薔薇夫人

江戸川乱歩





 青山浩一は、もと浜離宮であった公園の、海に面する芝生に腰をおろして、そこに停泊している幾つかの汽船を、ボンヤリと眺めていた。うしろに真赤な巨大な太陽があった。あたりは見る見る夕暮の色をおびて行った。ウイーク・デイのせいか。ときたま若い二人づれが通りかかるほかには、全く人けがなかった。
 伯父のへそくりを盗み出した五万円は、十日間の旅行で遣いはたしてしまった。ポケットには、辛うじて今夜の家賃に足りるほどの金が残っているばかりだ。
 温泉から温泉へと泊りあるいて、二十一才の彼にやれることは、なんでもやって見たが、どれもこれも、今になって考えると、取るに足るものは一つもなかった。あの山、この谷、あの女、この女、ああつまらない。生きるに甲斐なき世界。
 伯父の家へは二度と帰れない。勤め先へ帰るのもいやだ。自転車商会のゴミゴミした事務机と、その前にたち並んでいる汚れた帳簿を思い出すだけでも、吐き気を催した。
 暮れて行く海と空を、うつろに眺めていると、またあの幻が浮かんで来た。空いっぱいの裸の女、西洋の絵にある聖母と似ているが、どこかちがう。もっと美しくなまめかしい。情慾に光りかがやいている。青年は、あの美しい女に呑まれたいと思った。鯨に呑まれるように、腹の中へ呑まれたいと思った。
 本当をいうと、彼は少年時代から、この幻想に憑かれていた。夢にもよく見た。中学校の集団旅行で、奈良の大仏を見たときには、恍惚として目がくらみそうになった。鎌倉の大仏はもっと実感的であった。あの体内へはいった時の気持が忘れられないで、ただそれだけのために、三度も四度も鎌倉へ行ったほどだ。あの中に住んでいられたら、どんなによかろうと思った。
「いよいよ、おれもせっぱつまったなあ。自殺する時が来たのかな」
 青山浩一は、絶えず心の隅にあったことを、口に出して云って見た。彼には、温泉めぐりをしているあいだも、この金を遣いはたしたら自殺だという想念が常にあった。その想念には何か甘い味があった。
 じっと前の海を見つめていたが、飛び込む気には、なれなかった。いよいよのどたんばまでには、まだ少しあいだがあると思った。その一すんのばしが、目覚し時計の音をきいてから、蒲団の中にもぐっているように、何とも云えず物憂く、ここちよかった。
 もう海と空の見さかいがつかぬほど、暗くなっていた。汽船たちのマストの上の燈火が、キラキラと美しくきらめき出した。「ひとりぼっちだなあ……」たまらない孤独であった。今朝上野駅について、浅草と有楽町で、映画を二つ見た。映画館の群衆は、自分とは全く違った別世界の生きもののように見えた。それから、銀座通りを、京橋から新橋まで、三度ほど行ったり来たりした。じっとしていられなかったからだ。そこを通っている人達も、まるで異国人であった。
 少し寒くなって来た。秋だ。落葉の期節〔ママ〕に近づいていた。浩一は立上ると、うつろな顔で歩き出した。あてどもなく、足の向くままに歩いていると、賑かな新橋の交叉点に出た。やっぱり心の奥では群衆を恋しがっていたのだ。
 歩道の群衆にまじって、その人むれの中に溶けこんで消えてしまいたいと思いながら、尾張町の方へ歩いていた。「こうして、永遠に歩いていられたら」と願った。しかし、夜が更けると銀座は電車のレールの目立つ廃墟になることを知っていた。それが恐ろしかった。
 群衆と同じように、ショーウインドーを覗きながら歩いていたが、目には何も映らなかった。キラキラした、彼とは何の縁もない品物が、無意味に並んでいるにすぎなかった。
