神の剣

GLADIUS DEI

トオマス・マン Thomas Mann

実吉捷郎訳




 ミュンヘンは輝いていた。この首都の晴れがましい広場や白い柱堂、昔ごのみの記念碑やバロック風の寺院、ほとばしる噴水や宮殿や遊園などの上には、青絹の空が照り渡りながらひろがっているし、そのひろやかな、明るい、緑で囲まれた、よく整った遠景は、美しい六月はじめのひるもやの中に横たわっている。
 小路という小路には、鳥のさえずりとひそかな歓呼が聞える。――そしてほうぼうの広場や大通りには、この美しい穏かな都の、急がぬ楽しげないとなみが、ゆれ動き、波打ち、かすかなうなりを立てている。あらゆる国々の旅客たちは、見境のない好奇の眼で、左右の家々の壁を見上げながら、小さいのろい辻馬車を乗りまわしたり、美術館の入口の階段を昇ったりしている。
 ほうぼうの窓が開け放たれていて、中から音楽が往来へもれひびいてくる。ピアノ、ヴァイオリン、またはセロなどの練習――誠実な善意な素人的な努力である。「オデオン」ではしかし、数台のグランド・ピアノを真剣に勉強しているのが聞える。
 ノオトゥングの楽旨モティイフを口笛に吹いたり、夜になると、近代的な劇場のうしろの座席をみたしたりする若い人たちは、上着の横がくしに文学雑誌を入れたまま、大学や国立図書館を出つ入りつしている。トルコ街と凱旋門との間に、白い両腕をひろげた美術学校の前には、宮廷馬車が一台とまっている。そして表階段の一番上には、色あざやかな幾群をなして、モデルたちが――絵のような老人や子供や女たちが、アルバニア山地の服装で、立ったり腰かけたりしゃがんだりしている。
 北のほうの長い往来には、いたるところに遊惰とのんきな漫歩とがある――人々は別段、獲得慾にかり立てられたり、身を食われたりすることもなく、のどかな目的を追うて生きているのである。丸い小帽子をあみだに、ゆるい襟飾りで、ステッキを持たぬ若い芸術家たち――いろどったスケッチで家賃を払う気軽な連中は、この薄青む午前に気分をひたそうとして散歩しながら、小さな娘たちのあとを見送っている。薄茶の鉢巻リボンと、少し大きすぎる足と、かけかまいのない風儀とを持った、あのかわいらしい、がっしりした型の娘たちである。――五軒目ごとぐらいに、画房の窓ガラスが、日光にきらきら輝く。ときおり、平俗な建物の連続を破って、芸術建築が現われる。空想に富む若い建築家の手に成ったもので、幅が広く迫持せりもちが低く、奇怪な装飾があり、機智と様式にみちている。と思うと、ひどく退屈な表口についた扉が、思いがけずある大胆な即興の意匠で、流暢な線とあざやかな色とで――酒徒バッカント水精ニンフや、ばら色の裸形などで、ふちどられていたりする。
 美術品店の陳列窓や、近代的奢侈品の売店などの前に低徊するのは、いつもそのたびにおもしろいものである。あらゆる品々の姿の中に、なんとおびただしい空想的な愉楽、なんとおびただしい線の諧謔があることか。いたるところに、彫塑や額縁や骨董などの小店が散在していて、その飾り窓からは、フロレンス十五世紀風の婦人の胸像が、けだかい皮肉をたたえながら君のほうを眺めている。そしてこういう店のうち、一番小さな一番安い店の主人でも、ドナテロだのミノ・ダ・フィエエゾレだののことを、君に話す。それがまるで複製権をそういう人たちから、じかに受け取ったような話し振りなのである。――
 ところが、あのむこうのオデオン広場では、広いモザイクの平面を前に控えた雄大な外廊に面して、また国王の宮殿と斜めに向い合ったところに、おおぜいの人たちが、あの大きな美術商館――ブリュウテンツワイク氏の宏壮な美術品店の、幅の広い窓や陳列棚の前でひしめいている。なんと快くも見事な陳列であろう。地上のあらゆる美術館にある傑作の複製が、洗練された色調と装飾の、けだかく単純な趣味の高価な額縁に入っている。近代画の模写――感覚を楽しむ空想がある。そこには、古典が朗らかにしかも現実によみがえっているかと思われる。またルネッサンスの彫刻の完全な模型がある。ブロンズの裸形や、すぐこわれそうな飾りコップがある。鉱泉の中からきらめく色の蔽いを着て出て来た、けずったような形の土製の花瓶がある。立派な書籍――新しい装幀術の勝利がある。装飾的で上品な華麗に包まれた流行抒情詩人たちの作品である。それらにまじって、芸術家や音楽家や哲学者や俳優や詩人などの肖像が、私的なことを好む民衆の好奇心のためにかかっている。――隣の書房に最も近い第一の窓の中には、一枚の大幅たいふくが画架にかかっていて、その前に群衆がせきとめられている。赤褐の色調で仕上げられた立派な写真で、幅の広い古金の額に入っている。大いに人目をひく作品である。これは今年の国際大展覧会の呼び物になっている画の複製なのである。その展覧会には、ほうぼうの広告柱で、音楽会の予告や化粧品の、芸術的にできた推賞にまじって、古風好みの有効なビラが訪問を勧誘している。
