海螢の話

神田左京




一 序言


 動物の發光物質の理化學的研究に沒頭してゐるものが、目下世界の學界に僅かに三人ゐる。その一人はラフアエル・デユボアーといふ人で、佛蘭西のリオン大學の生理學者である。この學者は明治三十六七年以來の研究者で、この問題には多大の獨創的貢獻をしてゐる。この人の研究材料は佛蘭西海岸の岩石内に住む光る介類の一種フオラスである。
 次はニユートン・ハアヴエーといふ男で、米國のプリンストン大學の生理學者である。ハアヴエーは大正二三年以來の研究者である。彼は幸か不幸か米國には良い研究材料を持たないが金がある。その金はハアヴエー自身のではない。カネギー學資金から出るのである。彼は金に飽かして氣儘な研究をしてゐる。既にこの研究のために數萬圓の金を使つてゐる。彼は大正五年二月から同年九月まで(妻君も同道で)、大正七年八月から翌年二月まで、二囘日本に來て海螢を研究した。東京の帝國ホテルに泊り込んで、中々贅澤を極めたものだ。そればかりでない彼は、三回目に日本を通過して昨年八月から今年二月まで、フイリツピン地方に研究に來てゐた。
 もう一人は不肖な私である。私が海螢の研究を始めたのは、大正七年からである。海螢はこの種の研究には、實に貴重な材料である。このことは逐次講演中に申述べて明かにしたい。所が日本は寶の持腐れで、それを研究する人がない。人はあつても金がない。金はあつても研究者には使はせない。私は大正五年七月末に福岡に來た。そして福岡の近海には海螢が澤山ゐることが分つたから研究して見たいと思つたが、二ヶ年間は全く無爲に過ぎた。大正七年七月から長崎縣北松浦郡佐々村の濱野治八といふ篤志家が、私の生活を保障して呉れることになつて、始めて宿志を實現したのである。もし濱野治八氏の厚意がなかつたら、今晩海螢の話をすることは出來なかつたらうと思ふ。私はこの機會を利用して學界のために、特に濱野氏の厚意を推奬して置きたい。

二 海螢の形態


 海螢は明治二十四年に獨逸の動物學者に發見された。しかも日本で發見したのである。海螢は日本の海には何處にでも澤山ゐるのに、どうしてそれが日本の動物學者に見つからなかつたゞらう。全く不思議だ。
 海螢は動物學者が介形類と言つてる位で、その形が大變介類に似てゐる。しかし海螢は介類ではない。甲殼類で蝦や蟹類に近い動物だ。それで海螢とはいふが、陸にゐる螢とは全く違つた動物で[#「動物で」は底本では「動物て」]、たゞ發光するといふ點が似てゐる丈けである。
 海螢は全く二枚の介殼に包まれてゐる。その長さは約一分 高さは長さの約三分の二、幅は長さの約半分位だ。長圓形のもので、扁平な卵に似てゐる。その介殼の表面は滑かで、薄い硝子のやうに透明で、毀れ易くて多少石灰化してゐるが、主に有機物である。この左右二枚の介殼は背部にある二ヶ所の薄い膜の蝶番で連結されてある。そして又その左右の介殼を連結する筋肉があつて、その筋肉の伸縮によつて介殼を自由に開閉するやうになつてゐる。この介殼の前端は觸手刻と言つて少し凹んでゐる。これは口に似てゐるが口ではない。
 海螢は二對の觸手をもつてゐる。この觸手を觸手刻から出して、それで海中を泳ぐのである。この觸手には關節、剛毛等があるが、そんな面倒なことは知る必要はない。それから大顋が一對、小顋が二對、脚が二對と尾叉とがある。雌と雄とは多少異つた點があるが、これもそんなに精しく取調べる必要はあるまい。
 海螢は大きい複眼をもつてゐる。その眼と觸手刻との間に唇がある。その上唇の分れる處に唾液腺がある。この唾液腺は幾つにも分かれてゐて、それ等から黄色の分泌物を出す。その分泌物が海水に入つて發光するのである。
 この分泌物が問題である。私はそれを研究してゐる。所が中々六づかしい。しかし面白い。私は勿論この問題を墓塲まで持つて行く覺悟をしてゐる。兎に角私は今晩それを出來る丈け通俗に話してみる考へである。

三 海螢の習性


 海螢は餘り深い處にはゐない。二尋か三尋位な處にゐる。夏から秋になれば、波打際にでも澤山ゐる。海螢の一番多い季節は秋だ。冬は白砂の中にもぐり込んで出て來ない。秋の闇夜に白砂の海岸を散歩してみると、海螢が波に打上られて光つてゐることがある。福岡では西公園の西南の海岸に海螢が澤山ゐるから、波に打上げられたのを誰でも採集することが出來るだらうと思ふ。
 海螢には日光が禁物で、晝の間は海底の白砂の中にもぐり込んでゐる。日沒後に少し暗くなると盛に出て來る。餌を探してゐるのである。海螢は肉食動物であつて、死んだ魚などには無數にたかつてゐる。生た魚でも海螢に取りつかれたら慘めなもので、忽ち骨と皮とになつてしもう。
 あるとき四寸ばかりの魚の骨だけが、採集用の甕の中にあるのが見つかつた。その骨格から判斷すれば、多分こちだつたらうと思ふ。無論海螢を採集するための餌はこちではないのだから、そのこちはどうかして採集用の甕の中に入つたものであらう 所が海螢を採集するために用ゐる餌は、流石の海螢にでも、中々容易に食へないものが選んである。しかし海螢はその臭を嗅いで、その甕の中に澤山集まつてゐた。その中にこちが入つたのだから、こちの運命は勿論きまつてゐる。忽ち海螢の餌となつて、僅に白骨丈けが遺されてゐた。だから立網などを職業としてる漁夫は海螢を大變に嫌つてゐる(實は海螢以外に、もつと有害な動物がゐるのだが)。
 臭い物にたかるのは蠅ばかりでない(人間も銅臭にたかる)。殊に魚の嗅覺は大變に發達してゐる 海螢の嗅覺も頗る敏感なものらしい。魚の臭ひがすれば忽ちにして澤山な海螢が集まつて來る これは生存の條件として、勿論必要な長所である。所が又その長所が却つて生存上の短所となることがある。と言ふのはその敏感な嗅覺を利用して、私は海螢を採集しつゝある。

