疑惑

江戸川乱歩




一、その翌日


「お父さんが、なくなられたと、いうじゃないか」
「ウン」
矢張やっぱり本当なんだね。
 だが、君は、今朝の○○新聞の記事を読んだかい。一体あれは、事実なのかい」
「…………」
「オイ、しっかりしろよ。心配して聞いているのだ。何とかいえよ」
「ウン、有難う。……別にいうことはないんだよ。あの新聞記事が正しいのだ、昨日きのうの朝、目を覚ましたら、うちの庭で、親父おやじが頭をられて倒れていたのだ。それだけのことなんだ」
「それで、昨日、学校へ来なかったのだね。……そして、犯人はつかまったのかい」
「ウン、嫌疑者は二三人あげられた様だ。しかしまだ、どれが本当の犯人だか分らない」
「お父さんはそんな、うらみを受ける様な事をしていたのかい。新聞には遺恨いこんの殺人らしいと出ていたが」
「それは、していたかも知れない」
「商売上の……」
「そんな気のきいたんじゃないよ。親父のことなら、どうせ酒の上の喧嘩が元だろうよ」
「酒の上って、お父さんは酒くせでも悪かったのかい」
「…………」
「オイ、君は、どうかしたんじゃないかい。……アア、泣いているね」
「…………」
「運が悪かったのだよ。運が悪かったのだよ」
「……おれはくやしいのだ。生きている間は、さんざんお袋やおれ達を苦しめておいて、それけでは足らないで、あんな恥さらしな死に方をするなんて、……おれは悲しくなんぞ、ちっともないんだよ。くやしくて仕様がないのだ」
「本当に、君は、今日は、どうかしている」
「君に分らないのはもっともだよ。いくら何でも、自分の親の悪口をいうのは、いやだったから、おれは今日まで、君にさえ、これっぱかりも、そのことを話さなかったのだ」
「…………」
「おれは、昨日から、何ともいえない変てこな気持なんだ。親身の父親が死んだのを悲しむことが出来ない。……いくらあんな父親でも、死んだとなれば、定めし悲しかろう。おれはそう思っていた。ところが、おれは今、少しも悲しくないんだよ。しも、あんな不名誉な死に方でさえなかったなら、死んでれて助かった位のものだよ」
「本当の息子から、そんな風に思われるお父さんは、しかし、不幸な人だね」
「そうだ、あれがどうすることも出来ない親父の運命だったとしたら、考えて見れば、気の毒な人だ。だが、今、おれにはそんな風に考える余裕なんかない。ただ、いまいましいばかりだ」
「そんなに……」
「親父は、じいさんが残して行った、わずかばかりの財産を、酒と女に使い果す為に生れて来た様な男なんだ。みじめなのは母親だった。母が、どんなにがた辛抱しんぼうをし通して来たか、それを見て、子供のおれ達が、どんなに親父をにくんだか。……こんなことをいうのはおかしいが、おれの母は実際驚くべき女だ。二十余年の間、あの暴虐を堪え忍んで来たかと思うとおれは涙がこぼれる。今おれがこうして学校へ通っていられるのも、一家の者が路頭に迷わないで、ちゃんと先祖からの屋敷に住んでいられるのも、みんな母親の力なんだ」
「そんなに、ひどかったのかい」
「そりゃ君達には、とても想像も出来やしないよ。この頃では、ことにそれがひどくなって、毎日毎日あさましい親子げんかだ。年がいもなく、だらしなく酔っぱらった親父が、どこからか、ひょっこり帰って来る。――親父はもう、酒の中毒で、朝から晩まで、酒なしには生きていられないのだ。――そして、母親が出迎えなかったとか、変な顔つきをしたとか、実にくだらない理由で、すぐに手を上げるんだ。この半年ばかりというもの、母親はからだに生傷なまきずが絶えないのだ。それを見ると、兄貴がかんしゃくもちだからね――歯ぎしりをして、親父に飛びかかって行くのだ……」
「お父さんは、いくつなんだい」
「五十だ、君はきっと、その年でといぶかしく思うだろうね。実際親父はもう、半分位気が違っていたのかも知れない。若い時分からの女と酒の毒でね。……夜など、何の気なしにうちに帰って、玄関の格子こうしを開けると、そこの障子しょうじに、ほうきを振り上げて、仁王立ちになっている兄貴の影がうつっていたりするのだ。ハッとして立ちすくんでいると、ガラガラというひどい音がして、提燈ちょうちんの箱が、障子をつき抜けて飛んで来る。親父が投げつけたんだ。こんなあさましい親子が、どこの世界にある……」
「…………」
「兄貴は、君も知っていた通り、毎日横浜よこはまへ通って、○○会社の通訳係をやっているんだが、気の毒だよ、縁談があっても、親父のためにまとまらないのだ。そうかといって、別居する勇気もない、みじめな母親を見捨てて行く気には、どうしてもなれないというのだ。三十近い兄貴が、親父ととっ組あったりするといったら、君にはおかしく聞えるかも知れないが、兄貴の心持になって見ると、実際無理もないんだよ」
「ひどいんだねえ」
「おとといの晩だったて[#「晩だったて」はママ]、そうだ。親父は珍しくどこへも出ないで、その代りに朝起きるとから、もう酒だ。一日中ぐずぐずくだをまいていたらしいのだが、夜十時頃になって、母親が余りのことに、少しおかんをおくらすと、それからあばれ出してね。とうとう、母親の顔へちゃわんをぶっつけたんだよ。それが、丁度鼻柱へ当って、母親はしばらく気を失った程だ。すると、兄貴がいきなり親父に飛びついて胸ぐらをとる、妹が泣きわめいて、それを止める、君、こんな景色が想像出来るかい。地獄だよ、地獄だよ」
「…………」
「若しこの先、何年もああいう状態が続くのだったら、おれ達は到底堪え切れなかったかも知れない。母親なんか、その為に死んでしまったかも知れない。あるいはそうなるまでにおれ達兄弟のたれかが、親父を殺して了ったかも知れない。だから、本当のことをいえば、おれの一家は、今度の事件で救われた様なものなんだよ」
