私が張作霖を殺した

河本大作




 大正十五年三月、私は小倉聯隊附中佐から、黒田高級参謀の代りに関東軍に転出させられた。当時の関東軍司令官は白川義則大将であったが、参謀長も河田明治少将から支那通の斎藤恒少将に代った。
 そこで、久しぶりに満洲に来てみると、いまさらのごとく一驚した。
 張作霖ちょうさくりんが威を張ると同時に、一方、日支二十一カ条問題をめぐって、排日は到る処に行われ、全満にはびこっている。日本人の居住、商租権などの既得権すら有名無実に等しい。在満邦人二十万の生命、財産は危殆きたいに瀕している。満鉄に対しては、幾多の競争線を計画してこれを圧迫せんとする。日清、日露の役で将兵の血で購われた満洲が、今や奉天軍閥の許に一切を蹂躙されんとしているのであった。
 しかるに、その張作霖の周囲に、軍事顧問の名で、取り巻いて恬然てんぜんとしている者に、松井七夫中将を始め、町野武馬中佐などがあって、在満同胞二十万が、日に日に蝕まれていくのを冷然と眺めているばかりか、「みんな、日本人が悪いのだ」とさえ放言して顧みない。そして唯、張作霖の意を迎えるにもっぱらである。
 自分は、まったく呆然とした。支那の各地を遍歴してかなり排日の空気の濃厚な地方も歩いたが、それにしても、満洲ほどのことはない。満人は、日本人と見ると、見縊みくびり蔑んで、北支辺りの支那人の日本人に対する態度の方が遥かに厚い。まさに顛倒である。日露戦役直後の満人の態度とまるで変っている。
 そこで、自分は、旅順にジッとしていることも許されず、変装して全満各地に情況を偵察する必要を痛感し、遠くチチハル、満洲里、東寧、ポクラニチア等、北満の南北にわたって辺境の地をつぶさに観察したが、東寧辺りでは、街路上で、邦人が、満人からむちうたれるのを目撃し、チチハルでは、日本人の娘子群が、満人から極端に侮辱されているのを視るなど、まことに切歯扼腕せざるを得なかった。旅順に帰っていても、そうした情報が頻々として来る。奉天に近い新民府では、白昼日本人が強盗に襲われたが、しかもその強盗たるや、正規の軍人てあった。邦人商戸は空屋同然となって、日夜怯々として暮しているというのであった。
 自分自身、つぶさにその暴状を目撃して来たのである。日本人の軍事顧問や、奉天にある外交官が、「日本人が悪い」と断言するに足るものが、どこに発見されたか。
 いずれも意識的、計画的に、奉天軍閥が邦人に対し明らかに圧迫せんとしている意図は瞭然たるものがあった。
 しかもその圧迫は、独りそうした暴虐に留らない、経済的にも、満鉄線に対する包囲態勢、関税問題、英米資本の導入など、ことごとくが日本の経済施設、大陸資源開発に対しての邪魔立てである。撫順で出炭する石炭に対しては不買を強いている。これでは、日本の大陸経営はいっさい骨抜きとされている。
 郭松齢事件で、もしも日本からの、弾薬補給から、作戦的指導に到るまで、少なからぬ援助がなかったら、奉天軍の今日の武威はなかったのである。いわば大恩返しとして、商租権のごときは、奉天軍が進んで提供した権益である。
 勢いに乗った張作霖は、ソロソロといつもの癖が出て、関外に出て、北京に入り、大元帥の称号を自ら宣して、多年の野望を遂げんとして得々としていた。その股肱、楊宇霆はまた、日本の恩を忘れて、米国に媚態を見せて大借款を起こさんとしている。
 その忘恩的行動は枚挙にいとまがない。

 翌けて昭和二年七月であった。
 田中義一は総理大臣兼外務大臣として台閣にあったが、自ら主張して、いわゆる「東方会議」を開かんことを提唱した。外務政務次官に森恪がいた。
 当時関東軍司令官は、白川大将去って、武藤信義中将が、大正十五年七月に代わって赴任していた。
 武藤中将は、露西亜ロシア通で、かつて参謀本部第二部長も勤めて支那にも明るかった。この支那通というのも種々あって、ただ支那に在住し支那人と交際し、骨董品くらいを貰ってホクホクしているのを能とした類いも少なくないが、武藤将軍はそんな支那通ではなかった。
 だから武藤将軍を関東軍司令官に迎えると、幕僚たる自分らの献策についても、これをよく諒解し、上下、腹蔵なく大陸経営に対する、根本的対策の相談が出来たのであった。
 やがて東方会議が開かれることになった。武藤司令官もそれに出席されることになり、自分もそれに随従して上京することになった。
