風宴

梅崎春生





 夢を見ていた。
 ともすれば目を覚まそうとする意識をねじ伏せねじ伏せして眠っているうちに、顔も服装もはっきり判らぬ、ごちゃごちゃした人のむれに交って、ぞろぞろと小学校の門の中に入って行った。
 小学校の校庭に死骸が埋めてあって、それを掘り出さねばいけないというので、私はくわを振って地面にうち下した。私をぐるりと取り巻いて眺めている人々の気配が、だんだん輪をせばめて、終には私の肩の辺ではっはっと呼吸をするのが聞え出した。生ぬるい人間の呼吸が気味悪い。私は段々不安な気持になって来るのを胡麻化ごまかす為に、力一杯鍬を打ちおろしていたら、急に手ごたえがぶよぶよすると思った時、私の鍬の先に、白いふやけたような人間の脚首がくっついて来た。思わずわっと声を立てて鍬をほうり出した――その声にびっくりして私は寝床の上に起き直った。
 肩や指先に砂がつまって居るような不快な疲労を感じながら、私は眼を閉じたり開いたりした。眼の先をちらちら動くものがある。窓から薄ら日が硝子ガラスを通して射し、光線が物く汚れている。
 昼御飯に私は近くの食堂に行き、油濃い魚の煮付をおかずにして飯をむさぼり食べた。それから部屋に戻って来て、何もすることが無かったから、寝床をしいて無理矢理に眠った。わけのわからない夢が切れたりつながったりしていたとき、風が出て来たと見えて、私は頭のどこかで濁った風の音を遠くに聞いていた。硝子戸越しに喬木きょうぼくこずえが坐っている私の眼に見える。医学書にある神経図に似た梢がにわかにゆらゆらと動いた。それと一緒に硝子にあたる風の音を私は聞いた。私は手を伸ばして窓をあけた。
 窓の外には墓場がある。葉が落ち尽した、小魚のように小骨が多い樹。石で造った墓や四角の木や薄い板の墓標。寺の本堂の屋根瓦が弱い入日を受けてくろく照り返している。そこのあたりをむなしい音立てて風が吹いた。
 私は学校の制服に着換えながら、墓地を見おろしていた。墓標の長い影や、花立てに枯れかかった白い菊や、毎日眺めている景色ではあったけれど――貧しい、何か貧しいと、遠い日の悔恨のようにその風物は私ににがさをうるものがあったのだ。
 胃のあたりが妙に重かった。私は廊下に出てかぎをかけ、忍び足で廊下を歩いた。
 低く連なった家並の上にあかあかと落日がかかる駒込蓬莱町ほうらいちょうの坂道を、私はうなだれてあても無く登って行った。

 本郷の大学前の電車通りを、轟々ごうごうと音立てて電車が通った。葉の散りかかった銀杏いちょう並木の上に、天が凄まじい高さで拡がっている。大学の塀の下は、銀杏の実がぶよぶよと落ちてつぶれて、人達はすべって転ばないように鶏に似た歩き方をする。私もその中に混ってわざと鶏の歩き方の真似をして歩いた。そして鶏の脚――と考えて外套がいとうのポケットの中で指をむずむずさせた。あのぶつぶつのある、刀のさやに使う鮫皮さめかわのような、黄色に赤を混ぜたような。
 満員の電車が無茶苦茶な音を立てて引っきりなしにはしる。自動車や自転車が走る。疲れ切った顔をした男や女が私を追い越したりすれちがったりする。何か考え事して歩いていると、ふとしたとたんに何を考えていたのか忘れてしまって、ええ何だっけなあ、ええ、と私は思わず首筋くびすじをたたいた。何だか大へん面白い愉快なことを考えていたような気がして、忘れたのが不快に思われた。あきらめて又外の事を考えておると、頭の調子が空想に乗って快よく流れ出したと思われた時、又考えの尻尾しっぽを見失って私は段々いらいらして来始めた。私は不機嫌な表情をつくって正門前の電車道を横切った。
 此の頃疲れている、と私は思った。不しだらな生活をしてるから、学校に出ないで寝てばかりいるから。その様な原因を考えるのは恐かった。そこを考えないように逃げながら、外の事を考えようと探し廻る。外套の内で、指を曲げたり伸ばしたり強直きょうちょくさせたりしながら足早に歩いた。何処に行くというあてもないのに、さて何処に行こう、と私は立ち止って四辺あたりを見わたした。落日が家の瓦に半分かり、電柱の肌が黄色にそまっている。ぞわぞわがたがたと響きわたる騒音の中に、微かなおとがする。水が小石にあたるような、遠いところで雨が降るような、不思議に耳慣れたおとがする。舗道ほどうの人の足をくぐりぬけて、銀杏の葉が風に吹かれて走るのである。何故ともなく私は数え切れぬ疲労をどっと感じ、肩を海月くらげのように落しながら、そこにある露地の中に入って行った。


 しばらくの後、私は台町あたりの下宿屋街の露地の奥にある、泥竜館という古ぼけた下宿の玄関に立って、大声を出して案内を乞うていた。玄関わきの帳場は雑然と取り散らされ人の影は無い。玄関には鏡があって私の全身を映しているが、外の明るさを背にして私の姿は暗くゆがんでいる。電灯をつけないので、奥深い廊下のあたりが薄暗く何と無く気味悪かった。その暗がりの中から突然小さな女中がちょこちょこと足音を立てずに出て来たので、私はどきっとした。女中の顔がいつもと違っている。故意に表情を殺したような物々しい顔付をして玄関にうずくまって私を見上げた。
天願てんがんさんは居るか」
「天願さんで御座居ますか」
 と私の様子をうかがうように眼をすばしこく動かして、突然息を引くようにして言った。
「はあ、いらっしゃいます」
 私はむっとしながら靴を脱いだ。此の下宿には天願氏を屡々しばしば訪ねて来るので、此の女中は私をよく知って居るはずなのである。それが何かたくらみがあるかのように妙によそよそしいのが気に食わなくて、廊下をどんどん歩き出したら、後ろの方で女中が猫のような声を出した。
「廊下を静かに歩いて下さいませ」
 ぎょっとして私が振り返ったら、その小さな女中がきらきら光る眼で私をちらと眺めてそこらの薄暗がりに消えてしまった。
 廊下を曲りながら、どうも背筋のあたりがうす寒かった。油を塗って鈍く光る廊下を天願氏の部屋の前まで行ったら、電灯がぱっといた。それと同時に私は、ふすまをあけた。
 机にりかかっていたらしい天願氏が、明かにびっくりしたらしく、がさごそと身ずまいを整えたのが、只事ただごとでないという印象をあたえた。突然入って行って悪かったなと、私は思った。今晩は、と私はあいさつした。
「何だ。君か。びっくりするじゃないか」
 天願氏の胸はまだ動悸どうきを打っているらしい。
「入るときは戸をたたけよ」
「今日は変ですねえ。何事かあるのですか」
 取り乱した机の上からしわくちゃになった朝日の袋を探し出して、天願氏が火を点けた。その指がぴくぴくふるえた。
「いや。なに、考えごとしてたものだから」
 声を急にひそめて、
「娘が死にかかってるんだ。ここの」
 天願氏がいる部屋は四畳の細長い部屋で、此の奥に八畳の部屋がある。そこが此のうちの一番奥に当る部屋だが、そこを天願氏がゆびさして陰欝いんうつな顔をした。私は思わずその方向をふり返った。その部屋と境する壁のところから、ざわざわと殺気だったどよめきが流れて来るような気がしたのだ。
