吸血鬼

江戸川乱歩




作者の言葉


 この物語の主人公は、のバルカン地方の伝説『吸血鬼』にも比すべき、人界の悪魔である。
 一度埋葬された死人が鬼と化して、夜な夜な墓場をさまよいで、人家に忍び入って、睡眠中の人間の生血いきちを吸い取り、不可思議な死後の生活を続ける場合がある。これが伝説の吸血鬼だ。被害者が血を吸われている最中に目覚めた時は、吸血鬼との間に身の毛もよだつ闘争が行われるが、多くは目覚めることなく、夜毎よごとに生血を吸いとられ、せ衰えて死んで行く。この妖異を防ぐ為に、人々がそれらしい墓をあばきかんを開いて見ると、吸血鬼と化した死人は、生々とえ太り、血色がよく、爪や頭髪が埋葬当時よりも長く伸びているので、一見して見分けることが出来る。吸血鬼と分ると、彼等はくいもって一度死んだその死体をもう一度突き殺すのだが、その時吸血鬼は一種異様の悲痛な叫声を発し、目、口、耳、鼻、皮膚の気孔などから、生けるがごとき鮮血をほとばしらせてついに全く死滅する。というのだ。
 私の書こうとする人界の悪魔の生涯は、どことも知れぬ隠秘の隠れ家から、青白き触手をのばして美しい女を襲い、襲われたものは、底知れぬ恐怖のために懊悩おうのう憔悴しょうすいして行くところ、また、可憐なる被害者を助ける素人しろうと探偵と悪魔とのすさまじき闘争、ついに悪魔は正体をあばかれ妖術を失って、身の毛もよだつ最期さいごをとげるまで、即ち『吸血鬼』一代記に相違ないのである。
(「報知新聞」昭和五年九月二十六日)
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決闘


 茶卓子ティテーブルの上にワイングラスが二個、両方とも水の様に透明な液体が八分目程ずつ入っている。
 それが、まるで精密な計量器ではかった様に、キチンと八分目なのだ。二つのグラスはまったく同形だし、それらの位置も、テーブルの中心点からの距離が、物差ものさしを当てた様に一りん違っていない。
 仮りに意地汚いじきたない子供があって、どちらのグラスを取った方が利益かと、目を大きくして見比べたとしても、彼はいつまでたっても選択せんたくが出来なかったに相違ない。
 二つのグラスの内容から、外形、位置に至るまでの、余りに神経質な均等が、何かしら異様な感じである。
 さて、このテーブルを中にはさんで、二脚の大型籐椅子とういすが、これもまた整然と、全く対等の位置に向き合い、それに二人の男が、やっぱり人形みたいに行儀ぎょうぎよく、キチンと腰をかけている。
 紅葉こうようには大分のある、初秋の鹽原しおばら温泉、鹽の湯A旅館三階の廊下である。開放あけはなったガラス戸の外は一望の緑、眼下には湯壺ゆつぼへの稲妻型廊下いなづまがたろうかの長い屋根、こんもり茂った樹枝の底に、鹿股川かのまたがわの流れが隠顕いんけんする。脳髄がジーンと麻痺まひして行く様な、なき早瀬のひびき
 二人の男は、夏の末からずっとこの宿に居続けの湯治とうじ客だ。一人は三十五六歳の、青白い顔が少し間延びして見える程面長で、従って、せ型で背の高い中年紳士。今一人は、まだ二十四五歳の美青年、いや美少年といった方が適当かも知れぬ。手取早く形容すれば、映画のリチャード・バーセルメスをやや日本化した様な顔つきの、利巧相りこうそうではあるが、むしろあどけない青年だ。二人共、少し冷え冷えして来たので、浴衣ゆかたの上に宿のドテラを羽織はおっている。
 二つのワイングラスが異様なばかりでなく、それを見つめているこの二人の様子もひどく異様である。
 彼等は心の動揺を外に現わすまいと一生懸命になっているけれど、顔は青ざめ、唇は血の気が失せてカラカラにかわき、呼吸ははずみ、グラスにそそがれた目だけが変に輝いている。
「サア、君が最初選ぶのだ。このコップのどちらかを手に取り給え。僕は約束に従って、君がここへ来るまでに、この内の一つへ致死量ちしりょうのジァールを混ぜて置いた。……僕は調合者だ。僕にコップを選ぶ権利はない。君に分らぬ様、目印をつけて置かなかったとはいえないからだ」
 年長の紳士は、かすれた低い声で、舌がもつれるのを避けるために、ゆっくりゆっくりいった。
 相手の美青年は僅かにうなずいて、テーブルの上に右手めてを出した。恐ろしい運命のグラスを選ぶためにだ。
 全く同じに見える二つのグラス。青年の手がわずか二寸ばかり右に寄るか、左によるか、その一刹那いつせつなのまぐれ当りによって、泣いてもわめいても取り返しのつかぬ生死の運命が決してしまうのだ。
 可哀相かわいそうな青年の額から、鼻の頭から、見る見る玉の膏汗あぶらあせがにじみ出して来た。
 彼の右手の指先は空をもがいて、どっちかのグラスに近づこうとあせっていた。しかし、心はあせっても、指先がいうことを聞かぬ様に見えた。
 だが、その間、相手の紳士とても、青年以上の大苦痛を味わわねばならなかった。彼はどれが「死のグラス」であるかを、チャンと知っていたからだ。
 青年の指が右に左に迷い動くにつれて、彼の息使いが変った。心臓が破れる様に乱調子におどった。
「早くしたまえ」紳士はがたくなって叫んだ。「君は卑怯ひきょうだ。君は僕の表情からどちらがそのコップだかを読もうとしている。それは卑怯だ」
 いわれて見ると、無意識にではあったが、彼はあさましくも、相手の表情のかすかな変化を見極みきわめて、毒杯の方を避けようとあせっているのに気附いた。
 それを知ると青年は恥辱ちじょくの為に一層青くなった。
「目を閉じて下さい」彼はどもりながらいった。「そんなにして僕の指先の動きを眺めているあなたこそ残酷だ。僕はその目が怖いのです。閉じて下さい、閉じて下さい」
 中年紳士は何もいわず両眼を閉じた。目を開いていては、おたがいに苦痛を増すばかりであることが分ったからだ。
 青年は愈々いよいよどちらかのグラスを手に取らねばならぬ時が来た。閑散期の温泉宿ではあったが、人目がないではない。グズグズしていて邪魔がはっては面倒だ。
 彼は思い切ってグッと右手を伸ばした。
 ……何という奇妙な決闘! だが、国家がそれを禁じている現代では、これが残された唯一の決闘手段だ。昔流につるぎやピストルを用いたならば、相手を倒した勝利者の方がかえって殺人犯として処罰を受けなければならない。それでは決闘にならぬ。
 そこで考え出されたこの新時代の劇薬決闘だ。彼等は銘々「自殺」の遺言状をチャンとふところに用意して、杯を飲みほしたならば、そのまま部屋に帰って蒲団ふとんの中へもぐり込み、静かに勝敗を待つ約束であった。遺言状はお互に見せ合って、一点の欺瞞ぎまんもないことが確められていた。
 二人はその温泉宿で運命的な一女性に出会ったのだ。彼等は血をく様な恋をした。彼等にとって、恐らくは一生涯にたった一度の出来事であった。気の違い相な恋愛闘争! 彼等の滞在期間は一日一日と延ばされて行った。そして一ヶ月、勝敗はまだ決しない。
 相手の女性は彼等の双方に無関心ではなかった。だが、いつまでたっても、ハッキリした選択を示さないのだ。彼等はほとんど一時間ごとに、甘い自惚うぬぼれと胸をかきむしる様な嫉妬しっととを、交互に感じなければならなかった。今は最早もはやこの苦痛に耐え難くなった。相手が選択しなければ、こちらでめてしまう外はない。どちらかが引さがる? 思いもよらぬ事だ。では決闘だ。昔の騎士の様にいさぎよく命がけの決闘をしようではないか。と、二人の恋愛狂人の相談が成立った。笑えない気違い沙汰さたである。……
 三谷房夫みたにふさおは(それが美青年の名だ)とうとう右側のグラスをつかんだ。目をふさいでその冷たい容器をテーブルから持上げた。もう取返しがつかぬのだ。彼は躊躇ちゅうちょを恐れるものの如く、思いきってグラスを唇に当てた。瞑目めいもくした青ざめた顔が、勢いよく天井を振り仰ぐ。グラスの液体がツーッと歯と歯の間へ流れ込む。喉仏のどぼとけがゴクンと動く。
 長い沈黙。
 と、目を閉じた三谷青年の耳に妙な音が聞え始めた。谷間の早瀬の響に混って、それとは別にゼイゼイという喘息ぜんそくの様な声が聞えて来た。相手の呼吸の音だ。
 彼はギョッとして目をいた。
 アア、これはどうしたことだ。中年紳士岡田道彦は、化物みたいに飛出した両眼で、突刺す様に、あとに残った一つのグラスを凝視している。肩は異様に波打ち、汗ばんだ土色の小鼻はピクピクと不気味に動き、今にも気を失って倒れ相な断末魔の呼吸だ。
 三谷青年は、生れてから、こんなひどい恐怖の表情を見たことがなかった。
 分った、分った。彼はかったのだ、彼の取ったのは毒杯ではなかったのだ。
 岡田は、ヨロヨロと椅子から立上って逃げ出し相にしたが、やっとの思いでおのれ打勝うちかった。彼はグッタリと椅子にくずおれた。一瞬間にゲッソリとこけた土気色の頬。すすり泣きに似た烈しい呼吸。アア、何というみじめな闘いであろう。だが、彼はついに毒杯を取った。
 徐々じょじょに徐々に、彼の震える手先は、乾いた唇へと近づいて行く。
 年長紳士岡田道彦は、見す見す劇薬と知りながら、しかし決闘者の意地にかけて、そのグラスを取らねばならなかった。
 だが、グラス持つ手は、彼の悲壮な痩我慢やせがまんを裏切って、みじめにも打震え、中の液体がボトボトと卓上にあふれ出た。
 三谷青年は、彼自身今飲みほした液体におびえ切ていたので、岡田の苦悶くもんを眺めながらも、悪いくじ抽当ひきあてたのは岡田の方であることを少しも気附かぬらしく、相手も彼と同じく、ただ、二つに一つの悪運におびえているのだと思い込んでいる様子だった。
 岡田は度々たびたび勢いこめてグラスを口のそばまで持って行くのだが、いつも唇の前一すんの所でピタリと止まってしまった。まるで目に見えぬ手が邪魔をしている様だ。
「アア、残酷だ」
 三谷青年は顔をそむけて、思わずつぶやいた。
 その呟きが相手の敵愾心てきがいしんを激発した。岡田は苦悶の顔色すさまじく、最後の気力をふるって、遂に、劇薬のコップを唇につけた。
 と、その刹那「アッ」という叫び声。カチャンとガラスのれる音。ワイングラスは岡田の手をすべり落て、縁側の板にぶつかり、粉々に破れてしまったのだ。
「何をするんだ」
 岡田が激怒に息をはずませて叫んだ。
「イヤ、つい粗相そそうをしました。勘弁かんべんして下さい」
 三谷が、いい知れぬ誇りに目のふちを赤くしていった。何が粗相なものか、彼は故意に相手のグラスを叩き落としたのだ。
「やり直しだ。やり直しだ。僕は君の如き青二才の恩恵に浴したくない」
 岡田が駄々だだの様に怒鳴どなった。
「アア、それでは」青年はびっくりして聞き返した。「悪い籤を抽当てたのはあなただったのですね。今破れたコップに例の薬がはいっていたのですね」
 それを聞くと岡田の顔に「しまった」という表情がひらめいた。
「やり直しだ。こんな馬鹿な勝負はない。サア、やり直しだ」
「あなたは卑怯だ」三谷青年は軽蔑の色を浮べて「やり直しをして、今度こそ僕に毒薬のコップを取らせようという訳ですか。あなたがそんな卑怯者と知ったら、僕はあんなことをするのではなかった。……僕はあなたの苦悶を見るに忍びなかった。それに僕はすでに液体を飲みほしてしまったのです。それが毒薬であろうとなかろうと、もう勝負は決したのです。僕が数時間たっても死ななかったら、僕の勝だし、死ねばあなたの勝なんです。何もあなたが是非ぜひあれを飲まねばならぬ理由はなかったのです」
 いわれて見ればそうに違いない。この勝負の目的は恋であって、おたがいの命ではない。勝負さえついてしまえば、あとに残った一人の生命をむざむざ犠牲ぎせいにすることはないのだ。とはいえ、敵のコップを叩き落した三谷青年は、みじめに助けられた相手に比べて、二段も三段も男を上げた。昔の騎士の物語にでもある様な、目ざましい行いだ。岡田はそれが口惜くやしかった。年長の彼にしては忍び難い恥辱に相違なかった。
 だが、彼はあくまで「やり直し」を主張する勇気もなく、気拙きまずい顔で沈黙してしまった。屈辱と命と天秤てんびんにかけて見て、やっぱり命の方がおしかったのであろう。
 その時、廊下の奥の部屋の中で、カタンという音がした。
 決闘者達は彼等の勝負に夢中になって、少しも気づかなかったけれど、さいぜんから、その部屋の次のふすまの蔭で、彼等の対話を立聞きしていた人物がある。その人が今隠れ場所を出て、部屋の真中へ歩いて来たのだ。
 柳倭文子やなぎしずこ! それは彼等の恋人の目映まばゆいばかりあでやかな姿であった。
 柳倭文子。
 アア、この人のためならば、三十六歳の岡田と、二十五歳の三谷青年とが、今の世にためしない、不思議千万な決闘を思い立ったのも、決して無理ではなかった。
 地味な柄の光らぬ単衣ひとえ物。黒絽くろろの帯に、これだけは思いきって派手な縫い模様。上品でしかもつややかなえりの好み、くちにおい。本当の年は三谷青年と同年の二十五歳だけれど、その賢さは年よりもはるかにふけていても、その美しさあどけなさは二十歳はたちに満たぬ乙女とも見えるのであった。
「あたし、這入はいって来てはいけなかったのでしょうか」
 彼女は何もかも知っているくせに、ぎこちなくにらみ合った二人の男の気拙きまずさを救う為に、首をかしげ、花弁はなびらの様な唇を美しくゆがめて声をかけた。
 二人の男は答えるすべを知らぬ様に、長い間押し黙っていた。
 岡田道彦は、当の倭文子に今の有様を見られてしまったと思うと、重ね重ねの恥辱に、遂に座にいたたまらず、プイと立上って、足音荒く部屋を横切って、反対のがわの廊下へと歩いて行ったが、さい前倭文子が隠れていた次の間のふすまの所で、あとに残った二人を振返ると、何ともいえぬ毒々しい調子で、
畑柳はたやなぎ未亡人、ではこれで永久にお別れです」
 と変な言葉を残して、そのまま廊下の外へ姿を消してしまった。
 畑柳未亡人とは一体誰のことなのだ。ここには柳倭文子と三谷青年の外には誰もいないではないか。だが、それを聞くとなぜか倭文子の顔色がサッと変った。
「マア、あの人、やっぱり知っていたのだわ」
 彼女は溜息まじりに、三谷青年には聞き取れぬ程の低い声でつぶやいた。
「あなたは、ここで我々が話していたことをすっかりお聞きになりましたか」
 三谷はやっと気を取直して、まり悪く、美しい人の顔をあおぎ見た。
「エエ、でもわざとではありませんのよ。何気なくここへ這入って来ると、あの始末でしょう。あたし、つい帰ることも出来なくなってしまって」
 そういう彼女の頬にも、パッと血の色が上った。自分の為にこんな騒ぎまで起ったかと思うと、口ではさかしく応対しても、さすがにはじらわないではいられなかったのだ。
「あなたは、おかしくお思いでしょうね」
「イイエ、どうしてそんなことを」倭文子は粛然しゅくぜんとしていった。
「あたし、本当に身にあまることだと思いました」
 彼女はポツンと言葉を切たまま、口を一文字に結んで、あらぬかたを見つめていた。泣き顔を見せたくなかったのだ。でも、いつしか湧き上る涙の露に、彼女の目はギラギラと光って見えた。
 倭文子の右の手が、テーブルの端にソッと懸っていた。細っそりとして、しかもえくぼのはいった白い指。手入れの行届いた可愛らしい桃色の爪。
 三谷青年は、恋人の涙に目をそらして、何気なくその美しい指を眺めていたが、いつの間にか真青まっさおな顔になって、呼吸の調子さえ乱れて来た。……しかし、彼はとうとうそれをやってのけた。思い切て、その靨のはいった白い指を、上からグッと握りしめたのだ。
 倭文子は手を引かなかった。
 二人はお互の顔を見ぬ様にして手の先だけに心をこめて、長い間お互の温かい血を感じ合っていた。
「アア、とうとう……」
 青年が歓喜に燃えてささやいた。
 倭文子は涙ぐんだ目に、遙かなる憧れの色をたたえて、つややかにほほ笑むのみで一言いちごんも口を利かなかった。……
 丁度その時、アア何ということだ。廊下にあわただしい人の足音、ガラリと開く襖、そして、ヌッと現われたのは、さい前立去ったばかりの岡田道彦の、不気味にも殺気走った顔であった。
 這入って来た岡田道彦は、二人の様子を見て取って、ハッと立ちすくんでしまった。
 数秒間、気拙い睨み合いが続いた。
 岡田は何故か這入って来た時から、右の手をドテラのふところへ入れたままだ。ふところに何かを隠している様子である。
「今、永久のお別れだといって出て行った僕が、なぜ戻って来たか、お分りになりますか」
 彼は真青な顔をみにくく引つらせて、ニタニタと笑った。
 三谷も倭文子も、この気違いめいた態度を、どう考えてよいのか分らず、黙っていた。
 不気味な沈黙が続く間に、岡田の全身が二度ほど、びっくりする程烈しく痙攣けいれんした。が、やがて彼の笑い顔が、徐々じょじょに、みじめな渋面じゅうめんに変って行った。
駄目だめだ。おれはやっぱり駄目な男だ」
 彼は力ない声で独言ひとりごとの様に呟いたが、
おぼえといて下さい。僕がこうして二度目にここへ来たことを。ね、覚といて下さい」
 といったかと思うと、突然クルッと向きを変えて、走る様に部屋を出て行ってしまった。
「あなた、気がつきましたか」
 三谷と倭文子とは、いつの間にか座敷に這入って、ピッタリと身体からだをくっつける様にして坐っていた。
「あの男はふところの中で短刀を握っていたのですよ」
「マア!」
 倭文子は不気味相に、一層青年にすり寄った。
「あの男が可哀相だとは思いませんか」
「卑怯ですわ。あの人は危い命を、あなたの、本当に男らしい、御心持から、助けていただいたのではありませんか。それに……」
 岡田に対する極度の軽蔑と、同時に三谷に対する限りなき敬慕の色が、彼女の表情にまざまざと現われていた。
 あの毒薬のコップを叩き落したことが、これ程の感銘を与えようとは、三谷も予期しない所であった。
 話しながら、二人の手は、いつかまた握り合わされていた。
 その部屋は、奇妙な決闘の為に、わざと一番不便な、さびしい場所を、宿には無断で、一時使用したばかりで、誰の部屋でもなかったから、女中などが御用を伺いに這入って来る心配はなかった。
 二十五歳の恋人達は、子供の様に無邪気に、あらゆる思慮を忘れて、桃色のもやと、むせ返る甘いかおりの世界へ引き込まれて行った。
 何を話し合ったのか、どれ程の時がたったのか、何もも、彼等には分らなかった。
 ふと気がつくと、次の間に女中がかしこまって、声をかけていた。
 二人は夢からめた様に、極まり悪く居住いずまいを直した。
「何か用かい」
 三谷は怒った声で尋ねた。
「アノ、岡田さんが、これをお二方にお渡し申し上げるようにと、御いい残しでございました」
 女中が差出したのは、四角な紙包みだ。
「何だろう。……写真の様だな」
 三谷はやや薄気味悪く、それを開いたが、中の物をしばらく眺めている内に、当の三谷よりも、横からのぞき込んでいた倭文子が、余りの恐ろしさに、一種異様の叫声さけびごえを立てて、その場を飛びしさった。
 それは二枚の写真であった。一枚は男、一枚は女。だが当り前の写真ではない。倭文子が飛びしさったのももっともだ。これよりむごたらしく殺しようはないと思われる程、残酷にりさいなまれた、死人の写真なのだ。
 犯罪学の書物の挿絵を見慣れた人には、さして珍らしい姿ではないが、女の倭文子には、絵空事えそらごとでない写真であるだけに、本当の惨死体を見たと同じ、胸の悪くなる様なこわさであった。
 男も女も、首が放れてしまう程、深い斬り傷を受けて、その傷口がポッカリと、物凄く、口を開いていた。
 目は、恐怖の為に、眼窩がんかを飛出す程も、見開かれ、口からは、おびただしい真黒な血のりが、あごを伝わって、胸まで染めていた。
「何でもないんですよ。あの男、まるで子供みたいな悪戯いたずらをするじゃありませんか」
 三谷がいうので、倭文子は怖いもの見たさに、また近寄って、不気味な姿を覗き込んだ。
「でも、なんだか変ねえ。こんなにキチンと腰かけて殺されているなんて」
 いわれて見ると、なる程変だ。惨死体の写真は、戸板の上かなんかに転がっているのが普通なのに、この死体は、生き人形みたいに、行儀よく椅子に腰かけている。首を斬られながら、チャンと正面を向いている。
 不自然なだけに、一層怖い感じだ。
 三谷も倭文子も、背中を、ゾーッと、氷の様に冷たいものが這い上るのを覚えた。
 見ていると何だかえたいの知れぬ、非常に不気味なものが、ジワジワと、写真の中から、にじみ出して来る様な気がする。
 傷や血のりで汚れたうしろから、ゾッとする様なものが、こちらに笑いかけているのを感じる。
「ア。いけない。あなた見るんじゃありません」
 突然、三谷は叫んで、写真を裏返しにしてしまった。やっと彼はその写真の怖ろしい意味を、さとることが出来たのだ。
 だが、もう遅かった。
「マア、やっぱり、そうですの?」
 倭文子は真青な顔だ。
「そうなのです。……あいつは何という醜悪な怪物だろう?」
 写真の中で、むごたらしく斬り殺されているのは、誰でもない、三谷と倭文子であったのだ。
 思い出すと、いつか岡田と三人で、町へ散歩に出た時、写真屋を見つけて、三人一緒のや、一人ずつのや、幾枚いくまいも写真を撮ったことがある。
 その時お互に交換し合った写真に、岡田はたくみな加筆をして、無残な死体を作り上げたのだ。洋画家の彼には、そんなことは何でもない仕事である。
 流石さすがに、一寸ちょっとした加筆で、相好そうごうがまるで変り、ゾッとする様な死相が現われている。
 二人が自分の姿と気附かなかったのも無理ではない。
 岡田はどこにいるかと聞くと、一寸東京へといって、荷物などはそのまま残し、急いで出発したということであった。
 時計を見れば、さい前岡田が立去ってから、夢の内に二時間程もたっていた。
 アア、何という不吉な置土産おきみやげだ。余りにも念入りなこの悪戯が、何か恐ろしい出来事の前ぶれでなければよいが。

唇のない男


 恋人達のこの不吉な予感は、不幸にして、間もなく適中する時が来た。全く想像さえしなかった恐ろしい事件が起った。
 岡田道彦が怪写真を残して立去ってから、半月ほどたったある日(彼はその間一度も鹽原へ帰って来なかった)三谷や倭文子の泊っている同じ宿へ、世にも奇怪な一人物が投宿した。
 椿事ちんじというのは、まるでその人物が悪魔のつかわしめででもあった様に、彼が宿についた丁度その日に突発したのだ。偶然の一致には相違ない。だが、何かしら異様な因縁を感じないではいられぬ。
 その人物は、後々のちのちまで、この物語に重大な関係を持っているので、ここにやや詳しくその※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)ふうぼうしるしておく必要がある。
 紅葉もみじが色づき始め、遊山客ゆさんきゃく日毎ひごとにふえて行く季節なのに、その日は、しょぼしょぼ雨が降っていたせいもあるが、魔日まひとでもいうのか、鹽の湯A館には、妙に客の少い日であった。
 夕方になって、やっと一台、貸切自動車が玄関に横づけになった。
 中から、一寸見たのでは、六十歳以上の、ヨボヨボの爺さんが、運転手の腕にすがって降りて来た。
「なるべく近所に客のない部屋へね」
 老人はフガフガと鼻へ抜ける、不明瞭な声で、ぶっきら棒にいって、敷台しきだいを上った。ひどく足が悪いらしく廊下の上でも、ステッキを離さない。
 びっこで、はなくたの、薄気味悪いお客さまだ。しかし、仕立卸したておろしのあいトンビを初め、服装が仲々なかなか立派なので、少々片輪者でも、宿の者は鄭重ていちょうに取扱った。
 階下の一室へ通されると、彼は何よりも先に、何度も聞き返さなければならない、不明瞭な言葉で、こんなことをたずねた。
「姉さん、ここに柳倭文子という美しい女が泊っているかね」
 お泊りですと、正直に答えると、その部屋はどこだとか、男友達の三谷青年とは、どんな風にしているかとか、フガフガと根掘り葉掘りたずねた上、倭文子達に、わしがこんなことをたずねたといってはいけない。口止料だ、と十円紙幣しへいほうり出した。
「あれ何でしょう。気味が悪いわ」
 老人の食事が済んで、おぜんをさげて来た女中が、廊下のすみで、別の女中をとらえて、ヒソヒソ囁いた。
「あの人、幾つ位だと思って!」
「そうね、勿論もちろん六十うえだわ」
「イイエ、それが本当は、ずっと若いらしいのよ」
「だって、あんな真白な頭をしているじゃないの?」
「エエ、だから、猶更なおさらおかしいのよ。あの白髪しらがだって、本当に自分の髪だかどうだか。それから色眼鏡めがねで目を隠しているでしょう。部屋の中でもマスクをかけて、口のあたりを隠しているでしょう」
「その上、義手と義足ね」
「そうそう、左の手と右の足が、自分のではないのよ。ご飯をたべるのだって、それや不自由なの」
「あのマスク、ご飯の時には取ったでしょう」
「エエ、取ったわ。マア、あたし、ゾーッとしてしまった。マスクの下に何があったと思って?」
「何があったの?」
 相手の女中は、彼女自身ゾッとした様に、薄暗い廊下の隅を見廻みまわした。
「何もないの。いきなり赤い歯ぐきと白い歯がむき出しになっているの。つまりあの人は唇がないのよ」
 変ないい方だが、その客は、半分の人間であった。つまり身体の二分一にぶんのいちは自分のものでないのだ。
 一番目立ったのは唇だが、鼻もみにくく欠けて、直接赤い鼻孔の内部が見えているし、眉毛まゆげが痕跡さえなく、もっと不気味なのは、上下の眼瞼まぶたに一本も睫毛まつげがないことである。女中が頭の白髪もかつらではないかと疑ったとはもっともだ。
 その外、左手が義手で、右足が義足、身体中で満足な部分といったら、胴体ばかりの人間だ。
 あとで、その男――蛭田嶺蔵ひるたれいぞうという名前だ――が、問わず語りに話した所によると、先年の大震火災の時、手足を失い、顔中やけどをしたので、この大怪我おおけがに命をとりとめたのは奇蹟だと、それがかえって自慢の様子であった。
 この怪人物は入浴を勧められた時には、かぜを引いているからと断った癖に、女中が行ってしまうと、ステツキと義足で、板の間をコトンコトンいわせながら、長い階段を、谷底の浴場の方へ降りて行った。慣れているせいか、存外あやうげもなく、たくみに身体の調子を取って、サッサと降りて行く。
 階段を降り切ると、恐ろしい音を立てて流れている、鹿股川の岸辺に出る。そこに、なかば自然の岩石で出来た、陰気な浴室が建っているのだ。
 入浴するのかと思うと、そうではなく、彼は廊下から庭へ出て、浴室の外から、ガラス窓越しに、ソッと内部を覗き込んだ。
 煙る細雨さいう、それにもう夕暮れ近い刻限ゆえ、湯気の立ちこめた浴場内は、夢の中の景色のように、薄暗くぼやけて見える。
 そこにうごめいている二つの白いもの。三谷青年のたくましい筋肉と、倭文子の滑かな肌。
 蛭田はこの二人の様子を、それとなく見るために、降りて来たのだ。彼等が入浴中であることは、女中の言葉で分っていた。
 いくら温泉場の浴場でも、男女の別はあったのだが、入浴客が一人もなく、ガランと薄暗い、谷底みたいな浴室を、倭文子がひどく怖がるので、三谷青年の方から女湯へ這入って行ったのだ。
 薄暗いのと、湯気の為に、一けんと離れぬ相手の白い身体さえ、はっきりとは見えぬ程だから、お互に、さしておかしくも、羞しくも感じなかった。
 聞えるものは、雨の為に水嵩みずかさを増した、谷川の音ばかり。母屋おもやとは遠くへだたっているし、浴場の構造が、自然の岩をそのまま使ってあったりするので、人外じんがいの境に、生れたままの男女が、たった二人、ポツンと向き合っている感じであった。
「あんなこと気にするには当りませんよ。子供だましの悪戯ですよ」
 三谷は湯の中に、大の字になっていった。
「あたし、そうは思えません。あの人が、今でも、その辺を、影みたいにウロウロしている様な気がして」
 倭文子の白い身体が、青黒い大岩の上に、絵の様にうずくまっていた。
 暫くすると、青年は、ふとそれに気づいて、驚いて尋ねた。
「アア、君は何をそんなに見ているのです。僕までゾッとするじゃありませんか。その目はどうしたんです。
 しっかりして下さい。倭文子さん。僕のいうことが分りますか」
 三谷は、ふと、恋人が発狂したのではあるまいかと、怖くなって叫んだ。
「あたし、幻を見たのでしょうか、ホラ、あの窓から、変なものが覗いたのよ」
 頓狂とんきょうな、夢を見ている様なうつろの声が答えた。三谷はギョッとしたが、しいて元気な調子で、
「何もいないじゃありませんか。向うの山の紅葉が見えているほかには。君、今日はどうかして……」
 といいさして、なぜかプッツリ言葉を切てしまった。
 と同時に、広い浴場にこだまして、身の毛もよだつ、倭文子の悲鳴。
 彼等は見たのだ。川に面した小窓の外に、一刹那ではあったが、何とも形容出来ない恐ろしいものを見たのだ。
 そのものは、フサフサした白髪を逆立さかだて、異様な黒眼鏡をかけ、その下に鼻はなくて、顔半面が真赤な口と、むき出しの鋭い白歯ばかりの、かつて見たこともないけだものであった。
 倭文子は余りの恐ろしさに、恥も外聞がいぶんも忘れて、パチャンと浴槽に飛び込むと、いきなり三谷青年の裸体にしがみついた。
 底の見える美しい湯の中で、二匹の人魚が、ヒラヒラともつれ合った。
「逃げましょう。早く、逃げましょうよ」
 一匹の人魚が、他の人魚の首に、しっかりからみついて、口を耳にくっつける様にして、惶しく囁いた。
「怖がる事はありません。気のせいです。何かを見違えたのです」
 三谷は、まだからみついている倭文子を、引ずる様にして、浴槽を出ると、小窓に駆けより、ガラッとそれを開いた。
「ごらんなさい。何にもいやしない。僕等は余り神経を使い過ぎているのですよ」
 いわれて倭文子は、青年の肩越しに、ソッと首を伸ばして、窓の外を眺めた。
 すぐ目の下を、鹿股川の青黒い水が流れている。そこは丁度ふちになった個所で、たださえ深い上に、雨降り続きの増水、しかも、夕暮れの深い谷間、その底を流れる川は、いとど物凄く見えるのだ。
 と、その時、三谷青年は、彼のお尻にピッタリくっついていた倭文子の肌が、突然、ギクンと痙攣するのを感じた。
「あれ! あれ!」
 彼女が凝視して叫び続ける川岸を見ると、今度こそ、いかな三谷青年も「アッ」と声を立てないではいられなかった。
 最早もはや夢でも幻でもない。最も現実的な、すてては置けぬ大椿事だ。
「水死人だ。怖がることはありません。助かる見込みがあるかどうか、見て来ますから、待っていらっしゃい」
 脱衣場で、手早く着物を着て、廊下から現場へ飛び出すと、倭文子も彼のあとから、伊達巻だてまき一つで従って来た。
「アア、とても駄目だ。飛込んだのは今日じゃありませんよ」
 如何いかにも、水死人は、まるで角力取すもうとりみたいに、醜くふくれ上っていた。顔は下を向いているので分らぬけれど、服装の様子では湯治客らしい。
「アラ、この着物、見覚がありますわ。あなたもきっと……」
 倭文子は激情に声を震わせて、妙なことを口走った。
 土左衛門どざえもんは、こまか銘仙絣めいせんがすり単物ひとえものを身につけていた。その絣に見覚がある。
「まさかそんなことが」
 と我が目を疑いながら、併し、三谷はその水死人の顔を確めるまでは安心が出来なかった。彼は水際みずぎわまで降りて行って、岸に漂いついている死体を、怖々こわごわ足でグッと押して見た。
 すると、死体は、戸板返しの様に、クルッと廻転して、上向きになった。まだ生きているのではないかと、ゾッとした程、軽々と向きを換た。
 倭文子は遠くへ逃げて、水死人の顔を見る勇気はなかった。三谷は見るには見たけれど、余りのことに胸が悪くなって、長く眺めていることは出来なかった。
 死体の顔は、ブクブクとふくれ上り、まるで相好が変っていたし、その上、岩角に当ってすり向けたのか、ほとんど顔全体が、グチャグチャにくずれて、二目とは見られぬ不気味さであった。
 三谷と倭文子が、宿の者を呼びに走ったのは申すまでもない。それから起った、土左衛門騒ぎの詳細を記す必要はない。警察は勿論裁判所からも人が来た。騒ぎは鹽の湯ばかりでなく、鹽原全体に拡がり、二三日というもの、よると触るとそのうわさであった。
 水死人は、顔はくずれていても、年配、体格、着衣、持物等から、岡田道彦に相違ないことが確められた。
 取調べの結果入水自殺であることも判明した。川上には幾つも名高い滝がある。岡田はそのどれかの滝壺たきつぼへ飛込んで、自殺をとげたのだ。医師の推定では、死後十日以上というのだから、恐らく、彼が東京へ行くといって宿を出たその日に、身投げをしたのが、滝壺に沈んでいて、雨続きの増水の為に、やっとその日、宿の裏まで流れついたものであろう。
 自殺の原因については、結局ハッキリしたことは分らぬままに済んでしまった。失恋らしいという噂は立った。その相手は柳倭文子であろうという者もあった。だが、誰も本当のことは知らなかった。知っているのは当の倭文子と三谷青年ばかりだ。
 岡田は鹽原へ来て初めて倭文子を知ったのではないらしい。彼の恋はもっともっと根強く深いものであった。温泉へ来たのも、湯治ではなくて、ただ倭文子に接近したさであったかも知れない。彼がどんなに悩んでいたかは、あの気違いめいた毒薬決闘を提案したのでも分るのだ。
 思いが深く、悩みがひどかったけに、絶望が彼を半狂乱にしたのは無理ではない。だが、彼は短刀をふところにしながら、それを使用する勇気はなかった。結局弱者の道を選んで、自分自身をほろぼす外に、何の手だてもなかったのだ。
 水死人騒ぎの翌日、三谷青年と柳倭文子とは、このいまわしい土地をあとにして、東京へと汽車に乗った。
 彼等は少しも知らなかったけれど、同じ列車の別の箱に、合トンビの襟を立て、鳥打帽とりうちぼうをまぶかに、黒眼鏡とマスクで顔を隠した老人が乗合わせていた。唇のない男! 蛭田嶺蔵だ。アアこの怪人物は、三谷と倭文子に対して、そもそも如何なる因縁いんねんを持っていたのであろうか。
 さて読者諸君、以上は物語の謂わばプロローグである。これから舞台は東京に移る。そして世にも奇怪なる犯罪事件の幕が、愈々いよいよ開かれることになるのだ。

しげる少年


 三谷と倭文子は、東京へ帰ってからも、三日に一度は、場所を打合わせて置いて、楽しいを続けていた。
 三谷の方は、学校を出てまだ勤め口も極まらず、親の仕送りで暮している下宿住いであったし、倭文子の方は何か打あけにくい事情があるらしく、住所さえ曖昧あいまいにしているので、お互に訪ね合うことはさし控えた。
 だが、二人の情熱は、時がたつに従って、衰えるどころか、愈々こまやかになって行ったので、そうした曖昧な状態を、いつまでも続けることは出来なかった。
「倭文子さん、僕はもう罪人つみびとの様な密会にえられなくなった。君の境遇をハッキリさせて下さい。例の畑柳未亡人というのは、一体何のことです」
 三谷はある日、鹽原以来幾度も繰返した質問を、今日こそはという意気込みで持出した。「畑柳未亡人」というのは、死んだ岡田道彦が、ふと口をすべらした、倭文子のもう一つの名前なのだ。
「あたし、どうしてこんなに臆病なのでしょう。きっと、あなたに見捨てられるのが、怖いからだわ」
 倭文子は冗談らしく笑って見せたが、どこか涙ぐんでいる様な調子であった。
「君の前身が何であろうと、そんなことで、僕の気持は変りやしない。それよりも、今の状態では、僕は君のおもちゃにされている様な気がするのだ」
「マア」
 倭文子は哀しい溜息をついて、暫く押し黙っていたが、突然、妙なやけくそみたいな調子になって、ぶっきら棒にいった。
「あたし、未亡人なのよ」
「そんなことは、とっくに想像している」
「それから、百万長者なのよ」
「……」
「それから、六つになる子供があるのよ」
「…………」
「ホラね、いやあな気持になったでしょう」
 三谷青年は、何をいっていいのかわからない様子で、黙り込んでいた。
「あたし、みんないってしまいますわ。聞いて下さる。アア、いっそのこと、今からすぐ、あたしのうちへいらっしゃらない? そして、あたしの可愛い坊やを見て下さらない? それがいいわ、それがいいわ」
 倭文子は、異様な昂奮こうふんに上気したほおを、流れる涙も意識しないで、フラフラと立上ると、青年の意向を確めもせず、いきなり柱の呼鈴ベルを押した。
 間もなく、二人は何が何だか分らない、気違いめいた気持で、自動車のクッションにひざを並べていた。
 三谷は「そんなことで、僕の心が変るものですか」といわぬばかりに、じっと倭文子の手を握りしめていた。
 二人とも一言も口を利かなかった。だが、頭の中では、錯雑した想念のアラベスクが、風車かざぐるまの様に廻転していた。
 三十分程で、車は目的地に到着した。降り立った二人の前に、広い石畳いしだたみと、御影石みかげいしの門柱と、締め切ったかし模様の鉄扉と、打続くコンクリートべいがあった。
 門柱の表札には、あんじょう「畑柳」と記されていた。
 通されたのは、落ついた、併し非常に贅沢ぜいたくな飾りつけの、広い洋風客間であった。
 大きな肘掛椅子ひじかけいすの掛け心地は悪くなかった。三谷の椅子の真向うに、深々とした長椅子があって、派手な模様の天鵞絨びろうどクッションを背に、丸い肘掛へ、グッタリともたれかかった倭文子の、匂わしき姿があった。
 倭文子の膝に肘をついて、長椅子の上に足をなげ出している、可愛らしい洋装の少年は、畑柳氏の忘れ形見、倭文子の実子のしげるちゃんだ。
 くすんだ皮の長椅子の凭れをバックにして、倭文子の白い顔、派手なクッション、茂少年の林檎りんごの様に赤い頬。「母と子」と題する、美しい絵の様に眺められた。
 三谷は二人から目を上げて、彼等の頭の上の壁に懸っている、引伸ばし写真の額を見た。何となく人相の悪い四十恰好の男だ。
「死んだ畑柳ですの。こんなもの懸けて置いて、いけませんでしたわね」
 倭文子は神妙に詫言わびごとをした。
「それから、茂ちゃんも。この子も畑柳と同じ様に、あなたには、お目ざわりでしょうか」
「イイエ、決して。こんな可愛い茂ちゃんを誰が嫌うものですか。それにあなたに生写しなんだもの。
 茂ちゃんの方でも、小父おじさん好きでしょう。ね、そうでしょう」
 そういって、三谷が少年の手を取ると、茂はニッコリ笑って、うなずいて見せた。
 窓の外には、ここの庭にも紅葉は色づいていたし、常緑木ときわぎの茂みに、うらうらと暖かい日ざしが照りはえて、ほの白く、うら悲しく、夢見心地の一ときであった。
 倭文子は、茂少年の頬を愛撫あいぶしながら、突然、彼女の身の上話を始めたが、周囲の情景がそんな風であったから、それさえも、何かしら、あやしき物語めいて聞こえたのである。
 だが、彼女の身の上話を、そのままここに写すのは、余りに退屈なことだから、この物語に関係ある部分丈けを、ごくかいつまんで、記して置くにとどめよう。
 十八歳の倭文子は、両親を失い、遠い縁者に養われる身であった故か、金銭と、金銭によってあがない得る栄誉とに、珍らしい程、はげしい執着を持つ娘であった。
 彼女は恋をした。だが、その恋を弊履へいりの如く打棄て、百万長者畑柳にかたづいた。
 畑柳は年も違った。容貌も醜かった。その上、金儲かねもうけの為に、法網ほうもうをくぐることばかり考えている悪者であった。だが、倭文子は畑柳が好きだった。彼が儲けてくれるお金は、畑柳その人よりも、もっと好きだった。
 だが、悪運の強い畑柳にも、遂に報いが来た。法網をくぐりそこねて、恐ろしい罪に問われ、獄舎の人とならねばならなかった。
 倭文子と茂とは、一年余りの月日を、淋しい日蔭の身で暮す内、獄中に発病した畑柳は、遂にそこの病舎で、この世を去った。
 畑柳にも、倭文子にも、遺産の分配を迫る程の親戚はなかったけれど、巨万の富と、まだ若い未亡人の美貌に引きよせられて、求婚者が次から次へと現れ、余りのわずらわしさと、富を目当の求婚のおぞましさに、茂は親切な乳母うばに任せ、たった一人で、偽名をして、気儘きままな湯治に出掛けたのだが。
 そこで同じ宿に泊り合わせた三谷青年は、彼女の素性すじょうを少しも知らないで、彼女に烈しい思いを寄せた。それさえ好ましきに、あの毒薬決闘の際の、何ともいえぬ男らしい態度。倭文子の方でも、三谷青年を思い始めたのは、決して偶然ではなかったのだ。
「あたしが、どんなに慾ばりで、多情で、いけない女だかということが、よくお分りになりまして?」
 倭文子は、長い打あけ話を終って、やや上気した頬に、ばちな微笑を浮かべていった。
「その最初の、貧乏な恋人というのはどんな人だったのです。忘れてしまった訳ではないのでしょう」
 三谷の口調には、一寸ちょっと形容しにくい、妙な感じが含まれていた。
「あたしその人にだまされたのです。初めはうまいことをいって、あたしを仕合しあわせにしてやると約束して置きながら、ちっとも仕合せになんかならなかったのです。その人は貧しかったばかりでなく、ゾッとする様な、いやあな性質があったのです。でも、あたしを愛してはいたのですけれど、そうされればされる程、虫酸むしずが走る程いやでいやで仕方がなかったのです」
「その人が今どうしているか、どこにいるか、あなたは、ちっとも知らないのですね」
「エエ、八年も前の昔話ですもの。それに、あたしまだほんの子供でしたから」
 三谷は黙って立上ると、窓の所へ歩いて行って外を眺めた。
「で、つまり、これがあなたの愛想あいそづかしなんですか」
 彼は外を眺めたまま、無表情な口調でいった。
「マア」倭文子はびっくりして、
「どうして、そんなことおっしゃいますの。ただ、あたし、あなたにあたしの本当の境遇を隠しているのが、苦しくなったからですわ。子供まである、獄死をした罪人ざいにんの妻が、あなたとこうしているのが、恐ろしくなったからですわ」
「そういうことで、今更、僕達が離れられると思っているのですか」
 倭文子にして見れば、離れられぬからこそ、身の上を打あけたともいえるのだ。それが分らぬ相手ではない筈だ。
 彼女も立って行って、三谷と並んで、窓の外を見た。少し赤みがかった日光が、立木の影を長々と投げている、美しい芝生に、いつの間にか、部屋を抜け出して行った茂少年が、彼の身体の二倍程もある、愛犬のシグマと、たわむれているのが見えた。
「子供と同じ様に、あなたにも罪はないのです。僕はそういうことで、あなたに対する心持が、変りはしない。それよりも、僕にはあなたの富が恐ろしい。あなたの最初の人と同じ様に、僕も貧乏な書生っぽでしかないのですから」
「マア」
 倭文子は、三谷の肩に手を置いて、頬と頬とがすれ合う程も、近々と相手の顔をつめながら、マアよかったといわぬばかりに、美しく美しく笑って見せた。
 丁度その時、邸の塀外から、俗っぽい、ふえ太鼓たいこの音楽が聞えて来た。
 一番早くその音に気づいたのは、シグマだ。彼は何か不安らしく、耳を動かしてその方を眺めた。茂少年も犬の様子に誘われて、聞き耳を立てた。
 音楽が門の前あたりで止ったかと思うと、チンドン屋の鹽辛声しおからごえが幽かに聞え始めた。
 三谷と倭文子とは、茂少年がいきなり門の方へ、駈け出して行くのを見た。シグマも御主人のおともをして、あとになり先になり走って行った。
 門の外では、珍妙な風体ふうていのチンドン屋が、お菓子屋の広告の、つらね文句を呶鳴どなっていた。
 胸には太鼓、その上に箱があって、お菓子の見本が並んでいる。着物は友禅ゆうぜんメリンスを滅茶滅茶にわせた、和洋折衷わようせっちゅうの道化服、頭には、普通の顔の倍程もある、張りぼての、おどけ人形の首丈けを、スッポリかぶって、その黒い洞穴ほらあなみたいな口から、鹽辛声がボウボウとひびいて出る。
 チンドン屋の声は、人形の首をスッポリと冠っていたせいか、やすものの蓄音器みたいに、変に鼻にかかって、ほとんど意味が分らぬ程であった。
 だが、意味はかく、歌の様な節廻しが面白く、その上、異様の風体の珍しさに、茂少年は、門の外へ駈け出して、思わずチンドン屋のそばへ寄って行った。
「坊ちゃん、ホラ、このお菓子を差上げます。サァ、召上れ。頬っぺたがちぎれる程、おいしくてたまらないお菓子!」
 張りぼての顔を、おどけた調子で振り動かしながら、太鼓の上の見本のお菓子を差出した。
 茂少年は、サンタクロースの様に、親切な小父おじさんだと思って、喜んでそのお菓子を受取ると、別にお腹がすいていた訳ではないが珍らしさに、早速さっそく口へ持って行った。
「おいしいでしょ。サア、これからこの小父さんが、太鼓叩いて、笛吹いて、飛び切り面白い歌を歌って聞かせますよ」
 ヒューヒュラ、ドンドン。頭でっかちのおどけ面が、肩の上でクルクルクル。友禅メリンスの道化服が、ピョンピョコ、ピョンピョコ、操り人形みたいに、面白おかしく踊り出した。
 踊りながら、チンドン屋は、段々畑柳邸の門前を離れて行く。茂少年は、余りの面白さに、つい我を忘れて、まるで夢遊病者みたいに、そのあとからついて行く。
 踊るチンドン屋を先頭に、可愛らしい洋服姿の茂。そのまたあとには、小牛の様なシグマ。いとも不思議な行列が、さびしい屋敷町を、どこまでもどこまでも歩いて行った。
 それとは知らぬ、客間の倭文子。チンドン屋の音楽が、段々遠ざかって、とうとう聞えなくなってしまったのに、いつまでたっても、茂少年が帰って来ないので、ふと心配になり出した。
 女中を呼んで、門前を探させて見たが、茂は勿論、愛犬のシグマさえ、どこへ行ったのか、影も形も見えぬという。何とやらただならぬ感じだ。
 倭文子も、三谷も、召使達も、青くなって、邸の内外隅まで探し廻ったが、どこにも姿はない。そこへ、所用があって外出していた、乳母うばのおなみが帰って来て申訳もうしわけがないと泣き出す騒ぎである。
 まさかチンドン屋に連れ去られたとは想像もしなかったが、こんなに探しても見つからぬ所を見ると、しや人さらいの所業ではないかと、誰の考えもそこへ落る。
 警察へ届けるか、イヤ、もう少し待って見ようと、ゴタゴタしている間に、時間は容赦なくたって行く。
 やがて日が暮て、戸外が暗くなるにつれて、不安はつのるばかりだ。はてしも知れぬ暗闇の中を、母の名を呼びながら、さまよっている茂少年の、哀れな姿が見える様で、悲しい声が聞える様で倭文子はもう、居ても立ってもいられぬ気持である。
 暫くすると、元の客間に集まって、不安な顔を見合わせていた倭文子達の所へ、一人の書生が、真青になって、惶しく駆け込んで来た。
「確かに誘拐ゆうかいです。シグマが帰って来ました。こいつは坊ちゃんの為に、こんなに傷つくまで忠実に闘ったのです」
 書生の指さすドアの外を見ると、小牛の様なシグマが、全身あけに染まって、悲しいうなり声を立てながら、グッタリとよこたわっていた。
 ハッハッという、せわしい呼吸。ダラリと垂れた舌、ともすれば白くひきつって行く眼。数ヶ所にパックリ口を開いた、むごたらしい傷口。
 倭文子は、廊下に寝そべっている、真赤なものを見た刹那せつな、どこか遠い所で、同じ運命にあっている、いたいけな我が子の聯想れんそうの為に、フラフラとめまいがして、倒れそうになるのを、やっとこらえた。
 彼女には、血みどろのシグマが、むごたらしくあえいでいるのが、いつまでたっても茂少年の、のたうち廻る姿に見えて仕方がなかった。
 畑柳家には、執事しつじの様な役目を勤めている、斎藤さいとうという老人がいたのだけれど、あいにく不在の為に、三谷が代って、警察へ電話を掛け、事情を告げて、茂少年の捜索を依頼した。
 警察からは、係りの巡査が出向くという返事であったが、その用件をすませて、受話器を掛けるか掛けないに、またけたたましいベルが鳴った。
 まだその卓上電話の前にいた三谷が、再び受話器を耳に当てて二言三言うけ答えをしている内に、彼の顔が真青になった。
「誰ですの? どこからですの?」
 倭文子が心配に息をはずませて尋ねた。
 三谷は送話口を手で押えて、振返ったが、ひどくいいく相に躊躇している。
「何か心配なことですの? 構いません、早くおっしゃって下さい」
 倭文子がせき立てる。
たしかに聞きおぼえがある。贋物にせものではありません。あなたのお子さんが、自身で電話口に出ていらっしゃるのです。だが……」
「エ、何ですって? 茂が電話口へ? あの子はまだ電話のかけ方もよく知りませんのに。……でも聞いて見ますわ、あの子の声は、あたしが一番よく知っているのです」
 倭文子は駆け寄って、まだ躊躇している三谷の手から、受話器を奪い取った。
「エエ、あたし、聞こえて? 母さまよ。お前茂ちゃんなの? どこにいるの?」
「ボク、ドコダカ、ワカラナイノ。ワカラナイシ、ヨソノオジサンガ、ソバニイテ、コワイカオシテ、ナニモイッテハ……」
 バッタリ声が切れた。突然、その怖い小父さんが、少年の口を手でふさいだらしい様子だ。
「マア、本当に茂ちゃんだわ。茂ちゃん。茂ちゃん。サア、早くお話し母さまよ。あたし、お前の母さまよ」
 辛抱しんぼう強く声をかけていると、暫くして、また茂のたどたどしい声が聞えて来た。
「カアサマ、ボクヲ、カイモドシテクダサイ。ボクハ、アサッテ、ヨルノ十二ジニ、ウエノコウエンノ、トショカンノウラニ、イマス」
「マア、お前、何をいっているの、お前の側に悪者がいて、お前にそんなことをしゃべらせているのね。茂ちゃん。たった一言、たった一言でいいから、今いる場所をおっしゃい。サア、どこにいるの?」
 だが、少年の声は、まるで聾の様に、倭文子の言葉を無視して、子供らしくない、恐ろしいことを喋っている。
「ソコヘ、十マンエン、オサツデ、カアサマガ、モッテイラッシャレバ、ボクカエレルノ。十マンエンオサツデ。カアサマデナクチャ、イケナイノ」
「アア、分った分った。茂ちゃん安心おし、きっと助けてあげるからね」
「ケイサツヘ、イイツケルト、オマエノコドモヲ、コロシテシマウゾ」
 アア、何ということだ。「お前の子供」というのは、はなしている茂少年自身のことではないか。
「サア、ヘンジヲシロ。ヘンジヲシナイト、コノコドモガ、イタイメニアウゾ」
 その言葉が切れるか切れないに、ワーッという、悲しい子供の泣き声が聞えた。

