苦心の学友

佐々木邦




おやしきからのお






 夕刻のことだった。
「内藤さん、速達!」
 と呼ぶ声が玄関げんかんからきこえた。郵便物と新聞は正三しょうぞう君がとりつぐ役だ。
「お父さん、速達ですよ」
「ふうむ。何ご用だろう?」
 とお父さんはいずまいを直して、大きな状袋の封をていねいにはさみで切った。伯爵家はくしゃくけからきたのである。
 正三君のところはおじいさんの代まで花岡伯爵はなおかはくしゃく家来けらいだった。もっともそのころは伯爵でない。お大名だいみょうだから、お殿様だった。いまでは伯爵のことをお殿様とよんでいる。正三君のおじいさんは大殿様から三百こくいただいていた。いまなら年俸ねんぽうである。お金のかわりにお米を三百石もらう。一石三十円として九千円。いまの大臣以上の俸給だった。
「三百石といえば大したものだよ。陸軍大将りくぐんたいしょうになった本間ほんまさんなんか三人扶持ぶち足軽あしがるだった。実業界ではばをきかしている綾部あやべさんがせいぜい五十石さ。溝口みぞぐち叔母おばさんのところが七十石。おまえのおかあさんの里が百石」
 と正三君は三百石のえらいことをお父さんからたびたびきかされていた。
「これ、おさだ、お貞、お貞、お貞」
 とお父さんはへんじのあるまでよびつづけるのがくせだ。
「はいはい、はいはい、はい」
 とお母さんも返辞だけして、ナカナカ仕事の手をはなさない癖がある。
「お貞や、おやしきからのお手紙だ」
「まあ」
「お殿様がわしに相談があるそうだ」
「ご冗談じょうだんでございましょう」
「いや、ほんとうだよ、ごらん」
 とお父さんは得意だった。
粛啓しゅくけい
 時下じか残暑ざんしょしのぎがたく候処そうろうところ※(二の字点、1-2-22)ますます御清穆ごせいぼく御事おんこと存上候ぞんじあげそうろう 却説さて 伯爵様はくしゃくさま折入おりいって直々じきじき貴殿きでん御意得度思召ぎょいえたきおぼしめし被在候間あらせられそうろうあいだ明朝みょうちょう御本邸ごほんてい御出仕可然ごしゅっししかるべく此段申進候このだんもうしすすめそうろう 早々そうそう頓首とんしゅ
花岡伯爵家はなおかはくしゃくけ
八月十五日
富田弥兵衛とみたやへえ
内藤常太郎殿ないとうつねたろうどの
 富田さんは家令かれいだ。もう年よりで目がわるいから一すん角ぐらいの字で書いてある。
「まあ、なんでございましょうね?」
 とお母さんは合点がてんがいかなかった。大将や重役になっている家来けらいたちのところへは時おり特別にありがたいお沙汰さたがあるそうだが、三百石の内藤常太郎さんはそれほどまで出世していない。正月の二日ふつかにごきげんをうかがって四月の観桜会かんおうかいへまねかれるだけだった。
「なんだろうなあ」
「ああ、わかりましたよ」
「なんだ?」
「あなたがあんまりご無沙汰ぶさたをしていらっしゃるから、呼び出して切腹せっぷくおおせつけるのかもしれませんよ」
「ばかをいうな。これはけっして悪いことじゃない」
「そうだとよろしゅうございますがね」
「そうでなくてどうする? お殿様じきじき折り入ってお願いがあるというんだもの。おまえはわしにもっと敬意を表さなければいけないよ」
 とお父さんはいばってみせた。
 晩ごはんのときも伯爵家の話が出た。なんだかわからないが、番町ばんちょうのおやしきからのおさたはみんなの心持ちを陽気にした。
「お父さん、とにかくおでんと蜜豆みつまめがいただけますね」
 と正三君がいった。
「おでんと蜜豆?」
「ばかだなあ。あれは観桜会かんおうかいのときだけだよ。おやしきにふだんおでんや蜜豆があるもんか」
 とお兄さんの祐助ゆうすけさんが笑った。この春二人ふたりで観桜会へお父さんのおともをしたのである。
 正三君は兄さんが二人ふたりと姉さんが二人ある。一番上の兄さんはもう帝大ていだいを卒業して朝鮮総督府ちょうせんそうとくふへつとめている。つぎの祐助ゆうすけ君も来年出る。姉さんは一人ひとり女学校がすんで、もう一人在学中だ。正三君はこの四月から府立中学へはいった。五人が五人、みんなそろって成績がよい。お父さんは鼻が高い。
「うちの子供はみんなおれに似たんだよ」
 とおっしゃる。
「いいえ、女の子は母親に似たんでございますよ」
 とお母さんも権利けんりを主張する。
 内藤さんの子供がみんな優良なのはむろんお父さんお母さんの性質をうけている。なお教育方法があずかって力ある。両親は一生懸命しょうけんめいだ。しかし家庭のいいこともわすれてはいけない。いいといっても金持ちではない。三百石のおじいさんは、その後がらにない山仕事をやって失敗してしまった。郷里の家やしきは人手にわたってあとは紡績ぼうせき工場がたっている。もしいまでもあんな大きな家に住んで昔のままにいばっているとすれば、五人のお孫さんがこんなに優良かどうかはなはだ疑問ぎもんだ。
 内藤さんは大蔵省おおくらしょうへ勤めている。高等官だけれど、上の方でないからけっしてぜいたくはできない。そうかといって生活に不自由を感じるほどのびんぼうでもない。子供のためにはこれぐらいの家庭が一番よいのである。
「内藤君、きみのところのお子さんたちはみんな優等だそうだが、なにか秘伝があるのかね?」
 と同僚どうりょうく。
「秘伝なんかないよ。しいていえば、ぼくが酒を飲まないからだろう」
 と内藤さんはニコニコする。
「耳がいたいな」
「もう一つ、ぼくの家の金はぼくのあせにおいがする。それで子供たちもゆだんをしないんだろう」
「汗の香いならぼくだって負けない。なにかまだほかにあるだろう?」
 と同僚どうりょうはしきりに秘伝を知りたがる。
 さて、内藤さんは翌朝よくあさ八時半に番町ばんちょうのおやしきへ出頭した。家令かれいの富田さんもちょうど出勤したところで、
「やあやあこれは早い、ご苦労ですな」
 といってむかえてくれた。内藤さんは書面のお礼をのべてご無沙汰ぶさたのおわびをしたのち、
「ときにお殿様のご用とおっしゃるのはなんでございましょうな?」
 とうかがいを立てた。
「内藤君、きみはうらやましいですよ」
「どういうわけですか?」
「きみのところのお子さんたちの成績がお殿様のお耳にはいったのです」
「まさか。豚児とんじぞろいですもの」
「いいや。悪事千里を走る。ぜんなんぞ門をでざらんやです。そこで今回ご三男様なんさまのお相手にきみのところの末のお子さんをご所望しょもうなさるのです」
「ははあ。お相手と申しますと」
「お学友です。ご勉学は申すにおよばず、ご武術ご運動おなぐさみ、いちいちお相手をつとめます。大きな声では申されませんが、若様わかさまがたはみなさまどうもお姫様ひいさまがたほどご成績がよろしくない。お殿様も奥様もいろいろとお考えになって、こんどはご三男様なんさまをごく平民的にご教育なさるおぼしめしで、○○中学校へお入れになりました」
「なるほど」
「すでに一学期おやりになりましたが、やはりご成績がおもしろくありません。水は方円の器にしたがい人は善悪の友によると申しますから、これは成績のよいものをお相手につけるがよろしいということになりました。旧藩士きゅうはんしの子弟の中に現在中学一年生で成績優等のものはないかとのおたずねでございます。わしは方々問いあわせましたが、きみのところがいちばんよく条件じょうけんにかなっています。ご身分も三百こく、申し分ない」
「いや、おそれいります。三百石はむかしの話で、いまは腰弁こしべんですよ」
「いいや。とにかく、といっては失礼ですが、とにかく大蔵省おおくらしょうの高等官です。お殿様はせめて高等官ぐらいの家庭でなければこまるとおっしゃいます」
「なにからなにまでと申しますと学友はむろん始終おやしきへあがっているんでございましょうな?」
「そうです。ご三男様と同じ学校へかよって、おやしきでは同じ家庭教師について勉強いたします。今回はぜんぜん平民的教育ですから、中学校ご卒業後すぐさまアメリカへおでかけになって、あちらの大学で仕上げるのだそうです。お学友もおともをしてまったく同様の教育をうけます。いかがですな?」
愚息ぐそくでつとまることならまことに光栄のぞんじます」
「それじゃおうけをしてくれますな?」
「はあ」
「そうなくてはかなわん。むかしは若様のためにはせがれを身代わりに立てたものです。ましてご令息将来しょうらいの立身出世の道がひらけることですからな」
 と富田さんは大まんぞくでお殿様へとりついだ。
 お殿様は朝寝坊あさねぼうだから、内藤さんは十時ごろまで待たされた。しかしそのあいだに富田さんから、なおいろいろとお学友の心得こころえをうけたまわった。
「こちらへ」
 との案内でようやく応接間へ通って、ここでまたしばらく待っていると伯爵があらわれて、
「やあ」
 とおっしゃった。
「ご無沙汰ぶさた申し上げました。いつもご健勝で祝着しゅうじゃくに存じあげます」
「ありがとう。さあ。かけたまえ」
「はあ、はあ、はははあ」
 と、内藤さんはおやしきへ上がるとすっかりさむらいになってしまう。
「役所の方はあいかわらずいそがしかろうね?」
「はあ」
今日きょうは休んで来たかね?」
御前ごぜん、今日は日曜でございます」
「なるほど、そうだったな」
 とお殿様は七曜にごとんちゃくない。今日きょうを日曜と知って大いに感心したのか、そのままだまってしまった。そこでご家来けらいの方から、
「このたびは……」
 と切り出した。
「富田から聞いてくれたかな?」
「はあ」
「承知してくれるかな?」
「はあ、ただ愚息ぐそくに勤まりましょうかどうかと案じております」
「それは大丈夫だいじょうぶだ。きみのところはみんなそろって抜群の成績だそうだな」
「どういたしまして」
「参考のためうけたまわりたいが、いったいどうしてそう成績がいいのだろう?」
「さあ」
「なにか思いあたることはないかな?」
「しいて申せば、私が酒を一てきもいただかないからでしょうか」
 と内藤さんは同僚どうりょうにもお殿様にも同じように答える。
「ふうむ。わしは酒を飲む。これは耳が痛いぞ」
「恐れ入ります」
「なあにかまわん。それからどうだね?」
「もう一つは……」
「なんだな?」
「私のうちの金には私のあせにおいがしみています。それで子供が油断をしないで勉強するのだろうと存じます」
「ふうむ。汗?」
「はあ」
「汗を金にしましておくか」
「いいえ、かせいだばかりの金でございますから」
「うむ。ひたいの汗か。労働か。皮肉だな。ハッハハハハ」
 とお殿様は快く笑った後、
「万事富田と相談して、来月早々よこしてもらいたい」
「はあ」
「奥もきみに会いたがっている。ちょっと顔を見せてやってくれたまえ」
「はあ」
「暑いところをご苦労だったね」
「はあ」
 と内藤さんがおじぎをして頭を上げたら、伯爵はもう出ていってしまっていた。
 奥様には日本館の方でごきげんをうかがった。内藤さんは今回の平民教育がお殿様よりも奥様のご発意によることを承知した。奥様はお姫様ひいさまたちが女親に似てみんな才媛さいえんだのに、若様たちはどういうものか不成績でこまるとうったえた後、
「内藤さん、どうか助けてください」
 とおっしゃった。内藤さんは光栄身にあまった。三代相恩の主君、その奥方おくがたが助けてくださいとおおせある。
「はあ、はははあ」
 とさむらいにならざるを得ない。
「私たちの心持ちを察してください」
「はあ、はははあ」
 奥様のお話はナカナカ長かった。殿様とちがって女の愚痴ぐちがまじる。みんながよってたかっておだて上げるから、若様たちは本気になって勉強しないとおっしゃった。わがままもののお相手はずいぶん骨の折れることだろうと、仕事の性質をよく理解していられた。
「内藤さん、あなただけで承知くだすっても、こういうことはお母様かあさま得心とくしんしていただかないと長続きがいたしませんから、私、そのうちに改めてお願いにあがりとうございます」
「どういたしまして。けっしてそのようなご心配にはおよびません」
「いいえ、むかしとはちがいます」
「いや、私どもはどこまでも旧臣きゅうしんの身分でございます」
「まだ十三やそこらのお子さんですもの。それを私たちの都合つごうで両親の手から取ろうと申すのはあまり勝手でございます。私、お母様のお心持ちが察しられますから、そこのところを直々お目にかかって念の通じるように申し上げたいとぞんじます」
「それでは家内かないをあがらせましょう」
「いいえ、私の心まかせにしておくれ。それから内藤さん」
「はあ、はははあ」
「これはお家へおみやげに」
「どういたしまして、この上そんなご配慮はいりょをわずらわせ申し上げてはますます恐縮きょうしゅくでございます」
「いいえ、おいそがしいところをお呼びたてして申しわけありません」
「奥様、今日きょうは日曜でございます」
「あ、そうでしたかね」
 と奥様も日曜をご存じない。
 内藤さんは拝領品はいりょうひんひら辞退じたいして、にげるように玄関へむかった。富田さんが待っていたので、また家令詰所かれいつめしょというのへはいってしばらく打ちあわせをしているうちに、
「自動車のお支度したくができました」
 と女中が知らせにきた。
「それでは内藤氏」
「富田様」
 とちょっと芝居しばいのようなことをして、内藤氏は玄関へ出る。
「さあ、乗っていらっしゃい」
 と富田さんは横づけになっているりっぱな自動車を指さした。
「いや、どういたしまして」
「いいや、お殿様のおおせつけです」
「恐れ入りましたな」
 と内藤さんは一礼して乗りこんだ。すると奥様からの拝領品はいりょうひんが中に積んであったのにまたまた恐れ入った。
 下渋谷しもしぶやの内藤家では、
「プープープー」
 と自動車が門前で止まったとき、
「家でしょうか?」
 と次女の君子さんが玄関へ出てみた。お父さんはちょうどおりたところで、
正三しょうぞうはいるか? 正三は?」
 と呼んだ。運転手がみやげ物をかつぎこむ。
「お帰りなさいませ」
「正三はいるか? 正三は?」
「正ちゃんはおとなりへ遊びにまいりました」
「呼んできておくれ」
「まあ、あなた、おやしきのご用はなんでございましたの?」
 とお母さんがきく。
「その正三の件さ」
 とお父さんは長火鉢ながひばちの前に羽織袴はおりはかまのまま坐りこんで、
「正三をおやしきのご三男様のお学友にほしいとお殿様も奥様もおっしゃる。ぜひともというご懇望こんもうだ。家の子供がこうまで評判がよいとは思わなかったよ。わしは面目めんぼくをほどこしてきた。ごらん、この通り頂戴物ちょうだいものをしてきた」
 とすこし落ちついたようだった。
「それは結構でございました。そうしてあなたはお受けをなさいましたの?」
「受けるも受けないもない。こっちは家来、むこうはお殿様だ。それに近いうち奥様がおまえのところへじきじきたのみにおいでになる」
「まあ! 私のところ?」
 とお母さんは飛びあがらないばかりに驚いた。
 そこへ正三君がおなかの時計とけいでもうお昼時と承知してノコノコ帰ってきた。
「正三!」
「はい」
「そこへ坐れ」
「はい」
 と正三君は坐ったが、しかられるのかと思ってビクビクしている。
「しかしその服装じゃこまるな。はかまをはいてこい」
「はあ」
「袴だよ。おさだ、袴を出してやれ」
 とお父さんは自ら羽織袴はおりはかまでかしこまっている。夏休みに子供の袴はそう右から左へは見つからない。
 お母さんはあっちこっちさがした末、正三君に袴をつけさせて、
「これでよろしゅうございますか?」
 と不平そうな顔をした。
「よし。そこへ坐れ。正三や、おまえのおかげでお父さんは鼻が高い」
 とお父さんは鼻の上へこぶしを二つぎ足して天狗てんぐ真似まねをした。正三君はなんのことだやだら[#「なんのことだやだら」はママ]サッパリわからない。
「正三や、いまお父さんのいうことはお殿様のおおせつけだ。つつしんで承りなさい。正三や」
「ハッハハハハ」
 とこのとき兄さんの祐助ゆうすけさんが笑いだした。
「なんだ? 失礼な」
「…………」
「でも正三や正三やって、まるで正三を売りにきたようじゃありませんか」
 とお母さんもすこしおかしかった。
「正三や、今日きょうおやしきへあがったら……」
 とお父さんはようやく不断ふだんの調子にもどって、お学友の次第をくわしく話して聞かせた。
「お父さん、それでは正三がかわいそうじゃありませんか?」
 と祐助ゆうすけさんはかならずしも喜んでいなかった。
「なぜ?」
「こんな小さなものがおやしきへあがって他人の間でもまれるんですもの。奉公人ほうこうにんも同じことです。ぼくがお父さんならことわってしまう」
「それはおまえ、料簡違りょうけんちがいだよ。お殿様のおおせつけじゃないか?」
 と内藤さんは昔なら君公のご馬前で討死うちじにをする覚悟かくごがある。
「お殿様は昔のことです。今日では知人にすぎません。まったく対等ですよ。特別の契約けいやくを結ばないかぎり、権利けんり義務の関係はありません」
 と裕助君は法科大学生だ。
「権利義務の関係がないからといっても、おじいさんの代まではいわゆる三代相恩の主君だったじゃないか? 我々われわれが今日あるのもみな伯爵家のおかげだよ」
「いや、おことばを返してはすみませんが、これぐらいの今日は平民にもあります」
「どうもおまえは思想がよくないよ」
「まあまあ、裕助はおだまりなさい。けれどもあなた、これは正三の一生涯しょうがいに関係することですから、一応正三の意向もたしかめ、私にも相談してくださるのがほんとうでございましょう?」
 とお母さんも多少言い分があるようだった。
[#改段]

家からおやしきへ






 内藤家では三男の正三君を花岡伯爵家はなおかはくしゃくけへご三男様のお学友としてさしあげることについて相談が続いた。忠義一図いちづのお父さんは一も二もなくお受けをしてきたが、二男じなんの裕助君が異議を申し立てたのにおどろいた。お母さんも無条件の賛成でなかった。得心とくしんのような不得心ふとくしんのようなことばかりいう。お殿様や奥様のご懇望こんもうを考えるとうれしいが、正三君を手ばなすのだと思うと悲しくなる。姉さんたちも女心は同様だった。そこでお父さんは、
「他人の中といっても、よそと違っておやしきだよ。お殿様はごく平民的で物の道理のよくわかったお方だ。奥様も情け深い。奉公人ほうこうにんがみなほめちぎっている。しかし正三は奉公人としてあがるんじゃない。ご三男様のお相手として万事ご三男様と同じ待遇たいぐうを受けるんだ。それから卒業すればご一しょにアメリカへ留学させていただける。正三のためには出世の糸口が開けるわけじゃないか?」
 という工合ぐあいにいいことばかり並べ立てた。
「それはそうでございますよ。おやしきの信用を得ておけばどこへ出るにしても都合がよろしゅうございますわ。けれども、あなた、これまで大きくしたものを見す見すさしあげてしまうんですから、私の心持ちも少しはお察しくださいませ」
 とお母さんはいたしかゆしだ。姉さんたちも、
不断ふだんはずいぶんにくらしい子ですが、こうなるとかわいそうでございますわ」
「おやしきへあがればとてもこんなにわがままはできませんよ」
 と一種の人身御供ひとみごくうのように考えている。
「どうもおまえたちはわからないね」
「いいえ、お父さん、正三が多少犠牲ぎせいになることは事実ですよ」
 と兄さんの裕助ゆうすけ君がまた主張した。
「犠牲なものか、特典だよ、おまえたちは正三をおやしきへ奉公にでも出すようにいうが、けっしてそんなわけのものじゃない。お学友だよ」
ぼん正月でなくても帰って来られますの?」
 とお母さんがきいた。
薮入やぶいりかい? ばかだなあ。奉公人じゃあるまいし。日曜や休暇きゅうかには大手をふって帰ってくる。寄宿舎へはいっているのも同じことさ」
 とお父さんは女連中を安心させることにつとめた。
「お父さん、ああいうおやしきでは家庭教師でも若様のご機嫌きげんを取らないと勤まらないそうですよ」
 と裕助君は反対論をつづけた。
「そんなこともあるまい」
「いいえ、僕の友だちがやはり旧藩主きゅうはんしゅのところへ家庭教師にあがっていますが、ナカナカつらいといっています。僕は正三が卑屈ひくつな人間にならなければいいと思って、それを案じるのです」
「そのへんは正三の心一つさ」
「正三、おまえは正々堂々とやれるかい?」
「いや、それはわしがきく」
 とお父さんはあわてた。うっかり首を横にふられるとたいへんだから、充分じゅうぶん利益りえきを説きつくしてから正三君の意向をたずねようと思っていたのである。
「お父さんのおっしゃるとおり、これはある意味から考えると特典に相違そういありません。それで僕は正三がどこまでも男子の意気を失わない決心なら賛成です。たとえばご三男様と相撲すもうを取る場合、遠慮なくほうり出してやるようならよろしい。しかしもしご機嫌きげんを取る料簡りょうけんでいくようなら大反対です」
 と裕助君は力強くいった。
「正三、どうだね? さっきから色々と話したとおりだ。承知してくれるかね?」
 とお父さんはとうとう直接本人にいて見なければならないことになった。
「承知しました。ご三男様をひどい目に会わせてやります」
「それじゃ困るよ」
「僕はせっかくはいった府立から私立しりつへ移るのがいやですけれど、お殿様のおぼしめしなら仕方ありません。忠義をつくします」
 と正三君は子供心にも伯爵はくしゃく知遇ちぐうに感じていた。
「そうでなくてはかなわん。さすがにおまえはさむらいの子だ」
 とお父さんは大満足だった。
「正三、一生の方針ほうしんに関係することだよ。もっとよく考えて見ろ」
 と裕助君は念を入れた。
「おまえはだまっていなさい。もう承知したんだ」
 とお父さんは裕助君がちこわすのを恐れた。
「さっきから考えていたんです。お父さんがおやしきでお受けをしておいでになったんですから、僕がいやだというと困るでしょう。兄さん、僕は正々堂々とやりますよ」
「おまえがその決心なら僕もさんせいだ。お父さん、実は僕は最初からぜんぜん反対じゃなかったんです」
「それじゃ変なことばかりいわないがいい」
「正三は承知さえすれば、忠義にも孝行にもなると同時に、自分の身も立ちます。けれども親や兄貴あにき権力けんりょく圧迫あっぱくしたんじゃなんにもなりません。自発的のところに値打ねうちがあるんです」
「むろんそれはそうさ」
「それにこれから帝大ていだいを出るのとアメリカへいって勉強するのでは将来がだいぶちがってきますから、本人の自由意志できめさせたいと思ったのです」
 とにいさんは兄さんだけのことがあった。
「おまえも分からず屋のようでいてナカナカ考えているんだね」
 とお父さんはこれも至極しごく満足のようだった。
 お母さんや姉さんたちも決心しなければならなかった。しかしいままで一しょにいたものが急によそへいってしまうのはやはり心もとない。
 お母さんはその翌日、
「家のお父さんという人はなんでも私に相談しないできめる人だから困りますよ。おまえたちも気をつけていないとどんなところへおよめにやられるかもしれませんよ」
 といやみをいった。
「でも縁談えんだんはご相談なさいますわ」
 と一番上の貴子たかこさんは笑っていた。
「正三のことは私もうあきらめました。お受けしないで帰っても、やっぱりつまりはこうなるんですわ。お殿様と奥様お二人ふたりのおぼしめしですからね」
 とお母さんは納得なっとくもしているようだった。なお、
「それに始終おやしきへお出入りするようになれば、おまえたちの縁談にはどんなに都合がいいかしれませんわ」
 と欲張よくばってもいた。
「なぜでございますの」
「お父さんも私もやっぱりご家中かちゅうの人でなければいけないと思っていますから、おやしきへあがってちょうどいいお婿むこさんをご詮議せんぎしていただきますわ」
「まあ! いやなお母さん」
「いいえ。うかうかしちゃいられませんよ。君子ももう十七ですからね」
「あら、私、そんなことどうでもいいんでございますよ」
 と君子さんも縁談と聞くとすぐに赤くなる。
 内藤さんの家庭は三百こくを忘れないだけあってごく昔風だ。
 四日目の午後内藤さんの門前に伯爵家の自動車が止まった。
「お母さんお母さん、おやしきの奥様でございますよ」
 と君子さんが血相けっそうを変えて注進ちゅうしんした。お風呂場で洗濯せんたくをしていたお母さんは、
「あらまあ、どうしましょうね?」
 とシャボンだらけの手でてんてこをった。
「困るわねえ、平民的すぎて」
 貴子たかこさんも狼狽ろうばいした。実は事によるとほんとうにおいでになるかもしれないと思って、三、四日用心していたのをあいにく今日から油断したのだった。
御免ごめん。御免」
 ともう運転手が玄関で呼んでいる。
「はい。はあい」
 と君子さんははじめて気がついたように取次ぎに出る。その間に貴子たかこさんが客間を検分けんぶんする。お母さんは髪をなぜつけたり着物を着かえたり大騒おおさわぎだ。いくらふいてもあせが流れた。
 これは内藤家代々を通じて最も光栄ある日の一つだった。奥様は三十分ばかりおくつろぎになってから、ご機嫌きげんうるわしくお引き取りになった。裕助君は不在だったが、皆々みなみなありがたいおことばをたまわったこと申すまでもない。お母さんはもうすっかり、得心とくしんがいった。後から奥様をほめるやほめないではない。
「ああいうおやさしいお方なら、私、もうなんにも申すことはありませんわ。『子持ちは相身たがい見です。このお子さんを手ばなすお心持ちは私もお察し申し上げておりますから、けっして悪いようには計らいません』となみだかべておっしゃったとき、私もホロリとなって、これではどんな犠牲ぎせいでも喜んでおひきうけしなければならないと存じましたよ」
 とやはりさむらいむすめである。夕刻主人公が役所から帰るのを待ちわびて、
「あなた、どうぞこれからお礼を申し上げにうかがってくださいませ」
 と意気ごんでいた。
「まあまあ、今夜すぐにもおよぶまい」
「でも、あなた」
「またおみやげを頂戴ちょうだいしたんだね」
 と内藤さんは恐縮きょうしゅくだった。
「奥様は正三をごらんがてらおいでになったのかもしれませんわ。できそうな子ですってほめてくださいましたよ。それから『子持ちは相身あいみたがい見です。このお子さんを手ばなすお心持ちは私もお察し申し上げておりますから』ってなみだをうかべておっしゃいましたの」
 とお母さんはおみやげよりもこれが、なによりだった。姉さんたちは姉さんたちで、それから二、三日の間、
「弟が伯爵家はくしゃくけへ若様のお学友にあがりますのよ、それで奥様がわざわざおいでくださいましたの。たくの母と五つしか違いませんのよ、お若いんでございますのよ」
 と会う人ごとに吹聴ふいちょうした。
 次の日曜に正三君はお父さんにつれられておやしきへうかがった。お殿様にもお目通りをゆるされて、イヨイヨお学友ときまった。
照彦てるひこにはちょうどいい相手だ」
 とお殿様がおっしゃった。
「お母様によろしく。おちちを充分いただいておいでなさいよ」
 と奥様は特にうちとけたご挨拶あいさつだった。正三君は家へ帰って転学の手つづきをすませた。それから月末ご三男様がお兄様方と一しょ大磯おおいそ別荘べっそうからお帰りになるとすぐおやしきへひきとられた。その折り裕助君は、
「正々堂々とやれよ」
 といった。
「大いにやります」
「日曜にはきっと帰れよ。お母さんがさびしがる」
「はい」
 と正三君は頭を下げていた。それからお母さんや姉さんたちにおいとまをして門を出たとき、団子だんごのどにつかえたような心持ちになった。しかし運転手に笑われるといけないから、かたをいからして自動車へ乗りこんだ。
 伯爵家にはお子様方の教育指導にあたる先生が数名勤めている。みんな旧藩きゅうはん関係だからご家来けらいだ。ご家来でなければ先生になれない。そのうち安斉あんざいさんという老人が指導主事として采配さいはいをふるっている。この先生はご家中かちゅうずい一の漢学者で、評判ひょうばんのやかまし屋だ。家令かれいの富田さんさえ時折りしかられる。あとはみんな家庭教師で、三人の若様と一人ひとりのお姫様ひいさまにそれぞれ一人ずつついている。上のお姫様ひいさま二人ふたりがおかたづきにならなかったころは六人だったから、六人の家庭教師がいた勘定かんじょうになる。
 安斉あんざい先生は旧藩きゅうはん時代の面影おもかげを顔のあばたに伝えている。まばらなひげが白い。その昔剣道できたえたと見えて、目がすこしやぶ傾向けいこうをおびている。にらみがきく。ナカナカこわい。正三君はこの安斉あんざい先生に主事室へ呼びつけられてお学友の心得こころえを申し渡された。それは生まれてはじめてよそにまって心細い一夜をすごした翌朝よくあさだった。漢文の口頭試験のようなものだったが、先生はメントル・テストだとおっしゃった。正三君はメンタルとおぼえていたけれど、漢学の方ではメントルかしらと考えた。
「内藤君、昨日きのうはおいでになったばかりでまだ落ちつかないようだったからひかえていましたが、もういいでしょう。今日きょうはメントル・テストの流儀りゅうぎにしたがってお学友の心得こころえをお話しいたしましょう」
「はあ。どうぞよろしくご指導を願います」
 と正三君はお父さんからおそわったとおり切り口上でいった。
「きみもどうかしっかりやってください」
「できるだけ勉強いたします」
「ときに内藤君、きみは、四方に使いして君命をはずかしめずということばがおわかりですか?」
「さあ」
「考えてごらんなさい。メントル・テストです。使于四方しほうにつかいして君命くんめいをはずかしめず
 と安斉あんざい先生はそのとおり奉書紙ほうしょがみに書いてみせた。
「これはお殿様の命令を充分じゅうぶんにはたすことでございましょう」
「そうです。ナカナカ頭がいい。この心得がなければいけません。当節の家庭教師には論語ろんご読まずの論語知らずが多いから困る。つぎに、きみ君たらずともしん臣たらざるべからず」
「君君たらずとも……先生、ぼくはまだ漢文を習い始めたばかりです」
 と正三君は弱音をふいた。これはこの上どんな問題が出るかもしれないと思ったのである。
「いや、漢学の試験ではありません。メントル・テストです。これが大切ですぞ、ことにお学友は」
 といって、先生はまた「君雖きみきみたらずとも臣不以不一レしんしんたらざるべからず」と書いてくれた。
「はじめの方は申し上げるのも恐れ多いことです」
「うむ、わかっていますね。えらいえらい」
「いや、これは僕にはすこしむずかしいです」
「殿様が殿様らしくなくても家来けらいは家来らしくしなければいけない。そうでしょう?」
「はあ」
「ご三男照彦様てるひこさまはごむりをおっしゃるかもしれません。その折り、君君たらざれば臣臣たらずでは困ります」
「はあ。よくわかりました」
「士はおのれを知る者のために死す。これはどうです?」
おのれを知るもの。己を知るもの。自分の本分を知るもの……」
 と、これは正三君ぜんぜん落第だった。
「すこしむずかしいかな? 士は自分をみとめてくれる人のために死す。知遇ちぐうに感じるということです。きみは品行方正学術優等、今回それをおみとめになってご三男照彦てるひこ様のお学友にしてくだすったお方はどなたですか?」
「お殿様です」
「そうです。あなたはそのお殿様のために死ぬ覚悟かくごがなければなりません」
「はあ」
「君はずかしめらるれば臣死す。これはどうですか?」
 と先生はまた死ぬことを持ち出した。
大石良雄おおいしよしおです」
「頭がいい。それでは実際問題として、照彦てるひこ様が学校で他の生徒にはずかしめられた場合、きみはどうしますか?」
「さあ」
「いま、大石良雄おおいしよしおとおっしゃったでしょう?」
「はあ。わかりました」
照彦てるひこ様は町人の学校へおはいりになりました。私はご指導主事として反対のおもむきをお殿様へも申し上げたのですが、大勢たいせいはなんともいたし方ありません。私立中学はお兄様たちの学習院と違って、玉石混淆ぎょくせきこんこうですからな。それだけきみの責任が重いですよ。ずいぶんいかがわしい家庭の息子むすこつくえをならべるのですから、あるいはきみが君公ご馬前の臣節をつくすような機会が来ないともかぎりません」
「はあ」
 と答えたものの、正三君はそのまま考えこんで涙をホロホロこぼした。学校で照彦てるひこ様が喧嘩けんかをしてなぐられるかもしれない。帰りの電車の中で車掌しゃしょうにけんつくを食わされるかもしれない。平民の自動車にどろをはねかけられるかもしれない。君はずかしめらるる場合はいくらでもあり得る。そのさい一々切腹せっぷくしていた日には命が続くまい。
「内藤君」
「はあ」
「まあ、だいたいこういう心得こころえでご奉公をしてください。生はかたく死はやすし。むやみに命を捨てては困る。ただ精神を忘れなければよろしい。それからこの紙を持って行って座右ざゆうめいになさい」
 と安斉あんざい先生は申し渡しを終わった。かならずしもその都度切腹という意見ではないようだった。
 正三君が廊下ろうかへ出ると、照彦てるひこ様が待っていてさしまねいた。
「内藤君、きみは安斉あんざい先生のメントル・テストを受けたね?」
「はあ。いろいろと教えていただきました」
「あれはやっぱりメントルだとさ。僕がメンタルだと教えて上げたら、先生おこって、ドクトルということはあるがドクタルということはありますまいがなとおっしゃった。お兄様たちも大笑いさ。しかし漢学の方は大先生だ。日本一だろう」
「そうのようでございますな」
「きみは家へ帰りたいか?」
「いいえ」
「でも目が赤い。帰りたがっちゃ困る。そのかわり僕となかよしになろう」
「恐れ入ります」
「これからゆみを引きにゆこう。来たまえ」
「はあ」と正三君は大弓場だいきゅうばへおともした。
「きみはなんでも優等だそうだから、弓も名人だろう?」
 と照彦てるひこ様は身支度みじたくをしながらきいた。
「いいえ。やったことがありません」
 と正三君は一向心得こころえがない。
「うそだろう」
「ほんとうです」
「それじゃ僕が教えてやる」と照彦てるひこ様は模範もはんをしめした。ときどき的にあたる。正三君はしばらく見学した後、
「私もやってみます」と興味をもよおした。
「僕といいたまえ。なかよしだ」
「はあ」
「はあもいけない。うんといいたまえ」
「うんは失礼です」
「なあに、かまわないよ」
 といいながら、照彦てるひこ様は初心の手頃てごろの弓をって渡した。
「こうですか」
 と正三君は力一ぱいに引いて放った。しかし矢は地面をはって※(「土へん+朶」、第3水準1-15-42)あずちまで達しない。
「もっと高く。矢のゴロはだめだ」と照彦様が笑った。
「これぐらいですか?」
 と正三君は少し高いつもりで放ったが、やはりいけない。矢は一度地面へ落ちてまた飛び上がった。
「きみの矢はバウンドする」と照彦様てるひこさまはまた笑って、
「このへんさ。うんと引く」
 と手を取って教えてくれた。正三君がそのとおりにして放つと、今度は馬鹿ばかに高い。矢は※(「土へん+朶」、第3水準1-15-42)あずちやを越してどこかへ行ってしまった。
「矢のフライ。矢のフライ」
 と照彦てるひこ様は大喜びだった。
「とてもだめです」と正三君はあきらめた。
「なあに、少しやればすぐ僕ぐらいになる。ときどき先生が見えるから習いたまえ」
を取ってきましょう」
「いや、後から拾わせる。それよりも君はボールをやるか?」
「やります」
「それじゃあっちへゆこう」
 と照彦てるひこ様の方からお相手を勤めてくれる。正三君は第一日ですっかりなかよしになった。
[#改段]

お薬のおこぶ






 正三君は花岡伯爵家はなおかはくしゃくけに住みこんでから四日になった。ご三男の照彦てるひこ様はこの学友がお気にしてしばらくもはなさない。まだ学校が始まらないからいい遊び相手だ。あっちこっちへ引っぱりまわす。おかげで正三君は広いおやしきの勝手がほぼわかってきた。
「内藤君、お姉様あねさまのおへやへ遊びにいってみよう」
 と照彦てるひこ様がいいだした。
「さあ。おじゃまでしょう?」
 と正三君は躊躇ちゅうちょした。
「いや、昨日きのうお姉様が遊びにおいでなさいとおっしゃった」
「それはそうですけれど」
「いこう。きみがこないと、僕はいけないんだ」
「なぜですか?」
「僕はおとといの晩、お姉様がこの間大姉様からいただいた大切のものをこわしたんだ。大理石の女さ。いじっていておとしたものだから、足が折れてしまった」
「それはそれは」
「その時からもうお部屋へやへは入っちゃいけないってことわられている。僕とはろくろく口もきかない」
「それじゃおわびのかなうまでいらっしゃらない方がいいでしょう」
「いや、きみがくれば大じょうぶだ。いこう。さあ、来たまえ」
 と照彦てるひこ様は正三君の手を引いて長廊下ながろうかけだした。
 お姉様はご長男の照正てるまさ様と[#「照正てるまさ様と」は底本では「照麿てるまろ様と」]ご次男の照常てるつね様のお次にあたる。妙子たえこ様といってお年は十六、女子学習院へ通っていられる。上のお姉様方はお二人ふたりとももうかたづいていらっしゃるから、お姫様ひいさまはこのおひと方だ。伯爵家ではお姫様方はみんなお成績がおよろしい。ことに妙子様は才媛さいえんで、お母様のご鍾愛しょうあいをほしいままにしている。お部屋もお母様のおとなりだった。
「お姉様」
照彦てるひこさん?」
「はあ」
「何ご用?」
 と妙子様はお部屋の内からきいた。入れない算段さんだんだった。
「だめだ。まだおこっている。妙子たえこみょうな子、おこりっ子!」
 とつぶやいて、照彦様てるひこさまは首をちぢめた。
「照彦さん!」
 とそれが内まできこえたようだった。
「お姉様、内藤君がちょっとご機嫌きげんうかがいにあがりました。僕はお供です」
 と答えて、照彦様はしたを出した。ナカナカ平民的だ。
「それならおはいりなさい」
 正三君はもう仕方なく、照彦てるひこ様にされて先にはいった。
「よく来てくださいましたのね。さあ、どうぞこちらへ」
 と妙子たえこ様は刺繍台ししゅうだいの前に坐ったままお愛想よくしょうじた。
「きれいだなあ。お姉様はお上手じょうずだなあ」
 と照彦様はさっそく刺繍台ししゅうだいの方へはい進んだ。おとといの晩の不首尾ふしゅびがあるから、特にご機嫌きげんをとるつもりだった。
「さわっちゃいやよ」
「はいはい」
照彦てるひこさんはなんでもすぐこわすからこわいわ」
「もう大丈夫だいじょうぶですよ。内藤君、見たまえ。芙蓉ふようだ。これは花壇のを写生したんだぜ」
「きれいでございますなあ」
 と正三君は遠方からびあがって拝見していた。
「きみ、飛行機じゃないよ」
「なぜですか」
「でも、きみは口をあいて見ているんだもの」
 と照彦様てるひこさまは人前で正三君をやかすほどしたしくなっていた。
「内藤さん、この通りですから、照彦さんのお相手はお骨折ほねおりでしょう?」
 と妙子たえこ様が同情しておっしゃった。
「どういたしまして」
 と正三君はたった二、三日の中にこんなおとなびた言葉づかいをおぼえた。たいていの場合これで間に合わせる。
照彦てるひこさんは茶目さんですからね」
「どういたしまして」
「内藤さんはなんでもよくおできになるそうですね?」
「どういたしまして」
「それに照彦てるひこなぞとちがっておとなしいんですから、ほんとうに申し分ございませんわ」
「どういたしまして」
「先生になってあげてください」
「とてもそんなことはできません」
「ご謙遜けんそんね。お年はおいくつ?」
「やはり十三です」
おない年でもちがいますわね。からだまで大きいわ」
「いや、僕の方が大きいです」
 と照彦てるひこ様は自分がけなされて正三君ばかりほめられるのがしゃくにさわっていたから、やっきになって主張した。
「まさか」
「いいえ、ほんとうに照彦様の方が少しお高いです」
 と正三君が花を持たせたにもかかわらず、照彦様は、
「内藤君、も一ぺんせいくらべをしてみよう。さあ、立ちたまえ」
 といきまいた。ご三男様は癇癖かんぺきがお強い。正三君は君命もだしがたく立ち上がった。
「まあ、ちょうど同じようね。あら、照彦さん、せいのびしちゃずるいわ」
 と妙子たえこ様はしばらく見くらべた末、
「やっぱり内藤さんの方が心持ち高いわ」
 と判定はんていをくだした。
「そんなはずはありませんよ。昨日きのう正木まさきが見ていて僕の方が高いといいました。お姉様は内藤君にひいきしている」
「いいえ、照彦てるひこさんは頭がのびているから、高く見えるんですわ」
「頭がのびている? ハッハハハハ」
「なにがおかしくて?」
「ワッハハハハ」
「変な人ね」
かみがのびているんですよ。頭がのびていれば布袋ほていだ」
 と照彦様は腹いせにあっぱれげ足を取ったつもりだったが、
「オホホホホ、それは福禄寿ふくろくじゅのことでしょう? 無学な人はやっぱりちがうわ。布袋ほていは頭がはげているばかりよ」
 と妙子たえこ様からみごと返り討ちを食った。
「とにかく、頭はのびません。毛がのびるんです」
理屈りくつっぽい人ね」
「内藤なんかなにをしたって僕にかなやしない」
 と照彦てるひこ様は八つあたりを始めた。おこるとひたい青筋あおすじが立つ。
「ほんとうに僕はおとといから照彦様に負け通しです」
 と正三君は困り切って調子を合わせた。
「内藤はからだが大きくても弱虫だ。昨日きのううまやへいって僕が馬の腹をくぐって見せても、こわがって続いてこないんです」
「そんなあぶないことをするものはばかですよ」
 と妙子様たえこさまはやはりほめてくれなかった。
「ランニングでも僕が勝ったんです」
「まだ遠慮していらっしゃるのよ。いまに本気になってごらんなさい。あなたなんかとてもかないませんわ」
「弓なんか本気でやったけれど、矢がバウンドをするんです」
「内藤さん、あなたは負けていちゃだめよ」
「弓はほんとうにかなわないんです」
 と正三君がいった時、照彦てるひこ様はきっとなって、
「弓はって、きみ、ランニングも三回とも僕が勝っているじゃないか?」
 とにらみつけた。
「あれはお庭の路がよくわからなかったからです」
「後から苦情をつけるのはずるい。それじゃ、ここで相撲すもうを取ろう」
「めいわくですよ」
 と妙子たえこ様はおどろいてせいした。しかし照彦てるひこ様はもうききわけがない。
「そら!」
 といって、坐っている正三君を仰向あおむけさまにつっころばした。
卑怯ひきょうよ、照彦てるひこさん」
 と妙子たえこ様がたしなめた。
「内藤、立て!」
「だめですよ」
「さあ、かかってこい」
「かないませんよ」
 と正三君はげ出そうとした。
「内藤さん、おやりなさいよ、負けているとくせになります」
 と妙子たえこ様が見るに見かねておっしゃったせつな、照彦様はもう組みついてきた。正三君もいまは仕方がない。
 照彦てるひこ様は相撲すもうなら十三から十五までの子にけっして負けないという確信があった。なんとなれば、伯爵邸の門内には家令かれいの富田さんはじめ旧藩士きゅうはんしが大ぜい住んでいて、その子供たちが時おりお相手をおおせつかる。この連中は親からいいふくめられているから、ご三男様を負かしたことがない。ずいぶんきわどいところまでやるが、最後にはやッとさけんでひっくりかえる。それを照彦てるひこ様は自分が強いのだと思っていた。さて、組みつかれた正三君も相撲すもうは得意でない。小学時代に時たま冗談じょうだんにとったぐらいのものだった。手といっては足がらみのほかなにも知らないから、いまやそれを応用してただグイグイ押した。負けると後々あとあとのためにならないと考えて、真剣だったからたまらない。照彦てるひこ様はよろめき始めた。しかし押される方もはなさないし、押す方もいいかげんのところで振りはずす工夫くふうをしないから、二人ふたりしょ刺繍台ししゅうだいの上に倒れてしまった。下になった照彦様はつくえのかどで頭を打って泣きだした。
「ごめんください。ごめんください」
 と正三君はあやまりながらきおこした。照彦てるひこ様は刺繍台ししゅうだいをつぶしたことに気がつくと、正三君を突きのけて逃げていった。ご丹精たんせい芙蓉ふよう落花狼藉らっかろうぜきになっている。
「私、こまるわ。これ、暑中休暇のお宿題よ」
 と妙子様たえこさまは涙ぐんでためいきをついた。
「申しわけございません」
 と正三君は平身低頭してつみを待つばかりだった。
「なんですの? いまの音は」
 とそこへ奥様があらわれた。正三君はシクシク泣きだした。
「お母様、内藤さんはすこしも悪いんじゃありませんのよ」
 と妙子たえこ様はすぐにとりなして、一部始終を申し上げた。
「そうして照彦てるひこは逃げてしまいましたの?」
「ええ」
「内藤さんはなんにも泣くことはありませんよ。さあ、もうご機嫌きげんをお直しなさい」
 と奥様がいたわってくだすった。
「はあ」
「私から申し聞かせますから、照彦を連れて来てください」
「はあ」
 と正三君は涙をふいて長廊下ながろうかをたどった。
 照彦てるひこ様は照常てるつね様のお部屋へやの前にションボリと立っていた。正三君の姿を認めると、まず目をいからせてにらみつけた。それから拳骨げんこつをこしらえて息をきかけて見せて、
「いまにこれだぞ」
 と歯をむいた。お兄様に加勢をたのんだという意味らしかった。
「照彦様、お母様がお呼びでございます」
 と正三君は近づいた。しかし照彦様は赤んべいをして、学監室がっかんしつにはいってしまった。
 照彦てるひこ様はお母様が一番こわいのである。悪いことをした後、お母様から呼ばれて応じるはずはない。正三君の無礼を学監の安斉あんざい先生にうったえるとすぐに姿をかくしてしまった。お母様は女中たちに命じてあっちこっちをさがさせた。その間に正三君は安斉先生から学監室に呼びつけられた。
「内藤君、心配はいらんよ。しかしいったいどうしたのですか?」
 と先生はごくおだやかな態度たいどできいた。
「お姫様ひいさまのお部屋へやへご機嫌伺きげんうかがいにあがりまして、お話をうけたまわっておりますと、照彦てるひこ様がぜひ相撲すもうをとるとおっしゃって……」
 と正三君は少しも悪びれずにありのままを申したてた。
「よろしい、相撲すもうは勇壮な競技で結構です。これからも度々たびたびお相手申しあげる機会がありましょう。しかし、内藤君」
「はあ」
「おけがをさせ申してはいけませんよ。以来気をつけることですな」
「おけががございましたか?」
「おつむに大きなおこぶができました」
「申しわけありません」
「今後もあることですから、一つ考えて見るんですな。勝負は時の運で仕方がないが、同じお負かし申すのでも、君がいつも下になるようにすれば、若様はおけがはけっしてありません」
「しかし下になれば僕が負けです」
「そこですよ」
「はあ」
「ご主君ですから、対等と思っては忠節がつくせません」
「それでは負けてさしあげるのですか?」
「いや、わざと負けるにはおよばん」
「はあ」
「勝つにもおよばん」
「はあ?」
「ご機嫌きげんをとるために負けてさしあげるのは主君をあざむくへつらい武士です。風上かざかみにおけん。しかし、内藤君、君心あれば臣心あり。すべて君臣主従しゅじゅう貴賤きせん上下しょうかの別をわすれるものは乱臣らんしんぞく子ですぞ。わかりましたかな?」
「いいえ、はあ、しかし……」
頭脳ずのう明敏めいびんの優等生にこれぐらいのメントル・テストがわからないはずはありますまい。君心あれば臣心あり。ハッハハハハ」
 と安斉あんざい先生は正三君の解釈にまかせた。
 正三君は部屋へやへひきさがって、安斉先生のいわゆるメントル・テストを考えた。負けるにおよばん勝つにおよばんでは引き分けの外ない。しかし引き分けは五分五分だから対等だ。対等では忠節がつくしがたいとある。君臣上下の別を守っていつもこっちが下になる。それでは勝てっこないのだが、そこだという。どこだろう? やっぱり負けるのかな。
 と、それなら初めから気がついている。しかしそれではへつらい武士で風上にもおけない。君心あれば臣心あり、なるほど、このへんかな? ここは先生が二度おっしゃった。かならずしも負けるにおよばんが、むりに勝つにもおよばん。そこをしかるべくお相手する。
「ここ、ここ」
 と正三君はさすがに頭脳ずのう明敏めいびんだった。
 照彦てるひこ様はまもなく台所で見つかって、お母様のお部屋へやへ引かれてゆく途中とちゅう小間使こまづかいの手のこうに歯あとの残るほどかみついて、また一つつみがふえた。しかし正三君が呼ばれてまかり出た時にはもうすっかりおしかりずみになっていた。
「さあ、照彦てるひこや、内藤さんとお仲直なかなおりをなさい」
 とお母様がおっしゃった。
照彦てるひこ様、失礼いたしました」
 と正三君が進みよった。照彦様はまだ渋面じゅうめん作っていたが、
「照彦や、おまえがそんなにわがままをすると、内藤さんはお家へお帰りになってしまうよ」
 といましめたので、ようやくうなずいた。
 お母様の前をひきさがってお部屋へやへもどる途中とちゅう照彦てるひこ様は内藤君をかたで押してきた。内藤君は知らん顔をしていた。この上喧嘩けんかを買いたくない。その中に照彦様は正三君の肩に手をかけて、
「内藤君、きみはおこっているね」
 ときいた。
「いいえ」
「きみは帰る気か?」
「帰れとおっしゃるなら帰ります」
 と正三君は答えた。これでは実際勤まりかねると思っていたのだった。
「きみ、帰っちゃこまる。いつまでもいてくれたまえ。僕が悪かった」
「帰りません」
「仲よくしよう」
 と照彦てるひこ様は内藤君の手を取った。
 正三君はお部屋へやまでおともした。照彦様は勉強机デスクに坐ったまましばらく考えていたが、頭をおさえてシクシク泣きだした。
「若様、さっき打ったところがお痛いんじゃありませんか?」
 と正三君は心配した。
「いや、頭はなんともないが、いやあな心持ちがして仕方がない」
「どこかお悪いんじゃないでしょうか?」
「いや、そうじゃない」
「若様、あの相撲すもうは僕のケガ勝ちです」
「いや、相撲すもうのことでもない」
 と照彦様はまだ頭をおおっていた。
「…………」
「内藤君、きみは悪いことをしたことがあるかい?」
「はあ?」
「優等生だから、ないんだろう。なければわからない」
「…………」
「お姉様がきみをほめるのはあたりまえだ」
 正三君はさっきにくらしかった照彦てるひこ様がおかわいそうになった。こんなに後悔こうかいしているところを見るとふみとどまって忠義をつくさなければならない。
「そんなことはもういいじゃありませんか。お庭へ行って遊びましょう」
「うむ。きみはもうほんとうにおこっていないか?」
「おこってなんかいるもんですか」
「お姉様も堪忍かんにんしてくれたからきみも堪忍して帰らないでくれ」
「帰りません」
「さっき内藤と言ったのも悪かった」
「内藤で結構です」
「僕はみんなに堪忍かんにんしてもらわないと心持ちが悪い。それで、もう一つこまることがある」
「なんですか?」
「あやまりにいけないところだ」
「どこでしょう?」
「さっき台所だいどころきくやにつかまったとき、逃げようと思って手を食いついたんだ」
「はあ」
「やっぱりあやまる方がいいだろうな?」
「ひどくおかみになったんですか?」
「泣いたくらいだ」
「お心持ちがお悪いなら、おあやまりになった方がいいでしょう」
「けれども台所と女中部屋じょちゅうべやへははいれないことになっている」
「それじゃ僕がいってまいりましょうか?」
「うむ、たのむ」
「菊やですね?」
「うむ、菊やだ。一番大きい女だ。あれは力がある。僕はまだうでが痛い」
 と照彦てるひこ様はようやく笑顔えがおが出た。
 正三君は早速さっそく使命を果たしたのち、お昼までお庭でお相手をした。帰られては困ると思ったのか、照彦てるひこ様の方からしきりにごきげんをとる。臣たるもの心あらざるべからずと考えて、
「若様、このしばの上で相撲すもうを取りましょう」
 と君の心をうかがってみた。しかし照彦てるひこ様は、
「いやだ、屋敷外やしきそとの人は皆強いとお母様がおっしゃった」
 といって応じなかった。
 昼から若様方はご散髪さんぱつをなされた。始終散髪屋へ頭を持っていく正三君はこういう工合ぐあいに散髪屋をよびつけてらせる法のあることを初めて発見した。順番がまわってきた時、照彦様は、
「こらこら、ここに大切だいじのこぶができているから、気をつけてくれ」
 と注意した。
「はあ、大きなものでございますな。どうなさいました?」
 と散髪屋がさわってみた。
「痛い痛い!」
「できたてでございますな」
「そうだ」
「とんだことでございました」
「いや、これはかえってお薬になるこぶだ、お母様がそうおっしゃった」
 と照彦様はもうすっかりご機嫌きげんが直っていた。
[#改段]

