瞼の母 二幕六場

長谷川伸




〔序幕〕第一場 金町かなまち瓦焼の家(春)
    第二場 夏の夜の街(引返)
    第三場 冬の夜の街
〔大詰〕第一場 柳橋水熊横丁
    第二場 おはまの居間
    第三場 荒川堤(引返)


番場ばんばの忠太郎  夜鷹おとら  洗い方藤八
水熊のおはま  素盲すめくらの金五郎  煮方子之吉ねのきち
その娘お登世  鳥羽田とばた要助  出前持孫助
金町の半次郎  突き膝喜八   女中おふみ
半次母おむら  宮の七五郎  小女おせう
半次妹おぬい  板前善三郎  銭を乞う老婆
芸者三吉・およつ・魚熊・魚北・帳場与兵衛・通行の男女・唄好きの酔漢・母を迎える男・寄席帰りの母・渡し舟のもの・出入りのかしら駕丁かごや・そのほか。
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〔序幕〕




第一場 金町瓦焼の家(春)


江戸川沿岸、南寄りの武州南葛飾郡金町の瓦焼惣兵衛の家。
嘉永元年の春。夕暮れ近くより夜にかけて――。

右手寄りに母屋おもや(土間への入口と障子のはまった縁側付きの座敷)。草葺のがッしりとした建築、中央から左手へかけ瓦焼場、かまどが幾つかある。その奥は低き垣、外は立木たちきのある往来。
おぬい (惣兵衛の妹。餌を拾う鶏を小舎へ追い込む振りをして、それとなく外を見張っている)
子供  (数人、隠れん坊をして、往きつ来つして遊んでいる)

旅姿の下総しもうさの博徒突き膝の喜八と宮の七五郎、往来へきて立ちどまる。
喜八  (子供の一人を手招ぎして、何か訊く)
子供  (知らないと頭を振る。他の子供は喜八、七五郎を不思議そうに、たかッて見ている)
七五郎 何ッ知らねえ。そんな事があるもんか。
喜八  七、またお株が始まった。ここは下総とは川一つ国が違うぜ。旅先だぜ。
七五郎 だっておめえ。同じ村の餓鬼共のくせに知らねえ奴があるもんか。
子供  (怖れて、一人逃げ二人逃げ、一緒にどッと逃げて行く)
喜八  それ見ろい。子供達がこわがって、みんな逃げて行ってしまった。
七五郎 逃げて行ってもいいじゃねえか。尋ねる家はここなんだ。
おぬい (そっと母屋の方へ行きかける)
七五郎 おお、娘さん。
おぬい はい。(仕方なしに立ちどまる)
喜八  金町の瓦屋さんで、惣兵衛さんは此方こちらだね。惣兵衛さんにお目にかかりたい。
七五郎 惣兵衛というおやじをここへ出せ。
おぬい 兄さんは講中こうじゅうの方とご一緒に、お伊勢様へ参って居ります。
喜八  留守か。そうかい。して家にはだれがいる。
七五郎 お前の他に男はいねえか。
おぬい 職人達はきょうは休み、年期の者は行徳ぎょうとくへ使いに行きました。
喜八  そんな人の事じゃねえ。
七五郎 半次が帰って来てるか、それを聞いているんだい。
おぬい 半次兄さんなら居りません。
七五郎 白ばッくれるな。
喜八  七。そんなにいうな。相手は綺麗な娘ッ子だ。おとなしく云えよう。
七五郎 だって、お前、図々ずうずうしく、居ねえなんてかすからよ。
喜八  まあいいやな。娘さん。ここに手紙を書いてきた、これを半次に渡してくれ。
おぬい でも、全く参って居りませんもの。
七五郎 まだあんな事をいってやがる。
喜八  今は居ねえか知れねえが、今にもここへくる筈だ。来たら必ず渡してくれ。(手紙をおぬいが受取らぬので垣の中へほうり込み)七。さあ行こう。
七五郎 (不服らしく)そんな事より踏み込んだ方が、らちが早くあくじゃねえか。
喜八  べら棒め。俺達も名うての人間。やるなら尋常にやる方が立派でいい。
七五郎 そりゃ立派にやりていが、手間を食うから俺あ嫌いさ。
喜八  来いよ。急ぐ事があるかい、袋の中の鼠じゃねえか。(七五郎と共に去る)
おぬい (二人のうしろ姿を見送り、怖々こわごわ手紙を拾う)

若き博徒、金町の半次郎、人を害して逃亡し、実家へゆうべから来ている。
半次郎 (母屋から、用心して顔を出す)おぬい――おぬい。
おぬい お、兄さん、出ちゃいけないよ。
半次郎 今の声はだれだ。この辺の人らしくなかったが、――その手紙は俺にきたのか。
おぬい 見たことのない男がきて、これを抛り出して行ったのだよ。
半次郎 三十過ぎた小粋こいきな男か。そんならゆうべ話をした兄弟分の番場ばんば哥児あにいだ。どれ、それを見せてくれ。
おぬい そんな人ではなかったよ。二人連れの厭な奴なの。(手紙を渡す)
半次郎 (左り封じの手紙なので、はッとなる)
おぬい どうしたの兄さん。
半次郎 何。なんでもねえ。(手紙をひらかずにいる)
おぬい ホホホ。兄さんは字が読めなかったねえ。それでそんな顔したのかい。あたしが読んであげようか。
半次郎 なあに、それには及ばねえ。用は大抵知れている。
おぬい でも、変な人が置いて行った手紙だもの、気になるから見せておくれ。兄さんが持っていたって、何と書いてあるか判りやしまい。
半次郎 お袋はどこへ行った。
おぬい おッかさんは帝釈様たいしゃくさまへ。もう帰ってくる時分だよ。兄さん今の手紙をお出しよ。
半次郎 お前なんか見るものじゃねえ。
おぬい お出しというのに兄さん。
半次郎 何。何をするんだ。
おぬい (手紙を引手繰ひったくり披く)
半次郎 馬、馬鹿。そんな物を見る奴があるか。
おぬい あッ兄さん、こ、この手紙は。
半次郎 俺には文句が読めねえが当推量あてずいりょうで判っている。下総飯岡いいおかの身内の者で、俺の首をあげに来た奴等が寄こした、呼び出し状だ。
おぬい 兄さん兄さん。そうなんだ。ど、どうしようねえ。
半次郎 これが堅気の瓦屋なら、逃げ隠れもしよう、だがヤクザ渡世とせいの泥沼へ、足を入れた男としては、奴等と白刃しらはをブッつけなくちゃ、男じゃあねえと人にいわれる。
おぬい えッ。命のやりとりにどてへ来いとここに書いてある通りに、兄さんは行く気なの。
半次郎 うむ。行くんだ。(長脇差を取りに、母屋へ入ろうとする)
おぬい 待っておくれ兄さん。
半次郎 止めてくれるな。さあ放しなよ。えッ放すんだというのに。(入る)
おぬい 兄さん兄さん。(追って入る。直ぐ引返し障子を外から押える)
半次郎 (姿は見えねど、内から障子を開けようとする)
おぬい (必死に押える)
半次郎 (土間の入口から外へ出る)
おぬい (縋りついて)いけないいけない。兄さん待っておくれ。

おむら (半次、兄妹の母、帝釈天に参り帰り来る)半次郎、お前どこへ行くのだい。
半次郎 おおお袋か。
おぬい おッかさん大変な事になったよ。これを見ておくれよ。(手紙を見せる)
おむら (手紙の文言に驚愕はすれど、抑えつけて)半次郎、お前はまだ親不孝がしたりないのか。
半次郎 そう云われると、面目なくて。
おむら 今更の叱言こごとだけれど、おとッさんの死目にも会わず、家とは音信不通で永らくいてたまに帰ってきて一晩たつと、もうこんな騒ぎを始めるのか、お前は他国で斬ったはったの騒ぎをして、それでも足りずに生れ在所へ帰ってまで、血腥ちなまぐさい騒ぎがしたいのか。
半次郎 済みません。だがお袋。好んでする勝負じゃなく売られてみれば男として買わずにゃ居られませんから。
おむら お黙り。親兄妹に泣きを見せてそれが何の男なのだい。惣兵衛兄さんをご覧、親にも妹にも優しいよ。人様にだって親切だ、それでこそ男といえるのだ。お前のはただ強がって、面白ずくと無鉄砲で、斬るの突くのと喧嘩をしたり、仕事といえば遊びくらし、ばくちを打つばかりじゃないか。そんな奴が何で、男だなんていえるのだい。今度帰ってきたのが幸い、もう決して外へは出さない。惣兵衛が帰ってきたら、あの子とよく相談して、お前を真人間に叩き直し、常陸ひたちの叔父さんの処へ預けるつもりだ。
おぬい それご覧な兄さん、だからあたしが止めてるんじゃないか。
半次郎 ゆうべからつくづく考え、俺も堅気にはなりていとは思ったが、こうして呼び出しをかけられては。
おむら まだそれを云ってるのかい。どうでも喧嘩に出て行くのなら、親を殺してから行くがいい。半次郎、家の中へおはいり。
半次郎 ええ。(入ろうとしない)
おむら おはいりというのに。
半次郎 (仕方なく母屋へ入る)
おむら (手紙を懐中に入れ、おぬいに外を気をつけろとささやき、母屋へ入る)
おぬい (鶏を小舎へ追い込む)