「今までうなり声がしてたんだが」と天願氏が煙をふいた。もう落着きを取りもどしたらしかった。
 日の当らぬ湿地に咲いた花のような娘であった。ときどき廊下で私はすれちがったことがある。妙に派手な長いそでをつけていたりするので、白い顔が蒼白あおじろく見えたりする。すれちがうとき、笑を含んだような含まぬような曖昧あいまいな目付で人の顔を見る。何処か人をひく不健康な美しさがあった。病気だということは前に天願氏に聞いていたけれど、天願氏の言葉を聞いたとたん、死にひんした娘の寝顔が私の眼底に浮んで来た。
「夕御飯まだなんですね」
「夕御飯を持って来るかな?」と天願氏がむき直った。
「夕御飯は持って来ねばならん。が、娘が死にかかっているというのに、下宿人の夕御飯を作らねばならぬというのは哀しいな。持って来ないだろうな」
「皆、そこの部屋に集ってるんですか?」
「君が入って来る前に、おかみさんが娘の名をしきりに泣きながら呼んでいたから、意識が無くなったんだな。意識が無くなってもうなり声を出す事があるのかなあ」
「そりゃありますよ」私は、昨年死んだ父の臨終りんじゅうの事を思い出した。
「寝言みたいなものかな」
 と天願氏が低い声で言った。そして何かを押えるような、努力するような表情をした。
 しばらくして私が聞いた。
「唸り声が聞えて来るときは矢張りいやでしたか?」
 隣の部屋で一人の人間が生命を絶とうとしている。そのざわめきを感じながら細長い部屋の片すみに息をこらしてじっとしていた天願氏の心の姿勢に思い到ったとき、私は異様な寂寥せきりょうを感じたのだ。天願氏はうつむいていた顔を上げた。
「僕とは何の関係も無いのだよ」冷たい眼付になった。
「あの女が死のうが死ぬまいが、僕の知った事じゃない」
 その時、襖をたたく音がして、旅川が入って来た。どてらを着込んで落着きなくきょろきょろして坐った。
「もう死んだんですか」
「まだらしい」
 と天願氏が陰欝な調子で言った。
 天願氏は旅川を嫌っている。私はそれを知っていた。旅川が俗人だから嫌う以上に、何か深い、天願氏の性格の秘密があるらしかった。私は黙っていた。
「呼吸が四十二あったからねえ」
 旅川は私と同じ高等学校だけれど、今は帝大の医学部に居るから、そんなことを言うのである。
先刻さっきの唸り声、もう止んだようだけれど、だんだん早くなって来るから、あわてて時計で数えたのさ。一分間に四十二ですよ。天願さん」
「あんまり早いのは悪いのかね」
「勿論悪いですよ。体が衰弱すいじゃくしている証拠だから」
 日が落ちたと見えて、窓の外が蒼然そうぜんと暗くなった。夕闇がもたれかかった障子にが一匹音を立てた。気がうっして、背筋が固くなったような気がする。旅川が話し出した。
「僕の部屋は、あの部屋の真上なんで、とても居たたまれなかった。足の下で死にかかっていると思うと、何だか悪いような――」
「そんな馬鹿なことがあるか」と天願氏がたけりたった鶏のような声を出した。「君は医者になるんだろう。そんな感傷的なことを言っては駄目だ」
「だって、じゃああんた行ってごらんなさい。不思議にいやな気持がするから」
「ぼくは先刻からここにいる。そして隣の部屋のうなり声を聞いた」と天願氏が昂然こうぜんと言った。「それで平気さ」
 私は黙って会話を聞いていた。種々の感慨が起って来た様な、それでいて言葉にしようとしたら皆逃げ出してしまいそうな空虚な気持であった。いらいらして、皆につきかかって行きたいような焦燥しょうそうが起った。
「そんなもんですか」と旅川が言った。
 風の音が少しはげしくなったようであった。ときどき、障子の破れに当って笛のような音を立てた。
「風が出て来たな」と私は誰に言うともなく呟いた。泥竜館は家で囲まれているのだ。風は露地から露地へ抜けて行く。露地の曲角では、風が生き物のような悲しい音をたてた。前の家で物干ざおが軒下のきしたから落ちる音がした。
 沈黙が来るのが恐かった。何か話さねばならぬと思いながら、また疲労に似た憂欝を感じていた。せわしげに机の端を指でたたきながら天願氏が私の方を見た。
「幽霊や心霊などはありはせん。死んだら、漠々として何も無いのだよ。人が死ぬというのに皆集って泣いたりわめいたり、心配したり憂欝になるなんて馬鹿な話だよ」
「そんな訳には行かないでしょう。矢張り悲しいのは本当なんだから」
「宗教は科学が発達すれば無くなるさ。ぼくはそれを信ずる、迷信は亡びる」
 旅川がそれをさえぎって言った。
「生命というものは不思議なものだから――」
 その時、壁の向うではらわた千切ちぎれるような悲痛な泣声が起った。別の声がそれに押っかぶせて娘の名を呼んだ。きみちゃん! きみちゃん! きみちゃん! 段々呼ぶ声が乱れ始めたと思うと、血をはくような号泣ごうきゅうがそれに取って代った。幾人もの嗚咽おえつが断絶しながら起った。襖を開く音がして、あわただしいスリッパの音がしどろもどろに乱れながら遠のいて行った。私は背中に氷をあてられたような気持で天願氏の顔を見た。
「生命は蛋白質だから、生命は蛋白質の配列によって定まるものだから――」
 天願氏が、かすれた声で言い淀んだ。
 臨終。此の号泣を、此処の下宿人は今皆聞いている。手も足も出ない下宿人達の心の姿勢は、此の上も無く奇怪なものに思われた。私は此の部屋にじっとすわっていることに、一種の不快な亢奮こうふんを感じて、呼吸をぐっととめた。娘の名を連呼れんこする泣声が再び烈しく起った。嗚咽おえつの声がにわかに高まって来た。それにつれて、私の体にある袋のようなものがふくれたり小さくなったりするのが堪えがたく切なく感じられた。呼吸が出来なかった。きみちゃん! きみちゃん! きみ……その呼声は乱れながら、押しつぶされたすすり泣きになって行った。堪えかねてつっぷした気配が壁を越えてはっきりとわかった。そして荒涼たる夜気をはらんで、風が号泣の間をった。
「死んだんだな」
 と旅川が低い声で言って、目を落した。旅川や、天願氏ですら、居てもたってもいられない気持でいるのがじかに私の胸に響いて来た。
「厭だな」
「何だか厭だな」と私は思わず相槌あいづちを打った。そういう言葉でしかこの気持があらわせなかった。指先がしびれるような感じに堪えながら、お互が生きているということに漠然たる厭悪感えんおかんを感じていた。
 天願氏は極端に憂欝そうな表情をして壁にりかかり、怒ったような声を出した。
「この部屋を出よう。どこかお茶飲みに行こう」
 私達は立ち上った。足音を忍ばせるようにして廊下に出た。私はちらと奥の間に目を走らせたら、あけはなされたふすまの影に泣き伏した女の後姿が見えた。華美な衣服の模様が目にみた。私は何故とも無く目を閉じた。そして、そろそろと廊下を歩き出した。汚ない玄関を三人が出ようとしたら、そこらの物陰から、小さな女中がまたちょろちょろと現われて板の間に膝をついた。
「天願様。おでかけでございますか。御飯の支度が出来ておりますけれど」
 何処を見ているのか判らないようなはるかな目付をして、切口上きりこうじょうじみた口調で言った。何か無理をしているなとすぐ感じさせる態度であった。主人の娘が死んで悲しいわけではないけれど、気が動転してどうしていいのかわからないのだろうと私は思った。
「夕飯は食べない」と天願氏がしかり付けるように言った。「今日はよそで食べることにする」
 ぞろぞろと露地の暗がりを踏んで明るい本郷通りの方に私達は出て行った。


 本郷通りにある田村というがらんとした喫茶店の奥の方のテーブルに三人がすわって珈琲コーヒーすすった。
 天願氏は琉球りゅうきゅうの生れで、矢張り帝大を出た癖に毎日ぶらぶら遊んでいる。三十を越したやせた顔をしているが、生活費はどこから入るのか判らない。昔、琉球にある王様がいたが、ある日他の島に遊びに行って、その島の娘と恋に陥っている間に、本島の方では革命が起って王位を取られてしまった。此の王様が僕の祖先に当るのだと、ある夜天願氏が酔っぱらって私に話したことがある。本当かうそかは知らないが、そんな名門の出だから生活費も家から送って来るのであろうと私は想像した。天願氏とは数年前に知りあった。何となく知り合った。私達にふさわしい知り合い方をした。
 殺気だった部屋から逃れて、不意にこんな明るい灯の下に来たので、何となく落着かない。娘の死んだことが、何だか夢のように現実感が無かった。ちぐはぐな気持になって三人で冗談ばかり言い合った。
「年頃の娘が死ぬのは惜しい気がするね。何となく損をした様な気になるね」
 天願氏が眼玉をぎょろぎょろさせながら私の顔を計るように見て言った。
「君は又肥えたね」
「そうですか」と私は頬のあたりをで廻した。
「はれてるんじゃないか? 近頃君は段々円生えんしょうに似て来たよ。円生が無精鬚ぶしょうひげを生やしたようだよ」
 私は高座の三遊亭円生の顔をふと思い浮べた。あんなぶざまな肥え方に私をなぞらえる天願氏の下心したごころが、私の心に伝わってとげを刺した。私は黙って冷たくなった珈琲をすすった。
 小さなエプロンをつけた給仕女達が卓から卓へいそがしく動き出した。客がそろそろたてこんで来たのだ。どういう嬉しいことがあるのか笑いこけながら麦酒ビールを飲んでいる帝大生が居る。皆幸福そうに見えた。紅茶を飲んだり、暖かそうな料理を食べたり。
「学校には出ている?」と旅川が私に聞いた。
「いや」と私は苦しく答えた。「どうも――いろいろ――用事があったりするものだから」
「皆心配しているよ。出た方が良いよ」
「そりゃ判ってるけれど――どうもなまけ癖がついてしまって」
「小説か何か書いているのかい」
 私は暗然あんぜんと顔を上げた。芸術家気質でそういうだらしない生活をしているのだろうと、旅川が言外に含めたのではないかと邪推じゃすいしたのである。
「小説など書かないよ。あんなもの。ぼくの性に合わないし」
「小説書いたとて始まらんさ」と天願氏がにやにやしながら口を出した。「此の人が学校に出ないのは、自然にそうなったからさ。そんな風の性格に骨のずいから出来ているんだ。どうせここまで落ち込んで来るような種類の人間なんだ」
「どうして僕の性格が判ります?」と私は思わず反問した。「そりゃ僕はなまけて学校に出ないのは事実だけれど、これにはまた色々な事情があることで、天願さんには判らないこともあると思うんだ。性格と言うけれど――そりゃ明日からでも出ようと思ったら、さっそうと登校出来る。それだけの心構えは何時だってあるのですよ」
「自由意志で学校に出ないと言うのだろう」と天願氏が言った。「それは僕は信じないな。実際には登校していないじゃないか」とにやにや笑った。
 私は瞼の裏に物うい一日の行程を描いて見て居た。此の上無い退屈の瞬間がずらずらと連続してそれが昼寝をしたり魚をおかずに飯食ったりそうした現実を組立てて居るようであった。学校に通う制服姿の私の影像から、極度に遠く離れた何とも言いようの無い退屈の世界であった。
「話を変えようよ。臨終りんじゅうにぶっつかったり、学校の話を聞かされたりしては、いい加減くさるよ」
 私達は、郊外に行きたいという話や、何処其処どこそこの喫茶店が珈琲を値上したのは怪しからんとか、又、女の生理についていろいろ話をした。天願氏は、何処で覚えて来るのか知らないが、雑学の大家で、つまらないことを沢山知って居る。
 会話の何処どこかに穴があいて、すうすうと風が吹き抜けるような気がする。その穴を埋めようと私達はいろんな冗談を持ち出して努力したが、どうしても食い違ってしまう。怪しからんことには、とうとう私達は今死んだ娘の事について猥雑わいざつな会話を交していた。私は疲れた。しかし、此のまま別れて家に帰るには、妙に離れ難い気持になっていた。
 七時頃になってそこを出た。本郷の通りには夜店が出ていて、男や女が明るい顔してぞろぞろと通った。
 天願氏がブリキのように薄い肩で人波を切りながら蹌踉そうろうと歩く後から、私達がつづいた。古本屋のおやじの肩に、黄色の銀杏いちょうの葉が乗っている。
 風は少し衰えたようだけれど、なお行人の袖を吹いたり店の看板を鳴らした。その度に、銀杏並木は葉を何枚かずつ振り落し、それは夜店の品物の上にはらはらと流れた。
 台町に入りこむ露地のところで私は立ち止った。
「僕は帰ります」
「そりゃ駄目だよ」と天願氏があわてて私の腕をつかんだ。「僕の所に今晩は居てくれよ。どのみちざわざわして何も出来やしないだろうから」
「しかし――忌中きちゅうのところにあまり関係ない人が出入りすると悪いから――」
「そんな事はないさ」と、私の腕を引っぱって露地につれこんだ。「あれは下宿屋なんだよ。下宿人の所に出入りするのがどうして悪いんだ」
 私は観念して歩き出した。考えて見れば無理に別れて帰ったとて、私の宿には何一つとして面白いものはないのだ。
 泥竜館の玄関には誰もいなかった。私達が穿き物を下駄箱に入れていたら、その音を聞きつけたと見えて帳場のあたりから下宿のおかみさんが出て来た。目が赤くはれている。
「お帰りなさいませ。いろいろお騒がせしまして」
 何と言ってあいさつを交していいのか判らないらしく、天願氏は目玉をぎょろぎょろさせた。
「此の度は――とうとう――」
「とうとう駄目でございました」
 おかみさんは急に袖を目にあてた。肩が動くのが痛ましかった。私達三人は黙然として板の間に立っていた。来なければよかったと私は悔いた。二人は下宿の住人だから仕方がないけれど、私は何の関係もない異邦人だ。
「どうぞ。死顔でも見てやって下さい」
 おかみさんのわびしい後姿にくっついて廊下を三人が歩いて、奥の間の八畳に行った。
 部屋の真中に床がしいてあって、顔の部分には白い布をかぶせてあった。そのまわりに三四人の人がすわって居て、皆うなだれている。手巾ハンカチ目頭めがしらにあてている洋装の若い女がいた。女学校のときの友達なのだろう。蓬々ぼうぼうと生えた眉毛まゆげの下に泣きはらした目があった。
 私達は枕頭ちんとうに並んですわった。どうしていいのか判らない。恐しく悲しいような、むなしいような気がする。手や視線のやり場がなくて窮屈な感じに堪え難くなった時、死床のすそ迂回うかいして向う側にすわったおかみさんの手が、顔をおおった白い布をはぎとった。私はぎょっとして背筋に水を浴びせかけられたような気がした。
 死骸がうすら笑いを浮べていたのである。絶対に見てはならぬものを見たような恐怖感が私の全身をゆすった。ああ、死骸がわらっている。昔見た映画のスメルジャコフみたいな残忍な笑いが死貌しにがおの鼻のあたりにただよっているのである。私は思わず身ぶるいして目をつむった。寝床の裾のところで、歔泣すすりなきの声が起った。それと一緒に瞼を焼くような熱い涙が一粒、私の眼から流れ出た。
 暫くして眼を開いたら、もう白布が顔にかぶせてあった。布の上から鼻の高みがうかがわれた。髪は解いてあって畳の上にさらさらと流れている。その髪に光がなかった。それは氷よりも冷たい感じがした。
 あいさつして立ち上って廊下に出たら、おかみさんがあわてて立ち上って追っかけて来た。
「何もございませんけれど、あちらに」
 と掌を動かした。「お酒など用意してありますから」
 お通夜だ、しまったと私は心の中で膝を叩いた。先刻玄関を入るとき、私は、不思議なざわめきが、泥竜館のどこかで起っているのを感じていたのである。天願氏は平然としておかみさんの後について歩いて行った。始めから予期していたことに違いない。
 重い足を引きずりながら、廊下を歩き出すと、旅川が私に言った。
「皆酒飲むのだろう。僕は出ないよ」
「出ないったって――」と私が何か言おうとしたら、廊下の曲角で天願氏が、何を話しているんだというそぶりでふりかえった。私は冷たい廊下を踏んでそちらに行った。
 旅川はその廊下の反対側に姿を消した。私がよく知らぬ下宿屋の、三四度しか会ったことのない娘が死んだだけなのに、私はどうして沈欝なる通夜の座で苦い酒を飲まねばならないのか。はっきりと、今から酒を飲むぞということが現実感がなかった。迷路に追い込まれた羊のように、私は自分の意志をうしなって天願氏の後にくっついてとある部屋に入って行った。


 十畳位の広さの部屋に、十四五人の男達が車座くるまざをつくり、おのおの客膳きゃくぜんを前にして酒を飲んでいたのである。もう相当に酒が入っていると見えて赤い顔をした男もいたが、私達が入って来た為かどうかは知らないけれど、一座が変に白けていて、部屋に入って行くのが、逆らうような厭な気持がした。私達が部屋のすみに並んでぼんやり浮かぬ顔をしていると、車座の中央に坐っていた中年の女が、小さな女中が運んで来た膳を一つ一つ私達の前に並べた。とうとうこれで帰れなくなったと私は観念した。
 天願氏が急にすわり直すと、此の度はどうもと殊勝気しゅしょうげに頭を下げたので、私もあわててすわり直したら、その婦人は、物凄く巨大な徳利とっくりをかかえて私達の方ににじり寄って来て、さあひとつ、たんと飲んで下さいませと言った。
 私はさかずきに酒を注いで貰いながら、私はその婦人を眺めた。
 眉が濃くて男のように秀でていて、その下に白眼勝ちの油を含んだような眼があった。黒い洋服を着ていたが、その洋服は今まで見たこともないような奇異なち方をしてあった。胸のところを広く開いてあるので、青く静脈の浮いた胸が見える。それだけならいいけれど、どういうつもりか知らないが、その上に釣鐘マントを羽織はおっている。ああ、モナリザだと私は思い出した。洋服のち方が、モナリザのきている洋服と同じである。此の不思議な女人が私達の前にいて、かけつけ三杯だからなどと不思議な言葉を使って酒をすすめた。言葉に微かに北陸なまりがあった。
 黙って注がれるままに飲んでいると、やがて体中がじんじんと快よく熱くなり出した。お昼に御飯を食べたきりだから、酒のまわりが早かった。そのうちに白けたように見えた座も段々にぎやかになって来て、お酒をすする音やはしが皿にあたる音がしだした。私は不味まずい焼竹輪ちくわをむしゃむしゃ食べながら、酒をぐいぐいほした。一座は皆下宿人らしかった。皆落着かない顔をして飲んでいる。だんだん話し声がしだした。
 私の右手にすわっていた帝大生が、突然手をにょきにょき伸ばして、私の左にいる天願氏の方に盃を差出した。
「天願さん。飲みましょう。どうせ今夜は勉強が出来ないんだから」
 やけで、飲むぞと言う声がした。誰が言ったのか判らない。言った人のむしゃくしゃした気持は私にもよく判った。天願氏が盃を受け取ったら、学生は徳利をとって注いだ。天願氏は年かさだし、ぶらぶら遊んでいるけれど何処か尊敬されていると見える。
 しかし、盃に酒を注ぐ操作が私の眼の前で行われている。私は、無視されたような気がして面白くなかった。その男はもう相当飲んだと見えて真赤な顔をしている。娘が死んだって死ななくったって殊勝に勉強する柄じゃないように見えた。襟章えりしょうを見ると文科だけれど、私は学校に出ないから、どこの科の男かわからない。
 私は天願氏の脚をこづいて、部屋の中央にすわっている中年の婦人をあごで指して聞いた。
「あれは誰ですか?」
「あれ」と天願氏はもう赤くなっている。上体をふらふらとさせた。矢張り自棄やけに似た気持でどんどん飲んだのだろう。
「親類の人だろう」
「不思議な人ですね」と私が言ったら、うんと言ってまた盃をあけた。
 おばさんは、体をあっちに向けたりこっちにむけたり、大きな徳利をふり廻すようにして皆に注いで廻っている。酒をこぼしたりすると、あらあらと言って、その声が若やいでいるのが何だか奇妙に気になった。今までその影になって見えなかったが、唐紙からかみのところに、びっくりする程大きな徳利がもう七八本も並んでいた。一体あんな不思議な徳利をどこで買いそろえたのだろう。麦酒ビールびん位の大きさがある。おばさんがそれを持って畳を動いているのを見ると、酔っているせいか知らないがかにがはっているように見えた。あの徳利には四合位入るだろう。そうすると既に三升ほどの酒が皆の腹中に分れて入っているわけだが、平均一人当りどの位飲んだのだろうと頭の中で計算してみたが、どうも何度やっても途中でごちゃごちゃになる。いよいよ酔いが廻って来たらしかった。
 座も段々乱れて来る気配があった。
 娘が死んだとて直接は関係の無い、恐らくは悲しくも嬉しくもない連中が、落着かぬ気持で酒を飲んでいるうちに段々いい機嫌になっては来たものの、騒ぐわけには行かんという反省が内向して変な具合になり、酔いがこじれたままで一挙にふくれ上って来るようすであった。
 何時の間にか、あの体の小さな女中も入って来て、酒を注いで廻って居る。何が楽しいのかにこにこしたり冗談口を利き合ったりしている。先刻まであんな鹿爪らしい顔をしていた癖に、がたい奴だと私はぼんやり頭のすみで考えて居たようである。モナリザのおばさんもあちこちで盃をめたと見えて、顔がまだらに赤くなっている。皆の話し声が段々高くなって来た。天願氏も酔っぱらったと見えて隣の男と何か話しながら笑っている。額にあぶらが出ていて、電灯が小さく映っているのがいやらしかった。
 上体を前後に振ってみると頭の中がごろごろ言うのが面白くてゆらゆらしていると、小さな女中がちょこちょこ私の前あたりにやって来たと思ったら、べったり横ずわりして、横の文科の学生に話しかけた。
「今日はずいぶん泣いたわね」
 私が横眼で見たら、その男が照れるというような恰好かっこうをして見せた。それがあまりわざとらしいので、私は我慢が出来ないほどであった。厭な顔をしているな、と私は思った。この男に良く似た顔を私は小学生の時分に、福岡の水族館で見たことがある。女中が下司げすな調子でそれを冷かした。悲しいのも無理ないわね。ほの字だもの。
 ほの字か何か知らないが、先刻まで泣いていたという男が今、へらへらと酒を飲んでいる気持を私ははかりかねた。人の心は不思議だよと、心の中で節をつけて私は歌ってみた。今泣いたからすがもう笑うた。泣こうが笑おうが、どうでもいいような気持になり始めた。私は盃を続けて飲みほした。
 冗談のやりとりしていた隣の学生がひょっと真面目くさった顔になって言い出した。
「僕は菊子さんを可哀そうだと思うよ」
「そうだわねえ」
「あんなに仲が良かったんだから、ほんとに悲しいだろうね」
 女中が声をひそめた。
「ずっと泣きつづけよ。枕もとから離れないのよ」
「仲が良い、あの人達は特別だったから」
「そうよ」と女中が勢いこんで猫のような声を出した。
「電話などかけ合う時、ほんとに楽しそうなのよ。着物もお揃いでつくるし、どこにも一緒に出かけるし――わかるわ。あの気持」と手で胸を押えて、「同性愛というものでしょうねえ」
 蛇の肌をぬらぬらこすりつけられたような気がして、私はぞっとして女中の顔をみた。卑しむべき痴呆ちほうの臭いがした。居ても立っても居られないような気になってもじもじして居ると、白眼しろめ勝ちの視線を中にただよわせて胸をおさえていた女中が、私に気が付いたと見えて、あらあらお酒、と私の盃に酒を満たした。何だか酒に脂が浮いて居るような気がする。私は目をつむって飲みほした。
 がやがやとざわめきが高くなった。向う側に並んでいる連中も毛ずねを出したり、掌をひらひら動かして議論をしていたりして、取りとめも無い有様になって来た。すみではおばさんが盃を取ったり返したりして、飲んで居る様子であった。あのおばさんは此処の親類かしら。私の所からは、いくつもつぎをあてた茶色の靴下がマントの裾から出ているのが見える。体のこなしが奇妙なところを見ると、相当酔いが廻っているなと思って眺めていたら、ひょろひょろと立ち上ってこちらにやって来た。大きな徳利と盃を持っている。天願氏の前に坐って盃を指して、あの方が、と言った。盃をわたして呉れと言付かったのだろう。天願氏は泥竜館に七八年も居るので、主のような気がするから一応仁義じんぎをつくして置かねばならぬのだろう。向う側で、盃の男が天願氏に頭を下げた。おばさんが酒をつぎながら言った。
「あらあら、こちらが天願様でいらっしゃいますか。いろいろ、お世話になりまして、こちらさまには、いつも、なんでございますから、死んだ娘も、よく申して居りましたですのよ」
 何を言っているんだかさっぱり判らない。
「お国はずいぶん遠くだそうでございますわね。あたくしも一度は参りたい参りたいと思っておりますんですけれど」
 天願氏は黙って盃の酒を飲んでいる。何と応答していいのか判らないようにも見えたし、酔っぱらって面倒臭いようにも見えた。おばさんのしゃべるのを聞きながら目を閉じたり開いたりしている。
 不思議な悲哀が私の胸をかすめた。泥竜館の違った部屋では、うすらわらいを浮べた死骸を取り囲んで、冥福めいふくをいのり残された身の不幸を悲しんでいる人達が何人かいるのである。私は盃を取り上げた。うっすりとほこりを浮べている。そこに電灯が豆粒ほど小さく映り、私の手にしたがってふるえた。此の世のものならぬ美しい世界が此の盃の底にある。私は盃に唇をつけた。酒は冷えてにがかった。私はある種の衝動に似た残忍な欲望を感じながら、一息に飲みほした。おばさんが手を伸ばして、また酒をとくとくとついだ。
 窓に風があたる音がした。頭がぼんやりして何が何だかはっきりしなかった。座が乱れ果てたこともそう気にならなかった。唐紙からかみのところには、巨大な徳利が数え切れないほど立ち並んでいる。すみの方で女中を相手に飲んでいたらしい一群の間から、歌をうたおうじゃないかと言う声がした。
「歌ってもいいだろう」と賛成を求める声がした。
「歌ってもいいものかな?」
「お通夜というものはも少し静かに飲むべきじゃないですかねえ」
 あちこちから声がする。
「あのこは歌が大好きだったから」
「仏が好きだったんならやったがええ」
「天願さんうたいませんか」
 天願氏はモナリザのおばさんに一生懸命に宗教のことを話している。おばさんは不服らしく時々口をさしはさんだりしている。天願氏は手をひらひらと振った。
 部屋の隅で二三人が低い濁った声で歌いだした。

九千余人の泥棒が
玉屋の二階に忍び込み
反物たんもの取って逃げて行く
逃げれや逃げれ何処までも

 ぱちぱちと手をたたいた。盃を手にもって茶わんや皿をたたく。歌が尻きれとんぼになってしまった。節が無いような変な歌なので、何だか此の宴会にふさわしかった。部屋の中空によどんでいた煙草の煙の集りが、流れるように動き出した。お次の番だよお次の番だよと大声でわめき出した。壁にりかかって、大声でおばさんと話していた天願氏が何を思ったか突然立ち上った、手で一座を制するようなしぐさを繰り返しながら、
「歌!」と言った。
 いまから歌いますという意味らしかった。何しろぐにゃぐにゃして立って居るのも大儀らしい。皆が静まったら、低い太い声で悠長な節まわしで歌いだした。二人かながなと芝居んちちゃびら。愛の雨傘に思いかくち。情ぬ雨やさちかゆてく。
 二分間位かかってこれだけ歌い終えたら、しんかんとなっていた席がどっとき立って大騒ぎになった。ちゃり、ちゃりちゃらんと茶わんが鳴る。
 その時、モナリザのおばさんが急にすわりなおすのが見えた。何かを思い出したような顔をしながらマントを肩からずり落した。
「あたしがうたいます」
 濃ゆい眉が二三度ぴくぴく動いて眼がとじられた。咽喉のどの奥から、きれいに澄み渡った高い声がほとばしりでた。

ああ情無やぼた餅は
突かれて焼かれてたたかれて
おわんの牢屋に入れられて
……………
 ああ、何という悲しい歌ばかりみんな歌うのだろう。押えに押えて来た心の苦しみや悲しみが、その悲しいうたごえにつれてどっと胸の中に流れ出て来た。奇怪な錯乱さくらんのために、おばさんを凝視ぎょうししていた私の眼ぶたがかっと熱くなった。
……………
二本のお箸をつえとして
おなかに一夜の宿を借り
明日は出て行く下の関

 熱いものが胸から咽喉にぐっとこみあげて来たような気がした時、不覚にも私は思わず両手で眼をおおうた。火のように熱い涙のつぶがあとからあとからとまぶたから流れ出て、頬から下にしたたり落ちた。私は座にいたたまれなかったのだ。人の生死や、人の苦楽と関係のない、身を裂くような悲しみが、心の底から湧き起った。私はあわてて廊下に転び出た。
 廊下を曲って私は便所に入った。じっとしゃがみながら私は声をしのんで泣いた。何故泣きたいのか、はっきりわからなかったけれど、あとから涙がいくらでも流れ出た。
 便所の窓に、夜のちりを集めて風が吹きつけた。ざらざらと音がした。外は暗くて、本郷の家々は電灯を消して寝ている。月の光が瓦に射し、瓦の上に堆積たいせきしたほこりや木の葉やなわの切れはしを照らしていた。物干竿があって取り忘れた着物をほしてある。私は窓のさんを力をこめて掴みながら、何ものにか襲いかかりたいような空しいさびしさを感じた。


 目が覚めたら部屋は薄暗かった。頭の半分がずきずきと痛かった。昨夜、あれからまた宴席に戻り、苦い安酒を浴びるほど飲んだのだ。
 天願氏の狭い部屋に、寝床を二つとって、その一つに私が覚めていた。雨戸がしめてあるので、暗くて時刻は判らない。雨戸に大きな節穴ふしあながあって、障子に倒逆とうぎゃくした小さい風景を映していた。天然色映画のように、何か高価な感じのする色がその風景をいろどっていた。どういう景色だかはっきり判らない。私は頭を逆さまに立てて、ひとみを定めてその画に見入った。
 ゆらゆらして遠近がわからなかった風景が次第に所を定めて来た。家があった。柿の木らしい木が軒の上に梢をのばしている。その梢のあたりが微かに動いている。白い壁があった。物干竿がかかっている。それに、豆人形の着るような小さい小学生の小倉の上着がかかっている。それがぶわぶわとうごいた。
 風がまだ吹いているなと私は思った。雨戸を鳴らさない所を見ると、幾分弱まったものと思われた。私はだるい体を起した。ふらふら立ちながら、雨戸をあけ放った。明るい日射しがさっと部屋に入って来た。私は眼をぱちぱちさせながら窓側に腰を下した。
 もう昼はとっくに廻って居るらしかった。風物がみんな長い影を引いて、気のせいか夕暮に近いように見える。ちまたのざわめきがここに伝わって来る。豆腐屋のラッパが、空気を細長く切りながら聞えて来た。
 今日も学校に出なかった! 胃のあたりににがさを感じながら私はつぶやいた。こういう生活を毎日つづけて一体どうなるのだろう。
 天願氏の乱れた髪が枕の上にかぶさっている。体が小さいので布団がぺしゃんこになって見える。ぼろ屑を捨てたようにたよりない寝姿を見ているうちに、次第にわけの判らぬ憎悪を感じて来た。その憎悪は何か親近な感情に裏打ちされて、濁っている。その事が二重になって私の嫌悪をそそった。
 ここにぼろぎれのように眠る男も、やはり此の身をさいなまずしては生きて行けない生活をしている。こいつは俺の影だ! 私は不味まずたばこをふかしながら、煙が空気の中に消えて行くのをじっと見ていた。いろいろなものが私の肩に一つ一つつみかさなって行く。そいつらは蝙蝠こうもりのように私の首筋に鋭い爪を立てようとしているのだ。私は莨を捨て、窓をあけ放ったまま足を忍ばせて部屋を出て行った。
 本郷台からけわしい坂を下りて餌差町の電車線路を横ぎり、小石川界隈かいわいのごみごみした路を私は無茶苦茶に歩き廻った。歩き廻ることで色んな事を胡麻化そうとしながら、矢張り胸が重苦しかった。何か砂利のようなものが脚につまって、それが私の歩みをはばむようであった。大通りを避けて見知らぬ露地から露地へ私は蹣跚まんさんと歩き廻った。見覚えのある路を何度も通った。
 日が短いので黄昏たそがれの色がもはやちまたにしのび寄って来た。魚屋であじを買う内儀かみさん、自転車に乗って急ぐ小僧、巷全体が物の臭いを立てながら傾斜している露地うらや空地のわびしい明るさの中で、少女達がなわ飛びしたり、しゃがんで地面に人形の絵を書いたりしている。何でも無い風景だけれど、思いがけず涙が浮んで来た。また残酷な痴想が鋭く湧き起ったりする。身体が疲れているので肉体とは関係なく、唯心の中で激しい欲望が荒れ狂うのを私は感じた。風がおだやかに地面をはらって行人の着物の裾を吹いた。
 あたりが暗くなった時、私はみじめな気持になりながらけわしい石畳の坂を本郷台に登っていた。今晩は、またどうやって時間をつぶしたらいいのだろう。私は外套のポケットを探った。ばら銭が指に冷たかった。酒を飲もう。何もかも、一時でも忘れさせて呉れるなら、酒でも阿片でもハッシュシュでも、私は即座にのみこむ。私は昨夜の、頭のしびれるような酔い心地を物うく思い出していた。頽廃におもむく瞬間の快よい戦慄を、私はむさぼるように欲望した。
 本郷通りの並木の影に街灯がともった。相変らず白痴のような表情した帝大の学生や、小癪こしゃくつら構えをした洋装の小娘が、私に逆らうようにして通り過ぎる。本郷三丁目の近くに薄汚ないおでん屋があって、私はのれんを肩でわけながら入って行った。電話を泥竜館にかけて天願氏を呼び出した。酒を飲みませんか。
 私は腰を下して酒を注文した。狐のような顔をした女が、ちょうしをぶら下げてやって来た。生ぬるい液体が食道をこころよく流れ落ちる。私は頬杖をついた。ひげがじゃりじゃりと鳴った。
「無精鬚の円生」と私は思った。市井しせいの女等を相手にして痴愚の恋にふける気持は今更毛頭もうとう無かったけれど、そうしたことから段々縁遠い容貌に私がなって行きつつあるということは、何となく厭であった。私はまだ若いのだ。いわば青春のさなかにいるのだ。不思議な頽廃にいるおかげで、世の女等は遥かな所に遠ざかる。私は卓をたたいて二本目のお酒を注文した。
 私が二本目を飲んでいると、表の扉をあけて天願氏が影のように入って来た。顔が蒼ざめている。二日酔いのせいなのだろう。酔っぱらった天願氏をかつぎこんで寝かせたのは私である。やあと天願氏がこわばった笑い方をした。どうも昨夜は失礼。何が何だか判らなかった。そう言って天願氏は腰を下した。
 私達はそこで更に五六本の酒を飲んだ。だんだん酔いが廻って来て、気持が快よく流れ出した。自分をいたわりたい気持と自分をしいたげたい気持が、奇怪な調和を保ちながら、私を饒舌じょうぜつにした。私は私の苦しみを誇張こちょうして天願氏に話した。誇張して語ることに、私は何か快感を感じていた。
 天願氏が言った。
「それは僕だってデカダンスの徒と言えるだろう。生活だってだらしないし、気持もそうだからね。しかし僕の頽廃というのも、僕にはちゃんとその根が判っている。どうして自分がこんな状態になったか、その原因がはっきりしている。もっともはっきり判ってても仕方がないんだが。ところが君の場合はちがうよ。君は、何故自分がこういう頽廃におちこんだか、その原因を知らないんじゃないか」
「原因知ったってどうにもならぬでしょ」と私が答えた。「原因なんて無いのかも知れない」
「そう、原因が無いというのは本当かも知れない。君は僕とはてんで違うんだ。君は、普通の人の眼から見れば、だらしない男だというだけの話なんだ」
 私はにがいものを口におし込まれたような気がした。「あんただってだらしない男だけに過ぎないですからね」
 天願氏は盃をぐっとほした。「君は今、僕に親近感を持っているらしいが、そりゃ誤りだ。君には僕がわからないよ」
「底を割れば同じじゃないか」
「同じじゃないさ。君は苦しんでいるだろう。僕は毎日毎日が苦しくない。むしろたのしい位だ」
 私の心の中から、潮騒しおさいに似た音を立てて、さまざまの言葉が出て来た。
「あなたは何時か旅川が嫌いだと言ったけれど、旅川から一種の圧迫を感ずるためでしょう。だからあれを嫌うのでしょう」
「圧迫? 圧迫なぞ感じはせんよ。何と言ったらいいか――」天願氏は遠い所を見る眼付になった。「むしろ肉体的嫌悪を感じる」
「そりゃ嘘だ。あなたはそう言ってみるだけの話なんだ」私は一生懸命になった。「天願さん。ぼくは自分ではっきり自分の気持は判らないけれど、ぼくはおそらくあなたを嫌いだろうと思うんです。そりゃ、僕は毎日のようにあなたの所にやって来るけれど、別にあなたと話したいとか、あなたが好きだから、やって来るんじゃない。つまり――惰性の様にしてやって来るのです。他に行くところも無いし、何もすることがないから、自然あんたのとこに足が向くのです。しかし僕は、その時あなたが居なかったり、他の客が来て話してたりすると、不思議なようだが実に厭な気持になる。此の気持は丁度ちょうど嫉妬に似てる。が、一皮むけばそうじゃない。僕はあなたが、僕の知らぬところで僕の知らぬことをしていると思うと、いらいらして居ても立ってもいられなくなる」
「同性愛かね」と天願氏がせせら笑った。昨夜の女中の会話を聞いていたに違いない。私は黙殺してつづけた。
「僕は旅川は好きでも嫌いでもないのです。昨晩だって旅川があの宴会えんかいに加わらなかったのは別に腹が立ちもしない。あれは僕とは縁なき衆生しゅじょうだ。僕から見れば馬鹿野郎だ。どんなにでも軽蔑出来る。が、天願さん、もし昨晩あなたが宴に加わるのが厭だという気持を起して部屋に帰って寝ようとしたとすれば、僕はあなたを引きずり起してもあるいはなぐっても一緒に宴会に出るだろうと思うのです。しかし、一緒に酒のんだことを後で考えたり、今朝あなたがぼろのようになって寝てるところを見ると、僕はぞっとして身ぶるいする。気障きざな言い方だが、あなたは僕の影のようなものだ。僕はあなたの影のようなもんだと思うのです」
「影か」と天願氏が苦笑いした。「君は若くて馬鹿正直だから、いろいろ考えてきりきり舞いをしてるんだ。僕がそうだと言うんじゃないけれど、頽廃たいはいなら頽廃でもいい、そうした一つの心境に五年も十年も身をひそめて居れば、そういう青くさいことは言わなくなるもんだ。今の気持から抜け出ることはたやすいじゃないか。君は頽廃に酔ってるんだよ」
「そういうことはありません。僕はあなたと話すたびに感じる。あなたは本当の事を言わない。嘘っぱちをしゃべって真実から逃げ廻る。武装している。ポーズを作っている。傷つくことがそんなに恐いのですか?」
「そうじゃない」
「そうです」
 私は昨日から漠然と感じていた一つの疑問がようやく私の心の中で結晶して来たのを感じた。私は天願氏の顔を見た。やせた頬のあたりにも全く表情がなかった。風の様な自然さで私の顔を見返した。天願氏の長い指が盃を唇に持って行く。私は低い声で言った。
「天願さんは死んだ娘が好きだったんでしょう?」
 盃が胸のあたりではたと止った。奇怪な表情が一瞬天願氏の面をかすめて消えたように思われた。そして盃中の酒を音立てて飲み乾した。
「惚れてたとすればどうなるかね」
「それはどうにもならないけど――」
「しかし僕は惚れてなんか居ないよ」と天願氏は断乎だんことして言い放った。私はただうつむいて酒を飲んだ。言い様のない寂寥せきりょうが私を襲ったのである。
 先刻から激しい尿意があった。私はふらふらと立ち上って、奥の方にある便所に歩いて行った。激しく放尿しながら、何もかも太古たいこの出来事であったようなむなしい感傷にとらわれた。私は手で首筋を意味なくたたきながら便所から戻って来た。天願氏が居なかったのだ。眼の細いおでん屋の女が土間にぼんやり立っている。
「どこに行ったんだ?」私はあわてて聞いた。
「お帰りになりましたのよ」
「帰った?」
 女が私にすり寄って来た。
「まあおかけなさいよ。お酒注ぎますわ」
 私は黙って腰を下して盃をあけた。矢張り言って悪かったなと後悔の気持が起って来た。私一人でもいい、しばらく飲んで行こうかと私は思った。女が盃に酒を満たしながら言った。
「あの方貴方のお友達?」
「そうだ」
「何だか恐そうな人ね」
「そうでも無いんだよ。根はいい人なんだよ」
「今、喧嘩なさったの」
「喧嘩なんかするものか」と私が笑った。「議論していたんだよ」
 一寸間を置いて女が言った。
「あの方、貴方を嫌いだと言ったわ」
 私はぎょっとして女の顔をみた。
「あんまり貴方はくどいんですって」
 見る見るうちに私の顔色が変って行くのが自分でもはっきり判った。私は思わず大きな声を出した。
「それを僕にことづけろとあの人が言ったんだな!」
「そう」女は哀れむような目付で私を見おろした。押え切れぬ激情が胸をついて湧き起った。私はやっとそれに堪えた。
 暫くの後、私はその女を相手にして、つまらぬことをしゃべりながら酒を飲んでいた。どうにもやり切れない気持をはらいのけようとして、私は空虚な饒舌じょうぜつろうしていた。流行はやらない店と見えてお客は私一人で、誰一人として入って来なかった。女は狐のような顔をくしゃくしゃにして私の冗談に笑いこけた。酒のちょうしがもう八九本も私の前に並んでいる。飲んでいるうちに、昼間弱くなっていた風がまた強くなって来たと見えて、表の提灯ちょうちんが激しくふらふら揺れるのが硝子戸にうつった。そして硝子戸ががたがたと鳴った。風が出て来たわねえと女が眉をひそめた。
 いくら飲んでも、ある程度以上に酔わないのが不思議であった。今日は朝から一杯の御飯も食べていなかったが、食欲は全くなかった。十二時頃、外套がいとうのばら銭を台の上にありったけさらけ出して私は蹌踉そうろうとして風の巷によろめき出た。