悪魔の情熱


 何という残忍酷薄の所業しわざであろう。少年少女を誘拐して、その身代金を強要する犯罪はしばしば聞く所であるが、誘拐した少年自身に脅迫の文句を喋らせ、その悲痛な泣き声を聞かせ、母親の心をえぐらんとするに至っては、かつて前例のない悪魔のかん手段である。
 だが、倭文子にしては、悪魔の所業をにくむよりは、電話口でゾッとする様な、脅迫の文句を喋っている、茂少年の、何ともいえぬ恐ろしい境遇に、気も心も顛動てんどうして、何を考える余裕もなく、電話器にしがみついて、相手の声を失うまいと、半狂乱のていであった。
「茂ちゃん。泣くんじゃありません。母さまはね、お前のいうことなら、何でも聞いて上げます。お金なんぞ惜くはありません。承知しました。エエ承知しましたと、そこにいる人にいっておくれ、その代り茂ちゃんは、きっと、間違いなく、返して下さいって」
 それに答えて、受話器からは、まるで無感動な、暗誦あんしょうでもする様な、たどたどしい子供の声が聞こえて来た。
「コチラハ、マチガイナイ。オマエノホウデ、サッキノコトヲ、一ツデモタガエタラ、シゲルヲ、コロシテシマウゾ」
 そして、カチャンと、電話が切れてしまった。
 いくら六歳の幼児でも、彼のいっている文句が、どんな恐ろしいことだかは、分っていたに相違ない。それをあの無感動な調子で喋らせた、悪魔の脅迫が、どんなにはげしいものであったか。思うだに身の毛がよだつ。
 三谷を初め、乳母のお波、女中などが電話の前に泣きふした倭文子を、なぐさめている所へ、やがて、所管の麹町こうじまち警察から、司法主任の警部補が、一名の私服を伴って、訪ねて来た。
「よくある手ですよ、ナアニ、お金なんか用意する必要はありません、新聞紙包か何かを持って、かくもその約束の場所へ行って見るのですね。そして子供と引換てしまうのです。あとは警察の方で、うまくやります。無論犯人を引括ひっくくるのです。ただ、最初から我々が行ったのでは、犯人の方で用心して、逃げてしまいますから、あなたが、先方の申出を守って、警察の力を借りず、単独でお金を持参した様に見せかけるのですよ。僕はいつかも、この手で犯人をおびき寄せて、うまく逮捕した経験があるのです」
 司法主任は、事もなげにいってのけた。
「しかし、犯人はその場で、お金をしらべて見るでしょうから、若し贋物と分ったら、子供に手荒らな真似をする様なことはないでしょうか」
 三谷が不安そうに尋ねると、警官は笑って見せて、
「我々がついています。現場附近に数名の巡査を伏せて置いて、万一の場合は、八方から飛出して、有無をいわせず引括ってしまいます。それに、犯人にとって、子供は大切な商品なのですから、仮令たとえこの計画が失敗しても、危害を加える様なことは、決してありません。一体、身代金請求なんて一時代前の古くさい犯罪で、今時、こんな真似をする奴は、よっぽど間抜けなぞくですよ。それに、従来この手で成功した例は、ほとんどないといってもよい位です」
 結局、当夜は、あらかじめ現場附近の森蔭に七八名の私服刑事を、潜伏させて置いて、表面上は倭文子が単身、茂少年を受取りに出向くということに、相談が一決したが、三谷は倭文子の身の上を気遣う余り、更に奇抜きばつな一案を提出した。
「倭文子さん、僕にあなたの着物を貸て下さい。あなたに化けて、僕が行きましょう。僕は学生芝居の女形おやまを勤めた経験がある。鬘だって訳なく手に入ります。真暗な森の中です、大丈夫ごまかせますよ。それに、僕が行きさえすれば、腕ずくだって、茂ちゃんを取戻して来ます。そうさせて下さい。あなたをやるのは、どうも危険な気がします」
 それ程にしなくてもと、反対意見も出たけれど、遂に三谷の熱心な希望がれられ、彼が倭文子の身替りを勤めることになった。
 当夜、三谷は髭のない顔に念入の化粧を施し、鬘をかぶり、倭文子の着物を着て、学生芝居以来久しぶりの女装をした。
 彼はこの奇妙な冒険に勇み立ち、女装そのものにも、少からぬ興味を感じているらしく見えた。みずから提案した程あって、彼の女装は、本当の女としか思われぬ程、よく出来た。
「きっと茂ちゃんを連れて帰ります。安心して待ってて下さい」
 彼は出発する時、そういって倭文子を慰めたが、その時、双方とも女の姿で、顔を見合わせたのが、しばらくの別れになろうとは、誰が予知し得たろう。
 女装の三谷が、山下やましたで自動車を降りて、山内さんないを通り抜け、図書館裏の暗闇にたどりついたのは、丁度約束の十二時少し前であった。
 交番もそんなに遠くはなく、桜木町さくらぎちょうの住宅街もついそこに見えているのだけれど、その一角は妙に真暗で、まるで深い森の中へでも這入った様な気持だ。
 刑事達は、どこに潜伏しているのか、流石さすが商売柄、それと知っている三谷にも、気配さえ感じられぬ。
 四方に気を配りながら、暫くやみの中に立っていると、カサコソと草を踏む音がして、ボンヤリと黒く見える、大小二つの影が近づいて来た。小さい方は確かに子供だ。相手は約束をたがえず、茂を連れて来たのであろう。
「茂のお母さんかね」
 黒い影が、囁き声で呼びかけた。
「エエ」
 こちらも、女らしい低声で答える。
「約束のものは、忘れやしめえね」
「エエ」
「じゃ、渡してもらおう」
「アノ、そこにいるのは茂でしょうか。茂ちゃん、こちらへいらっしゃい」
「オッと、そいつはいけねえ、例のものと引換だ。サア、早く出しな」
 段々、暗にれて来るに従って、ウッスリ相手の姿が見える。男の服装は半天はんてん股引ももひき、顔は黒布で包んでいる。子供は可愛らしい洋服姿が、たしかに茂だ。
 少年は余程激しい折檻せっかんを受けたと見えて、母親の姿を見ても、声さえ立てず、男に肩先をつかまれたまま、小さくなっている。
「それじゃ、確に十万円、百円札が十束ですよ」
 三谷は、かさばった新聞包を差出した。
 それにしても、余りの金高かねだかである。いくら可愛い子供の為とはいえ、易々やすやすと渡すのは、少し変だ。相手の男が果して信用して受取るであろうか。
 だが、賊の方でも、いくらか血迷っていたと見え、包を受取ると、別段検べもせず、子供をつき放して置いて、いきなり暗の中へ逃げ出した。
「茂ちゃん。小父さんですよ。母さまの代りに、君を迎えに来た、小父さんですよ」
 三谷が、少年を引寄せて、そんなことを囁いていた時、賊の逃げた方角に当って、異様な叫び声と共に、何かが木の幹にドシンドシンとぶつかる音がした。
「捕えた。賊は捕えたぞ」
 木蔭に忍んでいた刑事の一人が難なく曲者をとらえたのだ。
 四方に起る「ワッ」という様な声、人の走る足音。
 刑事の伏勢が、全部その方へせ集った。
 余りにあっけない捕物であった。
 刑事の一団は、賊の繩尻なわじりをとって、その顔を見る為に、少し離れた所に立っている常夜燈の真下へ連れて行った。三谷も少年の手を引いて、そのあとからついて行ったが、明るい電燈の光で、少年の顔を一目見ると、彼はなぜか「アッ」と異様な叫声を発した。
 読者諸君が想像された如く、三谷が取戻した少年は、茂とは似ても似つかぬ贋物であった。茂の洋服を着た、見も知らぬ子供であった。
 だが、仮令茂が贋物でも、賊の本人が捕えられているのだ。子供はいつでも取戻せる。
 三谷は見知らぬ少年を引連れて、賊を取巻く刑事の一団に近寄って行った。
 ところが、これはどうしたのだ。そこにもまた、実に変てこなことが起っていたではないか。
「ヘエ、わしは、そんな悪いこととは知らねえで、十円の金に目がくれて、そいつのいいつけ通りやったまでです。わしは、何も知らねえ者です」
 男は、覆面をとって、しきりと詫言わびごとを並べていた。
「僕はこいつを知っている。この山内に野宿している新米しんまいの子持ち乞食だ。あの洋服を着せられているのは、こいつの子供なんだよ」
 一人の刑事が、男の言葉を裏書した。
「それで、貴様が贋の子供と引換えに、金を受取ると、どっかに待受けている、その頼んだ男の所へ、持って行く約束なんだな」
 別の刑事が、乞食を睨みつけて呶鳴った。
「インヤ、金を受取れなんて、いやしねえ。ただ、女の人が四角な包を持って来るから、それをもらって、どっかへ捨っちまえ、といったばかりで」
「ホウ、そいつは妙だね。すると、賊の方では、金包が新聞紙だということを、チャンと知っていたんだな」
 何だか狐につつまれた様な、変な具合だ。
「そいつの顔を覚えているだろう。どんな奴だった」
 また一人の刑事が尋ねた。
「それが分らねえです。大きな黒眼鏡をかけて、マスクをつけて、その上外套の袖を顔へ当てて、物をいっていたんで……」
 アア、この風体! 読者は恐らく、ある人物を思い出されたことであろう。
「フン、合トンビを着ていたのか」
「ヘエ、新しい上等の奴を着て居りました」
「年配は?」
「ハッキリ分らねえが、六十位のじいさんでがした」
 刑事達は、この子持ち乞食を、一応警察署に同行して、なおきびしく取調べたが、上野うえの公園で聞き取った以上のことは何も分らなかった。
 態々わざわざ女装までして、ノコノコ出かけて行った三谷は、実に間の悪い思いをしなければならなかった。
 彼はそこそこに、刑事達に挨拶をして置いて、通りがかりのタクシーの中へ逃げ込んで、畑柳家に引返した。
 帰って見ると、更に驚くべき事件が、彼を待受けていた。
「奥さんは、さい前、あなたからのお手紙でお出掛けになりました」
 という書生の言葉だ。
「手紙? 僕はそんなもの書いた覚えはないが、その手紙が残っていたら見せて下さい」
 三谷は烈しい不安の為に、胸をワクワクさせて、叫んだ。
 書生が探し出して来た手紙というのは、何の目印もない、ありふれた封筒、ありふれた用紙、それに巧みに三谷の筆蹟を真似て、こんなことが書いてあった。
倭文子様。
この車に乗って直ぐ来て下さい。茂ちゃんが、怪我をして、今病院へ担ぎ込んだ所です。早く来て下さい。
上野、北川きたがわ病院にて、三谷。
 それを読むと、三谷は真青になって、いきなり玄関脇の電話室に飛込み、惶しく警察署を呼び出した。
 手紙にある北川というのは、実在の病院だが、倭文子がそこへ行っていないのは、分り切つている。
 では、可哀相な彼女は今頃は、どこで、どの様な恐ろしい目に合っていることであろう。
 倭文子は、贋手紙に驚いて、無我夢中であったから、彼女の乗った自動車が、どこをどう走っているのか、少しも気づかなかったが、車が止って、降りて見ると、そこは全く見覚えのない、非常に淋しい町で、病院らしい建物は、どこにもなかった。
「運転手さん、ここは場所が違うのじゃありませんか。病院って、どれなんですの」
 倭文子が驚いて尋ねた時には、既に、運転手と助手とが、両側に降り立って、彼女の腕を掴んでいた。
「病院っていうのは、何かの間違いでしょう。坊ちゃんはこの家にいらっしゃるのですよ」
 運転手は、平気で、見えすいた嘘をいいながら、グングン倭文子を引張って行った。
 小さな門を這入って、真暗な格子戸を開けると、玄関の式台らしい所へ上った。燈火ともしびのない部屋を二つ三つ通り過ぎ、妙な階段を下った所に、ジメジメと土臭い小部屋があった。
 小さなカンテラがついているばかりで、よく分らぬけれど、柱も何もないコンクリートの壁、赤茶けた薄縁うすべり、どうやら地底の牢獄ろうごくといった感じである。
 声を立てて助けを求めるという様なことを、考えるひまもない程、咄嗟とっさの出来事であった。
「茂ちゃんは? あたしの子供はどこにいるのです」
 倭文子は、だまされたと感づいていながらも、まだあきらめ切れず、甲斐なきことを口走った。
「坊ちゃんには、じき会わせて上げますよ。暫く静かにして、待っておいでなさい」
 運転手達は、傲慢ごうまんな調子で、いい捨てたまま、部屋を出て行ってしまった、ガラガラと閉める頑丈がんじょうな扉、カチカチと鍵のかかる音。
「マア、あなた方は、あたしを、どうしようというのです」
 倭文子は叫びながら、扉の所へ駈け寄ったが、もう遅かった。押しても叩いても、厚い板戸はビクともしない。
 かたい、冷い薄縁の上に、くずおれて、じっとしていると、ひしひしと迫る夜気、地底の穴蔵の、墓場の様な、名状めいじょうがたき静けさ。倭文子は気が落ちつくに従って、我身の恐ろしい境遇が、ハッキリと分って来た。
 茂のことで、心が一杯になっていて、我身の危険をかえりみるいとまがなかったとはいえ、どうして、こうも易々と、こんな所へ連れ込まれたのかと、寧ろ不思議な感じがした。
 ふと気がついて、耳をすますと、どこか上の方から、子供の泣声が聞えて来る。深々しんしんと静まり返った夜の中に、細々と絶えては続く、淋しい泣声。
 幼い子供が、折檻されている様子だ。
 いとし子の声を、なんで聞違えるものか。あれは確に、茂の泣声だ。そうでなくて、こんなにも、ヒシヒシと胸にこたえる筈がない。
「茂ちゃん。お前、茂ちゃんですね」
 倭文子は、たまらなくなって、思わず高い声で叫んだ。
「茂ちゃん。返事をおし。お前の母さまは、ここにいるのよ」
 恥も外聞も忘れて、気違いの様に叫び続ける声が、やっと相手に通じたのか、一刹那、泣声がパッタリ止ったかと思うと、にわかに調子の高まった、身を切られる様なわめき声が響いて来た。その調子が母さま母さまと呼んでいる様に聞える。
 それに混って、ピシリピシリと異様な物音、アア、可哀相に、子供は鞭で打たれているのだ。
 だが、その間に、倭文子にとって、茂の泣声よりも、もっともっと恐ろしいものが、忍びやかに、彼女の身辺に近づいていた。
 運転手達の出て行った、扉の上部に小さな覗き穴が作ってあって、今、そのふたが、ソロソロ開きつつあるのだ。
 痛ましい子供の泣き声が、少し静まったので、天井の方に集まっていた注意力が、解けると同時に、目についたのは、扉の表面に起っている、異様な変化であった。
 倭文子はギョッとして、少しずつ、少しずつ、開いて行く、覗き穴を凝視した。
 カンテラの赤茶けた光が、わずかに照らし出だす扉の表面に、糸の様に黒い隙間すきまが出来たかと思うと、それが徐々に半月形となり、遂にポツカリと、真黒な穴があいた。
 誰かが覗きに来たのだ。
「茂に逢わせて下さい。あの子を折檻せっかんしないで下さい。その代りに、わたし、どんなにされても構いません」
 倭文子は一生懸命に叫んだ。
「本当に、どんなにされても、構わぬというのかね」
 扉をへだてたせいか、ひどく不明瞭な、ボウボウという声が、答えた。
 その調子が、ゾッとする程不気味に思われたので、彼女は容易に次の言葉が出なかった程だ。
「お前さんが、そんなにいうなら、茂と逢わせてやらぬでもないが、今の言葉は、まさか嘘じゃあるまいね」
 やっぱり、非常に聞き取りにくい声がしたかと思うと、丸い覗き穴に、ヒョイと人の顔が現われた。
 一目それを見た倭文子は、余りの怖さに、ヒーッと、泣くとも叫ぶともつかぬ声を立ててたもとで目かくしをしたまま、俯伏うっぷしてしまった。
 嘗つて鹽原温泉で見た、何ともいえぬ恐ろしい幻が、またしてもそこに現われたからだ。
 顔一面の引釣、赤くくずれた鼻、長い歯がむき出しになった、唇のない口、この世の中のものとも思われぬ、不気味にも醜い怪物であった。
 やがて、俯伏している襟元に、スーッと冷い風を感じた。扉が開かれたのであろう。
 アア、一歩、一歩、あいつが近づいて来るのだ。と思うと、居ても立ってもいられぬ怖さだが、逃げようにも、身体がすくんで、立上るのはおろか、顔を上げることさえ出来ぬ。悪夢にうなされている気持だ。
 倭文子は見なかったけれど、扉をあけて、はいって来たのは、黒いマント様のもので、身体ばかりでなく、顔まで隠した、異様の人物であったが、マントのふくれ具合といい、その隙間からチラチラ見える素肌といい、彼は真ぱだかの上に、直接マントだけを引かけているらしく見えた。
 男は倭文子の上に、のしかかる様な格好になって、またもや不明瞭な声で、
「お前さんの言葉が、本当かうそか、今すぐためして上げるよ」
 といいながら、倭文子の背中を、軽く叩いたが、その拍子に、左の手首が、彼女の頬にさわった。
 倭文子は、その手首の、瀬戸物みたいに、固くて冷い肌ざわりに、ゾッと動悸どうきが止ってしまう様な、恐れを感じた。
「あなたは誰です。どうして私達をこんなひどい目に合わせるのか、その訳をおっしゃい!」
 倭文子は死にもの狂いの顔を上げて、上ずった声で叫んだ。
 いつの間に、カンテラを吹き消したのか、部屋の中は、真の闇だ。怪物のありかも、その異様な呼吸の音で、やっと察し得るに過ぎない。
 相手は不気味に押黙っている。
 闇の中に、暗よりも黒いものが、かすかうごめいて、いまわしい息遣いが、徐々に徐々に、近づいて来るのが感じられる。
 やがて、頬にかかる熱い息、肩を這い廻る指の感触……
「何をするんです」
 倭文子は肩にかかる手を払いのけて立上った。
 いくら怖いからといって、彼女は小娘ではないのだ。されるがままになってはいない。
「逃げるのかね、しかし逃げ道はありやしないぜ。わめいて見るかね。だが、地の底の穴蔵だ。誰も助けに来るものはあるまいよ」
 不明瞭な声が、毒々しくいいながら、逃げる彼女に、追い迫って来た。
 暗の中の、悲惨な鬼ごっこだった。
 何かにつまずいて、バッタリ倒れる倭文子。その上にのしかかって、抱きすくめようとする怪物。お互に顔も見えぬ、暗闇の触覚の争い。
 あの唇のない、赤い粘膜そのものの様な顔が、今にも彼女の頬にふれはしないかと、倭文子は、それを考えただけで、気の遠くなる程、怖かった。
「助けて、助けて」
 組みしかれた彼女は、絶え絶えの声で叫んだ。
「お前、茂に逢い度くないのかね。逢いたければ、おとなしくするがいいぜ」
 だが、倭文子は抵抗をやめなかった。
 おいつめられた鼠が、却って猫にはむかって行く、あのむごたらしい、死にもの狂いの力で、彼女は相手を突き倒そうとした。それがかなわぬと知ると、あさましいことだが、ふと口に触れた相手の指先を、思い切って、グニャッとみしめたまま、放さなかった。
 怪物は悲鳴を上げた。
「放せ、放せ。こん畜生ちくしょう、さもないと……」
 丁度その時、天井の方から、またしても、茂少年の、絶え入る様な泣き声が聞こえて来た。
 ピシリ、ピシリ、残酷なむちの音だ。
「打て、打て、もっと打て。餓鬼がきが死んでも構わねえ」
 不明瞭な、ゾッとする様な、呪いのわめき声が、怪物の口からほとばしった。
「分ったか。お前が抵抗している間は、餓鬼の折檻をやめないのだ。お前の抵抗がひどければ、ひどい程、お前の子供は、死ぬ苦しみを受けるのだぞ」
 そういわれては、流石にくわえている指を、放さぬわけには行かなかった。
 そして、彼女がグッタリ抵抗力を失うと、不思議なことに、上の泣き声も静まった。
 またしても、ヌメヌメと、襲いかかる怪物の触覚。
 ゾッとして、身を固くして、襲いかかるのを、払いのけると、
「ワーッ」
 と上る、子供の悲鳴、鞭の音。
 アア分った、怪物は何かの方法で、上にいる相棒に、指図をしているのだ。折檻させたり、やめさせたり、緩急自在に操って、倭文子を責める武器としているのだ。
 抵抗すれば、間接ながら、我がいとし子を死ねとばかり、責めさいなむも同然だ。アア、どうしたらいいのだ。こんな残酷な責道具が、この世にまたとあろうとは思われぬ。
 倭文子は、子供の様に、声を上げて泣き出してしまった。智恵も分別も尽きたからだ。
「とうとう、参ってしまったね。フフフフフフフ、どうせそうなるのだ。じたばたするだけ、無駄というものだ」
 耐えがたき圧迫感、耳元に響く嵐のような呼吸の音、熱い息。……
 その刹那、倭文子は、名状し難き困迷を覚えた。今彼女の上に、のしかかっているものの体臭に、微な記憶があったからだ。
「こいつは、決して見ず知らずの人間ではない。それどころか、いつか、非常に親しくしていたことのある男だ」
 知っている人だと思うと、彼女は猶更なおさらゾッとした。今にも思い出せそうで、なかなか思い出せぬのが、非常に不気味であった。

奇妙な客


 茂少年が誘拐され、倭文子が行方不明になった翌日、主人のない畑柳家に、奇妙な客が訪ねて来た。
 三谷は、一先ひとまず下宿に引上げたし、変事を聞いてかけつけた親戚の者なども、帰ったあとで、邸内には執事の斎藤老人を初め召使ばかりであった。
 警察では、無論両人の行方捜査に全力を尽していたのだけれど、何の手懸りもない、雲を掴む様な探しもののこと故、急に吉報がもたらされる筈もなかった。
 例の呼出しの贋手紙にあった、北川病院を調べたことはいうまでもないが、予想の通り、病院はこの事件に何の関係もないことが分ったばかりだ。
 奇妙な客が来たのは、その夕方のことであったが、今度の事件について、密々でお話したいことがあるというので、斎藤老人が、客間へ通して面会した。
 客は、背広服を着た、これという特徴もない、三十五六歳の男で、小川正一おがわしょういちと名乗った。が、斎藤がせき立てる様にしても、仲々本題を切出さぬ。つまらない世間話などを、いつまでも、繰返している。
 しびれを切らして、倭文子の知人から、見舞の電話があったのをしおに、一寸中座したのが、間違いだった。
 老人が客間に引返して見ると、小川と名乗った客は、影も形もないのだ。
 帰ってしまったのかと、玄関番の書生に尋ねると、帰った様子がないとの答えだ。何よりの証拠は、靴を脱いだままになっている。まさかはだしで帰る訳もあるまい。
 事件の際ではあり、何となく気になるふしがあったので、老人は召使一同にも命じて、部屋部屋をくまなく探し廻って見た。
 すると、なくなった主人の、畑柳氏の書斎であった二階の洋室のドアが内側から鍵でもかけた様に、開かなくなっていることが分った。
 そんな筈はない。変だというので、鍵を探して見たが、そのドアは別段締りをする必要もないので、鍵は室内の机の抽斗ひきだしに入れてあったことを思い出した。
 おもうに、何者かが書斎に入って、抽斗の鍵で、内側からしまりをしてしまったものであろう。
 鍵穴に目を当てて見ると、案の定、向側から鍵をさしたままと見え、穴がつまっていて、何も見えぬ。
「仕方がない。庭から梯子をかけて、窓を覗いて見よう」
 ということになり、一同庭に廻り、一人の書生が命を受けて、梯子をかけ、二階の窓へと昇って行った。
 もうたそがれ時であったから、ガラス越しに覗いた室内は、深い霧がたちこめた様で、ハッキリ見分けるのは、仲々困難であった。
 書生は、ガラスに顔をくっつけて、いつまでも覗いている。
「窓をあけて見たまえ」
 下から斎藤老人が声をかけた。
「駄目ですよ。内側から締がしてある筈です」
 書生がそういって、でも、念の為めに、ガラス戸を押上げて見ると、案外にも、何の手答えもなく、スルスルと開いた。
「オヤ、変だぞ」
 書生は呟きながら、窓をまたいで、室内へ姿を消した。
 下から見ていると、書生の入って行った窓だけが、まるで巨大な化物の口の様に、ポッカリと黒く開いているのが、何となく不気味であった。
 下の一同は、一種の予感におびえながら、耳をすまして、黙り返っていた。
 暫くすると、黒く開いた窓の中から、何ともいえぬ、まるで締め殺される様な「ギャーッ」という叫声が聞えて来た。
 屈強くっきょうの書生が、みじめな、鵞鳥がちょうの鳴声の様な、悲鳴を上げたのを聞くと、室内には、どの様に恐ろしいことが起っているのかと、斎藤老人を初め、ゾッとして、梯子を昇る勇気もなかった。
「オーイ、どうしたんだア」
 下から別の書生が、大声に呶鳴った。
 暫くは何の返事もなかったが、やがて、化物の口の様に見える、真黒な二階の窓へ、ボーッと白く書生の顔が現われた。
 彼は右手を顔の前に持って行って、近眼の様に、じっと自分の指を見ている。なぜ、そんな馬鹿馬鹿しい真似をしているのであろう。
 と思う内に、彼はいきなり、気狂いの様に、その右手を振り振り、変なことを口走った。
「血、血、血だ。血が流れている」
「何をいっているのだ。怪我をしたのか」
 斎藤老人が、もどかし相に尋ねた。
「そうじゃありません。誰れかが倒れているのです。身体中ベトベトに濡れているのです。血だらけです」
 書生がしどろもどろに答えた。
「ナニ、血まみれの人間が倒れているというのか。誰だ。さっきの客ではないのか。早く電燈をつけ給え、何をぐずぐずしているんだ」
 呶鳴どなりながら、気丈な老人は、もう梯子を昇り始めていた。書生もあとにつづいた。女達は梯子の下に一かたまりになって、青ざめた顔を見交わしながら、押黙っていた。
 老人と書生とが、窓をまたぎ越した時には、既に電燈が点じられ、室内の恐ろしい有様が、一目で分った。
 故畑柳氏は、骨董こっとうずきで、書斎にも古い仏像などを置き並べていたが、氏の没後も、それが皆そのままになっている。
 両手を拡げて立ちはだかっている、真黒な、どこの仏様ともえたいの知れぬ、奇怪な仏像の足元に、一人の洋服男が、血まみれになっていた。確に小川と名乗る、さっきの客人だ。
 半面血に染まった、断末魔の苦悶の表情。ワイシャツの胸の夥しい血のり。空を掴んだ指。
 老人と二人の書生とは、棒立ちになったまま、暫くは口を利く力もなかったが、やがて、書生の一人が、面妖めんような顔をして、呟いた。
「おかしいぞ。犯人はどこから来て、どこへ逃げたのだろう」
 室の入口のドアは、内側から鍵をかけたままである。窓は締がしてなかったけれど、軽業師かるわざしででもなければ、この高い二階の窓から、出入りすることは不可能だ。
 それよりも、変なのは小川と名乗る男の行動であった。この見ず知らずの人物は、なぜ断りもなく、二階の書斎へ上って来たのか。その上、内側から、ドアに鍵までかけて、何をしていたのか。加害者は勿論、被害者の身元も、殺人の動機も、一切合切いっさいがっさい不明であった。
 これが、この物語の、最初の殺人事件である。だが、何という不得要領ふとくようりょうな、不可思議千万な殺人事件であったことか。
 斎藤老人は、死体には少しも手をふれず、兎も角警察に知らせることにした。
 書生の一人がドアを開て、電話室へと走った。
 あとに残った二人は、庭の女中達に梯子をはずさせ、窓をしめて掛金をかけ、ドアにも外から鍵をかけて、階下に引取った。
 つまり、それから暫くの間、小川の死体は、その書斎の中に、完全に密閉されていた訳である。
 三十分程して、麹町警察と警視庁とから係官が出張して来た。
 その人数の中に、名探偵と聞えた捜査課の恒川警部が混っているのを見ると、当局が、引続いて起った、畑柳家の怪事を、可成かなり重大に考えていることが分った。
 警官達は、斎藤老人から、大体の事情を聞取ると、兎も角現場げんじょうを検分することにして、老人の案内で、二階の書斎へと上って行った。
「部屋の中は、少しも乱さぬよう、十分注意を致しました。死骸は勿論、何一品動かしたものはござりません。私共は、むごたらしい死骸を一目見たばかりで、逃げ出してしまった様な訳で」
 老人はそんなことをいいながら、鍵を廻してドアを開いた。
 人々は血腥ちなまぐさい光景を想像して、ややためらいながら、部屋の中を覗いた。電燈はつけたままになっていたので、一目で隅々まで眺めることが出来た。
「オヤ、部屋が違うのじゃないかね」
 最初に踏込んだ、麹町署の司法主任が、けげんらしく呟いて、老人を振返った。
 何だか、変てこな質問である。
 一同妙に思って、続いて部屋の中へはいって行った。
「オヤッ」
 案内者の斎藤老人までが、頓狂な叫声を発した。
 さっきの死骸は、影も形もなくなっているのだ。
 まさか部屋を取違える筈はない。血みどろの男が転がっていたのは、あの黒い仏像の前であった。ほかの部屋にそんな仏像なんて、ないのだ。
 老人は、うろたえて、窓際へ走って行って、密閉された二つの窓の掛金を検べて見たが、少しも異状はない。
 全くあり得ないことが起ったのだ。死骸は溶けてしまったか、あるいは蒸発してしまったとしか考え様がないのだ。
 老人は狐につままれた様な顔をして、キョロキョロとあたりを見廻しながら、
「まさか三人が、揃って夢を見たのではありますまい。私の外に、二人の書生が、確に死骸を目撃しておるのです」
 と死体紛失が、彼の粗相ででもある様に、恐縮した。
 恒川警部は、老人に、死骸の横たわっていた場所を尋ねて、そこの絨氈じゅうたんを検べていたが、
「あなたは夢を見たのでありませんよ。ここに確に血の流れた跡があります」
 と絨氈のある個所を指さした。
 絨氈の模様がドス黒いので、ちょっと見たのでは分らぬが、触って見ると、まだ指先に赤いものがついて来るのだ。
 警官達は、この奇怪千万な出来事に、異常なる職業的緊張を覚え、手分けをして、室の内外を隈なく取調べたが、これという発見もなかった。
「召使を残らず集めて下さい。何か見たものがあるかも知れない」
 恒川警部の要求に応じて、召使一同、階下の客間へ呼び集められた。書生二人、乳母のお波、女中二人。
「おきくがいないが、どこへ行ったのか、誰か知らないかね」
 斎藤老人が気づいて尋ねた。小間使のお菊の姿が見えぬのだ。
「お菊さんなら、さっき、シグマがひどく鳴いているのを聞いて、犬小屋を見て来ると言って、庭へ出て行きました。でも、それからもう大分時間がたっていますわ」
 女中の一人が思い出して答えた。
 シグマは先日の負傷以来、手当を加えて、庭の犬小屋につないであった。お菊は日頃、この犬をひどく可愛がっていたので、鳴声を聞いて病犬を慰めに行ったものであろう。
 斎藤老人の命を受けて、書生の一人が、お菊を探す為めに、犬小屋のある裏庭へ出て行ったが、暫くすると、何かわめきながら、客間へ駈込んで来た。
「大変です。お菊さんが殺されています。庭に倒れています。早く来て下さい」
 それを聞くと、警官達は驚いて、書生について裏庭へ駈つけた。
「ホラ、あすこです」
 書生の指さす所を見ると、犬小屋から大分離れた、庭の芝生に、一人の女が、青白い月光に照らされて、仰向あおむきざまに打倒れていた。

妖術


 月光に照らされて、倒れていたのは、小間使のお菊だ。えたいの知れない殺人魔は、矢継早に、第二の犠牲者をほふったのであろうか。
 書生は気味悪がって、たじろいでいるひまに、事に慣れた恒川警部は、いち早くお菊の側に駈け寄り、上半身を抱き起して、大声に名を呼んだ。
「大丈夫、御安心なさい。この人はどこにも傷を受けていません。気絶したばかりです」
 恒川警部の言葉に、一同ホッとして、近々と小間使を取囲んだ。
 やっと意識を取戻したお菊は、暫くあたりを見廻していたが、やがて何か思出した様子で、その青ざめた美しい顔には、何とも言えぬ恐怖の表情を浮べた。
「あれ、あすこです。あの茂みの中から覗いていたのです」
 彼女が、さも恐ろし相に、震える指先で、真暗に見える木立の蔭をさし示した時には、屈強な警官達でさえ、ゾッと、襟元に水をかけられた様な感じがした。
「誰です。誰が覗いていたのです」
 恒川氏が、せき込んで尋ねた。
「それは、あの、……アア、わたし怖くて、……」
 青白い月光、真暗な木立、怪物の様な物の影。その恐ろしい現場で今見たものの姿を話すのは、余りに怖いのだ。
「怖いことはない。僕等はこんなに多勢いるじゃないか。早くそれをいい給え、捜査上大切な手掛りなんだから」
 恒川氏は、小川の死骸紛失と、お菊の見たものとの間に、必然的な関係がある様に思ったのだ。
 せめ立てられて、お菊はやっと口を開いた。
 シグマが余り鳴き立てるものだから、傷口が痛むのかと、可哀相になって、見てやる積りで、犬小屋の側へ来て見ると、流石は猛犬、痛さなどで鳴いているのではなかった。
 何か怪しいものを見つけたのか、今いう木立の蔭を、遠くから睨みつけて(というのは、シグマは犬小屋に縛られていたので)勇敢に吠え立てていた。
 お菊は、思わず、犬の睨みつけている茂みを、すかして見た。すると、
「アア、わたし、思出してもゾッとします。生れてから、一度も見たことのない様な、恐ろしいものが、そこにいたのです」
「人間だね」
「エエ、でも、人間でないかも知れません。絵で見た骸骨の様に、長い歯が丸出しになって、鼻も唇もないのっぺらぼうで、目はまん丸に飛出しているのです」
「ハハハハハ、馬鹿なことを、君は怖い怖いと思っているものだから、幻でも見たんだろう。そんなお化があってたまるものか」
 何も知らぬ警官達は、お菊の言葉を一笑に附したが、その笑い声の終らぬ内に、またしても、シグマの恐ろしい唸り声が聞えて来た。
「ホラ、また吠えていますわ。アア、怖い。あいつは、まだその暗闇の中に、隠れているのではないのでしょうか」
 お菊は、おびえて恒川警部にしがみついた。
「変だね、誰か念の為に、あの辺を検べて見給え」
 司法主任が部下の巡査に命じた。そして、一人の巡査が、木立の中へ踏み込んで行こうとした時である。
「ワ、ワ、ワ、ワワワワワ」
 と、悲鳴とも何ともつかぬ叫声さけびごえがして、お菊は恒川氏の胸に顔を埋めてしまった。彼女は再び怪物を見たのだ。
「ア、塀の上だ」
 巡査の声に、一同の視線が木立の斜向ななめむこうの空に集まる。
 いた、いた。高いコンクリートの塀の上に、蹲って、じっとこちらを見ている怪物。
 半面に月を受けて、ニヤニヤと笑っている顔は、お菊の形容した通り、正しく生きた骸骨だ。
 この化物が、小川の下手人だとすれば、被害者の死体をかかえていなければならないのに、怪物は身軽な一人ぽっちだ。では、死体はすでにどこかへ隠してしまったのか。
 だが、こいつは下手人であろうと、なかろうと、異様な面体めんていといい、夜中やちゅう他人の邸内をさまよう曲者、取押さえない訳には行かぬ。
「コラ、待てッ」
 警官達は、口々にわめきながら、塀際へと駈けつけた。
 怪物はいたずら小僧が「ここまでお出で」をする様な格好で、キ、キ、と不気味な声を立てたかと思うと、塀の向側へ姿を消した。
 ある者は塀をよじ昇って、ある者は門を迂廻うかいして、恒川氏と二人の警官とが、怪物のあとを追った。麹町の司法主任けは、なお取調を行う為に、邸内に残った。
 塀外へ出て見ると、人通りもない屋敷町の、もう一丁程向うを、黒の鳥打帽に、短い黒いマントをひるがえして、走って行く怪物の姿が、月の光りでハッキリ分る。
 読者諸君は、この怪物の左手と右足が、義手義足であることは御存知だ。その不自由な身体で、杖もつかず、エッチラ、オッチラ、走る走る。かつて鹽の湯温泉の長い段梯子をかけ降りた調子である。義足だとて、使いなれると馬鹿にならぬものだ。
 警官達は、帯剣たいけんを握って走る。もつれる影、乱れる靴音。
 月下の大捕物おおとりものだ。
 怪物は、近くの大通りへと走って行く。まだよいうちだ、賑やかな大通りへ出たら、忽ち捕まってしまうと、高を括ったのは、大きな思い違いだった。
 町角を曲った所に、待ち構えていた一台の自動車、怪物の姿がその中へ消えたかと思うと、車は矢庭やにわに走り出した。
 丁度向うから走って来る空タクシー。恒川警部は、すかさずそれを呼び止めると、警官一同を乗込ませ、
「あの車のあとを追っかけるのだ。賃銀は奮発ふんぱつするぜ」
 と怒鳴った。
 賑やかな大通りを、横に折れると、淋しい町、淋しい町と、曲り曲って、飛ぶ様に走る怪物の車。
 残念ながら、追うものは、りに撰ったボロ自動車。とても相手を追い抜く力はない。見失わぬ様について行くのはやっとである。その上、頼みに思う交番は、怪物の方で、巧みによけて通るのだ。
 神宮外苑じんぐうがいえんから、青山あおやま墓地を通り抜けて、暫く走ると、大邸宅の高い塀ばかり続く、非常に淋しい通りで、先の車がバッタリ止まったかと思うと、いきなり飛び出す黒マント。怪物は狭い横丁へと走り込んだ。
 ソレッとばかり、警官達は車を降りて、同じ横丁へ駈け込む。
 両側とも、一丈程もある高いコンクリート塀の、細い抜け道だ。見渡す限り、一丁ばかりの間、門一つなく、一直線に塀ばかりが続いている。
「オヤ、変だぜ。どこへ隠れたのか、影も形もありやしない」
 一人の巡査が横丁へ曲るや否や、ビックリして叫んだ。
 非常に変てこなことが起ったのだ。怪物が駈け込んでから、警官達が曲り角へ達するまで、ほんの数十秒、いくら足の早い奴でも、この横丁を通り抜けてしまう時間はない。
 昼の様に明るい月の光り、どこに一ヶ所、身を隠す場所とてはないのだ。
 いや、もっと確なことは、今しも横丁の向うから、ブラブラこちらへ歩いて来る通行人。近所の人と見えて、帽子も被らず着流しの散歩姿だが、その呑気らしい様子が、怪物と行違った人とは思われぬ。
「オーイ、今そちらへ走って行った奴はありませんかア」
 一人の巡査が大声に尋ねると、その男は、驚いて立止ったが、
「イイエ、誰も来ません」
 と答えた。
 警官達は、変な顔をして、両側の高いコンクリート塀を見上げた。
 何の手掛りもなく、一丈もある塀を、よじ昇ることは不可能だ。それに、警官達は知らなかったけれど、片足義足の怪物に、そんな芸当が出来る筈はない。
 どんな恐ろしい姿にもせよ、目の前に見えている内は、まだよかった。それが白々とした月光の下で、煙の様に消失きえうせてしまったと思うと、俄にゾッと気味が悪くなった。
 妖術だ。悪魔の妖術だ。
 だが、今の世に、そんな馬鹿馬鹿しいことがあるだろうか。
「ア、あんた、一寸待って下さい」
 恒川警部は、さい前の通りがかりの人が、すれ違って行くのを呼びとめた。
 彼は実に変なことを考えたのだった。さっきの怪物が、咄嗟とっさの間に、風体を変えて、通行人に化けて、何気なく逃去るのではないかと思ったのだ。
「エ、何か御用ですか」
 その男は、びっくりしたように振返る。警部は無遠慮に、男の顔を覗き込んだが、無論、怪物とは似ても似つかぬ、整った容貌の青年だ。身体の格好から、服装から、何一つ似通った所はない。第一、その青年が怪物でない証拠には、左手右足共に完全で、義手も義足もつけていないのだ。
 いやいや、もっと確な証拠がある。というのは、恒川氏が念の為に、その男の姓名を尋ねると、彼は実に意外な答えをしたのである。
「僕ですか。僕は三谷房夫というものです」
 それを聞くと、追手に加わっていた、麹町署の巡査が、びっくりして声をかけた。
「アア、三谷さんでしたか。あなたはこの辺にお住いなんですか」
「エエ、ついこの先の青山アパートにいるんです」
「この人なら、畑柳家の知合の人ですよ、ホラ、せんだって、上野公園の事件のとき、畑柳夫人に化けて、子供を取り戻しに行った、あの三谷さんです」
 巡査は青年を見覚ていて、一同に紹介した。恒川氏も三谷の名は聞いていた。
「今日も夕方まで畑柳にいて、さっき帰って食事と入浴をすませたばかりです。それにしても、あなた方は、やっぱり畑柳の事件で……」
「そうです。また奇妙な殺人事件があって、その犯人と覚しき怪物をここまで追いつめたのですが……」
 と恒川氏は手短に仔細を語った。
「アア、その化物なら、倭文子さんが、一度鹽原温泉で姿を見たことがありますよ。すると、あれはやっぱり幻ではなかったのだ。今度の事件には、最初から、そいつが関係していたに違いありません」
「ホウ、そんなことがあったのですか。それでは猶更なおさら、あの化物を引捕えなければならん。しかし、一体どうして消失せてしまったのか、少しも見当がつかぬのです」
「イヤ。それについて、思い当ることがあります」
 三谷は一方のコンクリート塀を見上げながら、調子を変えていった。
「この塀の向うに妙な家があるのです。僕はよくこの辺を通るので、気をつけて見ているのですが、いつも戸が締めてあって空家かと思うと、夜中よなかに燈火がれていたりする、実に変な家です。人の泣き叫ぶ声を聞いたという者もある位で、近所では化物屋敷だといっているのです。しや、その怪物は、どうかしてこの塀を乗り越して、今いう化物屋敷へはいったのではないでしょうか。そこが、悪人達の巣窟そうくつではありますまいか」
 あとになって、考えると、この塀外で、警官達が偶然にも三谷青年に出会ったのが、悪魔の運の尽きであった。
 とも角も、三谷のいった怪屋をしらべて見ることにして、一人の巡査を、念の為に、塀の所へ残して置いて、三谷青年を先頭に、恒川警部ともう一人の巡査とが迂廻うかいして、その家の表口に廻った。
 同じ様な門構えで、一軒立ちの、さして広くない邸が並んでいる。怪屋というのは、その一方のはしにあるのだ。
 門の戸はあけっ放しだ。三人はかまわず門内にはって、玄関の格子戸を引いて見ると、何の手答えもなく、ガラガラと開いた。
 中は真暗だ。声をかけても、誰も出て来るものはない。
 なる程変な家である。まだ宵の内とはいえ、何という不用心なことであろう。悪人の巣窟だとすれば、なお更のことだ。それとも、こうして開けっ放しにしておくのが、彼奴きゃつらの深いたくらみなのだろうか。
 流石さすがに、無暗むやみむ訳にも行かぬので、一同玄関の土間にためらっていると、奥の方から、幽かに誰かの泣きじゃくる声が漏れて来た。
「泣いている。子供の様だね」
 恒川氏が聞き耳を立てた。
「アア、あの声は畑柳の茂さんじゃないでしょうか」
 三谷がふと気づいて囁いた。
「茂? 畑柳夫人の子供ですね。そうだ。ここが果して犯人の住家だとすれば、その子供も、畑柳夫人も、この家のどこかにとじこめられている筈だ。……踏ん込んで見ましょう」
 恒川警部は臨機の所置をとる決心をした。
「君は門の外へ出て、逃げ出す奴があったら、引捕えてくれ給え」
 彼は傍らの巡査に命じて置いて、三谷と共に、玄関の式台を上った。
 真暗な部屋部屋を、手探りで探し廻ったが、人の気配もせぬ。
 二人は思い切って、手分けをして、一部屋一部屋、電燈をつけて廻ることにした。
 恒川警部は、最後に、最も奥まった座敷へ踏み込んだが、どの部屋も、どの部屋も、空っぽなので、ここもどうせ空部屋であろうと、高を括って、何気なくスイッチをひねると!
 アッと思う間に、黒い風の様なものが、部屋を横切って、一方の廊下へ飛び出した。
「ヤ、曲者!」
 警部の声に、怪しい男は、敷居をまたぎながら、ひょいと振返った。その顔! 畑柳家の塀の上で笑っていた、あの骸骨みたいな奴だ。唇のない男だ。
「三谷君、あいつだ。あいつがそちらへ逃げた。ひっとらえてくれ」
 警部はわめきながら、廊下へ飛出して怪物を追駈けた。
「どこです。どこです」
 廊下の行止りの部屋から三谷の声が聞えた。
 飛び出して来る人影。恒川氏は、廊下の真中で三谷青年にぶつかった。
「あの骸骨みたいな奴だ。君はすれ違わなかったか」
「イイエ、こちらの部屋へは誰も来ませんよ」
 怪物は確に、廊下を左へ曲った。その方角には三谷の出て来た部屋があるばかりで、両側は閉め切った雨戸と壁だ。怪物は再び、一瞬間にして消え失せてしまったのである。
 またしても悪魔の妖術だ!
 二人は気違いの様に、部屋から部屋へと歩き廻った。襖という襖は開け放され、戸棚も押入れも、人の隠れ得る場所は、便所の隅までも捜索された。
 雨戸を密閉してあったので、そこから外へ逃げ出す心配はない。逃げ出せば音がするし、掛金をはずす時間もかかるのだ。
 二人は捜しあぐんで、とある部屋に突っ立ったまま暫く顔を見合わせていたが、突然三谷が顔色を変えて囁いた。
「ホラ、聞えますか。あれはやっぱり子供の泣き声ですよ」
 どこからともなく、物憂い様な泣声が、幽かに幽かに漏れて来るのだ。
 二人は耳をすまし、足音を忍ばせて、泣き声をたよりに進んで行った。
「何だか台所の方らしいですね」
 三谷はいいながら、その方へ歩いて行く。
 だが、台所はさっき調べた時、何の異常もなかった。電燈もその時つけたままだ。
「そんな筈はないのだが」
 と恒川警部が躊躇している間に、三谷はもう台所の敷居をまたいでいた。と同時に「アッ」というただならぬ叫び声。
 恒川氏は驚いて駈けつけて見ると、三谷は、真青になって、台所の片隅を見つめたまま、立ちすくんでいた。
「どうしたんです」
 と尋ねる警部の声を制して、三谷は、聞えるか聞えないかの囁き声で答える。
「あいつです。あいつがこの上げ板を取って、縁の下へ這入って行ったのです」
 台所の板の間が、炭などを入れる為の上げ蓋になっている、よくある奴だ。
 警部は、勇敢に飛んで行って、その上げ板をめくって見た。
「ヤ、地下室だ」
 板の下は、意外にも、コンクリートの階段になっていた。その部分け箱の様に、床下とは遮断されているので、怪物は外へ逃げることは出来ぬ。地下室へ降りたにきまっている。もう袋の鼠だ。
 二人は、用心しながら、真暗な階段を下って行った。先に立つ恒川氏は、帯剣の柄を握りしめている。
 階段を降り切った所に扉があって、その隙間から幽かな光りが漏れて来る。泣き声が俄に大きくなったのを見ると、子供はたしかにこの扉の向うにいるのだ。
 どうしたことか、鍵穴には鍵をさしたままになっている。恒川氏は手早くそれを廻して、扉を開いた。
 二人は扉を小楯こだてに、部屋の中を覗き込んだ。と同時に、外からも、中からも、驚きと喜びの叫び声。
 部屋の中には、淡いカンテラの光に照らされて、倭文子と茂が抱き合っていたのだ。
 飛込んで行く三谷青年、すがりつく倭文子。
 だが、恒川警部は、この感激の場面をよそに、不満らしい顔をして、キョロキョロと部屋を見廻していた。肝腎かんじんの賊の姿が見えぬのだ。
 今来た階段の外に、どこにも出入口はない。確にここへ逃げ込んだ怪物が、またしても消え失せてしまったのだ。
 倭文子に尋ねると、賊は昨夜茂をこの部屋へ連れて来て、立去ったまま、一度も顔を見せぬということであった。茂は、終日食事を与えられぬ空腹と、恐怖の為に泣いていたのだ。
 恒川警部は、壁のカンテラをはずして、階段を上から下まで検べて見たが、どこにも隠戸や抜道はなかった。
 結局、誘拐された畑柳母子を取戻すことは成功したけれど、その犯人の逮捕は全く失敗に終った。
 表の門、裏の塀外に見張りをしていた二人の巡査に尋ねても、誰も家から出たものはないとの答えであった。
 見張りはそのままに続けさせて置いて、附近の電話で、応援の警官を呼びよせ、その夜から翌日にかけて、邸内は申すに及ばず、両隣の庭までも、残す所なく捜索したけれど、犯人は勿論、たった一つの足跡さえも発見することは出来なかった。
 怪物は不具者の身をもって、どうして一じょうもあるコンクリート塀を乗り越すことが出来たか。(附近には足場になる様な電柱も立木もなかった)また、邸内で、恒川氏と三谷とに、はさみ撃ちになった時、一瞬の間にどこへ身を隠し得たか。その様な隠れ場所は一つもなかった。更に、明かに地下室へ姿を消した怪物が、どうしてそこにいなかったか。すべて、全く、解き難い謎であった。

名探偵


 不思議は、青山の怪屋で、唇のない男が、三たび消失きえうせたことばかりではなかった。
 同じ日の夕方、突然畑柳家を訪ねた、小川正一とはそもそも何人であったか、彼はなぜ無断で故畑柳氏の書斎へ入り、内側から戸締りをしたか、誰が彼を殺したのか。その下手人は、戸締りした部屋から、どうして逃出すことが出来たか。
 更に奇怪中の奇怪事は、書斎に打倒ぶったおれていた、血みどろの小川の死体が、ぜ、誰によって、どこへ、運び出されてしまったのか。
 恒川氏は、唇のない男が、この小川の下手人であって、彼奴きゃつが書斎から死骸を運び出し、どこかへ隠したのだと考えたが、なるほど妖術家の彼奴なら、この不可思議を為しとげ得たかも知れぬのだ。だが、その死体をどこへ隠してしまったのか。彼奴が畑柳家の塀を越して逃げ出す時には、全く単身であった。すると、死骸は邸内のどこかに隠してなければならぬ筈なのに、あのときあとに残った、麹町の司法主任が、屋内屋外、一寸角も余さず、検べ廻ったにもかかわらず、死骸は勿論、何の手掛りらしいものさえ、発見出来なかったのは、実に不思議といわねばならぬ。
 それはさて置き、恒川警部の努力によって、畑柳倭文子と茂少年を、無事取戻すことが出来たのは、何よりの仕合しあわせであった。
 邸に帰ると、茂少年は、恐怖と疲労の為に、発熱して床につく、倭文子も唇のない男の、何ともいえぬいやらしい姿、ヌルヌルした歯ぐきの感触が忘れられず、恥かしさ、腹立たしさに、二三日の間は、一間にとじこもったまま、ほとんど誰にも顔を合わせなかった。
 恒川氏は両人に犯人捜査上手懸りとなるべきことを、色々に訊ねて見たが、結局読者に分っている以上の事柄は、何も発見されなかった。茂少年を鞭打った人物も、ただ「顔を黒い布で包んだ小父さん」という外には、何も分らなかった。
 三谷青年は、毎日の様に見舞にやって来た。彼の方から来ぬ時は、倭文子が待兼ねて電話で呼び寄せた。
 親戚といっても、立入って口出しをする程の近しい人はなかったし、斎藤老人は実直一方の好々爺こうこうやで、こんな時の力にはならなかった。乳母のお波は、多弁で、正直で、涙もろい外に取柄のない女だ。恋愛関係は別にしても、倭文子としては、さしずめ、三谷青年をたよる外はなかったのである。
 二三日は別段の出来事もなく過去った。が、獲物を奪われた悪魔が、そのまま指をくわえて引込んでしまう筈はなかった。やがてまた、倭文子の身辺に、何ともいえぬ変なことが起り始めた。
 彼女は、ある時は寝室の窓に、ある時は化粧室の鏡の中に、またある時は、客間のドアの蔭にさえ、あの恐ろしい怪物の顔が、ソッと彼女を覗いているのに気付いた。
 どこから、どうして這入ってくるのか、いつの間に逃げて行くのか、書生などが、いくら素早く追っかけて見ても、相手を捕えることは出来なかった。
 警察でも犯人捜査に手を尽していたのだけれど、流石の恒川警部も、この妖術使いにかかっては、ほとんど手も足も出ない有様であった。
 三谷は、恋人が、日一日と憔悴しょうすいして行く様子を、見るに見兼ねて、ある日、とうとう窮余の一策を案じ出した。
 彼は倭文子の同意を得て、おちゃみずの「開化かいかアパート」を訪ねた。そこに有名な素人探偵、明智小五郎あけちこごろうが住んでいたのだ。
 三谷は新聞記事などで、この名探偵の噂を聞いていたばかりでなく、紹介状を手に入れる便宜べんぎもあった。
 訪ねて見ると、丁度幸いなことには、名探偵は、関係していた事件が、どれも落着して、無事に苦しんでいるところだったので、三谷は喜んで迎えられた。
 素人探偵明智小五郎は「開化アパート」の二階表側の三室を借り受け、そこを住居なり事務所なりにしていた。
 三谷がドアを叩くと、十五六歳の、林檎の様な頬をした、詰襟服つめえりふくの少年が取次に出た。名探偵の小さいお弟子である。
 明智小五郎をよく知っている読者諸君にも、この少年は初の御目見えであるが、その外に、この探偵事務所には、もう一人、妙な助手がふえていた。文代さんという、美しい娘だ。
 この美人探偵助手が、どうしてここへ来ることになったか、彼女と明智とが、どんな風の間柄であるか、等々は「魔術師」と題する探偵物語に詳しく記されているのだが、三谷は、ねて噂を聞いていたので、一目で、これが、素人探偵の、有名な恋人だなと、うなずくことが出来た。
 明智は客間の大きな肘掛椅子に凭れて、好物のフィガロという埃及煙草エジプトたばこを吹かしていた。その紫色の煙幕を隔てて、有名なモジャモジャ頭と、※(「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2-93-20)むぜんの、どことなく愛嬌のある混血児の様な顔と、その癖鋭い目とがあった。
 美しい文代さんは、よく似合った洋装の裾をひるがえして、快活に客をもてなした。彼女の小鳥の様な明るい笑声が、このいかめしい探偵事務所に、新婚の家庭の様な華やかな空気を漂わせていた。
 三谷は、文代さんの入れてくれたお茶をすすりながら、鹽原温泉以来の出来事を、少しも隠さず、詳しく物語った。
「何もかも訳の分らぬことばかりです。到る所で、あり得ないことが起っているのです。私は妖術なんてものを信じることは出来ません。しかも妖術とでも考える外に、解釈の仕様もない事柄ばかりです」
 三谷は憮然ぶぜんとしていった。
「巧な犯罪は、いつでも、妖術の様に見えるのです」
 明智は、絶えず、一種奇妙な微笑を浮べて、三谷の話を聞いていたが、やっと口を開いた。
「ところで、その唇のない男は、一体何者だと思います。あなた方は全くお心当りがないのですか」
 明智は、相手の心の奥底に潜んでいるものを、見通している様な調子で尋ねた。
「アア、若しや、あなたもそれをお気づきなすったのではありませんか」
 三谷は、ギョッと恐怖の表情を浮べて、明智の目色を読みながらいった。
「実は、まだ誰にも話したことはありませんが、私はある恐ろしい疑いを持っているのです。払のけても、その悪夢の様な疑いが、頭の隅にこびりついていて、離れぬのです」
 彼はそこまでいって、ふと口をつぐみ、あたりを見廻した。文代も、隣室に退き、客間には、主客二人切りだ。
「誰も聞いているものはありません。で、あなたの疑いというのは?」
 明智が先を促した。
「例えばですね」三谷は何かいいにく相に、「硫酸か何かで、ひどく焼けただれた皮膚ひふ癒着ゆちゃくするのには、どれ程の日数がかかりましょう。半月もあれば十分ではないでしょうか」
「そうですね。半月位のものでしょうね」
 明智は、何ぜか、面白くてたまらぬといった調子で答えた。
「すると、ある恐ろしい想像が、成立つのです」
 三谷は青い顔をして話しつづける。
「今度の犯人は、茂を誘拐して、身代金を要求した所を見ると、金銭が目的の様ですが、実は金銭などはじゅうであって、茂の母を手に入れるのが、第一の目的ではなかったかと思うのです。それが証拠に、あの時も、身代金は必ず倭文子自身で持参せよという、条件がついていました」
「成程、成程」
 明智は非常に興味をそそられて、合槌あいづちを打った。
「ところで、例の化物みたいな男が、鹽原温泉に現われたのは、さっきお話した岡田道彦が、温泉宿を出発してから、丁度半月程のちなのです」
 三谷は、声をひそめて、思い切った調子でいった。
「だが、その岡田は滝壺に身を投げて、失恋の自殺を遂げたのではありませんか」
「と、世間は信じているのです。ところが、岡田の死体が発見されたのは、死後十日以上たっていて、ただ、着物や持物、年配、背格好などの一致で、単純に、それを極められてしまったに過ぎません」
「ホウ、すると、顔などは、もう皮膚がくずれていたのですね」
 明智は膝に手をついて、ちょっと身体を乗り出す様にした。
「そうです。川を流れて来る間に、岩角に当ったという風に、顔はほとんど赤はげになっていました」
「するとつまり、あなたのお考えは、川を流れて来たのは、岡田の着物を着た別人の死体であって、本物の岡田は、硫酸か何かをあびて、化物みたいな面相になって、生き残っているというのですね」
「その上、完全な手足を義手義足と見せかけて、この世に籍のない、謂わば仮空の人物になりすましたのです。失恋の鬼となって、悪魔の恋を成就じょうじゅしたのです」
「常識では考え得ない心理だ」
 明智は首をかしげて、独言の様に呟く。
「それは、あなたが、岡田という男をご存じないからです。あいつは気違いです。職業は画家でしたが、芸術家なんてものは、我々に想像出来ない、えたいの知れぬ気持を持っているものです」
 三谷は、嘗つて岡田が宿を立去り際に、三谷と倭文子の死体写真を拵えて、残して行ったことを語った。
 明智は黙って聞いている。
「あいつの恋は恐ろしい程でした。私に、毒薬決闘を申込んだのも岡田です。そればかりではありません。あいつが温泉宿に滞在中の一ヶ月ばかり、倭文子さんをつけ廻した様子は、思い出してもゾッとする程、気違いめいていました。情慾ばかりのけだものみたいでした。どうも、あの男は、ずっと以前から、倭文子さんを恋していて、ただ倭文子さんに接近する機会が得たいばかりに、態々、あとを追ってあの温泉へやって来たとしか考えられないのです」
 三谷は憎悪に燃えて、夢中に話しつづける。
「だが、奴の目的は、倭文子さんを手に入れるだけではありますまい。態々贋の死骸を拵え、苦しい思いをして、顔を焼いてまでもこの世から姿をくらますというのには、もっと深い企らみがなくてはなりません」
「例えば、復讎という様な?」
「そうです。私はそれを考えると、身体中にあぶら汗がにじみ出す程、恐ろしいのです。奴は僕に復讎しようとしているのです。理由のない復讎をとげ様としているのです」
 だが、あとになって、岡田という男は、三谷が考えていたよりも、もっともっと恐ろしい悪事をたくらんでいる、極悪非道の悪魔であったことが分った。
「あなたに、御相談に伺ったのも、倭文子さんに加えられた、極度の侮蔑を恨む外に、一つはその復讎が恐ろしかったからです。彼奴あいつは悪魔の化身です。あなたはお笑いなさるか知れませんが、私はこの目で見たのです。彼奴のあの不可解な消失は、妖術とでも考える外考え様がないではありませんか。あいつは全く別の世界から、この世に迷い出して来た、非常に不気味な、一種の生物みたいに思われるのです」
「岡田の元の住所を御存知ですか」
 三谷の物語が一段らくついた時、明智が尋ねた。
「温泉で名刺を貰っていました。何でも渋谷しぶや辺の、ずっと郊外の様に記憶しています」
「まだ、そこを調べて見ないのですね」
 成程、岡田の元の住所を調べて見るという手があったな。と三谷はちょっと迂濶うかつを恥じた。
「イヤ、いずれそこへも、行って見なければなりますまい」
 明智はニコニコしながらいった。
「併し、先ず第一に、現在の賊の巣窟を見たいと思います。あなたの所謂妖術が、どんな風にして行われたか。そいつを調べたら、自然賊の正体も分って来る訳です」
「ではお差支えなければ、これから直ぐ青山へ御出かけ下さいませんでしょうか」
 三谷は、名探偵を見上げる様にしていった。
 明智はこの事件に、ひどく興味をおぼえたので、少しも勿体もったいぶる事なく、ただちに同行を承諾した。
 ところが、いざ出発という間際に、はなは幸先さいさきの悪い出来事が起った。
 明智が外出の支度をして、文代さんに留守中のことをいい残していた時、一足先に廊下へ出ようとした三谷が、ドアの下の隙間から、一通の封書が覗いているのを発見した。誰かが黙って差入れて行ったものに相違ない。
「アア、お手紙の様です」
 彼はそれを拾い上げて、明智に渡した。
「誰からだろう。ちっとも見覚のない筆跡だが」
 明智は独言をいいながら、封を切って読み下した。読むに従って、彼の顔に一種異様の微笑が浮んで来た。
「三谷さん。賊は、あなたがここへいらしったことを、もうちゃんと知っていますよ」
 明智がそういって、差出した手紙には、の様な恐ろしい文句がしたためてあった。
明智君、とうとう君が出馬することになったね。俺の方でも働き甲斐があるというものだよ。だが、用心し給え。俺はね、君が今まで手がけた悪人共とは、少々違っているのだ。その証拠には、君がたった今この事件を引受けたのを、俺の方では、もうちゃんと知っているのだからね。
「すると、あいつは、私達の話を、ドアの外で立聞きしていたのでしょうか」
 三谷が青ざめていった。
「立聞きなんて出来ませんよ、僕はドアの外へ聞える様な声では、決して話をしませんし、あなたも、非常に低い声でした。賊は多分、あなたを尾行して、ここへはいられたのを見届け、僕がこの事件をお引受することを、見抜いてしまったのです」
「では、奴はまだこの辺にウロウロしているかも知れませんね。そして、また私達のあとをつけて来るのではありますまいか」
 三谷が心配すればする程、明智はかえって、ニコニコ笑って見せた。
「尾行をして来れば、寧ろ好都合ですよ。あいつのありかを捜索する手数が、はぶける訳ですからね」
 彼は三谷を励ます様にして、先に立って、玄関に待っていたタクシーに乗った。
 青山の例の怪屋への途中、絶えずうしろの窓を注意していたけれど、尾行して来る自動車を発見することは出来なかった。
 賊は彼等の行先を察して、とっくに先廻りをしているのではあるまいか。危い、危い。あの化物屋敷へ、武装もせず、たった二人で乗り込んで行くのは、あまりに向う見ずな、振舞ではなかったか。
 二人は、少し手前で車を捨てて、小春日和の、晴れ渡った日をあびながら、例の怪屋へ歩いて行った。
 締切った門には、警察でとりつけたのか、いかめしい錠前がぶら下っている。白日に照らし出された怪屋は、何の変てつもない、ただの空家としか見えなかった。
「鍵がなくては這入れませんね」
 三谷が、錠前を見ていった。
「裏へ廻って見ましょう。賊が消えたという塀の所へ」
 明智はもう、その方へ歩き出していた。
「でも、裏の方からはとて這入はいれませんよ。裏門なんてありませんし、それに塀がとても高いのです」
「併し、賊はそこから這入ったのです。我々も這入れぬという訳はありませんよ」
 明智は無論妖術を信じてはいなかったのだ。
 並んだ屋敷を迂回して、広い復興道路に出で、そこから裏手の高い塀にはさまれた、問題の通路へ曲って行った。
「ここですね」
「そうです。ごらんの通り、梯子はしごを掛けて乗り越す外には、ここから邸内へ這入る方法がないのです。どんな高飛びの名人だって、この高い塀に飛びつくことは出来ません。それに、上には一杯ガラスのかけらが植えつけてあるのですから」
「あの晩は月夜でしたね」
「昼の様な月夜でした。それに、繩梯子をかける余裕なんて、絶対になかったのです」
 二人はそんな会話を取交しながら、その通路を行ったり来たりした。明智は両側のコンクリート塀を見上げたり、地面を眺めたり、そうかと思うと、突然広い幹線道路に走り出して、附近を見廻していたが、例の一種異様のニコニコ笑いをして、妙なことをいい出した。
「賊がここから這入ったとすれば、仮令たとえ我々の目に見えなくても、どこかに出入口がある筈です、例えば、余り変てこな出入口である為に、我々はマザマザとそれを見ながら、少しも気がつかぬ様な。……」
「まさか、この塀に隠し戸があるとおっしゃるのじゃありますまいね」
 三谷は驚いて相手の顔を眺めた。
「隠し戸なんかは、警察で十分調べたでしょうし、こう見た所、そんなものがあるとは思えませんね」
「すると、外にどんな方法があるのでしょう」
 三谷はいよいよ変な顔をした。
「やれるか、やれないか、一つ僕も賊の真似をして、ここから這入って見ましょう。あなたは、その時の様に僕のあとから追駈けて見てくれませんか」
 この際、明智が冗談なぞをいう筈はない。しかも、彼は賊と同じ妖術を使って見せようというのだ。全く入口のない、コンクリートの壁を、つき抜けて見ようというのだ。
 三谷はあっけにとられて、しかし非常に好奇心にそそられた様子で、かく名探偵の言葉に応じて見ることにした。
 三谷は幹線道路の十間程向うに、明智は幹線道路から問題の場所への曲り角に立った。
 明智の合図で、二人は同時に走り出した。明智は曲り角から姿を消した。三谷は息せき切って、明智の立っていた個所へ走りついた。そして、ヒョイと、塀の方を見ると、彼は「アッ」と叫んで、立ちすくんでしまった。
 一丁程も続いた、見通しの通路に、人の影もないのだ。先夜と全く同じことが起った。明智小五郎は、完全に消え失せてしまったのだ。
「三谷さん、三谷さん」
 どこかで、呼ぶ声がした。キョロキョロ見廻していると、ポンポンと拍手の合図、それが確に、高いコンクリート塀の向側から響いて来る。
 三谷は声のする個所に近づき、塀越しに伸び上る様にして、耳をすましていると、暫くは何も聞えなかったが、やがて、うしろの方で、カタンと妙な物音がした。
 塀の向側へ注意を集めていたのに、反対に、うしろの道路に音がしたので、オヤッと思って、振返ると、これはどうだ。そこにヒョッコリ明智が立っているではないか。
 三谷は狐につままれた様な顔をした。
 ウラウラと晴渡った、昼日中、何とも解釈の出来ない、奇蹟が行われたのだ。日が照っている。明智の影が、黒々と地面に射している。夢でも幻でもないのだ。
「ハハハハハハハ」
 明智は笑い出した。
「まだ分りませんか。ナアニ、馬鹿馬鹿しい様なトリックなんです。手品がすばらしければ、すばらしい程、その種は一向あっけないものですよ。あなたは錯覚にかかっているのです。現に見ていながら、気づかないのです」
 三谷は眼を落して、何気なく明智の足元を見た。そこの地面に直径二尺程の丸い鉄の蓋がある。近頃、東京市中に目立ってふえた、下水道のマンホールだ。
「アア、それですか」
「マンホールとは考えたものですね。我々はこの鉄の蓋の上を踏んで歩きながら、一向意識しないのです。復興道路には、到る所にこれがあります。田舎から出て来たばかりの人は、存外これが目につく相です。併し東京人の我々は、慣れてしまって、道に落ちている石塊いしころ程にも注意しません。いわば盲点に入ってしまっているのです」
 明智の説明を聞いている内に、三谷はやっとそこへ気がついた様に、口をはさんだ。
「それにしても、こんな狭い横丁に、マンホールがあるのは、変ですね」
「そこですよ」明智は引取って、
「僕もさい前、それを変に思って、よく見ると、この鉄の蓋は、向うの大道路の奴とは、どこか違った所があります。ごらんなさい。真中に心棒があって、一寸ここの留金をはずすと、がんどう返しに、グルッと廻転する仕掛けになっている」
 明智はいいながら、鉄蓋を押して、半廻転させた。丁度一人通れる程の穴である。
「つまり、これは私設のマンホールなんです。下に下水道がある訳ではなく、狭い穴がこの塀の内側へ通じている。簡単な抜け穴の入口のカムフラージュです」
 私設の赤いポストを、町角に立てておいて、重要書類を盗んだ泥棒の話さえある。我々は、ポストがどこに立っているかを、常に正確に記憶しているものではないからだ。マンホールとても同様である。全く不用のマンホールが、一つ位余計にあったところで、当の工事をした人夫でさえ、気がつかぬかも知れないのだ。
 二人はそこの狭い穴を通って、塀の内側へ抜け出した。穴は庭内の小さな物置小屋の床下へ通じている。床板の一部分が上げ板になっている。
 入口の鉄の蓋を元通りにして、留金をかけ、この上げ板をはめて置けば、誰だってこれが抜け道とは気がつかぬ。
「こんな抜け穴をこしらえた所を見ると、賊は非常に大げさな悪企わるだくみをしていたのかも知れませんね。折角せっかくの隠れ家がバレてしまって、彼奴さぞかしくやしがっている事でしょう」
 明智は例の微笑を浮べていった。
 まさか邸内に賊が隠れているとは思わぬけれど、何となく薄気味悪く感じないではいられなかった。
 やがて二人は、台所の引戸を開けて、薄暗い土間に踏み込んだ。そこの板の間の下に、倭文子がとじこめられていた、例の穴蔵があるのだ。