日が次第に、この以後くらくなる。唄の声(どこからか聞こえる)ぬしを松戸で、目を柴又しばまたき、小岩したえど、真間ままならぬ。
旅の博徒番場の忠太郎(三十歳を越ゆ)人目を忍び、立木隠れに素早く進み、垣の外に立って様子を見ている。
おぬい (鶏を小舎に入れ終り、母屋に入ろうとする)
忠太郎 あ、もし。
おぬい (ちらと見てまたかと驚愕する)
忠太郎 だしぬけなのでびッくりさせたか。勘弁してくれ。お前はおぬいさんだね。
おぬい えッ。
忠太郎 (垣の内へ入り、かまどたてに往来から見えぬように位置し)ゆうべここの門口まで一緒に来た忠太郎という男の事を、にいさんは話さなかったか。
おぬい いいえ半次兄さんなら、家へは来て居りません。余ッ程前に勘当かんどうされて。
忠太郎 おッと。その事なら知っている、どうでヤクザになる奴は、親があれば大抵勘当だ。おぬいさん、兄さんにちょいと逢わせてくれねえか、ほんの二言三言で用は済むのだ。
おぬい いえ、半次郎兄さんは来ていません。
忠太郎 そんな筈があるものか。現在ゆうべ俺がすすめて、ここまで一緒に来たのだもの。
おぬい (当惑して)居りません居りません。本当に兄さんは居ないんです。
忠太郎 疑うのは一応もっともだが、ほかの者じゃなし俺が来たのに――といってもお前さんには初対面、疑うのも兄貴を思う心からだ。半次の奴め、情合のある妹を持って、うらやましい奴だな。
おむら (母屋から出る)不孝者の半次郎にご用のあなたは、どちらの方でございます。
忠太郎 お袋さんでござんすか。手前は忠太郎と申しまして、こちら様の半次さんとは、深い訳のある者でござんす。
おむら お前さんも半次郎を、探しておいでなさいましたか、半次郎は勘当して、人別にんべつからもねのけた不孝な奴、私共へは一向に寄り付きません。ご用でしたら他を探してくださいまし。
忠太郎 押し問答をしていては、キリがねえので困るなあ。じゃこうして貰いましょう。
おむら 伝言ことづけをしろと仰有おっしゃるのですか。居ない者に伝言のしようがありません。
忠太郎 そうか。お袋さんや妹さんが、必死になって居ねえと云い張る、その様子を見ていると、親身の情があふれて出ている――二人の親に死別れやら生き別れして顔も知らねえ俺にとっては――意気地もなく人様の親兄弟が羨ましい。
おむら それ程のことを云う人が、何で半次郎を呼び出しになど来るのです。あたしはお前さんに怨みが云いたい位だ。半次郎の奴の性根しょうねが悪いからには違いないが、傍にまッとうな人でもいたら、ああもならずに居たろうかと、愚痴だとは思いながら、友達衆がうらめしい。
おぬい 噂に聞けば半次郎兄さんは、下総の飯岡で、たいした親分とかを斬りに行き、多勢の人に傷をつけ、逃げ歩いていると云うけれども、それもこれも、お友達が悪いから。(嫌悪の眼で忠太郎を見る)
おむら 友達衆のだれ一人だって、親のない者はないだろう。お前さん方は親の事を、夢にも見ないでいるのですか。
忠太郎 俺と来て遊べ親のねえ雀か。(溜息をつく)
おぬい え?
忠太郎 こいつあ、あッしづれに出来る発句じゃござんせん。信州の何とか云う人が作ったと、聞いた時から、俺の事だ俺の身の上をんだのだと、馬鹿相応そうおうの一つおぼえで、ツイ口に出たのでござんす。親はあっても顔さえ知らず、居どころだって知らねえあッしに、本当の親の味はわからねえんでござんすが、またそれだけに、ああもあろうか、こうもあろうかと、夢か妄想に描くような、あッしにはあッし相応の考え方がござんすのさ。お邪魔をしましたお袋さん、妹さん、番場の忠太郎は只今限り、半次郎さんと縁切りでござんす。ご免なさんせ。
おむら え、聞き分けてくださいましたか。
忠太郎 親のねえ子は人一倍、赤の他人たにんの親子を見ると、羨ましいやらねたましいやら。おさらばでござんす。
半次郎 (障子を開き駈け出る)哥児あにい――哥児。
忠太郎 半次か――堅気になれ。よ。よ。(去る)
半次郎 哥児――とうとう、行っちゃったか。
おぬい 兄さん、もうきょうから本当に堅気になってくれるんだろうねえ。
半次郎 (忠太郎を思い)す、すまねえ。
おむら (垣にって忠太郎を見送る)半次郎や、今の人は親なし子かい。
半次郎 え? 忠太郎哥児のことか。あの人は五つの時に母親と、生き別れをしたんだそうだ。
おぬい おとッさんもないらしいね。
半次郎 十二の時に死んだそうだ。
おぬい じゃあ一人きり、兄弟は。
半次郎 それもえといっていた。
おむら そうかねえ――可哀そうに、淋しい気がするだろうねえ。
半次郎 ひがみかは知らねえが、親のある人を見ると、腹が立ったり悲しくなると、いつぞや染々しみじみいっていたっけ――今度おいらが家へ帰ったのも、忠太郎哥児に勧められたからだ。ここの門口までゆうべ一緒に来てくれた。
おぬい そんな事を、あの人も云っていたよ。
おむら でも、おッかさんは何処かに居るのだろう。
半次郎 江戸にいるという噂だけで、居所が知れねえのだ、それに肝腎かんじんの名前だって、哥児はうろ憶えなんだ。尋ね探しても、判るかどうだか。
おむら それでは自棄やけも手伝って、荒っぽい渡世人とせいにんにも成る筈だねえ。
おぬい 兄さん、家へおはいりな。もし先刻さっきの奴でも来るといけないよ。
おむら こんなことがあるとは知らずに、さっき清兵衛さんに聞いてみたら、あすの夜明けに出る船で、川を上って途中から水戸街道へ入るがいい、万事ばんじ心得たと云ってくれたが、半次郎、今夜の中に清兵衛さんの船へ、行っていたらどうだねえ。
おぬい そうすれば先刻の奴が、いくらやって来ても安心だから、兄さんそうしておくれ。ね。
半次郎 (おむらに)そうします。(おぬいに)心配させて済まねえなあ。
おぬい 那珂なかみなとの叔父さんの処で、兄さん本当に堅くなっておくれよ。
半次郎 うむ。二度とヤクザの路は振り返らねえ気だ。
おむら さあ早く家へおはいり、支度もあるし立ち祝いに、心ばかりのこともしたいから。
半次郎 おッかさん、苦労をかけて済みません。
おむら、半次、おぬい、家へ入る。障子の内に行燈の灯がつく。

