幻化

梅崎春生




同行者


 五郎は背を伸ばして、下界を見た。やはり灰白色の雲海うんかいだけである。雲の層に厚薄があるらしく、時々それがちぎれて、納豆なっとうの糸を引いたような切れ目から、丘や雑木林や畠や人家などが見える。しかしすぐ雲が来て、見えなくなる。機の高度は、五百メートルくらいだろう。見おろした農家の大ささから推定出来る。
 五郎は視線を右のエンジンに移した。
〈まだっているな〉
 と思う。
 それが這っているのを見つけたのは、大分おおいた空港を発って、やがてであった。豆粒まめつぶのような楕円形だえんけいのものが、エンジンから翼の方に、すこしずつ動いていた。眺めているとパッと見えなくなり、またすこし離れたところに同じ形のものがあらわれ、じりじりと動き出す。さっきのと同じ虫(?)なのか、別のものなのか、よく判らない。幻覚なのかも知れないという懸念けねんもあった。
 病院に入る前、五郎にはしばしばその経験があった。白い壁にありっている。どう見直しても蟻が這っている。近づいて指で押えようとすると、何もさわらない。翼の虫も触れてみれば判るわけだが、窓がしまっているのでさわれない。仮に窓をあけたとしても、手が届かない。
 五郎は機内を見廻した。乗客は五人しかいない。
 羽田を発つ時には、四十人近く乗っていた。高松で半分ぐらいが降り、すこし乗って来た。大分でごそりと降り、五人だけになってしまった。羽田から大分までは、いい天気であった。海のしわ漁舟いさりぶね、白い街道や動いている自動車、そんなものがはっきり見えた。大分空港に着いた頃から、薄い雲が空に張り始めた。離陸するとすぐ雲に入った。
 航空機が滑走を開始した時の五人の乗客の配置。五郎と並んで三十四、五の男。斜めうしろに若い男と女。そのうしろの席に男が一人。それだけであった。四十ぐらい座席があるので、ばらばらに乗って手足を伸ばせばいい。そう思うが、実際には固まってしまう。立って席を変えたいけれども、五郎の席は外側で、通路に出るには隣客となりきゃくの膝をまたがねばならない。それが面倒くさかった。
 隣の客はいつ乗り込んで来たのか知らない。五郎は飛行機旅行は初めてなので、ずっと景色ばかりを眺めていた。
「乗ると不安を感じるかな?」
 羽田で待っている時、ちらとそう考えたが、乗ってみるとそうでなかった。不安がなかったが、別に驚きもなかった。下方の風景を、見るだけの眼で、ぼんやりと見おろしていた。
 隣の男が週刊誌から頭を上げた。髪油のにおいがただよい揺れた。男は窓外に眼を動かした。じっと発動機を見ている。黒い点を見つけたらしい。五郎は黙って煙草をふかしていた。二分ほど経った。
「へんだね」
 男はひとりごとのように言った。そして五郎の膝頭ひざがしらをつついた。
「ねえ。ちょっと見て下さい」
「さっきから見ているよ」
 五郎は答えた。
「次々に這い出して来るんだ」
「這い出す?」
 男は短い笑い声を立てた。
「まるで虫か鼠みたいですね」
「では、虫じゃないのかな」
「そうじゃないでしょう。虫があんなところにんでる筈がない。おや?」
 五郎はエンジンを見た。急にその粒々が殖えて来た。粒々ではなくて、くっついて筋になって来る。翼の表面からフラップにつながり、果ては風圧でちりぢりに吹飛ぶらしい。虫でないことはそれで判った。また幻覚でないことも。
 二人はしばらくその黒い筋に、視線を固定させていた。やがて男はごそごそと動いて、不安げな口調で名刺をさし出した。
「僕はこういうもんです」
 名刺には『丹尾章次』とあった。肩書はある映画会社の営業部になっている。五郎は自分の名刺をさがしたが、ポケットのどこにもなかった。
「そうですか」
 五郎は名刺をしげしげと見ながら言った。
「何と読むんです? この姓は?」
「ニオ」
「めずらしい名前ですね」
「めずらしいですか。僕は福井県の武生たけふに生れたけれど、あそこらは丹尾姓は多いのです。そうめずらしくない」
「わたしは名刺を持ってない」
 五郎はいった。口で名乗った。
「散歩に出たついでに、飛行機に乗りたくなったんで、何も持っていない」
 外出を許されたわけではない。こっそりと背広に着換え、入院費に予定した金を内ポケットに入れ、マスクをかけて病院を出た。外来患者や見舞人にまぎれて気付かれなかった。煙草を買い、喫茶店に入り、濃いコーヒーを飲んだ。久しぶりのコーヒーは彼の眠ったような情緒を刺戟し、亢奮こうふんさせた。
〈そうだ。あそこに行こう〉
 前から考えていたことなのか、今思いついたのか、五郎にはよく判らなかった。
「そうのようですね」
 丹尾は合点がてん合点をした。
「ぶらりと乗ったんですね」
「なぜ判る?」
「あんたは身の廻り品を全然持っていない。髪やひげも伸び過ぎている。よほど旅慣れた人か、ふと思いついて旅に出たのか、どちらかと考えていたんですよ。飛行機には度々?」
「いえ。初めて」
「この航空路は、割に危険なんですよ」
 丹尾はエンジンに眼をえながら言った。
「この間大分空港で、土手にぶつかったのかな、人死にが出たし、また鹿児島空港でも事故を起した」
「ああ。知っている。新聞で読んだ」
 五郎はうなずいた。
「着陸する時があぶないんだね。で、あんたはなぜ鹿児島に行くんです?」
「映画を売りに。おや。だんだんえて来る」
 五郎もエンジンを見た。細い黒筋がだんだん太くなる。太くなるだけでなく、途中で支流をつくって、二筋になっている。五郎は眼を細めて、その動きを見極めようとした。しかし飛行機の知識がないので、それが何であるか、何を意味するのか、判断が出来かねた。五郎はつぶやいた。
「あれは流体だね。たしか」
「油ですよ」
 丹尾はへんに乾いた声で言った。
「こわいですか?」
 五郎は少時しばらく自分の心の中を探った。恐怖感はなかった。恐怖感は眠っていた。
「いや。別に」
 五郎は答えた。
「映画を売りに? 映画って売れるもんですか?」
「売れなきゃ商売になりませんよ」
 丹尾はまた短い笑い声を立てた。
「映画をつくるのには金がかかる。売ってもうけなきゃ、製造元はつぶれてしまう」
「なるほどね」
 そう言ったけれども、納得なっとくしたわけではない。フィルムなんてものは、鉄道便か何かで直送するものであって、行商人のように売り歩くものではなかろう。そんな感じがする。五郎は丹尾の顔を見た。この顔には見覚えはない。髪にはポマードをべったりつけている。チョビ髭を生やして、蝶ネクタイをつけている。太ってはいるが、顔色はあまり良くない。頬からあごにかけて、毛細血管がちりちりと浮いている。暑いのに、かなりくたびれたレインコートを着ている。五郎は訊ねた。
「映画というと、やはり、ブルーフィルムか何か――」
「冗談じゃないですよ。そんな男に僕が見えますか?」
 その時傍の窓ガラスの面に、音もなく黒い斑点はんてんが出来た。つづいて二つ、三つ。翼を流れるものが、風向きの関係か何かで、粒のまま窓ガラスにまっすぐ飛んで来るらしい。爆音のため聞えないけれども、粒はヤッと懸声かけごえをかけて、飛びついて来るように見えた。二人は黙ってそれを眺めていた。やがて最後尾から、スチュワーデスが気付いたらしく、急ぎ足で近づいていた。丹尾は顔を上げて訊ねた。
「これ、何だね?」
潤滑油じゅんかつゆ、のようですね」
「このままで、いいのかい?」
 スチュワーデスは返事をしなかった。じっとエンジンの方を見詰めていた。その真剣な横顔に、五郎はふと魅力を感じた。やがてエンジンの形も見にくくなった。黒い飛沫ひまつが窓ガラスの半分ぐらいをおおってしまったのである。斜めうしろの乗客たちも、異常に気付いて、ざわめき始めた。
 スチュワーデスは何も言わないで、足早に前方に歩いた。操縦席そうじゅうせきの中に入って行った。その脚や揺れる腰を、五郎はじっと見ていた。病院のことがよみがえって来た。
〈今頃騒いでいるだろうな〉
 五郎は病室を想像しながら、そう思った。病室には彼を入れて、四人の患者がいた、それに付添婦が二人。騒ぎ出すのはまず付添婦だろう。患者たちは会話や勝負ごとはするけれども、お互いの身柄については責任を持たない。精神科病院だけれども、凶暴なのはいない。一番古顔は四十がらみの男で、電信柱から落っこちて頭をいためた。この男はもう直っているにもかかわらず、退院しない。会社の給料か保険かの関係で、入院している方が得なのだと、付添婦が教えて呉れた。電信柱というあだ名がついている。
「図々しい男だよ。この人は」
「うそだよ。そんなこたぁないよ」
 その男はにやにやしながら弁明した。
 その次は爺さん。チンドン屋に会うと、気持が変になって入って来る。何度も入って来るから、のべ時間にすればこちらの方が古顔ともいえる。もう一人は若い男。テンプラ屋の次男で、病名はアルコール中毒。皆おとなしい。
〈騒いでももう遅い。おれはあそこから数百里離れたところにいる〉
 喫茶店でコーヒーを飲む前から、よどんで変化のない、喜びもない病室に戻りたくないという気分はあった。――
 スチュワーデスが操縦室から、つかつかと出て来た。彼等に背をかがめて言った。
「もう直ぐ鹿児島空港ですから、このまま飛びます。御安心下さい」
 そして次の客の方に歩いて行った。窓ガラスはほとんど油だらけになっていた。丹尾が言った。
「席を変えましょうか」
「そうだね」
 五郎は素直に応じて、二人は通路の反対の座席に移動した。その方の窓ガラスは透明であった。突然雲が切れる。前方に海が見える。きらきらと光っていた。
「あんたはいくつです?」
 座席バンドをしめながら、丹尾が言った。手がふるえていると見え、なかなか入らなかった。
「ぼくは三十四です」
「四十五」
 五郎は答えた。
「潤滑油って、燃えるものかね」
「ええ。燃えますよ。しかしよほどの熱を与えないと、燃えにくい。バンドはきつくしめといた方がいいですよ」
 丹尾はポケットから洋酒の小瓶を取出してせんをあけ、一気に半分ほどあおった。五郎に差出した。
「どうです?」
 五郎は頭を振った。丹尾は瓶を引込め、ポケットにしまった。機は洋上に出た。
「こわいですか。顔色が悪い」
「いや。くたびれたんだろう」
 こわくはなかったが、体のどこかが震えているのが判る。手や足でなく、内部のもの。気分と関係なく、何かが律動している。そんな感じがあった。
 機は洋上に出た。速力がすこし鈍ったらしい。錦江湾の桜島をゆっくり半周して、高度を下げた。空港の滑走路がぐんぐん迫って来る。着地のショックが、高松や大分のとくらべて、かなり強く体に来た。しばらく滑走して、がたがたと停った。特別な形をしたトラックが二台、彼方から全速で走って来るのが見える。五郎はバンドを外した。爆音がなくなって、急に機内の空気がざわざわと泡立って来た。
 外は明るかった。南国なので、光線がつよいのだ。タラップを降りる時、まぶたがちかちかと痛かった。近くで話している人々の声が、へんに遠くから聞える。耳がバカになったようだ。続いて丹尾が降りて来た。並んで待合室に入った。
「あんなこと、しょっちゅうあるんですか」
 やや詰問きつもん的な口調で、丹尾は受付の女に言った。
「あんなことって、何でしょう?」
「あれを見なさい」
 丹尾は滑走路をふり返った。しかし旅客機はそこになかった。乗客を全部おろした機体は、ゆるゆると引込線に移動しつつあった。丹尾はすこし拍子ひょうしの抜けた表情になって言った。
「君に言ったって、しようのないことだが――」

「枕崎の方に行くんですか?」
 車で航空会社の事務所まで送られた。その前の食堂に入り、丹尾は酒を注文し、五郎はうどんを頼んだ。あまりきれいな食堂ではなかった。機上でサンドイッチを食べたので、食慾はほとんどない。
「そうだよ」
 五郎はうどんを一筋つまんで、口に入れた。耳の具合はすでに直っていた。
「どうです。一杯」
 空いたさかずきに丹尾は酒を注ぎ入れた。五郎は一口含んだ。特別のにおいと味が口の中に広がった。ごくんと飲み下して五郎は言った。
「これはただの酒じゃないね」
芋焼酎いもじょうちゅうですよ。しかし割ってある」
「もう一杯呉れ」
 五郎は所望しょもうして、また味わってみた。
「ああ。これは戦争中、二、三度飲んだことがある。どこで飲んだのかな。思い出せない。もっと強かったような気がするが――」
「割らないで、で飲んだんでしょう」
 丹尾はまた注いだ。盃は大ぶりで、縁もたっぷり厚かった。
「ぼくも枕崎に行こうかな」
 丹尾はまっすぐ彼を見て言った。五郎の顔は瞬間ややこわばった。ごまかすために、またうどんを一筋つまんだ。
「なぜわたしについて来るんだね?」
「ついて行くんじゃない。あそこあたりから商売を始めようと思って」
「商売って、映画の?」
 そろそろ警戒し始めながら、五郎は丸椅子をがたがたとずらした。
「そうですよ」
 丹尾は手をたたいて、また酒を注文した。
「直営館なら問題はないけどね、田舎には系統のない小屋があるでしょう。面白くて安けりゃ、どの社のでも買う。そこに売込みに行くわけだ。解説書やプログラムを持って、これはここ向きの作品だ。値段はいくらいくらだとね。すると向うは値切って来る。折合いがつけば、交渉成立です。そこがセールスマンの腕だ。各社の競争が烈しいんですよ」
「いい商売だね」
「なぜ?」
「あちこち歩けてさ」
 五郎は盃をあけながら答えた。
「わたしはこの一箇月余り、一つ部屋の中に閉じこもっていた。一歩も外に出なかったんだよ。いや、出なかったんじゃなく、出られなかったんだ」
「なぜ?」
 丹尾はきつい眼付きになった。
「なぜって、そうなっているんだ。二階だったし――」
 病室は二階にあったし、窓の外にはヒマラヤ杉がそびえて、外界をさえぎっていた。別に逃げ出す気持も理由もなかった。友人のはからいで、初めは個室に入ったが、入った日から睡眠治療が始まったらしい。日に三回、白い散薬をまされる。三日目に回診に来た医師が、五郎に聞いた。
「気分はどうですか。落着きましたか?」
「いいえ」
 と五郎は答えた。
「まだ治療は始めないんですか?」
 まだ憂欝と悲哀の情緒が、彼の中に続いていた。きばをむいて、闘いを求めていた。情緒が彼に闘いを求めているのか、彼が闘いを求めているのか、明らかでなかった。その状況を半年ほど前から、五郎は気付いていた。ある友人と碁を打っている時、急に気分が悪くなった。何とも言えないイヤな気分になり、痙攣けいれんのようなものが、しきりに顔面を走る。それでも彼はしばらく我慢して、石をおろしていた。痙攣は去らなかった。彼は石を持ち上げて、そのまま畳にぽろりと落した。友人は驚いて顔を上げた。
「へんだぜ。顔色が悪いぞ」
「気分がおかしいんだ」
 座布団を二つに折って横になった。やがて医者が来る。血圧がすこし高かった。根をつめて碁を打ったせいだろうと医師は言い、注射をして帰る。痙攣は間もなく治った。それに似た発作ほっさが、それから何度か起きた。街歩きしている中に起きると、タクシーで早速帰宅する。タクシーがつかまらない時は、店にでも何でも飛び込んで休ませてもらう。しばらく安静にすると元に戻る。コップ酒をあおると回復が早いことを、五郎は間もなく知った。
 いつ発作が起きるかという不安と緊張があった。常住ではなく、波のように時々押し寄せて来る。押し寄せるきっかけは、別にない。気分や体調と関係なくやって来た。すると五郎は酒を飲む。ベッドの中で、あるいはテレビを見ながら。ふっと気がつくと、考えていることは『死』であった。死といっても、死について哲学的省察しょうさつをしているわけでない。自殺を考えているのでもない。ただぼんやりと死を考えているだけだ。酒を飲み、卓にひじをついて、歌を口遊くちずさんでいる。よく出て来るのは、軍歌の一節であった。
「……北風寒き千早城」
 それにつづいて、
「楠公父子の真心に、鬼神もいかで泣かざらん」
 楠公父子が『暗号符字』に、いつか彼の中ですり変えられている。暗号符字の真心に鬼神もいかで泣かざらん。彼は苦笑いとともに思う。これがおれの正体しょうたいじゃないか。今まで不安を忘れたり、避けたりして、ごまかして来たんじゃないか。おれだけじゃなく、みんな。
「もう始まっていますよ。今日はすこし血をりましょう」
 医師がそう言った。注射管の中にたまる血の色を見ながら、五郎は同じようなことを考えていた。しかし、幻覚のことは、どうなるのか?

「さあ。そろそろ出かけましょうか」
 丹尾は盃を伏せて立ち上った。徳利の三分の一は、五郎が飲んだ。勘定かんじょうは丹尾が払った。その勘定を払う手付き、札入れの厚さなどを、五郎はじっと見ていた。丹尾は腕時計をちらと見た。
「汽車の時間はどうかな。駅で待たせられるかな」
「おれは車で行くよ」
 五郎はそっけなく答えた。
「待たせられるのは、いやだ」
 五郎は先に外に出た。航空事務所の隣が、ハイヤーの営業所になっていた。そこに入って行った。空港から乗って来た車の運転手が、車体をぼろ布で掃除していた。五郎の姿を見て、細い眼で笑いかけた。
「枕崎まで行くかね」
「行きますよ。どうぞ」
 運転手はドアをあけた。五郎は座席に腰をおろした。丹尾は店からまだ出て来ない。運転手が乗り込んで来た。
「一人ですか?」
 うなずこうとしたとたん、のれんを分けて丹尾があたふたと出て来て、五郎の傍にころがり込んだ。
「ぼくも乗せてもらいますよ。汽車は時間的に都合が悪いらしい」
 丹尾は運転手の横にトランクを投げ込んだ。運転手が答えた。
「あれは開通したばかりで、日に何本も出ないのです」
 抑揚よくようなまりめいたものがあるが、一応標準語であった。運転手という職業の関係もあるが、ラジオやテレビのせいもあるらしい。さっきの空港の受付の女の口調もそうであった。
〈戻るのか〉
 と五郎は思った。車はさっき乗って来た街衢がいくを、逆にしごいて走る。五郎は忙しく地図の形を頭に浮べていた。二十年前のここらは、すっかり爆撃にやられて、骨組みだけの建物と瓦礫だけの町であった。電線は地に垂れ、水道栓が音を立てて水を吹き上げていた。人通りは――暗闇で長いことえ放しにしたカメラの影像のように、動かないものだけが残り、人間の姿は全然消失していた。今自動車が押し分けて行く風景は、人がぞろぞろと通り、建物も整然として、道はきちんと舗装してある。あの時も人通りはあったのだろう。しかしそれは五郎の印象に残っていない。廃墟はいきょの姿だけだ。五郎は背をもたせたまま、窓に移る風物を眺めていた。
「さっきね、何かい出していると言いましたね」
 丹尾が言った。
「ほんとにそう思ったんですか?」
「そう」
「ふしぎだとは思わなかったんですか?」
「ふしぎ? いや」
 五郎は居心地悪く答えた。
「見違いかと思ってたんだ。君が気がついたから、見違いじゃないと判ったけれどね」
 丹尾は黙っていた。
「もっともあそこから虫が這い出しても、ふしぎだとは思わない。世の中にそんなことは、ざらにあると思う」
 車は市街を通り抜けた。しだいに家並がまばらになり、海岸通りに出た。桜島が青い海に浮び、頂上から白い煙をはいていた。
「ところで――」
 五郎は視線を前路に戻しながら言った。
「君は東京から飛行機に乗ったのかね?」
「そうですよ。気がつかなかったんですか?」
 丹尾は答えた。
「羽田からずっとあんたの横に坐っていましたよ。二度話しかけたけれど、あんたは返事しなかった」
「二度も?」
「ええ。初めは瀬戸内海の上空で、二度目は大分空港の待合室で。待合室では煙草の火を借りた。あんたは肩布をかけた代議士らしい男の方を見ていたね」
「ああ。そんなのがいたね。迎え人がたくさん来ていた。あれ、代議士か」
「そうでしょうね。大分からは、五人になってしまった」
 待てよ、と五郎は考えた。五人ならもう座席指定でなく、どこにも腰かけられる筈だ。それなのに横の座席にしゅうしたのは、何故だろうか。
「たかが五人乗せて、商売になるもんですかねえ」
「わたしはぼんやりしてたんだ。久しぶりに娑婆しゃばに出たんで、感覚が働かない。話しかけられても、聞えなかったんだよ。きっと」
「娑婆? するとあんたは――」
 丹尾は言いにくそうに発音した。
「それまで留置場かどこかに、入ってたんだね」
「留置場?」
 五郎は丹尾の顔を見た。
「留置場、じゃないさ。君は知っているんだろ」
 丹尾は首を振った。
「何も知らないよ。ちょっと様子がへんなんで、注意していただけです。いけないですか?」
 五郎は急に頭に痛みを覚えた。痛みというより、たがのようなものでしめつけられるような感じであった。彼は両手をこめかみに当てて、みほぐすような仕種しぐさをした。痛みは三十秒程でおさまった。
「ひどく頭が痛いことがありますか?」
 入院する前に医師が訊ねたことがある。その医者は三田村(碁を打っていた友人だ)の知己ちきで、彼に伴われて私宅を訪ねたのである。面談した応接間はこぢんまりして、壁には風景画がかけられ、隅の卓には花が飾られていた。壁は布張りで、特殊の加工がしてあるらしく、声は壁に吸い取られて反響がなかった。
「いいえ」
 五郎は答えた。
「痛くはないけれど、悲しいような憂欝な感じがあるんです」
「ずっと続けてですか?」
「いえ。続けてじゃない。時々強く浪のように盛り上って来るのです。いや、やはり続いているのかな」
 五郎は首をかしげて、ぽつりぽつりと発言した。
「漠然とした不安感がありましてね、外出するのがいやになる。顔が震えそうだし、皆がぼくを見張っているようで、うちに閉じこもってばかりいます」
「閉じこもって、何をしているんですか」
「寝ころんで本を読んだり、テレビを見たり、歌をうたったり――」
「歌を?」
 医者は手帳を出して、何か書き込んだ。
「どんな本を読むんです?」
「おもに旅行記とか週刊誌のたぐいです。むずかしいのはだめですね」
「旅行記ね」
 医者は探るような眼をした。
「テレビはあまり見ない方がいいですよ。眼が疲れるから。眼が疲れると、精神もいらいらして疲れます」
「そうですか。そう見たくもないんです」
 五郎はテレビを見る。おかしい場面が出て来る。五郎は笑わない。おかしくないからだ。感情が動かないのではない。むしろ動きやすくなっているのだが、それは悲哀の方にであって、笑いの方には鈍麻どんましている。五郎から笑いはなくなった。妙に涙もろくなって来た。テレビはスタジオから電波で送られ、映像となる。そう頭では判っているが、実感としてはそらごととしか思えない。影が動いているだけじゃないか。耐えがたくなってスイッチを切り、酒を飲む。そして歌をうたう。三田村が傍から口を出した。
「幻覚があるんじゃないか」
「幻覚? テレビのことか?」
「いや。ブザーのことだ」
「ブザーのことって、何ですか?」
 医者が質問した。
「いや。時々、時ならぬ時に、玄関のブザーが鳴るのです。出て行っても誰もいない」
「時ならぬ時というと?」
「真夜中なんかです。どうも誰かがいたずらをするらしい」
 五郎は幻覚のことを、たとえばブザーのことや壁に這うありのことを、あまり語りたくなかった。自分は正常である。その方に話を持って行きたかった。医師の門をくぐるのと、それは矛盾むじゅんしているようであったが、本能的な自己防禦ぼうぎょが働く。自分の症状を軽く見せたいという気持が強かった。
 それにもう一つの疑念があった。
〈この男はにせ医者じゃないのか〉
 実際に病院の中で、白い診察衣を着て、聴診器ちょうしんきでも持っていれば、一応信用出来る。でも今の場合、この医者は和服を着て、ゆったりとソファに腰をおろしている。医者らしくない。医者であるという証拠は、何もない。ここに来るまでは、医者の家に行くんだと思っていたが、応接間で応対している中に、その疑念がきざし、だんだんふくれ上ってくる。
〈あなたはほんものの医者ですか?〉
 と聞きたい衝動が起きる。しかしもしほんものだった場合、こちらがほんものの気違いだと思われるおそれがある。それではまずいので言葉にしない。
 医者の質問はなおも続いた。そして結論みたいに言った。
「やはり抑圧があるようですな」
「抑圧と言いますと?」
「いろんなものが、重いものが、頭にかぶさっているのです。それを取除かねばならない」
「重いものがね」
 美容院の前を通ると、女たちが白いかぶとのようなドライヤーをかぶっている。五郎はすぐにそれを連想した。
「ああ。つまり脱げばいいんですね」
「まあそういうことです」
「なるほど。しかし――」
 兜をかぶっているのが常人で、今のおれの場合は兜を脱ぎ捨てた状態じゃないのか。頭がむき出しになっているから、普通人が持たない感覚を持ち、感じないものを感じているのではないか。生きているつらさが、直接肌身に迫って来るのではないか。その点おれが正常人の筈だ。瞬間そう考えたけれども、五郎は口に出さなかった。
「健康と不健康との境目は――」
「健康といいますとね、緊張と弛緩しかん亢奮こうふんと抑制などのバランスがとれている状態です」
 医者は自信ありげに、煙草に火をつけた。
「大体人間というものはね、自分の心の尺度しゃくどをもって物事をおしはかるもんです。疲れた時の心に写る世界と、活気に充ちた時のでは、同じ対象に接しても、まったく感じ方が異なるんですな。それにまたその人の性格がからんで来る。ますます複雑になって来るんですよ」
「すると抑圧をとるには?」
「いろいろ方法があるわけですね。電気ショックとか持続睡眠療法とか――」
「電気ショック?」
 五郎は思わず声を高くした。
「やはり椅子に腰かけてやるんですか?」
「死刑台じゃないんだよ」
 三田村が横から口を出して笑った。
「こいつはね、電気をこわがるんだ。昔から」
「いや、こわいとか、こわくないとかは、関係がない」
 五郎は抗弁こうべんした。
「電流は体には作用する。しかし、心や感情に作用するかどうか――」
「じゃ酒はどうだね。酒はただの物質だが、感情を左右するよ」
「では睡眠療法の方がいいでしょう」
 医者は煙草をみ消しながら、とりなすように言った。
「いつでもいいですよ。病室の用意をしておきます」

