高祖保




Sine qua non



乖離くわいり




 十月。秋神の即位。――金鶯みそさざい一羽、廃園のエルムの樹に通ひはじめる。


 道傍の亜灌木にある、水禽の糞。
 湖からあがる風が、弧を描いて、水霜の葉におちる。
 青いつぐみが食卓にのぼりだすと、聖餐式のやうに澄んだ夜ごとが、ひらける…


 手帖に一篇※(始め二重括弧、1-2-54)天使園の薔薇※(終わり二重括弧、1-2-55)といふ詩を、書きとつた。それから、パピィニの自叙伝を読んだ。そして、ひとりで眠つた。
「灰色の靴下を穿いた秋」が、わたしの精神の罅裂ひびの隙き間から、もぐりこんでくる。


 霊感のたむろ。――たましひのとりで


 福音書的エヴァンヂェリックとは、何といふことであらう。
 海扇いたや貝にみえる、支那団扇。
 かれが年老いたアナクレオンのやうに、雨にうたれながら詩を吐き出す、――吐き出すことそれは、一向エヴァンヂェリックではない。


※(始め二重括弧、1-2-54)弗羅曼フラマン※(終わり二重括弧、1-2-55)とよばれる、割烹店レストランの中二階。孔雀草の群落。
 わたしは水馬歯みづはこべを刻んで、それへ該里シェリイの酒を滴らせる。秋ばかりは、金いろの時間が、おきのやうにいぶつて。…


みづうみ

ほととぎす啼や湖水のささ濁り  丈艸

私は湖をながめてゐた
湖からあげる微風にもたれて うみ鳥が一羽
岸へと波を手繰りよせてゐるのを ながめてゐた
澄んだ湖の表情がさつと曇つた
湖のうへ おどけた驟雨スコールがたたずまひをしてゐる
そのなかで どこかで 湖鳥が啼いた

私はいくさも睡れずにゐた
書きつぶし書きつぶしした紙きれは
微風の媒介つてで ひとつひとつ湖にたべさせていつた
湖 いな

貪婪な天の食指を追ひたてて
そして結句 手にのこつたものはなんにもない
白けた肉体の一部
それから うすく疲れた回教経典コオランの一帙

刻刻に暁がふくらんでくる
湖どりが啼き
窓の外に湖がある
窓のうちに卓子テーブルがある
卓子のめぐり 白い思考の紙くづが堆く死んでゐる
ひと夜さの空しいにんげんの足掻きが のたうつてそこに死んでゐる!
この夥しい思考の屍を葬らう
窓を展いて 澄んだ湖のなかへと


Sine qua non


 そなたの睡眠ねむりは、夜つぴて白く窓をめる
 片脚あげた 噴き上げの鶴よ。

 わたしは読み飽いた「聖ヨハネ祭の夜」の頁をたたみこんで、暗い一閑張いつかんばりの下に、さて閉ぢようとして気づいた。
 その夜、なにせ、季節は冬から孟春に、とび超えようといふのだ。(くらい天の一方で、間遠まどほに神々の跫音がゆききする――)

 わたしの中のわたしが、しばし恍惚うつとりとじぶんを置きわすれて、往つてしまふ。まづ、それをとり戻さなければならん。
 窺きガラスのなか、東方ひんがしが白む頃あひといふに、欹てる耳のうへで逸はやく、
 ―― Chio, chio, chio, chio-chinks
     chio, chio, chio, chio-chinks …

 暁ははやい。窓はまだ睡りたりないのだ。
 わたしもまた睡りたりん。
 歌ごゑは、蝋燭ほどの月あかりの下びに。灌木のしげみのあちら側に。
 どこか「夜啼鶯」とでもいひたいが、――うみどりとおぼしいそのこゑは囁きつゞける。張りのある、わかい調子で。
(ひょいとヒマラヤ杉を、湖かぜが煽つてとほる。ひそひそ噺のかたちで。…)

 くさめ ひとつ
 ふいに、
 わたしの前にゐたあけちかい夜が、ぐつたり息絶える。
 なんといふ いい夜!
 わたしの中のわたしが呟く
 ―― Sine qua non と。


哀訴

旅館寒燈独不眠  高適

天の河をはすに抱いて
旅館の門燈のあたりだけ
淡く ほんのけてゐるやうだ。

(いつたい、どこへ宿れといふのだらう?)