喜八、七五郎、そッと来たり、垣根の内に入る。その後から忠太郎が見え隠れにいて来ている。
喜八  七、何があっても声を出すな。
七五郎 うむ、判ってるよ。
喜八  (障子の外から、中の話し声を聞き取ろうとする)
七五郎 (時々、往来の方を振り向く、忠太郎はその都度つど隠れて姿を見せぬ)
喜八  (七五郎の傍へ来て)確かに野郎いるぜ。
七五郎 そうか。踏ン込もう。(支度にかかる)
喜八  婆あや娘に血迷って傷をつけたといわれるのは厭だ、野郎をここへ呼び出してやッちまおう。(支度にかかる)
七五郎 娘だって婆あだって次手ついでにやる分には仕方がねえじゃねえか。
喜八  いよいよとなればその場次第、だれを斬っても構やしねえが、成るたけ評判のいいようにしとかねえと、それだけ俺達の売出しが遅れるからなあ。
七五郎 相変らずお前は軍師ぐんしかぶれが強いなあ。
喜八  当り前よ。何をするにも、軍略兵法という奴は大切だ。でなくて、親分の株にありつけるものかい。
七五郎 さあ、荷物はここへまとめといた。
喜八  そこなら、野郎を叩ッ斬っといてすッと持って行くのに丁度いい。七、そろそろ始めようか。
七五郎 心得た。(障子の外から)金町の半次、さあ出てこい。飯岡身内が尋ねて来た。
忠太郎 (竈の脇に来てひそむ)
障子の内で、駆け出そうとする半次郎を、おむら母子が止める物音がする。
喜八、七五郎は左右に別れ、足場をはかって待ち受ける。
半次郎 (障子を開く、おむら、おぬいがすがっている)お袋も、妹も、諦めて放してくれ。やい来やがったのはだれだ。
喜八  飯岡身内の突き膝の喜八だ。
七五郎 宮の七五郎の声を忘れたか。出てこい。
おむら お前さん方、堅気になる気になった倅に、喧嘩を売るのはよしてください。
おぬい 後生ごしょうです――後生です。
喜八  喧嘩? 冗談だろう。喧嘩じゃねえ、もう少し理窟のついてることだ。
七五郎 去年の二十三夜の晩に笹川の繁造が殺された、その仕返しだといやあがって飯岡の親分が、旭の町からの帰りがけに斬ってかかりやがったのは、半次、手前と旅にんの番場の忠太郎の野郎じゃねえか。
喜八  二人ともやにッこい腕前だから、親分は僅なかすり傷、友蔵、金四郎は死んだが、あとの三人はピンピンしてらあ。その敵討ちの役を買って出て来た俺達二人だ。半公、さあこっちへ出てこい。
七五郎 愚図愚図するとそこへ飛び込み、婆も娘も一緒くたに叩ッ斬るぞ。
半次郎 (母子に)聞く通りあいつ等が、とても刀を鞘へ納めッこねえ。命をとるかとられるか、そうする外に途がねえんだ。やい。手前達も男なら、お袋や妹には何もするなよ。
喜八  自裂じれッたくならねえ内は大丈夫請合っとくから、今の内に討たれに出て来い。
半次郎 行くとも、俺も男だ。(母子を振り払って前へ進む)
おむら (おぬいと共に、泣きつつ、相倚り相抱いて、母屋の軒下にありて、身を悶える)
忠太郎 喜八、七五郎、此方を向けッ。
七五郎 何だと。(振り向く)やッ忠太だな。
半次郎 おお哥児あにいか。
おむら (おぬいと共に驚きながら一縷いちるの望みを得て喜ぶ)
喜八  こいつは一石二鳥という手で、飛んだ拾い物になりそうだ。手前達も二人俺達も二人、一騎打ちだ、威勢よくやろう。
忠太郎 一騎打ちなんぞさせるものか。二人一緒にかかって来い。
七五郎 生意気な野郎だ。手前から先へむらしてくれらあ。(忠太郎に斬ってかかる)
喜八  野郎ッ。(半次に斬りかかる)
おむら母子は半次を気遣う。半次は喜八に腕が劣っている。
忠太郎 そら来たッ。(七五郎を斬りたおし)半次、その野郎を俺に貸せ。
喜八  (形勢不利と見て退き、身を以て垣を破り往来へ出る)やい。手前達にはまた更めて逢うぞ。憶えてやがれ。
半次郎 (疲れている、左右から母子が取りつく)
忠太郎 もう逢う用はねえやい。それ来たッ。(七五郎の落した長脇差を投げる)
喜八  (垣の外で身をかがむ)わッ。(のび上る、刀が突き刺されている。倒れる)
半次郎 哥児。ど、どうしてここへ又来たんだ。
忠太郎 あの二人のボケ茄子が人が居ねえと思やがって、大きな声の話ッぷりから事の次第が直ぐ判った。
半次郎 え。じゃあお前はまだ、江戸へ踏み出してはいなかったのか。
忠太郎 先刻の様子が変なので、もしやと思って気にもかかるし、夜に入っては旅も面倒と、そこにある森の中の、やしろを今夜はねぐらときめ、夜が明けるのを待つ気でいると、こいつ等が来て相談よ。それで俺あ、やって来たんだ。
おむら 先程は済みません、ツイ気が立っていて言葉も荒く、悪いことばかりいいましたが。
忠太郎 そう云われると返事に困らあ。半次、こうなったらここに居たら身がつまる。逃げる先がお前あるのか。先刻までの俺だったら、一緒にまた高飛びの、股旅またたびかけた草鞋わらじ穿けと、いうところだが左様そうはいわねえ、お袋さん、何とか法がござんすか。
おむら はい。常陸の叔父のところへ、今夜の中にも旅立たせます。
忠太郎 その手筈はついているのでござんすか。
おむら はい。
忠太郎 そう聞けば安心でござんす。半次気をつけて行け、な。
半次郎 哥児あにい。俺は叔父の処へ行くからいいが。お前は。
忠太郎 俺か――どこへ行くものか、江戸へさ。
半次郎 江戸といってお前、おッかさんの居どころが判ったのか。
忠太郎 確かじゃねえが、噂で聞いた。半次、心配してくれるな。初めて逢う母親が、いると思えば江戸へ行く俺の心は勇んでるぜ。なあに、途中で飯岡方に出くわしても、親に逢うまでは命は大事だ、たとえ卑怯ひきょうな真似をしても、邪魔する奴は叩ッ斬るよ。
おぬい 聞けば聞く程、お気の毒な。
おむら こんなにまで母親を、したっているのをおッかさんが聞いたら、さぞかしお喜びだろう。
忠太郎 お袋さん有難うござんす。そんなにいわれると、親なしッ子の忠太郎は、意気地もなく涙ッぽくなるのが癖でござんす。わらわねえでおくんなさい。
おむら 失礼ですが忠太郎さん。あなた路用のお金は。
忠太郎 金なら懐中ここにござんす。いざとなれば肌につけた、金百両に手を付けます。
半次郎 え。哥児、そんな大金を持っていたのか。知らなかった。
忠太郎 初めて逢う母親がゆたかに暮していればいいが、さもねえ時はと賭博場ばくちばで目と出た時に貯めた金よ。俺あ行くぜ。半次、堅気になった姿を、いつか一度きっと見に行くぜ。だが、こいつ等をこの儘じゃあ、後の難儀なんぎが思いやられる。
おむら いえ、何とでもなりますから、忠太郎さんは今の内に。
忠太郎 そうだ。この野郎、恰度いい物を持ってやがる。(七五郎の矢立を取り、懐中紙ふところがみを披き)半次、お前は俺同様、無筆だったろう。お袋さん、字を知ってるなら俺の手を取り、いう通りの文句を書かしてはくれませんか。
おむら おお訳もないこと。何と書いたらいいのです。(忠太郎の筆持つ手を取る)
忠太郎 一ツ。この人間ども、叩ッ斬ったる者は江州阪田のこおり番場ばんばの生れ忠太郎。(繰返していいつつ、書かせて貰い、次第にほろりとなり、落涙する)
おぬい 忠太郎さん。どうしなされた。
半次郎 哥児に似合わねえ涙をこぼして。ど、どうしたんだ。
おぬい (忠太郎を見入っている)
忠太郎 お袋さん笑ってやっておくんなさんせ。五つの時に母親と生き別れをした忠太郎は、こうしていると母親に、甘えてでもいる気がするのでござんす。想い出して恋しさに、時々、忠太郎は、この――この面に青髭あおひげのある年になっても、餓鬼のように顔も知らねえ女親が恋しい――恋しいのでござんす。
おぬい (こらえかねてむせび泣く)
忠太郎 (紙片を持って、七五郎の懐中から匕首あいくちを抜き取り、それで立木に刺し止めにと起つ)
半次郎 (母と妹と別離の顔を見合せる)

第二場 夏の夜の街(引返)


前の場と同じ嘉永元年。

江戸の、とある町にあるやしろに近き夏の夜。
すべて黒い、ただ一つ灯のはいった常夜燈じょうやとうがある。地面に座って三味線を弾き銭を行人に乞うている老婆がある。カンテラが傍に置かれてある。
酔った職人風の男が蹲踞うずくまり、老婆に弾かせて唄っている。

番場の忠太郎。江戸に出て草鞋を脱ぎ、着流しで、少し離れて見ている。
老婆  (三味線を弾く)
酔漢  (中音で唄っている。調子づいて声が大きくなる、唄は段物だんものの一部分)馬鹿だね、エヘヘヘヘヘ。さ、今度はと、はやり唄だ。大津絵だよお婆さん。え、さあ弾いたり弾いたり。(首を振り夢中になり唄う)これは世間の女房の名寄なよせ。おきさき様には政所まんどころ、北の方には御台みだい様、奥方ご新造ご内室、おかみさんにはお内方うちかた嬶左衛門内かかあざえもんうちの奴(坐り込む)馬鹿だね、あははははは。さ今度は都々逸どどいつ都々逸。お婆さん頼むぜ、いいかいエヘン。船じゃ寒かろ着て行かしゃんせ、わしが着ているこの褞袍どてら。エヘヘヘヘヘ。ああいい気持ちにやッとなった。どッこいしょと。(帰りかける)
老婆  (銭を貰わんと、出した手を、悲しげに引き込める)
忠太郎 (職人の胸倉をとり睨み「銭をやらねえのか」と顔でなじる)
酔漢  (怖れを抱き、やむを得ず銭を老婆に与え忠太郎を振り返って、孤鼠孤鼠こそこそと逃げ去る)
老婆  (忠太郎に感謝の頭をたどたどしく下げる)
忠太郎 お婆さん、そんなにしねえでもいいんだよ。幾つだね。年を聞いているんだよ。
老婆  はい。六十になりました。
忠太郎 子供衆はねえのかい。
老婆  ございましたが訳があって、余所よそへやったまま、今では生き死もわかりません。亭主には死別れ、お恥しいこんな姿で、やッとその日をカツカツ送っております。
忠太郎 (もしや探しあぐねている母かと思い)余所へやったその子は、何という名前だね。
老婆  (我が子のたよりかと喜び)あ、あなたは幸太郎のことをご存じのお方か。
忠太郎 幸太郎といいなさるのか。それじゃ矢ッ張り違っていた。
老婆  (涙声で)左様でございましたか。
忠太郎 (もしやと思い試みに)お婆さんは若い時に、江州の方へ行ってやしなかったか。
老婆  (失望を深くさとって)いいえ。わたくしは江戸ばかり、川崎から先は一向に。
忠太郎 そうか――お婆さん、気を落さずにいるがいいぜ。今に屹と、息子が名乗ってくるだろう。また見かけたらあげるが、今夜はこれだけ(金をやる)あげますよ。
老婆  有難う存じます。おや、これは一しゅでございます、こんなに頂いていいのでしょうか。
忠太郎 いいんだとも取っておきねえ。(歩いて少し、思わず立ちどまる)
老婆  (頭を幾度か下げ、三味線を弾く)
忠太郎 (あてもなく、母探しにまた歩き出す)