四 海螢の採集


 先づ高さ約一尺、口徑六七寸位の甕が三十個ある。この甕の中には良く洗つた鱶の頭が一個宛入れてある。この鱶の頭は海螢を集める餌である。採集の餌は色々失敗した結果、鱶の頭が一番良いといふことが分つた。鱶の頭は流石の海螢にでも中々容易に食へない。もし鱶の頭が足りない時は、鱶の體を二寸餘の輪に切つて用ゐる。それから直徑約一寸位の圓い孔を中央に開けた布で甕の口を被ひ、その布は紐で甕にくゝりつける。先づ布で甕に頬被をさした形だ。かやうに用意した甕は、三尋餘の間を置いて、長い紐で拇指大の麻繩に結びつける。その麻繩で操つて船の上から甕を一個宛上向きに、出來る丈け繩を一直線に海底に沈める。それは丁度海底に一直線に張つた拇指大の麻繩に、三尋餘の間を置いて紐で甕を結びつけた形である。すると海螢は臭を餌いで[#「餌いで」はママ]、布の中央の孔から甕に入る。所が入るのは易いが、出るのは中々六づかしい。それに又餌が鱶の頭だから固いので、それに一生懸命にかじりついてゐる。かやうにして一時間半或は二時間たつたら、甕を又一個宛船に引上げる。その時に海水は全く發光水に化してゐるので、その美觀は到底名状すべき言葉がない位だ。
 海螢を採集する時期は晩秋が一番良い。既に述べた如く、海螢は日光を嫌ふが、月光も多少影響するやうに思へるから、月夜を避けて闇夜に採集することにしてゐる。それで宵闇の時は午後七時頃から同九時頃まで、朝闇の時には午前三時頃から同五時頃までに採集する。どちらかと言へば、朝闇の方が良い。それはかういふ譯である。宵闇の時に澤山とれたと喜んでゐても、澤山とるればとれる程、翌日處分するまでに死んでしもうことがある。殊に温い晩はさうだ。翌日處分するまでに海螢が死んでしまつたら、肝心の發光物質が處分する前に出でしもう。發光物質が出てしまつては、研究の材料には無論ならない。それで朝闇の時ならば採集して歸つて直ぐ、その處分に取りかゝれるから、發光物質は勿論安全である。所が晩秋の夜はまだ寒いといふ程ではないが、午前二時半頃から起き上つて、海中に船を乘り出すのは餘り好い氣持ではない。
 海螢の採集には三つの條件がある。第一には餌である。私の採集の場所は津屋崎(福岡縣)の海で、採集の餌は津屋崎町で求めるのだが天氣、漁の工合で、餌にすべき魚が全くない時が屡ある。第二には採集に出る晩の天候である。雨、風の晩は駄目である。第三には採集した翌日の天候である。採集した海螢は海水で良く洗つて、生たまゝ日光に曝して全く乾燥さすのである。だから晴天でなければ全く出來ない相談だ。海螢は思ひがけなく澤山採集できても、その翌日が曇天では駄目である。この翌日の天氣を豫測するといふことが又中々六づかしい。殊に秋の空は變り易い。それを豫測するには氣象學上の智識を必要とする位だ。天明までは一點の雲もない星の空が、夜が明けると一天が俄に曇つて來ることが良くある。雨が降らないでも、曇天には海螢は乾かない。以上の三つの條件が都合よく揃ふ日は、二三週間に二三日位なものだ。かやうな譯で、海螢の採集には中々苦心してゐる。

五 海螢の乾燥


 採集した海螢を海水で良く洗つて、吸取紙に載せて十分に水氣をとる。それを更に乾いた吸取紙の上に移し、日光に曝して乾燥する。朝の日光は弱いのと、海螢の介殼の内部には海水が殘つてゐるので、中々急には乾かない。幸ひに秋の空氣は乾燥してゐるから、温度は同じでも秋は乾きが早い。この乾きが早いといふことは大切で、海螢の發光物質に多大な影響がある。といふのは日光に曝されても海螢は一二時間位は生きてゐる。そしてその間は發光物質を多少分泌してゐる。だから早く乾いてしまはないと、幾分か發光物質がなくなる譯である。兎に角晴天でありさへすれば、海螢は四五時間で全く乾燥してしもう。
 かやうに乾燥した海螢は、濕氣をとる藥品を入れた乾燥器に入れて置けば、二年位は安全である、尤も保存して置いた海螢は、採集して乾燥したばかりのものに比ぶれば、勿論その發光力は弱い。しかしかやうにして保存することが出來るといふのは、研究家にとつて非常に重寶なことである。
 海には樣々な動物がゐるのだから、海螢丈けを採集するといふ譯には行かない。きつと他の動物しかも海螢よりも小さい動物が、海螢と一所に甕の中に入る。それで海螢を乾燥してから、それ等を選別しなければならない。これには大變な時間がつぶれるし又、隨分煩さいことだが仕方がない。これも亦研究の一階程である。