裸女群像


 三谷は、土間に立って、暫く耳をすましていたが、何の気配もせぬので、やっと安心した体で、広い台所の板の間に上り、そこの上げ板をとりのけた。
「この下に例の穴蔵があるのです。併し、何か明りがないと……」
「僕がライターを持っています。兎に角降りて見ましょう」
 明智はパチンとライターを点火し、地下室への階段を降りて行った。
 狭い階段を降り切ると、頑丈な扉が開けっぱなしになっている。その奥がコンクリートの箱の様な、真暗な穴蔵だ。
 ライターを壁に近づけて、グルッと一廻りすると、例のカンテラが見つかったので、明智はそれに火をつけた。穴蔵がボンヤリと明るくなる。
 そうして置いて、彼はもう一度階段に引返し、その辺を念入りに眺め廻していたが、やがてライターを消して、まだ穴の上に躊躇している三谷に、声をかけた。
「あなたも降りて来てごらんなさい。御一緒に、もう一度よく調べて見ましょう」
 三谷は、その声に励まされて、怖々階段を降り始めた。
 半分程くだると、薄暗い光線ながら、穴蔵の中が一目に見える。
「明智さん、どこにいらっしゃるのですか。明智さん」
 三谷はゾッとして、思わず大きな声を立てた。見渡した所、明智の姿がかき消す様に、なくなっていたからだ。
 彼は外へ走り出たいのを、やっと我慢して、階段を駈降り、扉の中を探し、狭い穴蔵の中をキョロキョロと歩き廻った。どこにも人の気配さえせぬ。
 墓場の様な静けさ。陰気なカンテラの赤茶けた光り。目に浮ぶは、いつかの晩の、あの恐ろしい怪物の姿だ。唇のない歯ばかりの笑い顔だ。
 三谷は背筋に水をあびた様な感じで、急いで穴蔵を飛出し、階段を昇り始めた。すると、どこからか、姿はなくて、声ばかりが、
「三谷さん……」
 と聞こえて来る。ギョッとして、立止り、
「どこです。どこにいらっしゃるのです」
 叫ぶ様に聞き返す。
「ハハハハハハハ、ここですよ」
 パチンと音がして、三谷の頭の上でライターが点ぜられた。
 見ると、階段の天井に、平蜘蛛ひらくもの様にへばりついた明智の姿。
「これが賊の妖術ですよ。ごらんなさい。この両側に、天井を支えている太い横木があります。これに両手両足を突っ張っていれば、下を通る人は少しも気がつきません」
 明智は天井から飛び降りて、手をはたきながら、
「つまり、賊は、あなた方が奥の穴蔵へ這入ったのと、引違いに、この隠れ場所を降りて、外へ逃げ出してしまったのです。それから暫くたって、この辺をいくら探して見た所で、誰もいなかったのは、当り前なのです。ハハハハハハハ、何とあっけない、手品の種ではありませんか」
 いわれて見ると、成程それに相違ない。あの時は、慌ててもいたし、夜のことで、今よりも一層暗かったのだ。賊のちょっとした気転に気づかなかったのは、是非もない。
「ここを飛び出した賊はどこへ行ったか。いうまでもなく、裏の塀際の物置小屋、そこから地下を通って、例のマンホールです。見張りの巡査はいたけれど、あなたと同じ様に、塀ばかり見つめていたことでしょうから、隙を見て、穴から逃げ出すのは訳はない、……これが、あなたのいわゆる妖術の種明しですよ」
 二人は更に、怪賊が消えうせたという、邸内の廊下を検分したが、そこにも、燈火の蔭を利用して、身をかわす余地がないではなかった。
 第一に畑柳家の書斎での、奇怪な殺人、続いて死体の紛失、怪物を発見して、追駆けて見ると、例のマンホール利用の消失と、不思議が次々と重なった為に、何でもないことが、妖術めいて見えたのであろう。
 それが、マンホール、穴蔵の天井の隠れ場所と、賊のトリックがあっけなく暴露されてしまうと、今度は反対に、廊下での消失など、最早調べて見るまでもない様に思われて来る。三谷は明智の説明を、ほとんど上の空で聞いていた。
 さて、邸内の検分を終って、外に出た時には、三谷はすらすらと解けた謎に、さも満足そうな顔をしていたにひきかえ、不思議なことに、謎を解いた明智の方が、何ともいえぬ、困惑の色を浮かべているのだ。
「どうかなすったのですか」
 三谷が心配して尋ねた程である。
「イヤ、何でもないのです」
 明智は、気をとり直して、例のニコニコ顔を作りながら答えた。
「だが、正直にいいますとね、僕は何だか、えたいの知れぬものにぶつかった様な気がしているのです。恐ろしいのです。賊の巧妙なトリックではありません。そのトリックを、こんなに易々と解き得たことがです」
 彼はじっと三谷の顔を見た。
「どうしてですか。おっしゃる意味がよく分りませんが」
 三谷も相手の目を凝視しながらいった。
 二人はうららかな秋の日をあびて、なぜかしばらくお互の顔を眺め合っていた。何となく異様な光景であった。
「イヤ、気にかけることではありません。いつか詳しくお話しする機会もあるでしょう。それよりも、僕達はこれから、岡田の元の住所を訪ねて見ようではありませんか」
 明智が気を変えて、何気なくいった。
 だが、この訳の分らぬ会話には非常に重大な意味が含まれていたのだ。その時明智が示した困惑の表情は、彼が決して並々の探偵でないことを証するに足るものであった。読者はこの些細ささいな出来事を後々まで記憶にとどめて置いて頂きたい。
 それは兎も角、三谷の名刺入れに、幸い岡田の名刺が入っていたので、それによって、彼の元の住所を訪問することになった。
 タクシーが止まったのは、代々木練兵場の西の、まだ武蔵野むさしのおもかげを残した、淋しい郊外であった。
 探すのに少々骨が折れたけれど、結局元岡田が住んでいたアトリエを見つけることが出来た。
 雑草の蓬々ぼうぼうと生い繁った中に、奇妙なとんがり屋根の、青ペンキの洋館が建っていた。純然たるアトリエとして建築したものだ。
 這入ろうとしたが、扉も窓も厳重に締がしてある。まだ空家のままなのであろう。
 半町程隔たった、やっぱり野中の一軒家が、このアトリエの家主と聞いて、二人はそこを訪ねた。
「あの家をお貸しになるのでしたら、一度拝見したいのですが」
 明智はきっかけをつける為に、そんなことをいって見た。
「あなた方も、絵や彫刻をなさる方ですかね」
 家主というのは、四十余りの、慾ばりらしい田舎親爺おやじだ。すると、岡田は彫刻もやったものと見える。
「僕達は、死んだ岡田君とは、間接にあいのものです。やっぱり同じような仕事をしているのですよ」
 明智は出鱈目でたらめをいった。
 家主は暫らく二人の風体をジロジロ眺めていたが、やがて妙なことをいい出した。
「あの家は訳があって、ちっと高くつくのですがね」
「高いといいますと?」
 縁起の悪い水死人の住んでいたアトリエ、しかも長く空家のままになっているのに、高いというのは変だ。
「イエね、家賃の方は、高い訳でもありませんが、つきものがあるのです。岡田さんが残して行った、大きな彫刻があるのです。そいつを一緒に引取って頂きいので」
 家主の話を聞くと、このアトリエは元、ある彫刻家の持家であったのを、彼が買受けて貸家にしたので、岡田はその最初から二年ばかりの借り主であったが、非常に孤独な男で、奇妙なことには、身寄りのものも、親身の友達もないらしく、警察から水死の通知を受けても、死骸の引取手ひきとりてもなかったので、さしずめ家主が一切を引受けて、葬式から墓地のことまで心配した。
 そんな訳で、岡田がアトリエに残して行った品物は、すべて家主の所有に帰したのだが、その中に、仲々高価な彫刻があるというのである。
「一体どの位の値打のものなのです」
 明智が何気なく尋ねると、驚いたことには、
「おやすくして、二千円です」
 との返事だ。誰の作かと聞くと、無論岡田が作ったのだという。無名の岡田の作品が、二千円とは法外な値段である。
「それがね、お話しなければ分りませんがね」
 家主は、仲々お喋りである。
「実は岡田さんの葬式をすませると間もなく、商売人が訪ねて来ましてね、どうしても譲ってほしいというので、いくら位に引取ると聞くと、二百円と切出したのです」
「わたしは、あんなものの値打はちっとも分りませんが、その人がひどく執心らしいので、掛引きをしましてね、それでは売れぬといいますと、三百円、三百五十円とせり上げて行って、とうとう、四百円とつけたのです。
 こいつは大変な金儲けになり相だと思いましたのでね。エへへ……わたしも慾が出ましてね、それでも売らねえと頑ばって見ました。
 流石に、その商人も、弱ったと見えて、一度は帰って行きましたが、ナアニその内やって来るに違いないと思っていると、あんじょう、翌日訪ねて来て、そこでまた、五十円百円と値をせり上げましてね、千円でさあ。
 この調子だと、どこまで上るか分らないと、わたしも妙な意地が出て、まだ頑ばっていると、それからというものは三日にあげずやって来て、そのたんびに、段々とせり上げて、二千円まで来てしまったのです。私もとうとう手を打ちましたよ。
 ところが、それでは明日にも引取るからと約束して帰ったまんまもう半月にもなりますが、その後何の音沙汰おとさたもないのです。
 折角借りてやろうとおっしゃるのですから、お貸申したいのは山々ですが、お貸するには、あの彫刻をどっかへ運び出さなけりゃなりません、ひどくでっかい彫刻で、あれを置いたままでは、とてもお仕事は出来やしませんからね。
 といって、二千円の代物を雨ざらしにもならず、誠に困ったものです。どうでしょう。あなた方のお目で、一つその彫刻をごらん下すって、値打のあるものでしたら、お買上げ下さいませんでしょうか。わたしとしては、どなたにお譲りするのも同じことですからね」
 家主はニヤニヤ笑いながら、明智と三谷の顔を、見比べるようにした。
 二人とも、仲々立派な身なりをしていたので、この慾ばり親爺は、うまく話し込んで、一商売しようという腹であろう。二千円という値段も、余程掛値があるに違いない。
 だが、どう考えても、岡田の作品にそんな高価な買手がつくとは変である。それには何か仔細しさいがなくてはならぬ。
「兎も角、その彫刻というのを、一度見せてくれませんか」
 明智は少からず興味を覚えて、二千円の作品の一件を申出でた。
 家主は二人を案内して、アトリエに這入り、二つ三つ窓を開いて、部屋の中を明るくした。
 見た所、十坪程もある、天井の高い寺院のお堂みたいな部屋であったが、画架だとか、描きかけのカンヴァスとか、塑像そぞうの材料だとか、石膏の塊だとか、額縁のこわれたの、脚のとれた椅子、テーブルなどが、隅々に転がっている中に、非常に大きな、まるでお祭りの山車だしみたいな感じのものが、殆ど部屋の三分一程を占領していた。
「これが、その彫刻なんですが」
 家主は、いいながら、その巨大なものにかぶせてあった、白い布をとりのけた。
 白布の下から現れたのは、アッという程大がかりな、石膏製の裸婦の群像であった。
「ワア、こいつは素敵だ。だが、何てまずい人形だろう」
 三谷はびっくりして叫んだ。
 如何にも驚くべき群像であった。これなれば、手間賃を考えたら、二千円の値打はあるかも知れぬ。
 石膏をふんだんに使った、山の様な台座の上に、寝そべっているのや、蹲っているのや、立っているのや、八人の等身大の裸婦の像が、手を交え、足を組違えて、目まぐるしく群がっているのだ。
 僅の窓から這入る、乏しい光線が、複雑な陰影を作り、下手は下手ながら、一種化物屋敷めいた妙に不気味な感じを与えた。
 それにしても、こんなべら棒な代物を、真面目に買いに来るというのは、どう考えても変であった。第一、こんな子供のいたずらみたいな、不細工な石膏の塊に、二百円だって勿体ないことだ。
「その買いに来た商人というのは、一体どんな男ですか」
 明智が尋ねると、家主の親爺は顔をしかめて見せて、
「それがね、どうも変な奴でね。わたしも、なるべくなれば、あなた方に買って頂き度いと思うのですよ」
「変な奴というと?」
「ひどい片輪者でね、手も足も片方ずつ不自由で、目が悪いのか、大きな黒眼鏡をかけ、その上、鼻と口はマスクで隠しているのですよ。言葉がひどく曖昧で、鼻へ抜ける所を見ると、鼻欠けさんかも知れやしません」
 それを聞くと、こちらの二人は、思わず顔を見合わせた。例の唇のない怪物にソックリなのだ。だが、あいつはなぜ、こんなつまらない石膏像を、それ程欲しがっているのであろう。何か深い仔細がなくてはかなわぬ。
 明智の口辺から微笑が消えた。
 彼の機智が烈しく活動し始めたしるしだ。
「岡田君は、どういう考えで、こんな大きな像を作ったのでしょうね。何かあなたに話しませんでしたか」
 明智は裸婦の一人一人を、入念に検査しながら、尋ねた。
「別に展覧会に出品なさる様なお話もなかった様です。失礼ですが、あなた方、絵かきさんや、彫刻家さんのなさることは、我々凡人にゃ、てんで見当もつきませんのでね」
 家主は苦笑しながら、遠慮のない所をいった。
「これが出来上ったのは、いつ頃でした」
「サア、それが分らないのですよ。一体岡田さんは、ひどい変り者で私共に道で会っても、物もいわない様な人でしたが、家にいる時でも、窓という窓を締切て、入口の戸も中から鍵をかけて、昼間でも電燈をつけているといった、そりゃ風変りな人でした。仕事の方もきっと電燈の光でなすったのでござんしょう。私共はこの家の窓が開いていたのを見たことがない位でした」
 聞けば聞く程、奇怪な事柄ばかりである。岡田がそんな男であったとすれば、岡田すなわち唇のない男という、三谷の考えも、あながち突飛な空想とはいえぬのだ。
「その妙な男が、この像に値をつけて置きながら、今まで引取りに来ぬというのは、変ですね」
 明智がいうと、家主の親爺はやっきとなって、
「イヤ、なにしろ二千円ですからね。ちょっと工面くめんがつかぬのかも知れませんよ。併し、この人なら真からこれを欲しがっていたことは確です。あたしゃ決して出鱈目をいっているのではありません」
 と弁解した。
「あなたを疑っている訳ではないのです」
 明智は三谷と目を見合せて、例の不思議な微笑を浮かべながら、
「その男の考えが変ったのでしょう。恐らく、いつまで待っても、引取りに来ることはないかも知れません。三谷さん、これは僕達にとって、非常に興味深い事柄ですね」
 と意味ありげにいった。
 三谷はそれを聞くと、何とも知れぬ、冷い風の様なものを感じて、ゾッと身震いした。
「三谷さん、あなたは『六つのナポレオン』という探偵小説を御存じですか。ナポレオンの石膏像を、片っ端から叩きこわして歩く男の話です。みんなその男を気違いだと思っていた所が、その実は、ナポレオン像の一つに、高価な宝石が隠してあって、男はそれを見つける為に、同じ型の石膏像を、次々と叩きこわして歩いたというのです」
 明智は群像の裸婦の一人の、肩のあたりを、コツコツと指先で叩きながらいった。
「その話は読んだことがあります。でも、まさかこの群像に宝石が隠してある訳ではありますまい。小さな宝石を隠すのに、こんなべら棒な群像を作る必要もない訳ですからね」
 三谷は素人探偵の空想を笑った。
「イヤ、僕はなにも石膏像に隠されるものが、いつも宝石に極っているとはいいません。ある人にとっては、宝石よりも、もっと値打のある、そしてまた、こんな大きな群像の中でなければ、隠し切れないようなものも、あるだろうと思うのです」
 寺のお堂の様な感じのアトリエの中へ、僅に開かれた窓々から、いつともなく、夕闇が忍び込んで来た。
 真白な裸女達は、肌の陰影が薄れて、夢の様な、たそがれの灰色の中へ、溶けこんで行くかと見えた。
「ごらんなさい。このまずい塑像の中に、三体だけ、ほかのとは比べものにならぬ程、よく出来た像があります。僕はさい前から、それに気づいていました」
 明智は、その三人の裸女を、一人一人指さしながらいった。
 成程、そういえば、五人のつたない裸女の蔭に、隠れるようにして、三人の生きた女が、夫々それぞれのポーズで蹲っていた。
 夕闇が、荒削りな肌の細部を隠してしまったので、その三人の、生けるが如き五体が、まざまざと浮かび上ったのだ。
 たそがれが、作り出した、物の怪であろうか。
「こうして見ていると、彫刻なんて、本当に薄っ気味の悪いものですね」
 心なき田舎親爺にも、ただならぬ気配が感じられたのか、家主は低い声で不気味らしく呟くのであった。
 三人は、迫り来る薄くらがりに、無言のまま、立ちつくしていた。そのさまは、あたかも、八人の群像に、更に奇怪なる三体を、増したかの如く見えたのである。
「アッ、いけない。お前さんなにをするんだ」
 突如、家主がけたたましい叫び声を立てて、明智の側へけ寄った。
 だが、もう遅かった。
 明智は、一人の裸婦の腰のあたりを、いやという程蹴飛ばしたのである。
 家主の親爺が怒ったのは無理はない。見も知らぬ男が、何の断りもなく、二千円の商品を蹴飛ばしたのだ。そして、その大切な石膏像が欠けてしまったのだ。
「あんた、気でも違ったのかね。何という乱暴をするんだ。サア、弁償して下さい。売物が台無しになってしまった、二千円がビタ一文いちもんかけても承知するこっちゃない」
 親爺は明智の胸ぐらをとらんばかりにして、がなり立てた。
 裸女の一人は、腰のあたりが四五寸程も欠けて、気の毒な姿になった。欠けた石膏の下から、うす黒い布みたいなものが、まるで魚の臓腑かなんぞの様に、不気味にのぞいている。
 明智はその側にしゃがみ、親爺のののしり声も耳に入らぬ体で、熱心に、石膏像の芯の布みたいなものを検べていたが、やがて、こちらを向いて立上った時には、彼はハッする程けわしい表情になっていた。
「僕は、こんなやくざな塑像に、どうして数千円の値打ちがあるかそれが知りたかったのです。こんなものに、常識では考えられない高価な買手がついたとすれば、その値打ちは、石膏像そのものではなくて、像の中に隠されている品物にあるのだと、考える外はないじゃありませんか。ところで、隠されている品物は、さっきもいった様に、本当に値打ちのある宝石などの場合もあれば、また反対に一文の値打ちもないけれど、他人の目に触れてはならぬ、何か非常な秘密の品物の場合もあります」
「ホウ、すると、この中には、一体何が入っているとおっしゃるんです」
 明智の意味ありげな言葉に、家主もやや怒りを静めて、さも不審らしく尋ねた。
「見れば分ります。マア、あの欠けた箇所を、しらべてごらんなさい」
 いわれるままに、親爺は、さっき明智がした様に、指先で、うす黒い布くずをいじくったかと思うと、
「ワッ」
 と叫んで、飛びのいた。夕暗の中で、彼の顔は、幽霊の様に、血の気が失せている。
「分りましたか、なぜこんなものに、高価な買手がついたかということが。あなたは、そのマスクを掛けた奇妙な商人が、この恐ろしい殺人罪を犯した男、即ち岡田道彦であったのを、気づきませんでしたか。どこかに見覚がなかったですか」
「エッ、なんですって。すると、岡田さんは、鹽原で死んだんじゃないので……」
「恐らく、死んだと見せかけて、官憲の目をあざむこうとしたのです。これ程の大罪を犯していれば、死をよそおわねばならなかったのも、無理ではありませんよ」
「わたしゃ、余りのことに、何が何だか、訳が分りません。すると、その死んだと見せかけた岡田さんが、変装をして、自分の作ったこの彫刻を、買いに来たというのですね」
 家主は、恐怖にしわがれた声で叫ぶ様にいった。
「そうとしか考えられない、色々な事情があるのです」
「で、一体全体この中には、何が入っているのです。あの妙な匂いのする、グニャグニャしたものは、やっぱり……」
 それが何であるか、ちゃんと知っているくせに、尋ねて見ないではいられぬのだ。
「女の死骸です。しかも三人もの死骸が隠してあるのです」
「嘘だ、嘘だ。なんぼなんでも、そんな馬鹿なことが……」
 流石の頑固がんこ親爺が、今にも泣き出し相な渋面じゅうめんを作って、手を振り振り叫んだ。
「嘘か本当か、試して見るのは訳ありません。こうすりゃいいんです」
 いったかと思うと、明智はまたもや、固い靴底で、第二、第三の裸体人形を蹴飛ばした。

青白き触手


 ゴツン、ゴツンと、続けざまに、靴のきびすが鳴って、石膏の細いかけらが四方に飛び散った。
 ところが、ほとんどそれと同時に、第三の異様な物音が、まるで、今石膏の割れた音のこだまの様に、人々の耳をうった。
 明智は二度蹴ったばかりなのに、不思議なことに、音だけは三度響いたのだ。
 しかも、三度目の物音につれて、板張りの床にバラバラと飛散ったのは、石膏のかけらではなくて、鋭く光ったガラスの破片であった。その音と、石膏の割れる音と、ほとんど同時であった為に、暫くの間、音の発した箇所を悟ることが出来ず、人々は異様な困惑を感じたが、やがて、明智が、あわただしく一つの窓にかけ寄って、外の夕闇を覗いたので、やっと事の仔細が分った。
 何者かが、その窓の外から、小石を投込んだのだ。飛散ったのは、破れた窓ガラスのかけらであった。
「いたずら小僧め。この裏の広っぱへ子供達が集まって仕様がないのですよ」
 家主が腹立たしくいった。
「素早い奴だ。もう影も形もありやしない」
 明智は呟きながら、窓から帰って来たが、ふと足元に落ている白いものに気づいて、それを拾い上げた。
 小石を包んだ紙切れだ。拡げて見ると、鉛筆で何やら書いてある。
『おせっかいは、止せといったら止さぬか。これが二度目の、そして最後の警告だ。後悔してもおっつかぬ事が起るぞ』
 例の怪物から明智への警告だ。
「畜生ッ」
 叫ぶなり、明智は窓を開いて、外へ飛び出して行ったが、暫くすると、むなしく立戻って来た。
「どうも不思議だ」
 彼は、さっき青山で怪屋の探検を済ませた時と同じ様な、一種異様の困惑の表情を示して、呟いた。この事件には二重の底があって、彼はその不気味な底を、チラと覗いた様な気がしたのである。
 家のまわりを一週して、くまなく探して見たけれど、石を投げた奴はどこにもいなかった。夕暮れとはいえ、まだ物が見えぬ程ではない。その見通しの広っぱを、たった二三十秒の間に、どうして逃げ去ることが出来たのであろう。不可能だ。またしても不可能事が行われたのだ。しかも今度のは、明智すら解くすべを知らぬ謎であった。
「あまりにあばき過ぎたので、犯人めたまらなくなって、こんないたずらをしたのですよ。だが、僕はそうされれば、される程、余計あばいてやりたくなる男です」
 明智は何を思ったのか、アトリエの隅から、彫刻用のつちを拾って来て、いきなり、傷ついた三人の裸女の、顔といわず、胸といわず、たたき始めた。
 バラバラと飛散る石膏。一槌ごとに、むき出しになって行く、裸女の腐肉。
 かくて、夕闇のアトリエに繰拡げられた、時ならぬ地獄風景は、ここに細叙さいじょすべく、あまりにも無残である。凡て読者の想像に任せる外はない。
 作者はただ、その群像の中に、三人の若き女の死体が隠されていたという事実、死骸には一面に白布を捲き、その上から石膏で塗りつぶしてあったという事実を、記すに止めなければならぬ。
 いうまでもなく、即刻、このことが所轄警察と警視庁とに報ぜられ、警官達に続いて、裁判所の一行の来着となったのであるが、それは後のお話。
 明智と三谷は、すでに見るだけのものは見てしまったので、最初にやって来た警察の人々に、事の顛末を語り、住所姓名を告げて置いて、ただちに、気がかりな畑柳邸へと、自動車を飛ばした。
「僕はこの世が、何だか、今までとはまるで違った、恐ろしいものに見えて来ました。この数日来の出来事は、みんな、長い悪夢としか思えないのです」
 三谷青年は、走る自動車の中で、恐れと驚きにゆがんだ表情を隠そうともせず、明智の救いを求めるようにいうのであった。
「人間世界の暗黒面には、嘘の様な悪業がひそんでいるのです、どんな悪魔詩人の空想だって、現実界の恐怖には、及びもつかぬのです。僕はこれまで、度々そういうものを見て来ました。丁度、解剖学者が、素人の知らぬ人間の体内を絶えず見せつけられている様に、僕はこの世界のはらわたの、汚さ、不気味さを存分見せつけられて来ました。しかしその僕でも、今日の様な、恐ろしい経験は始めてです。あなたが悪夢の様に思われるのは、無理もありませんよ」
 明智が沈んだ調子でいった。
「岡田という男は、どういう考えで、あんなに沢山の女を殺して、石膏像に隠して置いたのでしょう。想像も出来ない心持です。気違いでしょうか。それとも、話に聞く殺人淫楽者という奴でしょうか」
「恐らく、そうでしょう。しかし、僕がこの事件を恐ろしく思うのはもっと別の意味もあるのです。現われた事件の裏に、何だかえたいの知れぬ、影の様なものがチラチラ見える様な気がします。僕はそれが掴めないのです。唇のない男や、死骸の石膏像なんかよりも、僕は、その目に見えぬ変てこなものが、正直にいうと、怖くて仕方がないのです」
 そうして二人は黙り込んでしまった。多くを語るには、あまりに事件の印象が生々しかったのだ。
 間もなく車は畑柳邸の門前に着いた。倭文子は、茂少年を身近に引寄せ、屈強の書生達に守られて、奥まった一間に、半病人のていで、引籠っていたが、力に思う三谷青年が、有名な明智小五郎を同道したと聞くと、少し元気づいて、彼等に会う為に、客間へ出て来た。
 斎藤老人を初め、召使達も、三谷の引合わせで、探偵の前に出て挨拶した。
 丁度時間だったので、晩餐ばんさんが用意された。明智は、邸内を調べる為に、相当の時間がると思ったので、遠慮なく御馳走になることにして、開化アパートの留守宅へ、その旨電話をかけた。
 電話口へは文代さんが出たが、その時は、留守宅に、まだ何の異状も起っていなかったのだ。
 それから、晩餐の席につく前に、一度例の二階の書斎を見て置くことにして、三谷と斎藤老人の案内で、彼はそこへ上って行った。
 室内の様子は、先日小川と名乗る人物が殺され、その死体が紛失した当時と、少しも変った所はなかった。
 一目見て、普通の書斎と違っている点は、一方の壁際に、数体の古めかしい仏像が並んでいることだ。
 天井の高い立派な洋室、彫刻のある大机、壁に掛け並べた、よしありげな陰気な油絵、全体の感じが、何となく古風で神秘的だ。
 明智は斎藤老人に教えられて、小川が倒れていた箇所に近づき、絨氈の血のあとを検べたが、ふと顔を上げて、すぐ目の前の、異様な仏像を眺めると、オヤッという様子で、長い間それを見つめていた。
 足を拡げ、手をふり上げて、立ちはだかっている、子供程も大きさのある、奇妙な仏像、その隣りに並ぶ、黒ずんだ金属製の、大仏を小さくしたような、三尺程の座像。
 明智が見つめていたのは、その座像の方の、異様に無表情な、ツルツルした顔であった。
「あなた方、気づきませんでしたか」
 やっとして、明智は、三谷青年と、斎藤老人を振返って云った。
 その口調には、なぜか、聞く者をギョッとさせる様な、気違いめいた感じがあった。
「若しや、その仏像の目がどうかしたのではございませんか」
 斎藤氏は、妙な顔をして尋ねた。
「そうです。僕には、この金仏かなぶつの目がまたたく様に見えたのですが。あなた方も見ましたか」
「イイエ……ですが、その仏様は、ひょっとしたら、瞬きをするかも知れませんので」
 斎藤氏は生真面目な様子で、冗談みたいなことをいい出した。
「どうしてですか。本当に、そんな馬鹿馬鹿しいことがあるのですか」
 三谷が、驚いて口をはさんだ。
「以前から、そんないい伝えみたいな、迷信みたいなものがあるのです。なくなった主人は、夜おそくこの部屋にいると、よく、瞬きなさるのを見ることがあると申して居りました。私などは年寄りの癖に、どうもそんな迷信じみたことは信じられんのですが、主人は非常な信心家でして、あらたかな仏様だと、有難がって居りました」
「妙なことがあるものですね。で、それをご主人の外に見たものはなかったのですか」
 明智が尋ねる。
「召使の者なども、たまさか、そんなことを訴えましたが、つまらぬことをいいふらしてはならぬと口止めをして居ります。化物屋敷の様な噂が立つのは好ましくはありませんからね」
「すると、僕の気のせいでもなかったのですね」
 明智は、この異様な迷信に、ひどく興味をひかれたらしく、近々と仏像の側によって、熱心にその目を検べて見たが、別に発見する所もなかった。
 どう考えても、鋳物いものの仏像が瞬きをする理屈はないのだ。
 ところが、明智がそうして仏像の側に身をかがめていた時、突然部屋が真暗になった。電燈が消えたのだ。
 と同時に、「アッ」という恐ろしい叫声。人の倒れる物音。
「明智さん、どうかなすったのですか」
 三谷の声が、暗の中で甲高かんだかく響く。
「早くあかりを。誰かマッチを持っていませんか」
 だが、マッチの必要はなかった。丁度その時、お化けみたいな電燈が、パッと部屋を明るくした。
 見ると、仏像の前に、明智が倒れている。丁度、先夜小川が殺されていた場所だ。斎藤老人は、その連想から、若しや明智も同じ目に会ったのではないかと、ギョッとした。
 三谷が駈寄って、素人探偵を抱き起した。
「お怪我はありませんか」
「イヤ、大丈夫です」
 明智は三谷の手を払いのける様にして、元気に立上ったが、顔色は真青だ。
「どうなすったのです。何事が起ったのです」
 斎藤老人が、オドオドして尋ねる。
「イヤ、何でもありません。御心配なさることはありません。サア、あちらへ行きましょう」
 明智は、何の説明もせず、先に立って部屋を出た。ほかの二人も、こんな不気味な場所に居残る気はなかったので、明智のあとに従った。
「斎藤さん、ドアに鍵をかけて置いて下さい」
 廊下に出ると、明智が声を低くしていった。
 斎藤老人は、明智のいうがままに、書斎のドアに、外から鍵をかけた。つまり、その部屋の中へ、目に見えぬ何物かを、閉め込んだ形である。
「その鍵を暫く僕にかして置いて下さいませんか」
 明智がいうので、老人は鍵を渡しながら、けげんらしく尋ねた。
「一体、どうなすったのですか。私共には、ちっとも訳が分りませんが」
「三谷さん、あなたも、何も見なかったですか」
 明智は老人には答えず、三谷に尋ねた。
「電燈が消えたのですから、見える筈がありません。何事が起ったのです」
 三谷も不審顔だ。
「僕は、今度の事件の謎を解く鍵が、この部屋の中にある様に思うのです」
 明智は意味ありげな言葉を漏らしたのみで、多くを語らなかった。
 やがて、三人は、階下に用意された食卓についた。主人役は倭文子だ。茂少年も彼女のそばに腰かけた。
 食事中別段のお話もない。誰も、いやな犯罪事件について語ることを、避けるようにしていたからだ。
 ただ一つ、書き漏らしてならぬのは、明智が「先刻さっき停電があったか」とたずねたのに対して、倭文子も召使達も、「一度も電燈は消えなかった」と答えたことだ。即ち、さっき二階の書斎が暗くなったのは、停電ではなくて、何者かがあの部屋のスイッチをひねったものに相違ない。
 食事が終ると、一同客間に帰って、夫々居心地のよさそうな椅子に、身を休めて、ポツリポツリ、引立たぬ会話を取交わしていたが、そこへ書生が入って来て、明智さんに電話だと告げた。
 見ると、いつの間に出て行ったのか、一座から明智の姿が消えていた。
 洗面所へでも行ったのかと、ややしばらく待って見たが、一向帰って来る様子がない。
「あの方は、二階の書斎の鍵を持っておでだから、ひょっとしたら、一人であすこへ上って行かれたのではありますまいか」
 斎藤老人が気づいていった。
 そこで早速、書生を見にやったが、明智はそこにもいないことが分った。
「変だね。兎も角、その電話をここへつないで見給え」
 三谷の指図で、客間の卓上電話が接続された。
「モシモシ、明智さんは、今ちょっと、どっかへ行かれたのですが、何か急なご用ですか」
 三谷が呼びかけると子供子供した甲高い声が、それに答えた。
「僕、明智の事務所のものですが、早く先生を呼んで下さい。大変なことが起ったのです」
「アア、君は、あの子供さんですか」
 三谷は昼間、開化アパートで見た、明智の可愛らしい少年助手を思い出した。
「エエ、僕、小林こばやしです。あなたは、三谷さんですか」
 少年は三谷の名を、よく覚ていた。
「そうです。明智先生はね、どこへ行かれたのか、探して見ても、姿が見えぬのです。だが、大変って、何事が起ったの?」
「僕、今自働電話からかけているんです。文代さんが誰かに誘拐されたんです。きっと昼間脅迫状をよこした奴だと思うんです」
「エ、文代さんていうと?」
「あなたも御逢いになった、先生の助手のかたです」
 アア、賊は飛んでもない方角から、逆襲して来た。卑劣にも恋人を奪って、探偵を苦しめ、自然この事件から手を引かせようという計画なのだ。
「で、君は今、どこにいるんです。文代さんはどんな風にして誘拐されたのです」
 三谷は、息をはずませて、電話口に呼びかけた。
「僕そちらへ伺います。電話ではくわしいお話も出来ませんし、それに先生の姿が見えないというのも、心配ですから」
 小林少年探偵は、そういって電話を切ってしまった。
 三谷は倭文子や、斎藤老人に事の仔細を告げ、兎も角、明智を探して見ることにした。
 召使達が、手分けをして、屋内は申すに及ばず、庭までも検べたけれど、不思議なことに、明智の姿はどこにも見えぬ。
 まさか黙って帰ってしまう筈はない。またしても、人間消失事件だ。先日の小川という男の死骸といい、今また探偵さえも、この邸内で消え失せてしまった。畑柳邸は、段々不気味な化物屋敷に変って行く様な気がするのだ。
 斎藤老人は、ふと、二階の書斎の鍵を明智に渡したことを思い出した。さっき書生は誰もいないといったけれど、明智はひょっとしたら、ドアに鍵をかけて、部屋の中を調べているのかも知れない。
 老人はそれを確めて見る為に一人で薄暗い二階へ上り、問題の部屋へと近づいて行った。
 見ると書斎のドアがなかば開いて中の明りが漏れている。
「オヤ、変だぞ。このドアの鍵は確に明智さんに渡した。外に合鍵はない筈だ。して見ると、明智さんはやっぱり、この部屋にいるのかも知れぬぞ」
 そう思って、部屋へ入って見たが、中はやっぱり空っぽだ。ガランとしたお堂みたいな部屋の中には、黙りこくった仏像共が、不気味に立並んでいるばかりである。
 明智は、今度の犯罪の凡ての謎が、この部屋に秘められている様なことをいった。しかも、ドアが開いていたのを見れば、彼は少くとも一度は、この部屋に入ったものに相違ない。
 で、それからどうしたのか。彼もまた、小川の死骸と同じ径路をたどって、どこかへ消えてしまったのではあるまいか。
 老人は丹念に、隅々を探し廻った上、どこにも、明智は勿論、その死骸さえも隠されていないことを確めると、小首をかしげながら、部屋を出る為にドアの所まで歩いて行った。
 すると、丁度その時、またしても、パッと電燈が消えた。廊下からの淡い光りが僅にドアのかたわらを照らしているばかり、老人の背後は、襲いかかる様な暗闇である。
 電燈のスイッチは、ドアのすぐ横手、老人の視野の中にあったのだから、誰もそれに手を触れなかったことは、確だ。つまり電燈は、お化けの様に、ひとりでに消えたのだ。
 斎藤氏は、思わず振返って、暗闇の中の、見えぬ敵に対して、身構えをした。
「誰だ、そこにいるのは、誰だ」
 誰も居る筈はなかったけれど、薄気味悪さに、老人は呶鳴どなって見ないではいられなかった。
 ところが、その声に応じて、まるで老人が悪魔を呼び出しでもした様に、広い暗闇の中に、人の気配がした。すかして見ると、向うの窓の前を、煙みたいな人影が、スーッと横切った様に感じられた。
「誰だ、誰だ」
 老人は続けざまに、悲鳴に似た叫び声を立てた。
 闇の中に闇があって、その真黒な人影みたいなものが、徐々にこちらへ歩いて来る気配だ。
 流石の斎藤老人も、あまりの不気味さに、ドアをしめて、逃げ出そうと身構えた時、突然、闇の中から、ほがらかな笑い声が響いて来た。
 と同時に、申し合せた様に、部屋の中が明るくなる。見えぬ手が、再びスイッチをひねったのだ。
 あかあかと電燈の光りに照らし出された怪物の正体。
「ア、あなたは!」
 老人はあっけにとられて叫んだ。
 そこに立っていたのは、さっきあれ程探したのに、影も見せなかった明智小五郎であった。
「これは不思議だ。あなたは、一体全体、どこに隠れてお出でなすったのだ」
 斎藤老人は、ジロジロと、明智を見上げ見下して尋ねた。
「どこにも、隠れてなんかいませんよ。僕はさっきから、ここにいたのです」
 明智はニコニコして、答えた。
 だが、それは嘘に極まっている。いくら老人だからといって、人間一人見落す筈はない、それに、さっき書生も、この部屋を一度探しに来たのだ。
 窓は凡て密閉してある。明智がその外に身を隠していたとは考えられぬ。すると、彼は無論部屋の中にいたのだ。併し、どこにそんな隠れ場所があるだろう。
 仏像の中か。とても人間が隠れる程の広さはない。第一、鋳物や木彫りの仏像の中へ、どうして這入れるものか。
 といって、壁にも床にも隠し戸のないことは、小川の死体紛失事件の際、警察の人々が充分調べたので、分っている。
「イヤ、何でもないのです。きっとあなたの目が、どうかしていたのですよ」
 明智は、何気なくいって部屋を出た。
 老人は、仕方なく、明智消失の不審はそのままにして置いて、小林少年からの電話のあった仔細を告げた。
「エ、文代さんが? 賊の為に?」
 流石の明智も、この突然の兇報には、ニコニコ顔を引込めないではいられなかった。
 大急ぎで階下の客間へ降りて行くと、探しあぐねて、期せずして、そこへ集まっていた人々は、明智の不意の出現に驚いて、四方から質問をあびせたが、彼はそれに答える余裕はない。三谷青年を捉えて、却ってこちらから電話の様子を尋ねるのだ。
 そうしている所へ、小林少年がタクシーで駆けつけて来た。待ち兼ねていた人々は、手をとる様にして、彼を客間へつれこんだ。
 そこで、お話は文代さん誘拐事件に移る訳だが、一方二階の書斎に起った怪奇については、今の所少しも、その謎が解かれていない。小川という男が何が為にあの部屋へ忍び込んだのか。誰に殺されたのか。その死体はどこへ行ってしまったのか。また、先程の、不思議な電燈の明滅、明智の消失と彼の不意の出現など。
 明智はその秘密を、既に探り得た様子だが、なぜか彼は、それについて一言も語ろうとはしないのだ。まだ語るべき時期でないのかも知れぬ。で、書斎の秘密は、そのままそっとして置いて、さしずめ心掛りな、明智小五郎の女助手の行方について、物語を進めなければならぬ。
 さて、客間につれ込まれた、小林少年が、林檎のような頬を、一際ひときわ赤らめ、息をはずまして語った所によると、……
 夕方五時頃、明智からの使だといって、一台の自動車が、文代さんを迎えに来た。
 明智の筆蹟で、
「急用あり、すぐおいでを乞う」
 という簡単な手紙を持っていたので、彼女は別段疑う所もなく、その車に乗った。
 だが小林少年は、虫が知らせたのか、昼間の賊の脅迫状や、明智が出がけに注意して行ったことが、気になって仕様がなかった。
 文代さんをとめて見たけれど、取合ってくれないので、ひとり心を痛めて、走り去る自動車を見送っていると、丁度幸いにも、そこへ一台の空タクシーが通りかかった。
 小林少年は、ふと子供らしい探偵心を起して、その自動車を呼び止め、文代さんの車を尾行して見る気になった。
 文代の自動車が止まったのは、丁度菊人形開演中の、両国国技館の前であった。
 小林少年のタクシーは、半町程もおくれていたので、彼が同じ場所で車を止めて、降りた時には、既にそのあたりに文代の姿は見えなかった。
 彼女を乗せて来た運転手を捉えて、尋ねて見ると、文代は、運転手に手紙を託した男につれられて、今国技館へ入って行ったばかりだという返事であった。
 その男の風采ふうさいを聞くと、どうも明智らしくないので、小林少年はいよいよ疑いを増し、切符を買って場内に入って、改札口の少女を初め、菊人形の番人、売店の商人などに、片っぱしから聞いて廻ったが、文代らしい洋装の美人が通ったことは覚ていても、彼女がどこにいるかは、誰も知らなかった。
 場内を一巡して出口まで来た頃には、もう文代を見た人もなく、切符受取の番人も、ここ一時間ばかり、そんな洋装の女は通らぬという。つまり文代はまだ場内のどこかにいるとしか考えられぬのだ。
 そこで小林は、更に、出口から逆に入口へと、見物の群衆の間を探しながら歩いて見たが、どうしても見つからぬ。
 明智が文代をこんな所へ呼ぶのも変だし、第一、急用があれば、自動車などを頼まずとも、電話で事がすむ筈ではないか。それに、そんなに探しても、あの目立つ服装の文代が見つからぬというのも、何とやら唯事ただごとでない。
 そこで、小林少年は、国技館の外の自働電話から、聞き覚ていた畑柳家の番号を探して、電話をかけて見た処、案の定、明智は同家にいることが分った。そこで、善後の処置を相談する為、早速やって来たというのである。
「その文代さんを呼び出した男というのは、きっと岡田の配下のものです。まさか、岡田があの顔で、人込みの中へ現れる筈はありませんからね」
 三谷青年は、今度の犯人を、岡田道彦と極めてしまっている。
「マア、どうしましょう。私達の事件を御願いしたばっかりに、文代さんというお方を、そんな目に合わせてしまって。あいつは、何というひどいことをするのでしょう」
 倭文子も、さなきだに悩ましき眉を、一層しかめて、悲しげに、腹立たしげに呟く。
「文代さんは、僕の筆蹟をよく知っている筈です。あの人がだまされた程だから、賊の偽手紙は余程巧に出来ていたのでしょう。菊人形……アア、あいつの考えつきそうなことだ。賊はひょっとしたら、国技館を根城にして、恐ろしい悪事を企らんでいるのかも知れません。アトリエの死体群像といい、ここの二階の仏像といい、今また国技館の菊人形と、あいつの犯罪には、妙に人形がつき纒っている」
 明智は非常に気掛りの様子で立上った。
「僕はこれからすぐ、国技館へ行って見なければなりません。あの殺人鬼は文代さんをどんな目に合わせているか、ひょっとしたら、もう間に合わぬかも知れません」
 いいながら、彼は小林少年を従えて、もうドアの外へ出ていた。
「三谷さん。二階の書斎を注意して下さい。やっぱりドアを締切しめきって、誰もあすこへ入らぬ様にして下さい。召使の人達にも決してあの部屋へ足踏みせぬ様、きびしくいい渡して下さい。悪くすると、人の命にもかかわる様なことが起るかも知れません」
 明智は、見送る三谷と、廊下を歩きながら、繰返し繰返し、それを注意した。

女探偵


 文代さんにとって、恋人明智小五郎の命令は、絶対のものであった。かつて「魔術師」といわれた怪賊の毒手から、救われた恩義がある。その上に恋だ。
 どういう訳で、何の目的で。そんなことは問う所でない。明智のめいとあらば、火の中へでも飛込むのだ。小林少年が止めても、止まらなかった筈である。
 彼女は何の躊躇ちゅうちょするところもなく、迎えの自動車に乗った。そして、その行先が、思いもよらぬ、両国の国技館であることを知った時にも、さしてあやしみはしなかった。日頃突飛とっぴなことには慣れっこの探偵助手だ。
 国技館前で、車を降りると、一人の見知らぬ男が、彼女を待受けていた。彼はちゃんと二枚の切符を用意して、先に立って改札口を入って行く。
 黒の背広、黒の外套、黒ソフト。黒ずくめの地味な風体。その外套の襟を立て、ソフトのひさしを下げて、顔を隠す様にしている上、大きな黒眼鏡と、鼻まで隠れるマスクの為に、容貌もはっきりは分らぬ。
 ヨチヨチ歩く所を見ると、非常な年寄りの様でもあり、物腰のどこやらに、隠しても隠し切れぬ、精悍せいかんな所もある。何とも異様な人物だ。
「明智さんの助手の文代さんというのは、あなたですね。私は今度の事件で、明智さんと一緒に働いているものですが、今明智さんは、この中で、ある人物を見張っていて、一寸手が離せぬものだから、私がお迎いに来たんですよ。非常な捕物です」
 改札口を入って、少し歩くと、男は、マスク越しに、甚だ不明瞭な口調で、自己紹介をした。
 文代は叮嚀ていねいに挨拶を返したあとで、
「やっぱり畑柳さんの……」
 と尋ねて見た。
「無論、それです。だが、まだ警察には知らせてないのです。この人達にもないしょですよ。沢山の見物人達に騒がれては、かえって鳥を逃がしてしまいますからね」
 男は声を低めて、さもさも一大事という調子だ。
 まだ電燈がついたばかり、太陽の残光と、電燈とが、お互に光を消し合っている、大禍時おおまがどき。その中に、黒い怪鳥けちょうの様な男の姿が、いとも不気味に見えたものだ。
「では、早く明智さんに会わせて下さいまし」
 文代はふと「唇のない男」を思出した。彼女は昼間の事務所での、三谷と明智との会話を聞いた訳ではないのだから、読者諸君程は、その怪物のことを知らなかったけれど、新聞記事を記憶していたのか、何となく、今目の前に立っている男が、その怪賊ではないかという様な気がしたのだ。
「イヤ、せくことはありません。賊は明智さんが見張っているのです。もう捕らえたも同然です。それについて、あなたのお力を借りなければならぬのですがね。つまり、美しい女の魅力という奴ですね。さいわい、相手はあなたの顔を知らぬ。そこで、あなたの御助力で大袈裟な騒ぎをしないで、賊をこの雑踏の中から、おびき出そうという訳です」
 二人はボソボソと囁きながら、蝸牛かたつむりの殻の様に、グルグル曲った、板張りの細道を、奥へ奥へと歩いて行った。
 両側には、菊人形の様々の場面が、美しいというよりは、寧ろ不気味な、グロテスクな感じで、並んでいた。そして、むせ返る菊の薫りだ。
 文代は、段々男の言葉を信じなくなっていた。恐ろしい疑いが、黒雲の様に、心の中に群がりいていた。
 併し、彼女は、それだからといって、逃げ出そうとする様な、意気地なしではない。彼女こそ名にし負う怪賊「魔術師」の娘だ。謂わば和製女ヴィドックなのだ。若しこの男が、例の唇のない怪物であったら、予期せぬ手柄が立てられぬものでもない。彼女は寧ろ、この好機会を喜んだ。
 はかられたと見せて、却て敵を謀るべき策略が、この時既に彼女の胸中に湧き上っていた。
 行く程に、菊人形の舞台は、一つごとに大がかりになって行った。
 丹塗にぬり高欄こうらん美々びびしく、見上げるばかりの五重の塔が聳えている。数十丈の懸崖を落る、人工の滝つ瀬、張りボテの大山脈、薄暗い杉並木、竹藪、大きな池、深い谷底、そこに天然の如く生茂る青葉、薫る菊花、そして、無数のいき人形だ。
 あの大鉄傘の中を、或は昇り、或は下り、迂余曲折うよきょくせつする迷路、ある箇所は、八幡の藪不知みたいな、真暗な木立になって、鏡仕掛けで隠顕する、幽霊まで拵えてある。
 明治の昔、流行した、パノラマ館、ジオラマ館、メーズ、さては数年前滅亡した、浅草の十二階などと同じ、追想的な懐かしさ、いかもので、ゴタゴタして、隅々に何かしら、ギョッとする秘密が隠されていそうな、あの不思議な魅力を、現代の東京に求めるならば、恐らくこの国技館の菊人形であろう。
 支那人の帽子のお化けみたいな、べら棒に大きな、しかも古風な大建築そのものが、既に明治的グロテスクである。
 文代は嘗つて「魔術師」の娘であった丈けに、賊が(今肩を並べて歩いている男が、その賊であるかも知れないのだが)この場所を選んだ、すばらしい機智に、驚歎しないではいられなかった。
 古くはユーゴーの佝僂男が巣食っていたノートルダム寺院、近くはルルウの髑髏どくろ怪人が身を潜めていた巴里パリのオペラ座などに比べても、決して劣らぬ秘密境である。
 おわんをふせた様な、唯一室の丸屋根の下は、これ以上複雑に出来ぬ程、複雑に区切って、その中を上に下に、右に左に、のたうち廻る迷路の細道だ。しかもそれで一杯になっているのではない。ここかしこに、見物の通れぬ裏通りが出来ている。芝居の奈落ならくみたいな所、がらくた道具を積上げた物置様の箇所。
 通路の所々に開いている、非常口の扉の奥を覗いて見ると、薄暗い、舞台裏の長廊下を、係員などが、物の怪の様に、さまよっているのが、不気味に眺められる。
 若し兇悪な犯罪者があって、この迷路の中へ逃げ込んだなら、一月でも二月でも、安全に隠れていることが出来るかも知れない。
 張りボテの山、本物の森林、菊人形の背景の建物、実に無限の隠れ場所がある上に、数限りない等身大の生人形、それに一つヒョイと化けて、薄暗い菊の茂みに、何食わぬ顔をして立っていることも出来るのだ。
 それはさておき、今、文代と例の怪人物とは、両側に満開の桜の山をしつらえた、義経千本桜の生人形の場面を通りすぎていた。
「生人形という奴は、何だか本当に生きている様で、薄気味の悪いものですね」
 男はマスクの下から、呑気のんきに話しかける。
「アノ明智さんは、一体どこにいらっしゃるのでしょうか」
 文代は薄々うすうす明智がいるなんて、うそぱちだと感づいていたけれど、さも気掛りらしく、尋ねて見る。
「もうじきですよ。もうじきですよ」
 男はそう答えながらも、なぜかソワソワし始めた。そして、しきりと外套の右のポケットを気にしている様子だ。ともすれば、文代に気づかれぬ様に、そこへ手をやって、何か中にあるものを確めて見る。
 文代は、見ぬふりをして、ちゃんと見ていた。
 若しやこの男、ピストルを持っているのではあるまいか。人工瀑布ばくふに水を上げる為のモーターポンプが、やかましく轟き渡っている中で、ピストルを打ったとて、誰も気づきはしないだろうと思うと、流石に薄気味悪くなって来た。
「ホウ、これは凄い」
 男が驚きの声を上げたので、ふと見上げると、生茂った造花の桜の枝越しに、菊人形のきつね忠信ただのぶの青白い顔がすぐ頭の上に漂っていた。
「マア怖い」
 文代は実際以上に怖がって見せて、マスクの男によろけかかった。
「怖がることはありません。人形ですよ。人形ですよ」
 男は文代の背中に手を廻し、彼女を抱きしめる様にした。
「もういいんです。でも、本当にゾッとしましたわ」
 文代は男から離れて、外套のポケットに入れた左手の先に、注意を集中した。
 彼女は咄嗟の間に、男がポケットに忍ばせていたものを、抜取ったのだ。手触りで、ピストルでないことが分った。金属性の、シガレット・ケースを少し大きくした様なれものだ。
 相手に悟られぬ様、外套のポケットの中で、そのケースを開き、指先で探って見ると、水にひたしたガーゼ様のものに、ヒヤリと触った。
 その指先を、ポケットから出して、何気なく顔の前に持って来る。一種異様の不快な匂い……確に麻酔薬だ。ピストルよりも、ずっと恐ろしい武器だ。
 曲者は、美しい文代さんを、一思いに殺すのではなくて、麻酔薬で意識を奪って置いてどうかする積りに違いない。
 この男を警官に引渡すのは訳はない。だが、それでは、相手の真意が分らぬ。麻酔薬を持っていたからといって、必ず危害を加えると極ったものではない、どうしてやろうかしら?
「何を考えていらっしゃるのです」
 男は不審らしく、文代の顔を覗き込んだ。
「イイエ、何でもないのです。アノ、わたしちょっと……」
 文代の視線をたどると、通路から少し引込んだ所に、化粧室のドアが見えた。
「アアそうですか。どうか」
「アノ、すみませんけれど、これ持ってて下さいませんでしょうか」
 文代は毛皮でかさばった外套を脱いで、男に渡した。麻酔薬のケースは、とっくに、外套のポケットから、ハンドバッグへと移し換てある。
 男は両手を差出して、大切そうに外套を受取った。
 日頃の文代さんに似合わしからぬ、不躾ぶしつけなやり方である。が、その実は、こうして、男の手をふさいでおいて、彼女が化粧室に入っている間、例のケースが紛失したことを気付かせまい策略であった。
 第一化粧室へ入るというのも、彼女にその必要があった訳ではない。ただ、男の目の届かぬ場所で、ケースの中味をすり変える為だ。
 彼女は、化粧室に隠れると、手早く、麻酔薬のしみこんだガーゼのかたまりを捨てて、その代りにハンカチを引裂いて、手洗場の水にぬらし、ケースの中へ押し込んで、何食わぬ顔をして、男の側へ帰って来た。
「どうも、済みません」
 彼女は、ちょっと恥らって見せて、男から外套を受取ったが、その拍子に、例のケースを、相手の外套のポケットへ、ソットすべりこませたのは、いうまでもない。
 また肩を並べて少し歩くと、通路の壁に「非常口」と貼紙のしてある箇所へ来た。
「こちらです。この中に明智さんが待っているのです」
 そういって、男が、壁と同じ模様の、隠し戸みたいな、小さな扉を押すと、無論鍵なんかかけてないので、なんなく開いた。
 扉の向うには、薄暗い、芝居の奈落の様な感じの長い廊下が見える。
 その廊下に、また小さな扉があって、そこをくぐると、六畳敷程の、殺風景な小部屋だ。
 一方の壁に、夥しいスイッチが列をし、束になった電線が、ウネウネ這い廻っている様子で、それが、この建物全体の電燈を点滅する、配電室であることが分った。
 配電室といっても、開館と同時に、全部の電燈を点じ、閉館の時、その大部分を消せばよいのだから、電気係は、ここに詰切っている訳ではないのだ。
 マスクの男は、文代が部屋に入るのを待って、ピシャリ扉を閉め、どうして手に入れたのか、ポケットから鍵を出して、錠をおろしてしまった。
「アラ、何をなさいますの? ここには明智さんなんて、いないじゃありませんか」
 文代は非常に驚いたていで、男の顔を見つめた。
「フフフフフフ、明智さんですって? あなた、本当にあの人が、ここにいると思ったのですか」
 男は薄気味悪く笑いながら、落ちつき払って、そこに転がっていた何かの空箱に腰をおろした。
「では、どうしてこんな……」
 文代は、配電線の前に立ったまま、恐怖に耐えぬものの如く、声を震わせて尋ねた。
「お前さんと、さし向いで、話がして見たかったのさ。ここはね、俺の隠れがなんだ。誰も邪魔をするものはありやしない。電気係の奴は、ちゃんと買収してあるから、仮令ここへやって来ても、お前さんの味方はしやしない。……フフフフフフフ、流石の女探偵さんも、驚いた様だね、なんてうまい隠れがだろう。いざという時にや、スイッチを切って、場内を真ッ暗にしてしまえば、つかまりっこはないのだからね」
 男は猫が鼠を楽しむ様に、ジロジロと美しい獲物を眺めながら、舌なめずりをしていった。
「すると。あなたは、若しや……」
「フフフフフフフ、気がついた様だね、だが、もう手おくれだよ。……如何にも御推察の通り、俺はお前さん達が探している男なんだ。お前さんの旦那の明智小五郎というおせっかいものが、血眼ちまなこになって探し廻っている男なんだ」
「では、昼間、ドアの下から、あの恐ろしい手紙を入れて行ったのは……」
「俺だよ。……今、あの手紙に書いて置いた約束を、果しているのさ。俺は約束は必ず守る男だからね」
「で、どうしようというのです」
 文代はきっとなって、男を睨みつけた。
「サア、どうしようかな」男はさもさも楽し相に、「俺は明智の奴をこらしてやればいいのだ。お前さんを人質にとって、あいつを苦しめてやればいいのだ。併しね、そのお前さんの美しい顔や身体を見ていると、また別の望みが湧き上って来るのだよ」
 文代は、ギョッとした様に、身をかたくして、配電盤によりかかったまま、黙っていた。
 男は黒い眼鏡越しに、彼女のよく似合った洋服姿を、める様に見上げ見下しながら、これも物をいわなかった。
 長い間、息づまる睨み合いが続いた。
「ホホホホホホホ」
 突然、文代は気でも違った様に、笑い出したので、今度は、男の方はギョッとして相手の顔を見つめた。
 文代は、本当に気違いになってしまったのか、そんな際にもかかわらず、呑気ないたずらを始めたのだ。
 彼女は、建物全体の電燈を点滅する、大元のスイッチの把手ハンドルを掴むと、滅茶滅茶に、切ったりつないだり、おもちゃにした。パチパチと、青白い火花が散った。
 男はそれを見ると「アッ」と叫んで、いきなり飛びかかって行って、文代を抱きすくめてしまった。
「貴様、なにをするのだ」
 男は文代を羽交締はがいじめにして、肩越しに彼女の顔を覗きこみながら、熱い息でいった。
「なんでもないのよ。ただ、ちょっと……」
 文代は抱きすくめられたまま平気で答える。
「貴様、笑っているな。どうして笑えるのだ。誰かが救いに来るとでもいうのか」
「エエ、多分……」
「畜生、誰かと約束がしてあったのか、手筈が出来ていたのか」
 文代は落ちつき払っているので、男の方で、気味が悪くなって来たのだ。
「お前さん電信記号を知らないのね」
 文代はまだ笑っている。
「電信記号だと。それがどうしたのだ」
 男はびっくりして尋ねた。
「あたしを、配電室なんかへ、連れ込んだのが、失策だったわね」
ぜだ」
「あたし、電信記号を知っているのよ」
「畜生め、すると、今のあれが?」
「そうよS・O・Sよ。何千人という見物の中に、あの簡単な非常信号を読める人が、一人もいないって訳はないと思うのよ」
 さっき彼女がスイッチを切ったりつないだりしたのは、無意味ないたずらでなくて、救助を求める信号であったのだ。場内全体の電燈が、パチパチと点滅してS・O・Sをくり返したのだ。
小女郎こめろうの癖に、味をやったな。……だが、そんなことでへこたれる俺だと思うか」
 もうぐずぐずしてはいられぬ。男はポケットから麻酔薬の容器を取出した、愈々いよいよ最後の手段である。
「あたしを、どうしようっていうの」
 文代はわざと驚いて見せる。
「その可愛い舌の根をとめてやるのさ。貴様を身動きの出来ない人形にしてやるのさ」
 男は容器から濡れた白布のかたまりを取出して、いきなり文代の口をふさごうとした。彼はそれが、とっくに贋物に変っているのを、少しも気附かぬのだ。
 文代は、じっとしていても、別に危険はなかったのだけれど、この機会に男の顔を見てやろうと、烈しく抵抗を始めた。
 マスクの怪物と、洋装の美女との、世にも不思議なアパッシュ・ダンスだ。
 文代のしなやかな身体が、なまめかしいけだものの様に、すり抜けては逃げ廻るのを、男は息遣いはげしく、追いすがった。
 だが、女の腕が、そうそう続くものではない、遂に文代は部屋の隅に追いつめられた。
 彼女はそこへ蹲ってしまった。
 顔の前で、四本の手が、めまぐるしく、もつれ合った。
 とうとう、白い冷いものが、彼女の口と鼻とを押さえつけた。
 と同時に、彼女の手は、男のマスクにかかっていた。力まかせに、グッと引張ると、ひもが切れて、マスクが彼女の手に残った。男の鼻から下が、むき出しになった。
「アラッ!」
 文代が非常に驚いて、押しつけられた白布の下で叫んだ。
 彼女は何を見たのか。唇のない赤はげの顔であったか。だが、彼女はそれを予期しなかった筈はない。今更、こんなに驚くというのは変だ。
 それは兎も角、この場合、危急を脱する為には、一応意識を失って見せなければならぬ。賊は彼女の顔に押しつけたものが、麻酔薬だと信じ切っていたのだから。
 文代は目をつむって、グッタリと、動かなくなった。
「骨を折らせやがった」
 男は呟きながら、マスクの紐をつないで、顔を隠し、死んだ様になった文代を、小脇に抱て、扉を開くと、薄暗い廊下へと姿を消した。