「様子がへんかね?」
 五郎は丹尾に言った。ハイヤーは海岸道から折れて、山間に入っていた。折れたところから道がでこぼこになり、車は揺れた。
「どんな風にへんなのか」
「ええ。足がふらふらしているようだし、初めは酔っぱらってるのかと思いましたよ。話しかけても返事をしないしね」
「ああ。まだ薬が体に残ってんだ。それにしばらく歩かなかったもんだから、足がもつれる」
「病院ですか。留置場じゃなかったのか?」
「うん、病院で寝ていた。睡眠剤をんでね」
 丹尾はしばらくして言った。
「自殺をくわだてたんですか?」
「いや。病院に入ってから、毎日服んだ。治療のために服まされたんだ。毎日のことだから、だんだん蓄積ちくせきして、酩酊めいてい状態になるんだね」
 さっき飲んだ焼酎が、車体の振動につれて、体のすみずみまで廻って来る。しゃべり過ぎると思いながら、五郎はしゃべっていた。
「なぜ酩酊させるんですか?」
「不安や緊張を取除くためさ」
「なるほど。酔っぱらうと、そんなのがなくなるね」
 丹尾は合点合点をした。
「それでもうめたんですか?」
 五郎は首を振った。睡眠薬の供給は中止されたと、五郎は思う。白い散薬、ズルフォナールという名だが、それが全然来なくなった。しかし服用中の昏迷こんめい状態は、だんだん弱まりながらも続いているようだ。退院しても半年ぐらいは正常に戻らないだろうと、医者も言っていた。しかもまだ正式に退院したわけではない。途中でふっと飛び出して来たのだ。朝そっと背広に着換えていた時、大正エビが彼に言った。大正エビというのは、テンプラ屋の息子のあだ名である。
「どうかしたんですか?」
「いや。何でもない」
 五郎はネクタイを結ぼうと努力しながら答えた。ネクタイの結び方を忘れて、すぐにずっこける。抑圧がとれると、物忘れしやすくなるのだ。と同時に、色情的になる。酔っぱらいが酒場で醜態を見せると同じことだ。その点ではズルフォナールは酒よりも強く作用する。やっとネクタイが結べて、彼は脱出した。
「いや。まだ醒めていないんだ」
 五郎は丹尾に答えた。
「しかし不安や緊張は幾分解けたようだ。飛行機に乗る時、気分がへんになりやしないかと思ったんだが、別にその徴候ちょうこうはなかったね」
 飛行中はぼんやりした無為しかなかった。潤滑油がれ始めた時も、不安も驚愕きょうがくもなかった。この旅客機に乗っている目的は自分にも判っているつもりだったが、それがちるとか炎上するという実感は全然なかった。
「へんな病院ですね」
 丹尾がいった。
「そんな療法、聞いたことがない。どこの病院です?」
「もうここらが知覧ちらんです」
 運転手がぽつんと言った。
「葉煙草の産地でね、昔は陸軍特攻隊の基地でした」
 それきり会話が跡絶えて、車内はしんとなった。丹尾は洋酒の小瓶をポケットから出して、残りを一息にあおった。窓ガラスをあけて、道端にぽいと放る。ちらと見た丹尾の掌は異常に赤かった。
「ぼくは昔、戦時中に知覧に来たことがある」
 レインコートの袖で口を拭きながら、丹尾は誰にともなくいった。
「おやじと兄嫁に連れられてね」
「なぜ知覧に来たのかね?」
 五郎は訊ねた。
「兵隊としてか?」
「いえ。兄貴がね、飛行機乗りとして、ここにいた。別れを告げに来たのさ」
 丹尾は眼を据えて、窓外の景色を眺めていた。いぶかしげに言った。
「運転手君。これが飛行場か?」
 舗装されたかなり広い道が、まっすぐ伸びている。両側は一面の畠で、陽光がうらうらと射し、遠くに豆粒ほどの人々が働いていた。
「ええ。そうです」
 運転手は車を徐行させながら答えた。
「この道が昔の滑走路だったそうですよ。私は戦争中のことは知らないが」
「もっともうっと広かった。畠などなかった」
 丹尾は両手を拡げた。あまり拡げ過ぎたために、丹尾の右腕は五郎の胸に触れ、圧迫した。それから両手を元におさめた。
「こんな畠なんか、なかった。一面の平地だった!」
 丹尾の声は怒っているように聞えた。五郎もばくたる平蕪へいぶや並んでいる模型じみた飛行機が想像出来た。それは古ぼけたフィルムのように、色せている。しかし丹尾の風貌を、うまくそこにはめ込むことが出来なかった。やがて五郎は言った。
「その時、君はいくつだった?」
「十三、いや、十四だった」
義姉ねえさんはきれいなひとだっただろう」
 まだ若い、化粧もしない顔、もんぺに包まれたすべすべした姿体、それだけが幻の風景の中に動いて、五郎の内部の病的な情念を刺戟しげきした。丹尾はそれに答えず、運転手に声をかけた。
「ちょっとここらで停めて呉れないか」
 車が停って、二人は降りた。つづいて運転手も。丹尾は掌をかざして、あちこちを見廻した。やがてカメラを取出した。映画などで見た特攻隊の若い未亡人の姿を想像しながら、五郎は訊ねた。
「その時義姉ねえさんは、いくつだった?」

 病院の二階の突き当りに、付添婦たちの詰所つめしょがあり、炊事所すいじじょや粗末な寝所があった。その手前に梯子はしご段があって、物干台に通じている。五郎が入院して一週間後、梯子を登ろうとすると、台上に二人の姿が見えた。一人は大正エビで、片手を頬に当てて泣いていた。夕方なので、逆光ぎゃっこうの中の輪郭だけが見える。二重に見える。大正エビをなぐさめているのは、看護婦であった。すすり泣きは断絶して聞えて来たが、会話の内容は判らなかった。五郎は高い台での展望を求めて来たのだが、段の途中で足が動かなくなる。なぜ大正エビが泣いているのか。家に戻りたいとでも言っているのか。
 逆光線のために看護婦の白衣が透けて、体の形が見えた。女体の輪郭が黒く浮き上っている。それが突然五郎の情感をこすり上げる。眺めるのに絶好の位置だったし、女が体躯を動かすにつれて、肉や皮膚のすれ合いが、自分自身の感触のようになまなましく感じられた。そういう情の動きは、この一年ほどの間、全然五郎にはなかった。
〈これだな。医者が言ってたのは〉
 抑圧がとれると、押えたものが露出して来る。入院して日が浅いから、どの看護婦か判らない。五郎は気持を押えようとした。医者の予言した通りに、あるいは薬の言うままになってたまるか! 入院の時から、五郎は心の片隅で決心していたのだ。
〈おれはそこらの人間とは違う。ふつうの人間と同じ反応は示してやらないぞ!〉
 五郎は力んでいた。無用の力みで入院して来た。やがて気持をもて余しながらも、ねじ伏せるようにして、そろそろと梯子段を降りた。部屋に戻ると、古い週刊誌を読んでいた中年の付添婦が、五郎の顔を見て言った。
「どうしたんです。眼がへんですよ」
「今朝からものが二重に見えるんだ」
 五郎はベッドにもぐり込みながら答えた。
「お薬のせいですよ」
 付添婦はふつうの声で言った。
「もっとちらちらして来ますよ」
 五郎は毛布を額まで引き上げて、眼をつむっていた。欲情と嫉妬が、しきりに胸に突き上げて来た。彼は毛布の耳をつかみながら、低くうめいた。瞬間、彼はけがれた。――その後もっとひどいことがあった。ほとんど昏迷こんめいの域にあったので、詳細しょうさいの記憶はない。
「ぼくの写真をとって呉れませんか」
 畠を背景にして立って、丹尾はカメラを五郎に手渡した。
「ただそのポッチを押せばいいんです」
 五郎はカメラを眼に持って行き、ファインダーの真中に丹尾を置いた。そして姿を片隅にずらした。ポッチを押す。丹尾の顔の半分と、広漠たる畠が写ったと思う。それから位置をかえて三枚とる。丹尾はあまり面白くなさそうにカメラを取り戻した。
「あんたも写して上げよう」
「御免だね」
 五郎ははっきりと断った。
「こんなとこで写してもらいたくない。君はこんなとこを写して、どうするんだ?」
「兄貴にやるんですよ」
「兄貴? 生きているのかい?」
「ええ」
 丹尾が先に車に這い込んだ。
「何だか運よく他の基地に廻されてね、その中戦争が終ってしまった。今は武生たけふでペンキ屋をやっています」
 車が動き出した。特攻隊からペンキ屋か。ふん、という気持がある。でも誰にもそれをとがめ立てする権利はない。そうと知ってはいるが、五郎はかすかに舌打ちをした。
「幸福かね?」
 ぎょっとしたように、丹尾は五郎の方を見た。
「幸福に見えますか?」
 丹尾は表情をゆがめていた。
「一箇月前にね、妻子を交通事故でうしなってしまった。都電の安全地帯にいたのに、トラックの端っこが引っかけたんだ」
 丹尾は笑おうとしたが、声が震えて笑いにはならなかった。
「それで元のもくあみさ。以来酒びたりだよ。それで会社に頼んで、本社勤めをやめ、南九州のセールスマンに廻してもらった。いや。廻されたんだ。なぜぼくが羽田で、あんたに興味を持ったか、知らせてやろうか?」
「誰のことを言ってんだね?」
「あんたのことさ。あんたは自殺をする気じゃなかったのかい?」
「おれが?」
 五郎は座席の隅に身体を押しつけた。丹尾の眼は凶暴に血走っていた。
「そんな風に見えたのか」
 しばらく五郎は丹尾の眼を見返していた。
「おれは自殺しようとは全然思っていない。おれとは関係がない何かを確めようと思ってはいるけどね。しかし、奥さんを死なしたのは、君のことか?」
 丹尾は怪訝けげんな表情になった。
「ぼくのことじゃなかったのか?」
「そうだよ。君のことなんか聞いてやしない」
 五郎は警戒の姿勢を解かなかった。他人の気分に巻き込まれるのは、今のところ心が重かった。
「武生のペンキ屋さんのことだ」
「ああ。あれか」
 がっくりと肩を落した。
「あれは幸福ですよ。兄嫁との間に四人も子供をつくってさ。しかし兄貴が幸福であろうとなかろうと、今のぼくには関係ない」
「誰だって他の人とは関係ないさ」
 五郎はなぐさめるように言った。四人も子供を産んだ中年の女を考えたが、索漠として想像までには結ばなかった。
「他の人と何か関係があると思い込む。そこから誤解が始まるんだ」
 運転手は会話を耳にしているのかどうか、黙ってハンドルを動かしている。赤い両掌で丹尾は顔をおおった。十分ほどそうしていた。五郎は窓外を眺めていた。丹尾は掌を離した。
「鹿児島一円を廻ったら、熊本に行く。阿蘇に登るつもりです」
「阿蘇にも映画館があるのかい?」
「阿蘇にはありませんよ。山だから」
 丹尾は言った。
「あんな雄大な風景を見たら、ぼくの気分も変るかも知れない。そうぼくは思う」
「うまく行けばいいがね」

 枕崎で車を降りた。五郎は空腹を感じた。機上食と、鹿児島でうどんを少量。口にしたのはそれだけで、車で長いこと揺られて来た。日はまだ高い。緯度の関係で、日没は東京より一時間ほど遅いのだ。しかし空腹はそのためだけでない。病院の安静の一日と違って、今日は大幅に動き廻った。何か食べましょうや、と丹尾は話しかけた。さっきの激情から、やっと自分を取戻したらしい。
「宿屋の飯を食うほど、ばかげたことはない。それがセールスマンの心がけですよ」
 トランクを提げて、先に歩き出した。後姿はずんぐりして、いかにもこのなまぐさい街の風物にぴったりだ。トランクだけが独立した生物のように上下動する。
〈SN氏のトランク、か〉
 五郎の頬に隠微な笑いが上って来る。何もかも間違いだらけだ。おれも、あのトランクも、ここに来るべきじゃなかったのではないか。しかしすぐに笑いは消えてしまう。
 今まで車で眺めて来たいくつかの小部落は、緑の樹々の間に沈んでいた。小川がそばを流れていた。今見る枕崎の街は、ほとんど木がない。むき出しにした木造家屋だけである。かろうじて柳の街路樹があるが、幹の太さが手首ぐらいで、潮風にいためられてか葉もしなびている。ふり返ると町並の向うに、開聞岳の山容が見える。魚の臭いでいっぱいだ。庭内にむしろを敷いて、一面に茶褐色の鰹節かつおぶしを干した家がある。そのそばに猫が丸くなって眠っている。バー。パチンコ屋。食堂。特製チャンポン。空気は湿っていた。
「ここに入ろうよ」
 食堂に入る。チャンポンと割焼酎を注文する。焼酎の方が先に来た。
「割焼酎というのはね」
 丹尾が五郎のさかずきに注いだ。盃というより、小ぶりの湯呑みに近い。黒褐色の厚手のやきものだ。
「水で割るんじゃない」
「何で割るのかね?」
「清酒。いや、合成酒でしょう。水で割ると、かえってにおいが鼻につく」
 つまみの塩辛を掌に受けて、丹尾は焼酎とともに口に放り込む。盃を傾けながら、五郎はその赤い掌を見ていた。
「君。肝臓が相当いかれているようだね」
「そうですか」
 丹尾は平気な顔で答えた。
「そうでしょうな。あれから毎日酒ばかりで、アル中気味だ」
「酒で悲しさが減るかい?」
「いや。やはりだめだね。やけをおこして、いっそのこと死のうかと思うけれど――」
 チャンポンが来た。丹尾ははしを割って、先をこすり合わせた。
「さっき飛行機で、油が流れ始めたでしょう。ぎょっとしたね。あの航空機はあぶないんでね」
「あぶないことは知ってたんだろ」
「知ってたよ。墜落ついらくするかも知れない。墜落したらしたで、それもいいじゃないか。そう思って乗ったんですが、やはりだめだ。こわかったね。だからぼくはあんたに名刺を渡した」
「名刺をね。どうして?」
「海にちて、死体が流れて判らなくなってしまう。あんたの死体だけでも見付かりゃ、ぼくの名刺を持っているから、ぼくが乗っていたことが判る」
 五郎はポケットから丹尾の名刺を出して、裏表を眺めた。
「判ってどうなるんだ?」
「あとで考えてみると、どうもなりゃしない。恐怖で動転してたんだね。あんたはほんとにこわくなかったんですか?」
 五郎はしばらく返事をしなかった。チャンポンの具のイカの脚をつまんで食べていた。イカは新鮮で、しこしこしてうまかった。
「こわくはなかった。いや、こわいということは感じなかった。第一、ちることを、考えもしなかった。ぼんやりしてたんだな」
「そうですか」
 丹尾はまた盃をあおった。
「あんたはなぜ東京から、枕崎くんだりまでやって来たんです」
「そりゃ君と関係ないことだよ」
 彼はつっぱねて、チャンポンに箸をつけた。豚脂ぶたあぶらをふんだんに使って、ぎとぎとし過ぎていたけれども、空腹には案外うまかった。二十年前は物資が乏しく、こんな店もなかったし、鰹節も干してなかった。貧寒な漁村であった。しかし彼はその頃鮮烈な生のまっただ中にいた。丹尾も箸を動かしながら言った。
「今日はここに泊るんでしょう」
「多分ね」
「ぼくと同宿しませんか」
 丹尾は五郎を上目で見た。
「立神館という宿屋があった。あれがよさそうです。出ましょうか」
 丹尾はチャンポンを、半分ほど食べ残し、立ち上った。
「ぼくはその前に、映画館を一廻りして来ます。あんたは?」
「そうだな」
 五郎は答えた。
「海でも見て来ようかな。いや、その前に床屋にでも――」
 五郎はそう言いながら、丹尾の顔を見た。
「君もその鼻ひげったらどうだい。あまり似合わないよ」
「あの日から剃らないんですよ」
 左の人差指でチョビ髭をなで、丹尾は沈んだ声で言った。
「髭を立てたんじゃない。その部分だけ剃らなかっただけだ。記念というわけじゃないけどね」