六 實驗の材料


 如上の方法で採集して乾燥した丈けの海螢は、發光物質の實驗に用ゐる材料とはならない。それには更に海螢の介殼をのける必要がある。その介殼をのけるには、海螢を乳鉢に入れ、その上を乳棒で輕く押へると、その介殼は小さく毀れてしもう。その小さく毀れた介殼は特種の篩で震ひ落す。さうすると海螢の體と大きい介殼の毀れとが篩の中に殘る。その介殼の毀は輕いから弱く吹けば飛んで出てしもう。後には海螢の體丈けが殘る。
 その殘つた海螢の體は更にエーテルの中に入れる。すると無色のエーテルが赤黄色になる。これは海螢の體の脂肪質がエーテルに溶けたのである。それで二三日間に六七回エーテルを入れ替へると、エーテルには色がつかないやうになる。これは海螢の體の脂肪質が、エーテルに溶ける丈けは溶け出てしまつたからである。かやうにして脂肪質をのけた材料を實驗に用ひてゐる。
 この實驗の材料はエーテルに浸して置けば、八九箇月間は保存することが出來るが、その發光力は段々弱くなつて來る。だから採集して乾燥したばかりの海螢を實驗の材料に仕上げるのが一番良い。もしそれが出來なければ、乾燥したまゝ海螢を保存して置いて、必要な時に如上の實驗材料に仕上げた方が良い。
 既に述べた如く、發光物質は唾液腺中にあるのだから、發光物質を研究するには、唾液腺丈けを分離した方が良い譯だ。所が介殼をのけた海螢の體は三厘以下の太さのもので、その小さな體の中の一小部分にある唾液腺だから、到底それを分離することは出來ない相談である。しかし水はその發光物質を分離する重寶な働きをする。

七 水と發光


 水火は相容れないもので、水は最上の消火物である。だから火事にポンプは附物となつてゐる。所が面白い。水がなければ、海螢は發光しない。それは乾燥した海螢が發光しないのをみたら良く分る。この理屈はかうだ。
 海螢が發光するのは、その發光物質が水に溶けるからである。その發光物質が水に溶けなければ海螢は決して發光しない。だからこの發光物質が水に溶けるといふことと、この發光物質が發光するといふことゝは、どうしても別々に離すことは出來ない。この理屈はエーテルに入れた實驗の材料が、全く發光しないのを見れば良く分る。といふのは海螢の發光物質は、エーテルには全く溶けない。だからエーテルの中では決して發光しない。所がこの發光物質は水には良く解ける。だから水の中では見事に發光する。と言つても發光物質は無盡藏ではないから、暫くすると水の中の發光は止んでしもう。これは恰も懷の金で色々なものを買つてゐると、終には財布が空になるのと同樣である この塲合に金は勿論なくなつたが、その代りに買つた何物かゞ殘つてゐる。言はゞ金の形は何物かに變つて殘つてゐる。それと同樣に發光しなくなつた水の中には、何かゞ殘つてゐる。だからこの水は大切に保存して置く。
 所がこゝに面白い謎がある。水の中で發光する實驗の材料と全く同樣の材料を沸騰してゐる湯の中に入るれば、それは全く發光しない。それならばエーテルの塲合と同じ理屈で、海螢の發光物質は※[#「執/れんが」、U+24360、36-1]湯には溶けないのではないだらうか。もしさうだとすれば、それは餘程特種な物質であらう。なぜならば水に溶ける物質は、※[#「執/れんが」、U+24360、36-2]湯には尚更に好く溶けるのが普通だからである。例へば砂糖などを溶かすのに、水よりも熱湯には好く溶ける。これは誰でも知つてゐる。それならば海螢の發光物質は、卵の白身(蛋白)のやうに、熱湯に[#「熱湯に」は底本では「熟湯に」]入るれば固くなつてしもうのではなからうか。或はさうかも知れない。もしさうだとすれば、海螢の發光物質の研究は萬事休する譯である。