若様の頭






 翌日から学校がはじまって、正三君はイヨイヨ本式に照彦様のお学友をつとめることになった。その朝、照彦てるひこ様は制服を着ながら、
「きみ、校長はこわいぜ。担任たんにんもナカナカきびしい。けれども秋山って先生がいる。やっぱりうち家来けらいだ」
 といった。
「なんの先生ですか?」
「英語だよ。僕たちの級へ出る。こまることがあったら、秋山さんにいえばいい」
「おやしきへもいらっしゃいますか?」
「僕がはいってから時々来る。安斉あんざいさんから頼んであるんだもの」
「それじゃなまけるとすぐにしれてしまいますね」
「うむ。僕に六十点しかくれない。家来のくせにして失敬だよ」
「…………」
「お兄様がたの方の家来はみんな点が安い。頭の悪いものは家来の先生の多い学校へゆく方がとくだよ」
「そんなこともないでしょう」
「きみ、その制服は似合うよ」
「そうですか」
 と正三君も新調の制服に身をかためた。
 学校まで電車で三十分ばかりかかる。正三君は初めての方角だから、いっさい照彦様てるひこさまの指導にまかせた。
「きたない学校だろう?」
 と照彦様は門に着いた時、正三君をかえりみた。
「けっこうですよ」
「僕たちの教室は新しい」
「ナカナカ広いですね」
 と正三君は運動場を見まわした。
 教室には同級生が半数以上そろっていた。長い休暇の後ふたたび顔を合わせてみんなうれしそうだった。その中の五、六名が、
「やあ、花岡さん」
 と呼びながら寄ってきた。照彦てるひこ様は、
「お早う。これはね、今度はいった僕の友達だ。内藤正三ないとうしょうぞうといって秀才だよ」
 と早速さっそく正三君を紹介しょうかいした。正三君は赤くなって頭を下げた。
「きみのところの家来だろう?」
 と一人ひとりがきいた。照彦てるひこ様はそれに答えずに、
「府立からきたんでとても秀才だ。僕とはちがう」
 といって、正三君を教員室へつれていった。安斉あんざいさんから校長先生へ添書てんしょを持ってきたのである。校長さんは家来でない。しかし家来のところへおよめにきている人の伯母おばさんのご主人だから、つまり、家来の伯父おじさんだ。まったく関係のないこともない。正三君はこの校長さんと級担任きゅうたんにんの橋本先生にお目にかかった。
 まもなく始業式が始まった。照彦てるひこ様は正三君とならんで席について、
「きみ、きたない講堂だろう」
 とささやいた。その実りっぱな講堂だった。照彦様はちかごろ謙遜けんそんということを覚えたのである。ただし自分に関係あるものを思いつき次第に悪くいうのが謙遜だと信じている。なんでも手近のものを材料に使う。つぎに校長さんの訓示くんじ中、
「つまらないことばかりいうだろう?」
 とおっしゃったのも謙遜の意味だった。このへんが華族様かぞくさまの若様の鷹揚おうようなところだけれど、学校や校長先生こそいいつらの皮だ。
 式が終わるとすぐに、一同は級担任たんにんの橋本先生に引率されて教室へもどった。正三君の席は照彦てるひこ様と同じ机にきまっていた。先生は、
「みんな黒くなったなあ」
 と生徒たちの日にやけた顔を見わたして、出席簿を読みはじめた。
「……花岡、内藤」
 とちょうど中ごろで正三君を呼んだとき、
「ついでに紹介しょうかいしますが、今度この内藤君が入学しました。花岡君の友人です。なかよくしてやってくれたまえ」
 といって一同にひきあわせた。正三君は立っておじぎをした。しかし同級生には礼儀の正しいものばかりはいない。
家来けらいだ家来だ」
 と後ろの方で笑ったやつがあった。
「時間割りは先学期のとおり。学課は皆前の続き。明日あしたは日曜。今日きょうは授業なし。ところで諸君は夏中なにをしていたね?」
 と橋本先生はキビキビした人だった。富士へ登った話をした後、
「それでは、諸君、明後日あさってから」
 といいすてて出ていった。
 帰りみちに照彦てるひこ様は、
「始まるとすぐに日曜はうれしいね。きみは家へ帰るかい? 今日昼から」
 と急におもいついたようにきいた。
「いいえ」
「ありがたい。なにをして遊ぼう?」
今日きょうからご自習があるんでしょう?」
「いや、明日あしたの晩さ。僕は頭が悪いから、あさってのことを今日からやっておくとわすれてしまう」
「若様、ご自分で頭が悪いと思っちゃだめですよ」
 と正三君は胸にうかんだままを遠慮えんりょなくあらわした。今朝けさから学友の任務ということを考えていたのである。
「そうかね?」
「そうですとも」
「けれどもどうしても頭が悪いんだから仕方がない」
「悪いはずはありません」
「ありませんて、きみは僕の頭の中へはいってみたことがあるか?」
「それはありませんよ。けれども頭の病気をしなければ、悪くなるはずはないじゃありませんか?」
「きみは議論をふっかけるのか?」
「いいえ」
「それならよけいなことをいうな。学校の成績がなによりの証拠しょうこだ。僕の頭は悪いにきまっている」
 と照彦てるひこ様はつまらないことをやっきになって主張した。
 正三君はつとめ大事と考えているし、照彦様がはなすまいとするから、土曜日でも帰宅しないことにきめていた。
「どうですか? 一ぺんおかあさんのお乳をあがっておいでになったらいいでしょう」
 と奥様がおっしゃってくだすったが、
「このつぎにいたします。帰りたくないです」
 と強いところを示した。照彦てるひこ様は大喜びで、
「ボールをやろう」
 と昼からさっそくお庭へさそいだした。正三君も遊びたいさかりだから、運動はけっしてお役目のご奉公でない。なんでも真剣にやる。しまいには二人ふたりともくたびれて、芝生しばふの上に寝ころんだ。
「やあ、雲が動いている」
 と正三君はあおむけになったままいった。
「海のようだね」
からすが飛んだ」
「また飛んだ」
「いまのは小さい。すずめでしょう」
「きみ、きみ、雀を打ちにゆこう」
 と照彦てるひこ様が思いついた。
「パチンコですか?」
「空気銃だ。きみにはお兄様のを借りてやる。ゆこう」
「まいりましょう」
 と正三君はすぐに応じた。空気銃は小学校時代の夢想むそうだったが、お父さんがあぶながって買ってくれなかった。いまそれが自由に使えるのである。学友でも子供だ。自分の楽しみが先に立つ。
 伯爵家のおやしきには裏に広い畑があって、そのはてが雑木林になっている。付近に肥溜こえだめなぞがあって、むろん若様がたの立ち入るところでない。しかし運動にあきた照彦てるひこ様はまもなく正三君をしたがえて、この方面へこころざした。
「昔はここにきじがいたそうだ」
「いまでもはとぐらいいそうですね」
「鳩はどうだかわからないが、ふくろうはたしかにいる。夜鳴いていることがある」
「あいつなら昼間は目が見えないから、しめたものです」
 と二人ふたりは期待が大きくなってきた。
 はとふくろうも出なかったが、すずめはたくさんいた。見あたり次第にポンポンやったけれど、距離きょりが遠いからちっともあたらない。なお林の中をうろつきまわっている間に、照彦様は、
「きみ、きみ、すてきなものがある。見たまえ」
 と呼んだ。それは重なり合った雑木の下闇したやみにさがっているはちだった。
「大きなものですなあ。いるいる。ウジャウジャいる」
 と正三君はのぞいてみて後じさりをした。
「とろう」
「いけませんよ。さされます」
「ここから打ちおとしてやろう」
 と照彦てるひこ様が二、三発はなった。正三君も一発打った。はちはブンブンい立った。
「もうよしましょう。あんなにおこっています」
「きみは弱虫だね」
「でも、さされるとつまりません」
「なあに」
 と照彦てるひこ様は空気銃をぎゃくに持って、
「二人でたたきおとそう」
 と発起した。
「危ないです」
「きみは勇気がないな。それじゃ相撲すもうに勝ってもだめだ」
「…………」
「さあ、きもだめしだ。一二三でたたいて逃げだそう」
「逃げる肝だめしなんかありません」
「こわいものだから理屈をいっている」
「それじゃさされても知りませんよ」
 と正三君も今はよんどころなく、鉄砲をぎゃくにした。
 実は二人ふたりともこわいのだった。しかしこうなるとおたがいに意地で仕方がない。木の枝を分け蜘蛛くもをはらっておく深く進んだ。実に大きな巣だ。一年や二年でできたものでない。電燈のかさぐらいある。ことわざにもはちの巣をつついたようだという。すでに三発見まわれて、ブンブンうなっている。それをたたいたのだからたまらない。二人はほとんど同時に、
「アッ!」
 と叫んで、その場にひれふした。顔と頭をやられたのである。今は見栄みえも外聞もない。主従先をあらそって逃げだした。
「痛い。頭中あたまじゅうが熱い」
 と照彦てるひこ様は畑まできて立ちどまった時、涙を流していた。
「ひどい目にあいました。若様、ここでひやしましょう」
 と正三君はかたわらの井戸いどを指さした。二人はそこで応急手あてにとりかかった。
「内藤君、きみは変な顔になったぞ」
「若様も右のお目がはれています」
「そうかい? 目も痛いが、頭がヒリヒリする。かりたてだからたまらない」
「おひたいのところもすこしはれてきました」
「これは早くなんかお薬をつけてもらった方がいい。ゆこう」
 と照彦てるひこ様がうながした。
 二人ふたりがはれぼったい顔を現わして、一部始終を申し上げた時、奥様はアンモニアを取りよせて、お手ずからぬってくだすった。
「ひどくさされたものね。おいたをするからばちがあたったのですよ」
 とおっしゃっただけで、別のお小言こごともなかった。しかし女中がはたからクスクス笑ってばかりいたので、照彦様はおこって、
「失敬なやつだ」
 ときめつけた。正三君もこれには同感だったが、奥様は、
照彦てるひこも内藤さんもこの鏡をごらんなさい。ふじやが笑うのも無理はありませんよ」
 と注意してくだすった。二人ふたり姿見すがたみの前に立った時、すっかり悲観してしまった。めいめい、自分だけはそんなでもなかろうと思っていたのである。
 まもなく晩餐ばんさんの席上、この二つの顔が問題になった。朝と昼は若様がただけのことが多いが、晩餐ばんさんは洋間の食堂だから、お殿様もご一しょにめしあがる。家来で毎晩ここにいならぶのは正三君ただ一人、光栄とも恐縮きょうしゅくとも考えているところである。お殿様はこの機会を利用してお子様がたと親しくお語らいになる。その晩、正三君は照彦様と申しあわせてなるべくうつむいていた。正三君は末席でそのすぐ上が照彦様だから、いいあんばいにお殿様からほど遠い。お兄様がたもお姉様も二人ふたりはちにさされたことはすでにご承知である。お殿様のお目にさえとまらなければよろしい。
 食事なかばに、
照彦てるひこ今日きょうから学校が始まったのかな?」
 とお殿様がおたずねになった時、照彦様は、
「はあ」
 と頭を下げたまま答えた。
「内藤はどうだな? 学校が気に入ったかな?」
「はあ」
 と正三君も面を上げなかった。
「内藤、おまえは私の前でも遠慮えんりょをしちゃいかんよ」
「はあ」
「顔を上げてへんじをしてもよろしい」
 とお殿様は単に遠慮と思っていた。
「はあ」
 と正三君はよんどころない。れた方が見えないように頭のとんがりだけをお殿様の方へむけた。そのかっこうがいかにもおかしかったので、奥様がクスクス笑いだした。
「どうしたな?」
「オホホホホ」
「お父様、内藤君も照彦てるひこも今晩はごらんに入れる顔じゃありません」
 と一番上の照正てるまさ様がすっぱぬいた。
「うむ? なんの顔?」
はちにさされました」
「ふうむ。それはいけなかったな。照彦てるひこ、こっちをむいてごらん」
「はあ」
 と照彦様はもう覚悟かくごした。
「なるほど、えらい顔だ。内藤」
「はあ」
「おやおや、これもひどい。二人ふたりともなにかお能の面に似ているよ」
 とお殿様がいかにも感じたようにおっしゃったので、一同お笑いになった。
「裏の林へはいってを取ろうとしたのだそうでございます」
 と奥様が説明してくだすった。
「とにかく、世の常の顔じゃない。それで明日あした学校へゆけるかい?」
「明日は日曜です」
「ああ、そうか」
 とお殿様は例によって日曜をご存じない。
「明日中にせいぜいちぢめるそうです」
 と照常てるつね様までうち興じた。
「内藤さんは照彦てるひこのお相伴しょうばんでございますよ。おかわいそうに」
 とお姉様が同情してくだすった。
「むろん発頭人ほっとうにんは照彦さ。しかし痛かろう?」
「頭の方はまだチクチクします」
「頭もやられたのかい? 内藤はどうだな?」
「もうなんともありません」
照彦てるひこは昨今よく頭へたたるな」
「もともと頭が悪い上にさんざんです」
 と照彦様は頭をかいていた。
 日曜の晩から自習が始まった。伯爵家には学校の教場ぐらいの学習室がある。若様がたは三人、ここで勉強する。年配の家庭教師が三人、それぞれ大きな机に坐っている。英語の先生と数学の先生と国漢文こくかんぶんの先生だ。そこへ若様がたがかわるがわるにいって、明日あしたの予習とその日の復習をしていただく。学監の安斉あんざい先生は別の机にじん取って、若様がたの勉強ぶりを拝見しているが、実は先生の監督かんとくもかねている。家庭教師は元来やりにくいものである。教室で教える時のように、
「こら、なまけると落第させるぞ」
 といった風なおどかしがきかない。まして伯爵家のはみんな家来だ。若殿様だと思えば、自然ご遠慮えんりょを申しあげる。少しおいやなお顔をなさると、
「それでは今晩はまずこのへんまでにいたしましょうかな」
 とご機嫌きげんうかがう。その折り、安斉あんざいさんは、
「えへん」
 とせきばらいをするのが役目の一つだ。すると先生は、
「しかし堅忍不抜けんにんふばつの精神をお起こしにならないと学問は大成いたしません。やはり切りまでまいりましょう」
 といってまた続ける。以前勤めていた英語の先生は雑談のついでに、
「学校は百貨店のようなものです。授業料は商品切手です。品物は学問、商品切手を出して手ぶらで帰ってくる人がありますか? 授業料を出す以上は学校から学問を充分じゅうぶん買って来なければいけません」
 とたとえをもって誘導ゆうどうを試みた。けっして悪意はない。ところがしきりにせきばらいをしていた安斉あんざいさんは、
「吉田さん、ちょっと来てください」
 と血相を変えて、先生を学監室へひっぱっていった。
「なにご用でございますか?」
貴公きこうはふとどき千ばんだ。学校を百貨店とはなにごとか? 学問はそんなものじゃない」
「物のたとえです」
「たとえにもよりけりだ。孔孟こうもうの道を百貨店の仕入れ物と一しょにするばかがどこにある? 教師からしてそういう不料簡ふりょうけんだから、世道日におとろえ人心月にすさむばかりだ。ちっと反省しなさい」
「いや、私には私の主張があります」
「それでは反省せんか?」
「しません。ご当家の家庭教師はただいまかぎりごめんこうむります」
 と吉田先生も、いっこくものだったから、席をけって帰ってしまった。よほどしゃくにさわったと見えて、
「……貴公のごとき前世紀の怪物かいぶつが花岡伯爵家の子弟教育に従事するは身のほど知らず、ふとどき千万せんばんなり。時勢を見よ。時勢を見よ……」
 という手紙を辞職届じしょくとどけにそえてよこした。どっちもどっちだ。若い先生はたいてい若様がたと安斉あんざい先生の間に板ばさみになってとかく長続きがしない。安斉先生はその都度つど
「このごろの人間は君公ご馬前の精神が足りない」
 と慨嘆がいたんして、現在のような中老の先生ばかり採用することにした。
 さて、その晩、照彦てるひこ様と正三君は国文と英語の予習をやった。先生は二人ふたりともナカナカ念入りで、
「ここでは先生がこの熟語じゅくごを本からはなしてきくかもしれません。その時はいま申しあげたとおりに答えるのです」
 と一々教室のかけひきまで教えるから、二時間ばかりかかった。学校の授業と少しもことなるところがない。照彦様は中央の机へもどってから、あくびをしながら、
「どうも頭へはいらない。ふだんからいけないところへはちにさされてつっぱっている」
 とぐちをこぼした。これは一つにはあまりできのよくないところを初めての正三君に見せたから、そのいいわけのつもりだった。
「そんなこともありますまい」
「いや、蜂の毒が頭の中へしみこんでいる」
「ところで今度は数学ですか?」
 と正三君がきいた。
明日あしたは数学はないよ」
「なければやらなくてもいいんですか?」
「大きな声を出すなよ」
 と照彦てるひこ様は安斉あんざい先生の方をぬすみ見て、安心のむねをたたくまねをしながら、
「時間割りにないものをやっちゃそんをする」
 と鼻を鳴らした。自習がいかにも負担ふたんのようだった。
[#改段]

学校とおやしき






 月曜日に登校した時、照彦てるひこ様と正三君の顔は同級生の注目をひくくらいまだはれぼったかった。
「花岡さん、どうしたんだい?」
 と親しい連中がとりまいた。照彦てるひこ様は蜂の巣の一件を話して、
「顔より頭の方がひどいんだよ。帽子をかぶると痛い。蜂のやつら、やっぱりここをねらうにかぎると思ったんだろう」
 とついでながら頭のよくないことを主張した。
二人ふたりともやられたのかい? 知恵がないなあ。きみたちの仇討あだうちに僕がたいじてやろうか?」
 と高谷たかや君がいった。
「とてもだめだ。大きな巣だぜ。何十ぴきってブンブンいいながら守っている」
「何十ぴき、何百ぴきいたって同じことだよ。はだかでゆけばいい。蜂ってやつは出ているところをねらってさす。しかしはだかでゆくとすっかり出ているから、どこをさそうかと思って迷ってしまう」
「まさか」
「ほんとうだよ」
「ほんとうとも。それから口笛を吹きながらゆく。蜂は口笛が大きらいだ」
 と細井君が横から口を出した。
「口笛をふくと逃げるかい?」
「逃げないけれど、じっとして考えている。その間に巣をたたきおとすのさ。わけはない。お茶の子だ」
「それじゃきみたちは僕の家へ来てたいじしてくれるか?」
「いいとも」
今日きょうくるか?」
「ゆこう」
 とすぐに約束やくそくが成立した。
 華族様かぞくさまの若様はとにかく、民間に育ったいたずらっ子なら、中学校へはいるまでにはちの巣の一つや二つはかならず取っている。高谷たかや君も細井君もそれだった。蜂について特別の研究がつんでいるのではない。はだかと口笛のことは年よりからきいた理論の受け売りで、まだ実地に応用していない。ちょっと法螺ほらをふいたのだった。このゆえにその日放課後、番町ばんちょうの花岡家へたちよって林の中の蜂の巣に見参けんざんした時、
「これは大きい」
 といって首をかしげた。何十ぴきとなく守っているばかりか、あっちこっちにブンブンと雄飛ゆうひしているから、とてもはだかになる勇気は出ない。物おきの軒先のきさきなぞにぶらさがっているのとはけたが違う。
「僕と内藤君がここで口笛をふきながら、きみたちの制服を持っていてやる」
 と照彦てるひこ様はそんなことにとんちゃくなかった。
「花岡さん、ほんとうに取ってもしかられやしないのかい?」
 と高谷たかや君はいまさら念をおした。
大丈夫だいじょうぶだよ」
「しかし惜しいなあ、こんな大きいのはめずらしいぞ」
「これは取らないでおくと倍にも三倍にもなって今に博覧会へ出せる」
 と細井ほそい君も保存説ほぞんせつを主張した。
「はだかになってやればわけはないんだけれど、取ってしまえばもうおしまいだぜ。あんまり大きいから惜しいよ」
「こんなりっぱな家をこしらえているものを宿なしにしちゃかわいそうじゃないか?」
 と巣をほめてばかりいる。ナカナカりこうな子供だ。細井君は一度口笛をふきながらやや近くまでしのびよったが、あわてて戻ってきて、
「見たまえ。みんなじっとして考えていたろう? 口笛がこわいんだ」
 と説明した。どっちがこわいんだかわからない。つぎに高谷君は、
「広いなあ、花岡さんのところは。なんかして遊ぼう」
 とまったく別のことを発起ほっきした。
 夕刻、高谷君と細井君が帰ったあと、正三君は学監室へ呼びこまれた。
「内藤君、今日きょう遊びにきた子供は同級生ですか?」
 と安斉あんざい先生がきいた。
「はあ」
「成績のよい子供ですか?」
「さあ。よくぞんじません」
「むろん身許みもとはわかりますまい?」
「はあ。僕ははいったばかりですから」
「お学友には特にあなたを選んであるのですから、たとい同級生でもうさんなものをおやしきへ連れてきてはなりませんぞ」
「はあ。そうでした」
 と正三君はおそまきながら気がついた。安斉あんざいさんのおっしゃることはむりでない。
「何様のご家来で何石なんごくのご子息とわかっていて、品行方正学術優等のものなら、また詮議せんぎのしようもあります。若様が連れておいでになったことは私にもわかっていますが、これからはあなたがおそばにいておいさめ申す。おわかりかな?」
「はあ」
「学校でも若様のお遊び相手ははあなたが吟味ぎんみする。玉石混淆ぎょくせきこんこうですから、その中からしかるべき人を選んでください。おわかりかな?」
「はあ」
「あなたも遊びざかりをつらかろう。しかしご奉公です。むずかしいことばかり注文する老人だと思って、まあまあ、堪忍かんにんするさ」
 とシンミリいって、安斉あんざい先生は正三君の頭をなぜてくれた。こわいようでもやはり情の人だ。正三君はたいそううれしかった。
 それから二週間たった。照彦てるひこ様はのんきだが、正三君は常に気を使っているから、学校の様子がほぼわかった。まず安心したのは照彦てるひこ様が同級生からばかにされていないことだった。家来としては君はずかしめられるのが一番おそろしい。同級生は何々君と君づけで呼びあうが照彦様だけは花岡さんで通っている。おのずから貴公子の威厳いげんがそなわっているからだろうと正三君は最初の中ごく単純に解釈していた。ことに高谷たかや君と細井ほそい君は照彦様びいきで、
「僕たちはこの間花岡さんの家へいった。実に大きな蜂の巣があるぞ」
「僕は花岡さんの家で柔道を習った。花岡さんは柔道ができる」
 としきりに花岡さんを持ち出す。しかしまもなく正三君はこの「花岡さん」が秋山先生の口ぐせからきていることを承知した。秋山さんは同じく花岡家の旧臣きゅうしんだ。
 先生がたは出席簿しゅっせきぼを呼ぶ時、
「坂本。井上。上村」
 と呼びずてにする。席順は成績順でもイロハ順でもなく、身長順だから、照彦てるひこ様と正三君は中軸ちゅうじくになる。ところで秋山先生の点呼は一種独特だ。
「坂本。井上。上村」
 と規定どうり呼びずてで始めるが、照彦てるひこ様から三人前へ来ると急に、
「細井君。島原君。庄司君」
 と君づけにして、つぎに、
「花岡さん」
 とやる。それから、
「内藤君。中川君。関根君」
 とまた三人くんづけで、以下呼びずてにもどる。若殿様が教室にいると、先生はやりにくい。
「あれは家来だから、ああするんだ」
後先あとさきの三人はお相伴しょうばんだ」
 と同級生も察している。ただし秋山先生はいたって評判がいい。その先生が特別に敬意を表している若様だと思うから、みんな、花岡さんと呼ぶ。正三君はとにかくよい徴候ちょうこうだと考えた。
 しかし同級には数名の無法ものがいた。照彦てるひこ様もほかの生徒同様時おりかれらの圧迫あっぱくをまぬがれえなかった。なかんずく堀口という落第生は全級のもてあましものだった。不良分子は皆こいつの子分になっていた。級担任きゅうたんにんの橋本先生はつとに見るところあって、この生徒を教壇のすぐ前に坐らせておく。身長順では上の方だが、後ろにいるといたずらをして困る。前列にすえてたえずにらんでいなければならない。実にやっかいな代物しろものだ。落第するくらいだから学問はできないが、腕力は強い。みんな恐れている。こいつがある日のこと、運動場で正三君とゆき違いざま、正三君の帽子をはらいとばして知らん顔をしていた。これが堀口生の常套手段じょうとうしゅだんだ。出ようによっては喧嘩けんかをしかける。
「なにをするんです?」
 と正三君はムッとした。
「家来! きさまは花岡の家来だろう?」
「家来でわるいですか?」
「わるいといついった? さあ、いつの幾日いつかにいった?」
 と堀口生はひじを張って押してきた。喧嘩けんかは手も口も優秀だ。正三君はゆきづまって、なんとも答えることができなかった。
「おぼえていろ」
 と無法ものはいいがかりもはなはだしい。
 この光景を見ていた高谷君は後から、
「きみ、堀口と喧嘩しちゃいけない」
 と注意してくれた。
「なぜ?」
「あいつは不良少年だ。みんなこまっている」
「先生にいいつけてやる」
「先生もこまっている。先学期は退校になりそうだったが、お母さんが泣いてあやまりにきた。なにをするかしれないやつだから、相手にならない方がいい」
「だれにでもあんなことをするのかい?」
「皆にする。しかしだまっていれば、もうしない」
「いやな奴がいるんだなあ」
 と正三君はその日一日心持ちがわるかった
 高谷君と細井君には二週間ですっかりなじみになった。おたがいにもうちっとも遠慮がない。正三君は二人ふたりがおやしきへ遊びにきたおかげで安斉あんざい先生から注意をうけたけれど、それをつぐなってあまるものがあった。高谷君は二番で細井君は三番だ。一番で級長の松村君もろとも、級のよい勢力を代表している。照彦てるひこ様のためにも申し分ない朋輩ほうばいである。友だちは偶然の機会できまることが多い。主従蜂にさされて顔がはれたものだから、高谷君と細井君がを見にきた。その日夕方までうちくつろいだのが始まりで、以来学校では始終一しょだ。
「内藤君は府立からきた秀才だよ」
 とほかの善良な生徒にもひきあわせてくれる。何様のご家来かわからないが、学術優等品行方正だけは安斉あんざいさんの注文にはまっている。しかしどこまでも厄介やっかいなのは堀口生だった。正三君はまもなくこの無法ものがだれにでも食ってかかることをみとめた。
 ある雨の日の休憩きゅうけい時間に、両三名の生徒が、
田代たしろ先生が休みだぞ」
 という吉報を掲示場けいじばからもたらした。級生一同は、
「うまいうまい。ありがたいありがたい」
 と手をうって喜んだ。小学校の一年生はむやみに学校へゆきたがるが、中学校の一年生はむやみに休みたがる。
「松村」
 とこの時堀口生が大きな声で呼んだ。この悪太郎はだれでも呼びずてにする。
「なんだい?」
「くりあげにしてこい」
「よしよし」
 と承知して、級長の松村君は教員室へむかったが、ほどなく戻ってきて、
「だめだよ。橋本先生が補欠ほけつにくる」
 と報告した。
「なんだ? おケツだ?」
 と不良の堀口生は好んできたないことをいう。子分どもはおべっかを使って笑った。
「補欠だよ」
「ばか!」
「なにがばかだい?」
 と級長も少ししゃくにさわった。
「おケツじゃもうからない。おまけに、やさしいものとむずかしいものを取りかえてくる奴があるか?」
「でも仕方がない」
「きさまが腕がないからよ。去年の一年級は先生が休めばいつでもくりあげになったぞ」
「去年は去年だ」
「なに!」
 と堀口生はもう腕力を出して、松村君を突きとばした。
「堀口、らんぼうなことをするな」
 と細井君が出てきた。
「なんだ!」
「なんだ!」
 と双方そうほういがみあったが、皆に止められてしまった。
 級長でもこのとおりだ。堀口生はよわいと見こみをつけたらどこまでもいじめる。なんともされないのは細井君初めやや腕ぷしの強い数名にすぎない。正三君のような新入生にはことに興味をもって突っかかってくる。教室でも運動場でも因縁いんねんをつける機会を探している。しかし正三君が相手にならないものだから、ごうをにやして、ある時教室の黒板へ、
花岡の家来、内藤正三位しょうさんみ
 と書いた。なおこうもり傘らしいものを書いて、その下に「若さま」「家来」とこぶのある顔を入れた。どっちも目から涙が流れている。蜂にさされたことをふうしたのだった。
「傑作傑作」
 と子分どもがほめた。餓鬼大将がきだいしょう、とくいになって、
「消しちゃいけないぞ」
 とこれを先生のごらんに入れるつもりだった。このへんはよほどばかだ。
 つぎの時間は数学で、橋本先生がはいってきた。堀口生は、
「やあ、おもしろいなあ!」
 とりかえって、先生の注意を黒板へむけようとした。先生はなんともおっしゃらずに落書きをふき消したが、その黒板ふきを持って進み出て、堀口生の頭をポカリとたたいた。顔が粉屋のようにまっ白になった。
「先生、ひどいです」
「ひどいって、きみだろう」
「おやおや」
 と堀口生は恐れ入った。級担任きゅうたんにんの橋本先生には頭があがらない。
 わるい勢力はよい勢力よりもはびこりやすい。堀口生は先生から一本まいったが、黒板の広告は充分に効果をそうした。以来正三君に、
「おい、家来、しっかりしろ」
「やい、正三位しょうさんみ
 なぞとからかうものがでてきた。正三位はまもなくすたって家来だけが正三君のあだ名として残った。もっとも善良組はけっしてそんなことをいわない。どっちつかずの連中の半数と不良組の全部がこれを用いる。
 このとおり学校で気を使う上に、おやしきへ帰っても自分の家のようにくつろげないから、正三君の立場はナカナカつらい。晩の予習や復習は自分としてなんでもないが、照彦てるひこ様は自ら頭がわるいと常々主張するくらいだから、できがよろしくない。足のよわいものと一しょに旅をするようなものだ。始終待っていてやらなければならない。正三君は学友として勤めはじめてからこの一月の中にいちじるしく力がついている。元来優秀なものが学校以外に老巧な家庭教師について予習と復習をうけるのだから、これは当然のことだった。
「僕はきみとは頭がちがうんだから、きみが進みたがると僕はこまる」
 と照彦様は苦しがる。
「きみは勉強して僕をいじめるつもりか?」
「僕に忠義をつくす気なら、もっとなまけろ」
 なぞと無理なことばかりおっしゃる。
 照彦様は他のことではなにをしても負けない気だが、学問となると最初からあきらめている。ちっとも本気にならない。学習室で一しょの机にすわって先生の講義をきいている時、正三君は地震が始まったのかと思うことが度々たびたびある。しかしそれは照彦様のびんぼうゆすりだ。頭をかいてみたり足をつかんでみたり、しばらくもじっとしていない。まったくうわの空だ。
散乱心さんらんしんをいましめて」
 と時おり学監の安斉あんざい先生が朗読口調ろうどくくちょうでご注意申しあげる。すると照正てるまさ照常てるつね様までシャキッとする。安斉さんが一番こわい。
 このお兄様がたにしても照彦様と大同小異だ。ご自分で勉強しようという気がない。正三君は一度、照常様が書生の杉山に数学の宿題をたのんでいるところへゆきあたった。
「杉山、ここを五番から七番まで明日あしたの朝までにやっておいてくれ。先生に習うと覚えなければならない」
 というりっぱなお心がけだった。こういう調子だから、時たま安斉先生がお顔を見せないとひどい。
「先生、もういいかげんにやめましょう」
 なぞといいだす。
「まあまあ」
 と先生がたはしばらくふみこたえるが、けっきょく譲歩じょうほする。照彦様にいたっては正三君の耳を引っぱって、
「少し休めよ」
 と机の上に頬杖ほおづえをつく。
「おつかれですかな。それではしばらく」
 と先生がたはもとよりあきらめている。
 正三君は安斉先生が追々おいおいこわくなくなってきた。それはこの老人の信任がダンダンましてきたからである。時々学監室へ呼びこまれるが、註文ちゅうもんを承った後で、いつもねぎらってもらえる。現にこの間は、
「内藤君、きみは照彦様をどう思いますか? 参考のため腹蔵ふくぞうなく話してください」
 という懇談こんだんだった。
「若様は頭がわるいと思っていられます。これが一番いけません」
 と正三君は日ごろ感じているままをべた。
「そこだ。そこだ」
 と安斉先生は二度うなずいた。
「頭がよいとお思いになれば、きっと成績が好くなります」
「そこそこ」
「先生もそうおっしゃってください。僕もなるべく申しあげます」
 と正三君はいっぱし定見ていけんを持っていた。安斉先生はほめてくれた。
 土曜日は自習がないので照彦様の書き入れになっている。昼からお兄様がたのまねをして馬に乗ってみた。正三君は馬の背中にへたばりついて皆に笑われた。初心だからぜひもない。その折り、
「内藤君、僕は馬に乗れても悲しいことがある」
 と照彦様が草原にすわったままいった。
「なんですか?」
「僕は叔父様おじさまのように陸軍将校になりたいんだけれどだめだ」
「なぜです?」
「軍人には試験がある。しかし僕は頭がわるい」
「若様、あなたは頭が悪いことはけっしてありません」
 と正三君は力強く否定ひていした。照彦様が目を見はって、
「きみはなぜそんなこわい顔をする?」
 と驚いたくらいだった。
「あなたが頭がわるい頭がわるいとおっしゃるなら、僕はもうおいとまいたします。それではお相手をしてもなんにもなりません」
「きみが帰れば僕はなおだめになる」
「若様、あなたはランニングでは僕に負けないでしょう」
「たいてい勝っている」
相撲すもうはどうです?」
「あれからやらないけれど、そうそう負けないぞ」
「弓は?」
「弓はきみのほうがへたじゃないか?」
「足も丈夫じょうぶ、腕も丈夫じょうぶの人がなぜ頭だけわるいんですか?」
「…………」
「同級生を見ても足の丈夫さはたいてい同じです、腕の力もあまり違いません。頭だって、病気をしなければ、みんな同じのはずです」
理屈りくつはそうさ」
「あなたは本気になって勉強しないからいけないんです」
「なんだ? きみは学問ができると思って、先生になったつもりだな?」
「そうじゃありません」
「いや、僕をしかる気だ。失敬な!」
「若様、僕はもう家へ帰ります」
「帰れ、あんまりだ」
「帰ります」
 と正三君はおどかしばかりでなかった。これでは実際仕方がないと思って立ちあがった。
「早く帰れ」
「それでは失礼いたします」
「きみ、内藤君」
「…………」
「きみ、きみ」
 と照彦様は追ってきた。
「なんですか?」
「僕がわるい」
「若様がおわるいことはありません」
「僕はもう頭がわるいといわないからいてくれたまえ。きみと同じように勉強するからいてくれたまえ」
[#改段]

家来けらいの一日






「おい、内藤正三位しょうさんみ
 とクラスのもてあましもの堀口生ほりぐちせいが正三君を呼んだ。運動場で二人出会いがしらだった。
「正三位! 家来!」
「…………」
「内藤!」
「なんです」
 と正三君は初めて答えた。
「用があるからちょっとこい」
「僕はきみに用はありません」
「まあいいからこい、いい話があるんだ」
 と堀口生は正三君の腕をつかまえて、小使い部屋べやの後ろへ引っぱっていった。
「どういう話ですか?」
「そうこわい顔をするな。きみと仲よしになってやる。上級生にいじめられたら、おれのところへいってこい」
「そんなことはどうでもいいです」
「きみはおれを信用しないのか?」
「…………」
「おれだってわるい人間じゃないぞ。おかあさんも叔父おじさんもそういってらあ。先生がむやみにしかるものだから、わざとあばれてやるんだ。少しは同情してくれ」
「…………」
「おれは学問ができない。きみは府立からきた秀才だそうだ。それできみはおれをばかにしているのか?」
「そんなことはありません。僕はだれでも同じです」
「それはありがたい。ほんとうに同じか?」
「同じです」
「よし、同じなら相談があるんだ」
「なんですか?」
「きみは花岡の家来だ。この間高谷と細井を花岡のところへ遊びにつれていった。おれもつれていってくれ。たのむ」
「あれは僕がつれていったんじゃありません」
「でも一しょに帰っていったじゃないか? おれは見ていたぞ」
「あれは照彦てるひこ様がおさそいになったんです。僕はそのため先生にしかられました」
「橋本先生か?」
「いいえ、おやしきの先生です」
「先生がいるのか?」
「四人います」
「すごいな」
「きびしいです」
「しかしわるいことをしなければしかられやしない。僕も花岡に頼んで一ぺん遊びにゆく」
「それはこまります」
「なぜだ?」
「高谷君や細井君さえいけないんです」
「こんちきしょう!」
 と堀口生はいきなり正三君のむなぐらを取った。
「なんです?」
「高谷君や細井君さえとはなんだ? さえとはなんだよ? 成績がわるいと思って、おれをばかにするのか?」
「そういうわけじゃありません」
「じゃどういうわけだ?」
「高谷君と細井君はきみも知っているとおり照彦様の仲よしです。それでもいけないんです。先生がきびしいですから、学校のかたが遊びにくると僕が叱られます」
「うそをつけ、高谷と細井はまた今度ゆくといっている」
「それは僕の知ったことじゃない。はなしたまえ」
 と正三君は堀口生の手をつかまえてはずそうとした。頭の上で始業のかねが鳴り始めたのである。
「よし。もし他のやつが花岡のところへ遊びにいったら、きさまをただおかないぞ[#「ただおかないぞ」はママ]
「はなしたまえ。もう時間だ」
「はなさない。きさまを遅刻ちこくにしてやるんだ」
「きみだって遅刻になる」
「よけいなお世話だ。やい、家来! 正三位!」
 といいざま、堀口生はグイッと引いて足をすくった。正三君はあやうくたおれるところをよろめいて、やもりのように小使い部屋べやの側面にへたばりついた。堀口生は投げそこねたとみると、こぶしを固めて突きにきた。活動で見おぼえた拳闘けんとうの応用だ。不良だからつまらないことばかり研究している。温厚な正三君もこうなると自衛上やむをえない。覚悟かくごをきめて身がまえた。しかしその時、かねを鳴らしおわった小使いの関が、
「こらこら!」
 とどなった。この男は兵隊あがりで生徒監督かんとくをもって自ら任じている。堀口生はすぐに逃げていってしまった。
 正三君はだまっていたが、一日心持ちがわるかった。おやしきへ帰ってからもしきりに考えこんでいた。堀口は落第生だから、年が一つ多い。図体ずうたいが大きいから、あるいは二つ多いのかもしれない。したがって腕力も強い。
「一番強いやつが一番わるい奴ときている。そいつと始終喧嘩けんかをするんじゃたまらない」
 と思った。文明人も小学校から中学校の二、三年へかけては犬や猫と同じことだ。権力が図体できまる。その図体は年できまる。一つの子と三つの子を一しょとこに入れておけば、後者は前者を恐らく殺してしまうだろう。七つの子は九つの子にかなわない。十三の子が十五の子に勝てるかしら?
「しかしなんという失敬な奴だろう? 僕ばかりじゃない。みなこまっているんだ。負けていると増長する」
 とついで正三君は義憤にもえた。理はむろんこっちにある。出るところへ出れば文句はいわせないのだが、先方には図体と腕力がある。いわゆる『いじめっ子』だ。かえるにのぞむへびのような優勢を持っている。
 その夕刻、食堂から部屋へもどる廊下で、
「おい、内藤正三位しょうさんみ
 と照彦てるひこ様が呼びかけた。堀口生のことで煩悶はんもんしていた矢先、正三君はひどく不ゆかいに感じて、へんじをしなかった。
「正三位、きみはうそをついたぞ」
「…………」
「内藤君」
「はあ」
「正三位」
「…………」
「わかった。正三位が気に入らないんだね?」
「あたりまえです。若様までそんなことをおっしゃると思うと、僕は悲しくなります」
冗談じょうだんにいったんだ」
「…………」
「もういわないからおこるなよ」
「おこりゃしません」
「正三位は僕がわるかったけれど、きみはうそをついているぞ」
「なぜですか?」
「きみは僕が予習を自分でやるようなら、僕のいうことをなんでもきくと約束したろう?」
「いたしました」
 と正三君は学習室の戸をあけた。照彦様は先に通って、
「僕は自分でやっている。昨日きのうなんか算術が一題半できた。今日きょうも国語を自分でやる。それに頭がわるいなんてこともあれから一度もいいはしない」
「それにかぎります」
「ほめていちゃいけないよ。ずるい奴だな」
「どうすればいいんですか?」
「まるで詐欺師さぎしだね、きみは。人をだます名人だ。もう勉強してやらないからいい」
「高谷君と細井君のことですか?」
「そうさ」
「いずれ安斉先生にお願いしてみましょう」
「これからすぐにお願いしてくれたまえ。いずれなんてことは手間がとれるからきらいだ」
「承知しました。しかし若様、僕は今日高谷君と細井君のことで堀口に喧嘩けんかをふっかけられました」
「ふうむ」
「堀口も遊びにきたいんです」
「あんなものはこまるよ」
「それで僕もそういったんです」
 と正三君は一部始終を物語った。
「それじゃ高谷君や細井君がくると具合がわるいね」
「いいえ、かまいません。あいつは高谷君や細井君がこなくても、ほかのことで喧嘩けんかをふっかけるにきまっています」
「強いぞ、堀口は」
「しかしかかってくれば仕方ありません」
「やるか?」
「やります」
「その時はみんなで手つだう。細井君はぜひ一ぺんやらなければだめだといっている」
 と照彦様は力をつけた。
 正三君はまもなく学監室へ出頭した。安斉先生は頑固がんこのようだが、けっしてわからず屋でない。正三君の努力を理解して、顔に似合わぬやさしいことばをかけてくれる。
「気のついたことはなんでも話してください。みんな若様のおためです」
 と、ことにこの間照彦様の頭の問題を申しあげてからは信用がましている。
「先生」
「さあ、こっちへ」
 と安斉さんは椅子いすをすすめて、
「どうですかな?」
 ときいた。むろん照彦様のことである。先ごろから頭をわるいと思わせない方針で師弟協力している。
「うまくいっています。もうおっしゃいません。ご予習も半分ぐらいご自分でなさいます」
「それは結構だ。ご自力はどんな具合ですか?」
「まだわかりません」
「長年の習慣ですから、そう右から左へはまいりますまい。ジリジリご誘導ゆうどうください。ご本人にもおっしゃらせず、はたからも申しあげないようにして」
「ところがチョクチョク申しあげる方があるので困ります」
「だれだね? 不都合ものは。まさか先生がたじゃあるまい」
「いいえ、奥様でございます」
「なるほど。奥様はよくおっしゃるな。ご謙遜けんそんのつもりで、頭のわるい子ですからとおっしゃる」
「それからお殿様とのさまでございます」
「なるほど。殿様もたしかにおっしゃる。これはいかん。本元ほんもとをわすれていた。ハッハハハハ」
「先生」
 と正三君は安斉さんのご機嫌きげんなのを見て相談を持ち出す算段さんだんだった。
「なんだな?」
「僕は照彦様に頼まれたことがあるんです。なんでも自力でご勉強になるかわりに、お兄様がたと同じにしていただきたいとおっしゃるんです」
「ははあ、条件をおつけになったな?」
照正てるまさ様や照常てるつね様のところへは学校のお友だちが始終お遊びにおいでになります。照彦てるひこ様はそれがおうらやましいのです」
「それでは同じように学校の朋輩ほうばいをおやしきへ呼んで遊びたいとおっしゃるのですかな?」
「はあ」
「学習院と市井しせいの私立中学校とは同日に論じられません。照正様や照常様のところへおいでになるのは島津様でなければ毛利様、松平様に久松様、鍋島様に堀田様、どうまちがってもみんな天下の諸侯しょこうです」
「はあ」
「私立学校は民間ですからなにがくるかわかりません。矢場の息子むすこ、玉ころがしの息子、改良剣舞の息子……」
 と安斉先生は三十年昔の下等なものを枚挙まいきょした。
「先生、そんなものはきていません」
「いや、新橋ステンショの下等待合室と思わなければなりません」
 とどこまでも三十年前だ。その頃は汽車の等級が上等中等下等とわかれていたのである。
「しかし身分が相応で成績がよければ若様のおためになると存じます」
「それはどうせ教室で机をならべているんですから、詮議せんぎの余地のないことはありません。大ぜいですか?」
「いつか蜂の巣を見にきた高谷君と細井君とそれから級長の松村君です」
「何様のご家来ですか?」
「細井君のところは三井みつい様のご家来らしいです」
 と正三君はほほえんだ。
「三井様という大名はない」
「三井銀行へ出ているんです」
「それなら銀行員です。浮浪人よりもよろしい。もう一人ひとりは何様のご家来ですか?」
「白木様のご家来です」
 とまたまた窮策きゅうさくだった。
「白木様? これも聞いたことのない大名だいみょうですな」
「白木屋の店員です」
「内藤君はナカナカやるな」
 と安斉先生は笑いだした。
「先生、会社員や銀行員ではいけませんか?」
「せっかくですが、もう少し身分がはっきりしないとこまりますな?」
「陸軍少将の息子ならどうでしょう?」
 と正三君は一生懸命だった。
「陸軍少将という旅団長、昔なら侍大将さむらいだいしょうです。結構でしょうな」
「級長の松村君は陸軍少将の息子です。この三人なら学問も品行も申し分ありません。照彦様はお仲よしですから、時々おやしきへおまねきしたいとおっしゃるんです」
「とにかく、私が会ってみましょう。ご身分をうかがって、メントル・テストにかけます。その上のことにしてください」
 と安斉先生はナカナカ用心深い。
 殿様と奥様は月に一度ぐらい若様がたのご自習をごらんなさる。前ぶれなしにいきなりおこしになるから、若様がたはもとよりのこと、家庭教師が面くらう。正三君はその晩初めてこのご参観にまわりあわせた。照彦様が国語の読み方を有本先生に直してもらう間、自分も一心に黙読していたが、香水のかおりが鼻にせまってきたので、ふと顔を上げてみると、それは奥様だった。同時に後ろの方で照常てるつね様の英語訳解が読みのところをみょうにせきこんだ。
「照常、速すぎるぞ」
 という声がきこえた。お殿様だ。正三君はまっかになった。若様がたも一生懸命だった。息のつまるような数分間がつづいた。
 照彦様が再三直されて国語の読み方をおわった時、
「有本さん、ご苦労でございます。頭のわるい子ですから、特別にお骨が折れましょう」
 と奥様は先生をねぎらうつもりでおっしゃった。
「エヘン」
 と安斉先生がせきばらいをした。
「どういたしまして。内藤君、今のところを読んでごらんなさい」
 と有本先生が命じた。正三君がスラスラと読みおわるのを待っていたように、奥様は、
「よくおできでございます。照彦とはまったく違います」
 とほめた。
「どういたしまして」
「いいえ。照彦や、おまえは内藤さんの二倍も三倍もやらなければだめですよ。頭のわるい分を勉強で取りかえすのです」
「エヘン」
「ゆだんをしてはなりませんよ。人よりも頭のわるいことを始終わすれないようにしましてね」
「エヘンエヘンエヘン」
 と安斉先生は続けさまだった。
 一番上の照正てるまさ様は黒須くろす先生の前で数学の問題と組み討ちをしていた。
「もう一息のところですよ。よくお考えなさいませ」
 と先生が力をつけている。英語の矢島先生は訳解をおわって、
照常てるつね様、一つ書き取りをいたしましょう。ご用意」
 と命じた。
「先生、明日あしたは書き取りはございません」
 と照常様は不承知のようだった。
「語学は書き取りにかぎる。書き取りをすると文章の構造をおぼえるから上達する」
 と殿様がおっしゃった。伯爵はくしゃくはお若い時英国へ留学して英語がおとくいだ。矢島先生は殿様がお見えになると必ず書き取りをやってごらんに入れる。
「練習でございます。ただいまお読みになったところをいたしましょう」
 と先生は口授くじゅを始めたが、照常様は用意がなかったからさんざんの不成績だった。
「できないね」
「…………」
「相変わらず頭がよくないな」
「エヘンエヘン」
「ちょっと見せなさい。それぐらいの文章がわかっていなくちゃ困る」
 と殿様は照常てるつね様の教科書を取ってはぐった。すると写真が三、四枚落ち散ったので、
「おやおや!」
 と驚いたのも道理。それはみんな西洋の活動女優のだった。
「…………」
「こんなものを教科書の中へ入れておいちゃいけないね」
「はあ」
「もっと本気になって毎日書き取りをやってごらん。英語は漢文なぞとちがって大事だからね」
「エヘンエヘン」
「なんでございますの? まあ、活動の女優でございますの! 照常や」
 と奥様もあきれた。
「…………」
「これは私、卒業までおあずかりいたしましょう」
「はあ」
 と照常様は頭をかいていた。
照正てるまさは数学かな?」
 と殿様は照常様を奥様にまかせてつぎの机に移った。
「はあ」
「数学には同情する。高等科になってもまだあるのかね?」
「はあ、今年一年苦しみます」
 とご長男照正様はたりかしこしで、顔をしかめてみせた。
「親ゆずりなら、おまえに数学のできるはずはない」
「どうもいけません」
「家のものはみんな数学がいけない」
「エヘン」
「語学の方はどうにかこうにかやるが元来花岡家には数理の頭がないのらしい」
「エヘンエヘンエヘン」
「安斉はかぜを引いたかな?」
「いいえ、いっこう」
「さっきからしきりにせきが出る。大事にしたがいい」
「はあ、ありがとう存じます」
「それでは有本君、矢島君、黒須君、ご苦労でした」
 と殿様は一々ご会釈えしゃくをたまわって、奥様とご一しょに退出した。廊下までお送り申しあげた安斉先生は、
照常てるつね様、ちょっと学監室へ」
 と時をうつさず現われた。
「はあ」
 と照常様は立っていった。むろん女優の写真を持っていた件で説諭せつゆを受けるのである。
「いい気味いい気味!」
 と照彦てるひこ様が正三君の注意をんだ。
「なんですか?」
「お兄様とご一しょ内証ないしょで活動へゆかれたばちがあたったんだ」
「こらこら、よけいなことをいわないで勉強しろ」
 と照正てるまさ様がたしなめた。二人ふたりは英語の予習を受ける番だったので、矢島先生の机へ進んだ。
[#改段]

