歌う白骨

THE ECHO OF A MUTINY

リチャード・オースティン・フリーマン Richard Austin Freeman

妹尾韶夫訳




犯罪編



 おとなの論理的な頭では、とうてい分らないような人間のかくれた性格、そんなかくれたものを、おさなごや下等動物がわけもなく見破るという迷信は、かなり広くゆきわたっているようだ。そして彼らの判断を、経験を超越したすぐれたものとして、受けいれてしまうのである。
 こんな迷信は人々がパラドクスを愛するところからくるのかどうか、そんな問題は問う必要がなかろう。これは社会一般の信念になっていて、ことにある階級の婦人たちに支持されているようだ。そして、トマス・ソリー夫人もそれをかたく信ずる婦人の一人なのである。
「ほんとなのよ、」と、かの女はいう。「小さい子供や、ものもいえぬ動物がよく知っていることは、じっさいびっくりするほどなの。だから子供や動物をだまそうたってだめなの。純金とにせの金を一目で見わけたり、人の心をすぐ見抜いたりするんだから、ほんとにふしぎなのよ。あんなのを本能というんでしょうか。」
 そんな哲学的な、重大な言葉を、口からでまかせにしゃべりながら、ソリーのおかみさんは、ひじまでまくった両手を、石鹸の泡のなかにつっこんで、お客を見あげるのである。
 お客のブラウンは、ひざのうえにむっちり肥った十八カ月の子供と、ぶちの猫をのせて、戸口に坐っていた。彼はほっそりした、小男の年寄の船乗りで、ものしずかで、相手のきげんをとることが上手で、そのかわり少々ずるいようなところもあった。船乗りにはよくこんな男があるが、彼も子供や動物がすきで、またそんなものによくなつかれもした。だからこそ、いま現に、歯のない口に火の消えたパイプを動かしながら坐る彼の膝のうえでは、子供はにこにこ笑い、体を丸めた猫は、ごろごろ喉を鳴らして、その足の指を、気持よさそうにうごめかしているのである。
「燈台は淋しいですよ。」ソリー夫人はいう。「たった三人きりで、お隣りがないんですからね。それに洗濯なんかする女が一人もいないんだから、着ている物がきたなくなるでしょうしね。それにこの頃は九時すぎまで起きていなくちゃならんから退屈でしょう。どんなことをしてお暮しになるのかしら。」
「することは沢山ありまさあ。」ブラウンはいう。「ランプを掃除したり、ガラスをふいたり、それから時にはペンキも塗らなければならんしね。そういえば、」顔をおこして時計をあおぎ、「もうぼつぼつ行かなくちゃならん。十時半に満潮だというのに、もう八時をすぎた。」
 ソリー夫人は大急ぎで洗濯物をかきあつめ、それを綱のようにねじって絞って、エプロンで手をふき、もがく子供をブラウンの手からうけとった。
「部屋はかたづけときますからね、休みになったらいつでもおいでになって。トムと二人でお待ちしていますわ。」
「ありがとう。」ブラウンはそっと猫を下におろした。「また来るのを楽しみにしています。」
 彼は夫人と握手すると、赤ん坊に接吻し、猫の喉をなで、小箱を先にぶらさげた紐を肩にかけて家をでた。
 湿地を彼は通らねばならなかった。彼は地平線に見えるレカルヴァー沿岸警備出張所の奇妙な二つの建物を目標にして、航海する船のように歩きはじめた。歩きはじめるとトム・ソリーの飼っている羊がうつろな目で彼を見あげて、別れをおしむように鳴いた。溝の堰のところまでくると、立ちどまって広々としたケント州の景色をふりかえった。木立の上に聖ニコラスの灰色の塔がのぞき、はるかなサールの製粉所の車は、夏のそよ風をうけてゆるやかに回っていた。荒涼とした彼の生活に、しばしの憩いと、家庭的な温かみをあたえてくれた、いまでてきたばかりの家は、ひとしおなつかしかった。だが当分あすこへはいかれない。前には燈台がみえた。溜息をして彼はまた歩きだした。警備出張所の門をはいると、建物のほうへあるいた。
 黒い煙突のある白い建物のそばで、旗竿の綱をなおしていた沿岸警備員の上役は、ブラウンをみると快活に話しかけた。
「おいでなすったな。立派な服をきているじゃないか。しかし、今朝はフィッタブルに集まらなくちゃならんので、人手もないし、船もだせんのだが――」
「そんなら泳いでわたるか?」ブラウンはいった。
 警備員は笑った。
「まさか、そんな新しい服を着ていちゃあね。なんならウィレットの船を借りたらどうだい? あの男は今日娘に会いにミンスターへ行くといっていたから、船が一日あいてるわけだ。でも、船に乗って君といっしょに行ってくれる者はいないよ。ウィレットにはおれがよく云っとくけれどね。」
 船乗りをしていたブラウンには、帆船をあやつる自信があった。
「人手はいらん。ちっぽけな帆船ぐらい平気だよ。おれは十の時から船を乗りまわしているんだから。」
「それはそうかもしらんが、誰が船をここまでとどけてくれるんだ?」
「むこうへ行きさえすれば、交代の男がその船で帰ってくるよ。誰だって泳ぐより、船のほうがよかろうじゃないか。」
 警備員は望遠鏡で岸ちかく通りすぎる荷船を見ていたが、
「そんならいいだろう。燈台にボートぐらい用意してあるといいんだが。じゃ、ウィレットの船に乗っていって、すぐこちらへ返してくれたまえ。君もぐずぐずしてはいられないだろう。」
 いいすてて、建物の裏にまわった彼は、まもなく二人の警備員をつれてかえった。四人で海岸へでてみると、ウィレットの船は、満潮線のちょっと上のところにひきあげてあった。
 船の名は「エミリー」。一枚帆のマストを二本立てられるようになった、ニスを塗ったオーク材の美しい小船で、四人で押しだすには手頃の大きさだった。ごろごろ音をたてて、船は白堊の岩のうえを滑った。誰かが船底の砂嚢はとったほうがよかろうといったが、結局とらないまま水際に押していった。
 警備員の上役は、船にマストをたてているブラウンに注意した――
「満潮を利用しないとだめだよ。西北が吹いているから、船首を東北にむけて一息に突ききるんだ。でも燈台の東へでたら、引き潮になるとひどい目にあうよ。」
 にやにや笑って聞き流しながら、ブラウンは帆をはってうちよせる波をみた。船がゆるやかな波にのった時、彼が櫂で岸を突くと、船底のきしる音がして、船は岸をはなれて海にうかんだ。彼は舵をさしこみ、船尾に坐って帆綱をむすびつけた。
「あら! 帆綱をむすびつけたぞ! あんなことをしたら危ないんじゃないかな。無事にウィレットに船を返してやらんと、もうしわけがないのだが。」
 警備員の上役は、そんなことをいいながら、静かな海にしだいに遠ざかり行く船を見送った。それから他の者のあとをおって、建物のほうへ足をむけた。
 燈台は、ガードラー砂州の西南のはしに、細長い紡錘のような形をして、鉄筋の脚で立っていたが、満潮にちかいので、砂州のいちばん高いところも水につかっていた。足の長い、赤いぶかっこうな鳥が立っているようにもみえれば、どれい船が航海の途中でえんこしているようにもみえた。
 その燈台の手摺に、二人の男がよりかかっていた。いま燈台にいるのは、この二人だけなのである。一人は椅子にもたれて、右足の上に枕をおき、その上に左足をのっけていた。一人は手摺に望遠鏡をのぞけて、灰色の線をひいたような陸地や、二つの塔のたつ沿岸警備員の出張所をみていた。
「船はこないよ、ハリー、」と彼はいった。
 椅子にもたれた男は唸るような声で、
「潮がひくかもしれん。また一日待ちぼうけだ。」
「バーチントンまでつれて行ってもらって、あすこから汽車にのったらどうだ?」
「汽車はごめんだ。船だって嫌なぐらいなんだもの。ほんとに船はこないの、ゼフリズ?」
 ゼフリズは手で日光をよけて東を見ていたが、
「北からブリグ型の帆船がくるぜ。石炭船かしら。」望遠鏡をのぞいて、「前檣の上段トプスルの両がわに新しいカンヴァスを使っている。」
「トライスルには、どんなのをつけている、ゼフリズ?」熱心にきいた。
「よく見えん。」ゼフリズはこたえた。「分った分った。茶色だ。なんだ! あの船は『ユートーピア』だよ、ハリー。トライスルが茶色だったら、『ユートーピア』にきまってらあ。」
