記憶

梅崎春生




 その夜彼はかなり酔っていた。佐渡という友人が個展を開いたその初日で、お祝いのウィスキーの瓶が何本も出た。酩酊めいていして新宿駅に着いたのは、もう十時を過ぎていた。
 つかまえたのは、専門の構内タクシーである。駅を出て客が指定したところで降ろし、またまっしぐらに駅に戻って来る式のもので、それが一番安全そうに見えたからだ。酔うと彼は必要以上に用心深くなる癖がある。戦後しばらくして、その時彼はまだ若かったが、酔ってプラットホームから落ちて怪我して以来、その癖がついた。年とともにその癖は、ますます頑固になって行く傾向がある。
「この人はね、酔って来ると、すぐに判るよ」
 その夜も佐渡が笑いながら皆に説明した。
「道でも廊下でも、曲り角に来ると、壁にへばりつくようにして、直角に曲るんだよ。さっきから見ていると、もう直角になって来たようじゃないか。そろそろ帰ったらどうだい?」
「へばりつくなんて、ヤモリじゃあるまいし」
 彼は答えた。いくらか舌たるくなっているのが、自分でも判った。そしてふらふらと立ち上った。
「でも、そう言うんなら、先に帰らせてもらうよ。さよなら」
「矢木君。君、送って行け」
 佐渡が追い打ちをかけるように言った。
「見ているとあぶなっかしくて仕様がない。同じ方向なんだろ」
「そうですか。送ります」
 矢木は答えた。矢木は彼や佐渡よりは、ずっと若い。絵描きの卵だ。飲めないたちで、酔っていなかったようだ。顔色が蒼白あおじろい。
 外に出ると、夜風が顔につめたかった。矢木が手を貸そうとするのを断って、自分で歩いた。直角になんて歩いてたまるかという気持があって、ずんずん歩いたつもりだが、やはり時々足がもつれた。矢木は服の襟を立て、二三歩あとからついて来た。
 新宿駅まで十分ぐらいかかり、表口で調子よくタクシーが彼の前にとまった。車の形を見て、彼は安心して、自分の体を荷物のようにどさりと座席に放り込んだ。矢木が続いて乗り込んだ。自動扉がすっと動き、がちゃりとしまった。彼は言った。
「N方面にやって呉れ」
 かんたんに道順を説明したが、運転手は返事をしなかった。車は動き出した。かすかな不快が彼の中で揺れ動いている。近頃の運転手は、行先を告げても、ろくに返事をしない。でも、人間はなまじ口をきき合うから、話がもつれたりするので、判っていさえすれば返事はない方がいい。経験でそう彼は思っている。その点一番いいのは、靴磨きだ。戦後の一時期、彼は食うに困って、靴磨きをやったことがある。占領兵相手の売り屋をやったが、これは言葉のやりとりがうまく行かなくて、失敗した。靴磨きはよかった。場所を確保するのに一苦労はしたが、定着してしまえば、あとは簡単だ。客が来て、靴台に足を乗せる。それを磨く。磨き終ったしるしに、厚布でチョンチョンと靴先の色をととのえる。客も承知して、靴を引っ込め、金を渡す。受取ってゼニ箱に投入する。ただそれだけだ。客も黙っているし、こちらも口をきかない。主客とも口をきかないで成立する商売は、おそらく靴磨きだけじゃあるまいか。――彼が面白くない気分になっていたのは、だからそのせいではなかった。
「この自動扉なんだな」
 窓外に動く街筋を眺めながら、彼はぼんやりと矢木に話しかけた。
「おれはどうもこの自動扉というやつが、好きでないんだ」
「何故です?」
「自分が乗ったんだろ。だから自分の手でしめるのがあたりまえじゃないか。他の力でしめられると、何だか変だ。うっとうしくて、かなわない」
「そうですかね。僕は便利だと思うけれども――」
「便利? そりゃ便利だよ」
 彼は忙しく頭を働かせ、別の例を捜した。
「しかし、たとえば、留置場か、棺桶のふたのような気がする。いや、待てよ。留置場や棺桶は、自分で這入はいるものではないが」
「そうですよ。あれは這入るものじゃなく、他人から入れられるもんです」
 矢木は落着いた声で言った。
「あなたはデパートのエレベーターに乗っても、うっとうしいですか?」
 エレベーターと自動車とでは違う。その理由を見つけようとして考えかけたが、途中で面倒くさくてやめた。調子を合わせろとは言わないが、そっけなく落着いているのが気に食わない。話をするのが億劫おっくうになったので、彼は座席に深く背をもたせ、窓の外ばかりを見ていた。街並が急に明るくなって、八百屋だの薬屋だのが群れている一郭いっかくに出た。矢木が言った。
「とめて下さい。僕はここで降ります」
 車がとまり、間髪を入れず自動扉がギイと開いた。矢木がここらに住んでいることは、いつか同車したことがあって、彼も知っている。別に意外ではなかった。
「降りるのかね」
「ええ。では」
 また車が動き出した時、彼は頭を後方の窓ガラスにねじ向けた。矢木はこちらを見ずに、歩道を横切り、明るい果物屋の中に入って行く。……

 こういう言い争いを、いつか確かにしたことがある。何年前のことか、場所はどこだったか、思い出せない。思い出せないけれども、同じ条件で、同じ調子で、同じような人物を相手に、言い争った。気分もその時と同一だった。その意識が彼の語調を弱くさせていた。彼は言った。
「どうしても這入れないと言うんだね」
「うん。這入れないね」
 運転手は前を見据みすえたまま言った。料金表示器は三百円をさしていた。
「こんな狭い道はムリですよ」
「しかしだね、ちょっと狭そうに見えるけれど、昼間にはトラック、大型は入りにくいが、とにかくトラックや乗用車が、すいすいと入ったり出たりしてるんだぜ」
 矢木を降してから十五分ほど走り、車は彼の家の近くまで来た。道路に囲まれた三角地帯がある。どんな具合に区切っているのか知らないが、四軒の家がそこに建っている。車が停ったのは、その一軒の前で、彼の家はそれから反対側に折れたところにあるのだ。この一軒はまだ起きていて、窓から燈が漏れている。鉄線で編んだ塀には、バラがからんでいて、白や赤の花をいくつもつけているのが見える。この家は以前は歯科医が住んでいたが、はやらなかったらしく一年くらいで引越し、今はアメリカ人が住んでいる。民間のバイヤーらしい。昼間には日本人のメイドが派手な下着を乾していたりする。
「そりゃ昼間は這入れるでしょう。でも、こう暗くちゃね」
 なるほどその道は暗い。ずらずらと生籬いけがきのたぐいが続いていて、光はどこにも見えない。そう狭い道ではないが、近くに請負師の家があって、道の入口に古材がたくさん積み重ねてある。反対側の垣から大きな柿の木が、道におおいかぶさるように枝を伸ばしている。昼間なら見通しがきくが、夜だと実際よりもずっと狭く感じられるのだ。それに悪いことには、道の入口に細い下水路があり、コンクリートの四角な渡し板が六枚かかっている。道いっぱいの幅にかければいいのに、両端の方は省略して、中央の部分、つまり道幅の半分しかかかっていないのである。
「暗いとか明るいとかは、問題じゃないだろう」
 彼は気持を押えながら言った。
「今まで乗ったタクシーは、皆這入ったよ」
「他のタクシーのことは知らないが、おれはイヤだね」
 前を向いたまま、運転手の言葉は少しぞんざいになった。彼はまだこの運転手の顔を見ていない。乗り込む時、見そびれた。見えるのは帽子と首筋と肩だけである。帽子はあみだ冠りにしている。首筋は赤黒く、粒々が出ている。齢の頃はよく判らない。