 三丁目の線路を横切り、大学の塀に沿って赤門の前まで来て私は立ち止った。本郷通りにはもはや人影はなくて、屋台店が点々と灯をつらねながら、蓬莱町の方に伸びていた。屋台にすらも人の気配が更になかった。前にのめりそうな気持をぐっとこらえて、私は人影のない巷を見わたした。
 電線をふるわせて風が吹いて、赤門前に散らばった数知れぬ銀杏の落葉が一せいにがさがさとはしった。恐しい速力で左へ右へと動き廻る。数千匹の黄蟹きがにが何者かに追われて必死に逃げまわるように、私の酔眼すいがんにうつって来た。今宵は蟹のお祭りだ。今夜は風の宴だ。遁走とんそうする蟹の大群の後方から、風がひょうひょうと音立てて吹きつけた。
 ああ、何もかも風のようだ! 私は私の胸の空洞を吹き抜ける風の悲しい密度を感じながら、こう思った。底知れぬ絶望感が私をおそった。たちまち私の心の中の何ものかが、祈拝きはいの姿勢をとった。私は歩き出した。今から私は蓬莱町の私の部屋に戻ろう。あの汚ない部屋を立派に掃除して、明日から学校に出よう。平凡な学生でもいい。愚かな学生でもいい。規律正しい生活と、一秒一秒が退屈の分子をふくまない立派な生活をしよう。自分の生活をきびしく律する高邁こうまいな精神を本当に求めよう。私は熱い涙を流しながらそう思っていた。
 しかしその夜遅く、私は不思議な力にひかれて、再び泥竜館の玄関に立った。私は靴をそっと脱ぎ、音を立てないように廊下を歩き、天願氏の部屋に忍び寄った。天願氏はすでに眠っていた。私はその顔をじっと見つめた。額にふつふつと寝汗の粒が並び、髪毛が四五本そこにへばりついていた。苦しそうな寝顔であった。思わず私はぐっと胸がせまって来た。私の胸の中にあった、あらゆる憎しみや悲しみや、そうしたものを、此の束の間の感傷が暫く押し流したのだ。生きて行くことはいい。生きて行くことはいいことだ。私は意味なく呟きながら、体を硬くしていた。天願氏がうめきながら寝がえった。私はそっと立ち上った。
 障子をあけて、音のせぬように布団を取り出してしいた。電灯を消して暗闇になった底で、静かによこたわりながら私は眼をぱちぱちさせていろいろ考えていた。私には立派な生活は出来ぬ。どのみち退屈を食ってしか生きられぬ男だ。蓬莱町まで行きながら又引き返して来た自分のぶざまな恰好を私は自嘲じちょうした。
 闇の中にいろいろなものが見えるような気がする。私はそれを一つ一つ探りあててやろうと酔眼を働かした。闇の濃いところやうすい所が渾然こんぜんとある方向に動いたような気がした瞬間、いつか複写で見た事のある古い絵が忽然こつぜんとして眼前に浮んで来た。――川があって古い木橋がかかっている。何十人という座頭が押し合いへし合いしながらそれを渡るのだ。その幻覚の風景が急速に現実感を加えて来たと思った時、私は呼吸が苦しくなった。座頭等の呼吸の音が聞こえて来る。座頭が二三人橋からころび落ちそうになる。悲しげな座頭等の表情が一人一人手にとるようにわかった。そして、その風景の中でも風が座頭の衣を吹き、川浪を起し、中空に吹き荒んでいた。暗闇の中で私は足指を曲げて感動していた。
 十分間の後、私は疲れて眠っていた。


 昼前の明るい光の満ちた天願氏の部屋で、私達は朝御飯を食べた。風は全く止んでいた。空が淡青色に晴れわたり、雲が一片二片高い所に飛んでいた。私達は、郊外に行く話などしながら、遅い暖い御飯を食べた。食膳に、やせ衰えた秋刀魚さんまが一匹ずつ乗っているのである。それでも腹のあたりにうっすりと脂肪を乗せていた。
 旅川が呼びに来た。告別式が始まるのである。今朝方より大工がやって来て、泥竜館の玄関に壇をつくった。かんかん釘をうつ音が此の部屋まで聞えて来た。そこに白い幕をかけ、焼香しょうこうの準備がしてあった。露地に長い腰かけをおいて、会葬者はそこに立ち並ぶのである。私達は下宿人等と一緒に並んで立った。花輪がいくつもある。泥竜館下宿人一同という札を下げた花輪もその中にまじっていた。僧侶の読経どきょうが始まった。
 露地の中は人が押し合いへし合いする程、沢山の人が集った。白い服を着た看護婦の姿も見えるのである。そして読経がすんで、焼香が始まった。
 下宿人の中では天願氏が真先に出て行った。人々の視線を浴びながら、天願氏は仏前まで頭を振りながら進んで行った。そして、鐘たたきを取ってチーンと鳴らした。一度で止せばいいのに、つづけざま二十遍ばかりちんちんちんと叩きつづける。香をひとつかみつかんで香炉こうろの中に投げこんだ。ゆらゆらと多量の煙がすすけた天井に立ち上る間に、天願氏が両手を合せて口の中でぼしゃぼしゃと言ったのが見えた。どうせ出鱈目でたらめを言っているに違いないと、私はひそかに思いながら後姿を眺めていた。
 やっと重任を果したというような顔をして天願氏が戻って来た。香がまだくすぶっている。煙が玄関を通って中庭の方に流れて行くのが、悠容ゆうようたる趣きがあった。順々に皆が焼香する。私も人々にまじって焼香した。香のにおいを強く感じながら眼をつむって手を合せた。
 告別式がすんで私達は天願氏の部屋にぞろぞろと集った。私達は其処で他愛もない無駄話に興じていると、下宿のおかみさんがやって来た。
「今から焼場に参りますけれども、皆さんもいらっしゃいますか」
 来て貰いたくないけれど、形式的に聞きに来たという感じがはっきりと出ていたのである。
「参りましょう」と天願氏が大きな声を出した。私は天願氏の顔を眺めた。石のように無表情である。「さあ、出かけよう」と天願氏が先に立った。
 玄関に立った時、ひつぎは既にかつがれて露地を出ていた。そこの通りに自動車がたくさん並んで待っているのである。私達は露地に出た。
「ああ、何だかお正月のような気がする」と天願氏が言った。
 びしい露地の明るさの果て、本郷の家並が曲りくねって連なり、戸毎に日章旗がひらひらとはためいている。祝祭日なのである。日の光さす道を曲りながら、霊柩車れいきゅうしゃは既に粛々しゅくしゅくと動き出した。大気は、割に冷たかったが、お正月のような澄んだ明るさは、私の胸にもほのぼのと通って来るようであった。
 乗り手をうながす為に自動車の運転手たちがぶうぶうと調子をつけて警笛を鳴らし始めた。私達は黒い露地の土を踏み、侘びしい明るさを拾いながら、通りの方へぞろぞろと出て行った。





底本:「桜島・日の果て・幻化」講談社文芸文庫、講談社
   1989(平成元)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「梅崎春生全集 第二巻」新潮社
   1966(昭和41)年12月10日
初出:「早稲田文学 新人創作特輯号」
   1939(昭和14)年8月
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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●図書カード