白い花


 床屋に行く気持は、初めから全然なかった。丹尾の後姿がかなたに遠ざかると、五郎は身をひるがえして酒屋に入り、万一の用にそなえて、酒の二合瓶と紙コップを買う。途中で発作がおきると困るのだ。それからバスの発着場に歩き、休憩中の女車掌に声をかけた。
「坊に行くには、たしかあの道を、まっすぐ行けばいいんだね」
「はい。一筋道です」
 車掌は壁時計を見上げた。
「あと二十五分でバスが出ます」
 五郎も見上げてうなずいた。そしてそこらを五、六歩動き廻って外に出た。何気ないふりで、バス道を歩く。すこしずつ急ぎ足になった。
〈誰かがおれを追っている〉
 そんな感じが背中にある。その〈誰〉には実体がなかった。入院の前に、外出すると、いつもその感じにとらわれ、振向き振向きしながら歩いた。その時にくらべると、感じとしては淡いけれども、つけられている気配はたしかにある。
 家並の切れる頃から、人通りはだんだん少くなって来た。おおかたはバスを利用するのであろう。道に沿って、ぽつんぽつんと農家がある。納屋なやの土床で子供が遊んでいたり、はだしの農婦とすれ違ったりする。ふと振り返ると、農婦が足をとめて、じっとこちらを見詰めている。道はだんだん上り坂になる。
〈おれを見張っているのではない〉
 五郎は自分に言い聞かせる。不精髭を生やした背広姿の男が、バスにも乗らず、酒瓶をげて歩いている。それを異様に思っているに違いない。
 やがて小さなバスが砂煙を立てて、五郎を追い越した。彼は切通しの崖にくっつき、顔をかくしていた。おそらく乗っていたのは、先刻の女車掌だろう。それに顔を見せたくなかった。砂塵がおさまって、五郎はまた歩き出した。バス代を惜しんだわけではない。この道は、彼にとって、足で歩かねばならなかったのだ。しだいに呼吸が荒くなる。
 忽然こつぜんとして、視界がぱっと開けた。左側の下に海が見える。すさまじい青さで広がっている。右側はそそり立つ急坂となり、雑木雑草が茂っている。その間を白い道が、曲りながら一筋通っている。甘美かんびな衝撃と感動が、一瞬五郎の全身をつらぬいた。
「あ!」
 彼は思わず立ちすくんだ。
「これだ。これだったんだな」
 数年前、五郎は信州に旅行したことがある。貸馬に乗って、ある高原を横断した時、視界の悪い山径やまみちから、突然ひらけた場所に出た。そこは右側が草山になり、左側は低く谷底となり、盆地がひろがり、彼方に小さな湖が見える。
〈何時か、どこかで、こんなところを通ったことがある〉
 頭のしびれるような恍惚こうこつを感じながら、彼はその時思った。場所はどこだか判らない。おそらく子供の時だろう。少年の時にこんな風景の中を通り、何かの理由で感動した。五郎の故郷には、これに似た地形がいくつかある。その体験がよみがえったのだと、恍惚がおさまって彼は考えたのだが――
「そうじゃない。ここだったのだ」
 五郎は海に面した路肩ろかたに腰をおろし、紙コップに酒を充たした。信州の場合とくらべると、山と谷底の関係は逆になっている。それは当然なのだ。二十年前の夏、五郎は坊津を出発して、枕崎へ歩いた。枕崎から坊津行きでは、風景が逆になる。五郎は紙コップの酒を一口含んだ。
「ああ。あの時は嬉しかったなあ。あらゆるものから解放されて、この峠にさしかかった時は、気が遠くなるようだった」
 その頃もバスはあったが、木炭燃料の不足のために、日に一度か二度しか往復していなかった。坊津の海軍基地が解散したのは、八月二十日頃かと思う。五郎はまだ二十五歳。体力も気力も充実していた。重い衣嚢いのうをかついで、この峠にたどりついた時、海が一面にひらけ、真昼の陽にきらきらと光り、遠くに竹島、硫黄島、黒島がかすんで見えた。体が無限にふくれ上って行くような解放が、初めて実感として彼にやって来たのだ。
〈なぜこの風景を、おれは忘れてしまったんだろう〉
 感動と恍惚のこの原型を、意識からうしなっていた。いや、うしなったのではない。いつの間にか意識の底に沈んでしまったのだろう。今朝コーヒーを飲んだ時、突如として坊津行きを思い立ったのではない。ずっと前から、意識の底のものが、五郎をそそのかしていたのだ。それを今五郎はやっと悟った。彼はコップの残りをあおって、立ち上った。
 しばらく歩く。
 やっと風景が切れ、林の中に入る。道はだんだん下り坂になる。すこし疲れが出て来た。一杯の酒のために、体を動かすことがものくなって来た。高揚された気分が、しだいに重苦しく沈んで来る。彼は低い声で、かつての軍歌を口遊くちずさんでいた。歌おうという意志はなく、自然に口に出て来た。
『天にあふるるその誠
地にみなぎれるその正義
暗号符字のまごつきに
鬼神もいかで泣かざらむ』
 替歌をつくったのは、福という名の兵長である。福は奄美あまみ大島の出身だが、昭和十八年に一家は沖縄島に移住をした。才気のある男で、いろいろと替歌をつくった。この歌も、
〈天にあふるるこの錯誤。仁にみなぎれるその戦死……〉
 てんも暗号書の名で、天は普通暗号、仁は人事に関する暗号である。しかし五郎の口にのぼって来るのは〈暗号符字のまごつきに〉という部分だけであって、あとは元歌通りだ。五郎は暗号の下士官で、福は彼の部下であった。この替歌をつくった数日後、福は死んだ。
 やがて家がぽつぽつと見え始めたと思うと、その屋根のかなたに海の色があった。さきほどの広闊こうかつとした海でなく、湾であり入江である。その入江を抱く左手の山から、からすの声が聞えて来る。それも一羽ではなく、数十数百羽の鴉が、空に飛びいながら鳴いていた。
 ――冥府めいふ
 町に足を踏み入れながら、ふっとそんな言葉が浮んで来た。湾に沿った一筋町である。家々の屋根は総じて低い。昔は島津藩の密貿易の港であったので、展望のきく建物は禁じられていた。その風習が今でも残っている。戦災にはあわなかったせいで、町のたたずまいは古ぼけている。彼はふと戸惑う。
〈これがおれの軍務に服していた町なのか?〉
 五郎はこの基地に、三週間ほどしかいなかった。吹上浜のある基地からここに移って来て、すぐに戦いは終ったのである。今見る町の様相は、見覚えがあるようでもあったし、ないようでもあった。しかし五郎はたしかにここにいたのだ。二十年前、気力も体力も充実した青年として、ひりひりと生を感じながら生きていた。今は蓬髪ほうはつの、病んだ精神のうらぶれた中年男として、町を歩いている。彼は眼をあちこちに動かしながら、浦島太郎の歌を考えていた。
 ――道に行き交う人々は、名をも知らない者ばかり。
 頭に荷物を乗せた女が通る。女学生、小学生が通る。長い釣竿をかついだ男が通る。夕方になったので、磯釣りを終った土地の男だろう。芭蕉ばしょう、フェニックスが生えている。町を通り抜けると、まただらだら坂となる。高くなるにつれて、風景はいよいよ鮮明に立体化して来る。湾内に小島がいくつか見える。島々のために港の入口がせまい。大きな船は出入り出来ない。しかし水路の複雑さのために、密貿易には好適の港だったのだろう。五郎は足を止めた。そして道から斜面に降りて行く。首を傾けた。
〈たしかここらに松林があった筈だが――〉
 あの頃松林の中に、海軍航空用一号アルコールのドラム缶が、三十本ぐらい転がっていた。隠匿いんとくされていたのだ。松林なので空からは見えない。ここに来た二、三日後、そのドラム缶のひとつに小さな穴があいていることを、福兵長が発見した。そして五郎に報告した。五郎は笑いながら言った。
「お前があけたんだろう」
「冗談でしょう」
 福も笑いながら答えた。
「自然にあいたんです」
「それ、飲めるのかい?」
「ええ、原料はたしか芋です。水で割れば多分飲めますよ」
「そうか。飲みに行くか」
 五郎は福兵長と、興梠こうろぎという酒好きの二等兵曹をつれて、しばしば宿舎を抜け出て、酒宴しゅえんを開いた。アルミの食器に一号アルコールを半分ほど入れ、マッチで火をつける。アルコールの毒性は上澄みにあるというのが、宮崎県出身の興梠二曹の説で、いい加減燃えると吹き消し、水で割る。味もにおいもない。ただ酔うだけである。さかなが必要だったが、そこはうまいこと烹炊所ほうすいじょにわたりをつけて、缶詰などをもらって来る。味はないが、意外に強く、すぐに酔いが廻った。
 もちろん航空用のアルコールを飲むのは、不逞ふていの仕業であり、見付かれば懲罰ちょうばつものであった。だから宴は夜に限られていた。
〈あれはどこに行ったのか?〉
 十本ばかりの木がばらばら生えているだけで、昔の松林の面影はほとんどない。その木に交って、白い大きな花をぶら下げた、南国風の木がある。その花の名は忘れたが、色や形にはたしかに見覚えがあった。日はすでに入り、あたり一面は黄昏たそがれである。その花は、冥府の花のように、白く垂れ下っていた。彼はその木に近づき、指で花びらをさわって見た。花はゆらゆらと揺れた。声がした。
「こんばんは」
 五郎は道を見上げた。道には女が立っていた。軽装で、手に団扇うちわを持っている。ちょっと涼みに出たという恰好かっこうであった。
「こんばんは」
 五郎もあいさつを返した。女はスカートの裾を押えるようにして、斜面を降りて来た。
「何をしているの?」
 女は人慣れた口調で言った。香料のにおいがただよった。
「さっきから見てたんですよ。あなたはここの人じゃないね」
 五郎はうなずいた。
「遠くからやって来たんだよ。時にこの花、何という名前だったかな」
「ダチュラ」
 女はすぐに答えた。唇には濃めに口紅を塗ってある。商売女かな、と彼は一瞬考えた。
「原名は、エンゼルズトランペット」
「エンゼルズトランペット?」
 五郎は花に視線をえて、考え込む顔付きになった。入院前に読んだ旅行記、たしか北杜夫という作家の種子島紀行の一節に、
『ダスラ(この土地ではゼンソクタバコと呼ぶ)の白い花などが目につく』
 と書いてあったと思う。
「ダスラじゃないのかね?」
「いいえ。ダチュラ」
 五郎はまだ考えていた。口の中で言ってみた。
「エンゼルズトランペット」
「ゼンソクタバコ」
 おんが似ているじゃないか。彼はもう一度、二つの言葉を発音してみた。たしかに舌の廻り具合が似ている。ゼンソクタバコの方が、原音からなまったのだろう。
「なにをぶつぶつ言ってるの?」
「いや。何でもない」
「遠くからあんたは、何のためにやって来たのよ?」
 それは君と関係ないと、いつもならつっぱねる筈だが、時は黄昏だし、女の言葉や態度が開放的だったので、つい五郎は応じる気になった。
「まあ、見物かな」
 五郎は湾の方を指差した。
「あの岩の島の名は、何だったかしら」
「双剣石よ」
 二つの岩がするどくそそり立ち、大きい方の岩のてっぺんに松の木が一本生えていた。その形は二十年前と同じである。忘れようとしても、忘れられない。
「君はここの生れかい。戦時中、どこにいた?」
「ここにいました」
「じゃ戦争の終りに、この湾でおばれて死んだ水兵のことを、覚えてるかね。覚えてないだろうね」
「覚えてる。覚えているわ」
 女は遠くを見る眼付きになった。
「あたしが小学校の五年の時だった。いや、国民学校だったわね。体は見なかったけれど、棺に入れて運ばれるのを見た。うちの校舎でお通夜があった筈よ」
「そうだ。その棺をかついだ一人が、おれだよ」
「まあ、あんたもあの時の海軍さん?」
 五郎はうなずいた。女は五郎の頭から足まで、確めるように眺めた。
「あの棺の中に、このダチュラの花を、いっぱい詰めてやった。この花はむとすぐにしおれたけれど、匂いは強かった。棺の中で、いつまでも匂っていたよ」
「そういう花なのよ。これは」
「しかしなぜ死体を国民学校なんかに運んだんだろう」
「あそこはもともとお寺だったのよ。一乗寺と言ってね。明治の初めに廃寺になったの。その後に石造の仁王像が二つ、海から引上げられて、校庭に並んでるわ」
「それは気が付かなかった。もっともここには三週間しかいなかったし、学校内に入ったのも、その時だけだからね。二十年ぶりにやって来ると、おれはまったく旅人だ」
「そうねえ。あの頃の海軍さんとは、とても見えないわ」
 女は憐れむような、また切ないような眼で、五郎を見た。
「でも、あたしも小学生じゃない。三十を過ぎちまった」
「君の家は、坊にあるのかね?」
「いいえ。とまりよ。あの峠を越えて向うの部落なの」
 女はその方向を指した。
「谷崎潤一郎の『台所太平記』を読んだことがある?」
「いや」
「あそこに出て来る女中さんたちは、みんな泊の出身なのよ」
「ほう。女中さんの産地なのか?」
「あたしも行ったわ。学校を卒業して、すぐ東京へ」
 女は両掌で自分の頬をはさんだ。
「ある家に奉公して、そこの世話である男といっしょになって、それからその男と生活がいやになって――」
「戻って来たのか?」
「そう」
 女は笑おうとしたが、声にはならなかった。
「一箇月前にね。出戻でもどりというのは、どうも具合が悪くって。夕方になるとここに来て、ぶらぶらと時間をつぶしてるの。案内して上げましょうか」
「泊にかい?」
「いえ。小学校へよ。あなたはそんなことを確めに来たんじゃない? 二十年前の思い出なんかを」
「思い出?」
 五郎ははき捨てるように言った。
「思い出なんてもんじゃない。そんな感傷は、おれは嫌いだよ。でも、折角のお申出だから、案内していただこうかな」
「ずいぶんもったいぶるわね」
 今度は声に出して笑った。
「じゃ参りましょう」
 五郎は女のうしろについて、道へ上った。夕焼が色せ、薄暗さがあちこちの隅にたまり始めている。しばらく歩くと石段があった。それを一歩一歩登る時、五郎は膝頭やかかとににぶい痛みを感じた。石段を登り切ると、校庭になる。石像が二つ、十米ほど離れて立っている。その間に一本の大樹がそびえている。その像も樹も、彼の記憶には全然なかった。五郎は言った。
「見覚えないな」
「これ、ミツギという樹なのよ」
 女は説明した。
「あたしの小学校の時も、同じ大ききで、同じ形で立っていた。ずいぶん古くから生えてるわけね。何百年も」
「そうだろうな。別におれと関係ないことだけど」
 五郎はその樹の下に腰をおろした。女も団扇うちわを敷いて腰をおろす。さっきのダチュラの樹が眼下にあり、湾がそこからひろがっていた。彼は紙コップに酒を充たし、女の方に差出した。
「飲まないか」
「ええ。いただきます」
 女は素直に受取った。五郎は指差した。
「あそこの林は、松の木がもっともっと生えていた。そしてアルコール缶が、いくつも転がっていたよ」
「そう。十年ぐらい前に切り倒して、キャンプ場にしたらしいの」
 女は酒に口をつけた。
「ところがいっぺんあそこにキャンプを張った人は、翌年は絶対に来ないのよ」
「なぜ? 景色もいいし、水もきれいで泳げるのに」
「やぶが夜出て来て、チクチク刺すのよ」
「ああ。やぶ蚊か。おれたちもずいぶん刺された」
「おれたちって?」
「うん。暗くなるとあそこに行って、アルコールを水で割ってこっそり飲んだんだ。仲間三人だったけれど、福が一番強かった」
「福って、人の名?」
「そう。奄美大島出身の兵長でね。器用な男だった。芭蕉の葉で芭蕉扇をつくって呉れた。それでばたばたあおぎながら、アルコールを飲んだ。皆若かったね。あの頃は」
 五郎は酒瓶を直接口に持って行って、残りを飲み干し、がけ下に瓶を放り投げた。
「死んだ水兵というのは、福のことだよ」
「そうなの」
 女もコップ酒を飲み干した。
「どうしてその人が溺れたの?」
「うん。アルコールを飲んだ揚句あげく――」
 五郎は指差した。
「あの双剣石まで、泳ごうとしたんだ」
「双剣石まで?」
 わずかな明るさを背にして、双剣石はくろぐろとそびえ立っていた。それは墓標の形に似ていた。鴉声あせいは静まり、波の音だけがかすかに聞えて来る。

 泳ごうと言い出したのは、福であった。どんなきっかけだか、五郎は覚えていない。泳ぎの話になった。福は自慢した。
「泳ぎならうまいですよ。今は沖縄だが、生れは奄美あまみ大島だからね。子供の時から水もぐりにゃ慣れている」
「お前んちは漁師りょうしなのかい?」
「漁師じゃないけれども、五キロや十キロぐらいなら、今でもらくに泳いで見せますよ」
「五キロなら、おれだって泳げそうだな」
 五郎は答えた。五郎も海辺の町で育ったので、水泳には自信があった。
「じゃやりましょうか。あの双剣石まで」
 五郎はアルコールを含みながら、その方角を見た。彼等の宴の場所は、松林をすこし離れた大きな岩かげで、すぐ下から暗い海がひろがっている。時々思い出したように、しずかな波がやって来て、砂を洗う。海のところどころ、筋になったりかたまったり、ぼんやりと明るいのは、夜光虫のせいだろう。
「泳いでもいいな」
 五郎は答えた。
「あそこまで六、七百米あるかな。一キロはない」
「やめなよ」
 興梠こうろぎ二曹が傍から言った。
「泳いだって、どうなるものでなし。くたびれるだけの話だ」
「泳ぎたいんですよ。興梠二曹」
 福は呂律ろれつの乱れた声で言いながら、もう上衣を脱いでいた。福は相当に酔っていた。五郎も立ち上った。
「おれも泳ぐよ」
 福に張り合う気持は毛頭なかった。ただその暗い海に身をひたし、抱かれたいという気持だけがあった。興梠は投げ出すように言った。
「じゃ行きな。海行かば水漬みづかばね、てなことにはなるなよ」
「大丈夫ですよ」
 福は五郎に白い歯を見せて笑った。それからよろよろと砂浜に降り、海へ入った。彼もつづいて足を水に踏み入れた。
 しばらく海の浅さがつづき、急に深くなった。五郎は平泳で前進し、そして背泳ぎに移り、やがて手足の動きを中止した。顔だけを空気にさらし、全身から力を抜く。水はつめたくなかった。生ぬるくねっとりとして、彼の体を包んだ。彼は『母胎』という言葉に似たものを感じながら、十分間ほどゆらゆらと海月くらげのようにただよっていた。空には雲がなく、一面に星が光っていた。福がどこにいるか、もう判らなかった。
〈何ならここで死んでもいいな〉
 倦怠と虚脱感がそこまで進んだ時、五郎は突然ある危険を感じて、姿勢を元に戻した。みさきや岩のたたずまいから、十分間の中に、体がいくらか潮に流されていることを知った。五郎は振切るようにしぶきを立て、元の岸に向って泳いだ。やがて足が砂についた。水をかき分けながら浜へ上る。岩かげから興梠こうろぎの声がした。
「もう戻って来たのか?」
「うん。途中まで行ったんだが――」
 五郎は片足飛びで、耳の内の水を出した。
「戻って来たよ」
「福は?」
「見うしなった。先に行ったんだろう」
 やはり体が冷え、酔いも醒めていた。五郎は衣服をつけ、掌をこすり合わせた後、食器のアルコールを飲んだ。三十分経っても、福は戻って来なかった。
「もう帰ろうや」
 興梠こうろぎが言った。おそらく福は双剣石に泳ぎ着き、ここに戻らずに近くの岸へ上り、陸路を歩いて宿舎に戻ったんじゃないか。そんな想像を興梠は立てたが、五郎は黙っていた。へんな予感があった。
 缶詰類を水に放り、二人は宿舎に戻ったが、福の姿は見えなかった。海水のため体がべたべたするので、五郎はまた外に出て、真水で全身を拭う。海を眺めながら、さっきの危懼きく感を思い出していた。
 翌朝、福の死体が波打際で発見され、早速医務室に運ばれた。水を飲んでいる様子がないところから、心臓麻痺と診断された。福の戦病死は、暗号『仁』によって、本隊に報告された。暗号文は五郎がつくった。
『仁にみなぎれるその戦死――』
 福がつくった替歌の文句は、福にとって真実となった。
「溺れたんじゃなく、心臓麻痺だった」
 五郎は女に言った。
「強い酒を飲んで水に入るのは、一番危険なことなんだ」
「そう知ってて、どうして泳いだの?」
「悪いとは知ってたさ。しかしもっと悪いことだってした。若かったからね。若さで押し切れると思ったし、そして生命のすれすれまで行ってみたいという気持もあった。要するに荒れてたんだな」
 福兵長はその年の三月頃から、五郎と行動を共にしていた。沖縄から『仁』の電文が届く。それを翻訳する。仁は次のような文章から始まる。
『本日ノ戦死者氏名左ノ通リ』
 そして兵籍番号と名前が出て来る。福が翻訳した名前の一人に、彼の弟の名があった。ずいぶん後になって、福は告白した。
「いやな気持でしたねえ。しばらく暗号書を引く気にもなれなかった」
「可哀そうだなあ」
 死んだ福の弟が可哀そうか、それを翻訳した福が可哀そうなのか、はっきりしないまま五郎は同感した。福は他のさまざまの電文で、彼の一家のある地帯がやられたこと、守備隊が全滅したことなどを知っていたらしい。あぶり字があぶられて出て来るように、自らの翻訳によって故郷の実況が出て来るのだから、つらい思いがしたに違いない。五郎もその頃しばしば、ト連送の電文を見た。
『トトトト』
 ワレ突撃ス、という意味で、特攻隊から発信されるのである。ト連送が終った時が、一つの命がうしなわれた時なのだ。福の通夜の時、五郎はじっと考えていた。
〈あいつ、自殺するつもりじゃなかったのか〉
 積極的に自殺を願ったのではないかも知れないが、五郎が感じたように、ここらで死んでもいいな、という気分は動いただろうと思う。それに福は酔い過ぎていた。気持が放漫になって、泳ぎ着ければそれでいいし、途中でだめならそれでもいい。泳ぎ出すことだけが自分の意志で、あとは運命に任せる。その気分の動き。
 女が舌たるく聞いた。
「あんた、それで責任を感じたの?」
「責任? いや。福は自分から言い出したんだから、死んだのは彼の責任さ。しかしおれはとめなかった。一緒に泳いだ」
 五郎は空を見上げながら、何気なく左手を女の肩に廻した。女は体をびくと震わせたが、拒否の気配は見せなかった。
「おれたちは同じ汽車に乗り合わせたようなものさ。前に乗り込んだ人が次々に降りて行く。新しいのが次々乗り込んで来る。途中下車をするやつもいるしさ。福なんかは途中下車じゃない。窓をあけて飛び降りたようなものだ。同行者としての責任感は、たしかにある。いや。同行者の責任なんて、一体あるものかな。連帯感はあるが――」
 押えていたゆがんだ情念が、しだいに彼の体の中で高まって来た。女の肩の丸みやあたたかさが、彼を刺戟しげきした。
「その後、同行者としての連帯感が、だんだん信じられなくなって来た。酒を飲んでも、勝負ごとにふけってもだめだった。それでとうとう病院に入って、治療を受けた。おれの体、薬くさいだろ。今朝まで病院にいたんだ」
「今朝退院したの?」
「そうだ」
 五郎は腕に力を入れて、女を抱き寄せた。女はすこしあらがった。
「そんなことをしてもいいの?」
 唇が離れた後、女はすこし怒ったような声を出した。
「いいんだよ。おれたちは同行者なんだから。二十年前、君はおれを見た筈だし、おれは君の姿を見た筈だ。どんな姿だったか、覚えていない。モンペ姿で、可愛らしいお下げ髪だったんだろう」
「そうよ。可愛らしかったかどうか、知らないけれど」
 女は自分の頬に掌を当てた。
「すこし酔って来たわ」
「どうしてもこの土地を見たい。ずっと前から、考えていたんだ。今はうしなったもの、二十年前には確かにあったもの、それを確めたかったんだ。入院するよりも、直接ここに来ればよかった。その方が先だったかも知れない」
 ずいぶん身勝手な理屈をこねている。その自覚は五郎にはあった。枕崎で飲んだ焼酎、峠であおったコップ酒が、彼の厚顔こうがんな言説をささえていた。それに相手が出戻り女で、気分的にもかなり荒れているという計算も、心の底に動いていた。
「おれは今、何かにすがりたいんだ」
 五郎は女にささやいた。その言葉は、全然うそではない。四分の一ぐらいはほんとであった。彼はさらに腕に力をこめた。
「つながりを確めたいんだ。死んだ福や、双剣石や、その他いろんなものとの――」
「ああ」
 女は胸を反らしながら、かすかにうめいた。それはやや絶望的な響きを帯びた。
「いいだろ」
 相手をもどろどろしたものの中に引きずり入れたい。今はその嗜欲しよくだけしか五郎にはなかった。
 時間が泡立ち、揺れながら過ぎた。やがて静かな流れに戻った。五郎は立ち上り、ミツギのざらざらした幹に、しばらく背をもたせ、暗い海を見ていた。
「今夜、君の家に泊めて呉れないか」
 かすれた声で五郎は言った。
「行き当りばったりで、泊るところがないんだ」
「うちはだめ!」
 身づくろいをしながら、女は答えた。
「あたしだけでも、いづらいんだから」
「そうだろうね」
 その返事は予期していた。ただ訊ねてみただけであった。
「では枕崎の宿屋に戻ろうかな。まだバスはあるだろう」
「坊にも宿屋があってよ。宿屋と言えるかしら。そこの小父さん、あたし小さい時から、よく知ってるから。案内しましょうか」
 女は立ち上った。地も空も蒼然そうぜんれ、時々坊岬灯台の光の束が、空をいで走る。石段も暗く、手をつなぎ合って、そろそろと降りた。しめった掌を離すと、女は道を降り、ダチュラの花を四つ五つんで来た。
「寝る部屋に置いとくといいわよ」
 花を五郎に手渡した。
「部屋が匂いでいっぱいになるわ」
 その口調に残酷さがあった。福の通夜のことを実感として思い出せというのか。しかし五郎は素直に返事した。
「ありがとう。きっと君の夢を見るよ」
 そのまま町の方に歩いた。すでに戸を立てた家も多い。すべて屋根が低いので、町は暗がりの底に、へばりついているようだ。ラジオの音や話声が、家の中から聞えて来る。
「この町の人は、ずいぶん早寝だね」
「不景気だからよ」
 女は言った。なぜ不景気なのかは説明しなかった。
 女が案内した家は、宿屋らしくなかった。他の家と違うのは、ここだけが二階家である。中二階みたいな妙な構造で、一見平屋ふうのように見える。玄関の板の間に、古ぼけたオルガンが置いてある。案内を乞うと、主人らしい老人が出て来た。
「この人、泊めて上げて」
 女が言った。
「二十年前、海軍でここにいた人よ」
 主人はするどい眼付きで五郎を見た。五郎が靴を脱いでいる間に、女はいなくなった。主人が言った。
「あんた。久住五郎というひとじゃなかか」
 言葉は電撃のように、五郎の背中をった。五郎は顔色を変えて、思わず立ち上った。
「ど、どうしてそれを知っているんだ?」
 五郎はどもった。
「二十年前――」
「いや。いや」
 主人は視線をやわらげて、空気を両手で押えつけるようにした。
「いまさっき枕崎の立神館から電話がありもしてな。あなたの人相風体ふうていなど説明して――」
「丹尾という男ですね」
「はあ。着いたら電話を呉れと――」
「電話なんかしなくてもいいんですよ」
 やっと動悸どうきがおさまって、五郎は答えた。
「風呂に入れますか。ああ。この花をぼくの部屋に――」
 ダチュラはもうしなび始めていた。一体丹尾は何で五郎をつけ廻すのか。つけ廻す理由があるのか。五郎はもう考えたくなかった。いちいち心配していては、気分の方で参ってしまう。

