墓地へゆく道

DER WEG ZUM FRIEDHOF

トオマス・マン Thomas Mann

実吉捷郎訳




 墓地へゆく道は、ずっと国道に添うて走っていた。その目的地、つまり墓地に達するまで、ちっとも国道を離れずに走っているのである。その道のもう一つの側には、まず人家がある。郊外の新築の家々で、まだ職人の入っているのもある。それから畑が来る。へりに、ごつごつした中老の山毛欅ぶなの樹が立並んでいる国道のほうは、半分だけ鋪石が敷いてあって、半分は敷いてない。しかし墓地へゆく道のほうは、砂利じゃりがあっさり撒いてあるので、踏み心地のよい歩道のような体裁になっている。雑草と野花でいっぱいの、狭い乾いた溝が、この両方の道の間を通っている。
 それは春だった。もうほとんど夏だった。世界は微笑していた。ひろやかな青大空は、一面に小さいまるい濃密な雲の断片で点綴てんていせられている。おどけた形をした雪白の小さな塊が、点々として到るところに浮んでいるのである。小鳥が山毛欅の樹にさえずっているし、畑を越して軟らかな風が吹いて来る。
 国道には馬車が一台、隣村から町へ向って静かに走っていた。馬車の片側は鋪石のある上を、片側は鋪石のない上を、半々に進んでゆく。馭者は両脚をながえの両側にぶら下げたまま、すこぶる下品に口笛を吹いている。馬車のうしろ端には、黄色い小犬が一匹、馭者のほうに背を向けながら乗っかっていて、なんともいえないまじめな引締った様子で、尖った鼻面越しに、今通ってきた道を眺め返している。どうも比類のない小犬である。黄金の価値がある。ひどく面白そうな奴である。しかし残念ながら、この犬は話の筋とは関係がないのだから、われわれはこのまま別れてしまわなければならない。――一隊の兵士が通り過ぎた。近所の兵営から来たのである。自分で立てた砂煙の中を行進しながら、歌を歌っている。また馬車が一台やって来た。町から隣村へ向って行くのだが、馭者は眠っているし、それに小犬も乗っていないから、この乗り物はいっこう興味がない。二人の若い職人がやって来た。一人はせむしで、一人はばかに大きな男である。二人ともはだしで歩いている。靴は背中に背負っているからである。眠っている馭者に、なにやら上機嫌な言葉をかけて、二人はどんどん進んでゆく。まことに尋常な交通である。なにごとの面倒も、なんらの椿事もなしにはかどってゆく。
 墓地へゆく道のほうには、たった一人の男が歩いているだけである。ゆっくりと、うなだれて、黒い杖にすがりながら歩いている。この男はピイプザアムあるいはロオプゴット・ピイプザアムと呼ばれる。そのほかに名はない。ここにこうして名前をはっきりことわっておくのは、今にこの男が、すこぶる変った振舞をするからである。
 男は黒いなりをしている。愛する者たちの墓に詣でる途中なのである。けば立ったいびつなシルクハット、古さで光っているフロックコオト、きちきちでつんつるてんのズボン、それからはげちょろけた黒の革手套を着けている。頸は、大きな喉仏の飛び出た細長い頸は、ささくれた折襟から、にゅっと突き出ている。まったくこの襟は、もう折り目のところがもじゃもじゃになっているのである。男は時々、墓地までまだどのくらいあるか見ようとして、頭を挙げる。するとそのたびにあるものが見える。一種異様な顔が、確かに一度見たら、ちょっと忘れられない顔が見えるのである。