 会議では、当然満洲における対策が討議されねばならなかったが、満鉄線に対する奉天軍閥がとった、包囲態勢に対しては、もはや外交的な抗議等では及ばないことを自分は力説し、武藤将軍は、この会議において武力解決を強調された。田中首相もこれを諒とし、武力解決を是とすることにだいたいの方針が決せられた。
 そこで、自分は具体案として左の状勢を利することを献策した。その頃、支那南方に起った蒋介石が、孫逸仙とともに北伐を開始し、奉天派はこれに対して、その先端は、浙江方面上海にまで進み、張学良と楊宇霆を首将としてあたらしめていた。
 蒋介石の、かねて軍官学校で養った新鋭の兵は、奉天旧軍閥の兵とは、雲泥の相違で、軍紀等でもまるで違っている。ことに揚子江以南には元来、南方派の勢力が根強く張っている。張作霖は勢いに乗じて、上海までも手を伸ばしているが、やがて蒋介石らの北伐が開始されれば、たちまちにして奉天軍はまたまた奥の手の関内へ逃げ込みの一手を用うるに相違ない。
 蟹の穴に潜るのと同じで、いったん穴へ潜れば、容易に攻めがたい。張作霖が敗退して関内へ帰れば、またまた安泰である。ここで機を見て、陽気が温くなれば、のそのそ這い出すのである。
 北京に出て、大元帥を誇号している張作霖は、三十万の大兵を擁して今は関外にある。この三十万の兵が、ゾロゾロ敗れて関内へ流れ込んだら、またまたどんな乱暴をやるかわからない。といって、これを助けたところで、一生恩に着るような節義はない。それはすでに郭松齢事件で試験済みである。
 その次に、南北相戦って東支や山東の地を戦禍の中に曝すのもまた幾多の権益を持つ日本を始め列国にとっても、また無辜むこの支那民衆のためにも、看過すべからざることである。北伐も北支では阻止しなければならない。
 同時に敗退した場合の張作霖の兵三十万は、よろしく山海関でことごとく武装を解除してのみ、入れるべきである。そして武力のない、秩序、軍紀のない、自制のない、暴虐な手兵を持たぬ張作霖を対手に、失われつつあるいっさいの、我が幾千件にわたる権益問題を一気に解決すべきである。
 右の方策は、会議の容れるところとなり、ことに森恪は、この献策に非常な共鳴をした。そしてこれは東方会議の議決となった。

 そうして、蒋介石の北伐は開始された。初め蒋介石は、山東、北支の戦禍に巻き込まれることを避けよとの提案を容れていたにかかわらず、勝ちに酔って、ついに済南城内を通過せず、ここに入城して約を違えたので、昭和三年の済南事変が勃発し、我が出兵となった。一方奉天軍は、予想通りに敗走して、山海関へ雪崩れを打って殺到した。
 関東軍はただちに、その治安維持のために備うべく、朝鮮から一混成旅団を編成して、時を移さず奉天に集中して待機したが、錦州および山海関へは、満鉄線付属地以外へ出兵することになるので、奉勅命令を待たでは出動することが出来ない。その奉勅命令がいっこう下らない。敗兵は続々と入って来るというありさまであった。
 当時、田中首相は、内閣の総理であり、かつ東方会議の主催者であったにもかかわらず山海関の手筈は、東方会議の議決によって、不動の方針となっているのに、なぜか躊躇している。
 それは、時の出淵駐米大使からの報告に基いて、米国の輿論よろんに気兼ねをし、既定の方針の敢行をためらったのであった。
 また参謀本部第二部長は、松井石根中将であり、田中首相の側近のブレインとして、佐藤安之助少将などがあって、それらの意見によっても動かされ、田中の肚はいよいよグラついたのであった。
 関東軍司令官は、その時、武藤将軍は村岡将軍と代っていたが、村岡将軍も、武藤将軍に比して、人格、識見ともに譲らず、不動の大陸経営意見も全然軌を一にしていた。だから関東軍としては、現地においてはすこしも動ずるところはなかったのである。
 しかし肝心の中央部がこんなありさまだから、どうすることも出来ない。そのうちに、奉天城内には、呉俊陞が五万の兵を黒竜江省から率いて出て守備している。そこへ、山海関からは毎日、一万、五千、と敗残兵が帰って来る。五月下旬になると、敗兵が早や三、四万は逃げ込んだ。京奉線からあるいは古北口の方から続々と入る。