「お父さんがなくなったのは、昨日の朝なんだね」
「発見したのが五時頃だったよ、妹が一番早く目を覚したんだ。そして、気がつくと、縁側の戸が一枚開いている。親父の寝床がからっぽだったので、てっきり親父が起きて庭へ出ているのだろうと思ったそうだ」
「じゃ、そこからお父さんを殺した男が、はいったんだね」
「そうじゃないよ。親父は庭でやられたんだよ。その前の晩に、母親が気絶する様な騒ぎがあったので、さすがの親父も眠れなかったと見えて、夜中に起きて、庭へ涼みに出たらしいのだ。次の部屋に寝ていた母親や妹は、ちっとも気がつかなかった相だけれど、そういう風に、夜中に庭へ出て、そこにおいてある、大きな切石の上に腰かけて涼むのが親父のくせだったから、そうしている所をうしろから、やられたに相違ない」
「突いたのかい」
「後頭部を、余り鋭くない刄物で、なぐりつけたんだ、斧とかなたとかいう種類のものらしいのだ、そういう警察の鑑定なんだ」
「それじゃ兇器が、まだ見つからないのだね」
「妹が母親を起して、二人が声をそろえて、二階に寝ていた兄貴とおれを呼んだよ。うわずった、その声の調子で、おれは、親父のがいを見ない先に、すっかり事件がわかったような気がした。妙な予感というようなものが、ずっと以前からあった。それで、とうとう来たなと思った。兄貴と二人で、大急ぎで降りて行って見ると、一枚開いた雨戸の隙間から、活人画の様に、明い庭の一部が見え、そこに、親父が非常に不自然な恰好をしてうずくまっていた。妙なものだね、ああいう時は。おれは暫く、お芝居を見ている様な、まるで傍観的な気持になっていたよ」
「……それで、いつ頃だろう、実際兇行の演じられたのは」
「一時頃っていうんだよ」
「真夜中だね。で、嫌疑者というのは」
「親父をにくんでいたものは沢山ある。だが、殺す程もにくんでいたかどうか。いて疑えば、今あげられている内に一人、これではないかと思うのがある。ある小料理屋で、親父になぐられて、大怪我をした男なんだがね、療治代りょうじだいを出せとか、何とかいって度々たびたびやって来たのを、親父はその都度つど怒鳴りつけて追い返したばかりか、最後には、母親なんかの留めるのを聞かないで、巡査を呼んで引渡しさえしたんだよ。こっちは零落れいらくはしていても、町での古顔ふるがおだし、先方はみすぼらしい、労働者みたいな男だから、そうなると、もう喧嘩けんかにならないんだ。……おれは、どうもそいつでないかと思うのだ」
「しかし、おかしいね。夜中に、大勢家族のある所へ、忍び込むなんて、なりむつかしい仕事だからね。ただ、なぐられた位の事でそれ程の危険を冒してまで、相手を殺す気持になるものかしら。それに、殺そうと思えば、家の外でいくらも機会がありそうなものじゃないか、……一体、曲者くせものが外から忍び込んだという、たしかな証拠でもあったのかい」
「表の戸締りが開いていたのだ。かんぬきがかかっていなかったのだ、そして、そこから、庭へ通ずる枝折戸しおりどには錠前がないのだ」
「足跡は」
「それは駄目だよ。このお天気で、地面がすっかりかわいているんだから」
「……君の所には、やといにんはいなかった様だね」
「いないよ……ア、では、君は、犯人は外部からはいったのではないと。……そんな、そんなことが、いくらなんでも、そんな恐ろしいことが。きっとあいつだよ。その親父になぐられた男だよ。労働者の、命知らずなら、危険なんか考えてやしないよ」
「それは分らないね、でも……」
「ああ君、もうこんな話はそう。何といって見た所で、済んでしまったことだ、今更どうなるものじゃない。それに、もう時間だよ。ぽつぽつ教室へはいろうじゃないか」

二、五日目


「それじゃ、君は、お父さんを殺した者が、君の家族のうちにあるとでもいうのかい」
「君は、この間、犯人は外からはいったのではないという様なこうふんらしていたね。あの時は、そんなことを聞くのが嫌だったので――というのが、いくらかおれもそれを感じていて、痛い所へさわられた様な気がしたんだね――君の話を中途でめさせてしまったが、今、おれは、その同じ疑いに悩まされているのだ。……こんなことは無論むろん他人に話す事柄じゃない。出来るならだれにもいわないでおこうと思っていた。だが、おれはもう苦しくってたまらないのだ。せめて、君だけには相談に乗ってもらいたくなった」
「で、つまり、だれをうたぐっているのだ」
「兄貴だよ。おれにとっては血を分けた兄弟で、死んだ親父にとっては、真実の息子である、兄貴を疑っているのだ」
「嫌疑者は白状したのか」
「白状しないのみか、次から次へと、反証が現れて来るのだ。裁判所でも手こずっているというのだ。よく刑事がたずねて来ては、そんな話をして帰る。それが矢張やはり、考え様によっては、その筋でも、おれの家のものを疑っていて、様子を探りに来るのかも知れないのだ」
「だが、君は少し神経が鋭敏になり過ぎてやしないのかい」
「神経だけの問題なら、おれはこんなに悩まされやしない。事実があるんだ。……この間は、そんなものが事件に関係を持っていようとは思わず、殆ど忘れていた位で、君にも話さなかったが、おれはあの朝、親父のがいのそばで、クチャクチャに丸めた麻のハンカチを拾ったのだよ。随分よごれていたけれど、丁度、印を縫いつけた所が、外側に出ていたので、一目で分った。それは兄貴とおれの外には、だれも持っているはずのない品物だった。親父は古風に、ハンカチを嫌って、手ぬぐいをたたんでふところに入れているくせだったし、母親や妹は、ハンカチは持つけれど、無論女持の小さい奴で、まるで違っていた。だから、そのハンカチを落したのは、兄貴かおれかどちらかに相違ないのだ。ところが、おれは親父の殺される日まで、ずっと四五日の間も、その庭へ出たことはないし、最近にハンカチをなくした覚えもない。とすると、その親父のがいのそばに落ちていたハンカチは、兄貴の持物だったと考えるほかはないのだ」