わたしはその下に彳んで
せつせと書き綴る、
――あんのんな夜分やぶんのふしどだけは
どうにか 神さま!
お与へください といふ尺牘てがみを。…


山下町の夜


灰夜グレイ一枚でおりてくる冬!」と書いた
うしろから足ばやに、私を追ひ越すゆふぐれ」とも書いた
その冬のゆふぐれが
ぽつぽつ、街燈にくすんだあかしをいれてゐる
――横浜 山下町の、ここから海がひらけるところ…

たつた一つ、――ごらん、外国商館の屋上の、幽婉な抛物線パラボラが昏れのこつてゐる。(ゆふぐれよ、あれはお前がけふの忘れものだ)夜ぞらをくつきり劃つてゐる明暗。
その涼しやかなスカイ・ライン。――まだ早い夜の、まだ星かげうすい空…

碇泊した Empress of Asia が
海へ明るい点灯装飾イルミネーションの灯をおとしてゐる
(そのあたりだけ、海が燃えてゐる)
赤い土耳古帽のせた ひよろながい印度人の火夫が
烟艸たばこを薫ゆらせてとほる
その後から、青い星を散らす電車のポオル。

わたしは歩み入る、街路樹の鈴懸プラタナスを涵してゐる闇へ。それはSといふ外国商館のまへで、注文帳オオダアブックの黒の背革よりもくろい。闇に紛れてわたしはみる、二輪車のいくつかが、闇なかにやすんでゐるのを。――いまや夜が、それを平和な睡眠ねむりのなかへつゝまうとするとき、そのどれもが、つぶに肖た灯を点けたまんま…

公園の噴水ふきあげ。(孤燈のかげに
夜の鶴をわたしはかたどる
天から堕ちた純白のマダム・シゴオニュの扇)

ゆふあかりの青黛が仄のり匂ふ。あの自転車置場に、囁き交してゐる地上の参星オリオン。いみじい、だが、草かげの鬼灯ほどしかない、これらの星たち!


弾く人のゐない夜


く人はゐない。
室はひややかに、澄んでゐる。動かぬ。

動くものが欲しい。
ただひとつ、動くものがゐる。あそこに…
ピアノの胸のあたりで、夜は頭をふつてゐるメトロノオム、
おまへの微韻ひびきだけが、そつと夜をゆさぶる。

ねむつてゐる透明な霊衣オオラ
百虫譜、
白体はくたいの蛾、
わたしはうつたへるやうに、眠りからたちあがる。

なにものかの声が囁く。
「――なにせ、秋だ、聖壇の大蝋燭のやうに、ちらちら、感情のまく耀かがよひながら微動する」と

花が崩れ、水晶の時計にた秋が
かうべのうしかはで澄んでゐる。


雪もよい


寒い。

わかい歯科医のもとへ 一句
歯石しせきはづす 夜のしろさに
睫毛鳴る」とかき送つて
その夜、まつしろいものにうまつて寝た。

寒い。

青い視野の奥のはうで
鵞ペンは、わたしの鵞ペンは寝たやうだ
行燈あんどんまがひの卓上電気スタンドも もはや 眠つたらしい
それから わたしの子供も 句帖も。

ところで
のこつた、眠らないのがただひとつ
膨らんで阿呆のやうな、きたならしい、このひだりの胸の哀求あいぐ律。

寒い。

夜のからんからんに乾いた空気の、その底で
うつかり しはぶきをとりおとすと
発止!
それは青く火を発して 鳴つた。


雪は紋をつくる。皷の、あふぎの、羊歯の紋。
六花。十二花。砲弾の紋。

江州ひこね。ひこね桜馬場。さくらの並木。

すつぽり、雪ごもりの街区。

星のうごかぬ、八面玲瓏とけぶり澄んだ、銀張りの夜。

早寝のとこで聴いてゐる。……プラステイックな宇宙コスモスのしはぶきを。(このとき、地球はまりほどの大きさしかない)

微睡まどろみの睫毛はみてゐる。……囲炉裏に白くなつたおきを。(それが、宛らわたしの白骨、焼かれた残んのほねに似る)