「這入れって、一体どのくらい這入るんだね」
「直ぐだよ、おれの家は。三十メートルほど入って、左側の家だ」
「三十メートルなら、歩いたらどうですか。何時までもごたくを並べてないで」
「歩け? 君はおれに、歩けと命令するのか?」
「命令はしてない。勧めているだけです」
「しかし、それは――」
 そこまで言いかけた時、自動扉がひとりでにギイとあいた。それはまるで催促するような音であった。音は決定的に彼の耳に響いた。
『落着け。落着くんだ』
 彼はそう念じながら、ポケットから銭入れを取り出した。ふるえる指で百円玉を三つつまみ出して、肩越しに手渡した。
「ついでに聞くがね、この車の番号は何番だい?」
「車のうしろについてるよ。それを見りゃいいだろ」
 運転手は金を収めながら、つっけんどんに答えた。
「そうか」
 彼は体をずらして車から降り、背後に廻って番号札を見た。自動扉がしまった。Q二〇三九。それを二三度口の中で言ってみて、片側道を自分の家の方向に歩き出した。三十メートルを歩いている間、つまずかないように用心しながら、彼はその番号のことばかり考えていた。つまずいたり、他のことを考えたりすると、番号を忘れてしまうおそれがあったからだ。Q二〇三九……Q二〇三九……
 家に入り、鍵をかけ、画室に入る。画用紙にその番号を書きつける。やっと安心して、椅子に浅く腰をかける。ひじを膝の上に立て、頬杖をつく。五分間、その姿勢のまま、じっと動かなかった。やがて顔を頬杖から外し、手を伸ばして電話帳を取った。膝の上でぺらぺらめくって、自動車会社の番号を捜した。やがて捜し当てた。彼はつぶやいた。
「せですむことを!」
 彼は立ち上り、部屋の隅の電話のダイヤルを廻した。廻す途中で少しためらったが、押し切るようにして最後まで廻した。相手が出て来た。
「もしもし。お宅にQ二〇三九という車がありますね」
「はあ。ちょっと待って下さい」
 受話器を置く音がした。彼は体を凝らして立っていた。子供の頃、彼の家には烈しい気性の祖母がいた。何か悪いこと、余計なこと、いたずらに類することをすると、たいへんな勢いで怒り、火箸や長煙管きせるで彼を打擲ちょうちゃくし、折檻せっかんした。
「せですむことを!」
「せですむことをして」
 しないですむことをする、という意味である。その言葉は彼の体に深くしみ入って、時々舌にのぼって来る。たかが曲れとか曲らないということではないか。歩かされたとしても、三十メートルに過ぎないじゃないか。それをこんなに電話して文句を言えば、当の運転手も成績が下るだろうし、こちらも巻き込まれることで面倒がかかるかも知れぬ。誰も得をしない。つまりこんなのが、せですむことじゃないだろうか。そう考えたとたん、電話の向うに相手が出て来た。
「はい。確かにそれは、うちの車です」
「そうですか。その車が二十分ぐらい前、こんなことをした」
 彼はさっきの事件を順序立てて、順序立てたつもりで説明した。向うは事務的な声で、
「はい」
「はい」
 と返事をした。くわしく話す予定であったが、説明は一分足らずで済んだ。詳述しようにも、それほどの材料がない。最後に言った。
「途中で降ろすなんて、乗車拒否より悪質だと僕は思うんですがね」
「判りました。当人は明朝十一時に戻って来る筈ですから、事情をよく聞きまして――」
 彼は電話を切った。折角の酔いがうまく発散せず、深くよどんでいるのが判る。じっと濃厚に澱んで動かない。もう一杯飲めば、そいつを引っぱり出せるかも知れないのだが、見渡しても酒は一滴もここにはない。――

 翌日正午頃、彼は眼が覚めた。口の中が粘り、酔いがまだ残っていた。その癖よく眠れなかった。ことに窓が明るくなってからは、物音がたくさん入って来て、起きているのか眠っているのか分明しない状態で、うつらうつらと横になっていた。眼をあけるのに抵抗があったし、あけてもしばらく物が二重に歪んでいる。
 水を飲むために体を起すと、番号を記した画用紙が、まず眼に入った。分厚い番号簿も、昨夜頁を開いたままで机上に乗っている。彼はむずと受話器をつかんだ。今の不快な状態の責任が、皆この番号簿のせいだという気がしたのだ。昨日と違った声が出て来た。
「話は当直から聞きました。なにぶん当人は今朝七時に帰社して、もう家に戻ってしまいましたので――」
「七時? 昨夜の電話じゃ、十一時頃という話だったのに」
 声はくどくどと弁解を重ねた。自分はこの社の常務として、こんなことのないように、事ある毎に従業員に注意している。それなのにどうしてそんな不親切なことをしたのか、まことに申しわけがない。しかるべき処置を取るとおっしゃるが、それだけは勘弁して呉れ。明日当人が出て来れば、よく申し聞かせて置くから。云々。
「申し聞かせるのは、お宅の勝手ですがね」
 彼は言った。
「僕んとこの道は狭くない。大型車だって、ゆっくり這入れる。そのことを徹底させといて下さい。それだけです」
 彼は急いで電話を切った。おれはおれの面子メンツを立てるためでなく、道をけなされたことを怒っているみたいだ。しかし電話をかけたことで、彼はやや気分が晴れた。彼は井戸端に出て、大コップで水をがぶがぶ飲み、庭の隅の塵芥穴で全部吐いた。咽喉のどを突き上げて出て来るのは、水ばかりであった。飲む時と同じ冷たさで、それはほとばしり出る。二三度繰り返して、胃を空にして、彼は自分の部屋に戻った。そしてまた夕方まで寝た。
 常務と運転手が彼の家を訪ねて来たのは、その翌日の午後である。見知らぬ男が二人、玄関に立っている。いぶかしげに彼が眺めると、年かさの方が名刺を出した。××タクシー常務の肩書きで、それと知れた。わざわざやって来たのに、玄関で応対するのも変なので、画室に案内した。玄関には新しい靴とつぶれたような靴が、二足残された。
「電話をかけただけなのに、どうしておれの家が判ったんだろう?」
 茶をいれながら、彼はふと思った。次の瞬間、それが愚かな疑いであることに、直ぐ思い当った。二人とも茶には手をつけなかった。常務が口を切った。
「この度うちのがたいへん失礼な態度を取りましたそうで――」
 彼は話を聞きながら、運転手の顔をちらりちらりと見ていた。一昨夜はもっと若い、横柄な感じだったのに、今そこに腰をかけているのは、ジャンパー姿の三十前後の実直そうな、むしろ愚鈍な印象の男である。細い眼がねむそうにたるんでいる。焦点距離がないみたいで、どこを見ているのか判らない。
『換え玉を連れて来たんじゃないか。こんな男じゃなかった』
 と彼は考えた。
『本人を連れて来たら、またいざこざが起きるもんだから――』
「そういうわけでございますから、何とぞお許しのほどを」
 肥った常務はごそごそと箱を取り出した。包装紙の具合から見ると、菓子折か何からしい。
「いや。それは――」
 彼は大声を出した。
「そんなものが欲しくて、電話をかけたんじゃないんだ。あんたたちは何か誤解をしている。僕はただうちの道が――」
「判っております。判っております」
 常務は立ち上って、運転手を小突いた。
「おい。君もあやまれ。早く」
 運転手がじっとしているものだから、常務は運転手の後頭部に手を当て、ぐっと前に押した。それで運転手は頭を下げた格好かっこうになった。
「さあ。帰ろう」
 頭から手を離し、常務は言った。運転手は頭を元に戻して、無表情に立ち上った。
「いや。平に、御見送りのほどは、平に」
 尻ごみをするように、常務は後しざりして、部屋を出た。運転手もそれに続いた。彼は二人を追って、玄関まで出た。二人は身をかがめて靴を穿いている。背後から見る運転手のその首筋は浅黒く、見たことがあるような、またないような形であった。彼はしばらく確める眼付きでそれを見おろしていた。
「やはりあの時の運転手かな。皮膚に毛穴のようなものが、たくさんある」
 画室に戻って来て、彼は考えた。常務はいろいろしゃべったが、運転手は口ひとつきかなかったことに、彼は今気付いていた。声さえ聞けば、その抑揚や調子などで、当人か換え玉か判る筈であった。でも、換え玉であったとしても、それが何だろう。当人を連れて来て釈明せよと、こちらは請求した覚えは絶対にない。向うが勝手にやって来ただけの話である。常務もこれがその当人であるとは、明言しなかった。すべてがあいまいなまま収まっている。菓子折ひとつだけが歴然とした形で残っている。彼は口に出して言った。
「こんなもの、誰が食ってやるものか」
 新聞紙を四五枚ぐしゃぐしゃに丸め、菓子折を持って庭に出た。塵芥場に投げこんで、火をつけた。新聞紙は白い焔を立てて、ぼうぼうと燃え始めた。

「運転手の顔ねえ。どの運転手の顔だったかしら」
「そら。佐渡君の会でさ、いっしょにタクシーを拾っただろう」
 一ヵ月ほど経って、上野の喫茶店で、彼は偶然に矢木に出会った。紅茶を飲みながら、その話を持ち出した。矢木は視線を宙に浮かせて、しばらく考えていた。
「ああ。あの時のね。あなたが白髪のことで、佐渡さんにからんだ夜の――」
「白髪?」
「ええ。佐渡さんに白髪が近頃ふえたのは、老い込んだ証拠だって、ずいぶんからんだじゃないですか。だから作品もダメになったって」
 彼は首をかしげた。佐渡は彼と同年で、近頃妙に白髪がふえたのも事実である。しかしそれについて佐渡にからむなんて、彼には記憶もないし、想像もつかなかった。
「そんなことを、僕がやる筈がないよ。白髪と作品と関係づけるなんて、そんな理不尽な」
 彼は記憶をさぐりさぐり言った。
「あいつが僕の酔い方を批評したんで、面白くなくなって、会場を出たんだ。君もいっしょだったね」
「ええ。外には小雨が降っていた」
「雨が?」
「ええ。寒かったんで、僕は服の襟を立てて歩きましたよ。それでもずいぶん濡れた」
「おれは全然濡れなかったよ。おかしな話があるもんだなあ」
 彼は冷えかけた紅茶をすすった。
「何かこんぐらかってるな。駅で構内タクシーをつかまえた。番号はQ二〇三九だ」
「よく番号まで覚えていますねえ」
「うん。これにはわけがあるんだ。君は途中で降りた。そして角の果物屋に入って行った」
「果物屋?」
「そうだよ。不二果物店と看板が出ていた。君はまっすぐそこに這入って行った。僕は自動車の後窓からそれを見ていたんだ」
 今度は矢木が気味悪そうに、そっとカップを卓に置いた。
「ほんとですか。しかし、そんな筈はない」
「なぜ?」
「なぜって僕はあの果物屋と、半年前ぐらいだったかな、バナナのことで喧嘩をしたんですよ。大きい房の代金を払ったのに、うちであけて見たら小さい房が入っていた。そこであのおやじと大喧嘩をして、それ以来あそこでは買い物をしないことにしているんです」
「でも、僕は見たんだよ。この眼で」
 二人はしばらく黙り込んでいた。やがて矢木が頭を上げた。
「あなたがその眼で見たとして、それからあなたはどうなったんです」
「うちの近くまで来て、運転手が僕に降りろと言うんだ。そこで僕は降りた。しかし雨は降っていなかったぜ」