 関東軍は、万一のことがあれば、腹背に敵を受けねばならない。奉天はまだ好いとしても、全満に瀰漫した排日は、事あった際は、燎原の火のごとく燃えさかり、排日軍は一斉に蜂起するであろうことも予想しなければならない。また一度、奉天で我軍と、その敗残兵との間に干戈かんかを交えんか、惧るべき市街戦となって、奉天在住の日本人はどんな目に遭うかわからない。すでに排日は奉天城内では言語に絶し、邦人小学生の通学などは、危険で出来ないという状況、奉天在留の邦人達は、関東軍を唯一の頼みとしていたが、拱手傍観の態度などで少なからず失望するというよりは、むしろこれを怨んだ。
 かかる奉天軍の排日は、もっぱら張作霖らの意図に出たところで、真に民衆が日本を敵とするという底のものではない。ただ、欧米に依存して日本の力を駆逐して、自己一個の軍閥的勢力の伸張を計り、私腹を肥やさんとするのみで、真に東洋永遠の平和を計るというふうな信念に基いていないことは明らかであった。一人の張作霖が倒れれば、あとの奉天派諸将といわれるものは、バラバラになる。今日までは、張作霖一個によって、満洲に君臨させれば、治安が保たれると信じたのが間違いである。ひっきょう彼は一個の軍閥者流に過ぎず、眼中国家もなければ、民衆の福利もない。他の諸将に至っては、ただ親分乾分の関係に結ぼれた私党の集合である。
 ことにこうした集合の常として、その巨頭さえたおれれば、彼らはただちに四散し、再び第二の張作霖たるまでは、手も足も出ないような存在である。匪賊の巨頭と何ら変ることがない。
 巨頭を斃す。これ以外に満洲問題解決の鍵はないと観じた。一個の張作霖を抹殺すれば足るのである。
 村岡将軍も、ついにここに到着した。では、張作霖を抹殺するには、何も在満の我が兵力をもってする必要はない。これを謀略によって行えば、さほど困難なことでもない。
 当の張作霖は、まだ北支でウロウロして、逃げ支度をしている。我が北支派遣軍の手で、これを簡単に抹殺せしむれば足る――と考えられた。
 竹下参謀が、その内命を受けて、密使として、北支へ赴く事になった。
 それを察したので、自分は竹下参謀に、
『つまらぬ事は止したが好い。万一仕損じた場合はどうする。北支方面に、こうした大胆な謀略を敢行出来得ると信ずべき人が、はたしてあるかどうか、はなはだ心もとない。万一の場合、軍、国家に対して責任を持たしめず、一個人だけの責任で済ませるようにしなければ、それこそ虎視耽々の列国が、得たりといかに突っ込んでくるかわからない。俺がやろう。それより外はない。君は北支へ行ったら、北京に直行して、張作霖の行動をつぶさに偵察し、何月何日、汽車に乗って関外へ逃れるか、それだけを的確に探知して、この俺に知らせてくれ』と言った。北京には建川美次少将が大使館付武官としておった。

 竹下参謀からやがて、暗号電報が達した。張作霖がいよいよ関外へ逃れて、奉天へ帰るというのであった。その乗車の予定を知らせて来たのである。そこで、さらに、山海関、錦州、新民府と、京奉線の要所に出した偵察者にも、その正確な通過地点を監視せしめて、的確に通過したか否かを、速報せしめる手筈をとった。
 さて奉天では、どこの地点が好いか、種々研究した結果、巨流河にかかった鉄橋こそは絶好の地点であると決した。
 そこで、某工兵中隊長をして、詳細にその付近の状況を偵察せしめると、奉天軍の警備はすこぶる厳重である。少なくとも、一週間くらいはそこに待ち構えていなければならない。厳重な奉天軍の警備の眼を逃れて、そんなことは到底不可能である。常に替え玉を使ったり、影武者を使うといわれている本尊を捉えるには、ただ一回だけのチャンスでは取り逃す憂いがある。充分の手配が要る。
 それにはこちらの監視が、比較的自由に行える地点を選ばねばならない。それには、満鉄線と、京奉線とがクロスしている地点、※[#「女+皇」、U+5A93、49-下-5]古屯、ここなれば満鉄線が下を通り、京奉線はその上を通過しているから、日本人が少々ウロついても目立たない。ここに限ると結論を得た。
 では、今度はいかなる手段に出るかが、次の問題となる。
一、列車を襲撃するか、
二、爆薬を用いて列車を爆破するか、
 手段はこの二途しかない。第一の方法によれば、日本軍が襲撃したという証拠が歴然と残る。
 第二の方法によれば痕跡を残さずに敢行することが出来ないでもない。