 ふと、彼は立ちどまった。鋭く網膜に焼きついたものがあったからだ。明るいショーウインドーの前に立ちどまっていた顔、西洋人のように大柄な美しい洋装の婦人であった。彼がまだ悪事を働かない前、やはり銀座で、行きずりに二度あったことがある。二度ということをハッキリ覚えていた。どこか贅沢な家庭の奥さんらしいが、その顔と姿に、忘れられないようなものがあった。
 浩一は、殆んど無意識にその婦人のあとをつけていた。相手に気づかれたって平気だと思っていた。そんなことは、もうどうでもよかった。婦人には連れはなかった。のんきらしく、ノロノロと歩いていた。
 町角に洋菓子のようにきれいな喫茶店があった。婦人は、どうしようかと、ちょっと迷ったあとで、その店へ入って行った。青年も糸で引かれるように、あとに従がった。
 婦人は奥まった、そばに客のいないテーブルについたので、浩一も〔そ〕の方へ歩いて行って、すぐとなりのテーブルに腰かけた。
 婦人は尾行されたことを、とっくに知っていたのかも知れない。いきなり青年の顔を正面から見て、ニッコリ笑った。
「前に二三度お目にかかったわね。あたし、よく覚えているでしょう」
 浩一は思わずドキマギした。こんな親しげな口を利いてもらえるとは、全く予期しなかった。それに、先方でこちらをよく記憶していてくれたことがわかって、ジーンと耳鳴りがした。顔が赤くなったのが意識された。
「こちらへ、いらっしゃらない? あなたの目、今日は変よ。何かあったんじゃない?」
 顔で、となりの椅子へ来るように合図されたので、浩一はそこへ移った。
「ねえ、何かあったんでしょう。あなたの目、孤独の目よ、生き甲斐がないって目よ。ねえ、どうかしたの? 失職したんじゃない?」
 婦人が物を言ったり、身動きしたりするたびに、いい匂いが漂って来た。彼女のきれいな歯ぐきと、バラ色のくちびるから、その匂が漏れてくるように感じられた。
「失職よりも、もっと悪いことです」
 浩一は、低い声で、すてばちのように呟いた。
「悪いことって?」
 婦人は、口で笑いながら、ちょっと眉をしかめて見せた。そのしかめた顔が、浩一には恐ろしく魅惑的に見えた。
「どろぼうです。盗んだんです」
「マアーっ」
 婦人は息を引いて見せたが、その実、大して驚いているようでもなかった。
「そして、その金を遣いはたしてしまったんです」
「じゃあ、せっぱつまってるのね。それで、そんな目をしているのね。あなた自殺しそうだわ。ね、ここじゃ駄目だから、あたしのうちへいらっしゃい。ゆっくり相談しましょう。いいでしょ。今のあなたは、どこへでもついて来る心境だわ。そうでしょう」
「ほかの人に会いたくないんです」
 浩一は婦人の夫や子供や召使のことを考えていた。
「もちろん、そんなこと分かっているわ。あたしは家族なんてないのよ。ひとりぼっちで、アパートにいるのよ」
 婦人は飲み物を半分ほど残したまま、立上ってカウンターの方へ行くので、浩一もそのあとにつづいた。
 婦人は横丁で車を拾って、「麹町一口坂の都電停留〔所〕のそば」と命じた。車の中では殆んど口を利かなかった。浩一は二人の服地を通して伝わって来る柔い温味に、気を奪われていた。
 それは高級ホテルのようなアパートであった。小さな窓のある監理人の部屋の前を通って、階段を上ると、二階の広い廊下のはじに婦人の部屋があった。婦人は手提てさげから鍵をとり出してドアを開き、電燈のスイッチをおしたが、フックラとした肘掛椅子と長椅子、赤い模様の立派な絨氈じゅうたん、それが居間で、次の部屋が寝室らしく、立派なベッドのはじが見えていた。
「ちょっと、手を洗って来ますから、そこに掛けてて」
 婦人は寝室の中へ姿を消した。そちらに浴室もあるらしく思われた。