お化人形


 何段返しとか称する、余興舞台の前の広っぱには、数百人の群集が、この館専属の少女達の素足踊りを見上げていた。
 靴下の代りに、肉色の白粉を塗った、ムチムチと肥った素足共が、紡織機機械の様に、ピョコンピョコンと、お揃いで、客の前へ飛上った。
 踊りなかばに、突然、パッと電燈が消えた。
 最初は誰も怪しまなかった。目まぐるしく背景の変る、この見世物みせものは、その転換の度毎に、電燈を消すことになっていたので、見物達は、アア、また背景が変るのかと、思ったのだ。
 ところが、一向舞台が動く様子はなく、踊子達も、立ちすくんでしまったまま、電燈丈けが、一斉にパチパチ、パチパチお化けみたいに、ついたり消えたりしている。
 踊子達の面くらっている様子が、滑稽こっけいに見えたので、見物席にワーッとどよめきが起った。
 がそれもつかで、今にも消え相にパチパチやっていた電燈が、パッと明るくなるともう何事も起らなかった。
 舞踊は続けられた。見物は安心して、また少女達の素足に見入った。
 だがその見物の中にたった一人、今の電燈明滅の意味を悟って、非常に不安を感じた青年があった。
 彼はもう、素足の美しさなんか、目に入らなかった。青ざめて、キョロキョロして、係員を探す為にあちこちと歩き廻った。
 見物席の一隅に、制服制帽の場内整理係の男が立っていた。青年はその男を捉えて、どもりながらいった。
「この舞台の照明係はどこにいるのです。その人に会わせて下さい」
「仕事中は面会させないことになっています」
 男はぶっきら棒に答えてわきを向いた。
「イヤ。是非会わせて下さい。何かしら非常な事が起っているのです。君は、今電燈が消えたのを、停電かなんかだと思っているでしょうが、あれは恐ろしい信号です。救いを求める非常信号です」
 係の男は、青年の昂奮した顔を、ジロジロ眺めていたが、黙ったまま、ノソノソと、その場を立去ってしまった。気違いだと思ったのであろう。
 青年は、仕方がないので、その辺に立っていた見物人を捉えて、今の電燈信号の意味を、クドクド説明したが、誰も取合うものはなかった。
「百姓、だまれ!」
 熱心な見物は、耳ざわりな話声に腹を立てて、呶鳴り出した。
 青年は取りつくしまがなかった。彼はとうとう、泣き出し相になって、何か訳の分らぬ事をわめきながら、出口の方へ走って行った。
 文代の折角の思いつきも、かくして、無駄に終ったのであろうか。
 如何にも、場内には、信号の分るものは、外に一人もいなかった。だが、場外に、国技館目がけて疾走する自動車の中に、我が明智小五郎がいた。彼は当然、走る車の窓から、あの巨大な丸屋根に輝くイルミネーションを見つめていたのだ。
 その時、彼等の自動車はまだ浜町はまちょう辺にさしかかったばかりであったが、国技館の丸屋根はどんな遠方からでも見通しだ。
 真黒な大空に、ベラ棒に大きな、支那人の帽子みたいな、丸屋根を縁どって、輻射状の、異様な星がつらなっていた。
 アア、何という物凄い光景であったか。その星共が、パチパチ、パチパチと、ある拍子を取って、一斉に瞬いたのだ。S・O・S……S・O・S……と。
 明智は、直にその恐ろしい意味を悟った。やみの大空に、文代さんの、のたうち廻る、巨大な幻影が明滅した。
「運転手君、フル・スピードだ。僕が責任を持つ。四十マイル、五十哩、出せるだけ出してくれ」
 明智は、殆ど肉体的苦痛を感じて、叫んだ。
 丁度その頃、国技館の事務所では、この興行を預かる、支配人のS氏が次々とかかって来る、不思議な電話に、面くらっていた。
 最初の電話は、いま帰省中の、ある船会社の電信技師からであった。
「私の二階から国技館の丸屋根のイルミネーションがよく見えるのですが、今し方、あの電燈が変な風に明滅しました。お気づきでしょうか。難破船から救助を求める時に使うS・O・Sを三度も繰返したのです。電気係なんかのいたずらかも知れませんが、少しいたずら過ぎると思います。それとも何か特別の事件でも起ったのではありませんか。念の為に御注意します」
 というのだ。
 暫くすると、今度は水上署すいじょうしょから、同じ様なお叱りの電話、続いて、誰かが報告したと見えて、所轄警察署からもお小言が来るという始末だ。
 明智小五郎が到着して、支配人のS氏に刺を通じたのは、丁度その騒ぎの最中であった。
 S氏は愈々ただ事ではないと、青くなって、兎も角も、有名な素人探偵を、事務室へしょうじ入れた。
 明智は委細いさいを語って、一応配電室を検べて見たいと申出でたので、S氏は直接彼をそこへ案内したが、無論、その時分には、部屋は空っぽ、何の異状もない。
 配電係を探し出して、明智自身で、根掘葉掘り、尋ねて見ると、遂に隠し切れず、妙なマスクの男に、多額の礼金を貰って、配電室の鍵を貸たことを白状した。
「やっぱり、この部屋で、何事かあったのです。あの信号をしたのは恐らく、とじこめられた被害者でしょう。私は、その被害者の文代という婦人が、電信の技術に通じていたことを知っているのです」
 明智は心配に額をくもらせて、いらだたしくいった。
 にわかに騒ぎが大きくなった。直に警察へ電話がかけられ、係員達は、ある者は出入口に飛んで、出入の見物人に眼を光らせ、ある者は、広い場内を右往左往して、それらしい風体の人物を探し廻った。
 やがて所轄警察から、数名の警官がけつけたが、協議の結果、最早九時の閉館に間もないので、見物が残らず立去るまで、手分けをして、各出入口を、厳重に見張ることとなった。
 九時三十分、見物は一人残らず、帰り去った。場内売店の売子、俳優、道具方、その他下廻りの係員達も、ほとんど帰宅した。
 だが、不思議なことに、マスクの男も、文代らしい洋装の女も、どの出入口にも姿を現わさなかった。
 残ったのは、支配人を始め二十人程のおもだった係員、十名の警官、それに明智と小林少年である。
 各木戸口、非常口は、厳重に戸締りをした上、一人ずつ警官の見張りがついた。
 そうして置いて、残る二十何人が、もう一度、夫々それぞれ受持区域を定めて、場内隈なく検べ廻ったが、どこの隅にも、人の影さえなかった。
「これだけ探してもいない所を見ると、曲者はとっくに、外へ出てしまったのでしょう。あの大勢の見物人の間に混っていますと、いくら注意して見張っていても、見逃すということもありましょうからね」
 警官隊を引きつれて来た老警部が、あきらめた様にいった。
「イヤ、僕にはどうもそう思えないです」
 明智が反対した。「賊は文代さんを、態々ここへおびき出したのです。おびき出したからには、この国技館の建物が、ある犯罪を行う為に、特に好都合であったと考えなければなりません。配電室へつれ込むのが、最終の目的ではなかったのでしょう。御承知の通り、あいつは殺人鬼なのです。仮令賊はここから逃げ出したとしても、被害者か、或は……被害者の死骸が、場内のどこかに隠されている筈です」
 更に協議の結果、今度は手段を変えて、警官達は、各出入口に集まり、明智と小林少年と二人丈で、足音を盗み、耳をすまして、広い場内を一巡して見ることにした。
 もう捜索を断念したと見せかけ、相手が油断をして、姿を現すか、物音を立てるのを待って、引捕えようというのだ。
 その頃には、騒ぎを聞きつけて、土地の仕事師連中が事務所へつめかけていたので、万一の為に、その人々の手で、ピストルが用意され、明智も小林少年も、それを一挺ずつポケットにしのばせて、最後の捜索にと出発した。
 電燈はまだつけたままになっていたが、明るければ明るい程、人気のない、ガランとした場内は、異様に物淋しく、不気味であった。
 今や場内ひっくるめて、何百体という、人形共の天下であった。
 彼等は、誰も見ていない時には、コッソリあくびをしたり、小声で話し合ったりするのではないかと思われた。
 その中を、たった二人で歩いている人間は、却て人形共に眺められ、批判されている様で、薄気味が悪かった。
 じっと見ていると、どの人形も、どの人形も、夫々のポーズで、ひそかに呼吸し、瞬きさえした。
 彼等に賊の行方を尋ねて見たら「ホラ、そこにいるじゃないか」と教えてくれたかも知れないのだ。
 捕物の経験を持たぬ小林少年は、いくら力んで見ても、ゾクゾクとこみ上げて来る恐怖を、どうすることも出来なかった。彼はポケットのピストルを握りしめて、力と頼む明智のうしろに、より添う様にして歩いて行った。
 やがて、二人は、場内で一番薄暗い、見上げる様な並木と、竹藪とにとり囲まれた箇所へ、進み入った。
 作り物である丈けに、本当の森林よりも、却て妙に恐ろしかった。その上、思いもかけぬ木蔭から、生々しい人形の首が、ニーッと覗いていたりするので、まるで化物屋敷へ迷い込んだ感じである。
 その森の中で、先に立って歩いていた明智が、ふと足を止めて、向うの暗闇を覗くようにしたので、少年もギョット立止って、怖々こわごわすかして見ると、ボンヤリと、妙な所に、妙なものが突立っていることが分った。
 その辺は一体、歌舞伎劇になぞらえた菊人形の舞台なのに何を間違えたのか、防寒外套に身を包み、毛皮裏の頭巾をスッポリと冠った、陸軍士官が、杉の大木に凭れてヒョイト立っていたのだ。
「変だな」と思いながらも、併し、まさかそれが、生きた人間とは知らぬので、何気なく通り過ぎ様とすると、その士官が、機械仕掛けの様にツート動き出して、明智の行手に立ちふさがり、アッと思う間に、彼の手を握ったかと見ると、いきなり耳に口を寄せて、何事か囁いた。
 小林少年は、ゾッとして、思わず逃げ腰になったが、見ると、士官人形は、そのまま、フワフワと風みたいに、先に立って歩いて行く。明智はそれを引捕え様ともせず、平気で、あとからついて行く。
 何が何だか分らぬけれど、少年は、明智の様子に安堵あんどして、兎も角、あとに従った。
 少し行くと、「清玄庵室」の不気味な場面がある。
 立ち並ぶ杉木立の、殆ど真暗な中に、破れすすけた庵室が建っている。その庭先の、雑草生い繁った地面に、桜姫の人形が、物におびえた青ざめた表情で樽り、顔の部分丈けが、薄暗い電燈に照らされている。
 士官人形は、その桜姫の前で、立止った。闇の中に彼のおぼろな影が、右手を上げて、何かを指さしているのが、やっと見わけられる。
 不気味に明滅する、非常に薄暗い電燈のせいもあった。また、その人形がことによく出来ていたからでもあろう。清玄の亡霊におびえた桜姫の顔は、まるで生きている様に見えた。
 イヤ、もっと正確にいうならば、本当の人間の死に顔にそっくりであった。
 ただ驚き恐れているのではない。断末魔の苦悶の形相だ。残酷に殺害された女の、死の刹那の表情だ。
 小林少年は、心臓が喉の所へ押し上って来る様な、苦悶を感じた、恐ろしいものを見たのだ。余りの恐ろしさに、その発見を、明智に告げることさえ、憚られる様なものを見たのだ。
 膝をついた桜姫の胴体は、すっかり菊の葉で包まれていたが、その感じがどこか、他の人形と違って見えた。表面が滑かでない。引きちぎった菊の枝を、不細工に覆いかぶせた感じで、ある部分はひどく密集しているかと思うと、ある部分は、はげた様に隙間だらけだ。
 その隙間から、何か嚥脂えんじ色のものが、チラチラ見えている。確かに洋服の布地だ。人形が菊の衣の下に、御叮嚀に洋服を着ているというのは変である。
 イヤ、そればかりではない。桜姫のかさばった濡羽色ぬればいろの鬘の下から、覗いているのは、赤茶けた現代娘の髪の毛だ。
「若しや、あれは、賊が文代さんを殺して、巧に人形に見せかけたものではあるまいか」
 小林少年は、悪夢にうなされているような気がした。
 そうでなくて、菊人形が、菊の下に洋服を着ていたり、鬘の中に、別の色の洋髪が隠れていたりする筈がない。それに、あの洋服は、文代さんの外出着と、全く同じ色合ではないか。
 少年は、極度の恐怖に、釘づけになった目で、人形を見つめながら、明智の腕を掴んだ。
 明智は、無論その心を察したけれど、彼はその時、小林少年の恐怖にとり合っていられぬ程、もっと重大なものを発見していたのだ。
 奇怪な士官人形の指さしている所、庵室の舞台の奥の暗闇に、ボンヤリと白張りの提灯ちょうちんが立っていた。
 その提灯が、今徐々に、何かしら別のものに変りつつあるのだ。
 化物屋敷の見世物に、よく使われる、鏡仕掛けのトリックであることが容易に想像された。その白張りの提灯が、ぼかす様に、清玄の亡霊に変って行くことも予想された、だが、……
 提灯がボーッと霞んで行くあとから、それに入れ代って、幽かに現れて来た人の顔は!
 扮装は確に清玄だ。蓬々ぼうぼう伸びた頭髪、鼠色の着付、芝居でお馴染なじみの清玄に相違ない。それにしても、清玄には唇があった筈だが。
 今、現れた人の顔には、唇がない。骸骨そっくりだ。
 アア、何という隠れ場所であったか。どこを探しても、賊の姿がなかった筈だ。彼は竹藪の奥の暗闇で、清玄の亡霊になりすましていたのだ。
 文代を桜姫になぞらえ、自ら清玄に扮した思いつきには、ゾッとする様な、犯罪者のいびつな誇示こじがあった。
「音を立てぬ様に、ソッと忍びよるのだ。ピストルを持って。だが、撃ってはいけないよ」
 明智が、小林少年の耳に口をよせて、あるかなきかの声で囁いた。
 二人は柵を越えて、竹藪の中へ入って行った。
 相手は鏡に写っているのだ。本物がどの辺にいるのか、ちょっと見当がつかぬ。その代りに相手の方からは、薄暗いこちらの様子は見えぬ便宜がある。音さえ注意すればよいのだ。
 唇のない清玄は、進むにつれて、不気味に宙に漂って、フワフワとこちらへ迫って来る。

離れ業


 暗闇を進んで行くと、鏡の少し手前で、真黒な、大きな箱の様なものに行当った。
 賊はその箱の中に立っていて、電燈の自動明滅によって、鏡の表に、現われたり消えたりしている。
 敵は、箱の板張り一枚を隔てて、すぐ目の前に、立っている。袋の鼠だ。
 ところが、その大切な場合に、非常に拙いことが起った。事に慣れぬ小林少年が、何かにつまずいて、その黒い箱へ、ちょっと寄りかかったのだ。
 別に音を立てた訳ではないけれど、ほんの少しばかり、箱が揺れた。神経の鋭くなっている賊が、それを感じぬ筈はない。
 鏡に写っている怪物の影が、異様に動いたかと思うと、鏡と箱との隙間から、本物の恐ろしい顔が、ヒョイと覗いた。
 アッと思う間に、黒い箱が、ユラユラと揺れて、明智の前に倒れて来た。竹藪がパッと明るくなる。箱が上向きに倒れて、内側に仕掛けてあった電燈が、むき出しになったからだ。
 明智は箱の角で、肩を打たれて、思わずよろける。その隙に、怪物は一飛びで、小林少年に飛びかかった。
 と同時に、顛倒した小林が、引金を引いたのであろう、パン……というピストルの音。
 怪物は少しもひるまぬ。ひるまぬどころか、小林の右手にかじりついて、ピストルを奪いとり、それをしつつ、じりじり通路の方へあとしざりを始めた。
 明智は、直ぐ立ち直って、賊を追おうとしたが、まだ煙を吐いているピストルの筒口、それを構えた賊の死にもの狂いな表情を見ると、迂濶に近づくことも、自分のポケットのピストルを取出すことも出来ぬ。
 ためらっている間に、怪物は例の桜姫の人形を、菊の衣からスッポリと、引抜いて、小脇にかかえた。その拍子に鬘が落ちて、現われたのは、案の定、現代娘の洋髪。服装は文代の外出着とそっくりの嚥脂色。
「アッ、文代さんが」
 小林少年の叫声。
 と、またしても恐ろしい、ピストルの音。
 賊は威嚇いかくの一弾を放ったまま、柵を飛び越え、通路を、杉木立の暗闇へと、消えてしまった。
 殆ど一瞬間の出来事であった。
 明智が直に賊のあとを追ったのはいうまでもない。だが、場所は薄暗い杉木立、その向うには、複雑を極めた菊人形の舞台が続いている。隠れ場所も、逃げ路も、無数にあるのだ。
 怪物はどこへ消えたのか、影も形もない。
 さっきの不思議な士官人形も、もうその辺には見えなかった。
 間もなく、銃声に驚いた警官達が、駆けつけて、明智と一緒に、賊の行方を探し廻ったけれど、何をいうにも、複雑な飾りつけをした場所のこと、急に見つかるものではない。
 併し、いくら逃げ隠れたところで、賊は館内から一歩も出られぬことは確だ。出口という出口には、厳重な見張り番が残してあったのだから。
 捜索は執拗に続けられた。張りぼての岩をめくり、板張りの床をはぎ、人の隠れ相な隙間を探し廻った。
 そして、無駄な捜索が、殆ど一時間も続いた頃、どこからか、けたたましい叫び声が響いて来た。
「オーイ、オーイ」と声を限りに呼んでいるのは、小林少年だ。
 何事が起ったのかと、一同が声をたよりに駆けつけて見ると、小林は、菊人形の舞台の外の、薄暗い廊下に立ってしきりと、天井を指さして、譫言うわごとの様に、
「文代さんが、文代さんが」
 と口走る。そこからは、巨大な丸天井の内側が一目に見えるのだが、その天井を支えた、輻射状の鉄骨に、何かしらブラ下っているのが薄ボンヤリと、小さく見える。確に人間だ。しかも洋装の婦人である。
 菊人形の舞台全体を覆うて、青空の感じを出す為めに、一面の空色の布が張りつめてあったから、直接の光線はなかったけれど、少し青味がかった、もやの様な光りが、巨大な丸天井を、奇怪な夢の景色の様に、ぼかしていた。
 べら棒に大きな、傘の骨みたいに、輻射状に拡がった鉄骨を、じっと見つめていると、フラフラとめまいがする様だ。非常な高さと、非常な広さが、いい知れぬ恐怖を誘う。
 その鉄骨の頂上に近い部分に、一人の洋装婦人が、豆粒の様に、ぶら下っているのだ。
 洋服の色合から、さっき賊が小脇に抱えて逃げた桜姫の人形であることは一目で分った。桜姫は即ち文代さんだ。賊は意識を失った文代さんを、途方もない高所へ運んで、戦慄すべき軽業を演じさせたのだ。
 併し、なぜそんな馬鹿馬鹿しいことを思いついたのか。あの高所へ人間一人運び上げるのは並大抵の苦労ではない。なぜそんな無駄骨を折らねばならなかったか。
 丸天井の頂上には、ポッカリと丸いあながあいていて、その外に、別の小さな屋根が塔の格好でとりつけてある。つまり一種の通風孔なのだ。
 賊はその通風孔から、屋根の上へ、文代さんを連れ出そうとしたのかも知れない。連れ出して、どうしようというのか、それから先の見当はつかぬけれど、文代さんがあんな所にブラ下っている所を見ると、そうとしか考えられぬ。
 賊が態々運び出そうとしたからには、文代さんは、殺されたのではない。一時気を失っているのだ。そうでなくて、どんな美しい娘にもせよ、死骸などに用のある筈はないのだから。
 追手の一同は、大体そんな風に見て取った。
 だが、態々あすこまで運んで置いて、中途でその目的を放棄した賊の気が知れぬ。
「賊は今、文代さんをあすこへ引かけて置いて、疲れを休めていたのです。そこへ僕が呶鳴ったものだから、驚いて、支代さんはそのままにして、自分丈け逃げ出してしまったのです」
 小林少年が息をはずませて説明した。
「どこへ? 屋根の外へか?」
 警官の一人が叫んだ。
「そうです。あの丸い孔から、外へ這い出したのです」
「誰か、あすこへ昇って、婦人を助けるものはないか」
 主だった警官が、追手の人々を顧みて呶鳴った。
 追手の中には、二三人、国技館に出入りの仕事師が混っていた。
「あっしが、やって見ましょう」
 威勢のよい法被はっぴ姿が、人々をかき分けて、進み出たかと思うと、もうそこの柱によじ昇り、柱の頂上から鉄骨へと飛び移り、見事な軽業を始めていた。
 若しその場に、明智が居合わせたならば、きっとこの仕事師を引き止めたのであろうが、少し前から、どこへ行ったのか、その辺に彼の姿は見えなかった。警官達も小林少年さえも、激情の余り、それを少しも気づかぬのだ。
 若者は、見る見る、長い鉄骨のなか程まで這い上ったが、流石に疲れたのか、徐々に速度がにぶって来た。
 無理もない。もうその辺は、真っ逆様に、天井を這うも同然の、危険な個所なのだ。
 その時、恐ろしいことが起った。
 頂上の丸い通風孔から、チラッと小さな顔が覗いたのだ。まるで蛇が石垣の間から、鎌首を覗かせる様に。
 賊だ。彼はまだ通風孔の真上に、様子をうかがっていたのだ。
 人々は、余りの不気味さに、思わず「アッ」と声を立てないではいられなかった。
 蛇の頭の様な、怪物の顔は、チラッと覗いたかと思うと引込み、また覗いたかと思うと引込んだ。
 若しその顔が――唇のない顔が――活動写真の様に、クローズ・アップ出来たら、定めし一層恐ろしかったであろうけれど、幸、そこは、めまいがする程、遙かなる高所だ。ただ、ほの白いものが、チラ、チラと見え隠れするばかりである。
 だが、賊は飛道具を持っている。昇って行く若者を狙い撃ちに、射落すのは訳もないことだ。
「オーイ、用心しろ。上から覗いているぞ。ピストルを用心しろ」
 誰かが呶鳴ると、その声が、物凄く丸天井にこだまして、ウォーッ、ウォーッと消えて行った。
 若者は、ちょっと下を見たが、「ナアニ」という顔で、なおも上へ上へと、よじ昇る。
 一尺ずつ、文代さんとの距離が縮まって、とうとう、手が届くまで接近した。
 怪物はもう顔を見せぬけれど、若者が文代さんの身体に手をかけたら、一うちに撃ち殺そうと、真暗な孔の外で、待ち構えているのかも知れない。
 無鉄砲な仕事師は、そんなことにお構いなく、鉄骨に足をからんで、火消しの梯子乗りの格好で、両手を離し、文代さんを、宙に抱き取った。
 アア、今にも、今にも、ズドンとピストルの音がして、文代さんを抱いた若者の身体が、もんどり打って、数十丈の地上へと、墜落するのではあるまいか。
 人々は、手に汗を握り、息を呑んで、首が痛くなる程、天井を見つめていた。
 案の定、頂上の丸孔から、真逆様まっさかさまに、怪物の上半身が、ニューッと覗いた。右手が徐々に下へ伸びた。その手先には、ピストルだ。遠くて、見えぬけれど、腕の格好で、それと分る。
「ア、ピストルだ。危いッ」
 思わず異口同音いくどうおんの叫び声。
 若者は、それと気づいて、流石に驚いたらしく、鉄骨にブラ下ったまま、グルッと身もだえをしたかと思うと、アア、何という無茶なことだ文代さんの身体を、楯にして、賊の方へつきつけた。
 と同時に、パン……と、丸天井にこだまするピストルの音。
「ギャッ!」
 という恐ろしい悲鳴。
 人々はドキンとして、思わず顔をそむけた。だが、見ない訳には行かぬ。恐ろしければ、恐ろしい程、自然と、目がその方へ、引きつけられて行くのだ。
 彼等は、ヒューッと風を切って矢の様に落ちて行くものを見た。赤いものだ。文代さんだ。
 気の毒な少女はグルグル廻転しながら、刻々加速度を加えて、まるで赤い棒の様になって、忽ち菊人形の天井の、青い布張りにぶつかり、砲弾の様にそれを打破ったかと思うと、パチャンと不気味な音が聞こえて来た。
「池だ。池へ落ちたのだ」
 誰かが叫んで、もうその方へ階段をかけ降りていた。一同どやどやと、それに続いた。
 空では、仕事師の若者は、別状なく鉄骨にブラ下ったままだ。怪我をした様子はない。ただピストルに驚いて、肝腎の文代さんを取落としてしまったのだ。
 怪物はと見ると、やっぱり、逆様に顔をつき出したまま、若者を睨みつけて、不気味にゲラゲラ笑っているのが、幽かに聞える。
 勇猛な若者は、思わぬ失策に、むかっ腹を立てた様子で、逃げ出すどころか、却って、恐ろしい闘志を見せて、猛然と、怪物へ迫って行った。
 地上の人々は、階段を駆け降り、廊下から、菊人形の中へとなだれ込んで行った。
 折れ曲った通路を、もどかしく走って、文代さんが墜落したと覚しき個所へ急いだ。
 場内中央に人工の滝と、その滝壺に続いて浅い池が出来ている。文代さんが墜落した箇所は丁度その見当に当るのだ。
 人々は迷路みたいに曲りくねった細道を、そこへ走りながら、走っても走っても、走り切れぬ、あのドロドロした悪夢の中を、もがき廻っている様な気がした。
 殺人鬼が、犠牲者を抱いて、丸天井をよじ昇った離れ業。不可能な事ではない。だが、何という途方もない、桁はずれな思いつきだ。
 更に変てこなのは、美しい娘さんが、丸天井のてっぺんにブラ下っていたこと、それが、何かつまらない品物みたいに、投げおとされて、ペシャンコにつぶれてしまったこと。まるで狂人の夢だ。余りの突飛さに、吹き出したい位だ。
 人々は、彼等の目で、たった今ハッキリと見た事柄を、信じ得ない気持だった。何かしら飛んでもない間違いがある様な気がした。
 やがて、彼等は目的の池に到着した。そして、まさかまさかと思っていた事柄が、ちゃんとそこに起っているのを見て、今更の様に、ギョッと立ちすくんだ。
 人工の滝は、モーターを止めたので、もう流れてはいなかった。死の様な静けさ、さも幽邃ゆうすいにしつらえた人造の峡谷、ブリキ細工の奇岩怪石、枝を交えた老樹の影、そこに小波一つ立たぬ黒い池が不気味に黙り返っていた。
 池の真中に、青ざめた顔を上にして、文代さんの死骸が、静かに浮いている。
 嚥脂色の洋服が、奇怪な蓮の花の様に開いて、黒い水の中に、透き通って見える滑かな二の腕、不可思議な藻の様に漂う髪の毛、美しい、陰鬱な、油絵の景色だ。
 ふと一方の岸を眺めると、大きな黒い岩の上、樹木の茂みに隠れる様にして、一人の人物がたたずんでいた。
 カーキ色の軍服、防寒外套を身につけた、美しい女だ。頭巾ずきんをとっているので、豊な髪も、美しい顔もまる出しである。さっきの、異様な士官人形の正体は、この美少女であったのだ。
 彼女は、青ざめて、瞑目めいもくして、池に漂う女の死骸を、とむらっている様子だ。これまた、奇怪なる画面の人である。
 彼女が少しも身動きをしないので、人々は暫く、その存在に気づかなかった。人形共にちたこの場内では、動かぬ人は、人形と誤られることが屡々しばしばであったからだ。
 だが、その中で、小林少年丈けは(先にもいった通り、明智小五郎はそこにいなかったので)軍服の女を見た。アア、さっきの士官人形がいるなと、気附いた、そして、今は、あらわになった、その美しい顔を、ハッキリ見て取った。
「ア、文代さん。文代さんだ」
 彼は歓喜の為に、顔を真赤にして、いきなり軍服の女に駆けよった。
「オオ、小林さん」
 少女は、その声にハッと目を開いて、相手を認めると、両手を拡げて、少年を抱き迎える様にしながら、叫んだ。
「あなた、生きていたんですね」
「エエ、生きていますとも」
「僕もそう思っていたのだ。あなたが、あんな奴にやられる筈はないと思っていたのだ」
 二人は、この人工の大峡谷、奇岩の上、老樹の下に、まるで尋ね合っていた姉弟の様に、思わぬ再会を喜んだ。
 人々は、この異様なる光景にあっけにとられてしまった。何が何だか、さっぱり分らなかった。
 不思議に思った館の係員の一人が、ザブザブと浅い池を渡って、文代と信じていた女の死骸を確めに行った。
「ナーンダ。こいつは人形ですぜ。ほら、六番の舞台に飾ってあった、ダンスの人形ですぜ」
 彼は、死骸の首を掴んで、それをグルグルと廻して見せた。
 文代さんが、いつの間に人形に代っていたのか。それを、賊を初め一同が、どうして本物と間違える様なことが起ったのか。
 文代さんが、賊のポケットの、麻酔薬をしませた白布を、水にぬれたハンカチと、すり換えて置いたことは、前に記した。賊は激情の余り、少しもそれに気づかず、文代さんが麻酔したものと思い込み、意識を失った彼女を桜姫の人形に仕立てるという、気違いめいたトリックを思いついたのだ。
 そして、自分も清玄人形になりすます為に、例の鏡の前の箱の中へ這入っている間に、その実正気の文代さんは、そっと桜姫の体内を抜け出し、近くの舞台に飾ってあったダンス人形を運んで来て、自分の洋服を着せ、桜姫の鬘を冠らせ、菊の衣の中へ埋めて、我が身替をさせたのだ。箱の中で、清玄の役を勤めていた賊は、まさかそんなことが起ろうとは、夢にも思わず、少しもそれを気附かないでいた。
 文代さんは女探偵だ。そのまま逃出すようなことはせぬ。遼陽大会戦の舞台へ走って、一人の士官人形を岩のうしろに隠し、その外套をいで、女士官になりすまし、清玄庵室の前の、老杉ろうさんの木立に身を潜めて、賊を監視していたのだ。
 そこへ明智と小林少年がやって来て、ピストル騒ぎ、賊の逃走となったのだが、賊は折角我物とした文代さんを、そのままにして逃げ去るに忍びず、桜姫の人形を、それがやっぱり人形に変っているとは知らず、小脇に抱えて走った。
 中途人形であることを悟ったけれど、今度はそれを逆に利用して、追手の度胆を抜いてやろうと、軽い人形のことだから、苦もなく鉄骨の上に運び上げ、その頂上にブラ下げて、下界の人々を嘲笑ちょうしょうした。という訳である。
 さて、舞台は再び、丸天井の上に移る。
 文代さんの人形に一杯食わされ、その上、鉄砲玉のお見舞まで受けた、仕事師の若者は、何しろ名うての命知らずのことだから、「なにくそ!」というので、相手が飛道具を持っているのも承知の上、猛然と賊を目がけて突き進んだ。
 頂上の丸孔には、もう賊の姿は厚えぬ。真逆様の不利な位置を捨てて、広い丸屋根の上へ逃げ出したのであろう。
 若者は、軽業師でも震え上る様な、目もくらむ鉄骨の上を、スルスルと進んで、頂上の孔から、屋根の上へと這い出した。
 ゆるい勾配の大円球。もう足場は確だ。「サア来い」と身構えて、あたりを見廻したが、どこへ隠れたのか賊の姿はない。
 屋根を縁取るイルミネーションは、明るいけれど、それが足元から眼を射るので、チロチロして、却って遠くが見すかせぬ。
 と、いきなり起る銃声。夜の大気を切って、耳元をかすめる弾丸。
「畜生め!」
 若者は夢中になって、その方へ飛びつこうと身構えたが、ふと気がつくと、少し向うを、ノタクタと、巨大な蛇の様に這っている洋服姿。
「ウヌ!」
 ひと飛びで、飛びついた。
 大円球上に、死にもの狂いにもつれ合う、二つの肉塊。
「馬鹿野郎、馬鹿野郎」
 暗夜に上る憤怒ふんぬの叫び。その叫び声を空高く残して、もつれ合う二人は、丸屋根の上をゴロゴロと、初めはゆるやかに、徐々に加速度を増して、果ては弾丸の様な早さで、アッと思うまに、風を切って、屋根の外へと転落した。
 しかも、不思議千万なことには、まだ一人、誰か屋根の上に人がいたものと見え、落ち行く二人のあとから、ゲラゲラと、不気味な笑い声が、闇に響いた。

飛ぶ悪魔


 夜更けといっても、国技館前の大通りには、まだ電車や自動車が行き違っていたし、附近の商店は、明々と電燈をつけて商売をしていたし、人道を往き来する人々も、すくなくなかった。
 菊人形の入口に、物々しく見張りを続けている警官の姿、館内を右往左往する、ただならぬ人影、自然、往来の人々の注意をひかぬ訳には行かなかった。
 一人立ち、二人立ち国技館の前は、いつの間にか、黒山の人だかりになっていた。
 そこへ、高い丸屋根の上から、響いて来る、罵り声。びっくりして見上げる空から、とっ組み合った人間の雨だ。
「ワーッ」
 と上るときの声、気の弱い連中は、悲鳴をあげて逃げ出すので、人波が右に左にもみ返す。
 屋根から転落した二人が、そのまま地上へ落ちたならば、無論命はなかったであろうが、あの建物は、屋根の下に、複雑な出っ張りが出来ている。彼等は、とっ組み合ったまま、その出っ張りの一つに落ちたのだ。
 命は助かった。だが、急に起き上る元気はない。両人とも、そこにへたばったまま「馬鹿野郎、馬鹿野郎」と罵る声が降って来るばかりだ。
 あの狭い棚のような場所で、争いを続けたなら、負けた方が、今度こそ、真逆様に、地面へ墜落して、命を失うは必定ひつじょうだ。
 黒山の見物人には、人の姿は見えぬけれど、罵り合う声で、二人が危険な争いを続けていることが分るので「あぶない、あぶない」とわめき立てる声が、嵐の様にわき返る。
 やがて、その事が館内に伝えられ、なだれを打って、飛び出して来た一群の人は、さい前館内で、賊を追っかけた警官、係員、仕事師などの連中だ。その中に、異様な軍服姿の文代さんや、小林少年もまじっていた。
 館内から、長い梯子が持出され、二人の争っている、棚の様な個所へかけられた。
 二三人の仕事師が、先を争って、梯子を駆け上り、まだとっ組み合っている二人を、とり押えた。
 一人はいうまでもなく、さっきの勇敢な若者、今一人は賊の筈だ。ところが、奇妙なことに、その賊の方が、
「馬鹿野郎、馬鹿野郎」
 と、さも腹立たしげに、若者を罵っているではないか。
 若者の方はと見ると、さっきの威勢はどこへやら、グッタリとなって、相手の罵るに任せている。
「オイ、どうしたんだ」
 背中をこづいて、尋ねて見ると、若者は、がっかりした調子で、
「その人は、賊じゃないんだ。味方の明智さんだ。それが今やっと分ったのだ」
 とうめいた。
 成程、そういわれて見れば、さっきまで、館内で、追手の先頭に立っていた、明智探偵に相違ない。
「賊はまだ屋根の上にいる筈だ、早く捕らえてくれ給え」
 明智は顔をしかめながら、指図した。
「この男が、飛んだ思い違いをしたものだから、僕の計画が滅茶滅茶になってしまった」
 明智が馬鹿野郎、馬鹿野郎と罵ったのも無理ではない。折角、彼が単身、敵の背後を襲って、屋根の上で賊を引捕えようとした計画が、すっかり齟齬そごしてしまったのだ。
 そこで、明智と若者を助けおろすと同時に、一方では、身軽な連中をすぐって、屋上の大捜索が行われた。手隙のものは、館の内外、賊のおりて来そうな個所を、少しの隙もなく、見張り続けた。
 だが賊はどこにもいなかった。またしても解き難き不思議が起ったのだ。
 真夜中まで、大がかりな捜索が続けられたが、何のる処もない。結局、見張りの人数はそのまま残して、夜の明けるのを待つことになった。
 さて、夜があけると、賊は実に意外な場所に隠れていたことが分った。彼は蒸発してしまったのではないかと疑われたが、本当に蒸発していたのだ。屋根よりも、もっと高い、大空へと姿を隠していたのだ。
 大捜索が無駄に終って、夜が明ける時分には、警官も、館の係員も、大部分新手の人々に代っていた。
 明智小五郎は、屋根から墜落した時、肩のあたりに打撲傷を負って、到底活動を続けることが出来なかったので、文代さんと小林少年が付添って、一先ず事務所へ引上げた。
 思わぬ邪魔が入って、賊はとり逃がしたけれど、文代さんを賊の手から奪い返したのだから、目的の一半は達した訳である。
 さて、現場では、夜があけて、丸屋根の空が白む頃、早くも賊の隠れ場所が発見された。
 夜の闇が、こうも人をめくらにするものかと、人々は、今さら太陽の有難さを感じないではいられなかった。
 あんなにも探し廻って、発見出来なかった賊が、あかつきの光の中では、たった一目で、馬鹿馬鹿しい程造作ぞうさなく、見つかってしまったのだ。
 それにしても、何という奇想天外な隠れ場所であったろう。人々は、まさか屋根より高い場所へ、賊が逃げ出そうとは、想像もしなかった。うっかり、それを度外視していた。
 国技館は、あの巨大な丸屋根が、立派な目印になっているのだから、別にそんなものを、使用する必要はなかったのだが、宣伝好きの興行主任が、看板代りの広告風船を採用していた。飛行船型の風船が、丸屋根の空高く、繋留けいりゅうされ、その大きな胴中に「菊花大会」の四文字が、どんな遠くからでも見えるように、黒く染め出してあるのだ。
 風船をつないだ、太い麻繩は、館の裏手の地上から、丸屋根の縁を伝って、一直線に、空へ昇っている。
 賊は屋根から麻繩をよじ昇って、その広告風船へ天上していたのだ。
 風船の腹の四方から丁度たこの様に、沢山の細い繩が集まって、地上からの太繩にむすびつけてあるのだが、その細い繩の中心に、ハンモックに乗った格好で、賊は楽々と身を横たえていたのである。
 アア、何という突飛なかくれがであろう。警察始まって以来、空中へ逃げ昇った犯人というのは、この怪物が最初であったに相違ない。
 我々の知っている所によると、この賊は、義手義足をつけている筈だ。その不自由な身で、国技館の天井裏をはい廻るさえあるに、あの長い繩を空高く、どうしてよじ昇ることが出来たのであろうか。
 おもうに犯人は、あの醜い容貌にかわる以前の正体を、見破られまいため、身体全体の格好を別人に見せるため、健康な手足に、にせの義手義足をかぶせていたのであろう。
 それはとも角、国技館前は、瞬く内に、昨夜に倍した、恐ろしい人だかりとなった。どんな大角力でも、どんな見世物でも、この早朝これ程の人を集めることは出来ぬ。しかも、群衆は、刻一刻、増すばかりだ。
 警官隊は、裏手の風船繋留所へと集合した。
 そこに、繩を巻き取る、大きな車の様な道具がすえつけてある。
 数名の警官がその両端にとりついて、ヨイトマケ、ヨイトマケ、車を廻す。一寸、二寸、一尺、二尺、空の風船は、巻取る繩に引かれて、徐々に下降し始めた。
 それに気づいた、表側の群衆は、嬉しがって、「ざまあ見ろやーい」とときの声だ。
「何て馬鹿な奴でしょう。あんな所へ昇れば、見つかるにきまっているし、見つかれば、引おろされるにきまってるじゃありませんか。ごらんなさい、今に、何の造作もなくひっくくられてしまいますから」
 見物達は時ならぬ見世物に興じながら、口々に、賊の愚挙をあざ笑った。警官も、館の人々も、同じ様に考えていた。もう賊は逮捕したも同然だと思い込んでいた。
 ところが、人々がそんなにたやすく考えたのは、大変な間違いであったことが間もなく分った。賊の方には最後の非常手段が残されているのだ。
 繩はジリジリと縮まって行った。風船につかまった賊は、いやでも応でも、一尺ずつ、一尺ずつ、敵の手中に、たぐり寄せられて行った。
 怪物はじっとしていた、あせったり、騒いだりする様子はなかった、地上から眺めると、を徹しての活動に、疲れ切って、眠りこけているのではないかとすら思われた。
 だが、無論彼は眠っていたのではない、風船を引きおろす為に、汗になって働いている警官達と同じ様に、彼もセッセと働いているのだ。下の人々に気づかれぬ様に、右手を絶え間なく動かして、ある仕事を続けているのだ。
 風船が地上に着くのが早いか、彼の奇妙な仕事が終るのが早いか、命がけの競争だ。
 風船は動かぬようでいて、いつの間にか、群衆の頭上に、倍の大きさまで近づいていた。距離の接近に比例して、薄茶色の巨大な怪物は、ジリリ、ジリリ、ふくれ上って行くように見えた。
 やがて、とうとう、丸屋根の縁とすれすれまで、引きおろされた。もうこっちのものだ。可哀相に、賊は今、どんな気持でいるだろう。群衆の心に、鼠取り機械にかかった鼠を眺める様な、淡い同情の念さえわき上った。
「ア、あいつ、何をやっているのだ」
 やっと、一人の警官が、賊の異様な動作に気づいて叫んだ。
「右手をしきりに動かしている。何だかキラキラ光っている」
「ナイフだ。ナイフで繩を切っているのだ」
「いけない。早く、早く、あいつが繩を切り離さぬ内に……」
 警官達が、間近くなった風船を見上げて、口々に呶鳴った。巻取り作業の人々は、それを聞くと、一層力を加え、速度を早めて、繩を巻取る。
 風船が屋根の縁にぶつかって、ユラユラとゆれた。賊のハンモックが異様に震えた。
 と同時に、太繩の繊維の最後の一筋がプツリと切れて、風船は、気違いの様に、ブリブリとお尻をふりながら、大空へと舞い上った。
 はずみを食って、巻取器が、ひどい勢いで空廻りをし、それにとりついていた数名の警官ははね飛ばされ、あるものは降ってきた繩にうたれて、ころがった。
「ワーッ」
 と上る喊声かんせい、川開きのどんな立派な花火だって、この奇想天外な風船花火には及ばぬ。
 騒ぎずきの東京市民は、ほとんど熱狂して、怪賊の思い切った曲芸を喝采かっさいした。うわさは疾風しっぷうの様にちまたに拡がり、続々とかけつける見物人で、両国橋の東西は時ならぬ川開きの人山だ。
 見渡すかぎり、屋根という屋根に、人間の鈴なりだ。
 風がなかったので、賊の風船は、一直線に、グングン天上した。見る見る小さくなって、果ては子供のおもちゃのゴム風船みたいになって、とうとう、低い白雲の中へ姿を隠してしまった。
 この絶好のナンセンス種に、喜んだのは社会記者だ。ソレッというので、写真器を掴んで、国技館へと自動車が飛ぶ。明智のアパートへ駆けつけるもの、畑柳家へ談話筆記に走るもの。
 なにしろ相手は、数人の娘を惨殺して、石膏づめにした、稀代の殺人鬼だ。そいつが風船で天上したのだ。世にこれ程激情的な事件が、またとあろうか。
「飛行機だ。飛行機で追っかけろ」
 誰しもそれを考えた。何というすばらしい活劇であろう。想像したばかりで胸が躍った。
 そして、事実飛行機が飛んだのだ。
 警視庁は流石に自重して、そんなことはしなかったけれど、ある新聞社が民衆の意向を迎えて、お先走りになって、所有の飛行機を飛ばせた。
 その飛行機に搭乗した社会記者は、賊を捕えるのではなくて、大空の雲の中で、この人気者「風船男」の、談話筆記をとるつもりであったかも知れない。
 その日第一回のラジオ・ニュースで、このことが、東京は勿論、全国に伝えられた。
「賊をのせた風船は、遂に雲の中に隠れました。……」
 という、アナウンサアの一句が、全国のラジオ聴取者を、ドキンとさせた。夢かお伽噺とぎばなしみたいな出来事。それがラジオ・ドラマではなくて、政府の監督下にある放送局の真面目なニュースなのだから、びっくりしないではいられぬ。
 人間が二人よれば、風船男の話だ。山の手方面の人達まで、若しやその風船が見えはしないかと、何もない空を見上げる。地方の人々も、気早やの連中は、風船見物の目的で、汽車に乗って、両国駅へ押しよせる程の騒ぎになった。
 犯人は、何も最初から、空へ逃げることを考えていた訳ではない。四方追手にふさがれたから、屋根へ逃げたのだ。その屋根も危くなったから、窮余の一策、とうとう風船の繩をよじ昇る様な芸当を思いついたのだ。好きこのんでした訳ではない。賊にしては、のっぴきならぬ風船乗りであった。
 警視庁刑事部では、各主脳者が集まって、対策を協議した。
 騒ぎがひどいので、一同可成かなり緊張していたが、考えて見れば、問題は至極しごく簡単であった。飛行機を飛ばすこともない。鉄砲を持ち出すこともない。じっと待っていれば、賊はひとりでにつかまるのだ。
 広告風船の不完全な気嚢きのうのことだから、その内にガスが漏れて、徐々に下降を始め、遂に地上に落下するにきまっている。ただそれが落下した時、賊を逃がさぬ手配さえして置けばよいのだ。
 今や、風船賊のうわさは、全国に知れ渡っている。どんなさびしい場所へ落ちたところで、人目を逃れることは出来ぬ。コッソリ逃げ出すには、余りに有名になってしまった。警察としては、近県一帯の各署へ、通牒つうちょうを発して置きさえすれば、もう賊は捕えたも同然である。という訳で、気長に風船の下降を待つことに一決した。
 一方某新聞社の飛行機は、隅田川両岸の群集、附近一帯の屋根に群がる市民の歓呼をあびて、国技館の空高く、つばめの様に、雲の中へと、勇ましい姿を隠したが、十数分の後、空しく引返して来るのが眺められた。
 新聞記者は、西部劇のカウ・ボーイではないのだから、飛行機から、投げ繩で、風船の賊を捕えるなどという、芸当は出来ない。といって風船を射落す様なことをすれば、こちらが人殺しの罪人だ。
 では、彼は雲の中で、一体何をして来たかというに……
 飛行機が薄い雲を破って、上空に出ると、そこに、夢の様な広告風船がポッカリと浮んでいるのが見えた。昇るだけ昇り切って、風のまにまにゆるやかに、雲の海を漂っているのだ。
 先ずカメラを向けるのが、新聞記者の習慣だ。空中でもそれに変りはない。あるいは遠景を、あるいは近景を、飛行機の位置を見はからっては、パチパチと、数枚の写真をとった。
 新聞記者としては、これだけでも大手柄だが、写真を撮ってしまうと、今度は賊に向って、大声に呼びかけたものだ。
 プロペラの音に消されて、先方に通じるかどうかも分らなかったけれど、兎も角も叫んで見た。
「オーイ、そうしていたところで、自然にガスがもれて、落るにきまっているぞオ。眠くはないのかア。腹はへらないのかア。そんな苦しい思いをするよりも、ナイフで気嚢を突き破って、おりろやあい」
 というようなことを、切れ切れに、繰返し繰返し、叫びつづけた。
 だが、賊は死んでいるのか、生きているのか、風船ハンモックにすがりついたまま、身動きもしない。叫び声は聞えぬのか、答える様子も見えぬ。やけっ八のくそ度胸を極めてしまったものであろうか。
 それ以上、どうすることも出来ないので、飛行機は、空中写真をお土産に、一先ず着陸場へ引返した。
 その日の夕刊社会面は、「風船男」の記事で埋められたが、中にも、飛行機を飛ばした新聞社の奇怪な写真版は、満都の読者の好奇心を、いやが上にも募らせた。
「風船男」
「唇のない殺人鬼」
「石膏像に包まれた娘達の死骸」
 人目をひく、それらの大活字は、心ある読者を、極度にひんしゅくせしめたと同時に、物ずきな弥次馬共をやんやと喜ばせた。あまりにも荒唐無稽な、怪奇小説が、現在、この東京に実演せられているという、激情的な事実が、彼等を有頂天にした。
 が、それは少し後のお話、場面はまた、両国の空へ戻る。
 風船が雲間に隠れてから数時間、その日のお昼過ぎになって、警視庁幹部の人々が、予想した通りの現象が起った。
 不完全な風船は、廉物やすものの空気枕みたいに、どこからともなく瓦斯ガスが漏れて、段々重くなって行った。
 そして、再び雲を破って下界に姿を現わしたのは、隅田川の下流、清洲橋の空であった。
 その頃から吹き始めた、北風に送られて、いつの間にか遠く国技館の空を離れていたのだ。
 風船は、まるで綱で引かれてでもいるように、グングン地面に近づいて来る。
 またたく内に、浜町公園を中心として、附近一帯に人の山だ。ツェッペリンが飛来した時と、そっくりの騒ぎだ。
 吹きつける北風、「ワーッ、ワーッ」と上る群衆の声、走る雲、その中を、風船は横なぐりに吹き飛ばされて、その巨体が、地上二十メートルの間近に迫った時には、既に永代橋えいたいばしを南に越えて、品川湾しながわわんへと流れていた。
「あの調子だと、水に落ちるまでに、お台場だいばあたりまで、飛んで行きますぜ」
 屋根の上に鈴なりの人々が、話し合った。
 待ち構えていた警官隊は、水上署のランチに同乗して、隅田川を風と共に走った。
 空を飛ぶ怪風船、水をくランチ。世にも不思議な追駆けが始まった。
 風船は月島つきしまを横切って、お台場の方角へ、ランチは、相生橋あいおいばしをくぐって品川湾へ。
 風は益々早く、風船は巨大な鉄砲玉だ。ランチが如何に快速力であっても、空飛ぶ気球は一直線、水路は曲りくねっているので、見る見る距離が遠ざかって行く。
 ランチには、最初から畑柳家の事件に関係した、警視庁の名探偵、恒川警部が、指揮官として同乗していた。
 この肝要の場合、我が明智小五郎の姿が、追手の中に見えぬのは、甚だ物足りぬ感じだが、彼は屋上の活劇に痛手を負い、丁度その頃は、アパートのベッドで、発熱の為にしんぎんしていたのだから、是非もない。
 その代りには、恒川名探偵がいる。数々の犯罪事件において示した、彼の天才的手腕は、世に隠れもないところだ。しかも、敵は今、憐れにも浮力を失った気球を唯一のたよりに、孤立無援、何の隠れ場所もない、海上を吹き流されている。恒川警部をわずらわすまでもなく、この捕物は、赤子の手をねじるよりもたやすいことだ。
 ランチは、月島を離れて、大海に乗り出した。見ると、賊の気球は、五六丁向うの海上を、波立つ水面とすれすれに危くも飛びつづけている。
「オイ、君あの風船に乗っている奴が、いつの間にか、人形に変っているのじゃあるまいね」
 恒川警部が、傍らの一刑事を顧みて、突飛なことをいった。あの怪賊がこんなに易々とつかまるのは、どうも変だという気がしたのだ。人形使いの魔術には、こりごりしていたからだ。
 だが、それは不可能だ。人形が繩を切る筈もないし、現に賊が、風船の下でもがいているのが、見えている。ロボットでもあるまいし、人形があんなに動けるものか。

海火事


 二人は顔を見合わせて、何ともいえぬ苦笑いをした。
「僕はどうかしているね。あいつは何だか苦手だ」
 恒川氏は、ちょっと恥かし相にいった。
 人形でないことは分り切っている。それを「若しや」と思うのは、相手を恐れているからだ。鬼刑事の名に恥じなければならぬ。
 隅田川の川口を離れる頃には、追手の船は、警察ランチ一艘ではなかった。
 町で泥棒を追駆ける時、必ず弥次馬がついて走る様に、水の上でも、弥次舟が、どこからともなく現われて来て、ランチと先を争う様に、賊の風船めがけて、波を切る、三艘のモーターボートがあった。
 その内、一艘は、競争用の舟と見えて、形も小さく、速力が馬鹿に早かった。さすが警察の快速艇も、この小型ボートには及ばず、見る見る抜かれて行った。
 ボートの中には、一人の黒い洋服を着た男が、まるで競馬の騎手か、自転車競争の選手みたいに、猫背になって、ハンドルの上に、かがみ込み、傍目わきめもふらず、前方を見つめていた。
「畜生め、やけに早い野郎だなア」
 警察ランチの運転手はしばらく競漕きょうそうして見たが、とても抜き返せないことを知ると、腹立たしげにつぶやいた。
「あいつ、何だろう。まさか同類じゃあるまいな」
 一刑事が不審を抱いた。
「いくら何でも、そんな無茶はしないだろうぜ。いくら速力が早いからといって、この荒れ模様に、あんな小さな舟で、賊を救って、逃げおおせるなんて、思いもよらぬことだよ。……素人の物好きさ。警察のお手伝いをして、ほめてもらうのが楽しみの特志家とくしかだよ。いつでも、あんな連中が、二三人、飛出して来るものだ」
 水上署の老巡査が、多年の経験から割出して、事もなげに答えた。
 警察ランチ、お手伝いのモーターボート、都合四艘の快速船が、吹きつのる北風に、波立つ海を、真ッ二つに切り裂いて、四つの鋭いのこぎりの様に、勇ましく突き進んで行った。
 一方、賊の風船は、第一のお台場を越したあたりで、遂に全く浮力を失い、ダブダブにしわのよった気嚢きのうを、巨大な章魚たこの死骸の様に、水面に浮べた。
 墜落した刹那、下部に、ぶら下っていた賊は、ザブンと水中にもぐり、したたか潮水を呑まされたが、もがきにもがいて、やっと水面に浮上り、漂う気嚢の片隅にすがりつくことが出来た。
 彼はもう疲れ切っていた。屋根から空、空を半日も吹き流されて、落ちた所は、荒れ狂う波の上だ。大抵の者なら、とっくに気を失っていたであろうが、さすがは怪物、まだへこたれぬ。
 気嚢は波のまにまに、突き上げ、押しおとし、ブランコの様に、めちゃめちゃに揺れ動く。そのすべっこい表面に、とりついている努力は、並大抵ではなかった。
 ザブンザブンと波がかぶる。その拍子に手が辷って、サッと一間程も押し流される。もがきにもがいて、やっとまた、気嚢にとりすがる。それが、幾度となく、むごたらしく繰返されるのだ。人間界の怪物も、自然力に対しては、みじめであった。
 だが、彼の大敵は、自然力ばかりではなかった。もっと恐ろしい奴が、追手の舟共が、へさきをそろえて、まっしぐらに迫って来るのだ。
 彼は波と戦いながら、隙を見てチラチラ振返った。振返るごとに、敵の船体は、大きくなっていた。慌ただしいエンジンの響きも、刻々その音が高まって来た。
 しかし、彼はまだへこたれなかった。
 見るも無慙むざんな努力を続けて、とうとう気嚢の上によじ昇り、その平な中央に、ヨロヨロと立上って、図太くも、追手の船を迎える様に、身構えた。
 警察ランチと、先頭の小型モーターボートとの距離は、いつの間にか、二丁程も隔たっていた。
 その異常に熱心な素人追撃者は、今、風船ボートの上に、スックと立ちはだかった怪賊めがけて、舳が空に飛び上る程の快速力で、まっしぐらに進んで行く。
「オイ、もっとスピードは出ないのか。あの舟に追つけないのか」
 警察ランチの上では、恒川警部が、いらだたしく、運転手に呶鳴りつけた。
 警官一同、何とも名状し難い不安に襲われていた。やっぱり、あの快速艇に乗っている奴は、賊の同類ではあるまいか。あんなにめちゃめちゃに急ぐのは、警察を出し抜いて、賊を救う為ではあるまいか。という、恐ろしい疑いが湧き上って来るのを、どうすることも出来なかった。
 見る見る、モーターボートは、賊に近づいて行った。そしてもう一二間という所で、波の為に思う様に接近出来ず、木の葉の様にもまれているのが、眺められた。
 近づいては、押しもどされ、近づいては、押しもどされている内に、ボートの舳が、流れる気嚢にぶつかったかと思うと、賊の方から、ヒラリと、ボートに飛込んで行った。
 アア、やっぱりそうだ。あの舟は賊の同類なのだ。でなければ、賊の方から飛込んで行く筈がないではないか。
「ア、いけない。早く、早く」
 警官達は走るランチの上で、じだんだを踏む。
 だが、あれは何だ? 同類なれば、なにもあんなに、とっ組み合うことはない筈だ。
 賊はボートに飛び移ったかと思うと、いきなり運転席の洋服男につかみかかって行った。こちらも負けてはいなかった。立上ると、これを迎えて、たちまち、小舟の上の烈しい格闘となった。
 ブランコの様に揺れ漂う、狭い舟の中の、奇怪な立廻り。つかみ合うのは、双方とも黒い洋服姿。こちらからは、どれが賊とも味方とも、ハッキリ見分けがつかぬ丈けに、猶更ハラハラさせられる。
 警察ランチとても、並々ならぬ速力だ。見る見る、現場へ接近して行く。だが、ボートの中の格闘は、それよりも早く、アッと思う間に、かたづいてしまった。
 一方が打倒されて、舟の底に見えなくなったかと思うと、勝った奴が、いきなり運転席にしゃがみ込んで、ボートを操縦し始めた。
 勝ったのは賊に極っている。一人と一人で、あの怪物を取りひしぐ程の勇者があろうとは思われぬ。悪運強き怪賊は、追手の舟を逆用して、あの恐ろしい速力で、逃げ去ろうとしているのだ。
 ボートは波を切って、走り出したかと思うと、突如として、世にも恐ろしい椿事が起った。
 ボートの上に、パッとのろしの様な火炎が上ったかと見ると、非常な物音が波を伝って聞えて来た。
 どうしてそんな馬鹿馬鹿しいことが起ったのか、あとになっても、その原因をつきとめることは出来なかったが、ガソリンに引火して、それの金属製タンクが、ひどい勢いで爆発したのだ。
 舟一面に燃え上る火。
 その火炎の中に、あわてて海中へ身を投じる怪物の姿。同時に、ボートは烈しく揺れて転覆してしまった。
 ガソリンが海一面に拡がった。
 人々は、あとにも先にも、あの様に奇怪な、しかも美しい光景を見たことがなかった。
 海火事だ。荒れ狂う波が、焔となって燃え立つのだ。
 暫くは、顛覆したボートに近づくことも出来なかったが、やがて聞もなく、焔は螢合戦のくずれる様に、海上に散り乱れて、消えて行った。
 見ると、顛覆したボート間近く、浮きつ沈みつする人の姿。「ソレッ」というので、ランチは現場へと走り出した。
 溺れている人物が、敵か味方か判然しなかったけれど、いずれにもせよ、捨ててはおけぬ。
 大急ぎでランチを近寄せ、二三人がかりで、その人物を引上げた。引上げられたのは何者であったか。あの恐ろしい唇のない怪物か。イヤ、そうではない。だが、その顔を一目見るや、恒川警部が、頓狂な叫び声を立てた。
「オヤ、これは例の畑柳家の知合の三谷という人物だぜ。僕は二三度会ってよく知っている」
 それでは、あの快速艇の主は、事件に関係浅からぬ三谷青年であったのか。彼なれば、あの様に無我夢中で、賊を追駆けたのも、無理ではない。
 三谷は、さして水を飲んでいないらしく、一同の介抱に、間もなく正気を取戻した。
「アア、恒川さんでしたか。どうも有難う。もう大丈夫です。あいつは? あいつはどうしましたか」
 先ず尋ねたのは、賊のことだ。
「今の爆発でやられたかも知れません。これから探すところです。だが、三谷さん、君はどうして、僕達を出し抜いて、あんなことをしたのです。僕達のランチを待合わせてくれたら、こんなことにはならなかったのですよ」
 三谷青年が、存外しっかりしているので、恒川氏は、つい相手を叱る様な口調になった。
「申訳ありません。あいつには、これまで度々、今ちょっとの所で、うまく逃げられていますので、今度こそはと、ついあせったのです」
「だが、賊はかえって、君に飛びかかって来た」
「そうです。僕は自分の腕力を頼みすぎたのです。あいつが、あれ程強いとは思いませんでした。僕はたちまち、あいつの一撃をくらって、ボートの中にぶっ倒れてしまいました。それ切り、何も知りません。ボートが爆発したというのも、今聞くのが初めてです」
「それが、君の仕合せだったかも知れません。何も知らず、ボートの顛覆と共に、水の中へもぐったまま、もがき廻らなかったので、けどもせず、大して水も飲まなんだのです、賊の方はきっと大怪我をしているでしょう」
 この恒川氏の想像は、たちまち的中した。丁度その時、さい前から舟を徐行させて、海面を探し廻っていた警官達が、とうとう賊の死骸を発見したのだ。
 死体は直様すぐさまランチに引上げられたが、どう介抱して見ても、無駄であった。
 爆発の時か、それとも海面をもがき廻っている間にやられたのか服は無慙に焼けこげ、手足にも焼けどをしていたが、殊更顔は、二目と見られぬ物すごい形相に変っていた。
「気味が悪いようだね。よくも、これまでひどく焼けただれたものだ」
 人々は、その顔面を、正視するに忍びなかった。
 たださえ恐ろしい、鼻も唇もない顔が、更に焼けただれて、滅茶滅茶にくずれ流れた様子は、この世のものとも思われぬ。
「何だか変だね。これが本当の人間の顔だろうか」
 ふと気づいた様に、恒川警部が妙な事をいい出した。彼は何か思う所あるらしく、死体の上にかがみ込んで、しばらく、死人の物すごい形相を熟視じゅくししていたが、ヒョイと手を出して、頬のあたりをおさえて見た。
 おさえたかと思うと、ビックリして手を放したが、同時に、彼の顔に、非常な驚きの表情が浮んだ。
「アア、これはどうしたというのだ。僕達は、ひょっとしたら、賊の為に、まんまと一杯食わされていたのかも知れない」
 彼はそういって、一同の顔を見返した。
 人々はその意味を解し兼ねて、目をパチパチやるばかりだ。
「この焼けただれたものは、本当の人間の顔ではないというのさ」
 恒川氏は、益々変なことをいう。
 一同、思わず賊の恐ろしい顔を見つめたが、見つめていると、段々、恒川氏の妙な言葉の意味が分って来る様に思われた。
 だが、果してそんなことがあるのだろうか。あまりにも奇怪な着想である。いつの間にか、空一面、鼠色の雨雲に覆われ、ランチはわき返る波に、たとえば大時計の振子の様に、ほとんどリズミカルに、絶え間もなく動揺していた。見渡せば、眼路めじの限り、黒い波が、無数の怪物の頭の様に、根気よくうごいていた。
 その船の中に横たわっている死骸の、この世のものとも思われぬ、恐ろしい形相。
 今朝からの、奇想天外な賊の逃走といい、打ち続く奇怪事に、人々は異様な悪夢を見続けているような気がした。ジワジワとあぶら汗がにじみ出す程、何ともいえぬ恐怖を感じた。
 恒川氏は、思い切って、賊の顔に両手をかけると、力をこめて、メリメリとその皮をはいだ。
 醜怪極まる、怪物の顔が、薄気味悪く、めくれて行く。
 アア、何という残虐、牛の皮をはぐように、たとい死人とはいえ、顔の皮をはぎとるとは。
 人々はドキンとして、思わず目を閉じた。めくれた皮の下から、黒血がほとばしって、ベロベロの、見るも無悪な赤肌が現れて来ることを、想像したからだ。
 しかし、血も流れなければ、肉も現れなかった。醜怪な皮の下から出て来たのは、全く違った、もう一つの顔であった。つまり、焼けただれた唇のない顔は、世にも巧みなろう製の仮面であったのだ。
 人々は、それが蝋細工と分っても、そんなもので、どうして長い間、世人せじんあざむくことが川来たのかと、不思議にたえなかった。
 だが、蝋細工の技術は、我国でも、ちょっと想像も及ばぬ程、進歩しているのだ。ショウウィンドウの蝋人形が、本当に生きて見えるのも、お菓子や、果実の蝋細工が、本物と寸分違わぬのも、何にでも化ける、蝋というものの、不気味な性質を語るものだ。
 現に俳優は、自分の顔と生写しの、蝋製の仮面を使って、度々一人二役の舞台を勤めている事実さえある程だ。
「これが賊の正体だ。長い間、唇のない顔で、我々をおどかしていたのは、こいつなんだ」
 恒川氏は、はぎ取った、蝋面を手にしたまま、賊の顔を凝視していった。
 誰も、その顔を知らなかった。三十五六歳の、※(「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2-93-20)むぜんの男だ。これという特徴もない。その顔の所々に、熱い蝋にやけどをして、異様な斑紋はんもんが現れている。
「三谷さん、君は岡田道彦の顔を記憶しているでしょうね」
 恒川氏がたずねた。
「エエ、決して忘れません」
 三谷青年は、幽霊の様に、真青な顔をして、力なく答えた。
「で、この男が、その岡田道彦ですか」
「イヤ、違います。僕は岡田だと信じ切って、明智さんと彼のアトリエを調べに行ったりしたのです。岡田が薬で顔を焼いて、あの恐ろしい変装をしていたのだと思い込んでいたのです。ところが、この男は、岡田ではありません。全く見知らぬ人物です」
 三谷は、信じ切れない様な、困惑の表情でいった。
 局面は俄に一変した。犯人は岡田ではなかったのだ。とすると、どういう事になるのだ。あのアトリエに、死体の石膏像を作ったのは、岡田に違いはない。では、この賊は、あの殺人事件については、全く無罪であったのか。二つの全然別な犯罪事件が、三谷の頭の中で、こんがらがっていたのであろうか。