 五郎の注文で、湯はぬるめにしてもらった。福のようなことになったら、たいへんだ。その危懼きくからだ。それに旅先で脳貧血でも起したら、みっともない。しかし五右衛門風呂なので、少しずつじりじりと熱くなる。水道のホースから、水をがぼがぼ入れてさます。
 主人に借りた剃刀かみそりで、髭を剃る。体を丹念に洗う。ついでに下着も洗う。ふたたび体を湯に沈める。誰かが耳のすぐ近くでささやいた。
「恥知らず!」
 五郎は周囲を見廻した。誰もいない。壁だけだ。壁が口をきくわけがない。
〈また幻聴が出て来たな〉
 と思う。聞き慣れた声だが、誰のでもない。抑揚も感情もない声である。
「なるほどね」
 しばらくして五郎はつぶやいた。
「言葉を使ったからな。使わねばただの痴漢で済んだが、屁理屈をこねたばかりに、恥知らずか」
 五郎は今日一日の重さをどっと感じながら、背中を鉄の壁に押しつけていた。熱さがじんじんと伝わって来る。今朝の病院脱出のことを考えていた。あれは恣意しいではなく、いたたまれなく飛び出したという感じであった。
〈正常人が異常心理になるのを恐怖するように、異常心理者は正常に戻るのをおそれるんじゃないか?〉
 そんな考えが浮んで来た。正常と異常は、紙一重の差に過ぎないだろう。しかしその差を乗り越える時、性格や感情ががらりと変ってしまう。おれにとって、それがこわかったのではないのか。それで東京を出て、数百里もある薩摩半島につっ走り、今ひっそりかんと五右衛門風呂に沈んでいる。
 鉄の壁につけた背中が、やがて耐えがたく熱くなって来た。背を引きがして立ち上り、流し場に出る。やはり貧血を起したらしく、眼がくらくらとする。しゃがんでじっとしていた。やがて浴衣ゆかたをつけ、部屋に戻る。部屋は二階であった。階段の登り口で、主人がどこからともなく出て来て、声をかけた。
「夕食はどげんしもすか」
「ええ」
 五郎は考えて答えた。
「軽いものを。酒もすこし」
 部屋に上る。へんな感じの部屋だ。天井は低く、舟底型だ。下着を海に面した手すりに乾し、部屋の真中に坐る。どうも感じがへんだ。宿屋の造りではない。第一がらんとし過ぎる。他に泊り客もないようだし、いるのは老人夫妻だけのようだ。真中にちゃぶ台があり、ダチュラの花が瓶にさしてある。ちょっと棺桶みたいな感じの部屋だ。それが五郎の居心地を悪くさせていた。五郎が坐った左側、つまり海と反対側に、明り障子が立ててある。五郎は膝でにじり寄り、そっとあけてみて驚いた。
 そこには部屋がないのである。
 部屋がなくて、ぽかんと空間くうかんだけがあった。見おろすと一階の部屋の畳が見える。今風呂からここに来た時、通った部屋だ。居間とも納戸なんどともつかぬ、独立していないつなぎの部屋で、隅に布団が積み重ねてある。台所の方角から誰かがぜんを持って出て来たので、五郎はあわてて障子しょうじをしめ、ちゃぶ台に戻った。階段をのぼる足音がして、老婦人が姿をあらわした。
「いらっしゃいませ」
 膳を置き、老婦人はていねいに頭を下げた。
「お疲れでございましたろ。只今ただいま主人も参じます」
 老婦人が階段を降りて行くと、入れ違いに、主人が登って来た。手に土瓶どびんのようなものを持っている。カラカラだと五郎は思い出した。特殊の形をした酒器で、二十年前に福がどこからか仕入れて来て、アルコール入れに使ったのと、同じ型のものだ。
「どら。晩酌だいやめにあずかりもすか」
 主人はカラカラから薩摩焼の器に注ぎ分けた。聞くまでもなく、甘ったるい匂いで、芋焼酎と知れた。食膳は割に豊富である。三種類の刺身を次々箸にはさんだ。
「もう、しおれましたな」
 主人はダチュラを指でつついた。
「こいじゃから活花いけばなになりもさん」
「何だか陰気な感じのする花ですな」
 五郎は水いかを食べながら、相槌を打った。
「二十年前もそう思った。葬式花みたいだとね」
 二十年前の話になった。主人の言では、この家屋は軍に接収され、泊へ疎開していた。だから戦中の坊のことは、あまり知らない。
「妙な造りの部屋でしょう」
 主人は立って説明した。一見壁に見えるところを開くと、かくし部屋がある。そして障子をあける。
「階段から敵がのぼって来ると、ここから飛び降りて逃げる」
「なぜ逃げるんです?」
 五郎は冗談めかして言った。
「わたしには逃げる必要はないですよ」
「いや。密貿易の時代の名残りですよ」
 主人は笑いながら、座に戻って来た。
「ここが島津藩の密貿易港では、最大のものでしてな。大陸に行ったり、沖縄や南西諸島に行ったり、ああ、このダチュラも、種子が船に乗ってやって来たんでしょう。どこでんで来やした?」
「わたしが摘んだんじゃない。さっきの女のひとが――」
「ああ」
 主人はうなずいて酒盃をあけた。
「どこで知合いやした?」
「キャンプ場の近くでね」
「あいも勝気過ぎって、不幸なおなごでな」
「泊って、女中の産地らしいですね」
「そや昔の話ですよ。あしこは近頃かつおの不漁のために人口が減る一方でね、そこに紡織ぼうしょく工場が眼をつけち、娘さんたちをごっそいと雇って行く。その勧誘係りたちが何組もここに泊るが、聞いてみると、今の娘たちは女中になりたがらん。みんな工場を希望するらしいですな。泊だけじゃなく、この坊の若者たちも――」
 主人はふたたび立って、海にむかう窓を開いた。五郎も傍に立った。
「この坊の家々も、全部舟子かこ屋敷でな。みんなかつお漁によりかかって、生活していた。それがだめになったから、さびれる一方ですな」
 だんだんさびれて、峠を隔てた二つの部落は人口が減り、ついに消失してしまう。五郎はそんなことを考えていた。しかし主人の語調は淡々として、感傷の気配は微塵みじんもなかった。
からすだけがゆる一方です」
「どのくらいいるんですか?」
「約二千羽。あそこにんどる」
 主人は右の方の山を指した。
「今は少し減っておるかも知れん。魚の量が減っていますでのう」
 主人は窓をしめ、座に戻った。盃を手にして、じっと五郎の顔を見た。
「あんた、誰かに追われとるのじゃなかか。眼が血走っちょる」
「さっきの電話のことですか。ありゃ何でもない。途中で知合いになった男です」
 五郎はわらった。
「疲れているんですよ」
「そうですか。相当お疲れのようですな」
 主人は盃をあけた。
「明日はお早えかな」
「いや。寝たいだけ寝かしてもらいますよ」
 五郎は答えながら、刺身のツマの大根を食べていた。千六本は適当に甘くからく、水気があってうまかった。主人は笑った。
「よほど大根でこんがおッなようじゃな。で、枕崎に――」
「ええ。二十年前にはね」
 五郎は箸をおろし、盃に手をやった。
「ここで部隊は解散してね、わたしは復員荷物を背負って、枕崎へ歩いた。峠のだらだら坂を登り切ると、いきなり海が見えた。海がぎらぎらと光っていた」
 五郎は盃を一気にあおり、口をつぐんだ。すこし経って主人がうながした。
「そいで?」
「あ」
 五郎は放心からめた。にが笑いをして、盃を置いた。
「それから枕崎に出て、故郷に戻りましたよ。汽車のダイヤがめちゃめちゃで、家に着くのに、二日二晩かかった」
「苦労しやしたな。明日は苦労は要らん。バスがあっから」
「いや。明日は吹上浜ふきあげはまに行こうかと思っています。歩いて」
「歩って行くのは無理ですな」
 主人ははっきり言った。
「明日そっちに行くトラックの便があっから、そいを利用しゃんせ。わしがとこの荷を取りに行くんだ」
 主人は掌を叩いて、老妻を呼んだ。
「もうお寝みになったが、ええじゃろ。ひどく疲れておらるるようだ」
 老妻の手によって、食膳が下げられ、寝具の用意が出来た。淡い灯の光だけになった。ダチュラの匂いは、まだただよっている。彼は掛布団を顎まで引き上げる。女のことを思い出していた。熱いからだや紅い唇、切ないあえぎなどを。それを忘れるために、彼は心で念じた。
〈便所に行く時に、あの障子をあけないこと〉
〈絶対にあけないこと。階段を利用すること〉
 五郎の体は宙に浮いて、ただよい始めた。ゆるやかに、ゆるやかに、波打際の方に。――五郎は福の体になっている。すっかり福になって、しずかに流れている。そう感じたのも束の間で、次の瞬間に五郎は眠りに入っていた。

砂浜


 薩摩さつまの言葉は判りにくい。早口でしゃべられると、全然判らない。外国の言葉を聞いているようだ。小型トラックの荷台に腰をおろして、まわりの風景を眺めながら、五郎はそう考えた。空の荷台には、五郎の他に、もう一人若者が乗っている。それが運転手と話し合う。何の意味か、さっぱり理解出来ない。他国の人間や隠密おんみつ這入はいり込まないための、島津藩の言語政策だという説を聞いたが、それはうそだろう。言葉とはそんなものでなかろう。そう思ってはいるが、五郎はしだいに自分が隠密であるような気がして来る。
 今朝、彼は密航者であった。
 十時に朝食をとったが、眼が覚めたのは、ずっと以前である。やかましい音がする。五郎は掛布団を頭までかぶる。
〈うるさいじゃないか。病院だというのに!〉
 布団の重さや感触の違うことに、すぐ気がつく。五郎は布団をはねて飛び起きた。窓をあけると、数え切れぬほどのからすが高く低く飛び交い、啼き交わし、その声が空をひっかき廻すようだ。彼はいささか動転して、鴉たちの動作をしばらく見上げていた。
〈これはまるで鴉の町じゃないか〉
 乾いた下着を取入れ、五郎は窓をしめ、寝床にとって返した。しかしもう眠る気がしない。また窓を細めにあけ、外の様子をうかがう。こんなにかしましい鳴声は、記憶にない。二千羽いるとのことだが、戦後急にえたわけではあるまい。戦争中にも啼いていた筈だ。どうして記憶から脱落したのか。戦争生活の荒々しさにまぎれてしまったのか。
 五郎は低い中二階の突上窓から顔をのぞかせ、しばらく外の様子をうかがっていた。この宿は坊のメインストリートから、すこし山手になっているので、家の屋根屋根が見える。瓦は関東などと違って、きめがこまかく、しっとりした微妙な美しさをたたえている。道が見えるが、人通りはほとんどない。まだ戸をしめている家さえある。五郎は眼をたかのように光らせ、人や鳥の動きに注意を払っていた。
〈おれは密航者だ〉
 だんだんそんな気分になって来る。この部屋だって、そうだ。あかずの間やかくれ納戸なんどや飛び降り障子や、ふしぎな造りになっている。何故そんな造り方をしたのか。密航者のためのものだという以外には考えられない。五郎は眼を細くしたり太くしたり、顔を傾けたりして、約一時間外界の動きを観察していた。やがて鴉の数が少しずつ減り、喧声もおさまり始めた時、五郎はやっと腰を上げ、とんとんと階段を降りて行った。風呂場で顔を洗うと、階下に食事の用意がととのっていた。
 庭に面した部屋で朝食をとる。庭にはサボテン、鶏頭けいとう、ゼラニューム、その他の花が咲いている。茶を飲みながら、五郎は主人に弁当を頼んだ。主人は承諾しょうだくして言った。
「あんたはここで水死した兵隊さんの友達じゃそうですな」
「ええ」
 あの女がしゃべったな、と思いながら五郎はうなずいた。主人はそれだけで、あとは追求しなかった。やがてトラックがやって来た。彼は弁当を受取り、主人の贈物のサイダー瓶に入った芋焼酎をかかえ、トラックの荷台に飛び乗る。宿賃は意外に安かった。手を振って、トラックは動き出した。
 荷台の上のカンバスをたたんで腰掛け代りにする。しかし道が悪いので車は揺れ、時々ずしんと腰を突き上げて来る。昨夜は熟睡じゅくすいした筈だが、まだ瞼のあたりに疲労が残っている。荷台の若者と運転手は、意味の判らない早口の会話を交わし、笑い合う。五郎は訊ねてみる。
「この車、泊を通るのかね?」
「はい。通ります」
 ちゃんとした標準語で答える。こちらの言葉を理解し、きちんと返事が出来るのだ。ふたたび若者同士の会話になると、鴃舌げきぜつのたぐいに戻る。五郎は疎外感を感じながら思う。
〈おれはあまりしゃべらない方がいいらしいな〉
 泊の町に入った時、五郎は背を丸め、何かをねらう眼付きになって、町並や通行人の動きに注意を集中した。しかし町並は短く、あっという間に通り過ぎた。五郎は緊張を解き、背を伸ばした。
 それからしばらく、五郎は膝を立てて手を組み、車の揺れに体を任していた。日がうらうらと照り、左手の方向に海が見えたりかくれたりする。右手はずっとシラス台地で、ところどころに部落があり、時には煙突が見え、合同焼酎製造工場という文字なども読めた。やがてトラックは橋を渡った。
「これが万瀬川です」
 聞きもしないのに、若者が教えて呉れた。
「ここらから吹上浜になるんです」
「君はどこの生れかね?」
「わたくしの生家は伊作です」
 若者は白い歯を見せて笑った。
「アメリカ軍が吹上浜に上陸して来るというので、あの頃は皆びくびくしていましたよ。二十年前ね」
「君はいくつ?」
「二十八歳です」
「じゃ国民学校の頃だね」
「はい。八歳の時です」
 トラックを乗り捨て、まっすぐ浜の方へ歩く。防風林を抜けると砂丘となり、海浜植物が茂っている。植物の名は知らないが、浜木綿はまゆうとか浜防風とか呼ぶのだろう。砂丘にしがみつくようにして、群生している。そこらに腰をおろして、彼は海を見渡した。沖に大きな島かげが見えた。甑島こしきじまだ。空気がかすんでいるので、甑島はちょっと見には、九州本土につながった半島か岬のように見える。水平線は漠として見えない。あそこらが東シナ海になるのだ。
 しんとしている。
 いや、しんしんと、耳鳴りがしている。
 鴉の声、トラックの振動音、それから一挙に解放され、耳がバカになったようだ。砂浜は大きく彎曲わんきょくして凹んでいる。海が長年かかって、浸蝕しんしょくしたのである。今眺める海は静かだが、石垣島あたりで発生した台風が、枕崎や佐多岬に上陸して荒れ狂い、鹿児島から北上する。そんな時に吹上浜の浪は砂丘まで襲いかかり、砂をごっそり持って行くのだ。五郎は戦争中、坊津に行く前に、吹上浜の基地を転々とした。それでこの海のこわさは知っている。
「隠密だの、密航者だのと――」
 つぶやきながら立ち上る。
「おれもちょっと甘ったれているな」
 波打際に出て、五郎は靴を脱いだ。靴と弁当を振り分けにして肩にかけ、ズボンをまくり上げる。サイダー瓶を下げたまま、海の中に歩み入る。すねまでひたして、がばがばと歩き廻り、また波打際にとって返す。波打際で海に向って立っていると、波が静かに押し寄せて来て、あしうらかかとの下の砂をすこしずつさらって行く。このくすぐったい感じは、何年ぶりのものだろう。
 五郎は北に向って歩き出した。
 歩くにつれて、右手の風景、防風林や砂丘の形は、次々に変化するが、左手の海はほとんど変らない。砂は白く粒がこまやかで、ところどころに貝殻が散らばっている。片貝や巻貝。砂や浪に磨き上げられ、真白に輝いている。五郎は時々立ち止り、珍しい形や美しいのを拾い上げて、ポケットに入れる。
 約二キロ歩いた。
 砂丘に上って、腰をおろす。ふり返ると、彼の足跡が浜に一筋つながっている。それを眺めていると、眼がまぶしく、すこし眠くなって来る。疲れて来たのだ。
「すこし飲むか」
 まだ弁当を開くほど腹は減ってない。彼は上衣を脱いだ。背中がすこし汗ばんでいる。瓶が少々荷厄介にやっかいになって来ている。折角の贈物だから、捨てるわけには行かない。五郎は栓を抜き、一口含んだ。甘ったるく強烈なものが、食道を伝って胃に降りて行くのが判る。
 五郎はポケットから、貝殻をざくざくつかみ出して、そこに並べる。ついでにもう一口飲んだ。
 風景が急に活き活きと、立体感を持ち始めて来た。ぼんやりと明るい風光が、むしろ蒼然と輪郭をはっきりして来る。背中が微風でひやりとする。
「何だかだと言いながら――」
 考えが呟きになって出て来る。酔いがすこし廻って来たのだ。やっとその頃、手や足の先がじんとして来る。
「皆どうにかやってるじゃないか」
 トランク男の丹尾や昨夜の女のことを思い出しながら、そう言ってみる。次に、ヒマラヤ杉に囲まれた精神科病室のことが、胸によみがえって来る。五郎は貝殻を掌に乗せて、しげしげと眺める。どうせおれもあの病室に戻らねばならないだろう。瞬間、五郎は眩暈めまいを感じた。