「ねえ、『ユートーピア』ならおれの町へ行くのだから、乗せてもらうよ。船長のモケットにたのめば乗せてくれると思うんだ。」
「そんなことをいったって、交代がこなくちゃだめだよ。交代がこないのに職場をはなれたら規則違反だ。」
「規則がなんだい! 規則よりおれの足のほうが大事だ。片輪にゃなりたくない。おれがここにいたってなんの役にもたたんのだし、交代のブラウンという男はどうせすぐくるにきまっている。ゼフリズ、たのむから旗をだしてあの船を呼びとめてくれ。」
「よし、君がそういうならしかたがない。だが、いっとくが、家に帰ることよりも、早く医者にみてもらうことだよ。」
 旗のはいっている戸棚をあけて二つの旗をだし、それを紐にむすびつけた。船がまぢかになると、紐をひっぱって旗竿の先にそれをひるがえした。「援助をもとむ、」という信号だった。
 まもなく、船のマストに石炭でよごれた信号旗がのぼり、それから船は速度をおとし、船首は潮の流れるほうへむけたまま、燈台のほうへあとがえりしだした。そして適当な距離に接近すると、二人の男がボートにのってきだした。
「おおい! どうしたの?」
 声が聞えるようになると、ボートの一人が叫んだ。
「ハリーが足を折ったんだ。」燈台守が答えた。「モケット船長にたのんで、フィッタブルまで乗せてかえってくれ。」
 ボートはまた船まで漕いでかえった。そして大声で相談していたがまた燈台のほうへ漕いできだした。
「船長が承知した。潮がひくと困るから急いでくれ。」ボートの男は大声でどなった。
 負傷した男は安堵の溜息をもらした。
「ありがたい。しかし梯子はおりられないんだが、どうして下へおりたもんだろう。ゼフリズ?」
「滑車でおりるんだね。君は綱の輪に腰かけていたらいい。揺れるようだったら、もう一本綱をおろしてやるよ。」
「そんならそうしよう。しかしゆっくり綱をおろしてくれよ。」
 ボートが鉄筋の脚に横づけになる頃には、すべての準備ができていた。綱の端に坐る彼は、滑車のきしる音に合せてなにやらどなりながら、大きな蜘蛛のようにぶらさがっておりた。彼の持物をいれた箱と袋もあとから綱でおろした。そんなものを収容したボートは、船にこぎかえるとまた彼やその持物を綱でつりあげ、それからブリグ型の石炭船は、ケントの浅瀬を南へむけて走りだした。
 ひとりになったゼフリズは、手摺のそばによって、船の人声の聞えなくなるまで見送った。だんだんその船は小さくなった。やかましい仲間がいなくなると、燈台が急にひっそりと、物淋しくなった。沖からの船はすでにプリンシズ海峡を通ってしまって、どちらをむいても静かな眺めだった。ガラスのように光る遠くの浅瀬に黒点のように浮ぶ浮標や、目に見えぬ砂州に立つ紡錘形の標識は、船のいない海を、いっそう淋しいものにしているように思われた。風に乗ってかすかに流れてくるシヴァリング砂州の浮標のベルの音が、ものうく、悲しげにひびいた。すでに彼は一日の仕事をすましていた。霧笛のモーターは掃除をすまし、油をさしていた。レンズは磨き、ランプの掃除もすんでいた。むろん、燈台のことだから、まだ小さい仕事はないことはなかった。だが、今のゼフリズは仕事に手を出す気にはなれなかった。今日は見知らぬ新参の燈台守がやってくる。これから長い間、日となく夜となく、その男といっしょに暮すのだから、その男の性格や趣味や習慣によっては、よい仲間ともなろうし、朝から晩まで腹を立てていなければならぬ仲間ともなろう。ブラウンというのはどんな男だろう? いままでなにをやっていたのだ? どんな顔の男なのだ? むりもないことだが、彼はいつもの仕事もそっちのけに、そんなことばかり考えた。
 だしぬけに陸のほうの水平線に、黒い点のようなものがあらわれた。望遠鏡をとって熱心に彼はそれを見つめた。やっぱり船だった。だが、彼の待ちうけている警備員の船ではなく、漁船にちがいなかった。しかもそれに乗っているのは一人だけだった。がっかりして彼は望遠鏡をしたにおいた。そしてパイプに煙草をつめて手摺にもたれかかり、喪心したようにぼんやりと灰色の陸の線をみつめた。
 三年間も彼はこの孤独な生活をつづけたが、活動好きの彼にとって、それは好ましい生活ではなかった。三年間も彼はなにも考えず、無限につづく夏のなぎ、冬の夜の暴風雨と冷たい霧をむかえた。霧の夜はこちらから霧笛を鳴らし、見えない船からも不気味な汽笛がきこえた。
 どうしてこんな神に見はなされた場所へ彼はきたのだろう? 広い世間が彼を呼ぶのに、どうして彼はここを去らないのだろう? 彼の頭のなかに一つの光景がよみがえった。時々思いだす光景が、また頭によみがえって、目の前の静かな海や、はるかな灰色の陸地を消してしまった。それは極彩色の絵だった。深い青い熱帯の海のうえには、一片の雲も浮んでいなかった。その絵のまんなかに、一つの白塗りのバーク型の帆船が、ゆるやかな波のうねりに浮きつ沈みつしながら進んでいる。
 だらしなく帆をひっぱりあげて、綱がゆるんでいるので、帆桁はぐらぐら動き、誰も握っていない舵輪は、舵がゆれるごとに、ひとりでに回っていた。
 しかし無人の船ではなかった。十人以上の人がデッキにみえるが、みな眠ったり、酔っぱらっていたりして、まじめな人の姿は一人も見られない。しかも、水夫ばかりで、指揮するものがなかった。
 つぎに彼の前に現れたのは船室の光景だった。海図をいれる棚や、コンパスや、クロノミーターがみえるから、船長室にちがいなかった。そこに男が四人いた。二人はすでに死んで倒れている。生きている二人のうちの、小柄でずるげな顔の男は、しゃがんで死人の服でナイフの血をぬぐっている。第四の男は彼自身だった。
 つぎに彼の見た幻は、彼ら二人が、酔っぱらいどもの船を見すてて、こっそりボートで脱走する光景だった。船は大波のたち騒ぐ砂州にむかって漂流していた。だが、次の瞬間、太陽にあたった氷のつつらのように[#「つつらのように」はママ]、波にのまれて消えてしまう。そして、船を見すてた彼ら二人は、まもなく大きい船に救いあげられ、アメリカの港に上陸する――
 それが、彼のこんな燈台守となった理由なのである。殺人を犯したからこんなところにいるのだ。もひとりの悪党、トッドは彼を裏切り、彼を悪しざまにいいふらした。一時はどうなることかと気をもんだが、彼はあやうく逃亡してことなきをえた。それいらいゼフリズはずっと世間から隠れつづけてきた。そしていまこの燈台に隠れているのだ。でも、それは法律を恐れているのではない。同じ船の者がみな死んでしまった今となっては、彼がジェフリー・ロークであることを知っている者はないからだ。彼が恐れているのは共犯者なのだ。共犯者がこわいから、ジェフリー・ロークの本名を変え、ゼフリズと名のり、こんな燈台守となって、生きながらの囚人のような生活をしているのだ。トッドは死ぬかもしれぬ――すでに死んでいるかもしれぬ――それを知る方法はないのだ。彼の釈放の知らせでさえ耳にすることはできないだろう。
 ゼフリズは、また体を起して、望遠鏡でむこうの船をみた。こんどは大きくなって、燈台にむかって近づきつつあることがはっきりと分った。なにか知らせることがあって、この燈台に近づいているのかもしれない。とにかく、交代の男ののっている警備員出張所のボートでないことはたしかだった。
 彼は部屋にはいって、簡単な食事の準備にとりかかったが、料理すべき材料はすくなかった。ただ昨日の冷肉が残っていたので、そのそばにじゃがいもがわりのビスケットをつけた。妙に落着きなく気持がわるかった。たえがたいほどの孤独感におそわれて、鉄筋の脚をうつ波の音が神経をいらだたせた。
 しばらくして手摺のそばへ出てみると、潮はひきはじめて、船は一マイルぐらいの距離に接近していた。眼鏡でみると、船の男は水路組合の制帽をかぶっていた。それで今後ともに暮すべきブラウンであることが分った。だが、ブラウンならどうしてあんな船で来るのであろう? 船をどうするつもりなのだろう? 誰が船を返しに行くのだろう?