三つの歯型


 品川湾の活劇があった翌々日、恒川警部が、明智小五郎の病室を見舞った。
 病室といっても、彼の事務所と住宅を兼ねた、開化アパートの寝室である。肩の打撲傷の為、一時はひどい発熱を見たけれど、もう熱もとれ、傷の痛みが残っているばかりで、ほとんど元気を回復していた。
 明智は已に、新聞紙上で、大体のことは知っていたけれど、恒川氏は、更にくわしく、事件の経過を語って聞かせた。
 素人探偵は、ベッドに仰臥ぎょうがしたまま、時々は質問を発しながら、熱心に聞いていた。ベッドの枕元には、文代さんが、つき切って、一切の世話をしている。
「電話でお願いしたものは、お持ち下さいましたか」
 一応、犯人溺死の模様を聞き取ってしまうと、明智が、待兼ねたように尋ねた。
「持って来ました。どういうお考えか分らなかったけれど、あなたの御依頼ですから、兎も角、型を取って来ました」
 恒川氏は、白布に包んだ、小さなものを、枕元のテーブルに置きながら、
「しかし、こういうものは、もう必要ありますまい。犯人の素性が、やっと分ったのです。実はそれをお知らせしようと思って」
 今度の事件での、明智の働きは、警視庁の名探偵から、斯様かような取扱いを受ける値打が、充分にあったのだ。
「分りましたか、一体何者でした」
「非常に変った男です。医学上、一種の変質者なのでしょう。あまり有名でない探偵小説家で、園田黒虹そのだこっこうという奴です」
「ホウ、探偵小説家でしたか」
「新聞に出た死人の写真を見て、そこの家主が知らせて来たので、早速彼の住いをしらべて見ましたが、実に恐ろしい奴です」
 園田黒虹というのは、一年に一度位ずつ、忘れた頃に、ポッツリと非常に不気味な短篇小説を発表して、猟奇りょうきの読者を怖がらせている、奇妙な作家であった。
 世間は勿論、彼の作品を発表した雑誌でさえも、黒虹という男が、どこに住んでいるのか、どんな顔をしているのか、少しも知らなかった。原稿はいつも違った郵便局から郵送され、稿料はその時々の局留おきで送ることになっていた。
 彼が探偵小説作家であることは、家主も近所の人達も、まるで知らなかった。
 少しもつき合いをしない、いつも戸を閉めて、家にいるのかいないのか分らぬ、独身の変り者ということが分っていたばかりだ。
「それは、池袋いけぶくろの非常に淋しい場所にある、一軒建ての小住宅なんですが、家の中を検べて見ると、まるで化物屋敷です。押入れの中に、骸骨がぶら下っている。机の上には、人形の首が転がっている。その首に、赤インキがベタベタ塗ってある。壁という壁には、血みどろの錦絵が張りつけてある。といった具合です」
「ホウ、面白いですね」
 明智は熱心に合槌を打つ。
「本棚の書物はといえば、内外の犯罪学、犯罪史、犯罪実話といったもので埋まっている。……机の抽斗ひきだしには、書きかけの原稿紙が沢山入っていましたが、その原稿の署名で、黒虹という変なペンネームが分ったのですよ」
「僕は黒虹の小説を読んだことがあります。非常に変った作家だとは思っていました」
「あいつは、生れつきの犯罪者なんです。その慾望を満たすために、恐ろしい小説を書いたのです。それが、小説では満足出来なくなって、本当の犯罪を犯す様になったのでしょう。国技館の生人形に化けて見たり、風船に乗って空中へ逃げ出すなんて、小説家ででもなければ、ちょっと考えつかないことです。今度の事件はすべて、如何にも、小説家の空想がこうじたという、突飛千万なものでした」
「賊がつけていたという蝋面の製造者をおしらべになりましたか」
 明智がたずねる。
「検べました。東京には、蝋細工の専門工場は四五軒しかありませんが、それを残らず調べさせました。しかし、どこにも、あんなものを作ったうちはないのです」
「蝋細工は、別に大仕掛けな道具がいる訳でもないのでしょう」
「エエ、型さえあれば、あとは、原料と鍋と、それから染料だけで出来るのです。多分あいつは、専門の職人に頼み込んで、自宅で秘密に作らせたものでしょう。僕は蝋細工の工場へ行って見ましたが、少しこつを飲込みさえすれば、素人にだって出来相な、ごく簡単な仕事です。それで、出来上ったものは、まるでセルロイドのように薄くって、いくらか弾力もあって、その上、人間の生顔にソックリなんだから、考えて見れば、恐ろしい変装道具ですよ。それを、額の生え際から耳のうしろまで、スッポリかぶっていたのです。色眼鏡やマスクで隠さずとも、一寸見たのでは、面と気付かぬ程よく出来ていました」
 この様な思い切った変装手段は、老練な恒川氏にとっても最初の経験であった。
「実に何から何まで、小説家の着想です。実際的な警察官にとって、こういう空想の嵩じた、気違いじみた犯罪は、一番苦手ですよ。しかし、あなた方のお骨折りで、奴もとうとう参ってしまいました。殺したのは少し残念ですが、世間を騒がせた、唇のない怪物の事件も、これで落着した訳です」
 警部は本当に安堵したらしい口調であった。
「一応落着した様に見えますね」
 明智がニコニコしながら、妙な事をいい出した。
「エ、何ですって?」
 恒川氏はギョッとした様子で、
「すると、あなたは、まだ……アア、共犯者のことをいっていらっしゃるのですか」
「イヤ、共犯者なぞではありません。今度の事件の恐るべき首魁のことを考えているのです」
「しかし、その首魁は、死んでしまったではありませんか」
「僕には、んだか、それが信じられないのです」
 流石の鬼警部も、明智のこの奇怪千万な言葉には、あっけにとられてしまった。
 この薄気味の悪い素人探偵は、一体全体何を考えているのだ。犯人が、生き返って、仮埋葬をした墓地から、抜け出したとでもいうのかしら。
「それは、どういう意味でしょうか」
 警部は仕方なく、正面から尋ねて見た。
「この事件は、一小説家の死によって、解決してしまうには、余りに複雑に見えるのです。例の岡田道彦のアトリエで発見された、死体石膏像について考えただけでも」
「しかし、あれは全然別の犯罪です。そして、その犯人である岡田は、とっくに死んでしまいました。岡田が生きていて、唇のない男に化けていたという、ちょっと誘惑的な考え方を、やめてしまえば、問題はないのです」
「それは、あなた方にとって、非常に好都合な解釈ですが、果してそんな単純にかたづけてしまって差支えないでしょうか。たとえば、こういう事を考えて見ただけでも、既に大きな矛盾が生じて来るのです。それは、……岡田があの死体の石膏像の犯人であったとすれば、彼は非常に残虐な一種の変質者ですが、そういう男が、ただ畑柳夫人に失恋した為に、純情な少年のように自殺するというのは、ちょっと考えられないことではありませんか」
「では、あなたは、やっぱり、岡田と唇のない男と、同一人だとおっしゃるのですか」
 警部は、何を馬鹿馬鹿しいといわぬばかりに、やや軽蔑の色さえ浮かべて、聞き返した。
「その外、今度の事件には、解き難い謎が、色々残されています」
 明智は相手の質問には答えず、喋り続けた。
「たとえば、畑柳家の密閉された書斎で殺された小川正一と名乗る男の謎があります。犯人はどこから出入りしたか。何の為に殺したのか、また被害者の死体が、どうして消え失せてしまったのか。それから、あんなに苦心して誘拐した倭文子さんを、あの殺人鬼が、傷一つつけないで、なぜやすやすと我々の手に戻したか。あの時、連れて逃げようと思えば、訳はなかったのです。イヤ、もっと変なことがある。僕は鹽原の温泉宿へ電話をかけて、女中から聞き出したのですが、温泉場で倭文子さんを驚かせた怪物は、本当に唇がなかった。ご飯のお給仕をした女中が、確かに見たというのだから、間違いはありません。ところが、今度風船に乗って逃げた奴は、仮面をつけていたとすると、この二人は、全く別人なのでしょうか。数え上げると、説明の出来ない点が、まだ沢山あります。それでも、事件が落着したといえましょうか」
「すると、君は、岡田道彦が、どこかに生き残っていて、それが本当の犯人だとおっしゃるのですね」
「恐らく……、イヤ、想像は禁物です。我々は決定的な証拠品によって、判断しなければなりません。その証拠品が、多分今に……アア、来ました。さい前から、僕はこれを待ち兼ねていたのですよ」
 丁度その時、外に人の足音がして、寝室のドアが開き、小林少年のリンゴの様な頬がのぞいた。
「小林君、アア、君はあれを手に入れて来たね」
 明智が、少年の顔色を読んでいった。
「エエ、案外訳なく見つかりました。やっぱり、あの近所の歯科医院でした。頼んだら、すぐ貸してくれましたよ」
 少年は、快活にいって、小さな紙包を差出した。
 明智はそれを受取って、テーブルに置き、文代さんに命じて、戸棚から、もう一つ、同じ様な包物を取出させた。テーブルの上には、さっき恒川警部が持参したのと合わせて、三つの小さな包が並べられた訳だ。
「恒川さん、それを開いて、よく見くらべて下さい。その中のどれか二つが、全く同じであったら、問題は忽ち解決するのです。しかし、恐らく……」
 恒川氏は、言葉半ばに、明智の心を察して、あわただしく、包を開いた。赤いゴム様のかたまりが一つ、白い石膏のかたまりが二つ。三つの包からころがり出した。
 すべて人間の歯型である。その内、赤いのは、恒川氏自身、風船男の死骸の歯型を取って、持参したものだ。
「同じのがありますか」
 仰臥したまま、明智がいらだたしくたずねる。
 恒川氏は、三つの歯型を、あれこれと見くらべていたが、
「ありません。三つが三つとも、全く違った歯型です。一目で分ります」
 と、やや失望して答えた。
 そのあとを、文代さんと小林少年が、熱心に見くらべてみたが、答えは同じことだ。一致する歯型は一つもない。
「で、この石膏の方の歯型は、一体誰のものですか」
 警部が、大方は察しながら、尋ねた。
「今、小林君が持って来たのは、岡田道彦の歯型です。小林君が二日がかりで、岡田が歯医者に通っていたことを探り出し、その医者を探して、やっと手に入れたものです」
「で、あと一つは?」
「それが、真犯人の歯型です」
「エ、真犯人の歯型? あなたは、真犯人を知っていたのですか。一体どうして手に入れたのです」
 恒川氏は、益々意外な明智の言葉に、あっけにとられてしまった。
「僕が三谷君と一緒に、青山の空家を調べたことは、御存じでしょう。例の倭文子さんが幽閉された、賊の住家です」
 明智が説明した。
「それは聞いてますが、……」
「その時、あの空家の戸棚の中で、たべあましのビスケットとチーズを発見したのです。ビスケットの上にチーズを重ねて、かじったもので、それにハッキリ歯型が残っていたのを、ソッと持帰って、石膏の型にこしらえたのです」
「しかし、それが賊の歯型というのは……」
「あの家は、二ヶ月以上も空家になっていたのですから、他にそんな所へ食べ物を持込むものはありません。倭文子さんも茂君も、賊にビスケットとチーズを、度々勧められたけれど、幽閉されている間、何ものも口にしなかったといっています。その言葉によっても、賊のたべあましであることは確かです。それが彼等の食料だったのです」
 あの時、明智はその発見について、同行者の三谷にさえ何事もいわなかった。ただ、妙ななぞみたいな独言をしたばかりだ。なぜ三谷に隠さなければならなかったのか、明智が無意味に隠し立てをする筈はない。何かそこに特別の事情があったのではなかろうか。
「すると、つまりこれは、賊かその相棒か、どちらかの歯型ですね。あの時空家には、二人の奴がいた筈だから」
 恒川警部は、やっと明智の説明を理解した。
「そうです。しかし、それが岡田道彦の歯型とも、品川湾で溺れた小説家の歯型とも一致しないとすれば、奴等はまだどこかに生残っているのです。そして、恐らくは、更に恐ろしい悪事を計画していることでしょう」
 恒川氏はまだ、明智の様にそれを信じ切ることは出来なかった。どうも、歯型だけではないらしい、明智はもっと色々なことを知っているのではなかろうか。
「では、園田黒虹は、なぜ文代さんをおびき出したり、風船に乗って逃げたり、変な真似をしたのでしょう。君は、歯型なんかよりは、ずっと有力な、この事実を認めないのですか。あれが犯人でないとおっしゃるのですか」
 警部は、どうしても変質小説家が思い切れぬ様子だった。
「あれは真犯人ではないのです」明智がキッパリいい切った。
「共犯者かも知れません。そうでないかも知れません。いずれにしても、小説家は小説家です、真犯人はもっとほかにいる筈です」
 警部はそれを聞くと、変な顔をした。この男は、発熱のために頭がどうかしたのではないかと思われて来た。
「僕が途方もないことをいっている様に、見えるでしょう。それです。あなたでさえ、そんな風に考えるところに、今度の犯罪の恐ろしい秘密があるのです。誰が見ても、真犯人はあの小説家に違いないと思う。そう思わせる様に出来ている。賊のずば抜けたトリックです」
 恒川氏は明智の眼を凝視しながら、考え込んでしまった。明智の言葉が何か恐ろしい秘密を暗示している。それがもう少しで分りそうな気がする。もう少しだ。もう少しだ。
 丁度その時、一間置いて隣の、客室のドアが、烈しくノックされたので、小林少年が出て行ったが、すぐ戻って来たのを見ると、手に一通の速達便を持っている。
「誰から?」
「差出人の名前がありません」
 少年が変な顔をして、その手紙を明智に渡した。
 明智はベッドに仰臥したまま、封を切ったが、二三行読むか読まぬに、サッと驚きの色をうかべた。

意外な下手人


「ごらんなさい。これが、犯人がまだ生きている、何よりの証拠です」
 読終わった明智が、その手紙を恒川氏に渡した。
「明智君、病気は如何いかがです。それだから、いわぬことじゃない。僕は二度も警告状を差上げたではありませんか。流石さすがの名探偵も少し手抜かりでしたね。僕が文代さんという絶好の獲物を、見逃がしておくとでも思ったのですか。
ところで、滑稽なことに、僕は死んでしまったのですよ。世間の目の前で死んで見せた。死骸は今でも仮埋葬になって、土の中にあります。
つまり、これは死人からの手紙です。だが、幽霊の書いた手紙が、本当に配達されるなんて、ちと変ですね。
さて、用件というのは、やっぱり同じ警告です。本当に手を引いてもらいたいのです。君は病床にありながら、こりもせず、探偵の仕事を続けている。現に今朝から小林君が何をしたか、僕にはすっかり分っているのです。そいつをやめてもらい度い。でないと、今度こそは、君自身の命が危いのです。
この手紙が着く頃には、どこかで、また別の殺人事件が起っているかも知れない。君がいくら邪魔立てしようとも、僕の予定は微塵みじんも変更されないのです。つまり、君がヤキモキすることは、犯罪の阻止にはならず、かえって、君自身の寿命を縮めるばかりです。悪い事はいいません。即刻この事件から手をお引きなさい。これが最後の警告です」
「いやに鄭重な文句で人を小馬鹿にしている。僕はこんな侮辱を受けたことはありません」
 明智は、仰臥したまま、恐ろしい目で、天井をにらみつけて、ひとり言のようにうなった。
 恒川氏は、明智の言葉の適中に驚くばかりで、まるで幽霊の様な怪賊の正体を、どう想像して見る力もなく、黙り込んでいたが、しばらくして、ふとそれに気づくと、イライラしながらいった。
「この手紙の着く頃には、どこかで、また別の殺人が行われる、と予告をしている」
「それが侮辱です。我々はそれを予防する力がない。殺人は間違いなく起るでしょう」
 明智は賊の魔力を信じている様に見えた。
 丁度その時、次の部屋の卓上電話が、けたたましく鳴り響いた。
 文代さんが立って行って、受話器を取った。
「モシモシ、明智さんですか。私、三谷です。今畑柳にいるのです。アア、あなたは文代さんですね。また、恐ろしい事が起ったのです。執事の斎藤老人が、何者かに殺されたのです。明智さんのお身体の具合がよかったら、是非御出でを願い度いのです」
 文代が驚いて、明智はまだ起きられぬ旨を答えると、
「では兎も角、この事をお伝えしておいて下さい。いずれお伺いして、くわしいお話をします」
 と電話が切れた。
 文代さんが部屋に帰って、そのことを告げると、明智は、ベッドに上半身を起して、
「文代さん、服を取って下さい。僕はこうしてはいられない」
 とあせるのを、恒川氏と文代さんとで、やっと思い止らせ、畑柳家へは、警部と小林少年が駆けつけることになった。
「じゃ、むこうへついたら、すぐ電話で模様を知らせて下さい」
 明智は肩の痛みに、仕方なくベッドに横たわったものの、まだあきらめ切れぬていだ。
 間もなく下の玄関から自動車が来たとの知らせ。恒川氏と小林少年とは、外套に片手を通しただけで、階段をかけ降りた。そして、二人を乗せた自動車は畑柳家へとフル・スピードで走り出した。
 恒川警部と小林少年が、畑柳邸に着くと、真青になった三谷青年が、あわただしく出迎えて、一間に招じ入れた。
「丁度今明智君と事件について話し合っていた所です。明智君は、賊はまだ生きている、犯罪は落着したのでないと主張していましたが、それがこんなに早く裏書されようとは、実に意外でした」
 恒川氏は、賊からの予告の手紙のこと、続いて当家から電話があったこと、明智はまだ外出できぬので、兎も角小林少年を同行してかけつけたことなどを、手短に語った。
「賊が、今日の事件を予告したとおっしゃるのですか」
 三谷がいぶかしげにたずねる。
「そうです。その手紙を読んでいる所へ、申合わせたように、あなたからの電話でした」
「賊というのは、例の唇のない奴のことでしょうね」
「無論、あいつです。風船で逃げた奴は換玉だったと考える外はありません」
「イヤ、そんな筈はない」
 三谷はなぜか、苦悶、困惑の表情を浮かべて、
「斎藤老人は全く過失の為に殺されたのです。賊の意志が働いているとは思えません。あの人が賊の同類だなんて、そんな馬鹿なことがあるものですか」
 恒川氏は三谷の異様な言葉を聞き漏らさなかった。
「あの人とは?……ではもう下手人が分っているのですか」
「分っているのです。全く過失の殺人なのです」
 三谷は青ざめた顔を、泣き出し相にゆがめて、苦悶の身もだえをした。
「誰です。その犯人というのは」
 警部がつめよる。
「僕が悪いのです。僕がいなかったら、こんな事は起らなかったのです」
 三谷青年が、これ程取乱すのは、よくよくのことに相違ない。
「誰です。そして、その犯人はもう逮捕されたのですか」
「逃げたのです。併し、子供を連れた女の身で、逃げおおせるものではありません。あの人は間もなくつかまるでしょう。そして恐ろしい法廷に立たなければならないのです」
「子供を連れた、女ですって? では若しや……」
「そうです。ここの女主人の倭文子さんです。倭文子さんが、あやまって斎藤執事を殺したのです」
 恒川氏は、余りに意外な下手人にあっけにとられてしまった。
「僕が倭文子さんの好意にあまえ過ぎたのです。僕が若かったのです。賊のことで、少しばかり尽力したのを、皆に感謝されていると思って、いい気になり過ぎたのです。執事の老人にしては、目にあまる様な振舞もなかったとはいえません。とうとう老人が、倭文子さんにそのことをいい出したのです」
 風船男の溺死によって、畑柳家にわざわいする悪魔は亡びてしまった、と誰しも考えた。大事件が終息すると、その蔭に隠れていた小事件が、ひどく目立って来るものだ。
 老人が倭文子さんと三谷青年との、みだらな関係を苦々しく思い出したのは無理もない。それがとうとう爆発したのだ。
 朝から訪ねて来た三谷と二人切りで、一間にこもっていた倭文子を、老人が外の用事にかこつけて、別室へ呼び出した。
 倭文子も大方それと察したのであろう。召使達に聞かれることを恐れて、先に立って、二階の書斎へ入って行った。
 二人はそこで長い間口論を続けた。激した言葉が、偶然外の廊下を通りかかった女中の耳にさえ、漏れ聞えた程だ。
 いつまで待っても、二人とも降りて来る様子がないので、一同少し心配になり出した。
「ひっそりして、話声も聞えやしない。どうしたんでしょう。変だわね」
 立聞きの好きな女中が、二階から降りて来て、一同に報告した。
 結局、三谷が指図をして、書生に見せにやることになった。
 書生が、再三ノックしたあとで、ソッとドアを開くと、そこに恐ろしい光景があった。倭文子が血みどろの短刀を手にして、気違いの様な目つきで、老人の死骸の側にうずくまっていた。
 恐ろしい光景を、一目見た書生は、ドキンとして立ちすくんでしまった。
 倭文子の方でも、非常にびっくりしたらしく、ちょっとの間、ガラスの様に無情な目を、一杯に見開いて、書生の顔を見ていたが、血みどろの短刀を持った手を、ゆっくり上げ下げしながらさも極り悪そうに、ニヤニヤ笑い出した。
 書生は「ワッ」といって、逃げ出したい程の恐怖を感じた。てっきり、女主人は発狂したものと思った。
「奥さん、奥さん」
 といったまま、二の句がつげなかった。
 書生が階段を、黒い風の様に、音もなくすべり降りて来て、突っ立ったまま、唇をワナワナふるわせているので、一同忽ち兇変を悟った。
 ドヤドヤと書斎へ上って見ると倭文子は、まだ元の姿勢で、短刀をゆっくりゆっくり、上げ下げしていた。
 被害者の斎藤老人はと見ると、心臓の一突きで、もろくも絶命していた。
 倭文子は昂奮のあまり、半狂乱の体なので、兎も角気を静めるために、階下の彼女の寝室へつれおろした。別にもがく様なこともなく、一言も口を利かなかった。口を利く力もないのだ。
 急報によって、警察から、続いて検事、予審判事などが駆けつけた。畑柳家をめぐって続発する奇怪事に、彼等がこの突発事件を非常に重大に考えたのは当然である。
 型の如く取調べが進められた。
 兇行現場の書斎は、窓はすべて締りが出来ていたし、隣室との境は厚い壁、入口といっては、書生の開いたドアばかりだ。倭文子以外に犯人を想像することは、絶対に不可能である。
 また、倭文子が下手人であることは、本人のおびえ切った態度が証明している。尋ねられると、
「わかりません。私わかりません」
 と、歯をガチガチいわせながら、上ずった声で答えるのみで、直接自白はしないけれど、下手人でなかったら、キッパリした返答が出来ぬ筈はないのだ。
 倭文子は、自室の隅っこで、渋面を作った茂少年を、抱きかかえて、ブルブル震えていたので、一同、まさか彼女が逃亡するとは思わず、つい目を離して、現場調査や召使の訊問を続けていた。
 ところが、調べが終って、いざ拘引しようと、その部屋へ引返して見ると、倭文子と茂少年の姿がない。邸中隈なく探し廻っても、どこにも見えぬ。表へ駈け出して見ても、その辺に影も形もない。女の身で、子供までつれて、大胆不敵にも、彼女は逃亡したのだ。
「ソレッ」というので、警官達は、本署に電話をかけて、手配を頼む。手分けして、捜索に走り出す。という騒ぎだ。
 裁判所の一行も、続いて引取って行く。邸内は嵐のあとの様に、静まり返ったが、それから約一時間、まだ警察から何の知らせもない。倭文子はつかまらぬのだ。
「しかし、子供づれの女が、どうして長く身を隠していることが出来ましょう。やがて、つかまるのは極ってます。そして牢獄です。法廷です。しかも、こんなことになった元はといえば、この僕です。僕はどうしていいか分りません。明智さんに電話をかけたのは、この僕の気持をお話しして、智恵がお借りしたかったのです。僕はこんな明白な事実を、どうしても信じることが出来ません。あの倭文子さんに本当に殺意があったとは思えないのです」
 三谷青年は、はけ口のない苦しみを、恒川警部にぶちまけた。
「実に意外です。僕にしたって、あの畑柳夫人が、人殺しをしようなどとは信じられません。しかし部屋の中に、外には誰もいなかった。しかも、あの人が兇器を握っていたというのは、残念ながら、動かし難い証拠ですね」
「そうです。証拠といえば、もっと悪いことがあるのです」
 三谷は、唇をなめなめ、しわがれた声で話しつづける。
「書斎で倭文子さんと斎藤老人が、争っている声を、女中が漏れ聞いたのです。……」
 その女中が予審判事の前で、ハッキリと陳述した所によると……
「お前を解雇します。たった今、出て行って下さい」
 と、倭文子の甲走かんばしった声が叫んだ。日頃の彼女が、夢にも口にすべき言葉でない。これを以ても、その時二人が、如何に激し合っていたかが分るのだ。
「出て行きません。なくなられた御主人に代って、あなたに忠告致します。どうあっても、あとへは引きません」
 老人のピリピリふるえる声だ。
「女とあなどって、何をいうのです。もう我慢が出来ません。私は気違いです。エエお前のいう通り、気が違ったのです。気違いが何をするか見ていらっしゃい。後悔してもおっつきませんよ」
 と、大体その様な、言葉のやり取りを、女中が聞取っていた。
「その、後悔してもおっつきませんよ。といったのは、どういう意味だと思ったか。殺してやるぞと、短刀でも握っている様子だったか?」
 予審判事が、尋ねると、女中は、
「そうの様にも、思えました」
 と答えた。
「こういうことがあったのです。つまり、辻褄つじつまが合っているのです。この殺人事件には、動機もあり、その意志もあったと、見れば見られるのです」
 三谷が絶望の身振りでいった。
 恒川氏は慰める言葉を知らなかった。どう考えて見ても、すべての事情が、倭文子の犯罪を語っている。これでは逃れる道がない。女の身で、ちょっとあり相もない事だけれど、物のはずみは恐ろしい。ふとした口論が、思わぬ犯罪をひき起すのは、間々ままあること、女とて、恋には、男も及ばぬ暴挙をあえてするものだ。
 彼等は、暫く黙り込んでいた。三谷は三谷の物思いに、恒川氏は恒川氏で別のことを。
 別の事というのは、さっき明智が受取った、賊の予告状と、それと申し合わせた様に突発した、この事件とを、如何に結びつけるかであった。全く聯絡れんらくがない様にも見える。また、何かしらつながりがなくてはならぬ様にも思われる。
 それにしても、唇のない怪物と、彼奴に狙われた倭文子とが、同類だなんて、そんな馬鹿なことがあるだろうか。
 と、そんなことを思い耽っていた恒川氏は、その時、腰をかけているお尻の辺を、チョイチョイと、突くものがあるのに気づいた。
 横を見ると、隣にかけていた、小林少年の手が、自分のうしろへ伸びている。
 おかしなことをすると思って、少年の顔を眺めると、彼は目であるものを指し示していた。テーブルの上の、菓子器の中だ。
 菓子器の中には、羊羹ようかんが並んでいる。見ると、その一つに、誰かがたべさしのまま残しておいたと見えて、かじりかけの歯型が、ハッキリついている。
 子供らしい目のつけ所だと、ちょっとおかしくなったが、しかし、子供の直覚は馬鹿にはならぬ。若しもこの歯型が、明智の持っている、賊の歯型と一致したらと思うと、何かしらゾッとしないではいられなかった。
「三谷さん、変なことを聞くようですが、この羊養は誰がたべさしておいたのです。ご存じありませんか」
 念の為に聞いて見ると、三谷は妙な顔をして、暫く考えていたが、
「アア、それは、確か倭文子さんです。今朝、あの騒ぎが起る前、ここで僕と二人切りでいる間に、かじったのです。いつもお行儀のいい人が、今日に限ってあんなことをすると、変に思ったので、よく覚えています。しかし、それがどうかしたのですか」
 と意外な答えだ。
 恒川警部は、ドキンとした。アア、これが倭文子さんの歯型なのだ。この歯型と、賊の歯型とくらべて見て、万一同じであったら、どういう事になるのだ。と思うと、何ともいえぬ戦慄が、腹の底から、込み上げて来た。
「アア、僕はこうしてはいられません。少しもあてはないけれど、倭文子さんを探して来ます。じっとしているよりましです」
 三谷は、そんなことを独言のように口走ったかと思うと、ヒョロヒョロと立上って、挨拶もせず、客を残したまま、どこかへ出て行ってしまった。
「可哀相に、少しのぼせ上っているようだね」
 恒川氏は、小林少年を顧みて、苦笑した。
「あの歯型のついた羊かん、持って帰って、比べてみましょうか」
 少年は歯型の発見に、夢中になっている。
「それがいい、君これを持って、一度帰り給え。そして、明智君に事情を話して下さい。僕はまだ少し調べたいこともあるから、ここに残っている。用事があったら電話をかけてくれ給え」
 恒川氏は、小林の熱心につり込まれて、つい歯型を比べさせて見る気になった。
 少年が立去ると、警部は二階の書斎に上って、兇行のあとを、入念に調べて見たけれど、別段の発見もなかった。窓はすべて厳重に締りが出来ていた。室内に人の隠れる場所とてもない。つまり、現場には、倭文子さんの外に、犯人の入り込む余地がなかったのだ。
 といって老人が自殺する道理がない。いくら考えても、倭文子さんの外に下手人はないのだ。
 書斎を調べ終ると、二階を降りて、庭に出て見た。これという目的があったのではない。ただ庭園から建物全体を、一度見ておこうと思ったのだ。
 ところが、庭に降りて、少し歩いたかと思うと、妙なものにぶつかった。
 小牛程もある大きな犬が、庭の隅に倒れていたのだ。いうまでもなく飼犬のシグマである。眉間をひどくなぐられたと見えて、血がにじんでいる。邸内に犬殺しが入り込む筈はない、一体誰が、何の為に、この犬を殺したのか。
 不思議に思って、書生や女中達に尋ねて見たが、誰も知らぬとの答えだ。ずっと犬小屋につないであったのが、いつか賊にやられた傷が、ほとんど治癒したので、今朝鎖を解いてやったばかりだと、いうことであった。
 そんなことをしている所へ、明智から電話がかかって来た。もう小林少年がアパートの病室へ、帰りついたものと見える。受話器をとると、明智のやや昂奮した声が聞えて来た。べッドを降りて、態々わざわざ卓上電話まで歩いたのだ。自身電話口へ出なければならぬ程の、用件があるのかしら。
「モシモシ、恒川さんですか。歯型をくらべて見ました。ピッタリ一致します。あれが倭文子さんの歯型なら、倭文子さんこそ、我々の探している怪賊だという、妙な結論になります」
「本当ですか」恒川氏はびっくりして叫んだ、「僕には何だか信じられん。どっかに間違いがあるような気がしますね」
「僕もそう思うのです。あれが倭文子さんの歯型だという証拠は?」
「三谷君の証言です。キッパリいい切ったのです」
「三谷君がね」
 明智はそういって、暫く考えている様子だったが、やがて、
「ところで、そこにシグマという飼犬がいる筈ですね。あれはまだ犬小屋につないでありますか」
 恒川氏はギョッとした。今その犬の死骸を見たばかりではないか。明智は何という怖い男だ。
「今朝鎖を解いたのだ相です。しかし、その犬は、いつの間にか、誰とも知れず、殺されているのです」
「エッ、殺された。どこで?」
 明智は何故、そんなに驚くのだ。
「庭の隅にころがっているのを、今僕が発見した所です」
「アア、恐ろしい奴だ。そいつを殺した奴が真犯人ですよ。なぜって、犯人を本当に知っているのは、広い世界に、その犬の外にはないからです。人間の目は、仮面や変装でごまかされても、犬の嗅覚は、滅多にごまかせませんからね。……僕の気づきようが、少し遅かった」
 明智はさもさも残念そうにいった。

母と子


 恐ろしい執事殺しの下手人となり、その上、彼女こそ唇のない怪物ではないかと、途方もない疑いさえ受けた、可哀相な畑柳倭文子は、一体全体どこへ身を隠していたのか。それにはまた、一場の戦慄すべき物語りがあるのだ。
「それでは、なくなられた旦那様にすみますまい。世間体もあります。御親戚の口もうるさい。いや第一、六つにもなる坊ちゃんにお恥じなさい」
 口論がこうじて、老人も強い口を利いた。
 そう責められると、倭文子は弱味がある丈けに、カッとした。
 一体彼女は、これまでのやり方でも分る通り、年長の夫の極端な愛撫あいぶに、我まま一杯に暮らして来た、感情ばかりの女だ。いい出したことはやり通す、勝気の様だが、実は大きな駄々っ子に過ぎない。
 その彼女が、いわば召使の斎藤老人に、弱点をつかれ、あまつさえ、なき夫の口からも聞いたことのない、はげしい叱責を受けて、くやしさに、のぼせ上ったのは無理もない。
「たった今出て行って下さい。傭人やといにんの癖に生意気な!」
 あられもない暴言が、口をついてほとばしる。我まま者の癖として、彼女はもう目がくらんでいたのだ。一時的狂気の発作に襲われていたのだ。
 目はしの利かぬ老人は、こらえこらえた諌言かんげんだけに、容易にあとへ引こうとはせぬ。
「出て行きませぬ。どちらのいい分が正しいか、御親戚の御批判を待ちましょう」
 とまでいわれては、もう我慢が出来ぬ。倭文子は、じだんだを踏んで、その辺の品物を、手当り次第に投げつけてやりたい程、くやしがった。
「憎い憎いおいぼれ親爺め、くたばってしまえ。くたばってしまえ」
 口には出さなかったけれど、心の中の毒血が、その様にわき立った。
 主人を押えつけ様と、世間体を口実に、のしかかって来る、渋皮親爺の顔を見ていると、歯ぎしりが出た。額のしわも、長い眉も、白っぽい目も、ワシの様な鼻も、入歯の口元も、どれもこれも、たたきつぶしてやりたい程、憎たらしく思われる。
「サア、出て行って下さい。でないと、あたし、かんしゃく持ちだから、どんなことをするか分らなくってよ」
 倭文子はもう、この老人と取組み合いでもしかねまじき権幕けんまくだ。
「サア、おのき、お前の顔を見ていると胸が悪くなる。おのきったら!」
 彼女は老人を掻きのけて、室外へ立去ろうとした。
 老人の方では、今逃げられてはと、一こくに押し戻す。押し戻したのが倭文子にしては、ひどく突き飛ばされた様に感じる。
「マア、主人に向って、何をするの?」
 カッとのぼせ上って、目の前が真っ暗になって、もう何が何だか分らなかった。気絶する程腹が立ったのだ。
 夢中で、老人にむしゃぶりついた様にも思う。また何かを持って、相手をたたきつけた様にも思う。あとになって考えて見ても激昂げっこうきょく、目がくらんでしまって、何をしたのかハッキリは覚えていない。
 気がつくと、老人は彼女の前に長々と横たわっていた。その胸に真赤な花が咲いて、グサッと突立った短剣の柄。
「アラッ!」
 倭文子は、叫んだまま、足がすくんで、動けなくなった。
 覚えはない。決して覚えはない。だが、相手が胸を刺されて倒れているのは、動かし難い事実だ。自分が殺したのではなくて、外に誰がこんなことをするものか。
「あたし、気が違ったのかしら」
 あまりのことに信じ兼ねて、狂気の幻ではあるまいかと、両手で目をこすりながら、ヘタヘタと死骸の側へうずくまった。
「マア、可哀相に、さぞ痛かったでしょう」
 と、妙な気違いめいたことを口走りながら、思わず短剣の柄を握って、傷口から引き抜いた。
 書生の一人が、ドアを開いて、室内をのぞき込んだのは、丁度その時であった。
 倭文子が、夢中で譫言うわごとを口走っているところへ、書生の知らせで、召使達が、顔色を変えて、ドヤドヤと入って来た。
 沢山の顔のうしろに、三谷青年の目が、彼女を責めるように光っているのを見た時、倭文子は初めて、ワッと声を上げて泣き出した。この恐ろしい出来事が、夢でも幻でもなく、取返しのつかぬ現実だと、ハッキリ分ったからである。
 人々は彼女の手から、血みどろの短刀をもぎ離した。腰の筋肉が利かなくなっている彼女を、抱きかかえて、階下の居間へ運んだ。
 その間、彼女はただ、ドクドク、ドクドク、断末魔の様にうちつづける、心臓の音ばかり耳にしていた。ガヤガヤと騒ぎ立てる人声は、自分には何の関係もない、無意味な騒音としか聞こえなかった。
 泣きに泣いて、やっと正気に返った時には、茂少年が、訳は分らぬながら、やっぱり泣き顔になって、彼女の側に、ションボリと坐っているのに気づいた。
「茂ちゃん、母さまはね……」
 倭文子は、いとし子を抱きしめて、泣きじゃくりながらささやいた。
「飛んでもないことをしてしまったのよ。茂ちゃん、お前はね、可哀相に、可哀相に、もうこれっきり、母さまとお別れなのよ。一人ぼっちで暮らさなければならないのよ」
「母さま、行っちゃいや。どこへいくの? エ、なぜ泣くの?」
 六歳の少年には、事の次第がよく呑みこめぬのも無理ではない。
 アア、この子とも永久のお別れだ。今にも、今にも、警察の人達が来たならば、この場から引立てられるにきまっている。そして、絞首台はのがれられぬ運命だ。でも、これっ切り、我子と別れてしまうなんて、そんなむごたらしいことが、本当に起るのだろうか。別れるのはいやだ。子供も、恋人も、何もかもあとに残して、一人ぼっちで死んで行くのはたまらない。
「斎藤のおじちゃん、どうしたの? 死んでしまったの?」
 茂少年の無邪気な質問が、この小さなものにさえ、責められている様で、ゾッとする程恐ろしい。
「ねエ、どうしたの? 母さまが殺したの?」
 倭文子はギョッとして、思わず我子の顔を見つめた。アア、何ということだ。このいたいけな少年が、空恐ろしい直覚で、もうそれを感づいていようとは。
「母さまが殺したのよ。で、母さまも殺されるのよ」
 倭文子は泣き声をかみ殺した。
「誰が?」
 茂はびっくりして、泣きぬれた目をまん丸にした。
「誰が母さま殺しに来るの。殺しちゃいやだア、ねエ、早く、早く、逃げようよ。母さま、逃げようよ」
 母はそれを聞くと、喉の奥で「グッ」というような音を立てて、ハラハラと涙をこぼした。
「お前、人殺しの母さまと一緒に逃げてくれるの? マア、逃げてくれるの?……でもね駄目なのよ。逃げても逃げても、逃げられはしないの。日本中の何千何万という人が、みんな母さまを、つかまえようとして、四方八方から、目をギョロギョロさせているんだもの」
「可哀相ね。……でも、茂ちゃんが、母さま助けてやるよ。その人ひどい目に合わせてやるよ」
 ギュッと抱きしめられた、母のふところの中で、茂少年は、頬を真赤にして、力んでみせるのであった。
 間もなく、倭文子は予審判事の前に呼び出されて、質問を受けたけれど、うまく弁解する智恵も力もなかった。ただ、分りません、分りませんと繰返すばかりだ。
 取調べが済んで、また元の居間に戻り、茂少年と泣き合っている所へ、人目を忍んで三谷青年が入って来た。
 二人はじっと目を見合わせたまま、しばらくの間、だまっていたが、やがて青年が、恋人のそばへ近々と顔をよせて、ささやき声で、しかし力をこめていった。
「僕は信じませんよ。君がやったなんて、決して信じませんよ」
「あたし、どうしましょう。どうしましょう」
 倭文子は恋人三谷のやさしい言葉に、今更の様に、こみ上げて来る悲しみを隠そうともしなかった。
「しっかりなさい。失望してはいけません」
 三谷は、誰か聞く人がありはしないかと、あたりを見廻しながら、やっぱりささやき声で続けた。
「僕はあなたの無実を信じます。あなたがそんな女でないことを知り抜いています。しかし、どう考えても弁解の余地がない。あの部屋には被害者とあなたの外に、誰もいなかった。しかも、あなたは血まみれの短剣を握っていた。事件の起るすぐ前には、あなたは被害者とひどくいい争っていた。すべての事情が、皆あなたを指さしています。予審判事も、警察署長も、あなたを下手人ときめている様に見えます。考えて見て下さい。あの時、誰か部屋へ忍び込んだ奴はなかったのですか。何とかいい開きの道はありませんか」
 三谷の熱心な口調を聞いていると、広い世界に味方と頼むは、この人たった一人だと、感謝の涙があふれて来た。しかし残念ながら、彼を満足させるような答えは出来ぬ。
「あたし、分りません。どうしてあんな恐ろしいことが起ったのか少しも分りません」
 刑事の前でいった同じ言葉を繰返す外はなかった。
「倭文子さん、しっかりして下さい。泣いている時ではありません。このままじっとしていれば、二階の取調べが済み次第、あなたは警官に引立てられて行かねばなりませんよ。僕はあなたを、刑務所に送り、法廷に立たせるなんて、考えただけでも我慢が出来ない。倭文子さん、逃げましょう。僕と茂ちゃんと三人で、世界のはてまで逃げましょう」
 三谷の思込んだ調子に、倭文子はハッと顔を上げた。
「マア、どうしてそんなことが」
 では、やっぱりこの人も、私を本当の下手人と信じているのだ。そうでなければ、逃げるなどといい出す筈がない。
「構わないのです。たといあなたが、本当の人殺しの罪人であったとしても、僕はあなたを牢獄に入れ、絞首台に送ることは出来ません。僕も半分の罪を引受けて、あなたと一緒に、世間から身を隠してしまいます。逃げ方についても、僕は充分考えたのです。実に安全な方法があるのです。こういう内にも人が来るといけない。サア、倭文子さん、決心をして下さい」
 ソワソワとせき立てられて倭文子は真青になった。胸は早鐘をうつ様だ。
「でも、…………」
 アア、無理もない、彼女は心が動いたのだ。たとい悪人でなくても、この場合、女の身で、目先にちらつく牢獄や絞首台を、一ときでも、一歩でも、遠ざかろうとあせるのは当り前だ。
「サア、早く、早く、こちらへいらっしゃい。僕が見つけておいた安全至極の隠れ場所があるのです。不気味でしょうが、夜ふけまで、二人でそこにひそんでいて下さい。あとは僕がいい様に計らいます。僕を信じて下さい。どんなことがあろうとも、あきらめないで、じっと辛抱していて下さい。万一逃げそくなった場合には、僕が凡ての責任を負います。僕があなたを脅迫して無理に逃がしたのだといいます」
 そうまでいわれて、弱い女に、どう反抗する力があろう。倭文子は、茂少年の手をとって(母も子も、一瞬間でも離れていることは出来なかった)足音を忍ばせ、おずおずとあたりに気を配りながら、三谷のあとにしたがって行った。
 幸い召使にも出会わず、たどりついたのは、台所横の物置部屋だ。三谷がそこの床板をめくり、土に覆われた石の蓋をのけると、驚いたことには、その下からポッカリと、真黒な洞穴の口が現れて来た。
「水のかれた古井戸です。危険なことはありません。この中で暫らく辛抱していて下さい」
 いいながら、三谷は敏捷びんしょうに働いて、どこからか、大きな夜具を二枚も抱えて来て、その古井戸の中へ投込んだ。
 今にも人が来はせぬか、来はせぬかと、そればかり気にかけている際とて、三谷がどうして、主人の倭文子さえ少しも知らなかった、この床下の古井戸を発見したのかと、疑って見るひまもなかった。
 倭文子は、三谷の手を借りて、さして深くもない洞穴の中へ、ズルズルとすべり込んだ。
 下には二枚の大夜具が、厚いクッションの様に重なっているので、怪我をする心配は少しもない。続いて、茂少年が、同じ方法で井戸の底へおろされた。
「では、今夜一時頃に、きっと来ますから、それまで我慢していらっしゃい。茂ちゃん泣くんじゃないよ。ちっとも怖いことなんかありやしない。僕の腕を信じて、安心して待ってて下さい」
 頭の上で、三谷の囁き声がしたかと思うと、バラバラと土がおちて、井戸の中は、真の闇となった。石の蓋が出口をふさいだのだ。
 可哀相な母と子は、触覚ばかりの闇の中で、お互にひしと抱き合ったまま、ブルブル震えていた。考える力もない。泣くには余りに恐ろしい身の上だ。
「茂ちゃん。いい子ですから、怖わくないわね」
 母はただ愛児を気づかった。
「僕怖くないの、ちっとも」
 その癖少年の声は、恐怖におののいていた。抱きしめた小さい体が、あわれな小犬の様に、ビクビクけいれんしていた。
 落ちつくに従って、井戸の底の寒さが身にしみた。
 それにつけても、何という行届いた三谷の心遣いであったか。あのあわただしい場合、よく蒲団のことまで気がついたものだ。そのお蔭で、古井戸の底の身にしむ寒気の中で、足の下ばかりは、フカフカと、厚いクッションの様に暖かいのだ。
 倭文子は、その夜具の端のあまった部分を、茂にもかけてやり、自分も肩にまいて、更に寒さをしのぐ工夫をした。
 だが、若しも彼女が、その厚い夜具の下に、何があるかを知ったならば、感謝するどころか、いかに刑罰が恐ろしいからとて、最早もはや一刻も、井戸の底に隠れている気はしなかったに相違ない。
 重なり合った夜具の下に、すぐ土があるのではなかった。夜具と土との間に、ある身の毛もよだつ物体が横たわっていたのだ。それが何であったかは、間もなく読者に分る時が来るであろう。
 それはさておき、三谷青年が企らんだ逃亡手段とは、如何いかなるものであったか。倭文子達は一先ず古井戸に隠れたけれど、そんな所に長くいられるものではない。いずれはやしきを抜け出さなければならぬ。門前には見張りの巡査がいる。邸内には召使の目が光っている。たとえ無事に邸を出たとしても、どちらへ行くにも交番がある。近所の人目がある。倭文子がお尋ねものであることは、もうかいわいに知れ渡っているのだ。それを三谷は、一体全体どうして抜け出す積りであろう。
 倭文子を井戸に隠してから、三谷が明智に電話をかけたこと、それによって、恒川警部と小林少年がやって来たことは前に記した。流石の恒川警部も、物置の床下に古井戸があろうとは気づかず、ただ羊羹の歯型を手に入れ、シグマの死骸を発見したばかりで、むなしく引上げて行った。
 それから、深夜の一時――三谷が倭文子に約束した時間までは別段の出来事もなかった。八時頃、昼間三谷の指図で注文した大きな寝棺ねかんが届けられ、一同で斎藤老人の死骸をその中に納めた外には。
 寝棺は階下の広い日本間に安置され、香華こうげをたむけ、夜更けるまで、家族や弔問客の読経どきょうの声が絶えなかったが、十二時前後、それらの人々も或は帰り去り、或はしんにつき、電燈を消した真暗な広い部屋に、ただ老人の死骸だけがとり残された。
 一時と覚しき頃、その闇の広間へ、影の様に音もなく忍び込んだ人物がある。彼は手さぐりで老人の寝棺に近づくと、ソロソロとそのふたを開き始めた。

葬儀車


 闇の広間へ忍び込み、斎藤老人を納めた棺のふたを開いた男は、読者も想像された通り、三谷青年であった。
 だが、一体全体彼は何の為に、棺のふたなどを開いたのであろう。開いて、中の死体をどうしようというのか。
 闇の中に、鼻をつく屍臭ししゅう、氷の様に冷え切った死体。目がなれるに随って、ほのかに浮出して見える、恐ろしい死人の顔。
 三谷はそれを物ともせず、いきなり、棺の中から老人の死骸を引ずり出すと、軽々と小脇に抱え、音もなく、物の怪の様に部屋を出て、廊下を台所横の物置部屋へとたどりついた。
 死骸を物の蔭に隠すと、彼は例の床板をめくり、石のふたをとりのけ、蚊の様な声で、井戸の中へ呼びかけた。
「倭文子さん、僕です。これからまた別の隠れ場所へ変るのです。しっかりして下さい」
 倭文子のかすかな返事を聞くと、彼は物置部屋にあった小梯子を持って来て、古井戸の中へおろした。
 倭文子と茂少年は、三谷に励まされ、彼の手助けで、やっとその梯子を昇ることが出来た。
「茂ちゃん、だまって。少しでも声を出したら、こわい小父さんが母さまを捕まえに来るのですよ」
 三谷は茂少年に泣き出されることを最も恐れた。だが、おびえ切った六歳の少年は、まるで泥棒猫の様に、身をすくめ、足音を忍ばせ、声を立てようともしなかった。
 三谷は二人を洗面場に立寄らせ、それから、廊下を忍んで、棺のある広間へと連れて行った。
 倭文子達は勿論、三谷もその頃は暗に目がなれて、電燈を消した室内の様子が、ハッキリ見える程になっていた。
「サア、この棺の中へ隠れるのです。大型の寝棺だから、少し窮屈きゅうくつだけれど、あなた方二人位は入れます」
 三谷の異様な指図を聞くと、倭文子はびっくりして、思わず身を引いた。
「マア、こんな物の中へ?」
「イヤ、縁起などをいっている場合ではありません。サア、お入りなさい。この外に、無事に邸の外へ出る方法は絶対にないのです。葬式は明日のお午過ぎです。それまでの辛抱です。死んだ気になって、隠れていて下さい」
 結局三谷のいうままになる外はなかった。倭文子が先に、その裾の方へ茂少年が、重なり合って、棺の中へ横になった。三谷はその上から元通りふたをした。
 それから、彼は物置部屋に引返して、梯子を上げ、石のふたと床板を元通りに直し、斎藤老人の死骸の仕末しまつをした。どんな風に仕末したかは、やがて間もなく分る時が来る。
 さて、翌日出棺の時間まで、棺の中の二人の苦しみはいうまでもないことだが、三谷青年の気苦労も並大抵ではなかった。
 彼は早朝から、棺の側を離れず、中でかすかな音でもすれば、それをまぎらす為に、咳払いをしたり、不必要な物音を立てたり、滑稽な程気をくばった。棺のふたに釘を打ちつけ、中をのぞかれぬ用心をしたことはいうまでもない。
 三谷はこの殺人事件の原因となった人物だけれど、家内の者が、それとハッキリ知っていた訳でもなく、親戚知己ちきは集まって来たが、日頃疎遠の人が多く、倭文子誘拐事件以来、畑柳家の相談役の様な立場にある三谷が、さしずめ葬儀委員長であった。
 定刻が来ると、三谷は人々をせき立てて、出棺を急いだ。
 人夫が棺をかつぐ時には、若し悟られはせぬかと、非常に心配したが、そんなこともなく、生きた親子の潜んだ大型寝棺は、無事門前の葬儀自動車へ運び込まれ、畑柳家菩提寺での葬式も型の如く終り、更に葬儀車は、近親の者の自動車を従えて火葬場へと向った。
 人殺し、短刀、血のり、警察、裁判所、牢獄、絞首台、恋人、愛児、畑柳家、財産、唇のない男、…………というような観念が、あるいは恐怖の、あるいは愛着の、目まぐるしき絵となって、倭文子の頭の中を、グルグルグルグル駈け廻った。
 その癖、とりとめたことは、何一つ考えられなかった。この先、我身がどうなることやら、まるで見当さえつかなかった。
 彼女は無我夢中で、恋人三谷の指図に従った。可愛い、たよりない茂少年を抱きしめて、一刻も手離すまいとする心遣いだけで精一杯だった。
 真暗な、よみじの様な、井戸の底の数時間、そこを出たかと思うと、我家の廊下を、まるで泥棒でもある様に、忍び忍んで、物もあろうに、たった今まで、我手で殺した斎藤老人の、死骸が横たわっていた棺の中へ、親子で身をひそめなければならないとは。
 頑丈な棺ではあったけれど、三谷が釘うつ時に、外からは見えぬ様に、丸めた紙をくさびにして、細い隙間を作っておいてくれたので、空気の欠乏を気遣うことはなかったが、それにしても、狭い箱の中で、音も立てず、身動きも出来ず、出棺までの長い時間、じっとしていなければならぬとは、アア既に、彼女の罪を償う為に、地獄の責苦せめくが始まったのではなかろうか。
 おびえ切った茂少年は、倭文子の裾にちぢまって、地獄の鬼めに、母さまを渡すまいと、彼女の膝小僧を、しっかり抱きしめ、こっそりとも音を立てず、息を殺して、ブルブルふるえていたが、ふと気がつくと、そのふるえがパッタリ止って、呼吸も静かになっていた。おびえながら寝入ったのだ。幼い肉体は、昨日から一睡もせぬ心労にたえかねて、恐ろしい棺桶の寝床の中で、グッスリ寝入ってしまったのだ。
 倭文子は、無邪気な子供をうらやむと同時にいくらか気やすさを覚えた。
 耳をすましても、何の物音もなく、目にはかすかな光さえも見えぬ。身をひそめた棺が、いつの間にか地中に葬られ、上から覆いかぶさった、厚い土の層の為に、光も音も、全く途絶えてしまったのではないかと、怪しまれる程であった。
 心が静まるにつれて、麻痺していた末梢まっしょうの神経が働き始めた。そして、まず鼻をうつのは、ほのかな屍臭であった。
「アア、今の先まで、この中にあの老人の死骸が入っていたのだ。しかも、その老人は、この私が手にかけて、むごたらしく殺したのだ」
 今更の様に、彼女はそれを、ハッキリと意識した。
 今、彼女の頬にさわっている板の、同じ部分に、さっきまで、死人の頬が当っていたのかも知れない。彼女はそうして、間接に、彼女の殺した老人と、頬ずりしているのかも知れない。
 と思うと、何ともいえぬ恐ろしさに、ゾーッと、襟元の毛穴が立った。
 盲目の様な、真の暗闇の中で、死人の怨霊おんりょうが、彼女の身体をしめつけている様な気がする。彼女は、
「キャーッ」
 と叫んで、棺の蓋をはねのけ、いきなり逃げ出したい衝動にかられた。だが、叫ぼうものなら、逃げ出そうものなら、立所たちどころに身の破滅だ。彼女は歯を食いしばって、我慢しなければならなかった。
 不気味な屍臭は、益々強く鼻にしみて、耐え難い程になった。神経という神経が、きゅうかくばかりになってしまったような気がする。
 と、突然、異様な記憶が、彼女の鼻によみがえって来た。
 オヤ! この匂いは今が初めてではない。ついさっきまで、これと全く同じ匂いをかいでいた様な気がする。変だな。一体どこで、そんな匂いがしたのかしら。……アア、そうだ。井戸の中だ。さっきまで身をひそめていた古井戸の中だ。
 井戸の中にいる間は、興奮のあまり、それを意識しなかったけれど、思い出して見ると、匂いばかりではない、あの厚い蒲団の下は、決して平な井戸の底ではなかった。何かしら弾力のある、しかし綿よりはずっとかたい、でこぼこしたものが、足の下に感じられた。
 あれは一体何であったのか、今よみがえった屍臭の記憶とむすび合せて考えると、ギョッとしないではいられなかった。
「でも、まさかあの井戸の中に……錯覚だわ。私の神経がどうかしているのだわ」
 倭文子は、いても、その恐ろしい想像を打消そうとした。そんなことがあるべき道理はないと思った。
 やがて、屍臭とばかり思っていたのが、突然ほのかなバラのかおりとなった。と思う間に、今度は、誰かしらのみだらな体臭がにおって来る。過敏になった彼女の鼻が、幻覚を起したのだ。
 その体臭は誰のものであったか。ふと情慾をそそる様なその匂いは、まぎれもなく、我が三谷青年のものだ。
 併し、アア、またしても、その匂いが、突然彼女の嗅覚の古い記憶を呼び起した。それは三谷の体臭であると同時に、どこかしらの、もう一人の男の体臭でもある様な気がした。
 誰だったかしら。誰だったかしら。
「オオ、そうだ。あいつの匂いだ。マアあいつの匂いだわ」
 倭文子は、この恐ろしい一致に、途方に暮れてしまった。
「あれから、長い間、私はどうして、そこへ気がつかなかったのでしょう」
 何年も何年も胴忘れしていたことを、ポッカリ思い出した感じだ。棺の中の闇と静寂せいじゃくとが、彼女の心に、不思議な作用を及ぼしたのだ。
 三谷と全く同じ体臭の、もう一人の男とは、一体誰のことか。
 読者は、この物語りの初めに、倭文子が青山の怪屋にとじこめられたことを記憶されるであろう。そこの地下室で、唇のない男に襲われた時、彼女が相手の身体から、全く初めてではない、よく知っている誰かの体臭を感じた。という事実をも記憶せられるであろう。
 倭文子は当人と度々たびたび会いながらも、他事にまぎれて、今の今までそのことを忘れ果てていたのだ。それを、今、異常に鋭くなった嗅覚が、ふと思い出したのだ。
 あれは三谷の体臭であった。唇のない怪物は、三谷青年と全く同じ体臭を持っていたのだ。
「マア、なんて馬鹿馬鹿しい暗合でしょう。本当に本当に、私の鼻は、気が違ってしまったのだわ」
 鼻ばかりではなく、頭までも狂ってしまったのではないかと、あまりのことに、倭文子は空恐ろしくなった。
 だが、読者諸君、この二つの不思議な匂いの一致は、屍臭と井戸の中の匂い、三谷の体臭と唇のない男のそれとの二重の符合は、果して倭文子の錯覚に過ぎなかったであろうか。若しや、そこに、何かしら恐ろしい秘密が伏在するのではあるまいか。
 取りとめもない妄想と、恐怖の内に夜が明けた。
 細い隙間から、棺内に忍び込む薄明り。やがて、人の足音、話し声。
 倭文子は、アアまだこの世にいたのかと、ハッと気を引しめた。身動きをしてはいけない。音を立ててはならぬ。息をするにも気を兼ね、我が心臓の鼓動にさえビクビクした。
 それから出棺までの数時間が、彼女にとって、どれ程の地獄であったか。まるで長い長い一生の様にさえ感じられた。
 だが、やっと、読経どきょうが済んで、出棺の時刻が来た。棺を運ぶ為に、人夫の足音が近づいて、ヨッコラショと、倭文子達の体ははげしく揺れた。
 その拍子に、アアどうしよう。茂少年が目を覚ましたのだ。
 茂に声を立てられたら、何もかもおしまいだと思うと、倭文子はゾッとした。
「茂ちゃん、母さまはここにいますよ。怖くはないのよ。怖くはないのよ」
 口を利く訳には行かぬので、両手を伸ばして、下の方にいる我子の頬を軽く叩き、その心を伝えた。
 丁度その時、棺がまた一つ大きくゆれたかと思うと、人夫のドラ声が、
「こいつあ、重い仏様だぞ」
 と力むのが、聞こえて来た。
 倭文子は、若しや死骸の身代りが、ばれはしないかと、ギョッとして、身をすくめたが、人夫達は深くも疑う様子はなく、棺はそのまま表へ担ぎ出された。
 何が仕合せになるか、この人夫の声が、今にも泣き出そうとしていた茂少年を黙らせてしまった。彼は子供ながらも、その一言に、自分達の恐ろしい境遇を思い出したのか、死にもの狂いに、母の膝へしがみついて、身動きもしなかった。
 暫く宙を漂って、やがて、ガタンと何かの上におろされた感じ、ジリジリと棺の底が揺れる音、葬儀車の中へ入れられたのだ。
 ついで、エンジンの響。自動車の走る烈しい動揺。
 倭文子は、ホッと安堵の溜息をついた。もう少し位物音を立てても大丈夫だ。葬儀車の中には、棺の外に人はいない。運転手席も、普通の車と違って、厚いガラスで隔てられている筈だ。
「茂ちゃん、苦しくはない? ね、いい子だから、もう少し我慢しているんですよ」
 ソッとささやくと、少年は、母の腹の上を、無理に上の方へはい上って来た。暗くて見えはせぬけれど、せめて母の顔のそばにいたかったのだ。
 やがて、狭い箱の中で、母と子が重なり合って、窮屈な頬ずりをしていた。そうする為には、お互の後頭部が、棺の板にゴツゴツ当って、ひどく痛かったけれど、痛い位は何でもなかった。
「坊や、堪忍してね。苦しいでしょ」
「母さま、泣いてるの? 怖いの?」
 茂は我が頬に母の涙を感じて、心配そうに尋ねた。
「イイエ、泣いてやしません。もうなんともないのよ。今に三谷の小父さんが助けて下さるのよ」
「いつ?」
「もうじきよ」
 間もなく車はお寺についたらしく、棺が運び出されまたしても、長たらしい読経が始まった。
 倭文子はその間中、人々に感づかれはしないかと、気が気でなかったが、茂少年が、まるで大人の様に用心深くしているので、別段のこともなく、やがてまた、棺は葬儀車内に運ばれた。
「アア、何て待遠しいことだろう。でも、もうほんの少しの辛抱だわ」
 倭文子は何よりも早く恋人の顔が見たかった。あの人の顔さえ見れば、さっきのような恐ろしい妄想も、忽ち消えてしまうのだと思った。
 葬儀車はまたブルル、ブルル走り出した。
「母さま、まだなの?」
 茂少年がたまり兼ねて、たずねた。
「もう少しよ、もう少しよ」
 倭文子は我子に頬ずりしながら、答えた。
「どこいくの?」
 茂は彼等の行先が、ひどく不安らしい様子である。
 聞かれて見ると、母にもそれはハッキリ分らなかった。
 多分どこかで車を止めて、三谷が棺を取出し、蓋を開いて助けてくれるものと、想像するばかりだ。
しも、アア、若しも、どうかして三谷の手筈が狂う様な事があったら、私達は、このまま火葬場へついてしまうのではあるまいか」
 倭文子は、突然、心の底からわき上って来る、名状めいじょうがたい恐怖にとらわれた。