八 二つの發光物質


 佛蘭西の介類の發光物質中には、二つの物質があるといふことを始めて發見したのはデユボアーである。その一つの物質は攝氏百度の湯の中でも破壞されないもの、他の物質は攝氏六十度及びそれ以上の湯の中では全く破壞されてしもうものである。してみれば海螢の發光物質にも、二つの物質があつて、沸騰してゐる湯の中で發光しないのは或は、その一つの物質が破壞されたからではないだらうか。もしさうだとすれば、沸騰してゐる湯の中で破壞されない物質は、その湯の中に安全に殘つてゐるかも知れない。かやうに考へれば前の謎の解決がつく。だからこの湯も大切に保存して置く。
 もし海螢の發光物質にも如上の二つの物質、即ち熱のために破壞されるものと、※[#「執/れんが」、U+24360、37-4]のためには破壞されないものとがあるとすれば、水の中に入れた實驗の材料が發光するのは、その二つの物質が同時に水に溶けるからだと考へなければならない。さうすれば水の中の實驗材料が、終に發光しなくなつたのには、少くとも二つの理由があると考へられよう。第一にはその二つの發光物質が同時に無くなつてしまつたから、發光しなくなつたといふことゝ、第二にはその二つの發光物質の中の何れかゞ先づ無くなつてしまつたから、發光しなくなつたといふことである。もし第一の理由で發光しなくなつたとすれば問題はない。もし第二の理由で發光しなくなつたとすれば、その二つの發光物質の中の何れがなくなつたかゞ問題である。
 生物の體には非常に大切な役目をもつてゐる物質で、熱のために破壞されるものが色々ある。例へは人間の食物(澱粉)の消化を助ける物質が大根の中にあるが、その大根を※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)れば、その消化を助ける物質は※[#「執/れんが」、U+24360、38-3]のために破壞されてしもう。それで大根は生で卸にして食べれば、消化に効能があるが、※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)れば全く水の塊を食べるやうなものだ。この生物體の中にあつて、※[#「執/れんが」、U+24360、38-5]のために破壞される物質は、不思議な持久性をもつてゐる。例へば消化を助ける物質が食物に作用して、その食物を消化さしにも、その消化を助けた物質そのものは依然として殘つてゐる。生物學者はこの種の物質を醗酵素或は酵素と名づけてゐる。
 海螢の發光物質の塲合も[#「も」は底本では上下逆]亦それと同樣に、先づ二つの發光物質、即ち一つは熱で破壞されるもので もう一つは熱で破壞され[#「れ」は底本では左倒し]ないものがあると假定して、この二つの發光物質の中で、※[#「執/れんが」、U+24360、38-11]のために破壞される方の物質も、持久性をもつてゐる物質ではなからうか。もし※[#「執/れんが」、U+24360、38-12]のために破壞される物質が持久性をもつてゐるとすれば、水の中に入れた實驗の材料が終に發光しなくなつたのは、※[#「執/れんが」、U+24360、39-1]には破壞されない物質の方がなくなつたからだかも知れない。言葉を換へて言へば、※[#「執/れんが」、U+24360、39-2]には破壞されない物質は、發光のために變化したのかも知れない。さうすればその熱のために破壞される物質は、依然として水の中に殘つてゐるかも分らない。この熱に破壞される物質が果して水の中に殘つてゐるか否かを[#「殘つてゐるか否かを」は底本では「殘つて るか否かを」]證明するには、この物質と熱には破壞されないもう一つの物質とを二つ合して、果して發光するか否かを試驗してみなければならぬ[#「ならぬ」は底本では「ならね」]。もし發光すれば、熱のために破壞される物質が水の中に殘つてゐるのだし もし發光しなければ、その物質は水の中には殘つてゐないのである。
 それから又海螢の發光物質にも※[#「執/れんが」、U+24360、39-9]で破壞する物質以外に、もう一つ熱で破壞しない物質があると假定する、それで沸騰してゐる湯の中に海螢の實驗材料を入るれば、その刹那に熱で破壞される方の物質は破壞されてしもう。だからこの湯の中に入れた材料は發光しないのであらう[#「發光しないのであらう」は底本では「發光しないのでめらう」]。そして※[#「執/れんが」、U+24360、39-12]で破壞されない方の物質は、湯の中に溶けたまま無事に殘つてゐるのではなからうか。それが無事に殘つてゐるかどうかを試驗するためには、この湯が冷めてから、それに※[#「執/れんが」、U+24360、40-2]で破壞される物質が殘つてゐるかどうか[#「殘つてゐるかどうか」は底本では「殘つてゐるがどうか」]問題となつてゐる水を入れてみるより外に仕方がない。
 もしこの湯の中に熱で破壞しない物質が溶けて無事に殘つてゐ又、水の中にば[#「中にば」はママ]熱で破壞する物質が依然として殘つてゐれば、この二つの溶液を合すと發光する筈である。それでこの二つの溶液を合してみる。すると見事に發光する。だから[#「だから」は底本では「だがら」]海螢の發光物質には二つの物質があることが分る。その一つは※[#「執/れんが」、U+24360、40-7]のために破壞され、もう一つは※[#「執/れんが」、U+24360、40-7]には破壞されない物質である。この二つの物質が相合して、海螢は發光してゐることが分る。そしてこの熱で破壞される方の物質は發光を助ける物質で、熱で破壞されない方の物質は發光の原料であるらしい。しかしこの發光の原料丈けでは決して發光しない。發光には必ず二つの物質が必要である

九 發光物質の溶解性


 こゝにメチル・アルコールとエチル・アルコールとがある。その中に實驗の材料を入れる。すると無色であつたアルコールが赤黄色になる。けれども少しも發光しない。この有樣は丁度[#「丁度」は底本では「了度」]沸騰してゐる湯の中に、實驗の材料を入れた時に似てゐる。發光はしないが、アルコールの中には何か溶けてゐるのは確だ。その中には何が溶けてゐるか。之から實驗をして搜して見る。
 先づ何か溶けてゐるメチル・アルコールの中に、沸騰してゐる湯の中に實驗の材料を入れて冷したのを入れてみる。所が發光しない。それで又前者の中に この度は水の中に實驗の材料を入れて置いた水を入れてみる。この度は見事に發光する。已に承知した如く、この水の中には熱のために破壞される物質、即ち發光を助ける物質が殘つてゐる。してみればこの發光を助ける物質と合して發光するのだから、このメチル・アルコールの中には、發光の原料が溶けてゐることが分る。だから同じ發光の原料が溶けてゐる熱湯を冷したのを入れても發光しない譯である。又それと同時にメチル・アルコールの中には、發光を助ける[#「助ける」は底本では「助けける」]物質は少しも溶けないといふことが分る。もし少しでも溶ければ、發光の原料が溶けてゐるのだから、實驗の材料を入れ[#「れ」は底本では左倒し]た時に發光する筈だ。所が少しも發光しなかつたのである。だからメチル・アルコールの中には、海螢の發光物質の發光原料丈けが溶ける。
 それから又同樣の實驗をエチル・アルコールの方にも繰返してみる。するとこのエチル・アルコールにも、メチル・アルコールと同樣に、發光の原料丈けが溶けるといふことが分つた。しかしこの發光の原料はメチル・アルコールに溶ける程、エチル・アルコールには[#「エチル・アルコールには」は底本では「エチル・アコールには」]良くは溶けない。
 かやうな譯で、海螢の二つの發光物質の一つは、ある藥品に溶けるが、もう一つの物質は水以外のものには少しも溶けない頑固な性質をもつてゐる。この全く異なつた二つの物質が相合して發光するのだから面白い。

