虎の牙

江戸川乱歩




魔法博士


 このふしぎなお話は、まず小学校六年生の天野勇一あまのゆういち君という少年の、まわりにおこった出来事からはじまります。
 その出来事というのは、一つはたいへんゆかいな、おもしろくてたまらないようなこと、もう一つは、なんだかゾーッとするような、えたいのしれないおそろしいことでした。
 ある春の日曜日、天野勇一君は、おうちのそばの広っぱで、野球をして遊んでいました。場所は東京の世田谷せたがや区の、ある屋敷町です。広いおうちのならんだ、屋敷町に、むかしながらに森のある八幡はちまんさまのおやしろがのこっていて、その前に野球のできるような広っぱがあるのです。
 天野君のキリン・チームは、十八対十五で敵のカンガルー・チームを破り、一戦をおわったので、みんながひとかたまりになって、ガヤガヤとおしゃべりをしているときでした。
 ふと気がつくと、ひとりのふしぎな紳士が、勇一君のうしろに立ってニコニコ笑っていました。歳は五十ぐらいでしょうか。黒い洋服を着て、その上に、うすいラシャでできた、そでのヒラヒラするがいとうをはおっています。オーバーではなくて、おとなの人が和服の上に着る外とうの、すそのほうを短くしたような形で、なんだか、大きなコウモリが、羽をヒラヒラさせているように見えるのです。
 帽子をかぶっていないので、フサフサした頭の毛がよく見えますが、それがまた、ひどくかわっていました。この紳士のかみの毛は、もえるような黄色なのです。日本人にも赤毛の人はときどきありますが、こんな黄色いのは見たこともありません。しかも、ただ黄色いのではなくて、その中に、しまのように黒い毛がまじっています。黄色と黒のだんだらぞめ。言ってみれば、虎ネコの毛なみを思いださせるようなかみの毛、それを長くのばしてうしろへなでつけてあるのですが、油をつけてないので、フワフワして、風がふくたびに、こまかくゆれ動き、陽の光をうけて、まるで黄金こがねのようにかがやくのです。
 ふといべっこうぶちのメガネをかけ、その中に糸のようにほそい目が笑っています。ワシのように高くてだんだんになった鼻、その下に針のようにこわい口ひげが、ピンと両方にはねています。そのひげが、やっぱり黄色と黒のまだらなのです。口は大きくて、くちびるべにでもぬったようにまっかです。
 みんなが、このふしぎな紳士を、ビックリして見つめていますと、紳士はポケットに入れていた右手を出して、空中に輪をかくように、大きく動かしたと思うと、いままで何もなかった、その手の中に、ひとたばのトランプのふだがあらわれました。
 紳士はその十数枚のカードを、一枚一枚、ヒラヒラと地面におとし、すっかりおとしてしまって、手の中がからっぽになると、ニヤニヤ笑って、その手で、空中に大きな輪をえがきましたが、すると、ふしぎ、ふしぎ、またしても、一たばのカードが、手の中にあらわれたのです。紳士はそれを、まえとおなじように、ヒラヒラと地面におとしました。
 紳士はニヤニヤ笑いながら、このふしぎなしぐさを、なん度となくくりかえしました。地面には、美しく色どられたトランプの札が、まるで秋の落ち葉のように、いちめんにちらばっているのです。
「アハハハハハハハ、どうだね、キリン・チームとカンガルー・チームの少年諸君。カードはまだいくらでもわきだしてくるんだよ。だが、カードだけでは、つまらないかね。きみたちは、もっとほかのものを出してほしいのかね。」
 紳士は、そこではじめて、まっかな唇をひらき、大きな声で、こんなことを言いました。
「ふしぎだなあ、それ、手品でしょう。」
 ひとりの少年が、紳士を見あげて、言いますと、紳士はべつにおかしくもないのに、ワハハハハハハハと笑って、
「まあ手品のようなものだ。しかし、世界中に、わしのような魔法使いは、ほかにいないのだよ。わしは手品師ではない。魔法博士だ。一つ諸君のほしそうなものを、空気の中から取りだしてみせるかな。ほら、いいかね、よく見ていたまえ。」
 紳士はそう言って、クルッと、一まわりしたかと思うと、その手には一本の新しいバットがにぎられていました。
「さあ、これが優勝したキリン・チームの賞品だ。受けとってくれたまえ。」
 天野勇一君のとなりにいた少年がそれを受けとりますと、紳士はまたもや、つま先でクルッと、一まわり、マントのそでがヒラヒラとしたかと思うと、こんどは両手に、新しいミットが一つずつ、わきだしていました。
「さあ、これは両チームに、なかよく一つずつだ。キリン・チームの主将、それからカンガルー・チームの主将、さあ取りに来たまえ。」
 少年たちは見知らぬ人から、こんなにいろいろなものをもらって、いいのかしらと、顔見合わせて、ためらっていましたが、紳士のすすめかたがうまいので、両チームとも、このりっぱなミットを受けとってしまいました。
「おじさん、魔法博士ってほんとうかい。おじさんのうちはどこなの?」
 天野勇一君がたずねますと、紳士は黒いマントのそでをはばたくように、ヒラヒラさせ、ほそい目をいっそうほそくして、またカラカラと笑いました。
「すぐそばだよ。ほら、ここからも見える、あの八幡さまの森の向こうに、煙突がヌッと出ている洋館さ。わしはひと月ほどまえに、あすこへひっこして来たんだよ。」
 その洋館なら、少年たちはよく知っていました。赤レンガの古い建物で、スレートぶきの急な屋根から、やはりレンガでできた四角な暖炉の煙突がそびえている。いまどき、どこにも見られないような、うすきみの悪い、へんなうちなのです。
「ヘエー、あの化けもの屋敷かい?」
 だれかがとんきょうな声をたてました。
「ワハハハハハハハ、あのうちは、近所で化けもの屋敷という、うわさがたっていたそうだね。だが、化けものなんかより、魔法博士のほうがうわてだからね。化けものは逃げだしてしまったよ。へんなうわさがたってだれも借り手がないと聞いたので、わしが借りて、すっかり手をいれて、りっぱなうちにしてしまった。そのうち、きみたちを招待するからね、見にくるといい。」
「魔法の力で、空気の中から、いろいろなものを取りだして、かざりつけをしたのかい?」
 だれかがそう言うと、少年たちのあいだに、ワッと笑い声がおこりました。紳士はマントのそでを、ヒラリとはばたかせて、手でそれを制しながら、
「イヤ、笑うことはない。きみはうまいことを言った。そのとおりだよ。魔法の力で、かざりつけをしたのさ。だから、わしはあのうちをふしぎの国と名づけた。きみたちは、『ふしぎの国のアリス』という西洋の童話を知っているだろう。つまり、あれとおなじふしぎの国が、あの洋館の中にあるのだよ。」
 紳士はそう言って、またカラカラと笑いましたが、天野君は『ふしぎの国のアリス』を読んだことがあるので、いっそう、この魔法博士のうちが、見たくてたまらなくなりました。
 黄金のように光るかみの毛、みょうな口ひげ、コウモリのような黒マント、そして、空気の中から、バットやミットを取りだして見せた、このふしぎな紳士、八幡さまの森の向こうに見えている、コケのはえた赤レンガの煙突、それだけでも、ここはふつうの世界ではなくて、いつのまにか、童話の国にかわっているのではないかと思われ、なんだか夢を見ているような気持ちになるのでした。
「ぼく、おじさんのうち見たいなあ。いつ見せてくれる?」
 天野君は、思いきって、そうたずねてみました。すると、少年たちのあいだから、
「ぼくも。」
「ぼくも。」
「ぼくも。」と、ふしぎの国見学の希望者が、たくさんあらわれ、みんなで、紳士のまわりをとりまいてしまいました。
「よし、よし、諸君がそんなにわしの話を歓迎してくれたのは、光栄のいたりだな。だが、いまというわけにはいかない。きょうはまだ諸君とはじめてあったばかりだからね。もうすこし、おたがいに知りあってからにしよう。だいいち、諸君をだまってわしのうちにつれこんだりしては、きみたちのおとうさんやおかあさんに、しかられるからね。」
 紳士はそう言いながら、右手で空中に大きく輪をえがいたかと思うと、いつのまにか、指のあいだに、スポンジ・ボールが一つ、わきだしていました。
 それを少年たちのほうへ、ヒョイと投げておいて、また輪をえがく、またスポンジ・ボールが一つ、それをなん度もくりかえして、紳士はとうとう六つのボールを空中から取りだしました。
「さあ、なかよく、両チームで三つずつわけるんだよ。じゃあ、さようなら。また、あおうね。」
 言いすてて、魔法博士の大コウモリのような姿はひじょうな早さで、スーッと遠ざかっていき、見るまに、八幡さまの森の中に消えてしまいました。
 これが、ゆかいなほうの出来事でした。つぎには、きみの悪い、おそろしいほうの出来事をしるします。

透明妖怪


 勇一君は、その日の晩ごはんの時に、魔法博士のことを、おとうさんに話しましたが、おとうさんは、
「フーン、そんなへんな人が、あのうちへこして来たのかねえ。むろん奇術師だよ。バットやミットなんかは、そのダブダブのマントの中にかくしていたのさ。それが奇術の力で空中から取りだすように、見えたんだよ。おとうさんも、いつかその人と近づきになりたいもんだね。ひょっとしたら、有名な奇術師かもしれない。」
と興味ありげにおっしゃるのでした。
「ぼく、そのふしぎの国っていうのが、見たくてしょうがないのですよ。」
「ウン、おとうさんも見たいね。奇術師のことだから、どうせ、うちの中に、いろんなしかけがしてあって、まるで童話の国へでも行ったような気がするにちがいない。」
 おとうさんも同意してくださったので、勇一君はいっそううれしくなり、それからというものは魔法博士のことばかり考えていましたが、どうしたわけか、その後、博士はいっこうに姿をあらわしません。待ちどおしくなって、あの古いレンガづくりの洋館の前へ、なんども行ってみましたが、いつも門の鉄の戸がピッタリしまっていて、まるで空家のように、シーンとしているのでした。
 そして、三日ほどたった、ある夕方のことです。裏庭のほうからおかあさんのあわただしい声が聞こえて来ました。
「勇ちゃん、勇ちゃん、ちょっと来てごらん。たいへんですよ。ウサギが二ひきとも、ぬすまれてしまった。」
 勇一君は裏の納屋なやの横に、鉄の網をはって、二ひきのウサギをかっていたのです。それがぬすまれたというのですから、びっくりして、そこへかけつけましたが、見ると、鉄の網は引きさかれ、柱はへしおれて、さんたんたるありさまです。だいじにしていた二ひきの白ウサギは、影も形もありません。そのうえ、かわいそうなことには、しきわらの上に、ポトポトと血のしたたったあとが残っているのです。
「さっきなんだかおそろしい音がしたので、もしやと思って見に来たのよ。そうしたらこんな……。」
「人間のしわざじゃありませんね。」
 勇一君は首をかしげながら、ひとりごとのように言いました。
「そうよ。人間なら、こんなむちゃくちゃなこわしかたはしないわね。ちゃんとひらき戸がついているんですもの。どこかの、のらイヌがはいってきたのかもしれない。」
「でも、おかあさん、どんな大きなイヌだって、このふとい柱をおったり、鉄の網をこんなにらんぼうに引きさいたりする力はありませんよ。」
「じゃあ、人間でもイヌでもないとすると、いったい、なんだろうね。」
 ふたりは、おびえたように、目を見あわせて、しばらく、だまっていました。
「ねえ、おかあさん、これは、きちがいが、塀をのりこえて、はいって来たのかもしれませんよ。きちがいは、ばか力がありますからね。」
「まあ、きみのわるい。でも、そんなきちがいが、このへんにいるという、うわさも聞かないけれど……。」
 ふたりはなんだかこわくなって、そのまま、大いそぎで、うちの中へはいりました。そして、おとうさんが、会社からお帰りになるのを待って、このことをお話ししますと、おとうさんはお笑いになって、
「きちがいだなんて、そりゃ勇一の考えすぎだよ。やっぱりのらイヌだろう。イヌだって、腹がへると、死にものぐるいの力を出すからね。」と、おっしゃって、この事件はそのままになってしまいました。
 ところが、その晩です。じつになんとも説明のできない、きみの悪いことがおこったのは……。
 その晩は、いやにむしあつかったので、勇一君は勉強部屋の窓をひらいたまま、テーブルに向かって本を読んでいたのですが、本の活字を追っている目のすみに、なんだか白いものが、チラッとうつりました。
 オヤッと思って、窓の外を見ますと、まっくらな庭に、白いものが動いています。やみの中に、そのものの影がクッキリと白く浮きだしているので、すぐにウサギだということがわかりました。昼間ぬすまれたウサギの一ぴきにちがいありません。
 それにしても、すばしっこいウサギが、どうしてあんなにノロノロ歩いているのでしょう。ああ、わかった。あと足がきかなくなっているのです。大けがをして、かんじんのあと足がだめになったので、みじかい前足だけで、からだをひきずるようにして、歩いているのです。
「かわいそうに、早く助けてやらなくちゃあ。」
 勇一君は大いそぎで、座敷のほうのえんがわから、庭へおりて行きました。
 星のないまっ暗な夜です。光といっては、勇一君の勉強部屋の窓から、電気スタンドのうすい光線がもれているばかりで、庭は手さぐりをしなければ、歩けないほどです。ただウサギの白いからだだけが、ハッキリ見えています。
 勇一君のおうちの庭は、なかなか広くて大きな木が林のようにしげっていました。白ウサギはビッコをひきながら、その林の暗やみのほうへすすんで行くのです。
「オイ、ルビーちゃん、そのほうへ行っちゃだめじゃないか。こっちへおいで、こっちへおいで。」
 まっかな目が、ことに美しいので、ルビーちゃんという名がついていました。からだのかっこうが、どうもそのルビーちゃんのほうらしいので、勇一君はそう呼びながら、白いもののあとを追いました。
 ウサギは、もう、木のしげみの中へ、はいりかけていましたが、ノロノロ歩いているので、追いつくのはわけはありません。勇一君はすぐにウサギのそばに近づき、両手を出して地面から、だきあげようとしました。
 ところが、その時です。勇一君の手が、まだウサギにさわらないのに、ウサギはなにかほかのものに持ちあげられでもしたように、いきなりスーッと空中に浮きあがったではありませんか。
 勇一君はあまりのふしぎさに声も出ません。まだこわいという気もおこりません。ただアッケにとられて、ちゅうにただよう白いものを、見つめているばかりでした。
 ウサギは勇一君の胸のへんの高さまで浮きあがって、しばらく、前足をモガモガやっていましたが、やがて、じつにおそろしいことがおこりました。
 とつぜん、ウサギの頭が見えなくなってしまったのです。からだだけが宙にのこって、首から上が、長い耳といっしょにもぎとられたように、なくなってしまったのです。
 勇一君は、かなしばりにあったように身うごきができなくなって、宙に浮く、首のないウサギを見つめていました。
 すると、つぎには、ウサギの前足と胸のへんが、何かにのみこまれたように消えうせ、しばらくすると、あと足のほうまで、すっかりなくなってしまいました。
 そして、一ぴきの白ウサギが、勇一君の目の前で、完全に消えてしまったのです。
 じつに、とほうもない想像ですが、庭のやみの中に、人間の目には見えない、透明な妖怪というようなものがいて、ウサギをつかみとって、頭からたべてしまったのではないでしょうか。
 勇一君は、ふとそんなことを考えると、ゾーッと気が遠くなるほどの、こわさにおそわれました。どうしてうちの中へかけこんだのか、もう、むがむちゅうでした。
 勇一君の知らせでおとうさんは、大きな懐中電灯を持って、庭へ飛びだしてゆかれました。そして、木のしげみの中を、くまなくさがしましたが、ウサギは影も形もありません。そればかりか、おそろしいことには、ちょうどウサギが消えたあたりの地面に血が流れ、草の葉をまっかにそめていました。
「おや、これはなんだろう。」
 おとうさんはビックリして、そこを電灯でてらしてごらんになりました。
 血の流れているすぐそばに、一本の大きなマツの木があります。そのマツの幹の、地面から一メートルばかりのところに、ひどい傷がついているのです。十五センチ四方ほど木の皮がめくれ、白い木はだがあらわれて、それがおそろしいササクレになっています。
 オノやなんかで、つけた傷ではありません。何か大きな歯車のようなもので、ムチャクチャに引っかいたというような、見るもむざんな傷あとです。
 読者諸君、このマツの木の傷あとには、身の毛もよだつ秘密がかくされていたのです。それが、どんなおそろしい秘密であったかは、しばらくだれにもわかりません。勇一君のおとうさんも、まさかそこまでは考えおよびませんでした。

小林少年


 このぶきみな出来事と、勇一君の近くに魔法博士がひっこしてきたことと、なにか関係があるのでしょうか。あるのかもしれません。ないのかもしれません。それは、もっとあとにならなければ、わからないのです。
 さて、魔法博士にはじめてあった、あの日曜日から六日のちの土曜日のことでした。勇一君は、学校の帰りに、ただひとり、わざわざまわり道をして、魔法博士の洋館の前を通りかかりました。
 勇一君は、あれいらい、毎日のように、そうして洋館の前を通ってみるのですが、いつも、鉄の門がしめきってあって、赤レンガの建物の中にも、人がいるのか、いないのかわからないほど、しずかなので、ものたりなく思いながら、通りすぎてしまいました。
 ところが、きょうは、その鉄の門がすっかりひらいていて、勇一君が通りかかると、中からだれか出て来たではありませんか。ハッと思って、よく見ると、わすれもしない、あのコウモリの、羽のような外とうを着た、魔法博士でした。歩くたびに、黄色と黒のダンダラになった長いかみの毛が、フワフワゆれて、大きなべっこうぶちのメガネがキラキラ光っています。
「おじさん!」
 勇一君は、おもいきって、声をかけてみました。すると、魔法博士はこちらを向いて、ニコニコ笑いながら、
「おお、キリン・チームの天野勇一君だね。ハハハハハハ、よく知っているだろう。きみの名まえは、あのとき、きみのお友だちから、ちゃんと聞いておいたんだよ。きみのうちも知っているよ。ほんとうのことを言うとね、わしは、これからきみのうちへ行って、おとうさんにお目にかかろうと思っているのさ。」
「えッ、ぼくのおとうさんに? おじさんは、おとうさんに、何かご用があるんですか。」
「いや、べつだん用というほどでもないがね、ほら、このあいだ、きみたちと約束しただろう。わしのうちの中にできている、ふしぎの国を見せてあげると言ったね。じつは、あすの日曜日に、このごろ知りあいになった少年諸君を、十二、三人、わしのうちへご招待しようというわけなのさ。それで、おとうさんや、おかあさんがたにも、いっしょにおいでくださるように、これから、みんなのうちへ、ごあいさつに行くところなんだよ。」
「わあ、すてき。ぼく、おじさんのうちの中が見たくてしようがなかったんですよ。だから、毎日学校の帰りに、この前を通るんだけれど、いつも門がピッタリしまっていて……。」
「ワハハハハハハハ、そりゃ、きのどくをしたね。あすは、じゅうぶんに見てもらうよ。魔法博士のふしぎの国は、じつにすばらしいからね。びっくりして、目をまわさないようにするんだね。」
「ヘエー、そんなに、おどろくようなものがあるの?」
「あるのないのって。ワハハハハハハ、いや、これは秘密、秘密。万事あすのおたのしみだよ。」
 ふたりは、いつか洋館の前をはなれて、勇一君のおうちのほうへ、歩いていました。背が高くて、肩はばが広くて、ガッシリした魔法博士、猛獣のたてがみのようにフサフサした黄と黒のかみの毛、ヒラヒラするコウモリの羽のマント。それにならんで、博士の胸のへんまでしかない、小さな勇一君が、チョコチョコ走るようにして、ついて行きます。
「おじさん、ぼく、お友だちをつれていっても、いいでしょうか。」
「えッ、お友だちって? 学校の友だちかね。」
「いいえ、ぼくのしんせきの人です。」
「ふーん、やっぱり、きみのような子どもなんだろうね。」
「ええ、子どもだけれど、ぼくより三つ大きいのです。小林芳雄よしおっていうんです。」
「えッ、小林芳雄? はてな、聞いたような名だぞ。もしや、その人は、明智あけち探偵の助手の小林少年じゃあないのかね。」
「ええ、そうです。おじさん、よく知ってるんですねえ。明智探偵にあったことがあるんですか?」
「いや、あったことはないがね。新聞や本でよく知っているのさ。あの小林少年なら、わしのほうでもぜひ来てもらいたいね。小林少年のしんせきだとすれば、きみは明智探偵も知っているんだろう。なんだったら、明智さんもおまねきしたいものだが。」
「明智先生は、いま病気で寝ているんです。」
「どこが悪いんだね。」
「ぼくもよく知らないけれど、もう二週間も寝ているんですって。そして、まだ熱がとれないんですって。」
「ふうん、それはいけないね。だが、小林少年が来てくれるとはゆかいだ。きみは、このごろあったのかね。」
「ええ、二、三日まえに。そして、おじさんのふしぎの国の話をしたらばね、小林さんは、ぜひ見たいって言うんです。もし、きみがさそわれたら、ぼくも呼んでくれって言っていました。ぼく、きっとそうするって、約束しちゃったんです。」
「そりゃあ、よかった。じゃあ、きみのおとうさんにも、そのことを話しておこうね。」
 やがて、ふたりは勇一君のおうちにつきましたが、つごうよく、おとうさんも会社からお帰りになっていたので、魔法博士は応接間に通されて、そこで、しばらくおとうさんと話をして帰りました。
 勇一君のおとうさんは、あすの日曜日は、ほかに約束があって、ふしぎの国を、見に行けないけれども、小林少年が勇一君といっしょに行くのなら、すこしも心配することはないと考えられ、小林君とも電話でうちあわせをしたうえ、魔法博士に、子どもふたりだけでおじゃまさせるからと、お答えになったのでした。

ふしぎな国


 その日曜日の午後一時、小林少年は、電話で約束したとおり、勇一君のおうちへやって来ました。こんの洋服を着て、リンゴのようにつやつやしたほお、いつも元気な小林君でした。
 二少年はすぐに、つれだって、魔法博士の洋館にいそぎました。鉄の門はひらかれていますが、まだ時間が早いせいか、ほかの少年たちの姿は見えません。
 ふたりは門をはいって、玄関の石段をあがり、柱についているベルのボタンを押しました。すると、中から「どうぞおはいり。」という声がしたので、ドアをひらいて、はいりましたが、だれもいません。正面にもう一つドアがあります。しかし、だまってあけていいかどうかわからないので、モジモジしていますと、また中から声がひびいてきました。
「そこのげた箱へクツを入れて、正面のドアから、はいってください。」
 ふたりは言われるままに、クツをぬぎ、げた箱に入れて正面のドアをひらきました。そこはホールというのでしょう。広い板の間です。
 そのホールへはいったかと思うと、ふたりは、いきなり頭をガンとやられでもしたように、アッと言ったまま、立ちすくんでしまいました。正面のかべいっぱいに、とほうもないお化けが笑っていたからです。
 それは何千倍に大きくした魔法博士の顔でした。さしわたし一メートルもあるようなデッカイメガネの玉が二つ、その中に光っている、ほそいけれども、メガネの玉よりも長い目、小山こやまのような鼻、くさむらのようなまゆ、例の黄と黒のダンダラのかみの毛は、部屋の天井にただよう、あやしい雲のようです。
 正面のゆかから天井までが、一つの顔なのです。よくもこんなに、にせたものだと思うほど、魔法博士とソックリの顔なのです。それが、ほそいつり竿ざおを何十本もそろえたような口ひげを、左右にピンとのばして、ほら穴のような大きな口をあいて、笑っているのです。
 ふたりの少年は、なんだかおそろしい夢でも見ているような気がして、しばらくはものも言えませんでしたが、よく見ているうちに、その顔はハリコのつくりもので、べつにおそろしいものではないことがわかってきました。
「ワハハハハハハハ。」
 どこからかギョッとするほど、大きな笑い声が、聞こえました。
「きみたち、ビックリしているね。ワハハハハハハ、だが、こんなものにびっくりしちゃだめだよ。ここはまだ入り口なんだ。中にはもっと、ふしぎなものが待っている。」
 たしかに魔法博士の声です。まさか、あのつくりものの大きな顔が、ものを言っているのではないでしょう。しかし、博士の姿はどこにも見えません。
「どっかにラウド・スピーカーがあるんだよ。そして、ぼくたちに見えないような場所に、のぞき穴があって、博士はそこからのぞきながら、マイクロフォンに向かってしゃべっているんだよ。だから、あんな大きな声がするんだ。」
 小林君が、ソッと、勇一少年にささやきました。
「きみたち、なにをグズグズしているんだね。早くはいって来たまえ。ウフフフフフフフ、入り口がわからないって言うのか。ほかに入り口なんかありゃしないよ。わしの口の中へはいるのだ。わしの口が、ふしぎの国の入り口だよ。」
 わしの口というのは、つまり、つくりものの博士の顔の、ほら穴のような口のことです。その口が大きくひらいているので、しゃがんで、通れば、通れないこともありません。
 口の中はまっ暗です。そこへはいって行くのは、なんだか怪物にのまれるようで、いやな気持ちでしたが、ほかに入り口がないとすれば、しかたがありません。ふたりは、ふとんのようなまっかな唇と、のこぎりの岩のような歯をまたいで、オズオズと巨人の口の中へはいって行きました。口の中は、せまい廊下のようなところです。ふたりは手を引きあって、かべにさわりながら、歩いて行きますと、まもなく、行きどまりになってしまいました。正面にも板かべがあって、すすむことができないのです。しかたがないので、入り口のほうへひきかえそうとしていますと、また、ラウド・スピーカーの声が、ひびいてきました。
「その正面のかべをさぐってごらん。ドアのとってがある。それをひらいて、中へはいるんだよ。そして、中へはいったら、ドアは、かならず、もとのとおり、しめなくてはいけないよ。」
 ふたりは、まるで催眠術さいみんじゅつでもかけられたように、夢ごこちで、言われるままに、ドアをひらいて、中にはいり、もとのようにそれをしめました。
 すると、そこには、気でもちがったのではないかと思うような、ふしぎなことが、おこっていたのです。
 おそろしい明かるさに、まず目がくらみました。目が光になれると、こんどは、ふたりのまわりに、何百人ともしれぬ少年の大群衆がひしめいているのに、きもをつぶしました。少年たちは、それぞれ、セーターやジャンパーを着ています。それが、学校の式場にでもあつまったように、四方八方、すきまもなく、ならんでいるのです。
 読者諸君は、そんなバカなことがあるものかと思うでしょう。そのとおりです。魔法博士の洋館が、いくら広いといっても、何百人という少年がはいれる部屋なんか、あるはずがありません。では、戸をひらいて出たのは、建物の外だったのでしょうか。これは洋館の外の広っぱなのでしょうか。
 広っぱならば、空が見えるはずです。小林少年と勇一君とは、そう思って頭の上を見ました。すると、あまりのふしぎさに、ふたりは目がクラクラッとして、たおれそうになりました。そこには青空がなかったばかりか、やっぱり何百人という少年が、さかさまになって、あるいは横だおしになって、天からふって来るように見えたのです。
 いや、それだけではありません。ビックリして、見あげていた顔をふせて、足もとを見ますと、ハッとしたことには、足の下のゆか板がなくなっていました。そして、下のほうにも、何百人という少年がウジャウジャしているのです。ああ、いったい、これはどうしたというのでしょう。何百何千という少年のむれにかこまれて、宙にただよっているとしか考えられないのです。
 こんなふうに書くと長いようですが、小林君と勇一少年が、このふしぎな群衆を見て、おどろいていたのは、ほんの二十秒ぐらいのあいだです。二十秒もたつと、すっかりなぞがとけてしまいました。そこは広っぱどころか、わずか一坪ほどの小さな部屋にすぎなかったのです。
 読者諸君、おわかりですか。わずか一坪の部屋に、どうして、そんなにたくさんの少年がいたのでしょう。
 二十秒ほどたったとき、まず、ふたりが気づいたのは、上下、左右、前後をヒシヒシとかこんでいる、何百人の顔が、みんな同じだということでした。いや、正しく言えば、ふたいろの顔でした。つまり、小林少年の顔と、勇一君の顔と、そのたったふたいろの顔が、数かぎりなく、ならんでいたのです。
 自分とまったく同じ少年が、何百人もいて、それがウジャウジャと、まわりをとりかこんでいたのです。もうわかったでしょう……。それは八角形につくられた鏡の部屋だったのです。
 八角形になったかべが、ぜんぶ鏡ではりつめられ、天井も鏡の板、ゆかもあついガラスの鏡、その小部屋は、どこにも鏡でないところはないのです。そして、天井とかべと床のすみずみに、小さいくぼみがあって、その中に一つずつ電灯がついていました。つまり十六個の電球が、四方八方からてらしているわけです。
 なぞはとけましたが、でも何百人という自分の姿に、かこまれているのは、あまりいい気持ちではありません。手を動かすと、何百人が、いっぺんに手を動かします。ものを言うと、何百人の口が、いっぺんに動くのです。こんなきみの悪いことはありません。
 ふたりは、早く鏡の部屋を出たいと思いました。しかし、どこが出口だかわかりません。はいって来たドアも、うちがわは、やはり鏡のかべになっているので、どれがドアだか、けんとうがつきません。どうしたらいいだろうと、マゴマゴしていますと、ちょうどそのとき、八角のかべの一つが、スーッと外へひらいて、そこに、魔法博士の顔がニコニコ笑っていました。あの千倍のお化けの顔ではありません。ほんものの魔法博士の顔です。