「だが、お父さんが、どうかしてそれを持っていられたという様な……」
「そんなことはない。親父は、ほかのことではずぼらだけど、そういう持物なんかには、なかなか几帳面きちょうめんな男だった。これまで、一度だって、他人のハンカチを持っていたりしたのを見たことがない」
「……しかし、若しそれが兄さんのハンカチだったとしても、必ずしもお父さんの殺された時に落したものとは限るまい。前日に落したのかも知れない。もっと前から落ちていたのかも知れない」
「ところが、その庭は、一日おき位に、妹が綺麗に掃除することになっていて、ちょうど、事件の前日の夕方も、その掃除をしたのだ。それから、皆が寝るまで、兄貴が一度も庭へ下りなかったことも分っている」
「じゃ、そのハンカチをこまかに調べて見たら、何か分るかも知れないね。例えば……」
「それは駄目だ。おれはその時だれにも見せないで、すぐ便所へほうり込んでしまった。何だかけがらわしい様な気がしたものだから。……だが、兄貴を疑う理由はそれだけじゃないんだよ。まだまだ色々な事実があるんだ。兄貴とおれとは、部屋が違うけれど、同じ二階に寝ているのだが、あの晩一時頃には、どういう訳だったかおれは寝床の中で目を覚していて、丁度その時、兄貴が階段を下りて行く音を聞いたのだ。当時は便所へ行ったのだろう位に思って、別段気にとめなかったが、それから階段を上る跫音を聞くまでには大分だいぶ時間があったから、疑えば疑えないことはない。それと、もう一つ、こんなこともあるんだ。親父の変死が発見された時、兄貴もおれもまだ寝ていたのを、母親と妹のあわただしい呼声に、驚いて飛起きて、大急ぎで下におりたんだが、兄貴は、寝間着ねまきをぬいで、着物をはおったまま、帯も締めないで、それを片手につかんで、縁側の方へ走って行った。ところがね、縁側の靴ぬぎ石の上へ、はだしでおりたかと思うと、どういう訳だか、そこへピッタリ立止って了ったんだ、考え様によっては、親父の死骸を見て、余りの事にためらったのかとも思われるが、しかし、それにしては、なぜ、手に持っていた兵児帯へこおびを、沓脱石くつぬぎいしの上へ落したのだ。兄貴はそれ程驚いたのだろうか。これは兄の日頃の気性から考えて、どうもうけとれないことだ。落したばかりならいい。落したかと思うと、大急ぎで拾い上げた。それがね、おれの気のせいかも知れないけれど、拾い上げたのは、どうやら、帯丈けではなかったらしいのだ。何だか黒い小さな物が(それは一目で持主のわかる、たとえば財布という様なものだったかも知れない)石の上に落ちていたのを、咄嗟とっさの場合、先ず帯を落して隠しておいて、拾う時には帯の上から、その品物も一緒につかみとった様に思われるのだ。それは、おれの方でも気が転倒している際だし、本当に一しゅん間の出来事だったから、ひょっとすると、おれの思い違いかも知れない。しかし、ハンカチのことや、丁度その時分に階下へおりたことや、何よりも、この頃の兄貴のそぶりを考え合せると、もう疑わない訳には行かぬ。親父が死んでからというもの、家中の者が、何だか変なんだ。それは単に家長かちょうの死を悲しむという様なものではない。それ以上に、何だかえたいの知れぬ、不愉快な、薄気味の悪い、一種の空気が漂っている。食事の時なんか、四人の者が顔を合せても、だれも物をいわない。変にじろじろ顔を見合せている。その様子が、どうやら、母親にしろ、妹にしろ、おれと同じ様に兄貴を疑っている鹽梅あんばいなのだ。兄貴は兄貴で、妙に青い顔をして黙り込んでいる。実に何とも形容の出来ない。いやあないやあな感じだ。おれはもう、あんなうちの中にいるのは堪まらない。学校から帰って、一歩家の敷居をまたぐと、ゾーッと陰気な風が身にしみる。家長を失って、たださえさびしい家の中に、母親と三人の子供が、黙り込んで、てんでに何かを考えて、顔を見合せてばかりいるのだ。……ああ堪まらない堪まらない」
「君に話しを聞いていると怖くなる。だが、そんなことはないだろう。まさか兄さんが……君は実際鋭敏過ぎるよ。取こし苦労だよ」
「いや、決してそうじゃない。おれの気のせいばかりではない。もし理由がなければだが、兄貴には、親父を殺すだけの、ちゃんと理由がある。兄貴が親父の為にどれ程苦しめられていたか、したがって親父をどんなににくんでいたか。……殊にあの晩は、母親が怪我までさせられているのだ。母親思いの兄貴が、げきこうの余り、ふと飛んでもない事を考えつかなかったとはいえない」
「…………」
「…………」
「恐しいことだ、だが、まだ断定は出来ないね」
「だからね、おれは一層堪まらないのだ。どちらかに、たとえ悪い方にでも、きまってれれば、まだいい、こんな、あやふやな、恐しい疑惑にとじ込められているのは、本当に堪まらないことだ」
「…………」

三、十日目


「オイ、Sじゃないか。どこへ行くの」
「アア……別に……」
「馬鹿にしょうすいしているじゃないか。例のこと、まだ解決しないの?」
「ウン……」
「あんまり学校へ来ないものだから、今日はこれから、君の所をたずねようと思っていたのさ。どっかへ行く所かい」
「イヤ……そうでもない」
「じゃ、散歩っていう訳かい。それにしても、妙にフラフラしているじゃないか」
「…………」
「丁度いい。その辺までつきあわないか。歩きながら話そう。……で、君はまだ何か煩悶はんもんしているんだね。学校へも出ないで」
「おれはもう、どうしたらいいのか、考える力も何も、なくなってしまった。まるで地獄だ。家に居るのが恐しい……」