十 發光物質の理化學的性質


 海螢は全く異つた二つの物質が相合して發光するといふことは已に[#「已に」は底本では「己に」]承知した。それならばこの二つの物質は何だらう。勿論この二つの物質は物理的、化學的性質のものに相違ない。その理化學的性質を研究するのは極めて重大であるが六づかしい。この問題が全く解決してしもうまでには、今から百年かゝるか、二百年[#「二百年」は底本では「二百牟」]かゝるか或は、千年かゝるか分らない。しかし私は私の研究した丈けのことを話せば良い。所がこれは餘りに專門的で、六づかしくて面白くない。それで簡單な實驗を二三供覽して置く事にする。

(イ)※[#「執/れんが」、U+24360、41-9]で破壞する物質

 一つの發光物質の中で、※[#「執/れんが」、U+24360、42-1]のために破壞される方の物質には、色々な點に於て蛋白質らしい所がある。全く蛋白質丈けではないだらうが、少くともこの物質は一種の蛋白質と一所に結合してゐるのかも知れない。これが問題で、中々容易に分らない。所が面白いのは、この物質は昇汞では沈澱しない。これは簡單に實驗が出來る。なぜ面白いかと言へば、この物質が蛋白質であるならば、昇汞で沈澱しさうなものだからである。蛋白質が昇汞で沈澱するのは極めて普通な話である。だから昇汞の中毒(例へば自殺の目的で)で死にかけてゐる人がある塲合には、生卵の白身即ち蛋白を呑ますれば、昇汞と白身とが一所になつて沈澱するから、所謂毒消になる譯である。勿論[#「なる譯である。勿論」は底本では「なる譯である勿論。」]昇汞はもう時勢後れで、猫いらずの世の中だ。所が猫いらずは生卵の白身では毒消しにはならない。
 兎に角この熱のために破壞さ[#「さ」は底本では左倒し]れる方の物質は昇汞では沈澱しないが、この物質と一所に水の中に溶けてゐる色々な蛋白質が多量に沈澱する。だから昇汞は問題の物質と、他の蛋白質とを分離するのに最も良い試藥である。私はこの事實を利用して、先づ昇汞で他の蛋白質、即ち不純物を沈澱さして、それを取り除いてしまつてから、その後に殘つた水溶液、即ち水の中に問題の物質が溶けてゐるものか實驗に用ゐてゐる。その實驗の種類は色々澤山あるが專門的のものばかりで面白くないから、極めて簡單な一例を示すことにしよう。
 こゝに海螢の發光物質の中の熱で破壞する物質が溶けてゐる水がある。この水の中に二%の昇汞水を適量に入れる。すると多量の沈澱物が出來る。この沈澱物を濾すと、澄んだ液が落ちる。この沈澱物を再び水に溶かし、それに熱で破壞しない方の海螢の發光物質が溶けてゐる湯を冷したのを入れる。所が發光しない。だからこの沈澱物の中には※[#「執/れんが」、U+24360、45-10]で破壞する方の物質は入つてゐないことが分る。それから又この沈澱物を濾してしまつた澄んだ液に、熱で破壞しない方の物質が溶けてゐる湯を冷して入れる。するとこの度は見事に發光する。してみれば熱で破壞する方の物質は、この澄んだ液の中に殘つてゐることが分る。
 それでこの澄んだ液(※[#「執/れんが」、U+24360、46-2]で破壞する方の物質が殘つてゐる)を用ゐて 更に次の實驗を試みる。こゝに硫酸アンモニアといふ白い結晶の藥品がある。この藥品を蒸溜水の中に十分に溶けてしまはない程多量に入れる。これは化學者の所謂飽和液である。この飽和液を一勺に、問題の澄んだ液を一勺、即ち半々に混合する。これは半飽和といふ。すると又沈澱物が出來る。この沈澱物を濾すと澄んだ液が落ちる。この沈澱物を再び水に溶かし、それに熱で破壞しない物質が溶けてゐる湯を冷して入れる。すると見事に發光する。それから又この沈澱物を濾してしまつた澄んだ液に、熱で破壞しない物質が溶けてゐるのを入れる。所がこの度は發光しない。だから※[#「執/れんが」、U+24360、46-9]で破壞する物質は、硫酸アンモニアの半飽和で全く沈澱してしまつたことが分る。これは昇汞を用ひた場合と全く反對の現象である。この實驗は所謂鹽出沈澱の一例であつて、蛋白質の研究には最も普通に行はれるものである。