 きれいに剃ってあって、色は蒼白い。が、くぼんだ両頬の間には、さきのほうで瘤のようにまるくなった鼻が隆起していて、思いきり、不自然なほど赤く輝いている。しかもおまけに、一面にぶつぶつした腫物が――不健康なできものがあって、それがこの鼻に変態な空想的なおもむきを与えている。実際この鼻は、その真赤な輝きが、顔面のくすんだ蒼白さと、きわどい対照をなしているせいで、なんだか嘘のように思われる。描いたもののように見える。どうも取ってつけたような、仮面の鼻のような、陰気な洒落のような観がある。だが、もちろんそんなわけではないのである。――男は口を、両端の垂れ下った大きな口を、固く結んでいる。それから、上を向く時には、きまって胡麻塩ごましおの眉を帽子のつばの下で、高く釣り上げる。そうすると、その眼のただれてみじめに縁取ふちどられているのがよく見えた。要するに、誰でも満腔の同情を長くは禁じていられぬような顔なのである。
 ロオプゴット・ピイプザアムの姿は、どうも嬉しそうではない。この朗らかな午前には、ちっと釣合いかねるし、また愛する者たちの墓を訪う人として見ても、あんまり陰気すぎる。しかしこの男の内心を見たら、こんな様子をしているのもまったく無理はないと、誰だって思うに違いない。この男は少しつらい目に逢っているのだ。ええ?――どうも君たちのように陽気な人たちに、こういうことをわからせるのはむずかしいな――つまり少し不仕合せなのだね。ちっとばかり虐待せられたのだ。ああ、ほんとうをいえばちっとやそっとではない。うんとひどくなのだ。この男は誇張なしにみじめな境涯にいるのだ。
 第一に彼は飲む。が、まあそのことはもっとあとでいおう。第二にやもめで孤児で、世の中からまるで見離されている。愛してくれるものが、この地上にただの一人もないのである。旧姓をレエプツェルトといった細君は、半年ばかり前、子供を産むと同時に拉し去られた。それは三番目の児だったが、死んで生れたのであった。ほかの二人の子供もくなっていた。一人はジフテリアで、一人は、多分一体に栄養が足りなかったのだろう、まったくなんでということもなく死んでしまったのである。そればかりではない。その後間もなくピイプザアムは地位を失った。不面目にも職務とパンとから逐い立てられたのである。これはピイプザアム自身よりもさらに強い、あの情熱とつながりのあることだった。
 以前にはピイプザアムも、その情熱に少しは敵対することができた。もっともときおりは、ひどくそれに耽ったこともあるが。しかるに細君も子供もうばい取られて、杖も柱もなく、孤影悄然として独り地上に立つことになると、あの悪徳は彼の上に君臨して、魂の抵抗を次第次第にくじいていったのである。ピイプザアムはある保険会社に勤めていて、筆耕に毛の生えたくらいの役をしながら、まさに九十マルクの月給をもらっていた。ところが、責任を負い得ぬような状態の時に、とんでもない失策を招いて、幾度も幾度も戒告を受けた末、とうてい長くは信用の置けない人間として、馘首かくしゅせられてしまったのである。
 こんなことの結果が、決してピイプザアムを、道徳的に高めることにならなかったどころか、彼が今やまったく破滅の中に陥ってしまったのは、明らかである。つまり、不幸は人間の品位を殺すものだということを、君たちは知っておかなければならない――こういう事柄に多少の洞察を持つのは、ともかく悪いことではないからね。ここには、特殊な戦慄すべき事情がある。人間は、自分自身に向っていくら自分の無辜むこを力説したところで、それはなんの役にも立たない。たいていの場合人間は、自分が不幸だからといって自分を侮蔑するようになるものである。ところが、自蔑と悪徳とは実に怖ろしい相互関係に立っている。両者は互いに相養い相扶ける。それはぞっとするくらいである。ピイプザアムの場合もまた、その通りであった。自分を尊敬しなかったがゆえに、彼は飲んだ。そうしてすべての良き意図が、あとからあとから崩れて、自恃じじの念をむしばんでゆくにつれて、彼はますます自分を尊敬しなくなったのである。彼の家の衣裳戸棚の中には、いつも毒々しい黄色の液体をたたえた壜が立っていた。人を滅ぼす液体である。