小さな胸のなやみ






照彦てるひこ様、いかがでした?」
 と正三君がきいた
「知らん」
「照彦様」
「知らん。そんな失敬なやつは知らん」
 とにらみつけて、照彦様は運動場をスタスタ歩き出した。
 それは算術の平常試験がすんだ後だった。照彦様と正三君は机がならんでいる。最初の中、照彦様は首をのばして正三君の答案を見ようとした。ついで、
「おい、内藤、二番を教えてくれ。三番も四番もできない」
 とささやいた。しかし内藤君はいかに君命でもこういう不正なことには応じなかったのである。
「内藤正三位!」
 と帰りには照彦様の方から呼びかけた。
「…………」
「あんまりだぞ」
「…………」
「よくも僕をだましたな。きみは僕の成績をわるくして自分ひとりほめられたいんだろう?」
「照彦様、とんでもないことをおっしゃいますな」
 と正三君はようやく口をきいた。
「いや、きみは僕にこの間から自力自力っていっていた。平常試験を自力で受けさせて落第にするつもりだったんだ。僕は一題しかできなかったぞ」
「もっと勉強なさればもう一題できています」
「できるもんか」
「おできにならなければおできにならなくてもいいです」
「いいことはない」
「ずるいことをするよりいいです」
「なんだ? 失敬な」
「照彦様」
「知らん。もう知らん」
 と照彦様はそっぽをむいて歩いた。
 おやしきへ着いてから正三君は自分の部屋にはいったまま出てこなかった。照彦様はもう遊びたくなったが、呼ぶのは負けたようでいまいましいから、
「ヘエン[#「ヘエン」はママ]
 とふすまごしにせきばらいをした。
「ヘエン、ヘエンヘエン![#「ヘエン、ヘエンヘエン!」はママ]
 と再三やったけれど音さたがない。それで、
「やあ! 虎がきた」
「やあ! 駱駝らくだがきた」
「やあ! 熊がきた」
 と大きな声でさそいをかけていた。折りから廊下を通りかかった照常てるつね様が、
「なんだ? 熊だ?」
 とききとがめた。自分のことだと思ったのである。照彦様はよせばいいのに、
「ヘン」
「なに?」
「ヘン、卒業までおあずかり」
「こいつ!」
「ちょっと学監室へ。ヘン。九官鳥ですよ」
 とからかったものだから、照常様ははいってきて、
「失敬な!」
「ごめんごめん!」
「こら」
 と腕をねじった。
「痛い!」
「さあ、どうだ?」
「もういわない。いいません。いいませんよ。内藤、内藤、助けてくれ」
「照常様、照常様」
 と正三君はふすまを開けて、いきなり照常様の腕につかまった。
「なまいき!」
 と照常てるつね様は正三君の頭を一つたたいて出ていった。
「ああ、痛い痛い」
 と照彦様はねじられた腕をさすっていた。
「僕は頭をぶたれました」
「きみが?」
「ええ」
「まちがったんだろう」
「そうでしょうな」
 といったが、正三君はたたかれる覚えがあるような気もした。
「遊ぼう」
「遊びましょう」
「ああ、痛い。きみがすぐ出てきてくれれば、こんなことにはならない。これからは『虎がきた』といったらとにかくすぐ出てきたまえ」
「お呼びになったらいいでしょう」
「僕だって呼びたくないことがあるよ」
 と照彦様は笑っていた。
 こんな具合で正三君と照彦様は行きちがうと思うとすぐまたうち解ける。一月ばかりの中に幾度喧嘩けんかをしたかしれない。いつも照彦様が無理を通そうとして失敗する。それが一々教訓になるから、正三君もけっして無駄奉公むだぼうこうをしているのでない。お殿様も奥様もそれをみとめていてくださる。ことに奥様は思いやりよく、土曜日が近づくごとに、
「内藤さん、けっしてご遠慮えんりょはいりませんのよ。今度こそ一晩ゆっくりお母さんのお乳をしあがっていらっしゃい」
 と冗談じょうだんながらおっしゃる。正三君はむろん家へ帰りたい。しかし同時に強い子だと思ってもらいたい。そこで、
「僕、まだいいです」
 とその都度がまんした。なお照彦てるひこ様がはなさない。土曜日は予習復習の責任がないから、ふた人で思い存分遊びたいのである。正三君においてもこれはけっしてつらいお相手でない。秋晴れの土曜日曜の早くたってしまうこと!
 正三君は家へ帰らないかわりに毎週おこたらず手紙を書いた。殿様や奥様のご親切なことや照彦様と仲のいいことを報告した。家からはお父さんが二、三度お役所の帰りによって様子を見ていった。しかし男親に男の子だ。
「どうだね? なれたかね?」
「なれました」
「どうだね? 勤まるかね」
「勤まります」
 とどっちも強がっていてあまり口をきかない。そこへ家令かれいの富田さんが、
「もうすっかりおなじみになりましたから、すこしもご心配ありません。ちょうどいいお相手です」
 と保証してくれるから、正三君もよんどころない。のっぴきならず強くなるような傾向があった。
 試験のことで双方おかんむりをまげた日の夕刻、二人ふたりはもうすっかりごきげんが直って洋館の食堂へはいった。その卓上、奥様をお相手に話していられたお殿様が、
「内藤」
 とお呼びになった。
「はあ」
 と正三君はお殿様からお声のかかるのを光栄としている。
「内藤はえらいぞ。安斉先生が感心している」
「…………」
「しかし内藤、おまえのおかげで私も奥も安斉先生から叱られたよ。ハッハハハハ」
「オホホホホ」
 と奥様も共鳴した。
「なんでございますか?」
 とご長男の照正てるまさ様がきいた。
「おまえたちのことさ。おまえたちは勉強の仕方がまちがっている。先生をたよって自分の頭を働かさないからいけない。と、内藤はこう見ている。もっともだ。私もそう思っている。安斉先生と相談して、これから勉強の方針を変えるから、そのつもりでいなさいよ」
「はあ」
「おまえたちは真剣になったことがないから、頭がいいのかわるいのかまだほんとうにわからないのだ。それをわるいときめてしまって、人をあてにしちゃいけない」
「はあ」
照常てるつね、おまえは学校の宿題を杉山や吉村にやらせるそうだが、どうだな?」
「はあ。いいえ。そんなことは……」
 と照常てるつね様は不意を打たれて面くらった。
「そうかな?」
「はあ」
「とにかく、これからはなるべく自力で勉強する。いいかな? 照正てるまさも照彦も」
「はあ」
「内藤はえらい。よく気がつく。皆自分の頭がわるいと思ってはいけない」
 とお殿様は安斉先生から注意を受けたのだった。しかしこれでは内藤がいったとおっしゃらないばかりだ。正三君はまっかになっていた。
「内藤さん」
 と奥様がそれと察してくつろがせるためお呼びになった。
「はあ」
「私、内藤さんにお願いがございますのよ」
「はあ」
「今度こそ私のいうことを聞いてぜひお乳を召しあがっていらっしゃい」
「…………」
「内藤は来てからもう幾日になるね?」
 とお殿様がおたずねになった。
「ちょうど一月ひとつきでございますのよ」
「ははあ、そんなかね、もう。よく辛抱しんぼうがつづいた」
「ほんとうにお強うございます」
「内藤も強いが、内藤のお母さんが強いのじゃ。おまえならとてもそうは待ちきれまい」
「きっと迎えにまいりますわ」
「それも毎週だろう。ハッハハハ」
「オホホホ」
「内藤、その中にぜひ顔を見せてきなさい。一月も帰さないでおいてはあまり手前勝手で申し訳がない」
「恐れ入ります」
まりがけがいい。日曜から土曜へかけて」
「はあ」
「お父様とうさま、日曜から土曜へは少しご無理じゃございませんでしょうか?」
 とお姫様がまじめできいた。
「そうか。これは一本まいった。ハッハハハハ」
「オホホホホ」
「ハッハハハハ」
 と若様がたも笑った。
 食後学習室へもどるやいなや、
「内藤」
 と照常てるつね様が呼んだ。
「はあ」
 と正三君も今度は身に覚えがあった。
「きみはだれの学友だ」
「照彦様の学友です」
「それならよけいなことをしゃべるな」
 といいながら、照常てるつね様はいきなり内藤君のえりをつかまえて首をしめた。
「こら、らんぼうをするな」
 と一番上の照正てるまさ様が止めた。
「でも失敬だ」
「腕力はよせ。口でいえばわかる」
「お兄様はお人がいい。お兄様のことも安斉先生は知っていられる」
 と照常様はとにかくはなした。内藤君はシクシク泣きだした。
「お母様にいいつける」
 と叫んで、照彦様は廊下をけだした。
「こら、待て!」
 と照常様が追ってゆく。
「ばかで仕方がない。内藤君、泣くことはない。僕がついている。これからあんならんぼうはさせない。よくいいきかせえる」
 と照正様がなぐさめた。
「おまえまで言いつけ口をするのかい?」
 とまもなく照常様は照彦様をつかまえてきた。
「でも、お兄様はらんぼうです。さっきも僕の腕をねじったじゃありませんか?」
「しかしおまえは僕のことを熊といったぞ」
「あれはお兄様のことじゃありません」
「うそをつけ」
照常てるつね、いいかげんにしなさい。安斉先生にきこえる」
 と照正様がたしなめた。
「はなしてください」
 と照彦様は身をもがいた。
「いいつけるから放さん」
「いいつけません」
「それならよろしい」
 と照常様はようやく安心した。
 正三君は初めて他人の中でもまれたような気がした。昼間頭をたたかれて夜首をしめられた。その前に照彦様とのいきさつがあったから、この日は妙に事件が輻輳ふくそうしたのである。家へ帰ったのはその次の土曜日だったから、ことに感慨が深かった。
「正三や、大きくなったよ、おまえは」
「正ちゃん、いつまでも帰らなかったのね。おやしきはどんな風?」
 とお母さんやお姉さん達がよろこび迎えたことはいうまでもない。皆でしばらくとりまいていた。その中にお父さんや兄さんがもどってきて、「どうだ? 正三、おやしきは?」
 とまたきくので、正三君は同じことを幾度いくども答えなければならなかった。
「おやしきではお殿様や奥様とご一しょにいただくんですってね?」
 とお母さんは夕ご飯の時もおやしきの話でもちきった。
「晩だけですよ」
「ご一しょの食卓に坐るんですってね?」
「ええ」
「いばったものね。ご家来ではおまえだけでしょう?」
「ええ」
 と正三君はとくいだった。
「時たまお殿様からおことばのかかることがあって?」
「始終ですよ」
「まあ! どんなことをおっしゃるの?」
「その時によります」
「それはそうだろうね、いくらお殿様でも毎日同じことはおっしゃるまいから。お食事の時、お殿様とはどれくらいはなれて坐るの?」
「一けんぐらいのものです」
「まあ、そんなにお近いの? そうして奥様は?」
「奥様はちょうどお母さんのところです。けれどもお給仕なんかなさいません」
「それはあたりまえですわ。オホホホホ。お給仕はお小間使こまづかい?」
「ええ」
「むろん西洋料理でしょうが、どんなご馳走ちそうがありますの?」
「お母さん、そんなばかなことをきくものじゃありませんよ」
 とお兄さんの祐助ゆうすけ君がむずかしい顔をした。
「でも、参考のためですよ」
「僕にはわからないご馳走ばかりです」
 と正三君も食物に重きをおいていない。
「正ちゃん、お姫様からじきじきおことばのさがることがあって?」
 と貴子姉たかこねえさんが横取りをした。
「ええ、お部屋へ遊びにあがることもあります。そうそう。姉さんがたのことをおききになりましたよ」
「まあ! 恐れ入りますわね」
「園遊会の時にはぜひきていただくんですって。一ぺん申しあげたばかりだのに、貴子さんと君子さんでしたわねって、チャンと覚えていらっしゃいますよ」
「まあ! うれしいこと」と君子姉さんも光栄身にあまった。
 晩も正三君は伯爵家はくしゃくけの楽しいことばかり話した。つらいからといって今さらお断わりもできない立場になっている。やり通す以上は家のものに無駄な心配をかけないほうがいいと思ったのである。それでおやしきにいる時と同じように虚勢をはって、
「僕はもう少しも遠慮しません。照彦てるひこ様とすっかりなかよしになってしまって、家も同じことにしています」
 と強いところを見せた。しかし一晩寝て起きると、またすっかり家の子にもどってしまって、翌朝兄さんの祐助ゆうすけ君にいろいろとたずねられた時、覚えず弱音をふいた。まだ十三、それも今まで甘やかされていた末っ子だから仕方がない。祐助さんは話の中に、
照彦てるひこ様はどうだね? わがままをおっしゃるだろうね」
 ときいた。
「それは仕方ありません。けれども僕が帰るというとすぐに後悔こうかいします。僕にあやまることもあるくらいです」
「帰られちゃ遊び相手がなくなって困るだろうからね。帰るとはいいおどかし文句を考えだしたよ」
「けれどもほんとうに帰りたくなることがあるんです」
 と正三君は周囲を見まわした[#「見まわした」は底本では「見まをした」]。これはお父さんやお母さんの耳へ入れたくない。
「どうして?」
「照彦様は僕がいくら申しあげても勉強なさいません」
「頭がわるいのかい? やっぱり」
「いいにもわるいにも、本気になって頭を使ったことなんかないんです。照彦様ばかりじゃありません。お兄様がたもずいぶんなまけます」
「でも、家庭教師がついているんだろう?」
「ええ、照常てるつね様なんかはその家庭教師の模擬もぎ試験にカンニングをするんです」
「ばかだなあ。家庭教師にカンニングなんかしたってしようがないじゃないか?」と祐助さんは笑った。
「その他いろいろずるいことをします。それを僕が安斉先生にいいつけたものだから……」
「ものだから、どうしたんだい?」
「……照常様はお殿様に叱られたくやしまぎれに、この間の晩……」
 と正三君はまたいいよどんだ。
「いってごらん」
「僕の首を柔道の手でしめたんです」
「らんぼうだね、こんな小さなものを」
「けれども照正てるまさ様がとめてくれたんです」
「しかし困るだろう? そんな風じゃ。お父さんから富田さんへ注意してもらおうか?」
「いいえ、もういいんです。照正様が照常様を叱って、これからあんならんぼうはさせないとおっしゃってくださいました」
「そうか。照正様はわかっているね」
「それに照彦様がお母様にいいつけるとおっしゃって大騒ぎでした」
たのもしいね」
 と祐助君は弟思いだから目の色を変えていた。
「らんぼうなのは照常てるつね様だけですから、おやしきの方はかまいませんが……」
「かまいませんが、どうしたんだい? かくさずにいってごらん」
「学校の方がやりにくいんです。僕は新入生だものですから、皆にばかにされるんです」
「ふうむ」
「内藤正三位っていうんです」
「なんだって?」
「正三位です。内藤正三位、花岡の家来けらい……家来、家来……って……いうんです」と正三君はしゃくりあげた。
「いいよいいよ。泣かなくてもいいよ」
「…………」
「皆でそんなことをいうのかい?」
「いいえ、五、六人わるいやつがいるんです」
「よし。それなら兄さんが学校へ行って先生に話してやる」
 と祐助君は正三君がかわいそうで仕方がなかった。
「兄さん、正義のためなら喧嘩けんかをしてもいいでしょうか?」
「それはいいさ。しかしそんなに大勢に勝てるかい?」
「こっちも大勢いるんです」と正三君は相手の堀口生に対してこっちに級長始め高谷君と細井君のついていることを話した。
「不良少年だね、その堀口ってやつは」
「だれにでも喧嘩けんかをふっかけるんです。僕は知らん顔をしていますが、今に照彦様にかかってくるようならだまっていられません」
「それはそうだろうね。その時はやるさ。仕方がない」
「やります」
「喧嘩は機先を制さなければだめだ。やる時はいきなりやれ」
 と祐助さんはまた力こぶを入れた。
「どうだな? おやしきの話かな?」
 とそこへお父さんがはいってきた。正三君は今のことをいわないようにと兄さんに目くばせをして、
「ええ。それから学校の話です」
 と答えた。小さな学友の胸にも人知れぬ苦労がある。
[#改段]

天空海濶てんくうかいかつ






「内藤君、きみは土曜にまた帰るか?」
 と照彦様がきいた。
「いいえ、もう当分帰りません」
 内藤君は家へいって、ここ一月分ばかりぜんまいを巻いてきたのだった
昨日きのうはきみがいなくて淋しかった。そのかわり僕は富田さんにねだっていい約束をしたよ」
「なんですか?」
「今度の日曜に釣魚つりにゆくんだ」
「海ですか?」
「山へゆかないよ」
「川かとも思ったんです」
「品川沖だ。きみは釣魚つりにいったことがあるかい?」
「ありません」
「おやおや、話せないな」
「若様は始終お出かけですか?」
「こっちじゃめったにゆかないが、夏大磯おおいそでやる。僕は名人だぜ」
「僕に教えてください」
「いいとも」
たいが釣れますか?」
「品川で鯛が釣れてたまるものか?」
「それじゃなんです?」
「このごろぼら丸太まるたが食うそうだ」
「なにを食うんですか?」
「きみはほんとうに素人しろうとだね」
「ええ。なにも知らないんです」
「食うってのはえさを食うことだよ」
「ああ、そうですか」
えさを食ったところをグイッと上げるから釣り針が口へ引っかかる」
「わかりました」
ぼら丸太まるた蒲鉾かまぼこが釣れる」
「ばかになすってもだめですよ」
「ハッハハハハ」
 と照彦様は冗談じょうだんがおすきだ。学問の方はあきらめていて口出しをしないかわりに、遊びごとになると調子に乗る。
「だれとだれがおともをしますか?」
「富田と黒須先生さ。きみもぜひきたまえ」
「はあ」
「杉山もつれてゆく」
「富田さんはおじょうずですか?」
「さあ。とにかく天狗てんぐだよ。黒須先生もよく講釈をする。しかし僕にはかなわない。僕がいつも一番やりだ」
「えらいですな」
「ヘエン[#「ヘエン」はママ]
「海はあぶないことはありませんか?」
「大丈夫だ。お台場の少しむこうだもの」
「僕は舟にはわたし舟にしか乗ったことがありません」
「それじゃうぜ」
「困りましたな」
 と正三君は考えこんだ。釣魚つりも初めて、海も初めてだ。危ない危ないといって親が心配しすぎるものだから、まだおよぎも知らない。
「安斉先生流じゃないかい?」
「先生がどうかなさいましたか?」
「この春、ひっぱっていったんだが、一ぺんでこりてしまったようだ」
「酔ったんですか?」
「ああいうやせがまんの強い人だから、酔ったとはけっしていわないが、青い顔をしてあぶらあせを流していた」
「そんなに苦しいものですかね?」
「生きた心持ちはしないそうだ」
「いやだなあ」
「安斉先生は昼ごろまで辛抱しんぼうしていたが、とうとう小用がしたいといいだした。富田さんが『かまいません。舟の中は無礼講ぶれいこうですから、船頭のようにこのふなべりからなさい』と教えたけれど、首をふっている」
「ははあ」
「だめなんだ。先生は陸地でないと小用が出ない性分だそうだ。初めての人にはよくそういうことがある。きみも出ない方じゃないかい?」
「大丈夫ですよ」
「せっかく魚が食い始めたのに、やっかいだと思ったが、青い顔をしてふるえているから仕方がない。船頭に頼んで船宿ふなやどぎかえしてもらった。すると安斉先生は『陸地でも自分の家かおやしきでないと小用の出ない性分ですから、もう失敬します。さよなら』と、いって、後も見ないで帰っていってしまった」
「おやおや」
「強情な老人だって、富田さんも笑っていた。舟に酔ったというのがくやしいものだから、小用が出ないことにしたのさ」
「やっぱり知恵があります。またおさそいしてみましょうか?」
 と正三君はなるべく舟によわい人が道づれにほしかった。
 そこへ家令の富田老人が廊下を通りかかったので、
「富田さん」
 と照彦様が呼びとめた。
「はあ」
「今度の日曜はほんとうでしょうね?」
「お天気さえよければ大丈夫です。安斉先生からお殿様へ申しあげて、もうおゆるしが出た時分です」
「お兄様がたは?」
「お馬だそうです」
「ありがたい。僕が大将でゆける」
「富田さん、安斉先生もおさそいいたしましょうか?」
 と正三君がきいた。
「そうですね。ヘッヘヘヘ」
 と富田さんは照彦様と顔を見あわせて意味ありげに笑った。例の陸地の件を思い出したのだろう。
 まもなく照彦様は、
「内藤君、学監室へいってみよう」
 と発起ほっきした。
「何ご用ですか?」
「お父様とうさまからお許しが出たかどうかうかがってみる。それに学監室へは時々話しにくるようにとおっしゃった」
「お供いたしましょう」
「きみきけ。きみの方が信用がある」
「そんなことはありません」
 と謙遜けんそんしたものの、正三君は大喜びで連れだった。
 安斉先生はできることなら毎日のように若様がたに訓諭をしたいのである。ただし押売では効能がうすらぐと思って、相手のくるのを待っている。
「内藤君、今度は照彦様をおさそい申しておいでなさい。三国志ごくしの面白いところをお話ししてあげます」
 と内々宣伝をたのむくらいだ。映画でも西洋物が喜ばれる今日、三国志ごくし水滸伝すいこでんとは思いきっている。それもお談義入りだから、正三君も自然逃げ足になる。若様がたにいたってはしゃにむにだ。
「どうですか? おひまなら論語ろんごの講義でもいたしましょうか?」
 と先生がおっしゃっても、
「いや、今日は英語の宿題があります」
 とおことわりする。ふしぎとなにか宿題がある。このゆえに照彦様が今、
「先生」
 といって、正三君もろとも学監室へ出頭した時、安斉さんは、
「やあ、これはこれは、さあどうぞ」
 と思いもかけぬご入来にホクホクもので椅子いすをすすめた。
「先生、僕たちは今度の日曜に釣魚つりにつれていっていただきます」
「お楽しみですな。さっき富田さんから承りましたよ」
「富田さんと黒須先生とそれからおよぎの名人の杉山が一しょですから、ちっとも心配はありません」
「釣魚はけっこうですよ。しかし海の上のことですから、念のため後刻お殿様へ申しあげましょう」
「お父様も釣魚はおすきな方です」
「私も大すきです。『りすれどあみせず』若様おわかりですか?」
「さあ」
「内藤君、どうだね? 釣りすれども網せず」
「さあ」
 と正三君も首をかしげた。こうだしぬけにメントル・テストをやるものだから、安斉さんはいやがられる。
りすれどもあみせず、論語ろんごのことばですよ」
「どういう意味でございますか?」
「同じ殺生せっしょうをするにしても、釣りなら一ぴき一ぴきですが、網を打つと、いわゆる一網打尽もうだじんで、一ぺんに何十ぴきもとってしまいます。殺さなくてもいいものまで殺す。それで釣りすれども網せず。仁者じんしゃの心得をのべたものです」
「ははあ」
「舟遊びは浩然こうぜんの気を養うからよろしい」
「先生、浩然の気ってなんでございますか?」
 と照彦様がいつになく質問をした。
敢問何謂浩然之気あえてとうなにをかいうこうぜんのきと曰難言いわくいいがたし也」
「…………」
自反而縮みずからかえりみてなおくんば雖千万人吾往矣せんまんにんといえどもわれゆかん
「…………」
「先生、むずかしいです」
「ハッハハハハ」
 と安斉あんざいさんはひとりで喜んでいる。
「先生も釣魚にいらっしゃいませんか?」
 と正三君がさそった。
「けっこうですな」
「ぜひおいでください」
 と照彦様はからかうつもりだった。
天空海闊てんくうかいかつ
「はあ?」
「天のむなしきがごとく海のひろきがごとき心持ちは舟遊びをすると初めて味わわれます」
 と安斉先生は大きなことをいいだした。しかし酔って青くなったのを知っている照彦様は片腹痛かたはらいたく思って、
「けれども先生は舟におよわいことはございませんか?」
 とやった。
「強いですとも」
「お酔いになったことはございませか?」
「酒にですか?」
「いいえ、舟にです」
「ハッハハハハ」
「おありでしょう?」
「舟を飲んだことはありませんよ。ハッハハハハ。いったい舟に酔うということばが不可解ですな。日本は海国、おたがいは海国男子、海を恐れてはいけません」
 と先生はアベコベにお説法を始めた。正三君は照彦様からきいたことを思い出すとおかしくなって、
「先生、それでは今度の日曜にぜひお供を申しあげましょう」
 と追究した。
「いや、私はごめんこうむる」
「おさしかえでございますか?」
「別に用事もないが、みなさんのおじゃまをしたくない」
「ははあ?」
「しかし私は海が大すきだ。舟にも強い。誤解しちゃ困る」
「それじゃなぜおいでになりませんか?」
「酔うことなぞはけっしてないが、たった一つ悪いくせがある」
「ははあ」
「びろうな話だけれど、陸地でないと小用が出ない」
「ハッハハハハ」
「若様、この春はとんだごめいわくをおかけ申しあげました。ハッハハハハ」
「私はお酔いになったのかと思いました」
「いや、子供の時からああいうくせがあるのです。ハッハハハハ」
 と老安斉先生はナカナカずるい。ただ笑ってごまかしてしまう。
 正三君は釣魚つりにゆくのが楽しみで日曜が待ちもどかしかった。土曜日の午後、学校から帰って、お庭を遊びまわっている中に、
「若様、明日あしたの朝は品川まで歩くんですか?」
 ときいた。
「いや、自動車だよ」
「それじゃ竿ざおはどうします?」
「そんなものはいらない」
「ははあ?」
「舟から釣る時はたいてい手釣りだよ」
「そうですか。なるほど」
「使う時には釣り竿を持ってゆく」
「ははあ」
「きみはなんにも知らないんだね」
 と照彦様はあなどり始めた。
「ええ。存じません」
「きみはほんとうに海へいったことがないのかい?」
「ええ。汐干しおひに一ぺんいったばかりです」
「ちっともおよげない?」
「ええ」
「それじゃ落ちるとかなづちだね」
「杉山さんに頼んでおきました」
「杉山なんかとてもあてにならない。なにしろ品川湾は日本三大急流の一つだからね」
「うそばかり」
おきへ出ると酔うぜ。きっと」
「大丈夫でしょう」
「ゆれるからね。陸地でないと小用が出ないなんていうなよ」
「それは大丈夫です。この間ブランコに乗って稽古しました」
「おいおい、きたないことをしちゃ困るよ」
「ハッハハハハ」
 と正三君も土曜の午後はかき入れだ。
「きみは釣り方を知っているかい?」
「存じません」
「一つ実物教授をしてやろうか?」
「どうするんです?」
「お池のこいを釣るんだ」
「叱られましょう」
「なあに、見つからなければかまわない」
 と照彦様はさっそく釣り竿をしのばせてきた。なるほど、つぎ竿だから目だたない。お学友はみみずをほって池のそばに待っていた。若様はそれを千切ちぎって釣り針につけた。
「きたないですな」
 と正三君は感心しながら見学した。
「こういうものがチョコレートよりうまいんだから、魚なんてへんな奴さ」
「それをガブリと食うんですな?」
「そうさ。首尾しゅびよくいったらおなぐさみ」
 と照彦様は糸を池の中へ投げた。
「まだですか?」
「いくら名人でもそうすぐには釣れない」
「大きいのがきましたよ」
「おっと、どっこい!」
「どっこいどっこい!」
「大きい大きい」
「ああ、釣れた」
 と正三君が飛びたった時、魚が水面へ現れた。照彦様は糸をまきちぢめて、
「万歳!」
 と叫びながら築山つきやまのふもとに竿をおっ立てた。鯉が一ぴき、五月幟さつきのぼりのようにへんぽんとしている。
「万歳! 万歳!」
「これを取るには竿に梯子はしごをかける」
「うそですよ」
 と正三君は竿をおしたおした。
 日曜の朝、品川の船宿からこぎだした時、
今日きょうは僕が大将だ」
 といって、照彦様は大とくいだった。お兄様がたが来ると頭が上がらないから、単独行動を喜ぶ風がある。正三君は舟に酔うかと内心案じていたが、いっこうにそんなこともなく、
「海はいいですなあ!」
 といわゆる天空海闊てんくうかいかつの心持ちを味わった。
「内藤君、なんともないかい?」
「大丈夫です」
「それはしあわせだ。一々陸地へつけるんじゃたまらないよ」
 と照彦様はいかにも大将らしい。
「若様、このみみずは少し違いますね」
 と正三君はまもなく餌箱えさばこの中をのぞいて疑問をおこした。
「それはみみずじゃないよ。ごかいだよ」
「ははあ」
「みみずににているけれども、ゴカイしちゃいけない」
「ハッハハハハ」
 と書生の杉山が手をうって喝采かっさいした。この男はおせじ使いだから、若様がたがしゃれをいうと笑いころげる。
 お台場の沖へ出るとみんなソロソロ支度にかかった。秋の好晴だから、ほかにも釣り舟がたくさん出ている。
今日きょうは僕がまた一番やりだぜ」
 と照彦様がいった。
「若様にはとてもかないません」
 と杉山が調子をあわせる。
「数ではまけませんが、口明けだけはいつも若様に持ってゆかれてしまいます」
 と富田老人もあきらめている。
「なあに、今日きょうは私がやります」
 と黒須さんは確信があるようだった。
 しかし一番やりは照彦様でも黒須先生でもなく、正三君だった。ごかいをつけて糸を下ろすか下ろさないに、
「釣れた釣れた!」
 といいながら、大きなぼらを引き上げて、
「なんでしょう? これは」
 ときいた。
「とにかく魚ですな」
 と杉山は問題にしなかった。
「バカだよ、それは。内藤なんかに釣られる魚はりこうではないにきまっている」
 と照彦様がくやしがった。富田さんと黒須先生は糸を下ろして顔を見合わせた。
「また釣れた!」
 と正三君はふたたび成功した。
「なんでしょう? 今度のは小さい」
「やっぱりバカです」
 と杉山は見もしないで判定した。
「富田さん、僕はもうかえります」
 と照彦様は二、三度えさをとられた後じれ始めた。
「どうかなさいましたか?」
「つまらない。今日きょうはバカばかりです」
「まあまあ、そうおっしゃらずに。今にほんとうの魚が食います」
 と富田さんがなぐさめた。正三君は自分の一番やりが若様のおしゃくにさわったと合点がてんした。
「しめた!」
 と折りから照彦様が勇み立った。大きなぼらを釣ったのだった。
「おてがら、おてがら」
「これは大物です」
「なんですか?」
 と正三君がきいた。
「ぼらですよ」
 と富田さんが小声で教えてくれた。
「それじゃ僕のもぼらです」
「きみのはバカだよ」
「でも同じです」
「いや、僕の方が大きい」
 と照彦様は主張した。
「大きなぼらだ」
「大きなぼらだ」
 と杉山と黒須先生が[#「黒須先生が」は底本では「須黒先生が」]異口いく同音にほめた。照彦様はまもなくご機嫌が直った。富田さんも黒須先生も安心して釣り始めた。
「昼からの一番やりこそ僕がやってやる」
 と照彦様はおべんとうを食べながらいばった。
「内藤さん」
 と富田さんが正三君の耳元でささやいた。
「なんですか?」
「昼から一番槍をしちゃいけません」
「はあ。わかりました」
「しかし競争はしなければいけません」
「はあ?」
「釣るまねだけはするんです」
「しかし魚が食いますから釣れると困ります」
「いや、若様がお釣り上げになるまでえさをつけないで釣るんです」
「ははあ、なるほど。ははあ、なるほど」
 と正三君は感心してしまった。
[#改段]

不良と善良






「ふうむ。なるほど。ふうむ」
 と安斉先生は感嘆これを久しゅうして、
「考えたものだな。ハッハハハハ」
 と呵々かか大笑した。
「それで昼からは若様が一番槍でございました」
 と正三君はえさなしの秘法を説明したのだった。別段いいつけ口をするのではないが、安斉さんは若様がたご指導上の参考としていろいろとたずねる。
「ごきげんでしたろうな」
「はあ」
「それからきみが釣ったかね」
「いいえ、昼からはちっとも釣れません」
「そんなにいつまでもえさをつけなかったのですか?」
「いいえ、本気になったんですが、だめでした。私は初めてですから、それがあたりまえです。朝のは魚の方でまちがえたんだって杉山さんがおっしゃいました」
「あれはへつらい武士で困る」
「しかし若様はほんとうにおじょうずです。富田さんを二枚もお釣りになりました」
「なに? 富田さんを?」
「はあ。それも三歳ばかりです」
「これはますますわからんね。富田さんなんていう魚はこの年になるまで見たことも聞いたこともない」
「先生、カレイです」
かれい? なるほど。ハッハハハハ」
「顔が少し似ています」
「わるいことをいうな。けだし国音家令かれいかれいに通ずればなりか。瓶子へいし平氏へいしに通じ、醋甕すがめすがめに通ず。おもしろい。ハッハハハハ」
「先生、なんでございますか?」
「きみは日本外史を読んだことがあるか?」
「いいえ、ありません」
「困るな。このごろの子供は読むべきものを読んでいないから話が通じない。ところで家令はなにを釣りましたか?」
「富田さんは名人です。ご自分でご自分を五、六枚お釣りになりました」
「黒須先生は?」
「黒須先生は富田さんを三枚、杉山さんは一枚でしたが、三歳です。大きかったです」
「三歳というのは三歳児の三歳かな?」
「いいえ、かれいの三歳はおとなです。これくらいあります」
 と正三君は両手をひろげて寸法を示した。
 安斉先生はしばらく考えていた後、
「わしは知っている。富田さんも黒須先生も杉山もみんなへつらい武士だ。そこでこの前心持ちをわるくした」
 とふんがいした。舟に酔ったのをひとのせいにしている。
「…………」
風上かざかみにもおけん」
「しかしごきげんがおわるいとはたのものが困ります」
「なあに、忠諫ちゅうかんの精神が足らんのさ。申しあげればかならずおわかりになる。まかりまちがえば切腹するまでのことじゃないか?」
「はあ」
「きみは杉山あたりのまねをしちゃなりませんぞ。かみにまじわりてへつらわずしもにまじわりておごらず、男らしくやってもらいたい」
「はあ」
「へつらい武士にとりまかれている若様がたはおかわいそうです。やしき内でおえらいのは世間へ通用いたしません」
「それですから、照彦様は学校へおいでになってもつまらないらしいです」
巧言令色こうげんれいしょくをお喜びになる傾向がある。困ったものです」
「先生」
「なにかな?」
「やっぱり学校のお友だちとご交際なさる方がよろしいと存じます」
 と正三君は照彦様から頼まれていたところを献策けんさくした。もっともこれは自分も同感ですでに先頃持ち出したのだった。
「なるほど」
「同級生はけっしておベッカを使いません。わるいことはわるい、いいことはいいとハッキリいいます」
「それはそうだろうが、いつぞやも申したとおり、私立中学校は玉石混淆ぎょくせきこんこうです。無礼を働くものがあると追従ついしょう以上にめいわくいたします」
「むろん優良生だけです。不良生は問題になりません」
「この間のお話の三人はやはり遊びにくる気ですか?」
「はあ」
「一つわしがメントル・テストをしてみよう」
 と安斉先生は例によってメントルだ。思いこんだことはけっして改めない。
「先生」
「なにかな?」
「僕は安斉先生から口頭試問があるかもしれないといったんです。すると……」
「するとなにかな?」
「どんな先生かときくんです。こんな先生だと答えたんです」
「こんなとは?」
「少しこわい先生」
「こわいことはないよ」
「とにかく、口頭試問は入学試験でこりているからいやだというんです」
「それではお目にだけかかりましょう、どんな人物か、会ってみればたいていわかります」
「みな学術優等品行方正です」
「照彦様のご都合のよろしい時にさそってきてごらんなさい」
「はあ。ありがとうございました」
 と正三君は自分の主張が通って満足だった。
 翌日、照彦様は登校して高谷君を見かけるやいなや、
「高谷君、遊びにきたまえ。安斉先生からお許しが出た」
 と話しかけた。
「そうかい。しかし漢文の口頭試問があるんだろう?」
 と高谷君はそれを恐れていた。
「いや、きみは無試験だそうだよ」
「なぜ?」
「優等生だもの。きみと細井君と松村君ならいつでもいいことに内藤君が願ってくれた。ねえ、内藤君」
「はあ。どうぞおいでください」
 と正三君はおやしきにいる時のくせで同級生にもことばがていねいだ。
「いつ?」
今日きょう
 と照彦様は短兵急たんぺいきゅうだった。
「今日はいけない」
「なぜ?」
「ふだんじゃすぐ日が暮れてしまう。土曜日にしよう」
「よし。それじゃ約束したよ」
「いいとも」
 と高谷君は喜んで応じた。松村君も細井君も同じようにさそわれて、今度の土曜日ということにきまった。細井君が調子づいて、
蜂退治はちたいじ、蜂退治」
 といった時、堀口生の子分の尾沢生が聞きつけて、
「高谷、きさまはまた花岡のところへ遊びにゆくのか?」
 ときいた。
「きさまとはなんだ?」
 と高谷君は相手の態度がしゃくにさわったものだからきめつけた。
「なんだ? なまいきな」
「どっちがなまいきだ」
 と二人ふたりはいきまいたが、
「よしたまえ。おだやかにいえばわかる」
 と級長の松村君が制した。
「細井君、きみたちは花岡君のところへ遊びにゆくんだろう?」
 と尾沢生は改めて細井君にきいた。
「いいや」
「うそをいってもだめだよ。いま蜂退治はちたいじのはなしをしていたじゃないか?」
「それがどうしたんだい?」
 と細井君も鼻息があらかった。
「堀口君にいいつけてやるぞ」
「堀口がなんだ? あんな低能が」
「覚えていろ!」
 と尾沢生は一同をにらんでいってしまった。
「しょうがない奴だ」
 と高谷君がつぶやいた。
「きみたちのくることはみんなに内証ないしょうにしておこうよ。堀口君がうるさい」
 と正三君は少々不安を感じた。
「いいとも」
 と三人は承知だった。堀口生とその一味はクラスの鼻つまみになっている。
 土曜日の放課後、照彦様と正三君は同級生三名を案内して帰ってきた。門を通った時、
「きみ、叱られやしないかい?」
 と高谷君がきいた。
「大丈夫だよ」
 と照彦様が保証した。
「漢文のメントル・テストがあるようなら僕はすぐ帰るよ」
 と細井君がいった。
「遊ぶんだもの。そんなものはないよ」
 と正三君が安心させた。
「広いなあ」
 と初めての松村君は感心していた。
 内玄関から上がって学習室へおさまるとまもなく、
「どうぞお食事を」
 と女中が案内に現われた。安斉先生のさしずでお昼の支度がしてあったのである。
「さあ、みんな、食堂へきてくれたまえ」
 と照彦様が主人ぶりに努めた。
「僕はいやだ」
「僕もいやだ。べんとうを持っている」
「僕も持ってきた」
 と三人は動かない。同級生もお客となると四角張る。
「いいじゃないか? さあ、ゆこう」
 と正三君もすすめたが、
「いやだよ」
「ごちそうなんかするなら帰るよ」
 とみんな立ち上がる。
「困ったなあ」
「それじゃここで弁当をたべたまえ。お茶を持ってきてもらうから」
 と正三君が気をきかせた。
「そうしよう。僕たちもここでいただく。それならいいだろう?」
 と照彦様は帰られるのが一番つらい。
近朱者赤しゅにちかづけばあかし
近墨者黒すみにちかづけばくろし

水随方円器みずはほうえんのうつわにしたがい
人依善悪友ひとはぜんあくのともによる
 と対句が二つ学習室の黒板に書いてあった。真正面だから目につく。ソロソロ弁当をたべおわった細井君は、
「オイオイ、メンタル・テストがでているよ」とささやいた。
「いやだぜいやだぜ。僕はもう帰る」
 と高谷君はからだをゆすぶってみせた。
「これかい? これはなんでもないんだよ」
 と照彦様は初めて気がついた。
「先生が出てくるようなら僕はほんとうに帰る」
 と松村君もうわさをきいて恐れている。
「読んでみようか」
 と正三君は度々のことだから驚かない。
「僕読む」
 と照彦様は進み出て、
近来者きんらいものあかし。春になって花が咲いたという意味さ」
 とでたらめをいった。
「ちがうちがう」
らいじゃない」
近朱者赤しゅにちかづけばあかし近墨者黒すみにちかづけばくろし
 と松村君が読んだ。
「そうだそうだ」
「こっちはなんだろう?」
「こっちはむずかしいぞ」
「水は方円のうつわしたがい、人は善悪の友による」
 と今度は正三君が読んだ。
「そのとおりそのとおり」
「これならメンタル・テストも及第だぜ」
「堀口とまじわるべからず」
「尾沢とまじわるべからず」
「堀口尾沢の不良分子とまじわるべからず」
「賛成賛成」
「ハッハハハハ」
 と一同うち興じている折りから、
「エヘン」
 というせきばらいがきこえて、安斉先生がはいってきた。
「安斉先生です」
 と正三君が紹介する。
「皆さん、今日はよくおいでくださいました」
 と先生は満面にえみをたたえて一礼した。なるべく怖がらせない算段さんだんである。
「は!」
 と松村君も高谷君も細井君もまっかになってしまった。
「さあ、どうぞおかけください」
 と先生は自ら椅子いすによって相手をくつろがせようとする。
「さあ、かけたまえ」と照彦様もとりもつ。
「照彦様と内藤君が始終おせわになりましてありがとうございます」
「どういたしまして」と級長の松村君が一同を代表した。
「お三人とも優等生だそうで、結構ですな」
 と先生は黒板を見かえった。ソロソロ得意のメントル・テストにかかるのである。
 松村、高谷、細井の三名が土曜日の午後を二回つづけて花岡家へ遊びによった時、堀口生はそれをかぎつけてごうをにやし始めた。しかし喧嘩けんかをしてしまっては仲間にはいれないと思って、最初はいろいろと計略をめぐらした。
「花岡さん、花岡の若殿様」
 とある朝運動場で照彦様を呼びとめたのはその一つだった。
「なんですか?」
「エヘヘヘヘ」とこれはお愛想あいそのつもりで、
「花岡さん、僕は蜂退治はちたいじ秘伝ひでんを知っているから、今度の土曜にきみのところへゆくよ」
「蜂退治なんかしちゃいません」
「うそをつきたまえ、ヘヘヘヘ」
「笑ってばかりいるんですね」
「おかしければ僕だって笑うよ。ヘヘヘヘ」
「知りませんよ」
「蜂退治をしているじゃないか? きみの顔にチャンと書いてある」
「…………」
「きみたちは万物の霊長が五人がかりであんな虫ケラをどうすることもできない。かわいそうに。僕が手つだってやらあ」
「かわいそうでもかまいません」
 と照彦様はゆこうとしたが、堀口生ははなさない。
「見たまえ、僕はこのとおり蜂退治の妙薬を持っている」
 とポケットから紙包みを出した。
「なんですか? それは」
硫黄いおうのかたまりだよ。これを蜂の巣の下でいぶすんだ。きみたちみたいにただでむかっていっても仕方がない。僕は知恵があるだろう?」
「ほんとうにききますか?」
「きくとも。僕がやってやる。今日きょうゆこう。いいだろう?」
「いけません。安斉先生に叱られます」
「きみのところは広いそうだから、一人ひとりぐらい内証ないしょではいったってわからないよ」
「いいえ、やしきではやしきの友だちと遊ぶことになっているんです」
「しかし松村や細井や高谷は始終しじゅうゆくじゃないか?」
「あの三人きりです」
「三人でもゆくじゃないか?」
「あれは特別です」
「なぜ特別だ?」
「優等生です」
「それじゃ手前てめえはなんだ? ビリから五番だぞ。おれより四番上なばかりだ」
 と堀口生は不良少年の本性を現わした。
「僕は頭がわるいんです」
「それみろ」
「わるいからお薬になるようにいい人と交際するんです」
利己主義りこしゅぎだな、きさまは」
「なんでもかまいません」と照彦様は逃げだした。
 堀口生はつぎに内藤君を手なずけようと努めた。
「内藤君」
「なんですか?」
「今度の一番はきみだよ」
「そんなことはありません」
「いや、ほんとうだよ。きみは級長になる。僕なんか落第坊主だからよろしく頼むぜ」
冗談じょうだんばかり」と内藤君はめいわくした。
「ところできみに注意しておきたいことがある」
「もういいです」
「ききもしないでもういいですなんて失敬じゃないか?」と堀口生はおいおいにけわしくなってくる。
「…………」
「きみは僕を敵と思っちゃいけない。味方と思いたまえ」
「同級ですもの、皆味方です。敵なんかありません」
「いや、大ありだよ。尾張名古屋の金のしゃちほこだよ。きみは敵が多いから気をつけたまえというんだ」
「…………」
「きみは松村や細井や高谷と仲よしのつもりだろうが、あの連中はかげへまわるときみのことをわるくいっているんだぞ」
「そんなことはありませんよ」
「いや、きみは正直だからそう思うんだ。しかしきみが一番になれば今の一番の松村は二番になる。細井も高谷も一番ずつ下がる。皆それがくやしいんだ。三人できみをひどいめにあわせる相談をしているぞ」
「そうですか。それじゃ気をつけましょう」
 と正三君はあらそわないことにした。
「あんな奴らと遊ぶな」
「しかし急に絶交するわけにもゆきません」
「おれと遊べ。おれと仲よしになればあんな奴らは逃げてゆく」
「…………」
「なにを考えているんだい?」
「…………」
「おい、子分になるか?」と堀口生がつめよったところへ、
「おいおい、なにをしている?」と細井君が現われた。
「うるさい。あっちへいっていろ!」
 と堀口生は頭からきめつけた。
「おれの勝手だ」
 と細井君は負けていない。
「細井!」
「なんだ?」
「きさまはうそをついたな」
「どうして?」
「花岡のところへ遊びにゆかないといっておいてゆきやがったじゃないか? ここにいる尾沢が証拠人しょうこにんだぞ」
「…………」
「名前は細井だが、ふとい野郎だ」
「大でき大でき!」と今しそこへよってきた子分の尾沢生が手をたたいた。
[#改段]

やるとも!






 正三君をいじめていた堀口生は、
「やい、きさまはおれのことを低能といったな」
 と今度は細井君に喧嘩けんかをふっかけた。
「…………」
「おい、なんを考えている? またうそをつくつもりか?」
「…………」
「ここにいる尾沢が証人だぞ。さあ、どうだ?」
 と両手のこぶしをさかだてて動かしながらつめよってくる。拳闘けんとうのまねだ。活動で見おぼえて始終稽古しているから、堀口は強いということになっている。
「低能よ、きさまは。それがどうしたんだ?」
 と細井君も今さら後へひけない。イヨイヨ決心がついた。
「こうするんだ」
 と堀口生はいきなり突いてかかった。細井君はうまくはずした。堀口生はよろめいたが、すぐにもとの姿勢にもどってねらいはじめた。
「しっかりやれ!」
 と尾沢生が声援した。細井君はたちまちあごを突かれたが、同時に堀口生の横ビンタを力一ぱいなぐった。
「よしたまえ」
 正三君は止めるつもりで堀口生をおした。堀口生はたたかれてめんくらっていたところだったからもろくも尻餅しりもちをついた。
「なにをしやがる?」
 と起きあがりざま、正三君にかかってきた。しかしその時通りかかった上級生が堀口生を抱きとめて、
「よせよせ。こら!」
 とたしなめた。
「はなしたまえ」
「いけない」
「はなせ。きみの知ったことじゃない」
 と堀口生はふりもぎろうとしてもがいた。
「なんだ? なまいきな」
 と上級生はムッとした。四年の襟章えりしょうをつけていた。堀口生はそれに気がつくと急におだやかになって、
「もうしませんからはなしてください」
 と頼んだ。喧嘩けんかはそれで中止になった。細井君の方がすこし勝っている。
 堀口生は以来これを根に持って、正三君と細井君を目の敵にした。教室や廊下ですれちがう時、わざとよってきて突きあたる。
「なんでい?」
「なんだ?」
 というのが毎日のあいさつになってしまった。松村君にも高谷君にもくってかかる。子分を使っていたずらをさせる。天気のいい日は運動場へ出てまぎれているが、雨の日はせまい教室の中で始終顔を合わせているから始末がわるい。
 正三君のすぐうしろに坐っている横田という生徒は堀口生の子分だ。なまけもので成績がよくない。こいつが授業時間中に正三君のところへ通信をよこす。これは電信といってむろん先生には内証ないしょだ。そっと背中をつねるのをあいずに、机の下から紙きれをわたす。取らないとつねってばかりいるから仕方がない。
 ――内藤正三位。早く堀口君にあやまってしまえ。いつでも上級生が止めてくれると思っていると大間違いだぞ。
 ――おぼえていろ、と堀口君がいっている。右お知らせ申し上げそうろう
 ――やい、なまいきなことをぬかすと、ドテッ腹へ風穴かざあなをあけて、かつぶしを入れて、ブル・ドックをけしかけるぞ!
 ――このあいだ英語の書きとりの時、きさまは花岡に教えたな。カンニングは両方とも退校だぞ。神さまがうしろから見ているから気をつけろ。
 横田生の電信はいつもこういうおどし文句だ。内藤君は背中をつねられるたびに、またかと思ってクサクサする。なお授業中気が散ってこまる。先生に見つかる心配もある。
「内藤君、きみは僕が電信をかけてもいっこう返事をよこさないね?」
 と横田生はこんなにめいわくをかけていながらいい気なものだ。
「電信なんかもうよしてくれたまえ」
 と正三君はこれを機会にことわるつもりだった。
「なぜ?」
「学科のじゃまになります」
「きみは勉強家だよ」
「でも授業中じゃありませんか?」
「きみは道徳家だよう」
「用があるならこうやって遊んでいる時に話してくれたまえ」
「きみは聖人君子せいじんくんしだよう」
「なんでもいいです。今度授業中にじゃまをすれば先生にいいますよ」
「えらいもんだよう。花岡の家来だよう」
 と横田生は理屈でかなわないものだから、おひゃらかすばかりだった。
 その翌日のことである。数学の時間に受け持ちの橋本先生が一通り説明をおわってから教室を見わたした。そういう折りから下調べをおこたってきた生徒たちは小さくなっている。
「横田君」と先生が呼んだ。
「ここへ出てつぎの例題をやってみたまえ」
「できません」
「いいからできるところまでやってみたまえ」
「何番ですか?」
「ボンヤリしてちゃいけないね。
きみはなにをしていた? 今の説明をきいていなかったね?」
「はあ」と横田生は恐れ入っておじぎをした。
「おじぎをすると一回で一点ずつ平常点がへるよ」
 と橋本先生はナカナカきびしい。しかしそれだけでもうとがめもせず、つぎへ廻した。
「内藤君」
「はい」
「ここへきて例題をやる」
「はあ」
 と正三君は元来優秀な上に家庭教師に見てもらっているから安心なものだ。すぐに教壇へ進みよって黒板へむかった。しかしその時、みんなクスクス笑いだした。えり首のところから短冊たんざくほどの紙きれが背中へつるさがっていて、墨痕ぼっこんあざやかに『花岡の家来』と書いてある。
「なんだ? これは」と先生が引っぱり取った時、
「さあ」
 と正三君は初めて気がついて頭をかいた。みんなドッと笑う。
「横田」
「はい」
「お前だろう? このいたずらは」
「はあ」
 と横田生は机の上に平身低頭した。正直だからでない。橋本先生のこわいことを知っているのだ。かくしてお手数をかけるとつみが重くなる。
「きみは数学をやらずに、こんなことをしているのか?」
「申しわけありません」
「これは今そこで書いたのか? 家から書いて来たのか?」
「家から書いてまいりました」
「大分念が入っているな」
「…………」
「これから気をつけなさい。勉強しないと苦しくなるばかりだぜ」
「はあ」
「内藤君、もうよろしい。席へ帰って」
 と先生はこのさい級担任きゅうたんにんとして一同に注意をあたえる必要をみとめた。
「諸君。『花岡の家来』うんぬんといって新入生の内藤君にからかうものが諸君の中に大勢あるようです。花岡家の家来というのがどうしておかしいのですか? 内藤君にかぎらず、いやしくも士族ならだれでも旧藩主すなわち先祖代代の殿様があるにきまっている。現に私は毛利様の家来です。教頭の市木先生は島津さんの家来です。私たちは家来たることは恥と思いません。諸君の中にはそれぞれ何様かの家来が大勢いるに相違ない。家来でないものは平民だけです。平民は家来以下です。昔は物の数にもはいらなかった。しかるにこの頃はどうも平民がのさばっていけない。王政維新おうせいいしんはだれがやったと思いますか? おもに毛利様や島津様の家来たちが骨を折っている。平民はいっこうあずかっていません。ただ恩典を受けているだけです。してみれば家来は家来でないものの恩人にあたる。家来だからといってばかにする理由はちっともない。うんぬん」
 と橋本先生は正三君の立場に同情するあまり少々いいすぎた。家来でないものが百姓をしたり商売をしたりしなかったら、家来はみんな乾干ひぼしになっている。王政維新どころでない。訓諭がおわった時、
「先生」と堀口生が手をあげた。
「なんですか?」
「僕は反対です」
「これはおどろいた」
「先生、士族の方が平民よりえらいんですか?」
「いや、そんなことはない」
「それでも先生は今そうおっしゃいました」
「それは昔の話です。今日は士族も平民もない。みんな同じ待遇たいぐうを受けている」
「いいえ、花岡君は華族だからだいじにされています。僕なんかと違って、少しもしかられません」
「きみはらんぼうするからさ」
「先生、華族と士族と平民では、いったいどれが一番えらいんですか?」
「皆同じことだ。ただ個人としてえらい人がえらいんだ。そんなくだらない理屈りくつをいわないで、そのひまに数学を勉強する!」
「先生、それじゃ数学のできる人がえらいんですか?」
「むろんそうさ」
 と先生は自分の鼻を指さして、一同をドッと笑わせながら、
「家来でも平民でもかまわない。私の目から見ると数学のできるものが一番えらいんだ」
「まいったなあ」
 と堀口生は両手で頭をかかえて嘆息たんそくした。ナカナカ愛嬌あいきょうがある。皆はまた笑った。
「いいかね? わかったかね? この級には華族も士族も平民もいる。しかし一切平等だ。だれがえらいということはない。地理の先生から見れば地理のできるものが一番えらい。英語の先生から見れば英語のできるものが一番えらい。しかしおたがいにもっと眼界がんかいを広くして、もっと大きいところから見なければいけない。日本ぜんたいから見ると国家の役に立つ人間が一番えらい。世界ぜんたいから見ると人類同胞どうほう貢献こうけんするものが一番えらい。いいかね? わかったかね?」
「わかりました」
「諸君は一つ奮発して人類同胞につくすようなえらい人間になる気はないか? どうだ? 横田君」
「あります」
「堀口君はどうだ」
「尾張名古屋です」
「なんだ? それは」
「大ありです」
「大ありならつまらないことをいって新入生をいじめちゃいけない。人間は皆同胞だ。ことに同級生は兄弟だ。仲よくしたまえ。ところでこの級のクラス会はいつやる?」
 と先生は生徒を自在に操縦そうじゅうする。
「級長」
「はい」と松村君が立った。
「日をきめて近々やりたまえ」
「はあ」
「それではこれでおしまい。そら、かねが鳴った。えらいものだろう?」
 と橋本先生は時間きっかりに授業をおわった。さすがは数学の専門家だ。
「おもしろい先生だなあ」
「あんなのを瓢箪鯰ひょうたんなまずっていうんだよ」
なまずに似ていらあ、ひげが」
「なんでも数学へ持っていってしまう」
「とてもかなわないなあ」
 と生徒たちは不平もなかった。折りから雨降りだったので運動場へ出られない。教室の中にブンブンブンブン蜂の鳴くような声がみなぎった。
 級長の松村君は細井君や高谷君と相談して、昼休みの時間に、
「今週土曜日放課後ただちにクラス会を開きますから、ふるってご出席ください。会費十五銭」
 と黒板に発表した。それを見ていた堀口生は、
「おい、松村、チョークを貸せ」といって、
「諸君、うばってご欠席ください」
 と大きく書き足した。
「奪ってご欠席ってのはいったいどんなことをするんだろう?」
 と伊東君が笑った。
「なんでい? なにがおかしいんだ?」
「まちがっているからさ。奮ってだろう? 奮ってご欠席だろう?」
「奮ってよ」
 と堀口生は両方見比べて気がついた。しかし負けしみが強いから、
「おい、伊東、まちがっていたら親切に教えてくれるのがあたりまえだろう? ばかにする奴があるか? 同級生は皆兄弟だ。仲よくしろってさっき先生に叱られたばかりじゃないか?」
 ともうからんできた。伊東君も理屈をいわれればそれに相違ないから、
「失敬失敬、そんなにおこるなよ」
 と気軽くあやまった。
「おこりやしないよ。しかしおれは奮って欠席だ」
 と堀口生は奪ってを奮ってに書き直した。
「きみ、そんなことをいわないで出席してくれたまえ」と松村君が頼んだ。
「いやだよ、おれは」
「なぜ?」
「きみはなんでも細井と高谷に相談してきめてしまう。このクラスはきみと細井と高谷の級か?」
「そんなことはないよ」
「いくら成績がよくて先生に信用があるったって、それじゃちっと手前勝手だろうぜ。出るもんか」
「それじゃ相談するが、きみはいつなら都合がいいんだい?」
「それじゃとはなんだ? みろ。今までおれを仲間っぱずれにしていた証拠しょうこだ」
「そんなことはけっしてない。しかしこんなに大勢いるんだもの、一人ひとり一人皆にきいても歩けないじゃないか?」
「それだからきみと細井と高谷の級だというんだ」
 と堀口生はナカナカ承知しない。尾沢生と横田生は、
「松村君、僕らもいっこう知らなかったよ、いったい何年級のクラス会があるんだい?」
 と空とぼけて、堀口生の味方をした。松村君が仕方がないから粗忽そこつをわびて、
「堀口君、きみたちの都合のいい日をいってくれたまえ」
 と下から出た。
「そうさな、今週は困る。先週の土曜日にしてくれ」
「きみ、冗談じょうだんじゃないよ」
「それじゃ考えてみて来週の日曜日に返事をしてやらあ」
 と堀口生はなおしばらくだだをこねてから、
「しかし級長は級の小使いだ。この上めんどうをかけるのも気のどくだから、奮って出席してやるよ」
 とようやく機嫌をなおして、
「級長は級の小便なり」
 と書いた。むろん小使の間違いだが、いえばまたおこる。しかも、
「どうだい?」
 といばっている。松井君はじめ手近にいた数名はもうこらえきれず、廊下へ逃げだして思いさま笑った。
 こんな具合で堀口生は始末にいけない。なにか口実を見つけていいがかりをする。表だったことのない場合はそれ相応の工夫くふうをして手ぎわよく苦しめる。高谷君はクラス会のおり、偶然堀口生のとなりへ坐りあわせてすくなからず迷惑した。
「高谷君」
「なんだい?」
「きみのその冬服は新しいのかい?」
 と堀口生がきいた。
「新しい。僕は入学した時いきなり夏服を作ったからね」
 と高谷君が答えるやいなや、堀口生は、
「お初!」
 といって、力いっぱい背中をたたいた。高谷君はまったくの不意打ちで息がとまるくらいだった。
「痛いね」
「なあに、お初を祝ったのさ」
「もうたくさんだよ」
 とことわって、高谷君は祝いかえす法を考えたが、相手は落第生だから去年のを着ている。
「僕のは古くて物がわるい。セルだ。きみのは上等だね。メルトンかい? ラシャかい?」
「さあ、どっちだろうかね」
「ラシャかしら」
 と堀口生は服地をつまむまねをしてひどくつねった。
「痛い」
「メルトンかしら」
「痛いよ。きみ」
「ラシャらしい」
「痛いってば」
「きみも神経があるんだね?」
冗談じょうだんじゃないぜ」
 と高谷君は腕をさすりながらつねり返す口実を考えたが、相手はセルだと前もって明言しているから仕方がない。
「メルトンかな?」
「よせよ。痛い」
「ラシャかな?」
 と堀口生は時々思い出してつねった。
 照彦様と正三君はもとよりのこと、この主従と特に親しい三名は代わり代わりに難くせをつけられる。
「僕はもういやになってしまう。級長をよそうかと思っている」
 とある日温厚な松村君が嘆息した。れいのとおり揃って花岡家へ遊びにきていた時だった。それがきっかけになって堀口生の話が始まった。
「おれはどうしてもやるぞ」
 と細井君はこぶしをかためてみせた。
「えいっ!」
 と折りから正三君が飛び立って、えのきの大木のみきをたたいた。
「どうしたんだい?」
 と高谷君がきいた。
「堀口をなぐる稽古だ。僕は毎日やっている。見たまえ。手がこのとおりだ」
 と正三君はかたくなっているてのひらを示した。
「きみもやる気だったのかい?」
「やるとも」
「僕もやる。僕はそのつもりで相撲ばかりとっているんだ」と高谷君も同感だった。
「堀口は強かない。口ばかりだ」
 と細井君は確信的にいった。
「いつかの喧嘩けんかはきみの方が勝っている。それから僕が押したら尻餅しりもちをついたろう? 起きてかかってきた時、僕はやる決心だった」
 と正三君は目をかがやかした。
「それじゃきみたちは皆やるつもりだね?」
 と松村君がニコニコした。
「やるとも!」と三人は異口同音いくどうおんだった。
「やれやれ!」
 と照彦様は芝生しばふの上で踊りだした。
「ゆくぞ」
 と高谷君が組みついた。相撲だ。
[#改段]

