トリスタン

TRISTAN

トオマス・マン Thomas Mann

実吉捷郎訳




 ここは療養院「アインフリイト」である。横に長いその本館と、それから側翼とは、白く直線的に、広い庭園の真中に横たわっている。庭園には、岩窟や外廊や樹皮でつくった小亭などが、面白くしつらえてある。そして療院のスレエト屋根の向うには、もみの色も蒼々と、おおらかに、柔かな裂目を見せながら、山々が空高くそびえ立っている。
 ここの院長は、前からずっとレアンデル博士である。家具に詰める馬の毛のように、こわく縮れた黒い八字髭と、厚いぎらぎらする眼鏡と、科学で冷たく堅くなった、そして静かなゆるやかな厭世観でみたされた男の外貌とをもって、博士は簡潔な寡黙な態度で患者たちを――自分で法則を立ててそれを守るにはあまり弱すぎるところから、彼の厳格さに身を支えてもらえるようにと、彼にその財産を提供している人々すべてを、その掌中に収めている。
 フォン・オステルロオ嬢のことをいうなら、彼女は不撓の献身をもって、事務をつかさどっている。いやまったく、彼女はなんとまめまめしく階段を上下しては、療院の端から端までかけ廻っていることだろう。台所や貯蔵室で采配を振る。洗濯戸棚の中をあちこちよじ昇る。使用人たちに号令をくだす。そして節倹と衛生と美味と、それから体裁のよさとを基にして、院の食卓を按排する。彼女は気違いじみるほど小心翼々として、世帯を取り締るのである。そうしてこの極端な活躍の裏には、男性全体に向ってのたえざる非難が潜んでいる。男性のうちまだ誰一人として、彼女を娶ろうなんぞと思いついた者はないのであった。しかし彼女の両頬には、いつかはレアンデル博士夫人になりたいという、消しがたい希望が、二つのまるい真赤な斑点になって燃えている……
 オゾオンと、静かな静かな空気……肺患者に向って、この「アインフリイト」は、たとえレアンデル博士の羨望者や競争者が何をいおうとも、最も熱心にすすめることができる。ただしここには肺結核病者ばかりでなく、あらゆる種類の病人――男子も婦人も、また子供までも逗留している。レアンデル博士は、きわめて多方面にわたって成果を挙げているのである。この療院には、シュパッツ市会議員夫人のように、胃の悪いのもいれば(この人はそのうえ耳もわずらっている)、心臓に故障のある人たちもいるし、中風患者、リュウマチス患者、それからあらゆる程度の神経病者もいる。ある糖尿病の将軍も、たえずぶつぶついいながら、ここで恩給を消耗している。頬のこけた数人の紳士は、あのよくない徴候の、だらけた様子で、脚を投げ出すようにして歩いている。ある五十歳の婦人――ヘエレンラウフ牧師夫人は、十九人の子供を生んで、もう考えるということが絶対にできなくなっているのだが、それでもなお静穏の域に達せず、あるおじけた焦躁にかりたてられて、すでに一年このかた、附添看護婦の腕にすがったまま、凝然と無言であてもなく、薄気味悪く療院中を徘徊している。
 部屋にねたままで、食事にも談話室にも出て来ない「重いの」のうちの誰かが、時々死ぬ。しかし何びとも、隣室の者さえも、それを聞き知ることはない。静かな夜ふけに、蝋のような客人は取り片づけられてしまって、「アインフリイト」のいとなみは、そのまま平気でつづけられる――揉療治、電気療治、注射、灌水、沐浴、体操、発汗、吸入などが、現代のあらゆる成果を装置した、さまざまな部屋部屋で、つづけられるのである……
 実際ここでは、万事が溌剌としている。この療養院は栄えているのである。側翼の入口にいる玄関番は、新しい客が着くたびに、大きな鐘を鳴らす。そしてレアンデル博士は、フォン・オステルロオ嬢とともに、立ち去る人たちを、鄭重に馬車のところまで見送る。なんとさまざまな存在を、この「アインフリイト」はすでにめたことだろう。一人の文士さえも、今ここにいる。なにかある鉱物か宝石と同じ名前の、奇矯な人間で、ここで碌々として暮しているのである……
 なおレアンデル博士のほかに、もう一人医者がいて、軽症の場合と絶望の患者とを受け持っている。だが、これはミュラアという名で、まったく問題とするに足りない。
 一月のはじめに、豪商クレエテルヤアン――アア・ツェエ・クレエテルヤアン商会の――が、その夫人を「アインフリイト」へ連れて来た。玄関番が鐘を鳴らした。そしてフォン・オステルロオ嬢が、この遠くから旅して来た夫妻を、地階の応接間で迎えた。この上品な古い建物のほとんど全部と同じく、きわめて純粋なアンピイル式で整えられた応接間で。すぐつづいて、レアンデル博士も現われた。博士は腰をかがめた。そして初対面の、双方にとって説明的な会話がはじまった。
 外には冬景色の庭があった。花壇はむしろで蔽われ、岩窟は雪に埋もれ、小さな礼拝堂は寂しく立っている。そして小使が二人で、格子門の前の国道に停っている馬車から――玄関までは馬車道もなにも通じていないのである――新来の客の大鞄を運んでいる。
「ゆっくりお歩き、ガブリエレ、テエク・ケヤア、いいかい。それから口を結んで。」と、さっきクレエテルヤアン氏は、細君を連れて庭を通る時にいった。しかもこの「take care」には、誰でもこの女を見るほどの者は、優しいおののく心で、ひそかに声を合せずにはいられない――もっともクレエテルヤアン氏がそれをドイツ語でいっても、差支えなかったということは、否みがたいのだが。
 この夫妻を、停車場から療養院まで乗せて来た馭者は、がさつな、心ない、鈍感な男だったが、豪商が細君を扶けおろしている間、彼は無益な気遣わしさのあまり、舌をぎゅっとかみ締めんばかりだった。それどころか、彼の二匹の栗毛までが、静かな冷気の中に湯気を立てながら、眼をまるく見張って、この険呑な事件を一生懸命に跡づけているように見えた。これほどのかよわい優美と柔かな魅力とは、あぶなくてならないという風に。
 クレエテルヤアン氏がバルチックの海岸から、「アインフリイト」の院長宛に送った告知状に、はっきり書いてある通り、この若い婦人は気管支を病んでいる。肺でないのは実に仕合せである。だがそれでも、万一肺だったとしたら――この新来の婦人患者は、今がんじょうな良人と並んで、かぼそくぐったりと、白い漆塗りの直線的な安楽椅子にもたれたまま、会話を追っているこの瞬間ほど、優しい気高い、浮世離れのした、そして非物質的な印象を与えることはできなかったであろう。
 簡素な結婚指環のほかにはなんの飾りもない、綺麗な蒼白い両手は、厚い黒っぽい羅紗服の膝の襞にのっている。そして彼女は堅い立襟のついた、銀鼠のきっちりした胸衣を着ていて、それには、一面に高く浮き出たビロオドの唐草模様がある。が、これらの重たい暖かい服地は、小さな首のいいがたいなよやかさと甘さと力なさとを、かえってますますいじらしく、ますますこの世ならず、ますますかわいらしく見せるばかりである。低くうなじのところで束ねてある薄茶色の髪は、滑らかになでつけられていて、ただ右のこめかみのあたりで、縮れた後れ毛がひとふさ、額のほうへかかっている。そのそばには、くっきりした形の眉の上に、小さな異様な脈管が、この透き通るような額の浄らかに澄んだ中を、ほの蒼く脾弱ひよわそうに小枝を走らせている箇所がある。この眼の上の青筋が、上品な卵形の顔全体に、何となく人を不安にするようなおもむきを与えているのである。それは夫人がなにか話しはじめれば、いや、微笑しただけでも、すぐになお明らかになる。すると顔色には、どこか努めているような、いや、困っているような様子さえ現われる。それが、なんともつかぬ心配を呼び起すのである。それでも夫人は、話したりほほえんだりする。気さくに優しく、持前の少しこもったような声で話し、いささかものうげな、時々は光を失いかけるようなまなざしと――なおその眼頭めがしらは、細い鼻根の両側で、深い陰に蔽われている――それから唇の輪郭が、きわめて鋭くくっきりしているせいか、蒼白いくせに輝いて見える美しい大きな口とで、ほほえむのである。ときおり軽い咳をする。その時にはハンケチを口に持っていって、それからそのハンケチをじっと眺める。
「咳をしちゃいかんね、ガブリエレ。」とクレエテルヤアン氏はいった。「うちのヒンツペエテル博士から特別にめられてるのは、お前知っとるだろう、ダアリング。ちょっとふんばりさえすりゃいいんさ。なあ。前にもいうた通り、気管支なんだからのう。」と彼は繰り返していった。「はじまった時には、ほんとに肺かと思うたもんだから、いやまったく随分おどろいたよ。だが、肺じゃないぞ、どうして、どうして。そんなばかなことがあるもんか。そんなものと係り合いになるようなおれたちじゃないさ。そうだろう、ガブリエレ。ヘヽヽヽ。」
「その通りです。」とレアンデル博士はいいながら、眼鏡の玉を夫人のほうへ向って光らせた。
 やがてクレエテルヤアン氏は、コオヒイを――コオヒイとバタパンを求めた。しかも彼はKの音を、のどのずっと奥のほうで出すし、また誰でも食慾をそそられずにはいられない調子で、「ボタパン」と発音する、一種あざやかな癖を持っていた。
 彼は望んだものを獲た。自分と細君との部屋も獲た。そしてうちくつろいだ。
 なおレアンデル博士は、今度の患者についてはミュラア博士を煩わさず、自分で診療を引き受けたのであった。

 新しい婦人患者の人柄は、「アインフリイト」にただならぬ騒ぎをひき起した。と、こうした成功に馴れているクレエテルヤアン氏は、夫人に捧げられるどんな敬意をも、一々満足して受け容れた。糖尿病の将軍は、はじめて夫人を見た時には、一刹那不平の声をおさめたし、頬のこけた紳士たちは、夫人の近くに来るたびに、微笑しながら、脚をしっかり踏めしめようと一心に努めたし、またシュパッツ市会議員夫人は、すぐに年上の友だちとして、彼女の味方になった。まことに彼女は、クレエテルヤアン氏の名を名乗るこの婦人は、大した印象を与えたものである。数週間以来「アインフリイト」で時を過ごしている一人の文士――ある宝石と同じような名を持っている突飛な奇人は、廊下で彼女とすれちがった時、全く顔色を変えて立ち止ってしまった。そして彼女の姿がとっくに見えなくなってしまったあとも、なおそのまま根が生えたように立ちつくしていた。
 二日と経たぬうちに、すべての療養客は、彼女の身の上に通じてしまった。彼女はブレエメンの生れで――それは話をする時、おんがなんだかかわいらしくゆがめられたようになるのでもわかる――二年前彼地で、豪商クレエテルヤアンに生涯を委ねた。良人にいて、あのバルチックの海岸にある彼の故郷の町へ行ったが、今から十月ほど前に、それこそ非常に危険な難産で、彼に一人の子供を――感心するほど活溌でみごとな、世嗣の息子を与えた。ところが、このおそろしい幾日以後、彼女はふたたびもとの元気には戻らなかった――もしいつか元気だったことがあるとすれば。極度に疲労し、極度に生活力を失って、産褥から離れたか離れないうちに、彼女は咳と一緒に血を少し吐いた――なに、たんとではない。ほんのちっとばかりの血だ。しかしそんなものは、まるっきり出ないに越したことはないわけだ。しかも気がかりなのは、これと同じ小さな気味の悪い出来事が、しばらくするとまた起ったことである。もちろん対策はあった。そこで、主治医ヒンツペエテル博士はそれを用いた。絶対の安静が命ぜられ、氷の小片がのみ下され、咳の刺戟を鎮めるために、モルヒネが与えられ、そして心臓はできる限り静かにしておかれたのである。しかし恢復はなかなかはじまらなかった。そうして子供のほうが――小アントン・クレエテルヤアン、赤ん坊の傑作のほうが、おそるべき精力と無遠慮とをもって、人生に地歩を占めて保ってゆく間に、若い母は、柔かく静かにかがやきながら、消え去ってゆくように思われた。……悪いのは、前にもいった通り気管支である。この語はヒンツペエテル博士が口に上せると、万人の心を驚くほど慰め落ち着かせ、ほとんど陽気にする作用を持っていた。ところが、肺ではないにもかかわらず、博士は結局もっと穏かな気候と、どこかの療養所に逗留することが、全快を早めるのには切に望ましいと認めた。そしてそのあとのことは、療養院「アインフリイト」およびその院長の評判がきめたのである。
 という次第なのであった。しかもクレエテルヤアン氏自身が、誰でもこの話に興味を示す人には、それを語り聞かせた。彼は消化が財布と同じく順境にある男のごとく、大声でぞんざいに、かつ機嫌よく話した。舌を長く突き出すように動かしながら、北の海岸に住む人の、不器用な、そのくせ口早な調子で話すのである。時々は言葉を口からほうり出す。だから、一音一音が小さい発射のように聞える。すると、うまく行った洒落でも笑うように、それを笑うのであった。
 彼は中背で肩幅がひろく、がんじょうで脚が短かく、はちきれそうな紅い顔と、ごく薄い明色のまつげに蔽われた水色の眼と、大きな鼻孔と、濡れた唇とを持っている。イギリス風の頬髯をたくわえていて、身なりもすっかりイギリス風である。そしてこの「アインフリイト」で、あるイギリス人の家族に――父と母と三人のかわいい子供たちとそれにナアスと――出会ったのが、ひどく嬉しそうだった。その家族はただ、ほかにどこに泊ったらいいかわからないという理由だけで、ここに泊っているのだが、彼は毎朝、この家族と一緒に、イギリス風の朝飯をしたためた。いったい彼は、どっさりよいものを飲み食いするのが好きで、料理にも酒にもほんとによく通じているところを見せ、故郷の知人仲間で供せられる晩餐の話や、あるえりぬきの、ここでは誰も知らぬ御馳走の話なんぞをして、療養客たちを大いに興がらせた。そういうおり、彼の眼は優しい色をたたえて細まるし、言葉には、なんだか上顎と鼻にかかったような響が加わるし、同時にまた喉の奥で、軽くぐびぐびいうような音が、それに伴うのであった。なお彼がそのほかの地上的な歓楽をも、原則として嫌っているのでないことは、廊下である部屋つきの女中と、かなりけしからぬ態度でふざけているところを、「アインフリイト」の療養客の一人、文筆を業とする男に見つかったその宵に、証拠立てられた。――それは小さな滑稽な事件だったが、それを見た著作家は、おかしいほど胸の悪そうな顔つきをした。
 クレエテルヤアン氏の夫人のほうはどうかというに、彼女が心から良人を愛慕しているということは、明らかにはっきりと看取みとることができた。良人の言葉や身振りに、彼女は微笑しながらいてゆく。しかもそれが、よく患者が丈夫な人に示す、あの思い上った寛容の態度ではなく、たちのいい病人が、健康感に溢れている人々の、たのもしい元気の現われに対して示す、あの優しい喜びと共鳴の態度なのであった。
 クレエテルヤアン氏は、「アインフリイト」に長くは滞在していなかった。彼は細君をここまで送って来たのだが、一週経った後、細君は親切に介抱せられている、完全な手にまかされているとわかってみると、もうこのうえ留まっていることはできなかった。同じ重要さを持った義務――彼の栄えてゆく子供、これもやはり栄えてゆく商売が、彼を故郷へ呼び戻すのである。そのため、彼は余儀なく出立して、最善の看護を受けているまま、細君を残してゆくほかはなかった。