用心のためにその名はいわないでおこう。この戸棚の前で、ロオプゴット・ピイプザアムは、すでに文字通りひざまずきながら、舌をかみしめたことがある。しかしそれでも、しまいにはとうとう負かされてしまうのだった。――こんなことはあまり君たちに聞かせたくないのだが、しかしともかく教訓になることだからな。――さてピイプザアムは今、墓地へゆく道をたどりながら、黒いステッキを突いている。微風が来て例の鼻にもたわむれるが、しかし彼はそんなことは感じない。眉を高く挙げたまま、気が抜けたように、ぼんやりと外界を見つめている。ほんとうにみじめな失われた人間である。――不意に後ろのほうで音が聞えた。彼は耳をそばだてた。軽いざわめきが、ずっと遠くのほうから、非常な速さで近づいてくる。彼は振り返った。そうして立ち止ってしまった。――それは自転車であった。あっさり砂利の敷いてある地面に、タイヤアをきしらせながら、全速力でやって来たのだが、道の真中にピイプザアムが突っ立っているので、自転車は調子をゆるめた。
 サッドルにまたがっているのは、若い男である。少年である。気楽そうな遊覧者である。いや、彼は決して、この世の偉大な華々しい人たちの中に数えられたいというような望みなんぞ、なにも抱いているわけではない。彼の乗っている車は普通の品で、どこの工場でできたものやら、値は二百マルクで、まったくいい加減に買ったものである。そうして今彼は、その車でいささか郊外を乗り廻している。たった今町から出てきて、ぴかぴか光るペダルを踏んで、広々した自然の中へ、景気よく乗り込んでゆくところなのである。はでな色をしたシャツの上へ、灰色のジャケツを重ねて、軽いゲエトルと、それから世にも思い切った鳥打帽とを着けている。茶がかった格子柄で、てっぺんにぽっちのついた、すこぶる奇抜なやつである。しかもその帽子の下からは、ふさふさした明色の髪の毛が、どっさりはみ出して、額の上に逆立っている。眼は黒味がかった青である。若者は生命そのもののごとく飛ばして来た。そうしてベルを鳴らした。ところがピイプザアムは、髪の毛一筋ほどでも道を開けようとしない。そこに突っ立ったなり、頑固な顔つきをして生命を睨みつけている。
 生命は彼にいまいましげな一瞥を投げつけて、ゆっくり彼の傍を通り過ぎた。するとピイプザアムのほうでも、やはりまた歩きはじめた。しかし自転車が自分の前になった時、ピイプザアムはゆっくりと重々しい抑揚をつけて、こういった。
「九千七百零七号。」
 それから彼は、生命の視線が呆れたように自分の上に注がれているのを感じながら、唇をぎゅっとかみ締めたまま、じっと足もとを見つめた。
 振返った生命は、片手でサッドルのうしろをつかんで、車をごくゆっくり走らせながら、
「なんですって?」と訊いた。――
「九千七百零七号。」とピイプザアムは繰り返して、「いや、なんでもありません。私はあなたを告訴するのです。」
「あなたが私を告訴する?」
と生命は訊き返した。いっそうからだをねじ向けて、いっそう速力をゆるめたので、いきおいハンドルと一緒に、一生懸命、あっちへふらふら、こっちへふらふらやっている。――
「その通り。」と、ピイプザアムは五六歩離れたところから答えた。
「どうしてです。」と生命はそう訊いて、自転車を降りた。立ち止ったまま、ぜんたいなにごとだろうという顔つきをしている。
「わけはあなた自身よく御承知のはずです。」
「いいえ、知りませんよ。」
「御承知に違いありません。」
「知らないといったら知らないのです。」と生命はいった。「それにどうも、僕にはまるっきり興味のないことですからね。」
 そのまま彼は自転車に寄り添って、ふたたび乗りかけた。ちっとも凹まされなんぞはしない。