 十分ほど待たせて出てきた時には、黒ビロードのナイトガウンのようなものと着がえていた。そして、小さな銀盆の上に洋酒のびんとグラスを二つのせたのを持っていた。浩一に向き合った椅子にかけて、グラスに手ぎわよく洋酒をつぎ、その一つを彼の方にさし出しながら、突然、
「あなたご両親は?」
 とたずねた。
 ビロードのガウンには、真赤な絹の裏がついていた。身動きをするたびに、それがめくれて、つややかな二の腕や足が見えた。ガウンの下には何も着ていないらしく、からだ全体の線が、柔かいビロードごしに、そのまま眺められた。なんてすばらしいからだだろうと思った。ふと、あの聖母に似て、聖母よりもなまめかしい裸女の巨像が、浩一の頭をかすめた。
「両親なんてないのです」
 グラスの強い酒が、浩一ののどをカッとさせた。彼はおとぎばなしの主人公でもなったような気持だった。おとぎ噺の中では、或いは映画の画面では、浩一に当る青年は、どんなしぐさをするのだろうと思ったりした。
「ぼくは、親も兄弟もないんです。伯父の世話で大きくなったのですが、その伯父もひとりものなんです。伯母は早くなくなったのです。この伯父とぼくは全く気が合わないのです。ぼくは自転車の卸しをする店に勤めていたんですが、その店もゾッとするほど、いやなんです。それで、やけくそになったんです」
「それで、お金を盗んだの?」
「伯父のへそくりです。伯父の全財産です。伯父は紙袋を貼る機械を一台持っていて、やっと暮らしているのです。コツコツためた、伯父にとっては命よりもだいじな金です。ぼくは、伯父が隠していた銀行の通帳とハンコを探し出したのです。五万円ほどありました……」
「それを遣いはたしたのね。楽しかった?」
「いつも自殺する一歩前でした。そういう楽しさはありました」
「盗んでから、どのくらいになるの?」
「十日ほどです」
「よくつかまらなかったのね」
「伯父は警察にたのまなかったかも知れません。へそくりをとられて、伯父は病気になるほど驚いたでしょう。ほんとうに病気になって、今でも寝ているかも知れません。しかし、伯父はぼくを実子のように愛しているので、警察に云わないで我慢しているような気がします。あわれな伯父です」
「可哀相に思うの?」
「可哀相です。しかし、ぼくはあの人の顔を二度と見たくありません。ゾッとするほど嫌いなのです」
「かわってるのね。一等親しい人が、一等きらいなのね。……お友達は?」
「ありません。みんなぼくとは、ちがう人間です。ぼくの気持のわかるやつなんて、ひとりもいません。奥さん、あなただって、ぼくの気持、わかりっこありませんよ」
「まあ、奥さんだなんて。あたし、奥さんに見えて?」
「じゃあ、なんです」
「あなたと同じ、ひとりぼっちの女よ。まだ名前を云わなかったわね。あたし、相川スミエっていうの。親から譲られたお金で、勝手な暮らしをしているのよ。あなたのお友達になってあげるわ。あんまりひとりぼっちで、可哀相だもの」
 婦人は立上って、浩一のかけている長椅子に席をかえた。そのとき、バンドをしめていないガウンの前が、フワッと胸までひらいて、桃色の全身が、チラリと見えた。やっぱり下には何も着ていなかった。その一目が、浩一を電気のように撃った。全身のうぶ毛が総毛立つような気がした。
 婦人の手が自分の肩を抱いているのを感じた。浩一は両手で顔をおさえて、長いあいだ黙っていた。やがて、彼の肩が妙にふるえ、両手の中から、少女が笑っているような声が漏れた。そして、手の指のあいだから、キラキラ光るものが、にじみ出して来た。
 婦人は黙ってそれを見ていた。したいようにさせておいた。
 浩一はやっと泣きやんで、涙にぬれた顔をあげた。そして、低い鼻声で、恥かしそうに云った。
「なぜ泣いたかわかりますか。…………あなたが好きだからです」
 彼は激情のためにブルブルふるえていた。