(ロ)熱で破壞しない物質

 それから又二つの發光物質の中で、熱で破壞しない方の物質は、熱湯、メチル・アルコール、エチル・アルコール(酒精)等に溶けるといふことは已に承知した。しかしこの物質を熱湯に溶かすと、この物質以外の熱湯に溶ける物質も一所に溶ける。さうすると肝心の發光物質が不純なものになる。だから私は出來る丈け不純物を少くするため、この物質をメチル・アルコールに溶かす。さうするには十二三時間、この物質をメチル・アルコールの中に入れて置く。そしてこの物質の溶けたメチル・アルコールを水風呂の上で鈍火で蒸發する。蒸發して殘つた物質にはまだ不純物が餘程混じつてゐる。だからそれを更にエチル・アルコールに溶かす。さうすると問題の物質はエチル・アルコールに溶けるが、それに混じつてる不純物(主に蛋白質)の或物は溶けない。だから沈澱する。この沈澱物を濾して取り除く。そしてこの濾液を更に水風呂の上で蒸發する。かうして殘つた物質を水に溶かし、それにもう一つの熱に破壞される物質を加へると、中々見事に發光する。
 かやうに蒸發して殘つた物質を水に溶かす。その中に結晶の硫酸アンモニアを粉にして、溶けてしもう以上の量を入れる。即ち飽和さすのだ。さうすると又沈澱物が出來る。この沈澱物(これには蛋白質の色反應はない)を濾して、これを水に溶かす。この溶液に熱で破壞する物質の溶けてる水を入れると見事に發光する。所が問題の沈澱物を濾してしまつた澄んだ濾液に、熱で破壞する物質の溶液を入れても少しも發光しない(しかしこの濾液には蛋白質の色反應がある)。この理屈はかうだ。この濾液の中には發光物質が少しも殘つてゐないのだ。言葉を換へて言へば、熱で破壞しない發光物質は、以上の方法で處理すると、蛋白質の色反應はないが、硫酸アンモニアの飽和では全く沈澱する。しかしこの物質は硫酸アンモニアの半飽和では少しも沈澱しない。
 如上の結果を綜合してみると、この物質は全く正體の分らないものだ。硫酸アンモニアの飽和で全く沈澱する點は蛋白質に似てゐる。しかし蛋白質としての色反應は少しもない。萬一蛋白質だとしても、發光に關係のある極めて特種な物質であらう。この物質でも又、もう一つの熱で破壞する物質でも、純粹な物質を分離しなければ、蛋白質だとか蛋白質でないとか言つても、結局水掛論だ。
 以上の實驗は私の研究した中の一小部分だ。假りに私の研究の全體を瞥見した所で、この問題はそれ位の研究で解決のつくやうな小さな性質のものでない。有體に白状すれば、これからが研究の本體に入るのだ。言はゞ今日までの研究は單に籠手調べに過ぎない。

十一 發光と酸素


 それから私は海螢の發光作用も亦、石炭等の燃へるのと同樣に、酸化作用かどうかを研究してみた。その目的には隨分複雜な裝置を工夫した。その裝置の全部分から、先づ空氣を全く排除した。空氣の中には勿論酸素があるからである。そして酸素瓦斯の入つてゐない水素瓦斯、窒素瓦斯等を空氣の代りに用ゐた。ばかりでなく用ゐた蒸溜水の中にも、酸素が少しも入らないやうに特別に工夫したのである。
 かやうに工夫した裝置の中で、海螢の發光の工合を觀察した。勿論海螢と言つても、前に話した如く、海螢を實驗の材料に仕上げたものであつた。所が水素瓦斯を用ゐた場合の海螢の發光力が一番強かつた。この用ゐた水素瓦斯の中には、酸素(空氣)が入つてるとは勿論思はなかつた(しかし實は酸素が不純物として少し入つてゐたらしい)。しかしこの複雜な裝置全體の中には或は、多少の酸素(空氣)があるかも分らないと思つた。それにしても空氣の入つた蒸溜水を用ゐた場合と、水素瓦斯の入つた蒸溜水を用ゐた場合とを比べてみると、海螢の發光力は到底比較にならない程、水素瓦斯を用ゐた塲合の方が遙かに強かつた。それから又窒素瓦斯の入つた蒸溜水を用ゐた場合にも、空氣の入つた蒸溜水を用ゐた場合より、海螢の發光力は遙かに強かつた。しかし水素瓦斯を用ゐる時程、その發光力は強くはなかつたのである。
 この實驗的事實を論據として、私はかう想像した。酸素(不純物として)の量が少ければ少い程、發光力が強いとしたら、全く酸素のない場合には、尚更發光力は強いだらうと想像した。この想像から出發して私は、海螢の發光は酸化作用でないと結論した。所が私の結論は飛でもない間違だつたことが分つた。これは源氏螢の發光の酸化作用の實驗で分つたのである。その理屈はかうだ。
 海螢が發光するのには、酸素の量が餘り多過ぎては、その發光力は反つて弱くなる。それで普通の蒸溜水の中に入つてる酸素の量は勿論大したものでない。さうだのに海螢が最強度の發光をするのには、その大した量でない酸素が已に[#「已に」は底本では「己に」]多過ぎることが分つた。これは全く案外だつた。海螢の最強度の發光に必要な酸素の量については、まだ私は的確な測定は行なつてゐない。しかし私の水素瓦斯の實驗から推測すると、その酸素の量は極めて少いものでいゝらしい。なぜなら私の用ゐた水素瓦斯の中に不純物として入つてゐた酸素(空氣)の量は極めて少かつたに相違ないからである。しかし海螢は酸素が全くなければ發光しない。又酸素が多過ぎても良く光らない。そこに謎が潜んでゐた。不明な私はそれを悟らなかつたのである。それで私は改めていふ。海螢の發光は酸化作用だ。しかしその最強度の發光に必要な酸素の量は餘程少いものらしい。
 この私の間違の結論(英文)に對して、ハアヴエーは猛烈に攻撃した。勿論私は一言もなかつた。しかしハアヴエーが攻撃文を發表しない四五ヶ月以前に、私の結論は全く間違だといふことが私にも分つた。それで私はハアヴエーに手紙を出した。又私の英論文の中次をしてもらてる人(米國ミネソタ州立大學醫科大學長)にも手紙を出して、私の結論は間違だと何かの雜誌に訂正してもらうやうに頼んだ。この訂正は勿論日本文にも發表した。不幸にして私の手紙がハアヴエーの手に渡つた時には、已に[#「已に」は底本では「己に」]ハアヴエーの攻撃文は活版屋の手にあつたらしい。ハアヴエーの海螢の研究には隨分間違が多いから、私は私の實驗の結果に立脚して、ハアヴエーの研究を批評して來た。だから私の研究に間違がある場合には、ハアヴエーが大に攻撃するのは尤もな話である。私の論文の中次の人は私の源氏螢の論文中に、この間違の結論を一寸斷つて呉れた。その後ハアヴヱーは攻撃文の別刷を送つて呉れた。それでハアヴエーの攻撃に對しては、私は全く滿足だといふ意味の手紙を出した。
 序に私は一言斷つて置く。以上に述べた如く、私の結論は全く間違だつた。しかしこの間違は決して私の實驗の罪ではなかつた。私の實驗は正しかつた。さうだのに私は實驗以上の結論をした。そこに私の罪がある。科學者としての立論は、實驗の結果を離れてはならない。この點について私は大に反省してゐる。もうこの種の罪は二度と繰返さない積りである。