 眼を転じて、書房の窓をのぞいて見給え。君の眼は『ルネッサンス以来の住宅建築術』とか『色彩感覚の教育』とか『近代応用美術におけるルネッサンス』とか『芸術品としての書籍』とか『装幀芸術』とか『芸術への饑餓』とかいう標題にぶつかる。――そしてこういう啓世の書が、何千となく買われ読まれ、また夜はこれと同じ題目について、満員の諸会館で講演が行われるということも、君はぜひ知っておかねばならぬ。――
 もし運がよければ、君は、いつもみんなが芸術をなかだちとして見ることになれている、あの有名な女性たちのだれかに、親しく出会うことができる。あのわざとこしらえたティツィアン風の金髪とダイヤモンドの飾りとを持つ、裕福な美しい婦人たち、そのあでやかな顔立ちには、天才的な肖像画家の手で、永遠が与えられ、その恋愛生活は市中の評判になっている――カアネヴァルの芸術家祭の女王たち、いささか粉黛ふんたいを施し、いささか彩色を加えていて、上品な皮肉をたたえ、媚態に富み、崇拝に価する――そういう婦人たちのだれかに。ところで、あそこを見たまえ。ある著名な画家が、恋人と一緒に、馬車でルドウィヒ街を走ってゆく。みんなその乗り物を指さし合っている。みんな足をとめて、二人を見送っている。挨拶をする人もずいぶん多い。もう少しで、巡査が垣でも作りそうな勢いだ。
 芸術は栄えている。芸術は支配者の位置にある。芸術はばらを捲いたしゃくを、この都の上にさしのべて、ほほえんでいる。各方面の人々が、うやうやしくその隆昌に参与し、各方面の人々が、それに仕えて熱心に献身的に、技を練り宣伝に努め、線と装飾と形と感覚と美との、忠誠な礼拝をおこなっているのである。――ミュンヘンは輝いていた。

 一人の青年が、シェリング街を大股に歩いて行った。四方から自転車のベルの音を浴びせられながら、木煉瓦の鋪道のまんなかを、ルドウィヒ寺院の広い正面にむかって、歩いて行くのである。青年の様子を見れば、太陽のおもてを陰がかすめるような、または心のおもてを、悩ましかった時の思い出がかすめるような気がする。この美しい都を祭日の輝きにひたしているあの太陽を、彼は好まぬのであろうか。なぜ彼は世にそむいて、おのれのうちに閉じこもりながら、視線を地に落したなり歩いているのであろう。
 彼は帽子をかぶらずに――この気軽な都では服装が自由なので、だれ一人それをとがめる者はないのである――その代りゆるやかな黒い外套の頭巾で、頭を覆っている。それが彼の狭い角張かくばって突き出た額に影を落し、耳を隠し、やせた頬をふちどっている。どんな良心の懊悩、どんな狐疑、どんな自己虐待が、この頬をかくもおちくぼませる力を持っていたのだろう。こういう晴れやかな日に、憂苦が或る人間の頬に棲んでいるのを見るというのは、戦慄すべきことではないか。彼の黒い眉毛は、大きくこぶのごとく顔から飛び出た鼻の細い附根のところで、ひどく濃くなっている。そして唇は厚くふくれている。かなり近く寄り合った茶色の両眼を挙げるたびに、角張った額には横皺がいくつもできる。物を見る時は、なにもかも知っているような、偏屈な悩ましげな表情で見る。横から見ると、この顔は僧侶の手になったある古い肖像とそっくりである。フロレンスのある狭いわびしい僧房に蔵せられている肖像で、その僧房とは、かつて昔そこから、生命とその勝利に対する、すさまじい猛烈な抗弁が発せられたところなのである。――
 ヒエロニムスはシェリング街を進んで行った。寛濶な外套を内側から両手で合わせながら、ゆるやかな堅実な歩調で進んで行く。二人のまだ小さな娘――鉢巻リボンと、大きすぎる足と、無遠慮な風儀とを持つ、かわいいがんじょうな娘たちの中の二人が、腕を組み合わせて、事あれかしという様子で、彼とゆっくりすれ違ったが、互いに肱を突つき合って、笑って前かがみになったと思うと、彼の頭巾と彼の顔を笑って笑って、とうとうかけ出してしまった。しかし彼はそんなことは気にもとめなかった。首を垂れたまま、右も左も見ずに、ルドウィヒ街を突っ切ると、寺院の階段を昇って行った。
 中央の入口の大きな開き扉は、ひろく開かれていた。冷やかな、よどんだような、供物の煙を含んだ神聖な薄明りの中には、どこか遠くのほうに、おぼろげな赤味がかった輝きが見えている。充血した眼の老婆が一人、祈祷台から身を起して、松葉杖にすがりながら、柱の間をよちよちと縫って行った。寺院の中には、そのほかになんの人影もない。
 ヒエロニムスは水盤のところで、額と胸をうるおしてから、神壇の前にひざまずくと、今度は中堂の中に立ちどまった。彼の姿は、この寺院の中で見ると、大きくなったように思われはしないか。屹然として身動きもせず、勢いよく頭をあげたなり、彼はそこに立っている。例の大きな、こぶのような鼻は剛愎な表情で、厚い唇の上に突き出ているように見えるし、眼ももはや下を向いてはいないで、大胆にまっすぐに遠くのほうを――神壇の上にある磔像のほうを見つめているのである。そのままで、彼はしばらく凝然とたたずんでいたが、やがてあとすざりながら、ふたたびひざまずいてから寺院を出た。
