妹の死

中勘助




今から十八年前の秋、ひとりであの島ごもりをしてたときに私は九州へかたづいてる妹が重体だという思いがけない知らせをうけとった。私は涙をうかめたけれども島を出ようとはしなかった。そのときそんな気もちでいたのである。ところが妹の容態はその後いくらか見なおして床についたままではあったがつぎの年の夏までもちこたえた。左にかかげる小品はその夏妹が私にあいたがってるということをきいていよいよ望みがなくなった彼女を嫁いり先へ見舞ったとき、たぶんその死後間もなくなおまざまざしい記憶と生前枕べでの手控えをたよりに思い出ぐさにもとおもって書いておいたものである。


 来てみたら妹は見るかげもなく痩せていた。前ぶれをしなかったのでどんなに驚くだろうと思ったが、驚きもし喜びもするはずのところを極度の衰弱のために目にみえるほどの興奮も示し得ずに――かような不随意的な無表情はそののち私も病気で衰弱したおりに親しく経験したことである――ただひと晩じゅうほとんど眠らなかった。妹は痩せたために顔がわりがしていた。どちらかといえば細かった目がぱっちりとして切れがながくなり、おとなしく小さかった口が一の字にしっかりと結ばれて、笑うと口もとに縦の深い窪みができる。蒼白く弱弱しい皮膚のうえに、それはかつて妹の容貌のうちでいちばん美しいものであったところの柔くひいた眉がまえよりも濃くのびらかになったようにみえる。どこといってとりたてて目にたつのではないがすべてが尋常に人好きのするほうであった顔になにかいい意味で技巧のかおりのする彫刻的な美しさがそわっている。――私は後にはからずその似顔を能面の孫次郎に見出した。妹も能が好きだった。それゆえ彼女が私のためになんぞ骨の折れることや気のすすまぬことをしてくれたときには「御褒美ほうびだ」といってよく能につれていった。そんなことのために私はこの小品に 孫次郎 という表題をつけようかと思ったこともあった――私と不意の久しぶりの顔を見あわせてからしばらくして妹は
「□□さんたいへんふとったわね」
といった。これが最初の言葉だったかもしれない。挨拶なぞはしていられないほど衰えていたのだ。
 どんなところかと思ってきたら妹はぽっつりと土塀にかこまれた陰気な家に住んでいた。病室のまえの二坪か三坪の地面にひばが四、五本ならんで、土塀のうえの瓦のすきまにつんぼ草がからからにはえている。ときどき色のうすい弁慶蟹が目をうごかしながらじわじわとはいあるく。夕がたになると無数の蜘蛛くもがひばの枝から枝へ、また軒から瓦へといそがしく巣をかける。守宮やもりがでる。そんなものが大嫌いだった妹は枕にひったりと頭をつけたなりまるで見えないもののように平気でそれをみている。反対の側のやや広い地面には姿もない木がばらばらと立って、そのなかに赤い実のなる小さな木がまじっている。やっぱり無数の蜘蛛が巣をかける。精霊しょうりょうとんぼのはねが軒端をつたってひかひかと光る。妹は
「私そんな島のこときいて泣いたわ」
といった。私が島にこもっていたことを彼女は最初の重体ののち、一時よほど容態がよくなったときはじめてきかされたのだ。こういう短いひと言にさえわずかに残った気力を一所懸命あつめなければならないように、そして無駄をしないためにたくさんの話のなかから出来るだけ大切なひとつをよりだそうとするように、ながい間をおいてぽつりぽつりと蚊の鳴くような声でいいだすのであった。
 妹には女の子があった。まだ一つで、這ってあるく。その産のすこしまえから床につきどおしなので一度も抱いたことがない。ただ這ってあるくのを頭の位置はそのままに眼の動かせる範囲内だけ眺めてることがある。子供はむかいの釜屋の夫婦が無性むしょうにかわいがってたいがい朝から借りてって一日じゅう遊ばせている。狭い人通りのないみちゆえ子供のはしゃぐ声がよくきこえる。善い人たちらしい。
 黒い蜂が蜘蛛をとりにきてたくみに巣からとってゆく日があった。また蝙蝠こうもりの飛ぶ夕べがあった。雨の日も、雷の日も。
 井戸ばたへ顔を洗いにゆくと大きなざぼんの木があって青いのがたくさんなっている。その涼しい木蔭こかげには金色をしたつがいのたくましい鶏が自分たちの領分みたいにいつもならんでるが、人がゆくと雄のほうが喉をならして羽根のはえた足をのさのさと大股おおまたにはこぶ。妹がかたづいてからはじめて上京したときにところの風のかわってることなど話して笑いながら、盆暮れには家になるざぼんをひとつずつ知るべへくばるのだ といったが、それはこのことだったのだ。
