雨の日

辰野隆




 三年前に亡くなった母は、いたく雨を好んだ。僕の雨をづる癖は恐らく母からけたのであろう。いまそかりし昔、僕はしばしば母と閑話を交えながら、庭に降る雨を眺め暮したことを今もなお思い出す。
 雨の日なら、春夏秋冬、いつも僕は気分が快いのだ。降りだすと、僕は、雨を眺めながら、聴きながら、愛読の蕪村句集を取り出して徐ろに読み耽る癖がある。この稀有な視覚型の詩人の視野においては、「みのと傘とがもの語り行く」道のほとりに、或は「人住みて煙壁を漏る」陋屋ろうおくの内に、「春雨や暮れなんとしてけふもあり」という情景も床しく、「五月雨や仏の花を捨てに出る」その花のせた色も香も、「秋雨や水底の草みわたる」散策子のあしうらの感覚も、「楠の根を静かにぬらす時雨」の沈静な風趣も、悉く好もしい。
 若し晴天に風が伴わなかったら、僕は必しも蒼空を詛いはしない。しかし、少くも微風よりも強い風が吹き初めて、砂塵を揚げ出したら、その瞬間から、僕は蒼空の徒らに蒼きを憤って、雨を想い、雨を呼ぶようになる。雨さえ降ってくれれば常に心和み神休むのである。どうも、僕の前世は田圃の蛙か田螺たにしであったらしい。

 フランス語にエクート・シル・プルー――耳を澄ませば雨かいな――という言葉がある。水のれやすい流れに臨む水車小屋の義である。転じて、疑わしきこと、心もとなき意味にも用いられる。意思の弱い人のことを「彼奴も善い男だが、っとばかりエクート・シル・プルーだね」などという。ユーゴーの文句に「僧正様、霊魂不滅と申すことは、どうやら、エクート・シル・プルーではござりますまいか!」というのがある。おもうに人類とともに旧き霊魂不滅説なども畢竟ひっきょう耳にかそけく、目にも見分かぬ雨の類であろうか。エクート・シル・プルー!

 昔の獅子舞歌に

大寺の香の煙はほそくとも、空にのぼりてあまぐもとなる、あまぐもとなる。

 と歌われたが、今し、庭の芝生の緑を濡らし、霧島の紅きを濡らして降りつづく雨も、その源は大伽藍の内で、細く静かに揺れていた香の煙であったかと思うと、いよいよ雨が好きになる。
 十年の昔、秋雨瀟々しょうしょうと降りしきる一日、ベルギーの古都ブリュージュを訪れて、風情に富む縦横の堀割に沿うて雨を賞しながら、灰白の空を支うる寺院の奥に香の煙の揺曳するのを眺めながら、ローダンバックの描いた『死都ブリュージュ』の面影を親しく味わった。しかしてパリよりもむしろこの古都において、寂寞せきばくとして、「市にそぼ降る雨のごと、我が心にも降るものあり」というヴェルレーヌの風懐を沁々なつかしく思った。
 また、ブリュッセルの郊外オーデルゲムの雨の日には、ヴェルハーレンの

……薄墨の長き糸もて、緑なる窓の玻璃はりに、条を引く、はてしなく、雨、長き雨、雨。

という絶唱を新たに想い起して楽しんだ。
 映画『巴里の屋根の下』のプロローグの次は街の雨の景であった。雨の奥に聞えた音楽は、ドビュッシーの雨の曲であったように思う。

 ジュール・ラフォルグの傑作に、妊娠みもちになった女学生が、冬の日の雨ふる日曜に、川に身を投げる詩がある。故上田敏先生がその詩を巧みに訳された。冒頭には、

ハムレット――そちに娘があるか。
ポロニヤス――はい、御座りまする。
ハムレット――あまり外へ出すなよ。腹のあるのは結構だが、その娘の腹に何か出来ると大変だからな。

 こんな対話が掲げられている。
 冬の雨がしとしとと降る夕暮、何処かの寺院からヴェープルの鐘が鳴り渡るころ、人気の絶えたうすら寂しい河岸ぶちを通りゆく一団の女学生がある。その列の中で唯ひとり、毛の襟巻もマフも持ち合せず、鼠色の服で、しょんぼりと足を引摺っているのがある。

   ……
おや/\列を離れたぞ、変だな。
それ駆出した、これ、これ、ど、どうしたんだ。
身を投げた、身を投げた、大変大変。
あゝ船がない、しまつた、救助犬もゐないのか。
日が暮れる、向ふの揚場に火がついた。
悲しい、悲しい火がついた。(尤もよくある書割だが)
じめ/\と川もびつしより濡れるほど、
しと/\とわけもなく、事もなく、雨が降る。

 此の詩を読むと、パリの雨の日のセーヌ河岸が目に浮かんで来る。ベルナルデーヌの街から河岸に出て、橋を渡ると、左には黒いノートル・ダムが高くそびえ、右には低い死体収容所ラ・モルグわだかまっている。身投げをした女学生の屍は、一時ラ・モルグに収められ、そこから更に共同墓地に運ばれたに相違ない。

 再た今日も雨。心神甚ださわやかである。雨の日は読書によろしく、思索にふさわしい。何を読もう。
 僕の机上の書架には、近代フランスの仙骨ジュール・スーリーの『脳神経中枢論』が未だ一頁も読まれずに立てかけてある。いつか長雨が続いて読書力の最も旺盛になった時に読もう読もうと思っていながら、それ程の長雨も降らぬのでつい延び延びになっていた。千八百四十九頁の大冊である。手に把るとリトレの中字典よりも重い。今日もその第一頁をひらいて眺めているうちに、雨が小ぶりになったので、再た再た読まずに、眺めただけで、書架に戻してしまった。而して、更に書架から、年来愛読の上田秋成全集を取出して、『春雨物語』を久しぶりで読み始めた。その序に曰く。

 春雨今日幾日、静かにしておもしろ、れいの筆硯とう出たれど、思ひめぐらすに、いふべきこともなし、物語りざまのまねびは初事なり、されど己が世の山賤めきたるには、何とか語りいでん、昔このごろの事ども、人に欺かれしを我また偽と知らで人を欺く、よしやよし、寓言語り続けて、書とおし戴かする人もあればとて、物言ひ続くれば、猶春雨は降る/\。

 雨。雨。雨。春雨から五月雨。五月雨から夕立、秋雨、時雨、冬の雨。仮令たとい、晴天はなくとも、風静かにして雨しげき国は何処かにないであろうか。若しあれば、その国に移り住んで、僕は再び前世の蛙か田螺に還元かえる憧憬と勇気とを持ち合せている。





底本:「日本の名随筆43 雨」作品社
   1986(昭和61)年5月25日第1刷発行
底本の親本:「辰野隆随想全集2 え・びやん」福武書店
   1983(昭和58)年6月15日初版発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2015年1月16日作成
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