 彼はルドウィヒ街を上って行った。ゆるやかにしっかりと、首を垂れたまま、鋪石のないひろい車道のまんなかを、塑像で飾られた巨大な外廊へむかって、歩いてゆくのである。が、オデオン広場まで来た時、彼は眼をあげた――すると、角張った額に横皺ができた――そして足をゆるめた。あの大きな美術商館、ブリュウテンツワイク氏の手びろい美術品店の陳列窓に、おおぜい人がたかっているのに目をひかれたのである。
 みんなは窓から窓へと歩いて、互いにひとの肩越しにのぞき込みながら、並べてある貴重な品々を指さし合っては、意見を交換していた。ヒエロニムスはその群に入り込んで、自分もまたそこにあるいっさいの品々を、一つ一つ残らずながめはじめ、点検しはじめた。
 彼は地上のあらゆる美術館にある傑作の模写や、簡素で奇妙な模様の高価な額縁や、ルネッサンスの彫刻や、ブロンズの裸形や、飾りコップや、きらきら光る花瓶や、装幀や、さては芸術家、音楽家、哲学者、俳優、詩人の肖像などを見た。残らずよく見た。一々の品を一瞬の間みつめた。外套を内側から両手で合わせたまま、例の頭巾で覆われた頭を、小さくこまかく動かしながら、品から品へと移してゆく。鼻根のところでひどく濃くなっている黒い眉は釣り上げられて、その眉の下から両眼がふしぎそうな、鈍い、冷たくあきれたような表情で、あらゆる品々を一々しばらく見つめる。こうして彼はあの第一の窓に達した。くだんの大評判の画が置いてある窓である。彼はちょっとの間、自分の前にひしめく人たちの肩越しにながめていたが、ようやく前のほうに出て、陳列窓のすぐそばに寄った。
 大きな赤褐色の写真は、秀絶な趣味の古金の額に入って、画架に乗ったなり、その窓のまんなかに立っている。それはあるマドンナであった。きわめて近代的な感覚を通した、いっさいの因習を脱した自由な作品だった。この聖母の姿は魅するような女らしさがあり、裸形で美しかった。大きな重苦しい眼のまわりには、黒ずんだ縁があって、優しく奇妙に微笑している唇は、なかばひらかれたままだった。少しいらいらと引き釣ったように並んだ細い指が、子供の腰をかかえている。それは際立って、ほとんど原始的に、ほっそりした裸の男の子で、彼女の乳房をもてあそびながら、見る人にさかしげなながしめを向けているのである。
 ほかに二人の青年が、ヒエロニムスと並んで立ちながら、この画について話し合っていた。国立図書館から持ってきたか、あるいはこれからそこへ持ってゆくかする書物を小脇に抱えた、二人の若い男で、芸術と科学に通暁している、古典的教養を持った人たちである。
「あの小僧め、うまくやっているな、まったく。」と一人がいった。
「それにあいつ、たしかにわざわざ人を羨ましがらせようとしているね。」ともう一人が答えた。――「なんだかけんのんな女じゃないか。」
「人を気違いにする女だ。純潔な受胎という教理が少し疑わしくなるよ。」――
「うん、まったくだ。この女の印象はかなり貞潔じゃないね。――君は原画を見たのかい。」
「見たとも。すっかりやられちゃったよ。色があると、これがもっとずっと肉感的に見えるんだ――ことにあの眼がね。」
「よく見ると、やっぱりたしかに似ているなあ。」
「というと?」
「君はモデルを知らないのかい。あの男は君、情婦の小間物屋の女を、これに使ったんじゃないか。これはほとんど肖像だといってもいいくらいさ。ただ自堕落なほうへ、ずっと引き寄せて描いてあるだけだ――あの小さな女はもっと罪がないよ。」
「そうあってほしいね。もしこんな mater amata(恋の母)のようなのがたくさんいるとしたら、人生は苦しすぎるだろうからな。」――
「美術館がこれを買ったんだよ。」
「ほんとかい。なるほどね。美術館もともかく眼があるんだね。この肉の扱いかたと、着物の線の流れかたは実際たいしたもんだ。」
「うん。うそのように天分のある男さ。」
「君知っているのかい。」
「ちょっと知っている。あいつは出世するよ。きっとするよ。もう二度も国主の御陪食をしたんだもの。」――
 しまいのほうは、もう互いに別れを告げはじめながら、話したのである。
「今晩の芝居で君に逢えるかしら。」と一人が問うた。「戯曲協会がマキャヴェリのマンドラゴラをやるんだが。」
「ほう、すてきだね。そりゃきっと面白いだろう。僕は芸術寄席に行く積りだったんだが、結局、あの勇敢なニコロのほうを取ることになるかもしれない。じゃまた。」――