十二 所謂『安全燈』


 ハアヴエーが海螢の『安全燈』を發明したと日本の諸新聞は報じてゐる。その眞僞は勿論分らない。前にも話した如く、ハアヴヱーの海螢の研究には隨分間違が多い。しかし又ハアヴエーは大變に面白い發見もしてゐる。このハアヴエーの發見は全く獨創的であるが、デユボアーの研究に暗示されたか、その邊の消息は私には分らない。しかし兎に角面白い。序だからそれを私は紹介して置く。
 乾燥した海螢を潰して、水の入つた瓶に入れる。すると發光するのである。それから二三時間立つと、發光は全く止んでしもう。それでその瓶に栓をして、冬なら三四日位、夏なら一晝夜、その儘暗室に入れて觸らないで置く。そしてこの一定の時間が立つて、この瓶を暗室で振つてみると、瓶の中の海螢が再び刹那的に發光する。この實驗は頗る簡單だから誰にでも出來るのである。
 この事實についてハアヴエーは、面白い説明をした。海螢の發光する場合に、發光の原料となる物質(ハアヴエーは始めは、これは原料ではない。もう一つの※[#「執/れんが」、U+24360、55-2]で破壞される物質が原料だと主張した。即ちデユボアーの考へに反對したのである。しかしこの主張は全く間違だといふことが私の研究で分つた。ハアヴエーもこの主張を撤囘した)と酸素とが化合(?)する。この原料が酸素と化合すると、原料は發光しなくなる。始め發光してゐた瓶の中の海螢が、二三時間立つと發光しなくなる譯も同樣である。
 所が發光しなくなつた瓶の中の海螢が、冬なら三四日、夏なら一晝夜位立つと、刹那的ではあるが、又再び發光するのである。これは瓶の中に腐敗バクテリアが出來て化合してゐた發光の原料と酸素とを分離して、又再び互に化合した刹那に發光したのだといふのである。この説明は中々巧妙だ。それでハアヴエーは海螢の發光の原料物質(熱で破壞しない)は可逆的のものだと主張してゐる。兎に角ハアヴエーの理屈は事實を良く説明してゐる。
 それで問題の『安全燈』だ。腐敗バクテリアの働きのやうに、一晝夜或は三四日も掛つては、所謂『安全燈』も物にならない。だから私は『安全燈』の可能性を想像してみる。海螢の發光の原料と酸素とが化合した刹那に發光するといふのである。そしてそれが化合してる間は發光しないといふ。だから再び發光さすには先づ、化合してる原料と酸素とを分離さすことである。そして分離した二つが又化合すると、その刹那に發光する譯である。この發光の原料と酸素とを化合さす働きをするのは、例の熱に破壞される方の物質だ。それで發光の原料と酸素とを化合さす物質は、瓶の中の水に溶けて何時でも、この媒介の働きをすべく用意してゐる。だから問題は化合してる原料と酸素とを分離さすものがありさへすればいゝ譯である。所謂還元物がありさへすればいゝ。即ち發光の原料と酸素とが化合した刹那に發光して直ぐ又瞬間的に、それを分離さすものがあれば、それを再び化合さす物質はあるのだから、發光の原料は連續的に永久(?)に、發光することが出來る理屈である。そしてこの光は他のものを燃す能力が全くないから所謂『安全燈』だ。これは決して痴人の夢ではないのである。
 かやうに調法なものをハアヴエーが發明したかどうか私は知らない。發明は全く私の器でないのであるから、私は『安全燈』の發明等は考へてみたこともない。しかしその發明の可能性はあるだらうと思ふ。誰か發明する天才はないか。
 それから又ハアヴエーは如上の理屈で、螢の發光の説明を試みた。その説明はかうだ。螢は光つたり、光らなくなつたりする。この螢の光るのは、螢の發光の原料と酸素とが化合した時である。そして光らなくなつたのは、それが化合してしまつた間である。それから又再び光るのは、一旦化合してゐたのが分離(還元)して、再び化合したからだといふ。勿論この還元物は螢の體の中にあるとハアヴエーは考へてゐるのである。
 所が何時も柳鰌だと考へてると、中々さうゝまくは行かない。私は源氏螢の發光機官丈けを切り離して、それを酸素瓦斯、空氣、窒素瓦斯、水素瓦斯、眞空等に入れて、酸化作用の工合を觀察した。この發光機官は勿論酸素瓦斯の中で一番強く光つたのである。そして純粹な窒素瓦斯、水素瓦斯、眞空の中では少しも光らなかつた。この酸素瓦斯或は空氣の中で光つた場合には、生きてる螢が光るやうに、光つたり消へたりはしない。始めから終りまで(少くとも二十四時間以上)、間斷なく持續的に光つたのである。
 もしハアヴエーの説明が正しければ、この發光機官は酸素瓦斯の中で發光してるのであるから、生きてる螢よりもゝつと光つたり消へたりすべき筈である(所が事實はさうでない)。なぜなら少くとも九十七八%の酸素瓦斯の中で、この發光機官は發光してゐたのだから、その發光の原料は空氣(二十一%の酸素)の中で發光してる生きた螢のよりも、殆んど五倍に近い酸素と化合してる譯である。それで化合も早いし又多量だから、發光力が強い理屈も分る。又それと同時に、化合が早ければ早い程、多量であればある程、消へるのも早く又多量でありさうなものである。所が少しも消へないで、持續的に發光してゐた。
 それならば切り離した發光機官の中には、生きた螢の發光機官の中よりも、問題の還元物が多量であつたのではないか。しかしそんな理屈は考へられない。もしハアヴエーの所謂還元作用があるとすれば、矢張り生きた螢の發光機官の中の方が、その還元作用は盛に行はれると考へるのがより合理的である。
 かやうな譯であるから、ハアヴエーの理屈では、螢の發光作用は説明されない。この抗議について私は、ハアヴエーに手紙を出した。しかしハアヴエーは何の返事も呉れない。尤も以上の説明はハアヴエーの本には書いてゐないやうである。中々一つの事實で、萬事の説明は出來ない。