第三場 冬の夜の街


江戸の、とある街。
真黒い冬の夜。辻番所つじばんしょが半分だけ見える。
中くらいの商人の母が、杖をつき提灯をさげて通る。その息子が後から急いで追いつく。
商人  おッかさんおッかさん、おッかさんてば。
母親  おうおう直ちゃんか。もう帰ってきたのかい、寒かったろう。
商人  思いの外早かったでしょう。どうでしたおッかさん。今夜の手品は面白かったろう。
母親  ああ面白かったよ。あすの晩はあたしが留守番をするから、お前達夫婦で行っておいでよ。
商人  そんなに面白かったんですか、よかったねおッかさん。おぶって行ってあげましょうか。
母親  有難いけれど、若い者がみっともない、わたしはボツボツ歩くからいいよ。
商人  構やしませんよ夜ですもの。夜でなくたって子が親をおぶって行くのに、笑う人があるもんですか。おッかさん老いては子に従えですよ。倅のいう事を聞かないと叱られますとさ。

番場の忠太郎、頬冠りをして通りかかり、佇んで見ている。
母親  ホホホホ。息子に叱られては怖いから、それではおぶって貰おうかしら。
商人  それがようござんす。さあおッかさん。どッこい。おッかさんなんか軽いのだもの、何でもありゃしませんよ。おッかさん寒かったらわたしの肩の処へ顔を押ッ付けるとようござんすよ。
忠太郎 (母子を見送り、羨望に耐えず)仕合せな、お袋さん、息子さんだ。(口の中で)羨ましいなあ。


〔大詰〕




第一場 柳橋水熊横丁


嘉永二年の秋やや深き頃――前の幕の翌年。柳橋の料理茶屋水熊の横手。

黒板塀(板割、丈が並より高い)右手寄りに水熊の台所の出入口、左手寄りに白壁の土蔵、柳の木がどこかに植わっていて前の場との相違を明快にする。

おとら(五十余歳)夜鷹よたかが出来なくなって困窮している水熊の女主人の元の知人。破れた番傘を担ぎ、うしろ向きに水熊の台所口に立ち、裾の方だけ見える。
お詣りに行く芸者三吉、およつ、相合傘あいあいがさで通る。
三吉  (口三味線で何かおよつに移している)
およつ (首を振って節を繰り返している)
三吉  (気がついて傘の外に手を出し)あら、やんでるわ。(傘をつぼめる)
およつ ああら、お天道様が顔を見せてるじゃないの。(続けて唄を繰り返す)
三吉  (傘を指で弾き拍子をとり、口三味線をつづけ、およつと共に去る)
魚屋熊、同じく北、めいめい天秤で荷を担ぎ、三吉、およつと摺れ違う。
魚北  (後から振り返って、拳固で鼻を鳴らす)ちえッ、業平なりひら様のお通りに気が付きゃがらねえ。
魚熊  (先に立っている。魚北を振り返り)そんな面の業平は当節はやらねえ。(と云いかけて素盲すめくらの金五郎を見かけ、厭な顔で頭を下げる)
魚北  (金五郎に心づき、厭な顔になり頭だけ下げて、熊と共に急ぎ去る)

無頼漢、素盲の金五郎。少し酔っている。水熊の板前善三郎が、迷惑そうにいている。
金五郎 (八ツ当りをして)ボテ振り待て。
善三郎 よしてくんな。罪もねえ者の商売を妨げしちゃいけねえよ。
金五郎 癪に障る奴等だ。善公。
善三郎 え。(厭な顔を隠す)
金五郎 本当におかみさん、居ねえのか。
善三郎 居ねえよ、俺が嘘をつくものかな。だが金五郎さん。今のような話はやめてくれねえと俺が困る。
金五郎 心配するな、俺が水熊の婿になったら、お前にや給金の外にたンまりをやるから。
善三郎 それがいけねえんだ。第一、いくら何でも、そんな話がおかみさんに出来るものかな。
金五郎 後家ごけを立ててる女のところへ、俺が婿にはいろうというのに不思議はねえ。
善三郎 考えても見ねえな、金五郎さんはまだ三十を幾つも出やしねえ、家のおかみさんは年よりも十も十五も若く見えたところで五十を越しているんだ。
金五郎 年なんざどうでもいい。俺あここの家が――色恋に年があるもんか。
善三郎 この話はまたとして、今日はこれで左様ならだ。(早く別れたがる)
金五郎 うむまた後でくらあ。
おとら (番傘がその以前から動いている、突き飛ばされて傘を手放し、倒れ伏す)

水熊の洗い方藤八、腹を立てて内から出る。
藤八  やいやい、しつッこ過ぎるから突き出したんだ、さっさとせろ。
善三郎 (藤八に「どうしたんだ」と聞く)
藤八  (善三郎に「おかみさんに会うといって利かねえから留守だと云って追っ払う処です」と告げる)
おとら (這い起き)何をしやがるんだ。何だ失せろだと、失せてやるから失せるようにしろ。
藤八  まだそんなことをかしやがるか、おかみさんは留守だというのが判らねえか、よしんば居た処で、乞食婆に会う用はねえ、帰れ。
善三郎 藤の字。そんな者に構わず、内へ入っちまえよ。(内へ入る)
金五郎 おい藤公。おかみさんは。
藤八  (厭な顔を隠して)お留守です。
金五郎 そうか。じゃ本当に留守なんだ。(八ツ当りになって帰りかける)
おとら そっちに無くても此方に用があるんだ。
金五郎 何をいやがる。おかみさんは留守だい。(おとらを衝き倒して去る)
藤八  それ見ろ、帰らねえから、痛い目をみるんだ。