生地獄


 それから長い間、暗やみの動揺が続いて、やっと車が止った。
 アア、とうとう、救われる時が来た。三谷さんは、どこにいるのであろう。呼んで見ようかしら、呼べば、あの人は、きっと懐しい声で答えてくれるに違いない。倭文子は、まさか本当に声を立てるようなことはしなかったけれど、激しい期待に、胸をワクワクさせながら、恋人の手で棺のふたが開かれるのを待ち構えていた。
 やがて、ズルズルと棺の底板のきしむ音。いよいよいまわしい葬儀車から、おろされるのだ。棺を引出しているのは、三谷さんの雇った人夫達であろう。イヤ、ひょっとしたら、あの人もその中に混って、お手伝いをしているかも知れない。
 棺は、車の外に一度おろされたが、すぐまたかつぎ上げられ、しばらくゴトゴトゆれていたかと思うと、ジャリジャリと底のすれる音、カランというほがらかな金属性の響、棺は何か金で出来た道具の上におろされた感じである。
「オヤ、変だな」
 と思う間もあらず、ガチャンと、びっくりするような、金属と金属とぶつかる音。同時にあたりの騒音が、パッタリきこえなくなってしまった。まるで墓場の底のような、ヒシヒシと身に迫る静けさだ。
「どうしたの? ここ、どこなの?」
 汗ばむ程もしっかりと、母のくびにしがみついていた茂少年が、おびえて尋ねた。
「シッ」
 倭文子は、用心深く茂の声を制しておいて、なおしばらく耳をすました。
 ひょっとしたら、三谷の手筈が狂ったのではあるまいか。とすると、ここは一体全体どこであろう。若しや、若しや……
 葬儀車の行きつく先は、いわずと知れた火葬場だ。
 アア、分った、この棺は火葬場のの中へとじこめられてしまったのだ。さっきのガチャンという金の音は、炉の入口の鉄の扉がしまった音に違いない。そうだ。もう少しも疑うところはない。私達は今、恐ろしい炉の中にいるのだ。
 彼女は、かつて近親の葬儀を送って火葬場へ行った記憶を呼び起した。陰鬱いんうつなコンクリートの壁に、黒い鉄のとびらがズラリと並んでいた。
「ここが地獄行きの停車場だね」
 誰かがコッソリそんな冗談をいっていたのをおぼえている。恐ろしい鉄のとびらの並んだ有様は、如何にも「地獄の停車場」みたいな感じであった。
 棺をおさめると、隠亡が鉄のとびらをしめて、外から鍵をかけた。その時のガチャンという、物すごい音が、考えて見ると、さっきの金属性の音と、全く同じであった。
 それから、どうなるのか、くわしくは知らぬけれど、夜になるのを待って、石炭がかれ、朝までには、すっかり灰になってしまうとのことであった。
 近頃では、その外に、便利な重油焼却装置が出来ている。それは、炉の中へ棺を入れるがいなや、四方から火が吹き出して、会葬者が待っている間に、見る見る灰になってしまうという話しだ。だが、今まで何の変ったことも起らぬ所を見ると、これは石炭の炉に相違ない。ひっそりと、静まり返っている様子では、会葬者は皆帰ってしまったのであろう。
 隠亡も、夜更けになって、石炭に火をつけるまで、用事もないので、どこかへ立去ったものに相違ない。
 アア、こうしてはいられぬ。たとい夜更けまでは、安全であるとしても、炉の中にいると分ったからには、どうしてじっとしていられよう。
 生きながら、焼かれる恐ろしさは、思っただけでも身の毛がよだつ。しかも、いとしい我子までも、何の罪もない茂までも、同じに会わねばならぬのだ。
 ほとんど三十分程も、とつおいつ、あわただしい思案を繰返していたが、外からは何の物音も、気配さえも聞こえては来ぬ。
 戸外なれば、ひそかに光りのもれて来る、棺のふたの隙間も、今は一様に真暗で、すぐ目の前の茂の顔さえ、少しも見えぬ程だ。
 いよいよそれときまった。このままじっとしていれば、親子もろ共、焼殺されてしまうばかりだ。もう便々べんべんと三谷の助けを待っている場合でない。彼は何か、よくよくの邪魔がはって、ここへ来られなくなったのであろう。
「サ、茂ちゃん、構わないから、手足をバタバタやって、ありったけの声で呶鳴どなるのです。助けて下さいって」
「母さま、いいの?」
 少年は継子ままこの様におじけた声で聞き返した。きっと狐みたいな目をしていたことであろう。
「もう、お巡りさん、来ないの?」
 アア、何ということだ。倭文子は、焼死の恐れに、現在の我身の境遇を胴忘れしてしまっていた。それを、六歳の幼児に教えられたのだ。
「いけません。いけません。声を出してはいけません」
 世の中に、これ程つらい、苦しい立場がまたとあろうか。じっとしていれば、棺桶と共に焼殺されてしまうのだ。生きながらの焦熱地獄の大苦悶を味わわねばならぬのだ。いとし子を抱た女の身で、これがえ得ることであろうか。
 といって、この思いもよらぬ災厄さいやくを逃れようと、呶鳴り立てて救いを求めたなら、忽ち警察の手に引渡されるは知れたこと。それでなくても下手人とにらまれているのに、この様な大それた逃亡を試みたとあっては、それが何よりも有力な自白となり、もうもうお仕置きはのがれられることでない。
 アア恐ろしい。牢獄だ。絞首台だ。そして可愛い茂とも離れ離れ。この子は、みじめなみなし児だ。イヤ、そればかりではない。棺桶の秘密がバレたら、三谷さんも、重罪犯人を逃がしたかどで、重い刑罰を受けるは知れている。
「どうしよう。どうしよう」
 じっとしていても、逃げ出しても、火あぶりでなければ絞首台だ。右しても左しても、行手には、ただ真暗な死があるばかりだ。
「茂ちゃん。お前、死ぬのは怖いかえ」
 冷い頬と頬とを、ギュッと押しつけて、囁き声で、やさしく尋ねて見た。
「死ぬって、どうするの?」
 その癖、大凡おおよそは知っていると見え、少年は、おびえた様に、小さい両手で、母の頸にしがみついて来た。
「母さまと一緒に、雲の上の美しい国へ行くのよ。しっかり抱き合って、離れないでね」
「ウン、僕いいよ。母さまと一緒なら死ぬよ」
 き上る熱い涙が、くっ着きあった二人の頬の間を、にじむ様に拡がって行った。倭文子の喉が、奇妙な音を立てた。歯を食いしばっても、その歯を割って、こみ上げて来る嗚咽おえつである。
「ではね、お手々を合わせて、心の中で神様にお祈りするのよ。どうか坊やを天国へお連れ下さいましってね」
 アア、何という、ふさわしいお祈りであろう。場所は、棺桶の中なのだ。その棺桶も、ちゃんと火葬の炉の中に納まっているのだ。古往今来こおうこんらい、この様な場所で、神様にお祈りを捧げた人が、一人でもあったであろうか。
 そして、無情の時は、容赦ようしゃもなくたって行った。一時間、二時間、だが、まだやっと日がくれた時分だ。石炭が焚かれるのは、夜更けてからというではないか。
「母さま、僕、死ぬ前に、ほしいものがあるの」
 ふと、茂少年が、妙なことをいい出した。
 それを聞くと倭文子はギョッとした。
 母を困らせまいと、どんなにか我慢に我慢をして来たことであろう。考えて見ると、二日にわたる絶食である。大人の倭文子さえ、痛みを感じる程も空腹なのだ。子供が、とうとう耐え難くなって、それをいい出したのは、決して無理ではない。
「ほしいといっても、ここにはなんにもありはしないわ。いい子ですわね。今に、今に、天国へ行けば、どんなおいしいお菓子だって、果物だって、どっさりありますわ。もう少しの我慢よ」
「そんなものじゃないの」
 茂は怒った様な調子である。
「でもお腹が減ったのでしょう。喉が渇いたのでしょう」
「ウン、あのね、母さまのおちちのみたいの」
 茂ははずかし相に、やっとそれをいった。
「マア、お乳なの。……母さま、笑いはしないことよ。いいとも。さあお上り。少しはひもじさを忘れるかも知れないわね」
 狭い真っ暗な棺の中で、頭や肩をゴツゴツぶっつけながら、茂はやっと母の乳房にすがった。
 彼はまだ、乳の飲み方を忘れてはいなかった。乳頸ちくびを柔かい舌で巻つけて、チュウチュウと、出もせぬ乳を、おいしそうに吸い始めた。そして、一方の手では、あいている方の乳房を、クネクネとひねくり廻しながら。
 倭文子は、久しく忘れていた、両の乳房の物なつかしい感触に、ふと夢見心地になって、現在の恐ろしい境遇も打忘れ、我子の背中を撫でさすりながら、低い悲しい声で、昔々の子守歌を歌い出した。
 しばらくの間、恐ろしい火葬の炉のことも、窮屈な棺桶のことも、迫って来る「死」のことも、みんなどこかへ消え去って、母も子も、春の様になごやかな、夢見心地にひたっていた。
 しかし、そんなことが長く続く筈はない。やがて、二人ともまた恐ろしい現実に引戻され、前に倍する苦痛と恐怖にさいなまれなければならなかった。
 棺の中まで感じられる、冷々とした夜気、もう夜も更けたことであろう。それにしても、三谷さんは、一体全体、どこにどうしていらっしゃるのだろう。こんなことになろうとは、あの人とても、思いもよらぬ所であろう。定めし今頃は、イライラしながら、私達のことを案じていらっしゃるに相違ない。
 それとも、もしや、あの人は今、私達を助けるために、この火葬場へ自動車を飛ばしているのではあるまいか。と思うと、どこか遠くの遠くの方から、エンジンの響が聞こえて来る様な気もするのだ。
「坊や、ホラ聞いてごらんなさい。自動車の音が聞こえるでしょう。あの自動車にね、三谷さんが乗っていらっしゃるのよ」
 倭文子は幻聴を信じて、気違いめいたことを口走り、なおも耳をすました。
 聞こえる、聞こえる。だが、エンジンの音ではない。もっと近くの、倭文子達の真下から聞こえて来る、一種異様の物音だ。
 ザラザラと何かの落る音。カランと金属の触れ合う響。そして、かすかに人の歌う声。
 卑俗な流行歌を歌う、男のドラ声だ。
 アア、分った。隠亡が鼻唄を歌いながら、下の焚き口へ、ショベルで石炭を投げ入れているのだ。
 いよいよ最後の時が来た。
 耳をすますと、気のせいか、ボーと燃え上る炎の音まで聞こえて来る。
「母さま、どうしたの? アレなに?」
 茂が乳房を離して、おずおずとたずねた。勿論ささやき声だから棺と鉄扉てっぴと二重の外まで、聞こえる筈はない。
「茂ちゃん、いよいよ天国へ行けるのよ。今、神様がお迎えにいらっしゃるのよ」
 とはいうものの、倭文子の心臓は、恐怖のために破れ相だ。
「神様、どこにいるの?」
「ホラ、聞こえるでしょう。ボーッという音、アレ神様のはねの音なのよ」
 彼女はもう気が違い相だ。
 茂はじっと聞耳を立てていたが、彼にも火の燃えるかすかな音が聞こえたのか、俄に母にしがみついて、乳房に顔を埋めた。
「母さま、怖い! 逃げようよ」
「イイエ、ちっとも怖くはないのよ。ちょっとの間よ。ほんの少し苦しいのを我慢すれば、私達は天国へ行かれるのよ。ネ、いい子だから」
 火焔の音は、刻一刻強くなるばかりであった。それにつれて、棺内の温度が徐々に昇り始めた。板に燃え移るのも、間もあるまい。
「母さま、熱い」
「エエ、でも、もっともっと熱くならなければ、天国へは行けないのよ」
 倭文子は、歯を食いしばって、我子をしっかり抱きしめていた。
 たえ難い熱さだ。
 もう棺の底に火が移ったのであろう。ピチピチと板のはぜる音と共に、ふたの隙間から、真っ赤な光が、地獄の稲妻の様に、チラ、チラと棺の中を照らし始めた。
「火事! 母さま、火事! 早く、早く」
 茂少年は、出来ぬまでも、棺の蓋を突き破って、逃げ出そうと、もがき廻り、はね廻った。
 棺内の空気は乾燥しきって、ほとんど呼吸も困難になって来た。それよりも恐ろしいのは、底の板のやける熱度だ。観念をした倭文子でさえ、もう我慢がし切れなくなった。
「アア、分った。やっぱりそうなのだ」
 最後の瞬間、火焔のようにハッキリと、倭文子の頭にひらめいたものがあった。
 三谷さんは、私達を棺に入れる時から、それが火葬場の炉の中で焼捨てられることを、チャンと知っていたのではあるまいか。
 三谷青年がすなわち唇のない怪物ではなかったか。あの体臭の一致を何と解釈すればよいのだ。
 何もかも、最初から、深くも企んだ悪事だ。ひょっとしたら、斎藤老人の変死事件も、悪魔がたくみなトリックで、さも私が下手人と思い込むように、仕向けたのではあるまいか。アア、恐ろしいことだ。
 倭文子はかつぜんとして、何事かを悟った様に思った。
「それなれば、それなれば、私は今おめおめと死ぬべき時ではない。どうともして、この窮地を逃れ濡衣ぬれぎぬをほさなければならぬ」
 彼女は俄に、茂と一緒になって棺のふたを破ろうと、死にもの狂いにもがき始めた。
「茂ちゃん。サア、もう構わないから、呶鳴るんです。外の小父さんに聞えるように、わめき立てるのです」
 そして、母と子は、ワーッと、泣くとも叫ぶともつかぬ、恐ろしいうなり声を立てて、滅多無性に棺の板を蹴りたたき始めた。
 だが、何をいうにも、厚い板と鉄の扉で、二重に隔てられている上に、ごうごうと燃えさかる火焔の音にさまたげられ、充分には外へひびかぬ。のみならず、隠亡にして見れば、まさか棺の中に、生きた人間が入っていようとは、思いもよらぬので、たとい少々声が聞えても、それと気づく筈がない。
 アア、そういう内にも、火は既に棺の底を焼抜いて、真赤な焔がチョロチョロと倭文子の着物の裾をなめ、むせ返る煙に、母も子も早や叫ぶ力さえなくなってしまった。
 生地獄、本当に生地獄だ。
 誰がした訳でもない。倭文子が殺人罪を犯した。それを恋人の三谷青年が、機智きちを働かせて、棺桶という絶好のかくみので、邸から逃がしてやった。一つ間違えば、この様な焦熱地獄が待構えていようとは、当の倭文子は勿論、三谷さえもつい気づかないでいたのだろう。
 斎藤老人を殺したといっても、倭文子自身では、まるで知らない間に起ったことだ。過失かしつとでも何とでも、弁解の道はあろうものを、ただ裁判所恐ろしさ、牢獄恐ろしさ、逃げ隠れをしたばっかりに、絞首台よりもっとむごたらしい、焦熱地獄へ落込んでしまった。運命というものの恐ろしさだ。
 だが、三谷も三谷である。折角苦心を重ねて逃がしておきながら、今になっても何の音沙汰がないとは、一体どうしたというのだろう。
 若しや、倭文子の恐ろしい疑いが当って、三谷こそ、世にも憎むべき悪魔ではなかったか。彼は先の先まで考えて、彼女に、この焦熱地獄の苦しみを与える為に、棺桶のトリックを案じ出したのではなかろうか。
 それなれば、倭文子にどの様な恨みがあるのかは知らぬけれど、彼のくわだては、充分すぎる程成功したといわねばならぬ。世の中にこれ程残酷な責め苦が、またとあろうとは思われぬからだ。
 それはとも角、倭文子の苦しみは、最早ここに書き記すのも恐ろしい程であった。
 火焔は母の着物の裾に、子の洋服のズボンに、チリチリと燃え移り、避けるにも、身動きもならぬ箱の中、その上ふたを押し上げようと、力をこめれば、焼こげてもろくなった底の方が、メリメリとくずれ相で、もう棺を破ることも出来ぬ。ただ声を限りに泣き叫ぶばかりだ。
 だが、その泣き叫ぶことさえも、今は不能になった。立ちこめる毒煙は、目、口、鼻を覆むせ返り咳き入って、叫ぶはおろか、息も絶え絶えの苦しみである。
 無慙にも、幼い茂少年は、もう母親の見境がつかず、まるで彼女を恨み重なる仇敵でもあるかの様に、倭文子の胸に武者振むしゃぶりつき、柔かい肌に、けものの様な爪を立てて、かきむしり、かきむしるのであった。
 そして、アア、何というむごたらしいことだ。我子の苦悶を見るにたえ兼ねた母親は、自分も死に相にうめき入りながら、無我夢中で茂の頸に両手をかけ、絞め殺そうとしたのである。
 丁度その時、どこかで、ガチャンという音がしたかと思うと、棺が地震の様に揺れて、メリメリと板の割れる音がした。
 いよいよ最後だ。生身いきみの身体が、燃えさかる火の中へ落ち込んでチリチリ溶けてしまうのだ。オオ神様!……
 ふと目を見開くと、だが、不思議なことに、彼女はまだ死んではいなかった。そればかりか、いつしかあの恐ろしい熱さも煙もなくなって、ポカリと開いた棺の上から、じっと彼女を見おろしている顔は、何と、三谷青年ではないか。
 これが断末魔の幻覚ではないかと思うと、ゾッとした。
「倭文子さん、しっかりして下さい。僕です。こんなひどい目にあわせてしまって、実に申訳がありません」
 聞きなれた三谷の声だ。懐しい恋人の顔だ。アア、幻覚ではない。救われたのだ。とうとう救われたのだ。
「警察の見張りがきびしくて、今の今まで、抜け出して来る機会がなかったのです。僕はどんなに、イライラしたでしょう。でも、やっと間に合って仕合わせでした」
「マア、三谷さん!」
 倭文子は、ただ胸にせまって、泣くより外はなかった。

墓あばき


 それから、どんなことがあったか。
 倭文子と茂少年は三谷につれられて、ソッと火葬場を抜け出しどこかへ立去った。
 隠亡には、三谷から充分の謝礼をして口止めした上、倭文子達の代りに、衛生標本屋から買って来た、一体の人骨を棺に入れ、骨上げの時疑われぬ用意をしておいた。
 倭文子は一たんあの様に三谷を疑ったものの、こうして救い出されて見れば、根もない疑いにすぎなかったことが判明した。正直にそのことを打ちあけて、本当に済みませんでしたと、詫言わびごとをした程だ。
 彼等が火葬場から、立去った先が、畑柳家でなかったことはいうまでもない。では一体どこに隠れ家を求めたのか。そして、そこでどの様な事件が起ったか。
 倭文子達が求めた隠れ家というのは、全く想像もつかぬ様な、奇怪千万な場所であった。また、そこで起った事件というのは、実に身の毛もよだつ、文字通り前代未聞の恐ろしい出来事であった。だが、これをお話しする前に、事の順序として、しばらく、我が明智小五郎の、これまた甚だ異様なる行動について、紙面を費さねばならぬ。
 斎藤老人の葬儀があった日には明智は病床から起き上って、もう忙しく活動していた。その都度つど様々の人物に変装して、度々外出した。
 葬儀の翌々日、恒川警部が明智のアパートを訪問した。
「もう起きているんですか、大丈夫ですか」
 恒川氏は、明智の元気に驚いて心配そうに尋ねた。
「イヤ、寝てなんかいられませんよ。事件はますます面白くなって来るじゃありませんか」
 明智は警部に椅子を勧めながら例のニコニコ顔でいった。
「事件というと?」
「無論畑柳事件ですよ。唇のない悪魔の一件です」
「エエ、それじゃ、何か犯人の行方について手懸りでもあったのですか。僕等の方では、斎藤老人殺しの下手人の畑柳夫人捜索に全力を尽しているのです。歯型の一件といい、あの夫人を探し出してたたいたら、唇のない奴の方も種が割れ相な気がしますからね。しかし、女の身で、しかも子供づれで、よくもこんなにうまく逃げられたものです。いまだに何の手懸かりもありません」
 恒川氏は正直な所を打ちあけた。
「イヤ、僕だって、確なことはまだ分っていないのです。併し手懸かりはあり余る程あります。それを一つ一つたぐって行くだけでも、大変な仕事です。寝てなんかいられませんよ」
 それを聞くと警部は、ちょっといやな顔をした。警察の方ではそんなにあり余る程手懸りはないのだ。でもまさか、職掌柄、頭を下げて明智の発見した手懸かりを、教えてくれともいえぬ。
「たとえばですね」
 明智は相手の顔色を見て取って水を向けた。
「例の代々木のアトリエにあった三人の女の死体ですね。あれの身元は分りましたか」
「アア、それなれば、僕の方でも手を尽して調べているのですが、不思議なことに今もってあれに相当する様な、家出娘を発見しないのです」
「あの三人の娘は、みなひどくらんして、顔も何も分らなくなっていましたね」
 明智はふとそんなことをいって相手の顔をジロジロ眺めた。恒川氏は、
「そうでした」
 と答えたものの、明智の意味を悟りかねて困惑の体だ。
「ところで、恒川さん。幸いあなたが御出でになったから、一つ見て頂きいものがあるのですよ」
 明智の話しはまたもや飛躍した。
「なんです、拝見しましょう」
 警部は、それがあんな奇妙な代物とは、思いもよらず、気軽に答えた。
 明智は席を立って、次の間のドアを開いた。彼の居間兼書斎である。
「あれです」
 恒川氏も立って、ドアの所まで来たが、一目書斎をのぞき込むと、流石の鬼刑事も、度胆を抜かれて「アッ」と立ちすくんでしまった。
 そこには、探しに探していた、畑柳倭文子と茂少年が、こちらをむいてたたずんでいた。
 チラと見た時には、明智の助手の文代さんと小林少年かと思ったが、次の瞬間、そうでないことが分った。「この素人探偵にまた出し抜かれたか」と思うと、警部は腹が立った。それに、何も、こんな芝居がかりな披露をしなくてもよいことだ。
「どうして君は……」
 と、思わず口走ったが、次の言葉が出ぬ。
「ハハハハハハ、恒川さん、勘違いをしてはいけません。何もそんなにびっくりすることはないのですよ」
 明智はツカツカと倭文子の側に近よって、その美しい頬のあたりを、指先で、バチバチとはじいて見せた。
 恒川氏は残念ながら、もう一度びっくりしないではいられなかった。倭文子は、明智の為にそのような侮辱を受けても、顔の筋一つ動かさないで、突っ立っている。彼女は生きてはいないのだ。非常によく出来た蝋人形に過ぎなかったのだ。
「併し、あなたでさえ、見違える程に出来たかと思うと、愉快ですよ。日本にもこんな立派な蝋人形を作る工場があるのです」
 明智は満足そうに、ニコニコ笑った。
「驚きましたね」
 恒川氏も笑い出して、
「だが、どうして、こんな人形を作らせたのです。君のおもちゃにしては、少し変だし」
「どうして、おもちゃなんかじゃ、ありませんよ。これでも立派な使い道があるのです」
「西洋の探偵小説じゃあるまいし、人形の換玉が、何か役に立ちますかね」
 警部は、皮肉な調子でいった。明智の突飛なやり口が、一々しゃくにさわって仕方がないのだ。
「この洋服は」明智はそれには取合わず、説明を始めた。「文代さんが出来合いの安物を買って来て着せたのです。裸身では人形がはずかしがるだろうといってね。というのは、この人形は、首だけではなく、手足も胴体も、本物そっくりに、完全に出来ているからです」
「ホウ、大したもんですね。余程手間がかかったでしょう」
「イヤ、三日間で出来上ったのです。胴体は、工場にあり合わせのものを使い、首だけを、幾枚もの写真によって、彫刻し、それを型にして作りつけたものです。彫刻は友人のK君に頼んだのですが、弟子に手伝わせて、一昼夜で仕上げましたよ。こんな仕事は初めてだとこぼしていました」
「そんなに早く出来るものですかね」警部は信じられぬという顔つきだ。
「死にもの狂いでした。今日までにどうしても入用だったものですからね。その代り費用はフンダンにかけましたよ」
 今日までに入用であるといえば、明智は今にも、この人形を使って、一仕事する積りに相違ないが、一体全体この男何を目論もくろんでいるのだろう。時々子供だましみたいなことを始めるが、それがいつも奏効するのは不思議な程だ。
 警部は人形の用途が、聞き度くて仕様がなかったが、今更たずねるのも癪なので、わざと問題にしない体をよそおっていた。
「ところで恒川さん、一つお願いがあるのですが、ちょっと、民間探偵の手に合わない事柄なのです」
「君のことだから、出来る限りは便宜を計りますよ。イヤ、捜査に関することなら、僕の方でそのしょうに当りますよ。だが、一体何です」
「実は墓地を掘返して、死体を調べたいのです」
「墓地ですって?」
 警部はけげんらしく、聞返した。
「エエ、墓地を四ツばかり……」
 明智は益々変なことをいう。
「四つ? 一体何を調べようというのです。誰の死骸です」
「第一は、例の鹽原で入水自殺をした岡田道彦です」
「なるほど、あの死骸は、鹽原の妙雲寺の墓地に、土葬にしてある筈ですから、調べられぬことはありません。しかし、もう原形をとどめてはいないだろうと思いますが」
「でも、骸骨にだって、歯けは残っている筈です」
 やっと明智の考えが分った。
「アア、そうでしたか。その死骸の歯と、小林君が歯医者でもらって来た、生前の岡田道彦の歯型とを、くらべて見ようという訳ですね」
「エエ、念の為に。それを確めないでは、どうも安心出来ぬのです。その二つの歯型の一致を見るまでは、岡田が唇のない怪物と同一人物でないという、確信がつかぬのです」
「よろしい。それは決して無駄な仕事でないようです。墓地発掘の手続きは、僕が引受けますよ。……だが、君はさっき、墓地を四つといいましたね。岡田の外に、まだ見なければならぬ、死骸があるのですか」
「死骸というよりは、むしろ、……」
 明智はちょっと苦笑した。
「死骸のないことを確めるのです。つまり、埋葬された棺桶が、からっぽになっていることをです」
「エ、エ、では、死骸が盗まれた事実でもあるとおっしゃるのですか。それはどこです。誰の死骸です」
「誰のだか分りません。あてずっぽうに、発掘して見るのです」
 明智は何をいい出すのだ。まるで気違いの沙汰ではないか。
「あてずっぼうといって、どの墓とも分らないで、どうして発掘出来るのです」
「イヤ、それは僕も知っています。この節、東京附近で死骸を土葬にする例は、非常に珍らしいのですから、探し出すのに、大して手間はかかりませんでしょう」
「すると、もうその墓を探してあるのですね。だが、一体何者の墓なのです」
「三人の娘さんの墓です。ホラ、あのアトリエで、石膏につつまれていた、可哀相な娘さん達の棺です」
「棺といっても、あれらは、もう役場の手で、火葬にしてしまったではありませんか」
「イヤ、それは僕も知っています。発掘したいのは火葬になる前のもう一つの墓地なのです」
「エ、なんですって、では、あの娘達は、二度埋葬されたとおっしゃるのですか。……アア、成程、成程今までそこへ気がつかぬとは、僕は何というかつ者だ。……つまり、アトリエの死骸は、殺したのでなくて、どこかの墓地から、既に死んだ娘達を、盗み出して来て、あの奇妙な石膏像を作ったのだ。という考え方ですね」
 恒川氏は、明智の想像力に、少からず驚かされた。
「そうです。僕達はいつも、表面上の見せかけの裏を考える必要があります。すぐれた犯罪者は往々その手を用いるからです。唇のない男は、殺人淫楽的な、一種の変質者の様に考えられています。そうとしか見えない様に、仕組まれていますが、これは犯人の巧なお芝居かも知れません。で、僕は、犯人はその反対に決して殺人淫楽者でも、精神病者でもないという見方をして見たのです。この事件では、非常に沢山の人が殺されている様に見える。だが、本当は、犯人は、まだ、殆ど人殺しをしていないのではないか。という見方です」
 明智の言葉は益々突飛である。
「では、君は、この事件が、殺人事件でないというのですか」
 恒川氏は驚いて尋ねた。
「強いていえば、殺人未遂みすい事件でしょうね」
 明智はもうもうと立昇るフィガロの煙の中からいった。
「未遂?」恒川氏はびっくりして「しかし、あの三人の娘を別にしても、まだ二人殺されている者があるではありませんか」
「二人? イヤ、三人ですよ。それも君のお考えになっている人物とは、まるで違っているかも知れません」
「いずれにもせよ。殺人が行われたのではありませんか」
 恒川氏は、なぞのような明智の言葉に、ジリジリしていった。
「決して未遂ではありません」
如何いかにも、人は殺されました」明智は落ちつき払って「しかし、賊はまだ真の目的を達していないのです。今までの人殺しは、賊にとっては、たとえば、前奏曲に過ぎなかったのです。彼の真意はもっと別の所にあるのです。恒川さん、覚えておいて下さい。僕がこの事件を殺人未遂だといったことを。いつかそれを、解きあかしてお目にかける時が来ると思います」
 恒川氏が、このなぞのような説明を求めても、明智はそれ以上語ろうとしなかった。また、恒川氏にしても、我が無能をさらけ出して、根問ねどいするは演じなかった。
「では、墓地発掘のことを承知しました。それぞれ手続きをとって、僕の方でやりましょう。無論、君が立会って下さるのは御自由です」
「どうかお願いします。併し、恒川さん。これはただ念のために、動かし難い証拠を蒐集しゅうしゅうして置くというまでのことで、外に緊急な仕事がないのではありません。僕はそれを済ませて置いて、墓地の方へ行くことにしましょう」
 会話が変にこじれて来た。官吏と民間探偵とが、同じ事件に関係し、しかも、後者の腕前がすぐれているのだから、是非もないことだ。
 その翌日、約束に従って、鹽原妙雲寺の岡田道彦の墓地が発掘された。裁判所の人々、警視庁からは恒川氏、土地の警察署長、明智小五郎などが立会った。予審判事のS氏は、外遊以前から明智と知り合いで、少からず好意を持っていたので、素人探偵の申出を採用するのに、こだわることもなく、スラスラと事が運んだ。
 人夫のくわの一振りごとに、土が掘起され、その下から、粗末な棺桶のふたが現れて来た。桶は湿気のために、黒ずんでいたけれど、元の形を保っていた。
 人夫はなれたもので、何の躊躇もなく、そのふたをこじあけた。途端に鼻をつく異臭、腐りただれて、なかばとけて流れた、恐ろしい死骸。二目と見られぬ有様だ。
 人夫達はその棺桶を、ソッと地上へ抜き出して、まぶしい白日の下にさらした。あまりの気味悪さに人々は思わず顔をそむけたが、役目柄、逃げ出す訳には行かぬ。
「歯型を、歯型を」
 予審判事S氏の言葉に、明智は用意の歯型(歯医者から手に入れた、生前の岡田道彦のものだ)を取出し、一人の警官に手渡した。
「死骸の口を開くのだ」
 警官は、怒った様な声で、人夫に命じた。
 だが、口を開くまでもない。死骸の顔には、もうほとんど肉というものはなく、長い歯並が、むき出しになっているのだ。
「ヘエ。こうですか」
 人夫は、勇敢にも、その骸骨の、食いしばった歯に手をかけて、ガタンと口を開いた。
 警官はしゃがみこんで、渋面を作りながら、石膏の歯型を、死骸の歯に合せて見た。
 立会いの人々も、頭を集めて、近々と骸骨の口をのぞき込んだ。
「寸分違いません。全く同じです」
 警官が、手柄顔に大声を上げた。如何にも、骸骨の歯並と、石膏の型とは誰が見ても、全く同じものであった。
 先ず三谷青年が疑い、明智を始め警察の人々も、一時は同じ疑いを抱いていた、怪画家岡田道彦は、本当に死んでいたのだ。顔のくずれた溺死体は、彼が唇のない男と化けて、悪事をたくましゅうする為に、別人の死骸を替玉に使った訳ではなくて、失恋自殺をとげた上、あらぬ汚名を着せられた、憐れむべき人物であることが分った。
 しかし、これで岡田のえんざいは明かになったが、そうなると、一方において、また新しい疑問が生じて来る。
「毒薬決闘を申出たり、倭文子さんの写真に筆を加えて、恐ろしい死体写真を置みやげにしたり、また例のアトリエに死骸の石膏像を作ったりした岡田道彦が、まるで、世間知らずのウブな青年のように、あの位のことで、自殺してしまった心理の飛躍が、非常に不自然に見えたのです。この点をハッキリさせることが出来たら、その時こそ、唇のない怪物のなぞも自然解けてくるのではないかと思います」
 妙雲寺の墓地で、S予審判事や恒川警部に洩らした、明智のこの言葉は、間もなく成程と思い当る時が来た。
 それはさておき、その翌日、今度は代々木の怪アトリエから程遠からぬ、O村の西妙寺せいみょうじというお寺の墓地に、引続いて発掘が行われた。
 どういう関係か、O村には古風な土葬の習慣が残っていて、葬いがある毎に、西妙寺の広い墓地には、生々しい昔ながらの、土饅頭つちまんじゅうが築かれた。
 そのことを聞き込んだ明智が、西妙寺に出向いて調べて見ると、年配も、埋葬の時期も、丁度例のアトリエの三人の娘に相当する、若い女の死人があったことが分った。
 なお探って行くと、寺男の話しでは、その娘さん達を埋葬して間もなく、深夜その墓場を、怪しげな人影がうろついているのを見た、という事実さえ分って来た。
 墓地の様子を見ても、どことなく異様な点があったし、それに、の三人に相当する家出娘がないことも、今日の墓地発掘の、重大な理由となった。
 さて、発掘の、結果はどうであったか。
 手っ取早くいえば、明智の想像が的中したのだ。目ざす三個の棺桶は、全く空っぽであることが分ったのだ。
 イヤ、空っぽといっては少し当らぬ、棺の中には、死体はなかったけれど、その代りに妙なものが入っていた。
「オヤ、妙な紙切れが落ちてますよ」
 人夫の一人が、棺の底から、それを拾い上げて、恒川氏に渡した。
「何だか書いてある。手紙の様ですぜ」
 棺桶の中に手紙とは、一体全体誰に宛たものであろう。
「明智小五郎君……ヤ、ヤ」警部が頓狂な叫び声を立てた。
「明智さん、これは君の宛名になっていますぜ」
 明智が受取って、読んで見ると、その文面はの様なものであった。
明智小五郎君。
この墓地に気づき、この棺をあばくものは、恐らく君であろう。だが、まことに残念ながら君は少し遅すぎた。もうすべては終ったのだ。この棺の中から、死骸を盗み出した人物は、既に彼の最後の目的を達したのだ。君は、ついにこの棺をあばいた。だが、それが何を意味するか、君は知っているだろうか。
その人物は、ちゃんとプログラムをめておいたのだ。明智小五郎がこの棺をあばいた時こそ、彼の最期さいごだと。
君は、既に死の宣告を与えられたのだ。如何なる防備も、敵対も、その人物にとっては、全然無力であることを知るがいい。
「またか。僕はやつの脅迫状を受取るのが、これで三度目ですよ。何というお芝居気だ」
 明智は、紙片を丸め捨てて、苦笑した。

魔の部屋


 いやな墓地発掘の仕事が、一段落をつげると、裁判所の人々はサッサと引上げて行った。所轄警察の一行も可哀相な娘達の一家を調べる為に、分れて行った。
 あとに残ったのは、警視庁の恒川警部と、明智小五郎である。
「僕は何だか、君達にかつがれている様な、変てこな気持ですよ」
 警部が、お寺の門の方へ、ブラブラ歩きながらいった。
「君達ですって?」
 明智は例によって、にこやかに微笑している。
「君と、唇のない男とにです」
 恒川氏も、ニヤニヤ笑っている。
「ハハハハハハハ、君は何をいい出すのです」
「君とあの賊とが気を合せて、僕達を飜弄ほんろうしている。というような感じがするのです。君の想像は、まるで神様のように的中する。しかも賊の方では、その上を越して墓地が発掘されることを予言し、空っぼの棺の中へ君に宛て手紙を残しておくなんて、君と賊とが、あらかじめ打合せでもしているのでなけれや、不可能なことです」
 警部は冗談か本気か、判断のつかぬ調子で、そんな事をいいながら、ニヤニヤと明智の顔を眺めた。
「ハハハハハハ、愉快ですね。僕と唇のない男がグルだなんて、ルブランの小説の筆法で行くと、僕が一人二役を勤めて、ある時に素人探偵となり、ある時は唇のない怪物と化けて、一人芝居をやっている、という妄想も成立ち相ですね。ハハハハハハハ」
 恒川氏も、とうとう声を上げて笑い出した。
「小説といえば、この犯罪は非常に小説的ですね。僕達にはちっと苦手ですよ。登場人物も、唇のない怪物を初めとして、画家だとか、小説家だとか、非実際的な連中ばかりですからね」
「それですよ。いつもすぐれた犯罪者は小説家です。たとえば今の棺の中の手紙の一件にしても、今度の犯人が、非常な小説家であることを証しています。第一、相手の探偵に脅迫状を書くなんて、決して実際的の人間のやる仕草ではありませんよ。僕は第一回の脅迫状を受取った時に、この犯人の性格を見てとったものだから、その心持で、こちらも小説的になって、推理を働かせて見たのです」
 それを聞くと、恒川氏はひどく感にうたれた様子で、
「アア、君は生れつきの探偵です。今のお話は、探偵術の虎の巻です。探偵の方で、犯人と同じ心持になる、犯人が学者なら、探偵も同じ程度の学者に、犯人が芸術家なれば、探偵も芸術家に、政治家なれば政治家に、なり切る程の力がなくては、本当の推理が出来るものではありません。しかし、今の刑事達に、一人だって、そのような人物がいるでしょうか。僕なんかも、ただ多年の経験によって、仕事をしているだけで、少し突飛な犯罪になると、今度のように手も足も出ない有様です」
 と、心から敬意をひょうした。
「ハハハハハハ、僕のまぐれ当りを、そんなにほめ上げてはいけません」
 明智は、頬を赤らめて無邪気にいった。
「しかし、君、怖くはありませんか。奴のはただのおどかしではない。文代さんがあんな目に会ったのも、脅迫状の文句を実行して見せた訳でしょう。今度は警戒しなくていいのですか」
 恒川氏は不安らしくいう。
「イヤ、それは、僕の方でもあらかじめ、用意しています。今度はもう、あんなヘマはやらぬ積りです。……ところで、お差支えなければ、これから、畑柳家へ、おいでになりませんか。多分三谷君がいるでしょうから、その後の様子を聞いて見ようではありませんか」
「アア、僕も今、それを考えていた所です」
 そこで二人は、門前に待たせて置いた自動車を、東京の畑柳家へと走らせた。そして、例の鉄扉いかめしい門前に降り立ったのは、もう暮れるに間もない時分であった。
 主人は獄死し、引続いて夫人と遺子とが行方不明になった畑柳家は、まるで空家のように森閑しんかんとしていた。
 明智と恒川警部がおとずれると、丁度三谷青年が来合わせていて、客間へ案内した。
「この家は、親戚の人達が管理することになっているのですけれど、皆様子を知らない人ばかりで、雇人達を相手に、どうすることも出来ないので、こうして僕が時々見廻っている訳です」
 三谷はやや弁解めいていった。
「ところで、畑柳夫人からは、何のたよりもありませんか」
 警部が、とりあえず尋ねて見る。
「ありません。僕の方こそ、それを御聞きしたいと思っていたのです。警察の捜索は、どうなっているのでしょう」
「警察でも、まだ手懸かりさえありません。実にうまく逃げたものです。とても、か弱い女の智恵とは考えられません」
 警部は三谷の顔をジロジロ眺めた。
「僕も驚いているのです。誰もあの人達が、この家を出る所を見たものさえないのです」
 三谷は、自分で逃がしておきながら、まことしやかに驚いて見せる。
「この邸は、手品師の魔法の箱みたいなものですよ。手品師の箱という奴はちょっと見たのでは、何の仕掛けもないけれど、その道のものには、どこに、どんなカラクリがあるか、ちゃんと分っているのです」
 明智が突然妙なことをいい出した。
「すると君は、この建物に、何か秘密のカラクリがあるというのですか」
 恒川氏が、けげんらしくたずねる。
「そうでなければ小川正一と名乗る男の死体紛失といい、倭文子さんの不思議な逃亡といい、解釈のしようがないではありませんか」
「しかし、警察では、小川の事件の折、邸内の隅から隅まで、一寸もあまさず、念に念を入れて検べ上げたではありませんか」
「サア、それが素人の検べ方であったかも知れませんね。手品師の秘密は、やっぱり手品師でなければ分らぬものですよ」
「というと、何だか、君にはその秘密が分っているような風に聞こえますね」
 恒川氏は、ある予感におびえながら、でも、聞き返さないではいられなかった。
「エエ、ある程度までは」明智は少しも語調をかえないで答える。
「では、なぜ、今までそれをだまっていたのです。そんな重大な事を……」
 警部は思わず烈しい調子になる。
「イヤ、時期を待っていたのです。かつにしゃべっては、却て相手に用心させるばかりですからね」
「成程、で、その時期は一体いつ来るとおっしゃるのですか」
「今日です。今がその時期です」明智はこの重大な事柄を、やっぱりニコニコ笑いながらいっている「いよいよ唇のない男を捕える時が来たのです。奴の正体をあばく時が来たのです。恒川さん、実は、君をここへお誘いしたのは、その手品師の秘密をお目にかけたかったからですよ。幸い、三谷さんもいらっしゃるし、好都合です。これから三人で、魔法の箱のカラクリを見聞しようではありませんか」
 思いもかけぬ素人探偵の言葉に、恒川氏も三谷青年も、あっけにとられて、返事も出来ぬ有様だ。
「先ず第一に、小川正一の殺された、二階の書斎を検べましょう。いつかもいった通り、今度の事件を解決するかぎは、あの魔の部屋に隠されているのですよ」
 やがて、三人は問題の魔の部屋、故畑柳氏の洋風書斎の、仏像群の前に立っていた。
 そこへ、これはどうしたことだ、一人の書生が、人の背丈せいたけ程もある、大きなワラ人形をかかえて入って来た。
「君、どうしたんだ。妙なものを持込むじゃないか」
 それを見ると、三谷がびっくりして書生を叱った。
「イヤ、いいんです。それは僕が頼んでおいたのです。こちらへ下さい」
 明智が書生からわら人形を受取って、
「実はこの人形が、今日のお芝居の役者を勤めるのです」と、またもや妙なことをいい出した。
「お芝居ですって?」恒川氏も三谷青年も、思いがけない明智の言葉に、あっけにとられてしまった。
「この書斎が、どうして今度の事件の中心となっているか、ここにどんな手品師のカラクリ仕掛けがあるか、それを口で説明するには、少し込み入っているのです。説明したばかりでは、ちょっと信じられない程、奇怪千万な事実なのです。そこで、考えついたのが、犯罪の再演です。形でお目にかけ様という訳です。あらかじめお話しなかったけれど、今日恒川さんをここへお連れするのは、僕にしては、予定の順序でした。その為に、ちゃんと舞台の用意もしてありますし、役者の方も、こんなわら人形まで作らせておいた訳です」
 恒川氏は、またしても、明智の為に、アッといわされるのかと思うと、ウンザリした。こんなお芝居見物は、あまりうれしい役割ではなかった。
「見物がお二人では、役者の方で、不満かも知れません」明智はニコニコ笑って「しかし、恒川さんは、裁判所なり警察なりの代表者、三谷さんは畑柳家の代表者という訳ですから、このお二人に見物して頂けば、こんな好都合なことはありません。それに見物の人数が多くては、折角の奇怪劇に、凄味すごみが出ない心配もありますからね」
 明智は冗談まじりに、説明しながら、問題の仏像の並んでいる壁からは、一番遠い部屋の隅へ三脚の椅子を並べ、
「サア、ここへおかけ下さい。これが今日のお芝居の見物席です」
 と二人をさし招いた。
 恒川氏と三谷青年とは、相手が相手なので、怒る訳にも行かず、いわれるままに席についた。
「ところで、第一幕は、小川正一殺害の場面です。で先ず、舞台を当時と寸分たがわぬ様にしつらえなければなりません」
 明智は手品の前口上を始めた。
「室内の調度はあの時と、少しも変って居りません。足らぬものは、殺された小川正一です。そこで、このわら人形に小川の役を勤めさせます」
 彼はわら人形を抱いて、入口に立った。
「小川はこのドアから忍び込みました。忍び込んで、ドアには内側からカギをかける」
 明智はかぎ穴の外にさしてあったかぎを抜いて、内側から錠をおろした。
「それから、この仏像の前に立って、何事かを始めたのです」
 彼はわら人形を、仏像の一つに立てかけた。
「窓はこの一つだけが、掛金がはずれていて、あとは皆厳重に締が出来ていました」
 いいながら、窓も当時と少しも違わぬように、締切った。そして、彼も二人の見物に並んで椅子に腰をおろした。
「サア、これで、何もかも、あの時と同じです。小川は一体、誰が、どうして殺したのか、それをこれから実演させてお目にかけるのです」
 窓の外には夕暗が迫っていた。広い邸内には何の物音もない。不気味な数分間が経過した。
 誰が考えても、賊は窓から忍び込んだとしか思えない。外に通路はないからだ。恒川氏はジッと掛金のはずれた窓を見つめていた。
 と突然、バサッという音がしたと思うと、わら人形がバッタリ倒れた。
「あれです」
 明智の叫声に、人形の胸を見ると、アア、どこから飛んで来たのだ。一挺の短剣がわらしんまでグサリと突きささっているではないか。
 夕暗の迫った部屋の中は、まるで深い霧にとざされたように、物の姿がぼやて見えたが、それだけに、胸の真っただ中を刺し通されて、倒れているワラ人形が、不思議な生物のようにも思われて、一層不気味であった。
 それにしても、短剣は一体どこから飛んで来たのであろう。ドアも窓も、ピッタリ締切ってある部屋の中へ、突如として、主なき凶器が湧き出した。手品だ。だが、その手品師は、どこにいるのだ。
 恒川警部は思わず立上って、例の掛金のない窓へ駆け寄ると、それを開いて外をのぞいた。誰かがそこに隠れているような気がしたからだ。
 三谷もそれにならって、警部のうしろから、こわごわ、薄暗い庭を見下した。
 だが、窓の外の蛇腹にも、下の庭にも、人の影はない。
「ハハハハハハ、恒川さん、締切ったガラス窓の外から、ガラスもわらず、短剣を投げ込むなんて、いくら手品師だって、出来ない相談ですよ」
 明智の笑い声に、恒川氏は苦笑して窓を離れた。そして、今度は、短剣をあらためる積りで、ワラ人形に近づいたが、二三歩あるいたかと思うと、彼はハッとして立止まらないではいられなかった。
 夢を見ているのではないかしら、それともさっきのが幻覚であったのか。
 不思議、不思議、近づいて見ると、ワラ人形の胸には、何もないのだ。短剣は消えせてしまったのだ。
 恒川氏は、キョロキョロとあたりを見廻した。どこにも短剣らしいものは見当らぬ。
 ふと目につくのは、立並ぶ怪しげな仏像共だ。
 彼はそれに近寄って、一つ一つ、入念になで廻して見た。だが、仏像には何の仕掛けもないらしい。まさか、仏像が腕を振って、短剣を投げつけた訳ではあるまい。手も足も動かぬ木彫りか、でなければ、結跏趺坐の金仏だ。
 では、やっぱり幻覚であったのか。部屋が薄暗い為に、ただワラ人形の倒れたのを、疑心暗鬼で、短剣が刺さっている様に、見誤ったのであろうか。
 余りの不思議さに、警部は、ワラ人形の上にしゃがみ込んで、その胸のあたりを、つくづく眺めた。
「やっぱりそうだ」
 確に、ワラが一寸ばかり切れ込んで、短剣の刺さったあとを示している。
「もっと、よくごらんなさい」
 明智がそばから声をかける。
 よく見よとは、一体何を? 不審に思ってワラ人形の傷口をボンヤリ眺めていると、その傷口から何か黒いものがにじみ出して来た。
 その黒いものが、紙のこげる様にジリジリとひろがって行く。
「アア血だ!」
 黒いのではない。毒々しい真赤な色だ。夕暗のために、それが黒く見えたのだ。
 ワラ人形は、胸を刺されて、真赤な血を流しているのだ。
 恒川氏は、傷口に触った指を、目の前に持って来て、窓の光にすかして見た。案の定、指にはベットリ血がついている。
「ハハハハハ、イヤ、何でもないです。ただちょっと、お芝居を本当らしくする為に、ワラ人形の胸に、赤インキを入れたゴムの袋を、しのばせておいたのですよ。しかし、これで、ワラ人形の小川正一が胸を刺されたことは、ハッキリお分りになるでしょう」
 明智が、笑いながら説明した。
 すると、やっぱり、あの短剣は幻覚ではなかったのだ。
「兇器は? 短剣は?」
 恒川氏が、思わず口に出していった。
「まだ、お分りになりませんか。今に種明かしをしますよ。……ところで斎藤老人や書生達が、小川正一の死体を発見した時の状態は、丁度この通りでした。小川は、こうして胸から血を流して倒れていたのです。兇器は無論、どこにも見当りませんでした」
 明智は説明を続ける。
「犯人も姿を見せず、兇器さえ消え失せてしまいました。しかし、小川正一は胸から血を流して倒れていた。この人形も、同じ胸をやられて、倒れています。わらが切れ、赤インキのゴムが破れたのが、何よりの証拠です。人形は殺されたのです。だが、誰に、どうして?……現に目撃されたあなた方にさえ、ハッキリは分らないのです。当時、斎藤老人達があの様に不思議がったのも、無理ではありません」
 そういう内にも、部屋は目に見えて暗くなって行った。わら人形のわらの一本一本が、もう見分けられぬ程だ。黒っぽい仏像達は、ジリジリとあとしざりをして、壁の中へ溶け込んで行くかと見えた。
「不思議だ。何だか夢を見ている様な気がします」
 三谷が、なぜか、異様に大きな声でいった。明智も恒川氏も、その声があまり高かったので、びっくりして三谷の顔を眺めたが、どんな表情をしているのか、夕やみが塗り隠して、ハッキリは見えなかった。
「電燈をつけましょう。これじゃ暗くて、何が何だか分りやしない」
 警部は呟きながら、スイッチの方へ歩き出した。
「イヤ、電燈はつけないで下さい。もうしばらく、このままで、我慢して下さい。本当の手品は、これから始まるのです。それには舞台を薄暗くしておく方が好都合なのです」
 明智は恒川氏を引止めて、
「では、もう一度、席におつき下さい。これから、いよいよ小川殺しの秘密をあばいてお目にかけるのですから」
 二人の見物人は、明智の為に、元の椅子へ押し戻された。
「さて、斎藤老人達は、小川の死体を発見すると、驚いて警察へ知らせました。そして、警官が来るまで、誰も死体に手を触れぬ様、窓には掛金をかけ、ドアには外から鍵をかけて、一同この部屋を立去ったのです」
 いいながら明智は、その通り、さい前警部が開いた窓をしめて、掛金をかけ、ドアは、締りが出来ているのを確めた上、鍵穴の鍵を抜き取って、ポケットに入れた。
「これで、全くあの時と同じ状態です。人々は三十分程、この部屋から遠ざかっていました。その間に、全く不可能なことが起ったのです。どこにも出入口のない部屋の中で、小川の死体が消えてなくなったのです。恒川さん、君がこの事件に関係なすったのは、あの日が最初でしたね」
「そうです。あの日から僕は悪魔にみ入られているのです。あれから僅か十日余りの間に、国技館の活劇、風船男の惨死ざんし、斎藤老人殺し、畑柳夫人の家出と、事件は目まぐるしく発展しました。しかも、それが、どれもこれも前例もない突飛千万とっぴせんばんな、あるいは気違いめいた、不思議な出来事ばかりです」
 警部はてれ隠しの様に、やけくそな調子でいった。
「で、斎藤老人達が、この部屋を立去ってから、あなた方警察の人達が来られるまで、約三十分の間に、どんなことが起ったか、それをこれから実演してお目にかける訳です」
 明智は構わず口上こうじょうを進める。
 だが、実演して見せるといって、ここには口上係りの明智と、二人の見物人の外には、わら人形がころがっているばかりだ。一体全体誰が実演するというのだ。
 見物達は、まるで狐につままれた感じで、刻一刻暗くなって行く部屋の中を、目が痛くなる程見つめていた。
 カチカチカチカチ、懐中時計の秒を刻む音が、やかましく耳につく程の、静けさだ。
 恒川氏は、ふと、部屋の中のどこかで、物のうごめく気配を感じて、ギョッとした。
 いたいた。確に人だ。全身真っ黒な、一寸法師みたいな畸形の怪物が、ソロリソロリ向うの壁に伝わって降りて来る。