燠につたほだの呟き。――わたしの脊椎せきつゐはづしとつてする「洗骨式せんこつしき」を、……でなければ[#「でなければ」は底本では「でなけれは」]、肉体の髄をきつくしてする「風葬祭ふうさうさい」を、……そんな末枯うらがれた夢見もするわな。

老来おいらくの、炬燵に眠りたまへる母上よ。

あなたのびんにも、雪がある。


てがるな緑化季


六月です
ちちははよ
窓したの疎林で、郭公鳥が啼いてゐる。

夜間中学の副読本サイド・リイダアなんかの詩で
よく邂逅であふ、―― CUCKOO といふ禽、
(あのこゑは いまや初夏のひかりを浴びる)
わたしは截る 淡茶いろの竹針
それに
一円半の CUCKOO WALTZ を唄はせよう。

あの
葉緑素のかつぱつな軽井澤では
へんに
ひとは白つぽく
時間はかたむいて 明るい…
(リルケが歌つたやうに)

てがるな緑化季ですね
ちちははよ
はて
わが胸の枝々で 郭公鳥が啼いてゐる。


つばくろ


雨………

門を暗くして、ひとは潜る。昆虫はゆき、またかへる。門を暗くして紛れ込む両伯のたぐひ。――このグリィンを濡らした、微粒の賊!

ことし首夏。まだわかい燕のつがひが巣くつた門。
ひもじい愁ひをば霊台に薫じて、門を潜り、ひもじい愛慾の層をば、身うちにかき濁して、グリィンにしぶく雨に濡れて出る。

雨………

美しく蓑と傘とを棄てた。
晴ればれと、かへる燕。雨のなかに、汚れた道がけぶり、道の見付に、亭い門。その門を凌ぐ一双の菩提樹リンデン。いな、身の薄いひもじさに悶えながらに、ひとがをり、そのひとの後ろのグリィンに、やはり、門を暗くする雨がけぶる。


雨………

門を翔けぬける、一羽の燕の、飜転。その姿は緑海りよくかいに消える。(わたしも飛び込まう。燕よ。とめだてしないでおくれ。あのさむく黝んだ葉緑の海の、ただなかへ!)



去年こぞの雪いづこ


かの夜半よは
ねざめに あをき 窓玻璃はり
散りこし粉雪こゆき
いづち ゆきけむ


茅蜩記



 比叡のなだりをくだり、うぐひすぶえとまをすものききはべりしか。いまだくわぶんにしてひぐらしぶえ、耳にいたせしことこれなくそろ。短日幽居のなぐさに、さればひとこゑ、きかまほしくとはぞんじそろ。


 偶来松樹下  高枕石頭眠
 山中無暦日  寒尽不知年

 大歳の暮れのひそまり、それは草臥れた心をたてかけるためにいい。「山中無暦日」といふ詩句、そのなかに、わたしは栖んでゐる。山中の温泉いでゆ。湯はあふれ滾れて、あけくれわたしの孤独を暖め、……

 いましがた、湯殿への渡廊下で、わたしは一片、白いものに触れた。雪をのせた濶葉樹の落葉でないとすれば、匂ひをたたんだ、銀木犀の花びらの一片にちかい。外の雪あかりにすかしてみると、大晦日の三十一と書かれた亜刺比亜数字が、顫へるやうに、その白さを汚してゐた。ふつと思ひかへしてみると、もうこの歳も暮れるにちかいことが、まざまざと甦つた。山中無暦日。――暦日のない旦暮あけくれに、遽かにしめ立つものの白さが、身に沁みてきた。

 湯に涵つて目を瞑つてみると、その暦の白いおもてを、気ぜはしく、年のうちすぎる跫音が、聴きとれる思ひがする。――内湯におちる湯の音。――玻璃にさらさらと肌ふれて、闇に沈んでゆく、塩のやうな粉雪。耳をすますと、裏山を越える木枯のかぜの一枚が、颯と幅ひろに、けものの吼えるに肖た叫びを、おろしてきた。庭樹が鳴る。小禽のこごえるやうなもそれに交る。そのなかから、ひと色、かなかなかな、――茅蜩ひぐらしのこゑ。……真冬の雪の夜に、はてな、それは雪を透して、脳の芯に、きりもみをいれるほどにつんと澄んで鳴る。かなかなかなと、高く冴えて、とほく、淡く尾をひく。「ちちよははよかなかな鳴くよ日のいりの亭きぬれにひとつ鳴き澄む」――じぶんの書いた歌が、そのこゑの下から、急に泛んだ。つづけざまに、またひとつ。……「かなかなは鳴きのうつりに日のいりの合歡ねむの木かげのベゴニアの花」