 いままで吹いていたそよ風が吹かなくなった。船の男は帆をおろして櫂を使いだした。その櫂の使いかたが、いくぶん慌てぎみにみえたので、ゼフリズが不審に思って水平線を見まわすと、この時初めて気がついたのだが、東の海面は霧におおわれ、ガードラー砂州東端の標識は、すでにそのため見えなくなっているのだった。急いで彼は燈台のなかにはいり、圧搾空気が霧笛にはいるよう、モーターをかけてしばらくそのぐあいを見、それからまた霧笛の唸りで震動する床を踏んで、手摺のある回廊へでた。
 この時には、燈台はまったく霧に包まれて、むこうの船もみえなかった。耳をすましたがなにも聞えなかった。霧が目をさえぎるように、耳もさえぎられているのではあるまいかと思われるほどだった。時々ホーンが警告を発するように怒号した。怒号がやむとまたひっそりとなって、鉄筋にくだける波の音、それからかすかなシヴァリング砂州の浮標のベルがきこえた。
 しばらくすると、波を掻く櫂の音がきこえ、目のしたの霧の中に丸く浮かびでた灰色の視野のはしに、けんめいに櫂をこぐ男の姿が、幽霊のように蒼白くおぼろに見えだした。またホーンがうつろに唸った。その男はふりかえって燈台の脚を見、進路をかえて、そのほうに船首をむけた。
 ゼフリズは鉄梯子をつたって下の回廊におり、鉄梯子の上に立って熱心に下を見おろした。すでに彼は孤独に疲れていた。ハリーが燈台を去ってから、仲間を待ちうける心が、いっそう強くなっていた。だが、これからの彼の生活に深い関係をもつにいたる、その新来の仲間はどんな男であろう? それはつぎの瞬間に分るはずだった。
 すばやく船は潮の流れを横切った。しだいに燈台の脚に接近した。それでも、ゼフリズは新来の仲間の顔を見ることができなかった。やがて音を立てて舷側が鉄筋にくっつくと、その男は櫂を船にいれて梯子をつかんだ。上からゼフリズは綱をなげた。それでも、その男の顔は見えなかった。
 ゼフリズは鉄梯子の上に首をのぞけて、下の男が、綱を船に結びつけたり、帆をおろしてマストをはずしたりするのを、じっと熱心に見おろしていた。船の始末をすると、その男は紐の先についた小箱を肩にかけ、一段々々とゆるゆる鉄梯子をのぼりはじめた。ゼフリズはその男の頭を、好奇心をもって見つめていたが、その男は決して上に顔をむけなかった。その男が梯子をのぼってしまうと、ゼフリズは手をかしてやろうと思って身をかがめた。すると、初めてその男が顔をおこした。
 その瞬間、ゼフリズは紙のように白くなって身をひいた。
「よお! お前はエイモス・トッドじゃないか!」あえぐように彼は叫んだ。
 新参の燈台守が回廊を踏むと、餌えた怪物のようにホーンが唸りだした。ゼフリズはなにもいわずに、彼に背をむけ、黙々と鉄梯子をのぼった。彼もあとから鉄梯子をのぼった。二人ともものをいわないので、梯子を踏む音のみが聞えた。二人が部屋にはいると、ゼフリズは手で合図をして小箱をおろさせた。
 トッドは部屋を珍らしげに見まわし、
「君は妙に黙っているんだね。『こんにちは、』ぐらいいってもいいじゃないか。これからは毎日いっしょに暮すんだもの。おれの名はジム・ブラウン。君は?」
 ゼフリズは、窓ぎわで彼のほうに顔をつきだし、
「よくおれの顔を見てくれ、エイモス・トッド。顔を見たうえで名をきいてくれ。」
 いわれて相手の顔を見たトッドは、はじめて死人のように蒼くなって、
「お前は、お前は、ロークか!」
 ゼフリズは声をだしてわざとらしく笑った。そして体を前にのりだし、低い声で、
「分ったか、おれの敵!」
「敵だなんてひでえことをいうなよ、ローク。ひさしぶりに会えておれは嬉しいよ。髭がないし、髪が白くなっているんで、すっかり見損ってしまった。おれが悪かった、ローク、それはおれにも分っている。しかし昔のことをいってみたって仕方がないから、昔のことは忘れようじゃないか。そして、いぜんのような仲好しになろう。」
 そういって、彼はハンケチで顔をなでて、心配そうに相手をみた。
「まあ坐れ。」ロークは粗末なきれを張った腕椅子を指さした。「坐ってゆっくりあの金をどうしたか話してくれ。こんなところへやってくるぐらいだから、どうせあの金は使ってしまったんだろう?」
「盗まれた、ローク、一文も残らず盗まれてしまった。あのシーフラワという船の事件は大変だったね。しかし、もうすんだことだから、忘れてしまおう。みんな死んでしまったんだから、二人で黙っていさえすればすむことなんだ。みんなお陀仏だ、海の底で――あの連中のいばしょとしては、海の底がいちばんいいのじゃないかね。」
「そりゃ、秘密を知った人間のいばしょとしては、綱にしばられたり、海の底に沈んでいたりするのがいちばんいいだろう。」
 ゼフリズは、いやロークは、せまい部屋のなかを往きつ戻りつ、足ばやに歩きまわった。彼がそばへ来るごとに、椅子にすわるトッドは、ひやひやして体をちぢめた。
「そんなにおれの顔ばかり見ないで、煙草をすうとか、なんとかしたらどうかね?」ロークはいった。
 あわててトッドはパイプと煙草入れをだし、煙草を詰めて口にくわえて、ポケットのマッチをさぐった。マッチはポケットのなかでばらばらになっていた。先に赤いもののついたマッチを一本とりだして、彼は壁にこすりつけて蒼白い炎をだし、始終相手に気をくばりながら、すぱすぱ吸ってパイプに火をつけようとした。
 ロークは立ちどまって、大きな折りたたみナイフで、煙草のかたまりをけずった。けずりながら、時々むつかしい顔でトッドを見た。
 トッドは二三度パイプを吸ってみたあとで、
「このパイプは詰っている。なにか針金のようなものはないか?」
「ないね、」と、ロークはこたえた。「ここにそんなものはないよ。こんどついでがあったら持ってきてやるから、そのあいだおれのパイプを使え。パイプだけはたくさんある。」
 いきどおりに心は燃えていながら、ロークはつい船乗りの習慣的な親切気をだして、自分の持っていたパイプをトッドのほうへ押しやった。
「ありがとう、」と、口のなかでつぶやいて、トッドはナイフに気をくばりながらそのパイプをとった。
 壁ぎわに、板にたくさん穴をあけた手製のラックがあって、そこに五つ六つのパイプがかかっていた。ロークがその一つを取ろうとして、トッドの椅子の後に手をのばすと、トッドはまっ蒼に顔色をかえた。
 ロークがまた煙草をあらたに刻みはじめると、トッドはそばからそれをみながら、
「どうだい、ローク、昔のように仲好しになろうじゃないか?」
 その言葉をきくと、またロークの心が火のように燃えた。
「おれのことを悪しざまにいいふらしておきながら、今さら仲好しになろうなんて、よくそんなことがいえたもんだ。」きびしく彼はいった。しばらくしてまたつけくわえた。「そのことはよく考えてみることにしよう。おれはエンジンを見てくる。」
 ロークが立ち去ると、新参の男は手に二つのパイプをもって考えこんだ。考えながら、借りたパイプを口にくわえ、詰ったパイプをラックに掛けて、また機械的にポケットに手をつっこんで、マッチをいっぽんだした。そして、しきりに考えながら、マッチをすってパイプに火をつけ、そっと立ちあがって、耳をすまして部屋を歩いた。
 ドアのそばで彼はまた耳をすまして立ちどまった。外は霧につつまれていた。彼は足音を忍ばせて回廊を歩いて、階段のうえのところへでた。
「おい、トッド! どこへ行く?」
 ふいにロークの声がしたので、トッドはびっくりした。
「なに、船が流れはせんか、見に行ってくるんだよ。」彼はこたえた。
「船のことは心配せんでもいい。おれがみてやるから。」
「そうか。」
 トッドはそう答えたが、ひきかえそうとはせず、
「だが、あの男はどこにいるの――おれと交代する男?」
「誰もいやせんよ。あの男は石炭船にのって、もう帰ってしまったんだ。」
 トッドの顔は一瞬に死人のようになった。
「おれたち二人だけか!」そうあえぐようにいったが、すぐまた心中の不安を隠そうとするかのように、「そんなら誰が船を返しに行くんだろう?」
「それはあとできめよう。それより箱のなかの物でもかたづけたらどうだ。」
 そういいながら、ロークはしかめ面をして、回廊にでてきた。トッドは恐怖をうかべた目で彼をふりかえり、また逃げるように鉄梯子のほうへ行きかけた。
「かえれ!」
 どなってロークは回廊を追っかけた。
 だが、この時には、トッドは鉄の階段をおりていた。ロークが階段の上へ来た頃は、トッドは階段をおりて下の回廊に立っていた。だが、慌てて階段をおりたため、彼はそこでよろめいて、あやうく階段の手摺につかまったが、そのまに上からロークがおりてきた。トッドが鉄梯子の手摺をにぎると、ロークは後から彼の襟をむずとつかんだ。トッドが振りむくと、ロークは彼を殴りつけて罵った。トッドもなにか叫んだ。その拍子にナイフが宙をとんで下の船の船首倉に落ちた。
「この人殺しの悪魔め!」ロークは血のにじんだ手で相手の襟をつかんで、気味がわるいほど落着いた声でいった。「ナイフを使うのは相変らず上手なんだろう? どうしておれのことを喋ったか?」
「喋りゃせんよ。」トッドは息が切れるような声だった。「喋りゃせん。放してくれ、ローク。悪気はなかったんだよ。ただ――」
 ふいに彼は片手をもぎとって、力まかせにロークの顔を突こうとしたが、ロークは彼の手を払いのけ、その手頸をつかんでぐいと押した。
 トッドは二三歩後によろめき、あやうく梯子の穴の端で踏みとどまって、口を開け、目の玉がとびでるほど大きく目を見開いて、なにかに取りすがろうとして両手を振っていたが、次の瞬間、恐ろしい悲鳴をあげて穴に墜落し、途中で鉄筋の横棒に衝突して、また下の海に落ちていった。
 たしかに鉄筋に頭を打ちつける音がしたに拘らず、不思議に彼は気絶しもしないで、水面に頭をもたげ、ばちゃばちゃもがいて、切れ切れの声で救いをもとめた。だが、ロークは大息をして歯をくいしばり、身動きもしなかった。はじめは頭をもたげて、しぶきを立てていたが、潮に流されて頭の形は次第に小さくなり、ついには救いをもとめる声も聞えなくなった。と思うと、霧のなかに黒い点のように見え隠れしていた頭が、またぽっかり浮かびあがって、死にぎわの最後の絶望的な悲鳴をあげ、霧笛はその叫声に答えるかのように、高く響いたが、頭はそれきり沈んで、二度と浮かびあがらなかった。そして、海の上におおいかぶさる恐ろしい沈黙のなかで、かすかなベルの音だけがいつまでも響いた。
 ロークは立ったまま身動きもしないで考えた。遠くのほうから汽船の汽笛がきこえた。やがて潮は引くであろう。霧も晴れるであろう。下にはまだ船がつないである。一時も早くその船を処分しなければならぬ。船が燈台につくところは誰も見なかったはず。いまその船が下に繋いであるところは、誰にも見せてはならぬ。船を処分しさえすれば、トッドが来た証拠は[#「証拠は」は底本では「証処は」]なくなるのだ。
 彼は鉄梯子をくだって、船の上におりた。処分の方法は簡単だった。船底には砂利の袋を積み重ねて[#「積み重ねて」は底本では「種み重ねて」]あった。だからちょっと水を入れさえすればいいのだ。
 彼は砂嚢をすこしばかり移動させて、床板をあげ、栓をぬいた。すぐ勢よく水が侵入しだした。しばらく水の噴出ぶりを観察して、すぐ沈没する見きわめがつくと、また船底に床板をおき、マストや帆桁が離ればなれにならぬよう、帆綱を横木に巻きつけ、船を鉄筋に繋いであった綱をといて、鉄梯子をあがった。
 いちばん上の回廊にたって、潮に流される船を見ていた彼は、ふとトッドの木箱が残っていることに気がついた。それはまだ下の部屋にあるはずだった。いそいで彼は階段をかけおり、その箱をとりあげて、手摺のそばへよった。あたりを見廻すと、まだ霧は深々とたれこめて、付近を通る船の影は見えなかった。彼は箱を手摺の上に持ちあげ、ばさんと海に落した。浮かんで潮に漂って、船やトッドを追っかけるかと思っていたのに、その箱はすぐ沈んでしまった。彼はまた上の回廊にかえった。
 霧が薄らいだので、流れていく船がおぼろにみえた。予期にはんして沈むまでの時間が長いので、不安を感じて望遠鏡をとった。もしいま誰かが船を発見したら厄介なことになろう。栓を抜いたまま漂流しているのを怪しまれたら、どんなことになるだろう?