こく魔術


「ワハハハハハハハ、おどろいたかい。ふしぎの国というのは、ざっとこんなものさ。まだおもしろいしかけはいろいろあるけれども、きょうはこのくらいにして、あとは、いよいよ本舞台の大魔術を、お目にかけよう。さあ、こちらへ出て来たまえ。」
 ふたりは鏡の部屋を出て、魔法博士の前に立ちました。博士はきょうは、まっ白な服を着ています。エンビ服のように、しっぽのついた、白じゅすの上着、同じズボン、それから、肩にはおった、例のコウモリの羽のようなマントも、やはり、まっ白なラシャです。
 小林少年が、おじぎをしますと、博士もかるく頭をさげて、
「ああ、きみが有名な小林君ですね。きみの名探偵ぶりは、本で読んで、よく知っています。少年名探偵のご光来こうらいをかたじけなくしてわしも光栄ですよ。ワハハハハハハハハ。」
 博士は黄と黒のしまになったかみの毛をふりみだし、まっかな唇を思うさまひらいて、さもゆかいらしく笑いました。入り口の千倍の化けものの笑い顔と、ソックリです。
「さて、これから、わしの大奇術をお目にかける。奇術といっても、手品師がやるような、ありふれたものではない。わしは魔法博士だからね。ナポレオンと同じように、わしの字引じびきには、不可能という文字はない。どんな大魔術をやるか、しばらく、その見物席に腰かけて待っていてくれたまえ。お客さんが、まだそろわないからね。わしは楽屋にはいって、準備をしなければならん。」
 博士はそう言って、舞台のうしろへ、姿を消しました。あとにのこったふたりは、見物席のイスに腰をおろし、大魔術の舞台というのをながめるのでした。
 そこは十メートル四方ほどの大広間で、見物席には三十あまりもイスがならび、一方には一段高い舞台がしつらえてあります。しかし、ふつうの劇場などとちがって、ここの舞台はなんのかざりもない黒ずくめです。幕はありません。はじめから、舞台はまるだしになっています。背景には一面に黒布がはられ、舞台のゆかも、すっかり、おなじ黒布ではりつめてあります。つまり、全体が黒ひと色なのです。
 見物席の窓はみなしまっていて、ちょうど映画館のように、黒いカーテンでおおわれています。ですから、太陽の光はすこしもささず、広間の中は夜のような感じです。見物席には電灯はありませんが、舞台の前の天井と、一段高くなった台の前とに、ズーッと電球がならんでいて、それが見物席のほうをてらしているので、なんだかキラキラして、まばゆいようです。
 見物席には、勇一君たちよりもさきに、五、六人のおとなや子どもが来ていました。やがて、例の鏡の部屋から、つぎつぎとお客さんの姿があらわれました。博士の助手が出て来て、鏡の部屋のドアをひらいてやり、見物席に案内しています。お客の少年たちは、ひとりでくるのは、めずらしく、たいていは、おとうさんらしい人、にいさんらしい人とふたりづれでした。中にはおかあさんらしい女の人と、いっしょに来た少年もあります。
 鏡の部屋を出てくる少年たちは、みなビックリしたような顔をしていました。よほどこわかったのか、まっさおになっているのもいます。また、やせがまんで、さも平気らしくゲラゲラ笑いながら、出て来るのもいます。
「さあ、これで、きょうのお客さまは、すっかりそろいました。では、これから大魔術をはじめることにいたします。」
 助手がそう言って、舞台の奥に、姿を消したときには、かぞえてみると、お客の数は、おとうさんやおかあさんなどもあわせて、二十五人でした。
 しばらくすると、舞台の上に、まっ白な服を着た魔法博士が立ちあらわれました。そして、見物席に向かって、うやうやしく一礼すると、エヘンとせきばらいをして、もったいぶった口調で、何かしゃべりはじめました。
「みなさん、きょうは、ようこそおいでくださいました。鏡の部屋には、ちょっとビックリしたでしょう。しかし、あれは、ふしぎの国では、幼稚園ぐらいのところですよ。ほんとうにビックリするのは、これからです。わたしは、この舞台で、大魔術をお目にかける。手品や奇術ではありません。魔術ですよ。魔術には何百という種類がありますが、これからやるのは、そのうちのブラック・マジック、すなわち黒魔術というやつです。そこで、まずこてしらべとして、このなんにもない舞台に、諸君のビックリするようなものを、あらわしてお目にかける。では、はじめますよ。」
 博士はそう言っておいて、二、三歩あとにさがると、両手をグッと前に出して、舞台の空間を、二、三度、スーッとなでまわすような、しぐさをしました。
 すると、どうでしょう。いままで何もなかった舞台の中央に、雨戸ほどの大きさの、一枚のトランプの札が、パッとあらわれたではありませんか。それは、ハートの女王で、もようも、ほんとうのトランプとすこしもちがいません。ただ、それが千倍に大きくなっているだけです。
 博士は、空中に立っている大カードに近づくと、両手でそれを持ち、グルッと裏がえしにして見せました。裏もほんとうのトランプと同じもようです。そうして、しかけのないことを、あらためたうえ、またもとのように正面を向け、ヒョイと一歩あとにさがって、一つ手をたたきました。すると、どうでしょう。ハートの札のほうの女王さまが、いきなりニコニコ笑いだしたではありませんか。
「オヤッ。」と思って、見つめていますと、女王さまは、トランプからぬけだすように、スーッと上半身を前にのりだし、両手を、ひろげて、見物席に向かって、にこやかにあいさつしました。
 ああ、なんというあざやかな奇術でしょう。しかし、これだけならば、ふつうの奇術師にも、できないことではありません。読者諸君も、よくお考えになれば、そのやり方がわかるはずです。
 ところが、博士はこれを、こてしらべだと言っています。ほんとうの大魔術はこれからなのです。いったい、どんな魔法を使おうというのでしょう。
 何かおそろしいことが、おこるのではないでしょうか。魔法博士は、なんの目的で、こんな魔術の会をひらいたのか。ただ子どもたちをよろこばせるため? いや、いや、どうもそうではなさそうです。小林少年が、ちょうどこの会に来あわせたというのも、もしかしたら、博士がわざと、そうさせたのかもしれません……。では、なんのために?

空中浮遊術


 そのとき、魔法博士は、白いマントをコウモリの羽のようにヒラヒラさせながら、両手で空中をなでるしぐさをしますと、みるみる、その雨戸ほどもあるカードが、笑っている女王さまもろとも、空気の中へとけこむように、スーッと消えていってしまいました。
 魔法博士の白い姿が、舞台のまん中に立ってうやうやしく一礼しました。
「みなさん、おどろいていますね。ふしぎですか。ハハハ……。しかし、これぐらいのことでおどろいてはだめですよ。これはほんのこてしらべでふつうの手品師にだってできる奇術ですよ。あとで、種明たねあかしをして見せましょうね。」
 博士はそこで、ちょっとことばをきって、例の白いマントをヒラヒラさせ、ニコニコ笑いながら、つづけました。
「さて、つぎの魔術ですが、これはわたしひとりではできません。みなさんのうちのだれかが、この舞台にのぼってくださらなければ、できないのです。エーと、天野勇一君、きみ、ちょっとここへあがってください。きみはこの中で、いちばんかわいい顔をしているし、なかなかかしこいし、それに、背の高さがちょうどいいですよ、さあ、ここへいらっしゃい。」
 見物席の前列にいた勇一君は、博士にまねかれても、すぐに立ちあがる気にはなれませんでした。なんだかきみが悪いのです。
「ハハハ……、はずかしがっていますね。なあに、きみにへんなことをやらせるわけではありませんよ。いま助手がここへ一つの寝台を持ってきますからね。きみはその上に寝ていればいいのです。さあ、勇気を出して、ここへあがっていらっしゃい。」
 勇一君は、臆病者おくびょうものと言われるのは、いやですから、思いきって、舞台にあがってみようと考えました。となりに腰かけている小林君に、目で相談しますと、小林君も、うなずいてくれましたので、いきおいよく、席を立って、舞台へあがって行きました。
 すると、舞台の奥から、食堂のボーイのような、白いつめえり服を着たふたりの助手があらわれ、長イスのような、きれいな小がたの寝台を、つりだして、舞台のまん中におきました。その舞台は赤や青の美しいもようのある白いきれでおおわれ、それに銀色のふさがついて、寝台の足の上部をグルッととりまいています。ふさの下から見えている木の足も白くぬってあります。つまり、まっくろな背景の前に、その白い美しい寝台が夢のように、クッキリと浮きだして見えるのです。
「勇一君、これを着てください。魔術というものは美しくなくては、いけないのでね。」
 魔法博士は、助手が持ってきた白絹の道化服のようなものを、勇一君の洋服の上から着せてしまいました。
「ほう、よくにあう。かわいいぼっちゃんになったね。さあ、その美しい寝台の上に、横になってください。いま、わたしが魔法を使うと、きみは、おとぎ話のように、ふわりふわりと空中旅行ができるのですよ。」
 勇一君が、言われるままに、寝台の上に横になりますと、魔法博士は、その上におっかぶさるようにして、耳のそばに口をよせ、ボソボソと、なにごとかささやきました。勇一君は、ニッコリしながら、しきりにうなずいています。博士は、これからやる奇術の種を、そっと教えたのかもしれません。
 見物席の少年たちは、いったいどんなことがはじまるのかと、目を皿のようにして、舞台を見つめています。
 魔法博士は寝台の横に立って、正面を向くと、見物席に向かって、また、うやうやしく一礼しました。
「さて、いよいよこれから、空中浮遊術という大魔術をお目にかける。ここに寝ている天野勇一少年のからだが、わたしの魔法によって、空気よりもかるくなる。そして、ふわふわと宙に浮きあがるのです。たのしい空中旅行をやるのです。だが、それだけではない。もっとおもしろいことがおこる。みなさんが、アッと言ったまま、口がふさがらないような、とほうもないことがおこるのです。では、これからはじめますよ。」
 口上こうじょうをおわると、魔法博士は寝台から二メートルほどはなれたところに立って、寝ている勇一君の顔を、ジーッと見つめました。まるで催眠術でもかけるように、いつまでもにらみつけているのです。
 見物席の前列にいた小林少年は、博士の目が、まんまるになったのを見て、ギョッとしました。博士はいつも糸のようにほそい目をしていたからです、生まれつき、ほそい目だと思いこんでいたからです。それが、いまはカッと見ひらかれて、まんまるに見えるではありませんか。べっこうぶちの大きなメガネの玉の中が、目でいっぱいになっているのです。
 催眠術をかけるときには、人間の目は、あんなおそろしい形になるのでしょうか。世間には、目の大きい人がたくさんあります。しかし、いまの博士の目は、ただ大きいだけではありません。なんだか人間の目とは思われないような、ふしぎな光をはなっているのです。
 猛獣の目です。猛獣が、いまにもえものに飛びかかろうとするときの、あの身の毛もよだつ目のいろです。
 小林君は、思わずイスから立ちあがろうとしました。そして、いきなり、舞台にかけあがって、「この奇術はよしてください!」とさけびたいほどに思いました。
 ところが、小林君がそう思ったときには、博士の目は、いつのまにか、もとのようにほそくなっていました。猛獣の目はどこかへ消えてしまって、いつものやさしいほそい目にかわっていました。
「それじゃあ、いまのは気のせいだったのかしら。メガネの玉が光って、あんなふうに見えたのかしら。」
 小林君は、立ちかけた腰をおろして、首をかしげました。しかし、なんだか胸がドキドキしてしかたがありません。ああ、いまにも、ゾッとするような、おそろしいことがおこるのではないでしょうか。

宙に浮く首


 寝台の上の勇一少年は、魔法博士の催眠術にかかったのか、目をとじて、ねむったように身うごきもしません。
 博士は、寝台から二メートルほどはなれたところに立って、やはり勇一少年を見つめたまま、白コウモリのようなマントを、パッとひるがえして、両手をながくのばし、ヘビのように波うたせながら、空中を、上へ上へと、なであげるようなしぐさをつづけました。
 すると、ああ、ごらんなさい。寝台の上の勇一君のからだが、寝たままの姿で、ジリリジリリと、宙に浮きあがってきたではありませんか。
 勇一君のからだと寝台とのあいだが、もう二センチほどもひらきました。そして、そのひらきが、みるみる大きくなっていくのです。五センチ、十センチ、二十センチ、動くか動かないかわからぬほどの早さで、しかしすこしもやすまず、上へ上へとのぼって行きます。
 まっ黒な背景の前に、勇一君の白い道化服の姿が、クッキリと浮きだして、なに一つ、ささえるものがない空中に、横に寝たままのかたちで、しずかに浮いています。なんという、ふしぎな光景でしょう。まるで夢でも見ているようです。
 ところが、勇一君のからだが、寝台から一メートルもはなれたとき、とつぜん、おそろしいことがおこりました。勇一君の顔が、なくなってしまったのです。つまり、首から上が消えうせてしまったのです。白い服を着たからだばかりが、こわれた人形のように、宙に浮いているのです。
 ハッとして見つめていますと、こんどは胸が消え、腹が消え、じゅんじゅんに消えていって、しまいにはひざから下だけになり、足くびだけになり、白いクツしたをはいた足くびが、しばらく、チョコンと空中にのこっていたかと思うと、やがて、それも消えて、なんにもなくなってしまいました。勇一君は、かんぜんに消えうせてしまったのです。
 黒ひといろの舞台に、目に見えない、とほうもなく大きな怪物がいて、勇一君を頭から、グッグッとのみこんでしまった感じでした。
 魔法博士は、さもおどろいた顔つきで、これをながめていましたが、勇一君が、まったく消えてしまうと、うろたえた身ぶりで、見物によびかけました。
「さあ、たいへん。魔法がききすぎたのです。天野勇一君は、どこかべつの世界へ、飛びさってしまいました。もうこの世界には、いないのです。このままほうっておいては、勇一君のおとうさんやおかあさんに、もうしわけがない。よろしい。わたしがそのべつの世界へ、のりこんで行って、勇一君をつれもどすことにしましょう。では、みなさん、わたしも、しばらく、この世界から姿を消しますよ。」
 そう言ったかと思うと、博士は、まずコウモリの羽のように白いマントのひもをといて、それをパッとなげすてました。それから、白いズボンも、クツしたもろとも、クルクルとぬいでしまいました。
 すると、これはどうしたというのでしょう。ズホンの中は、なにもないからっぽではありませんか。足がないのです。ただ腹から上の胴体だけが、フワッと宙に浮いているのです。
 博士はつぎに、白い上着とシャツをぬぎすてました。すると、こんどは胴体まで消えてしまったではありませんか。シャツの中も、からっぽだったのです。むろん手もありません。ただ首だけが宙に浮いて、ニヤニヤ笑っているのです。
 ほんとうに『宙に浮く首』です。その首がスーッと、一メートルばかり、空中を横に動いたかと思うと、まるで火でも消えるように、見えなくなってしまいました。つまり、魔法博士はこの世から、まったく姿を消してしまったのです。
 まっくらな舞台には、美しいかざりのある寝台が、ただ一つのこっているばかり、そのほかに目にはいるものは、なにもなくなってしまいました。
 あまりのふしぎさに、見物席はシーンとしずまりかえって、せきをするものもありません。
 いまに、べつの世界から帰って来たのだと言って、博士と勇一少年の姿が、どこからか、あらわれるにちがいない。
 見物たちは、そう思って、じっと待っていました。
 墓場の中のようなしずけさの中に、一分、二分、三分と、時間がたっていきました。しかし、舞台には、なにもあらわれません。ただ、まっ暗な空間が、やみ夜のように広がっているばかりです。
 とつぜん、どこからともなく「ウォー、ウオオオ、ウオオオ。」と、見物たちを飛びあがらせるような、おそろしい音が聞こえて来ました。人間の声ではありません。動物の声です。猛獣のほえた声としか思われません。
 見物たちはゾーッとして、たがいに顔を見あわせました。みな、まっさおになっています。背中に氷をあてられたような、なんとも言えぬぶきみさに、もう、からだがすくんでしまったのです。

かべをはうもの


 それから、また数分間たっても、舞台には、なにごともおこりません。見物たちは、もうがまんができなくなりました。
 まっさきに立ちあがったのは、小林少年です。小林君は、つかつかと舞台のきわまで、近づいていきました。そして、いきなり、「勇一くーん、勇ちゃーん。」と大きな声で、呼びかけてみました。
 なんの答えもありません。
 また、くりかえして呼びました。それにつれて、見物たちは、みな席をはなれて、舞台のそばへあつまってきました。そして、てんでに、なにか言いだしたものですから、にわかに、ガヤガヤとさわがしくなってきました。
 小林君は、たまりかねて、舞台にかけあがり、奥のほうに向かって、「だれかいませんか。」と、どなりました。
 すると、黒い幕のうしろから、白いつめえり服の助手がふたり、飛びだしてきました。
「先生がいなくなってしまったんです。ぼくたちは、いままで、いっしょうけんめいに、さがしてみたのですが。」
 助手のひとりが、息をはずませて、言うのです。先生とは魔法博士のことにちがいありません。
「先生がいないんですって? じゃあ、勇一君もですか。」
「ええ、ふたりとも見えないのです。」
 では、博士も勇一少年も、ほんとうにべつの世界へ飛びさってしまったのでしょうか。
「いまのはブラック・マジックでしょう。きみたちはまっくろな服を着て、舞台で、はたらいていたのでしょう。」
 小林君は、ブラック・マジックという奇術の種を知っていたので、こう言って、なじるように助手たちにたずねたのです。
「そうです、ぼくたちは、この白服の上から黒ビロウドの服を着て、黒ずきんをかぶり、黒い手ぶくろをはめて、助手をつとめていたのです。そうすれば、電気の光線のぐあいで、見物席からは、何も見えないのです。ぼくたちが、いくら舞台を歩きまわっても、すこしも見えないのです。」
「それでいて、博士がいなくなるのを、知らなかったのですか。」
「ぼくたちは、しょっちゅう舞台にいたわけではありません。ちょっと、楽屋へはいったあいだに、先生も、子どもさんも、見えなくなってしまったんです。じつにふしぎです。」
 こんな問答もんどうを聞いていても、ブラック・マジックというものを知らない見物たちには、なんのことだかわかりません。みんなが、けげんらしい顔をしているので、小林君はかんたんに、ブラック・マジックの種明かしをしました。
「みなさん、いまのは魔法でもなんでもない、ふつうの手品で、ブラック・マジックって言うんです。電灯をぜんぶ見物席のほうに向けて、舞台には、じかに光がささないようにしてあるので、こうして、しゃべっているぼくの姿でも、手や顔のほかは、ハッキリ見えないでしょう。ですから、博士はあんなまっ白な服を着ていたのです。また勇一君にも白い服を着せたのです。
 ぼくの服でさえ、ハッキリ見えないくらいですから、まっ黒なビロウドの服を着て、頭や、手先も黒ビロウドでつつんでしまったら、見物席からは、すこしも見えません。このふたりの助手君は、そういうまっ黒な姿になって、舞台で、はたらいていたのです。これが手品なのですよ。
 さっきの大トランプの奇術も、はじめから黒ビロウドをかぶせて、舞台においてあったのを、助手君が、その黒いきれを、だんだん、はがしていったのですよ。すると、さも空中から大トランプが、あらわれるように見えたのです。ハートの女王さまが動きだしたのも、助手君のひとりが、おけしょうをして、絵の女王さまとおなじ服を着、かんむりをかぶって、カードを切りぬいたところから、上半身を出して見せたのです。カードの裏がわを見せるには、すばやく、切りぬいた絵を、もとのとおりにはめこみ、自分は頭から黒ビロウドをかぶって、姿を消してしまうのです。
 勇一君が宙に浮きあがったのは、黒ビロウドを着た助手君が、勇一君のダブダブした白い道化服のあいだに両手をかくして、そのからだを持ちあげていたのです。すると、いまひとりの助手君が、黒ビロウドのふくろのようなものを、勇一君の頭のほうからかぶせていって、だんだん足の先まで、かくしてしまったのです。そうすると、見物席からは、勇一君が消えてしまったように見えるのですよ。
 魔法博士のからだが、服をぬぐにつれて、消えていったのは、あの白い服の下に黒ビロウドのシャツとズボンをはいていたのです。手にも黒い手ぶくろをはめ、その上からもう一つ、白い手ぶくろをはめていたのです。さいごに、顔まで見えなくなったのは、頭からスッポリと黒ビロウドのきれをかぶったのですよ。」
 小林君は、さすがに名探偵の片腕と言われるほどあって、手品の種には、くわしいものです。話しおわって、ふたりの助手のほうをふりむいて、そのとおりでしょうとたしかめますと、助手たちは、びっくりした顔をして、そうだと、うなずいて見せました。
「勇一君を黒ビロウドでかくしてしまってから、どうしたのですか。舞台のゆかへおろしたのでしょうね。」
「そうです。この黒布をはったゆかへおきました。このへんですよ。」
 ひとりの助手は、勇一君をおろした場所へ歩いていって、指で、さししめしました。むろん、そこには、何もありません。舞台にあがってしまえば、まぶしい電灯のうしろがわになるので、黒いものでも、よく見えます。広い舞台には、ふたりの助手のほかに、まったく人影がありません。
 奇術の種がわかりますと、博士と、勇一少年がいなくなったのは、奇術ではなくて、ほかにわけがあることが、ハッキリしましたので、いよいよ、さわぎが大きくなりました。
 見物のうちの、おとうさんやにいさんたちが、まず舞台へあがって来ました。そして、舞台の前の、電球をとりつけてあった板をはずし、それを反対のほうに向けて、舞台を明かるくしておいて、背景のうしろ、幕のかげ、舞台のゆか下と、ありとあらゆる、すみずみを、さがしまわりましたが、どこにも人影はありません。
 舞台のうしろのドアをあけると、楽屋につかっていた、せまい部屋があり、そこも、くまなくさがしたうえ、つぎのドアをひらくと、パッと目をいる明かるさ。もう夕方でしたが、いままで暗いところにいたので、にぶい光でも、まぶしいほどです。
 そこは廊下になっていて、一方は行きどまりのかべ。一方はべつの部屋につうじています。庭に面したガラス窓をしらべてみると、うちがわから、しまりができていて、そこから人の出たようすはありません。
 小林君は、せんとうに立って、廊下の先のべつの部屋へ、はいって行きました。円形のせまい部屋で、小さな窓が一つしかなく、その窓もしめきったままで、別状はありません。まるい部屋のまん中に、ラセン階段があります。そこは、この洋館についている、夢のお城のような、円形の塔の一階だったのです。
 もし、魔法博士が、勇一君をつれて逃げたとすれば、見物席のほうへは出られませんから、この塔にのぼるほかに、道はないのです。ほんとうに魔法の力で消えてしまうなんて、考えられないことですから、博士と勇一君は、この塔の上に、かくれているにちがいありません。なぜ、かくれたのか、すこしもわけがわからないけれども、そんなことを考えているひまはないのです。小林君は、グルグルうずまきになっているラセン階段を飛ぶように、かけあがっていきました。
 二階の窓にも別状ありません。そのつぎの三階が頂上でした。だれもいません。しかし、そこの窓が、ひらいたままになっています。かけよって、しらべてみると、窓わくにつもったホコリが、ひどくみだれています。何者かが、その窓から外に出たらしいのです。
 まさか三階の窓から、飛びおりることはできません。地上七メートルもあるのです。では、綱をつたっておりたのでしょうか。しかし、どこにも綱のはじは見えません。
 小林君は窓から首をだして、のぞいて見ました。思ったとおり、足がかりなんかすこしもない、なめらかなレンガのかべです。ヘビかトカゲでなくては、このかべを、はいおりることはできないでしょう。
 そう思って、見おろしたとき、小林君の目に、ギョッとするようなものが、うつりました。その直立したなめらかなかべの上を、一ぴきのまっ黒な怪物が、とほうもなく大きな、トカゲのようなやつが、ノロノロとはいおりていたのです。ちょうど二階の窓のへんを、頭を下にして、さかさまにはいおりていたのです。
 それは、写真でも絵でも、一度も見たことがないような、まっ黒な動物でした。大きさは、ちょうど人間ほど、足は四本、ひふは、まるで黒ビロウドのようです。
 オヤ、おかしいぞ。手が二本、足が二本、黒ビロウドのシャツとズボン、クツした、手ぶくろ。小林君は思わず、アッと声をたてました。
 すると、怪物のほうでも、その声におどろいて、ピッタリはうのをやめ、グーッとかまくびをもたげるようにして、小林君のほうを見あげました。
 それは、魔法博士の顔でした。ニヤリと笑った、あのぶきみな魔法博士の顔でした。