「まだ犯人がきまらないのだね。そして、やっぱり兄さんを疑っているの」
「もう、その話は止してくれたまえ、何だか息が詰まる様な気がする」
「だって、一人でくよくよしてたってつまらないよ。話して見給え、僕にだってまたいい智慧ちえがないとも限らない」
「話せといっても、話せるような事柄じゃない。家中の者が、お互同志疑いあっているのだ。四人の者が一つ家にいて、口もきかないで、にらみあっているのだ。そして、たまに口をきけば、刑事か、裁判官のように、相手の秘密を、さぐり出そう、としているのだ。それが、みんな血を分けた肉親同志なんだ。そして、その内のだれか一人が、人殺し――親殺しか、夫殺し――なんだ」
「それはひどい。そんな馬鹿なことがあるものじゃない。きっと君はどうかしているんだ。神経衰弱の妄想かも知れない」
「イイヤ、決して妄想じゃない、そうであって呉れると助かるのだが」
「…………」
「君が信じないのは無理もない。こんな地獄が、この世にあろうとは、たれにしたって想像も出来ないことだからな。おれ自身も、何だか悪夢にうなされているような気がする。このおれが、親殺しの嫌疑で、刑事に尾行されるなんて。……シッ、うしろを向いちゃいけない。すぐそこにいるんだ。この二三日、おれが外に出れば、きっとあとをつけている」
「……どうしたというのだ。君が嫌疑を受けているのだって?」
「おればかりじゃない。兄きでも妹でも、みんな尾行がつくのだ。家中が疑われているのだ。そして、家の中でもお互が疑いあっているのだ」
「そいつは……だが、そんな疑いあう様な新しい事情でも出来たのかい」
「確証というものは一つもない。ただ疑いなんだ。嫌疑者がみんな放免になってしまったのだ。あとには、家内の者でも疑うほかに方法がないのだ。警察からは毎日の様にやって来る。そして、家中の隅から隅まで調べ廻る。この間も、タンスの中から血のついた母親の浴衣ゆかたが出た時なんか、警察の騒ぎ様ったらなかった。ナアニ、何でもないのだ。事件の前晩に、親父から茶碗を投げつけられた時の血が、洗ってなかったのだ。おれがそれを説明してやると、その場は一時収まったが、それ以来、警察の考えが一変してしまった。親父がそんな乱暴者だったとすると、なおさら家内の者が疑わしいという論法らしいのだ」
「この間は、君はひどく兄さんを疑っていた様だが……」
「もっと低い声でいってくれ給え、うしろの奴に聞えるといけない。……ところが、その兄きは兄きで、たれかを疑っている。それがどうも、母親らしいのだ。兄きがさも何気ない風で、母親に聞いていたことがある。お母さんくしをなくしやしないかって。すると母親がびっくりした様に、息を呑んで、お前どうしてそんなことを聞くのだと反問した。それっ切りのことだ。取様によっては、なんでもない会話だ。だが、あれにはギックリと来た。さては、この間兄きが帯で隠したのは、母親の櫛だったのかと……」
「…………」
「それ以来、おれは母親の一挙一動に注意する様になった。何という浅ましいことだろう。息子が母親を探偵するなんて。おれはまる二日の間というもの、蛇のように目を光らせて、隅の方から母親を監視していた。恐しいことだ。母親のそぶりは、どう考えて見てもおかしいのだ。何となくソワソワと落ちつかないのだ。君、この気持が想像出来るか。自分の母親が自分の親父を殺したかも知れないという疑い。それがどんなに恐しいものだか。……おれはよっぽど兄きに聞いて見ようかと思った。兄きはもっと外のことを知っているかも知れないのだから。だが、どうにも、そんなことを聞く気にはなれない。それに、兄きの方でも、何だかおれの質問を恐れでもするように、近頃はおれから逃げているのだ」
「何だか耳にふたしたい様な話しだ。聞いている僕がそうなんだから、話している君の方は、どんなにか不愉快だろう」
「不愉快という様な感じは、もう通り越してしまった。近頃では、世の中が、何かこう、まるで違った物に見える。ああして、往来を歩いている人達の暢気相のんきそうな、楽天的な顔を見ると、いつも不思議な気がする。あいつらだって、あんな平気な顔をしているけれど、きっと親父やお袋を殺しているのだ、なんて考えることがある。……大分離れた。尾行の奴、人通りが少くなったものだから、一町もあとからやって来る」
「だが君、たしかお父さんの殺された場所には、兄さんのハンカチが落ちていたのではないか」
「そうだ。だから、まるきり兄きに対する疑いがはれた訳ではないのだ。それに、母親にしたって、疑っていいのか、どうか、はっきりは分らない。妙なことには、母親は母親で、また、たれかを疑っているのだ。まるで、いたちごっこだ。こっけいな意味でではなく、何ともいえぬものすごい意味で。……昨日の夕方のことだ。もう大分暗くなっていた。何の気なしに、二階から降りて来ると、そこの縁側に母親が立っているのだ。何かをソッとうかがっているという様子だ。いやに眼を光らせているのだ。そして、おれが降りて来たのを見ると、ハッとした様に、なく部屋の中へはいってしまった。その様子が如何にも変だったので、おれは母親の立っていた場所へ行って、母親の見つめていた方角を見た」
「…………」
「君、そこに何があったと思う。その方角には、若い杉の樹立こだちが茂っていて、葉と葉の間から、稲荷いなりを祭った小さなほこらがすいて見えるのだが、そのほこらうしろに、何だかチラチラと赤いものが見えたり隠れたりしているのだ。よく見ると、それは妹の帯なんだ。何をしているのか、こちらからは、帯のはししか見えないから、少しも分らないけれど、そんなほこらのうしろなんかに、用事のあろうはずはない。おれはもう一寸で、声を出して、妹の名前を呼ぶ所だった。が、ふと思い出したのは、さっきの母親の妙なそぶりだ。それと、おれがほこらの方を見ている間中、背中に感じた、母親の凝視だ、これはただ事でないと思った。若しかしたら、すべての秘密があのほこらの後に隠されているのではないか、そして、その秘密を妹が握っているのではないか、直覚的にそんなことを感じた」