 じっとしていられないほど彼は心配だった。望遠鏡でのぞくと、今にも沈没しそうな状態で流れつつあるのに、まだデッキが少しばかり浮かんでいる。霧は刻一刻と薄れていく。
 だしぬけにまぢかなところから船の汽笛が響いてきた。あわててぐるりを見まわしたが、汽船の影は見えなかった。また彼は望遠鏡で沈没しつつある船の影を追った。やがて彼は安堵の溜息をもらした。船が片一方に倒れたと思うと、ちょっとはげしく動揺して完全にかたむき、波が舷側の上ぶちを越した。
 まもなく船は視界から消えた。ロークは望遠鏡をおろして大息をした。もう安心だ。船は沈んでしまった。彼は安全になったばかりではない。自由な身になった。
 彼をいじめぬいた悪魔、生涯彼につきまとって、彼を威しつづけると思われた悪魔は消えてしまった。彼は生命と、行動と、歓楽にみちた広い世界の呼声をきいた。
 霧はすっかり晴れた。明るい太陽が、赤い煙突のある家畜船を照した。いましがた彼をおびやかしたのは、この船の汽笛だったのだ。空と海に夏らしい青がよみがえった[#「よみがえった」は底本では「よみがった」]。そして水平線のはしにまた陸地が見えだした。
 気も軽々と、彼は口笛を吹きながらなかにはいって、霧笛のモーターをとめた。それからトッドに投げてやった綱をたぐりあげた。そして救助をもとめる信号旗をだすと、また一人で楽しげに食事をはじめた。
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推理編

医者クリストファー・ジャーヴィスの談話


 どんな科学上の仕事にも、肉体的の労働は必要で、人生は短かく、学問は長いので、科学者が全部の仕事を受けもつというわけにはいかないのである。化学の実験をするには、実験室やその設備を掃除せねばならぬが、そんなことを化学者が一々やっていられるものではない。たとえば一つの骨格を作る時には、薬液に浸したり、漂白したり、それをつなぎ合わせて一つ一つの骨をとめたりするようなことは、暇のある助手に手伝ってもらうのである。その他の科学実験でも同じことだ。知識のみをもつ科学者ソーンダイクの実験室の助手ポールトンは、仕事になれ、いろんなことを心得ているうえに勤勉だったので、ソーンダイクにとって、欠くべからざる存在だった。そればかりでなく、彼は発明の天才でもあった。そして、彼が作った、発見品の[#「でもあった。そして、彼が作った、発見品の」は底本では「でもあったそして、彼が作った。発見品の」]ひとつが仲立ちとなって、これからのべる不思議な事件に私たちは接触するにいたったのだった。
 もと時計屋だったポールトンは光学器械をいじるのが好きで、レンズをつくるのは、彼の道楽みたいなものだった。そして、ある日彼が燈浮標につけるプリズムを改良したのをソーンダイクに示したので、ソーンダイクが早速それを水路組合の友人に紹介したのだった。
 その結果、私たち三人――ソーンダイクとポールトンと私――は、ある晴れた七月の朝、ミドル・テンプル・レーンから、テンプル波止場へ出かけることになった。浮棧橋のそばに小型ランチが横づけになっていた。私たちが近づくと、そこから赤ら顔、白い鬚の紳士が顔をだして、
「今日はいいお天気になりました、ソーンダイクさん。」船乗らしい、よく通る、響きのある声だった。「河を下るにおあつらえむきの天気です。よお、ポールトン君、君がいろんな物を発明するので、私たちはパンが食えなくなるじゃないか、あははは!」波止場を離れる小さいランチのエンジンの音に混って、彼の快活な笑声が河面にひびいた。
 このグランパス船長は、水路組合の先輩の一人だった。そして、かつてある事件の調査をソーンダイクに持ちこんだことがあるので、ソーンダイクに調査を持ちこむ他の多くの人と同じように、そのごずっとつづいて彼の友だちになり、助手のポールトンとまで仲好しになっているのである。
「船の専門家が、法律家やお医者さんの助力をあおぐなんて、どうもなさけないことですな。」船長は笑いながらつづける。「これじゃ口がひあがってしまう。ねえ、そうだろう。ポールトン君?」
「もう普通の場所には、手掛けるようなものがないのですよ。犯罪だけは相変らずさかんに行われていますが。」ポールトンはてれくさそうに笑った。
「犯罪がさかんですか? それで思いだしたんだが、ソーンダイクさん、妙なことが起ったのですが、これはどうもあなたの畑らしいですよ。そうだ、わざわざご足労をわずらわしたんだから、この出来事もひとつ調べてみてくださらんか?」
「結構ですとも。」ソーンダイクは答えた。
「そうですか。そんなら話しましょう。」船長は葉巻に火をつけ、二三度煙をはいて、「手短かに話すとこうなんです。燈台守が一人姿をかくして、どこへ行ったのやら分らなくなった。逃げたのかもしれないし、あやまちに溺死したのかもしれないし、誰かに殺されたのかもしれない。だが、順序をおってはじめから話しましょう。先週のおわり、一そうの船が、ガードラー燈台からの手紙を、ラムスゲイトへ運んできたのです。その燈台には燈台守が二人しかいないが、そのうちの一人が足を折ったから、船をよこしてくれというのです。ところが、その時ちょうど燈台通いのワーデンというランチが、塗りかえでラムスゲイトのドックにはいっていたのです。で、ラムスゲイトの係りの者は、翌日の土曜日の朝、ランチがわりの船を送るから、負傷者はそれにのれといってやった。係りの者は、沿岸警備出張所のそばに泊っているブラウンという交代員にも手紙をだし、土曜日の朝、出張所の船で燈台へゆけと命令し、また出張所にも手紙を出して、ブラウンという男を燈台まで送りとどけてくれといってやった。ところが、妙なことから手違いになって、ちょうどその日、出張所には人手も船もなかったので、ブラウンは漁船を借りて一人で燈台へむけて出発したのです。足を折った男がその船で帰ればちょうどいいぐらいに考えていたのでしょう。
「ところが、足を折った大男は、交代のブラウンが来ないうち、フィッタブルの男だったので、フィッタブル行きの石炭船が通るのを見つけて、その船に乗せてもらって燈台を去ってしまった。だから、その燈台にはゼフリズという男が一人残って、ブラウンが来るのを待つようになったのです。
「そのブラウンはいつまで待っても燈台にやってこなかった。出張所の者はブラウンの船が沖へ出るまで見送り、また燈台のゼフリズも、人間が一人乗った船がこちらへ来るのを見たといっている。しかしその時深い霧がおりてきて、船もなにも見えなくなり、霧が晴れてみたら、もうその船は影も形もなくなっていた。船も見えねばそれに乗っていた人間も見えないのです。」
「霧のなかで、なにかにつき当って、沈没したのじゃないのですか?」ソーンダイクはいった。
「そうかもしれません。しかし船が沈没したような報告はない。出張所の者の話では、ブラウンは船を出す時、帆綱を結びつけていたから、スコールにあって沈没したのじゃないかといっていますが、その日はスコールどころか、ごく平穏な天気だったのです。」
「出発の時その男は元気だったのですか?」ソーンダイクはきいた。
「そうらしいです。警備員の報告はただ見たことを書いただけで、意味をなさないんですが、こんなことを書いてあるんですよ。」船長は役所の報告書をポケットからだして、「最後に見た時、ブラウンは船尾の舵輪のそばに風上にむかって坐っていた。彼は帆綱を結びつけてしまった。そして舵輪に肘をかけて、パイプと煙草入れを手にもっていた。どうです、ソーンダイクさん、詳しいでしょう? パイプを足でもったとかかずに、手でもったとかいてある。石炭箱や哺乳壜から煙草をだしたんじゃない、煙草入れから煙草をだしたとかいてある。ちぇっ! 分りきったことばかりかいている!」
 船長は報告書をポケットにしまうと、軽蔑するような顔で葉巻を口へもっていったが、ソーンダイクは笑わなかった。
「そんなに警備員をわるくいうもんじゃないです。証人というものは、自分で勝手な判断をしないで、見たことは全部はなすべきものなんです。」
「しかし、ソーンダイクさん、ブラウンがなにから煙草を出したかというようなことは、問題にすべきではないでしょう?」
「いや、そんなことが必要になるかどうか、まだ分らんですよ。ことによると大切な証言になるかもしれない。まだ今のところどうなるか分らないのです。ある一つの事実が重要であるかないかは、ほかの事実と連関させてみて初めて分ることですから。」
「それはそうかもしれませんが。」
 船長はそれきり黙って、煙草をふかしていた。ブラックウォールへ着くと、彼は慌てて立ちあがり、