 数週間以来「アインフリイト」で暮しているあの文士は、シュピネルという名だった。デトレフ・シュピネルというのである。そして彼の外貌は変妙なものだった。
 三十をちょっと越した、骨格のたくましい、栗色がかった髪の男を、眼の前にうかべて見るがいい。髪の毛は、こめかみのところがもう目立って白くなりかけているが、まるい白い、少しはれぼったい顔には、どこにも髯らしいものの痕さえ見えない。剃刀が当っているのではない――それは誰が見てもわかるであろう。軟かい、ぼかしたような、少年めいた顔で、ただところどころに、ぽつぽつと小さなうぶ毛が生えているだけなのである。それが実に奇態に見えた。焦茶色の光った眼のきらめきには、おとなしい色があり、鼻は短かくつまって、心もち肉が多すぎる。さらにシュピネル氏は、弓形の、海綿に似た、ロオマ式の上唇と、大きなむしばんだ歯と、珍しく偉大な足とを持っている。脚のぐらぐらした例の紳士たちのうちの、皮肉屋で警句家の一人は、彼のことをかげで「腐った赤ん坊」と呼んでいた。だが、これは毒々しい上にあまりうがっていない。――彼はいつも上等な流行の身なりだった。長い黒の上着に、色の小粒模様のチョッキを着ていた。
 彼は非社交的で、何人とも事をともにしなかった。ただ時たま、ある愛想のいい、なさけ深い、湧き溢れるような気分に、襲われることもある。それはシュピネル氏が、美的境地に没頭する時、――二つの色の調和だとか、高雅な形の花瓶だとか、落日に照らされた連山だとか、なにか美しいものを見て、夢中になって、ひたすら感嘆するような時に、必ず起るのである。「実にきれいだなあ。」と、そんな時、彼は首をかしげて、肩を釣り上げて、両掌をひろげて、鼻と唇に皺を寄せていう。「まあ見てごらんなさい。実にきれいじゃありませんか。」そしてこういう刹那の感動に駆られれば、彼は男女を問わず、貴顕な人々の首っ玉にも、かじりつきかねないのである……
 彼の机の上には、その部屋に踏み入る者なら、誰にでも見えるような位置に、自分の書いた本が、いつものせてあった。それはある中篇小説で、上表紙には、まったく訳のわからない画が描いてあり、一種のざらざらした目の荒い紙に、一字一字が、ゴシック風の寺院のように見える字体で、印刷してある。フォン・オステルロオ嬢は、あるひまな小半時にこれを読んで、「気の利いた」ものだと評した。ただしこれは彼女が「たまらなく退屈な」という批判を書き換えるきまり文句なのである。この小説の場面は、流行を追う客間だとか、贅沢な婦人の居間などで、そこにはえりぬきの品々がみちみちている。ゴブラン織だの、時代のついた家具だの、高価な陶器だの、とても買えぬような布地だの、あらゆる種類の芸術的な宝石だので、みちみちているのである。こうした品々の描写には、最も暖かい力がこめてあって、それを読んでいると、鼻に皺を寄せながら「実にきれいですなあ。まあ見てごらんなさい。実にきれいじゃありませんか。」といっているシュピネル氏の様子が、たえず眼に見えるのである。……なお彼がこの一冊よりほかに、まだ本を著していないというのは、どうしても変であった。なぜなら、彼は明らかにむきになって書いているからである。一日の大部分を、彼は物を書きながら自分の部屋で過ごしているし、また非常にたくさんの手紙を――ほとんど毎日一通か二通ずつ――郵便局へ持って行かせる。――ただそれでいて、彼のほうではごくたまにしか手紙を受け取らないというのは、奇妙な滑稽なこととして、目についた……

 シュピネル氏は食卓で、クレエテルヤアン氏の夫人と向い合せだった。この夫妻の加わった最初の食事の時、彼はややおくれて、側翼の地階にある大きな食堂に現われると、弱々しい声で、一言みんなに向って挨拶を述べてから、自分の席についた。するとレアンデル博士が、かなりぞんざいな調子で、彼を新来者たちに引き合せた。彼は会釈をしてから、確かに少し間が悪そうに食事をはじめた。非常に細い袖口から出ている、大きな白い形のいい手で、ナイフとフォオクをかなり気取って動かしながら。しばらく経つと、楽な気持になって、彼はクレエテルヤアン氏とその夫人とを、かわるがわる落ち着いて観察した。クレエテルヤアン氏のほうからも、食事が進んでゆくうちに、「アインフリイト」の施設や気候に関する、二三の問や所感を、彼に向って述べたし、夫人も持前のかわいらしい調子で、二言三言口をはさんだ。それに対してシュピネル氏は、慇懃に返事をするのだった。彼の声は穏やかでずいぶん感じがいいのだが、彼は口を利くのに、なんだか歯が舌の邪魔でもしているような、なんとなく不自由なもつれるような癖を持っていた。
 食後、談話室に席が移されて、レアンデル博士が、わざわざ新来の客人たちだけに、特に挨拶した時、クレエテルヤアン氏の夫人は、自分と向い合せだった人のことを尋ねた。
「あのかたはなんとおっしゃいますの。」と夫人は問うた……「シュピネリですか。わたくしよくわかりませんでしたの。」
「シュピネルです……シュピネリじゃありません、奥さん。いいえ、イタリア人でもなんでもないので。なに、レンベルクの生れですよ、わたしの知っているところでは……」
「あんたなんとかいわれましたな。あの男は文士なんですかい。それとも何です。」とクレエテルヤアン氏が問うた。両手を例のゆるやかなイギリス風のズボンの隠しに突込んだなり、耳を博士のほうへかしげて、よく人のやることだが、聴きながら口を開けている。
「さあ、よくは知りませんが――物を書いています……」とレアンデル博士は答えた。「なんでも本を一冊、出版したことがあるようですよ、小説かなにかを。わたしは実際よくは知らないのですが……」
 こう何度も「よくは知らない」を繰り返すところを見れば、レアンデル博士は、この文士を大して重んじてはいないらしい。そして彼に対してはいかなる責任をも負わない気らしい。
「でも、それはたいへん面白そうじゃございませんか。」とクレエテルヤアン氏の夫人はいった。夫人はまだ一度も、文士というものと顔を合せたことがなかったのである。
「それはそうですとも。」とレアンデル博士は如才なく答えた。「あれで少しは名が売れているのだそうですから……」それきりで、もうこの文士の話は出なかった。
 ところが、それから少しあとで、もう新しい客人たちは引っ込んでしまって、レアンデル博士も、同じく談話室を出ようとした時、シュピネル氏はシュピネル氏で、博士を引きとめてやはりいろいろ質問した。
「あの夫婦の名はなんというのですか。」と彼は問うた……「わたしにはもちろんちっともわからなかったのですよ。」
「クレエテルヤアン。」とレアンデル博士は答えたなりもうまた歩き出した。
「御亭主のほうはなんという名ですか。」とシュピネル氏は問うた……
「クレエテルヤアンですよ、二人とも。」といい捨てて、レアンデル博士はずんずん行ってしまった。――博士はこの文士を、実際大して重んじてはいないのである。

 われわれの話は、クレエテルヤアン氏が故郷へ帰ったところまで、もう来ていたかしら。そうだ。彼はふたたびバルチックの海岸で、商売をしたり子供を――母親に大変な苦労をかけたうえ、ちょっとした気管支の故障までひき起させた、あの無遠慮な元気旺盛な小僧を、相手にしたりしながら暮している。若い妻自身は、しかし「アインフリイト」に居残った。そしてシュパッツ市会議員夫人が、年上の友だちとして彼女の味方になった。しかしそれはクレエテルヤアン氏の夫人が、ほかの療養客――例えばシュピネル氏と、親しい仲になることを、妨げはしなかった。シュピネル氏は、みんな意外に思ったことには(なぜなら今までは何人とも事をともにしなかったのである)、はじめから夫人に異常な帰依と懇篤とを捧げていた。そして夫人も厳格な日程が許すひまな折々に、彼と雑談するのをいやがってはいなかったのである。
 彼はおそろしく慎重な恭謙な態度で、夫人に近づいて、いつも必ず、丹念に声をひそめて夫人に言葉をかける。だから耳の悪いシュパッツ夫人には、彼のいうことが、たいていはまったく毫もわからないくらいである。クレエテルヤアン氏の夫人が、柔かに微笑しながらもたれている安楽椅子へ、彼は例の大きな足を爪立てながら歩み寄って、二歩の間隔を置いて立ち止ったなり、片方の脚をあとへ引き、上体を前にかがめて、いつものどこか不自由なもつれるような調子で、低く迫るように話す。しかも、もし夫人の顔に、ちょっとでも疲れた飽きた色が見えるようなら、何時なんどきたりとも、すぐさま大急ぎで引きさがって、姿を消してしまう心構えができているのである。しかし彼は夫人をいやがらせはしなかった。夫人は彼に、自分とシュパッツ夫人のそばへかけるようにと勧めたうえ、なにか彼に問をかけておいて、それから微笑を含んだまま、もの珍しげに彼に傾聴する。それは時おり彼のいうことが、夫人にはまだ一度も経験のないほど、面白く奇態に聞えるからである。
「いったいなぜこの『アインフリイト』にいらっしゃいますの。」と夫人は問うた。「どんな御療治をなさっておいでですの、シュピネルさん。」
「療治? ……ちょっと電気をかけてもらっています。いえ、なに、それはいうほどのことじゃありません。奥さん、私がここにいる理由を申し上げましょう。――建築様式のためなのです。」
「まあ。」といって、クレエテルヤアン氏の夫人は片手で顎を支えたまま、なにかお話をしようとする子供にわざと示してやるような、誇張した熱中をもって彼のほうに向き直った。
「ほんとです、奥さん。『アインフリイト』は全然アンピイル式です。昔はお城――離宮だったという話ですな。この側翼はもちろんあとから建て増したものですが、本館のほうは古くて本物ですよ。ところで私は、このアンピイル式なしではどうしても暮せないような時があります。あるささやかな程度まででも愉快に過ごすためには、これが是非とも必要になる時があるのです。いったい淫逸な感じのするほど、柔かなゆったりした家具の間に身を置くのと、こういうような直線的な卓や椅子や絨毯の間にいるのとでは、確かに別な気持がしますからね。……この明るさと堅さ、この冷たい鋭い単純さと、控え目な厳格さがですね、奥さん、私に威厳と品格とを与えてくれるのですよ。長い間には、それが心を浄めたり、力づけたりするようになります。それは私を道徳的に高めてくれるのですね、疑いもなく……」
「まあ妙ですこと。」と夫人はいった。「でもわたくしわかりますわ、一生懸命になれば。」
 すると彼は、決して一生懸命になるほどのことではないと答えた。それから二人とも一緒に笑った。シュパッツ夫人もやはり笑って、それは妙なことだといった。しかしわかるとはいわなかった。
 談話室はひろくて美しかった。すぐ隣りの撞球室に通ずる、高い白い両開きの扉は、すっかり開け放されていた。撞球室では、例の脚のぐらぐらした紳士たちそのほかが遊んでいる。反対側のほうはガラス扉越しに、ひろい地壇テラスと庭とが見渡された。その扉の横にピアノが置いてある。緑の布を張ったカルタ台もあって、そこでは例の糖尿病の将軍が、二三の紳士を相手に、ホイストをやっている。婦人連は本を読んだり、手仕事に励んだりしている。部屋は鉄の置煖炉で暖めてあるが、真赤な紙片を貼った、模造の石炭の入っている典雅な壁煖炉カミンの前には、気持よく雑談のできる座席がいくつもあったのである。
「あなた早起きでいらっしゃいますのね、シュピネルさん。」とクレエテルヤアン氏の夫人がいった。「あなたが朝七時半に外へお出かけになるところを、わたくし偶然にもう二三度お見かけいたしましたわ。」
「早起きですか。いや、普通とちがう意味で大いにそうですな、奥さん。実をいうと、つまり私は元来寝坊だものですから、それで早く起きるというわけですよ。」
「さあ、それは説明して下さらなくてはわかりませんわ、シュピネルさん。」――シュパッツ夫人もまた、説明してもらいたいと所望した。
「そうですな……もしも早起きの人なら、その人は別に大して早く起きるには及ぶまいと私は思うのです。良心ですよ、奥さん……この良心という奴が厄介なのですよ。私や私の同類は、一生涯こいつと喧嘩して暮すのです。そうして時々こいつを欺したり、ちょっと上手に喜ばせてやったりで、目が廻るほどいそがしいのです。私どもは――私や私の同類は無用な生物いきものでしてね。まあ、ごくわずかな仕合せな時を除けば、自分たちが無用だという自覚を、へとへとになって引きずっているわけですな。私どもは有益なことを嫌います。それは下等で醜いということを知っています。そしてちょうど、みんなが絶対欠くべからざる真理を護るような勢で、私どもはこの真理を護ります。しかもそのくせ良心のやましさにむしばまれて、それこそ完膚なしという有様なのです。そこへもってきて、私どもの内生活の様子全体が――人生観とか仕事の方法とかいうものが……おそるべく不健全な、心身を損ねたり疲弊させたりする作用のあるものなのですからね、これがまたさらに事を悪化するのですよ。ところで、それにはちょっとした緩和法が一つあります。それがなかったら、とてもやり切れないだろうと思いますね。例えば、暮しかたをある点でしとやかにしたり、衛生的に厳しくしたりすることは、私どもの多数にとっては、自然の要求なのです。早く起きる。残酷なほど早く起きる。冷水浴をする。雪の中へ散歩に出かける……と、その結果として、まあ一時間くらいは、多少自分に満足していられるのですな。私なんぞもしありのままにしていたら、午後になってもまだ寝床の中にいるでしょうよ。ほんとうです。だから私が早く起きるとしても、それは実をいうと偽善なのです。」
「いいえ、なぜそうおっしゃいますの、シュピネルさん。それは克己と申すものですわ……ねえ、シュパッツの奥様、そうでしょう。」――シュパッツ夫人もやはりそれを克己と名づけた。
「偽善でもあるいは克己でも、まあ、好きな言葉を使っておくのですな。私は実際悲しくなるほど正直なたちなので、どうも……」
「そこですわ。確かにあなたはあんまり悲観なさりすぎるのですわね。」
「まったくです、奥さん。私はあんまり悲観しすぎるのです。」
 ――好天気がつづいていた。白く堅く浄らかに、無風と輝やかな冷気のうちに、まばゆい明るさと薄青い陰影とのうちに、この一帯のけしき――山々と家と庭園とが横たわっている。そして無数のちらちらする光の小粒、きらきらする結晶体が、踊っているかと見えるほの蒼い空は、すべての上に一点の汚れもない丸天井をひろげている。クレエテルヤアン氏の夫人は、このひとしきり相当に元気だった。熱もなく咳もほとんど全く出ず、大していやがらずに物も食べた。よく彼女は、きめられた通り、何時間も地壇テラスの寒い日向に坐っていることがあった。雪の中に、すっかり毛布や毛皮にくるまったなり坐って、気管支を丈夫にするために、清い、氷のような空気を、張り合いのある気持で吸うのである。そういう折に彼女は時々、シュピネル氏がやっぱり着ぶくれたまま、足をうそのように大きく見せる毛皮の靴をはいて、庭を漫歩しているのを見かけた。彼は瀬踏みをするように足を運びながら、またなんとなく慎重に、ぎこちないしとやかさで腕をかまえながら、雪の中を歩いて行く。地壇のところへ来ると、いつもうやうやしく夫人に挨拶して、階段を下の二三段だけ昇って、ちょっとした会話をはじめるのである。
「けさ散歩をしていましたらね、きれいな女を見ましたよ。……いや、実にきれいでしたな。」といいながら、首をかしげて両掌をひろげる。
「ほんとですの、シュピネルさん。どうかぜひ、そのかたの様子をお話し下さいましな。」
「いえ、それはできません。もしお話しすれば、その人のいつわりの姿をあなたにお伝えすることになりましょうからね。私はその婦人を、通りすがりにちらっと眼で掠めただけで、ほんとうは見たのではないのですよ。しかし私の捕えたその人の淡い影だけで、充分私の空想は刺戟されて、私は一つの美しい姿を携えて帰ることができました。いや、実に美しい姿ですな。」
 夫人は笑った。「あなたはいつもそんな風にして、美人をお眺めになりますの、シュピネルさん。」
「そうです、奥さん。しかもこのほうがいい眺めかたなのですよ――そういう人たちの顔を無作法に、現実慾に燃えながら、まっこうから見つめて、欠陥だらけな事実の印象を獲るよりか……」
「現実慾に燃えながら……まあ奇態な言葉ですのね。いかにも文士らしい言葉ですわ、シュピネルさん。でも、この言葉にはわたくし感心してしまいました。そのなかにはわたくしにも少しはわかることが、こうなにか独立な自由な、現実にさえ尊敬を払わせるようなものがこもっておりますもの。ほんとは現実というものが、世の中で一番貴いもので――いえ、貴いものそれ自身ですのにね。……それにまたわたくしわかりますのよ、手でつかめるもののほかになにかがある、なにかもっと微妙なものがあるというのが……」
「私はたった一つこういう顔を知っています。」と、不意に彼は妙に嬉しげな感動を声にこめていいながら、固めた両掌を肩のところまで挙げて、有頂天な微笑のうちに、例のむしばんだ歯並を見せた……「たった一つこういう顔を知っています。そのけだかい現実を、私の想像なんぞで修正しようとするのは、罪深いと思われるような顔です。私は何分間、何時間どころか、一生涯を通じてその顔を眺めていたい。その顔を離れずにいたい。その中にすっかり心を没して、地上のことをいっさい忘れてしまいたいのです……」
「そうでしょうとも、シュピネルさん。でも、フォン・オステルロオ嬢は、惜しいことに、ずいぶん耳が飛び出ていらっしゃいますわね。」
 彼は黙って丁寧にお辞儀をした。ふたたびまっすぐに立ち直った時、彼の眼は困惑と苦痛の色をうかべたまま、夫人の透き通るような額の澄み渡ったなかに、蒼白く脾弱ひよわそうに小枝を走らせている、例の小さい不思議な脈管をじいっと見つめていた。

 変り者だ。ほんとに奇態な変り者だ。――クレエテルヤアン氏の夫人は、時おりあの男のことを考えてみた。いったいに考えごとをする時間が、大変多いのである。空気の転換が効力を失いかけたのか、あるいはなにか積極的に悪い影響が及んだものか、ともかく夫人の容体は、前よりも悪くなっていた。気管支の模様に申し分があるらしく、夫人はだるい疲れた食慾のない気持でいて、よく熱を出した。だからレアンデル博士は、断乎として安静と無為と用心とを奨めた。というわけで夫人は、横になっていなければならぬ時のほかは、シュパッツ夫人を相手に、じっと静かに坐っていて、なにか手をつけぬ手仕事を膝にのせたまま、様々な考えにふけるのであった。
 実際あの男は、あの変妙なシュピネル氏は、彼女にいろいろと考えさせる。しかも不思議なことに、彼の人物についても、また彼女自身の身の上についても、考えさせるだけでなく、どういう工合か、なお彼女自身の存在に対するふしぎな好奇心、今まで感じたことのない興味を、彼女のうちに呼び起すのである。ある日、彼は会話をしながら、こんなことをいった。――「どうも女というものは、実に謎のような事実ですな。……ちっとも新しい事実ではないのに、私どもはどうしても、その前に突っ立って呆れずにはいられませんよ。まあ、ここに一人の佳人がある。風の精か、匂いの姿か、お伽噺とぎばなしの夢かというような人がですね。その人が何をするとお思いです。ふいと出かけていって、歳の市に出るような力持か、肉屋の若衆かなにかに、身をまかせてしまいます。その男の腕にすがってやって来る。ひょっとすると、男の肩に首をもたせさえもする。同時にずるそうに微笑しながら、あたりを見廻す。それがまるで、こういわんばかりなのですな――さあさあ、この姿を見てみんな夢中になるがいい。――すると私どもは夢中になってしまうのです。」――
 この言葉をクレエテルヤアン氏の夫人は、何度も繰り返して胸にうかべた。
 またある日なぞは、シュパッツ夫人が呆れたことには、次のような会話が二人の間に取りかわされた。
「失礼ながら、ちょっと伺いたいのですが、奥さん。――おせっかいないい草かもしれませんが――あなたのお名前はなんとおっしゃるのですか。ほんとうはなんというお名前なのですか。」
「クレエテルヤアンではございませんか、シュピネルさん。」
「なるほど。――それは存じています。というより、私はそれを認めません。私のいうのは、もとよりあなた御自身のお名前です。お嬢様でいらしった時のお名前なのです。奥さん。あなたは公平にお考えになって、あなたを『クレエテルヤアンの奥様』なんぞと呼ぶ者は、むちうたれるのが当然だということをお認めになるでしょう。」
 夫人はさもおかしそうに笑ったので、眉の上の青筋が気がかりなほどくっきり現われて、なよやかなかわいらしい顔に、努めているような困ったような表情を与えた。それが大いに不安を誘った。
「あら。とんでもない、シュピネルさん。むちですって。『クレエテルヤアン』がそんなにおいやですの。」
「ええ、奥さん、私ははじめて耳にして以来、この名前を心の底から憎んでいます。滑稽な名です。たまらなくなるほど醜い名です。あなたの御主人のお名前をあなたに移して使う習慣を、そんなところまで及ぼすなら、それは野蛮です。下等です。」
「それじゃ『エックホオフ』はいかが。『エックホオフ』ならそれよりは宜しいんですか。わたくしの父はエックホオフと申しますのよ。」
「そらごらんなさい。『エックホオフ』となるとまるで違います。あるえらい俳優にエックホオフというのがあったくらいですよ。エックホオフなら及第ですな。――お父様のことしかおっしゃいませんが、お母様は……」
「ええ。母はわたくしがまだ小さいうちになくなりました。」
「それはどうも。――あのもう少し、御自分のことをお聞かせ下さるわけには行きますまいか。もしそのためにお疲れになるようなら、それには及びませんが。それならあなたは静かにしていらしって、私がこの間のようにパリの話をつづけましょう。でも無論ごく小さな声でお話しにもなれるではありませんか。いや、もしささやくようにお話し下されば、すべては一層美しくなるばかりだろうと思いますよ。……あなたはブレエメンでお生れなったのでしたね。」しかも、この問を彼はほとんど抑揚もなく、うやうやしい意味深長な響をこめてかけた。さながらブレエメンが、比類のない都会、名づけがたい冒険と秘められた美しさとにみちた都会で、そこで生れたということが、ある神秘なけだかさを人に与えるかのようである。
「ええ、まあどうでしょう。」と夫人は思わずいった。「わたくしブレエメンの生れですのよ。」
「あそこには私一度行ったことがあります。」と彼は考え込みながらいった。――
「あら、あなたもあそこにいらっしゃったのですって。ほんとにまあ、シュピネルさん、あなたはチュニスからシュピッツベルゲンまでの間に、ごらんにならないものはないのでしょうね。」
「ええ、あそこには私一度行ったことがあります。」と彼は繰り返した。「夕方ほんの二三時間でしたがね。ある古い狭い通りをまだ覚えていますよ。そこの破風屋根の上には、斜めに奇妙に月がかかっていましたっけ。それから葡萄酒とかびの匂いのする、地下室にも行きました。それは深く刻みつけられた思い出です……」
「ほんとうですの。それはどこの通りだったのでしょうかしら。――あの、そういうような破風家で――音のよくひびく玄関口と、白塗りの廻廊のある商人の家で、わたくし生れましたのよ。」
「じゃお父様は商人でいらっしゃるのですね。」と少しためらいながら彼は問うた。
「ええ。でもそのうえ――ほんとはまず第一に芸術家でしょうね。」
「ははあ、どのくらいの意味で?」
「ヴァイオリンを弾きますの……でもそれだけではなんでもありませんけど。その弾きかたがね、シュピネルさん、それが肝腎なのですよ。ある音なぞを聴いておりますとね、いつもきまって、妙に熱い涙が思わずにじんでまいりましたっけ。そのほかにはどんな経験をしても、そんなことはありませんでしたのに。と申してもあなたはお信じにならない……」
「信じますとも。いや、信じなくてどうしましょう。……奥さん、ちょっと伺いますが、あなたのところは古いお家柄なのでしょうな。きっともう何代も何代も、その灰色の破風家の中で、暮して働いておなくなりになったのでしょう。」
「ええ。――でも、なぜそんなことをお尋ねになりますの。」
「なぜといって、実用向きの凡俗な無味乾燥な伝統を持った一族が、もう滅びようとする間際になってから、もう一度芸術によって浄化せられる例は、よくありますからね。」
「そんなものでしょうか。――あの、父のことを申しますとね、父は、自分で芸術家と名乗って、評判を取っているたいていの人たちよりは、確かにもっと芸術家なのですよ。わたくしはほんのちょっと、ピアノを弾くだけですけど。それも今はめられてしまいましたがね。でも以前家にいた頃は、まだ弾いておりましたの。父とわたくしと二人で合奏をいたしたものでしたわ。……ほんとにわたくしあの頃のことは、なんでもみんななつかしい気持で覚えております。中でも庭のことは――家の裏手にあるわたくしどもの庭のことは。それはみじめに荒れ果てて、草が茫々と生えた庭でしてね、崩れかかった、苔だらけの塀で囲まれておりましたけれど、かえってそのせいで、たいそう風情がございましたの。まん中に噴水があって、そのまわりにいちはつがぎっしりと繁っておりました。夏分には、わたくしお友だちと一緒に、何時間もその庭で過ごしましたっけ。みんなその噴水をぐるりと取りまいて、小さな庭椅子に腰かけましてね……」
「実にきれいだ。」とシュピネル氏はいって肩をもたげた。「腰かけてそれからお歌いになったのですか。」
「いいえ、たいていは編物をいたしました。」
「それにしても……それにしても……」
「ええ、編物をしながら、おしゃべりをいたしましたの、六人のお友だちとわたくしとは……」
「実にきれいだ。ああ、まったくです、実にきれいじゃありませんか。」とシュピネル氏は叫んだ。顔がすっかりゆがんでしまっている。
「それだけのことでいったいどこがそう特別にきれいだとおぼしめしますの、シュピネルさん。」
「おお、それはこうなのです。あなたのほかに六人さんいらしって、あなたはその六人の中に含まれていらっしゃらずに、まあいわば女王のように、そのかたがたからぬきんでておられたということですよ。……あなたは六人のお友だちからは、はっきりと際立っておられた。小さな金の冠が、ごくささやかながら意味の深い冠が、あなたの髪にかかってきらきらと輝いていた……」
「まあ、つまらないことを。冠なんておよし遊ばせよ……」
「いいえ、そうなのです。冠がひそかに輝いていたのです。もし私がそういうおりに、人知れず茂みの中にでも立っていたとしたら、私にはそれが見えたでしょう。あなたの髪の中にあるのがはっきりと見えたでしょう……」
「ほんとに何をごらんになったかわかりませんわね。でも、あなたはそこには立っていらっしゃらなくって、ある日そこにいたのは、わたくしの今の良人でございました。宅はわたくしの父と一緒に、その茂みから出てまいりましたの。二人はきっとわたくしどものおしゃべりを、いろいろ立聞きまでしてしまったのかもしれませんわ。」
「すると、あなたが御主人とお近づきになられたのは、そこだったのですね。奥さん。」
「ええ、そこで近づきになりましたの。」と夫人は、大きな声で嬉しそうにいった。そして微笑すると同時に、例のほの蒼い脈管が、せつなげに異様に、眉の上に浮き出した。「宅は、商用で父を訪ねて来ておりましたのですよ。その翌日、宅は午餐に招かれましてね、それからあと三日経つと、わたくしに申し込みましたの。」
「これはどうも。すべてがそんなに特別早く運んだのですか。」
「ええ。……と申しても、それから先は少しゆっくりになりました。なにしろ父が、もともとこの話に、ちっとも気乗りがしていなかったものですからね、かなり長い間考えさせてもらうということを、条件にいたしましたので。第一父は、わたくしをそばにおいておくほうがよかったのですし、それにまた、ほかにもいろいろ懸念がりましてね。でも……」
「でも?」
「でもわたくしが望んだのですわ。」と、夫人は微笑しながらいった。するとまた、あの薄青い脈管が、苦しそうな脾弱そうな色を見せながら、彼女のかわいらしい顔中をつかさどった。
「ああ、お望みになったのですか。」
「ええ。しかも、わたくしはごく堅い立派な意志を見せました、あなたにもおわかりの通りに……」
「私にもわかる通り。なるほど。」
「……ですから、父もとうとう仕方なく我を折ってしまいましたの。」
「そこであなたは、お父様とお父様のヴァイオリンを見捨て、古い家と草茫々の庭と噴水と、それから六人のお友だちとを見捨てて、クレエテルヤアンさんとともにで行かれたわけですね。」
「ともに出で行くなんて……あなたはほんとに変った言葉をお使いになることね、シュピネルさん。――聖書にでもありそうですわ。――おっしゃる通り、わたくしそういうものをみんな見捨てました。なにしろ申すまでもなく、自然がそれを望んだのですから。」
「そう。確かに自然がそう望んだのでしょう。」
「それにまた、わたくしの幸福ということが大事だったのですものね。」
「そうですとも。そうしてそれは来たのですね、その幸福は……」
「それがまいったのは、シュピネルさん、あの小さなアントンが、わたくしどもの小さなアントンが、はじめてわたくしのところへ連れて来られた時でした。そして小さい丈夫な肺で、それは威勢よく泣き声を挙げた時でしたの。もともとがんじょうな元気な児なのですからね……」
「あなたのお小さいアントンさんがお丈夫だというお話を伺うのは、これがはじめてではありませんよ、奥さん。きっと、図抜けてお丈夫なお児さんに違いありませんね。」
「その通りですわ。それにまた、ほんとにおかしいほど主人に似ておりますの。」
「ははあ。――なるほど、そんな風につまりお話が運んだのですか。で、もう今じゃあなたはエックホオフでなく、ほかの名を名乗っておられて、小さいお丈夫なアントンさんのお母様で、少しばかり気管支をわずらっておられるというわけなのですな。」
「ええ。――そうしてあなたというかたは、どこからどこまで、謎のようなかたでいらっしゃるのね、シュピネルさん、わたくしほんとうにそう思いますわ……」
「ええ、ほんとにそうですわね。あなたは確かにそういうかたでいらっしゃる。」とシュパッツ夫人がいった。ついでながら、彼女もまたそこにいたのである。
 ところで、この対話のことをも、クレエテルヤアン氏の夫人は、たびたび胸の底で考えてみた。それはごく些細な対話だったとはいえ、それでもなお夫人の自己省察の糧となるようなものを、いくらかその底に蔵していたのである。これが夫人に悪い影響を及ぼしたのだろうか。衰弱がつのって、たびたび熱が出た。それは静かな均熱だった。そのなかに夫人は、穏かに高められた心持で安らい、物思わしい気取ったうぬぼれた、しかも少し怒ったような気分で、それに身をゆだねていたのである。夫人が床についていない時、そしてシュピネル氏が大きな足を爪立てながら、ひどくおそるおそる夫人のそばへ歩み寄って、二歩の間隔を置いて立ち止ると、片脚をあとへ引いて、上体を前にかがめたまま、うやうやしく声を落して話しかける時――さながらおずおずした帰依の心で、夫人をそっと高く差し上げて、なにひとつかしましい音も、地上的な接触もとどかぬはずの、雲のしとねの上にかせでもするかのごとく、話しかける時……そういう時夫人は、クレエテルヤアン氏がよく「あぶないよ、ガブリエレ。テエク・ケヤア。いいかい。それから口を結んでね。」というあの調子を思い出す。まるで乱暴にしかも好意的に、人の肩を叩くような感じのする、あの調子を思い出す。するとしかし夫人は、すばやくこの思い出から身をそむけて、シュピネル氏がいそいそと伸べてくれる雲の褥に、だるい、高められた気持で安らうのであった。
 ある日、夫人はなんのきっかけもなく、いつか己の素姓や生い立ちについて、彼と話し合った、あの短かい対話のことをまたいい出した。
「ではほんとうなのですね。」と夫人は問うた。「シュピネルさん、あなたが冠をごらんになったというのは。」
 すると、あの雑談はもう二週間も前のことなのに、彼はすぐになんの話だかを悟った。そして自分はそのおり噴水のほとりで、夫人が六人の女友だちにまじって坐っていた時、小さな冠が輝いているのを――ひそかに夫人の髪の中に輝いているのを見た旨を、感動的な言葉で保証した。
 それから数日の後、ある療養客がお世辞に、故郷にいる小アントンの機嫌を夫人に尋ねた。夫人はそばにいたシュピネル氏のほうへちらと視線をすべらせると、少し退屈そうな調子で答えた。
「ありがとう存じます。別にどうと申すこともございませんわ。――あの子も主人も元気にいたしております。」

 二月末のある寒い日――今までのどの日よりも、清らかで輝かしいある日、「アインフリイト」では、誰も彼もはしゃぎきっていた。心臓に故障のある人たちは、頬を紅らめながら、なにか相談し合っているし、糖尿病の将軍は、若者のように歌を口ずさんでいるし、また脚のぐらぐらした紳士たちは、すっかり羽目をはずしている。なにが持ち上ったのであろうか。それはほかでもない。これから総出の遠乗りが企てられることになっている――数台のそりで、鈴を鳴らし鞭をうならせながら、山へ遊びにゆくことになっているのである。レアンデル博士が、患者たちの気保養のために、そう取りきめたのであった。
 いうまでもなく、「重いの」は留守番をしなければならなかった。気の毒な「重いの」。みんなは互いにうなずきかわして、彼等にはいっさいについてなんにも知らせぬことを申し合せた。いささか同情を表したり斟酌しんしゃくを加えたりできるのが、誰に限らずいい気持だったのである。しかしこの楽しみにほんとは充分加わり得る人たちの中にも、仲間入りをしない者がいくらかあった。フォン・オステルロオ嬢のごときは、簡単に言訳が立った。嬢のように様々な義務を背負わされている人は、橇の遠乗りなんということを、本気になって考えるわけにはゆかぬ。院の世帯が嬢のいることを、是非とも要求する。だからつまり、嬢は「アインフリイト」に居残ったのである。ところが、クレエテルヤアン氏の夫人まで、やはり居残るつもりだと宣言したのは、一同の興をそいだ。レアンデル博士は夫人に、爽快な遠乗りの効果を味わうようにと勧めてみたが、無駄だった。夫人は気分が晴々としない、偏頭痛がする、からだがだるいといい張った。そこで、みんなは諦めるよりほかはなかった。しかし例の皮肉屋の毒舌家は、これをきっかけにこんなことをいった。
「よく見ていてごらんなさい。こうなると、あの腐った赤ん坊も行きはしませんから。」
 なるほどその通りだった。シュピネル氏は、今日の午後は仕事をするつもりだと告げたのである。――彼の怪しげな活動を呼ぶのに、彼は非常に好んでこの「仕事をする」という語を用いるのだった。が、彼の不参に不平をいう者はただの一人もなかった。またシュパッツ夫人が乗り物に乗ると酔うからといって、年下の女友だちの相手をすることにきめたのも、みんなはやはり別段苦痛とは思わなかった。
 この日だけは、もう十二時頃に供せられた昼飯のすぐあと、数台の橇が「アインフリイト」の前にとまった。すると、賑やかに三々伍々、暖かく身をくるんだなり、物珍しい生き生きした気持で、療養客たちは庭を抜けて進んで行った。クレエテルヤアン氏の夫人は、シュパッツ夫人と一緒に、地壇へ通ずるガラス扉のそばに、それからシュピネル氏は自分の室の窓際に立って、出発の模様を見物していた。三人が見ていると、諧謔と哄笑のうちに、一番いい座席を取ろうとする小さな争闘が起った。フォン・オステルロオ嬢が毛皮の襟巻を首に捲きつけたなり、橇から橇へと駈け廻っては、食料品の入ったバスケットを、座席の下へ押し込んでいる。レアンデル博士が毛皮の帽子をまぶかにかぶったまま、例のきらきらする眼鏡で、もう一度全体の様子を見廻してから、自分もやはり席について、出立の合図を与えた。……馬が走り出す。……二三の婦人たちが悲鳴を挙げてうしろへ倒れる。鈴がちゃらちゃら鳴る。短柄みじかえの鞭がうなって、その長い紐を、揺軸のうしろの雪の中に引きずってゆく。そしてフォン・オステルロオ嬢が、格子門のそばにたたずんで、ハンケチを振りつづける。とうとう国道の曲り角で、滑る乗り物は見えなくなり、陽気な騒音は消えてしまった。そこで嬢は、大急ぎでさまざまな義務を果すために、庭を抜けて戻って来た。あの二人の婦人たちはガラス扉を去った。と、ほとんど同時に、シュピネル氏もまた、彼の見晴らし場から引き退いた。
 平穏が「アインフリイト」にみなぎっていた。遠乗りの連中は、夕方前に帰って来るはずはなかった。「重いの」はそれぞれの部屋で、ねながら苦しんでいた。クレエテルヤアン氏の夫人とその年上の友だちとは、ちょっと散策をして、それからめいめいの部屋に引き取った。シュピネル氏も自室にいて、彼一流の仕事をしていた。四時頃になって、婦人たちのところへは、半リットルずつの牛乳が運ばれると同時に、シュピネル氏のほうは薄い茶をもらった。それからまもなく、クレエテルヤアン氏の夫人は、自分の部屋とシュパッツ市会議員夫人の部屋とを仕切っている壁を叩いて、こういった。
「下の談話室へまいろうじゃございませんか、奥様。わたくしもうここでは、何をしていいのかわかりませんの。」
「すぐに行きましょうとも。」とシュパッツ夫人は答えた。「失礼ですけど、今ちょっと靴をはきますから。だってわたくしね、ほんとは寝床でふせっておりましたのよ。」
 予期のごとく談話室はからであった。婦人たちは壁煖炉のほとりに座を占めた。シュパッツ夫人が細糸織シュトラミインの布に花を刺繍すると、クレエテルヤアン氏の夫人も二針三針運んだが、すぐに手仕事は膝の上に落してしまって、安楽椅子の肱掛越しにくうを見つめながら、夢想に耽った。やがて夫人は、わざわざ上歯と下歯とを離すには当らないような言葉を口にした。ところが、それでもシュパッツ夫人が、「なんですって」と問うたので、夫人はなさけないことには、その文句をまたすっかり繰り返さざるを得なかった。シュパッツ夫人はもう一度、「なんですって」と問うた。しかしその途端、入口の前に足音が聞えて、扉が開いたと思うと、シュピネル氏が入って来た。
「お邪魔でしょうか。」と彼はまだしきいにいて、物静かな声で問うた。クレエテルヤアン氏の夫人だけを見つめて、上体をしなやかに、泳ぐような風に前へかがめながら問うたのである。……若い夫人は答えた。
「まあ、ちっともかまわないじゃございませんか。第一、この部屋は自由港のようなものですからね、シュピネルさん。それにまたあなた、私たちのなにを邪魔なさるとおっしゃいますの。わたくしはシュパッツの奥さんを、確かに退屈な目にお会わせしているに違いない、と思っておりますのですもの……」
 そういわれると、彼はもうなんの返事もできなかった。ただ微笑とともに、例のむしばんだ歯並を見せたきり、婦人たちの視線を浴びながら、かなり堅くなったような足どりで、ガラス扉のところまで行くと、そこに立ち止って、やや無作法な態度で、婦人たちのほうに背を向けたまま、外を眺めた。やがて、半分うしろを振り向いたが、やはり、外の庭のほうに眼をやったなりで、こういった。
「日が入りました。いつのまにか空が曇ってしまいました。もう暗くなりはじめるのですね。」
「ほんとにねえ、なにもかも蔭になってしまいましたわね。」とクレエテルヤアン氏の夫人は答えた。「お出かけになったかたがたは、やっぱり雪にお遭いになりそうですこと。昨日の今頃は、まだ日盛りでしたのに、今日はもう暮れかかっておりますわ。」
「ああ。」と彼はいった。「何週間も、明るすぎる日がつづいたあとですから、この暗さは眼に快いですなあ。私は美しいものも賤しいものも、一様に押しつけがましい明らかさで照らす太陽が、やっと少し隠れてくれたことを、ありがたく思いますね。」
「太陽はあなた、お好きではございませんの、シュピネルさん。」
「私は画家ではないのですからね。……太陽がないと、人間はより内的になるものです。――厚い薄鼠色の層雲が見えていますね。これではもしかすると、明日は雪がとけますよ。時に、そんな奥のほうにいらしって、手仕事に眼をお使いになるのは、よくないと思いますがね、奥さん。」
「いえ、御心配には及びません。さっきからそんなことはいたしておりませんの。でも、なにをいたしたらよろしいのでしょう。」
 彼はすでにピアノの前の廻転椅子に腰をおろして、片手の腕を、楽器の蓋の上に立てていた。
「音楽です……」と彼はいった。「今の場合、ちょっとでも音楽を聴くことができる人は、仕合せですなあ。時々イギリス人の子供たちが、つまらない黒人歌ニッガア・ソングスを歌う。それっきりですからね。」
「それに昨日の午後は、フォン・オステルロオ嬢が、大変お急ぎでしたけれど、修道院の鐘をお弾きになりましたわ。」
「そうそう、あなたはお弾きになるのじゃありませんか、奥さん。」と彼は頼むようにいって、立ち上った。「もとは毎日、お父様と合奏をなさったのでしたね。」
「ええ、それは昔のことですわ。あの噴水の頃のことですわ、ほらあの……」
「今日お弾きになって下さい。」と彼は請うた。「これぎりでよござんすから、どうか二三節お聴かせ下さい。どんなに私が渇望しているか、それを御存知でしたらなあ……」
「わたくしどものかかりつけのお医者も、それからレアンデル先生も、ピアノは厳禁なさったのですもの、シュピネルさん。」
「その人たちは二人ともいないじゃありませんか。われわれは自由です……あなたは自由なのです、奥さん、ちょっとした諧音の二つや三つ……」
「いいえ、シュピネルさん、なんとおっしゃってもだめでございます。わたくしがどんなに上手だろうと思って、あなた待ち設けていらっしゃるのでしょう。それだのにわたくし、すっかり忘れてしまいましたのよ、ほんとに。そらで弾けるものなんぞ、あるかないかくらいでございますわ。」
「おお、それではその『あるかないか』を弾いて下さい。それにここには、ありあまるほど楽譜があります。ここにあります。ピアノの上に。いや、これはつまらないものです。しかしこれはショパンですよ……」
「ショパンでございますって。」
「ええ、ノクチュルヌです。もうこれで、私がろうそくをつけさえすればいいわけですな……」
「わたくしが弾くなんぞとおぼしめしてはいけませんよ、シュピネルさん。弾いてはならないのでございますもの。もしからだに障りでもしたら、どういたしましょう。」
 彼は口をつぐんだ。大きな足、長い黒い上着、半白の髯、輪郭のぼやけた無髯の顔のまま、二本のピアノろうそくの光の中にたたずんで、両手をだらりと垂らしている。
「では、もうお願いはしますまい。」と彼はついに小声でいった。「もしおからだに障るのが御心配なのなら、奥さん、それならそのお指の下で音になりたがっている美を、死んだままに、唖のままにしておかれるがいいでしょう。あなたは今まで必ずしも、それほどまでに分別のあるかたではなかった。少くとも今と反対に、美を放棄せねばならなかった時には。あの噴水を見捨てて、小さな金の冠をおぬぎになった時、あの時、あなたはおからだのことはかまわれなかったし、また今よりも思いきった、堅固な意志を示されたではありませんか。……まあお聞きなさい。」と、彼はしばらく間を置いていった。声はますます低くなった。「今もしここへおかけになってですね、その昔お父様があなたのそばに立たれて、そのヴァイオリンで、あなたを泣かせるような調べを奏でられた頃のように、今あなたがピアノをお弾きになれば……そうすればもしかすると、あれがひそかにあなたの髪の中で光るのが見えるかもしれませんよ、あの小さな金の冠が……」
「ほんとでしょうか。」と夫人は問うて微笑した。……偶然その時、声がよく出なかったので、この言葉は半ばかすれた、半ば抑揚のない音になって出てきた。軽く咳をしてから夫人はいった。
「そこに持っていらっしゃるのは、ほんとうにショパンのノクチュルヌでございますか。」
「そうですとも。もう開けてあります。用意はすっかりできているのです。」
「さあ、それでは、まあ仕方がございませんから、その中の一つを弾くことにいたしましょう。」と夫人はいった。「でもたった一つぎりですよ。ようございますか。そう申すまでもなく、一つお聞きになれば、もうたくさんだとお思いになるでしょうけれど。」
 そういって身を起すと、夫人は手仕事をわきへ置いて、ピアノのところへ行った。本綴の譜本が五六冊のっている廻転椅子に席を占めて、燭台の位置を直すと、譜をめくった。シュピネル氏は椅子を一つ夫人のそばへ寄せて、音楽の先生かなんぞのように、夫人と並んで腰をおろした。
 夫人は作品第九の二、変ホ長調のノクチュルヌを弾いた。本当に忘れてしまったところが多少あったとしても、夫人の演奏は、以前には全く芸術的だったに相違なかった。ピアノは並の品にすぎなかったが、少し弾きはじめると、すぐにもう夫人は、それを手堅い趣味で扱う腕を見せた。さまざまな陰影を持った音色に対する、神経的な感覚と、空想的な域に達する、節奏的な動揺を喜ぶ心とを、夫人は示した。弾きかたはしっかりしていると同時に、柔かだった。その両手の下で、旋律は最後の甘さまで歌い尽した。そして装飾音がやさしくためらいながら、旋律の節々にまつわりつくのであった。
 夫人はここへ着いた日の服装なりをしていた。――浮彫めいたビロオドの唐草模様のついた、黒っぽい重たそうな胸衣で、それが首と手とを、この世ならずなよやかに見せている。弾きはじめても、顔の表情は変らなかったが、それでも唇の輪郭が、平生よりさらにくっきりして、眼頭の陰がさらに濃くなったように見受けられた。弾き終ると、夫人は両手を膝に置いたなり、なお譜面を見つづけていた。シュピネル氏は音も立てず動きもせず、じっと坐ったままである。
 夫人はもう一つノクチュルヌを弾いた。また一つ、さらにまた一つ弾いた。それから腰を浮かせた。が、それはただピアノの上蓋うえぶたの上に、ほかの譜をさがすためにすぎなかった。
 シュピネル氏はふと思いついて、廻転椅子の上にある、黒い厚紙表紙の譜本を調べてみた。突然彼は、なんだかわけのわからない声を立てた。そして彼の大きな白い両手は、この閑却せられた譜本の中の一冊を、熱烈にまさぐっている。
「こんなことがあるだろうか……これはうそだ……」と彼はいった。「いや、やっぱり見違いじゃない。……なんだか御存知ですか……ここにあったのは……いま私が持っているのは……」
「なんでございますの。」と夫人は問うた。
 すると、彼は黙って題扉とびらを指さした。すっかり蒼ざめてしまって、その本をだらりとさげて、唇をふるわせながら、夫人を見つめている。
「まあほんとうに? どうしてこんなものがここへ来ているのでしょうね。さあ、こちらへ頂きましょう。」と夫人はあっさりいって、その譜を譜台に立てて腰をおろすと、一刹那沈黙を守ったのち、第一ペエジから弾きはじめた。
 彼は前かがみに、両手を膝の間に組み合せたなり、首を垂れて夫人のそばに腰かけている。夫人は発端を、低徊するような、聞いていて苦しくなるような緩やかさで、装飾音の一つ一つの間を、不安になるほど長く延ばして弾いた。あこがれの楽旨モティイフ――夜の中の淋しい迷える声が、かすかに心細げな問をひびかせる。静寂と期待。すると、どうだろう、答えるものがある。問と同じ、おずおずした淋しいひびきではあるが、たださらに高く、さらになよやかなのである。また新しい緘黙かんもく。と、あの低調のみごとな急強音スフォルツァアトで――それはまるで、情熱が振い立って楽しくさわだつように聞える――恋の楽旨がはじまって、次第に昂まりつつ恍惚とよじ昇っていって、ついに快い紛糾に達したのち、また解けながら降りてきた。すると重たい悩ましい法悦の歌を低音に歌いながら、セロが出てきて、旋律をつづけてゆく……
 演奏者はこのみすぼらしい楽器で、オオケストラの効果を、かなり上手に暗示した。壮大に高まってゆくヴァイオリンの急進音は、輝くばかり精密にひびき渡った。夫人はもったいぶった敬虔さで弾いている。一々の形象に信心深く停滞しては、僧侶が最も神聖なものを頭上に捧げるように、個々のものをうやうやしく明確に強調するのである。なにが起ったか。二つの力が、二人の遠く離れた者が、悩みと浄福のうちに、営々と相近づいた末、永遠と絶対とに向っての、恍惚たる物狂わしい欲望に燃えながら、相抱いたのである。……前奏はぱっとひらめき上って、やがて崩折れた。ちょうど幕の開くところで、夫人は弾き止めた。それから無言のまま、譜面を眺めつづけていた。
 この間にシュパッツ夫人は、退屈というものが人間の容貌を醜くする――眼を顔から飛び出させて、死顔のような物凄い相好にしてしまう、あの程度に達していた。なおそのうえ、こういう種類の音楽は、彼女の胃神経に作用して、この消化不良の組織体を不安状態に置いたうえ、痙攣の発作が起りはせぬかと、彼女に気づかわせるのであった。
「わたくしどうしても自分の部屋に行かなければなりませんの。」と彼女は力なくいった。「これで失礼いたします。わたくし帰りますから……」
 それなり彼女は出て行った。黄昏はずっとつのっていた。外には、こまかく音もなく雪が地壇の上に落ちているのが見えた。二本のろうそくが、ゆらゆらと乏しい光を投げている。
「第二幕を。」と彼はささやいた。そこで夫人はペエジをめくって、第二幕をはじめた。
 角笛のひびきが遠くかなたに消えた。いや、それとも木の葉のそよぎであろうか。泉の柔かなささやきであろうか。すでに夜は、その沈黙を、森にも家にも注ぎかけていた。そしていかに切なる戒めも、もはや憧憬のみなぎりを押しとどめる力はなかった。聖なる神秘は成就した。灯が消える。異様な、にわかに曇らされた音色で、死の楽旨が降りてくる。するとあわただしい焦躁のうちに、憧憬はその白いベエルを、恋人に向ってはためかす。彼は両腕をひろげながら、闇の中を近づいて来るのである。
 おお、万象の永遠なる彼岸における合体の、溢るるばかりゆたかな、飽くこと知らぬ歓呼よ。悩ましき迷誤をのがれ、時空の束縛を脱して、「汝」と「我」と、「がもの」と「我がもの」とは、一つに融けて、崇高なる法悦となった。真昼の腹黒いまぼろしこそは、彼等を裂くことができたものの、真昼の思いあがった偽りは、夜も見得るこの人々を、魔薬の力が彼等のまなざしを浄めて以来、もはやまどわすことはできなかった。恋をしながら、死の闇夜とその夜の甘き神秘を観じた者には、光の妄想のうちに、ただ一つのあこがれが――その聖なる夜へ、久遠にして真実なる夜へ、すべてを一つにする夜へ向ってのあこがれが残った……
 おお、とばりをおろせ、恋の夜よ、彼等の待ち望む忘却を、彼等に贈れ。汝の法悦もて、彼等をひしと押し包め。そして彼等を、欺瞞と別離の世界から解き放せ。見よ、最後の灯は消えた。世を救いつつ、妄念の苦悩の上に立ちこめる神聖な薄明の中に、思索思考は溺れ沈んだ。まぼろしの色は薄れ、わが眼は夢見心地に光を失う時も――真昼の偽りが我から押し隔てていたもの、わがあこがれをいやしがたく悩ませつつ、幻のごとくかなたに立てていたものが、消え去る時も――その時すらも、おお、実現のいみじさよ、その時すらも我は世である。――さてそれにつづいて、ブランゲエネの陰気な「心せよ」の歌に伴って、あらゆる理性よりもけだかい、あのヴァイオリンの昂騰がひびいた。
「わたくしすっかりはわかりませんの、シュピネルさん。ただ想像だけしていることが、ずいぶん多いのですよ。これはいったいどういう意味なのでしょうか――その時すらも我は世なり――と申すのは。」
 彼は小声で手短かに説明してやった。
「ああ、そうなのですか。――あなたそれほどよくわかっていらっしゃるのに、お弾けになれないというのは、ほんとにどうしてでしょう。」
 奇妙なことに、彼はこの無邪気な問に耐える力がなかった。赤くなって両手をもみ合せながら、彼は椅子ごと沈んでしまいそうに見えた。
「それはめったに一致するものではありませんよ。」と、彼はやがて苦しげにいった。「いえ、弾くほうは私だめなのです。――しかしまあおつづけ下さい。」
 そこで二人は、この神秘劇の恍惚たる歌をつづけていった。愛は死ぬことがあろうか。トリスタンの愛が? 汝の而してわがイゾルデの愛が? おお、否、死の手はこの永遠の女にまではとどかぬ。我等を妨ぐるもの、まどわしつつ、一身同体の我等を裂くもの、それよりほかに、何が死の手に倒れようぞ。――甘き「及び」によって、愛は彼等二人を結びつけている。死がその語をたち切るとしても、もし彼等の一人に死が与えられたとすれば、もう一人の生をもって、それをたち切るよりほかはないのである。そして神秘な二重唱が、彼等を愛死という名づけがたい希望のうちに融合させた――夜の仙境の無窮に離るることなき抱擁という希望のうちに。甘き夜よ。永劫の恋の夜よ。いっさいを包容する浄福の国よ。汝を予感のうちに観じたほどの者は、いかにしておそれなしに、落莫たる真昼へと戻りめざめることができよう。このおそれを追い払え、やさしき死よ。いざ、あこがるる者らを、めざめの不幸から残りなく解き放せ。おお、節奏の乱れ狂う嵐。形而上的認識の半音ずつ押し昇る狂喜。昼の光の別離苦をはるか離れたこの法悦に、心のおきどころもないではないか。偽りもおそれもなき、穏かなあこがれ、崇高な、悩み知らぬ消滅、無辺際の中の至幸なるまどろみ。汝はイゾルデ、われはトリスタン、否、もはやトリスタンにもあらず、イゾルデにもあらず――
 突然、はっとするようなことが起った。演奏者ははたと弾き止めで、片手を眼にかざしながら、暗い中をうかがった。すると、シュピネル氏も坐ったなり、急いで振り返った。奥のほうの、廊下に通ずる扉が開いていて、一つの黒い人影が、もう一つのの腕にすがりながら入って来たのである。それは「アインフリイト」の客の一人で、やはり橇の遠乗りに加わることができず、この日暮に乗じて、例のごとく本能的に悲しげに、療院中を巡回しているのだった。十九人の子供を生んだあげく、もはや考えるということができなくなってしまった、あの婦人患者だった。看護婦の腕によっているヘエレンラウフ牧師夫人だった。眼もあげずに、たどたどしい、さまよいの足どりで、室の奥のほうを横切ると、反対側の戸口を通って、彼女は消えてしまった――物言わず凝然と、踏み迷いながら無意識に。――ひっそりと静けさがつづいた。
「あれはヘエレンラウフの奥さんでした。」と男がいった。
「ええ、お気の毒なヘエレンラウフさんでした。」と女がいった。それからペエジをめくって、大詰めを弾いた。イゾルデの愛死を弾いた。
 彼女の唇が、なんと蒼ざめてくっきりしていることか。また眼頭めがしらの陰が、なんと濃くなったことか。透き通るような額の眉の上には、あの薄青い脈管が、せつなげにまた危ぶませるように、ますますはっきりと浮き出てきた。彼女のせわしい両手の下で、空前の上騰が、あの兇悪といってもいいほどの、にわかなピアニシモで刻まれながら、果された。足もとから大地が滑り去るような、崇高な情炎の中に没入してしまうようなピアニシモである。巨大な解決と成就とが、満ち溢れるような勢いで、はじまって繰り返された。測りがたい満悦の、耳を聾するようなとどろきである。それが飽くことなく、何度も何度も繰り返された後、潮のように引き退きながら形を変えて、まさに消え入りそうになったが、もう一度あこがれの楽旨を、その諧音の中へ織り込んだと思うと、息を吐きつくして、絶え入り消え果て散り失せてしまった。深い静寂。
 二人は聞き耳を立てた。首をかしげながら、聞き耳を立てた。
「あれは鈴ですわ。」と彼女がいった。
「あれは橇です。」と彼がいった。「私は行きます。」
 彼は立ち上って、部屋を突っ切って行った。奥の扉口で立ち止って振り返ると、ちょっとの間、おちつかぬ様子で足踏みをしていた。と、やがてこういうことが起った。――彼女から十五歩か二十歩離れたところで、彼はひざまずいたのである。音もなく両膝をついたのである。長い黒いフロックコオトが、床の上にひろがった。両手は口のあたりで組み合わされて、肩が引きつるようにふるえている。
 彼女は両手を膝に、前かがみになって、ピアノから身をそむけたまま、彼のほうを見つめた。あやふやな、困ったような微笑が顔にうかんで、眼は考え込むように、またいくらか光を失いかけるほど大儀そうに、薄闇の中をうかがっている。
 はるか遠くのほうから、鈴の音と鞭のうなりと、人声の入りまざった響きとが、近づいてきた。

 あとまで長いことみんなの口に上ったあの橇の遠乗りは、二月二十六日に行われたのであった。二十七日は雪解の日で、あらゆるものが溶けて滴ってはねかって流れたが、クレエテルヤアン氏の夫人は、この日はすこぶる工合がよかった。二十八日になって、夫人は少し血を吐いた……なに大したことではない。しかしそれは血だった。同時に夫人は、かつてなかったほどのはげしい衰弱におそわれて、床に就いてしまった。
 レアンデル博士は夫人を診察したが、診察しながら、博士の顔は石のように冷たかった。それから博士は、科学の命ずるものを処方した。――氷片とモルヒネと絶対の安静とである。ただしその翌日博士は、多忙のゆえをもってこの診察を辞し、これをミュラア博士の手に移した。ミュラア博士は義務と契約とに従って、すこぶるおとなしくこれを引き受けた。寡黙な蒼白い貧相な憂鬱な男で、そのささやかな栄えないはたらきは、健康に近い患者と、もう望みのない患者とに捧げられているのである。
 なにより先に彼の発表した意見は、クレエテルヤアン夫妻の別居が、もう充分長くつづいているというのであった。もしもクレエテルヤアン氏の好景気な商売が、どうにかして許すとすれば、彼がいつかまた「アインフリイト」へ訪ねて来ることは、切望に堪えぬ。彼のところに手紙を出してもいい。なんならちょっと電報を打ってもいい。……そのうえ、もし彼が小さいアントンを一緒に連れて来るなら、若い母は必ず喜ぶだろうし、元気にもなるだろう。それにその丈夫な小アントンと知合いになるのは、医者たちにとっても、まさに興味深いことだろうが、それはしばらくおくとしても。
 するとどうだろう。クレエテルヤアン氏が現われた。ミュラア博士のちょっとした電報を受け取って、バルチック海岸からやって来たのである。馬車を降りると、コオヒイとバタパンを取り寄せたが、大いに呆れた顔をしていた。
「あんた。」と彼はいった。「どうしたんだ。なぜわしは家内のところへ呼び寄せられたのかな。」
「それはこういうわけです。」とミュラア博士は答えた。「今のところ、奥様のおそばに御逗留なさるのが望ましいので。」
「望ましい……望ましい……しかしその必要もあるんですかい。わしはわしの金が大事なんだからね、あんた、この頃は不景気だし汽車賃は高いし、こんな一日がかりの旅行なぞせんでもすんだんじゃないかのう。これがまあ例えば肺だとでもいうんなら、わしはなにもいいますまいさ。ところが、ありがたいことに気管支なんだから……」
「クレエテルヤアンさん。」とミュラア博士は物柔かにいった。「第一に気管支というのは重要な器官でして……」彼はその後へ「第二に」というのをつけもしないのに、語法に背いて「第一に」といったのである。
 ところで、クレエテルヤアン氏と同時に、一人のでっぷりした、どこからどこまで赤と格子縞と金とにくるまった人物が、「アインフリイト」に到着したが、若いほうのアントン・クレエテルヤアン、すなわちあの小さい丈夫なアントンを腕に抱いていたのは、この女だったのである。然り、彼はやって来た。そして何人といえども、この児が事実において極端に健康であるのを、いなむわけにはいかなかった。薔薇色と白の、浄らかなすがやかな着物で、彼は金筋をつけた侍女の、あらわな赤い腕の上に、まるまるとにおやかに乗っかったまま、牛乳と挽肉をおそろしくどっさりたいらげたり、泣き叫んだりして、あらゆる点で、その本能に身をまかせていた。
 自分の部屋の窓から、文士シュピネルは若きクレエテルヤアンの到着を観察した。赤ん坊が馬車から家の中へ連れ込まれる間、彼は奇妙な、曇っているくせに鋭い眼差で、じっと赤ん坊に注目していたが、そのあとなおかなり長いこと、同じ表情を顔にうかべたままその場に立ち尽くしていた。
 この時以来、彼は小アントン・クレエテルヤアンに出会うことをできる限り避けた。