「私はあなたを告訴します。あなたはあっちの国道のほうを走らないで、こっちの、この墓地へゆく道を走ったからです。」とピイプザアムがいった。
「だけどあなた、」と生命はいまいましそうに、じれったそうに笑いながらいうと、さらに振り向いて立ち止った。「自転車のあとはこっちの道にも、ずうっとどこにだってついているじゃありませんか。――みんなこの道を通るのですよ。」
「そんなことは、まったくどうだってかまわないのです。」とピイプザアムはいい返した。「私はあなたを告訴します。」
「そうですか。そんならどうなりとお好きになさいましだ。」と生命は叫んで、自転車に乗りにかかった。彼はちゃんと乗っかった。乗り損なうような醜態は演じなかった。たった一度足を踏張ふんばっただけで、もうしっかりと、サッドルに腰を落ち着けてしまったのである。そうして自分の気質に相応した速度をふたたび恢復しようとして、彼は全力をつくした。
「こうまでいってもまだこの道を、この墓地へゆく道を走る気なら、そんなら私は、もうどうしたって間違いなくあなたを告訴しますよ。」と、ピイプザアムはたかまった震え声でいった。しかし生命は、そんなことなんぞ微塵も意に介しないで、いよいよ速力を増しながら走りつづけた。
 もしもこの瞬間にロオプゴット・ピイプザアムの顔を見たとしたら、諸君はずいぶんおどろいたことだろうと思う。唇をあまりひどくかみしめているものだから、頬っぺたも、それから例の灼熱した鼻さえも、まるで妙な風にゆがんでしまっている。そうして眼は、不自然に高く挙げられた眉の下から、気違いじみた色をして、遠のいてゆく乗り物のほうをじっと見送っているのである。突然彼は、ころぶようにかけ出した。と、自転車までの短かい隔たりを走り尽して、サッドルの革嚢をつかんだかと思うと、両手でそれにかじりついたなり、すっかりぶら下ってしまって、相変らず唇をおそろしくぎゅっとかみしめたまま、ものもいわずに眼を怒らせながら、進もうとしてゆれもがく自転車を、必死のいきおいで引きとめにかかった。もし誰かこの様子を見た人があったら、いったいピイプザアムは、悪意からこの若い男を、そのうえ走らせまいとしているのか、それともまた、曳船をしてもらってから、後ろに飛び乗ったうえ、一緒に走って、しばらく郊外を乗り廻したい、同じようにぴかぴか光るペダルを踏んで、ひろびろとした自然の中へ、景気よく乗り込みたいという願望におそわれたものか、どっちともきめかねたかもしれない。――このすてばちな重荷を、自転車はとても長くは背負いきれなかった。停って傾いたかと思うと、ばたんと倒れてしまった。
 さあこうなると、生命もおとなしくしてはいない。片足立ち上るやいなや、右腕を挙げて思いきりピイプザアムの胸を突いたので、ピイプザアムは五六歩たじたじとうしろへよろけた。それから生命は威嚇するように声を高めながら、こういった。
「酔っ払ってるんだろう、この野郎。妙な奴だな。もう一ぺんおれをとめようとでもしてみろ。ずたずたに切りこまざいてやるぞ。わかったか。骨まで叩き割ってやるからな。いいか。覚えていろ。」――それなり生命は、ピイプザアム君にくるりと背を向けて、癇癪をおこしたように、帽子をぐいと深くかぶり直すと、ふたたび自転車にまたがった。どうしてどうして、一向に凹まされなんぞはしない。乗りかたも前と同じく鮮かなもので、やっぱりただ一度ふんばっただけで、もうサッドルにしっかりと腰を据えて、たちまち車を征服してしまった。その背中がぐんぐん遠ざかってゆくのを、ピイプザアムは見ていた。
 彼はそこに突立って、はあはあ、あえぎながら、生命のうしろ姿をじっと見送っている。生命は別に倒れもせず、平穏無事だった。タイヤアも裂けず、石一つ道をさえぎることもなく、はずみながら疾走してゆく。それを見ると、ピイプザアムはどなりはじめた。罵倒しはじめた。あるいは吠えはじめた、といってもいいかもしれない。もうとうてい人間の声ではないのである。