「うちの棧橋へトロール船がついているぞ。」といって小型の汽船をしばらく見ていたが、
「なんだか棧橋へあげているらしい。ポールトン君、双眼鏡をかしてくれ。なんだ! 死体じゃないか、死体をあげているんだ! どうしてあんなものをうちの棧橋へあげるんだろう? ソーンダイクさんがここに来られることを知っているのかな。」
 棧橋へランチが横づけになると、船長は人ごみを掻きわけて、
「どうしたんだ? どうしてこんなものをここへ持ってきたの?[#「持ってきたの?」は底本では「待ってきたの?」]
 指揮をしていたトローラーの船長が、理由を説明した。
「この男はあんたのところの人ですよ。引潮の時、サウズシングルズ砂州の付近を通っていたら、砂州のはしにこの死体が浮んでいたので、すぐボートをおろしてひろってきたんです。誰だか分らんのでポケットをさがしたら、こんな手紙がでてきました。」
 彼は船長に手紙を渡したが、封筒は組合の封筒で、「ケント州、レカルヴァー、牧場小屋、ソリー様気付、ブラウン様、」と書いてある。
「なんだ! いま話した行方不明になった男というのはこれですよ。これは不思議なはちあわせだ。この死体はこれからどうしましょう?」船長のグランパスはきいた。
「すぐ検屍官に通知するんですな。」ソーンダイクはそう答えたあとで、トローラー船の船長にむかい、「死体のポケットは調べてみたんですか?」
「まだなんです。一つのポケットをさぐったら手紙がでてきたので、そのほかのポケットは探す必要がないと思って、そのままにしときました。まだほかに、なにかおききになりたいことがありますか?」
「なにもありません。検屍官に知らせなくちゃならんですから、あなたのお名前と住所だけ、お伺いしときましょうか。」
 ソーンダイクがそういうと、彼は検屍官にあまり長く引っぱらないように頼んでくれといったあとで、名前と住所をいい、それからビリングスゲイトの魚市場へ船をいそがせた。
「どうです、私たちはこれから、ポールトン君の発明品を試験しに行きますけれど、あなたがたはここで死体をお調べになっては?」
 グランパス船長はそういった。
「検屍官の許可がないと立入ったことは調べられないんですが、しかし、ご希望でしたら、ジャーヴィス君と二人で、表面上のことだけでも調べてもいいですよ。」
「そんなら、そういうことにしてください。たぶん過ちだとは思いますが。」
 ポールトンが大切な発明品のはいった黒い鞄をもって、グランパス船長にともなわれて船にのると、私たちは小屋にはいって、死体の検診をはじめた。
 死人は海員らしい服を身につけた小柄の年寄で、まだ死んでから、二日か三日しかたたないものらしく、溺死した死体は、普通魚や蟹のようなものに食い荒らされているものだが、そんな様子もなく、ただ後頭部に不規則な擦過傷があるだけで、そのほかには骨折もなければ、大きい傷もなかった。
 ソーンダイクはそんなものを一通り調べたあとで、
「まあ、ちょっと見たところでは溺死だろうね。むろん解剖がすむまでは、なんとも断定はできないが。」
「そんなら、その後頭部の傷には、重要性がないというのが君の意見なのか?」私はきいた。
「重要性といって死因という意味? 死因じゃないね。生きている時に受けた傷ではあるが、これは斜めに物体に触れた傷だから、骨は損傷を受けていない。もっとも、この傷にはほかの意味で重要性があるけれどね。」
「ほかの意味というのは?」私はきいた。
 ソーンダイクはポケット・ケイスからピンセットをだして、
「この男は燈台をめざして船を出したが、向うへ着かなかった。では、どこへ着いたかが問題なのだ。」
 しゃがんで、ピンセットで傷の周囲の髪を起してみて、
「この、傷口や髪のあいだの、白いものをよく見たまえ、ジャーヴィス君。これを見たら、あることが分るはずだ。」
 私はその白堊の粉のようなものをレンズでのぞきながら、
「これは貝殻や海中の虫の殻のようなものが粉になったのだろう。」
「そう。ふじつぼの殻や、サーピュラという虫の、管のような殻が粉になったものだ。だからこれは大切なことを知らしてくれる。すなわち、この傷はふじつぼやサーピュラでおおわれた物と衝突してできたのだ。ということは、定期的に海中に沈む物と衝突したということになる。では、その定期的に海中に沈む物というのはなにで、また、どんな理由でそんな物と衝突したのだろう?」
「船の底かもしれないよ。船の底が頭の上を乗りこしたのだ。」私はいった。
「船の底にはサーピュラはめったにつかないよ。」ソーンダイクはいった。「それより、いつも海の中に立っている標識塔のようなものと考えたほうがいい。標識塔なら、この二つがくっついている。けれども、標識塔に頭をぶっつけるというようなことはめったにない。そのほか、あのあたりで、この二つの物がくっついているものに浮標があるが、これは丸くて角がないから、まずこんな傷はできないものと考えてよかろう。それはそうとして、ポケットになにがあるか見ることにしよう、窃盗が目的で殺したのではないとは思うが。」
「それは窃盗じゃないよ。」私はポケットから時計をとりだし、「これは立派な銀時計だ。十二時十三分でとまっている。」
「十二時十三分、」と、ソーンダイクは時刻を書きとめ、「ある物はもと通りに入れといて、ポケットは順番に一つずつ調べてみることにしよう。」
 私たちが一番に裏返してみたのは、左の尻のポケットだったが、これはトロール船の船長が手をつっこんだポケットだったとみえて、水路組合の紋章のある封筒に入った手紙が二つ出てきた。私たちはその手紙はどちらも見ないまま元通りポケットに返し、右のポケットにうつった。出てきたのは平凡なものばかりで、ブライアのパイプ、もぐらの皮でつくった煙草入れ、ばらばらになったマッチなぞ。
「ずいぶん投げやりだね。」私はいった。「箱にいれないでマッチを持ちまわるなんて。しかもパイプといっしょだ」
「そう。」ソーンダイクも同感だった。「しかも蝋マッチだ。見たまえ、硫黄をつけた上に赤い燐をつけてある。こんなのはすぐ発火して、なかなか消えない。だから風の吹くところで煙草に火をつける船乗りなぞが、こんなものをよく使うのだ。」
 そういったあとで、彼はパイプを取りあげ、その方々をよく見たあとで、煙草をいれる鉢を覗いたりしていたが、ふとパイプから視線を死人の顔にうつしたと思うと、ピンセットでその唇を起して口のなかをのぞき、
「煙草入れにはどんな煙草がはいっている?」と私にきいた。
 私は濡れた煙草入れをあけ、黒っぽい刻みをだして、
「刻みだね。」
「そう、刻みだ。では、このパイプにどんな煙草がはいっているか出してみよう。半分しかすってないようだ。」
 すいがらを彼はナイフで紙の上にほじくりだしたが、刻みでないことはすぐに分った。ほとんどまっ黒といっていいほどの濃い色をした、ばらばらの粉になった煙草だった。
「これは板のように固めたのを、ナイフで削って吸う煙草だ。」
 私がそういうと、ソーンダイクもうなずいた。彼は煙草を調べおわると、またもとのようにそれをパイプにつめた。
 その他のポケットからは、大して注意をひくような物は出てこなかった。ポケットナイフが出た時には、ソーンダイクはよくそれを調べた。金は沢山ではないが、誰でも予期する程度の金はもっていた。そして、それで物取りの殺人でないということだけは推察できた。
 ソーンダイクは死人の細い革帯を指さして、
「そこに革の鞘のついたナイフはない?」ときいた。
 私は上着をはぐってみて、
「鞘だけはある。けれどもナイフはない。落ちたんだろう。」
「それはおかしい。船乗がもつ鞘つきナイフは、そんなに易々とぬけるもんじゃない。あれは船乗りがマストなんかに登った時、片手で帆桁につかまり、片手で引き抜くようにできてはいるが、ひとりでに抜け落ちるようなことはない。刃ばかりでなく、柄も半分ぐらいは革の鞘のなかにはいっているんだもの。ここで注意せねばならんことは、この男がポケットナイフを持っているという事実で、ポケットナイフをもっていれば、たいていのことはそれですむわけだから、鞘のあるナイフのほうは、護身用としてもっていたと考えられる。つまり武器として持っていたのだ。しかし、まだ解剖はすまないんだから、それ以上のことはなんともいえない。船長がかえってきた。」
 グランパス船長が小屋にはいって、憐れみを浮かべた目で死人を見た。
「どうです、この男がどうして死んだか、その理由がお分りになりましたか?」彼はそうきいた。
「一つ二つ面白い事実に気がついたんですが、そのもっとも大切なことが、なんと、あなたがお笑いになった沿岸警備員の述べたことに関係しているのです。」