「…………」
「おれは、自分でそのほこらのうしろを探って見ようと思った。そして、昨日の夕方から今しがたまで、一生懸命にそのおりを待っていた。だが、どうしても機会がないのだ。第一母親の目が油断なくおれのあとを追っている。一寸便所へはいっても、用を済ませて出て来ると、ちゃんと母親が縁側へ出て、それとなく監視している。これはおれの邪推じゃすいかも知れない。出来るならそう思いたい。だが、あれが偶然だろうか。昨日から今朝にかけておれの行く所には必ず母親の目が光っているのだ。それから、不思議なのは妹のそぶりだ。……
 君も知っている通り、おれはよく学校をなまける。だから、近頃ずっと休んでいるのを、たれも別にあやしまない。ところが、妹の奴、兄さんは何故学校へ出ないのだと聞くのだ。今まで一度だってそんなことを聞いたことはないのに、事件があってから、二度も同じことを聞くのだ。そして、その時の眼つきが実に妙なんだ、まるで泥坊同志が合点がってん合点をする様な調子で、何もかも呑み込んでいるから安心しろという、どう考えても、そうとしかとれない様な合図をするのだ。妹はてっきりこのおれを疑っているのだ。その妹の目も光っている。やっとのことで、母親と妹の目をのがれて庭へ出て見ると、あいにく、二階の窓から兄きがのぞいている。そんな風でどうしても機会がないのだ。……
 それに、たとえ機会が与えられたとしても、ほこらのうしろを見ることは、非常な勇気のる仕事だ。イザとなったら、おれにはこわくて出来ないかも知れぬ。だれが犯人だかきままらないのも[#「きままらないのも」はママ]、無論堪まらないことだ。といって、肉親のうちのだれかに相違ない犯人を、確めるというのは、これも恐しい。ああ、おれは一体どうしたらいいのだ」
「…………」
「つまらないことをいっている間に、妙な所へ来てしまったね、ここは一体何という町だろう。ボツボツあと戻りをしようじゃないか」
「…………」

四、十一日目


「おれはとうとう見た。例のほこらのうしろを見た……」
「何があった?」
「恐しいものが隠してあった。昨夜、皆の寝しずまるのを待って、おれは思い切って庭へ出た。下の縁側からは、母親と妹がすぐそばで寝ているので、とても出られない。そうかといって表口から廻るにも、彼等のまくらもとを通らなければならぬ。そこで、おれは二階の自分の部屋が、丁度庭に面しているのをさいわい、そこの窓から屋根を伝って地面へ降りた。月の光が昼の様にその辺を照らしていた。おれが屋根を伝う怪しげな影が、クッキリと地面にうつるのだ。何だか自分が恐しい犯罪者になった様な気がした。親父を殺したのも実はこのおれだったのではないか、ふっとそんなことを考えた。おれは夢遊病の話しを思い出した。いつかの晩も、やっぱりこんな風にして、屋根を伝って、親父を殺しに行ったのではないか。……おれはゾーッと身ぶるいがした。だが、よく考えて見れば、そんな馬鹿馬鹿しいことがあろう道理はないのだ。あの晩、親父の殺された刻限には、おれはちゃんと自分の部屋で目をさましていたはずだ。
 おれは跫音あしおとに注意して、例のほこらのうしろへ行った。月の光でよく見ると、ほこらのうしろの地面に、掘返したあとがあった。サテはこれだなと思って、手で土をかき分けて見た。一寸二寸とほって行った。すると、存外浅い所に手ごたえがあった。とり出して見ると、それは見覚えのある。自分のうちおのだった。赤くさびた刃先の所に、月の光でも見分けられる程、こってりと黒い血のかたまりがねばりついていた……」
「斧が?」
「うん、斧が」
「それを、君の妹さんが、そこへ隠しておいたというのか」
「そうとしか考えられない」
「でも、まさか妹さんが下手人げしゅにんだとは思えないね」
「それは分らない。たれだって疑えば疑えるのだ。母親でも、兄でも、妹でも、またおれ自身でも、みんなが親父には恨を抱いていたのだ。そして、恐らくみんなが親父の死を願っていたのだ」
「君のいい方は、あんまりひどい。君や兄さんはかく、お母さんまでが、長年つれ添った夫の死を願っているなんて、どんなにひどい人だったか知らないが、肉親の情というものはそうしたものじゃないと思う。君にしたって、お父さんがなくなった今では、やっぱり悲しいはずだ……」
「それが、おれの場合は例外なんだ。ちっとも悲しくないんだ。母にしろ、兄にしろ、妹にしろ、たれ一人悲しんでやしないんだ。非常に恥しいことだが、実際だ。悲しむよりも恐れているのだ。自分達の肉親から、夫殺しなり親殺しなりの、重罪人を出さねばならぬことを恐れているのだ。外の事を考える余裕なんかはないのだ」
「その点は、本当に同情するけれど、……」
「だが、兇器は見つかったけれど、下手人がだれであるかは少しも分らない。やっぱり真暗まっくらだ。おれは斧を元の通り土に埋めておいて、屋根伝いに自分の部屋へ帰った。それから一晩中、まんじりともしなかった。さまざまな幻が、モヤモヤと目先に現れるのだ。お袋が般若はんにゃの様な恐ろしい形相ぎょうそうをして、両手で斧をふり上げている所や、兄きが顔に石狩川の様なかんしゃく筋を立てて、何とも知れぬおめき声を上げながら、兇器をふり下している所や、妹が何かを後手うしろでに隠しながら、ソロリソロリと親父の背後へ迫って行く光景や」
