井伏鱒二は悪人なるの説

佐藤春夫




 太宰治は井伏鱒二は悪人なりの一句を言ひ遺して死んだと聞く。これはなかなか重要な遺言だと思はれるから、自分はこれを解説し太宰にとつて井伏鱒二が悪人であつた事を裏書きして置きたいと思ふ。
 太宰は逆説的表現を好む男であつたから、井伏鱒二は悪人なりと書いてあつても自分は大して奇異には思はない。むしろ、「井伏さんには長い間いろいろ御世話になりましたありがたう」と書いてあつたとしたら、かへつて変な位なものであらう。また、太宰が井伏を本当に悪人と感じたとしたら井伏鱒二は悪人なりなどとそんな単純な気の利かない云ひ方で満足したであらうか。如是我聞の筆法で、も少しは云ひ方がありさうなものである。然らば井伏鱒二は太宰治にとつてそれほどの毒舌にも値しない悪人であつたに相違ない。自分は亡友の文章の一句を文字どほりに正しく読まうとする者である。
 若し太宰が佐藤春夫は悪人なり、とか、山岸外史は低能児なりとか書いてあつたと仮定したら或はそれを真に受ける人も無いとは限るまい。だからさすがに太宰もそんな事は書かなかつた。それが太宰の常識である。しかし井伏鱒二は悪人なりと放言して置いても井伏鱒二は良心の苛責を受ける筈もなく、また好漢井伏鱒二を知る程の人間で太宰の宣言を真に受ける愚人も居ないのを知つて太宰は安心し、また井伏に最後の甘えつぷりを見せてずばりと井伏鱒二は悪人なりと断言して行つた。これは表面的なほんの一とほりの解釈であるが、しかし彼の一句の真意は決してそれほど単純な空疎なものではない。すなはち井伏鱒二は悪人なのである。尠くもあの一句を書いた当時の太宰にとつては井伏は単純に悪人呼ばはりをしたい悪人だといふ実感が感じられたに相違ないと太宰治を知り且井伏鱒二を知る自分にはさう信ぜられる。それ故、太宰治の文学と人間とのためにこれを記して置きたい。そのために井伏鱒二が再び迷惑するかどうかは自分の知つた事ではない。井伏鱒二は健在である。彼がどんな人物であるかは人々がまのあたりそれぞれに好き勝手に判断出来るではないか。何を好んで太宰治や僕などの弁護や判断を待つ必要があらうか。
 井伏鱒二は尠くも太宰治にとつてはその時悪人と感ぜられた。この説を肯定するために先づ知つて置かなければならないのは、井伏は太宰夫妻の月下氷人だといふ一事である。自分の記憶に誤りがないならば、それもただ形式的な所謂頼まれ仲人よりはもつと本式の月下氷人であつたやうにおぼえてゐる。僕の説はここから発足してゐる。
 僕は思ふ。太宰の奴はその死を決するに当つて、人間並にも女房や子供がかはいさうだなといふ人情が湧いたのである。太宰はそんなけちなものなんか夙に超越したやうなえらさうな顔をしてゐたが、どうして決してそんな豪傑ではない。あれはただ気取りや見え坊のためにあんなポオズを択んでゐたが、つまらぬ泣き虫野郎であつた。芥川賞を欲しいと泣き、パビナアル中毒の診療入院がいやだと泣いてゐた。それが彼の文学の大衆性なのであらう。――義理人情の徒が近代的扮装をしてゐるといふところが。
 それで彼は感じた(と僕は想ふ)所詮人並の一生を送れる筈もないわが身に人並に女房を見つけて結婚させるやうな重荷を負はせた井伏鱒二は余計なおせつかいをしてくれたものだな。あんな悪人さへゐなければ自分も今にしてこんな歎きをする必要もなくあつさりと死ねるのだがなあ。井伏鱒二のおかげで女房子供に可愛そうな思ひをさせる(と太宰は井伏を悪人にして一切の責任をこれに転嫁した)井伏鱒二は悪人なりの実感のあつた所以である。それ故あの一句の影には太宰の、女房よ子供よこの悪い夫を悪い父を寛恕せよといふ気持を正直に記す気恥しさを「井伏鱒二は悪人なり」と表現したのであつた。あの一句からこれだけの含蓄を読み取り、この心理的飛躍と事実の歪曲とを知る事が出来ないでは、結局太宰の文学は解らないわけである。
 太宰の結婚を知る人には解りやすい謎語だから細君や井伏はこの一句ですぐそれを会得するであらうと、かう書いては見たが、すぐわかるとなるとそれさへが、気恥しく、それに表面の文字が気がかりでやつぱり破いてしまつたのは、太宰自身でも自分の文学の真の読者の鮮いのに気づいてゐたからであらう。
 余計な解説をしたのを知つて地下の太宰は今ごろは佐藤春夫悪人なりと憤慨してゐるかも知れない。





底本:「定本 佐藤春夫全集 第23巻」臨川書店
   1999(平成11)年11月10日初版発行
底本の親本:「作品 第二号」
   1948(昭和23)年11月15日発行
初出:「作品 第二号」
   1948(昭和23)年11月15日発行
入力:夏生ぐみ
校正:えんどう豆
2018年1月27日作成
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