「笑いやしませんよ。」
「警備員は船を出す時のこの男が、煙草入れの煙草をパイプに詰めたと書いていたでしょう。ところが、よく調べてみると、その煙草入れの中には、刻み煙草がはいっているのに、パイプに詰っているのは、ナイフで刻んで使う固い煙草なのです。」
「ポケットを探したら固い煙草がはいっているでしょう?」
「そんなものはどこにもない。むろん一回分だけ持っていたということもありうるわけですが、それにしてもパイプに詰めるには、ナイフで刻まねばならんですが、あの煙草はナイフで刻むと刃がまっ黒になるのに、ナイフの刃がすこしもよごれていないのです。革の鞘のある大ナイフが紛失していることは事実ですが、煙草を刻む時には誰だってポケットナイフを使いますからね。」
「それはそうです。パイプは一本しか持っていないんですか?」
「一本だけです。それも自分のパイプじゃない。」ソーンダイクはいった。
 大きな浮標のそばに立って、船長はソーンダイクをじろじろ見た。
「自分のパイプじゃない? 自分のパイプでないということが、どうして分るのです?」
「硬化ゴムでつくった吸口をみれば分るのです。このパイプの吸口には、歯のあとがたくさんあって、そこのところが溝のようにちびていますが、これはパイプを強くかんだ証拠です。だから、このパイプの持主は、丈夫な歯並がそろっているはずなんです。だのにこの男には歯が一本もない。」
 船長はしきりに頭をひねっていたが、
「どうも私にはわけがわからん。」
「わかりませんか? 私はこれには深い意味があると思うんです。ここに一人の男がいて、その男が船をだす時には、ある特殊の煙草をパイプにつめていた。だのに、死体となったその男のパイプには、全然ちがった種類の煙草が詰っていた。では、その煙草はどこから来たか? 答えは簡単です。その男は途中で誰かと会ったのです。」
「まあ、そんなことになりますな。」船長は、同意した。
「それから、大ナイフが紛失していることも見のがしてはならない。これには意味はないのかもしれないが、でも、やはり一応覚えておく必要があるように思うのです。それから、もうひとつ面白いことがある。後頭部の擦過傷ですよ。これはふじつぼや海中の虫のくっついた、なにか固いものと衝突してできた傷らしい。けれども、あのへんには棧橋のような固い物はないから、なにに衝突したかというのが問題になってくるのです。」
「いや、それはしかし、なんしろ死体は三日間も潮に漂っていたんだから――」
 船長がそういいかけるのを、ソーンダイクはさえぎって、
「死体がどうのこうのという問題じゃないのです。傷はまだ生きているうちにできたのですから。」
「そいつは困ったな!」船長はいった。「では、こういうふうに解釈したらどうです? 霧の中で標識に衝突して、船底に穴をあけると同時に頭に傷をうけた。少々こじつけの解釈ですが――」そういって、むつかしい顔で、船長は下をむいて考えていたが、
「ではこうしたらどうでしょう。あなたのお話をきくと、これはなかなか重大な事件らしい。ですから、私、今日ランチであすこへ調べに行きますから、あなたもドクター・ジャーヴィスといっしょに、おいでになってください。ここを十一時ごろ立てば、三時には燈台へ行けると思うんです。そしたら、あなたは今夜のうちにロンドンへお帰りになることができるわけです。どうでしょう?」
「では、そういうことにしましょう。」
 夏の朝の、ラグスビーホールあたりの河景色や、船の乗り心地を愉快に思った私は、乗りきになってそういった。
「では、行きましょう、」と、ソーンダイクも同意した。「ジャーヴィス君はもっと船に乗りたがっている風だし、私だって船はちっともきらいじゃないんですよ。」
「個人としてではなく、水路組合として調査をお願いしますよ。」船長はいった。
「いや、私たちはあなたと話したり、船を乗りまわしたりするのが面白いんですよ。」
「こっちからお願いするんです。しかし、遊びがてらとおっしゃるんでしたら、一晩お泊りになったらいかがです。ポールトン君に寝衣をもってきてもらって?」
「ポールトンをわずらわす必要はない。これからブラックウォールから汽車にのって、自分でとりにかえります。十一時に船がでるんでしょう?」
「大体そのへんです。しかしあなたがお帰りにならんでもいいでしょう。」
 ロンドンの交通は便利すぎるほどだった。しゅっしゅっあえぐ汽車にのったり、ちりんちりん鈴の鳴る二輪馬車で、何度も街角を曲ったりして、私たちが鞄や緑色の実験箱をたずさえて、ふたたび水路組合の棧橋に立ったのは、ちょうど時計が十一時を打った頃のことだった。
 ボウのクリークを出て、棧橋に横づけとなった組合のランチで、赤ら顔で上機嫌のグランパス船長は、船の起重機にぶらさがった大きな浮標を見まもっていた。やがて浮標が無事にデッキにおりると、起重機は垂直にマストにしばられ、ゆるんだ綱はぴんと張られて、ランチは四回ほど警笛を鳴らし、その光った鋭い船首で、おもむろに揚潮を切りはじめた。
 曲りくねった「ロンドンの河」は、ほとんど四時間も、たえず私たちに動くパノラマを見せてくれた。ウルリッチ沿岸の煤煙と臭気は、いつのまにか薄がすみたなびくすがすがしいま夏の空気とかわり、灰色の工場また工場は消えて、悠々と家畜のむれあそぶ草原が、はるかむこうの高台までつづく景色となった。うっそうとした木立のそばには、船体をまだらに塗った海軍の練習船が碇泊していたが、木材と帆布でできたその船は、一時代前の海上生活を思いださせた。その頃は三層のデッキのある大帆船が、象牙の塔のような高いカンヴァスの帆をはって、堂々海上を航海していたのだ。まだ今のような泥色に塗った、不細工な鍋みたいな船が軍艦旗をかかげて、イギリスの納税者の金を絞ってはいなかった。あの頃の船乗りは、みな船乗りかたぎというものを持っていて、今のような海上の職工といいたいような人間はいなかった。勢よく潮をかきわけて、私たちのランチはいろんな船とすれちがった。だるま船、ビリボイと呼ばれている二本マストの快速船、スクーナー型の帆船、ブリグ型の帆船、鈍重な黒人の船乗り、青煙突の中国行きの不定期船、風車をのせたようなバルト海の古い帆船、倒れるほどの重い構造物をデッキにのせた巨大な定期船。私たちは、イーリス、パーフリート、クリーンハイス、グレイズを順々に迎えてはまた船尾に追いやった。そしてノースフリートの煙突、グレーヴセンドの押し重なる屋根、人口稠密の投錨所や、見えかくれにうずくまる砲台を後にしてローワーホープを出ると、しだいに眼界が開けて、青い繻子をひろげたような海が前方に見えだした。
 十一時半ごろになると、ぼつぼつ引き潮に追っかけられぎみとなり、潮にのったせいか、はるかな陸地をみていても、速力がましたことがわかり、海上の空気もさわやかとなった。
 だが空も海も夏の凪ぎでしずまりかえり、青空に点々とうかぶ雲は微動だもせず、帆船は白帆をたれて漂っていた。
 まだらに塗ったベルつきの大浮標のうえには、鉄の骨組みが乗って、「シヴァリング砂州」と大きく書いてあったが、私たちのランチが通ると、いままで眠っていたように、静かな海に影を映していたのが、急にあふりをくって、がらんがらんと思いだしたように鳴って、しばらくするとまた昼寝の夢をむさぼりだした。
 その浮標をあとにすると、まもなく、前方に痩せこけた足で立つ燈台があらわれ、その赤茶けたペンキが、おりからの強い午後の日をうけて、朱色に光ってみえた。ランチが近づくと、その燈台に「ガードラー」と、白ペンキの大きな字で書いてあるのが見えだし、ランプの前の手摺に二人の男が立って、望遠鏡でこちらをながめていた。
「燈台で長くかかりますか? 長いようでしたら、そのあいだに、パン砂州へ行って、この浮標と古いのを取りかえたいのですが。」ランチの男がグランパス船長にきいた。
「そうか、そんならパン砂州からの帰りによってくれ。おれのほうはどのくらいかかるか、ちょっと見当がつかん。」
 ランチがとまると、ボートをおろし、それに二人の水夫が坐って、私たち三人をのせてくれた。
「そんな立派な服で、梯子をのぼったらよごれますよ。私がよごれないようにしてあげましょう。」
 船長はそういったが、彼自身新しい服を着ていた。私たちは鉄の脚を見あげた。潮が引いているので、十五フィートも鉄の脚がのぞいて、海草やふじつぼや海の虫の殻が、いちめんに鉄の柱や梯子にくっついていた。でも、私たちは船長が想像するほどの都会人でもなかったので、彼のあとについて、易々と滑りやすい鉄梯子をのぼった。そして、そんな時でもソーンダイクは、秘蔵の緑色の鞄を手から離さなかった。