大和魂やまとだましいの問題






 花岡伯爵家へ出はいりする人はたいてい家来だ。家庭教師も家来、医者も家来、建築技師も家来、みんな家来で間にあわせる。この間きた相撲の錦山にしきやまも家来だった。そのおり照彦様と正三君は手を二つ三つ教えてもらって、
「今度高谷君たちがきたら負かしてやろう」
 と勇みたった。しかしつぎの土曜日に照彦様は虫歯がいたんで学校を休んだ。さっそく柳田という歯医者をよんで手あてをした。これは家来ではないが、おくさんが家来の娘だから、まず家来みたいなものだ。照彦様はわがままがきく。
「いまのは痛かったから、もう口をあいてやらない」
「今度は加減かげんいたしますから、どうぞごかんべんください」
 と先生、ナカナカ骨が折れる。
「おれはおやしきはいやだ」
 と後からぐちをこぼすけれど仕方がない。それから照彦様は三日四日学校の帰りを柳田さんに寄った。正三君はむろんお供をしてそばについている。柳田夫人もかならずその場にひかえて、
「あなた、ちっともお痛くないようにお気をつけくださいよ」
 とむりな注文をする。
 三日めに照彦様は学校からの途すがら、
「僕はもう今日きょうはいやだ。こう毎日ガリガリやられると頭がわるくなる」
 といいだした。
「しかし後一日二日ふつかのごしんぼうでしょう?」
 と正三君は同情しながらはげました。
「今日は神経をぬくんだからね」
「神経をぬいてしまえばもういいんです」
「きみは僕の神経だと思ってそんな平気なことをいうんだよ」
「そんなに痛いものでしょうか?」
「痛いとも。頭を持っていかれてしまいそうだ。きみは歯医者にかかったことはないのかい?」
「ありません。歯は丈夫です」
「犬のようだね」
「おやおや」
「うらやましいんだよ。家のものはみんな歯がわるい。お母様なんか入れ歯だぜ」
「そうですか?」
「けれどもこれは内証ないしょだよ。柳田だってわきへしゃべられないようにいいつけられている」
「おやしきの歯医者は柳田さんだけですか?」
「もう一人ひとりあるけれど、柳田の方が近いからね。それにもう一人の歯医者は、痛いのがあたりまえだなんていったものだから、お母様の信用がなくなってしまった」
「それじゃ柳田さんの方が痛くないんじゃありませんか?」
「痛いよ、やっぱり。柳田はやしきへきた時だけ痛くないようなことをいうんだ。家ではちっとも遠慮えんりょしない。こういう時だと思ってわざと痛いことをする」
「まさか」
「いや、たしかにそのつもりだよ。僕をサンザ痛い目にあわせておいて、痛いですかなんて笑っているんだもの」
「ハッハハハハ」
「きみも笑うね?」
「失敬しました」
今日きょうは僕の方から柳田先生を痛い目にあわせてやる」
「どうなるんですか?」
「見ていたまえ」
「らんぼうなすっちゃ困りますよ」
「なあに、口でやる。ハッハハハハ」
 と照彦様も笑いだした。
 柳田歯科医院に着いたら、患者かんじゃが数名ひかしつに待っていた。しかし照彦様は特別だから、おくさんの案内で客間から治療室へ通って、すぐに椅子にかけた。
「若様、今日きょうは神経をとりますから、すこしお痛いですよ」
 と柳田さんがあらかじめことわった。
「いやだな」
「しかしちょっとです。のみに食われたぐらいのものです」
「のみは痛いですか?」
「オホホホ。若様はのみなんかご存じありませんわ」
 とおくさんがはたから説明した。
「これは大しくじりです。されたぐらいのものでしょう」
「嘘です。蚊はかゆいばかりです」
「それでははちにさされたぐらい」
「これはたまらない」
 と照彦様は立ち上がった。蜂ではこりている。
冗談じょうだんですよ。ほんとうは種痘しゅとうぐらいのものです」
「それならがまんしましょう」
「おえろうございますわね」
 とおくさんが力をつけた。
「むかしの武士さむらいは痛くてもけっして痛いと申しません。そこが大和魂やまとだましいです。若様は大和魂がおありでしょう?」
 と柳田やなぎださんは一生懸命だ。歯科は上手じょうずだが、ごきげんとりは得意でない。
「あります」
「ほんのちょっとのごしんぼうです。日本人は大和魂がありますから、みんな平気です」
「僕もありますよ。種痘を痛いなんていったことはありません」
「実は種痘よりもすこし痛いかもしれません」
「いやだ。ずるいんですもの」
 と照彦様はまた立ちそうになった。
「若様の大和魂はすこしおよわいようですから、ご遠慮申しあげたんです」
「ばかにしちゃいけませんよ。痛くはないけれど、ガリガリいうのが頭にひびくんです」
「今日はもうガリガリはほとんどありますまい。神経を取る時ちょっと痛いんです。くらげにさされたぐらいのものです」
「うそばかり」
かににはさまれたぐらいです」
「オホホホホ。動物づくしね。大丈夫でございますわ。武士さむらいどころか若殿様ですもの、痛いなんておっしゃるものですか」
 とおくさんは口車に乗せようとつとめた。
「いいません。僕も男です」
「それじゃお願いいたしましょう。どうぞお口をおあきください」
 と柳田さんは治療ちりょうにとりかかった。
 照彦様は約束の手前、かなりしんぼうがよかった。またガリガリがあったけれど、苦情をいわなかった。まもなく柳田さんは歯のうつろの中を探りでかき廻しはじめた。たちまち照彦様は、
「ああ……」
 と叫んで、ピクリとからだを動かした。大和魂があるから、痛いとはいわない。
「えらいですな。もうすぐですよ」
「ああ……」
「これです」
 と柳田さんは探りの先についてきた糸のようなものを示した。
「もういいんですか?」
 と照彦様は伸びあがった。
「もう一つです。神経は三本にわかれていますからね。もう一ぺん大和魂やまとだましいですよ」
「ああ……」
「痛い痛い。痛い!」
 と悲鳴をげたのは照彦様でなくて柳田さんだった。
「大和魂、大和魂」
 と照彦様は柳田さんの指をかんだままいった。
「若様、痛いです。痛い痛い」
「若様、もうかんにんしてあげてください」
 とおくさんがあやまった。照彦様ははなして、
「とれましたか?」
 ときいた。よほどがまんしたと見えて、目になみだがたまっていた。
「これです。お痛かったでしょう?」
 と柳田さんはまた探りの先の神経を示して、
「大和魂では私が負けましたよ、ハッハハハハ」
 と左の人さし指をあらためたら、歯跡はあとが残っていた。
「よろしゅうございましたわね」
 と忠義一図のおくさんはご主人がかまれても満足のようだった。正三君は笑いくずれて、かたわらの椅子につかまっていた。あまりにぎやかだったので、ひかしつから患者かんじゃがのぞきにきた。柳田さんは手早く治療をおわって、
「また明日あしたおいでください。もう痛いことは絶対にありません」
 といった。
「さよなら」
 と照彦様はおじぎをしたばかりだった。正三君はきのどくになって、
「失礼申しあげました」
 とかわっておわびをした。
 外へ出てから照彦様は、
「どうだ? 内藤」
 といばった。
「驚きました」
 と答えて、正三君はまた笑いだした。照彦様のわがままはいま始まったことでないが、これほどまでとは思わなかったのである。
「僕と柳田さんとどっちが大和魂がある?」
「さあ」
「僕は痛くても痛いとはいわなかった。柳田さんは大騒おおさわぎをしたぜ」
「しかし……」
「しかしなんだい?」
「しかしあれは不意打ちを食ったからでしょう? 患者かんじゃにかまれるとは思わなかったんです」
「患者だって痛ければかむさ」
「しかし……」
「しかししかしって、きみは柳田びいきか?」
 と照彦様はこわい顔をした。
「そうじゃありませんが、しかし……」
「また!」
「…………」
「きみは僕に大和魂がないというつもりだな?」
「すこしあります」
「よし。それじゃきみはどれぐらいある?」
「若様ぐらいあります」
「なまいきなことをいうな。歯の丈夫なものにわかるものか」
「とにかく若様はごしんぼうがたりません」
 と正三君は思うとおりを正直にいった。
「知らん」
「しかし明日あした一日ですからもういいです」
「きみのお世話にはならないよ」
「若様、電車がまいりました」
「知らん」
 と照彦様は急に不機嫌ふきげんになってしまった。
 その晩のことである。食事の折り、奥様が、
「照彦はすこし顔色がわるいようですね」
 とおっしゃって、じっと見つめていられた。
「そんなことはないです」
 と照彦様が答えた。
「なんともありませんの?」
「ええ。歯医者でガリガリやられて痛かったからでしょう」
今日きょうで四日ですね。よくしんぼうがつづきます」
「はあ」
「それにしてもすこし青いようですわね」
「おかぜじゃありませんの?」
 とお姉様の妙子たえこ様もうちまもった。
「若様はけさ学校でおのどがお痛いとおっしゃいました」
 と正三君が思いだして申しあげた。
「よけいなことをいうな」
 と照彦様は正三君をにらみつけた。お殿様がご不在だと若様がたも多少荒い。
「すずしくなりましたから、またソロソロ寝びえでございましょう。わるいようなら早くお医者様に見ていただかなければいけません」
 と奥様がおだやかにおさとしになった。
「ほんとうになんともないんです」
「おせきは出ませんの?」
「ええ」
「おのどは?」
「痛くありません」
 と照彦様は否定した。
「照彦は扁桃腺へんとうせんを切るのがいやなものだから、嘘をいうのだろう」
 と一番上の照正てるまさ様が笑った。
「そうですよ。だいじのだいじの扁桃腺へんとうせんですからね」
 とそのつぎの照常てるつね様もひやかした。照彦様はだまっていた。お兄様がたにはかなわない。
「とにかく、後からお熱を計ってみましょう」
 とおかあ様がおっしゃった。
 照彦様は食後お母様のお部屋へよってしばらく手間を取った。
「若様、いかがでございましたか?」
 と内藤君は廊下ろうかで待ちうけてたずねた。
「熱はない」
「それはよろしゅうございました」
「内藤、きみはおしゃべりをしていけないね」
「失敬しました」
「お母様に早く扁桃腺へんとうせんを切れっていわれたぜ。春切るつもりだったのを痛いと思ってのばしておいたんだ。これはきみにも話してあるじゃないか?」
「はあ」
「それだのにお母様の前でのどが痛いなんていうんだもの。せっかくいいあんばいに忘れているのを思い出すじゃないか?」
「すみません」
「きみはお母様にほめられるものだから、僕のことをなんでもしゃべるんだろう? お兄様がたも内藤はゆだんがならないっておこっているぞ」
「気をつけます」
「柳田さんに食いついたことがわかればきみのせいだぜ」
「それはごむりです」
「いや、おしゃべりはきみばかりだ」
 と照彦様はお兄様がたにからかわれたくやしまぎれにさんざんじれたあげく、正三君を廊下のかべへ押しつけた。抵抗ていこうしないのを承知で圧迫あっぱくをくわえる。
 正三君は照彦様のごきげんがいいとなにもかも忘れているが、こんな風におつむじがまがってきた場合はとかく家のことを考えだす。そこはまだ子供だ。安斉先生の注文のように君君たらずといえどもという心持ちになれない。かなうことなら押しかえしてやりたい。忠義をつくしてもはりあいがないと思いこむ。
「若様、僕は今度の土曜日に家へ帰らせていただきます」
 と正三君が学習室へもどってからまもなくいいだした。
「今度の土曜日には高谷君たちがくるぜ」
 と照彦様はむろん帰したがらない。
「夕方からでもいいです」
「きみはおこったな?」
「…………」
「なにが気にいらないんだ? いってみたまえ」
「申しあげればおおこりになります」
「おこらん」
「それじゃ申しあげましょうか?」
「いいたまえ」
「若様は扁桃腺へんとうせんをお切りになったらいかがですか?」
「なに? 喧嘩か? きみは」
「ほんとうに大和魂がおありなら、一思いにお切りになる方がいいです」
 と正三君はいつになく強硬きょうこうに出た。
「きみは一思いでも僕はいやだよ。痛いからね」
「しかし扁桃腺へんとうせんがはれているからかぜをひくとおっしゃったでしょう?」
「きみがひくんじゃないぜ。よけいなお世話だよ」
「しかしかぜをひけば学校をお休みになりますから……」
「きみのしかしは聞きたくない」
「若様はごしんぼうが足りないからなんでもだめです」
「きみこそしんぼうがたりないぞ」
「なぜですか?」
「僕がすこしおこるとすぐに帰りたがる」
「…………」
「それみたまえ」
「それじゃ僕もしんぼうしましょう。若様もお痛いのをがまんするのが大和魂です」
「きみは僕を痛い目にあわせたいのか?」
「そうじゃありません。若様がご丈夫になるようにと思うんです」
「よし。それじゃ切ろう。僕も男だ。明日切る」
明日あしたは柳田さんです」
「それじゃ明後日あさって切る。そのかわりきみも帰りたいなんていうな。うんといじめてやるからしんぼうしろ」
 と照彦様はひたいに青すじを立てていた。
 二人は自習にとりかかった。正三君もつい本気になっていいあったので教科書はうわの空だった。そこへ小間使いのお菊が現われて、
「照彦様、藤岡さんがお見えになりましたから、応接間へおいでくださるようにと奥様からでございます」
 と注進した。
「ふうむ」
 と照彦様は驚いた。藤岡さんというのは耳鼻咽喉科じびいんこうかの先生でやはり家来だ。
「照彦、お前はずるくて逃げまわるから、お母様がいきなり先生をお呼びになったんだよ」
 と一番上の照正てるまさ様が申し聞かせた。照彦様はお菊について出ていった。
「照正様、照彦様は扁桃腺へんとうせんをお切りになるんでしょうか?」
 と正三君がきいた。
「今夜じゃないです」
「いつでございましょう?」
「さあ。あれは一週間ぐらい入院しなければなりませんからね」
「痛いですか?」
「切った時よりも後の方が痛い。僕も四、五年前にやりました」
 と照正様は話し相手になってくれた。
 しばらくするとお菊がまたやってきて、
「内藤さん、奥様がお呼びでございます」
「はあ」
 と正三君は立っていった。応接間では照彦様の診察しんさつがおわったところだった。
「内藤さん、おついでですから、あなたも見ておいただきなさい」
 と奥様がおっしゃった。正三君はいやもおうもない。二つ三つおじぎをして、藤岡さんの前の椅子にかけた。先生はひたい反射鏡はんしゃきょうをつけて、
「ああん」
 といった。
「ああん」
「これはかなり大きいですな」
 ともう診察がすんでしまった。
「はあ」
「りっぱな手術ものです」
「ははあ」
 と正三君は驚いた。
「しめしめ」
 と照彦様が手をたたいた。
「それでは二人ふたりご一しょにお願い申しあげましょう」
 と奥様がおっしゃった。
「切るんですか? 僕も」
 と内藤君はいまさらあわてはじめた。
「とってしまう方がいいですよ。そんなものをだいじにしておいても仕方ないでしょう」
 と藤岡さんは平気なものだった。
「内藤さん、いずれお家へご相談申しあげます。先生はお上手じょうずですから、痛くもなんともありませんのよ。照彦と内藤さんとはどちらが強いでしょうね?」
 と奥様は二人の気をはげました。
 学習室へもどる途中、
「照彦様」
 と正三君がよりそった。
「なんだい?」
「痛いんでしょうね? 切るのは」
「痛いとも。血が出る」
「いやだなあ」
「でもきみは先刻さっきすすめたじゃないか?」
「あれは若様ばかりだと思ったからです」
「それだからきみはずるいよ」
「ハッハハハハ」
「ハッハハハハ」
 と二人は利害が一致したので、先刻さっき廊下ろうかを仲よしになって通った。
[#改段]

若様のご手術






「自習時間中に何ご用でしたか?」
 と安斉あんざい先生が正三君にきいた。先生は学習室の全権をにぎっているから、ナカナカやかましい。
「お医者さんがおいでになったついでに僕も見ていただきました」
「ははあ。きみもやはりのどや鼻がおわるいのですか?」
「はあ。若様と同じように扁桃腺へんとうせんがはれているそうです」
「それはそれは」
「なんともないつもりでしたが……」
 と正三君は手術のことを思い出した。
「このごろの人は武術で身体をねらないからいけません。それに洋食ばかりしますから、とかく故障こしょうが多くなりますよ」
「そうでございますかな」
粗食そしょくがいいです。私なぞはぜいたくをしませんから、この年になってもこのとおり頑健がんけんです」
「先生、僕は肉をたくさんたべなければいけないんですって」
 と照彦様がいった。
「西洋医は日本人のからだがわかりませんから、皆そう申します」
「いけないんですか?」
菜根さいこんみて百すべし」
「はあ?」
でたくさんです。困苦欠乏こんくけつぼうにたえる精神がなによりも大切です。それはそうとして、ご自習をお始めください」
 と安斉先生は席へもどった。
 折りから照常てるつね様が照正てるまさ様にむかって、
「お兄様、お兄様の方の英語の先生は文法でも平常点を取りますか?」
 ときいた。
「取るとも」
「からいですか?」
「からいとも」
「それじゃどこも同じことですかな。僕の方は難物なんぶついこまれて皆キュウキュウいっています」
「だれだい?」
「森川さんです。関さんが洋行したものですから、九月からかわったんです」
「その森川さんだよ。僕の方の文法は」
「そうですか。きびしいでしょう?」
「グイグイやる。とても評判がわるい」
「僕の方は文法訳解やっかいと両方ともあの人ですから苦しいです」
「しかしよくできるね、あの先生は」
「それだけあらっぽいです。えんりょってことがありません。いったいあれはだれの家来ですか?」
「島津君の家来だよ」
「関さんも島津さんの家来でしたね」
「そうさ」
「島津君は得ですな」
「しかし森川さんはそんな容赦ようしゃをしない。この間島津君は叱られたぜ。それも頭ごなしだからね、きのどくだったよ」
 と照正様はいつまでも雑談の相手をしている。学監の安斉先生はこういう不規律を好まない。幾度いくども顔をしかめた後、
「エヘン」
 と咳ばらいをした。それでもコソコソ話すものだから、まもなく、
散乱心さんらんしんいましめてえ!」
 と詩吟しぎんのような調子でおっしゃった。この注意が響きわたると、若様がたばかりか、家庭教師の先生がたまでシャキッとなる。皆いずまいを直して自習に身を入れた。
 そこへ、
「内藤さん」
 とまたまたお菊があらわれた。
「なんです?」
 と安斉先生がにらんだ。
「内藤さんに奥様がご用でいらっしゃいます」
「先生、ちょっと失礼させていただきます」
 と正三君は恐る恐る安斉先生におことわりを申しあげた。
「よろしい」
「はあ」
 奥様はもうお部屋へもどっていられた。正三君の姿を見ると、
「内藤さん、さあ、こちらへ」
 とおまねきになって、
「お菊はもういいのよ」
 と小間使いを退しりぞけた。正三君は敷居しきいぎわに坐っておじぎをした。
「さあ、こちらへ」
「はあ」
度々たびたびご苦労ですね」
「どういたしまして。先ほどはありがとうございました」
 と正三しょうぞう君は診察しんさつのお礼を申しあげた。
「オホホホホ」
「…………」
「内藤さん、あれは狂言きょうげんでございますのよ」
 と奥様はまたお笑いになった。
「はあ?」
「お芝居でございますの」
「ははあ」
「ほんとうを申しあげると、あなたの扁桃腺へんとうせんはなんともございませんのよ」
「でも先生がりっぱな手術ものだとおっしゃいました」
「それがお芝居でございます」
「ははあ」
 と正三君はきつねにつままれたようだった。
照彦てるひこは弱虫ですから、切るのをいやがって一人ひとりではとても承知しそうもありません。それであなたに加勢をしていただきます。おわかりになりまして?」
「さあ」
「あなたはこれから手術の日まで照彦にお力をおつけください。それから一しょに藤岡先生の病院へあがって、あなたから先に切っていただきます」
「ははあ? 私から?」
「手術を受けるまねをなさるのです。そうして思ったほど痛くないとおっしゃっていただきます。すれば照彦も安心して切らせましょう」
「わかりました。それならお安いご用です」
「だれにもおっしゃってはなりません」
「はあ」
片方かたほうに三日かかるそうですから、一週間入院しなければなりません」
「私もでございますか?」
「ご苦労ですが、そう願います。このお芝居はよほどうまくやりませんとけどられてしまって、後がききません。左右両方でございますからね」
「先生はむろんご承知でございましょう?」
「うちあわせがしてあります」
「けれどもうそを申しあげてはすまないと思って、僕のもほんとうにお切りになりはしないでしょうか?」
「まあ! 内藤さんも弱虫ね」
「いいえ、それならそれで覚悟があります」
「でもはれていないものは切りようがございませんわ」
「そうでございますか。安心しました」
「頭のいいことを吹きこんでくださるように手術の痛くないことを吹きこんでください。けれどもあなたも少しこわがる方がよろしゅうございますよ」
「はあ」
「あまり平気でいらっしゃると感づかれます」
「こわがりながら強がりましょう。すると若様も負けない気になってがまんをなさいます」
「そう願いましょう。手術はこの土曜日にきめてあります。私もまいりますから、その時またうちあわせをいたします。それまでのところをどうぞよろしく」
 と奥様はなおクレグレも頼みいった。
 正三君が学習室へもどるとまもなく、照彦様は、
「きみ、なんの用だったい?」
 とささやいた。
「後から申しあげます」
「柳田さんにかみついたことがわかったんじゃないかい?」
「いいえ」
「なんだい?」
「僕の扁桃腺へんとうせんです」
「きみの扁桃腺?」
「若様のより大きいですから、さっそく切るんですって。ついては家へ相談にいってくるようにとおっしゃいました」
「帰るのかい?」
「ええ」
こまる」
「手紙でまにあわせましょうか?」
「そしてくれたまえ」
「はあ」
「いつ切るんだい?」
「若様とご一しょにこの土曜日らしいです」
 と正三君もつい長くなる。
散乱心さんらんしんいましめてえ。臍下丹田せいかたんでんに力を入れてえ」
 と安斉先生がぎんじた。むずかしいじいさんだ。
 翌日学校から歯科医へまわって帰途に、正三君はソロソロ芝居を始めていい頃だと思って、
「若様、お歯がこれですんで今度はイヨイヨ扁桃腺へんとうせんですね」
 と切りだした。
「僕も今ちょうどそれを考えていたところだよ。いやだなあ」
「いやですねえ」
「ははあ。きみも見かけによらない弱虫だね」
「なぜですか?」
「ゆうべ初めの中いばっておきながら、藤岡さんに見てもらってからのあわてざまってなかったよ。やあいやあい!」
「僕だって、切るのはいたいですからね」
「それでも僕にすすめたじゃないか? しんぼうが足りないとかなんとかいって」
「あれは若様だけだと思ったからです」
「ずるい奴だよ。そんな大和魂やまとだましいがあるものか」
「降参しました。しかし負けません」
「なんだい? それは。あわてちゃいけないよ」
「あれは僕がわるかったですけれど、イヨイヨ切るとなれば若様の大和魂に負けません」
「なまいきをいっている。きみの大和魂はセルロイド製だ」
「若様、それじゃ藤岡ふじおかさんの病院で大和魂のくらべっこをいたしましょう」
 と正三君はおいおいと手術の方へこぎつける。
「いいとも」
「しかし痛いでしょうな」
「それ見たまえ。セルロイドだからペコペコしていらあ」
「僕は様子がわからないから心配なんです。こわいんじゃありません」
「うまく言っている。こわいから心配になるんだ。痛いぞ、じっさい」
 と照彦様はおどかした。
「いいえ、あれはお薬をつけて切るんですから痛くても知れたものですって奥様がおっしゃいました」
「お母様はご自分がお痛くないから知れたものさ。昨日きのうのきみと同じことだ」
照正てるまさ様は切った時よりも後の方が痛いとおっしゃいました」
 と正三君は研究している。
「ジョオッと音がして血がドクドク出たそうだ。ああ、考えてもいやだ」
「それごらんなさい。若様の大和魂こそセルロイドです」
「失敬なことをいうな」
「それじゃお切りになますか?」
「切るとも」
「僕はごめんこうむります」
「なに?」
「僕はほんとうは切りたくないんです」
「そんなずるいことをいってもいまさらだめだよ」
「家へ逃げていってしまいます」
「よし。僕は今からお母様にいいつけておく」
 と照彦様は本気になった。
「いやだなあ! 僕は痛いことは大きらいです」
「だれだってそうだよ。しかし身体を丈夫にするためなら仕方がない」
「切らなくても丈夫になればいいでしょう?」
「切らなければ丈夫にならない」
「それじゃ若様はイヨイヨほんとうにお切りになりますか?」
「切るとも。きみが切れば切る」
「僕も若様がお切りになれば切ります」
「それじゃ約束やくそくしておこう」
「ゲンマンですよ」
「なんだい? ゲンマンてのは」
「約束を破れば拳固げんこで一万たたくんです」
「それじゃ僕もゲンマンだ」
「ゲンマン!」
 と正三君はほぼ目的を達した。これぐらい念をいれておけば、照彦様もまさかに後へはひけない。
「しかし土曜日というと明後日あさってだね」
「そうです」
「来週の土曜日にしてもらいたいな」
「早い方がいいですよ」
「なぜ?」
「のばすと若様はまたおいやになります」
「なんだ。自分だっていやがっているくせに」
 と照彦様は計られたとはご存じない。
 翌日、学校で高谷君が、
「花岡君、明日あしたはまただめだってね」
 と残念がったとき、照彦様は、
「そうそう」
 と思い出した。扁桃腺へんとうせんのことばかり考えていて、みんなの遊びにくるのをわすれていたのだった。れいのなかよし五人、なお話しあっているうちに、
「僕も扁桃腺へんとうせんを切ってもらった」と松村君がいいだした。
「いつ?」
「子供のときに」
「今でも子供じゃないか?」
 と正三君があげ足をとった。
「ハッハハハハ」
「痛かったかい?」
 と照彦様がきいた。
「なあに」
「血が出たろう?」
「ちょっとだよ」
 と松村君はごく手軽のようにいった。
「僕と照彦様と大和魂の競争をするんだよ」
 と正三君は役目を思いだした。
「負けるものか」と照彦様はりきんだ。
 土曜日の午後、照彦様と正三君は奥様につれられて藤岡耳鼻咽喉じびいんこう病院へ乗りつけた。先生からあらかじめ注意があったので昼食はとらない。これは手術の時はくといけないから、その用心だった。正三君はたべないお相伴しょうばんをさせられた。忠義のためには腹のへるぐらい仕方がない。一同は客間へ通された。先生夫婦が下へもおかないようにもてなす。手術を受けにきたよりもお客にきたようだった。
「若様の方は時おりお手あてを申しあげておりましたから、かなり小さくなっています。内藤君の方は難物なんぶつですよ。奥へひろがってくるみぐらいの大きさになっています」
 と藤岡ふじおかさんが用談にとりかかるまでにだいぶ時間がかかった。正三君は奥様からの目くばせをあいずに、
「先生」と芝居をやり始めた。
「なんですか?」
「大きいと痛いんですか?」
「なあに、ちょっとですよ」
「先生、僕、あとからにしていただきます」
「僕が後からです」
 と照彦様がおっしゃった。
ほねの折れる方から先にやります」
 と先生は笑っていた。
「僕からですか?」
「そうです」
「おやおや」
 と正三君は頭をかいた。
 ほかにも手術の約束があったが、こういう時にめぐりあわせたものはおきのどくだ。さっきからひかしつで待たされている。藤岡先生も多少気になると見えて、まもなく、
「それではあちらへまいりましょうか」
 と診察室しんさつしつへ案内した。照彦様と正三君は防水布の手術着をまとった。なんとなくものものしい。そこへ安斉先生がけつけた。奥様へ一礼の後、
「やあ、藤岡さん」と進みよった。
「これはこれは」
「どうも安心ができませんから立ち会いにあがりましたよ」
「先生には漢籍かんせきを習った時代から信用がございませんでしたからな」
 と藤岡さんが笑った。旧藩士きゅうはんしで中年以上の人はたいてい安斉先生のお弟子でしさんだ。
「いや、そういうわけではありません。若様に一言申しあげるのをわすれましたので、大きらいな自動車に乗って飛んでまいりました」
「ははあ、それはそれは」
「若様、イヨイヨご手術の折りは臍下丹田せいかたんでんにお力をお入れください」
「はあ」
「無念無想にしていられればすこしもお痛いことはございません」
「はあ」
「内藤君もその心得で」
 と安斉先生はこれだけのことを注意しにきたのだった。
 正三君がまず手術室へ進んだ。助手と二名の看護婦がかいがいしく従った。藤岡さんは正三君とさしむかいに席をしめて腕時計を見ながら、
今日こんにちはご苦労ですな」
 と笑った。
「どういたしまして」
「ご忠義はそうありたいものです」
「いいえ、いっこう」
「私、あなたのお父さんとはご懇意こんいに願っています」
「ははあ、そうでございますか」
「よろしくおっしゃってください」
「はあ?」
「それでは手術にかかりましょうか? ジョキンジョキンジョキン。もうよろしい」
「はあ?」
「もういいんです。うがいをして」
「はあ?」
 と正三君は診察室しんさつしつの方を見かえったが、くもりガラスだから大丈夫だった。
「すこし痛い顔をして」
「これぐらいですか?」
「そうそう、こちらへいらっしゃい」
 と藤岡さんは診察室しんさつしつへ案内して、
「もうすみました」と皆に一礼した。
「まあ、お早いですこと。お強いお強い」と奥様がいたわった。
「痛かったかい?」と照彦様は真剣な顔をして寄りそった。
「いいえ」
「すこしも?」
「ええ。痛いなんて思う間はありません。すぐです」
「あまりお口をおききになっちゃいけませんよ。血が出ます。病室へ行ってお休みなさい」
 と藤岡さんは正三君を看護婦かんごふの手にまかせた。
 つぎに照彦様が手術室へはいった。奥様と安斉先生が立ち会った。今度はほんとうの手術だから支度に手間がかかる。
「若様、臍下丹田せいかたんでんにお力をお入れあそばして」
 と安斉先生がはたからはげます。看護婦がお頭をおさえている。藤岡さんは照彦様の口へ機械を入れてのぞきはじめた。
「じっとなすって。まだですよ。じっとなすって。まだですよ」
「ああ!」と照彦様が首をまげた。
「もうすみました。これです」
 と藤岡さんは早業はやわざをやった。くるみ大のものを切り取ったのである。むろん血が出た。
「ああ!」と照彦様は切ったあとへ薬をぬられた時またうめいた。
「おうがいをなすって」
「まだでます」
「すぐ止まります。お心持ちをお静かになすって」
臍下丹田せいかたんでんですぞ」と安斉さんは青くなっていた。
「ありがとうございました。大きなものでございますね」
 と奥様は血にそまった肉片にくへんを見つめた。
「少し大きい方です。ごしんぼうでした。若様、お痛いですか?」
「いいえ」と照彦様は思ったほどでなかった。
「お強いですな。内藤君はもう少しで泣くところでした」
 と藤岡さんは如才じょさいない。
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忠義ちゅうぎのためのうそまこと






 照彦様は手術がすむとすぐに看護婦にたすけられて病室へはいった。お母様と安斉先生があとに従った。
「若様、いかがでございました?」
 と正三君はわれを忘れて元気よく起きあがった。
「内藤さん、あなたもお静かにしていらっしゃらなければいけませんのよ」
 と奥様が目くばせをしながら制した。
「では失礼いたします」
 と正三君は横になった。照彦様もベッドに寝ころんだ。切ったあとがチクリチクリ痛む。しかしここが大和魂の見せどころだと思ってがまんしている。
 しばらくすると藤岡先生がはいってきて、
「なるべくお休みになる方がよろしゅうございますから、もうおひきとりを願いましょうか? 看護婦と家内かないをつけておきますし、私が時々見まわります。けっしてご心配はございません」
 といった。
「それでは照彦や、私たちはもう帰りますよ」
「…………」
「内藤さん、よろしく頼みます」
「はあ」
「あら、お起きにならなくてもいいのよ、あなたも病人です」
 と奥様はまた目まぜをした。
「それでは若様、臍下丹田せいかたんでんのご工夫くふうをおわすれにならないように。内藤君、きみもシッカリ」
 とこれは安斉先生だった。
 皆が行ってしまったあとで、照彦様は頭をもたげた。
「内藤君」
「はあ」
「後から痛いといったが、そんなでもないね」
「そうですか?」
「きみはどうだ?」
「僕は何ともありません」
 と正三君は切らないのだからじっさいなんともあるはずがない。
「大きなことを言うな。僕は知っているぞ」
「なんですか?」
「切った時に泣きそうになったくせに」
「そんあことはありません」
「いや、先生がおっしゃった。もうすこしで泣くところだったとおっしゃった。うそをついてもだめだよ」
 と照彦様はすっかり本気にしていた。
 正三君はあまり強がると芝居を感づかれると思ったから、時々、
「ああああ」
 とためいきをついた。それに応じて照彦様も、
「ああああ」
 とやる。ただしそれはほんとうの嘆息だ。
「ああああ」
「ああああ。痛い! つばをのむと痛い」
「僕もすこし痛いです」
 と正三君は起きなおった。
「それみろ」
「うがいをしましょう」
「うむ、わすれていた」
 と照彦様もうがいをする。
「若様、すこしお休みしましょう。寝てしまえば痛いのを[#「痛いのを」は底本では「痛いをの」]わすれます」
「よわい奴だ」
「僕は口をきくと痛いんです。もう寝ます」
 と正三君はそのまま目をとじている中に夢心地ゆめごこちになった。照彦様も夕方まで眠った。
 晩は牛乳と重湯おもゆだけだった。傷にさわるといけないから形のあるものはたべられない。正三君はまたありがたくないお相伴しょうばんをした。やりきれないと思ったが、そこを辛抱しんぼうするのが忠義というものだ。照彦様はもう痛みがとれたので上元気になっていた。
「内藤君、僕はもうなんともない」
「僕はつばをのむとまだすこし痛いんです」
「それは僕もそうだよ。あんな大きなものを切ったんだから傷ができているのさ」
「血が出ましたか?」
「出たとも」
「たくさん?」
「ダラダラ流れた。きみだって出たろう?」
「僕はなにがなんだかわからなかったんです」
「ジョキッといったろう?」
「ジョキンジョキンジョキンでした。あとは夢中むちゅうです」
「きみは口ばかりだね。なっていない。藤岡先生は僕の方が強いといっていた」
 と照彦様はいばりはじめた。
「それはおせじですよ。おやしきの人は僕と若様が同じならきっと若様をほめるんです」
「しかし僕は泣きそうになんかならなかったからね」
「人が見ていなければどんなほらでもふけます」
「ほらだ?」
「ええ」
 と正三しょうぞう君は平気で答えた。
「内藤!」
「なんですか?」
「失敬だぞ」
 と照彦様はれいの青すじを立てた。
「あとから切っておいばりになってもだめです」
「よし」
「今度僕は若様のお切りになるとき見ていてやります」
「見ていたまえ。泣きそうになったら、この首をやるよ」
「しかし僕は先に切ると、痛い最中ですから、若様のを見ていられません」
「弱虫!」
「今度は若様とご一しょに切りましょう」
「一緒には切れないよ。そんなむりをいってもだめだ」
「僕は先生に切ってもらいます。若様は助手に切っていただけばいいです」と正三君は目的があるからむやみにさからう。
内藤正三位ないとうしょうさんみ!」
「…………」
「ばか!」
「…………」
「助手に切ってもらえなんて、失敬じゃないか? きみこそ助手に切ってもらえ!」
「僕はいやです」
「僕もいやだよ」
「なぜですか?」
「助手は先生よりもへただから痛いにきまっている」
「それごらんなさい」
「なんだい?」
「痛がるのは大和魂のない証拠しょうこです」
「あるとも。見せてやる」
「見せていただきましょう」
「よし、今度は僕が先に切る」
「先に切れるもんですか」
「切るとも」
 と照彦様はまた計略にかかった。内藤正三位、ナカナカずるい。
 こうすぐに喧嘩けんかをする殿様と家来はめずらしい。しかしこの二人ふたりぐらいすぐまた仲よしになる主従もすくない。翌朝、
「若様、いかがでございますか?」
 と正三君がきいた時、照彦様は、
「もうなんともない。うまいぞ。学校へゆかずに遊べるんだ」
 と答えて、すっかりごきげんがなおっていた。
「僕はまだ少し痛いです」
「痛いと思うから痛いんだよ」
「若様は思いの外お強いですな」
「きみは口でおせじを使っても、はらの中じゃ僕をよわいと思っているんだ。今度は僕が先に切ってみせるよ」
 と照彦様はゆきがかりじょう、決心しているようだった。その日、奥様と安斉先生が見まいに来た。翌日は照正てるまさ様と照常てるつね様が学校の帰りによった。
「内藤君、ご苦労様。ハッハハハ」
 と笑ったところを見ると、照正様はしかけをご承知だった。照常様も、
「手術のお相伴しょうばんじゃ退屈たいくつするだろうね」
 といつになく同情してくれた。そのつぎの日には富田さんと家庭教師三名がうちそろって伺候しこうした。小さな扁桃腺へんとうせん一つに大きな騒ぎをする。
 五日めはもう一方の手術だった。奥様と安斉先生が立ち会った。照彦様は競争心がおこっているから、第一回の時のようにおじけなかった。
「先生、僕は先にやっていただきます」
 と申し出た。
「これはおえらいですな」
 と藤岡さんはほんとうに感心した。
「内藤君、見ていてくれたまえ」
「拝見いたします」
 と内藤君も手術室へはいった。藤岡先生は、
「いいですか? じっとなすって」
 というと同時に例の早業はやわざをやった。照彦様は、
「ああ!」
 と首をかしげたが、顔色が青くなっただけで、けっしてめめしい様子を見せなかった。弱虫の若様をこれまでに激励げきれいしたのはたしかに正三君のおてがらだった。藤岡先生は照彦様を病室へ見おくってから、
「内藤さん、今日はもうジョキンジョキンにおよびませんよ」といって笑った。
 二人ふたりは土曜日に退院した。ちょうど一週間休んだ勘定かんじょうになる。月曜日に学校へいったとき、
「やあ、どうだったい?」
 と仲よし連中がとりかこんだ。
「花岡君、病気だったの?」と堀口生もよってきた。
扁桃腺へんとうせんを切ったのさ」
 と照彦様はのどのところへ手をあてた。
「もういいのかい?」
「ええ」
「正三位、そういえばお前もこの間から見えなかったな」
「…………」
「内藤君も切ったんだよ」
 と高谷君がかわって答えた。
「ふうむ、なるほど。殿様が腹を切ると家来も切るんだな」
 と堀口生はれいによって口がわるい。正三君はしゃくにさわったけれどだまっていた。
 休憩きゅうけい時間には運動場へ出ることになっている。しかし生徒はいろいろの都合からとかく教室に残りたがる。二時間めの授業がおわったとき、先生がチョークを忘れていったものだから、二、三名のものが黒板へ楽書を始めた。その中に一人が、
低脳児ていのうじ」と書いた。
「違う」といって、もう一人が、
「低能児」となおした。正三君はそこへ通りかかって、
ていの字」
 と大きく書いた。しゃれのつもりだった。
「やい」と堀口生がいきなり後ろからいた。
「なんだい?」
「人の悪口を書くな」
「きみのことじゃないよ」
「いや、おれの成績表は丁の字ぞろいだ。おれのことにきまっている」
「そんなこと僕が知るものか」
「おぼえていろ」
「知らない」
 と否定ひていして、正三君は外へ出てしまった。
 クラスのもてあましもの堀口生は先ごろ細井君といがみあった折り、正三君に突きたおされたのを深く根に持っている。喧嘩を売るつもりで、口実をさがしているのだ。正三君も場合によっては買う気がある。細井高谷の両名もいつか一度はやらなければならないと思っている。したがって花岡家へ遊びにゆくと芝生しばふの上の相撲すもうに身を入れる。また土曜日の交際がつづいた。
 ある日のこと、堀口生が、
「花岡君」と運動場のかたすみで照彦様を呼びとめた。
「なんですか?」
「きみたちはこの間から相撲すもうのけいこをしているそうだね?」
「さあ」
 と照彦様は考えこんだ。
「かくしてもだめだよ。僕の子分はみんな探偵だからね」
 と堀口生は執念しゅうねん深いから、ナカナカあきらめない。どうかして花岡家へ遊びにゆきたいのだ。もしこれがかなうなら、正三君初め優良連中と和解してもいいぐらいに思っている。
「…………」
「だれが一番強い?」
「高谷君です」
「きみは高谷君に負けるのかい?」
「勝ったり負けたりです」
「よわい同志で取っても強くはならない。今度の土曜に僕がいって教えてやろう。僕は手をたくさん知っているぜ」
「ほかの人がくると僕が安斉先生に叱られます」
「なんでも安斉先生だね。しかし先生だって皆きみのところの家来じゃないか? きみがいいっていえばいいんだ」
「いいえ、僕、お母様に叱られるんです」
 と照彦様はもてあまして歩きだした。
「花岡君、待ちたまえ」
「なんですか?」
「きみにききたいことがあるんだ。花岡君、僕はきみになにをわるいことをしたい?」
「…………」
「ほかのやつと喧嘩をしても、きみだけは別にしているじゃないか?」
「…………」
「先生に信用がないからって、そんなに僕をきらわなくてもいいじゃないか?」
「きらいやしません」
「落第生だって、そんなにばかにしなくてもいいじゃないか?」
「ばかにしやしません」
「僕は先生が信用してくれないから、勉強する気にならないんだよ。これでも尋常じんじょう一年の時は優等ゆうとうだったぜ。うそだと思うなら免状めんじょうを見せてやる」
「…………」
「尋常六年の時には川へおちた女の子を助けて校長さんにほめられたことがある。うそだと思うなら尾沢にきいてみたまえ」
「それはこの間級会クラスかいのときにききました」
「この学校へはいってからいけないんだ。先生ににらまれてしまっちゃ仕方がない。お前は不良だというから不良になってやるんだ。すこし同情してくれ」
「同情します」
「それじゃ僕もきみの家へいっていいかい?」
「僕はかまわないんですが…………」
「かまわないんですが、なんだい? なんだよ? その後は」
 と堀口生は照彦様の手をとらえた。
「…………」
「内藤がいけないっていうんだろう?」
「…………」
「そうだろう?」
 と引っぱる。
「そうです」
 と照彦てるひこ様はついいってしまった。
「よし、おれは内藤をなぐってやる」
「そんなことをしちゃ困ります」
「それじゃきみの家へいってもいいか?」
「…………」
「おい」
「…………」
「勝手にしやがれ」
 と堀口生は照彦様をつきはなした。照彦様はよろけながらげだした。
 そのつぎの休憩きゅうけい時間に堀口生は正三君とすれちがいさま、帽子をはらいおとした。喧嘩はいつもこの手でしかける。
「なにをする」
「家来、正三位、くやしければかかってこい」
「僕は喧嘩はきらいだよ」
 と正三君は相手にならない。帽子を拾ってほこりをたたきながら笑っていた。
「なんとかいっていやがる」
「なんでもいいよ」
「喧嘩がこわいなら相撲でこい」
「相撲もきらいだ」
「やい、家来、正三位。おれはきさまにうらみがある。いつかのことを忘れたか?」
「なにを?」
「いつかおれを突っころばしたじゃないか? やる気なら正々堂々とかかってこい」
 と堀口生はつめよってきた。正三君は高谷君や細井君の周囲をめぐってたくみによけた。二人ふたりとも気をきかしてそれとなく道をふさぐ。しかし堀口生は高谷君と細井君の相応そうおう手ごわいことを知っているから、正三君ばかりつけ廻す。その中に正三君は照彦様の後ろへかくれた。堀口生はごうをにやして、いきなり照彦様の帽子を払い落した。
「なにをする?」
 と照彦様がおこった。
「こうするのよ」
 と堀口生は足元の帽子をふんで、
「やい。家来、内藤正三位、きさまは殿様の頭をふまれても、かかってこないのか? いくじなし!」
 と正三君をののしった。正三君がかがんで拾おうとすると、堀口生は、
「どっこい」
 といって、帽子をけとばした。
「いいかげんにしろ!」
 と正三君はわれを忘れて堀口生を下から突きあげた。堀口生は足が浮いていたところへ不意を食ったからひとたまりもない。みごとに投げ倒された。正三君は乗りかかって二つ三つなぐった。
卑怯ひきょうだぞ」
 と尾沢生が後ろから正三君に組みついて引きはずした。堀口生は起きあがったが、高谷君に抱きとめられた。
「はなせ」
「はなさない」
 と高谷君は一生懸命だ。
「はなせ」
「はなさない」
 と尾沢生も力いっぱいに正三君を抱きしめた。もっともこれは止めるふりをして堀口生に打たせるつもりだった。
「おい、はなせったらはなせ」
「はなしたまえ」
 と堀口内藤、双方そうほうこわい顔をして身をもがいている中に授業のかねが鳴ってしまった。
 喧嘩口論けんかこうろんすべからず。よくないことの結果はどうせよろしくない。負ければむろんのこと、勝っても野球の仕合なぞとは違う。正三君はその時間中英語の訳解が身につかなかった。つまらないことをしたという感じに責められて、頭をかかえていた。しかしやむにやまれなかったのである。考えて見て自分がわるかったとは思えない。当然のなりゆきだ。照彦様があんな目にあわされるのを学友としてだまって見ていられるものでない。きみはずかしめらるればしん死す。安斉先生のお教えになったところはここだ。仕方がない。と結論したが、どうも心持ちがわるい。
 おりから後ろの机の横田生が先生の目をぬすみながら、チクリチクリと正三君の背中をつねりはじめた。うるさくてしょうがない。
「よしたまえ」と正三君はかたをふった。
「電信だよ」
「そんなものはいらない」
「堀口生からまわってきたんだよ。さっきのお礼だそうだよ」
 とささやきながら、横田生は机の下から紙きれを押しつけた。こう聞くと正三君も気になる。そっと受け取ってみたら、

内藤正三位、昼の時間に小使い部屋の裏で待っている。一人ひとりと一人で男らしくやろう。
堀口ほりぐち[#「堀口ほりぐちH」はママ]
 という喧嘩やり直しの申しこみだった。
「おい、返事を書け」
「…………」
「書かなければいえ」
「ゆくよ」
「なに?」
「ゆくとも!」と正三君の声は少し高かった。
「内藤君と横田君、話をしちゃいけませんよ」
 と秋山先生が注意した。
「…………」
「内藤君、きみはたいへん顔色がわるいね。どうかしましたか?」
「いいえ」と内藤君はうつむいた。
「ゆかいゆかい」と堀口生が先生のすぐ下で喜んだ。
「なんです? きみは」
 と先生がたしなめた。一年坊主は世話がやける。
[#改段]