 ある日妹は
「□□さんきっとああいうところが好きだからいってごらんなさい、裏のおほりのふちにたったひとつ狭い部屋があるから」
といった。それはもと物置だったところへ畳をいれたので今でも物置なのだが、いろんなものをつめたあいだに人ならばやっと二人横になれるほどの余地がある。母屋おもやからはずっとはなれて昔のお城の濠にじかづけにたってるので、しずかでもあれば、珍しいも珍しい。水の幅は一町ばかり、いちめんの蓮のほかに水葵みずあおいがまかなにかごちゃごちゃに茂って浮き草が敷きつめたようになっている。風の日には吹きよせられたあとに水があらわれてふなが鼻をならべてるのがみえる。白い蓮の花の咲きみちてるのはこうごうしいものである。つぼみはさきのほうだけほんのりとあかい。陣笠をあおむけたような葉がま夏の日光をたたえかねてゆらゆらとゆれている。巻葉も美しい。雨の日はもっとよい。雨あしのすきまなくみえるのも、蓑笠みのかさの人などゆくのも。鯉、すっぽん、鰻もたくさんいる。もとは菱くいや鶴など人をもおそれず群れてたという。私はこの面白い離れが気にいって、たびたびいっていつまでもはいってるようになった。
 妹は昼のうちはうとうとしてるが夜になると頭が冴えて眠られない。そしてみんながよくてるのに自分ばかりひとり目をさましてるのが寂しく、また体も苦しいのでひとをおこしてはむずかる。私もそばに寐てるのだが私だけはおこそうとしない。それは私がたとえ心ではどう思おうとも手を出してまではなにひとつしてやったためしもなく、する気づかいもないからで、――この傾向はいろいろな理由からその後非常にかわった――私もそれで平気だし、妹のほうでも別段ものたりなく思うでもない。――彼女が私に求めて、そして得たのはこの胸であった。手ではなかった――夜なかに妹があんまりじれたり悶えたりすると私は目をさましてひとりで笑う。妹は苦しいときにはこのへんの言葉で きつい きつい といって訴える。自分の苦痛をわかってほしいばかりに永い間に使いなれたのであろう。
 妹は大儀だもので用事のほかにはよっぽど気分のいいときででもなければそばにいる私にも話しかけない。彼女はあるとき
はきがくるとすぐ□□さんが見にきてくれるから嬉しくて……」
とそれをなかば私に感謝するように、なかば××さん――つれあい――に告げるようにいった。妹がなんにもたべられず、強いてたべる一杯の食事をさえもどしてしまうので、私は吐がくると食べたものが出てしまったか、おりあってるかと気にかけてのぞいてみるからである。また××さんの留守に私がほかの部屋で仕事をしてると
「すまないけれど寂しいからここへきてちょうだいな」
という。私は「銀のさじ」の原稿をもってそばへいって机にむかう。妹はまじまじと私の顔をみたり、うとうととらくそうに眠ったりする。彼女がながいわずらいのあいだにあいたいといったのは母と私だけだそうだ。そうして……
「私こんなにして二、三日うちに死ぬんじゃないかしらん。でももうみんなあいたい人にあったからいい」
 そんなこともいった。そうかとおもえば はやく丈夫になりたい といったり、あんまり苦しくなれば 死んだほうがましだ ともいう。
「家がまわる。ふわふわして体があるかないかわからない」
 そんなときに妹はいちばんいやがる。頭がぼーっとしてしまって、過去も、現在も、未来も、自分も、自分のねてる位置も、ねてる理由も、なにもかもわからず、一瞬間まえのことも夢のように遠くなって、ただそのようにわからなくなったということだけがわかるのである。彼女ははやくわかりたい、その半死半生の状態からのがれたいとあせってもだえたり泣いたりする。しかしまったく経験のない私にはその肉体的であるよりはむしろ精神的なものらしい悩みが充分にわからない。
 わりあい気分のいい日、私と二人きりのときに妹はこんな話をした。それは去年のことだった。こちらへきてからはじめて雪がふった。ひさしく雪をみなかったものでとこについていながら嬉しくて嬉しくて、たべたくてたべたくてしかたがなかったので、叱られるのをやっと頼んで松の葉につもったのをとってもらってたべた。妹はそれを話すときに思いだしても嬉しいらしく子供みたいにいそいそとした顔をした。彼女は でもすぐとけてしまった といった。