「ブラウンのことをききに来たのですが、ゼフリズ君は?」
 梯子をのぼって回廊に立つと、船長はそうたずねた。
「私です。」
 顎のがっしりした、額のひっこんだ、逞しげな大男で、左手にぞんざいに繃帯をまいていた。
「その手はどうしたの?」船長がきいた。
「なんでもないんです。芋の皮をむいていたら、ちょっと怪我をしたもんですから。」
「ブラウンの死体が発見されたので、いずれ検屍審問があると思うんです。あなたも証人として呼ばれますよ。だから私も一応事情を知っときたい。あの時の模様をきかしてください。」
 私たちが部屋にはいってテーブルをかこむと、船長は大きな手帳をだしてひろげ、ソーンダイクは、船室のような奇妙な形の部屋のいろんな物を、批判的な目でみた。
 ゼフリズの話には、べつに新しいことはなく、私たちがすでに知っていることばかりだった。彼は船が燈台にむかって来るのをみた。しかし、まもなく霧がかかったので、その船は見えなくなった。霧笛を鳴らして手摺に立って警戒したが、船はついに来なかった。彼の知っていることはそれだけだった。たぶん燈台を見失い、引き潮にさらわれたのだろうといった。
「その船を最後に見たのは、何時ごろのことでした?」とソーンダイクはきいた。
「十一時半ごろです。」ゼフリズはこたえた。
「どんな男でした?」船長はきいた。
「それは分りません。船をこいでいたのです。背中をこっちへむけて。」
「箱や袋のようなものを持っていましたか?」ソーンダイクはきいた。
「箱はもっていました。」
「どんな箱です?」ソーンダイクはきいた。
とってづなのついた緑色の箱です。」
「紐は?」
「蓋の上に巻けるように、一本だけついていました。」
「その箱を船のどこにおいていました?」
「船尾の座席です。」
「そんな物を見た時、船はどのくらい離れていたのです?」
「半マイルぐらい。」
「半マイル!」船長は叫んだ。「半マイルも離れていて、そんな詳しいことが分るもんですかね?」
 ゼフリズは赤くなって、怒ったような顔でソーンダイクをみていたが、
「望遠鏡でみたのです。」
「ああ、そうか。」船長はいった。「そんならよろしい。とにかく君には検屍審問にでてもらわんとこまる。では、スミス君を呼んでもらいましょうか。」
 質問が終ると、ソーンダイクと私は、海の見える東の窓ぎわに椅子をもっていって坐った。でも、彼は海を見ようとはしなかった。窓のそばに小さい棚があって、素人細工らしい不器用さで穴を刻んで、そこに五本のパイプをひっかけてあった。部屋にはいった時から、そのパイプに興味を抱いていたらしいソーンダイクは、私と話をしながらも、しょっちゅうそのほうへ目をやった。
 新たに交代したスミスに、船長がいろんな注意をあたえおわると、そばからソーンダイクが、
「あなたがたは煙草がお好きらしいですな、」と、スミスにいった。
「ええ、みな煙草の好きな連中ばかりです。朝から晩まで坐っていると退屈ですし、それにここは煙草が安く手にはいりますので。」
「どうして安いんです?」ソーンダイクはきいた。
「投げてくれるんです。時々外国の船、ことにオランダの小船がそばを通るんですが、そんな時煙草をほうり投げてくれるんです。陸とちがいまして、ここは関税がいらないもんですから。」
「そんなら店で買うんじゃないんですな、煙草屋から刻み煙草を?」
「そうなんです。刻みは店へ行かないと買えないので、いつもすうわけにはまいりません。ここでは固い煙草をすい、固いものを食べるんです。」
「ここにパイプの棚があるようですが、この棚はなかなかよくできている。」
「私が作ったのです。どこにでもパイプがごろごろしているのはみっともない。」スミスがいった。
 ソーンダイクは、棚のいちばんはしの、緑色のかびのあるのを指さして、
「誰のかしらんが、あれはずいぶんほったらかしにしたんだ。」
「あれ、私の仲間のパーキンズのです。一月ほどまえ、ここにおいたまま出ていったのです。湿気が多いので、すぐかびがわくんです。」
「使わずにいると、何日ぐらいでかびがわきますか?」
「それは天気ぐあいにもよりますが、まず温くて湿気がある場合は一週間ぐらいでしょうな。こっちのは足を折った男のパイプですが、もうぼつぼつかびがわきかけています。あの男は帰る一日二日前から、使わずにいたんですよ。」
「ほかのパイプはみなあなたのですか?」
「いや、私のはこれです。こっちの端のがゼフリズ。まんなかのもゼフリズのだろうと思うんですが、はっきりしたことは知らないのです。」
「ずいぶんパイプがお好きのようですな、ソーンダイクさん。」部屋にはいってきて船長がいった。「パイプのことを研究していらっしゃるのですか?」
「人間に大切なのは人間を研究することです。」燈台守が部屋を出て行くと、ソーンダイクはいった。「個人の特徴が現れているこんな品物の研究も、やはり人間研究の一つだと思うんです。パイプというものは人によって違います。このずらりと並んだパイプをごらんなさい。どのパイプにも、持主の持つ癖があらわれている。たとえば、いちばんはしのゼフリズのパイプです。くわえるところは烈しくかんであって、先の鉢のなかは乱暴にごりごり掻いてあり、しょっちゅう叩きつけるので、ふちが疵だらけです。体力のある男が荒々しく取り扱ったあとがいたるところに残っている。つまり、ゼフリズはパイプをくわえている時かむ癖があり、掃除する時乱暴に鉢の中をこすり、灰を落す時には不必要なほどの力で叩きつける。このパイプでも分るように、顎のがっしりした、逞しい、乱暴な男なんです。」
「そう。ゼフリズはそのとおりの男だ。」船長も同意した。
「その隣にあるのはスミスのだが、これは煙草をいっぱいに詰める癖があるので、ふちまで焦げています。話ばかりして、しょっちゅう火を消したりつけたりする人のパイプですよ。しかし、私が面白いと思うのはまんなかのパイプです。」
「まんなかのもゼフリズのだと、いまスミスがいったようだったね?」私がいった。
「そういったが、あれはスミスが知らないのだ。みたまえ、ゼフリズのパイプとは、全然ちがった特徴がでているじゃないか。第一、かなり古いパイプであるのに、すこしも噛んでない。歯の跡のないパイプは、この棚のなかで、このパイプが一つきりだ。それに、ふちがすこしも痛んでいない。これは、ごく静かに取り扱った証拠だ。また、ゼフリズのパイプは銀の輪が光っているのに、このパイプの輪はまっ黒にくすんでいる。」
「輪がないのかと思ったら、やっぱりあるんですね。どうしてこんなに黒くなったのかな?」船長がいった。
 ソーンダイクはそのパイプを棚から取りはずして、よく見たあとで、
「これは硫化銀です。ポケットの中になにか硫黄がはいっていたから、こんなになったのですよ。」
「なるほど、」船長はあくびをかみしめ、ちょっと窓に顔をむけて、遠くのランチを見たあとで、「しかし、煙草がいっぱい詰っているようですが、これにはどんな意味があるのです?」
 ソーンダイクはパイプを持ちかえ、吸口の穴を見ていたが、
「煙草を詰めるまえに、パイプの穴がつまっていないかどうか、よく調べてみろという教訓があるのです。」
 といって、彼は埃で詰った吸口の穴を船長にみせた。
 船長はまたあくびして立ちあがり、
「面白い教訓だ。待ってください。私はランチの梯子がおかしいから見てきます。イーストガードラー砂州のほうへ行くらしいんですよ。」
 船長は望遠鏡をとって回廊へでた。
 船長がいなくなると、ソーンダイクはポケットナイフの刃を起し、それでパイプに詰っている煙草の塊りを、てのひらにほじくりだした。
「刻みだ!」と、私は叫んだ。
「そう。君は最初から刻みだと思っていたのか?」
 彼は煙草の塊りを、もとのようにパイプに詰めた。
「ぼくはなんとも思わなかった。銀の輪のことばかり考えていたもんだから。」私は白状した。
「銀の輪も面白いね。だが、ちょっとこの埃を調べてみよう。」
 彼は緑色の鞄をあけ、解剖用の針をだして、それでパイプの吸口の穴に詰まっている埃をほじくりだし、それをガラスのスライドの上において、グリセリンの滴をたらし、その上をまたガラスでおおって、私の用意した顕微鏡にさしこんだ。
「パイプは棚に戻しておいてくれたまえ。」
 そう彼がいうので、私はそれを元の位置にかえした。熱心に顕微鏡をのぞいていた彼は、しばらくするとおきあがって、顕微鏡を指さし、
「君、ちょっと見てくれ。君の意見をききたい。」
 私はそっと顕微鏡に目をあてて、スライドを動かした。その埃のなかには、どこの埃にも混っている、木綿屑や毛屑のような繊維がみえたが、二三の特徴のある毛屑も混っていないことはなかった。それはジグザグ型に曲ったこまかい毛屑で、先端が櫂の先のように平らになっているのだった。