一寸法師


 頭から、手足の先まで、真っ黒な衣裳で覆い隠した、醜い怪物が、黒い蜘蛛くものように、天井から、壁に伝わって降りて来るのだ。
 目をこらして、彼の降りて来た個所を見ると、格天井の隅の一枚が、ポッカリ黒い穴になって、そこから一本の細引ほそびきがたれている。一寸法師みたいな怪物は、その細引にぶら下って、仏像の肩を足場にして、たくみに、音も立てず、床に降り立った。
 目だけを残して、顔中を、黒布で包んでいるので、何者とも判断がつかぬ。無論、明智のいわゆる役者の一人に相違ないけれど、薄暗い部屋の中、怪奇な仏像共の前へ、真っ黒な一寸法師が、蜘蛛の様に天井から降りて来たのを見ると、ゾッとしないではいられなかった。
「誰です、あいつは」
 恒川氏は、思わず隣席の明智にたずねる。
「シッ、静かに。あいつがなにをするか、よくごらん下さい」
 明智に制せられて、恒川氏はかたずを呑んだ。三谷も、目を小怪物に釘づけにして、熱心に見物している。彼等は、珍らしい手品を見入る二人の大きな子供であった。
 一寸法師は、倒れたわら人形の上に、しゃがみ込んで、人形が果して死んでいるかどうかを、確めるものの如く、しばらく様子を見ていたが、いよいよ息が絶えたと知ると(彼は巧に、そういう身振りをして見せるのだ)いきなりわら人形を小脇に抱えて、少しも足音を立てず、入口へと近づき、ポケットから用意の合鍵を出してドアを開くと、そのまま廊下へ姿を消した。
「サア、あいつのあとをつけるのです。あいつが、どこへ行くか、見届けるのです」
 明智が小声でいって、先に立って、廊下へ駆け出す。見物の二人は、訳は分らぬけれど、兎も角、明智のあとについて行く。
 黒い一寸法師は、尾行されるとも知らぬ体で、廊下をズンズン歩いて行く。不思議なのは、彼がいくら急いでも、少しも足音が聞えぬことだ。ゴムの足袋たびでもはいているのであろうか。
 薄墨を流したような、夕暗の廊下を、小さな黒怪物が、わら人形小脇に、音もなくすべって行く有様は、何ともいえぬ変てこな、物すごい感じであった。
 廊下の尽きる所に、細い裏階段がある。小悪魔は、この階段の穴へ、すべり込むように消えて行く。
 階段を降りて、狭い廊下を、裏口の方へ、少し行くと、物置部屋がある。一寸法師は、その引戸をソッと開いて、物置の中へ忍び込んで行った。
 明智を先頭に、三人も続いて、その小部屋にはいり、入口の横手の壁にそって、たたずんだ。
 引戸はわざとあけたままにしておいたので、そこから僅に夕方の薄い光がさし込むけれど、物置の中は、人の姿を見分けるのが、やっとである。
 アア、この物置。読者は記憶せられるであろう。数日以前、倭文子と茂少年が身を潜めた古井戸は、この物置部屋の床下にあるのだ。その古井戸を知っていて、あの時倭文子達をここにかくまった三谷青年は、今どんな気持でいるのだろう。
 この恐ろしい素人探偵は、あの古井戸を知っているのだ。それでは、彼はもう、倭文子達の行方さえも、とっくに感づいているのではあるまいか。三谷が、さい前から、不安に耐えぬものの如く、モジモジし始めたのは、誠に無理もないことだ。
 やっぱりそうだ。小怪物は、わら人形を傍らにおいて、例の床板をめくり始めた。苦心をして、一間四方程の穴を造ると、今度は床下に降りて、古俵ふるだわらをかきのけ、古井戸のふたの敷石を、ウントコウントコ引ずり始めた。
 彼は、井戸の中へはいる積りであろうか。それとも、この井戸に、もっと別の用事があるのかしら。
 一寸法師は、やっとのことで、五枚の重い敷石をとりのけた。敷石の下には、井戸の口に、太い丸太が二本横たえてある。彼はそれをも、とり除いた。怪物が敷石を動かし始めた頃から、むせ返る様な、一種異様の臭気が、部屋中にただよい出した。胸がムカムカする、甘酸ぱい様な腐敗の匂いだ。
 恒川氏は、すぐ様、それが何の匂いであるかを悟って、非常な驚きにうたれた。
「アア、何ということだ。若しかすると、俺は大失策を演じたのではあるまいか。こんな所に古井戸のあることを気づかず、その中に何があるかも、まるで知らなかったというのは、鬼刑事の名に対しても、取り返しのつかぬ大失態ではないかしら」
 と思うと、もうじっとしてはいられぬ。彼は明智の腕をつかんで呶鳴り出した。
「君、あの穴の中に、一体何があるのです。この匂いは何です。君はそれを知っているのでしょう。サア、いってくれ給え、あれは一体何です」
「シッ…………」
 明智は落ちつき払って、唇に指を当た。
「お芝居の順序を乱してはいけません。もうすこし我慢して下さい。三十分以内には、すべての秘密が、すっかり暴露するのです」
 警部はなおも、井戸の中を調べることを主張しようとしたけれど、丁度その時、例の黒怪物が、妙な仕草をしたために、それにとりまぎれて、つい口をつぐんでしまった。
 敷石をすっかり取りのけた一寸法師は、床の上においてあった、わら人形を引ずりおろすと、いきなり、それを井戸の中へ投げ込んでしまった。
 それから、二本の丸太を元通り横たえて、上に古俵をしき並べた。
「本当は、あの石も元通りにしなければならないのですが、時間を省く為に、石だけは略したのです」
 明智が小声で説明する。
 小怪物は、上にあがって、床板をはめると、手落ちはないかと、あたりを見廻した上、また少しも音を立てぬ歩き方で、二階の書斎へと引返す。見物達が、そのあとを追ったのは、いうまでもない。
 書斎に帰った怪物は、見物達が、部屋に入るのを待って、ドアにかぎをかけると、その辺を入念に見廻してから、また仏像を足場に、細引を伝わって、クモの様に、スルスルと天井裏へ舞い上って行った。そして彼の消えたあとへ、格天井の板が、元通り、ピッタリとはめ込まれた。
「これが第一幕の終りです」
 いいながら、明智は壁のスイッチを押した。パッと部屋が明るくなる。第一幕の終り? でまだ第二幕があるのかしら。
「こうして、小川正一の死体が紛失したのです。あの黒い奴が、これだけの仕事を終ったあとへ、恒川さん、あなた方警察の一行が、ここへ来られたという順序です」
「すると、小川をたおした短剣は?」
 恒川氏が待ち兼ねて、質問した。
「短剣はさっきの一寸法師が天井から投げつけたのです」
「それは分ってます。しかし、その短剣がどうして消えてなくなったのです」
「天井へ逆戻りをしたからですよ。つまりあの重い短剣には、丈夫な絹の紐がついていたのです。……
 奴さん、考えたではありませんか。現場に兇器を残さぬ為に、天井から、これを投げつけて、相手を殺したあとで、この紐で、短剣をたぐり上げる仕掛けなんです。密閉された部屋の中の、犯人も兇器もない殺人というと、如何にも奇怪千万に聞えますが、種を割って見れば存外あっけないものですよ」
 成程、成程、死体紛失の一件はこれで明瞭になった。しかし、まだ分らぬことが山程ある。
「で、下手人は? あのちっぼけな黒い奴は、一体全体何者です」
 警部が第二問をはなった。
「あの黒覆面が演じているのは、誰しも考え及ばなかった、実に驚くべき人物です。僕もつい二三日前に、それを発見したのですが、余り意外な人物なので、ちょっと本当に思えなかった程です」
「で、つまり」恒川氏はもどかしげに、
「あいつが、今度の事件の真犯人だとおっしゃるのですね」
「真犯人、……そうです。ある意味では」
 明智は言葉をにごして、
「あいつが、何者であるかをお話しする前に、まだお見せするものがあります。これから、今晩のお芝居の第二幕目が始まるのです」
 と、またもや口上めかしていう。
「第二幕目ですって。じゃ、今の続きが、まだあるのですか」
「エエ、そして、今度の実演こそ、あなた方にお見せしたい、ごく肝要かんような場面なのです」
「ホホウ、それは」
 警部は、素人探偵の思わせぶりに、少からずへきえきしたが、事の真相を知りたさに、しばらく明智のお芝居気を、許しておくほかはなかった。
「で、今度は、今の出来事、即ち小川正一死体紛失事件があってから、二三日の内に起った出来事をお目にかける訳です。実に奇怪千万な殺人事件です。しかし、これは全く蔭の出来事で、警察でも、畑柳家の人達さえも、まるで知らなかった犯罪です」
「斎藤老人の事件とは別にですか」
 警部がびっくりして叫んだ。
「別にです。小川の事件と、斎藤の事件の間に、誰も知らないもう一つの殺人罪が、しかもこの部屋で行われたのです」
 この前口上は、たしかに大成功であった。見物達は、少からず興奮して、第二幕目の開演を、今やおそしと待受けた。
「では、またしばらくの間、電燈を消します。その前に、お断りしておきますが、今この部屋で、まことに異様な殺人罪が、如実に演じられますが、それは勿論お芝居に過ぎません。どんな恐ろしいことが起っても、決して口出しや手出しをなさらぬようにお願いします。では、……」
 前口上が終ると、パチンと電燈が消えて真っ暗になった。窓の外には、もう暮れ切って、美しい星がまたたいている。
 こんなに暗くっては、お芝居が見えやしないと、いぶかる内に、ポッカリと向うの壁に、大きな円光が現われて、不気味な仏像達が、幻燈の絵の様に浮き上った。
 明智が、いつの間にか、懐中電燈を用意していて、その丸い光を、正面の壁に投げていたのだ。
 円光は、徐々に、仏像群を通り過ぎて、壁のはずれ、入口のドアの前にとまった。
 見ると、その光の中で、ドアの引手がソロリソロリと廻っている。何者かが、外からドアを開こうとしているのだ。
 引手の廻転が止まると、ドアそのものが、一分ずつ、一分ずつ、極度に用心深く、開き始めた。
 黒い一寸法師は、まだ天井裏にいる筈だ。彼ではない。とすると、今、恐ろしい程の用心深さで、ドアを開いている奴は、そもそも何者であろう。
 鬼といわれた恒川警部でさえ、湧き起る好奇心と、何ともいえぬ恐怖の為に、呼吸いきがはずんで来る程であった。
 一寸、二寸、一尺、二尺、遂にドアは全く開かれた。外の奴は合鍵を所持していたのだ。
 懐中電燈を持つ、明智の動悸を拡大して、壁の円光は、ブルブルとリズミカルに揺れている。
 その揺れる光の中へ、外の廊下から、スーッと入って来た、異様の人物。
 それを見ると、二人の見物は、予め明智の注意があったにも拘わらず、思わず「アッ」と小さな叫び声を立てないではいられなかった。
 その人物は、黒いソフト帽、黒マント、大型の色眼鏡に、マスクをつけた、例の唇のない怪賊と、そっくりそのままの扮装いでたちであったからだ。
 怪人物は、円光の中を、ジリジリと進んで行く。進むにつれて、明智の懐中電燈も、丁度スポットライトが、舞台の演技を追うように、人物と共に壁をはって行く。移動撮影の映画を見る感じだ。
 怪物の眼は、歩きながら、格天井の、例の一寸法師が隠れた一こまに、釘づけになっている。彼は、あの奇妙な屋根裏への通路を、ちゃんと知っている様子だ。
 やがて、正面の壁の中程まで進むと、一体の如来座像にょらいざぞうの前に立止り、やっぱりけは格天井を見つめたまま、そこへしゃがみ込んでしまった。一体何をしようというのだろう。
 と、まるでそれが合図ででもあった様に、天井の例の個所に当って、カタンと妙な音がしたかと思うと、バッと風を切って、白銀しろがねの棒のように、うずくまる怪物めがけて、投げつけられたのは、あの恐ろしい西洋短剣だ。
 アア、第二の殺人! これだな!
 と思った時には、マスクの怪人は、まるで軽業師のように身をひるがえして、短剣の軌道きどうをよけていた。目にも止まらぬ早業はやわざだ。
 よけながら、素早く短剣の紐を掴んで引きちぎってしまった。
「キャッ」
 という異様な叫び声。続いてゴトゴト天井を走る足音。武器を奪われた一寸法師が、悲鳴を上げて、逃げ出したのだ。
 マスクの人物は、部屋の真中においてあった小テーブルを、天井の穴の下へ引ずって行き、その上に椅子を二脚積み上げて、足場を作り、非常な身軽さで、それをよじのぼり、格天井のわくへ飛びついた。
 その間、懐中電燈のスポットライトが、名優の演技を追って、移動した事はいうまでもない。
 しばらくの間、その円光の中に、怪人の足がバタバタともがいていたが、やがて、それも天井の穴へ消えてしまった。
 懐中電燈は、空しく天井の隅を照らすばかり、俳優は二人とも、見物の視野から、真暗な屋根裏へと、姿を消したまま、急に降りて来る様子もない。この所、やや暫らく舞台は空虚である。
 その代り音が聞える。まるで鼠でもあばれているような、ひどい音が、天井から降って来る。
 二人の怪物が、暗の中で、追っかけっこをしているのだ。
 やがて、その物音が、バッタリ止った。逃げる一寸法師が、つかまったのだ。
 ややしばらく、不気味な静寂せいじゃく
 怪物達は争っている。無言のまま、物音も立てず、汗みどろに闘っている。その物すごい有様が、まざまざと見えるようだ。
 舞台監督明智小五郎、仲々味をやる。
 二人の見物は、息を呑んで、耳をすました。天井裏ではどんなことが起っているのだ。あんまり静かすぎるではないか。どちらが勝ったのだ。
 と、死のような静寂の中から、かすかに、かすかに、いとより細いうめき声が聞こえて来た。
 どちらかが、しめ殺されたのだ。ゾッと総毛立つような、断末魔のうめき声だ。
 その細い声が燈火が消えるように、段々衰えて、暗の中にとけ込んでしまうと、一層不気味な静寂が戻って来た。
 それから、待遠しい数十秒が過ぎ去ると、ミシリミシリ、天井に足音が聞こえて、間もなく、例の穴から、一本の細引が、ソロソロと降りて来た。細引の先には、グッタリとなった人間の身体が括りつけてある。
 死骸だ。
 懐中電燈の丸い光が、その死骸と共に、壁をすべり落ちて、絨氈の上に楕円を描いた。
 死骸は、足場においた椅子、テーブルをよけて、静かに絨氈の白い楕円の中に横たわった。
 やっぱり、そうだ。身体の小さい奴が負けたのだ。細引でおろされた死骸は、あの醜い一寸法師であった。
 全身真黒な小怪物の首には、一本の赤い紐が、恐ろしい傷口の様に、まきついていた。その紐で絞め殺されたのだ。
 楕円の光でふちどられた、絨氈の上の黒い死骸、その首の真赤な紐、奇怪な、しかし美しい絵であった。
 やがて、同じ細引を伝わって、加害者のマスクの怪物が、スルスルと、静かな画面の中へ入って来た。
 彼は暫く死骸の上にかがみ込んで、しらべていたが、蘇生そせいの心配がないと分ったのか、身体を括った細引を解いて、椅子とテーブルの足場によじ昇り、細引を天井へ隠し、今降りて来た穴に、元通り板をはめ、さて、不要になった椅子、テーブルは元の場所へ戻し、注意深く、犯罪の跡を消してしまった。
 次には、死骸の始末をするのかと思うと、そうではない。マスクの怪人は、さっきその前で立止った、如来座像に近づくと、いきなり、力をこめて、この金仏をおしころがした。
 ゴーンと陰鬱な響を立てて、台座を外れ、のけざまに倒れた如来様の、お尻の下はがらんどうだ。
 見ると、残った台座の上に、小さな手提金庫がおいてある。
 見物達にも、やっと事の次第が分って来た。二人の怪物は、この手提金庫の為に、あのような恐ろしい争いをしたのだ。
 如来様が、身を以て隠していた手提金庫、その中には、定めしおびただしい財宝が秘められていたに相違ない。
 マスクの人物は、その金庫のふたをあけて、中の品物を、方々のポケットに、分けて入れた。いや、入れる格好をして見せた。
「あとで詳しく申上げますが、金庫の中にはおびただしい宝石類が入れてあったのです」
 明智が説明する。
 中味を取り出すと、金庫はそのままにして、賊は、自分の身体よりも大きい金仏を、元通り起そうとするのだが、仲々手におえぬ、そこで、口上役の明智が、そこへ行って手を貸して、やっと元の台座に据えつけるという御愛嬌ごあいきょうがあって、
「本当の賊は、もっと力が強かったのです。手助けはなかったのです」
 と解説がついた。
 それがすむと、怪人物は、一寸法師の死骸を抱えて、部屋を出る。またしても三人連れの尾行が始まった。
 恒川氏は左程でもなかったが、三谷青年は、素人の悲しさに、このお芝居を面白がるどころか、すっかりおびえていた。
「三谷君、気分でもお悪いのですか」
 明智が、ふとそれに気づいて、懐中電燈を、三谷の顔にさしつけた。
「イヤ、何でもないのです。あまり不思議なことばかりなので、ちょっと……」
 三谷は、そういって、笑って見せたが、顔色は紙の様に真白だ。額にはこまかい油汗さえ浮かんでいる。
「しっかりなさい。もう少しで、何もかも分るのです」
 明智は元気づけて、青年の手を握り、それを引っぱる様にして歩いて行った。
 怪物の行先は、やっぱり例の物置であった。
 彼はさい前の一寸法師と同じ順序で、古井戸の蓋を取除き、抱えて来た死骸を、その中へ投げ入れた。イヤ、投げ入れる真似をした。

井戸の底


 一寸法師の怪物は、彼がさっき小川正一(の藁人形)にした通りの手続きで、今度は自分が古井戸へ投げ込まれたのだ。
 といって、本当に飛び込んだ訳ではない。死骸といっても、彼はお芝居の死骸なのだから。投げ込まれる格好をしただけで、ピョイと井戸の口を飛び越して、物置の隅に立った。
 マスクの人物も、同じ隅へ行って、敵同志が、なかよく並んで、控えている。
「これが第二幕目の終りです」
 明智が解説した。彼はやっぱり三谷の手を握りつづけている。
「で、まだ三幕目があるのですか」
 恒川氏が、真暗な古井戸をのぞき込みながら、鼻をピクピクさせて、尋ねた。
「エエ、三幕目があります。しかし、ご退屈でしたら、三幕目は口でいっても分るのです」
「それがいい」
 警部は即座に賛成して、
「だが、その前に、僕はこの井戸の中を調べて見たいのです」
 と、もう我慢が出来ぬ様子だ。
「では、そこの隅に小さい梯子がありますから、それを井戸の中へ立てて、降りてごらんなさい。懐中電燈をお貸ししますから」
 舞台監督のお許しが出たので、警部は早速、懐中電燈を借り、梯子をおろして、井戸の中へ入って行った。その底に、あんな恐ろしいものが横わっていようとは、まるで予期しないで。
 降りて行くと、先ず最初、懐中電燈の光に照らし出されたのは、さっき投げ込まれた藁人形だ。
 警部はそれを拾って、井戸の外へ、投げ上げた。
 その下は、読者も知っている通り、三谷青年が倭文子を隠す時に、投げ入れた二枚の蒲団だ。
「ちょっと、手伝って下さい。大変な蒲団だ」
 井戸の底から恒川氏の声が響いて来る。
 それを聞くと、明智の指図で隅にたたずんでいた二人の怪人物が、井戸の口へ近づき、警部が下からさし出す蒲団を、一枚ずつ、引上げた。
 さて、蒲団の下に何があったか。
 それが二人の人間の死骸であることは、さっきからのお芝居で、恒川氏にもよく分っていた。一人は小川正一に極っている。だが、もう一人は? あの醜い小人島は、小川の下手人は、一体全体何者であろう。彼はそれが一刻も早く確めたいのだ。
 警部は、井戸一杯に斜めになった、梯子の下段に足をかけたまま、懐中電燈をさしつけて、底を覗いた。
「ワッ」
 という叫び声。
 さすがの警部も、びっくりしないではいられなかった。
「どうしたんです」
 上の暗闇から明智の声、彼も井戸の中をのぞき込んでいるのだ。
「これだ。……」
 警部は懐中電燈を、一層底に近づけて見せた。
 死骸を見るのは、覚悟の前だ。しかし、こんな風な死骸だとは、誰しも想像しなかった。
 晩秋の十日間では、まだ形がくずれる程腐爛ふらんはしていない。だが、腐爛よりも、うじ虫よりももっと恐ろしい現象が、二つの死体に起っていた。
 そこには、二人の巨人が、二人の角力取りが、丸くなって重なっていたのだ。
 一人の方の腹部へ、梯子の足が食い入って、その部分が三寸程もくびれて見える。まるで飴細工あめざいくのタヌキみたいな太鼓腹だ。
 死体膨脹の現象である。内臓に発生したガスが、非常な力で、死骸をゴム風船みたいに、ふくらませてしまったのだ。
 顔なども、しわがのび、毛穴が開いて、巨人国の赤ん坊の様に、はち切れ相にふくれ上っている。
「これが小川だな」
 服装によって、その人と推察出来る。
 警部は次に、もう一人の死骸の顔にヒョイと目を移したが、一目見るなり、あまりのことに、さすがの彼も「ギャッ」と叫んで、思わず梯子を駆け上ろうとした。
 警部が驚いたのも無理ではない。
 そこにふくれ上っていた、もう一つの死骸は、決して未知の男ではなかった。イヤ未知どころか、忘れようにも忘れることの出来ない、今度の事件の大立物が、みじめにも、風船玉のような巨体を、そこに横たえていたのだ。
 警部は品川湾で、一度そいつに出会でくわしたことがある。あの時のは、ろう製の仮面であった。だが、今足の下にころがっている怪物は、仮面をかぶっているのではない。本当に、唇がないのだ。鼻がかけているのだ。顔中がピカピカと赤はげになっているのだ。しかも、それが生前の二倍の大きさにふくれ上って、何とも形容の出来ない、相貌を呈していた。
 恒川氏は不思議な昏迷こんめいを感じた。彼自身の視覚を信じ得ないような、妙な不安におちいった。
 唇のない男との二度目の対面、しかもふるえる懐中電燈の白い光に照らされた、井戸の底で、全く不意打ちに、彼奴きゃつの角力取みたいにはれ上った死骸を見たのだ。警部が我にもあらず、逃げ出し相にしたのは、決して無理ではない。
「何者です。こいつは?」
 やっと気をとりなおして、恒川氏は、井戸の外の明智にたずねかけた。
「唇のない男」の存在は知り過ぎる程知っている。だが、彼がどこの何という奴だかは、誰も知らないのだ。
「書斎の天井裏に住んでいて、小川正一を殺した奴です」
 明智がやみの中から答える。
 成程、今のお芝居で、そこまで分っている。小川正一になぞらえたわら人形が黒覆面の一寸法師に殺された。その一寸法師がまた、マスクの怪物にしめ殺された。そしてわら人形も、一寸法師の死骸も、この井戸の中へ投げ込まれた。
 わら人形は小川正一である。とすれば、残る一人は、この唇のない奴は、お芝居の方の一寸法師に当る訳だ。あの小怪物が「唇のない男」の役を、如実に演じて見せたのである。
「すると、我々があんなに探し廻っていた犯人は、この邸の天井裏にかくれていたとおっしゃるのですか」
 恒川氏は信じ切れぬ調子だ。
「で、こいつは、一体何者です。第一どういう訳で、場所もあろうに、この邸の天井裏なんかを、隠れ場所に選んだのです」
 彼はむらがり起る数々の疑問に何からたずねてよいのか、判断もつかぬ有様だ。
「この男が、天井裏へ隠れていたのは、何も不思議なことではありません。誰しも、我が家は、殊に自分の書斎はなつかしいものですからね」
 やみの中の明智が、事もなげに答える。
「我が家ですって? 自分の書斎ですって? というと、何だか、畑柳家が、こいつの邸みたいに聞えますが……」
 警部は益々分らなくなった。
「そうですよ。この男こそ、この家のあるじなのですよ」
「エ、エ、何ですって?」
 恒川氏の頓狂な叫び声。
「この唇のない男が、外ならぬ、倭文子さんの夫、畑柳庄蔵しょうぞう氏なのです」
「そんな、そんな馬鹿なことがあるものですか。畑柳庄蔵は二ヶ月以前刑務所内で病死した筈です」
「と信じられています。しかし、彼はよみがえったのです。土葬された墓の下で、蘇生そせいしたのです」
 恒川氏は、井戸からはい出して、懐中電燈を、明智の顔にさしつけた。
「それは本当ですか。まさか冗談ではありますまいね」
「意外に思われるのはごもっともです。彼は蘇生しました。だが、自然の蘇生ではないのです。すべて彼の同類がたくらんだ仕事です」
 明智は厳粛な面持で、奇怪千万な事実を語り始めた。
「容易ならん事だ。君は、それを知りながら、今までだまっていたのですか」
 恒川氏は、素人探偵に出し抜かれたくやしさも手伝って、思わずはげしい口調になる。
「イヤ、故意に隠し立てをしていた訳ではありません。僕も、やっと昨日、それを知ったのです」
 明智はいいながら、話しを明るくするために、物置の天升からブラ下っていた、ほこりまみれの電燈を点じた。薄暗い五燭光しょっこうであったが、暗になれた目には、まぶしい程、パッと、部屋の中が明るくなった。
「それを探り出した功労者は、僕のところの文代さんです。あの人が、Y刑務所の医員の一人を、うまくあやつって、とうとうそれを聞き出して来たのです」
 明智が説明を続ける。
「くわしいことは、いずれお話しする機会があるでしょう。今は、お芝居の第三幕目もまだ残っていることですから、ごく簡単に申しますと、つまり、刑務所内の医局の人々と、看守と、二三の病囚人が、ぐるになって畑柳庄蔵を死人にしてしまったのです。彼はやや重態の病人には相違なかった。しかし、まだ死んではいなかったのです。死骸と寸分違わぬ、一種の麻痺まひ状態にあったに過ぎません。南洋の植物から製せられた、クラーレという劇薬を御存じでしょう。恐らくその様な薬品が使用されたのかも知れません。兎も角、畑柳庄蔵は、彼の同類のはからいで、生きながら、無事に刑務所の門を出ることが出来ました。そして、その後、土葬された墓場から、よみがえったのです。よみがえって、彼の盗みためた宝を守護する鬼となったのです」
「小説ではあるまいし、日本の刑務所で、そういうことが行われるとは信じられません」
 警部が、たまり兼ねて口をはさんだ。
「畑柳家は大金持です。数人の人々の生涯を保証する位の金銭は、何でもありません。生涯安楽に暮らせる程の大金をさしつけられて、目のくらまぬものがありましょうか。……墓場からよみがえった畑柳は、その儘の容貌では、すぐ捕まってしまうので、非常な苦痛を忍んで、硫酸か何かで、顔を焼きくずしてしまったのです。そして、全く別人となって、即ち唇のない怪物となって再びこの世に現われて来ました」
「だが、変ですね。畑柳の刑期は、たしか七年だったと思いますが、なぜそれを待たなかったのでしょう。何も顔を焼く様なことをしなくても、……」
 恒川氏は、明智の説明が、どうも腑に落ちぬのだ。
「恒川さん、あなたはまさか、杉村宝石店の盗難事件をお忘れではありますまいね」
 明智はニコニコしながら、突然妙なことをいい出した。
「エ、杉村宝石店の……覚えていますとも、しかし、それがどうかしたのですか」
「去年の三月でしたね。杉村宝石店の金庫が破られ、二名の店員が惨殺されていたのは」
「そうです。非常に巧妙な犯罪でした。残念ながら、今もって何の手懸かりもつかみ得ないのです」
「それから、早瀬はやせ時計店の盗難、小倉おぐら男爵家の有名なダイヤモンド事件、北小路きたこうじ侯爵夫人の首飾り盗難事件、……」
「アア、君もやっぱり、そこへ気づいていたのですね。そうです。皆同じ手口でした。僕等も犯人は同一人物とにらんで、捜査を続けていたのです」
 恒川氏は、やや面食って答えた。
「我々は今、その犯人を捕らえたのです」
 明智はますます突飛なことを口走る。
「エ、エ、どこに? どこに?」
 警部はどぎまぎしないではいられなかった。
「ここに」明智は足元の古井戸を指した「こいつが、宝石泥棒です」
 恒川氏が彼の言葉の意味を了解するのを待って、明智は更に語り続ける。
「幽霊会社を起したり、詐欺を働いたりするのは、畑柳にとっては、むしろ表向きの正業で、その実彼は、恐ろしい宝石泥棒だったのです。イヤ、泥棒ばかりではありません、人殺しの大罪さえ犯しています。彼には数人の同類がありました。どうせ悪者達のことですから、いつ裏切りをして、大切の宝石を横取りしないとも限らぬ。事によったら密告する様な奴も出て来るだろう。と思うと、首領格の畑柳にして見れば、七年の間、監房に安閑あんかんとしてはいられない訳です。余罪が発覚して、死刑になることを思えば、死人のまねをしたり、硫酸で顔を焼くなどは、なんでもありません。いや、それだけではまだ安心が出来ず、彼は満足な手足を義手義足に似せたものをはめて、ひどい不具者をよそおいさえしました。……
 さて、相好をかえて、全く別の人間に生れ変って、我家へ帰って見ると、実に滑稽なことが起った。彼はただ死刑がこわさに、盗みためた宝石ほしさに夢中になっていて、つい可愛い妻子のことを勘定かんじょうに入れていなかった。それが、いざ我家の門前まで来て見ると、愛していた妻だけに、可愛い子供だけに、さすがに変り果てた、恐ろしい我が姿がはずかしくなった。牢破りの大罪を打開ける勇気がなかった。……
 脱獄以来二ヶ月の間、彼は深川ふかがわのある同類の家に身を隠していました。――その同類の名前もちゃんとわかっています――。そして夜にまぎれて、我邸内に忍び込み、妻子の姿を垣間見て、また宝石の隠し場所をあらためて、僅に自ら慰めていたのです。倭文子さんが、鹽原の温泉へ行けば、そのあとを追って、同じ宿屋に泊り込み、湯殿の窓から我が妻の入浴姿をのぞくというような、みじめな苦労さえしているのです。……
 彼が盗みためた宝石は、さっきのお芝居でごらんなすった通り、書斎の仏像の中に隠してあったのです。彼は、そこへ人の近づくのを防ぐために、色々工夫をこらしました。不気味な仏像群もそれです。宝石を隠した金仏の目にからくりを仕掛けて、人がその前に立つと、ひとりでに目を見開くようにしておいたのもそれです。また、いざという時の隠れ場所として、あの天井裏に暗室を作り、格天井の一枚をはずして出入り出来るようにしたのも、彼の工夫です。……
 彼は、その深川の同類の家に、二ヶ月程潜伏していましたが、最近になって、それでは、どうにも安心が出来なくなったのです。第一に宝石への執着。彼は気違いの様に宝石を愛しました。何不自由のない身で、宝石泥棒になったのもそのためです。妻子よりもいとしい宝石と、別々に住んでいるのは、もう我慢が出来なくなったのです。それに、仲間の一人が宝石の隠し場所を、勘づいて、コッソリ手に入れようとしていることもわかった。また、畑柳にして見れば、三谷君がここの家に入りびたりになっているのも、不安の種であったに相違ない。そこで彼は泥棒のように、我家に忍び込み、かつて作っておいた、書斎の天井裏の隠れ場所へ、身をひそめ、そこから宝石の見張りをすることになったのです。……
 さすがに彼の用心は無駄ではなかった。疑っていた仲間の一人が、ある日、案の定書斎に忍び込み、仏像の中の宝石を盗もうとした。畑柳は、天井裏で、それを待ち構えていたのです。あらかじめ用意しておいた、紐のついた短剣が役立ったという訳。その有様は、さっきお芝居の第一幕でお目にかけた通りです」
「では、その宝石を盗みに来た同類というのは、……」
 恒川氏が、思わず口をはさむ。
「そうです。小川正一です。無論偽名ですが、あいつこそ、首領を裏切った憎むべき曲者だったのです」

三幕目


「畑柳庄蔵が、悪人だと知っていたけれど、人殺しまでやっているとは意外でした。しかし、それにしても、腑に落ちないのは、お説の通り、今度の犯人が畑柳だとすると、彼はどうして、我子を誘拐して、身の代金を要求する様な、ひどいまねをしたのでしょう。その辺の心理に、大きな矛盾があるような気がしますね」
 恒川氏がいぶかしげにたずねた。
「そこです。今夜のお芝居の第二幕目は、その点をハッキリさせるために、実演してお目にかけたのです。ごらんになった通り、畑柳は、もう一人の奴に殺されました。あの男を、一体何者だとお思いですか」
「分りません。ただ、そいつが、眼鏡をかけ、マスクをはめていた奴らしいという外には」
 警部はさっき実演されたことを、そのまま答える外はなかった。唇のない男を代表する小さな黒い奴は、マスクの人物に殺されたのであった。
「では、その人物をお目にかけましょう。君、眼鏡とマスクをとって下さい」
 明智は、物置のがらくた道具の間にたたずんでいた、最前さいぜんの黒マントの俳優に声をかけた。
 恒川氏と三谷青年とは、破損した椅子やテーブルの積上げてある隅っこを、熱心に見つめた。陰気な五燭の電燈が、大小二人の黒怪物を、異様に照らし出している。
 黒マント、黒ソフトの不思議な人物は、言葉に応じて、顔を上げると、先ず大きな色眼鏡をはずした。
 眼鏡がとれただけで、その人物が非常に奇怪な顔をしていることがわかった。
 眼は焼けただれた様に、赤くなって、まぶたは短く、まつげはぬけ落ち、その間から、腐りかけたさかなの目の様な、白っぽい両眼が、あらぬ空間を見つめていた。
 恒川氏は、ある予感に、ハッとして、思わず一歩前に進んだ。三谷青年もひどく心を乱されたらしく、真青になって、何か訳の分らぬたわごとを口走った。
 黒マントの怪物は、次に、半面を覆い隠していた、大きなマスクを、引きちぎる様に取去った。
 顔全体が、赤茶けた電燈の光に、むき出しになった。想像した通り、そいつの鼻は半分しかなかった。頬からあごにかけて、無慙な赤はげが光っていた。そして、唇が、アア、唇が。
「アッ、唇のない男!」
 恒川氏が、頓狂な声で叫んだ。
 何が何だか、さっぱり分らぬ。まるで悪夢にうなされているような気持だ。警部は念の為に、懐中電燈をさしつけて、古井戸の底をのぞいて見た。唇のない怪物、畑柳庄蔵のふくれ上った死体は、ちゃんと元の場所に横わっている。
 離魂病りこんびょうの様に、全く同じ怪物が二人現われたのだ。どちらが本物で、どちらが幽霊なのだ。
 恒川氏にとって、こいつは、正しくいえば、第三番目の「唇のない男」であった。最初は、品川湾で焼け死んだ園田黒虹のかぶっていたろう製のお面、第二は今井戸の底に死んでいる畑柳庄蔵、そして、ここに第三の怪物がたたずんでいるのだ。
「すると、唇のない奴が、唇のない奴を殺したということになる訳ですが……」
 彼は面食って明智の顔を見た。
「そうです。唇のない奴が、唇のない畑柳庄蔵を殺したのです。つまり、今度の事件には、二人の唇のない人物がいて、全く別の目的で、別の罪を犯していたのです。我々は今までそれを混同していた為めに、事件の真相をつかむことが出来なかったのです」
「そんなことが、こんなによく似た片輪者が、同じ事件に関係するなんて、余り馬鹿馬鹿しい偶然です」
 恒川氏は、明智の言葉が子供だましみたいで、どうにも合点出来なかった。
「偶然ではありません。両方とも本当の片輪だとすれば、そんな風にお考えになるのも無理ではありませんが、一方は真赤な偽物です。……サア、それを取って下さい」
 明智は半分を恒川氏に、あとの半分を、黒マントの人物に向っていった。
 その指図を聞くと、黒マントの男、いや女は、手早く帽子をかなぐり捨て、耳のうしろまで、自分のあごに手をかけると、いきなり、我が顔を、メリメリとめくり取った。……それは非常に精巧なろう製のお面に過ぎなかったのだ。
 お面の下から現われたのは、――見物の二人は、さい前から薄々感づいてはいたが――明智の女助手文代さんの、美しい笑顔であった。
「よっちゃん、あなたも覆面をおとりなさいな」
 文代さんは、お芝居の中で彼女がしめ殺した、黒装束の小怪物に、優しく声をかけた。
 すると、醜怪な一寸法師は、声に応じて、顔にまきつけていた黒布を、クルクルと解いて、
「アア、苦しかった」
 と、快活な調子で、ひとり言をいった。
 読者も想像された通り、それは同じく明智の助手の、小林少年であった。
「アア、やっぱり君達でしたね。あんまりお芝居が上手だものだから、屋根裏の悲鳴を聞かされた時などは、ゾッとしましたよ」
 恒川氏は、素人俳優達をねぎらいながら、文代さんの手からろう製のお面を取って、しばらく眺めていたが、
「ヤ、明智さん、君は、園田黒虹のかぶっていたろう面の細工人を探し当たのですね」
 と、やや驚いていった。そういう彼の頭の中には、二日前に、明智のアパートで目撃した、倭文子と茂少年のろう人形がまぼろしのように浮かんでいた。
「御推察の通りです。僕はその細工人を探り当たのです。そして、例の人形」といいかけて、明智は何故か三谷青年の顔を盗み見た。
「例の人形と一緒に、これを作らせておいたのです。ちゃんと型が残っていましたからね。エ、あのお面の最初の依頼者を調べて見たかとおっしゃるのですか。調べて見ました。妙なことには、その依頼者は、園田黒虹ではなかったのですよ」
「誰でした。名前が分っているんですか」
 警部は思わず、せき込んだ。
「無論変名で注文したのでしょうから、名前が分ったところで、仕方がありません。人相風体は聞き出しておきました。併し、それも非常にあいまいなのです」
「で、そのろう面を、あなたの前に、もう一つ注文した奴があるのですか。つまり、同じ唇のないお面が三つ製作されたのですか」
 恒川氏は流石に急所を突く。
「ところが、僕の注文の外には、たった一つ作ったばかりなのです。僕もその点に気づいたものですから、全部のろう細工人を調べて見ましたが、外に同じようなお面を作った者は一人もありません」
「すると、僕が品川湾ではぎ取った、園田黒虹のかぶっていた、あの仮面が、即ち犯人の注文したものだということになりますね」
 警部はに落ぬ体で、明智の顔を見た。
「そうです。あの小説家は、犯人でなかったにも拘わらず、犯人の仮面をかぶっていたのです。そこに、真犯人の恐るべきまんが隠されているのです。しかし、そのことは、あとでゆっくりお話ししましょう」
 明智は、そこで文代と小林に向き直り、
「君達つかれたでしょう。あちらで、着物を着換て、ゆっくりお休みなさい」
 といった。
 恒川氏は、その時、明智の目と文代の目とが、意味ありげに、パチパチとまぶたの合図を取かわしたように感じて、妙に思った。
 文代と小林少年が、床の上げ板を元通りにして、物置を出て行くのを見送りながら、明智は、
「さて、お芝居の第三幕目ですが、それは、さい前もいった通り、口でお話しすれば分ることです。井戸の中の死体の始末は、いずれ明日のこととして、兎も角、この不愉快な場所を出ることにしましょう」
 といって、二人をうながして、物置を出た。
 物置の戸を締切って、廊下を客間の方へ引返すと、その途中に、乳母のお波を初め、長年の召使達が、オドオドしながら、一同を待受けていた。彼等は明智から、二階へ上ることも、物置へ近づくことも、かたく禁じられていたのだ。
 明智と恒川警部が、客間の椅子につくと、乳母のお波は、心配にやつれた顔で、様子を聞きたげに、お茶などを運んで来るのであった。
「ばあやさん、君はこの部屋にいても構いませんよ。その代りほかの人達を、しばらくここへ入れない様にして下さい。また、無暗に二階の書斎や、台所の物置をのぞかぬ様に、よくいいつけておいて下さい」
 明智がいうと、お波は廊下の一同にそのことをいい渡して、セカセカと戻って来た。
「奥様や、坊ちゃんは助かるでございましょうか。……アノ、奥様はやっぱり、牢屋へ行かなければならないのでしょうか」
 忠実な彼女は、何よりもそれが確めたいのだ。
「イヤ、心配しなくてもいい。明智さんの御尽力で、下手人は外にあることが分ったのだよ」
 恒川氏が慰める。
「でも、奥様は、一体どこへ隠れていらっしゃるのでございましょうね。若しや、取返しのつかない様なことが……」
「それも大丈夫です。奥さん達の行方はわかっている。二人とも決して自殺する様なことはありませんよ」
 明智が頼もしく答えた。
 お波はそれを聞いて、ホッと安堵の溜息をつく。
「エ、君は、倭文子さん達のありかを知っているんですって、どうして分ったのです。それは一体どこなのです」
 初耳の恒川氏は、びっくりしないではいられなかった。と同時に、明智の何から何まで抜け目のない、すばらしい探偵能力が、いっそ恐ろしくなって来た。
「そうです。間もなく倭文子さん達の無事な姿をお見せすることが出来るでしょう。しかし、その前に、お芝居の方の結末をつけなければなりません」
 明智は、お波の出してくれた、紅茶をすすりながら、また説明を始めた。
「第三幕目は、斎藤老人殺しです。あれも、無論倭文子さんが犯人ではなく、畑柳庄蔵を殺した、例のろう仮面の怪物の仕業です。あの天井のトリックを御存知のあなたには、くわしく説明するまでもなく、賊の巧な欺瞞がお分りになるでしょう。……。
 彼奴きゃつは、丁度その時、天井裏にひそんで、またなんか恐ろしいことをたくらんでいたのです。ひょっとしたら、彼の犯罪に怪談めいたカムフラージュをつけるために、そこへ這入って来た家人を、例の顔でおどしつけるためであったかも知れません。いずれにもせよ、あいつは、その時偶然天井にひそんでいたのです。……
 そこへ、斎藤老人と倭文子さんが、いい争いながら入って来た。聞いていると、争いは烈しくなるばかりです。そこで彼は、実に奇抜な殺人を考えついた。例の短剣を、天井から投げつけて、斎藤老人を殺し、その罪を倭文子さんに転嫁しようとたくらんだ。そして、それがまんまと成功したのです。……
 倭文子さんは、口論に逆上していた。老人を殺しかねまじい程、昂奮し切っていた。丁度その倭文子さんの心持を、形で現わすが如く、老人の胸に短剣が突きささったのです。部屋には誰もいない。短剣の飛んで来る様な隙間も見当らぬ。こういう奇妙な状態におかれた倭文子さんが、自分が下手人だ、無意識の内に、相手を刺し殺してしまったのだと、我と我が身を疑ったのは、無理もないことです。……
 そこへ検事や予審判事がやって来て、まるで裁判所の様な、恐ろしい空気が漂い始める。若しちょっとでも、そそのかす者があったら、気の弱い女が、家出をする気になるのは、当然ですよ」
「成程、実によく道筋が立っていますね。僕にしたって、その外に考え様がありません」
 恒川氏は一応は感服して見せたが、しかし、その次の瞬間には、やっぱりどこやらに落ぬ面持になる。
「だが、どうもつじつまの合わぬ点がありますよ。ろう仮面の犯人は、一体何のために、そんな廻りくどいことをやっているのでしょう。彼奴の真意はどこにあるのでしょう。畑柳庄蔵を殺して宝石を奪った所を見ると、それが目的であった様にも思われるが、それなら、何も斎藤老人まで殺さなくてもよいではありませんか」
「イヤ、畑柳を殺したのも、斎藤を殺したのも彼の真意ではありません。先日も申上げた通り彼奴あいつはまだ目的を果していないのです。本当に奴が殺そうと企らんでいる人物は、もっと外にあるのです」
「誰です。その人物というのは」
 恒川氏は、またしても、真向まっこうから一太刀浴びせられた感じで、しどろもどろにたずねる。
「畑柳倭文子さんです。そして、恐らくは茂少年も一緒にです」
 明智はズバリといった。
 恒川氏は、ついさい前まで、倭文子を人殺しの大罪人として捕えることばかり考えていた。それが、一時間かそこいらの間に全く転倒して、倭文子は無罪と判明した上に、彼女自身が、恐ろしい殺人鬼の餌食えじきとねらわれていたのだとは。アア、何ということだ。
「今度の事件は、最初から、倭文子さんを殺害することが唯一の目的だったのです。外の色々な犯罪は、すべてすべて、その唯一の目的を達する為の手段に過ぎませんでした」
「ちっと待って下さい」恒川氏は仲々承服しない。「それはおかしいですね。か弱い倭文子さんを殺すのに、何の手間暇が要りましょう。一番最初、茂少年をおとりにして、あの人を青山の空家へとじこめた時、何の面倒もなく殺害することが出来た筈です。何も態々わざわざ、斎藤老人殺しの嫌疑をかけて、罪に落す様な、廻りくどいことをしなくても。……」
「恒川さん。僕がこの事件を重大に考えるのは、その点ですよ」明智は突然厳粛な面持になって、上眼使いに、じっと警部の顔を見つめた。「この事件の真犯人は、人間ではありません。イヤ、人間の皮をかぶった、猛獣です。毒蛇です。アア、何という執念でしょう。我々常人の想像力では判断も出来ない様な、けだものの世界の執念です。……
 犯人は、猫が鼠をもて遊ぶ様に、倭文子さんをもてあそんでいたのですよ。あるいは愛児を誘拐し、あるいは当の倭文子さんを地下室に幽閉し、あるいは恐ろしい殺人罪の下手人と思い込ませるなど、その外あらゆる手段を用いて、一寸だめし、五分だめしに、こわがらせ、悲しませ、苦しめ抜いて、最後に、殺してしまおうとたくらんだのです。犯人にしては、犠牲者をただ一打ちに殺してしまうのが、惜かったのです。しゃぶったり、なめたり、ちょっとばかり傷つけて見たり、さんざんおもちゃにして、それから、アングリと食い殺そうという訳なのです」
 明智は、青ざめた、総毛立った顔で、心の底から恐ろしそうに語った。
 聞いている内に、恒川氏も、何かしらゾッとしないではいられなかった。
「若しそれが事実だとすれば、我々は一刻も早く倭文子さんを救い出さなければなりません。あの人はどこにいるのです。第一、どうしてあの厳重な見張りの中を、ここから抜け出すことが出来たのでしょう」
 警部は明智の落ついているのを、もどかしがって、イライラしながらいった。
「ここから抜け出すのは訳はなかったのです。棺桶ですよ。斎藤老人の死骸を納めた棺桶が、手品の種に使われたのですよ」
「エ、エ、棺桶ですって?」
 恒川氏は、不意を打たれて、驚きの表情を隠すいとまがなかった。
「その外に考え様がないではありませんか。邸は隙間もなく警官や家人によって見張られていたのです。あの日邸を出入りした人物はハッキリ分っています。そのほか邸を出たものといっては、棺桶があったばかりです。とすれば、倭文子さんと茂少年は、あの棺に隠れて、ここを抜け出したと考える外ないではありませんか。簡単な算術の問題ですよ」
「しかし、あの棺桶に、三人も人が入れますか」
 警部の矢つぎ早の反問だ。
「三人は入れなくても、女と子供が入る程の広さはあります」
「すると、斎藤老人の死体は?」
「お目にかけましょう」
 明智はテキパキ答えておいて、乳母のお波を振返った。
「ばあやさん。斎藤老人のいる所は、君が知っている筈だね」
 お波は、面食って、目をパチパチやった。
「あたしが? イイエ、そんなもの存じますものですか」
「知らないって? そんな筈はないよ。ホラ、奥座敷に並んでいる棺桶さ」
「アア、あれでございますか。あれなら三つとも、からっぽですよ。さっき葬儀社から届けて来たばかりですもの。明智さんのお指図だっていってましたが、みんなで、一体何になさるのだろう。気味が悪いといって、不審がっていたのでございますよ」
 お波は多弁である。
「からっぽだか、どうだか、では行って見ることにしよう」
 明智は、恒川氏をうながして、お波と三人で、奥の間へ入って行った。
 なる程、とこの前に、白木の棺が三つ、きちんと行儀よく並んでいる。日頃あまり使用せぬ座敷なので、どことなくガランとして、陰気な感じだ。
「二つは、如何にも空っぽです。しかし右の端の一つだけは、中味がある」
 明智は「中味」などと妙ないい方をして、右端の棺に近づき、そのふたを少しあけて見せた。
 恒川氏と婆やがのぞいて見ると確に人間が、うずくまっている。ふたの隙間からさし込む電燈の光りが、その人物のなめし革の様にひからびた、土色の半面を、ボンヤリと照らしている。
「オヤ、本当に斎藤さんだ。マア、マア」
 お波は訳の分らぬことをつぶやいて、なじみの深い仏様に合掌した。
「アア、分りました。この死骸も、やっぱり例の井戸の中に隠してあったのですね」
 警部が、なじる様にいった。
「そうです。あの二枚のふとんの上にあったのです。あすこに、斎藤老人の死骸まであったのでは、お芝居があんまり複雑になりますから、順序よく種明かしをする為に、文代さんと小林君が、前以て、この死骸だけを運び出しておいたのですよ。どうせ棺におさめなければならないのですからね」
 明智はそんな風に弁解したが、もっと外の理由があったのかも知れない。
「で、あとの二つの棺は、畑柳庄蔵と小川正一の為に、用意された訳ですね」
 警部は、明智の行届いた手配りに感じ入っていった。
「これで、今晩のお芝居は幕を閉じるのです。つまり、斎藤老人の死骸が、不吉などんちょうをおろす役を勤めた訳ですよ」
 明智は、わざと快活に冗談をいって見せた。
「そして、これから本当の捕物とりものに移るのです」
 恒川氏は、獲物を前にした猟犬の様に元気づいて叫んだ。鬼警部の本領を発揮する時が来たのだ。
「倭文子さん親子の安否も気づかわれる。それに、第一犯人の逃亡が気掛りです。愚図愚図している場合ではありません」

真犯人


「恒川さん、お忘れになりましたか。さい前僕が、倭文子さん達は、安全だとお請合うけあいしたのを」
 明智は、おちつき払って、あせる警部を制した。
「それは、君が倭文子さん達の、隠れ場所を知っているという意味でしょう。しかし犯人は? 若し犯人がその隠れ家をかぎつけて、襲ったらどうします。やっぱり、ぐずぐずしている場合ではありません。サア、その場所へ案内して下さい」
 恒川氏は、あまりに悠長ゆうちょうな明智の態度に、腹立たしく叫んだ。
「イヤ、犯人はとっくに、倭文子さん達を手に入れているのです。第一、あの人達をここから逃がしたのも、隠れ場所を作ってやったのも、みんな犯人の仕業なのですよ」
「エ、何ですって」
 警部はあきれはてて、物がいえなかった。
「それなら、なおさら急がなくては、倭文子さんが殺されてしまうではありませんか。君は一体どうしようというお考えなのです」
「無論、犯人の逮捕に向うつもりです。しかし、何も慌てることはないのですよ」
 警部はそれを聞くと、少し落ついた。明智ともあろうものが、成算せいさんがなくて、こんなに悠長に構えている筈はないと思ったからだ。
「で、君は犯人をすでに知っているのですか」
「エエ、よく知っています」
「倭文子さんを、棺に入れて、ここから逃がしてやったのも、その犯人の仕わざだといいましたね。それが第一、僕にはよく呑みこめないのだが、すると、犯人は、この邸内のものだとおっしゃるのですか」
「倭文子さんを逃がした奴といえば、あの人が最も信頼していた人に違いありません。その様な人物は、恐らく倭文子さんの恋人の外にはないで、よう。つまり、この事件の犯人は、倭文子さんの恋人だったのです。三谷房夫だったのです」
「ウムムムムム」
 といった切り、恒川警部は、考え込んでしまった。明智の推理は、一見はなはだ突飛な場合が多いけれど、よく考えて見ると、いつも理路整然として、一糸の乱れもない。倭文子さんの恋人が、その倭文子さんの命をねらう犯人だとは、突飛も突飛、むしろ荒唐無稽な空想としか思われぬが、明智にしては、確な根拠がなくて、こんなことを口走る筈がない。一体これは、何という変てこな事件であろう。恒川氏は、いくら考えても分らなかった。
「では、なぜ三谷君を捕えないのです。彼はさっきから、我々と同席していたではありませんか。それにしても、当の犯人である三谷君が、自分の犯した罪をあばかれるあの芝居を、平気で見物しているなんて、僕には、何が何だか、さっぱり訳が分りません」
「イヤ、あいつは、決して平気でいたのではありません。君は気づかなかったですか。物置で種明しをしている折など、あいつは、真青になって、額ぎわに玉の汗を浮かべて、ブルブルふるえていたではありませんか」
「ウン、そういえば、変な挙動がないでもなかった。君の推理はあとで聞くとして、兎も角、三谷君を問い正して見るのが早道だ。あの人はまだここにいる筈です」
「とっくに逃げてしまいました。さい前、物置からこの部屋へ来る途中で、姿をくらましてしまいました。恐らく廊下の窓から、庭へ出たのだと思います」
 明智は、呑気なことをいっている。
「それを知っていて、君はだまっていたのですか、犯人を逃がしてしまったのですか」
 警部はたまりかねて、はげしい見幕で、詰問した。
 恒川氏が熱して来れば来る程、明智は反対に落ついて行くように見えた。
「ご安心なさい。僕はちゃんと、あいつの行先を知っているのです。その上念のために、三谷のあとを尾行までさせてあります」
「尾行ですって、いつの間に? 誰が?」
 警部が面食うと、明智は笑って、
「外にそんなことを頼む人はありません。文代さんと小林君ですよ。あの二人は、女や子供だけれど、なまじっか、大人よりは敏捷で、頭も働きます。滅多にあいつを見失う気遣いはありません」
「で、君の知っているという、あいつの行先というのは?」
「目黒の工場街にある、一軒の小さな工場です。三谷が、果してそこへ入ったかどうか、文代さんから電話をかけて来る手筈です。アア、若しかしたら、あれがそうかも知れません」
 書生が入って来て、明智に電話だと告げた。明智は室内の卓上電話に接続させて、受話器を取った。
「あたし、文代です。あの人、やっぱりあすこへ入って行きました。大急ぎで来て下さいまし」
「有難う。だが、大急ぎというのは?」
「でも、あの人、何だか、私達のつけて来たのを、感づいたらしい様子ですの」
「よろしい。それではすぐに、恒川さんと行きます。小林君をそこへ残して、あなたは、例のことを運んで下さい。じゃあ」
 明智は卓上電話を離れると、恒川氏に向って、
「お聞きの通りです。やっぱり目黒の工場街へ帰った相です。すぐお伴しましょう」
「では、僕は応援の巡査を、そこへ集める手配をしておきましょう」
 勇み立った警部は、明智からその工場の所在を聞いて、警視庁と、所管警察署とに電話をかけた。
 約三十分の後、二人は自動車を、目的の工場の少し手前で降りると、徒歩で、その門前へ近づいて行った。
 暗闇の中から、待ち兼ねていた小林少年が飛び出して来た。
「あいつは、確にこの工場の中にいるんだね」
 明智が小声で尋ねる。
「大丈夫、外へ出た形跡はありません」
 小林助手が、事務的に答えた。
 間もなく、所管警察から五名の私服制服の警官が到着した。
「君達、手分けをして、この工場の表と裏を見張って下さい」
 恒川氏は、三谷の容貌風采ふうさいを告げて、五名の警官に依頼した。
 そして、明智と恒川警部の二人だけが、真暗な門内へ入って行った。
 暗夜のことゆえ、くわしくは分らぬけれど、工場というのは、いかにも荒れ果てた、みすぼらしいもので、板塀は、トタン板のつぎはぎだらけ、倒れかかった丸太の門柱には、それでも、小さな街燈がついていて、その淡い光りで、
西南製氷せいなんせいひょう会社」
 という看板の文字が、やっと読める。
 門を這入ると、暗の中に、大入道の様な黒い建物。無論バラック同様の、荒れすさんだ工場だ。イヤ工場の残骸だ。
「殺人犯人と製氷会社と、一体どんな因縁があるのだろう」
 恒川氏は不審にえなかったけれど、無暗に口をきく訳には行かぬ。黙々として明智のあとからついて行った。
 建物は全体が真暗であったけれど、横手に廻って見ると、一ヶ所だけガラスの破れた窓に、あかりがさしている。
 二人は抜き足さし足、その窓の外へ忍び寄った。
 のぞいて見ると、いた、いた。三谷の奴、ガランとした、汚い部屋の中で、古テーブルにもたれて、考え事をしているのが、マザマザと眺められた。
「三谷さん、三谷さん」
 明智は窓の外から、声をかけた。
 可哀相に、三谷青年は、どんなにかびっくりしたことであろう。彼はハッと顔を上げて、ガラスの外の暗やみを、すかして見たが、おぼろな人影が見えるばかりで、まだ明智とは気がつかぬ。
「どなた。どなたです」
 彼はもう逃げ腰になりながら、上ずった声で、聞き返した。
「僕ですよ。明智ですよ。ちょっとここをあけてくれませんか」
 それを聞くと、三谷の顔が、サッと血の気を失った。そして、物もいわず、向うのドアへと駆け出した。
「待てッ」
 呶鳴どなりさま、恒川警部は、窓を押し開き、飛鳥の如く室内に飛び込むと、いきなり逃げる三谷に追い迫って、その上衣をひっつかんだ。捕物には腕におぼえの鬼警部だ。
「アアあなたでしたか。僕は飛んだ思い違いをしていました」
 逃れられぬと分ったので、三谷は咄嗟とっさに態度を改めて、見えすいたうそをいいながら、ふてぶてしく笑った。彼も流石さすがに兇賊である。
「思い違い? ハハハハハハ、思い違いでなくとも、逃げ出さなければならなかったのだ。僕等は、君を殺人犯人として逮捕に来たのだからね」
 警部は三谷を元の椅子に引据えて、獲物をねらうタカのように、その前に立ちはだかった。
「エ、殺人犯人ですって、何をいっていらっしゃるのです。僕が一体誰を殺しました」
「貴様、さっきの明智さんのお芝居を見ながら、まだそんなことをいっているのか。貴様こそ、唇のない男だ。ろう製の面をかぶって、畑柳庄蔵を殺し、斎藤老人に短剣を投げつけた犯人だ」
 警部が威丈高いたけだかに呶鳴りつけた。
「ヘエ、僕がですか。一体何を証拠にそんなことをおっしゃるのです」
 巧に作ったけげんな顔だ。
「証拠は今に見せて上げる。だが、その前に一言聞いておきたいことがある」
 明智がたまりかねて、口を出した。
「畑柳と斎藤の外に、君自身の助手の園田黒虹という文士を殺したのも君だ。それはわかっている。だが、岡田道彦は? 鹽原の滝壺で死んだあの岡田は? これも恐らく君の仕業だと思うのだが」
「ヘエ、驚きましたね。飛んでもないことですよ。僕は何も知りませんよ」
 三谷は益々意外だという表情をする。イヤ、三谷ばかりではない。この明智の一言には、恒川氏も少からず驚かされた。園田黒虹や岡田道彦まで、三谷の手にかかっていたとは!
「岡田は自殺をしたのではない。あの男が滝の落口へ昇って行ったのを見すまして、これ幸いと、君がうしろからつき落としたのだ。つき落としておいて、死体が下流に浮かび上るのを待ち、その顔を石でたたきつぶして、岡田と分らぬ様にしてしまったのだ」
「オヤオヤ、僕も酔興な真似をしたものですね」
「ハハハハハ、如何にも酔興だったよ。折角そうして、岡田の顔を分らぬ様にして、岡田自身が、替玉の死骸に彼の着物を着せて滝壺へ投げ込み、死んだと見せかけて、その実恋敵こいがたきの君や倭文子さんに復讐をしている様に思わせる、あの念入りなトリックが、僕には何の効果もなかったのだからね。岡田が生きていて、倭文子さんを苦しめているのだと、わざわざ僕の事務所へ教えに来たのは、君ではなかったかね。僕がそれを信じた様に見せかけて、実は君の様子を注意していたとも知らないで。ハハハハハハ如何にも酔興なお茶番に相違なかったよ」
「フフン。で、証拠は? 架空の想像なら、誰にだって出来ますからね。まさか裁判官は、それでは承知しますまいよ」
 三谷はいよいよ落つき払って、二人に食ってかかった。
「証拠がほしいのかね」
「エエ、あれば見せてほしいものですね」
「よし今それを見せてあげる。ちょっとの辛抱しんぼうだ。おとなしくしているのだよ」
 明智はいいながら、恒川警部に目くばせした。
「この男が、動かぬように、うしろから押さえていて下さい。歯型をとるのです」
 それを聞くと、三谷は青くなって、椅子から立上った。彼は歯型の意味を知っていたからだ。だが、逃げ出すひまはなかった。立上ると同時に、両方のわきの下から、警部の二本の腕がニュッと出て、いきなり彼をはがいじめにしてしまった。
 明智は動けなくなった三谷の顔を、グッとうしろへねじ曲げて、唇を押し開き、用意していた赤いゴム様の柔かい塊りを、食いしばった上下の歯並に、ピッタリと圧しつけ、手早く歯型をとってしまった。
「サア、三谷君、よくごらん。この赤の方が、今取った君の歯型だ。それからこの白いのが」と明智はポケットから布にくるんだ石膏の歯型をとり出して「青山の空家に残っていた真犯人の歯型だ。この二つが完全に一致したら、君が即ち真犯人だという、物的証拠が出来上る訳だ。今合せて見るから、よくごらん。ホラね、一分一厘の違いもなく、全く同じだ。これさえあれば、君が何と抗弁しようとも、僕は裁判官の前で、君の有罪を証明してみせるよ」
 三谷ははがいじめにされたまま、くやしそうに唇をかんだ。
「三谷君、僕がどうして、君を真犯人とにらんだか知っているかね」
 明智はニコニコしながら続ける。
「さい前のお芝居もそれだ。あれは恒川さんに見せるよりもむしろ君の顔色なり挙動なりに現われる、反応をためすのが、僕の目的だった。そして、それは見事に成功した。君はお芝居を見ていて、あぶら汗を流し、ブルブルふるえ出したではないか。……
 では、なぜ君を試す気になったか。君を疑い始めた理由は何であったか。それはね、君のトリックが、あんまり大胆すぎたからだよ。恒川さんたちが、唇のない男を追いつめて、青山の怪屋附近の露路で、見失ってしまった。怪人物は突然煙の様に消えうせてしまった。だが、実は消えうせたのではない。君はちゃんとそこにいたのだ。とっさの間にマントとお面と帽子と義手義足とを取去り、それを塀の内側の茂みの中へ投げ込んでおいて、素顔の三谷に返って、大胆にも、ブラブラと散歩しているていをよそおい、恒川さん達に近づいて行ったのだ。……
 君はこの同じ手を度々用いている。君が最初僕を訪ねて来た時、ドアの隙間から脅迫状が投げ込んであった。あれは、投げ込んだのではなく、君自身がわざわざそこへ落として、拾い上げて見せたのだ。……
 また、代々木のアトリエで、ガラス窓を砕いた石つぶても、やっぱり、君が先ず脅迫状を落としておいて、逆に内側からガラスを破って見せたのだ。あの時、僕が一生懸命外を探しているのを見て、君はさぞおかしく思ったことだろうね。……
 品川湾の風船男の場合も同じことだ。文代さんに聞くと、あの風船男は、唇のない、いつもの奴とは違っていた。君の素顔でもなかった。あれは君の助手の妄想詩人園田黒虹の、飛んだ番狂わせの気違い沙汰に過ぎなかったのだ。君はただ文代さんを誘拐させるのが目的で、何も国技館の屋根へ昇ったり、風船で逃げたりする放れ業を命じた訳ではなかった。こいつは困ったことになったと思ったに違いない。そこで、風船が海に落ると、君は真っ先に現場へモーターボートを飛ばした。そして警察のランチが近づかぬ内に、舟の中で助手の園田を絞め殺し、例の仮面をかぶせておいて、いきなりガソリンを爆発させ、君自身は素早く海の中へ飛び込んで、命をまっとうしたのだ。……
 谷山三郎たにやまさぶろう君! どうだね。僕のいったことが間違っているかね」
 明智は、意外な名前で、三谷に呼びかけた。
 三谷の顔には、いよいよ深い驚きの色が浮かぶ。
「ハハハハハ、僕が君の本名を知っていたからといって、そんなにびっくりしないでもいい。どうして知ったというのかね。これだ。見給え。ここに君の少年時代の写真がある」
 明智は、ポケットの手帳にはさんでおいた、一枚の手札型の写真を取出して、三谷に示した。
「ホラ、君達兄弟が仲よく並んで写っている。右のが兄さんの谷山二郎じろう君だ。左が君だ。僕はこれを君達の郷里の信州S町の写真屋から探し出して来たんだよ」
「すると、あなたは……」
 三谷の谷山は、ギョッとしたように、素人探偵の顔を見つめた。
「そうだよ。僕は倭文子さんに身の上話を聞いたのだ。この事件は、倭文子さんを中心として発展している。ちょっと考えたのでは、そんな風に見えぬけれど、その実犯人の目ざす所は、最初から倭文子さん一人なのだ。僕はそこへ気がついたものだから、あの人の過去の生活を研究して見ることにした。そして、探しあてたのが、倭文子さんに恋こがれて、自殺をした、君の兄さんの谷山二郎君だ。二郎君の恋がどんなに熱烈であったか、したがってその失恋が如何に惨澹さんたんたるものであったかということを知るに及んで、僕は悟るところがあった。倭文子さんの生涯に、他人の恨みを受けたことがあるとすれば、この谷山二郎君の外にはない。倭文子さんは、一度は同棲までした二郎君に、可成かなり残酷なしうちをした。あの人は、今になってそれをひどく後悔している程だ。……
 ちょっとでも疑わしい人物は、一人も漏らさず研究調査して見るのが、僕のやり方だ。僕は信州へ人をやって、二郎君の家庭を調べさせ、この写真まで手に入れた。二郎君の一家は皆死に絶えて、残っているのは、少年時代に悪事を働いて家出をした弟の三郎だけだということが分った。僕はその三郎の写真顔を一目見ると、あらゆる秘密が分った様な気がした。年齢こそ違え、三郎の写真顔は、三谷君、君と全く同じだったからだ……」
 三谷の谷山は、深く深くうなだれて、物をいう力もなかった。警部がはがい締にしていた手を離すと、ヘナヘナと床の上へ、へたばってしまった。明智の推理が恐ろしい程図星ずぼしをさしていたからだ。
「アア、君は、犯した罪の数々を認めたのだね。抗弁する余地がないのだね。では、白状し給え、倭文子さんと茂少年をどこへ隠したのだ。あの人達は今どこにいるのだ」
 恒川氏が、犯人の上にしゃがみ込んで、性急に問いつめた。
「ここです。この工場の中にいるのです」
 谷山は、やっとしてから、やけくそな調子でいい放った。
「さては、まだどこかの部屋に監禁してあるのだね。サア、案内し給え」
 警部は、谷山の右手をつかんで、引立てるようにした。
 彼はもう観念した様子で、フラフラと立上ると、いわれるままに、先に立って、事務室を出た。恒川、明智の両人が、犯人の逃亡を用心しながら、そのあとに従ったのはいうまでもない。
 谷山はうなだれて、真暗な細い廊下を、トボトボと歩いて行った。廊下のつき当りは機械室だ。
 倭文子と茂少年は、果して無事であろうか。明智はそれを請合っているけれど、製氷会社の機械室とは、あまりに異様な隠れ場所ではないか。復讐鬼谷山三郎は、すでに彼等を恐ろしい目に合わせてしまったあとの祭りではないのかしら。