 そのこゑが、はたと途絶えると、遽かに落湯の音。木枯のざわめき。身をかへして、わたしは一度ひらいた眼を、また瞑る。……


蟋蟀堂にあり、歳つひにそれれぬ  国風

 ――あれだ。

 ドオデエも「風車小屋だより」のなかにかいておいた、あのいなごの大群。……こいつは、まつたくあれに似た凄じさだ。天日をくらくして薨々とむらがり飛ぶ、斯螽。索々と鳴る、その翅音。耿々とひかりうすれる、落日。さうだ、そのなかをとぶ神杖。酒袋。あゝコップ。

 一天のかげは、寒く、こころをつて、歎きのしぐさを強ひる。――わたしはその群る虫に、その虫の歌に、汎としてき流れるサモス派の船である。…



 夜更け。
 暖炉のめぐりの、あのあかるい温気うんき
 けきよ、けきよ、けきよ、けきよ。その温気のなかを、籠から、鶯が啼く…
 すこし酸味のかつた終電車の軋り。外では白い微粉が片明りして、軒のあかしを朧ろに、それが、なにか十二月だといふ身についた落ちつきで、靡いてゐる。――なにかを、鎧扉よろひどに囁きながら。

 暖炉のうへの硝子時計。
 壁の一角に磔刑はりつけられて、そのまんま年老いたマリイ・マグダレン。そして、その肩さきの、雪。
 けきよ、けきよ。……鶯の啼くこと、ふたこゑばかり。恍惚うつとりとなるしづけさ。――聖母像マドンナはゐない。架上の基督クリストだけが、弱々しげに咳き込む。※(始め二重括弧、1-2-54)けふは、あなた、クリスマス・イヴなんですよ※(終わり二重括弧、1-2-55)紅茶のスプンの「ちん」と鳴る音。――
 澱んでゐた夜が、その音に思ひついて、せつせと闌けてゆく。風信子ヒヤシンスのあさい欠伸。

 けきよ、けきよ、けきよ、けきよ。
 鈴懸すゞかけ並木のあちら側では、雪の道を拾ひあるきに、――鶯の口倣くちまねしながら、それ、誰かがあるいてゆく…


すでに年がけて…


まくらの草子に出る 蓑虫よりは見窄らしい
あのえびと蜘蛛の混血児あいのこみたいなやつさ
もう流しもとの暗闇くらがり
――つづれさせ ころもさせ
おつっけ秋もをはりだと あいつがわたしに告げる

白秋は砂糖のこなが眼に沁むと、歌つた
あの夜ふけのあかしの下
ひよっこり あしなえ促織はたをりまかん出て
――ちりり ちりり
糸のすり切れたヴィオロンをきかせるときだ…
「ヴェルレ※[#小書き片仮名ヱ、42-下-5]ヌよ
今年ことしの秋も めつきりけた」と

あの虫が「古詩十九首」のなかでは
月のあたつた荒壁あらかべのうらで 鳴く
――さむいほどだ 思つても 気がとほくなる
それが茫々たる なん千年の疇昔むかしのこと
やつぱり詩人に
かうしてけた秋を告げてゐたんだね あいつは…


八十八夜


寝いりばなの小耳に
蚊ひとつ
ぷぅんと鳴きついて あはれつぽく訴へでる

かた手間に 「歳時記」をのぞいてみる
「農家 耕ヲ首ム
 立春ヨリ八十八日 マタ春霜ヲ置カズ
 茶摘ミハ真盛リ 養蚕ハ初眠ノ頃」

ゆふ窓におく 手燭てしよくほどの月あかり
そのなかに小粉団こでまりの匂ひ
または むやみと
のぼり滑車せみの から鳴り
遠音とほねに きりり 近郊電車のせつかちな軋りかた…
ぱらぱらと 夜かぜがきて
卓子テーブルの辞書をめくる すると「Candlemas」と出た

聖燭節 さうさう 二月二日
ちらちら 粉雪 しばたたく燭台の燭と
祈祷いのりのこゑと
それに(映写幕エクランのうへの
マリア・シヤプドレェヌの雪)

それらがさつとかすめて 遽かに 夜冷えがくる
脳の芯に白つぽいものが いつぱい

蚊の哀訴 それもすでに止んだ
ときあつて風がもつてくる
――夜学の※(「口+伊」、第4水準2-3-85)いごの尾が
ひとすぢ 微睡の耳にじやれつくだけ。


年の徂徠


 いま燈火あかしは、弱弱しげに、細まる。

 乞丐かたゐのやうな十二月が
 見窄らしくあたつて、わが家の角を折れていつた。……二あし、三あし
 そつと、闇のなかにとりてゆく、年のそびら
 そのあとの空白を、粉雪こなゆき性急せつかちにやつてきて埋めつくす…

 午前零時、たつたいま、
 痩せこけた年の詩神は、息をひきとる。あゝ古ぼけたれ帽子のやうな年が死んだ。
 ――偃鼠えんそに似た、暗い憶ひ出と一緒に。

 睡りかけた鳩時計が唄を歌ひだす、
 ぽつぷう、ぽつぷう、ぽつぷう、
(それ「万有回帰ばんいうくわいき」の軌道が軋つてゐる)

 わたしは唐艸からくさ模様の外套を羽織つて、
 それから、雪のなかへともとめに出る
 やつてくる年の
 ――さりげない火種ひだねりに。


海へ


海へ、一日。
しこたま夏の陽を仕入れて、日の暮れがたに還つてみると、わたしの生地の肌がかう呟くのだ。「なんとよくもこれだけりかへられたものだ」と。

夜、絲爪棚のかげで一風呂浴びる。
すると、どうだ。現像液に涵した乾板のやうに、わたしの生地の部分が、みるみる泛びあがつてきた。

ブラウンと白とで出来あがつた、だんだらの。この半白の「肉体写真」のうへで、一日の太陽の歩みを、――仮借なく灼きつける、その炎の歌を、まざまざと読みとることができる。

夜は夜で、この太陽の火傷やけどが、わたしをひと晩眠らせない。



石の橋 寒く彳んで
わたしは独語する、――おもひぞ屈する河」と

その河ふところ 煤けた没り日をば泛け
灰だみ かき濁る 都会の河
※(「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1-92-52)ゐいとして眠る河
この河、ま二つにかきわけながら
このゆふべ
遠ざかつてゆく ひとつの白亜の汽艇ランチ
(わが胸に消えてゆく ひとつの思惟…)

石の橋 寒く彳んで
わたしは独語する、――河、わたしの内方うちらにも河がある」


からす


ラフカディオ・ハァンの「ほとけの畠の落穂」を眺める。その一節をわたしはノオトする
※(始め二重括弧、1-2-54)私が一個人――一個の魂! いな、私は一つの群集である――幾万兆といふ考へも及ばぬほどの夥しい群集である。私は時代に時代を重ね、劫億に劫億を積んだものだ…※(終わり二重括弧、1-2-55)

このくだりで、わたしはハァンのなかにじぶんを、またじぶんのなかにハァンを置いてみた。その空隙すきをふさぐ幾億兆の群集。――わたしは「ほとけの畠」の、あの目こぼれを啄む、一羽の禽に、どうやらてきてゐる。しかも、零落おちぶれた一羽のからすに。


※(「筑」の「凡」に代えて「卩」、第3水準1-89-60)わけ入る山



やつてくる男


あと一日の九月が 一瞬に
濁つた珈琲いろの雨の中に沈んだ
雨水の灌奠
沁みる


軽尻からしりの性根を雨に洗つてゆかう
溝水のひびきは現象の悲鳴
けふ わが卓子てえぶるのうへに
きのふの「歌」と「非情」と「凡心」の窒死…
暗闇から
初秋の傘の匂ひがジンと沁みる

重い感覚は 昨日の室に
あの鍵の音と倶におさらばとしよう
未来にかゝはりのない 生理は
一切合財 この傘の
あたらしい背を闇に飛ぶ このしぶきであれ
まさに 現象のはかりのうへで
貪婪に
「今日」と「昨日」とがしわつてゐる!