「もういいのよ。泣かないで。あなたの気持よくわかるわ。あたしだって、好きよ。涙にぬれた顔、まるで違うように見えるわ。美しいのよ。あなた、自分の美しさを知っていて?……あなたのような人に会ったの、はじめてよ」
 婦人は浩一の髪の毛を、もてあそんでいた。
(以下二百字詰原稿用紙七枚脱落)
目色でわかった。
「九時カッキリよ。わけがあるの。忘れないで」
 ドアの外まで見送って、彼女はそれを彼の耳のそばに、くりかえして※(「口+耳」、第3水準1-14-94)ささやいた。


 宮城圭助は、碌々商会の皆川常務が要談をすませて立去るのを、鄭重ていちょうに送り出してから、半分ほどになった葉巻を、灰皿の中におしつぶし、パンパンと、ほこりを払うように両手を打ち合せた。それから、帽子掛けの鏡の前に立って、ちょっとネクタイを直し、鼠色の合外套に袖を通し、ソフトを両手で丁寧にかむってから、デスクに引返し、一番下のひきだしから、大きな革鞄をだいじそうに取出して、小脇にかかえた。
 社長室のドアをひらいて出ると、社員達はまだ仕事をしていた。多くは机にかじりついていたが、今そとから帰って、かばんの中から書類を取出して、立ったまま調べている男もいた。煙草の煙を濛々もうもうと吹き出しながら、立話しをしているものもあった。実際社長は、そのあいだを、ニコニコしながら、出口の方へ歩いて行った。べつに社員達に云いのこすこともなかった。宮城貿易商社は、アメリカのスコット商会とうまくやっているので、社運は上昇線をたどっていた。
 立話しをしていた社員の一人が、社長を追って近づいて来た。
「社長、今日はどちらへ? この間、愛子さんが恨んでいましたぜ。たまには…………」
「コラコラ、社長に向かって何を申すか、ひかえていろ」
 二人とも低い声ではあったが、他聞をはばかるようでもなかった。社長が三ヶ所に妾宅を持っていることは、社内で知らぬものもなかった。社外にも響きわたっていた。宮城社長は、社員のお世辞を叱って見せたが、むろん怒っている顔ではない。商売上ではなかなかのやり手だが、女好きでお人よしの、社員にとっては、心のおけない好社長であった。
 ビルの石段をおりると、運転手がリンカーンのドアをひらいて待っていた。
「河田町」
 手近の別宅である。午後五時少しすぎ、車は河田町の四つ角でとまった。
「帰ってくれたまえ。いつもの通り、朝は迎えに来なくてもいい」
 宮城社長は、わざと別宅の一丁も手前で、車をとめさせる習慣であった。彼は車が遠ざかるのを見定めてから、例の鞄をかかえて、別宅とは逆の方角へ歩き出した。町角を四つほどすぎて、大通りに出ると、通りかかった小型自動車を呼びとめて「市ヶ谷駅」と命じた。
 市ヶ谷駅で降りた時には、いつの間にかソフトがハンチングに変っていた。そのまま駅の手洗所に入って、合外套をぬぐと、それを小さくたたんで、鞄の中へ入れた。折りたたんだソフトも、そこにはいっていた。それから、近くの駅までの切符を買い、電車には乗らないで、駅の別の出入口から町に出て、今度は中型のタクシーを拾った。
 次に水道橋駅の手洗所から出て来たときには、ズボンが折目のとれた古い薄茶色のギャバジンに変り、靴もいやに派手な型のものに一変していた。
 今度は車にのらないで、神田まで歩いて、映画館に入り、そこの手洗所で、上衣をとりかえた。ワイシャツも脱いで、太い茶色の横縞のあるジャケツを着た。それから、大型のコンパクトのようなものを取出して、ちょっとお化粧をした。
 そして、映画館の別の出入口から町に出たときには、宮城貿易商社の社長は、よたもんの親方に一変していた。髪をわざとモジャモジャにし、ハンチングの冠り方一つにも、うまくその役柄を出していた。ちょっとしたつけひげ、目立たない目のくま、脣のどす黒い色、その顔からは宮城圭助を思い出させるものが、すっかり消えうせていた。