十三 無熱の光


 以上に述べた丈けの事實では、なぜ動物の光の研究が大切だか良く分らない。この點は『萬物の靈長』と自稱してゐる人間が、歴史あつて以來工夫に工夫を凝らした燈火と比較してみると良く分ると思ふ。現在人間界の最も優秀な燈火はタングステン白熱電燈である。所が光としてのタングステン燈は實に貧弱なものだ。先づ使用の電力(エネルギー)を百としたら、このタングステン燈が光に變へてゐる部分は、僅に一・六五に過ぎない。その餘の九十八・三五は全く熱になつてしもう。だから私共は電燈代を拂つてゐると思つてゐるが、實は高い/\電熱代を拂つてゐる譯だ。
 所が動物の光はどうか。先づ元のエネルギーを百としたら、動物の光、例へば螢では、その九十七が光となつてゐる。言葉を換へて言へば、螢ではエネルギーの殆んど[#「殆んど」は底本では「始んど」]全部が光に變ることが出來るので、熱になるのは極めて小部分である。だから動物の光は所謂無熱の光だ。この一事をみて如何に動物の光の研究が重大なものであるかゞ想像できようと思ふ。この動物の光を研究して、その光の問題が解决されるまでには無論數千年を要するかも知れない。しかしこの問題は决して解決の出來ない性質のものだとは考へない。兎に角天才が出現して、この問題を解决し、その原理を燈火に應用する時代が來ることを私は切望すると同時に、かやうな時代の實現を確信するものである。

十四 動植物を師として


 かやうな譯で人間は腦味噌を搾つて、やつと効率が百分の二にも足りない電燈を發明してゐる。所が動物は幾十萬年の昔から、何の造作もなく効率百に近い光を平氣で點じてゐる。こゝに至つて『萬物の靈長』は全く顏色ない譯だ。
 そればかりでない動物には、到底人間の企て及ばない奇蹟を行ふものがある。例へば此處に一匁の體重をもつた兜蟲がゐるとする。この一匁の兜蟲は七百匁の荷物を運ぶことが出來る。言葉を換へて言へば、兜蟲は自分の體重の七百倍の荷物を運ぶことの出來る怪力をもつてゐる。どうして兜蟲がかやうな怪力をもつてゐるか生物學者には勿論、今日の機械學者にも分らない。もし兜蟲の此の機能が分つて、それを人間が應用すれば、これ又大したものである。
 それから又前講演者の丸澤君が述べたやうに、植物は太陽の光を利用して空氣と水とで營養物を製造してゐる。もし人間がこの秘法を理化學的に解决したら、現在個人や國家を惱ましてゐる食糧問題も立所に氷解するだらうと思ふ。
 以上に指摘した實例は勿論、動植物に於ける現象の二三に過ぎない。動植物界、もつと廣く言へば自然界には、かうした秘法が無限に行はれてゐる。所が不幸にして頑冥不靈な人間はそれを覺らない。それで人間は自分免許の『萬物の靈長』といふ看板を下して、動植物の門に入り、親しく教を動植物に仰ぐべきだと私は思ふ。
 所が動植物は『最高學府』と名のつく大學はもたない。それで留學を得意とする日本人でも、動植物の大學に留學するといふ譯には行かない。しかし歐米の大學に留學して歐米の[#「歐米の」は底本では「毆米の」]學者に教を仰ぐのを止してしまつて、もつと手近な動植物を師として學んだ方が、遙に獨創的智識を收めることが出來ると私は思ふ。動植物の施す教育は、全く天才教育、自由教育である。殊に日本人は眞似に堪能だから、歐米の學者の眞似を止して、動植物の眞似をしたら確に大したものが出來ることは請合である
 私共が民衆立研究所を創設して、自然科學の研究學府としたいと主張する精神は、正に此處に存する。(了)(大正一〇、三、二六稿)
(附言。十一と十二は更に追加した)





底本:「光る生物」自然科學叢書、越山堂
   1923(大正12)年3月6日発行
   1923(大正12)年3月10日再版
初出:「九州日報」
   1921(大正10)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※近代デジタルライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
※「回」と「囘」、「決」と「决」、「熱」と「[#「執/れんが」、U+24360]」、「場」と「塲」の混在は、底本通りです。
※底本は「デユボァー」と「デユボアー」が混在していますが「デユボアー」に統一しました。
※底本は「ァルコール」と「アルコール」が混在していますが「アルコール」に統一しました。
入力:岩澤秀紀
校正:米田
2014年4月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「執/れんが」、U+24360    36-1、36-2、37-4、38-3、38-5、38-11、38-12、39-1、39-2、39-9、39-12、40-2、40-7、40-7、41-9、42-1、45-10、46-2、46-9、55-2
「執/れんが」    U+24360


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