番場の忠太郎、新しい番傘を手に新しい下駄を穿き、通りかかって土蔵の前にたたずみ見ていて、金五郎の行為に義憤を感じ後姿を睨む。
おとら つ気か。この年寄りを往来中へ突ッ転ばした上に倅みたいな年頃のくせをして、まだ殴つ気なのか。
藤八  よしッ、殴ってやらあ。
出前持ち孫助、出入口からのぞき身をして見ている。
忠太郎 (おとらをかばう)
藤八  おや。手前はその婆の倅か。
孫助  (天秤棒を持ち出す)
忠太郎 何で年寄りをいじめるんでござんす。厭な真似はしねえもんだ。お婆さんどこも痛めはしねえかね。
おとら 体の節々ふしぶしが痛くなって困ってしまう。
孫助  藤さん、あの婆は東両国で、いつも売れ残りの夜鷹の婆だよ。
藤八  ほう。あの年で夜鷹か。へええ。
忠太郎 (夜鷹と聞いて厭になる)
おとら ああ夜鷹だ。それを知っているところをみると、お前はあたしの客だったと見えるね。
孫助  冗談いうな。俺はいつでもお福かお竹にきまって。(気まり悪気わるげに内へ引っこむ)
忠太郎 (思い直して、おとらに)おめえ、年はいくつだね。
おとら 年? 兄さんや年を聞いてどうするんだね。
忠太郎 五十一か、それとも二、三か。
おとら そんなところかも知れないさ。年の次は名を聞くか。大抵おきまりだ。
忠太郎 (藤八を険しく見る)
藤八  (気味悪く思い、内へ引込む)
忠太郎 手を出しな。(おとらに銭をやる)
おとら 兄さん、おまえさん――。
忠太郎 (厭味な言葉を聞くまいと押えて)おッと、俺の尋ねに返事をしてくれ、少しばかりだが口のきき賃だ。
おとら ああ左様そうか。そんなら何でも聞くがいい、損が行かなきゃ大抵話すよ。
忠太郎 お前、大きな子がありゃしねえか。
おとら 子かい。(黯然あんぜんとして、俯向く)
忠太郎 (もしやと思わず焦慮あせり)あるのか――お前に。(暗い気になる)
おとら (シクシク泣く)
忠太郎 思い出させて泣かせてしまった。――婆さん、(もしこの人が母だったらと思う苦しみを抱き)その子はどうしているね。
おとら 生きていると三十一だ。死んでしまった。
忠太郎 (ほっと息をつき)そうか。飛んだ事を聞いて悪かったな。堪忍しとくれあやまるぜ。(行きかける)
おとら 兄さんちょっと待っておくれ。お前さんは嬉しい人だ。夜鷹婆だ何だ彼だと、立番の野郎までがわらうあたしに、よく今みたいな事を聞いておくれだった。何年振りかで人間扱いをして貰った気がするんだ。(頭を下げて)どうも兄さん、有難う、忘れないよ。
忠太郎 そんな話を聞くのは、俺には毒だ。(行きかける)
おとら 何だか訳がありそうだ。だれを探しているのだね。もしあたしが知っていたら、教えてあげたい気がするんだけれど。
忠太郎 老いすがれた女の人を見れば、だれでも探している俺の――かと思うばかりで去年から、もう直き丸一年になろうというのに、縁がねえのかまだ会えねえ。
おとら そりゃだれに。
忠太郎 お前ぐらいの年の人さあ。
おとら お袋さんだね。
忠太郎 そうかも知れねえ。(行きかける)
おとら ここのうちのかみさんも、あたしが知っている頃は、残して来た子供のことを三日にあげず泣いて話したが。
忠太郎 ええ。(引返しておとらに近づく)
おとら けれ共それは、十年十五年じゃない、もっと昔の話なんだ。
忠太郎 ここは確か料理茶屋で、水熊とかいう家だろう。して、ここのかみさんが子供を置いて来たというのは何処だ。知っているなら聞きてえなあ。
おとら 古いことでうろおぼえだけれども、確か江州だったと思うのさ、兄さんは江戸ッ子らしいから江州では人違いだねえ。
忠太郎 俺あ十三から江戸で育ったが、生れは草深い処なんだ。ここの家のおかみさんは、そんなに子供を思っていたのか。
おとら 今もいった通り、そりゃ大昔の話だから、昨今はどうだか判りゃしない。あたしの推量では、もう子供のことなんか忘れてしまい、思い出しもしないだろうねえ。
忠太郎 (確信を持って)女親というものは、そういうものじゃねえ。
おとら 昔は随分仲好しで、世話になったり世話したり、姉妹きょうだい同然にしていたんだが、この何年というものは、途中で会えば顔をそむけ、よんど困って尋ねてくれば、今のように叩き出させる。人間という奴は月日が経っては駄目なものさ。
忠太郎 それはそうだか知らねえが、母子はまた別なもの、たとい何十年経ったとて生みの親だあ、子じゃあねえか、体中に一杯ある血は、双方ともにおんなじなんだ。そんなことがあるものか。
おとら それじゃ一ツ、行ってみるがいいかも知れない。
忠太郎 え? まさか。ただ江州と聞いただけでは、いくら何でも、行けるものかな。
おとら それも左様そうだ。あたしも倅が恋しくなった。久しい間無沙汰をしてる、今から行って参ってこよう。
忠太郎 お墓参りか。待ちな。お線香とおはなをこれで(金を握らせる)遠慮なく取ってくれろ。
おとら こ、こりゃあ小判だ。
忠太郎 一両出したとて怪しむな、俺あぬすじゃねえ、見る通りのヤクザなんだ。汗をかいて稼いだ金じゃなし、多寡が出たとこ勝負、賭博場ばくちばの賽の目次第で転げ込んだ泡沫銭あぶくぜにだ。成ろう事ならお婆さん、糊売りでもして暮してくれろ。死んだ息子が安心するぜ。
おとら はい。
忠太郎 あばよ。(行きかける)
おとら はい。(振り返って頭を下げて去る)
忠太郎 (おとらを見送り、水熊を振り向く。会ってみようか、いや止めておけ、まだ不確かだと思い、知らず知らず歩く)
藤八  (孫助と出入口を開けて、のぞく。共に忠太郎に好意を持っていない)
忠太郎 (もしや、母の家かと思い、振り返り、偶然二人を見る)
藤八等 (舌打ちなどして引込む)
忠太郎 (それをケントクなりとして、尋ねてみる気で引返す)
三吉  (およつと話しながら、参詣から帰ってくる)
忠太郎 (芸者二人に振り返ってみられ、出鼻をくじかれ、立去りかける)