「じゃ君は昨夜寝なかったのだね。道理で何だかこうふんしていると思った。君は平常ふだんから少し神経過敏の方だ。それがそうこうふんしちゃ身体に触るね。ちっと落ついたらどうだ。君の話しを聞いていると、あんまり生々しいので、気持が悪くなる」
「おれは平気な顔をしている方がいいのかも知れない。妹が兇器を土に埋めた様に、この発見を、心の底へ埋めてしまった方がいいのかも知れない。だが、どうしても、そんな気になれないのだ。無論、世間に対しては絶対に秘密にしておかねばならぬけれど、少くともおれ丈けは、事の真相を知りたいのだ。知らねばどうしても安心が出来ないのだ。毎日毎日家中のものが、おたがいがお互を探りあっている様な生活は堪まらないのだ」
「今更いっても無駄だけれど、君は一体、そんな恐しい事柄を、他人のおれに打開うちあけてもいいのかい。最初はおれの方から聞き出したのだが、この頃では、君の話を聞いていると恐しくなる」
「君は構わない。君がおれを裏切ろうとはおもわない。それに、だれかに打開けでもしないと、おれはとても堪まらないのだ。不愉快かも知れないけれど、相談相手になってくれ」
「そうか、それならいいけれど。で、君はこれから、どうしようというのだい」
「分らない。何もかも分らない、妹自身が下手人かも知れない。それとも、母親か、兄きか、どっちかをかばう為に兇器を隠したのかも知れない。それから、分らないのは妹がおれを疑っている様なそぶりだ。どういう訳で、奴はおれを疑うのだろう。あいつの目つきを思い出すと、おれはゾーッとする。若い丈けに敏感な妹は、何かの空気を感じているのかも知れない」
「…………」
「どうも、そうらしい。だが、それが何だか少しも分らないのだ。おれの心の奥の奥で、ブツブツブツブツつぶやいている奴がある。その声を聞くと不安で堪まらない。おれ自身には分らないけれど、妹丈けには何かが分っているのかも知れない」
「いよいよ君は変だ。なぞみたいなことをいっている。さっき君もいった通り、お父さんの殺されなすった時刻に、君自身がチャンと目をさましていたとすれば、そして、君の部屋に寝ていたとすれば、君が疑われる理由は少しだってないはずではないか」
「理窟ではそういうことになるね。だが、どうした訳か、おれは、兄や妹を疑う一方では、自分自身までが、妙に不安になり出した。全然父の死に関係がないとはいい切れない様な気がする。そんな気がどっかでする」

五、約一ヶ月後


「どうした。何度見舞に行っても、あわないというものだから、随分心配した。気でも変になったのじゃないかと思ってね。ハハハハハ。だが、やせたもんだな。君の家の人も妙で、くわしいことを教えてくれなかったが、一体どこが悪かったのだい」
「フフフフフフ。まるでゆうれいみたいだろう。今日も鏡を見ていて恐しくなったよ。精神的の苦痛というものが、こうも人間をいたいたしくするものかと思ってね、おれはもう長くないよ。こうして君の家へ歩いて来るのがやっとだ。妙に体に力がなくて、まるで雲にでも乗っている様な気持だ」
「そして病名は?」
「何だかしらない。医者はいい加減のことをいっている。神経衰弱のひどいのだって。妙なせきが出るのだよ。ひょっとしたら肺病かも知れない。いやひょっとしたらじゃない。九分九厘そうだと思っている」
「お株を始めた。君の様に神経をやんでいたんではたまらないね。きっとまた例のお父さんの問題で考え過ぎたんだろう。あんなこと、もういい加減に忘れてしまったらどうだ」
「イヤ、あれはもういい。すっかり解決した。それについて、実は君の所へ報告に来た訳なんだが……」
「ああ、そうか。それはよかった。うっかり新聞も注意していなかったが、つまり犯人が分ったのだね」
「そうだよ。ところが、その犯人というのが、驚いちゃいけない、このおれだったのだよ」
「エッ、君がお父さんを殺したのだって。……君、もうその話は止そう。それよりも、どうだい、その辺をブラブラ散歩でもしようじゃないか。そして、もっと陽気な話をしようじゃないか」
「イヤ、イヤ、君、まあすわってくれたまえ。兎に角筋道すじみち丈け話してしまおう。おれはその為にわざわざ出かけて来たんだから。君は何だかおれの精神状態をあやぶんでいる様子だが、その点は心配しなくてもいい。決して気が変になった訳でも、何でもない」
「だって、君自身が親殺しの犯人だなんて、あんまり馬鹿馬鹿しいことをいうからさ。そんなことは色々な事情を考え合せて、全然不可能じゃないか」
「不可能? 君はそう思うかい」
「そうだろう、お父さんの死なれた時間には君は自分の部屋の蒲団の中で、目をさましていたというじゃないか。一人の人間が、同時に二ヶ所にいるということは、どうしたって不可能じゃないか」
「それは不可能だね」
「じゃ、それでいいだろう。君が犯人であるはずはない」
「だが、部屋の中の蒲団の上に寝ていたって、戸外の人が殺せないとはきまらない。これは、一寸だれでも気付かない事だ、おれも最近まで、まるでそんなことは考えていなかった。ところが、つい二三日前の晩のことだ。ふっとそこへ気がついた。というのは、やっぱり親父の殺された時刻の一時頃だったがね、二階の窓の外で、いやに猫が騒ぐのだ。二匹の猫が長い間、まるで天地のひっくり返る様なひどい騒ぎをやっているんだ。あんまりやかましいので、窓を開けておっ払らうつもりで、おき上ったのだが、そのとたんハッと気づいた。人間の心理作用なんて、実に妙なものだね。非常に重大なことを、すっかり忘れて平気でいる。それがどうかした偶然の機会に、ふっとよみがえって来る、墓場の中からゆうれいが現れる様に恐しく大きな、物すごい形になってうかび上って来る。考えて見ると、人間が日々の生活をいとなんで行くということは、何とまああぶなっかしい軽業かるわざだろう。一寸足をふみはずしたら、もう命がけの大怪我だ。よく世の中の人達はあんなのんそうな顔をして、生きていられたものだね」