 五郎は追われていた。いつの時か、どこの場所かも定かでない。青年の時だったような気がする。なぜ追われていたか、それもはっきりしない。そんな夢をある時見たのか、あるいは何かのきっかけで生じたにせの記憶なのか。
 追われて五郎は砂浜を歩いていた。追う者の正体は判らず、姿も見えなかった。しかし追われていることだけは、確かであった。その実感が五郎の全身にみなぎり、彼を足早にさせていた。
 漁村があった。浜には網が干してあり、屋根の低い粗末な漁夫の家が並んでいる。磯には海藻が打ち上げられている。岩かげなどにとくにたまっている。大潮の時に打ち上げられ、そのまま浪に持って行かれなくなったのだろう。その藻の堆積たいせき腐敗ふはいし、絶望的なにおいを放っていた。まことにそれは眩暈めまいのするようないやな臭気であった。
〈イヤだな。ああ、イヤだ〉
 五郎はそう思いながら、漁家の方に近づいて行った。水汲場があり、中年の女がせっせと洗濯をしている。五郎はふと放心して、その傍に立ちどまり、洗濯の様子を眺めていた。たらいの中にあるのは、厚ぼったい刺子さしこである。女は五郎を無視して、しきりに手を動かしていた。女の顔や手や足は、日焼けして黒かった。ぶつぶつ呟いている。
「だめだ。どうしてもだめだ。このままじゃ、だめになってしまう」
 そんな風に聞えた。同じことを繰返し、繰返しして呟いている。砂浜には誰の姿も見えなかった。白い犬が一匹、網のそばに寝そべっているだけだ。
〈へんだな〉
 五郎は思った。何がへんなのか、自分でもよく判らなかった。人気ひとけのないのがへんなのか、自分がここに立っているのがへんなのか、そこがぼんやりしている。やがて五郎は気がついた。彼が眺めているのは、腕や洗濯物でなく、女の脚であった。膝までしかない着物を着ているので、つやつやした浅黒い脚の全貌が見えた。五分ほど経って、五郎は耐えがたくなり、話しかけた。
「小母さん」
 女はびっくりしたように呟きをやめ、五郎を見上げた。それまで五郎が傍に立っていることに、女はあきらかに気付いていなかった。
「何だね?」
 女はとげのある声で答えた。
「あたしゃムシムシしてんだよ。あんまり気やすく話しかけないでお呉れ」
「ぼく、追っかけられているんです」
「誰に? 警察にかい? 悪いことをすれば、追っかけられるのは、あたりまえだよ」
「いいえ。違います」
 五郎は懸命に弁解した。
「悪者に追っかけられているんです」
「悪い者なんか、この世にいるもんかね」
 女はいらだたしげに言いながら、力んで脚をひろげるようにした。五郎はまぶしくて、思わず視線を海の方にそらした。水平線には黒い雲がおどろおどろと動いていた。そのために舟が出ないのだと、五郎は思った。
「いや」
 女は言いそこないに気がついた。
「悪くないやつなんて、この世にいてたまるもんかね」
「だから、かくまって下さい」
「だから? だからだって?」
 女はびっくりしたように立ち上って、眼を五郎にえたまま、刺子さしこをしぼり始めた。刺子はまだ汚れはとれていなかった。厚ぼったい刺子は、しぼりにくそうなので、五郎が手伝おうとすると、女は邪慳じゃけんにその手を払いのけた。
「余計なこと、しないどくれ」
「ぼくはかくれたいんです」
 五郎は必死になって言った。その瞬間の気持に、うそいつわりはなかった。吹きさらしの、どこからでも見えるこの場所にいるのが、こわくてこわくて、たまらなかった。女はじろりと五郎を見た。
「そんなにかくれたいのかい?」
 五郎はうなずいた。とたんに涙がぽろぽろとこぼれて来た。女の声は少しやさしくなった。
「じゃそこらにかくれな。ああ、ムシムシする」
 五郎は手で涙を押えながら、その傍の小屋によろよろと歩んだ。小屋の入口には縄筵なわむしろがぶら下っている。それを排して内に入ると、六畳ぐらいの板の間があり、あとは土間になっていた。土間というより砂地に近く、こいしや貝殻などが散らばっている。五郎は板の間にずり上った。涙はもう乾いていた。
「まだまだ」
 と五郎は呟いて、あたりを見廻した。
「油断出来ないぞ」
 五郎はごそごそと這い廻り、小屋の構造を調べ始めた。柱はわりに太かった。しかし砂地なので、土台がしっかりしていないらしく、押すとぐらぐら揺れる。柱は何の木か知らないが、長年の潮風にさらされ、材質のやわらかい部分は風化し、木目だけがくっきりと浮き上っている。板の間の一番奥に、簀子すのこがしいてあり、そこに鏡台があった。鏡台の木質部にも、木目はきわ立っていた。潮風は家の中にまで吹き入るのか。鏡には布がかけてあった。布からはみ出た鏡面も、塩分で黒く腐蝕していた。
〈何が写るか判らない!〉
 その恐怖で、五郎にはとてもその布をめくる勇気が出ない。鏡台には抽斗ひきだしがついている。五郎はそれを引出した。
 毛髪がへばりついた鬢付びんつけ。貝殻が数個。それにコッペパン一つ。彼はそのコッペパンを食べるつもりで手にとったが、古くて皮がこちこちになっている。口に持って行ったが、歯が立たない。余儀なく元に戻す。貝殻は巻貝や小安貝のたぐい。それを一つ一つ調べていると、裏口から突然足音が入って来た。
「なにしてんだい!」
 ぎくりとして振り返ると、先ほどの洗濯女が土間につっ立っていた。もう半分ほど眼がつり上っている。五郎は返事にきゅうして黙っていた。すると女ははだしのまま簀子の上にあがって来た。
小探こさがししているな。言わないでもわかってるぞ!」
 女は立ったまま、両手で五郎を引きずり倒した。女の腕は太かった。筋肉がもりもりして、男の腕のようだ。五郎は押えつけられながら、あやまった。
「許して下さい。許して下さい。もう絶対に小探しはしませんから」
「許してやらない。許してやらない。絶対に許してやらない」
 女は手をゆるめなかった。小荷物を扱うように、五郎を乱暴にとり扱った。それはまるで器械体操のようなものであった。観念して全身の力を抜いた時、裏山の方から大勢の歌声がかすかに聞えて来た。意味も何も判らない。一節歌い終る度に、はやし言葉のようなのが聞える。
「はん、はん、はん」
「はん、はん、はん」
 そんな具合に五郎の耳には聞き取れた。その歌声がだんだん近づいて来る。――
「だめだ。どうしてもだめだ」
 五郎を強引に処理し終って、女は立ち上り、いらだたしげに言った。
「このままじゃ、だめになってしまう」
 そして五郎を振り返りもせず、せかせかと裏口から出て行った。独りになると、別の恐怖が彼にこみ上げて来た。
〈ここにいたら、たいへんだ〉
 五郎は立ち上り、大急ぎで身づくろいをして、土間に降りた。表の入口の縄筵なわむしろからのぞくと、やはり人影はひとつも見えなかった。沖から風が吹き、黒い雲がしだいに近づいて来る。
「今だ!」
 五郎は砂浜に飛び出した。浜に上げられた漁舟の艪臍ろべその上に飛び乗り、がたがた歩いて、舟板をめくった。中は小さな舟底になっている。そこに体をすべり込ませ、舟板を元に戻した。そして体を胎児のように縮める。濡れた腿がくっつき合う。低く呟いた。
「これで当分、安心だ」
 舟底は暗かった。かすかな光がしまになって、さし入って来る。やがて眼が慣れて来る。船虫が何匹もい廻っている。長い触角をぴくぴく動かしながら、しきりに走る。その中の何匹かが五郎の体にとりついて、這い登ったり降ったりする。別に不快な感じではない。ただ顔を這われると、くすぐったい。額や頬のは手ではらい落し、唇近くに来たのは、フッと呼吸で吹き飛ばす。しだいに五郎は眠くなって来た。ちぢこまった姿勢のまま、意識以前の状態に戻りかけていた。記憶はそこで跡切れる。――

 五郎は、ふっと眩暈めまいからさめた。秋の強い日に照らされて、貧血を起したらしい。五郎は靴を穿き、弁当と瓶を持って立ち上り、防風林の中にふらふらと入って行った。あたりに誰もいないということが、安心でもあり、また無気味である。松の木の露出した根の、適当なのを選び、上衣をたたんで乗せた。それを枕にして、長々と横たわった。
 眼をつむる。うとうとと眠りに入った。
 どのくらい眠っていたか判らないが、何だか首筋や手の骨の痛さで眼が覚めた。
〈誰かがおれに理不尽りふじんなことをしている〉
 不機嫌な感じがあって、しぶしぶ眼を見開いた。しばらく木の梢や空を眺めながら、ここはどこだろうと考えていた。そしてゆっくりと上半身を起した。
「ああ。ここで眠っていたんだな」
 それが納得出来るまでに、三十秒ほどかかった。誰も理不尽なことをしたわけではない。木の根の固さと不自然な体位が、五郎の体に痛みをもたらしたのだ。彼は手を屈伸し、肩をたたき、体操の真似ごとをした。ふと見るとサイダー瓶は倒れ、栓のすき間からこぼれて砂にしみたらしく、内容は半分ぐらいになっていた。こぼれたって、別に惜しいとは思わない。五郎はそれを拾い上げ、また一口飲んで、もうこぼれないようにしっかり栓をした。そして立ち上る。
「昨日も今日も、昼酒を飲んだな」
 五郎は歩き出しながら、大正エビのことを思い出した。大正エビはアル中患者だ。まだ若くて、すっきりした顔で、付添婦や看護婦によくもてた。アル中患者なんてものは、アルコールを断たれると、禁断症状きんだんしょうじょうを起してばたばたあばれるのかと思っていたが、そうではない。けろりとしている。
「酒、欲しくないか?」
 五郎は聞いたことがある。入院して二、三日目のことだ。
「別にそれほど――」
 大正エビは彼の眼をうかがいながら答えた。
「あれば飲みますがね」
 朝から飲むとのことであった。つまり一日中酒のの切れる時がない。しかし大正エビの言葉がうそであることは、同室になってやっと判った。彼は付添婦を買収して、薬瓶(含嗽うがい用の大瓶)に酒を買って運ばせていた。飲んでも顔には出ない。態度も変らない。ただ酒が切れると不安になり、こわくなって来る。
〈今のおれとよく似ている〉
 五郎は思う。歩きながら、左手の海のひろがりが何となく気になる。いったん波打際に行くが、歩いている中に、しだいに足が防風林の方に寄って行く。振り返ると、足跡がそうなっている。やがて川にぶつかった。川口は南方は彎曲わんきょくし、石で護岸工事がほどこしてある。岸はかなり高い。五郎は腰をおろした。また瓶の栓を抜いた。熱いものが咽喉のどをつらぬいた。
「さて」
 五郎は岸壁がこわかった。生れて最初に水死人を見た所が、これによく似た岸であった。材木を三本、三脚式に立て、結合部から綱が数本水に垂れている。その綱で水死体をからめようとするのだが、なかなかひっかからない。浪は荒れていた。流れ込む淡水と海水が混り合って、三角波を立てている。五郎は小学生で、おさがりの合羽かっぱを着ていた。早く登校しなければならないが、誰が水死したのか知りたくて、人だかりの中をうろうろしていた。引揚作業の男たちは、裸のもいたし、黒合羽のもいた。雨かしぶきか判らないが、水滴が絶え間なく飛んで来て、顔を濡らす。
「子供たちゃあ邪魔だから、あっちいけ!」
「ごそごそしていると蹴飛ばすぞ!」
 皆気が立っているので、言葉も動作も荒い。そう罵られても放っとけない気がして、五郎はあちこちに頭や肩をぶつけながら、うろうろしていた。水死人が女であることは、作業の男たちの会話で判っていた。
〈お母さんじゃなかろうか〉
 五郎はしきりにそんなことを考えていた。しかし五郎の母は、彼が家を出る時、台所であとかたづけをしていた。五郎は家を出てまっすぐここに来たのだから、母である筈がない。やがて死体がひっかかったと見え、作業員の動作が急に慎重になる。綱が引かれる。綱の先にぶら下った死体が見える。浴衣ゆかたを着ているのだが、岸壁や岩や浪にぶつかって切れ切れになり、海藻がまつわりついたように見える。綱は脇の下にかかっている。まだ若い女らしい。もうすぐ岸に上げられようとしたとたん、死体は綱から離れて、元の水に落ちて行った。嘆声が人混みの中からおこった。――
〈なぜお母さんじゃないかと思ったんだろうな〉
 五郎はゆっくりと立ち上った。川口を徒歩で渡る気持はなかった。防風林の方にのぼり、小さな木橋を渡り、また砂丘に戻って来た。眠っている中に陽がかげり、沖の島影も濃くなっている。風が立ち始めた。浪はうねりながら浜に打ち寄せ、静かに、しかし大幅に引いて行く。五郎はかすかな悪寒おかんを感じた。眠っている中に風邪をひいたのだろう。
「だんだん元に戻ってゆくようだ」
 五郎はつぶやいた。睡眠療法でどうにか直りかけていたのに、脱走して思うままのことをした。やはりあのコーヒーを飲んで思ったことは、衝動的なものか、あるいは正常人に戻りたくない気持からだったのか。しかし予定していたことと、実際の行動は、ずいぶん食い違った。
「一体おれは、福の死を確めることで、何を得ようとしたのだろう? おれの青春をか?」
 結局おれは福の死をだしにして、女を口説くどいた。そして猥雑な中年男の旅人であることを確認しただけに過ぎない。しかし症状としては、昨日はまだよかった。不安や憂欝は、ほとんどなかった。今日はどうも具合が悪い。ぼんやりと『死』が彼の心に影をさしている。この長い砂浜に、独りでいるのがいけないのか。
 橋を渡って、また二キロほど歩いた。疲労がやって来た。砂浜は足がばくばく入るので、ふつうの平地を歩くよりずっと疲れるのである。
 大きな流木が打ち上げられていた。そこまでたどりつくと、五郎はほっとして腰をおろし、しばらく海を眺めていた。眺めていると言うより、にらんでいた。流木はずいぶん浪にまれたらしく、皮は剥げ、枝もささらのようになり、地肌は白く乾いていた。
「このままで――」
 と五郎は口に出して言った。
「振出しまで戻るか。それとも前非ぜんぴを悔いて、病院に戻り――」
 五郎は栓を歯でこじあけ、残りのすべてを咽喉のどの中に流し込んだ。飲んだらなお気持が荒れる。それはよく判っていたが、早くけりをつけてしまいたいという気分が先に立つ。このまま服を脱いで裸になり、沖に泳ぎ出す。くたびれて手足も動かなくなるまで泳ぐ。するともう浜には戻れない。その想念が、さっきから彼を誘惑している。海がおいでおいでをしている。
〈まだ大丈夫だ〉
 五郎は沖をにらみながら思う。
〈まだその手には乗らないぞ〉
 彼はなおも福のことを考えていた。おれは福に友情を感じていたのか。いや。感じていなかった。あるとすれば、奴隷どれいとしての連帯感だけだ。それ以外には何もない。それはあの精神科病室の四人(五郎も含めて)のつながり方に似ている。神経が病んでいるという点だけが共通で、あとのつながりは何もない。たまたま同室に入れられ、会話したり遊んだりするが、それだけのことだ。
〈あのチンドン爺さんは面白いなあ〉
 内山という六十ぐらいの太った爺さんで、街でチンドン屋に会うと気分が変になり、入院して来るのだ。チンドン屋を見ると、なぜ変になるのか。一歩踏み込むと判りそうな気がするのだが、その一歩が踏み込めない。爺さんにも判っていないらしい。一度たずねたことがある。爺さんは答えた。
「わしにも判らんがね、なんか気分がおかしくなるんだ」
「おかしなもんだね」
「うん。おかしなもんだ」
 ある日五郎は、大正エビと電信柱と共謀きょうぼうして、三人でチンドン屋の真似まねをしたことがある。爺さんがどんな反応を示すか、知りたかったのだ。思えば危険で残酷な試みであった。鐘のかわりに茶碗を、太鼓たいこのかわりに足踏みして。――夕食が済んだあと、三人がいきなり立ち上り、茶碗を叩きながら、
「チンチンドンドン、チンドンドン」
 口ではやして、床を踏み鳴らして歩いた。大正エビは頭に派手な手拭てぬぐいをかぶり、衣紋えもんを抜いている。女形おやまのつもりなのだ。
 爺さんはきょとんとした表情で、しばらく五郎たちの動作を眺めていた。それからにやにや笑うと、自分も茶碗を持ってベッドから飛び降り、チンドン行列に参加した。病室は壁が厚いし、床も頑丈に出来ているので、音は外部にれない。付添婦が入って来るまで、その騒ぎは続けられた。
 叱られてベッドにい登っても、爺さんは愉快そうであった。首謀者の電信柱は口惜しがって、
「爺さん。気分がおかしくならないのかい」
「おかしくならないね」
「なぜ?」
「お前さんたちが本もののチンドン屋でないからさ」
 と爺さんは答えた。
「初めわしは、お前さんたちが気が狂ったのか、可哀そうに、と思ったよ」
 もちろんこの病室の四人は、自分が気が狂っているとは、夢にも思っていないのである。電信柱が舌打ちをしてベッドに戻ると、爺さんは追打ちをかけるように言った。
「しかし、面白かったよ。またやろうや」
 五郎はその会話を聞いていた。最後のその言葉には同感であった。自分が他の人間になることは、何とすばらしいことだろう。爺さんの言うように、恰好かっこうは本ものでないが、気持の上では五郎は完全にチンドン屋になり切っていた。
〈たとえばこんなふうに――〉
 五郎は今流木の傍に投げ捨てたサイダー瓶を拾い、ついでに流木の枝を折り取ろうとしたが、樹液じゅえきをうしなった枝はしなうばかりで、幹から離れようとしない。そこらを捜して、細長い石を拾う。弁当は腰にくくりつける。
「それっ――」
 足を斜めに踏み出しながら、瓶を石でたたく。ひょいひょいと飛び交いながら、
「チンチン、ドンドン」
「チン、ドンドン」
 誰も見ていないでもいいのだ。ただ一人五郎は、踊りながら砂浜を行く。しかし三十メートルほど行くと、さすがにくたびれて、足がもつれる。彼は踊りやめた。そのまま腰をおろそうとして、砂丘に眼をやると、そこに見物人が一人いるのを見つけた。子供である。そちらに歩を踏み出すと、その子供はあわてたように、水の中に入った。そこは入洲みたいになっていて、細い水路でなぎさから海につながっている。それを網でせきとめてあるので、入洲は百坪ばかりの池になっている。その中にいる魚を、子供はすくい網で獲ろうとしているのだ。
「これは何という魚かね?」
 砂上のバケツをのぞこうとすると、子供はあわててじゃぶじゃぶとかけ寄り、バケツの位置を移そうとした。十二、三の男の子で、白いふんどしをつけている。
「小父さんは気違いじゃないんだ。安心しなさい」
 少年の眼の警戒の色を見ながら、五郎はやさしい声を出した。
「芋焼酎を飲んだら、踊りたくなったんだ」
 少年は思い直したように、バケツから手を離した。五郎と並んで腰をおろした。
「これ、ボラだろう」
 五郎は言った。少年は首を振った。しかし五郎にはボラとしか思えなかった。
「ボラだよ」
 子供はまた首を振った。濡れた砂の上に指で、ズクラ、と書いた。口がきけないのかな、と五郎は思った。
「ズクラ、というのか。おいしいかね?」
 また少年は砂に、ウマイ、と書いた。五郎は突然空腹を感じた。彼は腰にゆわえた弁当の風呂敷を解いた。大きなにぎめしが二つ、豚の煮付け、それに縄のようなタクアン、切らずにそのまま入っている。
「君もお握りを食わないか」
「食う」
 初めて口をきいた。立ち上ると自分の服を脱いだ場所にかけて行き、小さな平たい板と小刀と、ビニールに包んだ味噌みそらしいものを持って戻って来た。何をするのかと五郎は少年の動作を見守っている。少年はバケツからつかみ出し、頭をはねうろこを落し、内臓を抜いた。あざやかな手付きで三枚におろす。骨は捨てる。四匹を調理し、ビニールの結び目を解く。五郎は驚きの眼で、それを眺めていた。
「それでもう食えるのかい?」
 握り飯をひとつ少年に渡しながら、五郎は言った。少年はうなずいて、肉片に味噌をなすって、五郎に差出す。味噌がよくきいて、案外うまかった。
「うまいな」
 五郎もおかずを差出し、縄タクアンを板の上に乗せた。
「ついでにこれも切って呉れ」
 ズクラの刺身と豚煮付けとタクアンで、五郎と少年は並んで食事をした。どれもうまい。野天の豪華な真昼の宴だ。縄タクアンの味は、二十年前の記憶にある。これは壺漬けと言うのだ。薩摩半島でつくられ、軍艦や潜水艦に搭載とうさいして、赤道を越えても腐らないので、海軍ではこれを全部買い占めてしまった。そんな話を当時五郎は聞いた。微妙な匂いと味を持つタクアンで、鹿児島の基地にいる時は、三度三度の食事にこれが出た。この味は敗戦の喜びに通じるところがある。食べ終わると彼はほっと息を吐き、煙草に火をつけた。お握りはもちろん、おかずも全部姿を消していた。
「君の家はここらかね?」
「うん」
 少年はうなずいた。少年は日焼けして、肌も浅黒かった。眼が大きく、容貌はきりっと引きしまっていた。
「お父さんは、何してる?」
「町で自動車の運転手をしておる」
「町って、どこ?」
「伊作」
「お母さんは?」
「うちにおる」
「ふん」
 彼はこの少年の一家のことを考えていた。
「も少しお酒が飲みたいな。君んちで飲ませて呉れないか」
 少年は黙っていた。立って服の所に行き、服を着た。もうズクラ獲りはやめる気になったらしい。バケツの中に板と小刀を放り込んだ。五郎は性欲を感じた。少年に対してではない。海や雲や風の中で、自然発生的に浮んで来たのだ。酔いのせいもあった。流木のところであおった焼酎の酔いが、そのまま動かなきゃ暗く沈むところを、チンドン屋の真似をしたり、少年と話を交わしたばかりに、外に発散した。海からの誘惑は、もう消失していた。少年がぽつんと答えた。
「うちは困ッ」
「なぜ?」
「うちは酒屋じゃなか」
 それは知っているが、と言いかけて、五郎は口をつぐんだ。少年の家に押しかけて行くべき理由は、何もないのだ。彼はサイダー瓶を防風林へ投げ、弁当の殻や包み紙はまとめて火をつけた。透き通った炎を上げ、すぐに焼けげた。物憂くて立ち上る気がしない。
「伊作って遠いのかい?」
「ちっと遠い」
「案内して呉れるかね?」
 少年はうなずいた。立ち上らざるを得ない。懸声かけごえをかけて立ち上る。入洲に手をつけて、飯粒などをざぶざぶと洗い落す。少年の後について歩き出した。
 松林に入る。しばらく歩くと、林の中に大きな縄が置いてある。長さ二十メートルばかり。立ち止って調べると、松根をしんにして、まわりをわらで巻いたもので、何のためにつくられ、何のためにここに置かれているか判らない。少年を呼びとめて聞いた。
「これで何をするんだね?」
「綱引き」
「綱引き? 両方から引っぱり合うのか」
 少年はうなずく。
「なるほどね」
 五郎は答えたが、納得なっとくしたわけではない。納得したいとも思わない。納得したいという気持は、ずいぶん前から、彼の心の中で死んでいる。五郎は言った。
「ちょっとここで休憩しよう」
 少年は不承不承ふしょうぶしょう、五郎に並んで綱に腰をおろした。五郎は内ポケットから金を取り出した。百円玉を少年に渡した。
「あそこに茶店があるだろう。ジュースを二本買って来て呉れ、咽喉が乾いた」
 少年はちょっとためらったが、五郎は無理にに押しつけた。少年が立ち去ると、五郎は自分の在り金を全部つかみ出して勘定した。
「もし伊作に泊るとすると――」
 その分をポケットに入れた。残りの金では、とても東京まで戻れない。しばらく掌に乗せたまま、考えていた。
「熊本まで行って、三田村に電報を打って、送金してもらうか」
 三田村と言うのは、病院を紹介して呉れた友人のことだ。今は画廊を経営している。五郎は熊本で学生生活を四年送ったことがある。三田村はその時からの友人であった。熊本から電報を打つという思いつきは、そこから出た。三田村ならためらわず送金して呉れるだろう。学生時代にそば屋だった店があり、二人ともそこによく通い、酒を飲みそばを食べた。それが戦後旅館に転向して繁昌はんじょうしていると聞いた。女主人とは顔なじみだし、そこから電報を打てばいい。
〈そうだ。丹尾も阿蘇に登ると言っていたな〉
 五郎は枕崎までの同行者を思い出した。別に丹尾に再会したいとは思わないが、金が送られて来るまでに、時間がかかるだろう。阿蘇に登ってもいいな、と五郎は考えた。彼は学生時代、二度阿蘇に登ったことがある。しかし二度とも、眺望ちょうぼうには失敗した。一度は雨で、火口はほとんど視界ゼロで、何も見えなかった。もう一度は晴天だったが、もう直ぐ火口に達する時に小爆発が起きて、火口にいた何百という登山客が、算を乱して急坂をかけ降りた。まるで映画のロケーションみたいだと五郎は一瞬見とれたが、その間にも小さな火山弾が彼のまわりに落ちて来て、ジジッと煙を上げた。
〈しかしほとんど危険は感じなかった〉
 と五郎は思う。まだ若くて、生命力にあふれていたのだろう。生命に対して自信があったのだ。今とは違う。
 三田村は五郎の良友であると同時に、悪友でもあった。酒色を本格的に教えたのは三田村である。いつだったか、盛り場で酒を飲み、下宿に戻る途中、赤提灯あかぢょうちんを軒にぶら下げた売春宿があった。それを指して三田村は言った。
「この店にだけは泊るなよ。あとできっと後悔するから」
「なぜ?」
「理由はどうでもいい。泊るなというだけだ」
 三田村は同年輩のくせに、へんに老成し、先輩ぶりたがるところがあった。五郎はそれがいやだったし、その時も心の中で反撥を感じた。
〈そこは私娼だから、病気を恐れろという意味なのか?〉
 それならそうとはっきり言えばいい、と五郎は思った。しかしも一度聞き直すのは、彼の自尊心が許さなかった。それから一週間後、一人で酒を飲み、夜けて戻る時、赤提灯の前を通りかかった。ふと先夜の三田村のもったいぶった言い方を思い出した。一度は通り過ぎたが、ためらいながら元に戻り、油障子を張った引き戸をそっと引きあける。寒い夜で、年老いたのと若いのと二人のおんなが、火鉢ひばちに当っていた。二人とも会話をやめ、ふしぎそうな顔付きで、制服姿の五郎を見た。五郎は若い方を指して言った。
「そのひと、あいてる?」
「はい」
 女は娼婦らしくなく、小学生のように素直な声を出した。五郎は靴を脱いで、二階に上った。ここに勤め始めて二箇月だそうで、女の体はまだ未熟なように思えた。
「何でここに泊ってはいけないのだろう?」
 そのわけは翌朝になって判った。七時過ぎに眼がさめ、服を着て窓をあけた。窓の下を人が通っている。五郎ははっとした。通行人のほとんどが学生であり、彼の同窓生であった。
「なるほど。これは困ったな」
 五郎は窓をしめ、また細めにあけた。今朝の坊の宿と同じ姿勢で、妓の持って来た茶をすすりながら、道を見おろしていた。道を通る人は前方ばかり注意して、案外上を見ないことに彼は気がついた。背徳はいとく疎外そがいの感じはあったが、別に妙な優越感がやがて彼に湧き上って来た。お前たちはせっせとありのように登校して行くが、おれはこんなところで一夜を明かしたんだぞ。そんないわれのない優越感で、彼は茶をすすり、煙草をふかしていた。と言っても、今直ぐ堂々と外に出て行く勇気はなかった。優越感といっても、それは若さが持つ虚勢きょせいに過ぎなかった。その時通行人の中の一人が、どんなはずみからか、ふっと顔を上にねじ向けた。五郎と視線がぴたりと合ってしまった。
 それは五郎が教わっている松井というドイツ語の教授であった。中年にして頭の禿げた小太りの教授で、足をとめていぶかしげに五郎を見ている。今更五郎も顔を引込めるわけには行かない。眼をえて、松井教授をにらみつけた。時間にすると、二、三秒だったかも知れない。感じからすると、十秒から十五秒くらいに思われた。教授は顔を元に戻すと、すたすたと歩き出した。五郎は荒々しく窓をしめた。
 にらみ合いに勝った、という感じは全然なかった。打ちのめされたような敗北感だけがあった。彼は震えながら、女に酒を頼んだ。熱いコップ酒に口をつけながら呟いた。
「不潔なやつだな。あいつは!」
 不潔なのは自分であることは、理屈では判っていた。しかし実感としては、教授の方が不潔でいやらしいと思う。教授が窓を見上げねば、不潔感は生じなかった。見上げたばかりに、けがらわしい感じになってしまった。しかも教授が表情を少しも動かさず、動物園のおりの中のけものでも見る眼付きだったことが、五郎を一層傷つけた。
〈やはりおれの負けだったんだ〉
 太縄のわらのけばをむしりながら、今五郎は思う。少年がジュースを二本ぶら下げて戻って来た。五郎は受取りながら言った。
「栓抜きはないのか」
「忘れた」
「だめじゃないか。借りておいで」
 そして五郎は言い直した。
「借りて来なくてもいい。向うであけてもらって来いよ」
「栓抜きがなくても、歯であける」