 そこで第二の方法を選ぶことにした。そして、万一この爆破計画が、失敗に終った場合は、ただちに第二段の手筈として、列車を脱線転覆せしめるという計画をめぐらせた。そして時を移さずその混乱に乗じて、抜刀隊を踏み込ませて、斬り込む。
 万端周到な用意は出来た。
 第一報によれば、六月一日に来る予定が来ない。二日も来ぬ、三日も来ぬ。ようやく四日目になって、確かに張作霖が乗ったとの情報が入った。
 クロス地点を通過するのは、午前六時頃である。かねて用意の爆破装置を取り付け、予備の装置も施した。第一が仕損じた場合、ただちに第二の爆破が続けられることにした。しかし完全にその場で、本尊を抹殺するには、相当の爆薬量が要る。量を少なくすれば、仕損じる懼れがある。分量が多ければ効果は大きいが、騒ぎが大きくなる。これには大分頭を悩ました。
 それから一方、満鉄線の方である。万一この時間に、列車が来ては事だ。そこであらかじめ満鉄に知らせておけば好いが、絶対に最小限の当事者のみがあたっていて秘密裏に敢行するのだから、それは出来ない。万一の場合のために、発電信号を装置して、満鉄線の危害は防止する用意をした。
 来た。何も知らぬ張作霖一行の乗った列車はクロス点にさしかかった。
 轟然たる爆音とともに、黒煙は二百メートルも空へ舞い上った。張作霖の骨も、この空に舞い上ったかと思えたが、この凄まじい黒煙と爆音には我ながら驚き、ヒヤヒヤした。薬が利きすぎるとはまったくこのことだ。
 第二の脱線計画も、抜刀隊の斬り込みも今は不必要となった。ただ万一、この爆破をこちらの計画と知って、兵でも差し向けて来た場合は、我が兵力に依らず、これを防ぐために、荒木五郎の組織している、奉天軍中の「模範隊」を荒木が指揮してこれにあたることとし、城内を堅めさせ、関東軍司令部のあった東拓前の中央広場は軍の主力が警備していた。
 そして万一、奉天軍が兵を起こせば、張景恵が我方に内応して、奉天独立の軍を起こして、その後の満洲事変が一気に起こる手筈もあったのだが、奉天派には賢明な蔵式毅がおって、血迷った奉天軍の行動を阻止し、日本軍との衝突を未然に防いで終った。
 喪は発しないで、人心を鎮めるために、張作霖は重傷だが、生命に別状なしと発表して、城内は異常な沈黙のうちにあった。そしてその当座、昨日に変って、たとえ一時ではあったが、さしもの排日行為も、ピタリとんでしまったのは笑止であった。

 張作霖の爆死後、張学良ならびに楊宇霆の一派は、奉天にある日本軍の意嚮いこうを計り兼ねて、錦州方面に踏み留まり、奉天に帰ろうとせず、形勢を観望していたので、奉天では、袁金凱を首長として、東三省治安維持会を組織し臨時政権を形成していた。
 しかして日本側では、今後の東三省政権の首脳者には、誰を選ぶべきかについて種々の意見が行われ、奉天軍の軍事顧問であった松井七夫少将一派は楊宇霆を推し、当時奉天特務機関にあった秦真次少将の一派は張学良を推さんとし、その間に種々暗闘があった。
 しかし、いずれにしても、このまま奉天を空にして、主権者なしで置くことは、統治上面白くないので、秦、松井の両者から、張学良に対し何ら他意のないことを示して、すみやかに張、楊、両人の帰奉することを慫慂しょうようしたので、ようやく学良も安心して、ひそかに苦力クーリーに変装して奉天に帰って来たのであった。
 ちょうどその頃のことであった。前駐支那大使林権助氏が奉天へ来て、まだ何となく落ち着かぬ気持ちでいる張学良に逢った。
 林権助は学良に、日本外史中の関ヶ原戦後の豊臣、徳川の関係の一節を説いて、暗に学良を秀頼に、楊宇霆を家康に擬して、おおいに学良を激励した。
 大阪落城後の秀頼の運命と比べて、学良は家康たらんかも知れない楊宇霆に対して、何となく常に疑心暗鬼を感じたが、たまたま、楊宇霆の誕生祝いが催された。その盛宴に学良も列してみて、支那全省にわたる要人達からの山のごとき、豪華な贈り物を見るに及んで、天下の諸侯がすでに、豊太閤歿後には、家康になびいたありさまを彷彿させるものがあった。
 学良の楊に対する猜疑は、ここにおいていよいよ深く、楊に対して学良はひそかに害意を懐くようになった。
 張作霖爆死の翌年四月、学良は、奉天督軍公署に楊宇霆を招いた。そしてかねて謀っておき、衛兵長の某をして、その場に楊をピストルで射殺させてしまった。
