二つの愛国型

佐藤春夫




(一)


 愛国の精神に二つはない。しかしその現れは千差万別人さまざまである。たとへばその根も幹も一つでありながら各の枝にさく一つ一つの花がつくづくと見るとそれぞれ多少の相違があるやうなものであらう。
 あまりに複雑な差別はさて置いて、およそ二つの型が見られよう。自国の長所と美点とを誇り喜び心酔してゐるとも見るべき、いはゞごく素朴にすなほな型の愛国者で在来の役人や軍人、教育家など普通に愛国者と認められてゐるのがそれである。
 これに対して一方には少々ひねくれた愛国型があるものである。自国に対して不満や不平を抱いて、それが愛国の至誠から出てゐることを自ら疑ひもしないから、さながらに愛するものを鞭打つやうに、彼等は一見非愛国的に見誤られる不幸な愛国者である。
 在来は文学者や一般の知識人の愛国精神がこの型をとつて現れてゐた。さうして健全な素直な愛国者から、このひねくれ型の複雑な愛国者は非国民的に取扱はれてゐたものである。今日でもどうかすると、この第二の型は自由主義者が御時世に対応しようとして迷彩してゐるだけだと見誤られる惧がありさうである。すべて原則としてひねくれたよりは素直な方がいいのだから、相成るべくは誤解を避けるためにも畸形な愛国型を自粛する方が適当なことは申すまでもない。一方、素直な型の愛国者に対しては、その原始型だけが唯一の愛国者でないことも知つて置いて貰ひ度い。
 愛国型の統制もまた必要には相違ないが、国民服にも二三の型を認めてゐるやうに、愛国者の型にも一号、二号のあることを言つて、ひねくれた型の愛国者が単に有害なだけでなく、文明の推進力として案外有用な素材であることを認めてほしいと年来考へてゐたが、近来になつて理解も多少は深められて来てゐるやうに見受けられるし、愛国精神を具体化するための骨骸ともなるべき国策も明かになつてゐるのに鑑み、文学者、知識人の愛国も出来るだけ素朴明朗に透明な現れとなつた方が推進力としても役立つものであらうと考察する。
 しかし、これだけの自覚に基づきながらにも、どうしても畸形な変貌をとらなければならない困つた愛国精神がまだ絶無ではあるまいといふ懸念も起る。文化が複雑になればなるほどさまざまな精神状態やそれに伴なふ形態が生れるものだからである。将来のことは未然の事象だから例を挙げて述べにくい。過去にその例を求めることは至難ではないが、過去のことは今日の問題にはならないかも知れない。しかし故を温ねて新しきを知る一助ともしようか。

(二)


 永井荷風は、いかなる意味でも新体制の人物ではない。全く過去の史上の人物と見る方があらゆる意味で安全である。ここにこの名前を引出して来ることさへ荷風散士にとつては迷惑至極のことと思ふ。彼こそは自由主義、個人主義時代の日本を代表する唯一の文学者であるだけに現代の時勢には最も適応しにくい文学者に相違ない。彼自らこれを知つて跡を韜晦し保身の術を得てゐる。現代の人として論評することは不当であり、不必要である。但し彼を生んだその時代でさへ彼は非国民視された事実があり、誤解されやすい複雑性をもつた愛国者であつたと自分は見てゐる。
 彼の文学のなかに愛国的なものが感じられないではないのに、それにも拘らず、全く逆な要素に似たものをさへあはせて感じさせられて、単純な頭には誤解されるのも無理がないと感じられる節もある。
 そのあまりの複雑さを理解しかねて自分はある時、ありのままの印象を卒直に、先生は愛国者の如くであり、しかもしからざるが如くに見えるは何故なりやと愚問を発した時、彼は甚だ端的に、余はわが国の人情風俗風土民衆など一切を極愛してゐる。ただ現代のわが国の知識的な一切のものに極度な嫌悪を感じてゐると答へるのを聞いた。またこの言葉だけではなく、彼の作品の細部やその主題によつてこの言葉を確証するものが尠くないのをも自分は知つてゐる。
 彼はまことに愛国の情を抱きながら苛※[#「くさかんむり/剌」、U+44F6、429-下-1]極まる文明批評を父祖の国にたたきつけてゐる。欧米の浅薄な模倣に得々たる植民地風の文化を悪罵したもので、今日になつて見れば、当時の一般の傾向に対して、この文明批評は自己反省の一資料となるだけの内容を持つたものであり、一面彼はこの破壊的な言説と同時に、おのれが国の文化建設の事業にも努力し、その文化を進展させることをもしたのであつた。その文化精神が健全なものであるか否かは第二段の問題として、彼はその文学者たるの使命には忠実であり、またその時代の精神を最もよく反映してゐる文学者であつて、彼のなかにある精神の罪は彼一個の罪ではなく、時代の罪であるかとさへ思はれるものが多い。

(三)


 ただ一個複雑な性格を持つた愛国者の一例を近い過去に求めて、将来この種の更にもう一層手の込んだ愛国者の出現する時代を考慮して、その際、誰か烏の雌雄を知つてこれを裁くか。また単純にそれがその時代の社会に与へる感化といふ位の目安で、あつさり処置するのが賢明な万全の方法であらうか。愛国者の型を強ひて一種のものに統制することによつて、国民常識の健全を期待する一方、芸術の精神などが稀薄になる惧はないであらうか。また一国に文学や美術などの繁栄することが今日必要として希望せられるか否か、その要なしとすれば我等はいかにすべきであるかなどと一見愚劣な心配のやうに見られ、また誤解されはせぬかなどの不安もありながらも、新文芸の誕生のなかにひそみかくれてゐる問題の一つとして取上げてみたのである。
 問題を提出しただけで答へを出したつもりではない。これが愚劣に見えるのはあまり根本的な問題を含みすぎてゐるためであらう。さうして結局は循環小数めいた答へしか出来ないらしいが、この根本義に一応ぶつつかつて置かないと、新文学がみなお座なりの文学になりさうな懸念を感じてならないのである。
 あまり頭がつかれたので一服してつくづく考へなほして見ると、文学といふ代ものそれ自体が複雑な厄介な代物で、いはばいやな副作用を伴なふ薬らしい。薬ではなく毒なのかも知れない。
 根本義をはなれて、あつさり実際的に考へて見るとすれば、さまざまの発言を待つてゐることだけをいひさへすればいいのかも知れない。我々自身のいひたいことがそれより外に何一つないといふところまで行かなければ本当でないことにもなるのであらう。さうして複雑にひねくれた愛国型はつまりは新体制型ではないのである。問題は一応簡単明瞭になつた。
 しからば、愛国型第二号、畸型な愛国的風貌は一切おさらばである。すべての複雑なものよ、みな出なほして来いである。その複雑を単純化してそれでゐて美と力と内容とを失はせない工夫と努力とが現代の要求なのである。さうしてただ、吾人は須らく現代を超越せざるべからずなどと、新体制を知らなかつたむかしの奴の寝言にしか過ぎないのだ。
 循環小数はもうこれですつかり四捨五入した。





底本:「定本 佐藤春夫全集 第35巻」臨川書店
   2001(平成13)年4月9日初版発行
底本の親本:「報知新聞」
   1940(昭和15)年10月23日〜25日発行
初出:「報知新聞」
   1940(昭和15)年10月23日〜25日発行
入力:よしの
校正:朱
2022年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「くさかんむり/剌」、U+44F6    429-下-1


●図書カード