石の獅子しし


 小林君は、あまりのことに、声をたてることも、身うごきすることもできません。魔法の力ですいつけられたように、ジッと黒い怪物を見ていました。
 すると、黒いヒョウのような動物は、まもなく、レンガのかべを下までおりて、そのままよつんばいになって、そこの木のしげみの中へ、かけこんでしまいました。その向こうは、やぶれたレンガ塀をへだてて、すぐ八幡神社の森につづいています。黒い人間獣は、夕やみのジャングルの中へ、姿をかくしてしまったのです。
 小林君は、おそろしい夢でも見たのではないかと、自分の目をうたがうほどでしたが、しかし、けっして夢ではありません。あの黒い怪物は、たしかに魔法博士の顔を持っていたのです。
 小林君が見たのは、黒い怪物だけです。では、勇一少年はどうしたのでしょう。勇一君まで、魔法の力で四つ足の動物になって、博士よりもさきに、森の中へかくれてしまったとでもいうのでしょうか。
 なんにしても、早くこのことを、みんなに知らせなければなりません。
 小林少年は、塔の階段を飛ぶようにかけおりて、下に待っていた見物の人たちに、ことのしだいをつげました。
 知らせを聞いた人々は、あまりのふしぎさに、ボンヤリしてしまって、しばらくは、おたがいに顔を見合わせるばかりでしたが、やがて、正気にかえると、にわかに大さわぎをはじめました。
 とにかくさがさなければならない。勇一少年と魔法博士の行くえをつきとめなければならない。二十何人の子どもとおとなが手わけをして、洋館の中と八幡神社の森の中を、オズオズさがしはじめました。
 一方、小林少年は、勇一君のおうちにかけつけ、青くなったおとうさんといっしょに現場に帰り、捜索隊にくわわりました。また、ひとりの少年のおとうさんは、近くの交番に、このことを知らせましたので、まもなく本署から数名の警官がかけつけます。それらの人たちがいっしょになって、洋館のうち外を、のこるところなくさがしたのですが、勇一少年と魔法博士の姿は、どこにも発見することができませんでした。
 八幡神社のうすぐらい森の中、立ちならぶ木の枝の上、くさむらの中など、くまなくしらべましたが、黒い怪物の影もなく、また神社をかこむ町の人たちに聞きまわっても、あやしいものを見た人は、ひとりもいないのです。
 そのうちに、ますます、あたりが暗くなってきましたので、ひとまず、捜索をうちきることにし、警官たちも、ふたりの見はりばんをのこして、本署に帰りましたが、ただちにこの事件は、警視庁に報告せられ、東京中の警察署が、魔法博士と勇一少年をさがすことになったのは、言うまでもありません。
 そうしてみんながひきあげてしまっても、小林少年だけは、ただひとり、八幡神社の森の中にのこって、大きな木の幹にもたれ、ボンヤリと考えごとをしていました。
「ふしぎだなあ。あんな黒いヒョウみたいな姿で、森の外へ逃げだしたら、町には、だれか人が通っているんだから、たちまち見つかって、大さわぎになるはずだ。うまく逃げだせるはずがない。もしかしたら、あいつは、例の魔法を使って、だれにもわからないように、この森の中に、かくれているんじゃないかしら。」
 そう考えると、なんだかゾーッと背中が寒くなってきました。森の中はもうまっ暗です。向こうの社殿しゃでんがボンヤリと見わけられるばかりで、そのほかは、一面に黒いまくを、ひきまわしたようです。
 ところが、ふと気がつくと、そのやみの中で、なにかモヤモヤと動いたものがあります。ギョッとして、小林君は、木の幹に、からだをかくし、動いたもののほうを見つめました。
「なあんだ、気のせいだったのか。」
 それは社殿の前の左右にすえてある大きな石のコマイヌでした。その右のほうのコマイヌが小林君の五メートルほど向こうに立っていて、それが身うごきをしたように感じたのです。
 三だんに組んだ石の台の上に、ちょうど人間がうずくまったほどの、大きな石のコマイヌがいるのです。コマイヌといっても、イヌの形ではなくて、むかしの絵にある獅子のような姿をしています。たてがみが、クルクルうずをまき、大きな顔、ふとい足、ふさふさした尾、どこの動物園にもいないような、ふしぎな怪獣です。
 しかし、それは石をほってこしらえたものですから、動くはずはありません。さっきから、みんながその前を行ったり来たりしていたのですが、だれも石のコマイヌなんかに注意するものはなかったのです。
 小林君は、へんな気持ちで、やみの中にぼんやりと浮きだしている、そのコマイヌをながめていました。「あの石のイヌが動きだしたらどうだろう。いまにきっと動くぞ。」昼間から、ふしぎなことばかり見せられたので、ついそんなことを考えるようになっていたのです。
 すると、小林君の考えが、石のイヌにつたわりでもしたように、そのコマイヌが、モゾモゾと動きはじめたではありませんか。
 小林君は、からだがツーンとしびれたようになって、もう身うごきもできません。これはおそろしい夢でしょうか。いや、夢ではない。昼間のことから考えると、夢がこんなに順序よくつづくものではありません。
 コマイヌ、というよりも石の獅子です。その石の獅子は、いまではもう生きた怪物になって、そろそろと石の台をおりています。みょうなかっこうで、台をおりてしまうと、やみの中を、社殿のほうへ、よつんばいになって歩きはじめました。
 小林君は、もしかしたら、こちらへ、飛びかかってくるのではないかと、ドキドキしていましたが、石の獅子は、木のかげに小林君がいることは知らないらしく、ふりむきもせず、社殿に近づき、階段をはいのぼり、正面のとびらをひらいて、社殿の中へ、姿を消してしまいました。そして、とびらが、何かに引かれるように、スーッとしまったかと思うと、「ウォーッ。」と一声、おさえつけたような、うなり声が、聞こえてきました。
 ああ、あの声です。昼間、魔法博士が舞台から消えたとき、見物たちの耳をうった、あのぶきみな猛獣のうなり声とそっくりです。
 小林君は、もうむがむちゅうで、かけだしました。あとからあの怪物が追っかけてでもくるように、死にものぐるいで逃げました。そして、洋館の入り口に見はりをしている警官のそばにたどりつくと、やっと元気をとりもどして、ことのしだいをつげるのでした。
 警官は、おどろいて近くの交番から、このことを本署に電話で知らせました。そして、しばらくすると、本署からピストルを持った数名の警官が、かけつけて来ました。
 もうすっかり夜になっていましたから、警官たちは、手に手に懐中電灯をふりかざし、八幡神社の社務所の人を呼びだして、それを案内役にして、一かたまりになって、社殿に近づきました。
 警官たちは、みなピストルをサックから出して、手に持ち、いざといえば、うてるように、かまえながら、サッと社殿のとびらをひらきました。とびらの中に集中する懐中電灯の光。
「オッ、そこにいるゾ。」かさなりあうまるい光の中に、大きな石の獅子が、チョコンとすわっています。警官たちを見ても、逃げるでもなく、飛びかかってくるでもなく、まるで石のように身うごきもしないのです。しばらく、異様なにらみあいが、つづきました。
「おい、へんだぜ。こいつは、ほんとうの石のコマイヌじゃないか。」
 ひとりの警官が、およびごしになって、グッと手をのばして、ピストルの先で、怪物の肩のへんを、つっつきました。すると、コツコツと石をたたくような音がしたではありませんか。たしかに石でできているのです。
 それにいきおいをえて、みんながコマイヌのそばに近より、懐中電灯でてらしつけながら、その全身にさわってみました。ひとりの警官が、コマイヌの頭に手をあてて、グッとおすと、からだぜんたいがかたむき、手をはなすと、ゴトンと音をたてて、もとの位置にもどりました。
「ハハハ……、なあんだ、やっぱり石のコマイヌじゃないか。おい、きみ、きみは、こいつが動いたと言うのかい。」
 小林少年は、夢に夢みるここちでした。
「さっきは、たしかに生きていたのです。あすこの石の台の上からおりて、ここまで、はって来たのです。」
「フーン、この石がねえ。」
 警官はピストルでコマイヌの頭をコツコツやりながら、また笑いだすのでした。
「しかし、昼間は、こいつ、たしかにあの台座の上にいた。それは大ぜいが見て、知っている。ところが、見たまえ、あの石の台座の上はからっぽだ。」
 べつの警官が、台座のほうを懐中電灯でてらしながら、ふしぎそうに言いました。
「まさか、きみが、コマイヌをここへ持って来たわけじゃなかろうね。」
「ぼくには、こんな重いもの、とても持てませんよ。」
「そうだろうね。すると、いったい、これはどういうことになるんだ。」
 警官たちが、首をかしげているあいだに、小林少年は、ふと、社殿の一方の柱に、異様な傷があることに、気づきました。ひとりの警官の懐中電灯が、ちょうどそこを、てらしていたからです。
「あれは、なんでしょう?」
 小林君の声に、みながそのほうを見ました。おそろしい傷あとです。十五センチ四方ほど、柱の皮がめくれ、白い木はだがあらわれて、それがひどいササクレになっています。
「へんな傷だね。大きな動物が、きばでかみついたというような傷だね。それに、傷のまっ白なところを見ると、ごく新しい傷だ。」
 警官たちも小林少年も知らなかったけれども、読者はごぞんじでしょう。勇一君のおうちの庭で、白ウサギが消えたとき、マツの木の幹にのこっていた、あのおそろしい傷あと、あれとそっくり、そのままなのです。
 それは知らなくても、一方には、いつのまにか社殿にしのびこんだ石の獅子、一方には、見るもおそろしい柱の傷あと、この二つの怪異かいいのくみあわせの、ぶきみさに、人々はゾーッとおびえた目を見かわして、ただ立ちすくむばかりでした。

虎の影


 それから数日は、何事もなくすぎさりました。あの夜は、いくらさがしても、石のコマイヌのほかには、あやしいものも見あたらず、警官たちは、なんのえものもなく、ひきあげたのです。その後、東京中の警察が、魔法博士と勇一少年をさがしているのに、ふたりの姿はどこにも、あらわれず、むなしく日がたっていくばかりでした。
 そして、あのおそろしい日から、ちょうど六日目の午後、四人づれの少年が、勇一君のおうちをたずねました。
 小林少年と、読者にはまだおなじみのない三人の中学生です。そのうち、一ばん背の高いのは花田はなだ君といって、中学の二年生、あとのふたりはおなじ中学の一年生で、石川いしかわ君と田村たむら君です。
 この花田、石川、田村の三少年は、小学生のころから、少年探偵団にはいって、いまでは小林団長の参謀さんぼうというような、重い役目をつとめています。三人の中学校は、明智探偵事務所とおなじ千代田区にありました。
 魔法博士の事件が大きく新聞にのり、小林団長のしんせきの勇一少年が、行くえ不明になったと知ると、三少年は、さそいあって、小林君をたずね、勇一少年捜索のために、少年探偵団も、できるだけのことをしたいと、申しでたのです。
 そこで、きょうは、四人づれで、勇一君のおうちへ、その後のようすをたずねるために、わざわざ出かけてきたのでした。
 さいわい、勇一君のおとうさんは、うちにおられ、よろこんで、四人の少年を、座敷にお通しになりました。
 あいさつと、ひきあわせがすみますと、小林君は、さっそく事件のことを、話しはじめました。
「おじさん、その後、何かかわったことはありませんか。」
 すると、勇一君のおとうさんは、待ちかねていたように、おっしゃるのでした。
「イヤ、みょうな手紙が来たんだよ。どうも勇一は無事でいるらしい。」
「ヘエ、みょうな手紙ですって。だれから来たんです。」
「勇一からだよ。ここにあるから、きみたちも見てください。」
 おとうさんは、そう言って、ふところから、四角な封筒をとり出して、小林君におわたしになりました。
 いそいで、封筒の中をしらべますと、白いびんせんにペンで書いた手紙と、一枚の写真が出てきました。台紙のないキャビネの写真です。
「おや、これ勇一君の写真ですね。みょうな服を着て、すましているじゃありませんか。」
「そうだよ。いま、どこかで、そんなふうをして、くらしているらしい。手紙のほうを読んでごらん。」
 そこで、手紙をひらいて、読んでみますと、そこには、つぎのような、ふしぎなことが書いてありました。

おとうさん、おかあさん、ぼくは無事でいますから、ご安心ください。でも、しばらく、おうちへ帰ることはできません。また、いまいる場所は書くこともできないのです。
ぼくの写真を入れておきます。これは、きのうとったものです。ぼくはいま、こんなりっぱな服を着て、美しい部屋にいます。そして、毎日、びっくりするような、おいしいごちそうを、たべています。
いつおうちへ帰れるか、わからないのが、ざんねんですが、そのほかのことでは、ぼくはたいへんしあわせです。どうかご安心ください。
勇一より。

「たしかに勇一君の字ですね。へんだなあ、いったい、どこにいるんでしょうね。」
「封筒の消し印は新橋しんばしになっているが、そんなものはあてにならない。つまり、どっかへ、とじこめられているんだね。まあ、おいしいごちそうをたべているというから、心配はしないが、それにしても、だれが、なんのために、勇一をとじこめているのか、すこしもわけがわからない。」
「魔法博士のしわざでしょうね。」
「わたしも、そう思う。しかし、魔法博士がいったい、なんのために勇一をとじこめるのかね。わたしがお金持ちなら、身のしろ金をゆするためとも考えられるが、わたしは、ごらんのとおりの貧乏人だからね。ゆすられるようなものは、何も持っていない。そこが、じつにふしぎなんだよ。」
「警察へとどけないんですか。」
「ウン、これからこの手紙を見せに行こうと思っていたところだ。しかし、警察でも、これだけでは、何もわからないだろうね。」
「明智先生がご病気でなければ、きっとうまい知恵があるんだがなあ。先生は熱が高くて、勇一君の事件も、まだお話しすることができないでいるんですよ。しかしねえ、おじさん、ぼくたちの少年探偵団は、何かをさがすことが、なかなかうまいんですよ。まえにも、いくどもてがらをたてたことがあるんです。ぼくたち、やってみますよ。ねえ、花田君。」
「ええ、ぼくたちも、小林団長を助けて、はたらきますよ。石川君だって、田村君だって、からだは小さいけれど、みんなすばしっこいんだからなあ。」
 花田少年も、いきごんで言うのでした。
 それから、お菓子とコーヒーをごちそうになって、四人の少年は、いとまをつげましたが、表のこうし戸をあけて、外に出ると、すぐ目の前を、ひとりのきたない服を着た男が、まるで逃げるように、スタスタと向こうへ歩いて行くのに、気づきました。
「あいつ、こうし戸のところで、うちのようすを、うかがっていたんだよ。きっと、そうだよ。あやしいやつだなあ。」
 花田君が、声をひくくして言いました。
「つけてみようか。」
 田村君が目を光らせて言います。
「うん、きみと石川君とで、尾行びこうしてごらん。ぼくたちも、あとからついて行くから。」
 小林団長の命令です。
 田村、石川の二少年は、道の両がわにわかれて、家ののきづたいに、まるでリスのように、チョコチョコと走りながら、男のあとを、尾行しました。
 男はいそぎ足で、右におれ、左にまがり、だんだん、にぎやかな町のほうへとすすんで行きます。
 そうして十五分もたったころ、あとから歩いていた小林君と、花田君の前に、石川、田村の二少年が、スゴスゴとひきかえして来ました。
「だめ、だめ、うまくまかれてしまった。あいつ、気がついたんだよ。ヒョイとうしろを向いて、ぼくたちを見ると、いきなり走りだして、人ごみの中へかくれてしまった。いくらさがしても、見つからないんだよ。」
 尾行は失敗におわりました。しかし、逃げるところをみると、その男はあやしいやつにきまっています。勇一君の事件と関係のあるやつかもしれません。
「顔を見おぼえたかい。」
 小林君がたずねますと、ふたりはこまったような顔をして、
「それが、だめなんだよ。やぶれソフトの前を目の下までさげて、服のえりを立てて、まるで顔をかくしているんだ。服装をかえたら、とても、わかりっこないよ。」
「よし、それじゃあ、きょうは、みんなうちへ帰ろう。そして、こん晩は、勇一君をさがしだす方法を考えるんだ。そして、なにかいい知恵を出して、あす学校がひけたら、ぼくのところへ、来てくれたまえ。そのとき、よくそうだんしよう。」
 小林団長はそう言って、先に立って、国鉄の駅のほうへ歩きだすのでした。
 さて、その晩のことです。花田少年のおうちに、大ちんじがおこりました。まったく、えたいのしれない、ふるえあがるような出来事でした。
 花田君のおうちは港区の焼けのこった屋敷町の中にありました。いけがきにかこまれた、広い庭のあるおうちです。
 花田君は、晩ごはんのあとで、学校の勉強をすませると、勇一君の事件を、いろいろ考えこみましたが、これという知恵も浮かばぬうちに、夜がふけて、十時になってしまいました。花田君は、いつものとおり、自分の勉強部屋に、ふとんをしいて、とこにはいり、それから三十分ほどは、やはり考えごとをつづけていましたが、いつか、昼間のつかれが出て、グッスリねむってしまいました。
 その真夜中です。花田君は、みょうな物音に、ふと目をさましました。窓です。窓のガラス戸を、何者かが、外からコツコツたたいているのです。
 花田君の勉強部屋は四畳半で、一方は廊下、一方は裏庭に向かった窓になっていて、二枚の障子しょうじがはまり、障子の外にガラス戸がしまっています。そのガラス戸を、だれかが、しきりにたたいているらしいので、
「だれ? そこにいるのは、だれ?」と呼んでみましたが、答えはなくて、やっぱり、コツコツ、コツコツとたたいています。なんだか、きみが悪くなってきましたが、花田君は、勇気のある少年でしたから、ふとんを出て、窓のそばにより、もう一度、「だれ?」と、声をかけ、それでも返事がないので、いきなり、障子をサッとひらきました。そして、ひらいたかと思うと、「アッ。」と、声をのんだまま、身うごきもできなくなってしまいました。ガラス戸の外に、化けものがいたからです。
 ガラス戸の三十センチばかり向こうに、大きな顔がありました。背の高さは人間ほどですが、その顔は人間の三倍もあり、ランランとかがやく目、さか立つ黄色い毛、耳までさけた口、まっかな舌、するどい二本の牙。
 おりから、満月に近い月が、中天にかかり、庭一面が銀色に光っていましたが、その月の光が、化けものの半面をてらしているので、こまかいところまで、まざまざと見えるのです。
 はじめのうちは、何がなんだか、見わけられませんでしたが、心がおちつくにつれて、それが一ぴきの巨大な虎であることが、わかってきました。
 その大虎おおとらはあと足で立ち、前足をガラス戸のさんにかけて、いまにもガラスをぶちやぶろうとするけはいを見せています。
 牙のあいだから、まっかな舌を出して、ハッハッと息をする音が聞こえ、そのたびに、首から肩にかけて、黄と黒との毛なみが、波のように脈うつのです。
 花田君は、からだがしびれてしまって、身うごきはおろか、声をたてることもできません。ただ、ランランと光る虎の目を、まるで釘づけになったように、ジーッと見つめているばかりです。

深夜の怪事件


 一メートルほどの近さで、おそろしい虎と花田少年とは、まるで、にらめっこでもしているように、ながいあいだ、ジッと目を見あわせていました。
 すると、じつにへんなことがおこったのです。
 花田君は、あとになって思いだしてみても、どうしてあんな気持ちになったのか、すこしもわかりません。まるで、漫画映画のスクリーンの中へ、自分のからだがスーッと、はいって行って、自分も漫画の中の人になったような気持ちでした。
 窓の外の虎が、口をきいたわけではないのですが、口をきいているのとおなじように、虎の考えていることが、花田君の心に、はいって来たのです。
「わしは、きみを、これからおもしろいところへ、つれて行ってやる。さあ、この窓をあけて、出て来たまえ。」
 虎がそう言っているように、ハッキリ感じられたのです。花田君は、それでも、窓のガラス戸をひらこうなどとは思わなかったのに、何か、どうすることもできない力が、花田君の手を、ひとりでに動かして、いつのまにか、ガラス戸をひらいていました。
「外出するんだから、服を着かえるがいい。」
 虎がまたそう言ったように、感じられました。あのおそろしかった虎の顔が、にわかにやさしくなったようで、もうすこしもこわくはありません。花田君は、大いそぎで、洋服を着て、帽子をかむりました。そして、フラフラと窓のところへ行くと、外から虎が二本の前足で、花田君を、きかかえるように、むかえてくれました。
「クツはいいんだよ。わしの背中へ、のせてやるからね。」
 虎がそう言ったように思うと、いつのまにか、花田君は、大きな虎の背中に、馬のりになっていました。虎は、かわいい少年を背中にのせたまま、ひらいた裏木戸から外に出て、月光にてらされた、深夜の町を、近くの大通りのほうへと、ノッシノッシと歩いて行きました。
 これは、いったい、どうしたことでしょう。東京の町中へ、虎があらわれるというのも、まるでうそのような話ですが、そのうえ、ひとりの少年がその虎にまたがって、真夜中とはいえ、町の中をノコノコ歩いているなんて、まったく信じられないことです。
 しかし、花田君は、夢を見ていたのではありません。これはじっさいにおこったことなのです。いくら信じがたくても、それは事実だったのです。そのわけは、ずっとあとになって、わかります。
 虎にまたがった花田少年は、まるで、猛獣国を征服した王者のように見えました。しかし、花田君は、そのとき、いばっていたわけではありません。いばるどころか、まるでむがむちゅうでした。猛獣が人間に催眠術をかけることができるとすれば、花田君は、この催眠術にかかっていたのです。花田君の目は、まるで夢遊病者のように、うつろだったのです。
 虎は、やがて、大通りへ出ました。もう二時ごろでしょうか、昼間はにぎやかな大通りも、いまは人影もなく、さばくのように、さびしいのです。向こうの電柱のそばに、一台の自動車が、ヘッド・ライトを消して、黒い怪物のように、とまっています。虎はその自動車のほうへ歩いて行くのです。
 とつぜん、ごく近くから、「キャーッ。」という悲鳴が、しずまりかえった深夜の町に、ひびきわたりました。そして、自動車とはんたいがわの、月光のささない、のき下を、黒い人影が、死にものぐるいに、かけだしているのが見えました。
 この真夜中に、急な用事でもあったのか、そこをひとりの女の人が通っていたのです。そして、少年を乗せた虎の姿を見ると、いきなり悲鳴をあげて、かけだしたのです。
 すぐ向こうに交番があります。女の人はそのほうへ走っています。いまにも、おまわりさんが、ピストルを持って、かけつけるかもしれません。また、悲鳴を聞いた商家などでは、表戸をゴトゴトさせています。いまにも、町の家々から、大ぜいの人が飛びだしてくるかもしれません。
 しかし、虎は、そんなことを、どこふく風と、おちつきはらって、自動車に近づき、前足で、その車体をコツコツとたたきました。
 すると、自動車の戸がひらいて、運転手が出てきましたが、猛虎の姿を見て、アッと腰をぬかすかと思いのほか、すこしもおどろくようすはなく、しずかに座席の戸をひらいて、さあ、どうぞ、お乗りくださいという、かっこうをして見せました。
 夢遊病者のようになった、花田君は、運転手におされて、車の中へはいりました。ところが、おどろいたことに、花田君のあとから大きなずうたいの虎が、ノコノコはいって来て、花田君とならんで、まるで人間のように、クッションに腰をおろしたではありませんか。
 猛獣が自動車に乗るなんて、話に聞いたこともありません。しかし、ほんとうに乗ったのです。すると、車はガクンとひとゆれして、おそろしい速度で走りだしました。おまわりさんも、町の人も、もうとても、追っかけることはできません。
 虎はゆったりクッションにもたれ、花田少年の肩に前足をかけて、その顔をのぞきこむようにしていました。なにか話しかけているようなかたちです。花田君は、それにさからう元気もなく、夢でも見ているような顔で、ジッとしています。すると、虎のもう一つの前足が、花田君の目の前に、グーッとせまって来ました。そして、つめたい綿わたのようなものが、花田君の鼻と口をおさえました。
 息ぐるしいので、それをはねのけようと、もがいているうちに、だんだん気が遠くなっていき、やがて、花田君は、ふしぎなねむりにおちてしまいました。

猛虎ヨーガ


 花田君が、ふと目をひらくと、そこはやっぱり自動車の中でした。あのおそろしい虎は、いつのまにか、いなくなり、そのかわりに、ひとりのおじいさんが、ニコニコ笑っていました。白いひげを胸までたらして、まんまるい顔が、つやつやと赤くて、サンタクロースのようなおじいさんです。そのおじいさんが、背びろの洋服を着て、花田君のとなりに腰かけて、花田君をくようにしていました。
「おお、よくねむっていたね。ああ、ついたよ。きみも見おぼえがあるだろう。あのうちだよ。」
 車の窓からのぞいて見ますと、もう、しらじらと夜があけて、そのほの白い空に、お城のような洋館が、そびえていました。赤レンガの古い建てかた、つたのはったまるい塔、たしかに見おぼえがあります。それは、勇一少年が行くえ不明になった、あの魔法博士の洋館でした。花田君は、小林団長といっしょに、勇一少年のおうちをたずねるまえ、この洋館を、ちゃんと見ておいたのです。
「おじいさんは、だれですか。ぼく、早くうちへ帰らなければ、うちで心配しているから。」
 花田君が言いますと、おじいさんは、それをうち消すように、ニコニコ笑って、
「なあに、心配することはないよ。じき帰してあげる。だが、せっかくここまで来たんだから、あの子にあっていったほうがいいじゃないか。」
「あの子って、だれですか?」
「天野勇一っていう、かわいい子どもさ。」
「えッ、それじゃあ、勇一君が、このうちにいるんですか。」
「そうだよ。さあ、車をおりて。」
 どうも、がてんがいきません。魔法博士のうちは、からっぽのはずです。あれほど、みんなでさがしても、ネコの子一ぴきいなかったのです。そこに勇一君が、帰って来ているなんて、信じられないことです。
 しかし、花田少年は、さがしにさがしていた勇一君が、この洋館にいると聞いては、うちに帰ることもなにも、忘れてしまいました。
 サンタクロースのようなおじいさんに、手をとられて、車をおり、門をくぐり、洋館の中へはいって行きました。
 話に聞いていた、魔法博士の顔のつくりものや、鏡の部屋などは、もう取りかたづけられたのか、まがりまがった廊下には、べつにかわったものはありません。やがて、廊下のつきあたりの、奥まった一つの部屋に、たどりつきました。
「さあ、ここだよ、この部屋に勇一君がいるんだよ。きみ、自分でドアをあけてごらん。」
 花田君は、おじいさんの言うままに、そのドアをソッとひらきましたが、その中を一目見ると、ハッと、息をのんで、たちすくんでしまいました。
 おそろしいものがいたわけではありません。部屋の中が、あまり美しかったからです。
「ホラ、あすこにいるのが、勇一君だよ。早く行って、あうがいい。」
 老人はやっぱりニコニコしながら、花田君を部屋の中にみちびきました。
 それは、まるでお菓子のように、きれいな部屋でした。天井もかべもまっ白、じゅうたんも、まっ白、テーブルやイスや、そのほかのかざりものも、みんなまっ白で、まるでクリスマス・ケーキのおさとうの家の中へでも、はいったようです。
 魔法博士の洋館の中は、化けもの屋敷のように、うすぐらくて、古めかしくて、いんきだと、聞いていたのに、いつのまに、こんなまっ白な、美しい部屋ができたのかと、あっけにとられていますと、正面のイスにかけていた、ひとりの美しい少年が、立ちあがって花田君に、ちょっと、おじぎをして、ニッコリ笑いかけました。
 写真で見た天野勇一君です。服装も写真と同じでした。しゅすのように光った、まっ白な上着、まっ白な半ズボン、まっ白なクツしたとクツ、童話にある西洋の王子さまとそっくりです。
「さあ、さあ、花田君も、勇一君と向かいあって、ここへかけなさい。いま、すてきなごちそうを持って来てあげるからね。」
 サンタクロースのおじいさんは、なにかひとりでホクホクしながら、部屋の外へ出て行きました。花田君は、そのすきにと、ささやき声で、勇一少年に話しかけます。
「きみ、天野勇一君ですね。ぼくは小林さんの少年探偵団の団員で、花田っていうのです。きみを助けに来たんです。」
「ありがとう。でも、とてもだめですよ。」
「きみからおとうさんに送った写真と手紙も見ました。あの手紙、ほんとうに、きみが書いたの?」
「エエ、ぼくが書いたんです。魔法博士の命令で書いたんですよ。だから、ぼくの思うとおり書けなかった。」
「魔法博士って、ここのうちにいるの?」
「いますとも、いまのおじいさんが魔法博士です。あいつは、何にだって化けるんです。だから、ゆだんしちゃだめですよ。」
「やっぱり、そうだったのか。それで、きみは、ひどいめにあわされたの?」
「いいえ、まだそんなことはありません。でも、逃げだそうとしたら、虎にくわせてしまうと言うんです。」
「エッ、虎にくわせる。」
「シッ。」勇一少年は老人がもどって来たと、目で知らせました。
 サンタクロースのおじいさんは、両手に大きな銀のおぼんをさげて、ニコニコしながら、はいって来ました。そして、「そら、ごちそう。」と言いながら、それを大テーブルの上におきました。
 おぼんの上には、西洋のお城のようなたてものの、さとう菓子がのっています。りっぱなクリスマス・ケーキです。しかも、ふしぎなことに、そのさとうのおうちが魔法博士の洋館とソックリ同じ形をしているではありませんか。
「とてもみんなは、たべられないだろうね。まあ、塔の屋根からたべはじめるんだね。さあ、ここにナイフもホークもある。えんりょなくやりなさい。」
 ふたりの少年は、うたがわれてはいけないと考えて、塔の屋根をナイフで切って、たべましたが、このおじいさんが魔法博士かと思うと、ちっともおいしくありません。たべないさきから、おなかがいっぱいなのです。
 しばらく、それをながめていた老人は、大声に笑いだしました。
「ワハハハハハハ、きみたち、子どものくせに、あまいものが、あまりすきでないとみえるね。よし、よし。それじゃあ、またあとで、ゆっくりたべることにして、きみたちに、おもしろいものを見せてあげよう。さあ、こちらへおいで。」
 二少年は、まるでネコの前のネズミのように、老人に何か言われると、いやだと思ってもさからうことができないのです。しかたなく、老人のあとについて部屋を出ました。
 また廊下を、いくつかまがって、一つの広い部屋にはいりました。こんどは、まえの部屋とちがって、ひどくうすぐらいのです。目がなれるまでは、何があるのか、よくわかりませんでしたが、やがて、向こうのすみに、ふとい鉄棒のはまった、大きなおりがおいてあるのが見え、それといっしょに、動物園のけだもののにおいが、プーンと鼻をうちました。
「あの檻の中に何がいるか、こちらへ来てごらん。」
 老人にせきたてられて、二少年は、檻の正面に立ちました。うすぐらい檻の中には、一ぴきの大きな虎が、うずくまっていました。
「これはたいせつなわしの宝ものじゃ。わしのまもり神じゃ。よいかな、わしの言うことをきかぬやつは、この檻の中へぶちこんで、虎のえじきにしてしまうのだよ。わかったかな。」
 老人は二少年をジロリとにらんでおいて、コツコツと檻の鉄棒をたたきました。
「これ、ヨーガ、ヨーガ、お客さまじゃ、起きて、お客さまに、あいさつせぬか。」
 猛虎は、かいぬしのことばを聞くと、ねむりからさめたように、ガバとはね起き、背中の毛をさかだて、まんまるな目で二少年をにらみつけ、まっかな口をひらいて、ゴオオ……と一声ほえました。
 少年たちは、思わず、タジタジとあとじさりしました。なるほど、勇一少年が「とても逃げだすことはできない。」と言ったわけがわかりました。それにしても、花田君を背中にのせたり、自動車にいっしょに乗ったりしたのは、この虎だったのでしょうか。花田君はジッと虎の顔を見ていましたが、どうもよくわかりません。同じ虎だったようにも思われ、そうでないようにも思われるのです。
 サンタクロースのおじいさんは、そんなことを考えている花田少年のうしろへ、ソッとまわっていました。そして、なにか白い綿のようなものを持った手で、花田君の鼻と口をおさえてしまいました。自動車の中と同じことがおこったのです。なんとも言えぬ、いやなにおい。花田君は、息ぐるしさに、もがいているうち、スーッとたましいがぬけるように、目の前がまっ暗になって、そのまま、気をうしなってしまいました。