「これは鼠のような小動物の毛だが、鼠属の毛ではない。食中動物の毛だ。――そうだ! あれだ! もぐらの毛だよ!」
 私はそういって立ちあがり、大変な秘密にぶつかったような気がしたので、黙ってソーンダイクの顔をみた。
「そう。たしかにもぐらの毛だ。これで推理の基礎になるもっとも大切な点が解けたわけだ。」
「そんなら、これが死んだ男のパイプなんだろうか?」私はきいた。
「たくさん証拠がそろっているのだから、それは確実とみてよかろう。表面に現れた事実を考えてみたまえ。かびがすこしもついていないから、このパイプはごく最近に棚に入れたもので、足を折った男か、スミスか、ゼフリズかブラウンの物にちがいない。ところが、古いパイプであるにかかわらず、歯の跡がすこしもついていない。だから、歯のない男が吸ったパイプである。足を折った男とスミスとゼフリズは、みな丈夫な歯をしていて、そのパイプにも歯の跡があるが、ブラウンには歯がない。また、このパイプには刻み煙草が詰っているが、ほかの三人は刻みはすわない。しかるにブラウンの煙草入れのなかには刻みがはいっていた。また、このパイプの銀の輪は硫黄の影響をうけているが、ブラウンは硫黄のついたマッチをばらばらにして、パイプと同じポケットにいれていた。パイプに詰った埃のなかからもぐらの毛がでてきたが、ブラウンの煙草入はもぐらの皮で作ってあった。最後に、ブラウンの死体のポケットには、ゼフリズのものと想像されるパイプがはいっていたが、そのなかに詰めてあるのは、ブラウンの煙草入れの中の煙草でなくて、ゼフリズの使う種類の煙草だった。これだけ証拠を並べたら沢山だと思うが、まだ証拠はほかにもある。」
「なに?」私はきいた。
「まず第一に、死人はふじつぼやサーピュラのついている、定期的に海水をかぶる固い物体に頭をぶちつけているが、この燈台の脚の鉄骨が、ちょうどその条件にあうのだ。そして、この付近にはほかにそんな物体はない。標識塔ではあんな擦過傷は[#「擦過傷は」は底本では「搾過傷は」]できない。第二に、死人のナイフが紛失しているが、ゼフリズの手には傷がついている。これだけ情況証拠が揃ったら文句はなかろう。」
 この時、望遠鏡を手にした船長が部屋にかけこんだ。
「ソーンダイクさん、ランチが帰ってきましたよ。しかも行方不明になった船らしいものをひっぱって。あれを調べたらまたなにか分りますよ。おりてみましょう。」
 鞄をつめて私たちは回廊にでてみた。そこには二人の燈台守が立って船をみていた。スミスは心から不思議がっているらしく、ゼフリズは落着きのない様子で蒼くなっていた。間近になると三人の男がボートに乗りうつって、燈台に漕ぎよせ、そのうちの一人――ランチの運転士――が梯子をのぼりだした。
「それ、行方不明になった船?」船長は大声できいた。
「そうです。」回廊にあがった運転士は、よごれた手をズボンのうしろにこすりつけ、「イーストガードラー砂州の乾いたところに転んでいたのです。グランパスさん、なんだか船の様子が怪しそうですよ。」
「他殺の形跡でもあるというの?」
「どうもそうらしいのです。船底に引っこ抜いた栓が転がっていましたし、綱を巻いたそばの船首の内龍骨に、大ナイフが突き立っているのです。よほど高いところから落ちないと、あんなに突き立つもんじゃない。」
「そりゃおかしいね。栓が抜けたのは過ちということもあるが。」
「いや、過ちじゃないです。その証拠には底板をあげるため、砂嚢の位置をかえてあります。それに、船乗りが乗っていて、なんで過ちに栓が抜けるようなへまをやりますか。まんいち栓が抜けたら、また栓をして水をかいだしますよ。」
「それはそうだね。」グランパス船長はうなずいた。「ナイフが突立っているのはおかしい。海に浮んでいて、どこからナイフが落ちたんだろう? まさか雲からふってきもすまい。ソーンダイクさん、あなたどう思います?」
「この回廊から落ちたんですよ。ナイフはブラウンのナイフです。」
 聞いていたゼフリズは、まっ赤になって、ふりかえり、
「え、この回廊から? いま私が船は着かなかったといったのが分らないのですか?」怒ったようにいった。
「あなたはそういいましたが、そんならなぜブラウンのパイプがこの部屋にあり、ブラウンのポケットからあなたのパイプが出てきたのです? それが説明できますか?」
 ゼフリズの顔の血の気は、さすのも早かったが、引くのも早かった。
「なんのことです? なにをいっているのか、私にはさっぱり分らん。」
「そんなら、もっと詳しく話しましょう。」ソーンダイクはいった。「あった通りのことをいいますが、よく聞いていてください。ブラウンはこの下に船をつけて、箱をもって上ってきたのです。そしてパイプに煙草をつめて、火をつけようとしたが、穴が詰っていて火がつかなかった。そこであなたが、自分のパイプに煙草をつめて、ブラウンに貸してやった。それからまもなく、二人はこの回廊にでて喧嘩をはじめ、ブラウンはナイフを引き抜いたが、それは下に落ちてしまった。あなたが突きとばすと、ブラウンは梯子の穴から墜落して、鉄棒に頭をぶちつけた。それからあなたは下におりて船の栓を抜いて漂流させ、あとから箱を流した。その時の時刻は十二時十分。どうです、ちがいますか?」
 驚愕と困乱の色をうかべて、ゼフリズは彼をみたが、ものはいわなかった。
「ちがいますか?」
 と、ソーンダイクはたたみかけた。
「ふん! あなたはここにいたんですか? まるで見たようなことをいうじゃありませんか。」多少落着きをとりもどし、「まあその通りだが、ちょっと違ったところがある。喧嘩はしなかった。ブラウンという奴は、私といっしょにいることを嫌がったのです。それで船に乗って帰ろうとした。私は帰すまいとした。そしたらブラウンがナイフを抜いたので、私がそれを叩き落したんですよ。そしたらあいつが後によろめいて、穴から転げ落ちたんです。」
「君は海に落ちたブラウンを救わなかったの?」船長はきいた。
「なんで救えます。潮がどんどん流れているんですもの。私だって海へはいったらお陀仏です。」
「そんなら、船はどうしたの? どうして栓をぬいた?」
「じつをいいますと、慌てて心配になってきたので、いっそ船を沈めて、なにも知らん顔をしておれと思ったのです。しかし、私がブラウンを突き落したのでないことだけはほんとなんです。過ちなんです。それは断言します。」
「筋道の立った説明のようですな。ソーンダイクさん、あなたどうお考えです?」船長はいった。
「私もいまこの人のいったことに嘘はないと思います。問題は二人がどうして反目したかということですが、しかし、そこまで詮索する必要はないでしょう。」
「でも、ゼフリズ君、一応君を警察へつれて行かなくちゃならん。それは君にも分ると思うんだ。」
「分ります、」と、ゼフリズはいった。

「あれは妙な事件でしたね、ガードラー砂州の事件は。しかし六カ月とは、ゼフリズにとって、少々軽すぎるようです。」
 事件後、半年ほどたって、私たちをたずねてきたグランパス船長はそういった。
「妙な事件でした。私はあの事件の蔭には、なにかあると思うんです。たとえば、前に会ったことがあるとか――」ソーンダイクはいった。
「私もそんな気がするんです。しかし、私はあなたがあんなに早く秘密を見破ったのには驚いてしまった。あれから私はパイプというものに興味をもつようになりましたよ。とにかく妙な事件だった。パイプに殺人の真相を話させたあなたの腕前はたいしたもんだ。」
「そうですな、」と、そばから私がいった。「あのパイプはドイツの昔話『うたう白骨』のなかの魔法のパイプみたいに、秘密をもらしたわけです。もっとも、昔話にでてくるのは、パイプはパイプでも、煙草をすうパイプでなくて、楽器のパイプなんです。知っていますか? ある百姓が、殺された人間の骨をひろってきて、それで笛をつくったのです。そしたら、その笛をふくとこんな歌をうたうのです――

「私は兄弟に殺され、骨を埋められた、砂のなか、石のしたに。」

「おもしろい昔話だ。」ソーンダイクはいった。「それに教訓もふくまれている。耳をすましてきくと、私たちの周囲にある生命のないものが、みななにかの歌をうたっているんですよ。」





底本:「世界推理小説全集二十九巻 ソーンダイク博士」東京創元社
   1957(昭和32)年1月10日初版
入力:sogo
校正:小林繁雄
2013年9月28日作成
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