最後の殺人


 谷山は製氷機械室に入ると、パチンと電燈のスイッチをひねった。先ず目に入るのは、大きな二台の電動機、大小幾つかの銅製シリンダア、壁や天井を蛇のようにはい廻る数条の鉄管、機械は運転を休止していたけれど、ゾッと身にしむ冷気が、どこやらにただよっている。
「ここには誰もいないじゃないか。倭文子さん達はどこにいるのだ」
 恒川氏が、キョロキョロあたりを見廻して、いった。
「ここにいるんです。今に会わせて上げますよ」
 谷山は薄気味の悪い微笑を浮かべて、
「だが、その前に、僕は何もかも白状しましょう。僕がなぜ倭文子さんをこんな目に会わせたかその訳を聞いて下さい」
「イヤ、それは、あとでゆっくり聞こう。まず倭文子さんを出し給え」
 警部は、相手が一時のがれをいっているのではないかと疑った。
「イヤ、先に僕の話を聞いて下さらなければ、あの人達にお会わせすることは出来ません。出来ない訳があるのです」
 谷山は強情だ。
「よろしい。手短に話して見給え」
 明智が、何か思う所あるらしく、谷山の申出を許した。
「僕は如何にも失恋自殺をとげた谷山二郎の弟です。僕は悪人です。家を外にして、悪いことばかり働いていました。しかし、悪人だからといって、愛情がない訳ではありません。イヤ僕は人一倍愛情が深いのです。兄の二郎とはことに仲よしで、兄のためには水火もせぬ愛情を持っていました。……
 僕は風の便りに、兄が病気をしていることを知ったので、急いで見舞に帰りました。兄は一人ぼっちで、治療をする費用もなく、慰めてくれる友達もなく、あかづいた煎餅せんべいぶとんにくるまって、死にかけていました。……
 倭文子に殺されたのです。あの時の倭文子のやり方が、どんなに残酷なものであったか。兄の失恋がどれ程みじめなものであったか。口ではいえません……
 兄はあかだらけの、ひげむしゃの、青ざめ衰えた、失恋の鬼と変り果てていました。兄は床から起き上る力もなく、ボロボロと涙をこぼして、両手でくうをつかむ様にして、泣き叫ぶのです。――おれはくやしい。あいつを、倭文子を、殺しに行く体力がないのがくやしい。あいつは、貧乏な上に病気にとりつかれたみじめなおれにあいそをつかして、畑柳という大金持の女房になってしまった。それだけならいいのだ。一番くやしいのは、そんな女を、わしを踏みにじって行った女を、おれは、おれは、この三年というもの、思いつづけて、とうとうこんなになってしまったことだ。……そういって兄は泣くのです。……
 倭文子は、兄の一生涯でたった一人の、世界中のどんな宝にも換難かえがたい恋人でした。その恋人が、まるで古草履ふるぞうりでも捨てるように、兄をふり捨てて、つばをはきかけて、相手もあろうに、二十も年上の、醜男ぶおとこの、詐欺師に、みずから進んでとついで行ったのです。……
 兄はある日僕の知らぬ間に、毒薬を飲んだのです。そのいまわのきわに、兄はゴボゴボと咳入せきいって、恐ろしく血を吐いて、その血まみれの手で僕の手を握って、消えて行く声で、叫んだのです。――おれは我慢が出来ない。おれは死んでも死に切れない。失恋の鬼となって、あいつを取殺さないでおくものか。取殺さないでおくものか。――そして、その声が細く細くなって、ついに消えてしまうまで、同じのろいの言葉を繰返したのです。
 僕は兄の死骸にすがりついて、誓いました。――兄さんの敵は、きっと僕が討ってあげます。あの女の財産を奪い、あの女を凌辱りょうじょくし、最後にあの女を殺してやります。どうせ僕はお上からにらまれている悪人だ。どんな罪を犯した処で五分五分なんだ。兄さん、あなたの代りに、僕が生きながら、のろいの鬼となって、この復讐をとげて見せます。――と誓ったのです。……」
 三谷の谷山三郎は、陰気な機械室の中で明智と恒川警部を前にして、叫び続ける。
「僕は兄に代って、倭文子一家をねらう、復讐鬼となった。その準備のためには、如何なる苦痛も、如何なる罪悪もいとわなかった。それまでも度々やっていた泥棒を、もっと大げさにやり始めた。ろう仮面を作らせたのも、この工場を買入れたのさえ、そうして得た金だ。……
 最初の計画では、兄の恋敵に当る、畑柳庄蔵も殺してやる積りだったが、準備のために、日を暮している間に、あいつは牢死してしまった。それが、実はあいつが深くも企んだトリックであることを知ったのは、僕もごく最近なのだ。それからまた、一年以上の月日が無駄に過ぎた。おれは、食うためにもかせがなければならなかったからだ。そればかりではない。おれはこの世の思い出に、可哀相な兄への手向たむけに、この復讐を、出来るだけはでやかに、しかも出来るだけ巧妙な方法によって、なしとげようと心魂を砕いたからだ。……
 だが、とうとう、おれの準備は完成した。気違い文士の園田黒虹という、おあつらえ向きの助手も手に入れた。それからはあんた方の知っている通りだ。おれは岡田道彦という変りものの画家を殺して、おれの身替りにする計画を立てた。しかも、丁度その時、鹽原温泉へ、例の唇のない男が現われた。おれはそれが畑柳庄蔵だとは少しも知らなかったけれど、犯罪を一層複雑にするために、これ幸いと、同じ様な唇のないろう仮面を作らせて、怪談めいた趣向をこらした。……
 おれは思う存分、あいつを怖がらせ、悲しませ、苦しめ抜いてやった。斎藤執事には、何の恨みもなかったが、倭文子を苦しめる為なら、おいぼれの命なんか、問題じゃない。……
 おれはまた、最近になって、思わぬ獲物を発見した。屋根裏の守銭奴しゅせんど、畑柳庄蔵だ。おれは歓声を上げた。早速あいつの裏をかいて、屋根裏に昇り、一思いに絞め殺してしまった。そして、畑柳家の財産のなかば以上を占める、あの宝石類を奪い取ってしまった。……
 ワハハハ、……おれは愉快でたまらないのだ。兄に約束したことは、すっかり果してしまったのだ。おれはこの二三日兄の夢ばかり見る。兄は夢の中で、さもうれし相にニッコリ笑っておれにお礼をいってれるのだ。ね、お礼をいって呉れるのだぜ。ワハハハ……」
 谷山は、手を振り足を踏み鳴らして、躍り狂いながら、気違いの様に哄笑こうしょうした。
 恒川警部は、復讐鬼の呪いの独白を聞いている内に、非常な不安に襲われ始めた。
 彼は、兄との約束をすっかり果してしまったと、広言している。兄との約束の最も重要な部分は、倭文子を殺すことではなかったか。すると彼は、既にその最終の目的まで、果してしまったのではなかろうか。
 警部はそれを考えると、ゾッとしないではいられなかった。
「で、倭文子さんはどこにいるのだ。君はよもや、あの人を……」
 彼はその次の言葉を、口にする勇気がなかった。
「倭文子は、ここにいるといったじゃありませんか」
 谷山は昂奮のさめやらぬ、真赤な顔、泡を吹いた唇で答えた。
「ここにいるんだって。オイ、でたらめをいうと、承知しないぞ」
 警部は、とうとうかんしゃくを起して呶鳴りつけた。
「ハハハ……今になって、でたらめなんかいいませんよ。なにも急ぐことはありません。倭文子も茂も、逃げ出す様なことはありませんからね。イヤ、逃出す力を失ってしまったのですからね」
 谷山は、すてばちな笑いと共に、異様ないい方をした。
 アア、倭文子達は「逃げる力を失ってしまった」という。一体、どんな風に逃げる力を失ったのであろうか。
「じゃ、倭文子に会わせて上げましょう。ここにいるのです」
 谷山は、ツカツカと部屋の隅へ行って、小さなドアの引手を握った。そこは隣室への通路になっているらしい。
「アア、その部屋に監禁してあったのか」
 警部は、意気込んで、ドアの前に走り寄った。
「サア、ゆっくり御面会なさい。しかし、一緒に連れて帰るには、少し重過ぎるかも知れませんぜ」
 谷山はあざけるようにいいながら、ドアを押し開いた。と同時に、サッと吹き出す異様な冷気。
「ア、真暗じゃないか、スイッチは、スイッチは?」
 警部にせき立てられて、谷山は一歩隣室へ踏み入り、壁のスイッチを押した。
 パッと明るくなった電燈の光りで見ると、その部屋はやっぱり機械室の続きで、コンクリートの池の様な巨大な製氷タンクが、室の半をふさいでいた。
「オヤ、誰も居ないじゃないか」
 警部は、あたりを見廻しながら、けげんらしくいった。だが、その実、彼の心の隅には、既に、ある戦慄すべき予感が、雨雲のようにひろがり始めていたのだ。
「ここにいるのですよ」
 谷山は身軽に、池の縁を伝わって、向うの隅にある小配電盤の所へ行き、スイッチの一つを、カチンと入れた。
 と、同時に、ギリギリと歯車のきしむ音がして、タンクの中央から、亜鉛の巨大な角柱が、ニューッと首を出して、徐々に天井へまき上げられ、それがタンクから出切てしまうと、今度は横に宙づりをして、タンクの外側へ、ズルズルと降りて来た。
 丁度その下に、多少熱湯をたたえたものであろう、モヤモヤと湯気の立昇る別の小さなコンクリートの池がある。巨大なる角柱は、ズブズブとその中へつかって行った。
 ややしばらくあって、角柱は再び池からつり上げられ、今度はコンクリートの床の上に、ズッシリと安置せられた。
 最早もはや少しも疑う所はない。倭文子と茂が、どんな目にあわされたのか、明智にも、恒川氏にも、分り過ぎる程分っている。
 だが、あまりといえば奇怪千万な殺人手段に、流石の警部も、茫然自失の体に見えた。
「倭文子と茂少年です」
 谷山は大角柱の側によると、まるで見世物の口上でも述べる調子で、そらうそぶきながら、角柱の向側で、カチカチと音をさせた。
 と、巨大な亜鉛箱は、底が開いて、中味を床に残したまま、スルスルと天上して行った。
 その下から現われたものは、一目見た時には、何かしら非常に美しい、キラキラと光りかがやいた、巨大な花のように感じられた。
 予期はしていたものの、悪夢のように怪奇で、艶麗な光景に、両人とも「アッ」といったまま、二の句がつげなかった。
 アア、何といういたましくも、美しい光景であったろう。
 そこには、かつて見たこともない、ずばぬけて大きな花氷はなごおりが電燈を反射して、キラキラと美しい虹を浮かべて、立っていた。
 花氷!
 如何にも花氷には相違なかった。しかし、世にありふれた、草花の花氷ではない。そこにはいたましい断末魔の苦悶をそのままに、人間界の花が、美しい倭文子の一糸まとわぬ裸体姿が無慙にもとじこめられていたのだ。
 そのそばには、やっぱりはだかの茂少年が、苦しさのあまり倭文子の腰にしがみついた形で、凍っていた。
 アア、人間の、しかも世にも美しい女性と少年の、裸体像をとじこめた花氷。かつて此世に、かくも残虐な、同時に、かくも艶麗な、殺人方法を案出したものが、一人でもあっただろうか。
 明智は、さしたる驚きも示さなかったが、恒川警部は、この人体花氷を見ると、本当に肝を消してしまった。
 事件全体が、彼の従来の経験からは、ひどく飛び離れた、魔術の連続のようなものであったが、それ故に、彼は事毎ことごとに驚きを倍加して来たのであるが、この悪魔の最後の演技に至っては驚き以上のものであった。
 警部は「殺人芸術論」というようなものの存在を、少しも知らなかったけれど、氷に包まれた、被害者の姿の、あまりの美しさに、不思議な困惑を感じた。
 彼は、いつも、血みどろの死骸や、むごたらしい傷口や、いまわしい死臭や、ゾッとする様な死相ばかり見ていた。殺人事件というのは、汚ならしいものときめてしまっていた。
 それが、今目の前に、一種の苦悶のポーズを作りながら、立っている被害者達は、氷柱のにじにつつまれて、犯罪とか、殺人とか、死骸とかいう観念からは、ひどく縁遠い、一種の美術品の如く、世にも美しいものに見えたではないか。
 彼はほとんどこうこつとして、それが恐るべき犯罪の結果であることも、そこに当の犯人がいることも、一瞬間忘れ果てて、すぐれた絵でも眺める様に、美しい花氷に見とれた。
 だが、次の瞬間には、彼は犯人の着想のあまりの恐ろしさに、身ぶるいしないではいられなかった。
 倭文子と茂少年とは、生きながら、氷にせられてしまったのだ。彼等は水中にとじこめられ、その水が刻一刻冷気をまして、ついにこおりつくまで、どの様な思いをしたことであろう。イヤ、まさかこおるまで生きてはいなかったであろうけれど、つめたくつめたくなりまさる水の中で、呼吸困難にもがきながら、彼等は犯人の目的が何であるかを悟っていたに違いない。
 死体の有様が、美しければ美しいだけ、この殺人方法はむごたらしいのだ。警部は、いつか氷柱にとざされている美しい金魚を見て、それを客間に飾っている主人の残酷さに驚いた経験を思い浮かべた。しかも、今目の前にあるものは、金魚どころではない。彼のよく知っている人間なのだ。
「ワハハハハ、如何ですね。僕の思いつきがお気に入りましたか。人殺しも、こんな風に綺麗に行き度いものですね」
 殺人美術家、罪悪の魔術師は、高らかに笑いながら、我が作品の自慢をした。
「君達は僕が逃げたと思ったのですか。ナニ、逃げるものですか。この立派な美術品が見てほしかったのですよ。探偵さんの助手達が、僕を尾行して来たこともちゃんと知ってます。つまり僕は、君達をここへおびき寄せた訳ですぜ。……
 僕がさっき、倭文子を連れて帰るには、少し重過ぎるでしょうと、いったことを覚えていますか。……
 探偵さん、イヤサ明智君、流石の君も、ちっとばかり困ったような顔をしているね。おれは君の鼻をあかしてやっただけでも、非常な満足だよ。君は、日本一の名探偵なのだからね」
 谷山は、またもや顔を真赤にして、口からあわをふきながら、半狂乱の体で、わめき続けた。
「おれが、どうして倭文子を殺したか。この美しい花氷が、どんな順序で出来上ったか。それをまだ話さなかったね。君達はそれが聞きたいだろう。おれも聞かせたいのだ。倭文子親子がどんなむごたらしい目にあったかということをね。……
 君達は多分、この二人が、斎藤の棺に隠れて、あの家を逃げ出したことを感づいているだろう。その通りだ。おれが親切ずくで、そうさせたのだ。ところで、棺の行先はどこだと思うね。いわずと知れた火葬場だ。……
 ハハハハハハ、火葬場なんだぜ。倭文子達の隠れている棺は、火葬場の炉の中へ入れられたのだぜ。おれは側にいて、だまってそれを眺めていた。……
 棺の中で、声を立てたら、倭文子は恐ろしい殺人犯人として、早速警察に引渡されなければならぬ。といって、だまっていれば、生きながら焼き殺されるのだ。それが、か弱い女にとって、どんな苦しみであったか想像が出来るかね。……
 倭文子は、とうとうわめき出した。絞首台よりも、今さし迫った、棺の下の火焔の方が恐ろしかったのだ。倭文子がどんなむごたらしい声で泣き叫んだか。きっとあの世にいる兄の耳にも聞えたと思うと、おれはせいせいした」
 アア、谷山という奴は、何という恐ろしい復讐者であったろう。気違いだ。イヤ、鬼だ。人外の吸血鬼だ。如何に恨みがあるといって、人間がこの様な鬼々しい心になれるものではない。
 恒川警部も、明智小五郎さえも、この、地獄の底からひびいて来る様な、のろいの言葉に、異様な悪寒おかんを感じないではいられなかった。
 谷山は止めどもなく叫び続ける。
「おれは、棺の中の倭文子に、思う存分の苦しみをなめさせた上、焼死の一歩手前で、あの女を救い出してやった。親切からだと思ってはいけない。ただ焼き殺したのでは、あんまりもったいないからだ。……
 救い出された倭文子は、おれの顔を見るとさもうれしそうにしがみついて来た。おれはあの人の恋人である上に、命の恩人となった。ハハハハハハ、このおれがだぜ。それから、二人をこの工場へ連れて来たのだ。倭文子も茂も、何も知らず、いそいそとおれのあとからついて来た。……
 おれは二人をこの部屋へ連れ込み、そこで、四五日もかかって、一寸だめし五分だめしに、おれの本当の心をジワジワと告げ知らせてやった。その時の、あいつらの驚き、恐怖。おれは初めて敵を討った様な気持がした。それから、泣き叫ぶ二人を、あの亜鉛箱の中へとじこめ、水をつぎ込んだ。倭文子は、せめて茂の命だけ助けてくれと、手を合わせて頼んだが、おれは聞えぬふりをしていた。……
 それから、奇妙な製氷作業が始まったのだ。おれは、この池の縁にしゃがんで、水中の亜鉛箱の中から、かすかに漏れて来る、憎い女の、断末魔の苦悶の声に聞入った。亜鉛箱がビリビリとふるえた。水中からの陰にこもった絶叫が、虫の鳴く様に聞えて来た。アア、それが、おれにとっては、何という微妙な音楽であっただろう。……
 そして、今日やっと、この美しい花氷が出来上った。君達に観賞してもらう為に。……おれ一人で楽しむには、もったいない美術品だからね」
 谷山はいい終って、ニヤニヤと、顔一杯に悪魔の笑いをただよわせ、さも得意らしく、聞き手の方を眺めた。
「ワハハハハハハ」
 極めて唐突に、谷山は勿論、恒川氏でさえも、びっくりした様な、ほがらかな笑い声が、明智の口からほとばしった。
「成程成程、君はそれで、我々をアッといわせたつもりなのだね。僕をペシャンコにやっつけた積りでいるんだね。ところが、案外、そうでもなさそうだぜ。君に聞くがね。君はこの氷柱が出来上る間、絶えずここに見張り番をしていたかね」
 明智が、犯人にとっては、何とやら不気味な、えたいの知れぬ問いを発した。
 谷山の顔から、笑いの表情が消え失せた。
「君は、亜鉛箱をこのタンクにつけると、間もなくこの部屋を出て行った。工場の外で、異様な呼笛よびこの音が聞えたからだ。君は若しやと思って、塀の外をのぞきに行ったのだ。あの時のことを覚えているかね」
 谷山は、図星をさされて、何かしらギョッとした。どう答えてよいのか分らなかった。
「その君の留守の間に、この部屋で、どんなことが起っていたか、君は少しも知らない様だね」
 明智はますます妙な事をいう。
 谷山は、キョロキョロと、不安らしくあたりを見廻していたが、何も不安がる理由のないことをさとると、憎々しげにいい返した。
「で、それが一体どうしたというのですね。僕がちっとばかりこの部屋を留守にしたからといって、まさか倭文子達が、逃げ出した訳じゃあるまいし。僕の目的には何のさしさわりもないことだ」
「果してそうかね。君は、僕がここへ来るのに、何のお土産も持って来なかったと思っているのかね」
 明智はニコニコ笑って、
「それは兎も角、この部屋の電燈は少し暗過ぎるようだね。すべての間違いの元は、この暗い電燈にあるのじゃないかと思うのだがね」
 と、じっと谷山の顔を見た。
 谷山は相手の意味を悟り兼てキョトンとしていたが、やがて、何事かに気付いた様子で、突然、非常な狼狽ろうばいの色を浮べた。
「ア、貴様……だが、そんなことはない。そんな馬鹿なことがあるものか」
 彼は、なぜか花氷の方を見ぬようにして叫んだ。
「ハハハハハハ、僕のお土産の意味が分ったらしいね。ホラ、君は氷柱を見ることが出来ぬではないか。閉じこめられている倭文子さん達を、よく見るのが、君はこわいのだ」
 事実、谷山はそれをこわがっていた。彼は真青になって叫んだ。
「いってくれ。本当のことをいってくれ。君は一体何をしたのだ。君の土産というのは何だ」
「僕の口からいうまでもなく、君がちょっと、その花氷へ近づいて、中の人間を調べて見ればいいのだ」
「それじゃあ君は、あれが、倭文子と茂でないというのか」
 谷山は脇見をしたまま、うつろな声でたずねた。
「ウン、倭文子さんと茂少年ではないのだ」
 明智がキッパリとどめをさした。
「違う、違う。おれはそんな馬鹿気たことを信用する訳には行かぬ」
 谷山は、みじめに、だだをこねた。
「見たまえ。氷の中をのぞいて見たまえ。よく見れば、すぐ解るのだ」
 谷山は、額にあぶら汗を浮かべながら、必死の気力で、ヒョイと氷柱を振り向いた。そして、血走った目を氷の中の母子の裸体像に釘づけにした。
「ワハハハハ、探偵さん。君は気が違ったのか。夢でも見ているのか。これが倭文子と茂でなくて、一体誰だというのだ」
「誰でもない」
「エ、誰でもない?」
「人間でないというのさ」
「エ、エ、人間……」
「蝋人形だよ。君は唇のない仮面を作らせた位だから、蝋細工がどんなに真に迫って出来るものだか、よく知っている筈ではないか。僕はあらかじめ君の計画を察したものだから、二人の蝋人形を作らせて、君の留守の間に、本物と入替えておいたのだ。あの時の妙な呼笛は、僕の部下の小林君が、君をおびき出す為に吹いたのだよ」
 いわれて見ると氷詰になった二人は、人間の死骸にしては、あまりに肌の色艶が美しかった。
 その上よく見ると、倭文子も茂少年も、顔には一向苦悶の表情が現れていないことも解って来た。谷山も恒川警部も、アッといったまま、明智のあまりの放れ業に、あいた口がふさがらなかった。
「まだ疑わしいと思うなら、本当の倭文子さんと茂少年を引合せて上げてもいい。……文代さんもう入って来てもよろしい」
 明智がドアの外へ声をかけると、待ち兼ねていたように、それがあいて、三人の人物が入って来た。同時に陰惨な部屋の中が、パッと明るくなった。
 入って来たのは、明智の助手の文代さんを先頭に、殺されてしまったとばかり思っていた、畑柳倭文子と、茂少年であった。

逃亡


 その時の谷山三郎の驚愕と憤怒の形相は、見るも無慙むざんであった。
 無理もない、たとえ吸血鬼のような悪魔にもせよ、兎も角も兄のかたきを討つ為めに、苦労に苦労を重ねた上、ついに最後の目的を達したと信じ切って、得々とくとくとしてその巧妙な殺人手段を見せびらかしていた時、殺してしまった筈の、当の敵の倭文子が、生きて彼の目の前に現れたのだ。
 冷蔵庫の中のように冷々とした製氷室であったにも拘わらず、玉の汗が、彼の青ざめたこめかみをツルツルと流れ落ちた。血走った目は、倭文子の顔を凝視したまま、ガラス玉のように動かなくなってしまった。かわいた唇をブルブルとふるわせて、何事かいおうとするけれど、声さえも出なかった。
 今這入って来た倭文子はと見ると、なき谷山二郎に対する、罪深い仕うちをはじてか、しょんぼりとうなだれて、消えも入りたい風情ふぜいに見えた。
「明智さん、君はいつの間に、この魔術を行ったのです。君は実に恐ろしい人だ」
 恒川氏は、驚嘆の声を発しないではいられなかった。
「倭文子さんと茂君のろう人形はいつか僕のアパートで、あなたにもお目にかけた筈です。この氷にとざされているのは、あの時の人形ですよ」
 明智が説明した。
「僕は、犯人が三谷の谷山であることを悟り、彼が倭文子さんを棺に入れて逃亡させたことを知ると、文代さんと小林君に頼んで、二人の努力によって火葬場から谷山の本拠をつきとめることに成功しました。そして、その本拠が製氷工場であること、倭文子さん達がそこに幽閉ゆうへいされたことが分ると、僕はすぐ、谷山の恐ろしい目論見もくろみを感づいたのです。……
 若し彼が、火葬場から工場に連れ込んで、すぐさま製氷作業に着手したなら、到底倭文子さん達を救い出す余裕はなかったでしょう。警察の力を借りて、工場を包囲することは、よく知っていました。しかし、彼は倭文子さんが生きている間は、一秒だって側を離れず、ピストルを手にして見張っていたのです。危険と見ればたちまち倭文子さんはうち殺されてしまうのです。……
 僕はなまじ警察に知らせて、取返しのつかぬ結果を招くことを恐れました。ところが、幸いなことには、倭文子さんを工場に幽閉すると、彼は、丁度猫が鼠をもてあそぶように、数日の間犠牲者を生かしておいて、存分責めさいなむ様子が見えました。……
 僕がどんなに急いで、あのろう人形を作らせたかは、あなたも御存じの通りです。たとい製氷箱の中で死んでからでも、ただ倭文子さん達を盗みだしたのでは、危険です。犯人が、それを知ったら、どんな暴挙に出るか知れたものではない。今の様子でも解る通り、こいつは半気違いなのですからね。逃亡するだけならまだしも、もっと恐ろしい仕返しをしないとも限りません。僕が人形の替玉を使って、彼をだましだまし、網に入れる手段をとったのは、それを極度に恐れたからです。……
 いよいよ製氷作業が始まったと知ると、あらかじめ定めておいた手筈によって小林君が犯人を外におびき出し、出来るだけ長く引とめている間に、僕と文代とで、手早く倭文子さん達とろう人形の入替えを行ったのです。人形はその前日、ちゃんと工場の物置小屋へ運んでおいたのですから、入替えに、大して時間はかかりませんでした。……
 救い出した倭文子さんと茂君は、僕のアパートへかくまっておきました。それを犯人は少しも気づかなかった。亜鉛箱の中は、ちょっとのぞいた位では見分けのつかぬ、ろう人形が、ちゃんと入っていたのですからね」
 明智がそんな説明をしている間に、谷山は早くも放心状態から回復していた。回復すると、敵を討ちそくなった激怒が、彼を狂気させてしまった。彼はとっさの間に、恐ろしい最後の手段を考えついた。
 谷山は部屋の隅へ走って行って、そこの小机のひきだしから、いざという時の用意に、たまをこめておいた小型ピストルを取出し、その引金に指をかけて、一同の前へ戻って来た。恒川警部も、このとっさの行動を阻止する暇がなかった。
「手を上げろ。モソモソすると、ぶっ放すぞ。おれが人の命なんかなんとも思っていないことは、君達もよく知っている筈だ」
 一同手を上げる外はなかった。
「ワハハハハ、明智君、流石の名探偵も、馬鹿馬鹿しい失策をやったものだね」
 谷山は油断なくピストルの筒口を左右に動かしながら、小気味よげにちょうしょうした。
「倭文子の生きた姿を見て、このままおれが、ノメノメとお繩を頂戴ちょうだいすると思っているのか。おれはやっぱり負けたのではない。倭文子の命はおれのものだ。ピストルであっさり打ち殺すのは、少し物足らぬが、この場合仕方がない。サア、邪魔立てすると誰であろうと容赦はせぬぞ」
 ねらう一人と、ねらわれる一団とは、互に相手から目を離さず、ジリジリと部屋の中を半周した。その結果、故意か偶然か、谷山は唯一の出入口であるドアを背にして立つことになった。
 倭文子は、茂少年を抱きしめて、ブルブルふるえながら、人々の蔭に身を隠す様にしていた。
「探偵さん、邪魔だ。どいてくれ。それとも、君は倭文子の身代りになって、このピストルを受ける積りかね」
 谷山の血走った両眼に、気違いめいた憎悪のほのおが燃えた。
「身代り結構。一つズドンとやって呉れ給え。ここかね、ここかね、それともこの辺をねらうかね」
 明智は無謀千万にも、相手のピストルの前に立ちはだかって、我が額を、喉を、胸を、順次に指さして見せた。
 文代と小林少年の顔色が、サッと変った。谷山の指がホンの一分か二分動けば、明智の命はないからだ。
「危いッ」
 たまり兼ねた恒川警部は、とっさの機転で、いきなり明智を弾道の外へ突き飛ばした。
 同時に、谷山のピストルがカチッと鳴った。彼は妙な顔をしてカチ、カチと続けざまに、引金を引いた。
「ハハハハハハ」
 突き飛ばされた明智がよろめきながら、こうしょうした。
たまが出ないようだね。そのピストルは」
 谷山は、忽ちそれに気づいて、ピストルを床に投げつけた。
「畜生ッ、さては貴様、ピストルの丸まで抜き取っておいたのだな」
「御推察の通り。僕はこういう事には、非常に用心深いたちだからね」
 明智がニコニコしながら答えた。
 谷山は、絶望のあまり、しばらくの間、茫然と立ちつくしていたが、ふと、現在の彼の位置に気がつくと、口辺に笑いの影が浮かんだ。彼はその時ピッタリとドアに背中をつけて立っていたからだ。
「フン、ところで、君のいい草はそれでおしまいかね。だが、おれの方には、まだ最後の切札が残っていたのだぜ。こういう具合にね。……」
 いいながら、既に谷山の姿はドアの外へ消えていた。カチカチとかぎをかける音。
「ワハハハハハ、ざま見ろ。恒川警部も、明智君も、なまじ手出しをしたばっかりに、飛んだことになってしまったね。今にね、君達は一かたまりになって、その部屋でお陀仏様だぶつさまだよ」
 ドアの外から、ゾッとする様な悪魔のじゅそがひびいて来た。
 明智と、恒川氏と、文代と、倭文子母子の五人は、まんまと製氷室にとじこめられてしまった。
 谷山は、一体彼等をどうしようというのだろう。
 製氷室にとじこめられた五人のものは、思わず顔を見合わせた。
 どうなるのかしら。何か犯人のわなにかかったのではあるまいか。五人とも、このまま命を奪われてしまうような、恐ろしい機械仕掛けが、どこかに用意されているのではないだろうか。
 薄暗い電燈、黒い水をたたえた奇妙な池、機械の作る複雑な隠影、ろう人形の巨大な花氷、部屋にみなぎる身を切るような冷気などが、人々をおびえさせた。
「ハハハハハハ」
 恒川警部が頓狂に笑い出した。その声が高い天井にこだまして、異様にひびいた。
「馬鹿野郎、あいつ我々をとじこめておいて逃げる積りだろうが、工場の外には、表にも、裏にも、厳重な見張りがついている。奴さん、今頃はもう刑事の誰かにつかまっている時分ですよ」
「僕もそう思うのだが、しかし……」明智は何か少し不安らしい調子で「兎も角、僕等はこの部屋を出なければ、あいつが出て行ってからもう大分時間がたった」
「僕におまかせなさい。こんなドアの一枚位」
 恒川氏は、威勢よくドアにぶつかって行った。
 ドシン、ドシン、……
 部屋が地震のようにゆれた。
 そして、三度目の体当りで、ドアの鏡板がもろくも、メリメリと破れた。
 破れたかと思うと、その穴から吹き込む風と共に、人々は異様な臭気を感じた。物の焼ける匂いだ。
「オヤ、あいつ、ひょっとすると、……」
 明智が思わずつぶやく。
 ドアが開かれた。五人のものは、一かたまりになって、次の機械室へ走り出た。
「畜生め、ここにもカギをかけて行きやがった」
 恒川警部は、機械室の出口のドアに走り寄って叫んだ。
 またしても、体当りだ。恐ろしい音を立てて、二三度部屋がゆれたかと思うと、ドアは蝶交ちょうつがいから離れて、外の廊下へ倒れてしまった。
 倒れると同時に、アア、やっぱりそうだ。黄色い煙が、モクモクと室内へ侵入して来た。火事だ。谷山は工場に火を放ったのだ。
 鋭い女の悲鳴が起った。そして、ワーッと泣き出す子供の声。茂少年だ。
 明智と恒川氏とは、狭い廊下へ踊り出した。見ると、廊下の向うには、うずまく毒煙を隔てて、チョロチョロと、赤黒い焔が隠顕いんけんしている。
 だが、外に逃げ道はない。この廊下を突き切るばかりだ。
「早く、早く、ここを走り抜けるのです」
 恒川氏が叫んで、先頭に立った。
 倭文子の手を取る文代、泣き叫ぶ茂少年を抱き上げた明智小五郎という順序で、火焔に向って突進した。
 アア、あぶなかった。彼等が製氷室で、ほんの少し躊躇していたら、無事に逃げ出すことは出来なかったに相違ない。谷山は、無論彼等を焼き殺してしまう積りだったのだ。
 人々は、恒川警部の肩の力に感謝しなければならない。ドアがあんなに早く破れなかったら、もっとひどい目に会っていたに違いないからだ。
 一同は無我夢中で門外に走り出た。幸い、誰も怪我をしたものはない。
 振り返ると、工場の窓という窓から、黄色い煙が吹き出している。
「どうしたのです。あの煙はなんです」
 見張り番を勤めていた二人の刑事が駆け寄って、一同に呼びかけた。
「放火だ。犯人はどうした。谷山は、三谷は、あいつを捕えたか」
 恒川氏が息せききって、呶鳴り返した。
「イイエ、誰も出て来ません。裏口じゃありませんか」
 刑事が答える。
「よし、君達はここを動いちゃいけない。じっとしているんだ。そして、どんな奴であろうと、人間の形をしたものが出て来たら、有無をいわせず引くくるのだ」
 恒川氏は、いい捨てて、単身裏口へと走って行った。
 だが、裏口の刑事も同じ答えだ。誰も工場から逃げ出した者はない。
 不思議だ。火の手はすでに工場全体に廻った。この火焔の中に、どうして潜伏していられるものか。
 兎角とかくする内に、火事場の混乱が始まった。あるいは近くあるいは遠く、警鐘の物すごき合奏、早くも駆けつけた消防車のサイレン、提燈ちょうちんの火と共に、群り来る群集、エンジンのうなり声、飛び違う消防手、火の粉の雨、逃げまどう人波、泣き声、わめき声。……最早や、捕り物どころではなかった。
 だが、その中でも、恒川氏初め刑事達は、の目たかの目、犯人らしき人物が逃げ出しはせぬかと、一生懸命見張っていたが、ついに鎮火するまで、疑わしき人物さえ発見することが出来なかった。
「ひょっとしたら、彼奴あいつ、自殺したのかも知れぬぞ」
 恒川氏がむなしく火事場を眺めながら、つぶやいた。
「僕も、それを考えていた所です」
 側に立っていた部下の一刑事が、合づちを打った。
 逃げ出した奴がないとすると、そうでも考える外はなかった。谷山はもうのがれられぬと観念したのだ。どうせ絞首台にのぼる位なら、敵の倭文子を初めとして、恨み重なる探偵や警部を道連れに、いさぎよく自殺をしようと決心した。それには五人のものを一室にとじこめておいて、工場に火を放ちさえすればよいのだ。あいつの考えつき相な事である。
 翌朝、焼跡捜索の結果、恒川氏の推察が的中したことが分った。
 人夫達は、先ず第一に、大小二つの死骸に驚かされた。
「ヤ、死骸だッ」
 最初それを見つけた男は、頓狂な叫び声を立てて飛びのいた。
 しかし、それは、本当の死骸ではなかった。例の花氷のろう人形なのだ。氷が厚かったために、中のろうがとけ切る暇がなく、形はくずれながらも、裸体人形のおもかげをとどめていた。
 死骸でないと分っても、そんな不気味な代物を見た人夫達は、ひどく神経的になっていた。
「オイ、今度は本物だ。人間のお骨だ」
 間もなく一人の人夫が叫んだ。
「ヤ、本物だ。本物だ」
 今度こそ間違いでないことがわかった。
 焼けて灰になった材木の下に、バラバラに砕けた人骨が埋まっていた。そこは、建物の内でも、最も火のはげしかった部分だから、肉も臓腑もとけてしまったとしても、不思議はなかった。
 巡査が駆けつけた。
「やっぱり、犯人はここで焼け死んだのだ」
 彼は警視庁にこのことを急報した。
 しばらくすると、恒川警部が明智小五郎を同伴してやって来た。
「僕の思った通りだ。奴はとうとう自殺したのです」
 バラバラの白骨を前にして、警部が感慨をこめていった。
「そうです。彼奴は死んだのかも知れません。しかし、……」
 明智はむずかしい顔をして言葉を切ったまま、だまり込んでしまった。彼にも、この白骨が谷山のものでないと、いい切る程の自信はなかったからだ。

執念


 事件は落着した。
 吸血鬼の如き執念の悪魔、谷山三郎は死んでしまった。彼の為にさんざんせめさいなまれ、最後には、焼殺やきころされようとさえした畑柳倭文子は、危く難をのがれて、元の無事平穏な生活に帰った。目出度めでたし、目出度しである。誰しもそれを疑わなかった。
 だが、たった一人、事件の落着を信じない人物があった。明智小五郎である。彼にはあの蛇の様な執念が、あのまま消え失せてしまったとは、どうしても考えられなかった。火事は倭文子を焼殺す為ではなくて、ただ悪魔の「火遁かとんの術」であったとしか思えなかった。
「火遁の術」だ。それを一層まことしやかに見せる為の白骨だ。焼けてボロボロになった白骨には、目印がないからだ。生理標本室の骸骨を持って来て、ころがしておいても、充分身代りになるからだ。
 それを疑っている人物が、明智小五郎たった一人であったことが第一の不幸であった。しかもその明智が、あの火事騒ぎ以来、いつかの打撲傷が原因で、ドッととこについてしまったことが更に一層の不幸であった。
 偶然であったか、あるいは不可思議なる天の摂理せつりであったか、明智の病気が、この物語りに意外な、しかもまた考え様によっては、はなは妥当だとうな結末を与えた。それは、いわゆる「目出度し、目出度し」ではなかったのだけれど。
 ある日恒川警部が、本郷のS病院に入院中の明智小五郎を見舞った。
「もう、あれから半月ですね。しかし、何の変った事もありません。やっぱり谷山は火事場で焼け死んだのが本当でしょう。でなくて、こんなに長い間、沈黙している筈がありません」
 警部も、多くの人々と同じく、谷山焼死説を信じていた。
「我々は、あの骨が谷山のものであるという、何等の確証を持ちません。探偵道には『多分そうだろう』という考え方は許されないのです。どんなさいな疑いも見のがしてはなりません。それが非常に重大な結果をひき起すことがあるからです」
 明智はベッドに仰臥したまま、肩のいたみに顔をしかめながらも、熱心にいった。
「で、僕等は警戒しているのです。畑柳家には今でも、二名の刑事が書生に化けて入り込んでいます。だが、何の変ったこともありません。倭文子さんがひどく快活になって行く外には」
 警部は苦々しげにいった。
「快活に?」
「そうです。困った人です。あれにりて謹慎していなければならない倭文子さんが、半月たつかたたぬに、若い男友達をこしらえて、毎日の様に逢っているということです。谷山二郎が悶死したというのも、無理ではないのかも知れません。あんな事件をひき起した元は、やっぱりあの人です。あの人にもいやな弱点があるのです」
 倭文子の方にも谷山の復讐を受けるだけの罪はあったのかも知れない。谷山ばかりを責めるのは、たとえ彼が冷酷無悪の殺人者であったとしても、少し酷かも知れない。
 恒川氏も明智も、「困ったものだ」という目を見かわして、だまり込んでしまった。
 看病につき添っていた文代さんも口をはさんだ。
「私、だまっていましたけれど、そういえば、思い当ることがあります。二三日前、帝劇の前を通りました時、倭文子さんとそっくりの方が、自動車を降りて、あの正面の入口から這入っていらっしゃるのを見かけましたわ。それがお一人ではないのです。若い男の方と、さも親し相に肩を並べて……」
 あんな恐ろしい事件のあった直後、倭文子がこりずに、勝手気ままな真似を始めたというそのことが、既に何かの前兆のように感じられた。これでは無事に済む筈がないというボンヤリした気持が、誰の胸にもあった。
「あたし、何だか、こわい様に思いますわ」
 文代さんが、ふと、その恐れを口にした。
「こわいって、倭文子さんの生活がですか。それとも、谷山がどっかでまだ生きているという考えがですか」
 ベッドの明智が、占者うらないしゃにでもたずねるようにいった。
「両方ですわ。あたし、倭文子さんがあんな風だと、尚更なおさら谷山が死んだのはうそのように思われるのです。この二つの事柄には、恐ろしい運命のつながりがある様な気がしますの」
 文代さんは、考え考え、なぞのようないい方をした。
「恒川さん。僕もそんな風に感じるのです」明智は真面目な低い声でいった「これは理論ではありません。感覚以上のものが、直接心にささやくのです。あなた方のいわゆる第六感という奴かも知れません」
 恒川氏は、妙な気持になった。ここに二人の占者がいる。そして、陰気な予言をしているのだ。
 しばらく話し続けていると、看護婦が、恒川氏へ電話を知らせて来た。警視庁からだ。それを聞くと、警部はたちまち職業的な態度に帰って、アタフクと電話室へ出て行ったが、間もなく引返して来た彼の顔色は変っていた。
「明智さん、君の予言は的中しました」
「エ、何ですって?」
「倭文子さんが、殺されたのです」
 一刹那、異様な沈黙があった。三人はだまって、おたがいの目を見合った。
「くわしいことは分りませんが、犯人の手懸りは全くない。非常に不思議な殺人事件だという知らせでした」
 警部は帰り支度したくをしながらいった。
「僕は兎も角畑柳家へ行って見ます。その上でくわしい事情をお知らせしましょう」
「電話を下さい。僕も現場へ行けないのが残念です。しかしここの電話室位なら歩けますから是非ぜひ模様を知らせて下さい」
 明智は病床から起き上る様にして、熱心に頼んだ。
 恒川氏がタクシーを飛ばして、畑柳家へ行って見ると、書生に変装した二人の刑事が、顔色をかえて玄関に出迎えた。検事局の人々も既に来着していた。
 殺人現場は、読者にも馴染の深い例の洋風客間であった。倭文子はそこの長椅子の前に、あけにそまって絶命していた。致命傷は背後から左肺さはいの深部に達する突き傷で、兇器は別段特徴もない短刀であった。
「全く分りません。どうしてこんなことが起ったのか、まるで夢の様でございます」
 その客間には、ベソをかいた茂少年をだきしめるようにして、乳母のお波がたたずんでいた。
「わたし、あれはただおばけだと存じて居りました。それがこんな本当の人殺しをするなんて……」
 恒川氏は、お波のこの異様な言葉を、聞きとがめないではいられなかった。
「お化けだって。何かそんなことでもあったのかね」
「エエ、奥様が、それを御覧になったのです。四五日前のことでございます。奥様は、あや夢かも知れないけれどといって、私にお話しなさいました。真夜中に、妙な影の様な人間が、奥様の寝台の枕もとにションボリ立って、じっと奥様の寝顔をのぞき込んでいたのだそうでございます」
「フン、そいつはどんな風体をしていたとおっしゃったね」
 警部はお波の怪談に興味を感じた。
「それがあなた。着物は何だか黒っぽいもので、ハッキリ分らなかったけれど、顔は、確かにあの三谷のやつに相違なかったと、おっしゃるのでございます」
「で、奥様は、どうなすったのだね」
「どうにもこうにも、ただもう夢中で、蒲団を頭からかぶったまま、ふるえていらしったと申します。そして、しばらくたって、怖々蒲団の中からのぞいて見ると、その時は、もうおばけは、どっかへ姿を消してしまって、何も見えなかったそうでございます。だから、やっぱり夢だったかも知れない。こんなこと誰にもいっちゃいけないよと、私だけにお打あけなさいました」
「お前は、そのいいつけを守って、誰にも話さなかったのだね」
 警部は少し非難の調子を含めていう。
「エエ、まさかこんなことになろうとは、夢にも思わぬものですから……わたし、奥様の気のせいで、そんなものをごらんなすったのだろうと思いましてね」
 お波も倭文子のだらしない生活を見兼ねていたのだ。
「ところが、あなた。それもつい今朝になって分ったのでございますが、奥様のごらんなすったのは、満更夢ではなかったのです」
「ほう、すると、やっぱり谷山が、生きてここへ忍び込んだ証拠でもあるというのかね」
「女中のはなが、ソッと私にいいますには、この間中から、夜の内に、台所の戸棚に入れておいたハムだとか、卵とか、色々なものがなくなっているというのでございますよ。若しや、誰かが、縁の下にでも忍び込んでいたのではありますまいか」と、お波は声をひそめる。
「それはいつ頃からだね」
「やっぱり四五日前、丁度奥様がおばけをごらんなすった時分からだと申しますの」
 同じ犯罪現場には、所管警察の司法主任が、最前から窓やドアや調度などを熱心に調べ廻っていたが、彼はそれをしながらお波の話しを小耳に入れたらしく、その時、二人の側へやって来て口をはさんだ。
「しかし、縁の下にもせよ、天井にもせよ、そこからこの部屋へ、どうして入ったか、又どうして出て行ったかということが問題です。それは婆あやさん、あなたが証人じゃありませんか」
「エエ、それがわたしも不思議で不思議で仕様がないのですよ」
 お波は眉をしかめて、同意する。司法主任は恒川氏に向き直って説明した。
「この婆あやさんが、被害者と話していて、子供をつれてちょっとの間廊下へ出ている隙に、犯罪が起ったのです。悲鳴を聞きつけて、ドアを開いて見ると、被害者はこの通り倒れていて犯人は影も形もなかったというのです。そうだったね、婆あやさん」
「エエ、その通りでございます。茂ちゃんを廊下で遊ばせていたのは、僅か五分かそこいらです。その間、わたし、このドアのそばを一度も離れませんから、悪者はどこか、もっと別の所から入ったに違いございません」
「ところが、不思議なことには、外に入口といっては、全くないのです」司法主任が引きとって「窓には、鉄格子がはめてあります。天井はしっくいで塗かためてあります。床板にも異状はありません。といって、この部屋には、ごらんの通り、戸棚も押入れも何もないのですから、何かの蔭に潜伏していたという想像は、全然不可能です」
 恒川氏は、この説明を聞いても、俄に信用する気にはならなかった。以前同じ建物の二階の書斎でも、同じ殺人事件が起り、犯人の出入が全く不可能に見えた実例があるからだ。
 そこで、恒川氏は、自ら床をはい廻り、壁をさすり廻して、長い時間、綿密極まる調査をとげた。
 天井にも壁にも床にも、隠し戸などは全くなかった。窓の鉄格子も、新に倭文子が取りつけた、頑丈極まるもので、何等の異常がなかった。
 とすると、残るは入口のドアたった一つだ。お波が繰返し繰返し取調べられた。だが、彼女は断乎だんことして前言をひるがえさなかった。
「そのドアは、私が部屋を出てから、あのことが起るまで、絶えず私の目の先にあったのです。いくらもうろくしても、そこを人が通るのを、見のがす筈はありません」
 といい張った。
 すると、犯人は空気のように、フワフワと形のない奴であったか。倭文子が自殺したのか、どちらかでなければならない。しかし、二つとも考えられぬ事だ。倭文子の傷は、どうしても自分では、つけられぬような個所にあった。
 恒川氏は途方にくれた。そしてさっき病院で明智に頼まれたことを思い出した。
「そうだ、兎も角も、明智君に電話をかけよう」
 幸い、その部屋に卓上電話があった。病院を呼び出して、しばらくまつと、明智の弱い声が出た。彼は熱のある身を、病院の電話室まで運んだのだ。
 警部は要領よく、殺人現場の模様、犯人の侵入不可能であった事実を告げた。
 明智は電話口で、しばらく考え込んでいる様子だったが、やがて、やや活気づいた声が響いて来た。
「倭文子さんは、その部屋の家具も新しいものと取替えたのですか。そして、その家具屋が来たのは、いつでしょう。誰かに聞いて下さい」
 警部はお波にたずねてから答えた。
「すっかり取替えたのだそうです。家具屋が運んで来たのは五日前だそうです。しかし、それが何か……」
「五日前……谷山のお化が現れたのも、台所の食べものがなくなったのも、丁度その頃からですね」
「アア、そういえば、そうですね」
 恒川氏は、真相は分らぬながら、何か意味ありげな時日の一致に驚いて答えた。
「倭文子さんは、長椅子の前に倒れていたのですね。……それで、婆やがその部屋を出る時には、被害者はどこにいたのです。長椅子に掛けていたのではありませんか」
「そうです。その通りです」
「すると、長椅子の上にも血が流れてはいませんか」
「流れています。可成の量です」
 そこで、明智はまたパッタリだまり込んでしまった。
 恒川氏は電話をかけながら、明智の推理が、ある点に集中されて行くのを感じた。だが、それが何であるかを、まだハッキリつかむことが出来ないのだ。
「モシモシ、それではもう電話を切りますよ」
 いつまでたっても、明智がだまっているので警部が念を押した。
「イヤ、ちょっと待って下さい。何だか分りそうです」
 突然、明智の興奮した声が聞えた。
「絶対に犯人の出入する個所はなかったのですね」
「絶対になかったのです」
「それから、犯罪が発見されてから、その部屋が少しでもからっぽになった時はありませんか。死骸だけ残して、みんな出てしまったことはありませんか」
 恒川氏は、側にいた刑事にたずねて、答えた。
「ありません。絶えず誰かが、部屋の中にいたそうです」
「ではやっぱりそうです。僕は、犯人は多分、まだその部屋の中にいると思うのです」
 恒川氏は、びっくりして、あたりを見廻した。明智は電話で犯罪を解決しようとしている。しかも、犯人がまだこの部屋にいるというのだ。だが、この警官達のつめかけている部屋の、どこに犯人がいるのだろう。隠れる様な場所のないことは、さい前からの調査で、充分解っているのだ。
「ここには、検事局と警察以外のものは、誰もいません……」
 といいさして、警部はふと異様な考えにうたれた。検事局や警察のものばかりだとはいえぬ。乳母のお波がいる。彼女は犯罪の直前、倭文子に接近したただ一人の人物だ!
 恒川氏は、ジロジロお波の方を眺めながら、意味ありげに続けた。
「その外には乳母のお波さんだけです」
「イヤ、まさか犯人が、あなた方の目につく場所にいるとは思いません。隠れているのです。若し僕の想像が間違っていなければ、奴は非常に変てこな、誰も探しても見ない様な所に隠れているのです」
「そんな場所は絶対にありません。僕はあらゆる部分を調べました。まさか僕が、人間一人見落としたとは考えられません」
 警部は少々かんしゃくを起していい放った。
「ところが、あなたも調べなかった部分があるのです」
「どこです。それは一体どこなのです」
「恒川さん、あなた、園田黒虹という小説家を覚えていますか」
 明智は突然、妙なことをいい出した。
「知ってます」
「あの男が『椅子になった男』という小説を書いているのを、ごぞんじですか」
「椅子になった男……ですって?」
「そうです。ね、園田は谷山の助手を勤めて非業ひごうの最後をとげた男です。彼等は一度は友達だったのです。で、谷山があの小説を読んでいない筈はありません。読めば、あいつのことだ。小説家の考え出した奇抜な空想的犯罪を、そのまま実際に行って見る気にならなかったとはいえません。……なぜって、ホラ、丁度五日前には、新調の家具が、その部屋に運びこまれたのですからね」
「家具ですって?」
 園田黒虹の奇怪な小説を読んでいない恒川氏には、まだ明智の真意が分らなかった。
「倭文子さんの殺された長椅子です。その長椅子をよく調べてごらんなさい」
 警部は、受話器を握ったまま、その長椅子に目を向けた。そして、ジッと見つめている内に彼の目は、いい知れぬ驚愕に、大きく大きく見開いて行った。
 カタンと音を立てて、受話器が、彼の手をすべり落ちた。
「あれ、あれを見給え。あの椅子の下を見給え」
 警部の叫び声に、人々の視線が、そこに集中された。
 ポトリ、ポトリ、…………
 雨だれのような、かすかな音が聞こえる。
 長椅子の底から、床のじゅうたんの上へと、真赤なしずくが垂れているのだ。そして、いつの間にか、じゅうたんの窪みに、不気味な血の池が出来ていたのだ。
 殺された倭文子の血潮でないことは明かだ。成程長椅子の表面に血のあとはあるけれど、それはとっくにかわいてしまった。今頃までしたたり落ちている筈がない。
 しかも、今、血の雨だれは、刻々その速度をまし、ついには赤い毛糸の様につながって、益々はげしく降りそそいでいるではないか。
 巨大な長椅子そのものが、まるで一個の生物ででもある様に、血を流しているのだ。
 人々は息を呑んで、その血の雨だれを凝視したまま、立ちつくした。
 無生物の長椅子が、うめき、のたうつが如き、奇怪な幻想が、彼等を悩ました。
 園田黒虹の犯罪小説「椅子になった男」を読まれた読者諸君は、すでにすでに、悪魔のトリックが如何なるものであったかを、気付かれた筈だ。
 アア何という異様な着想であったろう。谷山三郎は、その長椅子の中に身をひそめて、もたれと座席との境目の、深い隙間から短刀を突き出して、そこに腰かけていた倭文子を殺害したのだ。
 彼は黒虹の小説をそのまま、椅子になった男であった。
 長椅子を破って見ると、厚いクッションの下に、バネの代りに、瀕死ひんしの谷山が、長々と横たわっていた。
 彼はそこから、恒川氏の電話を聞いて、最早やのがれられぬ運命と、観念したのであろう。可哀相に武器もない彼は、小さな懐中ナイフを心臓部に突き立てて、ほとんど絶命していた。執念の復讐は為し遂げた。死んでも惜くない命だ。
 人々は谷山を椅子の中から引き出して、倭文子の死骸のそばに横たえた。
 美しい男、美しい女、彼等はかつて恋人同志であった。そして実はつものと討たれるものであった。それが双方ともほとんど同時に去って行くのだ。
「谷山、僕だ、恒川だ。分るか。いいのこすことはないか」
 警部は、瀕死の谷山に、慈悲じひの言葉をかけた。
 谷山はかたくとじていた両眼を、僅かに開いて、恒川氏の顔を見た。それから、かすかに頭を動かして、隣に横たわっている倭文子の死骸を眺めた。
 彼は一言もいわなかった。ただ最後の力をふりしぼって、血の気のせた手を、倭文子の方へのばした。
 その手先が、まるで虫のはう様に、少しずつ、少しずつ、にじり寄って、とうとう倭文子のつめたい左手にさわった。
 アア、何という執念だ。復讐鬼は、瀕死の際に、敵の死骸につかみかかろうとしているのか。
 イヤ、そうではない。彼はつかみかかったのではない。倭文子の手を握ったのだ。つめたい手と、つめたい手とが、握り合わされたのだ。
 そして、谷山の口が奇怪にゆがんだかと思うと、ゾッと身のすくむ様なすすり泣きの声が漏れ、そのまま彼の体は動かなくなってしまった。
 人々は、異様な感慨にうたれて、深い沈黙の中に、手を握り合った男女の死体を眺めた。そこには最早や何等の敵意も感じられなかった。彼等はまるで、美しい一対の情死者の様に、仲むつまじく眠っていた。
     ×   ×   ×   ×   ×   ×
 復讐鬼谷山三郎が、最後の殺人に使用した、巧妙な仕掛けの長椅子は、長く警視庁に保存され、参観者達の目をみはらせている。読者諸君が伝手つてを求めて、あの陳列室に入る機会があったなら、今でも、その不思議な長椅子を見ることが出来るであろう。
 これを製作した家具屋が取調べられたことはいうまでもない。だが、彼は恐らく谷山から莫大な報酬を受取ったのであろう、惜しげもなく店を捨てて、既に行方ゆくえをくらましていた。
 あわれをとどめたのは、一人取残された茂少年であった。今、彼は乳母のお波と共に、畑柳邸を引継いだ親族のものに養われているが、作者は畑柳邸の新主人が、この可憐なる孤児に対して、親切ならんことを祈るものである。
 明智小五郎は、事件の殊勲者しゅくんしゃとして、例によって新聞に書き立てられた。明智びいきの読者達は、その記事の最後に、近々名探偵とその恋人の文代さんとが結婚式を上げるむね記されているのを発見して、好意の微笑を禁じ得なかった。同時に、新婚の明智小五郎が、恐らく当分の間は、血なまぐさい探偵事件に手を染めないであろうことを、遺憾いかんに思わないではいられなかった。





底本:「江戸川乱歩全集 第6巻 魔術師」光文社文庫、光文社
   2004(平成16)年11月20日初版1刷発行
   2013(平成25)年2月20日2刷発行
底本の親本:「江戸川乱歩全集 第十二巻」平凡社
   1932(昭和7)年2月発行
初出:「報知新聞夕刊」
   1930(昭和5)9月30日〜1931(昭和6)3月12日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:大久保ゆう
2017年10月10日作成
2018年12月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード