演技の果て

山川方夫




 日ざかりは光が眩しかったが、いつのまにかなまあたたかい初夏の宵にかわっていた。かすかな風も出てきて、街路を歩いて行き、見上げるとまだビルの上にうす青い晴れた空がのこっていた。
「すてきだったわ、今日は」私が足をとめると、つれの女は腕をときながらいった。
「とくに、君の食欲がすてきだった」
「あれは、ソースがよくできていたわね、仔牛のカツ」
 頬の肉の厚い女はのんびりいい、目を光らせて塗りなおしたばかりの唇で笑う。「それでね、それで私、おかわりをしたのよ」女の口調には東北ふうのアクセントがある。わざと上品ぶって標準語をしゃべろうとするので、語尾があがる。商売がら、私は訛りについてはうるさいのだ。だが、私はなにもいわなかった。もうその女はいらなかった。私は、彼女と二十時間ちかくいっしょにいたのだ。
 放送局のビルの前で私は女と別れた。背の高い女は石の舗道を五六歩そのままの方向に歩いて行き、くるりと廻れ右して私の前をそしらぬ顔で駅の方に引き返した。彼女は駅の向う側の喫茶店につとめている。淡い水いろのタイトの尻をふって、首をしゃんとあげて歩いて行く若い女には、ながい時間私とだけいた痕はどこにも見えなかった。私はひどく快い気分で昇降機の前に歩いた。
 女たちについては、私はちかごろはその皮膚のことしか考えない。皮膚をこえた部分、私に見えない部分について思いだすと、私はいつも途方にくれ、結局は立ち往生をとげてしまう。私は、ぷつんと糸を断つように別れたいがために、けんめいに女へのその戒律の実行を心がけていたのだ。
 七階の、廊下のつきあたりの本読み室は窓がなくて、そこには夜と昼の区別がない。黄いろい防音壁にかこまれた四角い部屋はボール箱の中のようで、壁にはめこまれた時計が午前か午後かわからない六時ちかくを指し、部屋はつけっぱなしの蛍光照明がまぶしかった。
 ドアをあけて、私は人びとが急に沈黙したことをかんじた。中央の細長い粗末な板のテーブルに肱をつくと、ちんばのその脚がかたかたと床に慄えた音をたてた。まだその音が消えなかった。ざわめきを中断した人びとを代表してのように、佐伯が一語一語はっきりと区切りながらいった。
「マリがね、マリが、今朝、中野の家で、睡眠薬を二箱飲んだそうです」
 それが私が真理子の自殺のしらせをきいた最初だった。俳優たちは異様に凝縮した静けさをまもりながら、思い思いに金属の椅子を壁ぎわにならべている。二三人がぼんやりと私をみつめていた。保井真理子は私の昔なじみだった。彼女は、その夜出演する予定の私の番組のタレントの一人だった。
「さっき、プロデューサーの佐藤さんに、マリの旦那さんから電話があったそうです。ぼくたちも、それではじめて知ったんです」
「死んだの?」と、私はいった。私は、ほとんど腰をぬかしていた。
「いいえ、まだ」老け役の女優がいい、あわててつけ加えた。「だから、たすかるかもしれませんわ」
 私は大きく胸をそらせ、椅子の背に片腕をまわしながらゆっくりと足を組んだ。じつは、立ち上ろうとした動作のかわりにそれをしたのだ。煙草に火をともした。駈けつけたところで、と私は思いなおしたのだ。
「発見がずいぶんおくれたっていうじゃないか。きっと手おくれだよ」
 同じ劇団の若い男女たちは話しだした。「昼すぎになってから、ばあやさんが、あんまりいびきがすごいんで気がついたっていうんだから」
「胃にすっかり吸収されているよ。そしたら駄目にきまってるさ」
「でも、どうしても死ななければならないどんな理由があるのかしら。マリ、昨夜だってぜんぜんいつもと同じだったわ」
「だれか思いあたることあるかい」
「久保さんは、どうです」
 一人が私に声をかけた。私は首をふった。私はなにもしゃべりたくなかった。
 人びとが取り沙汰する自殺の理由などは、どうでもよかった。私は真理子が助かるのも、助からぬのも思っていたのではなかった。そのとき、私はほとんど真理子について考えていたのではなかった。
 私は、暮れかけた街に早くもネオンや明りが点りはじめ、さわやかな風が街路樹の梢をかるくこだまさせて渡って行った風景、何も知らず私が感覚に触れさせてきた今日の時間を思い出そうとしていた。私はその日、朝をしらなかった。ホテルの窓から見えた踏切りの黄と黒のだんだらに塗り分けられた竹竿、赤い化粧瓦の上を這っていた一匹の黒い大きな蟻、午後の染まるように美しく晴れた青空。だが、といってそれらは特別なものでもなく、それらが意味をもち私に集ってくることもなかった。それらは真理子の存在も不在も証しているのではなかった。それらは、すでに無意味な遠いなにかの形骸であるにすぎず、そして私には、同様に真理子もかすかに外見を遠望させている一つの風物としてしかとらえられなかった。私は、舗道に硬いヒールの底をうちつけるようにして歩いていたさっきの女さえも、もはやとりたてて思いうかべてみることができなかった。膜をへだてたように、他人の生も死もなまなましく感じとれず、私は遺棄されたように独りだった。――これは、この部屋のせいかもしれない、と私はいらいらして思った。たしかにその部屋は、風から、季節の青空から、太陽から、街のざわめきから、日常の世界から隔離されて、宙にうかんだ真空の箱のように、息苦しく空中で閉じられているのだった。
 ドアがひらいた。ストップ・ウォッチをバンドから吊した佐藤が、台本をもった小柄な若い女の肩を押すようにして入ってきた。人びとの視線を避けるように目を伏せ、ドアを閉めて、大男の彼は若い女の肩に掌をのっけた。
「この人に、マリの代役をやってもらう。劇団の高野君、高野ユカリ君です」
 彼は自分の武骨な手をみるように首をまげた。もちまえの、太い声がいった。「マリは、死んだそうだ。いま、電話がかかってきた」
「信じられないなあ」佐伯が、間を置いてから無邪気な声でいった。スタッフはだまっていた。
「昨夜、ぼく、いっしょに飲んだんだよ、新宿で。平山もいっしょだった。ね、平山?」と佐伯はいった。「さて、そろそろ帰らなくちゃあ。旦那様がかわいそう、なんていってね。ぼくたちはそこでみんなばらばらに別れたんだ。ぼくには計画的とは思えないよ」
「だって、発作的なものにしたって、マリにどんな理由がある? 死ななければならない」
 さっきの真理子の母親役の女優が、へんに挑みかかる口調でいった。「かわいそうに」彼女のすすり泣きは、しのび笑いのように聞こえた。「あの人は、いつも一人ではさびしい人だったわ。だれかがいると、それがだれでもぱっと明るくなり、強くなるの。私は、どうしてあの人を私たちが死なせちゃったかと考えると……」
「とにかく理由なんて考えるのはやめろよ」平山がはじめて口を出した。「遺書もなかったんだろ? マリにしても、わかってもらいたくもないのかもしれないしな」
「ひどいことを」女優は憤った目で平山をみつめた。平山は不機嫌に黒のベレをいじっていた。女優はなにもいわなかった。
「……なんだか、腹が立ってきちゃった」と私はいった。「友だちの自殺は、これで五六度めだけど、おれはいつも腹が立っちゃう」
 無言のまま佐藤が笑いかけた。私も微笑して目をおとした。私は思っていた。おたがいに、我慢をして生きていたはずじゃないのか。あばかれたおたがいの無力さ、そして抵抗のしようのない空白感。おれはそれが過ぎて行くのを、じっと待っていなければならない。
「おれと久保が、いちばん古い友だちなんじゃないか、このなかで」
 佐藤は幅ひろいナイロン・ジャンパアの肩をゆすった。「マリがまだ英文の女子学生のころだったからなあ、思えば」
 そのころ佐藤と私とは仏文で、真理子は経済の同じ学年にいた保井進と結婚した。みな同じ大学の演劇部での仲間だった。人形劇の道具をかついで、伊豆半島から元気に東京都の島めぐりをした夏もあった。「あれだな、これで芝居につながったことをやっているのは、またおれたち二人きりになったな」と佐藤はいった。真理子は卒業後まる一年ほどは芝居からはなれていて、二年前、佐藤にせがんでまた現在の劇団で芝居をはじめたのだ。
「ばかなやっちゃ」佐藤は深刻な顔でいった。
 どっちかといえば、マリは好きだったなと私は思った。小柄で、首すじの白く清潔な女だった。鼻ぺちゃで目の間隔がすこし広く、美人ではなかったが純真で健康な感じで、一二度ふられた舞台での役もそんな娘役ばかりだった。芝居はうまくなかった。すぐ夢中になってしまう性質たちで、だが、ほんとに好きだったらそれも可愛く思えるのだろうが、あの少女っぽいロマンチックな自己陶酔癖には閉口した。酔っぱらうと木でも電柱でも、高いところに臆せずよじのぼって、知っているかぎりの歌を気分をこめて歌いまくるあの癖、澄ましかえって童謡舞踊をおどりだすあの癖。私はいつか意地わるく、マリは芝居より芝居ものの生活の方が好きなようで困る、と冗談めかしていった記憶がある。それとあの一本気な、おしつけがましい親切と議論好き。マリには、どこかひどく分別くさい勝気な女子高校生みたいな面もあって、在学中に保井と結婚したのも不似合いなことではなかった。二人のロマンスはメーデー事件から生れたというのだったが、私はデモには行かなかった。
 佐藤のつれてきた局の専属劇団の若い娘は、片隅で台本の上にかがみこんで、熱心に手を動かしつづけている。よくみるとちびた赤鉛筆を掌のなかに握りこんで、彼女は台本のうらに睫のながい人形の漫画をかき、細く白い指に力をこめ、その唇を塗りつぶすのに熱中していた。「あれで行くぜ、作者」佐藤は私に目で合図をした。「案外にイカす子なんだ、歌もちょっとなら歌えるしな」
「歌なら、私だって」母親役の女優は不機嫌をかくさずにいった。「私が、マリの代役をやるのは、できない相談なの?」
 私は嫉妬をあからさまにして若い娘を睨みつけるその女優にすこしびっくりした。真理子の役は主役だった。
「そろそろリハーサルと行こうか」佐藤は煙草をすて、なれた態度で女優の不満を黙殺した。
「ユカちゃん、いいかい? スタジオは空いてるかな?」
「私、みてきましょう」
 専属劇団の娘は立ち上って、そのはずみでテーブルはがたがた鳴り、台本の上から赤鉛筆がころげおちた。娘は気づかない様子で小走りに廊下に出た。
 だれもなにもいわなかった。部屋はしずかだった。固い蒼ざめたセメントの床の隅に、空になった中華ソバの丼が二つ重ねてある。みじかい赤鉛筆はその丼の前でとまった。私はそれを眺めていた。このような意味もない細かな事実は、ちょうど駅の階段にころげているキャラメルの古箱みたいに、いつもそのときどきに気をとめるくせに一向記憶にはのこらないのだ。私は、そのようにして見、そのようにして忘れた数多くのものの存在をおもった。私はいろいろなことを忘れてきた。
 いまにこの鉛筆も忘れてしまうだろう。忘れるにちがいないのだ。思いながら私は、忘れてきたものの不気味な堆積の重みをはかるように、しばらくはじっとその赤鉛筆をみつめていた。

 保井夫婦については、しあわせなのだというふうにしか、私は思ったことがなかった。私は他人たちに、こちらが弾き出されるような幸福のほかはみたくなかった。不幸をかんじるのが、私はきらいなのだ。私の関心はすべての他人たちに笑顔の壁をもとめ、その先に深入りすることがなかった。そして保井夫婦はそれまでは充分に私のそんな願望にこたえていた。いずれに関しても浮気の噂ひとつきかなかったし、地方銀行の頭取の一人息子として、進たちの暮しはなに不自由がなかった。
 その夜、私は佐藤からギャラをもらい、本番を彼にまかせひと足先きに中野の保井家へ向かった。中央線に乗り替えようとするとき、私はちょっと億劫をおぼえた。その小豆いろの車内で真理子と睨みあったある日を思い出していたのだ。私はまぶたをうすあかく染めた真理子の顔をみていた。
 私は、そのときは真理子に強引にひっぱって行かれたのだ。一昨年の冬のことで、満員の国電の中で真理子は大声でトン子が、トン子を、と小田富子のあだ名を呼び、恋がどうの、愛がどうの、誠実はどうのと興奮して叫ぶような声をあげた。小田富子はおなじ演劇部の仲間で、卒業後は教科書出版社につとめていた。私は四年ごしの関係だったその小田富子と、前の日にはっきりと別れていた。
 その日、私たちは電車の中で、ちょっと考えられないほど羽目をはずしたのだ。スタジオからの帰り、ちょうど夕暮れのラッシュにあたる時刻で、私と真理子のあいだにもぎっしりと人がつまり、私は打ち明けたのを後悔して乗り換える駅のくるのを心待ちにしていたはずだったが、だんだんとムキになった。人びとの迷惑半分、面白半分の視線を浴び、赧くなって、つい私は上ずった同じような大声でどなった。「がさがさいうな、おれは君に相談してんじゃない、報告しただけのこったぞ」
 真理子はなおいいつのった。私はやり返した。「うるさい、要するにおれは人間がきらいなんだ」「へえん」と一間ほどはなれて、真理子はいい返した。「人間がきらい? よくそれでプラット・ホームなんかでキスができるわねえ、ひとの見てる前で。私ちゃーんとトン子に聞いてしってんのよ」「だからさ、だから、おれはよけいきらいなんだ」私は必死になってさけんだ。
 けんめいに私を見ようとしてもがきながら、真理子は叫び返した。「わかんないわ、なぜあんないい人と別れるのよ、あんたもばかね、よっぽど」私は、完全に逆上した。「どうせおれはリコウじゃない。でも、ばかはばかなりに、真剣に考えた挙句なんです。おれだってこの二三日、ろくに寝てないんだ」
「へえ、それで、これでゆっくりと寝られるわけ? ひどい人ね」舞台できたえた真理子の金切り声はよくとおった。「トン子にすまないと思わないの?」
「もとはといえば悪いのは二人でしょう? こういうことは、単独犯じゃできない」周囲で笑い声がおこった。私は目が見えなくなるほど興奮して、いいつづけた。「責任だって半分こだ、それでもおれが悪いっていわれるなら、それはおれが、おれから止めたことについてでしょう。しかしね、昨夜、もう逢わないっていったときね、おれははじめて、ただ一回、トン子に善いことを実行してるんだ、と感じましたよ。やめようやめようと思いながらずるずるとつづけてるなんて、もっと悪いこった」私は私で、充分に被害者めいた気分になっていたのだ。富子さえいなかったら、おれはこんないやな役まわりをおしつけられることもなかったんだ。私は、富子の肉体の快さを忘れたのではなかった。
「勝手ね、相手の気持ちなんかどうだって、……」小柄な真理子は人びとの肩の下に埋もれたまま、甲高くいいつづけた。「あのひとの、どこがいけないのさ」
 私も負けじと吊皮で身をよじりながらこたえた。「ぜんぶだ。呼吸いきがつまるんだよ」
「悪党、うそつき、ばか」
 真理子の顔は見えなかった。私はたぶんそのあたりらしい見当に大声でどなった。「おれは気がちっちゃいんだ、いいかげんにしてくれ、とにかくおれはおれが大切なんだ」
 中野駅で電車から吐き出されると、真理子は真赤な顔で呼吸をきらしながら、やにわに私の肱をつかんだ。彼女は詰問した。「四年間もさ、つきあってきててさ、なにさ、なにをいまさらわかったことがあんのよ。あんた卑怯よ。それに、理由らしい理由なんかないじゃないの。あんたなにさ」
「あいつは、素直すぎるんだよ。それが四年だ、なんでもおれのいうとおりだ」
「それがどこが悪いの?」
「おれには重たいんだ」私は自分の悲鳴のような声がわかった。「結局、おれがあいつの思いのままになっているみたいなんだ、やりきれないんだ、おれは。おれは溺れかけているみたいな気持ちだ。あいつには非難めいたことはいっていない。おれの問題なんだ、問題は」
 真理子は、急にさぐるような目つきで私をみた。
「あんた、だれか好きなひとでもできたの? そうなんでしょ」
「ばかやろう」
 私はひっぱたいてやりたかった。この健康優良児のようなよく張ったまるい尻を、思うさま蹴とばし、階段からころげおちさせたら、どんなにいい気分だろう。「そんな器用な男に、おれが見えるか」
 真理子はにくたらしく下唇を突き出して歩いた。改札口で精算を要求され、私ははじめてそこが中野駅であるのに気づいた。柵を通り抜けて、「……おれは帰る」と私はいった。ほんとうに帰るつもりだった。「ええと、おれ、なにしにここまでついてきたんだっけな」