怪屋かいおくの怪


「オーイ。オーイ。」と遠くのほうから、呼ばれているような気がして、フッと目をひらくと、すぐ目の前に、おまわりさんの大きな姿が、のしかかっていました。
 へんだなと思って、あたりを見まわすと、花田君は、ただひとり、森の中のくさむらに、たおれていることがわかりました。
「オイ、きみ、どうしたんだ。きぶんが悪いのか。」
 おまわりさんが、やさしくたずねてくれます。
「アッ、あれだッ。」
 花田君は、なにかを見つけて、とんきょうな声をたてました。
「エッ、あれって、なんだね?」
「あれです、あのうちです。」
 森の木のあいだから、魔法博士の洋館が見えています。花田君は、それを指さして、きちがいのように、さけびました。
「あすこに、虎がいるんです。それから、天野勇一君が、いるんです。それから魔法博士が、いるんです。」
 それを聞くと、おまわりさんの顔色が、サッとかわりました。一大事です。おまわりさんは、花田君をひきおこして、しんけんな顔で、ことのしだいを、聞きだしました。
 花田少年の、とぎれとぎれの物語で、ゆうべからの出来事がわかると、警官は花田君をつれて、大急ぎで交番にひきかえし、そこから電話で、本署に報告しました。花田君は、本署からふつうの電話で、明智探偵事務所の小林少年にも知らせてもらうようにたのみました。
 それから一時間ほどのち、魔法博士の怪屋は、警視庁からもかけつけた人々をあわせて、十数名の武装警官に、とりかこまれていました。
 その中から、決死隊ともいうべき、五名の警官がえらばれ、手に手にピストルをかまえ、案内役の花田少年をかばうようにかこんで、怪屋の表口からしのびより、そこの大とびらをサッとひらきました。
 うちの中は、まるで墓場のように、しずまりかえっています。
「オーイ、だれかいないか。」
 どなってみても、答えるものはありません。
 ピストルをかまえて、ドアというドアを、かたっぱしから、ひらきながら、廊下をすすんで行きました。しかし、どの部屋も、道具も何もない、空家のような、からっぽの部屋ばかりです。
 花田少年は、大きなからだの警官のかげに、かくれるようにして歩いていましたが、見おぼえのある廊下を、いくつもまがって、とうとう例の白い部屋の前にたどりつきました。
「ここです。この中に、天野勇一君がいたんです。」
 ソッとささやきますと、五人の警官はいきなりドアをひらいて、その部屋にふみこんで行きました。
「なあんだ。だれもいないじゃないか。そして、ちっとも白くないじゃないか。」
 おや、これはどうしたのでしょう。それはたしかに、さっきの部屋なのですが、中はやっぱり、空家のようにからっぽです。あの美しい、まっ白な天井や、かべや、じゅうたんは、いったいどこへ行ったのでしょう。白いテーブルもイスも、何もかも、かき消すように、なくなっていたではありませんか。
「虎の檻はどこにあるんだ。」
 聞かれて、花田君はドギマギしましたが、
「こっちです。」
と言って、先に立ちます。その部屋もよくおぼえていました。ここと指さすと、警官は、こんどは、じゅうぶん用心しながら、ドアをひらきました。
「おやおや、ここもからっぽじゃないか。虎の檻は、いったいどこにあるんだ。きみは、夢でも見たんじゃないのかい。」
 花田君は一言いちごんもありません。たしかに、たしかに、この部屋だったのに、虎の檻なんか、どこにも見あたらないのです。
 もしや、花田君が部屋をまちがえているのではないかと、一階の部屋という部屋を、ぜんぶ見てまわりましたが、白い部屋や虎の檻なんて、影も形もないことがわかりました。
「たしかに、一階だったんだね。二階や地下室ではなかったのだね。」
「たしかに、一階でした。一度も階段をのぼらなかったのですもの。」
 花田君は、もうベソをかいています。ねんのためというので、二階や塔の中まで、くまなくしらべましたが、みんな、からっぽの部屋ばかりです。
 地下室は、炊事場の下に、ひとつだけありました。しかし、そこは、いぜん酒ぐらに使っていたらしく、古い酒だるなどがころがっているばかりで、すこしもあやしいところはありません。ゆかやかべを、たたきまわってみましたが、どこにも秘密の入り口はありません。
 しまいには、外をかこんでいた、十数名の警官が、みんな家の中にはいって、手わけをして、しらべたのですから、万一にも見おとしなどは、ないわけです。
 それでは、花田君が見たのは、みんな夢だったのでしょうか。いや、けっしてそうではありません。一ぴきの大きな虎が、花田君を背中にのせて、深夜の町を歩いているのを見た、女の人があります。その女の人の知らせを受けた交番のおまわりさんが、矢のように走りさる怪自動車を見とどけています。知らぬ女の人が、花田君と同じ夢を見たとは考えられません。花田君は、けっして、夢を見たのではないのです。
 あとで時間をしらべてみると、花田君が、サンタクロースのおじいさんにねむらされてから、おまわりさんに起こされるまでには、一時間ほどしかたっていないことがわかりました。たった一時間や二時間のあいだに、あの虎の檻をどうして、はこびさることができたのでしょう。また、あのまっ白な部屋を、どうしてぬりかえることができたのでしょう。人間わざにはおよびもつかぬ、ふしぎです。
 いったいこれはどうしたわけでしょうか。魔法博士は、またしても、大魔術を使ったのです。
 魔法博士は、わざわざ花田少年を、怪屋の中へつれこんでおいて、そのまま、とりこにもしないで、森の中へほうりだしておいたのは、なぜでしょう。そこになにか、深いこんたんがあるのではないでしょうか。
 ここまで言えば、かしこい読者諸君は「ハハーン。」とお気づきになったかもしれませんね。魔法博士の大魔術の種が、諸君には、もうちゃんとわかってしまったかもしれませんね。

恐怖の歯がた


 このなんとも説明のできない、ふしぎな事件があってから二日目のことです。千代田区の明智探偵事務所の奥まった一室で、ベッドに横になったままの明智探偵と、助手の小林少年とが、何か熱心に話しあっていました。
 明智探偵は、ながいあいだ病気で寝ていましたが、きょうはすこし気分がいいと言うので、ひさしぶりで、小林君をベッドのそばへ呼んだのです。小林君はいままで、先生の病気にさわってはいけないと思って、事件のことは何も言わないのですが、きょうは、先生のほうからたずねられたのと、それに、どうしてもほうっておけないようなおそろしいことが、新しく、おこっていましたので、魔法博士の一件を、すっかり先生にお話しました。
「先生、あいつは、ぼくたちみんなを、ねらっているんです。花田君だけじゃないんです。石川君と田村君と、それから、ぼくをねらっているんです。」
「うん、たぶん、そうだろうね。何かそんなまえぶれでもあったのかい。」
 明智探偵の青ざめた顔には、うす黒くひげがのびています。頭の毛はいつもよりもっとモジャモジャです。でも、目だけは人の心の奥を、つらぬくような光をたたえていました。
「ええ、おそろしいことがあるんです。うちの裏庭の土のやわらかいところに、何か大きなけだものの足あとがついています。ゆうべ、そいつが塀の中へはいって来たしるしです。」
「大きなけだものというと?」
「虎です。ネコの足あとを十倍も大きくしたようなやつが、五つものこっています。キヨはそれを見て、けさからまっさおになって、ふるえあがっているんです。」
 キヨというのは、明智の家の女中の名です。
「塀をのりこえたんだね。」
「そうです。あいつはどんなことだって、できるんです。魔法博士の虎にきまっています。先生、そればかりじゃありません。裏口のドアの横の柱に、おそろしいささくれの傷ができているんです。天野勇一君のうちのマツの木にのこっていたのとソックリです。八幡さまの社殿の柱にのこっていたのとソックリです。虎の歯がたです。」
「魔法博士の虎が、東京の町の中を、ノコノコ歩いて来たというわけだね。それを、だれも気づかなかったというわけだね。」
 明智探偵の口のへんに、ひにくな笑いが浮かびました。
「先生、あいつは、ゆうべ、ここへ来ただけじゃありません。石川君のうちへも、田村君のうちへも、あらわれたのです。ふたりのうちにも、おなじような歯がたと足あとがのこっていたのです。つい、いましがた、ふたりがやって来て、それを知らせて行きました。先生、ぼくたちはどうすればいいのでしょう。」
「警視庁の中村係長は知っているだろうね。」
「電話で知らせておきました。田村君と石川君のうちへは、こんやから見はりをつけると言うことでした。でも、あいては魔法使いですから、見はりぐらいでは安心できません。」
「うん、魔法使いという点では、おどろくべきやつだ。こんなけたはずれな犯罪は、どこの国にも例がないだろうね。」
「先生、ぼくにも、あいつが舞台でやったブラック・マジックまではわかるのです。でも、そのあとのことは、何もかも、まるでわかりません。あの赤レンガの洋館から天野勇一君や、白くぬった広間や、サンタクロースのおじいさんや、それから、虎のはいった檻までも、たった一時間のあいだに、かき消すように、見えなくなってしまったなんて、まるで夢のような話です。先生、奇術の力で、こんなことができるのでしょうか。」
「それは、できないことはない。しかし、奇術には種がある。よくそんな種が、手にはいったものだと、ぼくはつくづく感心しているんだよ。」
「えッ、それじゃあ先生には、おわかりなんですか。勇一君なんかの消えた訳が、おわかりなんですか。」
「おおかた、想像がついているよ。いまにきみにもわかる。きっとわかる時がくる。それからね、きみは、まだすこしも気づいていないようだが、もっと大切なことがあるんだよ。」
 明智探偵はニッコリ笑って「もっとこちらへ。」というあいずをしました。小林君が、その意味をさっして、リンゴのようなほおを、ベッドの上の先生の顔のそばへもって行きますと、明智は、その耳たぶに口をよせて、何かささやきました。
 それを聞くと、小林君の目がびっくりするほど大きく見ひらかれ、サッと顔の色がかわりました。
「えッ、先生、それは、ほんとうですか。」
「うん、ぼくには、だいたいけんとうがついているんだ。しかし、これはいましばらく、だれにも言っちゃいけないよ。警察にも、少年探偵団のみんなにも、知らせてはいけない。ぼくと、きみとふたりだけの秘密にしておこう。」
 先生と弟子とは、そのまま、ジッと顔を見あわせていました。目と目とが、何かしきりに語りあい、やがて明智の口のへんに、ニコニコした笑いのしわがきざまれ、小林少年の頬には、もとのリンゴの色がもどって、それが、いっそうさえざえと、かがやいてくるのでした。

怪老人


 その日の午後、小林君が用たしにでて、探偵事務所の横の、コンクリート塀のところを歩いていますと、紙しばい屋が、おおぜいの子どもをあつめているのに、であいました。
 紙しばい屋は、きたない背広服を着て、破れたソフトをかぶり、太いふちのロイドメガネをかけた、ヨボヨボのじいさんで、頭の毛も、胸までたれて、あごひげも、まっ白です。
 じいさんは、その長いあごひげを、ふるわせながら、しきりと紙しばいの説明をしています。
「ソーラ、これが魔法博士の魔法の虎じゃ。見なさい、ランランたる両眼、つるぎのように、するどい牙、この猛虎が、少年探偵団の小わっぱどもを、一のみにしてくれんと、にらみつけているところじゃ。」
 小林少年は、びっくりして立ちどまりました。なんてすばやい紙しばい屋でしょう。もう魔法博士の事件をしくんで、子どもたちに見せているのです。事件のことは、大きく新聞に出たので、それが早くも紙しばいになっているのは、べつにふしぎではありませんが、それにしても……小林君は「なんだかおかしいぞ。」と思いました。
 聞いていますと、説明とともに絵がかわり魔法博士の事件が、つぎからつぎへと、すすんでいきます。それが、ふしぎなことに、このヨボヨボのじいさんは、新聞に出なかった、こまかいことまで、すっかり知っているような話しかたなのです。
「ほら、これは、少年探偵団の小林団長が、あわてふためいて、逃げだしているところじゃ。ワハハハ……、明智小五郎の助手ともあろうものが、このいくじのないざまは、どうじゃ。」
 小林君は、ハッとして、子どもたちの背中に、顔をかくすようにしました。じいさんに見られてはいけないと思ったからです。
 このじいさんは、ただの紙しばい屋ではありません。たしかにあやしいやつです。魔法博士のてしたかもしれません。「よしッ、こいつを尾行してやろう。」
 小林君は、とっさに、そう心をきめました。
 やがて、紙しばいがおしまいになると、じいさんは、ガクブチの中から、絵の紙をぜんぶ取りはずして、きたないふろしきにつつみ、ポケットから一枚の千円さつを出して、自動車のそばにしゃがんでいた、若い男につかませました。
「やあ、ありがとう。それじゃあ、これがお礼だ。またこんど、やらしてもらうよ。わしはこれが、やまいでね、ときどき紙しばいをやらないと、めしがうまくない。アハハハ……、じゃあ、さようなら。」
 そう言いすてて、じいさんは、ふろしきづつみをこわきにかかえ、ヒョコンヒョコンと、みょうなかっこうで、向こうへ歩いて行きます。いま、千円さつをもらった若い男が、ほんとうの紙しばい屋で、じいさんは、ちょっとそのガクブチをかりて、自分の持って来た絵を、子どもたちに見せたというわけです。いよいよあやしいやつです。小林君は、言うまでもなく、じいさんのあとを尾行しました。
 ああ、あぶない、怪老人は、小林君をさそいだすために、わざと明智探偵事務所のそばで、あんな紙しばいをやっていたのではないでしょうか。尾行なんかすれば、敵の思うつぼに、はまるのではないでしょうか。
 しかし、小林君は、何を考えるひまもありません。ただもう、あいての秘密が知りたくて、うずうずしていたのです。この老人さえつけて行けば、魔法博士の秘密がわかると、わきめもふらず、尾行をつづけるのでした。
 じいさんは、さびしい町へ、さびしい町へと、まがりながら、あとをも見ずに、ヒョコンヒョコンと歩いて行きます。小林君は、あいてに気づかれぬよう、ものかげをつたうようにして、五十歩ほどあとから、どこまでもついて行きました。
 十分ほども歩きつづけると、焼けあとのさびしい広っぱへ出ました。向こうに一台の自動車がとまっています。人通りはまったくありません。そのとき、じいさんの足が、きゅうにのろくなりました。みるみるふたりのあいだが、せばまっていきます。オヤッ、へんだな、と思わず立ちどまると、じいさんは待ちかまえていたように、ヒョイとこちらをふりむきました。
「ウフフフ……、小林君、なにもそんなに、はなれて歩くことはないじゃないか。さあ、こっちへおいで、いっしょに行こうよ。おまえは、このじいさんの行く先が知りたいんだろう。」
 小林君が、ギョッとして、立ちすくんでいますと、じいさんは、右手を高くあげて、何かあいずをしました。すると、向こうにとまっていた自動車が、動きだして、アッと思うまに、小林君のそばに近づき、その運転台から、ふたりの男が飛びだして来ました。
 もうどうすることもできません。小林君はふたりの男に、右左から手をとられて、うむを言わせず、自動車の中に、おしこめられてしまいました。そして、手足をしばられ、さるぐつわをはめられ、手ぬぐいのようなもので、目かくしまでされてしまったのです。
 小林君は、されるがままになって、ジッと自動車のクッションにもたれていました。こわいと言うよりも、なんだかうれしいような気持ちです。目かくしをされたからには、魔法博士のすみかへ、つれて行かれるのでしょう。そうすれば、天野勇一君にあえるかもしれません。うまくやれば、勇一君を助けだすことができるかもしれません。魔法博士の秘密をあばいて、警察の手びきをすることができるかもしれません。それを思うと、小林君は、こわがるどころか、ワクワクするような、たのしさを感じるのでした。
 じいさんも、小林君の横に腰をおろしたけはいがしました。運転台の男たちと、ふた言三言、暗号のようなことが、とりかわされたかと思うと、自動車は全速力で走りだしました。

おそろしきなぞ


「さあ、お待ちどうさま、ついたよ。」
 すぐ車のそばで、じいさんの声がして、さるぐつわと目かくしが、取りさられました。ふたりの男に両手を取られて、自動車を出ますと、目の前に例の魔法博士の赤レンガのうちがそびえていました。やっぱりここだったのか。それにしてもこのあいだ、警官たちが、あれほどさがしても、ネコの子一ぴきいない空家だったのに、いつのまにか、魔法博士は、またここへ帰っていたのでしょうか。
 ふたりの男と老人にとりかこまれながら、玄関をはいって、うすぐらい廊下を、いくつかまがると、一段ひくくなったところに、がんじょうな板戸があり、怪老人は、それをひらいて、小林君を中に入れました。
 まるで、牢屋のような、きみの悪い部屋です。四メートル四方ほどの広さで、鉄棒のはまった小さな窓が一つあるばかり、ゆかは板もはってない、タタキのままです。四方のかべは、赤レンガのむきだしで、かざりも何もない、穴ぐらのようなところでした。
「まあ、そこにかけるがいい。いまたべものを持たしてよこすからね。それをたべたら、ゆっくりやすむがいい、万事はあすの朝のことだ。きみにいろいろ見せたいものがあるんだよ。」
 じいさんは、それだけ言うと、そそくさと部屋を出て行ってしまいました。
 一方のすみに、そまつな木のベッドがあり、毛布がしいてあります。そのほかにはイスもテーブルも何もないのです。小林君はしかたがないので、そのベッドに腰かけて待っていますと、ひとりの男が、おぼんにパンとミルクをのせて、持って来ました。そして、それをベッドのはしにおくと、何も言わないで、出て行きました。
 小林君は夜になったら、コッソリ建物の中をしらべてやろうと考え、それには、おなかをこしらえておかなければと、おちついて食事をはじめました。もう夕方です。高いところにある、鉄棒のはまった窓から、赤い色の夕日がさしこんで、赤レンガのかべを、てらしています。このいんきな部屋に、日がさすのは、夕方ちょっとのあいだだけなのでしょう。
 しばらくすると、天井に小さな電灯がつき、部屋の中をボンヤリとてらしました。それから、二時間ほど、じつにたいくつな時がたっていきました。この部屋へは、だれもやって来ません。廊下からも、遠くの部屋からも、なんの物音も、話し声も、聞こえて来ません。まるで墓場のようなしずかさです。
 入り口のドアにかぎをかけて行ったようすもなく、出ようと思えば出られるのです。みんなの寝しずまるまで、待つつもりでいたのですが、それほど用心することも、なさそうです。小林君はドアのそばへ行って、しばらく耳をすましたうえ、ソッととってをまわしてみました。
 かぎはかかっていません。ソッとおすと、おもい板戸は音もなくひらきました……。アッ、いけない。だれかいる……。十センチほどひらいた戸のすき間から、のぞいて見ると、まっ暗な廊下の、すぐ目の前に、なんだかへんなものが、うずくまっているではありませんか。
 大きな目です。人間の五倍ほどもある大きな二つの目が、やみの中に青く光っていました。虎です。一ぴきの猛虎が、まるで番兵のように、戸の外にすわっていたのです。
 小林君はハッとして、いそいで戸をしめましたが、こわいもの見たさに、またソッと、ごくほそく戸をひらいて、のぞいて見ますと、虎はノッソリと立ちあがって、こちらをにらみつけながら、廊下を歩きはじめました。どこかへ立ちさったのかと思うと、そうではなくて、またもどって来ます。そして、小林君の部屋の前を、行ったり来たりして、いつまでも見はりをつづけているのです。
 小林君は、ピッタリ戸をしめ、とってをまわして、外からひらかぬようにし、ベッドにもどって、考えこんでしまいました。あの虎は、一晩中、廊下をうろついているかもしれません。そうすると、夜中に、建物の中をしらべることなんか、とてもできないわけです。そんなことよりも、もしあの虎が、ドアをおしやぶって、ここへはいって来たら……、それを思うと、もう気が気ではありません。小林君はベッドの上に小さくなって耳をすまし、おびえた目でドアを見つめていました。
 しばらくは、何事もおこりませんでしたが、やがて、廊下にかすかな物音がしたかと思うと、ドアのとってが、ソーッとまわっているのに、気がつきました。
 小林君はハッとして、いきなりベッドから飛びおりると、敵をむかえる身がまえをしました。あの虎がとってをまわしているのでしょうか。番兵をつとめるほどの虎ですから、人間のようにとってをまわす芸当だって、できないとは言えません。
 いよいよ、虎にくい殺されるのかと思うと、さすがの小林少年も、顔は青ざめ、心臓は、おどるように、脈うち、全身に冷やあせが流れてきました。
 とってがまわりきると、ドアがすこしずつ、ひらきはじめました。黒いすきまが、みるみる大きくなっていきます。
 いまにも、あの猛虎が飛びこんでくるのかと、死のものぐるいのかくごをしていると、そこへヒョイと顔を出したのは、虎ではなくて、例のあやしい白ひげのじいさんでした。
 老人は、うしろ手に、戸をしめて、ベッドのほうへ近づいて来ました。一方の手に銀色のぼんを持っています。
「やあ、たいくつかね。オレンジエードのあついのを持って来たよ。こいつを一ぱいグッとやって、それから、ゆっくり寝るがいい。あすはきみを、びっくりさせることがあるんだからね。」
 小林君は、いまのおそろしさで、のどがかわいていたものですから、なんの考えもなく、そのあついコップを受けとると、ゴクゴクと、一息にのみほしてしまいました。
「よし、よし、それできみは、こん夜よくねむれるだろう。さあ、ベッドにはいりなさい。」
「おじいさん、この部屋のドアは、かぎがかからないのですか。」
 小林君がたずねますと、じいさんはゲラゲラ笑いだして、
「虎がこわいんだね。少年名探偵ともあろうものが、虎なんぞにおびえて、どうするんだ。なあに、ちっともこわがることはないよ。あれは番人さ。番人の分を、ちゃんとまもって、それいじょうのことは、何もしやしないよ。きみが逃げだしさえしなければ、めったに、くいつくようなことはないよ。さあ、寝たまえ、寝たまえ。」
 じいさんがしきりにすすめるので、小林君はベッドの中にはいりました。すると、なぜかきゅうにねむくなってきました。じいさんがまだブツブツ言っているのを、もりうたのように聞きながら、小林君はいつのまにか、グッスリ寝いってしまいました。
 それから、どれほど時間がたったのか、小林君が深いねむりからさめて、ふと目をひらくと、部屋の中には、あかあかと日がさしこんでいました。
 赤レンガのかべ、木のベッド、タタキのゆか、がんじょうな板のドア、それを見まわしているうちに、きのうのことが、すっかり思いだされてきました。「ああ、ぼくは魔法博士のとりこになっていたんだな。それにしても、いまは何時だろう。」腕時計を見ますと、六時すこしまえです。
 小林君は、ベッドにあおむきになったまま、高い窓からさしこむ日の光を見ていました。
「きのうの夕方、この部屋にいれられたときも、ちょうどこんなふうに夕日がさしていた……。」
 そこまで考えたとき、小林君は、びっくりして、もう一度時計を見ました。
「へんだな。するといまは夕方の六時かしら。ぼくは二十時間いじょうも、寝てしまったのだろうか。」
 どうもいまは朝のように思われるのです。しかし、たしかに窓からは日がさしています。きのう夕日のさした同じ窓から、きょうは朝日がさすはずがありません。では、やっぱり、いまは夕方なのでしょうか。
 小林君はしばらく考えていましたが、ふとあることに気づいて、いよいよ、わけがわからなくなってしまいました。
「夕日ならば、かべにさしている日の光がだんだん上のほうへのぼって行くはずだ。ところが、さっきから見ていると、いまかべをてらしている光は、すこしずつ下のほうへさがっている。太陽が高くなるにしたがって、そのかげはさがるのだ。だから、この光は、どう考えても朝日にちがいない。」
 小林君はなんだか、むずかしい数学の問題にぶっつかったような気がしました。きのう夕日のさした窓から、きょうは朝日がさしている。なんというふしぎな問題でしょう。どんなに知恵をしぼっても、とけないなぞです。
 そういうことができるためには、この洋館ぜんたいが、しばいのまわり舞台のように、ひと晩のうちに、クルッと一回転したとでも考えるほかないではありませんか。
 考えこんでいるうちに、日ののぼるのは早く、かべにさしていた光が、いつのまにか、タタキのゆかにおち、それがだんだん部屋のまん中へ近づいて来ます。もうすこしのうたがいもありません。窓からさしているのは朝日です。いまはたしかに朝なのです。
 そのとき、ジッと考えにしずんでいた小林君の顔に、じつになんともいえない、ゾッとするような、おどろきの表情が浮かびました。
「ウーム、そうかもしれない。なんというおそろしい考えだろう。」
 小林君は、うなるように、つぶやきました。
「明智先生のおっしゃった魔法の種というのはこれなんだな。うーむ、おどろいたなあ。あいつは人間じゃない。しんからの魔法使いだ。地獄からやって来た魔物だ。魔物でなけりゃあ、こんなことが考えられるものじゃない。」
 小林君は、いったい何事に気づいたのでしょう。まったくきもをつぶしたという顔つきです。
 ふと気がつくと、またドアのとってがまわっていました。それがクルッと一まわりして、ドアがスーッとあきました。そして、そこから、ゆうべの白ひげの怪老人がニコニコした顔をのぞかせていました。

人どろぼう


「どうじゃ、よく寝むれたかね。」
 怪老人は、小林君のベッドに近づきながら、話しかけました。小林君は、それに答えようともせず、おそろしくぶあいそうな顔で、老人をにらみつけています。
「ウフフフ、こわい顔をしているね。小林君、そんなにわしをにらみつけたって、どうなるものでもない。さあ、きげんをなおしなさい。きみは、天野勇一君にあいたくないのかね。ウフフフフ、そら見なさい。あいたいのだろう。では、こちらへおいで、勇一君にあわせてあげるよ。」
 小林君は、だまったまま、立ちあがって、じいさんのあとから、ついて行きました。ゆうべ廊下に番をしていた虎は、どこへ行ったのか、姿が見えません。
 廊下をいくつかまがって、大きなドアをひらくと、目の前がパッと明かるくなりました。まっ白な美しい部屋です。まるでクリスマス・ケーキのように美しい部屋です。見ると、そこの白いテーブルに、白いりっぱな服を着た子どもが、まるで西洋の王子さまみたいなかっこうで、腰かけていました。
「ほら、あれが勇一君じゃ。ゆっくりあうがいい。」
「あッ、芳雄さん。」
 勇一少年はびっくりしたように、立ちあがって、小林君の名を呼びました。小林君も思わず「勇一君。」と声をかけながら、そのほうへ、走りよるのでした。
「まあ、立っていないで、ふたりとも、そこへかけなさい。いまおいしいごちそうが出るからね。」
 怪老人はそう言ったまま、部屋を出て行きましたが、それと入れちがいに、りっぱな礼服を着たふたりの若者が、大きなぼんにのせた西洋料理を持ってはいって来ました。そして、おいしそうなごちそうの皿を、テーブルの上にならべると、ていねいにおじぎをして、部屋を出て行きました。
「勇一君、きみは、毎日こんなごちそうをたべているのかい。」
「うん、いつもはこんなにたくさんじゃないけれどね。だからぼく、ちっともくるしいことはないけど、おとうさんやおかあさんが心配しているだろうと思って……。」
「しかし、もうだいじょうぶだよ。ぼくが来たんだからね。きっと、きみを助けだすよ。」
 ふたりが、そんなことを話しあっているところへ、コツコツとクツの音がして、だれかがはいって来ました。ふりむくと、部屋の入り口に立っていたのは、黒いマントを着た、あの魔法博士でした。長くのばした髪の毛は、きみの悪い、黄色と黒の、だんだらぞめ、メガネの中のほそい目、ピンとはねた虎ひげ、まっかな唇。忘れもしない。あの魔法博士が、とうとう姿をあらわしたのです。
「ワハハハハハ、ふたりで、何かいんぼうをめぐらしているね。だめ、だめ、いくらきみたちが知恵をしぼったって、二度とここから出られやしないんだ。それよりも、おとなしく、わしの言うことを聞いて、魔法の国の人民になるんだね。つまり、わしの弟子になるんだね。」
 魔法博士は、そう言いながら、テーブルのそばに来て、イスに腰かけました。
「ぼくたちを、とりこにして、いったい、どうしようというのですか。」
 小林君が、魔法博士をにらみつけて、たずねました。
「きれいな服を着せて、おいしいごちそうをたべさせてあげようというのさ。そのかわり、きみたちはわしのけらいになるんだ。わしは魔法の国の王さまだから、きみたちは、魔法の国の人民というわけだよ。」
「そして、何か悪いことを、手つだわせようというのですか。」
「ウフフフフフ、なかなか手きびしいね。それはいまにわかるよ。ところで、わしのけらいはきみたちふたりだけじゃない。もっとえらいけらいがほしいからね。やがて、おとなもやって来るはずだよ。」
 魔法博士はメガネの中の目をほそくして、きみ悪く、ニヤニヤと笑いました。
「いいかね、勇一君をここへつれて来たのは、小林君を引きよせるためだった。その小林君も、とうとうやって来た。するとこんどは、そのつぎだよ。小林君をえさにして、もっと大きなさかなをつりあげようというわけさ。わかるかね。」
「それは明智先生のことですか。」
 小林君がびっくりして、たずねました。
「アハハハハハハ、あたった。そのとおりだよ。明智小五郎先生を、魔法の国の人民にして、わしのけらいにしようというのさ。小林君をとりこにすれば、明智先生のほうからノコノコやって来るだろうというもくさんだったが、どうもこれは、はずれたらしい。明智先生は、ご病気のようだからね。ご病気とあっては、こちらからお出むかいしなけりゃなるまいね。」
 お出むかいなんて、ていねいなことばを、使っていますが、むろん、明智探偵をゆうかいする、かどわかすという意味なのです。魔法博士のことですから、どんなてだてがあるか、知れたものではありません。
「ワハハハハハハ、どうだね、少年探偵君、世の中には、いろいろな、どろぼうがあるが、わしは人間をぬすみだそうというのだ。つまり、人どろぼうだね。勇一君をぬすみだし、小林君をぬすみだし、それから、天下の名探偵明智小五郎をぬすみだそうというのだ。そして、明智探偵を魔法の国の人民にして、わしのけらいにしてしまうのだ。わしは、それを思うとゆかいでたまらないんだよ。」
 魔法博士は、例の黒マントを、コウモリの羽のように、ヒラヒラさせて、さもおもしろそうに笑うのでした。

ゴムひも


 食事をおわると、小林君は勇一少年とひきはなされ、またもとの、うすぐらい牢屋のような部屋に、とじこめられました。そして、外から、ドアにピチンとかぎをかけられてしまったのです。
 明智探偵をぬすみだすという話を聞いたので、小林君は心配でたまりません。どうかして、このことを明智先生に知らせたいと思うのですが、この部屋を逃げだすことは、とてもできません。ドアにかぎがかかっているばかりでなく、外の廊下には、また、あの虎が、番をしているのです。
「ここを逃げだそうとすれば、たちまち虎にくわれてしまうのだ。いのちがおしかったら、逃げることなんか考えないがいい。」
 小林君をとじこめるとき、魔法博士はこう言いわたしたのです。
 しかし、このまま、ジッとしていて、病気の明智先生に、もしものことがあっては、たいへんです。どうかして、このことを知らせなければなりません。どうしたらいいのでしょう。できないことです。できないことを、やらなければならないのです。
 小林君は、部屋のすみにある、例の木のベッドに腰かけて、腕ぐみをして一心に考えました。
「さあ、知恵をしぼりだすんだ。きみは、人に知られた少年名探偵じゃないか、いまこそ、その名探偵の知恵をしぼる時だ。」
 小林君は自分自身に、そう言い聞かせました。むかし、悪人のすみかにふみこんだときに、カバンの中に伝書バトをしのばせておいて、とじこめられた部屋の窓から、そのハトをはなして、れんらくをとったことがありますが、こんどは、そういう用意を、何もしていなかったのです。
「うん、そうだ。とにかく、ようすを見てみよう。」
 小林君は、なにを考えたのか、そんなひとりごとを言うと、立ちあがって、いきなり、木のベッドに両手をかけ、例の鉄棒のはまった、高い窓の下へ、それをひきずって行きました。
 そして、ベッドの一方のはじを、かべぎわにおしつけ、べつのはじを、だんだん持ちあげていって、とうとう、ベッドをそこに立ててしまいました。つまり、ベッドがはしごのように、かべに立てかけられたわけです。
 小林君は、そのベッドのはしごを、よじのぼって、頂上までたどりつきました。そして、そこに腰かけると、ちょうど顔が窓の高さになるのです。小林君は、窓の鉄棒をにぎって、外をながめました。
 三十メートルほど、向こうに、高いレンガの塀があって、その外には、建物はありません。たぶん、広っぱになっているのでしょう。耳をすますと、その塀の外から、大ぜいの子どもの声が聞こえて来ます。野球でもやっているようすです。
 この窓から、大きな声でさけべば、子どもたちに聞こえるかもしれません。しかし、そんなことをすれば、子どもたちよりさきに、魔法博士に気づかれてしまいます。そして、どんなひどいめにあわされるかわかりません。
 ところが、小林君には、うまい考えがあったのです。
 小林君は、ベッドのはしごをおりると、ポケットから手帳を出して、それをひらき、万年筆で、何かを書きはじめました。
 小林君が、魔法博士の家にとじこめられていること、魔法博士は、明智先生をゆうかいしようとしていること、ここには虎がいるから、用心しないとあぶないことなどを、こまかい字でくわしく書いたのです。そして、そのページを切りとると、四つにたたんで、その外がわに、「これを大いそぎで明智探偵事務所へとどけてください。人のいのちにかかわることです。お礼はたくさんさしあげます。」と書き、事務所の町名番地と、道順をしるしました。
 それから、ズボンのポケットをさぐって、銀色にキラキラ光ったまるい銀貨のようなものを二つ、取りだしました。いまの五円玉の倍ぐらいの大きさです。これはビーデーバッジという、少年探偵団のしるしなのです。
 そのつぎに、小林君は、みょうなことをはじめました。両方のクツしたをぬいだのです。そして、ポケットから小さなナイフを取りだすと、それをひらいて、クツしたの上のはじの糸を切って、そこにぬいこんであるゴムひもをぬき取りました。
 小林君の毛糸のクツしたには、ずりおちないように、ゴムひもがぬいこんでありました。しかも、それは太いじょうぶなゴムひもでした。そのゴムひもを、両方のクツしたからぬき取ったのです。それから、ナイフを使って、クツしたをほぐし、二メートルほどの毛糸をぬき取り、それを同じぐらいの長さに四つに切りました。これですっかり用意ができたのです。
 そこで、小林君は、手紙を書いた手帳の紙を、二枚の銀色のバッジのあいだにはさみ、一本の毛糸でもって、それをはなれぬように、十文字にしばりつけました。それから、二本のゴムひものはじをべつの毛糸で、しっかりむすびあわせ、長い一本のゴムひもにしました。
 手紙をはさんだバッジと、長いゴムひもと、のこった二本の毛糸を持って、小林君はベッドのはしごをのぼり、ゴムひものはじを、毛糸で、窓の鉄棒にしばりつけ、もう一方のはじを、そのとなりの鉄棒に、のこった毛糸でしばりつけました。
 読者諸君、小林少年が何をやろうとしているのか、もうおわかりでしょう。そうです。ゴムひものパチンコを作ったのです。そして、そのパチンコの力で手紙をはさんだバッジを、塀の外へ、飛ばそうと考えたのです。
 手で投げようとしても、ベッドに乗っているのですから、足場が悪くて、とても思うようには投げられません。ゴムひものパチンコならば、手で投げるよりも倍も遠くへとどきます。さすがは少年探偵、とっさのまに、じつにうまいことを考えついたものではありませんか。
 小林君は、そのゴムひもにバッジをはさみ、グーッとてまえに引っぱって、空に向かって、ねらいをさだめ、パッと指をはなしました。すると、ビュンとゴムのちぢむいきおいで、バッジは空に銀色の線を引いて、はるか塀の向こうまで気持ちよく飛んで行きました。
 耳をすましていると、子どもたちの声がパッタリとまったようです。空から銀色のものが、ふって来たので、おどろいているのでしょう。小林君のもくろみは、みごとにたっせられたのです。
 いまごろは、子どものひとりがバッジをひろいあげていることでしょう。そして、糸を切って、手帳の紙を取りだし、そこに書いてある字を読んでいることでしょう。もうだいじょうぶです。小林君は、あんどのため息をついて、ベッドのはしごをおりました。

名探偵の危難


 小林少年が、バッジを飛ばした日の午後三時ごろ、ひとりの少年が、明智探偵事務所をたずねて、奥に通されましたが、しばらくすると、その少年は、さもうれしそうにニコニコしながら、帰って行きました。小林君の手紙をとどけて、たくさんのお礼をもらったにちがいありません。
 さて、その晩八時ごろのことです。探偵事務所の前に、一台の自動車がとまって、中から三人の警官があらわれました。ひとりは警部、あとのふたりは巡査です。
 女中がとりつぎに出ますと、警部は、
「わたしは、警視庁の島田警部ですが、明智先生にこれをわたしてください。」と言って、一枚の名刺をさしだしました。
 病室のベッドに寝ていた明智探偵が、女中の持って来た名刺を見ますと、それはこんいな中村係長の名刺で、「わたしはほかの事件で行けないから、かわりに島田警部をうかがわせます。しさいは島田君からお聞きください。」と書いてありました。
「寝たままで、失礼ですがと言って、ここへお通ししなさい。」
 明智のことばに、女中は玄関にもどって、まもなく三人の警官を案内して来ました。
「はじめてお目にかかります。ご病気のところを、おさわがせして、すみません。わたしは島田ともうすものです。」
 警部は、ていねいにあいさつをして、明智のベッドの前のイスに腰かけました。
 ふたりの巡査も、明智におじぎをしましたが、女中が奥へはいって行くと、なぜかふたりは、そのあとについて、どこかべつの部屋へ、姿を消してしまいました。
「小林君はまだ帰らないそうですね。わたしのほうでも、じゅうぶん手配をしてあるのですが、まだなんの報告もありません。それについて、先生のお考えをうかがいたいのですが。」
 島田警部は、大きなロイドメガネをかけ、みじかい口ひげをはやした、四十歳ぐらいの人物です。ものを言うたびに、メガネの玉がキラキラ光ります。
「世田谷の魔法博士の洋館はしらべてくださったのでしょうね。」
 明智は、ベッドに横たわったまま、力のない声で言いました。
「むろん、しらべました。しかし、だれもいないのです。まったくの空家です。あいつはねじろをかえてしまったのに、ちがいありません。」
「やっぱりそうですか。で、どこへかくれたのか、すこしも手がかりがないのですね。」
「そうです。いまのところ、なんの手がかりもありません。魔法博士というやつは、じつにふしぎな怪物です。」
 警部は、ため息をつかぬばかりに、言うのです。
 読者諸君、この会話は、なんだかへんではありませんか。明智は、小林少年の手紙を受けとっているのに、そのことは何も言いません。では、さっきの少年は、例の手帳の紙を持って来たのではなかったのでしょうか。いや、そんなはずはありません。それには、何かわけがあるのです。きっと深いわけがあるのです。
 そういえば、島田のほうもつまらないことを、いつまでもしゃべっていて、ここへ何をしに来たのだか、わけがわからないほどです。
 そうしているうちに、やがて、さっき奥の間のほうに、姿を消したふたりの警官が、やっと、もどって来ました。そして、島田警部に、何かみょうなあいずのような目くばせをしました。
 すると、警部のようすが、にわかに、かわりました。うつむきかげんにしていた姿が、シャンとして、メガネの中の両眼が、ギロリと光ったように見えました。
「明智先生、ご病気中をおきのどくですが、じつは、おむかえにあがったのです。ひとつ、ごそくろうねがいたいのですが。」
「えッ、ぼくに、どこへ行けというのですか。」
「世田谷の怪屋です。先生にぜひ見ていただきたいものがあるのです。」
「さっき、あなたは、世田谷の洋館は、まったくからっぽだと言ったじゃありませんか。そんなところへ、ぼくが行ってもしかたがないでしょう。」
「いや、どうしてもおつれします。そのために、わたしは、わざわざやって来たのですから。」
「ぼくは行かない。行く必要がない。」
「先生、あなたがなんとおっしゃってもだめですよ。こちらは三人です。あなたはひとりで、そのうえ病人です。かないっこありませんよ。それに、おくさんと女中さんは、さっきふたりの部下が、奥へ行って、声をたてることも、身うごきすることもできないようにしてきたのです。あなたは、まったくのひとりぼっちですよ。」
 それを聞くと、明智はおどろいて、ベッドの上に起きあがりました。
「きみはだれだ。さっきの中村君の名刺は、にせものだな。」
「むろんですよ。あれがないと、きみが通してくれないだろうと思ってね。」
「ウーン、わかった。それじゃ、きさまは魔法博士だな。」
「ウフフフフフ、おさっしのとおり、魔法博士が、ご自身で、明智先生をおむかえに来たのさ。」
「で、ぼくが、いやだと言ったら?」
「こうするのさ!」
 警部に化けた魔法博士は、いきなりベッドの上の明智に、飛びかかって来ました。そして片手で明智ののどをしめつけ、片手はズボンのポケットへ。
 病気あがりの明智は、もうどうすることもできません。しめつけられたのどの苦しさに、ただもがくばかりです。
 魔法博士がポケットから取りだしたのは、大きなハンカチをまるめたようなもの、それで明智の口と鼻をピッタリとおさえつけたのです。
 しばらく、そのままおさえつけていると、もがいていた明智のからだが、死んだようにグッタリしてしまいました。
「ウフフフフフフ、名探偵も、もろいもんだな。さあ、おまえたち、こいつをシーツにくるんで、はこぶんだ。近所のものにさとられないように、手ばやくやるんだぞ。」
 巡査に化けたふたりの部下は、ベッドのシーツで、グッタリした明智のからだをつつみ、なにか大きなにもつのように見せかけて、そのまま表の自動車の中へはこび入れます。魔法博士の島田警部も、そのあとについて表に出ると、入り口の戸をピッタリしめて、自動車の運転席に飛び乗りました。
 そして車はしずかにすべりだし、やがて町かどをまがると、闇の中を、いずこともなく、走りさってしまいました。
 名探偵明智小五郎と怪人魔法博士のたたかいは、こうして、あっけなくおわりました。小林少年のせっかくの苦心も、水のあわとなったのです。
 しかし、いくら病後の明智でも、これでは、あまりに、ふがいないではありませんか。何か深いたくらみがあって、わざと敵のなすがままに、まかせたのではないでしょうか。

魔法の鏡


 さて、明智探偵がつれさられた、その同じ夜のこと、怪屋にとじこめられている、小林少年のほうには、また、べつのふしぎがおこっていました。
 その夜、あの牢屋のような部屋で、夕食をたべたあとで、小林君はりっぱな洋室へうつされました。魔法博士ではなく、ボーイの服を着た男が、案内したのです。そして、「ここで、しばらくやすんでいらっしゃい。いまにおもしろいことが、はじまるからね。」と言って、ニヤニヤ笑いながら、立ちさりました。むろん、ドアには、外からかぎがかけられたのです。
 小林君は、大きなアーム・チェアに腰をおろして、ゆっくり部屋の中を見まわしました。じつにりっぱな部屋です。外国映画に出てくる古い貴族の家にあるような、ドッシリとおちついた部屋です。それに、ふしぎなことは、四方のかべに大小さまざまの鏡が、はめこみになっていて、まるで、鏡の部屋とでもいうような感じなのです。
 天井から、すずらんの花をたばにしたような、古風なシャンデリヤがさがっていましたが、それが四方の鏡にうつってチカチカ光って、まるで宝石をちりばめた部屋に入れられたようです。
 それにしても、さっき、ボーイ服を着た男が、「いまにおもしろいことが、はじまるからね。」と言ったのは、いったい何を意味するのでしょうか。どこにおもしろいことがおこるのでしょうか。
 部屋の中はシーンとしずまりかえって、なんだかおそろしくなるほどです。あの虎はどこにいるのでしょう。いまごろは、また、ドアの外の廊下を、目を光らせてノソノソ歩いているのではないでしょうか。ふと気がつくと、どこかで、コト、コトとかすかな物音がしました。その音のするほうに目をやっても、何もありません。ただ、かべにはめこんだ、大きな鏡が、つめたくチカチカと光っているばかりです。
 また、コト、コトと音がしました。どうもその大鏡のへんから、ひびいてくるようです。
 小林君は、思わず立ちあがって、鏡の前に近づきました。そこには、シャンデリヤの光を、うしろにして、小林君自身の姿が、大きくうつっているばかりでした。
 ところが、その自分の姿を、ジッと見ていますと、ふしぎなことがおこったのです。鏡にうつっている小林君の姿が、スーッと消えるように、うすくなっていくではありませんか。
 びっくりして、見つめているうちに、だんだん、うすくなっていく自分の姿に、かさなるようにして、べつの少年の姿が、あらわれてきました。しかも、ひとりではありません。三人の少年が、おたがいに、からだをすりよせるようにして、立っている姿です。
 小林君は思わず、「アッ。」と声を立てました。その三人は、よく知っている少年たちだったからです。花田君、石川君、田村君、読者もごぞんじの少年探偵団の幹部です。
 いったい、この三少年が、どうして大鏡にうつっているのでしょう。そして、小林君の姿が消えてしまったのでしょう。三少年をてらしている光は、シャンデリヤよりも、ずっと明かるいようです。まるで、ガラス窓から、向こうの明かるい部屋を、のぞいているような感じです。映画やテレビではありません。たしかに五メートルほど向こうに、三人の少年が立っているのです。
 小林君は、ふと、あることを思いだしました。いつか科学博物館で、こういう鏡を見たことがあります。それはこんな大きなものではなくて、やっと顔がうつるぐらいの小さい鏡でしたが、かべを、そこだけくりぬいて、ガラスがはめてあり、どちらがわから見ても、ふつうの鏡のように見えるのですが、こちらの部屋をくらくし、向こうの部屋を明かるくすると、ガラスがすきとおって、いままでうつっていた自分の顔が消え、向こうの部屋の中がハッキリ見えるのです。
 小林君は、あのしかけにちがいないと思いました。ですから小林君のほうからは見えるけれども、三人の少年のほうからは、小林君の姿は見えないのです。もし見えれば、向こうでも、びっくりするでしょうが、そんなようすはすこしもありません。
 向こうの部屋は、かざりも何もない、まるで牢屋のようなきたない部屋です。三人の少年は、あきらかに、魔法博士のために、かんきんされているのです。いつのまに、つれてこられたのでしょう。
 小林君が紙しばいのじいさんにおびきよせられたような、何かそれとにたやり方でつれてこられたのかもしれません。それとも、もっとおそろしい方法でゆうかいされたのかもしれません。
 声をかけようとしても、厚いガラスにへだてられているので、どうすることもできません。少年たちは、小林団長がここにいることを、すこしも知らないのです。
 すると、そのとき、鏡の一方のはじに、チラッと黄色いものがあらわれました。なにかゾッとするような、黄色と黒のだんだらぞめのものです。
 虎の首です。金色に光った目が、少年たちを見つめています。むろん、首だけではありません。やがて、肩が見え、足が見え、猛虎の全身があらわれたのです。
 小林君は、ハッと、息をのんだまま、身うごきもできなくなりました。
 虎は、三人の少年に向かって、まっかな口をガッとひらきました。いまにも飛びかかろうとしているのです。
 小林君は、目がクラクラッとして、目の前がスーッと暗くなるような気がしました。すると、おそろしい虎の顔も、三人の少年の姿も、もやにへだてられたように、消えていきました。
 ハッと気がついたときには、前にあるのは、ふつうの鏡で、そこに小林君自身の青ざめた顔が、うつっているばかりです。
 なんだかおそろしい夢でも見たような気持ちでした。小林君は魔法博士の催眠術にかかって、ありもしないものを見たのでしょうか、いやそうではありません。三人の少年は、たしかに鏡の向こうがわにいたのです。そして、そこへ一ぴきの猛虎がはいって来たのです。
 ああ、少年たちは、いったいどうなったのでしょうか。いまごろは猛虎のために、むごたらしいめにあっているのではないでしょうか。
 小林君は、もう、ジッとしていられなくなりました。ガラスをやぶって、向こうの部屋へ飛びこんで行こうか。しかし、なんの武器も持たないで、猛虎とたたかう決心はつきません。では、ドアをやぶって、廊下に出て、助けをもとめるか。しかし、この建物の中には味方はひとりもいないのです。
 とつおいつ、しあんにくれていますと、またしても、どこからか、コツ、コツという物音が、聞こえてきました。
 小林君は、キョロキョロと、部屋の中を見まわしていましたが、やがて、反対がわの鏡のほうへ、かけよりました。音がそのへんから、おこっていたからです。
 それは、さっきの半分ほどの大きさの鏡でしたが、小林君が、かけよったかと思うと、もう、そのガラスに異変がおこっていました。こちらの顔はうつらないで、向こうの明かるい部屋がすいて見えるのです。
 その部屋は、小林君のいる部屋とおなじぐらい、りっぱなかざりがしてありました。ただ、ちがっているのは、そこは寝室らしく、部屋のまん中に、大きなベッドがおいてあることでした。
 ベッドの向こうがわに、ドアが見えていましたが、そのドアが、スーッとひらいて、ひとりの警官の姿があらわれました。
「アッ、警官がぼくたちを助けに来てくれたのか。」と、小林君はいまにも、声をたてそうになりましたが、じきに、そうでないことがわかりました。
 その警官のうしろに、もうひとりの警官がいて、ふたりでなにか毛布にくるんだ、大きなものを、はこんで来たのです。
 警官たちは、その毛布にくるんだものを、ベッドの上にのせて、毛布をときはじめました。すると、その中から、ひとりの人間があらわれてきたではありませんか。グッタリと死んだようになっている人間のからだです。
 小林君は、またしても、「アッ。」と声をたてないではいられませんでした。そのグッタリとなった人の顔は、明智先生だったからです。明智先生が殺されたのではないかと思ったからです。
 明智先生はパジャマのまま、毛布につつまれて、ベッドの上に横たえられたのです。そして、ふたりの警官はドアの外へ、たちさってしまいました。
「先生は死んでいるのだろうか。いや、そうじゃない。胸がかすかに動いている。アッ、そうだ。きっと麻酔薬でねむらされているんだ。」
 小林君は、すばやく頭をはたらかせて、そこまで考えると、いくらか安心しましたが、先生のそばへかけつけることもできず、自分がここにいるのを知らせることもできないのを、ひじょうに、もどかしく思いました。
「それにしても、どうして警官が先生をつれて来たんだろう。警官が魔法博士の味方になるなんて、へんだなあ。ああ、わかった。魔法博士のてしたの悪ものが、警官に変装したんだ。そして、先生をゆだんさせておいて、こんなめにあわせたんだ。」
 小林君は、魔法博士の、そこのしれない悪だくみに、あきれてしまいました。明智先生を助けるために、どうすればいいんだか、とっさに名案も浮かびません。
 すると、そのとき、にわかに部屋の中が、パッと明かるくなりました。いままで、うすぐらかったシャンデリヤが、まぶしいほど、まっ白にかがやきだしたのです。それと同時に、鏡の中の明智先生の姿が、ボヤッとうすれていって、何も見えなくなってしまいました。
「ワハハハハ……、どうだね、小林君。」
 とつぜん、どこともしれず、びっくりするような声が聞こえてきました。
 小林君は、キョロキョロと部屋の中を見まわしましたが、どこにも人間の姿はありません。声は空中からひびいてくるのです。