 二人は別れて引きさがって、右と左へそれぞれ歩いて行った。さらに新しい人々が、二人のいた場所へ詰めかけて、この大当りの画をながめた。しかしヒエロニムスはみじろぎもせず、もとのところに突っ立っていた。彼は首を前にさし伸べたなり立っている。そして胸のところで、外套を内側から合わせている両手の、痙攣的に握りかためられているのが見える。眉はもはや、あの冷やかな、少し悪意を帯びた驚きの表情で釣り上げられてはいず、さがって暗くなっているし、黒頭巾で半ば隠された頬は、さっきよりもこけたように見えるし、また厚い唇はすっかり蒼ざめているのである。頭はおもむろにだんだん低く垂れていって、しまいに彼は全く上眼づかいに、凝然と例の芸術品を見つめるようになった。大きな鼻の両翼がふるえている。
 こういう姿勢のまま、ものの十五分ばかりも、彼はじっとしていた。周囲の人々は入れ代ってゆくのに、彼はその場を動かなかった。が、とうとうしまいに、ゆっくりゆっくりきびすをめぐらして立ち去った。

 しかしマドンナの画は彼にいて行った。自分の狭いわびしい小部屋にいようが、または冷やかな寺院の中でひざまずいていようが、どんな時でも、その画は彼の憤激した魂の前にあった。重苦しい、くまのできた眼と、謎のように微笑する唇とをもって、裸形で、美しく。そしていかなる祈りも、それを追いやることはできないのだった。
 ところがそれから三晩目に、天上からの号令がヒエロニムスへむかってくだるに至った。干渉せよ、そして軽佻な冒涜と、厚顔な美的僭越とに反抗して、声を挙げよという号令である。彼はモオゼと同じように、自分の気弱な舌をいいわけにしたが、むだであった。神の意志は動かすべくもなかった。それは笑い声をあげている敵の中へ、身を捨てて乗り込んでゆくことを、内気な彼にむかって要求したのである。
 そこで彼はその午前に家を出ると、神の意志によって、道をあの美術商館へ、ブリュウテンツワイク氏の大きな美術品店へと取った。頭にはいつもの頭巾をいただいて、外套を内側から両手で合わせながら、彼はゆったりと歩いて行った。

 むしあつくなっていた。空は色を失って、雷雨がせまっている。またしても大群衆が、例の美術商の飾り窓に、とりわけあのマドンナの画のある窓に陣取っている。ヒエロニムスはそっちへただ短かい一瞥を投げただけだった。それから広告や美術雑誌のつるさがっている、ガラス扉の把手をつかんだ。「神の意志だ。」と彼はいって、店の中へ歩み入った。
 とある写字台によって、大きな帳簿になにか書いていた一人の若い娘――鉢巻リボンと大きすぎる足とを持った栗色の髪のかわいい少女が、彼のほうへやって来て、何御用ですか、と愛想よく問うた。
「ありがとう。」とヒエロニムスは小声でいって、角張った額に横皺を寄せながら、まじめにじっと彼女の眼を見つめた。「僕のお話ししたいのはあなたじゃなくて、お店の御主人ブリュウテンツワイクさんです。」
 いくらかためらうようにして少女は彼から身を引くと、また仕事に取りかかった。彼は店のまんなかに立っていた。
 外の飾り窓に個々の見本として展覧してあるものが、この店の中では、どれもこれも二十倍にもなって積み上げられ、あふれるばかりひろげられている。――色と線と形、様式と機智と高い趣味と美とが、みちみちているのである。ヒエロニムスはゆっくり両側をながめてから、黒外套のひだになお固く身をくるんだ。
 店の中には五六人の人がいた。部屋を斜めに走っている幅の広いテエブルに、黄色い服の、黒いやぎひげをはやした紳士がついていて、フランスの画帖をながめながら、時々やぎの鳴くような笑い声を立てている。薄給と菜食の相を備えた若い男が彼に侍していて、さらに新しい画帖を運んで来ては、彼に見せている。このやぎのごとく笑う紳士と斜めにむかい合って、一人の老貴婦人が近代的な芸術刺繍を吟味している。浅い色の大きいふしぎな花が、長いぎごちない茎に乗って、垂直に並列している図案なのである。老婦人のそばにもまた、一人の店員が孜々ししとしてかしずいている。もう一つのテエブルには、鳥打帽をかぶって木のパイプをくわえたなり、一人のイギリス人がぞんざいに座を占めている。手堅い身なりで、無髯で冷酷で、年はいくつとも定めがたいこの男は、ブリュウテンツワイク氏が自ら運んで来るブロンズの中から、あれこれと選んでいる。あの小さな女の子のかわいい裸像の、まだ成熟せぬきゃしゃなからだつきで、小さい両手を、あでやかにも清らかに胸の上に交叉させているのを、いま彼は頭のところをつかんで、ゆっくり廻しながら、仔細に調べているのである。
 ブリュウテンツワイク氏は短かい鳶色の鬚髯しゅぜんと、同じ色の鋭く光る眼とを持った男で、もみ手をしながら、イギリス人のまわりをぐるぐる廻っては、思いつく限りの語彙で、その少女をほめ上げている。
「百五十マルクで、へい。」と彼は英語でいった。「ミュンヘン芸術でございまして。誠にどうも愛らしくできております。充分人をひきつけますな。優雅そのものでございますよ、へい。まったくすこぶるきれいでかわいくて、感嘆に値するものでございます。」といってから、まだなにか思いついてこういった。「この上なく魅力に富んだ蠱惑的な作でございますな。」それから今度は、また初めからやり直すのであった。
 鼻が上唇の上にやや平たく坐っているので、彼はたえず軽くあえぐような音を立てて、口ひげの中へ鼻息をもらしていた。同時におりおり小腰をかがめながら、まるで匂いでもかぐように、買手のほうへ近寄って行く。ヒエロニムスが入って来た時、ブリュウテンツワイク氏はちょうどそういう風に、彼の様子をちらっと吟味したが、しかしたちまちまた、イギリス人のほうにかかりきってしまった。
 貴婦人は選択を終って、店を立ち去った。新来の紳士が歩み入った。ブリュウテンツワイク氏は購買力の程度を調べようとするかのように、その紳士をちょっとかいでみた後、彼のもてなしを例の若い簿記掛の女にまかせてしまった。紳士は、二代目メジチの息ピエロの陶製の胸像を一つ買ったきりで、立ち去った。イギリス人ももう帰りかけていた。彼はあの小さな女の子を買い取って、ブリュウテンツワイク氏が何度も腰をかがめるうちに出て行った。さてそれからこの美術商は、ヒエロニムスのほうに向き直って、彼の前に突っ立った。
「御用は。」と、彼はあまり丁寧でなくたずねた。
 ヒエロニムスは外套を内側から両手でしっかりと合わせて、ブリュウテンツワイク氏の顔をほとんどまたたきもせずに見つめた。おもむろに厚い唇をひらくと、彼はこういった。
「僕はあそこの窓に出ている画のことで、あなたのところへ来ました。あの大きな写真です。マドンナです。」――彼の声はしわがれていて、ちっとも抑揚がなかった。
「ははあ、なるほど。」とブリュウテンツワイク氏は勢いよくいって、両手をもみはじめた。「額縁とも七十マルクですな。これは動かないところで――実に一流の複製です。この上なく魅力に富んだ、ほれぼれするような作です。」
 ヒエロニムスは黙っていた。美術商がしゃべっている間、彼は頭巾ごと首をかしげたまま、少しぐったりとしおれてしまったが、やがてまたきっと身を起してこういった。
「前もっていっておきますが、僕はなにか買うような力もないし、またてんからそんな気はないのですよ。御期待に背かなければならないのは残念です。もしそれを苦痛と思われるなら、お気の毒に感じます。しかし第一に僕は貧乏だし、また第二に、あなたの売っておられる品が、僕は嫌いなのですからね。ほんとに僕はなんにも買うことはできないのです。」
「できない……なるほどできないのですか。」とブリュウテンツワイク氏はいって、烈しく鼻息をした。「そんならちょっと伺いたいが……」
「僕の知っていると思うあなたの性質からすれば、」とヒエロニムスは続けた。「あなたは僕がなんにもあなたから買う力がないというので、僕を軽蔑なさるでしょう。」――
「ふむ。」とブリュウテンツワイク氏はいった。「そんなことはありませんよ。ただね……」
「それでもお願いですから、どうか僕のいうことに耳をかして下さい。そして僕の言葉に重きを置いて下さい。」
「重きを置くか。ふむ。ちょっと伺いたいが……」
「なんでもおたずね下さい。」とヒエロニムスはいった。「そうすれば僕は答えてあげますから。僕はあの画を、あの大きな写真を、マドンナを、今すぐにあなたの飾り窓から取りのけて下さるように、そしてもう二度とふたたび展覧なさらないようにお願いしようと思って来たのです。」
 ブリュウテンツワイク氏はしばらく物もいわずに、ヒエロニムスの顔を見つめていた。相手が自分でいった思い切った言葉のためにまごつきだすことを、さながらいどむかのような表情で、見つめたのである。ところが、いっこうそんなことにならないから、そこで彼はひどく鼻息を吹いて、押し出すようにこういった。
「どうかちょっといっていただきたいが、いったいあなたは、わたしにいろいろ指図する権利があるような、なにかおおやけの資格でも持っておられるのですかな。それともぜんたい、ここへ来られた動機というのは……」
「いいえ、どうしまして。」とヒエロニムスは答えた。「僕は国家による職務も権威もありはしません。権力は僕の味方じゃないのですからね。僕をここへ来させたのは、単に僕の良心だけなのです。」
 ブリュウテンツワイク氏は、いうべき文句を求めながら、首をあちこち振り動かすと同時に、口ひげの中へ烈しく鼻息を吹き込んで、一生懸命に口を利こうともがいた。やっとのことで彼はいった。
「あなたの良心……そうか、そんならどうか……ちょっと承知しといてもらいたいが……あなたの良心なんぞわれわれにとっちゃ……まるっきりくだらない仕掛だね。」――
 そういったなり、くるりとうしろを向くと、彼は急ぎ足で店の奥にある自分の机まで行って、物を書きはじめた。二人の店員はさもおかしそうに笑った。あのきれいな女店員も、帳簿に蔽いかぶさって、くすくす笑った。例の黒いやぎひげをはやした黄色い紳士はどうかというに、彼は外国人だということが明らかになった。なぜなら、彼はたしかに今の会話は一言もわからぬらしく、ただ時々例のやぎの鳴くような笑い声をひびかせながら、依然としてフランスの画帖にかかりきっていたからである。――
「君、その人を始末しちまってくれないか。」と、ブリュウテンツワイク氏は肩越しに助手のほうへ言った。それからまた書きつづけた。薄給と菜食の相を備えた若い男は、むきになって笑いを殺そうとしながら、ヒエロニムスのところへ歩み寄った。もう一人の店員も近づいて来た。
「ほかになにか御用はありませんか。」と薄給の男が穏かに問うた。ヒエロニムスは悩ましい鈍い、それでいて突き透るようなまなざしを、じいっとその男に据えた。
「いいえ。」と彼はいった。「ほかにはなんの用もありません。お願いですから、あのマドンナの画を今すぐにあの窓からどけて下さい。それも永久にです。」
「ほう……なぜですかね。」
「あれは神の聖母ですよ。」と、ヒエロニムスは声を落していった。
「それはそうです。……でも今お聞きの通り、ブリュウテンツワイクさんは、あなたの御希望をかなえてあげるお気持がないのですからね。」
「あれが神の聖母だということを、よく考えてみなくてはいけません。」とヒエロニムスはいった。頭が小刻みにふるえている。
「それはごもっともです――が、だからどうだとおっしゃるのですね。マドンナを展覧してはいけないのですか。描いてはいけないのですか。」
「そういう意味じゃない。そういう意味じゃない。」と、ヒエロニムスはほとんどささやくようにいうと同時に、高く伸びあがって、何度も烈しく頭を振った。頭巾の下の角張った額には、一面に長い深い横皺が刻まれている。「あなたもよくご存じでしょう。あそこに或る人間が描いたものは、あれは罪悪そのものです。――むきだしの淫慾じゃありませんか。あのマドンナの画を観ていた二人の純ななにも知らぬ人たちが、あれを見ると、純潔な受胎という教理が疑わしくなるといっていたのを、僕はこの耳でたしかに聞いたのですよ……」
「失礼ですが、そんなことは問題じゃありませんね。」と、若い店員は見くだしたように微笑しながらいった。彼はひまなおりおりに、近代の芸術運動について小冊子を書いているほどで、高級な会話をまじえる力は充分持っているのである。「あの画は芸術品なのですから、」と彼は続けた。「それに相当した物差を当てなけりゃなりませんよ。あの画は各方面に非常な喝采を博しました。政府はあれを買い上げたのですよ。」
「政府が買い上げたことは僕知っています。」とヒエロニムスはいった。「それからあの画家が二度も国主の御陪食をしたことも知っています。それは世間のうわさにのぼっているのです。そしてある人間がこんな作品のために多大の尊敬を博するという事実を、世間はいったいどう解釈するか、それは神様だけがご存じです。この事実はなにを証明しますか。世人の盲目を証明するのです。恥知らずの偽善に基づいていると思わなければ、理解することのできない盲目をです。あの画は肉慾から生れたものですよ。そうして肉慾で享楽せられているのですよ。――これは本当でしょうか。それともうそでしょうか。答えてごらんなさい。あなたも答えてごらんなさい、ブリュウテンツワイクさん。」
 言葉がちょっと途絶えた。ヒエロニムスは本気になって答を要求しているらしく、例の悩ましげな突き透るような眼で、自分のほうを珍しそうにあきれて凝視している二人の店員と、それからブリュウテンツワイク氏の丸い背中とを、かわるがわるながめた。店はしんと静まり返っていた。ただ黒いやぎひげをはやした黄色い紳士だけが、フランスの画帖の上に身をかがめたなり、やぎの鳴くような笑い声を立てている。
「それは本当なのです。」とヒエロニムスはつづけた。かすれた声の中には、深い憤激がふるえている。――「あなたがたはそれを否定する勇気がないじゃありませんか。しかしそれならどうしてこの画の作者を、まるでその男が人類の宝を一つふやしでもしたように、まじめになって賞めたたえることができるのでしょう。またそれならどうしてその画の前に立って、その画が与える卑しい享楽に平気で身を任せて、しかも美という言葉でもって良心を黙らせてしまう――いやそれどころか、そうやっていれば、自分はある貴い高級な、人間としてどこまでも立派な心境にあるのだと、自分で自分に吹き込む――どうしてそんなことができるのでしょう。これは奸悪な無智でしょうか。それとも不埒な偽善でしょうか。僕の理智はここまで来ると立ちどまってしまいます――ある人間が自分の獣慾をおぞましくずうずうしく発表することによって、地上最高の名声を博し得るという、このばかげきった事実の前で、僕の理智は立ちどまってしまうのです。――美……美とはなんですか。