いやしくもレディの雑誌に、
小島政二郎だの[#「小島政二郎だの」は底本では「小嶋政二郎だの」]さては舟橋聖一、その他、こんな話題を巧みにこなす諸公がおほぜいゐるなかから、何でわたくしに白羽の矢を立てたものやら。それをまたわたくしが引き受けるはめになつたのは取次ぎの電話の聞き方の不十分による行き違いの結果なのである。
ままよ、五枚や十枚の原稿など、ひらりと体をかわし顧みて他を言つてゐるうちにすんでしまふだらう。
と言つて決して敵にうしろは見せない、引き受けた以上、書くべきことはずばりと書くには書く。ただ喜んで読むとかいふ連中にとつては思ひのほかに面白くない、読みがいのないシロモノになるかも知れないが、そんなことはもとよりわたくしの知つたことではない。わたくしにそんなこと題目を[#「そんなこと題目を」はママ]書かせようとした編集者の見当違ひなのだから。
そもそも「ヰタ・セクスアリス」といふ言葉はもと森林太郎が性欲的自叙伝ともいふべき哲学小説に使つた題であつた。その哲学小説を色情小説化して通俗的に世にひろめたのは、時の文部大臣某のしわざであつた。文部大臣といふ者は、昔も今も時々こんなおもしろいことをしでかす道化役人らしい。文部大臣や雑誌編集人は鴎外の用語を色情生活打明け話といふふうに思つてゐるらしい。しかし鴎外の孫弟子を以て自任するわたくしは大師匠の用語を使ひ誤つてはなるまい。あれを哲学小説として読んだやうに、わが与へられたこの題をもまた哲学的に取扱ひたいと思ふ。では、先づ、
性欲は人間のなかに潜んでゐる野獣性である。鴎外はこの野獣を家畜のやうに飼ひならすための参考資料としてあの小説を書いたので、先生は先生の内部に住む野獣の活動状態を世人の見せ物にするのが目的ではなかつたに相違ない。
わたくしはプライバシーを尊重する者である。他人のプライバシーとともに、自分のプライバシーをも尊重する。原稿料と称するはした金のために、この尊重すべき己のプライバシーを冒涜し、こんな題目に正直に立ち向ふ気にはならない。
ある時、わたくしが性欲は尊厳なものであると言つたら舟橋聖一がそんなことを貴公が言ふのは「神がかり」であると言つたから、わたくしは「さうして貴公が申せば
そもそも性欲は自然があらゆる生物に課して種属保存の義務を負はせた
性欲はわれわれのすべてが遠い祖先から受け継いだ神秘きわまる力で、自然が課した生産への生命的苛税であることを、従つて尊厳なものであるのを知らない者はバカ者で、こんなバカ者だけが自他のイタ・セクスアリスを何か愉快な面白い話ででもあるかのやうに語りまた耳を傾けるのである。この種のバカ者どもに恥あれ。
性欲などはバカ者でない限り、好んで好話題にすべきものではなく、むしろ不言実行すべきたぐひのものなのである。実行するだけの力のない者だけが、語ること聞くことによつてその意欲の一端を辛うじて満足させるのである。姫ごぜのあられもなくこんな話を聞きたがるのかと思つたが、実は姫ごぜなるがために、見るからおそろしい人生の深淵に飛び込むだけの勇気もなく、ただその糖衣的表面の誘惑に駆られてせめては人の話でも聞きたいというので[#「いうので」はママ]あらう。銭の持ち合せのない気の毒な人が店の表でうなぎのにほひをかいでよろこんでゐるのに似たやうな話でもあらうか。
一口に野獣と言つても猫の雌などでもすぐ雄に身を任すのではなく、さんざわたり合つて相手と闘い、その力を試して種属保存上価値のある相手と認めない以上身を許さない。犬猫とてもただ本能的に身を任してゐない。この点ある種の人間の雌よりは賢いかに見える。
さあもう大ぶん考へた。このわたくしの考へのわかつた人にだけならわがイタ・セクスアリスを語つてもよいと思つてゐるところで紙が尽きた。
わたくしの家では、父が南国の
田舎町であらうと、ささやかであらうと、私立であらうとも、病院はやつぱり病院である。看護婦も車夫も薬局生も若い医員たちもゐる。十人も若い男女が毎日顔をつき合してゐると、必ず少々はいかがはしい性的話題が出るのは、自然な現象である。特に医者や看護婦たちは職業として人間の肉体を取扱ひ、生理に注目する者だけに、一般よりは立ち入つたあけすけな話ぶりだし、話だけではなく生活のなかにもさういふムードがただよつてゐた。彼らの間に立ちまじつてわたくしもその空気にふれてゐた。
努めて主家の子供たるわたくしの耳目を避けてゐる様子ではあつたが、何しろ毎日の事だし、何かこそこそ秘密げにふるまつたり、さては子供などにわかるものかとタカをくくつてゐる奴などもゐたが、それらはどちらもわたくしの目を見張らせ耳を傾けさせて、彼らの様子や話の内容などもごくぼんやり漠然とではあるが、期せずしてわたくしに初期性欲教育の手引となつたもので、わたくしはまるでその温床のなかで育つたやうなものかも知れない。
性に対して人々が秘密にしたがるのは単に社会的儀礼ではなくこれも本能で、これを神秘化して魅力を加へ、好奇心をそそるための自然の
わが小学校以来の竹馬の友といふのは色の蒼白い癇ぺきの強い少年であつたが、わたくしが中学へ入るころ、彼はすばらしい画才を発揮しはじめて、家庭は彼を中学へ進学させる代りに京都の某日本画の大家の家に送つて、その
わたくしの声を聞きつけるとYはさつそく出て来たが、何やら妙な表情をしてゐた。
Yの表情は導かれた部屋へ行つて見てすぐ
わたくしはまた倉の片隅に捨てられたやうに積み上げた雑誌などの間から「色情狂編」といふ妙な題の本を引つぱり出して愛読した。たしかクラフト・エービングの著書の訳本であつたかとおぼえてゐるが、科学書にも似ず美文調で訳されてゐた。明治二十六七年ごろの本であつた。これは十分に読み尽さない間に誰かにかくされてしまつた。
紙員も乏しくなつたし、くどくどと詳細に記述すべき事がらでもないらしいから、単刀直入に言へば、わたくしは数へ年十四のころには性的知識はほぼ十分に備へてゐたばかりか、その年の晩春の一夜には一人前の男子としての体験をも持つてゐた。相手は、看護婦のうちの最も美しいのではなく、最も身持の悪い奴であつたのも
わたくしは二十二歳で試験結婚をして以来同棲した女子は三人あつたが、子供はなく、彼女らとは捨てるでも捨てられるでもなく、お互に誤を改めるに