名探偵の幽霊


 場面は一てんして、ここは魔法博士の部屋です。
 小林少年のとじこめられた部屋と同じような、りっぱな洋室。まん中に大きなデスクがおかれ、そこのイスに、例のコウモリのようなマントを着た魔法博士が、腰かけています。
「ワハハハ、どうだね、小林君。」
 博士は、デスクの上の小さなマイクロフォンに向かって、話しかけています。それが、小林少年の部屋の天井にとりつけられた、ラウド・スピーカーに、つながっているのです。
 博士の部屋にも、四方のかべに、大小さまざまの鏡が、はめこんであります。そして、博士の右手にあたる長いかべに、三メートルほどへだてて、ならんでいる、二つの鏡がすきとおって、それぞれ、向こうがわの明かるい部屋が見えています。博士の部屋の電灯は、ひじょうにうすぐらいのです。
 その二つの鏡のうちの、右のほうの鏡の中には、小林少年の部屋の一部が見えています。小林少年は、いきなり空中から声がひびいてきたので、おどろいて、あたりを見まわしているところです。
 魔法博士は、それをながめながら、デスクの上のマイクロフォンに向かって、話しつづけるのでした。
「どうだね、小林君、魔法博士のおてなみのほどが、わかったかい。いまきみが見たとおり、わしは、三人のきみの友だちと、それから、きみのそんけいする明智大先生まで、とりこにしたのだ、ワハハハ……、きみはおどろいてしまって、とほうにくれているね。だが、おどろくのは、まだ早いよ。これから、いよいよ、わしの大魔術がはじまるのだ。」
 博士はそこで、ことばをきって、マイクロフォンのスイッチを、カチッときりかえました。そして、こんどは、左のほうの鏡の人物に話しかけるのです。
「ワハハハ……、明智先生、お目ざめのようですね。おどろきましたか。ここをどこだと思いますね。ここは、あなたがたが魔法博士の怪屋とよんでいる場所ですよ。」
 左の鏡の中では、明智探偵が、ベッドの上に半身を起こして部屋の中を、ふしぎそうに見まわしています。それが手にとるように見えるのです。
「明智先生、あんたのほうからは見えないだろうが、わしは魔法博士です。とうとう、あんたを、かどわかすことができて、じつにゆかいですよ。なぜ、かどわかしたかと、おっしゃるのですか。それはいまに、説明しますよ。わたしはあんたに、ゆっくり、わしの身のうえ話を聞いてもらいたいのです。
 そのまえに、言っておきますがね、きみはもう一生涯、この家から出ることはできない。わしのとりこです。わしのけらいです。いいですか。きみばかりじゃない。きみの助手の小林も、べつの部屋にとじこめてある。小林の友だちの子どもたちもかんきんしてある。もうきみは、どうすることもできないのです。わかりましたか。ワハハハハ……。」
 魔法博士は、とくいの絶頂ぜっちょうです。イスのうえにそりかえって、ゆかいでたまらぬというように、笑いだすのでした。
 ところが、博士の笑いがやっと、とまったとき、じつにふしぎなことがおこりました。どこからか、こだまのように、べつの笑い声が、かすかにひびいて来たのです。
「ハハハハハハ……。」
 魔法博士はギョッとしたように、いずまいを、なおしました。鏡の向こうの明智は、すこしも笑っていません。たとえ笑ったとしても、あついガラスにへだてられているので、ここまで聞こえるはずがないのです。
 そのふしぎな笑い声は、きみ悪く、いつまでもつづいていました。
「ハハハハハハ……。」
 博士は、思わず立ちあがって、キョロキョロあたりを見まわしながら、
「だれだッ。」とどなりました。
「ぼくだよ。きみがとりこにしたと思っている明智小五郎だよ。ぼくはけっして、きみのとりこになんか、なっていないんだよ。」
 ふしぎな声が、あざけるように、答えました。しかし、鏡の中の明智は、ベッドの上に半身を起こして、いぶかしげに、あたりを見ているばかりで、すこしも、ものを言ったようすもありません。だいいち、声の聞こえて来る方角が、まったくちがうのです。
 明智は腹話術を使って、口を動かさないで、ものを言っているのでしょうか。それにしても、ガラスを通して、声が聞こえるというのは、へんです。魔法博士は、向こうの部屋で、どんな大きな声を出しても、こちらまで聞こえないことを、よく知っていたのです。
 さすがの魔法博士も、なんだか、うすきみ悪くなってきました。
「もう一度、言ってみろ、きさま、どこにいるんだ。」
「どこでもない。きみの目の前にいるじゃないか。ハハハハ……、魔術にかけては、ぼくのほうが、すこしうわてのようだね。」
 鏡の中の明智は、そのことばとは、まるでちがった顔をしています。どうしても明智がものを言っているとは考えられません。それでは、だれかべつの人間が、いたずらをしているのでしょうか。魔法博士の部下のものが、そんなことをするはずはないのですから、すると、何者かが、この建物にしのびこんでいるのかもしれません。
 魔法博士はいよいよ、きみが悪くなってきました。
「きさま、とりこになんか、なっていないと言ったな。それじゃあ、ここへ出て来てみろ。いくら名探偵でも、そのげんじゅうな部屋をぬけだすことはできまい。」
「ウフフフ……、げんじゅうな部屋だって? 名探偵の前には、ドアなんか、ないも同然だということを知らないのかい。ここだよ、ここだよ。」
 魔法博士は、部屋の入り口のドアを、きっと見つめました。ふしぎな声はそのドアのへんから、聞こえてくるように、感じられたからです。
 見つめていますと、正面のかんのんびらきの大きなドアが、スーッと左右にひらき、その向こうの、うすぐらい廊下に、スックと立っている人の姿が、見えました。
 黒い洋服を着た、背の高い、頭の毛のモジャモジャになった人物です。そのふしぎな人は、ゆうぜんと部屋の中へ、はいって来ました。ああ、これはどうしたというのでしょう。その人は、まぎれもない、名探偵明智小五郎だったではありませんか。
 魔法博士はギョッとして、もう一度、鏡の中を見ました。鏡の向こうのベッドの上には、たしかに明智の姿が見えます。しかし、おなじ明智が、もうひとり、正面のドアからはいって来たのです。名探偵のからだが二つになったのでしょうか。それとも、どちらかが、明智の幽霊なのでしょうか。
 博士が、あっけにとられたように、明智の姿を見つめていますと、さらに、おどろくべきものが、目にはいってきました。明智の幽霊のうしろに、一ぴきの猛虎がノッソリと、つきしたがっていたのです。
 明智はその虎の首に手をかけて、ゆっくりとした足どりで、博士の大デスクのほうへ近づいて来ます。博士には、それが、とほうもない、まぼろしのように感じられました。つかもうとすれば、スーッと消えてしまう、幻影ではないかと、思われました。
 すべてが、夢のようにふしぎなことばかりです。鏡の中と、いま目の前にいる人物と、明智がふたりになったばかりか、おそろしい人くい虎が、見知らぬ明智に飛びかかろうともせず、まるで、けらいのように、つきしたがっているではありませんか。博士がそれを、まぼろしか、幽霊と考えたのも、むりではありません。
「ハハハ……、ぼくの魔術も、まんざらではないだろう。きみがあれほど、あいたがっていた明智だよ。さあ、きみの話を聞こうじゃないか。」
うそを言え、きさま、何者だッ、ほんとうの明智はあすこにいる。あれを見ろ。」
 魔法博士は鏡を指さして、どなりました。
「知っているよ。あすこにいるのも明智、ここにいるのも明智、明智がふたりになったのさ。ぼくのあみだした魔術の一つで、人間分身術というのだ。」
「ばかな、そんなことが、できてたまるものか。」
「ハハハ……、だめだよ。そのボタンをおしたって、だれも来やしない。きみの部下は、ぼくがひとりのこらず、しばりあげてしまったのだ。」
うそだ。その手にのるものか。」
 魔法博士は、デスクの裏のベルを、おしつづけましたが、だれもやって来るようすがありません。
「ちくしょう。きさま、近づくと、これだぞ。」
 博士は、どこからか小型のピストルをだして身がまえをしました。
「ハハハハ……、だめ、だめ、きみは、それをうつ勇気がない。たとえ、うっても、ぼくにはあたらないよ。魔法博士ともあろうものが、ピストルを持ちだすなんて、みっともないじゃないか。それよりも、きみの話を聞こう。きみはさっき、ぼくに身のうえ話を聞かせると言っていたね。」
 明智はニコニコ笑いながら、大デスクに近づき、魔法博士の正面のイスに、ゆったりと腰かけました。虎も、まるで、かいイヌのように、おとなしくそのイスの足のところに、うずくまっています。
 巨人と怪人は、ついに、デスク一つをへだてて、相対したのです。名探偵勝つか、魔法博士勝つか? 知恵と魔術の息づまる戦いの幕がいまや切っておとされようとしているのです。
 それにしても、明智は、どうしてふたりになることができたのでしょう。また、あれほどながいあいだ病気だった明智が、いま見れば、すこしも病人らしくないのは、どうしたわけでしょう。それから、人くい虎が、かいイヌのように、おとなしくなったのも、じつにふしぎと言わねばなりません。

巨人と怪人


 さすがの魔法博士も、このふしぎには、あきれかえったように、明智探偵の顔を見つめるばかりでした。鏡の向こうには明智の姿がまだ見えています。そして、目の前一メートルの近さに、同じ明智の顔がせまっているのです。
「ハハハ……、魔術の先生が、こんな手品におどろいて、どうするんだ。考えてみたまえ、きみには、すぐ手品の種がわかるはずだよ。」
 明智は魔法博士の正面のイスにゆったりと腰かけて、笑っています。大きな虎が、そのイスの足のところに、まるで、かいイヌのように、おとなしくうずくまっています。
「フフン、さすがは明智先生、なかなか、あじをやるね。まさか、きみが、かえだまを用意していようとは知らなかったよ。鏡の向こうの部屋にいるのは、きみのかえだまだったんだね。」
「そのとおりだよ。ぼくには、ふたごのようによくにた弟子がある。その男を、ちょっと、かえだまに使ったのさ。」
 明智探偵は自分とそっくりのかげ武者を持っていたのです。そのかえだまのことは『怪人二十面相』の『種明かし』の章にくわしく書いてあります。明智が、かえだまを使うのは、べつにめずらしいことではありません。
 明智は、ニコニコ笑いながら、魔法博士の顔を見て、つづけます。
「ところで、いつ、ぼくが、かえだまといれかわったのか、わかるかね。きみは魔術の大家たいかだ。そのくらいのことは、ぼくが説明しなくても、わかるはずだね。」
 魔法博士は、明智に挑戦されて、しばらく考えていましたが、やがて、うすきみの悪い笑いをうかべて、答えました。
「きみの病気そのものが、手品だった。どうだ、あたっただろう。」
「フン、さすがにきみだ。いちばんもとのことに気がついたね。それで?」
「きみは、ほんとうに病気をしたのだろう。しかし、それを利用して、起きられるようになっても、まだ病気がなおらないと言って、寝ていた。そして、いつのまにか、きみはかえだまと入れかわって、にせもののほうをベッドに寝かせておいた。ざんねんながら、おれは、その手にひっかかって、にせものをきみだと思いこんで、あの部屋にとじこめたのだ。」
「うまい。そのとおりだよ。ところで、このほんもののぼくは、どうして、ここへはいって来たんだろう。出入り口はきみの部下が見はっているから、なかなかはいれないはずだがね。」
「それも、いまになればハッキリわかるよ。ぼくはあのとき、ふたりの部下を警官に化けさせて、きみの寝室をおそった。そして、ぼくがきみと話しているあいだに、ふたりの部下は奥へふみこんで、きみのおくさんと女中を、じゃましないように、しばって来た。ぼくはそう思いこんでいた。ところが、まちがっていたのだ。きみが、どこかにかくれていて、ぼくのふたりの部下が、べつべつの部屋にいるとき、そのひとりのほうに飛びかかって、たぶんピストルでおどかしたんだろう、警官の服をぬがせ、それを、きみがその服の上から着こんだのだ。そして、まんまとぼくの部下になりすまして、にせの明智をここへはこんで来たのだ。」
「よくあてた。さすがは魔法博士だ。そして、にせの明智を、あの部屋へ寝かせておいて、ぼくは警官の服をぬぎすて、もとの明智になって、ここへはいって来たというわけさ。」
「そうか、いや明智君、よく来てくれた。どんなやりかたにもせよ、とにかく、きみが来てくれたのはうれしいよ。おれは大いに歓迎するよ。まあ、くつろいでくれ。」
 魔法博士は、デスクの上にあった、葉巻たばこの箱を、明智のほうにおしやって、一本とるようにすすめましたが、自分もそれに火をつけて、むらさき色の煙をフーッとふきだしながら、イスの中にグッタリと身をしずめて、また、きみ悪くニヤリと笑いました。
「ところで、ぼくのほうでも、きみの奇術をあてたんだから、きみにも一つ、ぼくの奇術の種をあててもらいたいもんだね。名探偵は魔法使いいじょうの知恵を持っているはずだからね。」
 さっきのシッペイがえしです。こんどは魔法博士のほうから「どうだ、わかるか。」とばかり、挑戦しました。
「おもしろいね。よし、一つあててみよう。まずさいしょは、ブラック・マジック(黒魔術こくまじゅつ)だったね。舞台でいろいろなものを消したり、あらわしたりして見せた。そのまえに、天野君のうちの庭で、ウサギが宙に浮きあがって消えたのも、やっぱり、一種のブラック・マジックだった。きみか、きみの部下が、頭から手から足の先まで、まっ黒な布でつつんで、ウサギを持ちあげたり、ウサギに黒い布をかぶせて、見えなくしたりしたんだ。そして、ナタかなにかで、庭の立ち木にささくれをつくり、まるで虎がかじったように見せかけて、みんなをこわがらせたんだ。
 天野勇一君を舞台から消したのも、同じことだ。きみの助手が勇一君に黒布をかぶせて、舞台の裏へはこび、そこでさるぐつわをはめ、手足をしばって、建物の外の森の中へかくしたのだ。警官たちが、あれほど、やさがしをしても見つからなかったのだから、建物の中にかくしたのじゃないね。
 それから、きみは黒いヒョウのような怪物にばけて、高い塔の外のかべをはいおりたね。かべに足がかりのようなものは、何もない。そこをきみは、まっさかさまに、はいおりた。世間では、その話を聞いて、きみが人間いじょうの魔力を持っているように、うわさしたが、これがやっぱり手品だった。きみは、ゴムの吸盤をつかったね。」
「フーン、そこまで気づいていたのか。」
 魔法博士は、おどろいたように、明智の顔を見ました。
『ゴムの吸盤』というのは、こういうわけです。西洋の手品師は、ハエなんかが平気で天井をはっているのを見て、人間にもそのまねができないだろうかと考えたのです。そして、発明したのが、さしわたし二十センチもあるおわんのような、大きなゴム製の吸盤でした。ハエの足には小さな吸盤があって、さかさに歩いてもおちないのだから、人間も、そのおわんのようなゴムを手足につけて、天井にすいつきながら、歩くことができるだろうと考えたのです。そして、それを見物の前でやって見せた手品師もあります。しかし、ハエのように、すばやくは動けません。たださかさまになって、ソロリソロリと歩くだけで、たいしておもしろくもないので、あまりはやらないでおわりましたが、魔法博士はそれをまねて、おわんのような大きな吸盤を四つ作って、両手と、両方のひざにとりつけて、塔のかべをはいおりたのです。
「それから、神社のコマイヌだったね。きみはあの日、天野君をゆうかいするまえに、二つならんでいる一方のコマイヌを、あらかじめ社殿の中にはこび入れて、とびらをしめておいた。そして、塔から逃げだしたあとで、森の中にかくしてあった石のコマイヌとそっくりの衣装を、頭からかぶって、石の台の上にチョコンとすわっていた。あの大きな頭の部分も、はりこかなんかで、石のコマイヌとそっくりにこしらえておいたんだね。うすぐらい夕方の森の中だから、警官たちは、きみの前をとおりながら、すこしも気づかなかった。いつもそこにすわっているコマイヌの一方だけが、にせものだなんて、だれも考えないからね。」
「うまい。うまい。そのとおりだよ。きみは、まるで見ていたようだね。」
 魔法博士はすこしも、まいったようすがありません。そういう手品の種を、明智探偵が知っていることを博士のほうでは百もしょうちだ、と言わぬばかりです。
 それにしても、なんというふしぎなありさまでしょう。ふたりは、うらみかさなるかたきどうしではありませんか。それがまるで、なかのよい友だちのように、のんきに話しあっているのです。
 明智のほうでは、警官隊がかけつけて来るのを待つために、わざとゆっくり話をしているのかも知れません。しかし、魔法博士のほうは、どうしてこんなに、おちつきはらっているのでしょう。いまに警官隊にとりかこまれて、逃げ場を失うばかりではありませんか。魔法博士は、そうなってもだいじょうぶのような、さいごの切り札を持っているとでもいうのでしょうか。

大魔術


 明智は話しつづけます。
「それから虎だ。いたるところに虎があらわれる。きみ自身が、頭の毛を黄色と黒にそめわけたり、ピンとはねた虎ひげをはやしたりして、まるで虎の化身みたいな顔をしている。虎だか人間だかわからないという感じをだそうとしたんだね。夜の間に、ひとのうちの庭に、虎の足あとをつけておいたり、そのへんの立ち木や柱に、虎の牙でかみさかれたような、おそろしい傷をつけておいたり、世間をこわがらせようとしたんだ。
 きみが使っている虎には、ふたいろある、一つはほんとうの虎で、こいつは、いつも檻の中に入れてある。いつか小林君と天野少年に見せたのは、そのほんもののほうだ。もう一つはにせものの虎だ。石のコマイヌと同じように、虎の毛でこしらえた衣装を、人間が着て歩きまわるのだ。頭の部分は、はく製の虎になっているのだから、ちょっと見たのではわからない。
 花田少年を背中にのせて、夜の町を歩いたのも、ついさきほど、三人の少年の部屋へ飛びこんでいったのも、みなにせもののほうだ。こわい顔をしているし、ほんとうの虎のように、ほえるけれども、それは中にはいっている人間が、そういう音の出る笛を吹くだけで、人にかみつくことなんか、できやしない。にせの虎は、いつも夜とか、うちの中のうすぐらいところにあらわれるのだし、それに、あいてが少年たちだから、いままで見やぶられなかったのだ。
 ぼくは、さっき、きみの部下のひとりが、虎の衣装をかぶるのを見た。ぼくは警官の服を着て、きみの部下に化けていたのだから、だれもうたがわない。ぼくの前で平気で虎の衣装をかぶったのだ。それで、すっかり秘密がばれてしまったのだ。
 ぼくはそれから、もうひとりの警官の服を着た、きみの部下をしばりあげて、石の部屋にとじこめ、それから、表口、裏口に見はりばんをしているやつを、ひとりずつ、同じようにしばって、石の部屋に入れてしまった。そして、さっきの虎が、三人の少年をおどかしてから、部屋を出てくるのを待っていた。それが、ここにいる虎だよ。見たまえ、ピストルがこわくて、ぼくの命令にそむくことができないのだ。」
 明智探偵のイスの足のところに、うずくまっている虎は、ほんものではなく、中に人間がはいっていたのです。明智の右手に持ったピストルの筒口つつぐちが、その虎の背中にグッとくいいっています。いうことを聞かねば、いつでもピストルの引きがねをひくぞというわけです。さいぜんから、この虎がまるでネコのように、おとなしくしているのは、そのためだったのです。
 だまって聞いていた魔法博士は、そのとき、また、うすきみ悪くニヤニヤと笑いました。メガネの中の両眼が、まるで糸のようにほそくなっています。
「さすがは明智先生だねえ。つくづく感心したよ。すると、おれの部下はひとりのこらず、きみにしばられて、おれはとうとうひとりぼっちになってしまったのか。ブルブル、ああ、なんだか心ぼそくなってきたぞ。」
 しかし、博士の顔はちっとも心ぼそそうではありません。ゆったりとかまえて、すこしもさわがないのです。
 そのとき、コツコツと足音がして、正面のかんのんびらきのドアから、ひとりの少年がはいって来ました。
「先生。」
「おお、小林君か。」
 それは小林少年でした。
 小林君は、明智探偵のそばによって、何か、いそがしく耳うちしました。
「ワハハハハ……、敵はいよいよ数がふえるな。まだ四人少年がいる。それも助けだされたというわけだろうね。」
 魔法博士はこともなげに、大笑いをしています。おくそこの知れない怪物です。
「小林君は、ぼくが助けだした。そして、応援軍をよぶために、いま一走ひとはしり、つかいに行って、帰ったところだ。四人の少年は、やがて、その応援軍が来て、助けだすはずだよ。」
「ワハハハ、……、敵はウンカのごとくおしよせるね。ゆかい、ゆかい。それでこそ、魔法博士も、はたらきがいがあるというもんだ。ところで、明智先生、おれは、もう一つ二つ魔法を使っておいたはずだが、きみはむろん、それも気づいているだろうね。」
「ウン、きみは大魔術を使ったね。花田少年がこの建物へつれてこられた。そして、麻酔薬でねむらされて表の草の中へほうりだされた。そこへ、ちょうど警官が通りかかったので、建物の大捜索がおこなわれたが、花田君がねむっていたのは一時間かそこいらだったのに、建物の中には、何もなくなっていた。白い部屋も、天野少年も、虎の檻も、何もかも、消えてしまっていた。とほうもない大魔術だったね。
 いまでは、むろん、その秘密はすっかりわかっている。きみは花田少年をつれて行ったときに、麻酔薬をかがせて自動車がどこを走るかわからないようにした。建物からつれだすときには、また麻酔薬をかがせた。そして森の中の草の中へほうりだしておいた。てむかいもしない少年に、なぜ麻酔薬を使わなければならなかったのか。ここに秘密をとくかぎがある。ぼくはここへこぬまえから、だいたいその秘密がわかっていた。いつか小林君にそれを話したことがある。」
「そうです。あのとき、先生のおっしゃったとおりでした。」
 小林少年が、そばから口をだしました。
「ぼくが入れられた牢屋のような部屋には、窓が一つしかなかったのです。はじめ、その窓から夕日がさしていました。ところが、ひと晩、そこで寝て、あの朝、目をさましてみると、おなじ窓から朝日がさしていました。それで、ぼくはすっかりわかってしまったんです。」
「ウーム、きみはえらいところに気がついたね。それで、きみはわかったのか。」
 魔法博士がさも感心したように、うなりました。
「そうだよ。あのとき、きみは紙しばいのじいさんに化けて、ぼくにねむり薬のはいったオレンジエードをのませただろう。そして、ぼくがすこしも気づかないうちに、べつのうちへ、はこんだんだろう。」
「べつのうちにしては、部屋のようすが、すっかり同じだったね。」
「でも、向きがちがっていた。はじめの部屋の窓は西向きで、あとの部屋の窓は東向きだった。まったく同じかっこうの建物が二つあるんだ、ねえ、先生、そうですね。」
「そうだよ。ぼくは魔法博士の部下に化けて、麻酔薬のおせわにならないで、ここへ来たから、この目で見て、よくわかっている。ここは天野勇一君の近所の、あの洋館ではない。ここは世田谷区ではなくて、横浜の山の手なんだよ。外から見たところも、中の間どりも、ふたごのように、まったく同じ洋館が二つあるんだ。だから、世田谷のほうを、いくらさがしても、白い部屋も、虎の檻も、何もなかったわけだよ。
 さいしょブラック・マジックをやって見せたのは世田谷の洋館、それからあとの出来事は、みんなこの横浜の洋館でおこったのだ。花田君は、はじめ横浜のほうへつれてこられ、それから麻酔薬で寝むらされて、自動車で世田谷の洋館の前にはこばれ、そこの草の中へほうりだされていたんだよ。それにしても、こんな、ふたごのような古い洋館が、どうしてできたのか、そのわけは、ぼくにもわからないがね。」
「明治時代に、ものずきなイギリス人の兄弟がいたのさ。そして、べつべつの場所に、まったく同じせっけいの洋館を建てたのだよ。何もかも同じだったが、ただ向きだけがちがっていた。おれは、これは大魔術の種になると思ったので、苦心して両方とも手に入れたんだが、とうとう、きみたちに見やぶられてしまった。感心、感心、さすがは名探偵と、名少年助手だねえ。しかし、秘密は、それでおしまいじゃあないぜ。まだ、もう一つ大きな秘密がある。明智君、きみにはそれも、もうわかっているのだろうね。」
 魔法博士はスックと立ちあがって、明智と小林少年を見おろしながら、ウフフフフと、うすきみ悪く笑うのでした。

最後の切り札


 魔法博士は立ちあがったまま、ことばをつづけます。
「おれは天野勇一君を、かどわかした。それから小林君を、三人の少年を、そして、さいごに明智小五郎をゆうかいしようとしてみごとに失敗した。だが、おれは少年たちを、とりこにしたけれども、けっして、ぎゃくたいはしなかった。虎でおどかしたけれども、それは、ほんとうの虎ではなかった。そのうえ、少年たちには、ごちそうをたべさせた。天野少年には王子のようなりっぱな服装をさせた。ほかの少年たちにも、同じような服を着せるつもりだった。
 いったい、おれはどんな悪いことをしたのだろう。物をぬすんだわけでもない。少年たちをかどわかして、身のしろ金をゆすったわけでもない。ただ、ここへつれて来て、たいせつなお客さまのように、あしらったばかりだ。明智君だって同じだ。もし、きみに、うらをかかれなかったとしても、けっしてきみを傷つけたり、ごうもんしたりするつもりはなかった。では、おれは何をしようとしたんだ。明智君、わかるかね。この意味がわかるかね。」
 魔法博士のほそい目が、じっと明智の顔を見つめました。
「その答えは、たった一つしかない。」
 そう言ったかと思うと、明智も立ちあがっていました。巨人と怪人は、デスクをへだてて、決闘者のように、にらみあっているのです。ふたりの顔からは、笑いのかげがすっかり消えてしまいました。
「ウン、その答えは一つしかない。で、きみの答えは?」
「きみは、ぼくと小林と少年探偵団の三人の少年を、とりこにして、二度とこの建物から出られないようにするつもりだった。そして、ぼくたちを苦しめ、世間を、あざわらうつもりだった。」
「それは、なんのために?」
「復讐のためだ。しかも、そういう復讐をたくらむやつは、世界中にたったひとりしかない。」
 名探偵と魔法博士とは、そのまま、身うごきもしないで、じっと、にらみあっていました。たっぷり一分間。じっと息もつまるような一分間でした。
「そのひとりというのは?」
 魔法博士の挑戦です。
「品川沖で一度死んだ男だ。いや、一度だけではない。二度も三度も死んだ男だ。死んだと見せかけて、生きていた男だ。」
「その生きていた男は?」
「きみだ、きみがその不死身の男だ。怪人二十面相だッ。」
 そのとき、小林少年は、まるで海の底にいるような感じをうけました。音という音が消えうせて、時間の進行が、そこでピッタリとまってしまったかと、うたがわれたのです。名探偵も怪人も、まるで石になったように動かなかったのです。
 ああ、怪人二十面相。読者諸君は、この一しゅんかんを、どんなに待ちかねていたことでしょう。諸君は、さいしょ魔法博士が野球をする少年たちの前にあらわれたときから、心の底に『怪人二十面相』の六字をえがいていましたね。魔法博士こそ怪人二十面相にちがいないと、ほとんど信じていましたね。そして、その真相がばくろするのを、いまかいまかと、待ちかまえていたのではありませんか。
 怪人二十面相は二十のちがう顔を持つといわれた怪物です。かれはあらゆる人間に化けました。青銅せいどうの魔人というロボットに化け、そして、いまはまた、虎と人間のあいのこのような、魔法博士に化けたのです。
 そのとき、廊下に大ぜいの足音がして、三人の少年をせんとうに、天野勇一少年、明智探偵のかえだまになった男、それから四人の警官が、正面のドアから、なだれこむように、はいって来ました。
 怪人二十面相も、もう運のつきです。どこにも逃げ場がないのです。しかし、かれはまだひるみません。意外にも、ワハハハ……、と笑いながら、部屋の一方のかべに身をよせました。かべをうしろだてにして、この大ぜいの敵と戦おうというのでしょうか。
「明智先生、おれは追いつめられたね。しかし、きみはまだ、おれの秘密をすっかり知りつくしたわけじゃない。おれには、さいごの切り札があるんだ。見たまえ……。」
 そのとき、人々の口から、「アッ。」と言う、さけび声が、ひびきました。じつに思いもよらぬ、ふしぎがおこったからです。
 見よ、魔法博士のからだは、何かに引きあげられるように、かべをつたって、スーッと天井に、のぼって行くではありませんか。
 たちまち、かれの異様な姿は、高い天井にくっついてしまいました。そこに一ぴきの大コウモリが、羽をひろげて飛んでいるのです。黄色と黒のだんだらぞめの長いかみの毛が、風に吹かれたようにみだれ、べっこうぶちの大メガネは、キラキラとかがやき、そのガラスのうしろから、いまこそまんまるにみひらかれた、虎のような目が、青く光って、じっと下界をにらんでいるのです。そして、あの異様なマントは、大きな羽のようにひろがって、ハタハタと、ぶきみな、はばたきの音をたてています。
「ワハハハハ……明智君、せっかくのきみの苦心も、水のあわだったねえ。おれはけっしてきみたちには、つかまらないよ。ワハハハハハ……、ワハハハ……。」
 そして、そこの天井板が、スーッとひらいたかと思うと、大コウモリは、天井裏のやみの中へ、すいこまれるように、姿を消してしまいました。ふたたび、スーッと音もなく、しまる天井板。ぶきみな笑い声は、だんだん、かすかになって、やがて、聞こえなくなってしまいました。
 そして、しばらくすると、あっけにとられて、天井を見あげている人々の顔が、おどろくほど白くなりました。天井のまん中からさがっているシャンデリヤが、きゅうに明かるくなったのです。白熱の色をおびてきたのです。
 オヤッと思うまに、またしても、とほうもないことがおこりました。巨大なすずらんの花を、いくつもたばにしたような、その大シャンデリヤが、はじめはすこしずつ、だんだんいきおいをまして、はげしくゆれはじめたのです。何十ともしれない電球の花たばが、世にもおそろしいブランコをはじめたのです。
 いまにも、その直径一メートルもありそうな、電球のかたまりが、花火のように、人々の顔の上に、おちかかってくるかもしれません。人々はワーッと声をあげて、部屋のすみずみに身をさけました。「ワハハハ……。」ふたたびおこるぶきみな笑い声。
 思わず見あげると、ゆれるシャンデリヤの心棒のそばの、ごう天井の板が一枚はずれて、ポッカリと口をひらいた黒い穴から、人間とも、けだものともわからぬ、おそろしい顔が、のぞいていました。二十面相です。魔法博士の二十面相です。光線のせいか、それが虎の顔とそっくりに見えるのでした。

地底の怪人


 数十個の電灯をつけた、さしわたし一メートルもあるシャンデリヤは、怪人の笑い声とともに、ますます、はげしくゆれていましたが、アッと思うまに、それが天井をはなれて、落下して来ました。
「あぶないッ。」
 みんなは口々にさけんで、身をよけました。シャンデリヤは爆弾のような音をたてて、ゆかにぶっつかり、数十個の電球とガラスの笠が、コナゴナになって、飛びちりました。
 ガラスの破片で傷ついた人もありますが、大けがというほどではありません。
「はしごだ。はしごをさがしてこい。」
 だれかが、大声にどなりました。
 見ると、天井の穴には、もう怪人の顔はありません。天井裏を、どこかへ逃げだしたのです。
 ふたりの警官が、裏庭へ飛びだして行って、一ちょうのはしごを、かついで来ました。そして、それを、怪人がさいしょ飛びあがった、天井のすみのところへ、立てかけました。
 そのあいだに、明智探偵は、怪人が背中をつけたかべを、しらべていましたが、
「これだ。この柱に天井まで、ほそいすきまがある。中にレールがついているんだ。そのレールから、鉄のカギのようなものが出ていて、ここのかくしボタンをおすと、電気じかけで、カギがレールをつたって、天井まであがるようになっている。あいつは、自分のバンドを、そのカギにひっかけて、このボタンをおして、天井へ飛びあがっていったのだ。これが、あいつのさいごの切り札だった。」と、みんなに説明しました。魔術師は、建物の中の、あらゆる場所に、魔法の種をしかけておいたのです。
 明智探偵は、それから、小林君をまねいて、何かヒソヒソと耳うちしました。小林少年は「わかりました。」と言うようにうなずいて、少年探偵団の三少年と天野勇一少年とをつれて、いそいで部屋を出て行きました。この少年たちは、あとになって、たいへんなてがらをたてることになるのです。
 ひとりの警官と、明智のかえだまをつとめた男は、この部屋の出来事を、建物の外を見はっている警官隊に、知らせるために、たちさりました。あとにのこった三人の警官と明智探偵とは、めいめい懐中電灯とピストルを持って、さっきかけられたはしごをのぼり、怪人のあとを追うことになったのです。
 明智がせんとうになって、はしごをのぼり、天井板をおしてみますと、ドアのように、ギーッと上にひらきました。その中は、まっ暗やみの天井裏です。四人は懐中電灯をふりてらしながら、つぎつぎに天井裏にあがりました。
 天井裏は、すこし背をかがめれば、歩けるほどの、ゆとりができていました。懐中電灯で、あたりを見ますと、一方にトンネルのような通路がひらいて、そのトンネルの中に、何かうごめいているものがあります。
「あッ、あすこにいる。」
 警官が思わず声をたてました。そのものは、たしかに魔法博士の怪人二十面相でした。こちらの四人が、トンネルの入り口にかけよると、怪人はネズミのような、すばやさで、奥のほうへ逃げこんで行きます。
「待てッ。」
 どなりながら、四人は怪人のあとを追って、トンネルの奥ふかく、ふみこんで行きました。
「あぶないッ。穴だ。」
 せんとうの明智探偵が、とつぜん立ちどまって、うしろの警官たちをとどめました。
 トンネルのような道は、いきどまりになっていたのです。そして、そこに、ふかさもしれぬ大きな穴があいていたのです。
「ワハハハ……、明智先生、どうだね、このしかけは。さすがの名探偵も、天井裏にこんなぬけ穴があろうとは、夢にも知らなかったね……。だが、これはまだ入り口だ。この先に、きみをびっくりさせるものが、待っているんだぜ。ワハハハハ……、まあ、用心してついてくるがいい。」
 穴の底のほうから、怪人の声がものすごく、ひびいて来ました。
 明智探偵は、穴のふちにひざをついて、懐中電灯で下のほうをてらしてみました。そこは井戸のようなふかい穴で、こちらがわに、直立の鉄ばしごが、ズッと下のほうまでつづいています。そのはしごのなかほどに、怪人がつかまって、虎だか人間だかわからない、あのおそろしい顔で、穴の上のほうをにらんでいるのでした。
「あがってこいッ。このうえ逃げると、うち殺すぞッ。」
 明智の肩の上から、のぞきこんでいた警官が、怪人にピストルを向けながら、どなりました。
「ウフフフ、きみはうちやしない。おれをいけどりにしたいんだからね。おれもうたないよ。ピストルはちゃんとここに持っているが、おれは血を見るのが大きらいだからね。きみたちは、おれを追いつめて、つかまえればいいんだ。しかし、おれは、けっして、つかまらない。魔法博士だからね。魔法の力で、どこまでも逃げるんだよ……。」
 そして、怪人はまるでサルのように、鉄ばしごをかけおりて、底のやみの中へ消えてしまいました。
 それにしても、こんなふかいたて穴は、いったい、どこにかくされていたのでしょう。あとになって、わかったのですが、この穴は、部屋と部屋とのあいだのかべが、ある箇所でひじょうにあつくなっていて、そのかべの中に、このたて穴がつくってあったのです。
 まえに世田谷区の怪屋を、すみからすみまで、しらべたけれども、どこにもあやしい箇所はありませんでした。それで安心していたのですが、ここは世田谷の洋館ではありません。ふたごのように、よくにた横浜の洋館です。外から見たのでは、そっくりですが、中にはいろいろな魔術のしかけがしてあります。さすがの明智探偵も、そこまでしらべているひまがなかったのです。
 明智は直立の鉄ばしごを、おりはじめました。三人の警官もそれにつづきます。あいては人殺しの大きらいな怪人二十面相です。いまも言ったように、ピストルはけっして、うたないでしょう。ですから、そのほうの心配はありませんが、穴の底に、どんなしかけがしてあるかと思うと、じつにぶきみです。
 ああ、明智探偵たちは、うまく怪人をとらえることができるでしょうか。なにか思いもよらぬ、きみの悪いことが、おこるのではないでしょうか。

密室のなぞ


 鉄ばしごは五メートルほどでおわり、足がコンクリートのゆかにつきました。懐中電灯で見ると、そこからまた、トンネルのような長い道がつづいています。むろん、ここは地下道です。トンネルのかべはコンクリートでかためてあります。
 ほかに道はないのですから、怪人はこのトンネルの中へ、はいって行ったのに、ちがいありません。明智と三人の警官とは、手に手に懐中電灯をふりてらしながら、そこを、奥へ奥へとすすんで行きました。
 十メートルほど向こうを、怪人の走って行く姿が、ボンヤリ見えています。しかし、懐中電灯の光をたよりに、足もとに気をつけながら、すすむのですから、なかなか、あいてに追いつくことができません。
 そのうちに、フッと怪人の姿が、見えなくなりました。どうしたのかと思って、走って行くと、ここはトンネルのまがりかどでした。怪人がそのかどを、まがったために、見えなくなったのです。
 明智探偵たちも、つづいてかどをまがりました。そして、二、三歩すすんだ時、とつぜん、明智はアッと声をたてて、ふみとどまりました。
「あぶないッ。また、おとし穴だッ。」
 懐中電灯でてらしてみると、すぐ目の前に、はば三メートルほどの、道いっぱいの穴が、口をひらいていました。
 怪人はここをどうして通りすぎたのでしょう。かべをつたって、わたるような、足がかりは、なにもありません。のぞいてみると、下は底しれぬ、くらやみです。それでいて、怪人はその穴の向こうを、走って行く姿が、おぼろげに見えています。いったいどうして、このはばの広い穴をこしたのでしょう。
「ア、わかった。穴にわたしてあった板を、あいつが、取りのけたんだ。」
 明智の懐中電灯の光で、その板がてらしだされました。穴の上に橋のように、かけてあった板を、怪人は向こうがわへ、引きあげ、追手がわたれないようにして、逃げたのです。
「よしッ、ぼくがこの穴を飛びこそう。そして、板をもとのように、かければいいんだ。」
 明智探偵は、少年時代からスポーツできたえたからだです。病気をしたといっても、あとの半分はにせやまいだったのですから、三メートルぐらいの幅飛びは、なんでもありません。穴のふちから、数十歩あともどりして、パッとかけだしたかと思うと、ヒラリと穴を飛びこしてしまいました。
 そして、そこにあった長い板を、もちあげ、一度立てておいて、そのはじを、警官たちのほうへ、サーッと倒してよこす。こちらでは、ひとりの警官が、うまくそれをうけて、すばやく板の橋をかけることができました。
 三人の警官はその板をわたって、明智といっしょになり、それからまた、懐中電灯をふりてらして、トンネルの中をすすむのです。
 そんなことで、てまどったので、あいては遠くへ逃げてしまったのではないかと、心配しましたが、見ると、怪人はまだ電灯の光のとどくあたりを、フラフラと歩いています。逃げられるのを、わざと逃げないで、こちらをからかっているような、あんばいなのです。
 いそいで、そのほうへ近づいて行きますと、トンネルの枝道になっているところに、さしかかりました。この地下道は一本道ではなくて、どこかへわかれているのです。しかし、怪人は枝道のほうへは、まがらず、まっすぐ歩いて行きます。
 やがて、向こうにポーッと、うすい光が見えてきました。どうやら、トンネルのつきあたりに、部屋のようになったところがあるらしく、その部屋の中に、うすぐらい電灯がついているようです。
 怪人はマントをヒラヒラさせながら、その光の中へはいりました。やっぱり、こちらをからかっているのか、まるで、よっぱらいのような、フラフラした歩きかたです。その姿が部屋の中の電灯をうけて、ふしぎな影絵のように、ゆらめいていましたが、やがて、ひらいたままのドアの中へ、ヨロヨロとはいったかと思うと、ドアがギーッと音をたてて、しまりました。そして、あたりは、またもとのくらやみになってしまったのです。
「ソレッ。」というので、四人はそこへかけつけ、ドアをひらこうとしましたが、中からかぎをかけたのか、ビクとも動きません。そこで、警官たちが、かわりがわり、たいあたりで、ドアにぶっつかり、見るまに、それをやぶって、中にふみこんで行きました。
 そこは五、六坪のコンクリートの部屋でした。天井もかべもゆかも、すっかりコンクリートでぬりかためた、なんのかざりもなく、イス一つない牢屋のような部屋です。入り口のほかには、ドアもなく、また窓もありません。どこにも逃げだす個所のない、ふくろのような部屋です。
 ところが、どうでしょう。その、まったく逃げ場のない部屋の中に、いまのさき、はいったばかりの怪人は、もう影さえ見えなかったではありませんか。そこには、人間はおろか、ネズミ一ぴきも、いなかったのです。魔法博士の二十面相は、煙のように消えうせてしまったのです。
 警官たちは、持っていた警棒で、ゆかをたたきまわり、四方のかべをたたきまわり、ひとりの警官が、べつの警官の肩にのって、天井までも、たたきまわったのですが、ぜんぶ完全なコンクリートで、秘密戸のようなものはひとつもないことが、たしかめられました。
 地下室のことですから、空気ぬきの四角な穴が、一方のかべの上と下と二ヵ所に、あいていましたが、それは十センチ四方ほどの小さな穴で、そんなところから、人間がぬけだせるはずもありません。
 ひょっとしたら、怪人はこの部屋にはいると見せかけて、じつは、はいらなかったのではないか。そして、トンネルのどこかに、秘密戸でもあって、そこから逃げてしまったのではないか。そう考えたので、明智探偵はドアの外に出て、トンネルのかべを、じゅうぶん、しらべましたが、すこしもうたがわしい個所はないのでした。
「明智さん、こりゃ完全な密室じゃありませんか。」
 警官のうちの警部補の服を着たひとりが、おどろいたような顔で言いました。この警部補は、まえにべつの事件で明智といっしょに働いたことがあって、顔見知りのあいだがらでした。
「密室です。かりに、あいつがこの部屋へはいらなかったとしても、逃げる場所がありません。トンネルに枝道があったけれども、あいつがこのドアに近づいた時には、ぼくたちは枝道を通りすぎていた。だから、あいつはトンネルの中で、ぼくらのわきをすりぬけて逃げたとでも、考えるほかはないが、そんなことは、ぜったいにできっこありませんからね。」
『密室』というのは、探偵小説にはよくでてくることばです。どこにも逃げ道のない、密閉されたしつで犯罪がおこなわれ、しかも、その部屋に犯人の姿が見えないという、ふしぎな事件を『密室の犯罪』と言うのです。
 さすがは魔法博士の二十面相、さいごのどたんばになって、みごとな魔術をつかったものです。「名探偵さん、きみにはこの密室のなぞがとけますかね。」と言わぬばかりではありませんか。
 もしこのなぞが明智探偵にとけなかったら、怪人との知恵くらべにまけたことになります。明智はぜがひでも、これをとかねばなりません。
 さて、読者諸君、みなさんも一つ、名探偵といっしょに、このなぞをといてみてはいかがですか。ちょっとしたことに、気がつけば、なんなくとけるはずです。しかし、いままで書いたほかに、このなぞをとく手がかりが、もう一つだけあります。それは、次の章で明智探偵の言ったり、したりすることを、よく気をつけていれば、わかるのです。どうか読みおとさないようにしてください。そして、このなぞをといてみてください。

塔上の魔術師


 明智探偵は、うすぐらい電灯の、がらんとした部屋のまん中に立って、腕ぐみをして、しばらく考えていましたが、なにを思ったのか、ツカツカと、部屋の一方のかべぎわへ、歩いて行って、いきなり、そこにしゃがむと、十センチ四方ほどの四角な空気ぬきの穴をしらべはじめました。懐中電灯の光を近づけ、穴のそばに顔をくっつけるようにして、いっしんにしらべましたが、
「ウーム、そうかもしれんぞ。」と、ひとりごとを言ったかと思うと、こんどは、その穴の中へ、いきなり、右の手をグッとさし入れて、なにかを、さぐっているようすです。
「何かあるんですか。」
 警部補が、明智の頭の上から、のぞきこむようにして、たずねます。
「いや、何もありません。この穴の向こうがわにも、コンクリートのゆかがあるだけです。」
「すると、向こうにも部屋があるのですね。」
「いや、部屋ではなくて、たぶん廊下のようなところでしょう。さっきのトンネルの枝道が、この向こうがわへ、通じているのかもしれない。」
「まさか、その穴から、ぬけだしたわけじゃないでしょうね。」
「むろん、そんなことは、いくら魔術師だって、できっこありませんよ。」
「それじゃ、あなたが、そこをしらべておられたわけは、なんですか。何かなぞをとくかぎでも見つかったのですか。」
「ほこりですよ。この空気ぬきの穴の中にはほこりがつもっていた。そのほこりに、何かで強くこすったようなあとが、いちめんについているのです。ほこりがすっかり、かき取られてしまっている。この穴にいっぱいになるような、何か大きな、やわらかいものが、そとへ引きだされたあとです。」
「フーン、大きな、やわらかいもの? まさか二十面相が、そういうものに化けて、この小さな穴から、逃げだしたとおっしゃるのじゃありますまいね。」
「むろん、そういう意味ではありません。しかし、ぼくは、このほこりのあとを見て、密室のなぞがとけたように思うのですよ。」
「えッ、なぞがとけた? 明智さん、ほんとうですか。あいつは、いったい、どうしてこの部屋をぬけだしたのです。」
「待ってください。それは、いまにわかります。それよりも、あいつをつかまえるのがかんじんです。ぼくらがこの部屋にはいった時、あいつはまだ、この穴の向こうがわに、いたにちがいないのです。グズグズしていたら、とりかえしのつかないことになります。さあ、この向こうがわへ、行ってみましょう。それには、トンネルの枝道から、まわればいいのです。」
 そこで、四人はやぶれたドアをくぐって、トンネルにひきかえし、さっきの枝道の中へ、はいって行きました。四人とも、懐中電灯をてらしながらです。
 枝道をグングンすすんで行くと、はたして、さっきの部屋の外がわに出ました。かべの上と下に、四角な空気ぬきの穴があるので、それがわかるのです。明智はねんのために、懐中電灯で、下の穴をしらべてみましたが、ほこりのすれたあとが、部屋の中から見たのとそっくりでした。
 怪人はひょっとすると、枝道をもとの直立の鉄ばしごのほうへ、ひきかえしたのかもしれませんが、そちらへ行けば、自分の部屋へ出るばかりで、そこには見はり人が立っているのですから、そんな方角をえらんだとは思われません。やはり、もとへひきかえさないで、さきのほうへ逃げたのでしょう。
 明智探偵はそう考えたので、ためらわず、グングンすすんで行きました。警官たちも、そのあとにしたがいます。すると、まもなく、トンネルはいきどまりになって、そこにまた直立の鉄ばしごが立っていました。
 かまわず、そのはしごをのぼって行きますと、頂上に石のふたのようなものがしまっています。明智はそれを力まかせに、おしてみました。べつにかぎはかけていないとみえて、石のふたはすこしずつひらいていきます。
 やがて、石のふたをとりのけて、四人は穴をはいだしましたが、そこはやはり部屋の中で、一方に小さな窓があり、かすかな光がさしこんでいます。そとは、明かるい月夜なのです。
 見ると、そこは、例の三階の円塔の一階らしく思われました。まるい部屋のまん中に、カタツムリのカラのように、グルグルまわりながらのぼる、ラセン階段がボンヤリと見えています。
 明智探偵は懐中電灯で、塔への出入り口のドアをさがし、そのそばへよって、しらべてみました。
「オヤ、このドアは中から、かけがねが、かかっている。すると、あいつは、塔の上へのぼったんだな。そのほかに行くところはない。」
 いきどまりの塔の上へ逃げるなんて、なんだかへんではありませんか。しかし、あいてはえたいのしれない怪物です。何をやりだすかわかったものではありません。
「ともかく、塔の上まで、のぼってみよう。」
 明智がせんとうになって、四人はラセン階段をのぼって行きました。二階にはだれもいません。つぎは三階、ここにも人の姿は見えません。しかし、明智には、なんだか、いまここを二十面相が通ったばかりのような気がするのです。塔のかべや天井にしかけがあるかもしれません。怪人はまたその中へもぐりこんでしまったのかもしれません。
 ふと気がつくと、窓の外の、はるか下のほうから人のさわぐ声が聞こえてきました。なにか、ただならぬけはいです。
 明智はいそいで窓をひらき、明かるい月の光にてらされた下界をながめました。塔の下の庭に五、六名の警官が立って、上を見あげています。そして口々に何かわめいています。いったい、なにがおこったというのでしょう。
 明智は窓から半身をのりだして、下界の人々に手をふってみました。すると、警官たちは、それに気づいて、てんでに塔の屋根を指さしながら、なにかわめくのです。
「魔法博士が……。」
「屋根の上に……。」と言うようなことばが、まじりあって、聞こえてきます。どうやら、怪人はこの塔の屋根のてっぺんにでもいるらしいのですが、ハッキリしたことはわかりません。塔の窓からでは、いくら、からだをのりだしても、屋根の上は見えないのです。下へおりて、たしかめるほかはありません。
 そこで、明智は、ふたりの警官をこの場の見はりにのこし、警部補といっしょに、塔をかけおり、廊下をまわり、裏口から庭におりてさわいでいる警官たちのところへ行ってみました。そして、塔の屋根をながめますと、人々がさわいだのもむりではありません。そこには、じつに異様な光景が、月の光にてらしだされていたのです。
 塔の屋根はスレートぶきで、とんがり帽子のような形をしています。そのてっぺんに、避雷針ひらいしんのような長い鉄棒があり、それにつかまって、魔法博士がスックとつっ立っていたではありませんか。
 大コウモリのような黒いマントが、風にハタハタとひらめき、二つのメガネの玉が、月の光をうけて、キラキラ光っているのさえ見えます。怪人は、大空の月とむら雲を背景にして、いつまでも、そこに、つっ立ったまま、下界をにらみつけていました。

墜落する悪魔


 満月に近い月でした。それを、ときどき、うす黒い綿のような、むら雲がかすめて、通りすぎます。そのたびに、避雷針にとりすがった怪人が、ハッキリ見えたり、かげになったりします。例のコウモリの黒マントが、風にヒラヒラとはためいて、天空の魔人というような、ものおそろしい姿です。
 明智探偵は五分間ほど、腕をくんで、つっ立ったまま、じっと塔の屋根を見つめています。まわりの警官たちは、明智がおそろしいほど、だまりこんでいるので、やはりおなじように、つっ立ったまま、塔上の怪人と明智の顔とを見くらべています。
「この探偵さんは、何を考えているんだろう。怪人があんな高いところへ、あがってしまったので、どうすることもできなくて、こまっているんじゃないかしら。」と、いうような顔つきです。
 すると、いままで銅像のように身うごきもしなかった明智が、ヒョイと、そばにいる警部補のほうを、ふりむきました。そして、
「この近くに猟銃を持っている人はいないでしょうか。一つさがして、借りだしてくれませんか。」とたずねました。警部補はビックリしたような顔をして、
「猟銃なら、近くにわたしの知っている猟銃家がいますが、しかし、猟銃でなにをしようと言うのですか。」
「ともかく、大いそぎで、それを借りてください。たまもいっしょにですよ。けっして、あなたのごめいわくになるようなことは、しません。ぼくにまかせてください。」
 警部補は、明智が名探偵であることを、よく知っていました。警視庁の捜査課長でさえも、明智の知恵を借りることがあるのを、知っていました。それで、この人の言うことならば、まちがいはないだろうと、部下の警官に、猟銃を借りだしてくることを命じました。
 明智はそのまま、だまって、また塔の屋根を見つめています。警部補も、明智の気質を知っているのでなにもたずねません。うす雲が、月の表をかすめるたびに、塔上の怪人も、地上の人々の顔も、暗くなったり、明かるくなったりして、やがて、二十分あまりもたちました。そこへ、さっきの警官がりっぱな猟銃を持って、息せききって、もどってきました。明智はそれを受けると、たまをこめ、銃を肩にあて、塔の屋根に向かって、ねらいさだめました。
「明智さん待ってください。犯人を殺してはこまります。わたしの責任です。」
 警部補があわてて、銃の筒口をにぎりました。
「いや、けっして殺しません。傷つけもしません。まあ、見ていらっしゃい。」
 明智はつよく言いはなって、もう一度ねらいをさだめると、猟銃の引きがねを引きました。ガンと空気がゆれて、うすい煙がたって、そうして、塔の上の怪人がフラフラとよろめくように見えました。警官たちはいっせいに、屋根の上を見つめました。月の光にてらされて、怪人はフワリと宙に浮きました。避雷針をはなれて、横たおしになり、それから、スレートの屋上をすべって、空中を、スーッとおちてくるのです。ヒラヒラする黒マントの羽が、みるみる大きくなり、人々の頭の上に、あのおそろしい虎の顔をした怪物が、ふってきたのです。警官たちは「ワーッ。」と言って飛びのきました。そして、怪人が地上にころがったのを、たしかめると、またそばへよって行きました。警官たちでつくられた輪の中に、二十面相の魔法博士は、生きているのか死んでいるのか、じっと横たわったまま動きません。それが、青い月光にてらされて、まるで火星人かなんかのような、ふしぎな姿に見えるのです。明智探偵は、警官の輪をはなれて、ツカツカと怪人のそばへ近づきました。そして、怪人の足のところに、しゃがんで、何かカチッと、音をさせたかと思うと、立ちどまって、こわきにかかえていた猟銃をとりなおし、その台座を怪人の腹のへんにあてて、グッとおさえつけました。すると、オヤッ、どうしたというのでしょう。怪人はブルブルとからだを、ふるわせて、スーッと消えていくように見えたのです。ほんとうに、足の先から、だんだんペチャンコになって、もう腰のへんまで、せんべいのように、うすべったくなってしまったではありませんか。

とかれたなぞ


「ワハハハハ……。」
 あっけにとられて、ぼんやりしている警官たちの顔を見て、明智探偵がとつぜん笑いだしたのです。いよいよ、わけがわからなくなってきます。
「諸君、これは人形ですよ。ゴム人形ですよ。ただ黒マントだけがほんもので、あとはすっかりゴムでできているのです。」
「ウッ、すると、あの青銅の魔人と……。」警部補が、うなるように言いました。
「そうです。青銅の魔人と同じしかけで、魔法博士のゴム人形がつくってあったのです。いざというとき、かえだまにつかうつもりで、ちゃんと用意しておいたのでしょう。ごらんなさい。その足首のとめ金も、青銅の魔人とそっくりです。いまぼくが、そのとめ金をはずしたので、空気がぬけて、こんなにひらべったくなってしまったのです。」
 さっきカチッといったのは、明智がそのとめ金をはずした音だったのです。この人形は、からだぜんたいが、自動車のチューブよりも、ずっとあついゴムでできていて、その中に空気を入れて、ふくらませてあったのです。からだには、洋服のラシャをはりつけ、頭にほんとうの毛をうえ、ひげをはやし、顔や手は絵の具で人間らしい色にぬってあるのです。メガネまでかけています。
「ぼくは、そこまで気がつかなかったが、塔の上の部屋の天井に秘密の戸があって、そこから屋根の上へ、出られるようになっているのでしょう。二十面相はこの人形を持って、そこから屋根の上にぬけだし、人形を避雷針にひもでくくっておいて、逃げだしたのです。ぼくのうった猟銃のたまで、そのひもが切れたので、こいつがおちてきたのですよ。」
「すると、あいつは……。」
「たぶん、屋根づたいに、逃げたのでしょう。あいつは、いつでも絹糸の縄ばしごを持っていますから、塔の屋根から本館の屋根へおりるくらい、わけはありません。本館の屋根から、どこかへかくれたのですよ。あいつはまだ、この屋敷の中にいるはずです。だが、見はりはだいじょうぶでしょうね。見はりの警官は、持ち場をはなれてはいないでしょうね。」
「だいじょうぶです。この建物のまわりには、すっかり見はりがついています。ここにいるのは、持ち場のない遊軍ばかりですよ……。それにしても、明智さん、あなたはこれが人形だということが、よくわかりましたね。ぼくたちは、ほんものの魔法博士だと思いこんでいたのですが。」
「人形でなければ、猟銃でうったりなんか、しませんよ。ぼくも、ここから見ただけでは、これが人形だということはわからなかった。見たのではなくて、頭で考えたのですよ。」
「推理ですね。それを聞かせてください。わたしには、さっぱりわからない。」
「見はりがついていれば、あいつをさがすのは、いそぐことはありません。では、てっとりばやく、それをここでお話しましょう。しかし、だいじょうぶでしょうね。自動車の車庫は。」
「ガソリンをからっぽにして、そのうえ車庫の前に見はりがついています。あいつは歩いて逃げるほかはないのです。しかも、まだなんの報告もないところをみると、あいつは建物の外へは、姿を見せないのですよ。中にいるのです。家の中のどっかにひそんでいるのです。」
「では、お話しましょう。それは、あの『密室』のなぞに、かんけいがあるのですよ。あいつはたしかに、あの地下室へはいった。そして戸をしめた。ところが、ぼくらが、ふみこんでみると、影も形もなかった。出口はどこにもない、ただ、空気ぬきの小さな穴が二つあるばかりで、その下のほうの穴のうちがわのほこりが、何かでこすったように、みだれていた。
 ぼくはあの時、二十面相が、まえに青銅の魔人のゴム人形で世間をだましたことを思いだした。そして、こんどもまた、魔法博士のゴム人形を用意しておいたのじゃないかと考えたのです。
 ぼくたちは、地下道のトンネルの中で、おとし穴の板の橋をかけるために、てまどっていた。あいつはそのひまに、どこかにかくしてあった人形を持ちだし、人形の首と足に長いひもをつけて、首のほうのひもを上の空気ぬきの穴へ、足のひもを下のほうの穴へ通し、自分は穴の外がわにまわって、そこから、うまくひもを引っぱった、としたら、どうです。」
「ウーン、そうか。どうりで、なんだかフラフラした、へんな歩きかただと思った。電灯はついていたけれど、ひどくうすぐらかったので、すっかりだまされたわけですね……。しかし、あの入り口のドアがしまって、かぎがかかったのは、なぜでしょう。まさか人形がそんなことをするはずはないが……。」
「やっぱり、ひものしかけですよ。長いひもを二重にして、その先の輪になったところをドアのとってにかけ、ひものはじを空気ぬきの穴の外へのばして、グッと引っぱれば、ドアがしまる。あのドアはしめさえすれば、しぜんにかぎがかかるようになっていたのです。ひらく時にはかぎがいるが、しめる時には、かぎがいらないのです。そうして、しめておいて、一本のひもをはなし、一本だけをたぐりよせれば、ひもはぜんぶ穴の外へ出てしまいます。
 それから、こんどは、人形を下の穴のすぐそばまで引きよせ、穴から手を入れて、足のとめ金をはずすと、スーッと空気がぬけて、人形がしなびてしまう。そのグニャグニャになったゴムを、十センチの穴から、外へ引っぱりだしたのですよ。」
「なるほど、すっかりわかりました。それで穴のうちがわのほこりに、あんなあとがついていたのですね。フーン、うまく考えたな。それにしても、ほこりのあとだけで、そこまで考えついたのは、さすがに明智さんですね。かぶとをぬぎますよ。しかし、そのグニャグニャになった人形を、塔の屋根にあげる時には、また空気を入れたのでしょうが、こんな大きな人形に、そんなにてばやく空気がはいりますかね。」
「それは、青銅の魔人の時とおなじですよ。やはり、この建物のどこかに、自動車のタイヤに空気を入れるエアー・コンプレッサーがあって、そこから、くだが引っぱってあるのです。塔の中にも、そのくだが来ているのでしょう。エアー・コンプレッサーなら、この人形をふくらますくらい、またたくうちですからね。」
「フーン、じつに、手数のかかるいたずらをやったものですね。こんどの事件は、さいしょから、そうだったが、あいつは魔術のうでまえを、見せびらかしたくて、しかたがないのですね。わたしは、こんなへんてこな犯人ははじめてですよ。」
「そうです。あいつは、こんどはほかになんの目的もなかったのです。ただ、ぼくをこまらせて、それ見ろと笑いたかったのですね。ところが、すっかりぼくにうらをかかれてしまった。この勝負もまた、あいつの負けですよ。ハハ……、考えてみると、なんだか、かわいそうですね。」
 明智探偵は、ゆかいそうに笑いましたが、そんなふうに安心してしまってもいいのでしょうか。怪人のほうには、まだまだ奥の手がのこっていたのではないでしょうか。

少年尾行隊


 それから、いよいよ怪屋の中を捜索して、二十面相をさがしだすことになり、明智探偵と警部補と、警官たちの一隊は、怪屋の正面にやってきました。
 正面の入り口の石段の両方に、ふたりの警官が見はりをつとめています。
「べつに、かわったことはなかったかね。」
 警部補がたずねますと、ひとりが答えました。
「ハア、あやしいやつは通りませんでした。」
「ここから出入りしたものは、ひとりもなかっただろうね。」
「ずっとまえに、明智さんの少年助手と、四人の子どもが出て行きました。それから、ついいましがた、明智さんがひとりで出て行かれました。」
「えッ、明智さんが? 明智さんはここにいらっしゃるが、この明智さんが、ここから出て行かれたのかね。」
「ハア、そうです。その明智さんです。ちょっと急用ができたからと言って、大いそぎで、門の外へ出て行かれました。」
 これを聞くと、明智探偵はツカツカと、その警官の前に、すすみ出ました。
「その男は、どこかぼくと、ちがってはいなかったかね。」
 そして、よく顔が見えるように、月の光のほうを向いて、警官の鼻の先に、近づくのでした。
 警官はこまったような顔をして、モジモジしました。
「あなたではなかったのでしょうか。ほんとうに、そっくりだったのですが。」
「ぼくじゃない。怪人二十面相はぼくに化けるのが、とくいなんだよ。」
「えッ、それでは、あいつが……。」
 警官たちのあいだに、ただならぬざわめきがおこりました。警部補は顔色をかえて、
「しまった。明智さん。あなたの説明なんか聞いているのじゃなかった。ゆだんでした。明智さん、どうしたものでしょう。いまから追っかけたって、まにあわないし……。」
と、じだんだをふまんばかりです。
 しかし、明智はさわぐけしきもありません。
「イヤ、まだぼくの負けじゃありませんよ。ぼくのほうには万々一の用意がしてある。あいつがぼくに化けて、逃げるかもしれないということは、ちゃんと考えに入れてあったのですよ。天野勇一君はまだ小さいので、横浜のぼくの友人のうちへひきあげさせたが、小林と三人の少年は、帰ったわけではありません。万一、怪人が逃げだした時、尾行するために、この門の外の立ち木のかげに、待機していたのです。」
「しかし、あいつが明智さんに化けたのでは、子どもたちも見のがしたかもしれませんね。」
「それはだいじょうぶです。小林は、そういうことになれています。それに、たとえぼくとそっくりのやつでも、ひとりで門を出る男があったら、かならず尾行するように命じておきました。イヤ、そればかりではありません。もっとおもしろい計画があるのです。見ていてごらんなさい。いまに少年たちが報告に来ますよ。」
 明智がおちつきはらっているので、警官たちもひとまず胸をなでおろしました。そうして、まだほんとうに信じきれないという顔つきで、門のほうをながめるのでした。
 しばらくすると、あんのじょう、くらい門の外から、リスのように、三人の少年がすべりこんできました。そして、すばやく明智探偵の姿を見つけると、その前にかけてきました。読者諸君がよくごぞんじの、少年探偵団員、花田、石川、田村の三少年です。
「先生ッ。」
 花田君が、息せききって、何か言おうとしています。
「あいつがぼくに変装して逃げたのを、尾行したんだね。」
 明智探偵のほうから、報告をしやすくしてやりました。
「そうです。ぼくたち、あいつに見つからないように、うまく尾行しました。」
「大通りのほうへ出て行ったんだね。」
「そうです。そのほかに、逃げ道はありません。ぼくたち三人は、あいつの五十メートルほどあとから、電信柱や、ごみ箱や、いろんなもののかげに、かくれながら、尾行しました。」
「あいつは、すこしも気づかなかったかね。」
「ええ、ちっとも。ぼくたち、小林団長におそわって、いつも練習していますから。」
「ウン、感心、感心、それで、あいつは、うまく自動車に乗ったのかい。」
「ええ、うまくいきました。なんにも知らないで、自動車に乗ってしまいました。」
「行く先はわからなかっただろうね。」
「いいえ、ぼく、こっそり自動車に近づいて、耳をすましていました。」
「ホウ、えらいね。すると?」
「東京へ、と言う声が聞こえました。自動車は東京のほうへ走って行ったのです。」
「よし、それでいい。きみたち、ごくろうだったね。あとはわたしがうまくやるから、きみたちは夜が明けたら、警察のおじさんに、おくってもらって、天野君もつれて、東京に帰りたまえ。きみたちの慰労いろう会は、あとでゆっくりやるよ。」
 そして、明智は警部補に向かって、三少年と天野勇一君とを、だれか警官をつけて、東京のおうちへ、おくりとどけてくれるように、たのむのでした。
 警部補はむろん、それをしょうちしましたが、しかし、どうも、におちないという顔つきで、
「自動車で逃がしてしまっても、だいじょうぶなのですか。その自動車というのは、あなたのごぞんじの車なのですか。」と、しんぱいそうに、たずねました。すると、明智はクスクス笑いながら、
「じつは、ぼくのほうで、あいつがその自動車に乗るように、しむけたのですよ。運転台には小林が助手に化けて、乗りこんでいます。小林は変装もなかなかうまいですよ。小林はぼくの知っているガレージへ行って、しっかりした運転手の乗った車を一台借りだしたのです。そして、夜ふけの客をおくった帰り道のように見せかけて、この向こうの大通りに待っていたのです。もし二十面相が逃げだせば、車庫をおさえてあるのだから、歩くほかはない。その時、目の前にあき自動車がいたら、きっとそれに乗るにちがいないと考えたのですよ。」
「フーン、じつによく考えられたものですね。明智さんには、ほんとうに、かぶとをぬぎますよ。それにしても、その運転手と小林君だけで、だいじょうぶでしょうか。あいては、おくそこのしれない魔法使いですからね、どんな手があるかもしれませんぜ。」
「イヤ、それはもう、ぼくにはだいたいわかっているのです。あいつがひとりで逃げだしたとすれば、行く先は一ヵ所しかありません。あいつのさいごのとっておきの手をもちいるのです。それがどんな手だか、ぼくにはもうわかっています。大活劇ですな。いや、大魔術と言ったほうがいいかもしれません。こんどはぼくが魔術師になるのです。」
 明智探偵はニコニコしながら、ひとりの警官のほうをふりむきました。
「きみ、お手数ですが、二十面相の車庫の自動車に、ガソリンを入れさせてくれませんか。そして、どなたか運転のうまいかたがあったら、東京までとばしてほしいのですが……。あいつの車はなかなか優秀ですからね。競走にはもってこいです。」
 私服警官の中にひとり、もと飛行隊にいたことのある、運転の名手がいました。そして、わたしがやりましょうと名のって出たのです。
 明智探偵はいまから二十面相の自動車を、追っかけるつもりなのでしょうか。それとも、なにかべつの考えがあるのでしょうか。

小林少年の冒険


 さて、こちらは小林少年です。
 怪屋からあまり遠くないところに、明智探偵のよく知っている自動車屋がありました。小林君はそのうちをたたき起こして、明智探偵からだと言って、しっかりした運転手の乗りこんだ、一台の自動車をだしてもらいました。
 小林君は、その自動車屋で、よごれたレーンコートと鳥打とりうち帽を借り、ガレージのゆかのほこりを手につけて、自分の顔をなでまわし、うすぎたないチンピラ助手に化けて、運転手のとなりに、腰かけました。そして、その車を、二十面相が逃げだせば、かならず通る大通りまで走らせ、そのへんを徐行じょこうしたり、とまったりして、待機していたのです。
 小林君は運転席から、月夜の大通りを見まわしながら、胸をドキドキさせていました。二十面相ははたして、逃げだしてくるのでしょうか。くるとしても、いったい、どんな姿で、やってくるのでしょう。まさか魔法博士のままで、逃げだすとは考えられません。明智先生に化けているかもしれません。それとも、もっとちがった、なにかへんてこなものに化けるかもしれない。なにしろ、あいては二十の顔を持つという、変装の名人ですから、ゆだんもすきもあったものではありません。
 三十分もそうしていると、とつぜん、町角から、ヒョイと飛びだした人影があります。小林君はハッとして目をこらしました。明智先生です。いや、先生に化けた二十面相にちがいありません。
 そいつは、ちょっと立ちどまって、右左を見まわしていましたが、小林君の自動車が、あきぐるまであることをたしかめると、いきなり、こちらへ走って来ました。
 もし、こいつがほんとうの二十面相なら、あとから三人の少年探偵団員が尾行しているはずです。そういうもうしあわせだったのです。それで、小林君は、明智先生とそっくりのやつが、飛びだしてきた町角を、じっと見つめていました。
 すると、その町角の、月かげになった軒下をつたって、チョロチョロと、リスのようにかけだしてくる、小さな人間の影が、かすかに見えました。三人です。たしかに明智先生に化けたやつを尾行しているのです。
 小林君はそれを見て、いよいよこいつは、二十面相にちがいないと思いました。それで、となりの運転手にあいずをして、グッと心をおちつけるようにして、待ちかまえていました。
 明智先生とそっくりのやつは、自動車のそばまでやってくると、「東京まで行けるか。」と声をかけました。声まで明智先生ににているのです。運転手が、行ってもいいと答えますと、その男は、いきなりドアをひらいて、客席に飛びこみました。そして、「全速力でやってくれ。」とどなりました。
 小林君は、自転車がすべりだした時、左手の窓ガラスを、指のつめで、コツコツ、コツコツコツ、コツとたたきました。これは明智先生と約束してある暗号通信でした。もし、あいてが明智先生だったら、この暗号にたいして、コツ、コツコツと返事をしてくれるはずです。それをしないやつは、いくらそっくりの姿をしていても、明智先生ではないのです。この男は、小林君の通信をたしかに聞いたのに、なにも返事をしません。これで、二十面相にちがいないことが、ハッキリわかりました。
「金はいくらでもだす。飛ばしてくれ。うんと飛ばしてくれ。」
 男はあせっています。小林君が運転助手に化けて、すぐ目の前にいることなど、すこしも気づいていないのです。
 車は広い京浜けいひん国道に出て、おそろしい速度で走っています。東のほうの空が、ポーッと明かるくなってきました。もう朝なのです。両側の工場や人家が、あとへあとへと、飛びさって行きます。国道には車も人も、じゃまになるものは、何もありません。
 怪人をのせた自動車は、無人のきょうを、黒い風のように飛んで行くのです。
 ふと気がつくと、うしろから強い光がさしていました。べつの自動車のヘッド・ライトです。小林君は窓から首をだして、うしろを見ました。客席の怪人も、うしろの窓をのぞいています。五十メートルほどあとに、二つのヘッド・ライトが、怪物の目のように、ランランと光っていました。その光がまぶしくて、車内の人などはすこしも見えません。
 こちらの車も全速力を出しているのですが、うしろの車は、もっと早いのです。まるできちがいのような速度です。
 明智探偵に化けた怪人は、不安らしくキョロキョロしていましたが、いきなり運転台にのしかかるようにして、
「オイ、あいつにぬかれるな。もっと速力をだせ。あいつをひきはなしたら、五千円のほうびだ。」
とどなりました。
 しかし、いくらどなられても、自動車の性能がおとっているのだから、しかたがありません。またたくひまに、その自動車は、すぐうしろに近づき、まぶしいヘッド・ライトで、こちらの車内を、いっぱいにてらしつけながら、アッと思うまに、追いこしてしまいました。
 こんどは、こちらのヘッド・ライトが、向こうをてらすことになりましたが、どうしたわけか、うしろの自動車番号の鉄板に、なにか布のようなものが、まきつけてあって、番号を読むことができません。むろん、車内灯はついていませんし、そのうえ、客席にいる人は、グッとうつむいているので、その服装さえわかりません。
 追いこした車は、ますますスピードをかけて、みるみる遠ざかって行き、いつのまにか影も見えなくなってしまいました。そのまま国道を走って行ったのか、わき道へそれたのか、それさえわからないのです。
 これで、その車が二十面相を、追っかけてきたのではないことが、ハッキリしました。もし、追っかけてきたのなら、逃げるように先へ行ってしまうはずがないからです。怪人はやっと安心したように、ゆったりと、クッションにもたれかかりました。
 いったい、あの自動車には、何者が乗っていたのでしょう。ひょっとしたら、ほんとうの明智探偵が、乗っていたのではないでしょうか。しかし、もしそうだとしたら、なぜ怪人をとらえないで、先へ走って行ってしまったのでしょう。
 それはともかく、やがて、だんだん空が明かるくなり、早起きの店などは、もう戸をひらきはじめました。そして怪人の自動車は、品川駅を通りすぎ、いよいよ東京の町にはいって行きました。

明智夫人の危難


 自動車が東京にはいると、怪人は、そこを右へ、そこを左へと、さしずして、車をすすめ、さいごにとまったのは、千代田区の明智探偵事務所から、半町ほどへだたった町角でした。
 アア、なんという大胆不敵、明智探偵に化けた二十面相は、探偵の不在を見こして、当の探偵事務所へのりこむつもりらしいのです。それにしても、明智のるす宅へのりこんで、いったい何をしようというのでしょう。
「三、四十分かかるかもしれないが、ここで待っててくれたまえ。これだけあずけておく。」
 二十面相はそう言って、何枚かの千円札を運転手にわたし、自分でドアをひらいて、探偵事務所まで、歩いて行きました。
 玄関のドアの横のベルをおして、しばらく待っていますと、ねむそうな顔をした女中が、目をこすりながら、ドアをひらきました。
「アラ、先生ですか。」
「ウン、ゆうべはてつやだった。文代はまだ寝ているだろうね。」
「エエ、おくさまは、まだおやすみです。お起こししましょうか。」
「ウン、起こしてくれ。そして、あつい紅茶を二ついれて、ぼくの部屋へ持ってくるんだ。」
「ハイ。」
 女中はすこしもうたがわないで、にせ探偵を中にいれると、いそいで明智夫人の文代さんを、起こしに行きました。
 にせ探偵は、明智のうちの間どりを、ちゃんと知っているらしく、そのまま、二階の明智の居間へ、階段をのぼって行きました。そこは、一方のすみにベッドがあり、安楽イスがいくつもおいてある、広い部屋でした。
 明智探偵になりすました二十面相は、まるで自分のうちへ帰ったように、ゆったりと安楽イスに腰をおろし、テーブルの上にあったシガレット入れから、一本とって、そこのライターで火をつけました。
 そうして、しばらく待っていますと、青いスカートに、はでな黄色のセーターを着た美しい文代さんが、ニコニコしながら、はいってきました。
「お帰りなさい。おつかれでしょう。心配してましたわ。二十面相、また逃げましたの?」
「ウン、例によって、てごわいあいてだよ。それでね、ぼくたちは、いそいで、この事務所を、からっぽにしなければならないんだ。きみとぼくと、一日だけ、ちょっとべつの場所へ、避難するんだ。むろん、これは、あいつをつかまえる作戦なんだよ。」
「マア、どこへ行きますの?」
「たいして遠くじゃない。自動車も待たせてある。」
 そこへ、女中が紅茶をはこんできました。にせの明智は、わざわざ戸口まで行って、そのぼんを受けとり、女中をたちさらせると、パタンとドアをしめましたが、そこから、もとのイスへ帰るあいだに、文代さんに背をむけて、てばやくポケットから、小さなビンを取りだし、その中の白い粉を、紅茶茶碗の一つに入れて、サジでかきまわしました。まるで手品師のような、早わざです。
 そして、なにくわぬ顔で、もとのイスにもどると、紅茶のぼんをテーブルにおき、
「大いそぎだが、お茶をのむひまぐらいはある。きみもおのみ。」
 そう言って、粉を入れたほうの紅茶を文代さんの手もとにおくのでした。ふたりは、その紅茶を、ゆっくり、のみおわりました。
「オヤ、どうしたんだい。へんな顔をして。」
「オオ、にがい。にがい紅茶ね。どうしたのかしら。」
「気のせいだよ。サア、したくだ、外出のしたくだよ。」
 しかし、文代さんは、立とうともしないで、じっと、にせ明智の顔を見つめています。
「オイ、どうしてぼくの顔を、そんなに見つめるんだ。なにかへんなところでもあるのかい。」
「へんだわ。あなたの顔、へんよ。」
 文代さんの目は、いたいほど、にせ明智の顔に、くいいっています。
「ハハハハハハ、何を言っているんだ。きみはまだ、寝ぼけているんだろう。」
「いいえ、そうじゃありません。あなた、明智小五郎じゃないわね。だれなの。あなた、いったい、だれなの?」
 文代さんは『吸血鬼』という事件で、えらい手がらをたてた美しい婦人探偵です。その事件のあとで、明智探偵と結婚したのです。ですから、変装を見やぶる、するどい目を持っています。二十面相の変装は、だれが見てもわからないほど、たくみなのですが、明智夫人の目を、ごまかすことはできなかったのです。
「ワハハハハハハハハ。」
 怪人は、さもおかしそうに、笑いだしました。文代さんの顔色を見て、もうごまかしてもだめだと、さとったからです。
「見やぶられたね。きみのよく知っている男さ。怪人二十面相、世間ではおれのことを、そう呼んでいる。ハハハハハハハ、明智はあるところへ、かんきんしてある。もう二度ときみにも、あえないだろうね。」
 文代さんはヨロヨロと立ちあがりました。そして、戸口のほうへ行こうとしたのですが、どうしたのか、歩く力もなく、べつのイスにたおれてしまいました。
「おくさん、もうだめだ。逃げようとしても、からだがいうことをきかない。くすりのせいだよ。いまの紅茶に麻酔薬を入れたのさ、マア、そこにじっとしておいで。ぼくが自動車まで、はこんであげるからね。」
 二十面相はにくにくしげに言うと、ウーンと両手をあげて、大きなあくびをしました。
「さて、出発するとなると、着がえを一、二枚持っていかなけりゃなるまい。洋服だんすは、ここだったね。」
 部屋の一方に、かんのんびらきの押入れがあって、その中が洋服かけになっているのです。二十面相はそういうことまで、ちゃんと知っていました。
 かれは、その押入れの前に行って、かんのんびらきに両手をかけ、いきなり、サッと、左右にひらきました。そして、ひらいたかと思うと、さすがの悪人も、アッとさけんだまま、棒立ちになってしまったのです。
 そこには、何があったのでしょう。
 ごらんなさい。押入れの中の洋服は、みなかぎからはずされて、ゆかに落ちています。そして、押入れの奥のかべが、すっかりあらわれているのですが、そのかべが、一けんほうもある、大きな一枚の鏡になっていて、そこに二十面相の全身がうつっていたではありませんか。いや、二十面相ではなくて、明智探偵の姿が、うつっていたのです。
 かれはアッと言って、あとじさりをしました。ところが、どうでしょう、鏡の中の影はあとじさりをしないのです。ぎゃくに、こちらへ近づいてくるのです。
 二十面相は、なんだかおそろしい夢を見ているような気がしました。それとも、自分は気でもちがったのではないかと、うたがいました。
 ためしに、こんどは、鏡のほうへ近づいてみました。そうすれば、自分の影が、向こうへあとじさりするかもしれないと思ったのです。しかし、こんどは、影のほうはじっとしています。こちらが動いても、向こうは動かないのです。
 手をあげてみました。向こうは手をあげません。笑ってみました。向こうはムッツリしています。
「きさまは、だれだッ。」
 ついにがまんがしきれなくなって、どなりました。すると、鏡の中の人物は、はじめて口を動かしました。笑ったのです。鏡の影が声をだして笑ったのです。
「アハハハハハハハ、だれだとは、こっちで言うことだよ。ぼくとおなじ顔をして、ぼくとおなじ服を着て、そして、ぼくのうちへ、むだんではいって来たやつはだれだッ。」
 鏡ではなかったのです。そこには、ほんものの明智小五郎が立っていたのです。名探偵が横浜の怪屋で、こんどはぼくが大魔術をえんじてみせると言ったのは、このことだったのです。押入れの中に鏡があったわけではありません。二十面相は、自分とそっくりの人が、押入れの中に立っていたので、鏡とまちがえてしまったのです。
 ほんとうの明智は、押入れの中から、つかつかと出てきました。明智がふたりになったのです。頭から足の先まで、すんぶんちがわない、ふたりの明智小五郎が、立ちはだかって、にらみあったのです。
 ほんとうの明智が、右手をあげて、にせもののうしろを、指さしました。にせものが、おどろいて、ふりむくと、そこには、麻酔薬で気をうしなったはずの文代さんが、イスにかけて、ニコニコ笑っていました。
「文代は婦人探偵なんだ。麻酔薬をのまされるようなボンクラじゃないよ。あの紅茶は、のむように見せて、すっかりハンカチにすわせてしまったんだ。文代のスカートのポケットには、グチャグチャになったハンカチが、はいっているはずだよ。」
「それじゃあ、この女は、おれが明智でないことを、はじめから、知っていたのか。」
「そうさ。ぼくの自動車は、京浜国道で、きみの自動車をぬいて、一足お先に、ここへついたのだからね。いまにきみがやって来るだろうと、うちじゅうで待ちかまえていたのさ。きみがここへ来ることは、ぼくにはちゃんとわかっていたのだよ。」
「ちくしょう。」
 二十面相はまっさおになって、唇をかみました。完全な敗北です。こんなひどい負け方は、はじめてです。かれは、血ばしった目で、キョロキョロとあたりを、見まわしました。
「かぶとをぬいだかね。」
 明智がニコニコして言いました。
「ぬぐもんかッ。」
 二十面相はまだやせがまんを、言っています。かみしめた下唇から、血がにじみだして、むねんの形相ぎょうそうは、おそろしいほどです。
「それじゃあ、どうするんだ。」
 二十面相はクルッと窓のほうを向きました。
「こうするんだッ。」
 さけんだかと思うと、かれはサッと窓にかけより、ガチャンとガラス戸をやぶって、弾丸のように、そこから飛びだしたのです。二階から地上へ飛びおりたのです。
「アラ、あなた!」
 文代さんがびっくりしてさけびました。
「なあに、心配しないでもいい。ちゃんと、手はずができているんだ。やつはもう、ふくろのネズミだよ。」
 名探偵はすこしもさわがず、文代さんに何事かささやいておいて、そのまま部屋を出て行きました。

機動警察隊


 怪人を乗せてきた自動車は、もとの町角で、じっと待っていました。小林少年も運転手のとなりに、腰かけたままです。どうして尾行もしないで、のんきらしくかまえていたのでしょう。それにはわけがあったのです。
 にせの明智がたちさって、まもなく、ほんとうの明智探偵が、自動車に近づいて、小林君に耳うちしました。コツ、コツコツコツ、コツコツというあいずで、それがほんとうの明智先生であることが、わかったのです。その時、探偵は小林君に、なにか黒い小さなものを二つ手わたしました。小林君はその一つを、となりの運転手にわたし、一つは自分のポケットに入れました。
 それから三十分あまり、待ちかねているところへ、また明智探偵がやってきました。
 こんどはにせものです。コツコツのあいずをしないからです。
 にせものは、あわただしく自動車に乗りこむと、
「全速力だッ。渋谷駅へ飛ばせろ。それからさきはおれがさしずする。」
とどなりました。
 運転手は言われるままに、車をすすめます。命令どおりの大速力です。
 しばらくすると、にせ明智が、へんな顔をして、窓の外を見ました。
「オイ、運転手、方角がちがうじゃないか。渋谷だ。渋谷駅へ行くんだ。」
 しかし、運転手は返事もしないで、だまりこくって、運転しています。方向をかえるようすはすこしもありません。
「コラ、聞こえないのか。きさま、どこへ行くつもりだッ。渋谷と言うのがわからないのかッ。」
 にせ明智は、ふたたび、おそろしい声でどなりました。
 すると、そのとき、へんなことがおこったのです。運転手はとつぜん、車をとめて、客席のほうへ、からだをねじ向けました。小林君もおなじように、うしろ向きになりました。四つの目がじっと、にせ明智をにらみつけ、ふたりとも小がたのピストルを持って、その筒口を、にせ明智の胸に向けていたのです。
「手をあげろ。」
 ふたりが口をそろえて、切りつけるように、さけびました。
 にせものは、思わず両手を肩のへんにあげて、キョロキョロと目を動かしました。すきがあれば、ドアをあけて、自動車から飛びだそうという身がまえです。
「窓の外をのぞいてごらん。逃げるにはもうおそいよ。」
 小林少年が、勝ちほこったように、どなりつけました。
 にせ明智が思わずのぞく窓の外。アア、いつのまに、そんな用意ができていたのでしょう。自動車の横にも、うしろにも、びっくりするほどの警官隊が、つめかけていたのです。オートバイが三台、警察自動車が三台、それに乗った警官の数は、二十人いじょうなのです。
「オイ、二十面相君、おどろいたかい。ぼくをだれだと思う? きみにさんざんひどいめにあった小林だよ。明智先生の少年助手だよ。ハハハハハ、きみは方角がちがうと言ったね。方角なんかちがうもんか。行く先は警視庁にきまってるじゃないか。あのオートバイと、警察自動車に護送されて、警視庁行きだよ。わかったかい。明智先生がちゃんと電話をかけて、警官隊を呼びよせておいたんだ。この自動車が出発する時から、あとをつけていたんだよ。これが機動警察って言うんだよ。ホラごらん、あの自動車には銀色のひげがはえているだろう。イナゴのように、ピンと一本、銀の触角しょっかくを立ててるだろう。あれがラジオ・カーさ。警視庁本部とたえずラジオで連絡しながら、きみを追っかけていたんだよ。教えてやろうか。あの自動車にはね、ぼくの先生の、ほんとうの明智探偵が乗っているんだよ。きみを中村捜査係長にひきわたすためにね。」
 小林君はこれだけおしゃべりをすると、スーッとりゅういんがさがったような気がしました。
 そして、自動車はまた進行をはじめました。言うまでもなく警視庁へです。さすがの二十面相も、あきらめはてたように、グッタリとクッションに、もたれこんでいます。いかな魔法使いも、こうなっては、もう手も足も出ないのです。
 オオ、ごらんなさい。向こうに警視庁のいかめしい建物が見えてきました。グングン近づいていきます。わきの入り口の石段が見えます。石段の上に立っているのは中村係長です。そのうしろには、捜査第一課長のふとった顔も見えています。それから、そのそばに、子どもが三人いるのはだれでしょう。アア、わかった。花田君、石川君、田村君、少年探偵団の三人です。心配なものだから、警察のおじさんにたのんで、わざわざ、やってきたのでしょう。
 小林少年はもうゆかいで、たまりませんでした。明智先生といっしょに、怪人二十面相の両手をとって、あの石段をのぼり、捜査課長と係長に、ひきわたす時のありさまを考えると、うれしさに胸がドキドキしてきました。
「明智先生、バンザーイ。」
 小林君は思わず、心の中で、そうさけばないではいられませんでした。





底本:「虎の牙/透明怪人」江戸川乱歩推理文庫、講談社
   1987(昭和62)年12月8日第1刷発行
初出:「少年」光文社
   1950(昭和25)年1月号〜12月号
入力:sogo
校正:大久保ゆう
2017年3月11日作成
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