「もう走ってはいかん。」と彼は叫んだ。「そんなことをしてはいかん。この墓地へゆく道でなく、あっちのほうを走るんだというのに、聞えないのか。――降りろ。すぐに降りろ。おお、おお、おれは告訴する。訴えてやる。おお、ほんとになんたることだ。やい、おっちょこちょい野郎、倒れやがったら、もし倒れやがったら、踏んづけてやるのに。靴でつらを踏んづけてやるのになあ。この悪党め。」
 こんな光景は空前である。墓地へゆく道の上に、ののしりわめく一人の男がいる。男はのぼせ上って吠えている。ののしりながら躍る。飛び上る。手足を目茶苦茶に振り動かす。無我夢中になっているのである。先刻の乗り物は、とうの昔に見えなくなってしまったのに、ピイプザアムはまだ依然として、ひとつところで狂い廻っている。
「とめろ。あいつをとめろ。あいつは墓地へゆく道を走っているのだ。なんたることだ。やい、このならず者。横着者。猿面野郎。青黒い眼の玉め。ひどい目に会わせてやるぞ。野良犬め。大ぼら吹きめ。間抜けめ。物知らずの阿呆め。――降りろ。たった今降りろ。誰もあいつを投げ倒す奴はいないのか。あの畜生を。――乗り廻すとはなんだ。墓地へゆく道を乗り廻すとは。あいつを引きずり下せったら、あのとんちき野郎をよ。ああ……ああ……どうかして貴様をつかまえてやりたいなあ。なあ、おい。さあ、もっということはないかな。やい、悪魔に眼玉をえぐり出されろ。物知らずの、物知らずの、物知らずの阿呆者め……」
 ピイプザアムの使う文句は、もうここには書き現わしきれなくなってきた。彼は口から泡を吹きながら、破裂したような声とともに、下品きわまりない悪口雑言を吐き出す。と同時に、からだの狂乱もだんだんはげしくなってくる。そこへ籠をさげた子供が五六人、テリヤアを一匹連れて、国道のほうからやって来た。溝を越えると、子供たちは絶叫する男を取りまいて、そのねじ曲った顔を、さも物珍しげに眺めている。うしろのほうの普請場で、仕事をしたり、またはちょうど昼休をはじめたりしていた職人たちも、やはりピイプザアムに気がついて、男も漆喰しっくい運びの女も、こっちへやって来ると、子供の群に加わった。が、ピイプザアムは、なおも荒れ狂って止まない。しかも様子はだんだん険悪になってきた。両方の拳骨をめくら滅法に、上下左右あらゆる方向へ振り廻す。脚をばたばたやる。こまのようにぐるぐる廻る。膝を折り曲げたかと思うと、声の限りどなり立てようとして、また死物狂いに跳ね上る。その間一刻といえども、悪態をつくことをやめない。ほとんど息をする暇さえないのである。いったいどこからこんなにいろんな言葉が出てくるのか、呆れるよりほかはない。顔はもうおそろしくふくれ上ってしまった。シルクハットはうなじのほうへずるっこけている。いわえてあるシャツの胸当は、チョッキの外へはみ出しているという有様である。おまけに、いうこともとうに一般的なことにわたっていて、どう考えても、本筋とは関係のないようなことばかり並べている。自分の不行跡のことをほのめかしたり、宗教じみた暗示になったりする。それがまたいかにも不釣合いな調子で、だらしなく悪口雑言をまじえながら、述べ立てられるのである。
