二人のセルヴィヤ人

辰野隆




 リヨンからパリに移ったのは冬の最中であった。停車場前から古い汚れたタクシーに乗って、オーステルリッツ橋を渡った時、遥の河下にノートル・ダムの黒いシルエットが、どんより曇った朝の空に、寒そうに立っていたのが今も目に浮んで来る。向いの植物園の、葉の落ち尽した木立も、木立を囲む鉄柵も、固く黒く、とげとげしく見えた。青葉のパリしか知らなかった私には、此の蕭条たる眺めがひどく心細かった。今、あらゆる劇場で、モリエールの三百年祭を祝っている都とは思えなかった。
 セーヌ左岸のラテン区カルチェ・ラタンの一下宿に行李を卸して、夏以来会わなかったYの顔を見た時、私の発した第一の言葉は「パリの冬は陰気だなア」と云う歎声であった。学生街のみすぼらしい下宿の、部屋の中で、首に襟巻を巻いて、外套を着ているYの姿は、一層私の気をくさらした。粗末な机と椅子と寝心地の悪そうな寝台は寒い冬を更らに痛々しく思わせた。
「スチームは通らないのか。」
「通ってはいる。然し寒いんだ。何しろ安価やすいんだからね。来てから俺の部屋を眺めまわして喫驚びっくりするだろうとは思っていたが、やっぱり喫驚しているね。一寸いい気味だな。貴様の部屋は今、掃除をさせている。俺の部屋と似たものだから、掃除しても大して綺麗にもならないが、まあ我慢するさ。斯うした学生町の安下宿にくすぶらなくては本統のパリは解らない。上等なホテルに泊って、凱旋門エトワールを拝んで、淫売プールを買うなんざあお上りさんの定石だぜ。」
 斯う云って、Yは面白そうに笑った。私は到着早々一本参ったと思った。

 四五日たつと、Yの一言に依って大いに策励された私は、貧寒な下宿の生活にも直ぐ慣れて了った。部屋代が月百八十フラン。食料が二百五十法。その他洗濯代や下女の心づけを合せても、月五百法未満で済むような下宿は、学生町にもあまり多くはない。五百法は当時は八、九十円であった。部屋の暖まらないスチームや、固い寝台に不服を云えた義理でもなかった。食事の相当に旨い事、宿の主人夫婦の人柄な事、万事に気の置けない事が、寧ろめっけものだった。ひと月、ふた月と住み馴れるに従って、設備の不足などは全く忘れて、うす暗い室の窓から、灰色の冬の空を眺めても、もう滅相な心持にはならなくなった。それには、主人夫婦の好意も与って力があった。
 宿の主人は、一昔前までは、相当の事業家であった。欧州戦争の為に、出征、負傷、財産の減少、企業の中絶、凡ての計画が齟齬そごしてからは、已むを得ず、学生町で、下宿業などを始めるようになったが彼は到底商売人ではなかった。それが却って吾々に非常に好い感情を抱かせた。殊に正直で、むかっ腹立ちの細君は、利害の打算などは忘れて、気に入らぬ客を、遠慮なく追い出す頼もしい癖があった。従って、商売はあまり儲かりそうにも見えなかった。
「一体、それで収支つぐなって行くのかなア。」日数が重なって、主人夫婦と心やすくなってからは、私は斯んな立入った質問も憚らずにするようになった。銭勘定の下手な細君は、いつでも「わたしにはまるでわからない」と答える。すると傍から主人が、
「私達は元々商人ではないから、金儲けは、無論、下手だ。また、そんなに儲ける意思もない。然し損はして居ない。その証拠には、斯うやって働いて、毎日愉快に暮している。そうだろう、ねえ、私のジャンヌ。」
 斯う云って、主人は細君の額に一寸接吻する。細君は細君で「ほんとに左様さうだ。妾のフェルナン」と答えていつも機嫌がいい。
 主人は、ひどく快闊な談論家であった。彼は若い時に書いた『エポニーヌ』と題する、韻文五幕の悲劇を、青春の記念として虎の子のように秘蔵していた。彼は、よく私の肩に手をかけて、「どうです、私の『エポニーヌ』を読む勇気はないか」と促した。彼は私が帰朝する迄には、どうしても読ませる。此の大傑作を知らなければ、フランス文学を研究する甲斐がないと云った。すると細君が、
「妾も昔はそれを読まされたものだ。今でも、唯つまらなかったと云う事だけは、はっきり覚えている。」と云って笑う。主人は仕方がなしに、「ジャンヌには文学はわからない」と云って「そこいらの御婦人には、勢々浪漫的なラマルチーヌの詩位いが塩加減だ」と極めつける。
 私は、主人の一世一代の傑作を必ず読む事を約束したが、暇があったらと云う条件を附加える事を忘れなかった。そして冷かし半分に、
「何しろ、悲劇の五幕で、それに、韻文と云う筆法は昔から先ず退屈劇の型と相場が極っている。『恋がフランムで、美人が明眸ボー・ジューで、許せや卿よスフレ・セニョール』と来た日には全く睡くなるからね。」
「許せや卿よ、は佳かった。」と細君が嬉しがって私に加勢する。主人もあきらめる他はない。「何たる嘲弄者ぞ、不逞の徒よトレートル」などと悲劇役者の台詞と身振を真似ながら両手を拡げて浩歎之を久しくする。