あたらしい傘
あたらしい雨
その一日の「夜」に約束される明日あす

九月の冷冷しい雨にぬれて
夕ぐれになれば
シュルレアリストZ・Iがやつてくる


独白


高祖保よ おとがしてゐる しづかな昏れのおりるおと

高祖保よ このの不幸はふたたび爾にいでて爾にかへらう

高祖保よ おまへの耳が聴くのは「室内楽カメラ・ムウジカ」だけだ そとはかいくれ闇

高祖保よ おまへの背ごしに 半円の月が淡すぎる……

高祖保よ の鉢に植ゑるがいい 四季咲きの薔薇うばら一輪その匂ひがおまへの臭みを消す

高祖保よ 伐木丁丁 鳥鳴嚶々 春めいたな

高祖保よ 手をさしのべよ やがて双手は十方無礙の大千世界をさす

高祖保よ とんぼかへりしてみろ 下下げげの天地へ このとき還るのだ なまなましい荒けづりのぼく

高祖保よ にんげんに※(「てへん+府」、第4水準2-13-22)うふするより ぞつこんおまへの精神に それを!

高祖保よ おさへよ 揚るべからず ※(「此/言」、第4水準2-88-57)はかつて しかるべからず矣……

高祖保よ モノクロオムを看るだけの目ならいらぬ あの青黄黼黻ほふつの観にあづかるがいい

高祖保よ 窓のそと 枯芝に日かげ 石に心 かぜ凪いだやうす

高祖保よ すきな文句、――汎たるかの栢舟、汎としてそれ流る!

高祖保よ 蟻のかげだね 蟻のかげ

高祖保よ 遠近法パアスベクティヴがくるつてるんでせう その色盲 さしあたりこまりものだね


淡彩



 ひと冬、咳きこんでゐた公園の噴水ふきあげ。いまは枯れがれにおとろへて、春の日ざしを浴びる。そこから、なにの言葉も聴かれない。
 噴水ふきあげのうへをはすに、――鶺鴒まがひの痩せた小禽がひとつ、青磁いろの一線を曳いて、さむくおちていつた。なにの言葉ものこらない。なにの囁きすらも。――去つてゆく冬の使節、いまはこゑをと。…


 並木路は、まだ芽ぶかぬ白楊ポプラ
 その首のめぐりはいつせいに痩せて、ほんのちよつぴり、冬の襟巻マフラアに肖た雲のきれはしをまとつてゐるといふだけ。この灰いろの襟巻。ふゆの遺産。――そこに、まだ春のことぶれはとほい。道ゆく犬も、子供を載せた乳母車も、その乳母車ひく母親も、われとわが影を踏んで、あるいてゆく…


 廃館になつた領事館のまへで折れて、海へおちる道。――あをくたたまれた海の夢が、とほい※(「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1-84-54)※(「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45)あくがれを乗せて万里の潮を、しろくあげてゐる。
 ゆふぐれを背負つて、その坂のうへから自転車に跨つた、臙脂えんじいろのワン・ピイス・ドレスのをんなひとり、身をひるがへすやうにおりてくる。――おりてくる自転車。跨つたものは、すでに一個の、無心の物体である。もし、さうでないとするなら、あれは、冬の石女うまずめにちがひない。


 ヒマラヤ杉のうへに、日ざし弱い、ま昼の太陽がやすんでゐる。雀一羽すら、そこへはやつてこない。おしだまつて、ものにんじた時のながれが、目にみえぬはやさで、※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)げてゆくだけである。
 ヒマラヤ杉の下のベンチ。目なれた浮浪者のかげすら、そこへやつてこない。気おちした、老人の精神が、トゥルゲーニエフの散文詩ふうの外套をまとつて、そこに腰をおろしてゐるだけである。――全く、まつたく、それは、わたしが置きわすれた詩の、うらぶれた※(始め二重括弧、1-2-54)残像アフタ・イメエヂ※(終わり二重括弧、1-2-55)のすがたであると、告げたい。