 その経緯いきさつを彼はぽつりぽつり、確めるように説明した。矢木は適当に相槌あいづちを打ちながら聞いていた。話し終ると矢木は質問した。
「で、結局その菓子折に、何が入ってたんですか?」
「判らない。新聞紙や外箱だけが燃え尽きて、あとどろどろなのが残った。へんに甘ったるい匂いがしてね、嘔きたくなるような気持がしたし、ウジが湧きそうだったから、スコップで穴を掘って埋めてしまった。しかしそんなものを持って来るぐらいなら、どうしてあの時道に這入って呉れなかったんだろう?」
「自動車強盗と間違えたんじゃないですか」
「強盗? このおれが? まさか」
「しかし、運転手には、気をつけた方がいいですよ。ノイローゼだのテンカンなどが、自覚しないまま営業してるという話ですからねえ」
 矢木は真顔になって話の方向を変えた。
「もっとも乗る方だって、気が確かかどうか、誰にも判っていない」
「そうだよ」
 少し経って彼はうなずいた。
「おれたちだって、少しずつこんぐらかってるよ。君が覚えていることと、おれが覚えていることは、どこか食い違っている。それでよく安心して生きて行けるもんだな」
「僕がですか?」
「いや。君だけじゃなく、誰もがだ」
 彼はごまかした。
「もっとも疑い始めると、これは切りがないもんでねえ。忘れたり、記憶からしめ出されたり、思い違えたまま安心したり、その方がずっと生きいいんだろう。古井戸をのぞいたって、仕様がないやね。やくたいもないこけが生えているだけで――」
「それ、皮肉ですか?」
 矢木は眼をきらきらさせて、反問した。

 夏のある暑い日の午後、彼はその運転手に再会した。もちろん彼はそれと知らなかったし、向うもこちらに気付いていなかった。彼は目白付近でタクシーを呼びとめて乗り込んだ。自宅の方に行く道順を説明しながら、ハンカチで額や腕の汗を拭いた。車は動き出した。動き出してすぐ、運転手が言った。
「旦那。あっしを覚えてるかね?」
「え?」
 汗を拭きやめて、彼は運転手の後頭部を見た。首筋にも汗はふつふつとあふれていた。
「覚えているだろうね。今の道順で、あっしは思い出したんだ。あれは五月の初め頃だったかな」
「ああ、あの時の――」
 後頭部からバックミラーに視線を転じた時、彼は卒然として思い起した。
「僕を途中で降ろした運転手さんだね」
「降ろしただけじゃないよ」
 運転手の口調は険を帯びた。
「おれはあやまりに行かされたんだぜ。一日の稼ぎを棒に振ってさ」
「そうだったね。常務とかいう肥ったおっさんと」
 じとじととした背中を座席から引き離しながら、彼は答えた。
「しかし、僕はあやまりに来いとは言わなかった筈だよ。そちらが勝手に来ただけだ」
「あんな電話をかけて来りゃ、常務だって放っては置けないさ」
「常務は、元気かね?」
「あれ、死んだよ」
「交通事故か?」
「いや。病気でだ」
 ちょっとの間、会話が跡絶えた。交差点の赤信号で車は停った。タオルで首をごしごし拭いながら、運転手が言った。
「あの手土産も、あっしが自腹を切ったんだよ。うまかっただろう」
「そうかね」
 彼は別のことを考えていた。
「あの晩、僕たちを新宿で乗せた晩さ、あの時、雨が降ってたかね?」
「雨? 何を言ってんですかい」
 運転手はせせら笑った。
「雨のことなんか話してないよ。菓子折のことだ。ウルサ型らしいから、一番上等のを買えって、常務が言うもんで――」
「へえ。そんな上等の菓子だったのか。中身は何だっけ」
「カステラだよ。食べたくせに、もう忘れたのかい?」
「食べなかったよ」
 彼は正直に言った。ウソをつくと、また混乱するおそれがあった。
「食べなかった? 人にやったんですか?」
「いや。燃してしまった」
 白い焔と甘たるい匂いが、彼にまざまざとよみがえって来た。
「なるほどね。カステラを燃すと、あんな匂いがするのか」
 運転手は返事をしなかった。背中がすこしふくれ上ったように見えた。
 窓から見る街には、風がなかった。街路樹も電線も、どんよりと動かなかった。早く家に戻って水を浴びたい。彼はへばりつく下着を皮膚から剥がしていた。押えつけるような声で、運転手が言った。
「旦那。まだ賭けごとはやってるのかね?」
「賭けごとって、何だい?」
「そら。車の中で、連れの若い男としきりに話し合ってたじゃないか。競馬や花札のことをさ」
 信号が青に変って、車は動き出した。
「連れの男って、途中で降りた奴か?」
「そうだよ」
 またしてもこんぐらかって来たな、と彼は考えながら、窓側に体をうつした。風が彼の顔を荒々しくこすった。
「僕は賭けごとの話をしないよ。する筈がない」
「いや。していたよ」
「でも、僕は競馬も花札もやったことはないんだぜ。やったことがないのに、話は出来ない」
 ではあの晩、矢木と何の話をしたのか、もう彼には思い出せなかった。話したという記憶はあるが、その内容は消え失せている。
「すると勝負ごとは、何もやらないと言うんだね」
「そうは言わない。将棋なら少し指す」
 また交差点で停った。運転手はタオルを出して、掌だのハンドルなどをごしごしと拭いた。タオルは汚れて、くろずんでいた。
「暑いね。旦那」
 いらいらした声で、運転手が言った。
「いっしょに氷水を飲まないか。行きつけの店が、この先にあるんだ」
「そうだな」
 いらいらした運転手に気をつけろと、誰からか言われたのを、彼は思い出した。早く家に帰りたいけれど、ここは我慢してつき合った方が安全かも知れない。彼は気弱く妥協した。
「では、そうするか」
 車はそれから五百メートルほど走り、歩道にタイヤをすり寄せて停った。彼は車を出た。氷水屋の赤い旗はだらりと垂れ、のれんを分けてくぐる時、粒々のガラス玉が腕の毛をチクチク引き抜いて痛かった。氷をあつかう店のくせに、店内は街よりも暑かった。
「氷イチゴ二つ」
 そして運転手は店の隅に行き、古ぼけた将棋盤を持って来て、彼に向い合った。細いねむそうな眼が、彼の真正面にあった。
「旦那。一丁指そうじゃないか」
「なに。将棋を、ここでか?」
「そうですよ。あんたは指すと言ったじゃないか」
「指すとは言ったよ。しかし君とは――」
 言いかけて、彼は口をつぐんだ。のっぴきならないものが、背中に迫っているような感じがした。
「何か賭けるのか?」
「うん」
 細い眼がすこし大きくなった。眼球に赤い血管がチクチクと走っているのが見える。
「負けた方が、相手に最敬礼をする。それでどうだね。旦那」
「よし。指そう」
 常務の白いぶよぶよした掌が、運転手の後頭部をぐっと押す。頭は圧力にあらがいながら、結局のめってしまう。ふん。あれか。そう思ったとたん彼は全身の弛緩しかんの底から、妙な闘志が湧き上って来るのを感じて、運転手よりも先に、駒をぱちぱちと並べ始めていた。





底本:「ボロ家の春秋」講談社文芸文庫、講談社
   2000(平成12)年1月10日第1刷発行
底本の親本:「梅崎春生全集 第6巻」新潮社
   1967(昭和42)年5月10日発行
初出:「群像」講談社
   1962(昭和37)年7月
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年3月4日作成
2016年8月11日修正
青空文庫作成ファイル:
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