 宿の四階の一室には一人のセルヴィヤ人が泊っていた。彼は部屋だけ借りて、食堂には顔を出さなかった。三十恰好の大きな男だったが、相が如何にも柔和で、人が好さそうに見えた。宿の階段ですれちがう事も度々になって、いつとはなしに、私と彼とは顔を見合せて挨拶するようになった。二人の間はそれ以上には進まなかったが、私は彼の労働者のような体躯と、温厚な、純な顔には段々親しみを増して行った。一度、私はパリ大学ソルボンヌの構内で、彼とばったり会った事があった。その時始めて彼と言を交えた。彼はパリ大学で教育学を修めてからベルグラードに帰って、教育家として立つ準備をしていると語った。彼は小学教育に特に趣味を持っているらしかった。彼の素朴な風姿や穏健な思想が、彼に対する私の印象を欺かなかったので、私は大に悦んだ。
 彼はいつでも、古い黒の背広に、同じく古い黒の中折と云う形であった。日曜でも祭日でも、彼の服装には変りがなかった。寒い日には、殊に寒そうな外套が著しく目立った。私は彼と一度言葉を交わしてからも、町の中や宿の階段で、相変らず顔を合せたが、唯笑って挨拶する以上には再び接近する機会が起らなかった。其の後、彼は何処にったか、宿には姿を見せなくなった。雌牛のような感じを与える彼の事を、私も漸く忘れて行った。
 或日、私はいつもうに午食後、食堂に残って主人の相手になって無駄話に耽っていた。ふと、いなくなった「彼」の事を思い出して、主人にあのセルヴィヤ人は何うしたろうと、訊いて見た。主人の話によると、彼はひどく生活に困っている様子だったが、その為に宿にも居られなくなったらしい。小さなトランクを一ツ提げて何処かへ行って了った。誠に穏やかな好人物で、居るか居ないかわからぬ程静かな男だった。あんなおとなしい人が生活に困るのを見ているのは如何にも気の毒だ。「可哀そうに」と云って、主人は目をしばだたいていた。私も妙に気が沈んで、沁々した心持になって、主人と同情を分った。

