汽車、電車、バスなどの公衆の交通機関は現代世相の風俗画とも言ふべきで、かういふ観点から例へば通勤の往復も極めて興味ありかつ有益な時間になるわけである。元来僕のなかには空想と観察が一緒にすんでゐるらしく、時に応じて新聞雑誌を読み、考へごとをし、連想し、退屈し、眠り、そしてまた乗り合はした人に興味や関心をひかれるといふ、この点極めて尋常の乗客なのであるが、それでも乗り物の中での記憶がいつのまにか頭のどこかに夥しくたまつてはゐる。モデルノロジイといふのがあるが、ああいふ事もやつてみれば面白いに相違ない。
春から初夏へかけて伊豆方面にでも出かけるらしい団体と同じ列車にしばしば乗り合はせる。団体と一と口に言つても種々雑多な類ひがある。いつか、×××印蚊取り線香小売販売人御招待といふ団体のなかにまぎれこんだことがあつた。まだ春浅いことだつたので成程宣伝の世の中、商人の手廻しのいいのには感心もし、×××印蚊取り線香と染め抜いた青や赤の小旗をかざした人々の右往左往し、南京豆、のしいかに思ひ/\に小宴を張るさまが如何にも可笑しさにたへなかつたが、そのうち世話役らしい人が僕の所へやつて来てこちらにはお酒はまわりましたか知らといつて二合瓶をあてがはれた事がある。その中に割り込んだ僕を同行と間違へたものらしい。勿論僕は遠慮なく頂戴した。この蚊とり線香を用ひてしかもなほ蚊に悩まされた記憶もあれば、蚊も又安心して推賞するに足るこれは蚊取線香だつたのである。それにしても蚊取り線香販売人といふ見立てにはわれながら恐縮して、どうかと思つたことだつた。と言つて僕は
何処行きの列車だつたか、いづれ急行でないから名古屋より先へ行く人ではあるまい。一人の田舎の老紳士の、学生らしい青年をつかまへて声高かに話してゐるのがボツクスを三つも離れた所まで手にとる様に聞へてくる。細面のくせに血色の良い、しかも頭は半白、元気は若者をしのぐ好々爺だつたが、大いに経国の本義を論じてゐるらしく、其の説たるや頗る珍重すべきものであつた。曰く“社会に犯罪者の絶えないのは生活が苦しいからである。然るに国家が警察網、司法権、刑務所の経営のために投ずる費用は極めて莫大なものであつて、若しこの莫大な費用を一般国民の生活の補助として分配するならば、国民の生活は向上し、したがつて犯罪者といふものは出なくなり、警察、裁判所、刑務所などを必要としなくなる”この説には僕も少なからず驚いた。古代希臘のソフイストの詭弁にみるやうな何か知ら南方的な呑気さのある点、甚だ面白いとも思ひ、かういふ楽天的な明朗な肯定精神をもつた老人もまたなかなかいいものだと感心した。この老人は金鎖に御大典の銀メ
これは東北の三等列車の中。直ぐ前にすわつてゐる一人の青年が買つて来て包みをほどいたばかりの本を読んでゐる。顔の青白く神経質にみえる割に着物の着ごなしなど田舎者らしく、村では相当のインテリ青年が啄木を好み暇と小遣ひを都合して上京し、ドイツ映画を鑑賞し、うまい珈琲をのみ、帰りに新刊書を買つて来たとでも思へる感じがいかにも好もしく、一体何を読んでゐるのか気をひかれたが、のぞきこむわけにもゆかず、そのうち幸ひトイレツトに立つたので置いて行つた本の表題をみると、これはまた意外にも『小心恐怖症の治療』とある。近来心臓のみ強い人の多い世の中に、気の毒にもまた頼もしい青年ではあるまいか。僕も一読の必要があるが未だその機を得ない。〈非広告〉
これは省線のことで、大井町から酒場の女給風の女が乗りこんだ。といふだけではなんの変哲もないが、時間が朝の十時頃、女は店着らしい酒のしみの目立つ、ひどくくたびれた派手な着物で、さほどに車中は混んではゐなかつたが注目を一身にあつめた感じだつた。どうやら昨夜店が終つてから何処の仮寝かいま帰るものらしい。僕は別に好奇心も感じなかつたが、女は両手のなかにハンカチをしつかり握つてゐて、そのハンカチがまたしろじろと気高い程に新しい。僕は何となく芥川龍之介の『
ハンカチを有効に用ひた者はひとり不如帰の浪さんばかりではない。
ここまで書いたら大船に着いた。僕は降りなければならぬ。これもまた車中の楽しみである。
(「話」昭和12年4月号)