今でもその子供等のことを、僕は時に思い出す。その子供たちは、たしかに僕の餌箱から、餌を盗んだのだ。
それはもう十年も前のことになる。
十年前というと、まだ戦争中のことだ。戦争中だというのに、大の男がせっせと防波堤に通って、魚を釣る。それも僕だけじゃなくて、防波堤の常連とでも言ったようなのが、十人近くいた。それに半常連。フリの客など。それに本職の漁師も時にこれに加わる。その本職の漁師たちは、お互いに大阪弁で会話した。その海は九州のある湾だから、すなわち彼等は他国者だというわけだ。
つまり何かの事情で移住してきたこれらの漁師たちは、その湾の
これら本職のやり方を見ていて、僕は
つまり本職の釣り方は、あらゆる合理的な考えの上に立っている。だいいち釣れそうな天候や潮具合の時しか来ないのだ。ところが素人常連のは、魚の引きを楽しむためにわざと弱い竿を用いたり、必要でもないのにリール竿を使用したりする。まあこれは一種の
その子供たちが、この漁師の誰かの息子かどうか、僕は知らない。しかしかれらは子供のくせに、
それは七月頃だったかしら。その頃はメバルはすでに遠のいて、セイゴ、キスゴ、平あじ、ハゼなどの
毎日毎日魚釣りをつづけている中に、初めはあまり気持良くなかったが、僕はしだいにゴカイという虫が好きになってきた。ゴカイというのは、形はムカデに似ていて、赤い色の虫だ。まったく見慣れると、ゴカイは女体のように
で、その日は曇っていた。沖の方が暗くて、夕立が来そうな気配もあった。僕は沖の方に向いて釣っていたのだ。防波堤の外側と内側とでは、その日によって釣れ方がちがうし、また釣れる魚の種類もちがう。その日は外側の方が当りが良くて、皆そちら側に竿を出していたというわけだ。
その子供たちは餌を使い果たしたのか、人の
まだ十匹余りいた筈なのに、それが、二、三匹になっていて、その二、三匹も箱のふちにひっかかってだらしなく伸び縮みしている。
さっきまで釣りは止めて、そこらをウロチョロしていたし、またぼんやり海を眺めていたではないか。今海面を見詰めている兄の
僕が近づくと、二人は急に緊張したようだった。かたくなに僕の方を見ないようにして、ことに弟の方は背をかたくして、あきらかにおそれに満ちた表情でそっぽを向いている。子供の餌箱の中には、僕のと大体同じ型の同じ大きさのゴカイが、ぐにゃぐにゃともつれ合っていた。そして子供の浮子がビクッと大きく動いた。
「そら、引いてるじゃないか」
そう僕は言いかけて、途中で止めた。兄は釣竿を上げようとはしない。じっとしている。浮子が動かなくなって、それからそろそろと竿を上げた。糸の先は針ばかりになっている。餌をとられたのだ。
「バカだな。しっかりしろ」
そう言おうとして、僕はやはり言わなかった。向うも内心ジタバタしているが、別の意味でこちらもジタバタしている。その意識が急に僕の口辺を硬ばらせた。僕はそのまま背を向け、振り返らず、まっすぐに防波堤を岸の方に歩いた。防波堤は岸に近づくにつれて低くなり、満潮時だから海水に没している。膝頭までひたす海水を、はねのけるような気持で進みながら、何だかやり切れない感じがしだいに強くなって来た。子供たちからなめられたような気がしたのか、子供の所業がしゃくにさわったのか、またその所業を見逃した自分がやり切れなかったのか。そしてあいつ等は、餌を盗むのに、沢山の中からよりによってこの俺をえらんだ。どういう
まあその日から一週間ばかり経った。やはり曇ったような天気のハッキリしない日だった。前の日とちがって、魚の当りが悪かった。潮加減がよくなかったのだろう。僕は朝から釣れないでいい加減くさっていた。その上岩にひっかけて、糸を何本も切らしていた。昼の弁当を食い終っても、僕の魚籠はほとんど空だった。そこでもう今日は止めて帰ろうと思ったのだ。
そしてふと振り返った時、そこにこの間の子供がいたのだ。この前と同じように、兄弟並んで、ぼんやりと海を眺めている。その時僕は、ほとんど無意識に、そして彼等に気付かれないように、自分の餌箱を脇に引き寄せていたのだ。次の瞬間、その自分のやり方が急にあらあらしく僕に反撥してきた。れいのジタバタが始まった。
「ふん」
と僕は思った。そんならあの子供たちに、今日はこちらから餌をわけてやる。そんな思いつきがとたんに頭をかすめた。もうどうせ帰るのだから、残りのゴカイは不用なわけだ。ゴカイというやつは、とても条件を良くしないと、翌日まではもたないのだ。
僕は立ち上った。餌箱をぶら下げて、ためらわずに兄弟に近づいて行った。
跫音を聞いて、兄弟は振り向いた。警戒するように二人の表情は突然するどくなった。兄の方は、よりそってきた弟をかばうように、身体を動かして構えた。その兄の眼付きは、僕をたじろがせるほど烈しかった。
「餌をやろうか。え?」
さり気なく言ったつもりだが、あるいは兄弟はその語調のうちに、なにか底意を感じたのかも知れない。
「餌がないのだろう。いらないのか」
子供の傍の餌箱は空で、底には小量の泥がかさかさに乾いている。兄は警戒の色をますます深め、じっと僕をにらんでいる。にらむとこの子はやや
「餌、欲しくないのか」
笑って見せようとしたが、笑い顔にならなかったかも知れない。僕は餌箱を眼の前につき出そうとした。その時突然、兄の方がいやにはっきりと答えた。
「いらん!」
そうか、と僕は言い、しかし俺はもう帰るし、どうせ餌は捨てるんだから、要るのなら置いてゆくよ、とまだ言い終らないうちに、
「いらん」
とも一度兄が言った。ほとんど同時に弟が脣を曲げるようにして、
「いらないぞ」
とつけ加えた。兄の声は、前ほどつっけんどんではなく、やや弱々しくひびいた。そうか、としかし僕もすこしむっとした。しばらく視線を合わせていたが、僕は突き出した餌箱の
赤くもつれ合ったゴカイは、ひとかたまりのまま緑色を帯びた海水に落ち、そこでやわらかくほぐれ、数条の赤い模様をつくり、美しく伸び縮みしながら、しずかに沈んで行った。沈んで見えなくなるのを見届けて、僕は子供に背を向けた。
しかしそれはことごとく、僕の感傷のジタバタだったんだろう。つまり現実の摩擦を避けるために、僕の打った手が、逆に僕を
それから十年経つ。あの兄弟も生きていれば、もう二十歳を越しているわけだ。僕が時々あの子供たちを思い出すように、あの兄弟も僕を思い出すだろうか。思い出すと仮定して、その思い出される僕自身のこと、彼等の眼に映った僕の挙動や表情や