 冬が過ぎ、春が過ぎた。初夏の明るい光が、パリの隅々迄流れるようになった或日の午後、私は不意に彼の訪問を受けた。彼は相変らず古ぼけた黒の背広で、右の手には、例の黒い中折を持っていた。彼は其の中折を膝の上で捏ねまわしながら、あまり旨くないフランス語で、徐ろに口を開いた。君は十九世紀のフランス文学を研究しているという事を聞いたが、本当か。且つ高踏派、象徴派の詩人に興味を有っているか。と訊ねた。実は同国の友人で将来ベルグラードの大学の教授になる男だが、それが目下パリに来て、高踏派の詩人ジョゼ・マリヤ・ド・エレディヤを研究している。此の下宿に、日本人で、フランス文学を研究している男が居ると告げたら、是非一度会い度い、会ってエレディヤの詩に関連して、多少日本の事情を知り度いから紹介して呉れと頼まれた。会談して呉れるか。と重ねて彼は問うた。私は快く承諾した。彼は別れる時に、自分も間もなく国に帰る。永い間故国を離れていたが、ベルグラードの有様も知り度い。一度帰った様子で、再び出て来るかも知れないが、或はもう会えないかも知れない。日本人と話をしたのは君が始めてである。今日は友人の依頼を伝える傍々、一寸別れを惜しみに来た。あいにく主人夫婦も不在らしいから、君から宜しく言って呉れ。斯ういう言葉を残して彼は静かに帰って行った。
 其後、私は毎日、彼の友人のエレディヤ研究者を心待ちに待っていたが、一週間たっても、二週間が過ぎても、其人は遂に訪ねて来なかった。その中に夏も半ばになって、私はフランス内地の旅に出かけた。ロアール河の岸に添うて、「フランスの庭」と呼ばれる地方を経めぐって、古城の数々を眺めた後、ブルターニュの海岸に出てシャトーブリヤンの墓に詣でたり、モン=サン=ミシェルの古刹を訪うたりした。内地の旅行を了えると間もなく私は更らに国境を越えて、イタリアの旅に数旬を費やした。秋風が吹き初めて、街々の料理店レストランでは、牡蠣かきが旺んに売れる頃、私はそろそろフランスの麺麭が恋しくなって来たので、自由な独り旅をいい加減に切上げて、再びパリに帰って来た。芝居の期節である。音楽の期節である。秋のサロンが始まる。パリは目と耳とを思う存分働かせるに最もふさわしい都らしい都になっていた。私は、昼も夜も、下宿を留守にする日が続いた。従って、エレディヤ研究者の事などは、いつの間にか忘れて了った。
 或日、私は買物をして帰って来ると、宿の入口で、主人が私を呼びとめて、面白い話があるという。私は話が面白かったら、之をやるといいながら、焼栗マロンの袋をポケットから出して見せた。
「焼栗には甘口の白葡萄酒がいい。惜しいけれど、一本奮発しようか。」といって彼は地下室に降りて行った。やがて彼はソーテルヌの一壜をぶら下げて出て来ると、サロンの卓の上にそれを置いて、
へい旦那之が最後の壜で御座いますヴォアラ・ムシュー・セ・ラ・デルニエール・ブテイユ旦那は御運がいいヴザヴェ・ラ・シャンス。」などとレストランの酒番ソムリエの口真似をした。そして彼は壜の栓を抜いて「先ずあなたにピュスラージュを」といいながら、盃についで呉れた。私はピュスラージュという意味がわからなかったので、訊き返した。すると、彼は、
処女ピュセルという字を知ってるだろう。」とニヤリとして、「ね、そこで解るだろう。ピュスラージュはお初という事になる。但し婦人の前で此んな言葉は厳禁だ。」
 焼栗をつまみながら、白葡萄酒を傾けながら、話上手な主人はフランス人一流の態度で「さてエ・パン」といって、語り出した。

 欧州戦争の少し前である。セルヴィヤの首府ベルグラードに、一つの秘密結社があった。それは堅実な社会主義と熱烈な愛国心を抱く青年の群に依って、組織されていた。此等の青年は心から自国の資本主義的政治をのろうと同時に、大塞国確立の理想に燃えていた。そして彼等は、絶えず自国の存在を脅す墺国に対しては、折があったら積年の怨みを晴らそうと、常に一矢を酬ゆるのときを待っていた。此の結社の一方の団長にFという青年がいた。彼が如何なる画策をめぐらしていたか、それは誰も知らなかった。千九百十四年、六月二十八日、墺国皇嗣フランツ・フェルディナンドが、妃を携えて、ボスニヤの首都サライェヴォを訪問した時、セルヴィヤの一学生ガリロ・プリンチプの、狙いを定めて放った短銃の幾発は皇嗣と妃とを同時にたおした。プリンチプは捕えられたが、彼は昂然として「セルヴィヤの為に」と答えた。
 此処迄が話の序曲プレリュードだが、中途は端折って直ちに結論に移ろう。と云って、主人は飲みかけの盃を乾すと更らに語り続けた。
 プリンチプとFとが同志であったか、どうか、それは知らない。然し暗殺事件の後、間もなく、Fの姿はベルグラードから影のように消えて了った。大戦争が始まった。Fは絶えず故国を思いながら、イタリアを放浪して歩いた。イタリアのオーストリアに対する宣戦からパリの講和会議。続いて小国の独立、ボルシェヴィキの軍国化、ファシストの擡頭、各国社会党の過渡的消沈、など目まぐるしいばかりに推移って行く欧州の劇的な変化を目撃した後、Fはフランスに入って、パリに暫く足を停める事になった。主人は一息ついてから目を皿のようにして天井を指しながら宿うちの四階に居た乙女のように柔和なセルヴィヤ人が其のFであった。実は今朝、Fの親友のセルヴィヤの彫刻家から、始めて此の話を聞いた。どうだ驚いたろう。人は見かけに依らないと云うが、此位い見かけない話はないと思う。と語り了って主人は私の顔をじっと見詰めた。
 私も全く驚いた。人に会うと直ぐ顔を赤らめるような、優しいあのセルヴィヤ人が鉄心石腸の社会主義者で、熱烈な憂国者で、而も亡命の志士であったのか。私は今更らのように、主人と一緒に、人は見かけに依らないものだと繰返した。そして教壇の革命論者や紙上のテロリストとは自ら異なる「ほんもの」の凄味に打たれた。私は啄木の所謂「奪はれたる言葉のかはりに行ひをもて語らんとする」革命家を見たのである。

