小島の春

下村海南




トラツクのふちにつかまりすすり上げすすり上げ泣く四十の男
これやこの夫と妻子の一生の別れかと想へば我も泣かるる
夫と妻が親とその子が生き別る悲しき病世に無からしめ

 一等国中の一等国である日本には、まだ癩の患者が至るところに、医療の手当にも恵まれずに散らかっている。欧米各国では患者の全部が隔離され収容され、それぞれに手当をうけて余生を送っている。そうした患者が相ついで天命を終った時に、その国には癩が絶滅されるのである。日本ではまだ万余を数える伝染病毒を持つ不幸なる患者が野放しになっているのである。
 愛生園の光田園長は限りある予算の中で、いやその予算の荷いきれないまで、あらゆる無理算段をかさねて患者の収容につとめつつあるが、その一片の閃きが此作品によりてここに写し出されている。
 四国には遍路の旅の鉦の音がつづいている。八十八カ所の寺から寺へ、寺の門に寺の境内のところどころに不幸なる患者の姿が見られる。寺々ばかりでない、四国では町中にも深山路にも病める友はここそこに悲しき余命を送りつつある。光田園長の命により、そうした憐れなる病める人々を救い出すべく、幾度か四国や中国の山を越え河を渡り、云い知れぬ尊い精進をつづけた小川正子女史の救癩記が此一篇であり、その旅路によまれし数多い歌の中から、この文のはじめに三首だけ抜き出して見たのである。

 僕の昭和九年の旧著「遍路」は四国路の旅行記であり、その中には癩についてかなり筆にしてある。又沿道所在の講演にも癩につき言及した事が少なくない。著者の救癩記を読んで一入感無量である。療養所、そんな恐ろしいところへはと首を振る患者、どうか引取って頂きたいと嬉し涙にくるる患者。そうした患者たちと何んの懸念もなく手を握りあってる村人。そうした中に、さていよいよ療養所へ引取られる生別離苦の痛々しい場面は、只空の想像しただけでは傷心のかぎりである。
 土佐日記はいにしえ土佐の国府から都へと旅した紀貫之の「土佐日記」もある。今土佐の山間に不幸なる患者への救いの手をのばす小川正子の「土佐の秋」もある。僕は短歌の方に足を踏み入れているからいうのでは無いが、此作品は著者の血と涙に滲んでる筆先に、歌が彩られている事により得もいわれぬ暖かな懐かしさ、或るなごやかな気分を味い知るは嬉しくもあり、有りがたい事と思う。
 ここにたまたま十月の二十一日、東都神田にてMTLが主催された「非常時下の救癩問題座談会」を終えて帰えりし朝風荘の書斎に、内田守君の飛信をうけ、小川女史が光田園長救癩四十年の記念にと捧げる、此書に序文を筆にする事も奇しき因縁である。

 終りに小川女史のこの尊い文献が永久の生命ある記念として上梓されし事を喜び、女史の此上とも御健康のほどを心からいのりて。

昭和十三年十月二十一日
下村海南





底本:「[復刻版]小島の春」長崎出版
   2009(平成21)年5月30日初版第1刷発行
底本の親本:「小島の春 ――ある女医の手記――」長崎出版
   1981(昭和56)年発行
入力:岡山勝美
校正:Juki
2014年12月15日作成
2015年1月9日修正
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