美は何によって現わされ、何に対して作用しますか。これを知らないなんということは不可能ですよ、ブリュウテンツワイクさん。ところで、ある事柄をこれほどまで見抜いていながら、その事柄に画して、嫌悪と悲痛に心がみたされないとは、どうして考えられるでしょう。恥を知らぬ子供や、厚かましい無遠慮者の無智を、称揚と怪しからぬ美の礼讃とでもって、是認し鼓舞し権力づけるというのは、それは罪悪です。なぜなら、そういう無智は、悩みとは縁のない、解脱とはなおさら縁遠いものだからです。――君は暗い見かたをしているよ、どこの人だか知らないが、とあなたがたは僕に答えるでしょう。それなら僕はいいますが、知というものは、この世の最も深い苦悩なのですよ。けれどもそれは煉獄の火です。その火に浄められる苦痛を経なければ、どんな人間の魂も救われることはできないのです。厚かましい童心や罰当りな奔放が、救いをもたらすのではありませんよ、ブリュウテンツワイクさん、救う力があるのは、われわれのいとわしい肉の情熱を、死に絶えさせ、消え果てさせる、あの認識なのです。」
 沈黙。――黒いやぎひげをはやした黄色い紳士が、短かくやぎのように鳴いた。
「さあ、もうお帰りになるほかはありますまい。」と、薄給の男が物柔かにいった。
 しかしヒエロニムスは、いっこう帰りそうなけしきもなかった。頭巾つきの外套に包まれて、ぐっと反り身になったまま、燃えるような眼をして、彼は美術品店のまんなかに突っ立っている。そして彼の厚い唇は、硬いさびついたようなひびきをこめて、とめどもない呪詛の言葉を作り成していった……
「芸術だ。享楽だ。美だ。この世を美で包んで、いっさいの事物に様式の高貴を与えろ、と彼等は叫んでいる。――やめてくれ、無頼漢ども。お前たちはこの世の悲惨を、けばけばしい色で塗り隠せると思うのか。悩める大地のうめき声を、豊潤な美感のお祭り騒ぎで消してしまえると信ずるのか。それは違うぞ、恥知らずども。神を嘲けることはできないのだ。神の眼から見れば、ぎらぎらする表面に対する、お前たちの厚顔な偶像礼拝は、恐るべき悪行なのだ。――どこの人だか知らないが、お前は芸術を侮辱しているとあなたがたは答えるでしょう。それならいいますが、あなたがたのいうことはうそですよ。僕は芸術を侮辱しはしない。芸術というものは、人を誘惑して、肉的生活の鼓舞と是認にかり立てるような、そんな破廉恥な詐欺じゃありません。芸術とは、人生のあらゆるおそろしい深みへも、恥と悲しみとにみちたあらゆる淵の中へも、慈悲深く光を射し入れる神聖な炬火たいまつです。芸術とは、この世に点ぜられた神々しい火です。この世を燃え上らせて、そのすべての汚辱と苛責ごと、救いをもたらす憐憫のうちに消滅してしまわせるために、点ぜられた火なのです。――おどけなさい、ブリュウテンツワイクさん、あの有名な画家の作品をあなたの窓からおどけなさい――いや、あの画を猛火で焼いて、その灰を四方へ撒きちらしてしまったらいいでしょう、四方八方へ……」
 彼の聞きづらい声がはたとやんだ。彼はぱっと一足あとへさがって、片方の腕を黒外套の蔽いからはねのけると、激越なしぐさで、その腕を長くさしのべて、妙にゆがんだ、痙攣的にぶるぶるふるえる手で、陳列のほうを、飾り窓のほうを、あの大評判のマドンナの画がおいてある方角を指さした。この威圧的な態度のまま、彼はじっと動かなかった。大きな、こぶめいた鼻は、指揮者のような表情で、なお突き出たかと思われるし、太い、鼻根のところでひどく濃くなっている眉は、ずっと高く釣り上ってしまって、頭巾の陰の角張った額は、一面に横皺で埋まっているし、それにくぼんだ頬の上のところは、消耗熱で紅く燃えているのである。
 ところがこの時、ブリュウテンツワイク氏がくるりと振り返った。七十マルクの複製を焼いてしまえという強要が、彼を本当に心から憤慨させたのか、あるいはヒエロニムスの弁舌そのものが、とうとう彼に堪忍袋の緒を切らせたのか、どっちにしても、彼の姿はただしい烈しい憤怒を画にしたものだった。ペン軸で店の出口を指さすと、二三度短かく荒く口ひげの中へ息を吹き込んで、一生懸命にものをいおうとしてもがいた後、ようやくきわめて荘重に口を切った。
「やい、この野郎、たった今ここから消えてなくならなけりゃ、荷作り人夫を呼んで、引っ込み易くしてやるぞ。わかったか。」