 シュピネル氏は自分の部屋に坐って、「仕事をして」いた。
 それは「アインフリイト」のあらゆる部屋部屋と同じような部屋だった。――古風で簡素で上品なのである。厖大な置戸棚には、獅子の首の金具が打ちつけてあるし、背の高い壁鏡は、一枚のなめらかな平面ではなくて、小さい真四角の細片を、何枚も何故も鉛でつぎ合せたものだったし、薄青いニス塗の床板には、絨毯が敷いてないので、家具の角張った脚が、明らかな影をなして床につづいている。大きな机が窓の近くにある。この窓に小説家は黄色の帷をかけた。おおかた、より内的な気持になるためなのであろう。
 黄ばんだ薄明の中で、彼は机のおもてにかぶさるようにして、腰かけたまま書いている――手紙を書いている。毎週毎週郵便局に持たせてやりながら、しかも面白いことに、たいがいはまるで返事を受け取ることのない、あのおびただしい手紙の中の一通なのである。大きな厚い紙が一枚、彼の前にひろげられている。左上の隅に雑然と描かれた風景の下に、デトレフ・シュピネルという名が、全然新式な書体で書いてある。そして彼はこの紙の上に、小さな、丹念に描いたような、きわめてきれいな字を並べているのである。
「拝啓。」とそこには書いてある。「貴下にこの書面を呈上するのは、そうせずにはいられぬからであり、貴下にお知らせすべきことが、小生をみたし悩ませおののかせるからであり、言葉が非常なはげしさで小生に押し寄せて来る結果、もしそれをこの手紙にけさせることが許されぬとすれば、小生はその言葉で窒息するだろうからであります……」
 真理に敬意を表していえば、この「押し寄せて来る」云々は、てんからほんとうではない。そして神はどういう虚勢的な理由から、シュピネル氏がそういい張るのだか、御存知なのである。言葉は決して、彼のところへ押し寄せてなんぞ来るようには見えない。書くことを公民としての職業とする人にしては、彼はあわれなほど遅筆である。だから彼を見た者なら誰でも、文士なるものは、ほかのどんな人々よりも、書くことをむずかしく感ずる男だ、という見方に到達せざるを得ない。
 二本の指先で、頬にある奇妙な生毛の一つをつまんで、四半時ぐらいそれをひねり廻しながら、彼はくうを見つめて、一行も進まない。やがて、小ぎれいな字を三つ四つ書いたと思うと、またもやつかえてしまう。が、一方からいうと、こうしてついにでき上ったものが、円滑な溌剌たる印象を与えることは、認めなければならない。たとえ内容から見れば、変妙な、疑わしい、時には、それこそ不可解な性質を帯びてはいるとしても。
「それは、」と手紙はつづけられた。「止みがたき欲求であります――小生の見ていること、数週日来、消しがたき幻覚となって、小生の眼前にうかんでいることを、貴下にも見させて上げたい、小生と同じ眼をもって、小生の心眼にうかんでいる通りの言語的照明のもとに、見させて上げたいというのは。小生に迫って、忘れがたく、また焔のごとく的確に当てはまった言葉で、小生の体験を世人のそれとなさしめんとするこの衝動に、小生はいつも屈し馴れています。それ故小生のいうことを聞いて下さい。
「小生は今までにあったこと、及び今あることをいおうよりほかには、なにごとをも欲しません。ただひとえに、ある物語を、ごく短かい、口に尽せぬほど憤激すべき物語を語るだけです。なんの註釈もなく、なんの弾劾も批判も加えず、単に小生の言葉をもって語るだけなのです。それはガブリエレ・エックホオフの、貴下よ、貴下が御自身のものと呼んでおられる婦人の物語です……そしてよく御留意下さい。その話を体験したのは貴下なのですが、しかもなお小生の言葉によってはじめて、その話は貴下にとって、真に一つの体験という意義にまで高められるでありましょう。
「貴下よ、あの庭園のことを、灰色の邸宅の裏手の、古い、草茫々たる庭園のことを、覚えておられますか。夢にうもれたこの荒地をかこむ、崩れかけた塀の継目には、緑の苔が生えていました。庭の中央にある噴水のこともまた、覚えておいでですか。そのもろい縁の上には、薄紫の百合がうなだれ、その白い水条はひめやかにささやきながら、ひびの入った石畳の上に落ちていました。夏の日は傾きました。
「七人の処女がこの泉のまわりに、輪をなして坐っていました。ところが七人目の女――最上の唯一の女の髪の中へ、落日はひそかに、最高位のきらめくしるしを織り込んでいるように見えました。彼女の眼はおびえた夢のようでしたが、それでいて、その明らかな唇はほほえんでいました……
「彼等は歌いました。細い顔を、ちょうど噴水のすじが、ものうげなけだかい曲線を描いて、まさに落ちようとするあたりへ、あおむけたままなのです。そして彼等のかすかな澄んだ声は、水条のほっそりした舞踏をとりまいてただよいました。おそらく彼等は、歌いながらなよやかな両手を組み合せて、両膝を抱いていたかもしれません……
「この画を思い出されますか、貴下よ。貴下はそれをごらんになったか。否、ごらんにはならなかった。貴下の眼は、それを見るようにはつくられていなかったし、貴下の耳は、この画の旋律がもつ貞潔な甘さを聴くようにはできていなかったのです。もしそれをごらんになったのなら、――貴下はあえて呼吸をなさることもできず、貴下の心臓に鼓動を禁ぜずにはいられなかったはずです。貴下は実生活の中へ――貴下の生活の中へ立ち戻って、貴下が地上で過ごされる余生の間じゅう、その時ごらんになったものを、触れがたく冒しがたき聖宝として、魂のなかに秘蔵せずにはいられなかったはずです。然るに貴下は何をなされたか。
「この画は一つの終局だったのです、貴下よ。貴下はそこへ現われて、これを破壊した上、これに俗悪と醜い悩みという続篇をつけ加えずにはいられなかったのですか。それは衰頽と終焉と消滅との夕栄えにひたされた、一つの涙ぐましい、なごやかな聖化でした。行為と生活とにはすでにあまりに疲れ、あまりにけだかくなった一つの古い家柄が、その生涯の終りに臨んでいる。そうしてその最後の言葉は、芸術のひびきです。死の成熟から来る、自覚的な憂鬱にみちた、ヴァイオリンの調べの数節です。……この調べに涙を誘われたその眼を、貴下は見られたか。あの六人の遊び相手の魂は、多分生命に属していたかもしれない。しかし彼等の姉妹のような女王の魂は、美と死とに属していたのです。
「貴下はこれを、この死美を見られた。これを眺めて欲望を起された。この美の涙ぐましい神々しさに面して、なんらの畏敬もなんらの逡巡も、貴下の心を打ちはしなかった。貴下はただ見るだけでは満足せられなかった。所有し利用し冒涜しないではいられなかったのです。……なんと巧みに、貴下は撰り当てられたことか。貴下は美食家です。下賤な美食家です。口のおごった土百姓なのです。
「小生が決して、貴下の感情を害そうというような望みをいだいていないことは、どうかよく御承知下さい。小生のいっていることは、決して罵倒ではなくて、公式です。貴下の単純な、文学的に見て全然興味のない人格に対する、簡単な心理的公式なのです。そして小生がそれを発表する所以は、ただ貴下に向って、貴下自身の性行をいささか説明して上げるべく、小生を駆るものがあるからです。事物を名ざし、事物をして語らしめ、そして無自覚なものを照らし出すのが、地上における小生の避けがたき天職だからです。世間は、小生が『無自覚な型』と呼ぶところのものでみちています。そして小生は彼等を、これらすべての無自覚な型の人々を、たまらないと思います。小生の周囲にある、これらすべての鈍感な無知な、認識のない生活と行動、この癪にさわるほど素朴な世界、それを小生はたまらないと思うのです。あるものが、悩ましい不可抗力で小生を駆り立てて、周囲のあらゆる実在を――小生の力の及ぶ限り――解明させ、言葉に出させ、自覚に導かせようとします――その結果が促進的に作用しようが、あるいは阻害的に作用しようが、慰安や緩和を持ちきたそうが、あるいは苦痛を与えようが、そんなことには頓着なく。
「貴下よ、すでに申し上げた通り、貴下は下賤な美食家、口のおごった土百姓です。元来ぶこつな体格で、しかもきわめて低い進化の階梯にある貴下は、富と安坐的生活法とによって、神経組織の急激な非歴史的な野蛮な廃頽に到達せられた。この廃頽は、享楽慾の或る好淫的な洗練を招来するものです。貴下がガブリエレ・エックホオフを占有すべく決心せられた時、おそらく貴下の食道筋肉は、あたかも美味なスウプか珍貴な料理かに面した時のごとく、ぐびぐびと動き出したことだろうと思われます。
「誠に貴下は、彼女の夢に埋れた意志をまどわせ、彼女を草深い園から実生活の中へ、醜陋の中へ導き、彼女に貴下の野鄙な姓を与えて、彼女を妻とし家婦とし母とせられた。貴下はこの疲れたおずおずした、そして崇高な無用さの中に花咲いている死の美しさをいやしめて、俗悪な家常茶飯および薄弱な粗大な軽蔑すべき、かの自然と呼ばれる偶像に奉仕させてしまいながら、しかもかかる仕打ちのはなはだしい下劣さについては、貴下の土百姓的良心の中に、毫末の予感すら動かないのです。
「重ねて尋ねます――何が起ったか。彼女は、おびえた夢のような眼をした彼女は、貴下に一人の子供を贈った。その父の低級な存在の延長であるこの生物に、彼女は自分が持っている限りの、あらゆる血と生活力とを附与して、そして死ぬのです。彼女は死ぬのです。貴下よ。而してもしも彼女が俗悪のまま逝かず、なおかつ最後に汚辱の底から身を起して、昂然と欣然と、美の致命的な接吻のもとに絶え入るとすれば、それはほかならぬこの小生の骨折りだったわけでしょう。一方貴下の骨折りはといえば、おそらく寂莫たる廊下で女中とふざけるくらいのことかと思います。
「しかし彼女の子は、ガブリエレ・エックホオフの息子は、栄えて生きて凱歌をあげています。おおかた彼は、その父の生活を営みつづけて行くのでしょう。取引きを行い税を納め美食をする公民となるでしょう。あるいは軍人か官吏か、無知にして有為なる国家の支柱となるかもしれない。いずれにしても、非芸術的で尋常な機能をもつ人間、はばかることなく、おそるることなく、強健にして愚昧なる人間となることでしょう。
「貴下よ、どうか次の告白を受け取って下さい――小生は貴下を憎みます。貴下と貴下の子息とを憎みます。生命それ自身を、貴下の表わしておられる、俗悪にしてわらうべき、しかも勝ち誇った生命を、美の永久の相反であり、不倶戴天の仇敵である生命を憎むと同じように。小生は貴下を軽蔑するとは、あえていいません。それは小生にはできません。小生は正直です。貴下のほうが強者なのです。小生が闘争の際貴下に対して振い得るものは、ただ一つしかありません。弱者の崇高な武器であり、復讐の具であるもの、すなわち精神と言語だけです。今日小生はそれを使用しました。如何となればこの手紙は――貴下よ、この点においても小生は正直です――まさに一つの復讐行為にほかならないのです。そしてもしこの中のわずか一語でも、貴下の度胆を抜き、貴下にある見知らぬ力を感じさせ、貴下の頑健な泰然自若を、一刹那揺り動かすに足るほど、鋭く輝かしく美しいならば、小生は欣喜雀躍しようと思います。