「やって来い。みんなやって来い。」とピイプザアムは吠える。「お前たちだけじゃない。そっちのほうの奴らも、鳥打をかぶって青黒い眼玉をしている奴らも、みんな集れ。おれはお前たちの耳に、本当のことを叩き込んでやるのだ。それを聞いたら、未来永劫がたがた慄えていなけりゃならんぞ、このろくでなしの抜け作めら。……にやにや笑っているな。首をすくめているな。……おれは飲んでいる。もちろん飲んでいるとも。お望みなら浴びているといったって差支えない。しかし、それがどうした? まだ幕がおりたわけじゃないぞ。今に見ろ、役にも立たんがらくたども。今に神様がわれわれを残らずお裁きなさる時が来るのだ。……ああ……人の子は雲に乗って現われ給うだろう。このおめでたい野郎どもめ。人の子のただしさは、この世の正義なんぞとはわけが違うからな。人の子はお前たちを世界の果ての暗闇の中へほうり込んでしまうのだ。ちょこまかした雛児ひよっこめら。そこにはただ泣き声と……」
 ピイプザアムはもう今では、山のような群衆に取り囲まれてしまった。声を立てて笑う者がある。眉をしかめながら見入っているのがある。普請場からは、さらに大勢職人や漆喰運びの女がやって来た。馭者が一人、馬車を国道にとめると、鞭を握ったなり降りて来て、これもやはり、溝を越して歩み寄った。一人の男がピイプザアムの腕をつかんでゆすぶった。が、なんの効能もなかった。一隊の兵士が通り過ぎた。みんな笑いながら、ピイプザアムのほうへ首を差し伸べてゆく。例のテリヤアは、もうとても我慢ができなくなって、前脚を地面に突っ張って尻尾をまるめながら、真っこうからピイプザアムに吠えかかった。
 突然ピイプザアムは、もう一度声を振りしぼって、「降りろ。すぐに降りろ。物知らずの阿呆者め。」とどなって、片方の腕で大きく半円を描いたかと思うと、ぐしゃりとつぶれてしまった。それなりばったり口を利かなくなって、物見高い群衆の兵中に、黒い塊になってよこたわっている。いびつなシルクハットは、ひょいと飛んで、地面で一つはずんだ後、これも同じくそのままそこへよこたわった。
 左官屋が二人、身動きもしなくなったピイプザアムの上にからだをかがめながら、職人らしい律義な分別くさい調子で、この場の処置を相談し合った。まもなく片方がからだを起すと、速足でどこかへ見えなくなった。居残った人たちは、人事不省のピイプザアムに、なおあれこれと手当を施してみた。一人が桶から水を掬ってぶっかければ、もう一人は、自分のブランデエの壜を掌のくぼみへ傾けて、その掌でこめかみをこすってみるといった調子である。しかしどの骨折りも、一つとして成果を収めることができなかった。
 こんな風でしばらく経った。が、やがて車輪のひびきがして、馬車が一台、国道をこっちへ走ってきた。見ると、衛生隊の馬車である。現場に来ると、馬車はとまった。きれいな小柄な馬が二頭つけてあった、箱のどの側にも、厖大な赤十字が描いてある。よく似合った制服の男が二人、馭者台からするする降りてきた。と思うと、一人が馬車の後ろのほうへ行って扉を開けて、取りはずしの利くベッドを引き出そうとしているあいだに、もう一人のほうは、墓地へゆく道のほうへ飛び移って、弥次馬を払いのけると、大勢の中から一人を加勢に頼んで、ピイプザアム君を馬車まで引きずって来た。それからピイプザアム君は、例のベッドの上にねかされて、まるでパンをパン焼きかまどの中へでも押し込むように、馬車の中へ押し込まれてしまった。そこで扉がばたんとしまる。二人の制服の男は、ふたたび馭者台によじのぼった。すべては寸分のすきもなく、ちょいと手練の早業もあって、あたかも猿芝居を見るごとく、ばたばたと片づいてしまったのである。
 やがてまもなく、彼等はロオプゴット・ピイプザアムを運び去った。





底本:「トオマス・マン短篇集」岩波文庫、岩波書店
   1979(昭和54)年3月16日第1刷発行
   2003(平成15)年5月24日第33刷発行
入力:kompass
校正:湖山ルル
2014年5月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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