夏向きの一夜

山之口貘




 争えないもので、顔までがいつのまにやらそういう顔つきになってしまったのであろう。夜は云うまでもないが、昼間でも、街を歩いていると、ぼくはよくおまわりさんから誰何されたのである。それはしかし、顔つきばかりのことではなく風体からしてそもそもぼく自身の生活を反映しているものなのであって、当時の流行語を借りて云えば、所謂、るんぺんと称されているところのもので、ぼくは路傍で暮らしているような状態にあったからなのである。そんなわけで、ぼくの顔つきや風体は、いかにも、誰何されるにふさわしくなっていたみたいであるが、誰何されることによって、別に、ひどい目に合わされたこともなければ、豚箱を経験したわけなのでもなかった。ところが、いつ、どんな勘違いをされて、どんなひどい目に合わされないとも限らないような、そうおもう一抹の不安がぼくにはあったのである。そんな気持を、ある日のこと、佐藤春夫氏に話すと、
「それならばぼくが証明書を書いてあげよう。」
ということになって、氏は、一枚の名刺にペンを動かしたが、やがて、その名刺をぼくに寄越して云った。
「もしも万一の場合は身柄を引受にぼくが出頭するよ。そしてむかしは人殺しをしたことがあったかも知れないが、自分と知ってからはそんなことはないからと云って引受けてやるよ。」
 名刺には、その表に、詩人山之口貘ヲ証明スとあって、昭和四年十二月十二日としてあった。裏には、山之口君は性温良。目下窮乏ナルモ善良ナル市民也。とあった。
 ぼくは、この名刺のおかげで、安心して、街にうろついていることが出来た。ぼくのことを、誰何したことのあるおまわりさんなら、おそらくみんな、その裏表を読んだことになるのである。
「佐藤春夫ってなんだね。」
 おまわりさんのなかには、時に、そういうのもいないわけではなかったが、
「有名な詩人で小説家がいるでしょうあの人ですよ。」と云うと、知らないことでも恥だけはかきたくなくなってしまうのか、
「あ、そうかそうかあの佐藤春夫か。」
ということになったりするのである。
 ぼくの友人にもおまわりさんがいた。しかし、彼は詩人巡査と云われているくらいなので、佐藤春夫ってなんだねとは云わなかった。それどころか、ぼくの持っている佐藤春夫氏の証明書を見て感激してしまったのである。そして、ぼくが、辞退しているのにもかかわらず、ポケットから一枚の名刺を出して、佐藤春夫氏の証明書を真似てそれをぼくに呉れるのであった。むろん、その名刺には警視庁巡査と肩書があった。しかし、折角のところ、この証明書は、まもなく使用に耐えなくなったのだ。と云うのは、誰何の折のおまわりさんに詩人巡査の書いた証明書を見せると、かれらは、かえって反撥的になって来て、誰何が執拗になり意地わるくさえなるような傾向を示すのであった。かれらはまるで、その職業意識を刺激されて、いかにも余計なことをするものだと云わんばかりに、詩人巡査の証明書を見るのであった。詩人巡査にしてみれば、そのようなこととは知る筈もないので、かれは、ぼくの顔を見るたんびに、
「あの名刺はまだ持っているのかね。」
などと云って、かれの書いて呉れた証明書が、ぼくのために非常に役立っているかのような想像をしてたのしんでいたのである。
 ある夜のこと、八重洲口の交番に、ぼくは詩人巡査を訪ねて、詩の話などをした揚句、今夜は、交番に泊めてもらえないものかとたのんでみた。
「それは駄目だよ。」と詩人巡査は云った。
「駄目かね。」と云うと、
「駄目だね、まずいよ。」とかれは云った。
 ぼくは、帰るべきあてもなかったのであるが、交番を出ようとすると、一寸待てよと云って、詩人巡査は電話の受話器を持ったのである。
「……ぼくの友人でやまのくちばくという詩人なんですがね。夜が明けるまでそこらで休ませておいてくれませんかね。そうですか、じゃすぐそちらへむけますからよろしくたのみます。」
 詩人巡査は、受話器をおいた。
「日比谷公園だよ。」
 かれはそう云って、帝国ホテル筋向いにある公園入口の交番へ行くようにとぼくにすすめたのである。
 靴音の立たなくなるまで、擦れてしまった靴を引き摺って、指定の交番の近くまで来てみると、おまわりさんが歩道に出て待っていた。
「どうもすみませんですね。」
「こちらへいらっしゃい。」
 おまわりさんはそう云って、公園のなかへぼくのことを案内した。
「このへんなら大丈夫でしょう。どうぞごゆっくりおやすみになって下さい。」
 とあるベンチのところまで来ると、皮肉なほど馬鹿ていねいに、おまわりさんはそう云って、ぼくのことをそこに置き去りにした。おまわりさんの姿は、すぐに見えなくなったが、一寸の間は、砂利を踏むかれの跫音がきこえていた。

(「東京労働新聞」一九五〇年八月一〇日)





底本:「山之口貘詩文集」講談社文芸文庫、講談社
   1999(平成11)年5月10日第1刷発行
底本の親本:「山之口貘全集 第三巻」思潮社
   1976(昭和51)年5月1日
初出:「東京労働新聞」
   1950(昭和25)年8月10日
入力:kompass
校正:門田裕志
2014年1月18日作成
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