 病気があまりながびくので妹は自分でも入院してみようかという気になり、皆もすすめていよいよそうときまった。家を出るときに
「こんだ退院するときは玄関まで歩いてこられるかしらん」
なぞといった。もうじき死ぬのだということを××さんからきいて自分一人だけ知ってた私はそんなことをいわれるのがつらかった。私は病室までつきそっていった。帰るとき妹は
「毎日きてちょうだいよ」
といった。
 私は毎日病院へいってなにをするでもなく寝台のそばに腰をかけている。そのあいだにさきで気がむいたときひと言かふた言話をする。入院のときの運動がさわったとみえて容態がいっそう悪くなり、頭が毎日のようにぼんやりして心細がる。妹は自分がどういう位置におかれてるのかも、蒲団ふとんや寝台のあるなしさえもわからない。そうして食事のときにもいつものとおりの体の位置でいつものとおりに食器を出されないと箸のとりかたもわからずに食器を見つめて考えている。そんな風なのでひとしお寂しがって私がゆくと
「寂しいからそばへよって手をもってちょうだい」
ということがよくある。そんなとき私は一日手をとって顔をながめている。……妹は
「よっぽど胃が悪いのね」
といった。もうじき死ぬというほど衰弱してるのだとも知らないで、彼女は胸のへんにひどい衰弱や、血液の不純になった場合の面白くない徴候とされる無数の皮下出血をおこしている。
 死ぬ二日ばかりまえのことだった。……私にすぐきてほしいというのでいってみたら誰もいないでひとりっきりぽつねんとねていた。
「どうした」
といってそばへよったら
「寂しいから手を握って」
といって手をだした。その前日だったか 入院してからはじめて頭がはっきりしてなんでもよくわかる といって非常に喜んでたが、この日も気分がいいといっていつになく話などした。ぼんやりすると死にたがるのがはっきりすればやっぱりよくなりたがるのを自分でもおかしいといって笑った。妹は……ぐちをこぼした。それから もうすこしうえへ体をあげて というのでそうっと抱えてずれた枕のほうへ押しあげようとしたらすこし強くゆれたためにせっかく冴えてた頭がまた朦朧としてしまった。けれども彼女はちょっと笑顔をみせて、はじめて私にそんな世話をしてもらうのが嬉しいようなきまりが悪いような様子をした。それがあとにも先にも私が手をくだして世話をしてやったたった一度である。枕もとには見舞にもらった西洋水仙の鉢植えがおいてあったが、あれほど花が好きだった妹ももうそれをみようともしなかった。私が買ってきて壁にとめた版画にもただ きれいだこと と気のないひと言をくわえただけだった。窓のまえにはポプラーと夾竹桃きょうちくとうの若木があって幾羽かの鳩がよく餌をひろっていた。天神様からきたのだろう。
 たしかこのことのあった翌翌日の朝だった。病院から急の迎いがきたのでとりあえずいった。××さんは海峡をこえて往診に出た留守だった。いつもおいてゆかれるのをいやがってひきとめるのがその日は 気分がいいから といって承知したのだそうだ。で、つきそいの者だけしかいなかった。妹は唇の色もなくなっていた。私と母の顔をみて
「苦しい。唇をしめして」
と虫のようにいった。起きあがって坐ってるうちにうつぶせに倒れて脈が非常に悪くなってたのをようやく注射でとりとめたのだという。私は 予期した時がきたな と思った。注射のためにちょっと気力をとりかえしたとき妹は
「私もう今日はごはんたべない」
といった。いつも叱られて強いて食事をさせられるのだ。義理の父母も釜屋のかみさんもきた。乳母は子供を抱いてきた。妹は涙ぐんであわててる人たちを平気に見まわしていた。そして自分の背中のほうに子供を抱いて立ってる乳母に
「こっちへこなければ見えやしない」
といった。釜屋のかみさんが乳母の手から子供をうけとってみせた。妹はただひと目みたばかりで平気な顔をしていた。彼女は苦しくなるとうわことみたいにいろんなことをいったがそれは決してうわことではなかった。いつのまにか目をとじてしまっていながら先生のいるいないをよくききわけて
「頭ばかりはっきりしてなんにもわかりませんからもう……」
といった。また訴えるように義理の母を呼んで
「お母様苦しい」
といった。妹はしんからその母に頼っていた。お母様は涙をこぼして
「ああ ああ もうじきらくになるけんの」