「なに、そんなことでおどかされるもんですか。逐い出されるもんですか。僕の声が消されるもんですか。」とヒエロニムスはさけんだ、のどもとに拳を作って、頭巾の前をつかみ合わせたまま、恐れる色もなく首を振りながら。――「僕はひとりぼっちで権力もない。それは知っている。それでもあなたが僕のいうことを聞き入れて下さるまでは、僕は黙らないのです、ブリュウテンツワイクさん。あの画を窓からとりのけて、今日にも焼いておしまいなさい。いや、あの画だけを焼いてしまえばいいんじゃない。見る人を罪におとすこういう小像や胸像も、焼いておしまいなさい。こういう花瓶や飾り物も、この恥知らずな異端の生れ変りも、この贅沢に飾り立てた恋愛詩も焼いておしまいなさい。あなたの店にあるものは、なにもかもみんな焼いておしまいなさい、ブリュウテンツワイクさん。なぜといって、こんなものは神の眼から見れば、みんな汚物なのです。なにもかも残らず焼いて焼いて焼き払っておしまいなさい。」と、彼は手でぐるりと一つ、大きく荒々しく輪を描きながら、夢中になって叫んだ……「収穫とりいれは熟して刈り手を待っている……現代の厚顔無恥はあらゆる堤防を破った……しかし僕はいうのだ……」
「おい。クラウトフウベル。」と、ブリュウテンツワイク氏は奥の扉の一つに振り向きながら、むきになって声を振りしぼった。「すぐここへ来てくれ。」
 この命令に応じて場面に現われたものは、どっしりとした厖大なある物――奇怪なふくれ上った、見ていて物凄くなるほど、ふとり返った人間の姿だった。はれてり上って、詰め物をしたようなその四肢は、いたるところで不恰好に境目もなくつらなり合っている。――それはおもむろにずしんずしんと床をふみならして、苦しそうに息を切らしている、もやしで養われた法外な巨人の姿だった。おそるべくたくましい民衆の子だった。ふさのようなあざらしひげが、はるか上のほうの顔に生えている。大きな、糊まみれの革前垂が、からだを覆っている。そしてシャツの黄色い袖口は、伝説めいた腕からまくり返してある。
「その人に戸をあけてやってくれ、クラウトフウベル。」とブリュウテンツワイク氏がいった。「だが、もしそれでも出て行かなかったら、往来へつまみ出しちまえ。」
「へえ!」とその男は小さな象の眼で、ヒエロニムスと、怒りたけっている雇主とを、かわるがわる眺めながらいった。――それは、やっとせきとめられている力が立てる、鈍いひびきだった。それから彼は、足音で身のまわりの物を残らずぐらつかせながら、戸口まで行って扉をあけた。
 ヒエロニムスは真青になっていた。「焼いておしまいなさい……」と彼はいおうとしたが、もうその時はおそろしい怪力のために、くるりと向きを換えさせられてしまって――それはとても抵抗なんぞということを考えさせぬような、肉体の重圧なのであった――ずるずると、とめどなく戸口のほうへ押しやられてしまうのを感じた。
「僕は非力だ……」と彼はかろうじていった。「僕の肉は暴力に耐えない……とても抵抗はできない。だめだ……しかしそれがなんの証明になる。焼いてしまえ……」
 彼は口を閉じた。もう美術商館の外にいたのである。ブリュウテンツワイク氏の巨大なしもべは、最後に軽く突き飛ばすようにして彼を放してやったので、彼は片手でからだを支えたなり、横ざまに石段の上に倒れてしまった。そして彼を出したあと、ガラス扉はがたんとしまった。
 彼は身を起した。まっすぐに突っ立って苦しげにあえぎながら、片方の拳でのどもとに頭巾の前を合わせると同時に、片方は外套の下にだらりと垂らした。くぼんだ頬に灰色の蒼白さがよどんでいる。大きい、こぶめいた鼻の両翼は、引き釣るようにひらいたり閉じたりする。醜い唇はねじゆがんで、絶望的な憎しみの色を浮かべている。そして灼熱にみちた眼は、狂おしくまた恍惚として、美しい広場の上をさまよっている。
 物見高く、笑いながら自分のほうに据えられている幾多の視線を、彼は見なかった。彼は大きな外廊の前のモザイクの面の上に、この世のさまざまなくうなるものを見た。――芸術家祭の仮装衣裳、飾り物、花瓶、装身具や置物、裸の小像や女の胸像、異教精神の美しい甦生、巨匠による高名な美婦たちの肖像、濃厚に飾りたてた恋愛詩や、芸術上の宣伝冊子といったようなものが、ピラミッドの形に高くつみ上げられて、彼自身の怖ろしい言葉に屈伏した民衆の歓声裡に、ぱちぱち音を立てながら、焔となって燃えつくしてゆくのを見た。――彼はまた、テアティネル街のあたりから押し迫りつつ、徴かな雷鳴を含んでいる、黄ばんだ雲の峰と相対して、広刃の火の剣が、この歓喜の都の上に、燐光を浴びながら、長々とかかっているのを見たのである。――
「Gladius Dei super terram」(神の剣、地の上に)と彼の厚い唇はささやいた。そして頭巾つきの外套の身を、さらに高くそり返らせると、垂れさがった拳をひそかに痙攣的にゆすぶりながら、彼は戦慄のうちにこうつぶやいた。「Cito et velociter!」(く早くくだり来よ)





底本:「トオマス・マン短篇集」岩波文庫、岩波書店
   1979(昭和54)年3月16日第1刷発行
   2003(平成15)年5月24日第33刷発行
入力:kompass
校正:酒井裕二
2015年3月8日作成
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