やむにやまれぬ






 お弁当がすんで級担任きゅうたんにんの橋本先生がいつものとおり、
「それでは諸君、運動場へ出て元気にけまわる」
 といった時、皆立ちあがった。
「内藤君、待ちたまえ」
 と高谷君はもう正三君のそばへきていて、
「さっきの無線電信はなんだい?」
 ときいた。
「喧嘩さ」
「そうだろうと思っていた。やろうっていうのかい?」
「うむ」
 と正三君は小使い部屋の裏へでかける決心を話した。
「やるのか?」
「やる」
「やれ。手つだう」
「僕も手つだう」
 と細井君も寄りそっていた。
「よしたまえ。喧嘩はよしたまえ」
 と級長の松村君が止めた。
「なんだい? 今さら」
クラスぜんたいのためだ」
 と高谷君と細井君がふんがいした。
「僕は級長として一ぺんはめるよ」
「松村君、きみに迷惑めいわくはかけない。きみが止めたけれどもやったって僕は後からいうよ」
 と正三君は級長としての松村君の立場に同情した。
「なあに、一ぺん止めればいいのさ」
「しかしやるよ」
「ぜひやりたまえ。僕も手つだう」
 と松村君も大いに話せる。
「照彦様、僕イヨイヨやります」
 と正三君は許可を求めた。
「僕もやる」
「若様はいけません」
「いや、僕が元だ。やるとも」
 と照彦様は仲間があると強くなる。
 堀口生は子分をしたがえて、廊下に待っていた。しかし正三君の方は高谷、細井、松村、花岡の外になお数名がついているので、少し躊躇ちゅうちょしたようだった。
「さあ、小使い部屋の裏へゆこう」
 と高谷君が通りすぎさま申しいれた。
「きさまに関係はない」
 と堀口生はにらんだ。内藤君は運動場へ出て待っていた。堀口生も出てきたが、仲間との相談に余念ない。
 まもなく尾沢生が、めいをおびてやってきた。
「内藤君」
「なんだ?」
「堀口君は一人と一人でやろうというんだ」
「それはわかっている」
「それから上級生が止めるといけないから、帰りにしようというんだ」
「いいとも」
「それじゃ今度の時間がすんでからきみ一人ひとりで小使い部屋の裏へきてくれたまえ」
「よし」
 と正三君は承知した。
 その休憩きゅうけい時間中に内藤堀口の喧嘩が同級生ぜんたいに伝わった。いつのまにか正三君のまわりに十数名が集まっていた。これは皆同情のあまり自然に寄ってきたので、イザとなれば助太刀をする気だった。
「内藤君、やりたまえ」
 と激励しては堀口生の方をにくらしそうに見すえている。しかるに堀口生は人気がない。四人の子分とヒソヒソ話すだけだった。奴、具合がわるいものだから、尾沢生を相手にれいの拳闘のまねを始めた。
「どうだい? 今のは」
「その調子、その調子」
 なぞと尾沢生がごきげんをとっている。
 昼からは習字だった。正三君は手がふるえてこまった。こんなことでは喧嘩に勝てないと思って、じっと気をおちつけているところへ、前の席の生徒が、
「内藤君。おい、おい。内藤君」
 と頭でささやいた。時間中後ろと話すときにはこの方法を用いる。
「なんだい?」
「僕のお清書だよ。下、下」
 と机の下からなにか渡した。正三君は先生の様子をうかがいながら受けとってひろげて見た。
一人ひとりと一人じゃない。堀口は尾沢に君をつかまえさせておいて、みけんをつく計略だ。用心したまえ」
 と半紙いっぱいにお清書のように書いてある。これは青木という子で仲よしだからわざわざ知らせてくれたのだった。
「ありがとう。青木君」
 と正三君はお礼をいった。
「さっき運動場できいていたんだよ」
「ふうん?」
「それだから尾沢がそばへきたとき用心したまえ。わかったかい?」
「わかった」
二人ふたりでかかってくるんだから、一人じゃだめだよ」
「よしよし」
「それからね……」
「そこの二人、青木君と内藤君ですか? 前と後ろで話をしちゃいけませんね」
 と先生が注意した。正三君は赤面した。朝からこれで二度めになる。秀才もほかに屈託くったくがあるとこのとおりだ。
 放課後、正三君と堀口生は小使い部屋の裏で相会した。ここはゆきどまりでだれもこないから、喧嘩には屈竟くっきょうのところだ。堀口生には尾沢横田篠崎小川の四名がついていた。正三君の左右には高谷細井松村花岡の外に十五、六名ひかえていた。堀口生はやや案外のようだった。尾沢生がまず進みよって、
「内藤君、そんなに弥次馬やじうまをつれてきてもだめだ。一人ひとりと一人でやるんだ。きみ一人こっちへ出たまえ」
 といった。
「出るとも」
 と正三君が応じたとき、高谷君も進み出た。
「高谷君、一人と一人だよ」
「しかし堀口にはきみがついているじゃないか?」
 と高谷がなじった。
「僕は介添かいぞえだよ」
「なに?」
「介添えよ。世話役だ」
「それじゃ僕も内藤君の世話役だ。介添えだ」
「そうか。待て」
 と尾沢生は自分ひとりで計らうことができない。親分のところへもどってしばらく耳打ちをした後、
「それじゃ内藤の介添かいぞえになれ。二人ふたりで出てこい。しかし手出しをすると承知しないぞ」
 ときめつけた。
「それはおたがいだ」
 と高谷君はかばんを松村君にわたして、正三君もろとも進み出た。
 堀口生はその間に上着をぬいで待っていた。
「おい、内藤。男らしくやろうぜ」
 と進みよった態度たいどはいかにもおちついていた。子分の横田篠崎小川の三名も、かばんをはずして支度をした。
「内藤、きさまは男らしくないな」
 と尾沢生がとがめた。
「なんだ?」
 と正三君の顔は青かった。
「そこじゃ堀口君の方が日を受けるからまぶしい。不公平のないように、もっとこっちへ寄りたまえ」
 と尾沢生は正三君の手を取った。
「それじゃおれはどっちへまわればいいんだい? こうっと、お天道様てんとうさまがあそこにいるんだから」
 と堀口生は空を見上げた。正三君と高谷君がうっかりつりこまれて太陽の方へ目をむけたせつなに、尾沢生は正三君の腕をねじって、グイッと引いた。これは予定の行動だった。堀口君は猛然として突きかかった。正三君は口ばたをやられて、二、三歩よろめいた。しかしつぎの瞬間に高谷君は堀口生に後ろから組みついていた。
卑怯ひきょうだぞ!」
 と叫んで高谷君の足を取ろうとした横田生は細井君になぐりたおされた上に、弥次馬やじうまの足げに会って、いち早く逃げだした。篠崎生と小川生はこれに気をのまれて手出しがならない。
「堀口君、しっかり!」
「尾沢君しっかり!」
 と応援するだけだった。
 正三君と尾沢生はすぐになぐりあいを始めた。正三君はくちびるから血がしたたってものすごかった。尾沢生はたちまち鼻血を流した。一じょう虚々実々きょきょじつじつとまではいかないが、ひとしきりは実に猛烈だった。
「内藤! 内藤!」
 と照彦様は気違いのようになって騒ぎたてる。しかし心配は無用だった。正三君の横なぐりはあたると実にきく。えのきみきをたたいてきたえただけのことがあった。尾沢生は口先ばかりだ。ただ堀口生にけしかけられて気が強くなっているのだから、一騎打きうちでは元来正三君の敵でない。まもなくなぐりたおされて、
「まいった。まいったよ」
 と弱音をふいた。もう立って戦う勇気がなかったのである。
 高谷君はすでに一勝負すませて二度めだった。
 しかし今度は同体に倒れてちょっともみあった末、どうやら下になりかけている。いくらひいき目に見ても形勢がわるい。
「高谷君、しっかりしっかり!」
 と細井君は気が気でない。場合によっては手つだうつもりだった。
「大丈夫だ!」
 と高谷君は敵の手を固くにぎって下からひっくり返そうとしている。そこへ正三君がけよって、
「えいッ!」
 と叫びざま堀口生に横なぐりを食わせた。倒れる。高谷君が上になる。
「どうだ?」
「…………」
「これでもか?」
 と高谷君は勝ちに乗じた。
「堀口!」と正三君が呼んだ。
「さあ、きみやれ!」
 と高谷君は初めて気がついて正三君にまかせた。しかし堀口生は倒れたまま立てない。うつぶしになって頭をかかえた。正三君はもう手を出さなかった。
「堀口君、堀口君」
 と鼻血だらけの尾沢生がやってきてたすけおこした。篠崎生と小川生も寄りそった。弥次やじ連中はヤイヤイとはやしたてた。
「堀口君、これにこりてこれからは気をつけたまえ」と松村君がさとした。
「…………」
「皆おこってきみをなぐるといっている」
「なぐれ! 存分なぐってくれ」
 と堀口生は腕をくんだ。
「しかし僕は止めているんだ」
「止めないでもいい。どうでもしてくれ」
「よし。きみはこれまで皆をいじめている。これはクラスぜんたいからのその返礼だ。つつしんで受けたまえ」
 といって、松村君はコツンと一つ拳骨げんこつで頭をぶった。堀口生は目をつぶっていたが、がらになく涙をポロポロこぼした。それから、
「尾沢」と呼んだ。
「なんだい?」
「その上着のポケットからナイフを出してくれ」
「どうするんだ?」
 と尾沢生は顔色を変えた。同時に皆もドキッとした。
「なんでもいい」
「いやだよ、らんぼうするから」
「らんぼうはしない。腹を切って死ぬんだ」
「ばかをいえ」
「おれはばかだよう」
 と堀口生はワイワイ泣きだした。一同顔を見あわせた。喧嘩相手の高谷君と正三君はなんとなくきのどくな心持ちがした。
「だれだ? 泣いているのは」
 と、そこへ小使いがあらわれた。教室の掃除からもどってきたと見えて、ほうかぶりをしてほうきを持っていた。
「…………」
「また喧嘩だね。こんなに大勢よってたかってこの子をなぐったんだな」
「そうじゃない」と堀口生が否定した。
「関さん、きておくれえ。子供が喧嘩しているう」
 と小使いは新米だから事情がわからない。
「どうしたんだ?」
 と小使い長の関さんが出てきて、
「また堀口さんだね」とあきれたようだった。
「…………」
「きみはいつもここへよわいものをつれてきていじめるが、今日きょうはアベコベだったのかい?」
「…………」
「大きな図体ずうたいをしてみっともない。いつまでも泣いていなさんな。さあさあ、皆も早く帰ったり!」
「…………」
「グズグズしていて先生にみつかるとめんどうになるよ」
「堀口君、もう帰ろう」
 と尾沢生が上着を肩へかけてやった。堀口生は無言のままそれを着て立ちあがった。
「帰ろう」
 と勝った組は高谷君と正三君をとりまいて、歩きだした。
「きみ、目をひやしてゆきたまえ」
 と細井君が水道のところですすめた。
「いいよ。なんともないよ」
 と答えたものの、高谷君は左の方が血目ちめになって、まわりに黒ずみがよっていた。痛いに相違ない。正三君は口ばたがはれあがって、烏天狗からすてんぐそのままの顔だった。つばばかりいている。ただ勝ったのでない。どっちも犠牲ぎせいがあった。
 運動場の中ほどまできたとき、
「おいおい、松村君」
 と堀口生が追ってきた。弥次馬やじうまの中には覚えず逃げ出したものがあった。やはり堀口生は恐れられている。
「おい、松村君、ちょっと待ってくれたまえ」
「なんだい?」
「松村君と高谷君と内藤君と細井君。それから皆。ちょっと記念樹の下まできてくれたまえ」
「いやだよ」
 と松村君はことわった。堀口生のきてくれには皆こりている。ことに腕力で負けた意趣いしゅばらしにナイフでも振りまわすのかという疑念があった。
「きみは僕がまた喧嘩を売りにきたと思うのかい?」
「そうじゃないのかい?」
「僕は皆にきいてもらいたいことがあるんだ。ぜひきてくれたまえ」
 と堀口生は松村君の手を取った。
「どうする? 高谷君」と松村君は相談した。
「さあ」と高谷君は正三君をかえりみた。
「僕を信用してきてくれたまえ。僕は皆にあやまるんだ」と堀口生は松村君をグイグイひっぱる。
「そんなことをしなくてもいいよ」
「いや、僕は気がすまない」
「それじゃゆこう。僕だけゆく」
「皆きてくれ」
「どうだ? 皆」
「ゆこう」
 と一同承知した。
 運動場の一隅に古い卒業生の植えた記念樹が十数本今はかなりの大木になっている。その下がいちめんの芝生しばふで、生徒はいつもそこへ寝ころがる。教員室から見通しだから、ここで喧嘩なぞはできない。そういう考えもあったので、皆はやや安心して堀口生についていった。
「松村君、ここへ坐ってくれたまえ。さあ、皆」
 と堀口生はまず芝生に腰をおろしてうつむいた。そのまま口をきかない。
「いったいなんの用だね?」
 と松村君がうながした。高谷君と細井君は万一を警戒して中腰になっていた。
「松村君、僕だって皆と仲よくしたいんだ。さっききみが皆からの返礼だっていって僕の頭をなぐったとき、僕は死んだお父さんのことを思い出したんだ」
「…………」
「りっぱな人間になってくれといわれたのに、級中クラスじゅうから恨まれるような不良になってしまったと思ったら、僕は、僕は……」
「わかったよ」
堪忍かんにんしてくれたまえ」
 と堀口生は芝生に食いついたようになって泣きだした。
「もう、いいよ、きみ」と松村君も声をうるませた。
「皆で存分にしてくれ」
「きみの心持ちは皆わかっている。ねえ、皆?」
「もういいよ、堀口君。僕もわるかった。これから仲よくしよう」
 と高谷君は堀口生の手を取った。堀口生はまた泣きだした。皆しばらくもてあました後、
「堀口君、僕たちはもう帰るよ」
 と松村君が代表していった。堀口生はつっぷしたままうなずくばかりだった。
 学校の門から停留場へむかう途中、
「ああああ」と高谷君がまず嘆息した。
「なんだかいやな心持ちだ」
 と正三君も勝ちごたえがしない。二人ふたりともさっきは凱旋将軍がいせんしょうぐんのようだったが、堀口生にあやまられてからすっかり気がよわくなってしまった。
「やっぱり喧嘩なんかするもんじゃないよ」
 とまもなく松村君が感想をもらした。
「なんとかいっている。コツンとやったくせに」
 と細井君も関係者だからだまっていられなかった。
「あれは仕方ないよ。僕がやらなければ皆で袋だたきにしそうな風雲だったもの」
「風雲か? じっさい風雲急なりだったよ」
「泣いたなあ」
「泣いた」
「堀口も根からわるい奴じゃない」
「そうとも」
「しかしわるい奴だった方がこっちには都合がいいんだ。せっかく勝ってこんないやな心持ちのする喧嘩はないよ」
 と高谷君が皆の心持ちをいいあらわした。要するに相手の後悔こうかいがあまりいちじるしかったので皆拍子ひょうしぬけがしている。こらしめられて善人になったのに相違ないのだが、事実はどうも善人をこらしめたように考えられて仕方がない。
 この気分は照彦様にもうつっていた。おやしきへ近づいたとき、
「堀口はやっぱりかわいそうだよ」といった。
「しかしあれで直れば喧嘩もむだになりません」
「きみはそればかりいっている」
「若様も堀口のかわいそうなことばかりおっしゃっているじゃありませんか?」
「じっさいかわいそうだもの」
「僕の方がよっぽどかわいそうですよ。若様、僕の顔は変になっていやしませんか?」
 と正三君がきいた。
「なにかに似ているよ」
「ほんとうのところどんなですか?」
「口がとがってかっぱのとおりだ」
「困りましたなあ」
「おもしろいよ。僕はさっきから考えていたんだ。晩ごはんのとき、お父様が見つけてきっとなんかおっしゃる」
 と照彦様は書きいれにしていた。
[#改段]

喧嘩口論すべからず






 小使い部屋の裏の喧嘩は不良と善良の決闘だった。不良は負けた。堀口生は前非ぜんぴをくいてあやまった。しかし勝った方も負けた方もそれだけではすまなかった。
 正三君はおやしきへ帰るとすぐに洗面所へいって鏡を見た。なるほど、照彦様のいったとおりかっぱだ。うわあごがはれあがって鼻の高さに達している。歩くとなにかにつかえるような気がしたのはこれだった。くちびるをひろげてみたら、裏がさけていた。痛い。
「どうだい?」
 と照彦様が心配してはいってきた。
「ここですよ」
 と正三君は唇を裏がえしてみせた。
「これは大変だ。お医者さまに見てもらう方がいいよ」
「なあに、大丈夫です」
「いけない。僕お母様に申しあげる」
「もうなんともないんです。食塩でうがいをすれば直ります」
 と正三君は元気がよかった。
「それじゃ僕もらってきてやる」
「どうぞ願います。こんな顔してお台所へゆくと女中たちが笑います」
「ここで待っていたまえ」
 と照彦様は出ていった。
 若様がたはお台所へはいると叱られる。しかしこのさいは仕方がない。
「菊!」
「はあ」
「食塩をくれ」
「はあ?」
「食塩だよ」
「若様。私、奥様へ申しあげますよ」
「なにをいっているんだい?」
「若様はいつかお台所から食塩をお持ち出しになって、青梅をお召しあがりになって、おあてられになって……」
「うるさい!」
「私、また奥様に叱られます」
「ばか! 今頃青梅があるか?」
「そんならなにをお召しあがりになりますの?」
「たべるんじゃない」
「なんにお使いなさいますか?」
 とお菊はゆだんをしない。照彦様はお台所へ来るとかならず問題をひきおこす。
「なんに使ってもいいじゃないか? 家のものだ」
「若様は食塩なんかほしがるものじゃございませんよ」
「そんなことをいわないで少しくれ。なめくじにぶっかけてやるんだ」
 と照彦様はうそをついた。ほんとうをいって正三君のかっぱ顔を見にこられては困ると思ったのである。花岡家の女中たちは皆物見高い。
「おいたをなさるんではなおさしあげられません」
「うがいをするんだ」
「ほんとうでございますか?」
「僕がするんだ」
「それならただ今洗面所へ持って参じます」
「食塩てそんなに高いものかい?」
「オホホホホ」
 とお菊も笑えば、そばにいたお藤やお美津も笑った。女中たちもよろしくない。若様をばかにする風がある。
 まもなく照彦様と正三君は奥様のところへご挨拶にあがった。
「ただいま」
 と照彦様が一つおじぎをする。正三君はなにもいわないかわりに二つ念入りにやる。
「ご苦労でしたね」
 と奥様がいたわってくださる。この日正三君は特に顔を見られまいとして、おじぎの姿勢のままひきさがりはじめたが、
「内藤さん、あなたどうなさいましたの?」
 とさとられてしまった。鼻よりもくちびるの方が出ているから仕方がない。
「内藤君は学校で喧嘩をしたんです」
 と照彦様が説明した。
「まあ」
「堀口というわるい奴が初めに僕の帽子を払いおとしたものですから、内藤君がおこって突きとばしたんです」
「内藤さん、まあお見せなさい」
 と奥様が立ってきて口のあたりをあらためた時、正三君の目から大つぶの涙がポロリポロリとこぼれた。
「おいとうございましょう?」
「ウウウウウウ」
 と正三君は泣きだした。今まではりつめていた気が奥様のやさしいお言葉で急にゆるんだのだった。照彦様もシクシクやりだした。やはり恩義をわきまえている。これでこそ正三君も辛抱しんぼうできるというものだ。
 晩餐ばんさんの折り、伯爵はくしゃくは幸い不在だった。照正様てるまささま照常様てるつねさまはそれをいいことにして、フォークの上げ下ろしに正三君を笑った。
ちょかいだよ」
 と照正様が照常様にささやいた。
「八戒よりも烏天狗からすてんぐです」
「烏天狗よりもかっぱの申し子だ」
河童かっぱ六十四」
 と照常様がいった。
「照常」
 と奥様はきびしくおっしゃった。
「はあ」
「内藤さんは照彦のかたきを討ってくだすったのですよ」
「はあ」
「笑うことがありますか?」
「失礼いたしました」
 と照常様はその口の下からまたクスクス笑った。
「内藤君はナカナカ強い」
 と照正様はほめた。しかしこれはだまっていると笑いたくなるからだった。照彦様は、
「実に強かったです。不意打ちをくったんですけれど、すぐにこういう具合に……」
 と手まねをする拍子ひょうしに、持っていたナイフを妙子様たえこさまのお皿のところへカチャンと投げ飛ばした。
「まあ! あぶない照彦さん!」
 お姉様はび上がる。
「お気をつけなさいよ」
 と奥様がたしなめる。照正様と照常様はそれを幸いに、
「ハッハハハハ」
 とまた笑いだす。照彦様はとんちゃくなく、
「ひどいなぐりあいでした。僕ははたから応援です。『内藤、しっかり! 内藤、しっかり!』って。ねえ内藤君、きこえたろう?」
「はあ」
「きみも一生懸命だったが、僕も一生懸命だった。その中に尾沢は鼻を打たれて、鼻血がドクドクドク……」
「よしてちょうだい」
 と妙子様から故障が出た。
「ふいてもふいても、ダラダラダラダラダラ」
「照彦!」
 と奥様はつるの一声。照彦様はだまってしまった。
 喧嘩の物語は学習室でくりかえされた。気の荒い照常様が興味を持って、
「照彦、内藤がどんな風にやったか初めから話せ」
 と命じたのだった。
「えらい」
 と照正様も所々で感心した。
「痛快痛快! 内藤、強いんだなあ、きみは」
 と照常様は大喜びだった。
「もうやりません」
 と内藤君は謙遜けんそんした。
「なあに、かまうものか、照彦にからかう奴があったら、皆やっつけてしまえ。僕が柔道の手を教えてやる」
 と照常様は奨励した。
 学監の安斉先生は奥様のご注意で、後刻、
「内藤君、ちょっと」
 と呼びにきた。正三君は学監室へついていって、
「申しわけありません」
 とうなだれた。
「いや、察しています。平民の学校はこれだからいけないのです」
「…………」
きみはずかしめられてしん死す。やむにやまれなかったのでしょう?」
「はあ」
「今までもそんなことが度々あったのですか?」
「喧嘩でございますか?」
「いや、素町人すちょうにんの子がいやしくも若様のお帽子を足げにするなぞということが!」
 と安斉先生はこわい顔をした。
「はあ、いいえ」
「どっちですか?」
「足げにはしませんが、若様でもほかの生徒でも同じことです。わるい奴が五、六人いて皆をいじめるんです」
不都合ふつごうばん明日あした学校へいって校長に談じましょう」
「先生」
「なんですか?」
「僕たち、困ります。喧嘩をしたことがわかってしまいます」
 と正三君は迷惑した。
「それでは一つ秋山を呼んで話してみるかな」
 と安斉さんは考えこんだ。秋山先生はやはり花岡家の旧臣だから、照彦様のことを特に頼まれている。
「…………」
「明日の朝、私から手紙を持っていってください」
「はあ」
「内藤君、もっと顔を上げてごらん。ははあ、口がとがりましたな」
「はあ」
 と内藤君はまたうつむいた。
ずかしいことはありません。昔なら君公御馬前の功名です」
「…………」
「両虎闘えば大なるものは傷つき、小なるものは死す。君は大なるものでしたが、喧嘩はやはりいけませんよ」
「はあ」
「勇は逆徳ぎゃくとくなり。兵は狂器きょうきなり。軽々しく用いてはなりませんぞ」
 と安斉先生はダンダンむずかしくなる。
 翌朝学校へゆくと、皆が正三君の周囲に集まった。
「どうだい? きみ」
「もうなんともない」
 と正三君は口ばたをおさえた。そこへ高谷君がはいってきた。
「どうだい? きみ」
 とまた皆がとりまく。二人ふたりとも大変な人気だ。つぎに堀口生がノッソリとあらわれた。今度はだれもよりつかない。しかし堀口生は自分の方から進みよって、
「内藤君、高谷君、昨日きのうは失敬した。それから皆、今までは僕がわるかった。堪忍かんにんしてくれたまえ」
 といった。後悔こうかいしたものの、一時的だろうと思っていたから、これは案外だったので、
「僕こそ」
「もう仲よくしよう」
 と高谷君と内藤君も覚えず進み出た。堀口生はおじぎをした。高谷君と内藤君もおじぎをした。見ていた連中は手をたたいた。ひやかしたのではない。感心したのだった。
 まもなくかねが鳴った。第一時間は数学だった。橋本先生は出席点呼をおわったが、授業を始めずに、教室をにらみまわした。一番こわい先生だ。生徒たちはもう察した。あの喧嘩があのきびしい級担任きゅうたんにんに知れないでいるはずはない。先生は教壇から下りてきて、うつむいている堀口生の肩へ手をかけた。
「きみ、出たまえ」
「はあ」
「立て」
「はあ」
「教壇の前へゆく」
「はあ」
 と堀口生はそのとおり従った。
「きみも」
 と先生は尾沢生をつかまえた。
「はあ」
 と尾沢生も教壇の前へ出た。先生は生徒の顔を一々あらためながら教室をまわる。
「内藤君」
「はあ」
「出る」
「はあ」
 と内藤君も立った。
「高谷君」
「はあ」
 と高谷君はもうあるきだした。
「この四人は顔でわかる」
 と先生がいった時、皆クスクス笑った。堀口生は頭がこぶだらけでひたいがはれあがっている。尾沢生は鼻がふくれている。正三君は口がとがっている。高谷君は左の目が充血じゅうけつしてまわりが黒ずんでいる。
「見たまえ、諸君。これは皆仮装行列へ出る顔だ。教室へくる顔じゃない」
「…………」
「親不孝だよ。家へ帰って叱られたろう?」
「…………」
「しかしこのほかにも関係者があるはずです。覚えのあるものは申し出る」
「先生」と細井君と松村君が立ち上がった。
「もうないかね?」
「少しあります」
 と照彦様が立ち上がった時、横田、篠崎、小川の三名も顔を見あわせて立ち上がった。
「よろしい。正直なのは結構だ。皆席についてよろしい。今の十人は放課後残る。わかったかね? もしそれまでにまた喧嘩をするようなら退校を命じる。わかったかね?」
 と、念をおして、先生は授業にとりかかった。折りから、
「なあんだ」
 と嘆声たんせいをもらしたものがあった。
「森本君だね? なあんだとはなんだい?」
「はあ」
「はあじゃわからん」
「それで授業がおしまいになると思っていたものですから」
「そううまくゆくものか。なまけたがっちゃいけない。皆一生懸命でやる」
 と先生ははげました。しかし級ぜんたいの頭に異物がはいっている。はなはだ不成績な第一時間だった。喧嘩はあらゆる意味においてよろしくない。
 放課後のめおきという奴は気にかかるものだ。それもまだ罪がきまっていないだけに不安が増す。
「停学かしら?」
 と照彦様てるひこさまは正三君のために案じた。
「大丈夫だ。ただの喧嘩じゃない」
 と細井君は正義で申しわけを立てるつもりだった。
「いや、三日ぐらい食わされるかもしれない。先学期四年の人がやられた」
 と一番ひどくやっている高谷君はけっして楽観はしない。
 五時間目の授業がおわるとすぐに橋本先生は教室へはいってきて、
「さあさあ、用のないものは早く帰る」
 と例のせっかちな調子で皆を追いだした。
「松村君」
「はあ」
「級長のきみがこの仲間にはいっているのは不都合のようで好都合だ。いったいどうして喧嘩をした? わけをいいたまえ。さあ、いいたまえ」
「申し上げます」
 と松村君が立った時、窓からのぞいたものがあった。
「用のないものは帰る!」
 と先生は駈けていって叱りつけた。
 松村君は最初からのいきさつを説明した後、
「もし内藤君が負けたら高谷君が出るつもりでした。そのつぎは細井君、そのつぎは僕と順番がきめてありました。僕たちもわるかったんですけれど、今まで堀口君があんまりでしたから、つい……」
 と手はずまで説明してしまった。
「堀口君」
「はあ」
「今、松村の話しどおりか?」
 と先生がきいた。
「違います」
「どこが違う?」
「松村君は僕たちもわるかったけれど堀口君があんまりだったからといいました。あすこが違っています」
「それではきみはわるくないというのか?」
「いいえ、僕ばかりわるいんです」
 と堀口生はいつにないことだった。
「高谷君」
「はあ」
「きみは喧嘩に勝ったんだが、どんな心持ちがする?」
 と先生は順々にきいてゆく。
昨日きのうからいやでたまりません」
「内藤君、きみはどうだ? きみも勝ったじゃないか?」
「…………」
「どうだね?」
「僕が一番わるいんです」
「いや、心持ちさ」
「尾沢君が鼻血を出した時……」
「どうした?」
「僕はまあなにをしているんだと思いました」
「尾沢生」
「はあ」
「きみはどうだ?」
「僕は家でおとうさんにしばられました」
「どうして」
「…………」
「いいたまえ。かまわないよ」
 と堀口生が口を出した。
「堀口君と遊んじゃいけないっていわれているのに……」
「きみが一番ばかを見ているよ」
 と先生はなお一人ひとり一人について感想をもとめた後、
「きみたちは皆後悔している。喧嘩をしてわるかったということがそれぞれわかっているんだから、この上責めても仕方がない。しかし堀口君だけには約束があったね?」
 と堀口生をかえりみた。
「はあ」
「持ってきたかい?」
「…………」
「先生」
 と松村君が立ちあがった。堀口生は今度事件をおこしたら退校届を持ってくることになっている。
「なんですか?」
「堀口君は一番後悔しています。僕後からくわしく申しあげます」
「とにかく、堀口君」
「先生」
 と高谷君が猛然として立ちあがった。
「なんですか?」
「僕、困ります。僕が喧嘩をしたんですから、僕、困ります」
「それでは堀口君をきみと松村君にあずけましょう。皆数学の支度したくをして!」
 と先生は方向を転換した。一同顔を見あわせた。聞きまちがいかと思ったのである。しかし続いて、
「教科書、百〇六ページ、練習題のところをあける」
 ときたから、もううたがう余地がない。
「一番から十番までを内藤君と尾沢君がやる。これはふだんと違って教えあってさしつかえない。十一番から二十番までを高谷君と堀口君、二十一番から三十番までを横田君と花岡君……」
 と喧嘩の時の組み合わせだった。なお、
「五時までかかってゆっくりやりなさい。私は教員室で待っている」
[#改段]

困った立場






 昼からの課業がおわって先生が出ていったせつな、
「皆、ちょっと待ってくれたまえ」
 とどなって教壇へ駈けあがったのは堀口生だった。喧嘩事件で留めおきをくってから三日みっか目だ。堀口生は二日ふつかつづけて休んで今日きょうまた顔を出したのである。
「諸君、諸君」
 一同は帰りじたくの手を休めて、迷惑そうに堀口生を見まもった。どうせろくなことでなかろうと思ったのも、こいつの日頃から察してむりはない。しかし堀口生は喧嘩以来後悔を持ちつづけていた。
「今まで僕がわるかった。かんべんしてくれたまえ。僕は二日休んで考えた。このとおり退校届を持ってきた。松村君、松村君」
「なんだい?」と松村君が答えた。
「僕は皆にわるいことをしている。きみからあやまってくれたまえ」
「もういいんだよ。すんでいるじゃないか?」
「皆、いや、諸君。きみたち!」
「…………」
「ほんとうにいいのかい?」
「いいんだよ。いいんだよ」
 と五、六人がきのどくになって異口同音いくどうおんにいった。
「それじゃ僕はもうこれからわるいことをしないようにここで約束する。実は昨日きのうお母さんがあやまりにきて、先生にだけはもう一ぺん堪忍かんにんしてもらったんだ。松村君」
「なんだい?」
「これをきみにあずけておく。僕の退校届だ。このとおり伯父おじさんのはんがおしてある」
 と堀口生は半紙に書いたものをひろげて皆の方へむけた。
「そんなものはいらないよ」
「いや、これをあずかっておいて、今度僕がわるいことをしたらすぐに橋本先生に出してくれたまえ」
「…………」
「さあ、きみ」
「僕は困る、そんなこと」
「松村君、そうしてくれなければ僕は除名になる。堪忍してもらえないのも同じことだ」
「それじゃ皆であずかろう」
「そうしてくれたまえ。しかしきみが級長だ。松村君!」
「よし」
 と松村君は教壇へあがっていって、
「諸君、堀口君の退校届をあずかるよ」
 と皆の同意をもとめた。
「諸君、僕がわるいことをしたらすぐに松村君にいってくれたまえ。そうすれば松村君がこれを橋本先生に出す。そうすれば僕はもう学校へ来られなくなる。仕方がないんだ」
 と堀口生はどこまでも神妙だった。それから届書を封筒に入れてわたして、
「約束、約束。きみが代表だ」
 と松村君の手をにぎった。一同拍手喝采した。ちょうどそこへ弁慶べんけいがはいってきた。これは小使いの関さんが掃除をする時のあだなだ。ほおかぶりをして、ほうきをなぎなたのように持っている。
「なんだ? また喧嘩か?」とびっくりした。
「関さん、きみにもあやまる」
 と堀口生はおじぎをした。同時に皆ワイワイいいながら教室を出た。
 橋本先生はその後なんともいわなかったが、堀口生をクラス一同にあずけたのだった。これが最後のお慈悲のことはわかっている。堀口生は今度問題をおこせばおっぽり出されるはずだったが、幸いにして喧嘩は負けになっていた。なぐられた上に退校ではいくら今までのことがあってもあまりかわいそうだ。橋本先生もそこを考えたのだろう。おかあさんを呼び出して、もう一度堪忍することにした。
「とにかく、退校届を持たせておよこしください」
 といわれた時、おかあさんは、
「それではやっぱりいけないのでございましょうか?」
 と泣きそうになった。
「いや、このつぎにことをおこした場合、手数をはぶくためです」
「先生、そうおっしゃらずにどうぞこのたびだけは……」
「わかっています。ご安心なすって退校届をお持たせください。もうこの上まちがいのないように私が計らってあげます」と先生は考えがあった。
 クラスのもてあましものも退校届をにぎられてしまってはもうらんぼうが働けない。もっとも自分でもすっかり後悔している。堀口生はなお尾沢生や横田生にもあやまった。
「おれはお前たちに一番わるいことをしている。しかし今日きょうからは堀口改心だ。堀口英太郎じゃない。見てくれ。このとおりだ」
 といって、制服のボタンをはずしてカラーを見せた。それに堀口改心と書いてあった。尾沢生も横田生も元来わるい奴でない。堀口生がおだてなければごくおとなしくしている。クラスに平和な日がつづいた。
「堀口さん、お前はほんとうにえらくなったね」
 と尾沢生が感心したくらい堀口生の改悛かいしゅんは、いちじるしかった。
「おれは昨日何年ぶりかでおかあさんにほめられたよ」と堀口生も得意だった。橋本先生も、
「堀口君、君は生まれかわったね。しかし数学をやってこなければいけないよ」
 と時々はげましてくれる。堀口生はその都度頭をかいて相好そうごうをくずす。先生からやさしい言葉をかけられるのがうれしいのだ。しかしある時、
「先生、僕はこのごろくたびれてだめです」
 と答えた。これはほんとうだった。おとなしくしているのが大きな努力だから、いまだ勉強の方までは手がまわらない。よほど気をつけていないとくせが出て、
「やい、こんちきしょう!」
 なぞとやる。もっともそのすぐ後から、
「しまった。失敬、ごめんごめん」
 とことわる。一度運動場で足をふんだ子を突きとばしたが、急いで抱きおこしてやって、
「失敬失敬、ごめんよごめんよ」
 とあやまった。あいにく松村君や正三君が見ていたものだから、大いにあわてて、
「松村君、内藤君。ついしちゃったんだよ。けれどもいいあんばいに他の級の生徒だった」
 と弁解して逃げていった。
「退校届がこわいんだね」と正三君がいった。
「そうさ。しかしよくなったよ」
 と松村君は監督者だ。
「堀口改心か」
 と細井君が笑った。
「たしかに改心した」
 と高谷君も十分みとめている。
「いや、そういう号だよ。教科書にも雑記帳にも堀口改心と書いてある」
「それぐらい真剣ならもう大丈夫だ」
「きみもなぐったかいがある」
 と細井君は十日前の喧嘩を思い出した。
「いや、僕だってずいぶんやられている」
 と高谷君はこの頃ようやく血目ちめがなおった。
 正三君は口のとんがりがひっこんでから土曜日におひまをもらって家へ帰った。久しぶりだから話がたまっている。それにおとうさんや兄さんに相談したいことがあった。
「いつもおやしきの自動車ね。えらいものね、正ちゃんは」
 と君子姉さんが感心した。正三君はいただいてきたおみやげを並べて、
「奥様からお父様とうさま母様かあさまへよろしくとございました。いずれその中またおうかがいしていろいろとお話し申しあげたいと存じますが、お殿様はご満足でございますから、ご安心くださるようにっておっしゃいました」
 とよどみなく口上こうじょうを述べた。
「少し大きくなったようね」
 と君子姉さんと貴子姉さんがかわりがわりに頭をなでてくれた。
「もういやですよ」
 と正三君はそんな子供扱いを喜ばない。
「おとなおとなしてきたよ。やっぱり苦労をするんだろうからね」
 とおかあさんはうれしいやらかなしいやらだった。三人寄ってたかって離れない。それからそれと話がつづく。正三君もそれがなによりのごちそうだ。
「正三かい?」
 といって、大学へ通っている兄さんが帰ってきた。
「なんですね? こうもり傘を座敷まで持ってきて」
 とおかあさんがたしなめた。
「あらあらあら。ぬれててよ」
 と貴子姉さんが騒ぎたてた。雨があがったばかりだった。
「玄関に正三の下駄げたらしいのがあったものだから急いであがってきたんだよ」
 と祐助兄ゆうすけにいさん、あわてている。
「ごぶさたいたしました」
 と正三君は改まっておじぎをした。
「よく来たね。まってゆくんだろう?」
「はあ」
「どうだい?」
「相変わらずです」
「太ったね、少し」
「そうですか」
「いつ来たんだい?」
「二時頃です」
「それじゃもう大分話したね?」
「はあ」
「なんだかおとなじみてきたよ」
「そんなこともございますまい」
「そのとおりだもの」
「ハッハハハハハ」
「ハッハハハハハ」
 と祐助君は大喜びだった。
 おかあさんや姉さんたちが晩の支度にかかった後、正三君は裕助兄さんの書斎へ行った。おやしきへあがる前はこの部屋に机をならべていたのである。
「兄さん、やっぱり僕の机がありますね」
 と正三君は懐かしそうにながめた。
「お前がいると思ってもとのとおりにしておくんだよ。そこへ坐れ」
「はあ」
「おれは夜『おい、正三』ってんでみることがあるよ」
「…………」
「今頃はなにをしているのだろうと時々思い出す」
「…………」
「ベソをかくなよ」
「はあ」
「どうだい? おやしきは」
「おもしろいです」
「ほうとうのことをいえよ」
つらいこともあります」
「がまんできるかい?」
「できます」
「ほんとうのことをいえよ」
「できます」
照彦様てるひこさまは相変わらずむりをおっしゃるのかい?」
「時々おっしゃいます。けれどもこの頃は僕も負けていません。喧嘩になることがあります」
「ふうむ。ナカナカ強いんだね。お前も」
「そんな時には僕はもう家へ帰るというんです。すると照彦様は『内藤君、ねえ、内藤君』ってごきげんをとるんです」
「それでいいんだよ。学友だもの。おべっかを使う必要はちっともない」
 と祐助君は正三君が卑屈ひくつになることを恐れて強くいう。
「殿様も奥様も若様がたも皆ご親切にしてくださいます。それから僕は安斉先生に信用があるんです」
照常様てるつねさまはどうだい? いつかお前の首をしめたっていったじゃないか?」
「この頃は僕をかわいがって柔道の手なんか教えてくれます。冬休みには鉄砲を打ちにつれて行ってくださる約束です」
「それは好い塩梅あんばいだ。学校の方は?」
「大勢友達が出来ました。優等生が三人お屋敷へ遊びに来ます」
「その悪い奴はどうしたい? お前のことを家来だの何だのっていうやつは?」
「兄さん、到頭とうとうやったんですよ」
「喧嘩をかい?」
「はあ。口がこんなにれました」
「負けたのかい?」
「勝ったんです」と正三君は経緯いきさつを詳しく物語って、
「もう内藤正三位なんて言う奴は一人ひとりもありません。皆僕をこわがっているくらいです」
 と肩をいからせて見せた。得意もあったが、兄さんを安心させるためもあった。
「それはよかった。ときには腕力も必要だ。紳士ばかりはいないからね」
「しかし堀口って奴はほんとうに後悔しましたよ。僕たちにヘイヘイしてかわいそうなくらいです」
「さんざんお前をいじめた罰さ」
「僕はとても勝てないと思いましたが、まったく高谷君や細井君のおかげです」
「おれからよろしくいってくれ」
「はあ」
「ようやく安心した」
「けれども兄さん、一つ困ることがあります」
「なんだい?」
「もうすぐ試験ですが、僕一生懸命でやっていいのかわるいのかわからないんです」
「なぜ?」
「照彦様のご都合があるんです」
「それは試験前にお前が照彦様をコーチしてあげるのさ」
「コーチってなんです?」
「勉強のお手つだいをしてあげるのさ。それが学友の眼目がんもくだよ」
「それはむろんやりますが、照彦様は僕が一番でも上になると承知しないっておっしゃるんです」
「照彦様はいったい何番だい?」
「ビリから五番です」
「それじゃ落第だろう?」
「はあ。照彦様のご成績を拝見しましたが、平均点が足りません」
「その下へいったんじゃあぶないね。お前も落第するよ」
「それで考えているんです」
「考えることもなんにもない。殿様と家来がまくらをならべて討ち死にしたんじゃざまはないぜ。それこそ花岡伯爵家の名誉にかかわる」
 と祐助君は笑いだした。
「僕は落第しっこありませんが、照彦様より上にならないで及第きゅうだいしろってご注文ですから、手かげんがむずかしいんです」
「それはむりだ。お前はお前、照彦様は照彦様。試験の成績は仕方がない」
「僕もそういって十番だけ値切ねぎってみたんです。十番ぐらい上になっていないと危ないですからね。しかし照彦様は『十番ならおトンカチのとんがりで十だぞ』とおっしゃいました」
「なんのことだろう?」
「僕の頭をかなづちのとんがった方で十たたくんです。一番上がりについて一つだそうです」
「ばかばかしい」
「僕は穴があくと困るから、とんがっていない方にしてもらいたいってまた値切ったんです。すると『よろしい。そのかわり倍だぞ』って本気ですよ、照彦様は」
「ずいぶんだだをこねるんだね」
「一番になろうものなら三十五やられます。とんがっていない方にしてもらえば七十です。こぶだらけになってしまいます」
 と正三君はまじめで考えこんだ。
「そんなむちゃな話があるものか。お前も及第、照彦様てるひこさまも及第ってことになればそれでいいのさ」
「いいえ。安斉先生も家来が上から一番、若様がビリから一番なんてことになっちゃ困るとおっしゃいました」
「それは若様がもっと上がらなければいけないという意味だろう」
「照彦様は上がる見こみがないんです」
「そこをお前が骨を折ってコーチするのさ。照彦様は試験勉強がきく方かい」
「いいえ。試験というとすぐにあわててしまって、知っていることまでまちがいます」
「始末がわるいんだね」
「そこへもってきて、きみは万事において若様に花を持たせなければいけないって安斉先生がおっしゃるんです。若様よりも下になれってことに相違ありません」
「なるほど。わからず屋がそろっている」
 と祐助君は思案にあました。
 晩ご飯にはおとうさんも帰ってきてまた話に花がいた。
「正三はおやしきにご奉公しているだけあって言葉がよくなった上におとなびてきたよ」
 とおとうさんも気がついた。
「それがいいことかわるいことかわかりませんよ」
 と祐助君がいった。お学友に出すのは反対だったから、ついそれが出たのである。しかしおかあさんはおとうさん同様、
「不足をいうと罰があたりますよ。なにしろお殿様から毎日じきじきにお言葉をいただくんですからね」
 とありがたがっている。
「それではおかあさんはおトンカチってものをご存じですか?」
 と祐助君がきいた。
「おトンカチ? そんなもの存じませんよ」
「かなづちのことです」
「へええ」
「そのおトンカチで正三は頭をぶたれるんです」
「ばかなことをいうなよ」
 とおとうさんが取りあげなかったので、祐助君は正三君の立場を説明した。
 食後、正三君は、
「今兄さんがおっしゃった試験のことですが、おとうさん、どういたしましょうか?」
 と判断を求めた。
「どうせ忠義ついでだ。及第落第は運を天にまかせて、若様の下になるのが家来の分だろう。仕方がない」
 とおとうさんはかんたんだった。
「その手かげんがむずかしいんです」
 と正三君はよわっている。一番で及第するのよりもビリで落第しない方が曲芸としては一段の工夫くふうを要する。
「そこはわしが計らってやる」
「どうなさいますか」
「校長さんにお目にかかって頼んでやる。お前の成績が一番でも二番でも席順だけは若様のつぎにしてもらう」
「そんなことができるでしょうか?」
「できるとも」
「できませんよ、おとうさん」と祐助君が口を出した。
「なあに、伯爵家から頼みこむ。あすこの校長さんはおくさんが旧藩士の親戚になっている」
「そんな昔の関係が通用するものですか。学校には規則があります」
「まあまあ、お前はだまってきいていなさい」
 とおとうさんは祐助君をせいして、
「正三」
「はあ」
「若様とお前と二人ふたりとも及第しても、お前が上で若様が下なら、お前が若様を引きあげる形になる。しかしお前が下で若様が上なら、お前が若様を押しあげる形になる。しんとしてはきみを引き上げるよりも押しあげる方が礼にかなっている」
「それはそうです。後につくのがあたりまえです」
「校長ともあろうものがこれぐらいの道理のわからないはずはない」
「その道理がまちがっていますよ」
 と祐助君はまた意義を申したてた。
「どうして?」
「学校の成績に身分はありません。できるものが上席になるのは当然です」
「それはわかっているよ。わかっていればこそ折り入って校長さんにたのむんだ」
「まあ、お待ちください。これが学期試験だからいいですけれど、学年の進級試験だったらどうします? 照彦様が落第なのにわざわざその次席へもっていってもらえば、正三は及第点を取っていても落第になりますよ」
「その時には落第にしてもらう。殉死じゅんしだ」
「そんなばかなことはありません」
「ばかなこととはいいすぎだよ」
「不合理です」
「お前は思想が過激かげきでいかん」
こまりますなあ、おとうさんには」
「『きみはずかしめらるればしんす』ということさえある。臣が君より上席に坐れば、とりもなおさず臣が君を辱めることになる」
「学問は違いますよ」
「ちがわない」
「ちがいます」
「ちがわないよ」
「おとうさんも兄さんもまあまあ待ってください」
 と正三君は困りきった。
[#改段]