といって背中をさすった。妹は目をとじたままでそのせつない、頼りない、奇怪な悩みをどうぞして皆にわからせてはやくどうにかしてもらいたいというように苦しいなかに言葉に力をいれてくりかえしくりかえしこんなことをいった。
「いくら息をしようと思ってもできなくなってしまう。どうしたらいいんでしょう。ほら、いくらしようと思っても……」
 そういううちにも幾度も息がとまりかける、一所懸命力をいれて吸いこもうとするのだが。
「誰か教えてくださらないかしらん。どうしても息ができなくなってしまう」
 しまいにはうかされたように
「誰か息をこしらえてちょうだい」
といった。また
「なにかいってはすぐ忘れてしまうから始終氷を口へいれてて、そのあいだだけわかるから」
ともいった。いつもながらこういう場合ほど我我の無能がよくあらわれることはない。私たちは死神にいいように料理されてる病人をとりまいてしんから手もち不沙汰ぶさたに控えている。私は自分をはじめ人たちを見まわして思わずふきだしそうになった。私は立って窓のそばへいって外を眺めていた。ちょうど夕だちがあがって雲の塊がふわふわと飛んでいった。やがて暑い日になって強い風がおさまった。
 そんなにしてなんべんも息がとまりかかるのを注射でとりとめとりとめ三時ごろにもなったが××さんは帰ってこなかった。しまいには病院の入口から病室まであきあきするほど長い廊下のところどころに人が立って××さんの姿がみえると同時に出来るだけはやく病室へしらせる手筈てはずになった。そこへやっとのことで××さんが帰ってきた。私は気がらくになった。あとはただもう死ぬだけのことだ。××さんが帰ったときには目はあかなかった。××さんが手をとって
「わかるか」
といったらうなずいて
「声でわかる」
といった。――誰か泣いた――注射などしてるうちに不意にぱっちりと目をあいた。そして皆の顔なぞを見まわしてにこにこしながら
「またわかるようになった」
といった。妹はそのときからもうちっとも肉体的の苦痛を感じなかった。――モヒの注射をしたのではなかったかと今思う――顔に血のけも出てきた。そして××さんに手をとられてなにか問われるままにいつもの苦痛のないときのとおりに話していた。しかしごく緩慢な周期をもって意識の明瞭なときと不明瞭なときが交互にくるのを自分でも気がついてる様子だった。その意識の不明瞭なときには脈も呼吸も変調を呈してるのだった。明暗の周期が次第に速くなって一歩一歩最後に近づいてきた。私もちょいと手をとってみたがいつのまにか先が蒼白に冷たくなっていた。とうとう妹はなにかいってるうちに あ あ あー と息をひいて五、六秒のあいだ呼吸がとまってたが、見てるうちにちょうどうなされた者が目をさますときのようにはっと目をあいて あー と溜息をし、また息をふきかえして私たちの顔をみてさも嬉しそうににっこり笑った。
「どうした。嬉しいか」
 ××さんがいったら軽くうなずいて
「またわかってきた」
といった。私は いよいよ死んだ と思ったのが生きかえったので不思議な気もちがした。妹は泣いてる母や皆の顔をきょとんとして見まわしていた。××さんと話してるあいだにときどきじっと私のところに瞳がとまることがあった。眼の色がうすくなってきた。私は まだ見えるかしら とおもってすこしそばへよって
「みえるか」
といったらかすかにほほえんですこしうなずいた。私はこのいいようのない静な不思議な様子をよく見ようと思って、寝台にかたひじをつきながら刻刻弱ってゆく彼女を仔細しさいに観察して要所要所を手帳にかきとめた。妹は絶えず脈をとってる××さんと話してるうちしまいに
「もうあなたと話すのもこれぎりかもしれなくてよ、すぐわからなくなるんですもの。ほら……」
 そういってこつりと息をとめて眼をとじてしまった。××さんは待ちかまえていて注射をする。一言もものをいう者がない。静である。そこには××さんと私と二人の母のほか誰もいなかった。眼をとじた顔を見つめて待ってるとやがて息をふきかえす。いよいよ頼みずくなになってきたので××さんが
「なにかいいのこすことはないか」