第二場 おはまの居間


水熊女主人の部屋。
右手は中庭、左手は廊下、部屋は明るく派手である。
女将おはま(五十二歳なれど若く見える)長火鉢に倚って煙草をのんでいる。
おはまの娘お登世(十八、九歳)化粧がすみ、着物を着換えている。中年増の女中おふみが小間使おせう(十四、五歳)をつかって、いろいろ世話をやいている。
おふみ (惚れぼれと見あげ)ああいい。なんてよくウツるんだろう。ねえおかみさん、左様そうじゃありませんか。
おはま (嬉しそうに)うふふふふ。
おせう (片付け物を忘れ見惚みとれている)
おふみ 本当に、あたしが男だったら打抛うっちゃっときやしませんよ。
お登世 やあだ。おふみじゃあたいが可哀そうでしょう。ねえおッかさん。
おはま まあね。うふふふふふ。
おせう あたしじゃいけません。
お登世 お前になら八百屋の小僧が恰度だねえおふみ。
おふみ ええ。それだって職過しょくすぎます。
おせう (鏡に顔を写して見る気になり、急にはッとして廊下の方を向く)あら喧嘩だわ。
おふみ 何をいってるのさ。喧嘩をどこでしてるのさ。おどかしちゃ厭だよ。
おはま こりゃおせうの耳の方が確かだった。どこかで喧嘩してるね。
お登世 どこで。
おふみ あ、本当でしたねえ。おや家じゃありませんか。
おせう 見て来ましょうか。
おはま 打抛うっちゃっておおき。大所帯を張ってると内輪同士の争いは珍しかない、一々気にとめていられるものかね。それよりかお登世。早く顔を出しといで。水熊のご馳走は一にお登世、二に料理と人様が仰有おっしゃるくらいだ。早く顔を出しといで。
おふみ まだありますよ、おかみさん。
おせう あたし知ってる。家のおかみさんが年よか十も十五も若いことでしょう。
おはま うふふふふふ。
お登世 きょうは淡州様たんしゅうさまのお留守居さんだったね。じゃおッかさん。
おはま あいよ。おふみ、気をつけてやっておくれ。
お登世、おふみは廊下の奥へ入る。おせうは残って片付け物をしている。
口論の声が聞える。
おはま 五月蠅うるさいね、呶鳴どなってるのは藤公だね。
おせう 板前さんの声もしてますね。
口論の声に皿のれる音が混る。
おはま (疳を起して)おせう。行って左様そうおいい、いい加減にしろッて。喧嘩をしてる奴はみんなここへ雁首がんくびを揃えて来いって。
おせう はあい。(急いで行く)
善三郎 (板前の仕事着で、廊下へ出て来る、おせうに眼もくれず、部屋の敷居外で)ご免ください。
おはま 板前さん。またやってるね。五月蠅いねえ。
善三郎 飛んでもねえ奴だもんですから、それでああ哦鳴がなり立てたので、もう片付きかけてますから、でねおかみさんがもしひよッと、何だろうとお思いなすって、お顔をお出しになると面倒だから、それをお断りに出ましたんで。(立ちかかる)
おはま 何だって、あたしに顔を出すなっての、頼まれたって顔は出さないよ、そのためにお前さんが控えてるのじゃないか。また煮方にかたと洗い方とがトンガリッこなしてるんだろう。
善三郎 きょうのは家の者同士じゃございません。相手は他所よその奴で。
おはま 何だというのさ。
善三郎 銭貰いですよ。おかみさんに会って聞きてえことがあると、厭な台詞せりふをいうじゃありませんか。疳にさわったから剣呑けんのみを食らわした処から、ツイあんなに大きな声をいたしましたんで。
おはま さッきは知りもしない婆さんが会わせてくれといって来たそうだし、今度のは男なんだね。
善三郎 あっしは見ませんでしたが、さッき来た婆と、口をきいていたっていうから、どうで東両国のこもりの外で、さあさあざっとご覧よご覧よとさえずってる、夜鷹の立番たちばんでしょう。今直ぐ追払っちまいますから。
おせうを先に煮方子之吉、洗い方藤八が出てくる。
善三郎 何だ何だ、お前達は。
子之吉 みんな来いと、おかみさんがおせうどんに云って寄こしたから、あの野郎には、時に弁州に、孫と権と、四人がかりで張番させて来ました。
おはま その男はそんなに強情なのかい。
藤八  図抜け大一番の強情野郎ですぜ。始めの内は猫撫で声で、下から出て来やがったが、板前さんが叱りつけたら、間もなく本性を出しやがって、てこでも動きませんや。
善三郎 あんな奴は癖にならあ、番所へ突き出しちゃえ。
おはま 静かにしておくれ。おせう。その人ってのをここへ連れといで。
善三郎 おかみさん、そりゃ止めたが。
おはま そんな男のさばきが付けられないでどうなるものか。引ッ張っといで、とっちめて帰らせてやるから。
おせう (呼びに行く)
おはま みんな安心して引取っておくれ。水熊の屋台骨やたいぼねを背負ってるあたしだ、男なんかに負けるものかね。
善三郎 そりゃ確かにそうですが、心配だなあ。
おはま 大丈夫だよ。見ておいで、その男は尻尾しっぽを巻いて帰って行くから。
善三郎 (子之吉等に行こうという)
善三郎を最後に子之吉、藤八等、料理場の方へ行きかける。
番場の忠太郎がおせうに案内されて出てくる。善三郎等の険しい眼を意に介せず、敷居の外に手を突く。
善三郎等去る。
おはま 中へ入って用があるんなら云っておくれ、聞くだけは聞こう、だが、永ったらしいことはあたしあ嫌いだ、ことわっておくよ。
忠太郎 ごめん蒙りますでござんす。(敷居を越えて下手に坐る)
おせう (廊下に出て立ち聞く)
おはま さあ、何とか云わないのか。用があって来たんだろう。
忠太郎 へえ、申しますでござんす。(何といって切り出したらいいかに迷う)
おはま 何だよ。
忠太郎 おかみさん――当って砕ける気持ちで、失礼な事をお尋ね申しとうござんす。おかみさんはもしや、あッしぐらいの年頃の男の子を持った憶えはござんせんか。無躾ぶしつけとは重々存じながら、それが承わりてえのでござんす。
おはま (びくりとする、答えない)
忠太郎 あッおかみさんは憶えがあるんだ(思わず膝を進め)顔に出たそのおどろきが――ところは江州阪田の郡、醒が井から南へ一里、磨針峠すりはりとうげの山の宿場で番場ばんばという処がござんす。そこのあッしは。(おはまの答えを待つ)
おはま (憶えはあれど、忠太郎の風采に危惧を感じ、打算が鋭くはたらく)番場宿なら知ってますとも、それがどうしたというのだね。
忠太郎 え? (意外な返事を怪しむ)おきなが屋忠兵衛という、六代つづいた旅籠はたご屋をご存じでござんすか。
おはま ああ知っている段か、あたしが若い時にかたづいたことがある。
忠太郎 (自制しきれずに)おッかさん。
おはま 何だいこの人は、変な真似をおしでない。
忠太郎 (感情をくじかれて)ご免なさい、無躾ぶしつけでござんした。
おはま お前さんは一体だれだね。
忠太郎 忠太郎でござんす。
おはま (じッと見て)何をいうんだ。忠太郎だって?――あたしには生き別れをした忠太郎という子はあったが、今ではもう亡くなった。
忠太郎 えッえ。無えのでござんすか――五つの時に縁が切れて二十余年。もうちッとで満三十年だ。その間音信不通で互いに生き死にさえ知らずにいた仲だから、そんな子はねえという気になっているのでござんすか、縁は切れても血はつながる。切って切れねえ母子の間は、眼に見えねえが結びついて、互いの一生を離れやしねえ、あッしは江州番場宿のおきなが屋の倅、忠太郎でござんすおッかさん。
おはま お待ちお待ち。お前さん、大層よく番場のことを知っているが、いくらあたしにそんな話をしたって駄目だよ。
忠太郎 えッ。
おはま 成程あたしは美濃の加納の叔父の世話で、番場のおきなが屋へ嫁に行き、忠太郎という子を生んだよ。
忠太郎 その忠太郎があッしなん――。
おはま よくお聞きというんだ。その子が五ツになった時、あたしゃおきなが屋を出てしまったんだ。(涙ぐむ)
忠太郎 おやじはあッしが十二の時、わずらって死にましたから、じかに聞いた訳ではねえが、おッかさんが家を出なさる時、おやじの身持ちがよくなかった、罪はおやじにあったのだと、大きくなってから聞いております。
おはま 可愛い子があるのだもの、去り状をとりたくないのが本心だったが、行きがかりが妙にコジれ、とうとうあたしは縁が切れた――その後つづいて永い間、江戸の空の下から江州は、あっちの方かと朝に晩に、見えもしない雲の下の番場の方を見て泣き暮したっけ。
忠太郎 五つといえばちッたあ物も判ろうに、生みの母のおもかげを、思い出そうと気ばかりはやるが、顔にとんと憶えがねえ。何て馬鹿な生れつきだと、自分を悔んで永え間、雲を掴むと同じように、手がかりなしで探している中に、おッかさんあッしも三十を越しましてござんす。
おはま お黙り。お前はあたしの生みの子とは違っているよ。何をいい加減なことをいってくるのだ。
忠太郎 えッ、ち、違ってる。あッしが忠太郎じゃねえのでござんすか。
おはま 名前は忠太郎かも知れないよ。生れた処も江州の番場宿か知らないが。
忠太郎 じゃ矢ッ張りあッしは。
おはま 傍へくるな図々しい奴だ。あたしの子の忠太郎は、九ツの時、はやりやまいで死んでしまったと聞いている。死んだ子の年を数える親心で、生きていたらあの子も今年三十二、いや一だったと、ゆうべも夜中に眼がさめて思い出していたくらいだ。お前がいくら何といっても、生みの母のあたしが見て、そうじゃないと思うのだもの。お帰り。さッさと帰った方がためなんだよ。
忠太郎 九ツの時に死にはぐったことは、正にあッしも憶えています。死んだというのは間違いで、忠太郎はこの通り、生きています。
おはま そんな手でい込みはしないがいい。
忠太郎 這い込み。そうか、あっしを銭貰いだと思うのでござんすか。
おはま それでなくて何だい。
おせう (そッと急ぎ、板前、帳場などへ知らせに行く)