 これを知って、かねて学良擁立を考えていた秦少将、奉天軍に入っていた黄慕(荒木五郎)等は、すかさずこの機会を捉えて、張学良を主権者に推し、学良を親日に導かんと画策した。しかし当時すでに学良周囲の若い要人達は、欧米に心酔して、自由主義的立場にあって、学良もまたこれらの者をブレインとして重く用いていたので、学良の恐日は、漸々と排日に変移し、ついには侮日とまで進んでいった。
 その現れは、満鉄線の包囲路線となり、万宝山事件となり、あるいは憑庸大学の排日教育となり、排日、抗日は、むしろ張作霖時代よりもいっそう濃厚となり、日に日にその気勢を高めるに至り、秦少将らの企図した学良懐柔策はまったく画餅に帰したのであった。
 こんな次第で、梟雄きょうゆう張作霖が亡んで学良と変っても、何ら満洲の対日関係は好転せず、かえって反対の傾向をたどり、学良政権を再び武力によって倒壊しなければ、ついに満洲問題を永遠に解決する道のないことが瞭然となった。
 他方、日本の政界では満蒙問題解決に邁進する誠意を欠き、張作霖爆死事件をめぐって、これに善処するどころか、かえってこれを倒閣の具に供さんとさえする一派が出て、中野正剛、伊沢多喜男らはそれに狂奔するありさまであった。
 時の陸相白川義則大将は、いたずらに愚直で、事件に対する答弁は拙劣を極め、ますます中野、伊沢らに乗ずる隙を与え、ついに田中義一内閣はこのため倒壊するに至った。
 さらに、この事件に参画した私は停職処分を受け、村岡軍司令官、斎藤参謀長、水町袈裟六独立守備隊司令官らも相ついで、それぞれ行政処分を受けるに至った。
 政争はついに国策を誤って憚らない。政党政治の弊はここに極まり、もっとも顕著な悪例を我が憲政史上に残したのはこの時であった。
 かくて私は、昭和四年七月、いったん第九師団司令部附となり金沢にたくせられ、同年八月停職処分を受けて軍職を退くことになった。そこで旧伏見聯隊時代の縁故をたどって、京都伏見深草願成に仮りの寓居を定め、もっぱら謹慎の意を表した。
 この謹慎生活の裏にあって、私は、つらつらと沈思するの時を掴んだ。世は滔々として自由主義に傾き、彼らは、満蒙問題の武力的解決に対しては、非難攻撃を集中し、甚だしい論者中には、満蒙放棄論をさえ唱えだす外交官を見るのであった。
 年々に増大する我が国の人口問題は如何、食糧に対する政策は? これらから生ずる経済政策の根本的立て直しを必要とする時代ではないか。その当然の解決策として、大陸への確乎たる方策なくして何が出来よう。しかし自分の執った武力的方法は? はたして世の非難攻撃を甘受すべきであろうか、猛省すべきならば敢然と省みよう。
 私は自らを責め、自ら省み、深く時代を虚心、これをしっかりと把握するために、努力、研鑽した。京都帝大の権威といわれる多くの学者達の門も叩いた。また連日にわたって京都帝大図書館に通ってあらゆる政治経済の群書を広く渉猟したのであった。
 その結果は、日本の将来に直面しているものは、満蒙問題解決に外ならないことは、不動の事実であることに間違いのないことを確かめた。新しい構想の下に、あくまでも満洲問題を解決すべきであるという強固な決意を深めるばかりであった。
 伏見の謫居たっきょは一年間であった。その一年が過ぎると、一応、停職を解かれ第十六師団司令部附となり現役に復したが、その翌日附をもって予備役に編入された。したがって謹慎の生活も済んだので、居を東京に移すこととした。
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底本:「「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻」文藝春秋
   1988(昭和63)年1月10日第1刷
   1988(昭和63)年3月15日第7刷
底本の親本:「文藝春秋」文藝春秋
   1954(昭和29)年12月号
初出:「文藝春秋」文藝春秋
   1954(昭和29)年12月号
※底本編者による「タイトル署名のつぎの小字による説明」は省略しました。
入力:sogo
校正:染川隆俊
2015年9月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「女+皇」、U+5A93    49-下-5


●図書カード