といったらわずかに笑みをうかめてうなずいた。もう死ぬのはなんともなかったのかもしれない。よくいったように死にたかったのかもしれない。××さんは床に顔をおしつけてたまらなそうに泣いた。……妹の瞳孔は散大してなにも見えないらしかったがその眼もとうとうつぶってしまった。それでもなにかいうらしく唇をうごかして自分の顔のまえにかきさぐるような手つきをした。が、間もなく息をひきとった。最後の息というものはいくたび見ても最後らしく、そしてよそ目にはせつなそうなものである。皆はまわりによって泣いた。私はそういう場合の私の習慣? に[#「私の習慣? に」は底本では「私の習慣 ? に」]したがって涙はひとつぶもこぼさなかった。そうして彼女の死のためにひとに忘れられてからからになってる西洋海棠かいどうに水をかけてやった。鳩がいつものとおり餌をひろいにきていた。晴れて暑い夕べであった。名物の夕なぎがはじまってポプラーも夾竹桃も細工物のように静にたっていた。
 屍体したいを家にはこんで座敷にねせておく。こうなると私はいつも奇異な気もちに襲われる。この陶物すえものの人形みたいによこたわってるものをみて これはいったいなんだろう と思う。釜屋の親仁おやじさんは子供をつれてきて
「これみいさいや。お母様はなんまみ様にならっしゃったが」
という。子供はけろりとして眺めている。
 みんなそれぞれの用事にまぎれてるので屍体が床のまえにおきはなされている。で、寂しがって私をよんだことなど思いだしてそばに坐っている。
 翌日入棺。土地の習いでみんなして南無阿弥陀仏を紙にかいていれてやる。釜屋の親仁さんは
「私もいれさせていただきましょうわい」
といって書いていれる。身うちの者だけは手足の爪をきって紙に包んでいれる。平生癇性かんしょうに爪をきる私にはとろうにも爪がない。で、申訳ばかりけずっていれる。蒼白く硬直して窮屈な棺のなかに合掌してる死骸をふとみればやっぱり妹のような気もする。この手は昨日まで 寂しいから といって私にさしだしたそれにちがいない。夜、火葬場へゆく。
 あくる朝はやく××さんと壺をもって骨をひろいにゆく。隠坊おんぼう目塗めぬりの土をばらばらとはぎおとして鉄の扉をあける。鉄板のうえに砕けた骨が灰にまざってるのを荒神箒こうじんぼうきに長い柄をつけたようなものでかきだしてりわける。焼き場もりの男はかまの後ろの口へまわって
「これだけむこうに落ちとりましたで」
と頭蓋骨のつぎめからはなれたのを二、三枚拾ってきた。私たちは灰のなかから、これが肋骨、これが椎骨、大腿骨、なぞとひとつひとついじってみては壺にいれる。大きなのはからりと、小さなのはちりちりと音がする。骨のなかに黒ずんだのがあるのを焼き場もりの男は
「脂などがあるとどうしてもこうなります」
といってつまみだしてみせる。そばで隠坊が骨の粉をふるいはじめたので灰かぐらがもうもうとたつ。私たちはしばらく外へ出る。海には――火葬場は海岸にあった――玄海島、のこの島、鹿の島などというのがみえる。沖のほうに海の中道なかみちといって長くながくつきでた砂洲がある。舟がすきな妹はそこへゆきたがってたのでいつかつれてゆくはずだったのだそうだ。ふるいわけられたなかからまたいくつかの歯をひろいだす。壺が小さくてはいりきらないのを焼き場もりの男が上からおしつけて骨をみじゃくので大きなのととりかえる。
 つぎの朝庭の赤い実のなる木に蝉のぬけ殻があったのをよくみればそばにぬけたばかりのみんみんがじっと休んでいた。どこもかしこもまだみずみずしくうすい色をして、はねなど白珊瑚と翡翠ひすいの骨組に水晶をのべてはったようなのが露にぬれてしっとりとしている。……
 夜。葬式。寺の墓地は広くて大鳥毛みたいな形をした銀杏いちょうの大木が五、六本まっ黒にならんでいた。妹の墓は実をもったはぜの木のあいだにたてられた。

妹は二十三だった。面影は十七年ものながいあいだいつも昨日のようにあざやかにのこって、そのままに私が年をとるだけ若く子供らしくなっていった。その面影を目に浮べながら私は筆をとった。そうしてこの小品を書きおえるまでにいくたびも筆をおいてともすればあふれそうになる涙をとめなければならなかった。私は今にして自分がいかに深く彼女を愛してたかを知った。

明治四十五年夏
昭和三年





底本:「日本の名随筆99 哀」作品社
   1991(平成3)年1月25日第1刷発行
底本の親本:「中勘助随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年6月
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2017年10月25日作成
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