 秋が更けて、再びパリの冬が近くなった。晴れた日でも河蒸汽パトー・ムーシュでセーヌ河を往来する客の数が目に見えて減って来た。或晩、私はヴィユ・コロンビエ座の新劇を観に行くつもりで、宿の近くのコントル・スカルプのプラスから乗合オートビュスに乗った。私の前には、一人の紳士が腰をかけていた。其紳士は、時々私の方を見ては、何か言い度そうな様子だったが、とうとう決心したらしく、「失礼ですが、君は私の友人のFが嘗て居った下宿に居られる日本人ではないか。自分はFと同国のイヴロバッツという者だが、実は……」格調の正しい彼のフランス語は、彼の教養を知るに充分であった。私は彼の話を遮って、
「エレディヤの事でしょう。私が何かお役に立つ事が出来れば幸いです。午前中は毎日宿に居ますから、何時でも御出で下さい。」
 イヴロバッツ氏は私の好意を悦んだ。数日を経て、彼は私を訪ねた。彼はエレディヤの唯一の詩集『戦勝標トロフェ』をひらいて、巻中の「大名」、「武士さむらい」と題する二つの小曲ソンネを私に示して、彼の解し得ない日本の事情に就て、頗る適切な質問をした。彼のエレディヤに関する知識の深いのに私は先ず驚かされた。彼は『戦勝標』一巻に収められた詩は悉く暗記しているらしかった。彼は次で、日本に於て、誰かエレディヤを研究した人はないかとただした。私は研究という程ではないが、三四年前にエレディヤの詩を論じて、彼のミケランジェロと浪曼派の詩人ハルビエのミケランジェロとを比較した一文を草した事がある。浪曼派的な小曲と高踏派的な小曲との特質を対比し、例示するのに極めて好都合だと思ったのみならず、広く二派の傾向の岐路を指摘する便りにもなると思ったから、と答えた。彼は私の意見に賛成して呉れた。私は更らに附加えて、今から七八年前に、友人の内藤濯君が『エレディヤの詩形』という論文を発表した事がある。而も其の友人は最近にパリに着いて、現に此の下宿に居る、と告げた。そして私は内藤君を招じて、彼に引合せた。彼は色々内藤君に質問して、また文献ドキュマンふえたといって非常に悦んだ。私はエレディヤに関する彼の質問のおわるのを待って、忘れられぬ印象を残して行ったFの消息を訊ねた。彼も精しい事は知らなかった。唯Fはベルグラードに帰る前に、彼を訪ねて、パリの生活の苦しかった事を物語って、既に三月の間、一片の肉も口に入れた事がないといったそうである。彼はFの貧苦を見るに忍びなかったので、援助を与えようとした。然しFは好意を謝したが、それを固辞して敢えて受けなかった。そして飄然としてパリを去った。
「Fは偉い男だ。あの炭のように黒い眼は、今は地中に睡っているが、将来一度は火になる運命を有している。必らず火になる。」
 斯ういってイブロバッツ氏は黙って了った。

 年が改まって、パリは前の年と同じように陰気になった。冬の空を仰ぎながらパリに来た私は、再び寒い風に送られて、パリを去った。そして帰朝の途に就いた。

 昨年の夏、私は文芸週報「ヌーヴェル・リテレール」の新刊紹介の欄でミオドラック・イヴロバッツ著『ジョゼ・マリヤ・ド・エレディヤ、その生涯及び著作』、『戦勝標の淵源』という広告を、ふと見出して、苦心の結果が世に出た事を初めて知った。而も其後間もなく手にした『講義講演雑誌』の彙報で、イヴロバッツ氏の近著がパリ大学の学位論文審査を通過した事を知った。のみならず、外国人のフランス文学研究としては出色である事は言う迄もないが、エレディヤ研究に関するドキュマンとしても第一位に推さる可きものと認められて、試問教授並に陪審教授から名誉ある賞賛をち得たという事も併せて知った。
 私はその記事を読んで、嬉しかったので、早速その本を注文した。それに依って私はイヴロバッツ氏の示教を受け、且、遥かに氏の学者的な※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)ふうぼうを想う傍ら、更らに彼の友であり、真の革命家であるFの面影をも偲ぶよすがにしたいと思った。
(大正十三年秋)





底本:「日本の名随筆 別巻31 留学」作品社
   1993(平成5)年9月25日第1刷発行
底本の親本:「辰野隆随想全集4 ふらんすとふらんす人」福武書店
   1983(昭和58)年8月15日初版発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2015年1月28日作成
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