「それで、結局どうしたというのだ」
「まあ聞きたまえ。その時おれは、親父の殺された晩、一時頃に、なぜおれが目をさましていたかという理由を思出したのだ。今度の事件で、これが最も重大な点だ。一体おれは、一度寝ついたら朝まで目をさまさないたちだ。それが夜半よなかの一時頃、ハッキリ目をさましていたというには、何か理由がなくてはならない。おれは、その時まで、少しもそこへ気がつかなんだが、猫の鳴声で、すっかり思出した。あの晩にもやっぱり、同じ様に猫が鳴いていたのだ。それで目をさまされたのだった」
「猫に何か関係でもあったのかい」
「まあ、あったんだ。ところで、君はフロイドのアンコンシャスというものを知っているかしら。兎も角、簡単に説明するとね、我々の心に絶えず起って来る慾望というものは、その大部分は遂行すいこうされないでほうむられてしまう。あるものは不可能な妄想であったり、あるものは、可能ではあっても社会上禁ぜられた慾望であったりしてね。これらの数知れぬ慾望はどうなるかというと、我々みずから無意識界へ幽囚ゆうしゅうしてしまうのだ。つまり、忘れてしまうのだが。忘れる、ということは、その慾望を全然無くしてしまうのではなくて、我々の心の奥底へとじ込めて、出られなくしたというに過ぎない。だから、僕達の心の底の暗闇には、浮かばれぬ慾望の亡霊が、ウヨウヨしている訳だ。そして少しでも隙があれば飛び出そう、飛び出そうと待構えている。我々が寝ている隙をうかがっては、夢の中へ色々な変装をしてのさばり出す。それがこうじては、ヒステリーになり気違いにもなる。うまく行って昇華作用を経れば、大芸術ともなり、大事業ともなる。精神分析学の書物を一冊でも読めば、幽囚された慾望というものが、どんなに恐しい力を持っているかに一驚いっきょうきっするだろう。おれは、以前そんな事に興味を持って少しばかり読んだことがある。
 その一派の学説に『物忘れの説』というものがあるのだ。分り切ったことをふと忘れて、どうしても思い出せない、俗に胴忘どうわすれという事があるね。あれが決して偶然でないというのだ。忘れるという以上は、必ずそこに理由がある。何か思い出しては都合の悪い訳があって、知らず知らずその記憶を無意識界へ幽囚しているのだという。いろいろ実例もあるが、たとえばこんな話がある。
 かつてある人が、スイッツルの神経学者ヘラグースという名を忘れて、どうしても思出せなかったが、数時間の後に偶然心にうかんで来た。日頃熟知している名前を、どうして忘れたのかと不思議に思って聯想の順序をたどって見た所、ヘラグース――ヘラバット・バット(浴場)――沐浴もくよく――鉱泉――という風にうかんで来た。そしてやっとなぞが解けた。その人は以前スイッツルで鉱泉浴をしなければならない様な病気にかかったことがある。その不愉快な聯想が記憶をさまたげていたのだと分った。
 また精神分析学者ジョオンスの実験談にこういうのがある。その人は煙草ずきだったが、こんなに煙草をのんではいけないなと思うと、そのしゅんかんパイプの行方ゆくえがわからなくなる。いくらさがしても見つからない。そして忘れた時分にヒョイと意外な所から出て来た。それは無意識がパイプを隠したのだ。……何だかお談義みたいになったが、この忘却の心理学が、今度の事件を解決するカギなんだ。
 おれ自身も、実は飛んだことを胴忘れしていたんだ。親父を殺した下手人が、このおれであったということをね……」
「どうも、学問のある奴の妄想にはこまるね。世にも馬鹿馬鹿しい事柄を、さも仔細しさいらしく、やかましい学説入りで説明するんだからな、そんな君、人殺しを胴忘れするなんて、間抜けた話が、どこの世界にあるものか。ハハハハハハ。しっかりしろ。君は実際、少しどうかしているぜ」
「まあまて、話をしまいまで聞いてから何とでもいうがいい。おれは決して君の所へ冗談をいいに来たのではない。ところで、猫の鳴声を聞いておれが思出したというのは、あの晩に、同じ様に猫が騒いだ時、すぐ屋根の向うにある松の木に飛びつかなかったか、きっと飛びついたに相違ない、そういえば、何だがバサッという音を聞いた様にも思う、ということだった……」
「いよいよ変だなあ。猫が松の木に飛びついたのが、死因の本筋とどんな関係があるんだい。どうも僕は心配だよ。君の正気がさ……」
「松の木というのは、君も知っているだろう。おれの家の目印になるような、あの馬鹿にの高い大樹なんだ。そして、その根許ねもとの所に親父の腰かけていた、切石がおいてあるのだ。……こういえば、大概たいがい君にも、話の筋が分っただろう……つまり、その松の木に猫が飛びついた拍子ひょうしに、偶然枝の上にのっかっていたあるものにふれて、それが親父の頭の上へ落ちたのではないかということだ」
「じゃ、そこに斧がのっかっていたとでもいうのか」
「そうだ。まさにのっかっていたのだ。非常な偶然だ。が、あり得ないことではない」
「だって、それじゃ偶然の変事という丈けで、別に君の罪でも何でもないではないか」
「ところが、その斧をのせておいたのが、このおれなんだ。そいつを、つい二三日前まで、すっかり忘れてしまっていたのだ。その点が所謂いわゆる忘却の心理なんだよ。考えて見ると、斧をのせた。というよりも、木の股へおき忘れたのは、もう半年も前のことだ。それ以来、一度も思出したことがない。そののち斧の入用いりようが起らないので、自然思出す機会もなかった訳だけれど、それにしても、何かの拍子に思出し相なものだ。又思出してもいい程のある深い印象が残っているはずだ。それをすっかり忘れていたというのは、何か理由がなければならない。