 あれは寒い夜で、たしか三学期の初めであった。九時過ぎに赤提灯あかぢょうちんの裏口から忍び出て、下宿に戻った。
 松井教授に対する不潔感は、まだながく残っていた。どうしても教授の講義を聞く気がしない。で、その学期中、五郎は松井の講義に出席しなかった。学期末、五郎はとうとう落第した。実際に点数が足りなかったのか、松井教授が彼を憎んだのか、今もって判らない。もう教授も死んだ筈だし、問いただすすべはないのだ。赤提灯の一件は、三田村にも話さなかった。
 少年が歯で抜いたジュースは、なまぬるかった。陽光にさらしていたのか、甘さに日向くささがある。半分ほど飲み、五郎は少年に話しかけた。
「伊作に床屋があるかい?」
「ある」
 瓶から口を離して、少年は声を力ませた。
「床屋ぐらいはある!」
「ああ、そうだ」
 トラックの荷台の若者との会話を思い出した。伊作の生れだと聞いた。
「近くに温泉があるそうだね」
「うん」
 飲み干した瓶を、少年はていねいに松の根にもたせかけた。
「湯之浦温泉」
「近いのか」
「ちっと遠い」
 少年は初めて笑いを見せた。
「自動車で行くと直ぐじゃ」
 父親の職業を思い出したのだろう。陽を受けて額に汗の玉が出ている。
〈今夜はそこに泊ろうかな〉
 五郎は海を見ながら考えた。立ち上ってジュースの残りを砂にぶちまける。
〈床屋に行って、さっぱりして――〉
 五郎は流木の方を眺めていた。流木からの足跡がまだ残っている。きちんと並んでいるのでなく、じぐざぐに乱れている。チンドン屋の真似をしたためだ。流木の彼方の足跡は、もう定かではない。武蔵野の逃水にげみずのようにちらちらと、水がただよい動いているようだ。一帯を鈍い光が射している。太陽は薄い雲の中で、ことのほか巨大に見える。光が散乱するのだ。
「行こう」
 五郎は瓶を捨て、少年をうながした。巨大な海と陽に背を向け、二人はゆっくりと歩き出す。


 熊本の宿で、五郎は女指圧師にまれていた。指圧師は二十前後の体格のいい女で、黒いスラックスと白い清潔なブラウスを着けていた。体操学校の生徒のような趣きがある。人なつこい性格なのか、揉みながらしきりに話しかけて来る。
 部屋はあまりよくなかった。形ばかりの床の間のついた四畳半。窓をあけても展望はない。床の間には鷹を描いた宮本武蔵のじくがかけてある。もちろん複製品だ。女指圧師がまず口にしたのは、この部屋の悪口であった。
「ひどか部屋ね。物置のごたる。お客さん。よう辛抱出来なさるね」
「仕方がないんだ」
 彼は答えた。
「おれはそんなことに、もう怒らないことにしている」
 彼女は揉み始めた。
「お客さんの体は、妙なこり方をしとるね」
「そうらしいな」
 五郎は腹いのまま答える。
「昨夜もそう言われたよ」
「誰から?」
「鹿児島の湯之浦温泉のあんまさんからだ。このあんまさんは、爺さんだったよ」
 五郎があんまを頼んだのは、これが生れて初めてである。今まで彼は肩がったという感じを持ったことがなかった。なぜあんまを呼ぶ気になったのか。ハイヤーの運転手に勧められたからだ。その運転手は、ズクラを獲っていた少年の父親だ。

 昨日五郎と少年は吹上浜をあとにして、伊作の町の方に歩いた。自動車一台が通れるほどのせまい路で、両側に畠がひろがっている。少年はしだいに彼に親近感を深めるらしく、自分から進んで、あちこちの風景を説明したりした。いっしょに食事したことが、そんな変化を少年にもたらしたのか。やがて彼は少年を、少年が彼に持つ関心を、うるさく感じ始めていた。
 しばらく歩くと、家並が見えて来る。床屋があった。だんだら模様の標識ひょうしき柱はなく、赤い旗が軒に出ているだけである。彼は少年に言った。
「おれはここで髪を刈る。君はもう帰りなさい」
「もっと先い行けば、きれいな床屋があっとに。そん方がよかよ」
「小父さんはここでいいんだ」
 彼は強引に床屋に入る。少年は頬をふくらまし、彼につづいて土間に足を踏み入れた。どこまでもついて来る気か、と彼は思う。少年は理髪師に声をかけた。
「こんちゃ。漫画本を読ませって下さい」
 五郎は理髪台に乗った。髪を刈っている間、少年は背を曲げるようにして、漫画本に見入っている。時々声を立てて笑う。鏡の中のその様子を、彼は警戒の眼色で見ていた。
 散髪が終って、台の背が倒され、髭剃ひげそりが始まる。彼はすすけた天井をにらみながら、じっと辛抱していた。彼は床屋がきらいだ。一定時間拘束こうそくされるのが、いやなのである。剃刀かみそりがじゃりじゃりと音を立てた。剃り終って、背が立てられた。彼はひりひりするあごでながら、鏡を見る。少年の姿は見えなかった。やっと帰ったのか、と彼は思い、代金を払って外に出た。外には自動車が停っていた。前の座席から少年が顔を出した。
「小父さん。お父さんの車を呼ん来たど」
 車? 車だって? 五郎は軽いめまいを感じ、そばの電柱につかまった。おれはハイヤーを頼んだ覚えはない。自動車で行けば直ぐだと、少年の口から聞いただけだ。何をかん違いしたのだろう。
「さあ。どうぞ」
 実直そうな角刈りの父親が、既定の事実のように後部のドアを中から押す。彼は吸い込まれるように、ふらふらと乗ってしまった。
「湯之浦温泉でっね」
 返事も待たずに車は動き出した。五郎はだんだん腹が立って来た。うかうかと乗り込んだ自分自身に対してだ。
「お客さあ」
 運転手がハンドルを切りながら言った。
「湯之浦に泊っとですか?」
「まだはっきり決めてない」
「泊ってあんまを呼んなら、佐土原ちいう爺さんを呼んでやって下さい」
「なぜ?」
「あたしの縁者ひっぱりでしてね」
 五郎は黙っていた。間もなく湯之浦に着く。黙ったまま、代金を支払った。貧寒な温泉宿の一軒をえらび、部屋に入る。着換えして温泉につかると、あとはもう何もすることがない。焼酎を注文して部屋に坐り、じっと飲んでいる。その彼の心を、遠くから脅して来るものがある。
〈なぜおれが佐土原というあんまを呼ばなくちゃいけないのか?〉
 あの少年と浜で出会った時から、妙な段取りがつけられて、うまくそれに乗せられたような気がする。自分の意志と関係のない、何か陰謀めいたものが、煙のように彼を取巻いている。彼はしばらく食膳のものをつつきながら考えていた。考えるというより、ともすればこみ上げて来る不安感を、つぶそうつぶそうとしていた。彼は呟いた。
「状態がどうもよくないな」
 彼は決然と床柱から背を剥がし、呼鈴よびりんを押した。女中がやって来た。
「佐土原というあんまさんがいるそうだね」
「はい。おいもす」
「呼んで呉れ」
「はい」
 女中は手早に布団をしき、出て行った。あんまはすぐにやって来た。痩せて背が高く、盲目のようである。かんはいいらしく、独りで手探りしながら、部屋に入って来た。五郎はあわてて膳を部屋の隅に押しやり、布団に寝そべりながら言った。
「ぼくはあんまをとるのは、初めてでね。あんまり無理なみ方をしないで呉れ」
「へ、へへえ」
 あいまいな返事をして、老人の指は彼のくび筋にとりついた。背中を一応揉み終ると、あんまは彼の腕を揉み始めた。
妙なスダい方をしておいやる」
「どんな具合に?」
 あまり人がらないところが凝っていて、緊張している筈のところがだらんとゆるんでいる。あんまはくぐもった声でそう説明した。
ないか病気でんしやしたか」
「うん。いや」
 あんまというやつは、どうもくすぐったい。くすぐったい反面に、いまいましい感じがある。向うが自由にこちらの体を動かす。こちらの自主的な姿勢は許されない。あんまに奉仕しているみたいだ。それが第一にしゃくにさわっていた。
「病院にしばらく入っていたんだ。ほとんど寝たっきりでね」
 心は癪にさわっているけれども、肉体はくすぐったく、笑いたがっている。口も肉体の一部だから、ふつうの声を出すのに苦労をした。笑い声になりそうなのだ。
「はあ。ないほどね」
 ずっと寝たきりで、運動といえば病院の廊下を歩く程度で、外出は許されてなかった。それを昨日脱出して、警戒したり力んだりして旅行した。その力んだ部分が妙な凝り方をしたのだろう。全身を揉み終ったあと、老人はまた彼にうつ伏せの姿勢を命じた。彼は枕に顔を当てて、素直にそれにしたがった。背中と腰の間のところが、急に圧迫された。拳やひじでない。もっと大きく、ずしんとした重量感がある。
〈何で押しているんだろう〉
 彼はいぶかしく思い、顔を横にして、さらに横眼を遣って見上げた。するとあんまの顔が、おそろしく高いところに見えた。
「おい、おい。あんまさん」
 五郎はつぶれた声で言った。
「お前さん、どこに立ってんだね?」
「お客さあの背中いですよ」
「冗、冗談じゃないよ」
 とたんに腹が立って来た。
「おれの背中を踏台にするなら、ちゃんと断ってからにして呉れ。無断でひとの背中に乗るなんて、それがサツマ流か」
「踏台じゃなか。こいも治療の一方法ござす」
 あんまはかるく足踏みをした。肋骨ろっこつがぐりぐり動くのが、自分でも判った。
「よか気持でしょう」
 そう言いながら、あんまはそろそろと降りた。五郎は憤然と起き上って、寝具の上にあぐらをかいた。あんまは今度は頭の皮膚のマッサージに取りかかった。頭の皮はきゅとしごかれ、その度に眼がり上る。怒るな、怒るなと、五郎は自分に言い聞かせながら、我慢をしている。やっと全部が済んだ。
「揺り返しが来もんでな、明晩もあんまか指圧師にかかりやった方がよろしゅござんそ」
「揺り返し?」
「揉んほぐした凝いが、また元い戻ろうとすっとござすな。そいをも一度散らしてしも。ないならわたっが――」
「いや。明晩はここにいない」
「あ。そうござしたな。では次の旅先で――」
 そう言いながら、あんまは手をうろうろさせた。
「お客さあ。灰皿をひとつ、貸して下さいもせ」
 彼は灰皿を取ってやり、じっと老あんまの動作を見守っていた。あんまは煙草を出し、器用にマッチをつけた。彼は言った。
「あんたは全くのめくらじゃないね」
「はい。右の眼が少しは見えもす。ぼやっとね」
 五郎も煙草を出して、気分を落着かせるために火をつけた。
「今日吹上浜に行ったらね、林の中に大きな縄が置いてあった」
「ああ。十五夜綱引のことですな」
「綱引? やはり綱引をするのかい。誰が?」
「皆がです。町中総出で、夜中にエイヤエイヤと懸声をかけもしてな」
「どんな意味があるんだね?」
 老若男女が綱をにぎって、エイヤエイヤと引っぱり合う。その夜の情景は髣髴ほうふつと浮んで来たが、にぎやかな和気より、別のものがまず彼をおそって来た。あんまはしずかな口調で話題を変えた。
「お客さあは今日、浜で踊っておいやったそうでござすな」
「なに?」
 同じ質問をあんまは繰り返した。
「誰にそんなことを聞いた?」
「運転の人いです。あや、わたっの知合いござしてな」
 あんまは煙草をもみ消して、耳にはさんだ。
「踊いもやっとござす。町中総出で」
 沈黙が来た。少年が彼の無意味な踊りを見る。髭剃りの途中に伊作まで走り、父親にそのことを報告する。父親があんまに告げ口をする。少年はどんな報告を父親にしたのだろう。父親をもうけさせるために、車ごと床屋につれて来たのか。
「もういい。いくらだね」
 自然ととげの立った声になる。言われた通りの代金を支払う。あんまが出て行ったあと、彼は膳を引寄せ、布団に腹這いになった。
「お節介せっかいめ!」
 彼はつぶやいた。
「踊ろうと踊るまいと、おれの勝手だ。他人から四の五の言われる筋合はない!」
 少年が彼に親しみを見せたのは、いっしょに食事をしたせいではない。秘密を共有したという気持から、彼につきまとったのだ。共有。いや、共有でない。
〈おれの秘密を見たことで、あの子供は妙な優越感を持ったのだろう。おれという大人おとなと対等以上の位置に立ったつもりなんだ〉
 彼は眼を閉じて、少年の風貌を思い浮べた。肌は浅黒く、眼が大きく、頭の鉢は開いていた。あの大きな眼で、どんな風に彼を眺めていたのだろうか。酔っぱらいと思ったのか、気違いだと判断したのか。とにかくそのおかげで、ハイヤーに乗せられ、あんまに背中を踏んづけられる羽目におちいった。すべてが誤解の上に成立っている。彼がチンドン屋の真似まねをして踊ったのは、秘密でも何でもない。
「なあ。子供よ」
 茶碗の焼酎をぐっとあおり、彼は少年の顔を思い浮べながら呼びかけた。
「おれたちはあの時、判り合っていたんじゃないのか。お前は独りでズクラを獲り、おれは独りで踊っていた。それだけの話じゃなかったのか」
 不安は怒りに移りつつあった。温泉に入ったこと、あんまをされたことで、彼の体はぐにゃりとなり、虚脱し始めていた。しかし感情は虚脱していない。むしろとがっている。彼はのろのろと寝巻に着換えた。膳を廊下に出すと、布団の中にもぐり込む。もぐり込んでも、彼はまだ怒っていた。
「おれはあわれまれたくないんだ」
 怒りのあまり、布団のえりにかみつきながら思った。
「憐れむだけでなく、かまってもらいたくないんだ!」

 朝早く伊作を発ったので、昼前に熊本に着いた。駅は人の動きや汽笛やスピーカーで騒々しい。駅の構内に入ると、どうして人間はこのように足早になるのだろう。そう思いながら、五郎の足もしだいに早くなる。皆せき立てられた鶏のようだ。肩と肩とが時々ぶつかり合う。
 改札を出ると、案内所に寄り、旅館の名を確める。次いで郵便局に寄り、東京の三田村に電報を打った。
『東京に戻るから旅費を送って呉れ』
 という意味のもので、旅館の町番地を書き、そこの気付にした。東京に戻る気持は、昨日からきざしていた。この電報を打てば、決定してしまう。それが一瞬彼をためらわせた。
〈しかし電報を打たなきゃ、金はどうする?〉
 エイという気合で、彼は窓口に頼信紙らいしんしを差出した。その足で薬屋に寄り鎮痛剤を買い、駅前のレストランに歩み入る。ビールと料理を注文する。待っている間も、体を動かすとあちこちの筋肉が痛む。昨夜のあんまのせいだ。ビールが運ばれてくる。
「揺り返しか。地震みたいだな」
 鎮痛剤を一錠いちじょう、ビールとともに飲み下しながら、彼はつぶやいた。
「やはり怒ったのがいけなかったのかな」
 怒ると筋肉が緊張する。それがりの原因になる。それに今朝から何時間も、汽車の座席に体を固定させて来た。そのせいもあるのだろう。昨夜の怒りはまだ完全に収まってはいなかった。レストランの椅子は小さく、安定感がなかった。彼は自分の怒りを確めるように、わざと体の重心を動かしてみる。椅子がそれにつれて、がたりと動く。卓もそうだ。三本脚で立ち、一本脚は浮いている。皆がたがただ。
「つまりおれは、怒りという媒体がないと、世の中に入って行けないのだな」
 この論理は間違っていた。世の人間関係に巻き込まれたから怒ったのであって、彼が怒りを持って参加したのではない。五郎はうすうすとそれを知っていたが、前者には眼を閉じ耳をふさぎ、後者にしゅうしようとしていた。
 ポークカツを切り刻み、ソースをだぶだぶかける。ビールと交互に口に運びながら、大きな窓ガラス越しに、外を眺めていた。駅舎には相変らず人々が忙しげに出入りし、駅前にはタクシーやバスが着いたり、走り出したりしている。五郎は昔から、駅の雰囲気は好きであった。各人がお互いにつながりを持たず、自分の目的に向って、ばらばらに動き廻っている。総体的にはまとまりがない。盲目の意志とでも言ったものが、人間をちょこちょこと動かしている。それが彼の気に入っていた。
〈電報を打つのは、早過ぎたかな〉
 その考えがちらと頭を通り過ぎる。フォークを皿に置き、コップの残りを飲み干す。ゆっくりと立ち上った。
 広場を横切り、駅の前でタクシーを拾った。
「東京屋にやって呉れ」
 今夜泊る予定の宿屋である。鎮痛剤がきいて来たのか、節々ふしぶしの痛みはよほどやわらいで来た。大通りからちょっと横町に入って、車は停る。降りて宿屋の門をくぐる。帳場ちょうばに行って案内を乞う。四十前後の番頭らしい服装の男が出て来た。
「今夜泊りたいんだがね」
 五郎は言った。
「お内儀かみさん。元気かね?」
「お内儀さんって、何じゃろ?」
「そら。ここは昔、そば屋だっただろう。その時の女将かみさんさ」
 男は黙って、五郎の頭から足先まで眺めた。職業的な視線でなめ廻した。
「ぼくは久住五郎というものだ。お内儀さんに聞けば、判ると思うが――」
「そりゃムリたい」
「なぜ?」
「うちにゃこれまで何千何万のお客さんが、出入りしなさった。あんたが覚えとっても、お婆さんが覚えちょるとは限らんばい。そぎゃんじゃろ。あんたさんはいつ頃のお客さんな?」
「二十七、八年前、学生時代だ」
 五郎はハンカチで額を拭いた。
「会えば判ると思うんだがね」
「そぎゃんいうち来るお客さんも、時々おらすばってん、なかなか会えんばい」
 眺め廻すのをやめて、男はまっすぐ五郎の顔を見た。どの程度の客か、判定し終ったらしい。
「なぜ? 病気なのかい?」
「うんにゃ。死んなはった。十年ばかり前ですたい」
 額をぐいと押された感じで、五郎は黙った。こめかみがびくびく動くのが判る。何で早くそれを言わないのか。やがて男が心配そうに言った。
「気分がわるかと?」
「いや。別に」
「そればってん、顔が――」
「この旅館気付に、東京からわたしに金が送って来る」
 ハンカチをしまいながら、五郎はかすれた声を出した。
「それまでここに泊りたいんだ。泊れるだろうね」
「ん。まあね」
 気のなさそうな返事をした。
「泊めんのが、商売だもん」
 男は手を打って女中を呼んだ。
「お荷物は?」
「あ。今はいいんだ。市内見物をして来るから、部屋だけ取っといて呉れ」
「そぎゃんですか。そんならお待ちしとりますけん」
 五郎は横町を出て、街路に出る。やはり顔がこわばっている。荷物は持たないし、服もきちんとしていないし、靴もよごれている。上客ではない。言われなくても、自分で知っている。しかしあの番頭の客あしらいは、横柄おうへいだ。まるで泊らせないために、応対しているようではないか。
〈金はいくら残っているのかな〉
 五郎は感情を制しながら、ポケットに手をつっ込み、指先で勘定した。眼で見ないで、指で数えられるほどの少額である。老練な客引や番頭になると、顔や服装を見ただけで、客の持ち金をほぼ正確に言い当てるという。
「ふん」
 五郎は肩を落し、三分間ほど曲り角に佇立ちょりつし、街の様子をにらんでいた。昔よく出歩いた街だが、その頃の雰囲気が残っているような、また見覚えのないような感じがする。度の合わない眼鏡をかけた時の違和と不快がある。これが初めての風景なら、旅情もあるだろうが、過去にかげを引いているので、具合が悪いのだ。
〈イヤだな。歩き廻るのはよそうか〉
 と思っても、今宿屋に戻る気はしない。
 天気はよかった。空気は乾いていた。光はあまねく街に降っていた。
 ここを離れて、五郎は時々この土地のことを思い出し、また夢にまで見た。それはいつも青春の楽しさや愚行につながっていた。楽しさや愚行に都合のいいように、街の相は彼の頭の中で、修正されているかも知れない。その修正と、現実の街の変貌が一致しない。それが五郎には面白くない。

