暴風への郷愁

山之口貘




 郷里の沖縄から、上京したのは大正十一年の秋のことであったがその年の冬に、はじめて、ぼくは雪を見た。本郷台町の下宿屋の二階で、部屋の障子を開けっ放して、中庭に降りつもる雪の白さを、飽かずにながめたことを記憶している。南方生れのぼくは、はじめて見る雪のながめに、つい寒さも忘れて『忠臣蔵』をおもい出していたのであった。その後、同郷出身の友人たちに、きいてみると、雪に対するぼくらの第一印象は、誰もが『忠臣蔵』なのであった。ぼくらは、活動写真の忠臣蔵によってしか、雪を知っていなかったからなのである。いまではしかし、上京当時のことをおもい出さない限り、どんなに雪が降ったところで、忠臣蔵をおもい出すことはなくなってしまったのである。
 それから、まもなくのこと、東京というところは、ものごとをバカに、大げさにいうところだとおもった。風が吹くと『暴風』だというので、ぼくなどにはそれがこっけいに感じられたのであった。
 しかし、それが結局は、暴風の名産地である沖縄に生れたところのぼくの東京観なのであって、東京あたりでは、十メートル、二十メートルの風速を『暴風』にしておかないと、暴風と名づけられるような、暴風らしい暴風などないからなのだということがわかったのである。
 事実、沖縄の暴風は、ものすごいもので、五十メートル、六十メートルの奴が吹きまくった。それが、半日や一日ではないのだ。人々は、三日も四日も家屋に閉じこめられていなければならないのである。ぼくの少年のころ、那覇のまんなかにあった大きながじまるの木が、暴風に抵抗できなくなって、その幹のところから折れてしまったことなどあったが、そのがじまるの木は、大人三人ほどでなくてはかかえることのできない大きさの幹をしていたのだ。しかも、この木は、沖縄の木のなかで一番柔軟性のある木なのであって、そんなことから推してみても、どんなに猛烈を極めた暴風であるかはうかがわれるのである。がじまるは熱帯植物で、常緑の喬木で、葉はダ円形、葉肉が厚く、幹や枝から、ひげのように気根を垂れていて、一名榕樹ともいわれている樹なのだ。ぼくの家の井戸端にも、中年のがじまるの木があったが、暴風に身を振り乱している姿を、閉めきった雨戸の節穴からぼくはのぞいていることもあった。沖縄の植物にはその外に仏桑花がある。梯梧がある。福木がある。竜舌蘭、蘇鉄などもある。竜舌蘭や蘇鉄は別として、福木とか梯梧とか仏桑花とかは、暴風にやられてそこらじゅうに青い葉をまき散らした。
 暴風に襲われると、ぼくはよく父のすることを手伝った。物置から、棒や麻縄などを持ち出して来て、雨戸と雨戸に棒を渡して、麻縄でしばりつけた。そうしないと、雨戸が吹っ飛ばされてしまうからなのであった。吹っ飛ばされるのは雨戸のせいではなくて、暴風のせいなのである。なぜなら、本来の沖縄の家屋は、暴風雨を考慮して建てられた家屋だからである。首里、那覇など、住宅のほとんどが、まず、石垣をもって囲まれていたのだ。家の造りは、がっしりと四角張っていて、屋根を見ただけでも、いかに沖縄が、暴風雨の名産地であるかがわかるのだ。
 沖縄の屋根瓦は、熱帯の陽にも強いといわれているが、日本本土の屋根々々とは、その色からして、まったくおもむきを異にしているのである。瓦は、雌瓦と雄瓦があって、雌瓦と雌瓦のつぎ目に、雄瓦をかぶせて、漆喰で塗りかためてあるのだ。雄瓦の断面が、半円なので、雄瓦と雄瓦の間の溝がそれだけの深さになっているのである。屋根は赤く、赤い屋根の上には漆喰、あるいは、素焼の唐獅子が、座っていたり、または、腹ばいになっていたりして、魔除けの役をつとめているが、沖縄の家屋は、こんな身構えをして、五十メートル、六十メートルの暴風雨に挑みかかるのだ。
 ぼくはそういう家屋に生れ、がじまるの木の折れるほどの暴風のなかで、少年の時代を育ったせいか、時たま、十五メートル、二十メートルほどの風の吹く東京の、灰色の瓦を置き並べたにすぎない屋根の下にいて、暴風のことなどおもい出したりするのだが、いまとなっては暴風も、一種の郷愁にすぎなくなってしまったのだ。

(「毎日新聞」一九五四年九月二五日)





底本:「山之口貘詩文集」講談社文芸文庫、講談社
   1999(平成11)年5月10日第1刷発行
底本の親本:「山之口貘全集 第三巻」思潮社
   1976(昭和51)年5月1日
初出:「毎日新聞」毎日新聞社
   1954(昭和29)年9月25日
入力:kompass
校正:門田裕志
2014年1月18日作成
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