デトレフ・シュピネル」
 そしてこの書状をシュピネル氏は封筒に入れて、切手を貼って、きれいに宛名をしたためたうえ、郵便局へ引き渡した。

 クレエテルヤアン氏は、シュピネル氏の室の扉を叩いた。片手には大型の、きれいに字の書いてある紙を持ったままで、いかにも断乎として事を行なおうと決心している男のように見えた。郵便はその義務を果して、あの手紙は行くべき道を行った――「アインフリイト」から「アインフリイト」へと奇妙な旅をしたうえ、正しく名宛人の手にとどいたのであった。今は午後の四時である。
 クレエテルヤアン氏が入ってきた時、シュピネル氏は長椅子に腰かけて、奇怪な表紙絵のついた自作の小説を読んでいた。立ち上ると、不意を打たれた様子で、問うように訪問者を見つめた。そのくせ、眼に見えて顔を赤くした。
「今日は。」とクレエテルヤアン氏がいった。「御仕事の邪魔をしてすみません。が、ちょっと伺わせて下さい。あんたはこれをお書きになったんでしょうかな。」といいながら、彼は大型の、きれいに字の書いてある紙を、左手で高く差し上げると、右の手の甲でそれを叩いた。ばたばたと大きな音がするほど叩いたのである。それから右手を例の寛濶なズボンの隠しに差し込んで、首をかしげると、よく人のすることだが、物を聴くために口を開けた。
 妙なことにシュピネル氏は微笑した。意を迎えるように、少しうろたえたように、半ばあやまるように微笑して、なにか思い出そうとするかのごとく、片手を頭に加えながら、こういった。
「ああ、なるほど……そうです……私、失礼でしたが……」
 実をいうと、彼は今日じだらくに振舞って、正午頃まで眠っていたのだった。その結果、やましい良心と、濁った頭とに悩まされて、いらいらした、抵抗力に乏しい気持になっている。加うるに、吹きはじめた春風のために、だるくなって絶望に傾いている。これらすべては、彼がこの場面の間じゅう、きわめておろかしい態度に出る、その説明として是非とも述べておく必要がある。
「そうか。ははあ。わかった。」とクレエテルヤアン氏はいいながら、顎を胸へ押しつけるやら、眉を釣り上げるやら、両腕を伸ばすやら、なおいろいろと似たような用意をした。儀礼的な質問をすませてから、容赦なく本文に入るための用意である。自分の風采を喜ぶあまり、彼はこの用意をいささかやりすぎた。結局でき上ったところは、この擬容的準備の威嚇的な丹念さとは、すっかり釣り合いきらなかった。しかしシュピネル氏はかなり蒼くなっていた。
「よくわかった。」とクレエテルヤアン氏は繰り返した。「じゃ、お返事を口で伝えることにしようなあ、あんた。つまりその、一時間ごとにでも会って話ができる者に、長たらしい手紙を書くなんぞ、わしはばかげとると思う次第だで……」
「さあ……ばかげていますかな……」とシュピネル氏は微笑しながら、あやまるような、ほとんど謙遜な調子でいった。
「ばかげとる。」とクレエテルヤアン氏は繰り返して、はげしく首を振った。いかに犯すべからざる確信があるかを示すために、振ったのである。「だからわしは、こんなくだらん手紙のために、一言でも費す気はないんだが――遠慮なくいえば、わしにとってこんなものは、それこそバタパンの包紙にも悪すぎるくらいのものだ――しかしこの手紙は、わしが今までわからずにおったある事柄を、説き明かしてくれたで、ある変化をな……もっともそれはあんたには関係のないことだし、今ここでいうべきことでもない。わしは忙しい人間でな、あんたのいいがたき幻覚なんというものよりは、もっとましなことを考えんけりゃならんて……」
「私は『消しがたき幻覚』と書いたのです。」とシュピネル氏はいって、まっすぐに身を伸ばした。これはこの場面中、彼が多少威厳を示した唯一の瞬間だった。
「消しがたき……いいがたきか……」と答えながら、クレエテルヤアン氏は原稿をのぞいて見た。「あんたは実に悪筆だなあ。わしの事務所じゃ働いてもらいたくないよ。ちょっと見ると、大変きれいなようだが、明るいところで見ると、一面に隙間だらけで、ぶるぶるふるえとるじゃないか。しかしこりゃあんた自身のことで、わしの知ったことじゃないさ。わしが出かけて来たのはな、あんたがまず第一に阿呆者だということを知らせて上げるためだ――どうだな、それはもうあんた知っていそうなもんだが。しかしその次に、あんたは大の卑怯者だ。が、これも別に詳しく証明して上げるまでもあるまいて。家内がいつか手紙で知らせてくれたが、あんたは出会う女子おなごの顔をまともには見んで、美しい想像を捕まえるために、事実がこわいというて、ただ横目でちらっと眺めるきりだそうだな。惜しいことに家内は、その後手紙であんたの話をするのをやめてしもうた。そうでなけりゃ、わしはもっといろいろあんたの話を知っとるだろうにな。だがあんたはそうした人間なんだ。『美』というのがあんたのきまり文句だが、それは要するに、びくびくやこそこそや焼き餅の異名にすぎんのだ。だからこそあんたは、『寂莫たる廊下』なんぞと、不届きなことをいったんだろう。あれはおおかた、わしをぐんとやっつけるつもりだったんだろうが、しかしわしにはただ面白かったばかりだ。面白かったんだよ。だがこれでわけがわかったか。わしは君の『性行』をこれで『いささか説明』したか。どうだ、貧弱先生。もっともそんなことをするのは、わしの『止みがたき天職』じゃないんだがな。へっへっ。……」
「私は『避けがたき天職』と書いたのですが。」とシュピネル氏はいった。しかし彼はすぐにまたやめてしまった。どうすることもできず、叱りとばされたまま、なんだか大きなあわれな、白髪まじりの小学生のように突っ立っている。
「避けがたき……止みがたきか……君は全く下劣な卑怯者だよ。毎日君は食卓でわしに会う。すると挨拶してはにこにこ笑い、皿を取ってくれてはにこにこ笑い、ゆっくりお上りなさいといっては、にこにこ笑う。と思うと、いきなりこんなばかげた中傷だらけの反古紙ほごっかみをわしに背負しょい込ませる。ふふん、なるほどな、筆のうえじゃ君は勇気があるて。ところで、これがもしこの滑稽な手紙だけなら、まだいいさ。ところが、君はわしに対して奸計をめぐらした。わしの蔭で、わしに対して奸計をめぐらした。わしには今それがようくわかるんだ。……といったところで、なにも君はそんなことがちっとでも役に立ったなんぞと、うぬぼれるには及ばんぞ。万一君が、家内の頭に気まぐれを吹き込んだというような望みに耽っとるなら、そりゃ君、見当違いでございますだ。家内はそれほど分別のない人間じゃないさ。またもし、わしと子供がやって来た時に、家内がなにかいつもと違った迎えかたをしたとでも、君そんなことまで思っとるなら、それこそ、君は君の悪趣味に上塗りをかけるようなもんだ。家内は子供に一度もキスをしてやらなかったかもしれんが、そりゃ用心してのことさ。なにしろ近頃になって気管支じゃなしに、肺らしいという見立てをする人が出てきたんで、もしそうなら、どうもなんともいわれんからな。……もっともこの肺かどうかということは、しかしまだまだ証明の余地があるんだ。しかも君は『彼女は死ぬのです、貴下よ』じゃないか。君はばか野郎だ。」
 ここまで来て、クレエテルヤアン氏は呼吸を少し整えようと努めた。彼はもうひどくかんしゃくを起してしまって、右の人差指で宙を突き刺しては、左の手で原稿をこっぴどい目にあわせている。明色のイギリス式頬髯に埋った顔つきは、おそろしく真赤で、くもった額にはあたかもかんしゃくの稲妻のごとく、怒張した脈管が縦横に走っている。
「君はわしを憎んどる。」と彼はつづけた。「これでもしもわしのほうが強くなかったら、きっとわしを軽蔑するんだろう。……そうとも、わしのほうが強いぞ。ざまを見るがいい。わしの心臓はちゃんとあるべき場所にあるが、君のほうはきっとたいがいズボンの中にでもあるんだろう。だから君を君の『精神と言語』と一緒くたにして、わしは打ち殺してしまうだろうよ、この陰険な阿呆め、もし禁じられておらんならなあ。しかしこういったからって、なにも君の罵倒を、おとなしく黙って我慢する意味じゃないぞ。いいか。もしあの『野鄙な姓』とかなんとかいうところを、うちの弁護士に見せてやったら、さあ、そうしたら、君が胆をつぶすような目に逢うか逢わんか、まあ見ているとしようよ。わしの名前は立派な名前だ。わかったか。しかもわしの腕で立派なものになったんだ。君の名前に対して、君に一銭でも貸す人があるかどうか、この疑問は君自身で解いてもらおうよ、素姓も知れんのらくら者めが。君のような人間には、法律で向うよりほかにしようがないんだ。君は公安を害する人間だ。みんなを気ちがいにする奴だ。……といったところで、今度はうまくいったなんぞとうぬぼれるには及ばんぞ、このけつ曲りめ。わしだってまだ、君みたいな野郎どもにゃ、こう見えたってどうして恐れ入るもんか。わしは、心臓がちゃんとあるべき場所にあるんだからな……」
 クレエテルヤアン氏はもう実際、昂奮の頂点に達していた。叫び声を挙げては、何度も自分は心臓があるべき場所にあるというのである。
「『彼等は歌いました まる』歌ってなんぞいたか。編物をしとったんだ。それに馬鈴薯菓子の揚げかたかなにか、話しとったように思ったな。わしがもしあの『衰頽』とか『終焉』とかいうことを、家内の親父おやじに話したら、きっとわしと同様、親父もあんたを正式に告訴するぞ。そりゃもう請け合っていいよ。……『貴下はこの画をごらんになったか。これを見られたか。』無論見たとも。しかし見たからというて、なぜ息を殺して逃げ出さんけりゃならんのか、わしにゃわからん。わしは女子おなごの顔を横眼でおずおず見るようなまねはせんぞ。ちゃんと見てやってだ、もし女がわしの気に入って、女のほうでもわしが好きだというなら、そうしたらわしはその女を妻にするまでのことだ。わしは心臓があるべき場……」
 誰かが扉を叩いた。――いきなり九度か十度、矢継早に部屋の扉を叩いたのである。それは小さいはげしいおびえたような顫音トリルで、クレエテルヤアン氏はそれを聞くと、口をつぐんでしまった。そしてぐらぐらゆれているような、心痛の余りたえず調子をはずしてしまうような声が、きわめて早口にこういった。
「クレエテルヤアンさん。クレエテルヤアンさん。ああ。クレエテルヤアンさんはおいででございますか。」
「入って来ちゃいかん。」とクレエテルヤアン氏はつっけんどんにいった。「なんだ。今話があるんだ。」
「クレエテルヤアンさん。」とそのよろめくような、消えかかるような声がいった。「是非おいで下さらなくては……お医者様たちもお見えになっております……おお、ほんとに悲しくて悲しくてたまらないのでございます……」
 と、彼はたったひと足で戸口まで行って、扉をぐいと引き開けた。外にはシュパッツ夫人が立っていた。夫人はハンケチを口に押しあてている。そして大粒の細長い涙が、ぼろぼろとそのハンケチの中へ滴っている。
「クレエテルヤアンさん。」と、彼女は押し出すようにいった。「ほんとに悲しくて悲しくてたまりません……奥様はたいへんにたくさん血をお吐きになったのでございますよ、それはそれはどっさり……お寝床の中にじいっと坐っていらしって、なにかちょっとした曲を口の中で歌っておいでになるうちに、ふいと出たのでございます、まあほんとに、途方もなくどっさりと……」
「もう死んじまったんですか。」とクレエテルヤアン氏は叫んだ……同時にシュパッツ夫人の二の腕を引っつかんで、閾口で夫人をぐらぐらとゆすぶった。「なに、だめになりきったんじゃないのか。ええ? まだすっかりだめなんじゃない。まだわしの顔が見えるんだな……またちょっと血を吐いたのか。肺からかね。そうだろう。ひょっとすると肺から出たのかもしれん。……ガブリエレ。」と、だしぬけにいった彼の眼からは涙がこぼれた。それを見ると、ある暖かい善良な人間的な誠実な感情が、彼の心からほとばしり出たのがよくわかった。「うん、今行くよ。」というと、彼は大股にぐんぐん歩きながら、シュパッツ夫人を引っ張ったなり、部屋を出て、廊下伝いに行ってしまった。廊下のずっとはずれのほうから、彼の「すっかりだめなんじゃないんだな。……肺からだというのかね。」という声のずんずん遠のいて行くのが、あとまで聞えていた。

 シュピネル氏は、かくもにわかに中絶したクレエテルヤアン氏の訪問の時と同じ場所に、そのまま突っ立ったなり、開け放しの扉を見つめていた。やがて数歩前へ出ると、遠くのほうへ耳を澄ました。しかしなにもかも森閑としているので、扉を閉めて、部屋の中へ戻って来た。
 しばらくの間、彼は鏡に映る自分を眺めていた。それから机のところへ行って、抽斗ひきだしから小壜と小コップを取り出して、コニャックを一杯飲んだ。これは何人も無理とは思えぬことだった。それから彼は長椅子の上に長々と横になって眼を閉じた。
 窓の上扉が開け放しになっていた。外の「アインフリイト」の庭では、小鳥たちがさえずっている。そしてこれらの小さい優しい元気のいい声の中には、微妙に迫るように、春全体が表わされている。一度シュピネル氏は小声で、「止みがたき天職……」とつぶやいた。それから首を左右に動かしながら、はげしい神経の痛みを感ずる時のように、歯の間から空気を吸い込んだ。
 平静沈着に達するのは不可能だ。こんな粗雑な出来事はおれの肌には合わない。――もし解剖したら、あまり冗長になりそうな一つの心的経過をたどって、シュピネル氏は、立ち上ろう、そして少し運動をしよう、ちょっと外を歩いてこようという決心に到達した。そこで帽子を手に取って、部屋を出た。
 家の中から歩み出て、やわらかな、香りの高い風にかこまれた時、彼は首をめぐらして、ゆっくりと建物添いに、上のほうの窓の一つまで視線をすべらせた。帷のかかった窓である。彼の眼はややしばらく、まじめにしっかりとそして陰鬱に、この窓へすえられていた。やがて両手を背中に廻すと、彼は大股に砂利道を歩いて行った。深い沈思のうちに歩いて行ったのである。
 花壇はまだむしろで蔽われていて、樹々もまだ裸であった。しかし雪はすでになく、路にはただところどころに、なおしめった迹があるだけだった。岩窟や外廊や小亭などのあるひろい庭は、華やかに色づいた午後の外光の中に、くっきりした影と、ゆたかな金色の明るみとをたたえながら、横たわっていた。そして樹立の黒ずんだ枝々は、澄み渡った空を背景に、一つ一つ劃然とこまかく描き出されていた。
 それは太陽が形を取る時刻、渾沌たる光の塊が、目に見えて沈んでゆく円盤となって、前よりも飽和した、前よりも穏かになったその輝きが、眼で見つめられる時刻だった。シュピネル氏は太陽を見なかった。彼のゆく道は、ちょうど太陽が彼には隠れて見えないような工合に通じているのである。うなだれて歩みながら、彼はなにかちょっとした曲を口の中で歌っている――短かいひとふし、おずおずとなげきながら高まってゆく装飾音、あのあこがれの楽旨である。……ところが突然、短かい痙攣的な吐息とともに、彼はしばられたように、ぱっと立ち止った。そしてはげしくしかめた眉の下から、彼の見開いた眼は、愕然として物を防ぐような色をうかべたまま、じっとまっすぐ前を見据えた。
 道は折れた。落日に向って通じている。金で縁取られた二すじの細い輝かしい雲を帯びたなり、太陽は大きく斜めに空にかかって、樹々の梢を燃え立たせ、樺色の光を庭一面に注ぎかけている。この金色の浄化のただなかに、日輪を巨大な毫光として頭にいただきながら、一人のでっぷりした、赤と金と格子縞ずくめの着物を着た人物が、すっくと身を伸ばしたまま、道のゆくてに突っ立っている。右手をふくれ上った腰に突っ張って、左手できゃしゃにできた乳母車を、軽くゆり動かしている。ところで、この乳母車の中にあの児が乗っていた。若いほうのアントン・クレエテルヤアンが乗っていた。ガブリエレ・エックホオフの息子が乗っていたのである。
 白い厚羅紗の上着に大きな白い帽子で、まんまるなほっぺたをして、あっぱれみごとに、くりくり肥って、彼は褥の中に坐っている。そして彼の視線は、快活にたじろがずに、シュピネル氏の視線を迎えた。小説家はまさに勇気を振い起そうとした。彼も男である。この栄光にひたされた、思い設けぬ現象のそばを通り抜けて、そのまま散歩をつづけてゆくくらいの気力は持っていたであろう。ところが、その途端にすさまじいことが起った。アントン・クレエテルヤアンが笑いはじめた。歓呼しはじめたのである。彼は不可解な喜びのあまり、きゃっきゃっと声を挙げている。それはまったく気味が悪くなるくらいであった。
 何が彼を刺戟したものか、彼と相対している黒い姿が、彼をこの猛烈な悦楽に誘ったものか、それともどんな動物的快感の発作が彼を襲ったものか、それはわからない。片手にはなにかの骨でできたおしゃぶりを、片手にはブリキ製のがらがら箱を持っている。この二つの品を、彼は歓呼しながら日光の中へ差し上げて、振ったりかち合わせたりする。なんだか誰かを茶化しながら追い払おうとしているかのようである。眼は満悦のあまりほとんど閉じられてしまって、口はばら色の上顎が残らず見えるほど、大きくぱくっと開いている。歓呼を挙げると同時に、頭を左右にゆすぶりさえしている。
 するとシュピネル氏はきびすをめぐらして歩み去った。小クレエテルヤアンのかちどきに送られて、なんとなく慎重に、ぎこちないしとやかさで腕をかまえながら、彼は砂利の上を歩いて行った。内面的に遁走しつつあることを隠そうとする人のような、むりやりにゆるめた歩調で、歩いて行ったのである。





底本:「トオマス・マン短篇集」岩波文庫、岩波書店
   1979(昭和54)年3月16日第1刷発行
   2003(平成15)年5月24日第33刷発行
入力:kompass
校正:酒井裕二
2015年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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