 五郎は歩いていた。時折立ち止り、ふり返り、周囲を見廻す。追われている感じからではない。町のたたずまいを確めるためだ。追われている、尾行されている感じがなくなったのは、症状が好転したわけではなく、三田村に電報を打ったことに関係あるらしい。自分の居場所を教えてしまった。そのことが不安感をいくらかやわらげている。
〈もうおれは浮浪者ではなく、ヒモつきの旅行者だ〉
 入院中に見たテレビの一画面を、彼はふと思い出した。宇宙船から乗員がい出して、空中を散歩するのである。アナウンサーの解説では、人間史上画期的な瞬間だそうだが、彼にはひどく醜悪なものに見えた。ぶよぶよした貝の肉のようなものから、畸形きけいの獣めいたものが出て来る。這い出るのに苦労をするらしく、しきりにもがいている。やっと出て来ると、そいつはへんな動き方をしながら、宙に浮く。彼は視線を外らそうと思いながら、やはりその時眼が離せなかった。
〈病院からおれが脱出したのも、これと同じではないか。むりをして、もがいて、苦しんで――〉
 しかも醜怪しゅうかいなものに変形するという犠牲まではらって、おれは何を得たのか。現実に角を突き合わして、手痛い反撃を受けただけの話だ。
 歩いている町のところどころに、はっと記憶をつついて来るような眺めがあらわれる。神社の鳥居とか、質屋の白壁の土蔵どぞうとか。そこだけが昔の形のままで残っている。それを取巻く風景には馴染なじみがない。彼は首を傾ける。道筋もすこし変化したらしい。たとえば昔は曲っていた道が、今はまっすぐになっている。さびれていた道がにぎやかになり、魚屋や八百屋が店を開いている。
「たしかここらの――」
 五郎は用心深く視線を動かした。
「この建物じゃないか?」
 大きな赤提灯あかぢょうちんをぶら下げた売春宿である。もちろん眼の前にあるそのしもたふうの二階建てには、提灯ちょうちんはぶら下っていない。でも歩いて来た感覚からして、ここらに建っている筈であった。
 しかしそれがかつての宿とは、断定出来ない。彼の記憶にきついているのは、特異な提灯の色だけであって、あとは模糊もことしている。二階にはすりガラスの窓があった。その時彼は窓を細目にあけて、道を見おろしていた。そして視線がぴたりと松井教授に合ったのだ。どんなつもりで、教授はその窓を見上げたのだろう。
〈こんな具合に――〉
 五郎は立ち止り、二階の窓を見上げる。するとそこに一つの顔があった。出窓に腰をおろして、一人の男が道を眺めている。とたんに視線が合った。すると五郎は呪術じゅじゅつにかかったように、眼が動かせなくなった。顔を上に向けたまま、そろそろ横に動いて、電柱につかまった。
 それは学生らしい。もちろん見知った顔ではない。頭髪を長めに伸ばし、上半身は裸である。その顔は初めいぶかしげな表情をたたえ、しだいにとがめるような顔に変って行く。視線をそらすきっかけをうしない、五郎はじっとその変化を見守っていた。
〈まずいな。これは意味ないな〉
 こんなやり方で現実と結び合おうとしても、無駄だ。それは一昨日坊津で経験ずみのことである。結びつくわけがない。その時ふっと顔は、窓から消えた。
〈降りて来るかな〉
 へんな中年男が仔細しさいありげに窓を見上げている。なぜ見上げているか、たずねる権利は彼にあるだろう。こちらも応じなくてはならないが、何と答えたらいいのか、と思う。その瞬間、窓にふたたび顔があらわれた。カメラを五郎に向け、シャッターを切った。シャッターの音は、あたりの雑音の間を縫って、まっすぐに彼の耳に届いた。彼はたじろいだ。

 めずらしくかき氷屋があった。東京ならもう店仕舞みせじまいをしている筈だが、ここは南国なので商売がなり立っているのだろう。粒々のガラス玉をつらねたのれんがあり、それを押分けて五郎は入って行った。不機嫌な声で注文した。
「氷イチゴ!」
 また背中のあちこちが痛み始めていた。
「それに、水一ぱい」
 痛いというより、熱っぽくうずいている。水を少女が持って来た。薬を取り出して効能書こうのうがきを読む。(頭痛、歯痛、筋肉痛。一回一錠。一日三回まで)一錠をつまみ出して、水でのむ。そして上衣を脱いだ。やはり暑いのである。
「このすこし向うの――」
 店番をしている婆さんに、彼は何気なく聞いた。
「雑貨屋の隣の二階家ね、あの二階に住んでいるのは誰だね?」
「学生さんでっしょ。二人兄弟で下宿しとんなさる」
「ああ。下宿屋か。それなら大したことはないな」
 赤い氷を彼は口に入れた。さっきのにらみ合いは、二十秒ぐらいであった。松井教授のもそれくらいだっただろう。松井教授はあの時、あの窓に何を見たのか。もうそれを知るすべはない。ただその結果、五郎はきたないものを踏んづけた気分になり、きりきり舞いをして、落第した。
「お婆さん。ここら空襲を受けなかったのかい」
 彼はまた呼びかけた。
「あの家は、昔から下宿屋だったのかい?」
「はい。大水が出ましたもんですけん。そるからあとはずっと変りましたたい」
「大水? 戦前に?」
「いいえ。それがあんた、戦後の昭和――」
「二十八年よ」
 少女が補足した。
「六月二十六日」
「ああ。六月です。夜、水がやって来ましたですたい。いや、水じゃなか。泥ですたい。阿蘇ん方で大雨が降って、よなを溶かして流れち来たんですたいなあ。材木やら何やらを乗せて、戸口にあたる。戸が破れち、泥水がおどり込むとですたい。あれよあれよという暇もなかった。戸が破れたと一緒に、もう畳が浮き始めたとですたい。うちはこの子ば抱いち、飯びつといっしょに二階に這いあがりました。停電で電気はつきやせん。ラジオも鳴らんごとなった。まっくらやみの中で、ごうごうと水の流るる音、材木が家にぶつかる音」
 今のおれには関係ないな、と思いながら、五郎は老女の話に聞き入っていた。老女の話方には熱がこもっていて、彼の耳をひきつけた。
「そん都度に家が揺れ、はりがみしみし鳴っとですたい。生きた心地はなかったです。丁度ちょうどこん子が、小学校に入ったか入らん齢で――」
「旦那さんは?」
「はあ。つれ合いは夕方頃からパチンコに行っとりまして、パチンパチンはじいとる中に泥水がどかっと流れ込んで――」
「パチンコ屋にも?」
「そぎゃんですたい。あわてちパチンコ屋ん二階に避難して、そん夜から翌日にかけち、景品けいひんの缶詰ばっかり食べ、咽喉のどをからからにして帰って来ました。そんあと水ば五合ばっかり一息に飲みましたと」
「泥水を?」
「泥水が飲めるもんですか。こやし臭うして。水道ですたい」
「水道は菊池の方から来るとです」
 少女が口を入れた。
「泥水がひいち、水道ん栓ばひねったら、きれか水がジャーッと出て来ち、あたしゃあぎゃんなうまか水ば、飲んだことはありまっせんと」
「どうしてそんな大洪水がおこったんだろう?」
 五郎は最後の一さじを食べ終って、少女に訊ねた。少女は答えた。
「阿蘇ん大雨で流されち来た流木が、子飼橋の橋脚にせき止められち、水の行くとこがのうなって、横にはみ出したとです。大江へんは建物ごとごっそり削られたとです」
「ひどかでしたばい」
 婆さんは口をとがらせた。口から泡を吹くような調子で、
「あいからあたしゃリューマチにかかって、まだ直りきらんとです」
 十年以上前のことを、老女は昨日の出来事のように熱っぽく語る。その情熱は、どこから来るのだろう。あの建物の二階にいる青年は何者か。それを調べて写されたネガを取戻したい。そう思ってこの店に入ったのだけれども、洪水こうずい話に巻き込まれて、その気はなくなってしまった。写したければ、勝手に写したらいいだろう。そんな気になっている。五郎の顔はあの青年にとって、意味も何もありゃしないのだ。
「そいから川幅も広うなりましたもんねえ、子飼橋も鉄骨でつくりかえられました。今度洪水があってん、家は流されてん、橋だきゃ流れんちゅ皆の噂ですばい」
「そうかね」
 彼はしばらく白川べりの素人しろうと下宿に住んでいたことがある。三十年前のことだ。そこを見る気持になって、彼は立ち上った。
「いくらだね?」
 代金を払う。昼食べたのがソースにひたしたポークカツなので、まだ咽喉のどが乾いている。かき氷は咽喉を冷やしただけで、乾きはとめなかったようだ。彼は道端に赤い唾をはいた。
〈おれは早く取戻さねばならぬ。何かを!〉
 西日が五郎の背中を照りつける。ほこりっぽい道を、上衣を肩にかけて歩いている。同じような道をいつか通ったことがある。両側は家並でなく、一面の唐黍とうきび畠だ。唐黍畠から犬が這い出して来る。彼の背後から、トラックがやって来て、彼を追い越す。道を横切ろうとする犬をいきなりく。犬の胴体を轢き、トラックはちょっと速度を落し、また元の速度に戻って走り去る。犬はじっと横たわっている。突然口から赤い血がかたまって流れ出る。手足が痙攣けいれんして、ぐっと突っ張る。血のにおいがして、もう彼は歩けない。……

 そこには昔の面影は、全然なかった。かつては畠もあったし、樹も生えていた。家もあった。五郎がいた素人下宿は、一番奥で、その先は白川の河原になっていた。河原の水たまりから蚊がたくさん発生して、学生の彼をひどく悩ませた。
〈やはり洪水にやられたんだな〉
 ここらは割に土地が低いので、河原からあふれ出た泥水が、ものすごい勢いで家をゆがめたり、押流したりしたのだろう。
〈道を間違えたんじゃないか〉
 その危懼きくはあった。だから何度も何度もふり返り、風物を確めながら、ここまで歩いて来たのだ。ほっとひらけた風景は、たちまち彼を拒否した。家も何軒か建っている。プレハブ住宅もある。庭に向日葵ひまわりが何本も揺れている。
 彼は一歩一歩、河原の方に歩く。途中でつき当った。護岸工事がほどこしてあり、河原には降りられない。気のせいか、川幅もずっと広くなった。護岸の上には、人が落っこちないように、コンクリートのガードがある。五郎はそこに腰をおろして、煙草を取出した。彼がいた下宿の場所も、向日葵が咲いているあたりだと思うが、はっきりは判らない。
「あの女将おかみ、まだ生きているだろうか?」
 六師団付の軍人にとつぎ、離縁されて、ここに下宿屋を建てた。どこか色っぽい感じの女で、生きていたらもう五十五か六になっている筈だ。五郎は一番いい部屋を占領し、毎日ノートと教科書をかかえ、インク瓶をぶら下げて登校した。学校では水泳部に入り、二百米平泳を三分十秒台で泳いでいた。早い方ではなかったが、当時としてはそれでインターハイの予選ぐらいには出場出来た。水泳の練習が済んで風呂に入り、上ると腕や胸の皮膚がぴんと湯をはじいた。クラス会などで大酒を飲んでも、宿酔ふつかよいをしない。要するに若かったのだ。彼も三田村も西東も小城も。
 五郎は女将から一度だけ誘惑されたことがある。元亭主の軍人が再婚して、披露宴の招待状が来た。そのやり口に腹を立てて、彼女は取乱とりみだした。今夜は眠れそうにないというので、彼は勧めた。
「催眠薬を上げようか」
 女将は催眠薬を酒といっしょに飲み、彼を誘惑した。彼は拒否した。
「小母さん。あんたはいつか僕のことを、中途半端な人間だと言っただろう。無理をしないで生きて行けとも言った。お説の通り、おれは無理をしたくないんだ」
 今にしてみれば、いくらか残酷で散文的な断り方だったと思う。しかし彼にも言い分はあった。級友の西東という男と、女将は関係を持っていたからだ。――
 煙草は乾いた口に不味まずかった。いがらっぽく、すぐに吸口が唇にりつく。川から吹いて来る風は、泥のにおいがした。
 西東はそのためかどうか、落第した。中傷の手紙が行き、西東は熊本に戻らず、私学に入る予定で、東京におもむいた。女将は下宿をたたんで、西東を追っかける。私学に入る前に召集が来て、中国で戦死した。女将は場末ばすえのバーの女給になった。その頃再会した。
「あの手紙を書いたのは、あんたでしょ」
 女将は酔って彼にからんだ。
「あのおかげで西東は、熊本に戻れず、結局戦死してしまったのよ」
「書きゃしないよ、そんなもの」
 彼は驚いて抗弁した。
「君等を引裂ひきさいて、おれがどんな得をする?」
 結局西東は、犯人が彼であるかないか、半信半疑で出征したという。彼は暗然とした。
〈あそこらの猫の額ぐらいの土地で、おれたちは何をじたばたしていたのか〉
 おれの青春はひねこびて小さく、華やかそうに見えて、裏には悪夢のようなものがぎっしりと積み重なっている。向日葵の方向を眺めながら、五郎は考えた。
 同級に小城という男がいた。彼にこの下宿を紹介したのは、小城だ。紹介というより、慫慂しょうようといった方が正しい。五郎はそれに乗り、一番いい部屋をえらんだ。小城もその部屋を欲しがったが、ついに折れた。小城は言った。
故郷くにから客が来た時、君の部屋を使わせて呉れ」
「どんな客だね?」
「身内のものだ」
 と小城は答えたけれども、実際にやって来たのは、身内のものでなかった。小学校の女教師で、五郎の部屋で情事がおこなわれた。五郎がそのこまかい経緯いきさつや関係を知る前に、小城はふっと他の下宿に移ってしまった。五郎はその女の顔を見たことがない。障子のはめガラス越しに、紫色のはかまを見ただけである。
「入る時はあんなに頼んでおきながら、おれにあいさつもなく転居した」
 それが五郎には面白くなかった。信用出来ないという印象だけが、彼に残った。
〈信用出来ないのではなく、裏切られたという感じだったな〉
 五郎は煙草を捨て、ぶらぶらと歩き出した。ここを見る意味はなくなっていた。

 戦後小城は、進歩的な学者として、名前を挙げた。二、三年経って、彼にまとまった金を借りに来た。
「何に使うんだね?」
「家を建てたいんだ」
「まだあの人といっしょかね?」
「あの人って?」
「紫の袴をはいていた女さ」
「ああ」
 小城はちょっと顔をあからめた。
「あれは今、ぼくの女房だ」
 小城が家を建てるために、なぜおれが金を貸さねばならぬのかと、彼はいぶかった。
「金のことなら、お断りするよ」
 五郎は言った。
「そんな金はない」
「そうかね」
 小城は別にがっかりした風でもなかった。少壮学者らしく、顔は青白く、額にぶら下る髪を時々かき上げて、むしろ軒昂けんこうたる風情ふぜいもあった。
 私大の教授もしていたし、どこからか金はつくったのだろう。建前たてまえの日に招待された。そこで小城の妻の顔を見た。紫の袴を見てから、二十年も経つ。へんてつもない中年の女で、五郎にはもう興味がなかった。それよりも建前の行事、夕暮の空に立つ柱やはり、その下で汲合う冷酒やかんたんなさかな、大工の話などの方が面白かった。この日以後、彼は小城と顔を合わせたことがない。
 それから数年後、小城はある若い女が好きになった。ある進歩的な出版社から発行される雑誌の編集部につとめる女だ。その女といっしょになるために、小城は妻を捨てた。その話を彼は三田村から聞いた。
「そういう男なんだ。あいつは!」
 三田村ははき捨てるように言った。
「あいつは損得になると、損の方を平気で捨ててしまうんだ。エゴイストだね」
 五郎は何となく、向日葵ひまわりの方に歩いていた。向日葵は盛りが過ぎて、花びらが後退し、種子のかたまりが、妊婦の腹のようにせり出している。美しい感じ、えている感じは、もうなくなっていた。
「何が何でも!」
 終末的な力みだけで、枝が花を支えているように見えた。

 宿に戻った。番頭らしい男はさっきと同じ表情で、五郎を出迎えた。女中が案内した部屋は、貧しくよごれている。ふだんは布団部屋に使っているのではないか。ほこりのにおいから、彼はそう推定した。しかし彼は反対のことを、女中に言った。
「いい部屋だね」
 彼は皮肉を言ったつもりではない。穴倉のようで自分にはかっこうの部屋に見えたのだ。女中は困った顔になり、返事をしなかった。
「あんまか指圧師を呼んで呉れないか」
「御食事前にですと?」
「そうだ」
「聞いち来ますけん」
 女中が去ったあと、五郎は壁に背をもたせ、足を投げ出す。筋肉はまた痛みを取戻していた。それはもう怒りとはつながらない。ただの痛みとして、彼の背や肩にかぶさっている。
〈昨日今日とよく歩き回ったからな。野良犬みたいに!〉
 五郎はくたびれていた。昨日のことを考えていた。昨夜のあんまのことから運転手、そして少年のことを考えた。それからズクラのことなども。――少年は悪意をもって彼を遇したのではない。もてなしたのだ。もてなしたついでに、ちょっぴり親孝行をしただけのことだ。疲労の底で、五郎はそう思おうとしている。氷水を食べたあたりから、彼の気分は下降し始めていた。怒りによる上昇は、束の間に過ぎなかった。
〈真底くたびれたな〉
 障子をあけて、女中が入って来た。手に宿帳を持っている。
「どうぞ、ここに――」
 女中は言った。
「指圧はすぐ来ますばい」
 偽名を書こうかと迷う。次の瞬間、彼は三田村のことを思い出した。本名でないと、返事が届かない。彼は本名を記入した。元の姿勢に戻る。
「ズクラ」
 と発音してみた。あれはへんな魚だ。よその海で泳いでいると、ボラなのだが、吹上浜に来ると、ズクラになる。実に平気でズクラになる。
 戻り道に買った洋酒のポケット瓶の栓をあけた。いきなり口に含む。ポケット瓶を持ち歩くのは、あの映画セールスマンの真似まねだ。真似だと気付いたのは、買ってからしばらく後である。彼はすこしいやな気がした。病院にそんな患者が一人いた。相手の動作や言葉を、すぐに真似するのだ。たしかあれはエコーラリイ(反射症状)だと看護婦が教えて呉れた。
〈しかしおれは、反射的に真似するんじゃなく、時間を隔てているからな〉
 そう思っても、真似をしたことは、事実であった。五郎は落着かない表情で、もう一口あおった。栓をして残りは床の間に立てかける。胃がじんと熱くなる。
 やがて指圧師がやって来た。若くて体格のいい女だ。彼はほっとした。昨夜のように陰々滅々なあんまでは、かなわない。女指圧師は入って来るなり言った。
「ひどか部屋ね。物置のごたる。お客さん。よう辛抱出来なさるね」
「仕方がないんだ」
 五郎は答えた。
「おれはそんなことに、もう怒らないことにしている」
 上衣を床の間に放り投げる。とたんにポケットから白い貝殻が二、三個、畳にころがり出た。彼はそれを横眼で見ながら、毛布の上に横になった。
 妙なこり方をしている。そのことから、湯之浦温泉の話になった。女は話好きらしく、いろんなことを問いかけて来る。背中がみほぐされると同時に、酔いが背に廻って来る。やはりくすぐったい。が、昨夜ほどではない。し方が素直なのだろう。
「うん。飛行機や汽車に乗ったり、足でてくてく歩いたり――」
 彼は身元調べをされるのが、いやであった。いい加減にあしらう口調になる。
「ここに来て、ズクラになった」
「ズクラ?」
「いや。何でもないんだ。おれの故郷くにの方言だよ」
「熊本は初めて?」
「うん。いや。昔いたことがある」
「いつ頃?」
「君がまだ生れる前さ」
「ああ。判った。あんたはそん時、兵隊だったとでしょう」
「うん。よく判るね」
 彼はうそをついた。
「今日一日、市内のあちこちを歩き廻ったよ。町も変ったね」
「どぎゃんふうに?」
「何だか歯切れの悪いお菓子を食べているような気分だったな。ちょっと――」
 彼は半身をひねりながら言った。
「言って置くけれど、無断でおれに乗らないで呉れよな」
「乗るもんですか。いやらしか」
 女は邪慳じゃけんに彼の体を元に戻した。冗談を言ったと思ったらしい。
「乗せたかとなら、他んひとば捜しなっせ」
「そ、それはかん違いだよ」
 五郎は弁明した。指圧されながらそう言われると、乗せたい気持がないでもなかった。
「乗るというのは、またがるという意味じゃない。上に立つということだ。湯之浦で、それをやられたんだ。ふと見ると、あんまの顔が天井てんじょうに貼りついていた」
 その時障子がたたかれて、別の女中が入って来た。盆の上に電報と電信為替かわせが乗っている。五郎は起きて、電報を開いた。
『明日そちらに行くから、宿屋で待機せよ。外出するな』
 そんな意味の電文があった。差出人は三田村である。為替の金額は、二万円だ。五郎は二度三度、電文を読み返して思った。
〈はれものにさわるような文章だな〉
「よか部屋があきましたばい――」
 老女中は言った。
「お移りになりますか?」
 五郎はその問いを黙殺した。電文の意味を考えていた。二万円あれば、もちろん東京に戻れる。それなのに何故三田村は、ここに来ようとするのか。しかも外出しないで、宿で待てという。医者に相談したのか、それとも三田村の意志なのか。
〈御用だ。動くな。神妙にせよ〉
 捕吏にすっかり周囲をかこまれたような気もする。眼を上げると、女中の姿は見えなかった。
「今日、子飼橋を見て来た」
 彼はかすれた声で言った。
「ずいぶん変ったね。あの橋も」
「洪水のためですげな」
「そう。昔はもっと小さく、幅も狭かった。あちこちに馬糞ばふんが落ちているような橋だったよ」
「兵隊の頃?」
「兵隊服を着たおれの姿が、想像出来るかい。橋の上の――」
 女の指の動きがとまった。
「出来っですたい。お客さんは将校じゃなかね。兵隊ばい」
 にがい笑いがこみ上げて来た。女の指がすねの裏側を圧し始めた。
「どうしてお客さんの足ゃ、びくびくふるえっとですか?」
「くすぐったいんだ。指圧慣れがしてないからね」
 子飼橋のたもとに、中華ソバ屋があった。その主人は、足がびっこであった。ソバはうまかった。
〈あれは何が悲しかったんだろう?〉
 学生の彼に悲しいことがあり、彼は悲しみのかたまりになって、熱いソバを食べていた。夜が更け、客は彼一人である。主人が店仕舞をしたがっているのは、その動作や表情で判った。だから彼も急いで食べ終ろうとするのだが、食べても食べてもソバは減らない。かえってえて来る傾きがあった。彼はついにあきらめて、店を出た。寒い夜だ。子飼橋にさしかかった時、左手の方遠くに、赤い火が見えた。阿蘇が爆発していることを、彼は新聞で知っていた。彼は立ちどまる。闇の彼方かなたの彼方に、二分間置きに、パッと火花が上る。小さな火柱と、落下する火の点々が見える。そして闇が戻って来る。また二分経つと、音もなく火柱が立ち、点になって散る。彼は三十分ほど、爆発の繰り返しを眺めていた。悲しみはそれでも去らなかった。その気分は覚えているが、今五郎はその根源を忘れている。
「今日、子飼橋から、阿蘇が見えたよ」
 五郎は低い声で言った。
「空気は澄んでいたし、雲もなかった。山の形も白い煙もはっきり見えた」
「よか天気でしたなあ。今日は」
 女は五郎の体を表にした。腹いからあおむけになったので、彼は女の顔や手の動きが見える。鼻のあなの形や色が、妙になまなましく感じられた。こんな角度から女の鼻孔びこうを見るのは、初めてだったので、彼は眼をそらした。
「明日、阿蘇に登ってみようかな」
 思わずそんな言葉が口に出た。すると急にそれは彼の中で現実感を帯びた。さっきの橋の上から眺めた時、眺めるだけの眼で、彼は山を眺めていたのだが。――
〈よし。登ってやる!〉
 三田村の電報が、底にわだかまっている。気合としては昨夜の温泉で、あんまを呼ぶために、呼鈴よびりんを押した感じに似ていた。しかし呼鈴を押したばかりに、妙な段取りが完成した。
「そぎゃんですか。そぎゃんしまっせ。明日もよか天気ですけん」
「保証するのかい」
「保証しますたい」
 女は笑いながら、彼の肋骨ろっこつを一本一本押えた。スラックスに包まれた厚ぼったい膝が、彼の脇腹を自然と押す形になる。その感覚に自分をゆだねながら、彼は三田村のことを考えていた。
〈あいつは明日来るというが、何で来るのだろう。飛行機か、それとも汽車か〉
 背中よりあばらの方がくすぐったかった。
「ここの空港は、どこにあるんだね?」
「水前寺の先、健軍ちいうところですたい」
「健軍? 昔は陸軍の飛行場じゃなかったかな」
 名前に覚えがある。彼は海軍暗号なので、健軍からの直接の通信はなかったが、電文に時にその名が出て来たような気がする。陸軍の特攻隊はここらを中継地にして、知覧に飛んだのだろう。今はそれが民間航空の空港になっている。
「朝八時半か九時に羽田を発つと、午前中に着くね」
「はい。熊本駅まで三十分ぐらいの距離ですけん」
 三田村はああいう性格だから、やはり飛行機でやって来るだろう。
「友達が迎えに来るんだ。おそらく午前中にね。その前に登らなきゃ――」
「友達?」
 女は立って足の方に廻り、彼の膝を曲げ、胸に押しつけたり伸ばしたりする作業を始めた。それはかなり刺激的な運動であった。
「そんなら友達といっしょに登ればよかじゃないですか」
「そうは行かないんだ。あいつはすぐおれを、東京に持って行く」
「持っち行く?」
 女は妙な顔をした。
「まっで荷物んごだんね」
「荷物だよ。おれは」
 饒舌じょうぜつになっている、と自分でも思う。女は彼の体をまた裏返しにした。
「足ん裏ば踏んじゃろか。サービスですたい」
 五郎の足裏に、しめった女の足が乗った。初めはやわらかくひかえ目に、つづいて全体量をこめて、交互に動いた。女の厚ぼったい足に接して、彼は自分のあしうらがスルメみたいに薄く、平たいことを感じる。それ故にこそ、なまなましい肉感が彼に迫って来た。
〈こんなものだ〉
 彼は声にならないうめきを洩らしながら思う。渇仰かつごうに似た欲望が、しずかに彼の体を充たして来た。
〈こんなに厚みがあって、ゆるぎなく、したたかなもの――〉
「お客さん。足がえれえ弱っちょるね。もうすこし足ばきたえなっせ」
「だから明日は山に登るんだ」
「ちゅうばってん、阿蘇は頂上まで、バスが行くとですよ」
 女は足から降りた。
「そんなにかんたんに行けるのか。では、火口を一廻りする」
 五郎は正座に戻り、女の顔を見た。
「君もいっしょに行かないか。どうせ昼は暇なんだろう」
「暇は暇ですばってん――」
 女は彼の背後に廻った。頭の皮膚を押し始めた。佐土原あんまと同じやり口である。頭の皮は動いても、頭蓋骨は動かない。皮と骨の間に漿液しょうえきか何かが、いっぱいつまっているらしい。それが皮をぶりぶり動かせるのだ。
「汽車の切符も弁当も、用意しておくよ」
 女はしばらく黙っていた。すこし経って、
「悪かことば聞いてんよかね?」
「いいさ」
「お客さんはお金ば持ち逃げしたとでしょう」
 五郎の眼はつり上った。自分でつり上げたのではなく、女の指の動きで、自然にそうなったのだ。
「よく判るね」
 皮膚の動きが収まって、彼はやっと口をきいた。今度は女の指先があられのように、頭皮に当った。
「どうして判る?」
「かんですたい。月ん一度くらい、そぎゃん人にぶつかりますばい。特徴はみんな齢のわりに、足の甲が薄かですもん」
「そうか。拐帯者かいたいしゃの足は薄いか。いい勉強になったな」
「そいで明日、同僚か上役の人が迎えに来るっとでしょう。まっすぐ帰った方がよかね。阿蘇にゃ登らんで」
 得意そうな、言いさとすような声を出した。彼はその声に、ふと憎しみを覚えた。
「だから登るんだよ」
「なして?」
「最後の見収めに。いや、最後はまずいね。他に何か言葉が――」
「しばし別れの――」
「うん。そうだ」
 女の笑いに和そうと思ったが、声には出なかった。指のあられはやんだ。指圧はこれで終ったのだ。
 五郎は上衣を引寄せ、紙幣とともに、鹿児島で買った時間表を取出した。
「九時半の準急があるな。これにしよう。切符売場で待っている」