正三君のかけひき






 二学期の試験が近くなったので、花岡伯爵家の学習室は緊張きんちょうしている。しかし若様がたよりも家庭教師たち、家庭教師たちよりも安斉先生が一生懸命だ。若様がたが内証ないしょ話をすると、
「エヘン、エヘンエヘン」
 とくる。それでもだまらないと、
散乱心さんらんしんいましめてえ! 照常様」
 と名をさされるから、皆ビクビクものだ。
 内藤君の方はあさってからで、照彦様の一番おきらいな算術がしょっぱなになる。二人は黒須先生について例題をやっている。内藤君は早い。ほんのおつきあいにひかえているようなものだ。照彦様は考えるふうをして先生の助言を待っているから手間がとれる。
「内藤君、ちょっと学監室へ来てください」
 と安斉先生が折りをみて呼んだ。先生のちょっとは若様がたも恐れている。たいていお説法だ。ほめてくださることはめったにない。内藤君は鉛筆をおいて学監室へお供した。
「さあ」
 と先生は椅子いすをすすめた。
「これで結構です」
「いや、小言ではありません。安心しておかけなさい」
「はあ」
今日きょうはおとうさんがお見えになりましたよ」
「はあ、先刻奥様からも承りました」
 と正三君は腰をおろして膝に手をついた。おとうさんが先生のところへ相談にくることはこの間帰った時のうちあわせだった。
「いろいろと承りました。内藤君、きみは心配事のある時には遠慮えんりょなく私に相談しなければいかん」
「はあ」
「おやしきでご忠義をつくしている間は、私をおとうさんと思ってよろしい」
「はあ」
「こわいかな? 私が」
「いいえ」
「困ることがあったらなんでも私に話してください。少しも遠慮はいりませんよ」
 と安斉先生はニコニコして見せた。たちのわるい顔で笑うとかえってこわくなる。
「はあ」
「しかし内藤君、きみはナカナカ感心なものだ。若様のためによく考えてくれました」
「なんでございますか?」
「試験の成績のことです。おとうさんと相談しました。きみは一番になりなさい」
「はあ。一番なら思いきりさえよければなれますが、あぶないです」
「二番でもよろしい」
「二番は少しむずかしいです」
「三番でもよろしい」
「ビリからですと何番でもかげんがナカナカむずかしいです」
「いや、頭からです」
「ははあ」
「頭から一番になってよろしい。お学友が模範を示す分には少しもさしつかえありません」
「はあ、そうですか」
 と正三君は安斉先生が思いのほかわかっているのに驚いた。
「花岡伯爵家の名誉のために優秀の成績をとってください」
「はあ、できるだけやります。頭からなら三番ぐらいはきっとなれますが、先生……」
「なんですか?」
「僕、ほんとうに困るんです」
「その斟酌しんしゃくはいりません。私から照彦様によく申しあげます」
「けれども照彦様は……」
「なんですか?」
舶来はくらいのを持っていらっしゃいます」
「舶来のなんですか?」
「光っているおトンカチです」
「おトンカチというと?」
 と安斉さんも正三君のおとうさんからそれまでは聞いていなかった。正三君は照彦様の条件をくわしく説明した。
「ははあ、なるほど。きみはそれをご相談にお家へ帰ったんですか?」
 と先生はニコニコにらんだ。
「はあ」
「ハッハハハハ」
「ご本箱のひきだしにしまってあります」
「それは心配いりませんよ。私から照彦様へおさとし申しあげます。そういうことがあったら、いつでも私にお話しください」
「ありがとうございます」
「きみは頭から一番になってよろしい。しかし同時に若様がぜひご及第をなさるように骨を折ってください」
「はあ」
「きみだけ及第して、若様がお落第をあそばすようなことがあると、主従学級がわかれてしまいます」
「はあ。それではお学友が勤まらないことになると思いまして」
 と正三君もそこを案じている。
「いったいどんな具合ですか? このごろのご成績は」
「さあ」
「前学期よりもご勉強のようにお見うけ申しあげていますが、やはりいけませんかな?」
「もう二、三番はお上がりになれましょうかと存じます」
「二、三番と申すと七八番になりますね」
 と安斉先生はビリから勘定してみて、
「上からだといいですがな」
 と嘆息した。
「先生」
「なんですか?」
「僕は若様が今度の試験にせめて五、六番上がってくださらないとご奉公のかいがありません」
「それはごもっともです」
「僕はもう覚悟をしています」
「しかし早まってはなりませんぞ」
「若様が一番でもお下がりになるようなら、僕はもうおいとまをいただいて家へ帰ります」
 と正三君は兄さんと相談してきたのだった。
「ごむりもありません。しかし内藤君」
「はあ」
天道てんどうぜんさいわいあくわざわいす。きみの忠誠は大丈夫天に通じています」
「僕は一つ若様に申しあげたいと思っています」
「なにをですか?」
「もっとご奮発なさるように」
「それは結構です。面従めんじゅうちゅうにあらず。もっとこっちへおよりなさい。はかりごと帷幄いあくの中にめぐらして勝ちを千里の外に決しようではありませんか」
 と安斉先生は真剣になるとむずかしいことをいいだす。
 学習室は安斉先生の姿すがたが見えなくなると同時に調子をおろした。英語をやっていたご長男の照正様は、
「先生、僕、友だちのところへ電話をかけるのを忘れていましたから、ちょっと失礼させていただきます」
 と矢島先生にことわって立っていった。国語をやっていたご次男の照常様は、
「先生、もうここまでで大丈夫です」
 と教科書をとじてしまった。
「それではお作文の宿題を拝見いたしましょう」
「あれは来週の月曜までですから、まだいいんです」
「そうでございますか」
 と有本先生はおだやかだ。照彦様もあたりの形勢を見まわして、
「先生、この問題は内藤君がくるまで待ちましょう」
 と申しいれた。
「おつかれでございましょう。これで七題、だいぶおやりになりましたな」
 と黒須先生も決しておむりをしない。
 照常様は照彦様の方へ遊びにきて、二言三言話す中に、机の上へなにかおいた。
「照彦」
「はあ」
「インキがこぼれているぞ」
「はあ? や大変だ!」
 と照彦様が立ちあがった。
「よろしゅうございます」
 と黒須先生がハンカチを犠牲ぎせいにしようとした時、照常様は、
「かかったかかった」
 とて手をたたいて喜んだ。それはインキつぼが倒れてインキが流れているままをガラスでこしらえたいたずらおもちゃだった。
「なあんだ!」
 と照彦様はくやしがったが、
「よくできているなあ、実に」
 と取り上げてみた。
「こんなものがあるんですかねえ」
 と黒須先生も感心した。
「どれどれ、拝見」
 と有本矢島の両先生も寄ってきた。もうソロソロ中休みの時間だった。
「照彦」
 と照常様が声をひそめた。
「はあ」
「お前は勇気があるか?」
「あります」
「あるなら後から学監室へ行ってそれを安斉先生のお机の上へおいてこい」
「大変です」
「なあに、大丈夫だ。僕の方の松平君はおとうさんのお机の上へおいてきたそうだ」
「そうしてどうしましたか?」
「ほめられたそうだ」
「なんて?」
「りこうな子だって」
「うそですよ」
 と照彦様てるひこさまは信じない。
「まだこんなのがいろいろとあるんだぞ」
「持っていらっしゃる?」
「いや、松平君が持っている。蛇だの蛙のつぶれたんだの犬のふんだの。蛇はおもしろいぞ。おかあさんのお部屋へおこうものなら目をおまわしになる」
 と照常様てるつねさまはいたずらだから人をかつぐことが大好きだ
 ふたたび自習が始まった頃、正三君と照正様が戻ってきた。
「きみ、どうしたんだい? 叱られたのかい?」
 と照彦様がきいた。
「いいえ」
 と答えたとたん、正三君は、
「インキがこぼれています」
 と気がついた。
「かかったかかった」
 と照彦様はうち興じた。
「すいとり紙を持ってきます」
「まだかかっている。ハッハハハハ、これはおもちゃだよ、きみ」
「ははあ」
 と正三君はあきれて手に取って見た。
散乱心さんらんしんいましめてえ。ヘヘヘンのヘン」
 ととなりの机から照常様が安斉先生の声色こわいろを使った。
「エヘン」
 とそこへ本物の安斉さんがはいってきた。学習室はふたたび緊張した。先生はしばらくの間三つの机を見まわっていたが、たちまち、
「黒須君」
 とややせきこんだ。
「はあ」
「おそでにインキがつきます。それそれ!」
「あ、これでしたか」
 と黒須さんは気がついて、
「安斉先生、これはおもちゃでございます」
 と頭をかいた。
「おもちゃ?」
「はあ」
「どれ」
 と安斉先生もかかって見ると好奇心がおこる。手に取ってあらためながら、
「なるほど。念の入ったものですな」
「恐縮です」
 と黒須先生、若様がたの遊び相手をつとめていたようではなはだ具合がわるい。
「なあに、時には座興ざきょうくつろぎになってよろしいです」
「実は私もひっかかったのです」
君子くんしも道をもってすればこれをあざむくをべしとあります。ハッハハハハ」
「先生、僕もひっかかりました」
 と照彦様が主張した。
「それではあなたも君子くんしです。照彦様と存じましたが、これは照常様のおいたずらですか?」
「はあ。わるいことはたいてい僕です」
 と照常様が告白した。
「それはそうと照彦様」
「はあ」
「ちょっと学監室がっかんしつへおいでください」
 といきなり呼びだしをかけた。
 照彦様が立って行った後、
「内藤君、なんだろう?」
 と照常様がきいた。
「さあ、存じません」
「きみは叱られたんじゃないかい?」
「いいえ。いっこう」
「でもずいぶん長かったじゃないか?」
「もうすぐ試験ですから勉強するようにとおっしゃいました」
 と正三君はとりつくろって答えた。
「お兄様、これは順番にまいりますぞ」
「お前がばかなことをするからいけない」
「勉強勉強!」
「今さらあわててもだめだ」
 と照正様は笑っていた。
 照彦様はまもなく戻ってきたが、自習がおわってから、
「内藤君、ちょっときてくれたまえ」
 といって、正三君を自分の部屋へ引っぱりこんだ。
「なにかご用でございますか?」
 とうかがった正三君は照彦様のひたいに青筋の動くのをみとめた。
「これをきみにあげる」
 と照彦様はイライラしながら舶来はくらいのおトンカチを本箱のひきだしから取りだした。
「僕、いりません」
「いや、あげる」
「いりません」
「それじゃあずけておこう。これは叔父様おじさまが西洋からおみやげに持って来てくだすったのだ。まだのこぎりだのかんなだのがあったけれど、なくしてしまった。こんなものがそんなにこわいならきみにあずけるよ」
「…………」
はしほどのことを棒ほどに言うってのはきみのことだ。これはおもちゃだよ。西洋の子供が幼稚園で使うおもちゃだ」
「そうですか」
「安斉先生はおもちゃなら叱らない。さっきだってそうだったろう?」
「はあ」
「僕がおどかしにいったことをいいつけなくてもいいじゃないか?」
「…………」
「僕はきみが一番になってもいい。おこらない」
「そうですか」
「その証拠しょうこにこれをきみにあずける」
「それじゃおあずかりいたします」
 と正三君はおトンカチを受けとった。
「僕はきみのおかげで先生に叱られたよ」
「すみません」
「それをあずけてしまえば文句はあるまい?」
「はあ」
「今までどおり仲よしになってくれるか?」
「はあ。なんでもご用を勤めます」
「よし。うそはつくまいね?」
「はあ。なんでも申しつけてください」
「それじゃ申しつける。いやだというと承知しないぞ」
「決して申しません。なんでございますか?」
「試験の時に手つだってくれ」
「それはむろんいたします。明日あしたから本気になりましょう」
「試験勉強なら君にたのまない。矢島先生も黒須先生もついている」
「むろんご一しょに勉強させていただくのです」
「きみは自分さえよければいいんだね?」
「そんなことはありません」
「それじゃ試験の時に僕に教えてくれ」
「教室でですか?」
「そうさ」
「大変です。若様」
「見つからなければ大丈夫だ」
「見つからなくても不正です」
「しかしやっているものが大勢ある。宮下君や関屋君は僕よりできないけれど、二人ふたりで教えっこをするからいつでも僕よりも上になっている」
「ひとはどうでも、若様はいけません。花岡家の若様がおカンニングを遊ばしてはお家のはじになります。それよりも落第する方がよっぽどいいです」
「これできみの心がわかった」
「なんですか?」
「きみはどうせそうだろうと思っていた。僕に落第させて自分が一番になればいいんだ」
「そんなことはありません。けれども若様」
「もういい。学友は学問の友だちだ」
「学問の友だちでも……」
「ゆけ。もう用はない」
「若様」
「内藤正三位! ばか!」
 と照彦様はすっかりおこってしまった。
 正三君も骨が折れる。このだだっ子をだましすかして及第きゅうだいのできるように計らわなければならない。子供の仕事としては荷が勝っている。祐助さんが案じるのもここだ。しかし都合のいいことに、照彦様は一晩寝ると後悔する。翌朝正三君が、
「お早うございます」
 とあいさつした時、
「お早う」
 ときげんよく答えたばかりか、食事をすませて学校へでかける支度をしながら、
「きみ、これをあげる」
 といって、金のメダルを手のひらへ乗せて出した。これは照正様が運動競技で取ったのをいただいたのだった。
「僕、いりません」
「まあ取ってくれたまえ」
「いいえ、いりません」
 と今度は正三君がすねる番だった。照彦様は昨夜ゆうべむりをいったことを後悔している。しかしあやまるのは残念だから、相手の好きそうなものを提供してごきげんをとるのだった。正三君はそれがわかっている。ほしいけれどかけひきがある。
「きみはまだおこっているのかい?」
「…………」
「なんとかいいたまえ」
「僕はばかです」
「きみ」
「なんですか」
「さあ」
 と照彦様はメダルを正三君の手に押しつけた。
「僕はいやです。カンニングをしたがるような人から物をいただきません」
「きみ、あれは冗談じょうだんだよ。さあ」
「僕は試験前に本気になって勉強しないような人から物をいただきません」
「今夜から一生懸命だ。約束しよう」
「ほんとうですか?」
「うそはいわない」
「僕はもう一つあります。だいじなことがあります」
「なんだい」
「今度の試験で若様が一番でもお下がりになるようなら、僕はお殿様にも奥様にも申しわけがありませんから家へ帰ります。昨夜ゆうべ考えて決心しました」
「内藤君、それはむりだよ。席順ってものは運だもの」
「運じゃありません。ご勉強次第です」
「勉強はするけれども、僕は勉強がへただ。いすわりで堪忍かんにんしてくれたまえ」
「いけません」
「それじゃ一番でも上がればいいのか?」
「はあ」
「よし。一番だけなら上がってみせる。僕は関屋君には負けないつもりだ」
「宮下君はどうです?」
「宮下君にだって本気になれば勝てる」
「それじゃ二番上がってください。ついでです」
「よし」
「大丈夫ですか?」
「うむ。約束する」
「それじゃいただきます。ありがとう」
 と正三君は金のメダルをもらった上にさしあたりの目的を達した。
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試験の成績






 照彦様は約束どおり勉強した。正三君に家へ帰られてしまっては困る。それもあったが、至誠は人を動かす、正三君の真剣さに感じたのである。正三君がまたうまくかじをとる。
「内藤君、ここはどうだろう? 出るだろうか?」
「きっと出ます」
「それじゃもう一ぺんやる」
 と照彦様はおさらいをしなおす。全くの試験勉強だ。
「内藤君、この例題はどうだろう?」
「きっと出ます」
「よし。このへんはできるんだけれど、もう一ぺんやっておく」
 と念を入れる。
「内藤君、僕はここがよくわからない。入院して休んだところだ」
「そこは大事ですよ」
「出るかしら?」
「きっと出ます」
「それじゃ黒須先生にやりなおしてもらおう」
「ご自分でおやりになって、わからないところだけおききになる方がよろしいです」
「しかし初めから皆やってもらう方が早い」
「その一番は出そうな問題です。出たと思って二人ふたりでやってみましょう」
「よし」
「これが二十五点です」
 と正三君は点数のにおいをかがせる。照彦様は華族様かぞくさまでなに不自由のない身分だけれど、点数だけはびんぼうだ。各科総平均六十に足らない。
「できた。できたよ、きみ」
「拝見。二十五点」
「しめしめ」
「つぎも二十五点の問題です。きっと出ますよ、これも」
「いやだよ、きみ」
「なぜですか?」
「一番と二番がつづけさまに出てたまるものか」
「ハッハハハハ」
「きみはなんでもきっと出るというんだもの」
「ハッハハハハ」
「うそをついて勉強させるからいやだ」
「いや、ほんとうです」
「うそをつくのだろう」
「いや、ほんとうがうそ、いや、ほうとうですよ」
「見たまえ」
「ハッハハハハ」
「ずるい奴だ」
「あまり笑ったものだからまちがえたんです」
「とにかく、この二番は出ないよ」
「出ないともかぎりませんよ、もし一番が出なければ」
「一番が出るってきみはいったじゃないか?」
「それは出るかもしれません」
「しれません?」
「はあ。しかし出ないかもしれません」
「なんだい? あやふやじゃないか?」
 と照彦様は不平だ。
「先生ってものはよくばりです。できるだけたくさん教えてできるだけたくさん覚えさせようとします」
「それはわかっている。橋本さんなんか一番ずるい方だ」
「教えたところが五十題あれば、五十題みんな試験に出したいんです。けっして負けてくれません」
「しかしそれじゃ答案が書ききれない。五十題なんて出せば、一つの試験に一週間も二週間もかかる」
「そこです」
「どこだい? だまかすとおトンカチだぞ」
「時間があれば皆出す気ですが、時間がないから、その中四、五題出すんです」
「そんなことはきみに聞かなくてもわかっている。その四題か五題をよくやっておいた奴がとくをするんだ。ほかのをやっていった奴は損をするんだ」
「違います」
「違わない」
「それはりこうなようで猿知恵さるぢえです」
「失敬な!」
「まあ、お聞きください」
「…………」
「五十題みんな覚えている証拠しょうこに、その中から出された四、五題を書くのが試験です」
「…………」
「そうじゃございませんか?」
「…………」
「安斉先生のところへ行ってうかがってみましょうか?」
「いいよ。そんなことをしなくてもいいよ」
「数学はどれでも二十五点だと思って皆やりましょう」
「それじゃ山ってことがない」
「もし山をかけるとすれば、五十題ぜんたいにかけるのがほんとうです」
「そんな大きな山じゃくたびれてしまう」
「くたびれるほどやらなければ点は取れません」
「大変だなあ」
「運動だってあせの出るほどやらなければからだのためになりません」
「それはそうさ」
「勉強だって同じことです」
「きみは変にりくつがじょうずだな」
「二番が二十五点。三番も二十五点です。さあ、ドンドンやりましょう」
 と正三君はもう遠慮をしない。ひきずるようにして準備をさせる。
 数学の試験がすんだ時、照彦様は、
「内藤君、三題半できたよ」
 と大喜びだった。先に運動場へ出て待っていた正三君は一々いちいち吟味ぎんみして、
「お書きになっただけ皆できています。七十点取れたでしょう」
 と判定はんていした。
「ありがたい」
「五番は一番やさしいのですが、いけませんでしたか?」
「書かなかった」
「おやおや」
「あれはやればできたんだけれど、四番でてまをとっている中に時間がなくなってしまった」
「できるのから先にやる方がいいです」
「そうだったね」
 と照彦様は今さらくやしがったが、はげみがついて、
明日あしたはできるのからやるぞ」
 とりきみかえった。
「英語はお得意ですから、八十点以上は取れましょう」
「ぜんたい山をかける」
「早く帰ってそういたしましょう」
 と正三君は如才じょさいない。
 こんな調子で一週間続きの試験がおわって冬休みになった。成績は学校から郵便で通知してくる。照彦様はそれが待ち遠しかった。いつもは成績のことをいうとごきげんをわるくするのだが、今回は十分勉強したから期待がある。
「内藤君、きみはきっと一番だぞ」
 と自分の方から問題にふれた。
「いや、僕はしくじりました」
「僕はきみと約束したぐらい上がれるつもりだが、もしいすわりだったらどうする? きみは帰ってしまうかい?」
「はあ」
「あんなに勉強させておいて、ひどいじゃないか?」
「男子の一ごん金鉄きんてつのごとし」
「安斉先生のまねをするなよ」
精神せいしんとう何事なにごとかならざらん」
「逃げ出す方の精神一到なんか困る」
「いや、若様が精神一到です。今度はきっと上がっていられます」
「僕もそう思うんだけれどもなあ」
「大丈夫です」
 と正三君は保証した。
 休暇になってから三日めの朝だった。二人ふたりがお庭にりてボールをやっているところへ書生の杉山が、
「照彦様、安斉先生がお呼びでございます。内藤君、きみも」
 と探しにきた。照彦様は感心しない。
「なんの用だい?」
 ときいたら、
「存じませんが、お急ぎのようでございました」
 とあった。
「照彦様」
「なんだい?」
「成績が着いたのじゃございませんでしょうか?」
 と正三君がいった。
「そうだ。今日きょうだ」
 と照彦様はたちまち駈けだして、
「杉山、そのバットを持ってこい」
 と叫んだ。しかし杉山は正三君をにらんだ。正三君はバットをかついで照彦様の後を追った。
 安斉先生は学監室の入り口に迎えて、
「若様、ご成績がまいりました。ご勉強のかいがございました」
 とニコニコした。
「何番ですか?」
「二十番でございます。十五番お上がりになりました」
「どれ」
 と照彦様は成績表を受け取って見入った。
「先生」
 と内藤君は安心するとともに自分のが気になった。
「あなたはむろんよろしい。一番です」
 と安斉先生は成績表を渡した。
「内藤万歳!」
 と照彦様は正三君の首にかじりついた。
「若様万歳!」
 と正三君も照彦様を抱きしめた。
「結構でございました」
 と安斉先生は目に涙をためて、
「照彦様」
「はあ」
「内藤君」
「はあ」
「ハッハハハハ」
 といかにも嬉しそうだった。
「僕はこんなに上がるとは思わなかった」
 と照彦様はまた成績表を見つめた。
「ご勉強をなさいましたからな」
 と正三君も満足だった。
「きみはひどいんだもの」
「ハッハハハハ」
「照彦様」
 と安斉先生が呼んだ。
「はあ」
「もし若様がお上がりにならないようなら、内藤君はお家へ帰る覚悟でした」
「僕にもそういっておどかしたんです」
「万一若様がお上がりにならないようなら、私も覚悟がありました。お殿様や奥様へお合わせ申す顔がございません」
「ははあ」
 と照彦様は目をまるくして正三君を見かえった。
「内藤君」
 と安斉先生はつぎに正三君に話しかけた。
「はあ」
「ご苦労でございましたな」
「どういたしまして」
「来年も同じようにお二人ふたりでごゆだんなくご勉強くださいよ」
「はあ」
「お殿様も奥様も至極ご満足でございます」
「はあ」
「ごほうびに動物園へでもお供申しあげましょう?」
「いいえ、結構です」
 と二人ふたりはあわててさえぎったが、
「ハッハハハハ」
 と安斉あんざい先生は冗談じょうだんだった。
「…………」
「よくつとめ、よく遊ぶ。休暇中は十分おくつろぎください」
「はあ」
 と照彦様は正三君に目くばせをした。
「なにかおもしろい思いつきはございませんかな? ごほうびにお殿様へお願い申しあげてとりはからいましょう」
「先生」
「なんでございますか?」
「僕たちは活動を見にゆきたいんです」
「教育映画ですか?」
「いいえ。はあ」
「結構ですな。教育映画のごくためになるところをおやしきへ呼んでやらせましょう」
 と安斉先生は他のものをみとめていない。
「先生」
「なんでございますか?」
「内藤君はスキーをやってみたいといっています」
 と照彦様は正三君をダシに使った。
「運動ですか? 結構ですな。お庭でおやりなさい」
「しかしあれは雪のないところではできません」
「そのうちに降りましょう」
「降っても山へいかないとできません」
「おやしきにはお庭にも裏にも山があります。スキーにボール、弓術にお相撲」
 と安斉先生は万事承知の上で空とぼけている。若様がたをよそへ出すことには反対だ。
 二人ふたりは学監室を辞し去ってまた庭へ下りた。
「二十番。上がりも上がったものだ。内藤君」
 と照彦様は後ろから正三君に組みついた。
「危ないですよ」
「相撲だ」
下駄げたがぬげました」
 と内藤君は芝生しばふの上に坐ってしまった。照彦様は寝ころんで、
「ここで話そう」
「はあ」
「僕は上がってよかったよ。安斉先生はうっかりできない」
「なぜですか?」
「あれは切腹するくせがある」
「まさか」
「いや、お父様がお若くてむやみにお酒を召しあがった時分、すんでのことに切腹しかけたそうだよ」
「ははあ」
 と正三君は驚いた。
「洋行からお帰りになった頃の話だ。僕は富田さんから聞いた。お父様とうさまがお泊まりがけでお酒を飲むものだから、お母様かあさま始め皆で申しあげたが、叱られるばかりさ。一番おしまいに安斉先生がお母様から頼まれたそうだ」
「ははあ」
「お父様のお居間に坐りこんで、お酒をおやめになるとおっしゃるまでは動かないといいだした。安斉さんはお父様にも先生だ。たいていの家来はなぐってしまうが、先生には手が上げられない。安斉さんはそれを知っているものだから、さんざんにいったあげく、これほどまで申しあげてもご承知は願えませんかときいたそうだ。『知らん。下がれ!』とお父様はどなりつけた。すると安斉先生は涙をホロホロこぼして、『この上はつぎの間へさがって大殿様におびを申しあげます』といったそうだ」
「大殿様ご在世の頃でしたか?」
「いや、もうなくなっていられた。つまり切腹の意味さ」
「ははあ」
「安斉先生はつぎの間へさがったが、お父様とうさまは心配になってのぞいてみた。すると大変! 『ご短慮たんりょ、ご短慮』といって、富田さんがおさえている」
「ほんとうにやるつもりだったんですか?」
「いや。もう突きたてていたんだ」
 と照彦様はバットで切腹のまねをして見せながら、
「引きまわせばすぐに死んでしまう。お父様は安斉先生の手にすがりついてお泣きになったそうだ」
「ははあ」
「先生は命を惜しがらないからこわいぞ」
「はあ」
「以来お父様はお酒をあまりしあがらない。きいたんだね」
「切腹されちゃたまりません」
「しかしお母様はナカナカおずるいぞ」
「なぜでございますか?」
「お父様におわるいことがあると、ご自分でおっしゃらずに、安斉先生を呼んでいいつける。僕はきいていたことがあるよ」
「ははあ」
「すると安斉先生がお居間へあがって申しあげる。お父様はなんでも『よろしい。気をつけましょう』とおっしゃるそうだ。切腹がこわいから、けっしてさからわない」
「真剣ですからな」
「僕もさっき胸がドキッとした。僕が上がらなければお父様やお母様に合わせる顔がないから覚悟があったとおっしゃったろう? あれは切腹のことだ」
「まさか」
「いや、ほんとうだ。もう年をとって死にたいところだから危ない」
「それじゃますますご勉強なさらなければなりませんな」
「もう一生懸命だ」
「僕も万一若様がお上がりにならないようなら、今頃はこれです」
 と正三君はバットを取って切腹のまねをした。
「ご短慮たんりょ、ご短慮!」
「はなせはなせ」
「はなさない。十五番上がった」
 と照彦様はまた正三君に抱きついた。二人は犬ころのように芝生しばふの上をころがって歩く。どっちも成績がよかったから、嬉しくて仕方がない。
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学監室の会議






 休暇になっても、安斉先生は相変わらずご精励せいれいだ。朝から学監室にめている。先生のせきばらいがきこえるきこえないでは若様がたの心得がちがう。学監室にこもって経書けいしょを読んでいるのならさしつかえないが、時々出てきて、若様がたのお部屋を見まわる。散らかしておくことが大嫌いの先生だ。
「照常様、おテーブルがだいぶ曲がっておりますぞ」
 といって、すぐに手をかける。
「僕やります」
 と照常様は仕方がない。さっき照彦様と正三君を一たばにして相撲をとったあとだ。
「めずらしいご本がございますな」
 と安斉先生は目ざとい。
「はあ」
「参考書でございますか?」
「いや、小説です」
「お求めになりましたか?」
「いや、松平君から借りてまいりました」
 と照常様はたいていの事を松平君にかずける。
「照正様」
 と今度は照正様のお部屋へはいる。
「はあ。どうぞ」
 と照正様は一番のご年長だけに礼儀を守って、すぐに椅子をすすめる。
「油絵のお稽古でございますか?」
「はあ」
「ご勉強だけに大層ご上達でございますな」
「いや、いっこう」
「ボールでございますか?」
林檎りんごですよ」
「なるほど、お台所のお写生でございますな」
「静物です」
「ははあ。林檎りんごとビールびんでございますね」
 と安斉先生は今さらテーブルの上においてあった実物に気がついた。照正様のは実物と比較ひかくしないとわかりにくい。先生はボールにバットだと思ったのである。もっともひとりで立っているバットなんかあり得ない。先生も絵心がなさすぎる。
「このビンの色がナカナカ出ません」
「それで結構でございましょう。一枚お下げわたし願いたいものでございますな」
「これをさしあげましょうか?」
「いや、いただくとなれば、ご注文がございますぞ」
「そのがくになっているお徳利とっくりはいかがですか? 色がよく出ているとおっしゃって、先生がほめてくださいました」
「もっと勇壮なものがほしいです」
「ははあ」
「人物画はお描きになりませんか?」
「やはり習っています」
「南朝の忠臣楠正成くすのきまさしげはいかがでございましょう?」
武者絵むしゃえは困りますな。油や水彩の方ではあまりやらないようです」
「なるほど。それでは予譲よじょうはいかがでございましょう?」
「はあ?」
おのれを知るもののために死す。しん予譲よじょうです。やはり忠臣の亀鑑きかんです」
「むずかしいです。人物画は写真がなければできません」
 と照正様はもてあました。
「なるほど。少しむりでしょうな」
「先生のお書斎にはやはり静物が向きます」
「お台所のお写生でございますか?」
「台所ってこともありませんけれど」
「花鳥はいかがでございましょう?」
「草花ですか?」
「西洋草花よりも梅にうぐいすというような意味のあるものが結構でございます」
 と安斉先生は日本画の頭でゆくから、むりな注文ばかりする。
「むずかしいです」
「いけませんかな」
「先生」
「なんでございますか?」
「先生を写生したしましょうか?」
「なるほど」
「先生のお顔は静物や草花よりも描きよいです」
「なぜですか?」
「特徴があります」
「それでは一つお願い申しあげましょうか?」
「承知いたしました。明日あしたあたりからとりかかりましょう」
 と照正様はひきうけた。
 安斉先生はつぎに正三君の部屋をのぞいて、
「ここはきれいにかたづいている。感心な子だ」
 と口の中でいった。
「照彦様もきれいにしていられる。内藤が手つだったのだろう。感心な子だ」
 とまた正三君をほめた。もっとも二人ふたりは空気銃を持って裏のお山へいっていた。
 安斉先生は学監室へ戻るとまもなく、電鈴ベルを鳴らした。
「ご用でございますか?」
 と書生の杉山があらわれた。
「先生がたをお呼び申しておくれ」
「皆さんでございますか?」
「うむ。会議を開きますから、十時にお集まりくださいって」
「はあ」
「一ぺんいってごらん」
「会議を開きますから、十時からお集まりください」
「十時にお集まりください」
「十時にお集まりください」
「よろしい」
「はあ」
 と杉山は出ていった。間違いのないようにくりかえさせるのが癖である。
 安斉先生は机にむかって筆を取った。まづ、学監室会議事項としたためて、それから考え考え、
一、休暇中ご補習の件
二、武道ご奨励の件
三、ご遊楽の件
四、お肝試きもだめししの件
 と書きおわった。そこへ杉山がもう帰ってきて、
「黒須先生はおるすでございましたが、有本先生と矢島先生はすぐお見えになります」
 と報告した。花岡家の家庭教師三名はやはりおやしき内に住んでいる。
 時をうつさず、有本さんと矢島さんがうち揃って出頭した。安西老は、
「さあ、どうぞ」
 と迎えて、まん中の大きなテーブルへ進みよった。
「失礼いたします」
 と二人ふたりとも着席した。
「休暇中を朝からご足労かけました」
「どういたしまして」
「実は急に思いつきましてな」
「ははあ」
「当休暇中のご指導方針についてご意見を伺いたいと存じましてな」
 と安西先生は説明を始めた。この二、三日それとなく拝見しているが、若様がたはどうも無為に時間をおすごしになる。ご生活が不規則におちいりやすい。おそばに奉仕するものとしては、このへんを少し考えてみる必要がありはしまいかという要領だった。
「いかがなものでしょうかな?」
「さあ」
 と両先生は首をかしげた。
「ご相談の項目を書きしたためてみました。順次にご意見をうかがいましょう。第一はご補習の件です」
「はあ」
「休暇中一時間でも二時間でも学科をおすすめ申しあげることはいかがなものでしょうかな?」
「さあ」
「ごむりでしょうかな?」
「さあ」
「照彦様だけはとにかく、照正様も照常様もご成績がおよろしくありませんでした」
「しかしご平常でもご予習ご復習をお好みにならないのですから、休暇中は……」
 と有本さんが口ごもった。
「かりにおすすめ申しあげましても、四、五日すればお正月ですから、また……」
 と矢島さんも遠慮がちだった。
「なるほど」
「それよりも新年早々お始めの方がよろしいではなかろうかと存じられます」
「なるほど」
「矢島君のおっしゃるとおり、さしあたりはご自由におまかせ申しあげて、新年からおたがいに努力する方がさくの得たものかと私も存じます」
 と有本さんが賛成した。
「それではご両君のご意見に従いまして、ご補習はあきらめましょう。つぎは武道ご奨励の件です。これはいかがなものでしょうかな?」
 と安斉先生はつぎの問題に移った。
「結構でございますな」
 と今度は二人ふたりとも異議がなかった。相談の結果、一月五日から柔道の寒稽古を始めることにきまった。照彦様と正三君もそれを機会にお弟子入りをするのである。おやしきにはりっぱな道場があって、剣道柔道の両先生が毎週見えるのに、照正様はあまりおやりにならない。照常様が多少柔道にご熱心なだけで、主に家来の息子たちがかわってお稽古を受けている。
「修業ざかりのものが小説を読んでいるようでは仕方ありません」
 と安斉先生はいきをついた。これは照常様のことだった。
「はあ」
「血気さかんなものが油絵を描いているようでは仕方ありません」
「それはそうですけれど、ご趣味の方はまた特別でございましょう」
 と有本さんがちょっと弁解の態度をとった。
「同じご趣味にしても、もっとお大名式のものであってほしいです」
「ははあ」
「油絵は林檎りんご、バナナ、徳利とっくり、ビールびん、皆お台所の写生です。実に平民的なものですな」
「はあ」
「伯爵家のご令嗣れいし八百屋物やおやものや勝手道具をお描きになるのはご品位にかかわりましょう」
「はあ」
「さて、つぎは若様がたご遊楽の件です。これにはいろいろとご意見がございましょう。現に照彦様は活動写真をごらんになりたいとお申しいでになりました」
 と安斉さんは第三項に移った。
「先生」
「承りましょう」
「これは一つご英断にお出になってはいかがでございましょうか?」
 と矢島さんが有本さんと目を見あわせながら提議した。
「いつもそのつもりでおりますが、照正様も照常様も内証ないしょでチョクチョクおでかけになるようです」
「いや、実は……」
「なんですか?」
「むしろ時折りごらんにいれてはいかがなものでしょうか?」
「活動写真をですか?」
「はあ」
「それはまたどういう意味ですか?」
「活動写真は昨今ではもう世界の大勢です。だれでも見るものですから、全くごらんにならないと、ご朋輩ほうばいとのお話におさしつかえはなさりませんでしょうか?」
「しかし会なぞでごらんになりますから、わざわざにもおよびますまい」
「会のは主として教育映画です」
「すると非教育映画をおすすめになりますか?」
「非教育というわけでもありませんが、普通のものにも教育上無害なのがあります」
「どんなものですか?」
「たとえばチャップリンの喜劇です」
「あれはごく無邪気なものですな」
 と有本さんも助太刀に出た。
「あなたもごらんでしたか?」
「はあ」
「教育上有効というご保証がおできですか?」
「さあ。どうでしょうかな? 矢島君」
「単に無害でしょうな」
 と矢島さんもゆきづまった。
「無害でも結構ですよ。単にご遊楽の目的ですから」
「語学の方には風物教授ふうぶつきょうじゅというものがありまして、その足しにはかなりなります」
「風物とは?」
「風俗習慣です。たとえば日本語を習うには日本の生活を多少研究する必要があります。その方が理解が早いです。単に『もちつき』という字を覚えても、餅つきの光景を見ないとどういうことをするのかわかりません」
「なるほど」
「西洋の活動写真には西洋の風物を如実にょじつに見る便益がたしかにあります」
「なるほど。一理ですな。それでは無害有益ということになります」
「さあ。とにかく有害無益ではございますまい」
「ご両君でそういうご保証がおできなら、若様がた年来のご勉強にめんじて、一回だけごらんに入れ申しあげましょうか?」
「かならずお喜びでございましょう」
「それでは最近にご両君でお供を願います」
「先生ご自身もご検分ながらご出馬くだすってはいかがでございましょうか?」
「いや、私はこの年になるまで活動館へはいったことがありませんから、なんならやはりはいらずのままで死にたいと存じます」
「しかし私たちだけではどうも。有本君、いかがでしょうか?」
「さあ。お殿様や奥様のおぼしめしもおありのことでございましょうから、私たちだけではどうも」
 と両先生は今さら恐縮した。
「私がみこんでいます」
「しかし……」
「よろしい。その折り私もお供いたします。若様がたのご教育のために晩節をけがしましょう」
 と安斉先生は活動写真を一回見るにもこのとおりむずかしい。
 そこへ黒須さんが、
「どうも相すみません。ちょっと散髪にいっておりまして」
 といいわけをしながらはいって来た。
「さあ、どうぞ」
 と安斉先生はしょうじて、今までの決議を話した後、
「最後は若様がたお肝試きもだめしの件です」
 といった。
試胆会したんかいでございますか?」
 と黒須さんがきいた。
「そうです。若様がたにかぎらず、この頃の青年はどうも臆病おくびょうでいけません。胆力養成ということが必要です。これはいかがなものでしょうかな?」
「結構でございましょう」
 と一同賛成した。必要だとおっしゃる以上、反対はできない。
「私たちの若い頃は墓地へいってやったものです。子供ながら一刀をさしはさんで、妖怪変化ようかいへんげ出てきたらば斬り捨てんという意気ごみでした」
「あれは実際胆力がすわります」
 と黒須さんは遅参ちさんの申しわけに調子をあわせた。
「あなたもおやりでしたか?」
「郷里で度々やりました」
「今晩は陰暦十一月十六日、夜の十時には月高くお裏山の公孫樹こうそんじゅにかかって、老梟寒飢ろうきょうかんきに鳴く。一じん疾風しっぷう雑木林をわたって、颯々さつさつの声あり。ちょうど手頃でございますぞ」
「ははあ、裏のお山で」
「お山の稲荷神社いなりじんじゃを目的として、若様がたが代わる代わるなにか印の品をおいてまいることに計らいましょう」
「本式ですな」
「ついては黒須君」
「はあ」
「私はあなたのおいでを待っていたのです」
「ははあ」
「一つ大入道おおにゅうどうにばけて若様がたを驚かしてくださいませんか? その五分刈りがまことに結構です」
「悪い役をおおせつかりますな」
「多少変装をなすって、ほこらのあたりを徘徊はいかいしていただきます」
「あすこはちょっと具合がわるいです。昼さえだれも寄りつきません」
「それでは畑のあたりに出没してくだすってもよろしい」
「あすこも淋しいです」
「入道がこわがっちゃいけませんな」
「先生、この役は私ごめんこうむります」
「黒須君、これで美事あなたの試胆会がすみました」
「ごじょうだんでしたか?」
「ハッハハハハ」
「しまった。ハッハハハハ」
「ハッハハハハ」
 と一同大笑いになった。おやしきの裏は山と畑になっていて、夜は用のないところだからいたって淋しい。先生の黒須さんさえこのとおりだ。安斉先生はここで若様がたのお肝試きもだめしをしようというのだ。
 若様がたは休暇にはいってから退屈たいくつで仕方がない。いろいろと計画を立てていたが、皆安斉先生の反対で実行できないことになるのらしい。この日、昼食のおりもその苦情が出た。
「お母様、鉄砲はどうしてもいけないんでございましょうか?」
 と照正様はこの間からのねだりごとをくりかえした。
「来年の五月までお待ちなさい」
「五月になればもう打てません」
「仕方ありませんわ」
丁年未満ていねんみまんでも私の友だちは皆書生の名前で買っています」
「それもゆるさないことじゃございませんが、安斉先生がご承知くださいませんからね」
 とお母様もお殿様同様ご子息のことは万事先生まかせにしている。
「お母様、鉄砲がイヨイヨだめなら、僕はスキーにゆきたいです」
 と照常様が申し出た。
「お父様とうさまに申しあげて、安斉先生にご相談いたしましょう」
「先生はだめですよ」
 と照彦様がいった。
「なぜ?」
 と照常様がきいた。
「僕この間申しあげたんですが、お庭でおやりなさいとおっしゃいました」
「お庭でできるものか」
「それが先生はおわかりにならないんです。雪の降るまで待っていればいいと思うんでしょう」
「なっていないなあ」
「スキーがだめなら、僕は山登りをします」
 と照正様はそれからそれと考えている。
「僕もやります。お母様かあさま
 と照常様もご執心しゅうしんだった。その外いろいろとご註文が出たが、お母様のご返事は、
「安斉先生にご相談申しあげましょう」
 と一々きまっていた。
 食後、お部屋へもどる途中、照正様は、
「照常、これじゃ仕方がないぞ」とおっしゃった。
「安斉先生がいばりすぎます。なんでも安斉先生だ」
「主人を束縛そくばくする。失敬千万だ」
「わからず屋です。時世おくれです。十九世紀です」
「十八世紀の怪物だろう。実際これじゃたまらない」
「叱るばかりです」
「一つ相談をしよう」
「照彦も呼びましょうか?」
「内藤も呼んでやりたまえ。あいつもかわいそうだよ。おだてられて勉強するばかりだ」
「しかし内通するとこまります」
「大丈夫だよ」
「それなら呼んでやりましょう。今朝けさ学監室に会議があったようですな?」
「宿題が出るぞ、きっと」
「そうかもしれませんな。こっちも宿題をやらない会議だ。あんまりむりなことをいうようなら、僕いって本郷ほんごう叔父様おじさまに訴えてやります」
 と照常様も憤慨していた。
 まもなく若様がたと正三君は学習室のストーブを囲んで話しはじめた。
「安斉先生は失敬だ」と照正様が議長になった。
「失敬だ」と照常様が賛成した。
「少し失敬だ」
 と照彦様が学監室の方をみた。
「先生がお見えになります」と正三君が注意した。
「若様がた、おそろいでなにかおもしろいお話がおありですかな?」
 と安斉先生はニコニコしながら学監室から出てきた。
[#改段]

肝試きもだめしの会






「どうぞ」
 と照正様はあわてて立ちあがって、椅子を押しすすめた。皆でよろしからぬおうわさを申しあげていたところだったから工合がわるかった。
「恐れ入ります」
 と安斉先生は会釈えしゃくして、
「ご退屈でございましょう」
 と一同を見まわした。
「はあ」
「それで相談をしているところです」
 と照常様は正直にいった。
「期せずして肝胆かんたん相照らしましたな。若様がた」
「はあ?」
「今晩はおもしろいことがございますぞ」
「なんでございますか? 先生」
 と皆乗り出した。
「試胆会をいたします」
「はあ?」
「若様がたのお肝試きもだめしの会でございます」
「肝試し。ははあ」
「胆力養成会と申しましょうか? 裏のお山でもよおしたいと存じますが、いかがでございますかな?」
「結構でしょう」
 と照正様は賛成して、
「しかしいったいどんなことをするんですか?」
 ときいた。
「夜の十時にお裏山の稲荷神社いなりじんじゃへお一人ずつおでかけを願います。あそこへ硯箱すずりばこと帳面を用意しておきますから、ご参詣の証拠しょうこにお名前をおしたためになってお帰りください」
「それだけでございますか?」
「はあ」
「お安いご用です」
「肝は大ならんことを欲し、心は小ならんことを欲す。後日の物笑いになりませんよう、ご入念におしたためを願います。昔、私の同輩の北村喜二郎と申すものが、郎の字を落として帰りました。喜二郎の郎がなければ、喜二、すなわちキジ、鳥のきじに字音が通じます。そこで雉子きじ雉子きじケンケンおとこを落としたという評判が立ちました。そんなことがあっては武士の名折れでございます」
「承知いたしました。これはちょっとおもしろいです」
「今晩は旧暦によりますと、霜月しもつきの十六日。夜の十時には月高くお裏山の公孫樹こうそんじゅにかかって、老梟寒飢ろうきょうかんきに鳴く。一陣の疾風雑木林を渡って、颯々さつさつの声あり」
 と安斉先生はまた暗唱を始めた。
「先生もおはいりでございますか?」
「はあ。黒須有本矢島の面々もせ参じます」
「月がないといいですな」
「いや、今晩は特別物騒でございますよ」
「なぜですか?」
「若様は昔のお下屋敷時代にきつねたぬきの出たお話をご存じありませんか?」
「それは富田さんから承りました」
「狐狸の類は月明を喜びます。今夜あたりは大入道が出るかもしれません」
「先生、おどかしっこはなしにいたしましょう」
「おこわいですか?」
「そんなことはありませんけれども」
「それではご参詣くださいますね?」
「むろん」
「おえらいですな。照彦様、あなたはいかがでございますか?」
「大入道の一人ひとり二人ふたり、とりひしいでごらんにいれますよ」
 と照常様は力んで見せた。
「おえらいおえらい。照常様は?」
「内藤君、きみはどうする?」
 と照彦様は正三君の手を引っぱった。
「さあ。僕は柔道を知りませんから」
 と内藤君は首をかしげた。
「僕も知らん」
「それに僕はおいなりさまの側でオシッコをしたことがあります」
「僕もあるんだ」
「照彦様、いかがでございますか?」
 と安斉先生がまたきいた。
「内藤君、どうする?」
「若様がおいでになるなら、僕もまいります」
「内藤君がゆくなら、僕もゆきます。こわいことはありません」
 と照彦様はとうとう答えた。
「おえらいおえらい」
「僕も怖くありません」
 と正三君もほめてもらいたかった。
「内藤正三、えらいえらい」
 と安斉先生は大ごきげんで、
「試胆会は勇壮なご遊楽です。早速とりはからいましょう」
 といって立ちかけた。
「先生」
 と照正様が呼び止めた。
「なんでございますか?」
「私は照常と二人ふたりでもっと勇壮なことを計画しております。お母様に申しあげましたら、先生のお許しをお願いなさいということでございました」
「ははあ」
「雪中の日本アルプス征服。考えただけでも血がわきたちます」
「お山登りでございますか?」
「はあ」
「お兄様と二人でこの休暇中にぜひ実行したいと思っています」
 と照常様も言葉をそえた。
「若様がた」
「はあ」
「それはとんでもないご料簡りょうけん違いでございますぞ」
 と安斉先生はむずかしい顔をした。
「なぜでございますか?」
 と照正様は不服らしかった。
「ご身分をお考えあそばしませ。山登りは下司下郎げすげろうのいたすことでございますぞ」
「違います、西洋では名ある貴族が競ってアルプス登山を試みます」
「その西洋人のまねが私は気に入りません。一も西洋、二も西洋、私はどうも気に入りません」
「…………」
「古来山に宿るものは山賊やまがつ山伏やまぶしたぐいにかぎります。豊臣秀吉公や徳川家康公が富士登山をしたという史実がございますか? 大名だいみょう狩座かりくらのほかに山野を跋渉ばっしょういたしません」
「それでは先生、鉄砲をお許しください」
「お殿様にも申しあげましたとおり、若様がたは丁年未満でございます」
「しかし私の友だちは皆書生の名前で鑑札をうけています」
「よそ様はとにかく、花岡伯爵家は花岡伯爵家でございます。おかみおきてにそむくことはできません」
「…………」
「ご登山のことでございますが、第一、私は日本アルプスという言葉が気に入りません」
「ははあ」
「日本の山々には昔からりっぱな日本名がついています。なにを苦しんで西洋名を用いますか? 先年私は名古屋へまいって、日本ラインというところへ案内されました。これがまた気に入りません。木曽川は木曽川でよろしい。日本ラインとはあさましい。私は舟の中で嘔吐おうともよおしました」
「それは先生がお船におよわいからでしょう」
「ハッハハハハ」
 と安斉先生、思いあたるところがあった。
「ハッハハハハ」
 と皆も笑った。品川沖の件である。
「とにかく、若様がた、よくよくお考えください。日本アルプスという西洋名がついてから、山で命を捨てる学生の数が年ごとに多くなりました」
「はあ」
「ていのいい親不孝でございますぞ」
「…………」
「お山登りは一切なりません。一命をしてもおいさめ申しあげます」
「それじゃ仕方ありません。油絵でも描いていましょう」
 と照正様はあきらめるほかなかった。
「若様」
「はあ」
「私は昔、大殿様のお供をして熱海の温泉へまいったことがございます。もう三十何年かになりますが、その折り感心つかまつったことがございますから、ご参考のためにお話し申しあげます」
「ははあ」
「毎日シケが続きまして、お魚がとれませんでした。宿屋では困却こんきゃくのあまり、いわしのめざしを大殿様のご食膳にのぼせました」
「ははあ」
「大殿様はお召しあがりになって、『この小さなさかなはなんと申す?』とお尋ねになりました。『鰯でございます』と私は恐る恐るお答え申しあげました。『実に結構なものじゃの。東京では見たことも聞いたこともない。早速あがない求めて屋敷へ送るがよいぞ』と大殿様がおおせになりました。『は、は、はあはあ』と、平伏した私は感極まって涙が止め度もなく流れました」
「いったいどうなすったんでございますか?」
「大殿様は鰯をご存じなかったのでございます。大大名だいみょうはこうありたいものだと思いました。ところで若様」
「はあ」
「これはなんでございましょう?」
 と安斉先生は学習室の壁にかけてあった照正様の油絵を指さした。
「静物でございます」
「いろいろとまないたの上にのっているようですが、お魚はなんでございましょうか?」
「これはまないたじゃありません。テーブルです。お魚はにしんしたのです」
「ははあ。私は鰯かと存じました」
「こんな幅の広い鰯はございません」
「しかし鰊も鰯も似たり寄ったりの下魚でございます。お大名の存じていてよろしい魚ではありません。若様がこういうものをご熱心にご写生あそばされては、地下のお殿様がお泣きになりましょう」
「先生」
 と照正様はいきごんで、議論をするつもりだったが、また考え直して、
「わかりました」
 と快くうなずいた。
たいうてみやげのうそや汐干狩しおひがり。せめて鯛をお描きください」
「はあ」
下司下郎げすげろうのまねをいたすのが教育ではございません」
「はあ」
「照常様も照彦様もよくよくご身分をお考えください。西洋人のまねをして山登りやスキーをなされずとも、日本には剣道柔道がございます。私たちはこれで体力を養い精神を練ってまいりました。今晩のお肝試きもだめしは日本アルプス以上の効験がございますぞ」
 といましめて、安斉先生は立っていった。
 若様がたはしばらく黙っていたが、照正様がまず、
「つまらん」
 とつぶやいた。
「叱られてしまいました」
 と照常様もがっかりしていた。
「先生はこの頃のことがちっともおわかりにならないから困る」
「お兄様はもっとおっしゃるとよかったんです」
「いや、議論をすれば切腹する。とても仕方ない人だ」
 と照正様はうらめしそうに油絵のにしんを見上げた。
「内藤君、お庭へゆこう」
 と照彦様がさそった。
「はあ」
 と正三君も退屈していたところだからすぐにお供をした。
「きみ、どうする?」
「なんですか?」
「お肝試きもだめしの会さ」
「僕はバットを持ってゆきます」
「僕はおトンカチを持ってゆく。二人ふたりしょなら大丈夫だろう」
一人ひとりずつでしょう」
「いや、僕たちだけは二人さ」
「そんなことはないでしょう。それじゃ二人のお肝試きもだめしになります」
「二人ゆけば二人のお肝試きもだめしさ。それは安斉先生もわかっている。僕はきみがゆけばゆくといったんだもの」
 と照彦様は実際そのつもりだったのかもしれない。
「僕も若様とご一緒なら助かります」
「きみも僕がゆけばゆくといったじゃないか?」
「そうです、ご一緒にまいりましょう」
 と正三君もずるい。都合のいい方の意味にしてしまった。
「けれども大入道が出たらどうしよう?」
「そんなものはいませんよ」
「いや、僕は富田さんからきいた。狐はとにかく、狸はたしかにいる」
「ばけたんですか?」
「うむ。富田さんの兄さんが見たそうだ。電信柱ぐらいあるって」
「たまらないなあ」
「それから、月夜の晩にお山でポンポコポンポコって腹太鼓をたたいていたそうだ」
「いつのことですか?」
「僕たちの生まれない頃のことだけれども」
 と照彦様はおじけづいていた。正三君もこんな話を聞かされると、お肝試きもだめしの会がますます思いになる[#「思いになる」はママ]
 学習室に残った照常様は、
「お兄様、僕はいいことを考えました」
 といった。
「なんだい?」
「今晩の会に一つ安斉先生をおどかしてやりましょう」
「だめだろう。先生は胆力がすわっていられるようだ」
「そこを試してみるんです。こっちばかり試されちゃ損をします」
「どうするんだい? いったい」
「杉山を使います」
「ふうむ」
「あいつに応接間の虎の皮をかぶせます。やぶの中にかくれていていきなり出ることにしたら、いくら安斉先生でもびっくりなさいますぜ」
「なるほど」
「あれは顔があって目が光っています」
「やってみようか」
 と照正様はつりこまれて、杉山を呼んだ。用向きを申しわたして、
「どうだい?」
 ときくと、杉山は、
「やります」
 と大喜びだった。こいつ、安斉先生には始終叱られている。
「しかしまちがえて僕の時出ちゃ困るよ」
 と照常様が念を押した。
「大丈夫です」
「僕の時もいけない。それから照彦や内藤の時も出ると大変だぞ。気絶するかもしれない」
「気をつけます」
「ご褒美に万年筆をやるぞ」
 と照正様はなおおどかし方を詳しく教えた。
 お肝試しの会は大じかけだった。お裏山の道をはき清めて、目的の稲荷神社にはよいの口から高張提灯たかはりぢょうちんがつけてあった。
「それはおもしろかろう」
 とお殿様が奥様ご同伴で学習室へお出ましになった。参詣の順番はくじできめた。
「僕が内藤君のも一しょに引きます」
 と照彦様が手を出した時、
「一人一人お引きください」
 と安斉先生が注文した。
「僕たちは二人です」
「はあ?」
「僕は内藤君がゆけばゆくといいました。ねえ、内藤君」
「はあ」
 と正三君はすましていた。
「この二人は小さいから一緒でよろしゅうございましょう」
 と奥様がおっしゃったので、安斉さんも仕方がなかった。しかし二人はずるいことをした罰で一番にあたった。
「内藤君、きみはふところふくらんでいるが、何を入れているんですか?」
 と黒須先生がとがめた。
「バットです」
「そんなものを持っていっちゃいけません。照彦様あなたも何かおかくしになっていらっしゃいますな」
「おトンカチです」
「いけません」
「黒須さん、この二人は小さいからかわいそうです。持たせてやってください」
 と奥様がまたおっしゃったので、黒須先生も仕方なかった。
 照彦様と正三君は肩をいからしてでかけたが、畑へさしかかった時、手を引きあって歩くことにした。安斉さんの思惑おもわくがはずれて、曇っていたから、そう明るくない。物が朦朧もうろうと大きく見える。
「きみ、きみ」
 と照彦様がたちどまった。
「はあ?」
 と正三君も足がすくんだ。
「あれはなんだろう?」
「さあ」
「動いているぞ」
「杉の木ですよ」
「ああ、そうか。なんだ。きみ、歌を歌いながらゆこう」
 と照彦様が発起ほっきした。しかし長くは続かなかった。
「なんだろう?」
「音がしましたね」
「あ、またした。風だ」
「そうです。大和魂やまとだましいをおこしましょう」
「魂はこんな晩に飛んで歩くそうだぜ」
「いやですよ、そんなことをおっしゃっちゃ」
 坂道にかかってからは提燈ちょうちんが見えたので少し元気が出た。まもなくおいなりさまへたどりついた。二人はそこに用意してあった筆をとって姓名をしたためた。花岡照彦はかくが多いから損だった。内藤正三は少しとくだった。しかしどっちも手がふるえていた。用がすんでしまうと急にこわくなった。坂道が一番さびしい。風のくるたびにやぶがガサガサする。下りきった時、その薮の中で、
「ハクション」
 と虎の杉山がくしゃみをした。二人はボールのようにはねあがった。それから畑の中をいちもくさんに走って帰ってきた[#「帰ってきた」は底本では「帰ったきた」]
「しまった」
 と照彦様がいった。
「どうなさいました?」
「おトンカチをおとしてきた」
だまっていて明日あしたの朝拾ってくればいいです。僕も実はバットがありません。大入道がくしゃみをした時、はなしてしまったんです」
 と正三君もあわてていた。
 有本さん黒須さん矢島さんと妙に先生の番が続いて、そのつぎが照正様だった。杉山が待っているから怖くない。坂道へかかった時、
「杉山」
 と小声で呼んでみた。
「ワーウウウ」
 と杉山はすぐそばやぶの中から答えた。
「ああ、びっくりした。こんなところにいるのかい?」
「はあ。上の方はこわくていけません」
「今度は安斉先生だ。うまくやってくれ」
 と照正様はうちあわせをした。型のごとく姓名をしたためて、帰り道にまた、
「杉山」
「はあ」
「もっと上の方へいっていろよ」
「はあ」
「寒いだろう?」
「かぜをひいたようです。しかしおもしろいです。くしゃみをしたら、黒須先生がひっくりかえりました」
 といいながら、杉山はまたくしゃみをした。
 つぎに安斉先生があらわれた。杉山は帰りに後ろからとびかかるつもりだった。あわててつまずいたところを、
「先生、杉山です」
 と呵々かか大笑してやる。まさかおこりもしまいと考えていた。安斉先生は社頭に着いてから大分手間をとった。皆の署名を吟味ぎんみしていたのだった。やがて下駄げたの音が聞こえはじめた。杉山はやりすごしてから、
「ワーウウウウ」
 とうなりながら先生の肩へ虎の前足をかけた。
 そのとたん、先生がかがんだ。
「エイッ」
 と一声、杉山はしょい投げをくって、がけ伝いに下の畑へ転げ落ちた。
 安斉先生は悠然ゆうぜんとして学習室へもどって、
「でましたよ」と、おっしゃった。
「ははあ」
 と照彦様は先生の顔をじっと見つめた。神色自若しんしょくじじゃくとしていた。
「虎ですよ。ハッハハハハ、がけ下へ投げましたが、あそこにはなにがあるんでしょうか? ドブーン、という音がしました」
「それは大変です」
 と照常様がけだした。照正様も後を追った。
「だれかいないか? 杉山、杉山!」
 と黒須先生も狼狽ろうばいして加勢を呼んだ。
「ハッハハハハ」
「どうなさいました?」
「ハッハハハハハッハハハハ」
 と安斉先生は椅子いすにつかまって笑いくずれた。
[#改段]