 再び小型タクシーを拾って、神田駅へ。そこの一時預り所に鞄をあずけてから、近くの飲み屋横町へ急いだ。手のこんだ変装のために一時間以上を費したので、もうあたりは真暗になっていた。
 飲み屋の軒を並べた横町の一軒、ブルウ・エンゼルに入ると、店にはまだ一人の客もなく、ガランとしていた。カウンターにいた男ボーイが、「いらっしゃい」と、あいさつした。宮城は、それにちょっとうなづいて見せて、奥の階段を二階へ上って行った。二階は主人の住いとして、客は上げないことになっていた。
 二階は二間で、一方は六畳の畳敷き、一方は四畳半にベッドを置いて、あいの仕切りに血のような色のカーテンが深く垂れていた。六畳の方には、腰かけるとビーンと音がして、ゼンマイの針金が尻にこたえる古ソファ、それに籐椅子が二脚と、汚れた丸テーブル、大きな桃色のシェードをかけた、薄暗い電気スタンド。
 宮城が籐椅子にかけると、カーテンの向うで何かしていたマスターの孝ちゃんが、ジャンパー姿で顔を出した。
「きょうはお早いのね。お待ちかねでしょう」
「ウン、七時までに来るはずだったね。おれ、腹がへってるんだ。へんなものはいらない。いつものサンドイッチがいい。それとスコッチ。早くしてくれ」
 マスターは「あいよ」と答えて、階段をギシギシいわせながら降りて行ったが、じきに銀メッキの盆の上にサンドイッチの皿と、ウイスキーの瓶とグラスを二つそろえて持って来た。
「さあ、いっぱい」
 宮城はマスターについでやって、自分もグラスに半分ほど、グイとやってから、サンドイッチをつまんだ。脣をペチャペチャ云わせる下品なたべかただ。なかなか芸がこまかいのである。
「ねえ、園田の親分、またちょっと苦しいのですよ。ね、お願い」
「ふん、もうかい。ちかごろヒンパンだな」
「親分も、ここをヒンパンにお使いになるでしょう」
「うん、わかった。サア、きょうはこれだけ」
 園田と呼ばれる宮城は、ズボンのポケットから、無造作に札束を一握り取出して、マスターの孝ちゃんに渡した。
「用事がすんだら、あれを出してくれ。例のおもちゃさ」
 マスターは黙って寝室にはいり、押入れをあけて小型の自働拳銃を取り出して来た。
「きょうも使うんですか」
「ここで人殺しはしないだよ。ちょっと見せびらかすだけさ。たまはちゃんとはいっているがね」
 二人でウイスキーの壜を半分にしたころ、下から合図があって、待っていた客がやって来た。オズオズと階段を上る音。やがて、顔を出したのは、三十才前後の、ちょっと愛くるしい洋装の女であった。
「さあ、どうぞ、こちらへ」
 孝ちゃんが、表情を押し殺して、神妙らしく、その婦人を長椅子にかけさせた。園田は見向きもしないで、グラスをチビリチビリやっている。
「河合さんが、こちらへ来るようにおっしゃいましたので、園田さんというお方は…………」
「おれだよ」
 園田が向き直って、女の顔をジロジロ見た。
「で、今度のことを見のがしてくれって、いうんだね」
「ええ、園田さんにお目にかかれば、許して下さると伺いましたので」女はせいいっぱいの勇気で物を云っている。何かよほど後暗い、ひけ目があるのだ。
「それで、見のがし代は?」
「わたくし、お金が自由になりませんので、やっとこれだけ」
 園田はオズオズさし出す札束に目もくれなかった。
「金じゃあ駄目だよ」
「では、何をさしあげれば…………」
 園田が目まぜをすると、マスターは立上って、部屋を出て行った。あとにピッタリドアがしまる。そして、階段のきしむ音。
 園田はチラッ、チラッと女の顔を盗み見ながら、ピストルをおもちゃにしていた。カチッと弾巣だんそうをひらいて、実弾がはいっていることを見せびらかしたりした。
「お前さんに愛人ができていることを、ご亭主に知らせれば大変なことになる。愛人の方にも細君がある。だから、どうすることもできないんだ。そこがつけ目だよ。君はおれのいうことは、何でも聞かなきゃなるまい。証拠はすっかり揃っているんだ。私立探偵の河合は、おれの子分だからね。これをバラせば、お前さんは身の破滅だ。わかったね」
 女は真青になって、ふるえていた。来なければよかったと後悔しても、もうおっつかないのだ。
「お前さん、ジーキルとハイドってのを知ってるかね。おれは、本当は心がけのいい人間だが、ハイドになると仕末におえねえ。人殺しなんか平気だぜ。ジーキル博士は薬を呑んだが、おれは薬なんか要らない。ちょっと手品を使えば、いつだってハイドになれる。血に餓えたハイドだ。慈悲もなさけもないハイドだ」
 園田は歯ぐきをむき出しにして、ゲラゲラと笑った。自分が今、どんなに凶悪な面相をしているかと思うと、嬉しくてたまらなかった。
「因果なこったが、そうして、お前さんのような美しい女が、真青になってブルブルふるえ、おれを悪魔のように憎んでいるのを見ると、こたえられないんだ」
「じゃ、わたくし、どうすればいいんですの?」
 キッと上げた目に涙がふくらんで、今にもこぼれそうだった。その目が憎悪に燃えていた。かよわい女の怒り、これが園田にとっては、この上もない愉しみであった。猫には抵抗する鼠ほどおいしいのである。
「ハイドはね、その人のいちばんいやがることをさせて、見物するのが好物なんだ」
 園田は冗談のように、ピストルの筒口を女の胸に向けて、凶悪無残の相好を作りながら、低い力のこもった声を出した。
「服を脱ぐんだ。何も着ていないお前さんが見たいんだ」
 礼儀というものにしばられたこの良家の妻が、どれほど困惑するか、どんなに恥しい、気まずい思いをして、一枚一枚彼女の服を脱ぐか、その、身も捻じれんばかりの醜態を、園田はピストルを構えながら、じっと待っていた。


 青山浩一は、約束の夜、九時丁度に、相川スミエの高級アパートを訪ねた。云われた通り、入口では何の挨拶もせず、階段を上って、見覚えの部屋の前に戻った。
 彼は床屋に行き、風呂にはいって、すがすがしく変っていた。おれのような青年に、どうして、これほどの幸運がやって来たのかと、ふしぎでたまらなかった。期待ではちきれそうになっていた。
 鍵はかけてないかも知れない。はじめは軽く、次には強くノックして見た。返事がない。ひっそりと静まりかえっている。ノッブを廻して押して見たが、ひらかない。やっぱり鍵がかかっているのだ。まさか、いないのではあるまい。逢引の作法に従って、合鍵を使わせるために、わざと息を殺しているのかも知れない。
 鍵をとり出して、ドアをひらいた。彼女がドアの横の壁に身を隠していることを予期したので、少しずつ、用心ぶかくひらいた。何の手ごたえもない。「スミエさん」小声で呼んで見た。シーンとしている。室内にはいって、うしろ手にドアをしめた。
「スミエさん、ぼくです」
 今度は少し大きい声を出した。
(未完)





底本:「江戸川乱歩と13の宝石」光文社文庫、光文社
   2007(平成19)年5月20日初版1刷発行
※〔 〕内の補足、( )内の注記は、編者による加筆です。
※底本のテキストは、著者自筆稿によります。
入力:宇間比利央
校正:持田和踏
2022年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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