「孤※(「筑」の「凡」に代えて「卩」、第3水準1-89-60)わけ入る山」


四月十四日

 元住吉の野なか、車中からわたしは一羽のかさゝぎをみとめた。痩身長脚、羽根は霜を浴びたほどに白い。――たかい野のけやきにとまるとき、それは樹をひきたたせる頭飾りぼんとなつた。中空に漂うて、それは一点のはく、高雅なアトムを撒きちらしてゐた。(いちど「静」のなかで羽根を憩うた、あの「動」の相で…)

四月二十一日

 田中冬二さんより来翰。
 麦の穂擦れの風が、海のやうにきこえるとあり、また日の暮れがたは、遠蛙がきこえるとも書かれてゐる。

四月二十四日

 わたしの詩集に、荘厳しようごんといつたものは需めまい。同時に綺羅をも。よしんば需めるとして、あの晩ざくらの群落の、――なにかかう火山灰に似た、白いうす濁りが漂つてをればよい。

五月八日

「詩経」をのぞく。太古にあつても、やはり昆虫は季節の指針をなして、月のうつりを象徴してゐたらしい。
※(始め二重括弧、1-2-54)五月、斯螽ししゆう股を鳴らし。六月、莎鶏さけい羽を振ふ。七月、野に在り。八月、宇に在り。九月、戸に在り。十月、蟋蟀わがゆかの下に入る※(終わり二重括弧、1-2-55)
襟すぢがへんに寒い。ひる寝のなかで、ゆかの下からやつてきた蟋蟀の、ながい脚に、踏んづけられた夢をみて、さめる。
 多喜氏から「近江だるま」が届く。

五月十八日

 五月どきのしめやかさのなかで、あの層のふかい、漆黒の闇の肌ざはりがしたしまれる。いはく、闇中孤坐。……そのなかへ、いつぽんの蝋燭を樹てる。蝋燭の※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)がけぶる。まてまてけぶるのは※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)でなくて、わたしの孤独でこそあらう。孤独の思量。
(孤独は、ちやうど燃えおちた※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)から翔びたつ、いたいけな灯取虫のごときものであらう)
 台湾へおくるための、詩一篇。
 ぽつんと紙へ題だけ落として、筆を剪る。

 ――「※(「筑」の「凡」に代えて「卩」、第3水準1-89-60)こきようわけ入る山」


七月


アスパラガスが、黄いろい紙屑ほどの花をつけた。その隣りあひに姫胡蝶花ひめしやがが花をひらいた。それに連ねて、山百合も一輪。そのとなりに淡くれなゐの四季咲き薔薇が、ほんのちよつぴり、これも花をつけてみせた。
そのとなりに、おおそれらを培うた張本人が、傲岸に、けさそれらを見おろして立つた。それがそれ、――わたしだ。


六月


夜つぴて雨ふる。雨のあひま、川のはうへおりてゆくと、夜振よぶりの灯がみえる。
 夜振の灯。


樹の下


 わたしの詩集に、この句を入れることにきめる。
 題は「樹の下」――

涼しさや 松の落葉を つんでゐる


冬蝶


あれ GOIDZUKIゴイズキ のさきの 冬ざれの花、一輪

*GOIDZUKI 木製雪掻き(彦根)


草店月初冷


あはれなるかな
  わが 咳嗽しはぶきのかげ
 淡月うすづきらへり、さあれ
   岸の、草廬さうろ
  軒の吊り燈籠のうへ うみなみの
         しらじらとかかり…


くれなゐ


目覚めると、庭芝のうへ、やはらかな雨がりてゐる。目にしみる、いろどり。睡つてゐる芝艸。――みてゐると、ぽたり、それへ凌霄のうぜんかづらの花がこぼれおちた。緑中一点紅。(これで何がな、風景にいろどりが生じた)だが、芝艸の睡りはさめるとしもない。


