亡びるということは、人間が亡びるということをも言わなくては用をなさない言い方である。詩が亡びることは考えられて、人間が亡びるということを考えられないとすれば、詩が亡びるということの論拠が薄弱である。
 人間に死ということがある。死ということは個人の現象であって、人類の現象としての結論ではない。だから死んでしまうのは昔から今に至るまで個人ばかりが死んで来たのであるし、なお、将来もどこまでも個人にだけ死は現象するが、人類は地球といっしょにどこまで行くものか解らない。たとえ文明の方向が人間を殺したり、生かしたりしてもそれは人類の方向を美しく表現するための、個人的な現象にしかならないのだ。つまり僕らには、個人の死は考えられても、人類の滅亡は考えられない。しかも、個人の場合に於ては、死を前提にしていながら生きるようなものであるとも言えるのであるが、人類の生死は、僕だけでなく人類総がかりになって考えても計り難いことなのだ。
 詩の概念もまた、僕らには、人類の概念と等しいものでなくてはならないのだ。
 詩が亡びるということは、詩が亡びるということの意味をなさない。そのような個人の言動や生死如何に依らず、亡びることなど知りもしない人類と同時しつづけているのが詩なのである。即ち、詩と人類とはぐるになっていて、誰が何と言おうが地球を振ら提げて生きる一方なのだ。
 僕は或る人が、詩よさよなら、と言ったことを知っている。詩を経験し詩を知っている人は、さすがに詩に対する礼儀をわきまえていると見えて自分の身をひくのであるが、詩に就て、その可能不可能の限界を持っていない人は自分には詩は解らないと率直に引き下るべきであって、一体どこを向いているのであろうかと人に思わせるようなポーズで詩を見ていては、つまり詩は亡びる。

(「むらさき」一九三七年四月号)





底本:「山之口貘詩文集」講談社文芸文庫、講談社
   1999(平成11)年5月10日第1刷発行
底本の親本:「山之口貘全集 第四巻」思潮社
   1976(昭和51)年9月19日
初出:「むらさき」巌松堂
   1937(昭和12)年4月号
入力:kompass
校正:門田裕志
2014年1月18日作成
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