忠太郎 違う違う違います。銭金ぜにかねづくで名乗って来たのじゃござんせん。シガねえ姿はしていても、忠太郎は不自由はしてねえのでござんす。(胴巻を出し百両を前に)顔も知らねえ母親に、縁があって邂逅めぐりあって、ゆたかに暮していればいいが、もしひょッと貧乏に苦しんででも居るのだったら、手土産代りと心がけて、何があっても手を付けず、この百両はなげえこと、抱いてぬくめて来たのでござんす。見れば立派な大世帯、使っている人の数もおびただしい料理茶屋の女主人におッかさんはなってるのかと、さっきからあッしは安心していたが、金が溜っているだけに、何かにつけて用心深く、現在の子を捉まえても疑ってみる気になりてえのか、おッかさんそりゃあうらみだ、あッしは怨みますよ。
おはま 怨むのは此方の方だ。娘をたよりに楽しみに、毎日毎日面白く、暮している処へひょッくりと、飛んでもない男が出て来て、死んだ筈の忠太郎が生きています私ですと。お前、家の中へ波風を立てに来たんだ。
忠太郎 そ、そりゃ非道ひどいやおッかさん。
おはま また、おッかさんなんて云うのか。
忠太郎 おッかさんに違えねえのでござんす。
おはま お前の心はわかっているよ。忠太郎と名乗って出て、お登世へ譲る水熊の身代しんだいに眼をつけて、半分貰う魂胆こんたんなんだ。
忠太郎 ええッ。
おはま 世間の表も裏も、さんざん見て来たあたしに、そのくらいの事が判らないでどうするものか。
忠太郎 (咽び泣く)
おはま (じッと忠太郎をみつめる)
忠太郎 (涙を拭うと決然と態度が一変する)おかみさん。もう一度更めて念を押しますでござんす。江州番場宿の忠太郎という者に憶えはねえんでござんすね。おかみさんの生みの子の忠太郎はあッしじゃねえと仰有るのでござんすね。
おはま そう――そうだよ。あたしにゃ男の子があったけれと、もう死んだと聞いているし、この心の中でも永い間死んだと思って来たのだから、今更、その子が生き返って来ても嬉しいとは思えないんだよ。
忠太郎 別れて永え永え年月を、に暮してくると、こんなにまで双方の心に開きが出来るものか。親の心子知らずとは、よく人がいう奴だが、俺にゃそのことわざ逆様さかさまで、これ程慕う子の心が、親の心には通じねえのだ。
おはま 忠太郎さん。
忠太郎 何でござんす。
おはま もしあたしが母親だといったら、お前さんどうおしだ。
忠太郎 それを聞いてどうするんでござんす。あっしには判っている。おかみさんは今穏かに暮しているのが楽しいのだ。その穏かさ楽しさに、水も油も差して貰いたくねえ――そうなんだ判ってらあ。小三十年も前のことあ、とうに忘れた夢なんだろう。(立去る気になり)親といい、子というものは、こんな風でいいものか。(百両を役に立たぬ物として扱い、懐中する)
廊下に帳場与兵衛、板前善三郎、洗い方藤八、得物を隠し持って忍び寄る。
おはま それ程よく得心とくしんしているのなら、って親子といわないで、早く帰っておくれでないか。
忠太郎 近い者ほど可愛くて、遠く放れりゃ疎くなるのが人情なのか。
おはま だれにしても女親は我が子を思わずにいるものかね。だがねえ、我が子にもよりけりだ――忠太郎さん、お前さんも親を尋ねるのなら、何故堅気になっていないのだえ。
忠太郎 おかみさん。そのお指図は辞退すらあ。親に放れた小僧ッ子がグレたを叱るは少し無理。堅気になるのは遅蒔おそまきでござんす。ヤクザ渡世の古沼へ足もすねまで突ッ込んで、洗ったってもう落ちッこねえ旅にん癖がついてしまって、何の今更堅気になれよう。よし、堅気で辛抱したとて、喜んでくれる人でもあることか裸一貫たった一人じゃござんせんか。ハハハハ。ままよ。身の置きどころは六十余州の、どこといって決まりのねえ空の下を飛んで歩く旅にんに逆戻り、股旅またたび草鞋わらじを直ぐにも穿こうか。(廊下の者が物に触れる、聞きつけて)だれだッ。(障子を開ける)
善三郎 (与兵衛、藤八等と共に尻込む)
忠太郎 手前達に聞かせる話じゃねえ。失せろ。行かねえか。(障子を閉める)
善三郎 (与兵衛と囁く。藤八を呼んで囁きつつ、三人共に去る)
忠太郎 長え間のお邪魔でござんした。それじゃおかみさんご機嫌よう、二度と忠太郎は参りやしません――愚痴ぐちをいうじゃねえけれど、夫婦は二世にせ、親子は一世いっせと、だれが云い出したか、身に沁みらあ。
おはま 忠太郎さんお待ち。
忠太郎 (耳にも入れず、廊下へ出て)おかみさんにゃ娘さんがあるらしいが、一と目逢いてえ――それも愚痴か。自分ばかりが勝手次第に、ああかこうかと夢をかいて、母や妹を恋しがっても、そっちとこっちは立つ瀬が別ッ個――考えてみりゃあ俺も馬鹿よ、幼い時に別れた生みの母は、こう瞼の上下ぴッたり合せ、思い出しゃあ絵でくように見えてたものをわざわざ骨を折って消してしまった。おかみさんご免なさんせ。(障子を閉る)
おはま あ。(呼びかけて思い直す)
お登世、廊下の奥から何も知らずにくる、後におふみが付いている。
雨の音が聞こえる。
忠太郎 (お登世をみつめる)よく似ているなあ。(懐しげに振り返りつつ去る)
お登世 だあれ、あの人。
おふみ (頭を振る)
お登世 おッかさんに似てやしない。
おふみ (思わず膝を打ち)そうでしたね。
おはま (未練が出て、廊下へ出ようとする)
お登世 あ、おッかさん。今の男の人だあれ。
おはま お前、見たのかい。(火鉢の方へ行く)
お登世 (座敷へ入る)ええ。ちょいと似てた。ねえおふみ。
おふみ (おはまに気兼きがねして)ええ。
おはま (涙ぐむ)
お登世 どうしたの厭なおッかさんね。(もしやあれが胤違たねちがいの兄かと思い当る)おッかさん、おッかさんてば。
おはま あい、あいよ。
お登世 あの人。いつかもおッかさんが話していた人じゃない。
おはま (涙を拭う)
お登世 江州の忠太郎兄さんじゃないの。でも、忠太郎さんは九ツで死んだっていうから、そんな筈がないんだけれど。
おはま (嗚咽おえつする)
お登世 あ、矢張り兄さん。忠太郎兄さんだったの。
おはま (泣き咽ぶ)
お登世 兄さんだ兄さんだ。おッかさん、兄さんなら何故帰したの、何故帰しちゃったの。
おはま か、堪忍おし。おッかさんは薄情だったんだよ。生れたときから一刻だって、放れたことのないお前ばかり可愛くて、三十年近くも別れていた忠太郎には、どうしてだか情がうつらない。
お登世 厭。厭。おんなじおッかさんの子じゃありませんか。
おはま だから堪忍おしとあやまってるんだよ。あたしは男勝りといわれ、自分でもそう思っていたが、これが何で男勝りか、我ながら情ない気になっていたんだ。
お登世 おふみ、急いで兄さんを呼んであげて、ね、ね。
おふみ (貰い泣きをしていたが)え。(直ぐに急いで去る)
おはま お前の心に対してもおッかさんは恥かしい。思いがけない死んだとばかり思っていた忠太郎が名乗って来たので、始めの内はかたりだと思って用心し、中頃は家の身代しんだいに眼をつけて来たと疑いが起り、終いには――終いにはお前の行く末に邪魔になると思い込んで、突ッぱねて帰してやったんだが――お登世や、あたしゃお前の親だけれど、忠太郎にも親なんだ、二人ともおんなじに可愛い筈なのに何故、何故お前ばかりが可愛いのだろう。
お登世 家の身代なんか、兄さんにあげたっていいじゃないの、あたしは赤ン坊の時から可愛がられて来たのに、兄さんは屹とそうじゃなかったんでしょう。
おはま (泣き入る)
おふみ (引返し来る)もう駄目なんでした。下足さんや出前さんに駆けて行って貰ったのですけれど。
おはま (決意する)そうかい、いいよ。今度は此方から忠太郎を探し出して、どんなことをしても、もう一度母子三人で会わなくちゃならない、おふみ、かしらのところへ、だれか大急ぎで呼びにやっておくれ。
おふみ はい。(急いで去る)
お登世 あたし、みんなを指図して、もう一度兄さんを探させて見ます。(急いで去る)
善三郎 (廊下へ来たる)おかみさん。
おはま 板前さんか。何。
善三郎 ご免なさいまし。さッきの野郎のことなんですが。
おはま あッ、見付かったの。
善三郎 ヘッ、先刻さっきの奴ですか。まだ、見付かりゃしませんが。ご安心なさいましうまいことになりました。悪い野郎ですけどこんな時の役には立つ素盲の金五郎が、またやって来ましてね、この一件を小耳にはさむと、止めるをかずに飛び出しましたが、此方が頼んだ訳ではなし、金五郎が勝手に買って出たのですから、おかみさんは高見で見物していれば後腐あとくされなく片付きます。後腐れといえば金五郎の方だが、此奴はあッしの親分に口をきいて貰い、五両か十両で片付けます。
おはま (色を変じて)えッ。どうしようというのだい。忠太郎を見付けて一体どう――。
善三郎 (怪しみながら)そんなかたりは腕か脛の一本も叩き折り、二度と夜迷い言をいってこねえようにすると云ってましたが。
おはま そ、そんなこと、いけないいけない。
善三郎 えッ。そいつあ困った。金五郎の奴は性の悪い浪人と一緒でしたが、そいつなら居どころを知ってるといってましたが。
おはま ああ、どんなことになるか知れやしない。
善三郎 困ったなあ。その浪人の奴が金五郎に三両で引受けさせろと強請せがんでいたが。バラさなきゃいいが。
おはま 駕籠をいわせておくれ、三枚だよ、あたしゃ直ぐ出かけるんだ。お前さんも行っておくれ。
善三郎 え、え。参ります。(急ぎ去る)
おはま (外出の支度をする。有り金を体につける)
雨が強く降り出す。
お登世 (力なく引返し来る)あら、どうしたの。
おはま お登世や、忠太郎が。(囁く)
お登世 (驚愕する)
おはま 駕籠はまだかい。板前さん――駕籠はまだかい。(廊下へ出る)
お登世 (泣き崩れる)