呂律


ふるい革袋に あたらしい酒
あたらしい革袋に ふるい酒

あるひは 古い革袋にふるい酒
あるひは あたらしい革袋に あたらしい酒


「落葉哀蝉曲」を読む人


五月四日

蠅をたべた夢をみる。
満身創痍、凍夜の野に、山のやうな蠅に埋れながら。――だが、濠洲の神話にでる Mangarkunyerkunya といふ神さまは、生のまんま、蠅といふ悪魔の子を召しあがるとのこと。(よしこの故事ふるごとが、へんな夢を、訳ありげに粉飾させてもよんどころないことだ。……)

五月五日

澄んだ机のうへに、古備前の壺が一個。
これは父の遺品である。そこに「落葉哀蝉曲」をよむひとがゐる。

…虚房冷而寂寞。落葉依于重※(「戸の旧字+炯のつくり」、第3水準1-84-68)

支那の落葉。歳老いた武帝。淡い夢のほとぼりが、そこから、薫ずるやうにたち昇る。

九月八日

わたしは、この雑駁な、とりとめのない日記をつけることに、堪へがたいまでに心をさいなまれてゐるやうだ。むしろ、この内部的感情の鬩ぎが、筆を抛つことを拒んでゐるのだともいえる。
不潔な精神界の泥沼。

十一月三日

児が泣きだす。強靱な生誕第一声。
コクトオ流にいへば、空間をかきむしり、眼にみえぬなにかを※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)りとりながら。

十二月一日

眺めてゐる。たとへば、ピアノのうへで、隻脚を振つてゐるメトロノオム。その律気な退屈さが、たまらなく、わたしの平和を揺さぶるのだ。(死んだもおなじい、温室咲きのやうな平和を。)

このとき、素迅くつぎの一句が、わたしの双のたなぞこにのこる。ストイックふうのひびきをたてながら。わたしは、まさしく不意を衝かれた。

※(始め二重括弧、1-2-54)力を尽して窄き門より入れ…※(終わり二重括弧、1-2-55)


和蘭陀石竹のかげに


一 ペン

 ペンをとらなければならない。ささくれたペンを。孤独がわたしに命じた。書け、と。あの五月の闇の蕭やかさのなかで書いた、いくつかのもの欲しげな、独居の詩。辛うじて、それでも書きとめてきたのだ。わたしは。――「天使園の薔薇」だの「乖離くわいり」、「哀訴」だの、それに、「Sine qua non」だのと。

(しかしそれらの中に沈んでゐるのは、孤独のおりではない。ひどく華やいだ、むしろ孤独悦のこころの、――隠微いんび擬態まどはしだつたやうだ)孤独よ、これは宥せ。

二 検索

 かりに額にをさしあてて、呟いてみた。
…「百舎重※[#「足へん+并」、U+8DF0、54-8]してきたる」
 すると孤独は、そのやうに、遠方にあると思はれもする。孤独はしよつぱくて、岩塩かなんぞのやうに手荒くある。実験室の甘汞カロメルよりも、もつと白いものであるかもしれぬ。――ゆふぐれの中で、求道ぐどう者の匂ひの漂ふ、和蘭陀石竹。かげつた※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)漠たる、その色。そこらあたりに、ひよつこり彳んでゐるのかもしれない。孤独は。
 ※(「(來+攵)/心」、第4水準2-12-72)なまじひに、詩のなかに姿をおとすときは、はなはだ書割のとぼしい、間遠まどほな姿の、うそ寒いものばかり。わたしの孤独よ。(おまへはそれに似てゐる)

三 烟草のから

 水につかつた桃林を、人は雨外套レインコートの襟をたてて足ばやに、暗いはうへ消えていつた。
 その後姿うしろでに、ゆらすとみえた、紫煙シガアのけむの一片。それが白い。ぽんと、げすてられたその殻。地におちて、なほいぶる余燼。――もはや夜の大地が、こんな小つぽけな烟草を薫ゆらせてゐると、みえないことはない。





底本:「高祖保詩集」現代詩文庫、思潮社
   1988(昭和63)年12月20日初版第1刷
初出:「雪」文芸汎論社
   1942(昭和17)年5月4日
※一部の拗音、促音が小書きされているのは底本通りです。
入力:浜野智
校正:八巻美恵
2014年5月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

小書き片仮名ヱ    42-下-5
「足へん+并」、U+8DF0    54-8


●図書カード