昼弁慶






 お肝試きもだめしの会は、書生の杉山が安斉先生にお裏山の畑のこえだめへ投げこまれて、おやしき中の評判になった。損をしたのは伯爵だった。しかしさすがにお殿様だ。
「あの虎の皮は英国のハッチンソン卿から贈られたものだが、不浄ふじょうへ落ちては仕方がない。畑をほってめるがよい。ただし杉山をとがめるなよ、かわいそうじゃ。腕を打った上に、長く臭名を残すことであろう」
 とおっしゃった。
「肩へ手がかかった時、おのれ妖怪ようかいござんなれと、臍下丹田せいかたんでんに満身の力をこめて」
 と安斉先生はお得意だった。同じことを幾度でも話す。
「先生、先生は杉山ってことをご存じじゃございませんでしたか?」
 と照正様は念のためにきいてみた。覚えられているようだと後が恐ろしい。
「いや、いっこう」
「ご老体でもおたしかなものですな」
「そこは昔きたえた関口流です。しかし杉山とわかれば、手荒いことはいたしません。とりおさえて説諭をいたすのでしたろうが、それ、虎と見て石に立つ矢のためしでございます」
「しかしやしき内に虎の出るわけはありません」
「後ろからいきなりかかってきたものですから、何物かわからなかったのです」
 と安斉先生、このへんはなはだ曖昧あいまいだった。
「びっくりなすったでしょう」
 と照正様はそれもたしかめたかった。
「いや、いっこう。おのれ妖怪ござんなれと、臍下丹田せいかたんでんに満身の力をこめて……」
「妖怪の出るはずもありません」
「考えてみるとそうですが、ワーウウウっとうなりながら飛びかかりましたので、人間とは思いませんでした。電光石火、エイッと一声。そこは昔きたえた関口流です。若様、渾身こんしんこれ鉄ですよ」
 と安斉さんは自慢ばかりしている。
 翌朝早々、書生部屋に杉山をおとずれたのは、照正様と照常様だった。杉山は腕をちがえた上に腰をしたたか打った。ゆうべ畑の井戸で行水ぎょうずいを使わされたまま、かつぎこまれてまだ寝ている。むろん医者の手あてを受けた。しかし丈夫な男だから、ほかに異常はない。
「杉山、どうだい?」
 と照正様がきいた。
「お陰さまでえらい目にあいました」
「痛むかい? 腕は」
「はあ。お陰さまで」
「変なことをいうなよ。万年筆を持ってきたぞ」
「いただきます」
 と杉山は痛くない方の手を出した。
「僕は腕時計を持ってきたぞ」
 と照常様は不要の品をはこに入れてきた。
「いりません」
「なぜ?」
「時計はあります」
「それじゃなにをやろうか?」
「なにもいりません。いただきたくておひきうけしたんじゃありません」
「しかしきのどくだ」
「ご同情してくだされば、もうそれでありがたいです」
「杉山、僕と照常が頼んだことをだれにもいわないでくれよ」
 と照正様はそれが心配でやってきたのだった。
「申しません」
「大丈夫だろうね?」
「僕も男です。しかし若様」
「なんだい?」
「虎の皮をあんなことにして申しわけございません」
「あれはかまわない。お父様のだから」
「いや、それですから困るんです。僕はおやしきを追い出されるかもしれません。ゆうべ富田さんに叱られました」
「富田さんがなんといっても大丈夫だ。僕たちがついている。僕たちがお父様にあやまってやる」
「けれども若様、若様がたのおわびがかなわないようなら、僕は申しあげますよ」
「むろんあやまる時は僕たちから申しあげる。けっしてきみに迷惑めいわくはかけない」
「そうですか」
「富田さんがもう一ぺんぐらい叱るかもしれないが、その時いっちゃいけない。ただあやまっていればいいんだ」
「はあ」
「お父様にはわかってもかまわないが、安斉先生に知れると困るんだ」
「わかりました。けっして申しません」
 と杉山は安心したようだった。
「杉山、時計がいらないなら、シャープ鉛筆ペンシルをやろうか?」
 と照常様もなにかやらないと気がすまない。
「いりません」
「困ったね」
「若様、そのかわりお願いがございます」
「なんだい?」
「女中にお小言をおっしゃってください。臭い臭いといって、少しも僕を見てくれません。僕はまだ朝飯前です」
「よしよし。しかしきみは臭いよ、実際」
行水ぎょうずいだけじゃだめです。お風呂ふろを命じてください」
「早速いいつける」
「杉山、実際臭いぞ」
 と照正様は三尺ばかりひきさがっていた。
「自分ではそうは思いません。もう慣れたんでしょう」
 と杉山は臭いもの身知らずだった。
「落ちるにも所がありそうなものだった」
 と照常様が笑った。
「いや、液体だったから、助かったんです。まっさかさまでしたから、地面だったら首の骨をくじいています」
「安斉先生はほんとうにそんなに強いのかい」
「お強いです。力がありますぜ」
「それにしても老人じゃないか? きみがもろすぎたんだろう?」
「ちょうどしょい投げをくうようなかっこうにからだを持っていってしまって、なんとも仕方がなかったんです。エイッといわれた時、もうだめだと思いました」
「関口流だそうだ」
「ヤワラでしょう? 柔道なら負けないんですが」
「ヤワラも柔道も同じだよ」
「ハッハハハハ」
「先生はきみだってことを知っていたんじゃなかろうか」
「なんともわかりませんな。僕はゆうべはむやみにくしゃみが出ましたから」
「ふうむ」
「先生はなんとおっしゃっていましたか?」
「おのれ妖怪ござんなれ」
「それじゃ大丈夫でしょう」
「杉山、臭くて仕方がないから、もうゆくぞ。大事にしたまえ」
「ありがとうございました」
「二、三日寝ていればなおるだろう」
「はあ。もう歩けます」
「杉山、また見にくる。食事は命じておくから、自分でお台所へゆくなよ」
 と照正様は注意をあたえる必要をみとめた。杉山はそれほど異臭をはなっていたのである。
 若様がたは書生部屋を出るとまもなく、女中が食事を運んでくるのに会った。
「お藤」
 と照常様が呼びとめた。
「はあ」
「杉山をお風呂に入れてやれ」
「若様」
「なんだ?」
「杉山さんは当分おやしきのお風呂に入れないことに皆で申し合わせました。とてもだめでございます」
 とお藤は顔をしかめた。
「きたないからか?」
「はあ。富田さんにもご相談申しあげて、民間のお風呂へやります」
「どこの?」
「お銭湯でございます」
「なるほど。お前たちは知恵がある」
 と照常様は感心した。
 つぎに書生部屋を見まったのは照彦様と正三君だった。二人は杉山が虎にばけた事情を知らない。一存でやったと信じている。
「杉山、ひどい目にあったね」
 と照彦様がなぐさめた。
「なあに」
「きみは口ばかりだ。よわい」
「なあに」
「安斉先生は年よりでも、関口流を知っていられるからお強い」
「なあに。本気になれば先生ぐらいに負けやしません」
「うそん気でけがをするわけはないよ」
「虎ですから、柔道の手が使えません。かみつこうと思っている中に不覚をとったんです」
 と杉山はうそをついた。
「エイッと一声か?」
「はあ」
「ズデン、ドウとがけの下へか?」
「はあ。年よりに花を持たせました」
「なんだか臭いね、この部屋は」
「杉山さんですよ」
 と正三君がいった。
「臭い。もうゆこう」
「杉山さん、どうぞ大事に」
「内藤君」
 と杉山すぎやまびとめた。
「はあ」
「きみは臆病者おくびょうものだぞ」
「そんなことはありません」
「僕がやぶの中でくしゃみをしたら、バットを捨てて逃げだしたじゃないか?」
「はあ」
 と正三君しょうぞうくんは頭をかいた。
「あれは薮の中にかくしてある。若様」
「なんだい?」
「若様もけっしてお強くありませんぜ」
「困ったな」
「おトンカチをおとしていちもくさん」
「もういいよ」
「あれもかくしてあります。僕の悪口をおっしゃると、あのおトンカチとバットを出しますよ」
「ごめんだごめんだ。杉山君、お大事に」
「杉山さん、どうぞお大事に」
 と二人ふたりは早速逃げてきた。
「内藤君」
「なんですか?」
「臭かったね。杉山はまだこやしがついているんだ」
「洗ったけれどしみこんでいるんでしょう」
「大きくなるかしら?」
「はあ」
「からだがさ。こやしがきいて」
「ハッハハハハ」
「ハッハハハハ」
 と同情がない。杉山は照正様と照常様には忠義だけれど、照彦様をあなどる風がある。正三君にいたっては眼中にない。二人はそれを知っているのだった。
「若様」
 と正三君は不安そうな顔をした。
「なんだい」
「お肝試きもだめしの会で安斉先生にほめられましたけれど、杉山君がバットやおトンカチのことを話すと困りますね」
「僕もそれを考えていたところだ。あいつはきっとしゃべる」
「仕方ありません。ほんとうは臆病おくびょうなんですから」
「僕かい?」
「二人とも」
「失敬だね。僕はきみほどふるえなかった」
「若様が僕の手をにぎっておふるえになったものだから、僕もふるえたんです」
「いや、きみがブルブルふるえたものだから、僕もふるえたんだよ」
 と照彦様は水かけ論をはじめた。
「それじゃ僕だけ臆病おくびょうでもいいです」
「僕もすこし臆病さ。夜だもの。それならいいだろう?」
「はあ」
「ところで僕はいい法を知っている」
「なんですか?」
「杉山が寝ている中に探して持ってきてしまうんだ。証拠しょうこがなければ、なんといわれても大丈夫だろう」
「しかしうそはつけませんよ」
「なあに。僕たちがバットとおトンカチをなくしてきたことを皆知らなかったもの」
「とにかく、探してまいりましょう。もったいないです」
「すぐゆこう」
「はあ」
 と正三君はお供した。
 おトンカチとバットはやぶの中にあった。杉山もこわくて奥へはいらなかったから、探すのにめんどうがなかった。
「これで安心だ。おのれ妖怪ござんなれ」
 と照彦様はおトンカチをふりあげた。
「おのれ妖怪ござんなれ」
 と正三君もバットをふりあげた。
「ハッハハハ」
「ハッハハハ」
「杉山の投げられたところはどこだろう?」
「もっと上でしょう」
「いってみよう」
「おのれ妖怪」
「おのれ妖怪」
「このへんでしょう?」
「そうだ。この真下にあれがあるんだ。ハッハハハ」
「危ないことでした」
「関口流の大先生をおどかすなんて、杉山はばかだよ」
「あんまりりこうじゃないようです」
「おのれ妖怪ござんなれ。エイッ!」
「おのれ妖怪ござんなれ。エイッ!」
 と二人はまたふりあげてりきみかえる。昼間だからむやみに強い。
 翌々日、正三君は暮れから正月の三ガ日へかけて、久しぶりで家へ帰ることになった。実は試験がすんで、冬休みになり次第と思っていたのだが、照彦様がはなさない。もう一日もう一日とひき止める。
「照彦や、わがままもいいかげんになさいよ。内藤さんのお父様お母様は私をどんなにか勝手な人だろうと思って、きっとうらんでいらっしゃいますわ」
 とお母様がおっしゃった。照彦様はようやく納得なっとくして、
「それじゃ内藤君、お乳を飲んできたまえ」
 といった。
「はあ」
「飲みすぎると赤ん坊になってしまうから、四日に帰ってきたまえ」
「はあ」
 と正三君は争わない。なんといわれても帰られればいいと思っていた。
「きっとだよ」
「はあ。元日にはお年賀にまいります」
「うむ。待っている」
「四日の朝早く帰ってまいります」
「そうしてくれたまえ。お母様、僕、今日内藤君のところまで送ってゆきます」
「それもよろしいでしょう」
 とお母様はお許しくだすった。内藤君はご機嫌のかわらない中にと思って、すぐに支度をしてしまった。
 その昼すぎに、正三君と照彦様を乗せた伯爵家の自動車が内藤家の門前に止まった。
「お帰り!」と運転手が景気よく叫んだ。
「まあまあ、正三。まあ、若様、まあまあまあまあ」
 とお母様は驚いた。運転手は玄関へおみやげを山のように積み上げた。姉さんたちが出てきてウロウロする。忠義一図の一家だから、おやしきという声がかかると大変だ。
「若様、どうぞおあがりください」
 と正三君は学友から接待役に早がわりをした。照彦様はすぐ帰るつもりだったが、やはり別れがつらい。
「それじゃ待っていておくれ」
 と運転手に命じて、客間へ通った。
「これはこれは。ようこそおこしくださいました」
 とお母さんは平身低頭して、
「あいにくと主人も長男も不在でございますから、かわって申しあげます。正三が長々お世話に相なりまして……」
 とご挨拶を申しあげる。
「僕がお世話になりました」
「どうつかまつりまして、わがままものでございますから……」
「僕がわがままものです」
「今日はまたお頂戴物をつかまつりまして……」
「それは僕、知りません」
 と照彦様はまっかになって一々答弁した。それからおかあさんがひきさがった後、
「内藤君、僕はもうすぐに帰るんだから、少し遊ぼう」
 と向きなおった。
「どうぞごゆっくり」
「いや、実はきみに内証ないしょ話があるんだから、ここはいけない。きみの部屋があるだろう?」
「兄さんの部屋があります」
「そこへつれていってくれたまえ」
「はあ。ちょっとお待ちください」
 と正三君は立っていって、お母さんに相談した。
「それじゃ祐助ゆうすけの部屋へご案内申しあげなさい」
「お母さんや姉さんは来ない方がいいです。若様はよそへおいでになったことがありませんから、恥ずかしいんです」
「でもお茶ぐらいさしあげなければ」
「いけません」
「なぜさ?」
「そんなものをさしあげれば、すぐにお帰りになります」
 とうちあわせて、照彦様を祐助君ゆうすけくんの書斎へ通した。
「机が二つあるね」
 と照彦様は見くらべた。
「一つは僕のです」
「内藤君、僕はこんなことだろうと思ったから、ついてきたんだよ」
「なんでございますか?」
「きみは兄さんと手紙で相談して、もうやしきへ帰らないつもりできただろう?」
「そんなことはありません」
「でも、いもしないきみの机がチャンとおいてある。座ぶとんまであるじゃないか?」
「若様、これは兄さんがわざとこうしておくんです。僕がいなくてさびしいからです」
「でも、おとなじゃないか?」
「おとなでも僕をかわいがってくれるからです。僕がこの部屋にいるつもりで、夜なんか時々、『正三』ってんでみるそうです」
「ふうむ」
「兄さんは始終僕のことを考えていてくれます」
 と正三君はうつむいた。
「いい兄さんだ」
「はあ。今に帰ってきたら喜びましょう!」
「…………」
「若様」
「…………」
「どうなさいました?」
「ここが痛い」
 と照彦様はこぶしのどをたたいた。
「どうなすったんでしょう?」
ぼく、わるかった」
「なんでございますか?」
「きみを打ったりしたのはわるかった」
「あんなことはもういいです」
「僕は今きみのお母さんの顔を見た時、きみを大事にしなくてわるかったと思った」
「若様……」
 と今度は正三君の喉がつまってきた。
「内藤君、僕はもうわがままをいわない。そのかわりきっと帰ってきてくれたまえよ」
「はあ」
「大丈夫か?」
「はあ」
「それじゃゲンマンをして帰る」
「まだよろしいです」
「いや、もう帰る。元日にきたまえ」
「はあ」
「一日遊ぼう」
「はあ」
「四日の朝、僕が迎えにくる」
「それにはおよびません」
「いや、くる。さあ、ゲンマン」
「はあ」
[#改段]

一家団欒だんらん






 正三君は三度めの帰宅だった。今までは一晩泊まりだったが、今度は暮れの二十八日から正月の四日までだから、ゆっくりおちつける。お父さんお母さんはむろんのこと、兄さんや姉さんたちまでお客さんあつかいにしてくれる。ことに第一日の晩は、
「正三」
「正三や」
「正ちゃん、正ちゃん」
 と皆にとりまかれて、家庭の中心になった。
「正三正ちゃんて、まるで正三を売りに来たようだね」
 と笑った祐助兄ゆうすけにいさんも、
「おい、正三」
 とすぐその後からいって、
「それごらんなさい。兄さんだって」
 と妹たち、すなわち正三君の姉さんたちに笑われた。
「正三や、お前なにかほしいものはないかい?」
 とお父さんがきいた。
「ありません」
「学校道具でも買ってやろうか?」
「いいです」
「なにか買ってやりたいんだが、考えてごらん」
「なにもありません」
「なにかあるだろう?」
「ほんとうになにもないんです」
 と正三君は首をふるばかりだった。
「あなた、それはあなたがごむりですわ」
 とお母さんが口を出した。
「正三、なにか考えてみろ」
 とおとうさんは買ってやりたい一心だった。
「わからない人ね、あなたも」
「なぜ?」
「おやしきで若様と同じにしてくださるんですもの、なんの不足があるものですか」
 とお母さんはお父さんの心得こころえ違いをさとした。
「いいわね、正ちゃんは」
 と君子姉さんがうらやましがる。
「正ちゃん、なんでも若様と同じ?」
 と貴子姉たかこねえさんは感きわまったような声だった。
「ええ」
「大したものね、お学友は」
「ただのご奉公じゃないのよ。客分ですわ」
 と君子姉さんが主張する。
「正三や、お前なにかたべたいものはない?」
 とお母さんがきいた。
「ありません」
「なにかあるでしょう? なんでもこしらえてあげますよ」
「いいです」
「お貞や、それはお前がわからず屋だ」
 とお父さんがいった。
「なぜでございますか?」
「正三は毎日おやしきで若様と同じご馳走ちそうをいただいているんだもの、なんの不足があるものか」
「あらまあ、仇討かたきうち? オホホホホ」
 とおかあさんはかえって大喜びだった。
「正ちゃん、おやしきにはご馳走があるんでしょうね?」
 と貴子さんもニコニコした。
「あります」
「どんなご馳走?」
「朝と昼は日本食です。晩は洋食です」
「晩はお殿様もご一しょですってね?」
「ええ」
「いく皿ぐらい出て?」
「いやしいことをきくな」
 と裕助兄ゆうすけにいさんが叱りつけた。
「いいじゃございませんか?」
「お前たちはおやしきというと目の色を変えるから滑稽だよ」
「ご恩になっているおやしきですもの。正ちゃん、いく皿?」
 と貴子さんは強情だ。
「三皿か四皿です。僕はいつでもたべきれません」
「大したものね」
「しかしご馳走ばかりたべているといけません」
「なぜ?」
「あまり贅沢ぜいたくになって考えがまちがってきます」
「ご馳走をありがたいと思いませんの?」
「それもありますが、照常様は試験の時に大まちがいをなさいました」
「どんな?」
「日本人の副食物という問題にお米のことを書いてきて、『今日きょうの試験は大あたりだ』っていばっていられました」
「どういうわけ? お米は主要食物じゃありませんか?」
「それがおわかりにならないんです。お料理ばかりめしあがって、ご飯をほんの少ししかいただきませんから、お米を副食物だと思っていられたのです」
「やっぱり大したものね、伯爵家の若様は」
「ばかだね、ちっと」
 と祐助君ゆうすけくんが遠慮のないところをいった。
「これ、祐助」
 とお父さんがとがめた。
「なんですか?」
「ばかだなんてご無礼だぞ」
「でも常識をかいています」
「いや、若様がたは鷹揚おうようにわたらせられるんだ」
「程度問題ですよ」
「若様がたは始終皆にヘイヘイされていますから、どうしても鷹揚です。それで時おり常識をかいているように見えることもおありです」
 と正三君は如才じょさいない。お父さんの説と兄さんの説を両立させた。
「お育ちが違うから、どうしたって鷹揚おうようにおなりあそばす」
 とお父さんはなお主張したが、祐助君ゆうすけくんはもう黙っていた。
「そのかわりお心持ちはりっぱなものです。僕がそばできいていて、見す見すおせじだと思うようなことまでほんとうにしてしまいます」
「ご自分のお心がおきれいだから、人を疑うことをご存知ないんだ」
「全くそうです。人がわるい考えを持っているなんてことはちっともお思いになりません」
「あまりお人がらがよすぎても困るね。皆おベッカを使うだろう」
「はあ、思うとおりおっしゃるのは安斉先生だけです」
「先生はえらい」
「この間の試験の時、照正様は『僕は数学が百点で英語が九十点の夢を見た』とおっしゃいました。すると矢島先生は『それは結構なお夢でございます』と申しあげました。これなんか見えすいたおせじです」
「なるほど」
「しかし安斉先生はニヤニヤお笑いになって、『若様、夢は逆夢さかゆめと申しますから、アベコベにならないようにお気をつけなさいませ』とご注意を申しあげました」
「さすがは先生だ」
「ところが照正様はその意味がおわかりにならないんです。『アベコベなら数学が九十点で英語が百点でしょう。いいじゃありませんか?』とおっしゃって平気でした。僕はおかしかったです」
「安斉先生はなんとおっしゃった?」
君子くんしの心境をお持ちでございますなと感心していらっしゃいました」
「そんなことを感心するようじゃ安斉先生も少し変だぜ」
 と祐助君ゆうすけくんがまた始めた。
「いいえ、安斉先生は別にお考えがおありなんです」
「どういう?」
「ご令嗣様れいしさまというものは鷹揚おうようでなければいけないと思っていらっしゃるんです。それですから、照正様が点数のことなんかお話しになると、苦い顔をなすって、『若様、ご自分のお書きになったご答案には必ず百点がつくものとお信じになれば、それでもうよろしい』とおっしゃいます」
「しかし零点れいてんがついたらどうする?」
「零点がついたら、零点でよろしいとおっしゃいます」
「零点なら落第するよ」
「落第したら、落第でよろしいとおっしゃいます」
「なんでもよろしいんだね。どうせだめだと思っているんだろう?」
「そうでもないようですけれど」
 と正三君もこのへんはハッキリしていない。
 それからそれとおやしきの話がつづくうちに、
「正三や、元日にはお年賀にあがるんだろう?」
 とお父さんがきいた。
「はあ」
「わしと一しょにあがろう」
「お父さん」
「なんだい?」
「僕、ほしいものがあります。一つ考えつきました」
「買ってやる。いってごらん」
名刺めいしをこしらえていただきたいんです」
「お安いご用だよ」
「照彦様にごらんに入れて、びっくりさせてやるんです」
「若様はおこしらえにならないのかい?」
「はあ、考えていらっしゃらないようですから、出しぬいてやるんです」
「よしよし。早速あつらえてやるよ」
「どうぞ願います。安斉先生やその他の先生のところへもうかがいます。富田さんにもずいぶんお世話になっています。なんならおやしきに住んでいる方々のところをすっかり廻りたいと思っています」
 と正三君はいい心がけだった。
 祐助君ゆうすけくんは正三君のしっかりした態度に安心した。おやしきずれがして、おベッカ使いになりはしまいかと案じていたが、いろいろと話してみると、ごく天真爛漫てんしんらんまんにやっていることがわかったのである。
「お父さん、正三もこのあんばいなら大丈夫でしょう」
 と満足の意を表した。
「初めから大丈夫さ。おやしきへあがっていればまちがいない」
「お殿様がわかったお方ですから、このままおまかせしてもさしつかえありますまい」
「お殿様は代々明君さ」
「奥様もご聡明そうめいなお方らしいです」
「奥様は婦人の亀鑑きかんさ」
「それに安斉先生がよく正三の立場を理解してくださるからありがたいです」
「安斉先生は昔なら佐久間象山さくましょうざんぐらいの[#「佐久間象山ぐらいの」は底本では「佐々間象山ぐらいの」]大人物さ」
 とお父さんはもとより申し分なかった。忠義一の昔かたぎだからおやしきにわるいことがあろうとは信じられない。
 大晦日おおみそかの前の晩に、祐助君ゆうすけくんは、
「正三、おやしきにいると、夜出歩くことはないだろう?」
「ありません」
「それじゃ久しぶりで銀座へつれていってやろうか」
 と申しでた。
「お供いたします」
 と正三君はすぐ立ちあがった。祐助兄ゆうすけにいさんは急所を知っている。昨日きのうは近所の活動へつれていって労をなぐさめてくれた。
 年の暮れの銀座はことににぎやかだ、兄弟は人浪ひとなみに押されながら歩いた。
「これじゃたまらない」
「しかしおもしろいです」
「若様がたは銀ブラをなさらないのかい?」
 銀座をブラブラ散歩するから銀ブラである。
「照正様と照常様は時々土曜の晩にお出でになるらしいです」
「照彦様とお前はだめだね?」
「はあ」
「銀ブラもこれじゃ骨が折れる」
「ずいぶんこみます」
「寒いだろう?」
「そうでもありません」
「なにか温かいものを飲もう」
 と祐助君ゆうすけくんは正三君を資生堂しせいどうへつれこんで、ホット・ケーキと紅茶をご馳走した。ここもこんでいた。客がドンドンはいってくる。婦人が少年をつれて、
「だめよ。坐るところがないわ」
 といいながら、祐助君ゆうすけくん卓子テーブルに近づいた。
「やあ、内藤君」
 と少年が呼んだ。
「やあ、堀口君」
 と正三君が伸びあがった。
「おかけください」
 と祐助君ゆうすけくんいていた椅子いすを指さした。
「恐れいります」
 と婦人は会釈えしゃくして腰をおろした。
「お母さん、これは同級の内藤正三君という秀才です」
 と堀口生が紹介した。
「それはそれは」
「僕と喧嘩をした内藤正三君です。お母さんからもあやまってください」
「きみ、きみ」
 と正三君は困った。
「ここで会うとは思わなかったよ」
「僕も」
「花岡さんは一しょじゃないの?」
「僕は休みになってから家へ帰っている」
「そうかい? これはしまった」
「なんだい?」
「僕はきみのところへ年賀状を出したんだよ、花岡伯爵様方として出しちゃった」
「それでいいんだよ、元日にお年賀にあがるから」
「きみも僕のところへ年賀状を出してくれないか?」
「出すよ」
「僕のところは麹町こうじまち三丁目三番地だ。明日あした出せば元日に着く」
 と堀口生は熱心にいった。
「三の三だね。覚えている」
「きみからもらえれば嬉しいんだ」
「きっと出すよ」
「僕は五十枚刷って皆のところへ出した。改心の年賀状だ」
「もう仲よくしようね」
「僕はもうすっかり後悔こうかいした」
「そんな話はもういいよ」
「きみ今度一番だってね?」
「なあに」
「やっぱりえらいや。僕はビリ一番だぜ」
「きみ」
「なんだい?」
「きこえるよ」
「かまわないよ。改心しても勉強しなければだめだ。来年から大いにやる」
「ぜひやりたまえ」
「僕はお母さんと二人ふたりきりだ」
「そうだってね」
「僕が不良になればお母さんが死ぬ」
「きみ」
 と正三君はもてあました。
 まもなく祐助君ゆうすけくんは、
「それではお先に失礼いたします」
 といって立ちあがった。
「それじゃ堀口君、さよなら」
 と正三君もつづいた。外は例によって雑踏ざっとうしている。電車に乗ってから、祐助君は、
「あれだね? 不良は?」
 と話しかけた。
「ええ。しかしもう改心したんです」
「お母さんがかわいそうだ」
「はあ」
「お前とあの子と話をしている間に、お母さんはホロリと涙をこぼしたよ。おれはなんともいえないきのどくな心持ちになった」
「お母さんがなんとか兄さんにおっしゃったようでしたね?」
「うむ。今までは友だちがわるかったんだそうだ。お前によく頼んでくれっていっていた」
「僕、これから堀口君と仲よくしてやります」
「力になってやれよ。人助けだ」
「はあ」
 と正三君は堀口生のしおらしい態度が身にしみていた。
 翌日は大晦日おおみそかで家中忙しかった。
 大学生の祐助君は朝から障子しょうじを張りはじめた。正三君も手つだって玄関のをはがしているところへ、
「ごめんください」
 といって、婦人客がはいってきた。見おぼえがあるように思ったのも道理、
「内藤さん、昨夜は失礼申しあげました」
 と会釈えしゃくした。堀口生のお母さんだった。正三君は奥へかけていって、
「お母さん、ゆうべお話し申しあげた堀口って子のお母さんが見えましたよ」
 ととりついだ。
「まあ!」
「どうしたんでしょう」
「さあ」
 とお母さんは小首をかしげたが、すぐに挨拶に出て用むきをうかがったら、
「実ははなはだ申しかねますが、せがれのことについて折り入って坊ちゃんにお願い申しあげたいと存じまして……」
 とあった。
「まあ、どうぞおあがりくださいませ。とり散らかしておりますけれど」
 とお母さんはしょうじる外なかった。
「おしつまってお邪魔じゃまでございましょうが、ほんのしばらく」
 と堀口生のお母さんは恐縮しながら客間へ通った。
 まもなくお母さんが、
「正三や、ちょっときておくれ」
 と呼んだ。正三君は客間へはいっていって、おじぎをした。
「内藤さん、あなたにも花岡さんにもゆたかがひとかたならぬごめいわくをかけまして、なんとも申しわけございません」
「そんなこともういいんです」
「ゆうべあれから家へ帰って、今までのことをいろいろとうちあけまして、ついては私からおわびを申しあげた上に、よろしくお頼み申しあげてくれ、としきりに申しますので、ごむりなお願いにあがりました」
 と堀口生のお母さんはくわしく話しはじめた。女だから愚痴ぐちがまじって長かったが、要するに堀口生は改心したけれど、この上成績がわるいとまたやけになるから、なんとか一つ力になってもらいたいというのだった。
「僕、なんとも仕方ありません」
 と正三君は照彦様一人でも手にあましている。
「ただうちとけてご交際しくださればよろしいのでございます」
「それはいたします」
「私、ゆたかの成績について橋本先生のところへうかがいましたが、あなたのようなお方とご懇意こんいに願ってさえいれば、自然いい方へむきましょうとおっしゃいました」
「そんなことはありません」
「いいえ、花岡さんは今度十五番もお上がりになったそうでございます。皆あなたのお力だと橋本先生がおっしゃいました」
「正三や、お前勉強の仕方を教えてあげたらどう?」
 とおかあさんは得意だった。
「僕、そんなことができるものですか。友だちですもの」
「ご交際をしていただく間に自然いい感化をうけますから、どうぞ一つ力になってやって……」
 と堀口生のお母さんは子を思う一心で、しきりに頼みこむ。
「それはきっといたします。よくご勉強なさるようにも折りを見て申しあげます」
「どうぞね」
「はあ」と正三君がとうとうひきうけたので、堀口生のお母さんは喜んで帰っていった。
祐助ゆうすけや、家の正三はえらいものね」
 とお母さんはいきをつきながら一部始終を話した。
「結構ですな」
「成績の神様ね」
「ハッハハハ」
「でも、華族様からも平民からも頼みにくるじゃないの?」
「そんなにほめると、ダンダンばかになってしまいますよ」
 と祐助君は笑いながら障子しょうじをはりつづけた。
[#改段]

明るい年頭






 元日の朝、正三君はおやしきの内玄関へ上がるとすぐに、照彦様のお部屋へ急いだ。廊下で家令の富田さんに会ったので、年頭の礼を申しのべた。それから周囲を見まわしながら、
「照彦様」
 といきなりふすまをあけてのぞいたとき、
「おめでとう!」
 と叫んで、照彦様が内から突進したものだから、鉢合はちあわせになった。
「痛い!」
「おめでとう!」
「新年おめでとうございます」
「僕が勝った」
「今年も相かわらずお願い申しあげます」
「ああ、相かわらず。きみ、僕が勝った」
「若様はおずるいです。かくれていらっしゃるんですもの」
 と正三君は不服だった。西洋では新年の挨拶は早くいいだした方が礼節上の勝利者になる。その話を英語の先生の矢島さんから聞いて、二人ふたりともひそかに心がけていたのだった。
「ハッハハハ。僕は鼻をった」
「私は口です。それだからいいおくれたんです」
「僕は先にきみを見つけた。きみが廊下で富田さんと話していたとき、しめたと思ってかくれたんだ」
 と照彦様は得意だった。
「僕は学習室の方ばかり用心していたんです」
「うれしいなあ。元日早々勝っちゃった」
「しかし若様は新年とおっしゃらなかったです。ただおめでとうじゃなんのことかわかりません」
「それは、きみ、ずるいよ。元日におめでとうといえば、新年のことはわかっている」
「それじゃこれは僕の負けとしておきましょう」
「あたりまえさ。僕の方は先に二度もいっているんだもの。きみ、相かわらず頼むよ」
「どうぞよろしく」
 と正三君はニコニコしながら、ふところへ手を入れて、
「若様、手前はこういうものでございます。ヘッヘヘ」
 と名刺めいしを取り出した。
「どっこい」
 と照彦様てるひこさまは飛びのいて、グルリとまわったと思うと、
「僕もこういうものだよ。ハッハハハ」
 とやはり名刺をつきつけた。
「おやおや」
「きみもこしらえたのかい?」
「はあ。若様にごらんにいれて、うらやましがらせてさしあげるつもりでした」
「その手は食わない。僕こそきみがこしらえるといけないと思って、わざと黙っていたんだ」
「どうもおずるいですな、若様は」
「きみだってぬけめがないよ」
「ハッハハハ」
「ハッハハハ」
 と二人は名刺を交換した。この年頃はなんでもおとなのまねがしてみたい。
「若様のは金縁きんぶちですな」
「うむ。それから裏を見たまえ。エヘン」
「ははあ。ローマ字ですね」
 と正三君は感心して、
「これは僕が負けました」
 といった。
「なあに、アイコだよ」
「でも僕のはくらべものになりません」
「いや、きみのは肩書がついている。やっぱり学校のことを忘れないからええらい」
 と照彦様は数日わかれていたなつかしさが手つだって、極上ごくじょうのごきげんだった。正三君の名刺には○○中学校生徒としてあった。
「お兄様がたは?」
「学校へゆかれた。式がある」
「それではちょっと奥へうかがってまいります」
「一しょにいこう。ああ、忘れた」
「なんでございますか?」
「きみのところへ年賀状がきている」
「堀口からでしょう?」
「よく知っているね」
 と照彦様は机のひきだしから取り出した。他に松村君と高谷君と細井君のがあった。堀口生のは特に紹介しょうかいにあたいする。
 改心の御慶目出度申納候ぎょけいめでたくもうしおさめそうろう。旧年中はご無礼ごめんください。僕は改心しましたが、成績の方はやはりビリ一です。変だと思って、橋本先生のところへ聞きにいったら、改心しても勉強しなければダメだそうです。先生は私のいけないワケと勉強の仕方を色々と話してくださいました。新年とともにホントに一生懸命になりますから、なにとぞご信用ください。
麹町区こうじまちく麹町こうじまち三丁目三番地
堀口ほりぐち ゆたか
 追って私は堀口改心勉強入道とあだ名をつけますから、なにとぞなにとぞよろしく。入道というのは後悔したシルシであります。
「勉強入道はおもしろいですね」
 と正三君は笑ったが、思いあたるところがあった。
「ばかだよ、やっぱり」
「自分であだ名をつける人間もないものです」
「滑稽なやつさ」
「しかし改心はほんとうです。僕はおとといの晩銀座で会いました」
「堀口にかい?」
「はあ。それから昨日きのうの朝、お母さんが僕の家へきました」
「ふうむ」
「堀口はほんとうに改心しているから頼むというんです」
「きみはなんといったい?」
「仲よくする約束をしました。泣くんですもの、お母さんが」
「かわいそうだな。不良は親がたまらないってね」
「しかしあれぐらい後悔していれば大丈夫でしょう。もうわるいことはしませんよ」
「あれから実際よくなった」
「僕は高谷君や細井君にも話して、堀口がもっと勉強できるようにしてやりたいと思っています」
「僕も賛成だ。きみは返事を出すか?」
「もう出しました。年賀状を出したから、僕からもくれといったんです」
「それじゃ僕も出そう」
「若様、ちょっと奥へうかがってまいります」
「僕もいくよ」
 と照彦様がつれだった。
 ちょうど奥様とお姫様ひめさまがご一しょだったので、正三君はお二方にご年賀を申しあげた。奥様はお忙しい中にも、
「内藤さん、照彦はあれから毎日指折りかぞえて、あなたをお待ち申しあげていましたのよ。相かわらず面倒めんどうをみてあげてくださいませ」
 とありがたいお言葉をたまわった。
「内藤さん、ちょっと」
 とお姫様がおっしゃった。
「はあ」
「あなたがおいでにならないと、照彦はいたずらばかりして困りますのよ」
「うそですよ」
 と照彦様は否定した。
「それじゃ申しあげましょうか?」
「まあまあ、堪忍かんにんしておあげなさい。お正月早々」
 と奥様がおせいしになった。なにか問題があったとみえる。
「内藤君、もういいんだ」
 と照彦様がひっぱった。
「それでは」
 と正三君は行儀を正して退出した。
 学習室の方へ廊下をたどりながら、
「内藤君、今日きょうはいつまでいてくれる?」
 と照彦様がきいた。
「昼すぎまでおじゃま申しあげます」
「そうしてくれたまえ。僕はきみに見せるものがある」
「なんですか?」
「書いたものだ。きみはきっと喜んでくれる」
「ぜひ拝見いたします」
「部屋へきたまえ」
「はあ。しかし僕はまだ先生がたのところへご年賀にあがらなければなりません」
「僕もいこう」
「お供いたしましょう」
 と正三君はもとより望むところだった。
 二人ふたりはお庭へ下りた。安斉さん始め先生がたは皆おやしき内に住んでいるから都合がいい。
「きみ」
「なんですか?」
「四日にはきっと帰ってきてくれたまえよ」
「はあ」
「朝からね」
「はあ」
「四日の晩はおもしろいんだぜ」
「楽しみにしています」
「去年はお父様にほうきがあたって大笑いだった」
「ははあ」
「きみは福引ふくびきを考えたかい?」
「ああ、忘れていました」
「僕は考えたよ」
「どんなのですか?」
「安斉先生ってのさ」
「どういう意味です?」
「やかん頭さ。景品にやかんを出す」
「それはおわるいですよ」
「お兄様がたもよろしくないから考えなおせとおっしゃった。しかしいいのがなくて困る」
 と照彦様は首をかしげた。
 花岡伯爵家では二日が正式のご年礼で、お殿様が旧藩士をご引見いんけんなさる。四日の晩は新年会と称して、おやしき内のものが集まる。女中や書生のはてまでだから、ナカナカの大人数になる。お出入りの講釈師こうしゃくしがきて、ご先祖の軍談を一席弁じる。教育映画もある。しかし一番の呼びものは福引きだ。家令の富田さんがその係りを承る。お殿様はじめ我と思わんものから種を集めて品物を買いそろえる。註文ちゅうもんが千差万別だから、新年早々一仕事のようだ。富田さんの判定はんていによると、お殿様が毎年一番いい種をお出しになる。これはおひまで、ごゆっくりごくふうなさるからだろう。もっともお殿様のご着想をまずいなぞとは申しあげられない。
「なんでもいいんですね?」
「うむ」
「後で考えましょう」
 といった時、お裏山へゆく道を横切ったので、正三君はお肝試きもだめしの会の出来事を思い出した。
「若様」
「なにかあるかい?」
「いや、この道ですよ。こわかったですな」
「きみがふるえはじめたところだよ」
「若様、杉山はどうですか?」
「もうくさくないよ」
「けがはなおったんですか?」
「ピンピンしている。丈夫な奴だよ」
「それはよかったですな」
「しかしあいつはいかん」
「なぜですか」
「僕たちのことを女中たちにしゃべった」
「おトンカチとバットの一件ですか?」
「うむ。皆知っている」
「しかしほんとうだから仕方ないです」
「それでも失敬だ。僕は杉山を福引ふくびきにしてやろうかな」
 と照彦様はまた考えこんだ。
 まもなく安斉先生の玄関に着いて、
「ごめん」
 と正三君が声をかけた。
「きみ、だめだよ」
「なぜですか?」
「年賀ってものはコッソリ名刺めいしをおいて逃げるものだ」
 と照彦様がいったとき、
「いや、そういうものじゃございませんぞ」
 と障子しょうじがあいて、安斉さんがあらわれた。
「新年……」
「おめでとう……」
「……ございます」
 と二人ふたりは大いにあわてた。
「お早々と恐縮きょうしゅくです。さあ、どうぞこちらへ」
「…………」
「さあ。さあさあ」
 と安斉先生はしきりにしょうじる。二人は仕方なしに上がりこんだ。
 先生から改まって鄭重ていちょうなご挨拶があった。続いておくさんが出てきて、
「これはこれは、若様と内藤様、旧年中は……」
 とすこぶる長かった。二人は中途で幾度も頭を上げてみて、また下げた。
「さあ、若様」
 と安斉先生は照彦様だけに座ぶとんをすすめた。ご自分もたたみの上にいるかわり、正三君には沙汰さたがない。君臣のぶんのかたい人だ。
「おくつろぎください」
「はあ」
「お正月ですから、お小言は申しあげませんぞ」
「はあ」
「なにかおもしろいお話をいたしましょうか?」
「はあ」
「一日の計は朝にあり。一年の計は元日にあり」
 とことわざが出た時照彦様は、
「先生」と呼んだ。
「なんでございますか?」
「先生は新年会のお福引きをお考えになりましたか?」
「考えましたよ。苦心惨憺さんたんです」
 と安斉先生はなにか軽い話題のほしい折りから、ちょうどいいことにして、
「若様はいかがでございましたか?」とひざをすすめた。
「僕も考えたんですが、お兄様に申しあげたら、落第でした」
「どういうご趣向しゅこうでございました?」
「さあ。まずいんです。申しあげるほどのものではございません」
 と照彦様はごまかした。まさか先生の頭だとはいえない。
「それでは一つご伝授申しあげましょうか?」
「どうぞ」
「私のは少しむずかしいかもしれませんよ。いわく、王者にして、その声天地にあまねく、その姿すがた捕捉ほそくすべからず」
「先生、大変むずかしいです」
「やさしく申しあげます。その声天地にあまねく、その姿すがた捕捉ほそくすべからざる王者」
 と安斉さんはいいなおしてもほぼ同じだ。元来人間がむずかしくできている。
「そんに長いものですと、富田さんが及第にしてくださいません」
「それではもっと通俗啓蒙的けいもうてきに表現いたしましょう」
「先生、むずかしくなるばかりでございましょう」
 と正三君が笑いをしのんだ。安斉先生はしばらく考えた後、
「それではこういたしましょう。国のはてまで声のとどく王様」
「ははあ」と照彦様も今度は文句だけわかった。
「国のはてまで声のとどく王様。いかがでございますか?」
「それぐらいの長さならちょうどいいんですが、どういう意味でございますか?」
「まあ、お考えになってごらんなさい。内藤君も一つ」
「はあ」
「国のはてまで声のとどく王様ですぞ。王様、王様」
 と安斉先生は王という字を指でしきりに空中へ書いた。
「日本ですか? 西洋ですか?」
 と照彦様は手がかりを求めた。
「日本は皇国でございますぞ。王様といえば、支那か西洋に相場がきまっています」
「昔の王様でございますか?」
「いや、昨今の王様で、西洋生まれです。まだお年がごくお若い」
「先生、私たちは一年生ですから、西洋歴史を習っておりません」
 と正三君はもてあました。
「歴史に関係ありません。あなたがたはよくご存じのはずですよ。日本にもきています」
「日本に?」
「はあ」
「わかりませんなあ」
「先生、僕も降参こうさんです」
 と二人はかぶとをぬいだ。
「それでは申しあげましょう」
「どうぞ」
「ラジ王ですよ」
「はあ?」
「ラジオ、即ちラジ王です」
「なるほど」
「その声天地にあまねく……」と安斉先生は得意だった。
「先生、これは実にうまいです」
「ハッハハハハ」
「僕、頂戴いたします」
「さしあげましょう」
「ありがとうございました。お兄様がたをびっくりさせてあげます」
 と照彦様は大喜びをした。
 二人はまもなく安斉先生の面前を辞して、矢島さん有本さん黒須さんと順次に廻礼をすました。これは皆名刺めいしの配達だった。お部屋へもどったとき、照彦様は、
「内藤君、僕はもう去年の僕と違うつもりだよ」といった
「どういう意味ですか?」
「勉強する。ここできみと約束する」
「それはなによりありがたいです」と正三君はお辞儀をした。
「きみが帰ってから、僕は毎晩君の夢を見た」
「ははあ」
「たいてい僕が落第してきみが泣く夢だ」
「いやなお夢でございますな」
「きみ、これを見てくれたまえ」
 と照彦様は新しい日記帳をひろげてつきつけた。
「拝見してもよろしいんでございますか?」
「うむ。僕の心が書いてある」
「それでは」と正三君は受け取った。

 一月一日。晴。ゆうべまた夢を見た。やっぱり落第の夢だ。内藤君が泣いた。僕はおこって、
「おい、泣くな」
 とおトンカチでなぐった。内藤君はすぐに死んでしまった。僕は泣きだして、内藤君にかじりついた。目がさめたら、それは枕だった。しかしなんともいえないいやな心持ちがした。
 僕が落第すれば、内藤君が泣く。泣くばかりじゃない。死ぬかもしれない。大変だ。これは夢じゃない。
 僕はこの年からほんとうに本気になって勉強する。
 もうけっしてわがままをいわない。
 これは内藤君がきたら約束しようと思う。内藤君はほうとうに心配してくれる。家へ帰っていても夢にやってくる。僕は内藤正三を兄さんと思えばいいんだ。
[#改段]