第三場 荒川堤(引返)


前の場の夜が明けかかる頃。戸田の渡しに近き荒川沿岸の雨後。

向うに堤――堤の下はところどころ立木。穂の出たすすきが一杯に乱れている。ただ正面奥は左から右へ渡し場の通路になっているのと、左寄りから奥へ思い切って斜めにみちがついているのとで、そこだけに芒がない。左寄りに水溜があって、その附近にも芒がない。
船夫  (一番の渡船を出しに行く戸田の渡しの常雇じょうやとい、水棹みさおを担いで径を通る)
船頭歌が、どこからか聞えてくる。余り遠くない。
船頭歌 荒川船頭衆と、わたしの恋路。梶をとりとり、風任かせ。

提灯をつけた駕籠が正面の路を渡し場の方へ急いで通る。
駕丁かごやは三人。
おはま (その駕籠に乗って、心も空に焦慮あせっている)
船夫  (駕籠を見送り、正面の路に入りて渡し場に去る)
もう一梃、駕籠が正面の路を同じように急ぎ通る。
お登世 (駕籠に乗り、心を川向うに飛ばしている)
善三郎 (提灯を提げ、お登世の駕籠に付いて走って通る)

船頭歌が前よりは少し近く聞える。
船頭歌 春は世に出る、草木もあるに、わたしゃ枯れ野のきりぎりす。

素盲の金五郎、すわといえば直ぐに立つ軽装を、巧みに合羽で糊塗かくしている。
金五郎 (斜めの径の中程で、長脇差のつばを鳴らす)
鳥羽田とばた要助、酒毒で顔に赤い斑がある、袴、足駄穿き、武芸の心得あり気で、野卑な浮浪人。
鳥羽田 (芒むらからぬッと出て、駕籠の行きたる方を見て、金五郎に)おい。今の、あれは何者だ。
金五郎 何が(駕籠の方を見て)何だかなあ。
鳥羽田 前後二梃、いずれも客は女であった。
金五郎 左様だったか、女ならもう少し早く来て見るのだった、惜しいことをした。
鳥羽田 忠太郎とか申す奴、まさか途中でれはしまいな。もし逸れでもすると、折角の三両が水の泡だ。
金五郎 心配するな。もう直きやってくる。
鳥羽田 確かに来るな。
金五郎 ひどく念を押すじゃねえか。
鳥羽田 確かに来ると決まったら、約束の金三両、手附の一両は貰ってあるから、残金二両、受取ろう。
金五郎 やってもいいがおめえ、金は前取してあるからとて斬り合いになってうしろを見せる気じゃあるめえな。(金をやる)
鳥羽田 せても枯れても鳥羽田要助、そんな真似をいたすものか。それよりはそっちの方こそ大丈夫かな。
金五郎 俺も素盲の金五郎だ。これでも人の二人や三人は、叩ッ斬ったことのある男だ。
鳥羽田 人を斬った数なら決して人後に落ちぬ鳥羽田要助だ。草ばくち打ちの一人や二人、何の造作ぞうさもないことだ。
金五郎 それ程造作もねえことを、三両仕事で引受けるとは、お前もなかなか悧巧だよ。
鳥羽田 拙者よりは悧巧なのはそちらの方だ。何か弱味を握っている忠太郎をバラして、水熊に恩を着せ、それをキッカケにびたる寸法と見てとった。色と慾と一度に手入れとは成程、ばくち言葉でいう尻目同けつめどう素盲すめくらとはよくつけた渾名あだなだ。
金五郎 馬鹿にしなさんな。(元来た径の方を見る)
鳥羽田 おお、もう、明けの星の光りが薄くなった。
金五郎 違えねえ。もう朝だな。おッ、来たらしい。あれが左様そうらしいぞ。
鳥羽田 あいつが忠太郎か。確かに左様だったら相図をしろ。拙者、いきなりスパリっとやッ付ける。こんなことは手間を取るといかんものだ。
金五郎 いいとも。相図をするぜ、首尾よく睡らせたら、酒代は一両。
鳥羽田 そいつは有難い。
金五郎、鳥羽田は芒むらに潜む。

番場の忠太郎、粋な旅にん姿、提灯を持って径の中程へくる。

空が大分明るくなる。
忠太郎 (提灯のあかりを吹き消す)
鳥羽田 (忠太郎の背後に迫る)
金五郎 (忠太郎の側面から忍び寄る)
忠太郎 (気配けはいで察し、鳥羽田が斬り込むのをかわし、金五郎が斬り込むのも躱し、立木を楯にとる)
金五郎 (芒むらに伏し、隙を狙う)
忠太郎 だれだ。(答えがない)何者だ。(答えがない)一人はブ職らしい、一人は浪人さんでござんすね。お前さん方あどなただ。何の訳あって不意討ちに、白刃を鼻ッ先で光らすのでござんす。
金五郎 (答えず、労せずして討たんとすきを伺う)
鳥羽田 (無言。ただ一と討ちと迫り来たる)
忠太郎 (下総からの刺客か、いや違う。物盗りだなと見る)あッしがだれだか、知ってるんでござんすね。
金五郎 知ってるともよ。
鳥羽田 番場の忠太郎というはらの悪い奴だ。
忠太郎 お前さん方はだれだ、どこの人だ。下総から来たのか。それ共、江戸か。(両人とも答えぬ)ご返事はこざんせんか――無いな――無いな。斬るぞ。
鳥羽田 (冷笑して)えいッ。(斬ってかかる)
忠太郎 (鳥羽田を斬り仆す)
金五郎 (狡猾に芒むらに潜んで刀を避け隙を伺って刺さんと企てる)
忠太郎 (金五郎を探す、逃げ失せたと思い、血刀を水溜で洗いかける)
空駕籠が二梃、善三郎が付いて、黙々として帰って行く。鳥羽田の仆れているのは芒むらに遮ぎられて眼に入らぬ。
おはま (お登世と共に通る。荒川を境に忠太郎の足取りがぱッたり絶えているのを知り、悄々しおしおとして引返し来る)
お登世 (こらえかねて、啜り泣く)
おはま (慰めかねて言葉もなく、太息ためいきをつく)
お登世 おッかさん。
おはま (涙声で)え。
お登世 縁がないってものは、こんなものなのかねえ。
おはま あたしが、わ、悪かったからだよ。
忠太郎 (じッと聞いている。情合いよりも、反抗心が強くなっている)
お登世 何だかこの淋しいところに忠太郎兄さんがいるような気がしてならない。呼んでみようかしら。忠太郎兄さん――忠太郎兄さん。
おはま (力づいて)忠太。(といいかけて、何処にも答えがないので、見る見る力が抜ける)
お登世 だあれも居ないんだわ。(とぼとぼと歩き出す)
おはま (悄然として歩き出し、二人共に遂に去る)
忠太郎 ――(母子を見送る。急にくるりと反対の方に向い歩き出す)俺あ厭だ――厭だ――厭だ――だれが会ってやるものか。(ひがみと反抗心が募り、母妹の嘆きが却って痛快に感じられる、しかもうしろ髪ひかれる未練が出る)俺あ、こう上下の瞼を合せ、じいッと考えてりゃあ、逢わねえ昔のおッかさんのおもかげが出てくるんだ――それでいいんだ。(歩く)逢いたくなったら俺あ、眼をつぶろうよ。(永久に母子に会うまじと歩く)
金五郎 (忠太郎を殺し、下手人を鳥羽田に塗りつけ、おのれは水熊へこわもてで、入婿いりむこになる計画を捨てず、鳥羽田の刀を拾って、忠太郎の隙を伺い、忍び寄り刀をし、今や刺さんとする)
忠太郎 (心づく)野郎。(金五郎の退路を塞ぎ、じッと見る)
金五郎 (棄鉢になり、闘志がさかんになる)
忠太郎 お前の面あ思い出したぜ。(斬る気になり、考え直す)お前、親は。
金五郎 (少し呆れて)何だと、親だと、そんなものがあるもんかい。
忠太郎 子は。
金五郎 無え。
忠太郎 (素早く斬り仆し、血を拭い鞘に納め、斜めの径を歩き、母子の去れる方を振り返りかけてやめる)
朝の真赤な光がす、忠太郎、その光に背いて、股旅の路に踏み出す。
船頭歌、遥かに聞える。
船頭歌 降ろが照ろうが、風吹くままよ、東行こうと、西行こと。
昭和五年二月作
[#改ページ]

 

『瞼の母』大詰 荒川堤

異本(一)


金五郎の「何? 親だ? そんなものがあるもんかい」をけて――。
忠太郎 この野郎、そんなものと吐かしやがる、やい、子はあるか。
金五郎 子だと、そんな者。
忠太郎 ねえな。無えんだな。(素早く斬り仆し、血を拭い鞘に納め、母子の去れる方を振り返りかける)
朝の真赤な光がす。忠太郎、その光に背いて踏み出し、佇む。
船頭歌、遠く聞える。
船頭歌 降ろが照ろうが、風吹くままよ、東行こうと、西、行こと。
忠太郎 (一たび去ったが、その絶叫が聞える)おッかさあン――。(駈け来たる)おッかさあン――おッかさあン――おッかさあン。(おはま母子のあとを追う)


『瞼の母』大詰 荒川堤

異本(二)


異本(一)の幕切れに、忠太郎の絶叫、「おッかさあン」で駈け戻り、「おッかさあン」と一つ二つ続ける、そのあと――。
おはま・お登世 (呼ぶ声を聞きつけ、引返し来たる)
忠太郎 (母・妹の顔をじッと見る)
おはま (全くの低い声)忠太郎や。
お登世 (低い声で)兄さん。
忠太郎 (母と妹の方へ、虚無こむの心になって寄ってゆく)
おはま・お登世 (忠太郎に寄ってゆく)
双方、手を執り合うその以前に。

『瞼の母』序幕、大詰共に

異本(三)


昭和二十六年六月、新国劇の明治座興行のとき、序幕の瓦屋の場を祭の日とし、水熊横丁と荒川堤に、鳥羽田要助を多分に出し、又鳥羽田の同類数名を出したるものに、書き更めたるが(百二枚)純粋さを失ないし感あるによってこれを破り棄てることにした。





底本:「長谷川伸傑作選 瞼の母」国書刊行会
   2008(平成20)年5月15日初版第1刷発行
底本の親本:「長谷川伸全集 第十五巻」朝日新聞社
   1971(昭和46)年5月15日
初出:「騒人」
   1930(昭和5)年3、4月号
入力:門田裕志
校正:Juki
2014年8月7日作成
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