 今年の春、松の枯れ枝を切る為に斧やのこぎりを持って、その上へ登った。枝にまたがったあぶない仕事なので、不用な時には、斧を木の股へおいては仕事をした。その木の股というのが、丁度例の切石の真上に当るのだ。高さは二階の屋根よりも少し上の所だ。おれは仕事をしながら考えた。若しここから斧が落ちれば、どうなるだろう。きっとあの石にぶつかるに相違ない。石の上に人が腰かけていれば、その人を殺すかも知れない。そこで、中学校の物理で習った『落体の仕事』の公式を思出した。この距離で加速度がつけば、無論人間の頭蓋骨を砕く位の力は、出るだろう。
 そして、その石に腰をかけて休むのが親父の癖なのだ。おれは思わず知らず、親父を殺害することを考えていたんだ。ただ心の中で思ったばかりだけれど、おれは思わずハッと青くなったね。どんな悪い人間にしろ、仮りにも親を殺そうと考えるなんて、何という人外じんがいだ! 早くそんな不吉な妄想を振い落してしまおうと思った。そこで、この極悪非道の慾望が、意識下に幽囚された訳だ。そして、その斧は俺の悪念をうけついで、チャンと元の木の股に時機の来るのをまっていた。この斧を忘れて来たというのが、フロイドの学説に従えば、いうまでもなく、おれの無意識の命じたわざなんだ。無意識といっても普通の偶然のさくを意味するものではなくて、チャンとおれ自身の意志から発しているのだ。あすこへ斧をおき忘れておけば、どうかした機会に落ちることがあるだろう。そして若しその時、親父が下の石に腰かけていたら、彼を殺すことが出来るだろう。そういう複雑な計画が、暗々あんあんの中に含まれていた。しかも、その悪だくみを、おれ自身さえ知らずにいたのだ。つまり、おれは、親父を殺す装置を用意しておきながら、故意にそれを忘れて、さも善人らしく見せかけていた。くわしくいえば、おれの無意識界の悪人が、意識界の善人をたばかっていたのだ」
「どうもむずかしくてよくわからないが、何だか故意に悪人になりたがっている様な気がするな」
「いや。そうじゃない。若し君がフロイドの説を知っていたら決してそんな事は云わないだろう。第一、斧のことを半年の間も、どうして忘れ切っていたか。現に血のついた同じ斧を目撃さえしているじゃないか。これは普通の人間としてあり得ないことだ。第二に、何故、そんな場所へ、しかも危いことを知りながら、斧を忘れて来たか。第三に、何故、殊更にその危い場所をえらんで斧をおいたか。三つの不自然なことがそろっている。これでも悪意がなかったといえるだろうか。ただ忘却していたという丈けで、その悪意が帳消しになるだろうか」
「それで、君はこれからどうしようというのだ」
「無論自首して出るつもりだ」
「それもよかろう。だが、どんな裁判官だって、君を有罪にするはずはあるまい。その点はまあ安心だけれど。で、この間から、君のいっていた、色々な証拠物はどうなったのだい。ハンカチだとか、お母さんの櫛だとか」
「ハンカチはおれ自身の物だった。松の枝を切る時に、斧の柄にまきつけたのを、そのままおき忘れた。それがあの晩斧と一緒に落ちたのだ。櫛は、はっきりしたことは分らないけれど、多分、母親が最初親父の死体を見つけた時に落したのだろう。それを兄貴がかばいだてに隠してやったものに相違ない」
「それから妹さんが斧を隠したのは」
「妹が最初の発見者だったから、十分隠すひまがあったのだ。一目で自分の家の斧だと分ったので、きっと家内のだれかが下手人だと思い込み、兎も角、第一の証拠物を隠す気になったのだろう。一寸気転の利く娘だからね。それから、刑事の家宅捜索などがはじまったので、並の隠し場所では安心が出来なくなり、例のほこらの裏を選んで隠しかえたものに相違ない」
「家内中の者を疑った末、結局、犯人は自分だということがわかった訳だね。盗人ぬすびとをとらえて見れば何とかだね。何だか喜劇じみているじゃないか。こんな際だけれど、僕は妙に同情というような気持が起らないよ。つまり、君が罪人だということがまだよくのみ込めないんだね」
「その馬鹿馬鹿しい思違いだ。それが恐しいのだ。ほんとうに喜劇だ。だが、喜劇と見える程間が抜けている所が、単純な物忘れなどでない証拠なんだ」
「いって見れば、そんなものかも知れない。しかし、おれは、君の告白を悲しむというよりも、数日の疑雲がはれたことを祝い度い様な気がしているよ」
「その点は、おれもせいせいした。皆が疑い合ったのは、実はかばい合っていたので、だれもあんな親父をさえ殺す程の悪人はいなかったのだ。そろいもそろって無類の善人ばかりだった。その中で、たった一人の悪人は、皆を疑っていたこのおれだ。その疑惑の心の強い点だけでも、おれは正に悪党だった」





底本:「江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者」光文社文庫、光文社
   2004(平成16)年7月20日初版1刷発行
   2012(平成24)年8月15日7刷発行
底本の親本:「江戸川乱歩全集 第十巻」平凡社
   1931(昭和6)年9月
初出:「写真報知」報知新聞社
   1925(大正14)年9月15日、25日、10月15日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「兄貴」と「兄き」の混在は、底本通りです。
※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。
入力:門田裕志
校正:江村秀之
2017年11月24日作成
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