がんばれがんばれ






 学校がはじまって、照彦様と正三君はまた忙しくなった。もっとも他の若様がたも同様である。安斉先生が相かわらずきびしいから、予習と自習で夜分はほとんどひまがない。それに当分の間柔道の寒稽古がある。これは早朝未明からだから苦しい。
「いやになってしまうなあ」
 と照彦様は不平を鳴らしはじめた。
「なんでございますか?」
 と正三君がきいた。もうソロソロぐずをおっしゃる時分と覚悟していたのである。
「僕のところは正月でもおもしろいことがちっともない」
「新年会がおもしろかったございませんか?[#「おもしろかったございませんか?」はママ]
「あれっきりさ」
「活動へもつれていっていただきました」
「あれはあたりまえだよ。学校の友だちは月に二度ぐらいいっている。僕たちは年に一度じゃないか?」
「カルタ会もありました」
「正月はどこにだってある。あんなものは女に負かされるからつまらない」
「柔道を毎朝習っています」
「あれは勉強だよ。遊びのたしにならない」
「まだなにかありました」
「あるものか。僕のところはだめだよ、正月でもふだんと同じことだ」
「もうお正月はすみました」
「まだ正月だよ。一月中は正月だ」
「理屈をおっしゃれば、それにちがいありませんが、七草ななくさまでがお祭のお正月で、それから後はただのお正月です」
「きみこそ理屈をいっているよ」
「そうじゃありませんけれど、これがどこでもあたりまえです」
「なにが? 勉強ばかりするのがか?」
「はあ」
「もういいよ」
「おわかりになりましたか?」
「わからん」
「困りましたな」
「皆でよってたかって僕に勉強ばかりさせる、ほんとうに忠義なやつは一人もいない」
「若様」
「知らん」
「元日のご決心をお忘れになりましたか?」
「知らん」
「本気になってご勉強なさるお約束でした」
「あれはあのときちょっとそんな気になったんだ。もう夢なんか見ないからかまわない」
「若様」
「知らん」
「それなら僕も知りませんよ。若様が中から上でご進級なさらなければ、僕は家へ帰ってしまうお約束でした」
「きみのはいつもおどかしだ、ほんとうに帰らないから大丈夫だよ」
 と照彦様はとうてい三日坊主みっかぼうずをまぬがれない。もうソロソロ勉強が苦しくなった。
 正三君は相かわらず若様のご指導に一生懸命だ。秋からの努力が多少効果をそうしたので、はげみがついている。なお新年早々お殿様のお目にかかったとき、特別にありがたいお言葉を頂戴した。
「内藤は今日きょうからかな?」
「はあ」
「早々とご苦労だな」
「はあ」
「今年もたのむ」
「はあ」
「来年もたのむ」
「はあ」
再来年さらいねんもたのむ」
「はあ」
「ハッハハハ。はてしがないな。照彦は卒業次第英国へやるつもりだが、その時もたのむ」
「はあ」
「おくもわしも若が一人ふえたと思っている」
 とおっしゃって、お殿様は頭をなでてくだすったのである。若とは若様のことだ。正三君たるもの感激せざるをない。
 照彦様は楽なことがおすきで、苦しいことがおきらいだ。これはだれでもそうだけれど、程度による。照彦様のはきょくたんだ、正三君は半年近くお学友をつとめて、ここに照彦様の弱点があるとさとった。たとえば二人ピンポンをやっていても、照彦様は落ちた玉を拾わない。
「落ちたよ」
 とおっしゃる。正三君が拾って、また始める。
「また落ちた」
「はあ」
「そらそら」
「はあ」
 と正三君は二人前働かなければならない。勝負がご自分の思い通りにゆく間、照彦様はいくらでもつづけるが、負けがこんでくると、ごきげんがわるい。苦しいことはおきらいだ。
「もうよそう」
「はあ」
「つまらない」
 とラケットを台の上へほうりだす。正三君は後かたづけをしなければならない。
 大弓場だいきゅうばへいって弓を引いている間もそうだ。照彦様は楽なことだけをする。すなわちるばかりで、矢を拾いにはけっしてゆかない。
「若様、今日きょうはすこしあたりがおわるいですな」
「なあに、きみには負けない」
「僕はもう二本あてました」
「僕は三本あてているよ」
「僕は矢数が少ないんですもの」
 と正三君は拾いにばかりゆくので、半分しか射る間がない。
「そんなことをいうなら、考えがあるぞ」
「なんですか?」
「矢を取りにいっているとき、ってやる」
冗談じょうだんおっしゃっちゃ困ります」
「きみの頭を射ぬけば、まさかあたりがわるいとはいうまい」
「僕はもう取りにゆきません」
「大丈夫だよ」
「いや、まぐれあたりってことがあります」
「失敬だ」
「ハッハハハハ」
「それじゃ二人で十本ずつときめて腕くらべをしよう」
 と照彦様が発起ほっきする。正三君はもとより望むところだ。尋常の勝負となれば、お相手も張り合いがある。こうもちかけないと、拾いにばかりいかされて、楽なことができない。正三君だってあたりまえの子供だ、苦しいことが天性特別すきなはずもない。
 さて学期初めの問答に戻る。
「照彦様」
「なんだい? うるさいじゃないか?」
「僕、若様のおっしゃるとおりです」
「なにが?」
「帰りません、帰るというのはおどかしです」
「みたまえ」
「そのかわり今年ことしからはがんばります」
「がんばる?」
「はあ」
「今までだってずいぶんがんばっているよ、きみは」
「もっとがんばります。僕はもう逃げないで、いつまでもおそばにいてご忠義をつくします」
「どんな忠義だかいってみたまえ。まちがった忠義じゃ迷惑する」
「安斉先生と同じ忠義です」
「安斉先生は昔の人だから、いろんな忠義をつくしている。どの忠義だ?」
「若様が元日のご決心どおりご勉強なさるようなご忠義です」
「ふうん」
「いけませんか?」
「きみはその忠義をつくしにきたんだから仕方がない。しかしもし僕が勉強しなければ、どうする?」
「さあ」
「帰るんだろう? やっぱり」
 と照彦様は実はこれが一番こわいのだ。
「いや、帰りません」
「それじゃ約束したまえ」
「帰らないお約束でございますか?」
「うむ。僕がどんなわがままをいっても帰らないって」
「帰りません。お約束します」
「僕はおこったとき『帰れ』っていうかもしれない。それでも帰るなよ」
「はあ」
「男子の一言だぞ」
「はあ」
「こう約束してしまえばしめたものだ」
「なぜですか?」
「僕はなまけるかもしれない」
「それじゃお約束が違います」
「きみは帰らない約束をしたけれど、僕は勉強する約束なんかしやしない」
「いや、なさいました。正月の元日になさいました。僕に日記をお見せになって、今年ことしから本気になって勉強するとおっしゃいました」
「あれは決心だよ。約束じゃない」
「いや、内藤がきたら約束しようってたしかに書いてありました」
「書いてない」
「僕は覚えています」
「覚え違いだろう」
「それじゃもう一ぺん拝見させていただきます」
「日記は人に見せるものじゃないよ」
「若様はおずるいです」
 と正三君はくやしがった。
「僕には僕の考えがある。少しは勉強するけれど、きみのいうとおりにはできない」
「…………」
「内藤正三位」
「知りません」
「僕は正三位よりも知恵があるから、計略がうまいんだ。もう帰らない約束をさせてしまった。どうだい」
「…………」
「かわいそうだから、少しは勉強してやるぞ」
 と照彦様は自分の修業を人事のように思っている。
「しかしなまいきをいえば、自習もしてやらない。学校も休んでやる。正三位、きみはどうする?」
「切腹します」
「ご短慮たんりょ、ご短慮」
「実はこうするんです」
 と正三君はいきなり照彦様に組みついた。
「なにをする」
「腕力です」
「負けるものか」
 と照彦様は争ったが、不意をくらっているからかなわない。すぐに押し倒されてしまった。
「さあ、どうですか?」
「よせよせ」
「よしません」
「痛いよ」
「お首をしめます」
 と正三君は習い覚えた柔道の手を応用した。
「苦しい苦しい」
「ご忠義です」
「そんな忠義はない」
「ご勉強なさいますか?」
「しない」
「さあ」
「苦しい」
「どうです?」
「ううんううん」
「さあ、ごへんじをうかがいます」
「…………」
「これでもですか?」
「まいった」
 と照彦様はたたみをたたいた。
「ただまいったではわかりません」
「はなせ」
「はなしません」
「畜生! 内藤正三位!」
「なんですか?」
「ううんううん」
「ごへんじを伺います」
「まいったまいった」
「ご勉強をなさいますか?」
「するする」
「ほうとうですか?」
「ほんとうだ」
「それじゃはなします」
 と正三君が手をゆるめたとき、照彦様はワーッと泣きだした。
「若様、ごめんください」
 と今度はご介抱かいほうだ。照彦様は大の字なりに寝たまま、いくらおこしてもおきない。わざと声をたてて泣く。この騒ぎに、照常様がお部屋から出てきて、
「どうした? 照彦」
 とむろん正三君に嫌疑けんぎをかけた。
「申しわけありません」
「喧嘩か?」
「いいえ」
 と正三君は首をうなだれた。
「照彦、おきろ」
「はあ」
 と照彦様はおきるやいなや、
「こん畜生!」
 と正三君をなぐりつけた。
「こら!」
 と照常様がとりおさえる。力が強いから、照彦様はいくらあばれても仕方がない。
「エヘン」
 とせきばらいの音がきこえて、安斉先生が学監室からあらわれた。
「どうなさいましたかな?」
「二人で喧嘩です。ばかな奴らです」
 と照常様はおとなぶった。
「いいえ、僕がなんにもしないのに、内藤君がいきなりかかってきて首をしめたんです」
 と照彦様が泣きながらうったえた。
「内藤君」
「はあ」
「それではきみは若様にお手むかいを申しあげたのですか?」
「はあ」
不都合千万ふつごうせんばん
「申しわけございません」
「ちょっと学監室へおいでなさい」
 と安斉先生はこわい顔をして先に立った。
 正三君は学監室へついていって、先生と向きあったとき、涙をホロホロこぼして、
「先生、申しわけありません」
 とおもてをおおった。
「よろしいよ。坐りなさい」
 と安斉さんは小声でおっしゃった。
「…………」
「わしはここからのぞいていた。すっかりきいていた。ご忠義のためよんどころない」
「はあ」
「叱りはしない。坐りなさい」
「はあ」
「お薬になりますよ」
「はあ」
 と正三君は涙の中にもうれしかった。
不都合千万ふつごうせんばん!」
 と安斉先生はたちまち大声をたてた。
「はあ?」
「それぐらいのことで若様にお手むかいをするようではお相手が勤まらん」
 とまた声をはりあげる。学習室にいる照彦様と照常様にきかせるためだ。
「…………」
きみきみたらずといえども……内藤君、心配はいらんよ」
「はあ」
 と内藤君ないとうくんはようやく意味がわかった。
「不都合千万!」
「…………」
「そういう料簡りょうけんではお相手が勤まらん。明日あすとはいわぬ、今日唯今ただいま、帰りなさい。さあ。帰りなさい。自分の家へ帰りなさい」
 と安斉先生はわれがねのような声をたてた。
「先生」
 と照彦様が学監室へ飛びこんだ。
「なんでございますか?」
「僕がわるいんです」
「いや、若様にはおとがはありません。内藤君」
「はあ」
「お殿様や奥様へはわしから申しあげます。荷物は後からとどけます。お父さんへ手紙を書いてあげるから、学習室でしばらく待っていなさい」
 と安斉先生はお芝居がおじょうずだ。
「はあ」
 と正三君もボンヤリしていられない。幸いありがたい涙が両眼にあふれている。悄然しょうぜんとして立ちあがった。
「内藤君、待ってくれたまえ。先生、先生」
「なんでございますか?」
「僕が初め冗談じょうだん半分にうそをついたのです。それで内藤君が本気になったんです」
 と照彦様は正直なところをあらまし申したてた。
「それにしても、若様に組みつくという法がありますか?」
「僕が内藤正三位といって、ばかにしたんです」
「内藤君、なぜきみは早く若様におわびを申しあげない?」
 と安斉先生がうながした。
「若様、申しわけございません。僕は初めは冗談のつもりでした」
「僕がわるかったんだ」
「いや、僕こそご無礼申しあげました」
「いいんだよ、もう、きみ。帰らなくてもいいんだ。僕の部屋へきたまえ。先生、もう仲をよくします。失礼申しあげました」
 と照彦様は正三君の手をとって学監室から出た。安斉先生はくずれかけた相好そうこうを正して、沈黙を守っていた。
 正三君はゆきがかりもあったが、強薬の必要を感じていた。ごきげんばかりとってお相手をしていては若様の成績がおぼつかない。お殿様に直接頼まれて以来、特別に発奮して、機会を待っていたのである。予定の行動だったから、もう下から出ない。照彦様の部屋へいったとき、
「がんばれがんばれ」
 と思って度胸どきょうをすえた。
「内藤君、きみ、きみ」
 と照彦様はあわてていた。
「なんでございますか?」
「きみは帰らない約束だったね」
「帰りません」
「それじゃもう仲直りをしよう」
「ただじゃいやです」と正三君は首をふった。
「なにをあげようか?」
「なんにもいりません」
「それじゃ困る」
「お約束をしてください」
「よし。勉強する」
「それだけじゃいやです」
「さっきはそれだけでよかったんじゃないか?」
「僕はもうご遠慮しません。ご忠義をつくす決心ですから、どこまでもがんばりますよ」
「それじゃどうすればいいんだ?」
「いったい、若様はお考えがまちがっています」
「なに?」と照彦様はまた顔色を変えたが、思いなおして、
「まちがっているところを教えてくれたまえ」
 とすぐにおだやかな態度をとった。
「若様は苦しいことがおきらいでです」
「それはそうさ」
「楽なことばかりおすきです。それだからいけないんです」
「…………」
「これからは苦しいことを平気でやるようにお約束してください」
「それはむりだよ」
「むりじゃありません。がまんをすれば、苦しいことが楽になります」
「…………」
「僕はもうおせじを使いません。若様は今までどおりじゃとてもだめです」
「苦しいことというと、勉強ばかりじゃないね?」
「たくさんあります」
「僕は損をした」
「なぜですか?」
「さっきは勉強だけだったもの」
「苦しいことを平気でなさるお約束をしてくださらなければ、僕はもういやです」
「帰るかい?」
「帰りません。しかし僕はもうご遠慮えんりょしない決心ですから、またさっきのようなことになって、安斉先生に追い出されてしまいます」
「それじゃ困る」
「照彦様」
「なんだい?」
「僕は帰って家から学校へ通う方が楽です。おやしきへあがったばかりの頃は毎晩寝てから泣いていました。黙っていましたけれど、苦しかったです」
「…………」
「それでもがんばっていたものですから、今ではなんともありません」
「…………」
「若様もがんばらなければいけません」
「わかったよ」
「お約束してくださいますか?」
「うむ、僕もがんばってみる」
「がんばれば苦しいことが楽になります」
「うむ」
「それじゃさっきのことはごめんください」
「僕もきみをなぐったのはわるかった」
「おたがいです。しかし僕はこれからがんばりますよ」
「僕もがんばる」
 と主従は和解が成立した。
[#改段]

石炭泥棒どろぼう






 授業がすんで先生の姿が戸口に消えるか消えないに、生徒たちはストーヴのそばへかけよって、早いもの勝ちにあたたかいところへ陣取る。休憩時間は運動場へ出なければいけないのだが、戸外そとは寒い。毎日からかぜがふいて、砂塵をまきあげる。
「先生、僕はのどをいためています」
「よろしい」
「先生、僕はかぜをひいています」
「よろしい」
「先生、僕は流感がなおったばかりですから」
 と病人の出ることおびただしい。先生も天候次第で大目に見てくれる。
 このストーヴをとりかこんで話すのをストーヴ会議と称する。クラス会みたいなものだ。先生がついていないだけに、遠慮がなくていい。十ぷんの休憩時間がしいくらいに早くたってしまう。ありがたいのは雨の日の昼休みだ。天下晴れて語りあう。
 しかし学校では昼から石炭を倹約する。十一時の休憩時間に小使いの関さんが武蔵坊弁慶むさしぼうべんけいのような格好かっこうをしてはいってくる。兵隊あがりの名物男だ。石炭を持っている時はことに評判がいい。
「関さん」
「関上等兵」
「関閣下かっか
 なぞと皆ごきげんをとって、
「たくさん入れてくれたまえ」
 と頼む。
「よしよし」
 と関さんはおだてにのって、思いさま入れてゆく。そのかわりにもう廻ってこないから、昼休みにはいつもトロ火になっている。ストーヴの火力がよわると、皆の気焔きえんもおとろえる。
「不景気だなあ」
 と悲観した。はてが、
「だれかいってこいよ」
 と相談を始める。小使い部屋の物置きに石炭が貯蔵ちょぞうしてある。大きなのを一塊ひとかたまり持ってくるとさしあたりしのげる。
「きみ、いけ」
「いやだよ、関さんにつかまるよ」
「いくじのない奴だな。大西君、きみ、いってこい」
「ごめんだ。僕は関さんに追っかけられた」
「堀口君はどうだ?」
「おれは改心だ」
「皆話せないな。だれか度胸のいいやつはいないか?」
「きみ、自分でいけ」
「僕は一ぺんとっつかまったんだ」
「いつ?」
「この間。関さんは力があるからね。もう少しで教員室へひっぱられるところさ」
「危ない危ない」
 と皆関さんを恐れている。もう一人の小使いはヨボヨボのじいさんだけれど、関さんは兵隊あがりで腕っぷしが強い。大の力じまんだ。時に軍隊精神を説いて生徒に意見をする。四年生でも五年生でも容赦ようしゃない。喧嘩なぞしていると、すぐにとっつかまえて教員室へ引っぱってゆく。
 ある日の午後、晴天にもかかわらず、クラスの半数ばかりが教室に居残って、ストーヴ会議をやっていた。先生が廻ってきて、
「皆運動場へ出る」
 と注意した時、一同蜘蛛くもの子を散らすように逃げ出したが、まもなく尾沢生と横田生と篠崎生がコッソリひき返してきた。堀口生が改心して以来、この三人がクラスの不良組を代表している。
「おい、横田」
 と尾沢生が目をクリクリさせながらいった。活動で見たアメリカの悪漢のまねだ。
「なんだい?」
「いいことを考えたぞ」
「珍しいね。せっかくお天気が続いているのに、明日あした雨が降るぜ」
「ばかにするなよ」
「いったいなんだい?」
「例の復讐だ。きみだって去年の恨みをわすれはしまい」
「しかしとてもだめだよ。堀口があちらへついてしまったもの」
 と横田はあきらめているようだった。
「きみはいくじがないね」
「しかしあちらは大勢だ」
「何人いたってかまわないよ」
「よせよせ、喧嘩口論けんかこうろんすべからず」
 と篠崎生も懲りていた。
「それならいいよ」
 と尾沢生はまた目をクリクリさせた。
「…………」
「これじゃ友だちだかなんだかわからねえ」
「…………」
「おれが一人ひとりでやらあ」
「なにをやるんだい?」
 と横田生がきいた。そうそう黙っていられない。
「なんでもいいよ」
「おこったね」
 と篠崎生も少しきのどくになった。
「あまりいくじがないからさ」
「しかし多勢に無勢だぜ」
「何人いたってかまわないよ。一人ひとりやっつければいいんだ」
「正三位かい?」
 横田生もおいおい引きこまれる。
「そうさ」
「しかし強いよ。高谷と細井がついている」
「いや、喧嘩をしないでとっちめるんだ」
「なにか法があるのかい?」
「それを考えついたんだ」
「どうするんだい?」
「花岡にはじをかかせてやる。きみはずかしめられればしんす。正三位、切腹するぜ」
「まさか」
「ほんとうに腹を切らなくても、正三位は花岡の成績がわるいと、学友が免職になるんだそうだよ」
「しかしよかったんだぜ、今度は」
「あれはひいきがあるんだ」
「僕もそう思っている」
「あたりまえさ。英語の秋山先生は花岡の家来だもの」
 と篠崎生が主張した。
「いくら先生がひいきしても、わるいことをすれば、操行点が下がる」
「それはそうだけれども」
「いいことがあるんだよ」
「なんだい?」
「これから花岡を石炭取りにやって関さんにとっつかまえさせる」
「なるほど」
「こいつはおもしろい」
 と二人ふたりとも乗り出した。
「関さんは華族だってなんだって堪忍かんにんしない。このクラスのものが一番横着おうちゃくでいけないっておこっているから、花岡がいってとっつかまれば早速教員室だよ」
「しかし花岡がいくだろうか?」
 と横田生が疑問をおこした。
「そこは計略さ」
「どうする?」
「あいつはお坊ちゃんだから、おだてがきく。花岡君はえらいってむやみにほめるんだ」
「おれもやる」
「おれもやるぞ」
「あんな奴の一人や二人、朝飯前だよ」
 と尾沢生が得意になって手はずを説明したところへ、今しがた追い出された数名が、
「寒い寒い」
 といってはいってきた。花岡の照彦様も寒がりだから、その一人だった。尾沢生は横田生と篠崎生に目くばせをして、
「不景気だなあ」
 とストーヴの口をのぞいた。
「これじゃ仕方がない。だれか有志はないか?」
 と横田生が調子をあわせた。そこへまた二、三人はいってきて、
「寒いなあ」
 とストーヴによりそった。
「だれか親切な人はないか?」
 と尾沢生が一同を見まわした。
「吉田君、どうだ?」
 と横田生は直接勧誘を試みた。
「なにが」
「小使い部屋へいって石炭を取ってこないか?」
「いやだよ」
「度胸がないね」
「なくてもいいよ」
「阿部君、きみはどうだ?」
 と篠崎生もあたってみた。しかし敵は本能寺ほんのうじにある。
「いやだよ」
「なぜ?」
「僕はあたるのはすきだけれど、取りにいくのは嫌いだ」
 と阿部君が平気で答えた。
「僕もさ」
 と共鳴するものがあった。
「感心しちゃった」
 と篠崎生が空うそぶいた。
「…………」
「ひどいよ。いつでも僕たちが持ってくるんだぜ。きみたちはいつもただであたっているんだぜ」
 と尾沢生が苦情らしくいった。
「…………」
「ずるいよ」
「…………」
「正直なものは損をする。なあ、横田」
「うむ。おれたちはばかさ。皆たちまわりがうまいのさ」
 と横田生が受けた。
 ちょっとの間沈黙がつづいた後、一人の生徒が急に思いたったように出ていった。
「ありがたいぞ。有志有志!」
 と尾沢生が手をたたいた。
「なあに、逃げていったんだよ」
 と篠崎生は知っていた。
「おやおや」
「ハッハハハハ」
 と皆笑いだした。
「実際不景気だなあ。仕方がない、僕、いってくらあ」
 と尾沢生はふたび[#「ふたび」はママ]横田生に目くばせした。
「僕、いくよ」
「僕がいく」
 と篠崎生も主張した。これが予定の筋書すじがきで、
「それじゃジャンケンにしようか?」
「よし」
「ジャンケン……」
 と横田篠崎の両名が始めたとき、
「待ちたまえ。皆であたるんだから皆でくじにしよう」
 と尾沢生はごく自然に計略を導きだした。
「それがいい」
 と二人ふたりはすぐにジャンケンのこぶしをひっこめた。この時また一人がストーブから離れて、戸口へむかった。
「佐藤君、待ちたまえ」
 と尾沢生が呼びとめた。
「なんだい?」
「きみは逃げるのか?」
「いいや」
「それじゃどこへゆく?」
「便所だよ」
 と佐藤君は出ていってしまった。
「たちまわりがうまいや。花岡君、きみも便所かい?」
 と尾沢生があらかじめ念をおした。他のものはどうでもいいのだが、照彦様にゆかれてしまっては、せっかくの苦心が水のあわになる。
「僕は逃げない」
 と照彦様が答えた。
「感心感心。やっぱりえらいや」
「そのかわりくじも引かない」
「なぜ?」
「僕は泥棒はきらいだ」
「泥棒じゃないよ。ただ取って来るだけだよ」
「ただ取ってくれば泥棒じゃないか?」
「いや、僕たちは薪炭料しんたんりょうを納めているから、物置きの中の石炭は皆僕たちのものだ、自分のものを持ってくるのが泥棒かい?」
「それじゃなぜ関さんがおこる?」
「きみは華族様だから鷹揚おうようだね」
「…………」
「小使いなんて下々しもじものものは石炭を倹約してもうけようとするんだ」
「そんなことはないよ」
「いや、ある。それだから昼からたかないんだ」
「ほんとうかい?」
「うそをつくものか。皆にきいてみたまえ」
「五年級の人もそういっていた。関さんはずるいって」
 と横田生も相槌あいづちをうった。全く根も葉もないことだから、関さんこそいい迷惑だ。
「四年五年では石炭がないと、腰掛けをこわしてたく。薪炭料しんたんりょうを出させておいて寒い思いをさせるんだから、それぐらいのことをやってもいいんだ」
 と尾沢生は理屈をならべた。
「…………」
「教員室へいってみたまえ。昼からでもたいている。あれは先生だけをよくして、生徒をわるくするんだ」
「…………」
「生徒だけ昼から寒くないって法はない」
「…………」
「どうだい?」
「そんなことわかっているよ」
 と照彦様はソロソロ煙にまかれはじめた。
「文句ばかりいっていないで、早くくじをこしらえたまえ」
 と横田生がうながした。
「籤はよせよ。考えてみると、僕たちは損をする」
 と篠崎生が故障を申したてた。
「なぜ?」
「始終取ってきているんだもの。今日きょうはふだんいかない有志にいってきてもらおうじゃないか?」
「賛成」
 と尾沢生が叫んだ。
「僕もむろん賛成だけれど、見まわしたところ、そんな度胸のある人間はいないようだぜ」
 と横田生も予定の行動だった。
「戸川君、きみ、どうだ」
「菊池君」
「もう時間がないだろう?」
「あるよ」
「…………」
「内山君」
 と尾沢生は順々にきく。
「僕は……ゴホン」
 と内山君はせきをした。
「なんだい?」
「ゴホン」
「きみはランニングが速いから」
「かぜをひいているよ」
「そんなことはかまわない」
今日きょうはだめだ」
「なぜ?」
「ゴホンゴホンゴホン」
「あれ、いってしまやがった。たちまわりがうまいや。ねえ、花岡君」
 と尾沢生は照彦様の顔を見つめた。
「…………」
「花岡君、きみはこの頃柔道を習っているってね?」
「うむ」
「強くなったろう?」
「だめだよ。内藤にかなわない」
「内藤君は強いよ。なにをやってもきみとはダンチだっていっている」
「それほどでもないよ」
「相撲もダンチ、柔道もダンチ、ランニングもダンチだそうだ」
冗談じょうだんいっちゃいけないよ」
「いや、僕はすっかりきいたよ」
「だれに?」
「内藤君に」
「うそばかり」
「ほんとうだよ。暮れにきみのところで試胆会したんかいってのをやったろう?」
「うむ」
「あれもきいた。きみはあわててどぶへ落ちたってじゃないか?」
「あれは書生だよ」
「とにかく、きみは歩けなくなって、内藤におぶさってきたってね?」
「そんなことがあるものか」
 と照彦様は憤慨した。
「かくしてもだめだよ、内藤君が皆しゃべっている」
「きみに話したのかい?」
「うむ。照坊は臆病で、夜になると、便所へも一人でゆけないって」
「失敬な」
「きみ、どこへゆく」
 と尾沢生は照彦様の腕をつかまえた。
「内藤にきいてみる」
「家来をいじめたって、ちっとも強いことはない」
「…………]
「きみは内藤君にばかり威張いばっている。ほんとうの度胸がない」
「あるとも」
「あるなら見せてくれ」
「見せてやるよ」
「喧嘩はよしたまえ」
 と横田生がもっともらしく注意した。
「喧嘩じゃあない。花岡君に度胸を見せてもらうんだ」
 と尾沢生がいった。
「見せてやるとも」
 と照彦様はひたい青筋あおすじを立てていた。
「それじゃ今すぐいってきたまえ」
「どこへ?」
「小使い部屋の物置きへ」
「…………」
「やあい。関さんがこわいんだろう」
「僕は泥棒はきらいだよ」
「これできみの度胸がわかったよ。怖ければ怖いと正直にいう方が男らしいぞ」
「怖いものか」
「それじゃいけ」
「いくとも」
 と照彦様は歩きだした。
「よし。ついていって見てやる」
「勝手にしたまえ」
「逃げるんだろう?」
「大丈夫だ」
「さあ、いこう」
 と尾沢生が先に立った。照彦様はもうのっぴきならない。
「花岡、しっかり! えらいぞえらいぞ!」
 と横田篠崎の両名がおだてあげた。
 小使い部屋に近づいた時、尾沢生はたち止まって、
「きみ、安心していってきたまえ。僕、ここで番をしていてやる」
 と味方の態度をとった。
「いくつ持ってこようか?」
「取れるだけさ。たくさん取るほど度胸がいいんだ」
「よし」
 と照彦様は小使い部屋の物置きへ忍びこんだ。そのせつな、尾沢生は、
「関のばかやろうやあい!」
 と叫んで、いちもくさんに逃げだした。関さんは小使い部屋から姿をあらわすと、すぐに物置きへまわった。照彦様が足音をききつけて出ようとしたとき、
「どっこい」
 と外から戸をしめてかぎをかってしまった。
[#改段]

改心入道の働き






 尾沢生は教室へ帰ってきて、
「ハッハハハハ」
 と笑いながら、教壇の机につかまった。
「どうした?」
「うまくやったか?」
 と待っていた篠崎横田の両名がストーヴからはなれた。
「ハッハハハハ。ハッハハハハ。花岡の奴」
「おいおい」
「笑ってばかりいやがる」
「ハッハハハハ。まあ、待ってくれ。あんまりおかしくて横っ腹が痛いや」
 と尾沢生はからだをよじのばして、
「物置きの中へめこまれやがった。関さんはかぎをかってしまった」
 とそのとおりの手まねをした。
「それはうまい」
「大成功だ」
 と横田生と篠崎生が喜んだ。他の数名は顔をみあわせた。舌を出したものもあった。
 不良組の三人がなお話しつづけているところへ、正三君が戸口にあらわれて、教室の中をみまわした。照彦様を探しにきたのだが、いないので、そのままきびすをめぐらした。
「おい、正三位!」
「…………」
「おいおい。内藤正三位、花岡の家来」
 と尾沢生は戸口まで追っていった。
「…………」
「内藤君」
「なんだ?」
 と正三君は初めて答えた。
「きみはだれを探している?」
「だれでもいい」
「それなら勝手にしたまえ。花岡君のいるところなら、僕だけ知っているんだけれど」
 と尾沢生はわざとおだやかにいって引き返した。
「おもしろいおもしろい」
 と横田篠崎の両名が調子づいて手をたたいた。他の連中も、
「探したってわからない」
 と多少おもしろずくになった。
 正三君は休憩時間中もたえず照彦様から離れないように心がけている。かりそめにも若様にまちがいがあってはならないと思って、遊びながらもゆだんがない。しかしこの午後はちょっと高谷君と話している間に姿を見失ったので、あわてて探しはじめた。折りわるく照彦様のいない方へばかりいって、最後に教室へきたのだった。尾沢生とは去年の秋の喧嘩以来、どうもうち解けない。知っているといったが、口をきくのがいまいましかったので、そのまままた運動場へ出た。堀口生がポケットへ手を入れて、ノソノソ歩いていたから、
「堀口君、きみは花岡さんを見なかったかい?」
 ときいてみた。
「さあ。今ここを通ったよ」
「どっちへいったい?」
「小使い部屋の方へ尾沢君と一しょにいった。いってみようか?」
「しかし尾沢君は教室にいるよ」
「変だね」
 と堀口生は教室をのぞいて、
「おい。尾沢」と呼んだ。
「なんでえ?」
「花岡さんを知らないか?」
「知らねえよ、そんな人は」
「しかしきみは今花岡さんと一緒に歩いていたじゃないか?」
「…………」
「おい。尾沢」
「気に入らねえな」
 と尾沢生はそっぽを向いてしまった。
「なにが?」
「…………」
「おい。なにが気に入らないだ? 尾沢」
「お前は改心したのはえらいものだが、華族さんにおベッカを使うのはどういう料簡りょうけんだ?」
「おベッカなんか使やしないよ」
「使っているよ。花岡さんてのはどういうわけだ? お前も正三位になったのかい?」
「そうか。それはわるかった。それじゃききなおすから、堪忍かんにんしてくれ。おい。尾沢、きみは花岡君を知っているか?」
 堀口生は改心以来人にさからわない。大いに努めている。
「まだ気に入らねえよ」
「なぜ?」
「尾沢とはなんだ?」
「なるほど。これもわるかった。それじゃ尾沢君、きみは花岡君を知っているか?」
「…………」
「おい」
「おいが気に入らねえ」
「モシモシ、尾沢君」
「ばかにするな」
 と尾沢生は相手がどこまでも下から出るのを承知でますますつけあがる。
「ばかになんかしやしないよ」
「おれも一ぺんぐらいは尾沢さんと呼んでもらいてえんだ」
「よし。もしもし、尾沢さん、あなたは花岡さんを知っていますか?」
「知っている。花岡君は華族さんで、正三位の殿様だよ」
「なるほど、これはおれのきき方がわるかった。それじゃその花岡君はどこにいる?」
「おやしきは麹町こうじまちだそうだよ」
「今どこにいる?」
「それならそうと早くきけ。かわいそうに、小使い部屋の物置きの中で泣いていらあ」
「え?」
「華族さんだって石炭泥棒にいってとっつかまればろうちこまれる。関さんはおベッカなんか使わない」
「おい。ほんとうかい?」
「いってみねえ」
「内藤君」
 と堀口生がふりかえった時、正三君はもう小使い部屋めがけてけだしていた。堀口生も後を追った。
「いってみよう。おもしろいぞ」
 と尾沢生始めストーヴにあたっていた連中が教室から飛び出した。
「なんだい? なんだい?」
 とそれを見た運動場の同級生たちもついていった。
「もうしませんから、堪忍かんにんしてください」
 と照彦様の泣く声が物置きからきこえた。正三君は戸のにぎりをつかんで力一ぱいに引っぱったが、かぎがかかってあるから仕方がない。
「照彦様、僕です」
 と泣きそうになった。
「もうしません」
「僕です。内藤です。今開けます」
堪忍かんにんしてください。もうしません。時間になりますから、堪忍かんにんして……」
 と照彦様は無我夢中だからきこえない。小使い部屋から関さんが出てきて、
「なんだ? きみたちは」
 と一同をにらみまわした。
「関さん、花岡さんですから、堪忍かんにんしてください」
 と正三君が進みよっておじぎをした。
「花岡さんでもだれでもいけない」
「…………」
「石炭を盗むものは先生のところへつれてゆく」
 と関さんは承知しない。
「関さん、しっかり!」
 と尾沢生がはやしたてた。
「今の声はだれだ?」
 と関さんが向きなおった時、尾沢生は首をちぢめた。
「この級のものは皆性がわるい。毎日のように取りにくる」
「関さん、これから皆で気をつけますから、今日きょうだけは堪忍かんにんしてください」
 と級長の松村君が進み出た。
「いけない、仏の顔も三度だ。あんまり人をばかにしている」
「関さん」
 と次に堀口生が進み出た。
「おれはテッキリきみだと思っていた」
「やっぱり信用がないや」
「きみが花岡さんをよこしたんだろう」
「僕じゃないです」
「だれだ? それじゃ」
「知りませんが、花岡さんだってそんなわるいことをする子じゃありません」
「でもこの通り現行犯をとっつかまえている」
 と関さんが物置きの戸をたたいた時、
「もうしませんから、堪忍かんにんしてください。時間になるう!」
 と照彦様が内から泣いた。
「関さん」
 と正三君は関さんの手につかまった。
「関さん、このとおりだ」
 と堀口生は大地に両手をついた。おじぎをするのかと思ったら、そうでない。そのまま逆立さかだちをして歩きだした。
「やったやった!」
 と関さんは驚いて後じさりをした。関さんは逆立ちの名人だ。連隊長殿が感心して見ていたといって、常に自慢じまんしている。
「どうだ関さん、これでも堪忍してやらないか?」
 と堀口生は逆立ち歩きをつづけながら真っ赤になって頼んだ。妙なあやまり方があったものだ。
わざあり!」
 と関さんは手をたたいて、ポケットからかぎを出すが早く物置きの戸を開いた。照彦様は石炭の上につっ伏していた。正三君がたすけ出した。皆は照彦様の顔の黒いのにあきれて、
「どうしたんだろう?」
 というように目と目を見あわせた。これは石炭の中にうずまって泣いていたからだった。
「内藤正三位」と尾沢生がつっかかった。
「なにをする?」
きみはずかしめられてしん死す」
「…………」
「切腹しろ」
「…………」
「貴様は忠臣蔵を知らないか?」
「よせ!」
 と堀口生がいきなり押した。尾沢生がよろけてきた時、関さんはその腕をつかまえて、
「さあ、教員室へ来い」
 といった。
「なんです?」と尾沢生は青くなった。
「なんですもないもんだ」
「なんです? 僕は教員室へつれてゆかれるわけがない」
「わしは知っているんだ。文句をいわないできなさい」
 と大力無双の関さんは尾沢生を抱えていってしまった。
 尾沢生はつぎの時間中教員室でお目玉を頂戴した。ちょうどよくかまたはちょうどわるく、級担任きゅうたんにんの橋本先生が手すきだったから、今度のことよりもふだんのことで油を取られた。先生は堀口生の改悛かいしゅんをひきあいに出して、大いに学ぶところがあるように、コンコンさとした後、
「これからは気をつけなければいけない。今度こういうことがあるとばつですよ」
「…………」
「わかったら、もうよろしい」
 とうなずいた。尾沢生は不服そうに小首をかしげて、
「先生」と呼んだ。
「なんですか?」
「この学校は不公平です」
「なぜ?」
「僕は石炭なんか取りません。取ったのは花岡君です」
「花岡は取りはしない」
「取りにきたんです。それですから、物置きへはいっていたんです」
「しかし平常がある、平常が。きみはいつも取りにくるってじゃないか?」
「うそです」
「関が一々帳面につけている」
「しかしつかまったことは一ぺんもありません」
「みたまえ。白状している」
「…………」
「もうよろしい」
「はあ」
 と尾沢生は肩を怒らせて、わざと足音をたてながら出てきた。
「困った子だな」
 と橋本先生は考えこんだ。
 照彦様は叱られなかったが、尾沢生は充分じゅうぶん目的を達した。
「花岡はよわい。ボイボイ泣いた」
 という評判が現場を見ていなかったものにまで伝わった。横田篠崎の両名は、
「花岡君、ちょっとちょっと」
「なんだい?」
「きみの度胸を拝見しちゃったよ」
「…………」
「もうしませんから、堪忍かんにんしてください。あああああ」
 とからかう。尾沢生にいたっては、照彦様のそばを通る時、
「華族華族カンカラカン。もうしませんのカンカラカン。堪忍してくれカンカラカン」
 と歌う。
 照彦様はくやしくて仕方がない。ある日の午後、尾沢生は増長して、
「こいつの度胸はカンカラカン」
 といいながら、照彦様の耳を引っぱった。
「なにをする」
 と照彦様はもう辛抱しんぼうできなかった。いきなり一つほおげたをくらわせた。雨降りで、皆ストーヴをとりまいていた。こういう日には得て事件がおこる。尾沢生があっけにとれれている中に、
喧嘩口論けんかこうろんすべからず」
 と堀口生が割りこんだ。
「よせよせ」
 と皆も止めた。ストーヴのそばで始められてはあぶなくて困る。
「覚えていろ」
 と尾沢生がいきまいたが、その場は照彦様のなぐりどくで、物別れになった。
 しかしそれで納まるはずがない。にらみあいが数日続いた。尾沢生は相変わらずカンカラカンをやる。気のよわい照彦様は、
「内藤君、僕はもう学校へくるのがいやになった」
 といいだした。
「若様、ここで一番がんばるんです」
「どうしても喧嘩になる」
「おやりなさい」
「むこうは大勢だ」
「なあに、尾沢一人やっつければ、あとのものは黙ってしまいます」
「勝てるかしら?」
「がんばれば勝てます」
「きみも手つだうか?」
「むろんやります。ここでがんばらなければ、いつまでもだめです」
 と正三君は決心していた。この相談中へ、
「内藤君、それはいけない。きみの考えはまちがっている」と堀口生が口を出した。
「なぜ?」
喧嘩口論けんかこうろんすべからず」
「しかしはてしがない。僕たちはやるんだ」
 と正三君は腕をやくした。
「いや、いけない。僕がきれいに仲直りをしてやる。信用して、まかせてくれたまえ」
「カンカラカンなんていわせないようにできるか?」
「骨を折ってみる。僕はこの頃一日に一つよいことをしないと気がすまない。昨日きのうもおとといも不漁しけだった」
 と堀口生は改心以来、一日一善を実行している。なにもない時には往来の犬の頭をなぜてやって、一善として帳面へつける。
 やはり昼休みだった。正三君が納得なっとくしたので、堀口生は尾沢生を運動場の一隅へ呼んできた。
「なんの用だ?」
 と尾沢生は虚勢を張って強くきいた。
「物は相談だが、おい、尾沢」
「尾沢とはなんだ?」
「手前は尾沢じゃねえか?」
「お前から呼びずてにされる因縁いんねんはない」
「おい、おれとやる気か?」
「…………」
「どうもお前はよくないよ」
「よけいなお世話だい」
「やるならやろうよ。改心したって、本気になれば、お前たちの一人ひとり二人ふたりは朝飯前だ」
 と堀口生は高飛車たかびしゃに出た。元の親分だから、いざとなるとしがきく。
「お前と喧嘩するとはいわない」
「じゃだれとするんだ」
「わかってらあな」と尾沢生は照彦様をにらんだ。
「お前はそんなことでおもしろいか?」
「なにが?」
「学校へきておもしろいかよ?」
「ちっともおもしろかねえ。しゃくにさわらあ」
「そうだろうとも。おれも覚えがあらあ」
 と堀口生はうなずいて、
「おい、花岡君、こっちへ出てもらおう」
 と招いた。
「なんですか?」
「きみはおもしろいか?」
「…………」
「花岡君」
「つまりません。僕は学校がいやになった」
 と照彦様は尾沢生をにらんだ。
「そうだろうとも。おれだって察しているよ。なんと物は相談だが、尾沢君に花岡君、もっとおもしろくなる法はなかろうか?」
「…………」
「そんなににらみっこをするとヒラメになってしまうぜ。ばかばかしいじゃないか?」
「…………」
「おれたちはこれから五年毎日顔をあわせるんだ。おれだけは事によると落第するかもしれないけれどきみたちは大丈夫だ。ここばかりじゃない。都合によっちゃ高等学校も大学も一しょなんだ。おい、どうだい? いいかげんにして、仲直りをしろよ」
「…………」
「きみたちはお坊ちゃんだからいけない。世間てものがわからないから困る。苦労がたりないんだよ。早い話が、きみたちは人を助けたことがあるまい? おれは自慢じゃないが、尋常科の時に海へ落っこった女の子を助けて、おかみからごほうびをもらったことがある」
「川へ落っこった子だっていったぜ」
 と尾沢生がげ足をとった。
「大川だ。海に続いていらあ」
「海に続いていない川があるかい?」
「まぜっかえすなよ。落っこってアブアブやっているところへ通りかかったんだ。おれは着物のままで飛びこんだぜ、後から考えてみて、自分ながら驚いた。まだ泳ぎを覚えたばかりの時だからね。無鉄砲な話さ。しかし人間てものは感心だよ。かわいそうだと思うと、自分の命なんか忘れてしまう。知らない子でもこのとおりだ。あれを思うと、知った同志が喧嘩をするなんてことは考えられない。尾沢君、きみは花岡君とにらみっこをしていても、花岡君が海へ落ちたら助けるだろう?」
「あたりまえよ」
「花岡君はどうだい? 尾沢君がブクブクしたら助けるかい?」
「助けます」と照彦様はほほえんだ。
「それじゃもういいじゃないか? 仲直りをしたまえ」
「します」
「尾沢君、きみは?」
「してもいい」
 と尾沢生は苦笑にがわらいした。堀口生は年長だけにしゃべりだすとナカナカ巧者こうしゃで、結局二人を和解させた。

尾沢君と花岡君
   中直り
    一日一善 堀口改心入道

 と堀口生が黒板に書いておいた。教室へはいってきた面々は、
「やああ!」
 と喝采した。正三君はチョークを取って、堀口改心入道に○をつけた。
堀口改心入道
「賛成賛成!」
 と皆叫んだ。
「この字が違っている」
 といって、松村君が中を仲に直した。
仲直り
「賛成!」とまた手をたたく。
「なるほど人間同志だからにんベンか。ハッハハハハ」
 と堀口生は笑っていた。以前はおこったものだが、大分りこうになった。
 先生がはいってきた。習字の土井さんでナカナカのやかまし屋だ。むずかしい顔をして、黒板をふき清めて、
「諸君、落書きをしちゃいけませんぞ」
[#改段]

冬の夜の学習室






 花岡伯爵家の学習室は安斉先生ががんばっているといないで空気がちがう。他の先生がたばかりだとはなはだ楽だ。ご長男の照正様が時計を見上げて、
「先生、今晩はこれだけに願います」
 と申し出れば、一も二もない。先生がたは、
「それではこれまでといたしましょう。よくご精が出ました」
 といって、おじぎをする。しかし安斉先生が控えていると、皆一生懸命だ。若様がたもゆだんがならない。ちょっとわき見をしても、
「エヘン」と来る。
「エヘンエヘン。散乱心さんらんしんいましめてえ」
 安斉先生のおっしゃるとおりにすると、少しも息をつく間がない。学期初めには、
「若様がた、学期は初めが一番大切でございますぞ。第一週のご勉強が第二週の基礎になります。第二週のご奮発が第三週の土台になります。第三週をご辛抱なさると、それから後は習い性となって、行路坦々たんたん、ご自習が苦になりません」
 とおっしゃる。しかし学期半ばになると、
「若様がた、学期は中頃が一番大切でございますぞ。山なら頂上に達した時です。登るおりは気がはっていますから、案外にけがあやまちがありません。ようやく登りつめて、やれ安心と思った時がかえって危険でございます。高いだけに落ちるとひどい。唯今はちょうど学期半ば、ごゆだんがあってはなりませんぞ」
 とおっしゃる。それから学期末にかかると、
「若様がた、学期はおわりが一番大切でございますぞ。これは試験があるのでおわかりでしょう。おわりをまっとうしなければ、今までのご勉強がお役に立ちません。学期末になまけてわるい成績をとるものは、それ、『百日たきぎを積み、一日にしてこれを焼く。百日これを労し一日にしてこれを失う』と申して、世上の物笑いになりますぞ」
 とおっしゃる。要するにいつでも一番大切なのだ。学期中は初めも中頃もおわりも一様に勉強しなければならないから苦しい。
 最近、安斉先生がかぜをひいて三日休んだ時、学習室はややくつろいだ。
「先生はよほどおわるいとみえる。明日あしたおいでにならないようだと困るな」
 と照正様が心配そうな顔をした。
「ご老体ですから肺炎をおこすかもしれませんよ。すると今学期中お目にかかれますまい。困りますな」
 と照常様は指を折って日数を数えた。
「おなくなりになると、来学年もだめでしょう。ほんとうに困る」
 と照彦様は時計を見上げた。
「大丈夫でございますよ」
 と正三君がつい口を出した。
「どうしてわかる?」
 と照正様はあまり感心しないようだった。
「僕、夕刻ちょっとお見まいにあがったんです」
「およろしいのか?」
「はあ。しかしまだおせきがとれませんから、ご遠慮申しあげて、もう一日お休みになるようでございます」
「あさってからおいでになるんだね?」
「はあ。しかしあさっては日曜です」
「うむ。そうそう。これはありがたい」
「ごむりをなさらない方がいいね」
 と照常様がいった。
「早い。かぜの方で逃げる」
 と照彦様が警句をはいたので、一同笑いだした。
 まもなく照正様が、
「矢島先生、どうでしょうか? 今晩はこれぐらいのところにしておいては」
 と時計を見上げた。
「もうソロソロ九時ですから、けっこうでございましょう。ナカナカご精が出ました」
 と矢島先生はおじぎをして、英語の教科書をとじた。
「この時計は少し進んでいやしませんか?」
 と数学の黒須先生が自分の腕時計と見くらべて首をかしげた。
「ハッハハハ」
 と照彦様が両手で頭をおさえて笑った。
「こらこら!」と照常様が叱った。
「だいたいこれぐらいの時刻でしょう。お寒い晩ですから」
 と国語漢文の有本先生は寒ければ時計が早く進むようにいって、
「それでは照彦様、よくご精が出ました」
 とおじぎをした。黒須さんが多少がんばるだけで、ほかの二人はごきげんとり専門だ。
 若様がたは安斉先生がいるとすぐにめいめいお部屋へひきさがるが、ほかの先生がたばかりだと自習後うちとけて話しはじめる。
「矢島先生」
 と照常様がニコニコしながら呼びかけた。
「なんでございますか?」
「僕、昨日きのうおもしろい魔法を覚えてきました。先生を試験してあげます」
「それはそれは」
 と矢島先生はごく人柄ひとがらがいい。
「英語ですよ。ブラック・アートというです。なんとお訳しになりますか?」
「照常」と照正様がさえぎった。
「なんですか?」
「先生にむかって試験なんて失礼だぞ」
冗談じょうだんですよ」
「冗談でもいけない」
「それじゃ照彦、お前にきこう」
 と照常様は上でいけなければ下にむかうより外なかった。
「知りません」
「知りませんて、なにをきいたのかわかっているのか?」
「わかりません」
 と照彦様はどうせむずかしいことだろうと思って、相手にならない。
「ブラック・アートだよ」
「…………」
「ブラックアート。お前は英語を習っているじゃないか? どういう意味か一字一字考えてごらん」
「考えてもだめです」
「仕方がない奴だ」
 と照常様はあきらめて、
「内藤君、きみはわかるだろう?」
 と正三君にきいた。
「ブラックは黒です。アートは術です」
「それで?」
黒術くろじゅつ
「ハッハハハ。黒術ってなんだい?」
「わかりません」
 と正三君は残念だったが、かぶとをぬいだ。
「教えてやる。魔法のことさ。先生、ブラック・アートは魔法ですね?」
 と照常様は矢島先生にたしかめた。
「そうです。魔法か手品てじなです」
 と先生が答えた。
「みたまえ。魔法だ。覚えておくんだね。試験に及第するよ」
「はあ」と正三君はうなずいた。
「実におもしろいんだよ。なんでもあたる。皆きっと感心する」
「ここで一つ余興にやってみたらどうだい? 今夜はゆっくりでいい」
 と照正様がおおせ出された。先生がたは迷惑でも仕方がない。もっともあるいたずらものが時計を二十分進めておいた。
「それじゃさっそくながら実演をごらんにいれます。内藤君、ちょっと」
 と照常様は正三君を呼んで、しばらく耳打ちをした。正三君は続けざまにがてん首をした後、
「わかりました」とほほえんだ。
「始めます。さあ、内藤君、目をつぶっていたまえ。照彦」
「はあ」
「お前はなんでもいいから、指でさす。それを内藤君が後からあてるんだ」
「なにをさしましょう?」
「なるだけわからないものがいい」
「さあ」
「早くさせ」
「これ」
 と照彦様は自分の鼻をさした。
「よし、インプインプ」
「…………」
「内藤君、インプインプといったらきみは目をさますんだよ」
「はあ」
 と正三君は顔をおさえていた手をはずして目をあいた。
「インプというのは魔物のことだよ」
 と照常様は説明して、
「さあ。インプインプ、照彦がなにをさした?」
 ときいた。
「…………」
「このテーブルか?」
「違います」
「その電燈か?」
「違います」
「黒須先生のおめがねか?」
「違います」
「おひげか?」
「違います」
「照彦の鼻か?」
「そうです」
 と正三君はあてた。
「もう一ぺん」
 と照彦様は所望して、今度はストーヴをさした。
「インプインプ、照彦がなにをさした? そこにある石炭か?」
「違います」
「ストーヴか?」
「そうです」
 と正三君はまたあてた。
「もう一ぺん、内藤君、つぶりたまえ」
 というが早く、照彦様は正三君をさした。正三君はこれもあてた。
「さて、わからない」
 と矢島先生は首をかしげた。
摩訶不可思議まかふかしぎです」
 と有本先生が調子をあわせた。
「なあに、これは順番かなにかで手はずがきめてあるんですよ」
 と黒須先生はさもありそうなところにけんとうをつけた。
「そんなことはありません」
 と照常様が否定した。
「目くばせですか?」
ちがいます」
「それではここにないものをさしてもあたりますか?」
「なんでもあててごらんにいれます」
「一度もおききにならないで?」
「それはむずかしいです」
「ごらんなさいませ。ハッハハハ」
「そこがブラック・アートですよ」
 と矢島先生はわからないくせに応援する。
「最初おききになる時、さしたものをチラリとごらんになるんでしょう」
「そんなことはありませんよ。なんなら僕も目をつぶっていてきいてもいいです」
「それではここに全くないものをさしますが、いかがでございますか?」
「あてます。内藤君、なくてもあてるね?」
「はあ。なんでもござれです」
 と正三君は大いばりだった。
「きこえるといけませんから、書きます。内藤君、目をつぶってください」
 と頼んで、黒須先生は数学に使った紙のはしに「動物園の河馬」と鉛筆で書いた。
「嫌疑がかかるから、僕も目をつぶってやります。内藤君、きみもそのまま答えたまえ」
 とことわって、照常様は、
「インプインプ、黒須先生がなにをおさしになった?」
「…………」
「動物園にいるものだ」
「お教えになっちゃいけません」
 と黒須先生は目を見はっていた。
「虎か?」
「違います」
「ライオンか?」
「違います」
「象か?」
「違います」
「熊か?」
「違います」
「河馬か?」
「そうです」
 と正三君は目をつぶったままあてた。
「恐れいりました」と黒須先生は降参した。
「内藤君、教えてくれたまえ」
 とさっきからうらやましそうにしていた照彦様が引っぱった。
「照常様、申しあげてもよろしゅうございますか?」
「僕が説明する。先生、これは内藤君のいわゆる黒術くろじゅつです」
「黒術と申しますと?」
「黒いものの後が本物です」
「ははあ」
「河馬は熊の後でしたろう?」
「なるほど」
「ブラック・アートすなわちブラックあとです」
 と照常様は得意だった。
「英語でしゃれをいったね。あっぱれあっぱれ」
 と照正様がほめた。皆大笑いをして、有本先生が、
「これは近頃めずらしい学問をいたしました。いくえにもお礼申しあげます。早速さっそく家へ帰って、家内中を驚かしてやりましょう」
 とまず立ちじたくをした。それをきっかけに、他の先生がたも、
「若様がた、それではこれでごめんこうむります」
 といって、帰っていった。
 安斉先生は思ったよりも重くて、月曜にもおいでがなかった。
「内藤君、どんなご様子かお見まいにいってきたまえ」
 と照正様が命じた。正三君はそれでなくても案じているから、早速うかがってきて、
「もうほとんどおよろしいんですけれど、おせきがとれないそうでございます」
 と報告した。
「ご老体だから、ごむりをなさるといけない」
「そう申しあげました」
「お目にかかったのか?」
「いいえ、奥さまにそう申しあげてまいりました」
「よろしい。ご苦労」
 と照正様は安心した。
「ここ二、三日は大丈夫です」
 と照常様が喜んだ。
「なにが?」
「楽ができます」
「ばかだな」
「時計をもう十分進めましょうか?」
 と照彦様が調子づいた。安斉先生がおいでにならないと、学習室は時間まで狂ってくる。
 そのつぎに正三君が見まった時は、
「おかげさまで今朝からおきました。なんならちょっとお上がりくださいませんか?」
 と老婦人がイソイソしていった。
「いや、照彦様が待っていらっしゃいますから、これで失礼いたします」
「お目にかかりたいと申しておりましたから、ちょっといかがでございますか?」
「いや、ご老体でございますから、どうぞお大切に」
「内藤君かい?」という声が奥からきこえた。
「はあ」
「お上がり」
「どうぞ」
 とおくさんもすすめるので、正三君はもう仕方なかった。上がっていった。
「先生、いかがでございますか?」
 と初めて直接にお見まいを申しあげた。
「この間から度々ありがとう。おかげさまでもうこのとおりよくなった」
「結構でございました。しかしご老体でいらっしゃいますから……」
「ばかをいっちゃいけない」
「はあ?」
「老体だから、命をおしまん。今晩から出仕いたしますぞ」
「…………」
「どんな具合だね? 学習室は」
「皆様ご勉強でございます」
「安心した。今朝けさも有本先生がおいでになって、ナカナカご精が出るようにおっしゃった」
「…………」
「学校の方はどんなお具合だね?」
「おかわりございません」
「そのなんとかいう悪い子とのお喧嘩はどうなりましたか?」
「もうすみました」
「おやりになったか?」
 と安斉先生はひざを進めた。
「いいえ、堀口改心入道というものが間にはいって、もうすっかり仲よしになりました」
「それはよろしい」
「もうクラスの中で照彦様のことをかれこれいうものは一人もありません」
「ご苦労でした」
「いいえ」
「なに入道? その仲裁をしてくれた子は」
「改心入道でございます」
「ははあ」
「不良だったのが改心したんです」
 と正三君は昨今堀口生に感心しているところだから、最初からのいきさつを説明した。堀口生が改心したのは正三君のおかげである。そうしてそれが今回照彦様の好都合になった。ただし正三君は自分の手がらをぬきにして、照彦様本位にくわしく物語った。
「長々ご苦労でした」
「いいえ、いっこう」
「ところで、若様のお成績ですが、ご進級はむろんおかないでしょうな?」
「大丈夫でございます」
「ご進級の上、中どころの席次をおしめになるようなら、申し分ありません」
「もうほんの一息ひといきでございます」
「とうとうこぎつけましたかな?」
「はあ」
「長々ご苦労でした」
 と安斉あんざい先生は目をとじた。正三君はこの長々という意味がしかねて、
「先生」
 と呼んだ。
「なんですか?」
「私はこの上ともご奉公を申しあげる決心でございます」
「そこですよ」
「はあ?」
「内藤君、実はわしはこの間きみの兄さんに泣かされました」
「兄がうかがいましたか?」
「おいでになりました。きみを返してもらいたいとおっしゃいます。理路整然りろせいぜん、えらいものです。敬服いたしました」
「…………」
「正三には正三の天分がある。照彦様には照彦様の天分がおありです。どっちをどっちの犠牲ぎせいにしても天下国家のためにならん」
「…………」
「わしは目が覚めたような心持ちがしました。ご道理です」
「…………」
「内藤君、これが昔なら、私たちはなにをおいても若様を守り立てなければなりません。しかし時世は一変しました。内藤正三は一番内藤正三らしい人間になるのが天下国家のためです。花岡照彦は一番花岡照彦らしい人間になるのが天下国家のためです。わしは考えが違っていました。しかしあやまちを改むるにやぶさかでない。内藤君、お学友の役目は今学期かぎりでといてさしあげますぞ」
「先生」
「なんですか?」
「僕は照彦様と仲よしですから、帰りたくないです」
「ご交際とご指導は相かわらずお願い申しあげたい。しかしこの上責任をおわせることはしのびません。今までのところは後日おりをみて、わしからご両親へ謝罪しゃざい申しあげます」
「とんでもないことでございます」
「いや」
「とにかく、僕は若様にご相談申しあげます」
「立場をかえてご自由におすすめくださる分にはさしつかえありますまい。まだしばらく間のあることですから、一度ゆっくりお宅へうかがって、しかるべくとりはからいましょう」
「どうぞよろしく願います」
「若様がたへ老体今晩から出仕、ごゆだんなりませんぞと申しあげてください。ハッハハハ」
「はあ。それでは」
 と正三君は一礼して立ち上がったが、涙がホロホロこぼれた。


(『少年倶楽部』昭和二年十月号〜四年十二月号に連載)





底本:「苦心の学友」少年倶楽部文庫、講談社
   1975(昭和50)年10月16日第1刷発行
初出:「少年倶楽部」
   1927(昭和2)年10月号〜1929(昭和4)年12月号
入力:橋本泰平
校正:POKEPEEK2011
2015年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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