 九時三十四分の準急。ぎりぎりまで待ったが、女は来なかった。五郎は風呂敷包みを提げ、決然と改札口を通った。座席はわりにすいていた。汽車は動き出した。
〈やはり来なかったな〉
 弁当二人分が入った包みを網棚に乗せながら、五郎は思った。失望や落胆はなかった。来ないだろうという予想は、今朝からあった。ぱっとしない中年男と山登りして、面白かろう筈はない。
〈しかも拐帯者かいたいしゃと来ているからな〉
 昨日の指圧の後味は悪くなかった。自分が自分でない男に間違えられた。つまり本当の自分は消滅した。彼は自分が透明人間になったような気分で、夜の盛り場を歩き廻り、パチンコをやったり、ビヤホールに入ったりした。街の風景は、昼間と違って、違和感はなかった。そして宿に戻る。部屋は上等の方にかわっていた。ぐっすり眠った。
 今朝眼が覚めた時、また声にならない声を聞いた。幻聴とまでは行かないが、それに近かった。
「化けおおせたことが、そんなに嬉しいのか?」
 彼は顔を洗い、むっとした顔で朝食をとった。食べながら、女中に弁当を二人分つくることを命じた。阿蘇に登るのもものい。計画を中止して、ここでじっと待とうか。そうしたいのだが、女指圧師が駅で待っているかも知れない。おそらく来ないだろうと思うが、約束した以上、駅まで行かねばならぬ。
 駅まで行った。とうとうすっぽかされたと判った時、よほど宿屋にこのまま戻ろうかと考えた。が、ついに決然と乗ってしまった。坐して迎えを待つのは、やはりいやだったのである。
 彼は窓ぎわに腰をおろし、外の景色を眺めていた。しばらく平野を走り、しだいに高地へ登って行く。右側に時々白川が見える。大体白川に沿って汽車は走っているらしい。発電所が見え、大きな滝が見え、火山研究所の建物が見える。天気は昨日につづいて好かった。風もない。阿蘇中岳の火口から、白い煙が垂直に上っている。
 昨夜の一時的の躁状態(と言えるかどうか)の反動で、五郎の気分は重くよどんでいた。彼は脱出した病院のことを考えていた。電信柱もチンドン屋も大正エビも、相も変らずベッドに寝そべっているだろう。いなくなった五郎のことなど、もう忘れたかも知れない。彼は今一番興味をもって思い出せるのは、診察室や廊下で顔を合わせるエコーラリイの患者である。その男はまだ三十にならぬ青年だ。病人は多少とも卑屈になり、おどおどした態度を示すものだが、その青年はその気配は微塵みじんも見せなかった。昂然こうぜんとして廊下をまっすぐ歩くのだ。
〈あれはうらやましいな。無責任で〉
 医師や看護婦から、病状の質問を受ける。たとえば、
「昨夜はよく眠れたかね」
 すると青年はすぐ言い返す。
「昨夜はよく眠れたかね」
 何を訊ねても、同じ言葉を返すだけだ。壁を相手にして、ピンポンをやる具合に、同じ球がすぐに戻って来るのである。動作も同じだ。そっくり相手の動作を真似る。
 答弁するということは、責任をもってしゃべることだ。その青年は答弁をしない。責任を相手に投げ返すだけだ。すべての責任から逃れている。エコーラリイというのは、病気の本体ではない。症状なのである。その症状がちょっとうらやましい気がするのだ。
 一時間余りで、阿蘇駅に着いた。
 駅前はごたごたしている。土産物屋や宿屋や、歓迎と書いた布のアーチまで立っている。阿蘇駅が坊中と言っていた時は、もっと素朴で、登山口らしいおもむきがあった。
〈なぜおれは阿蘇に登るのか?〉
〈登らなくてはならないのか?〉
 五郎はその理由を忘れている。確かにあった筈だが、どうしても思い出せない。睡眠療法を受けると、記憶力がだめになるのだ。それは療法を受ける前に、医師に告げられていた。
 バスは八割ぐらいの混み方であった。彼は後部の座席に腰をおろす。バスガールが説明を始める。うねった道がだんだん高くなり、景色が開けて来る。放牧の牛の姿が、ところどころに見える。
 草千里というところで、ちょっと停車した。
〈あれは映画セールスマンじゃないか〉
 そう気がついたのは、そこを発車してしばらく経ってからである。その丹尾におらしい男は、前から三番目の席に坐っていた。坊中からいっしょだったのか、草千里から乗って来たのか、よく判らない。うつむき加減の姿勢で、時々頭を立てて、景色をきょろきょろ見廻す。黒眼鏡をかけている。五郎は視線を網棚に移した。見覚えのある小型トランクが、そこに乗っていた。
〈なぜ丹尾が阿蘇へ――〉
 彼はいぶかった。しばらくして思い出した。鹿児島から枕崎へのハイヤーの中で、丹尾がそんなことを言っていた。すると丹尾は鹿児島での商取引は済ませたのか。五郎はじっと丹尾の様子を眺めていた。丹尾は洋酒のポケット瓶を取出し、一口ぐっと飲んで、またポケットにしまう。貧乏ゆすりをしている。何だか落着きがない。――

 バスの終点でぞろぞろ降りた。かなり広い待合所がある。そこからケーブルカーが出る。壁にかかった大きな時間表の前に立ち、丹尾は見上げていた。五郎は近づいて、うしろから肩をたたいた。丹尾はぎょっとして振返った。
「あ!」
 丹尾は黒眼鏡をはずし、とんきょうな声を立てた。丹尾の体から酒のにおいがぷんぷんただよっている。五郎は言った。
「また逢ったね」
「あんた、まだ生きてたんですか?」
 君はまだ生きていたのか、と彼は反問しようと思ったがやめた。
「生きているよ。おれに死ぬ理由はない」
「では枕崎でぼくをすっぽかして、どこに行ったんです?」
「坊津に行ったよ」
「おかしいな」
 丹尾は首をかしげた。丹尾の顔は疲労のためか、酔いのせいか、四日前にくらべると、すこし憔悴しょうすいし荒んでいた。
「坊津の宿屋に電話したんですよ。するといなかった」
「電話のあとに到着したんだ。面倒だから、君んとこに連絡しなかった」
 丹尾は返事をしないで、彼の顔をじっと見ていた。少し経って、かすれた声で言った。
「散髪しましたね。しかしあんたはなぜ東京から、枕崎くんだりまでやって来たんです」
「君には関係ないことだよ」
 以前にも同じ質問を受け、同じ答えをしたような気がする。
「君はケーブルカーに乗るんだろ」
「どうしようかと、今考えているところです」
 丹尾はトランクを下に置いた。
「来る時の飛行機のことを考えていたんですよ。何だか乗りたくない気がする」
「ケーブルが切れてちることかね?」
 五郎は言った。
「君には覚悟が出来てたんじゃなかったのか。いつでも死ねるという――」
「そ、そりゃ出来てますよ」
 丹尾は憤然と言った。自尊心を傷つけられたらしく、顔に赤みがさした。
「じゃケーブルに乗りましょう」
 ケーブルカーに乗り込む時、丹尾はたしかに力んでいた。必要以上に肩や手に力を入れ、トランクを抱いたまま、眼をつむっている。ケーブルカーの下の土地には、もう緑は見えず、一面茶褐色の岩や石だけである。
 終点についた。丹尾は全身から力を抜き、彼といっしょに降りた。火口はすぐである。火口壁の近くに立った時、さすがに五郎も足がすくんだ。
 火口壁はほとんど垂直に、あるいは急斜面になっていた。色は茶褐、緑青、黄土などが、微妙に混り合い、深く火口に達している。眼がくるめくほどの高さだ。風がないので、白い煙やガスがまっすぐに立ち昇っている。たぎり立つ熱泥ねつでいが見える。眺めていると、体ごと引込まれそうだ。丹尾はひとりごとのように言った。
「自殺者にはあつらえ向きの場所だ」
 五郎は黙っていた。
〈なぜこの男は、おれと自殺とを結びつけようとするのだろう〉
 羽田を発つ時から、丹尾はそう決めてかかっていた。度々訂正をしたのに、その考えを捨てていない。それが彼にはせなかった。
「馬はどうです?」
 馬子が馬をひいて近づいて来た。
「火口を一周しますよ」
 五郎は手を振って断った。四、五歩後退しながら、丹尾に言った。
「弁当を食べないか?」
「弁当?」
 いぶかしげに丹尾は反問した。
「弁当、持ってんですか?」
「持ってるよ。二人前」
 彼は風呂敷をといた。中から折詰がふたつ出て来た。丹尾はあきらかに驚愕した。
「ぼくの分もつくって来たんですか?」
 彼は返事に迷った。女指圧師のことをしゃべるのは、面倒であり、重苦しくもあった。
「そうだよ」
 少し経って彼はうなずいた。
「ひとつは君の分だ」
「ど、どうしてぼくが――」
 丹尾はどもった。どもって、絶句した。

 火口が見える小高い場所で、丹尾はトランクに腰かけ、彼は平たい岩に腰をおろした。弁当を開き、丹尾はポケット瓶を出してあおった。そして瓶を彼に突出した。
「どうです。いっぱい」
「いや。おれも持っている」
 彼はポケットから自分のを取出した。ふたに注いで二杯飲んだ。丹尾はその動作をじっと見ていた。自分の瓶の残りを飲み干した。そして視線を下に向けた。
「これ、駅弁じゃないね」
 丹尾の言葉は、とたんにぞんざいになった。
「駅弁にしては、豪華過ぎる」
「君はずいぶん酔っぱらってるね」
「酔っちゃいけないかね」
「そりゃいいけどさ。この弁当は宿屋につくらせたんだ」
「どこの?」
「熊本」
 五郎が食べ始めるのを見て、丹尾は安心したように箸をとる。ちらちらと景色を見ながら食べる。
「どうもいけないね」
 丹尾は箸を置きながら言った。
「どうもあの穴を食べそうな気になる」
 彼もさっきから同じような気がしていた。穴というのは、火口のことだ。あんまり雄大なので、ふと距離感がなくなり、弁当のおかずと同じ大きさに見えるのである。丹尾は景色に背を向け、口を開いた。
「ねえ。賭けをやりませんか?」
「賭け?」
「ええ。金の賭けですよ」
 顔が赤黒く染まり、手がすこし慄えている。
「ぼくは火口を一周して来ます」
「どうぞ」
「それでだ」
 弁当の残りをトランクにしまいながら、丹尾は言った。
「一周の途中に、ぼくが火口に飛び込むかどうか――」
「それを賭けるというのか」
「そうです」
 五郎はめんくらって、ちょっと考えた。突然体の底から、笑いがこみ上げて来た。
「君は自分の生命を賭けようとするのか?」
「笑ってるね」
 丹尾はふしぎそうに彼の顔を見た。
「あんたと知合ってから、声を立てて笑うのは、これが初めてだよ」
 五郎は笑いやめた。しかし笑いは次々湧いて、彼の下腹を痙攣けいれんさせた。
「しかし――」
 彼は下腹を押えながら言った。
「賭けが成立するかなあ。君が死ぬ方におれが賭けるとする。すると君は飛び込まないで、戻って来るだろう」
「じゃ生きる方に賭けちゃどうです?」
「それでいいのか。君が飛び込むとする。君は賭け金を取れないことになるな」
「ええ。だからぼくが両賭け金を預って、出かける。ぼくが飛び込めば、賭け金も飛び込んで、パアとなる」
「なるほど」
 なぜ丹尾がそんな賭けを提案したのか、彼にはよく判らなかった。わけを聞きたい気持も、別段なかった。ただなにものかが彼から離れ、丹尾に飛び移ったらしい。しかしそのことが笑いの原因ではない。笑いは笑いとして、独立に発生した。丹尾は言葉をいだ。
「もしぼくが戻って来れば、賭け金の全部をあんたに差上げる」
 彼は頬杖をつき、すこし考えて言った。
「賭けの金額は、いくらだね?」
「五万円でどうです?」
「五万? そんなに持ってない」
「いくら持ってんですか?」
「二万円」
 三田村から送って来た金である。今朝現金にしたばかりだ。
「二万円?」
 丹尾はがっかりした表情を見せた。その瞬間、丹尾の中にある死への意志を、彼はありありと嗅ぎ取った。
〈こいつは賭け金を、飛び込むスプリングボードにするつもりだな〉
 おめおめと一周して戻れば、丹尾の五万円は彼のものになる。セールスマンという職業で、五万円のただ取られは痛い筈であった。
「いいでしょう、二万円」
 丹尾はあきらめるように言った。
「じゃ二万円、出しなさい」
「出すけれどね、おれはそれほど君を信用していないんだ」
「どういうことですか?」
「君に預けると、君は飛び込まないで――」
 彼は根子岳の方を指した。
「あの山の方に逃げて行くかも知れない。するとおれは金を詐取さしゅされることになる」
「そんなに信用がないのかなあ」
「では君は、おれを信用しているのか?」
 丹尾は五郎の顔を見て、黙り込んだ。五郎はしばらく風景を見ていた。彼等二人のすぐ傍を、見物人が通り、また写真を撮ったりしている。見物人たちは、ここで二人の男が何を相談しているのか、全然知らないのだ。笑いがまたこみ上げて来るのを、彼は感じた。
「よろしい。いい方法がある」
 丹尾はトランクを開いて、はさみを取出した。そして内ポケットから、一万円紙幣を二枚つまみ出した。五郎の出した二枚の紙幣と重ねる。縦にまっ二つに切った。切り離した半分を、彼に戻した。彼は黙ってその動作を見て、受取った。
「これでいいでしょう。これであんたの二万円も、ぼくの二万円も、使いものにならなくなった」
 残りの半分を丹尾は内ポケットにしまい、上衣をぱんぱんと叩いた。
「いっしょにつなぎ合わせれば、四万円として使える。そうでしょ。飛び込めばパアとなる。逃げ出しても、ぼくはこれを使えない」
「半分あれば、日本銀行に持って行くと、一枚として認められるんじゃなかったかな」
「冗談でしょう。半分が一枚に通用するなら、世のサラリーマンは自分の月給をじょきじょき切って二倍にして使うよ」
「それもそうだね。君が逃げ出すと、両方損だ」
 丹尾はゆっくり立ち上った。トランクを持ち上げる。
「トランクも持って行くのかい?」
「ええ。何も持たないと、自殺者と間違えられる」
「だって自殺するんだろう」
「自殺するとは言いませんよ」
 丹尾はきっとした眼で、五郎を見た。
「火口を一巡ひとめぐりして、自分がどんな気持になるか、知りたいだけですよ。二万円でそれが判れば、安いもんだ」
「そうか。そうか」
 五郎は合点合点をした。
「ではここで待っているよ」
 丹尾は彼に背を向け、歩き出した。火口の左に進路を取る。五郎は弁当の残りを食べながら、その後姿を見ていた。
〈あいつ、弁当の残りを詰めて行ったが、トランクもろとも飛び込むつもりかな〉
 後姿がだんだん小さくなって行く。動悸がし始めたので、彼はあわてて弁当を捨て、小瓶の酒を飲む。掌に汗がにじんで来た。
 五郎の視野しやの中で、もう丹尾の姿は豆粒ほどになっている。突然それが立ちどまる。火口をのぞいているらしい。また歩き出す。
 五郎は小高い場所からかけ降りた。あいつが死ねるものかという気分と、死ぬかも知れないという危懼きくが交錯して、五郎をいらいらさせている。火口のふちに、有料の望遠鏡がある。五郎はそれに取りついて、十円玉を入れる。もう丹尾は半分近くを廻っている。
 無気味なほど鮮やかな火口壁が、いきなり眼に飛び込んで来た。五郎は用心深く仰角ぎょうかくを上げる。二度三度左右に動かし、やっと丹尾の姿をとらえる。丹尾は歩いている。立ち止って、火口をのぞく。その真下に噴火口がある。五郎は望遠鏡を下方に移す。壁は垂直に火口から立っている。火口には熱泥がぶくぶくと泡立っている。
〈あそこに飛び込めば、イチコロだな〉
 眺めているのが苦痛になって来たので、彼は荒々しく望遠鏡を上げる。高岳や根子岳、外輪山、その果てに遠くの山脈が重なり合っている。その上にすさまじい青さで、空がひろがっている。時間が来て、まっくらになる。五郎はまた十円玉を入れた。ふたたび視野に、丹尾の姿が戻って来た。
 丹尾はトランクを下に置き、それに腰かけていた。ハンカチで汗を拭いている。拭き終ると、立ち上る。トランクを提げて歩き出す。くたびれたのか、足の動きが緩慢かんまんだ。ちょっとよろよろとした。石につまずいたのだろう。丹尾を見ているのか、自分を見ているのか、自分でも判らないような状態になって、五郎は胸の中で叫んでいる。
「しっかり歩け。元気出して歩け!」
 もちろん丹尾の耳には届かない。また立ちどまる。汗を拭いて、深呼吸をする。そして火口をのぞき込む。……また歩き出す。……立ちどまる。火口をのぞく。のぞく時間が、だんだん長くなって行くようだ。そしてふらふらと歩き出す。――





底本:「桜島・日の果て・幻化」講談社文芸文庫、講談社
   1989(平成元)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「梅崎春生全集 第六巻」新潮社
   1967(昭和42)年5月10日
初出:「新潮」新潮社
   1965(昭和40)年6月
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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