 あたりはすっかり夜になってしまっていた。真理子の権幕に引きずられて、五反田の下宿へ帰るはずの私は、電車を乗り替えるのを忘れていたのだ。ひどくばからしい気分だった。耳たぶをほてらせたまま私が出札口に近づき、切符を買おうとするその腕に真理子はぶらさがった。
「はなさないよ、みっともないと思ったら私と来なさい、保井にも話してやってよ、シンネンがあんのならさ」
「いやだ」
「なにさ威張って、大きな声を出すわよ」
「いやだ」
「まだなにも話してないじゃないのさ、あなたのいい分ってのをききたいのよ、あんたがくそ真面目な人だってことは知ってるのよ」
 いまだからこそ「くそ真面目」を屈辱的と考えるが、そのころはそういわれてけっして悪い気分ではなかった。勢いを弱め、だまりこんだ私を引きずるみたいにして、真理子はバスの停留所を歩きこすと、駅前の食料品市場にはいりこんだ。「さ、ご馳走してあげるわ、好きなものをおっしゃい」ふくれっつらの私にもたれかかり、真理子はさも愉しそうにアーケードふうの屋根のついた市場じゅうを歩きまわった。やがて、いつのまにかトンカツをえらんだことにされてしまい、外套が新調だからといい、真理子はつぎつぎと品物を私の胸に積みかさねた。「サラダは、私の方がずっとうまいんだからね、こんなとこじゃ買わない」市場を出て四五軒の八百屋を丹念にさがしまわり、彼女はいちばん安価で美味そうな蜜柑をやたらと買いもとめた。
 私は、肩をゆすることもできなかった。ちょっと大きく呼吸をしても、紙袋から蜜柑や馬鈴薯がこぼれるのだ。そのたびに真理子が天下の一大事みたいな声をあげる。ハンド・バッグのほかには、彼女は花屋で値切りたおした一本の白バラしか持たなかった。小柄なわりに均斉のとれた彼女は、新しい濃紺のプリンセス・ラインの外套がよく似合っていた。温室咲きの白バラをしじゅう頬の近くでひらひらさせ、真理子はまるで罪人を拉致するみたいに、私の外套の袖を片手でしっかりと握っていた。
 中野駅のホームに降り、私は一年半まえの冬の夜ふけ、終電を待ち、ぽつんとその人気ない駅のベンチに坐っていた自分を思い出した。長い貨物列車がごとごとと目の前をいつまでも動いて行き、私は外套の襟を立て寒さにふるえながら、混乱したみじめな気持ちでいた。保井夫婦の幸福は二人を似た顔つきにし、私は二人から閉め出され逃げるようにして帰ってきた。私はそのベンチで、しかし、ただひとつ、このことだけはたしかなのだ、としきりに思っていた。小田富子と別れたいということ、いくら説明ができなくとも、このことだけは強烈な匂いのようにたしかなのだ。

 私は富子が、私の前ではいつもその孤独を忘れているらしいのが気に入らなかった。彼女はつねにやさしく、すべて私のいうがままでなにをしてもゆるしてくれ、反抗や主張やをしたことがなかった。富子にはなんの欠点もないのだ、その考えとうらはらに、でも私はほとんど動きのとれぬ習慣に化した情事のくりかえしに、新鮮さを回復することができなかった。私の愛は行方不明となり、私にとってそれに耐えることは、なんのよろこびもなく富子の従順さに負けつづけることでしかなかった。
 私は焦立ち、この関係はどこかがまちがっているにちがいないと考えはじめたのだ。それは人間と人間との関係、個人と個人との関係、対等の、一対一の関係ではなく、むしろなにか一方的な関係、人と密雲、人と部屋の関係に似ていた。私は彼女の瞳のなかにとらえられて沼におちたように沈んで行き、水面が頭上にあり、私自身が見えなくなり、彼女が突き抜けなくてはならぬひとつの袋小路のように思えた。私は息苦しく、私のほしいのはこんな昼寝のような愛ではないのだと思った。私はべつの愛、けものどうしの闘いのように、おたがいが裸の全身をぶつけあう清潔な関係をのぞんでいた。いくども試みた説得に私は失敗した。私は富子と別れようと決心した。私は鮮明な輪郭のある自分をとりもどしたいとねがったのだ。
 富子は、はじめ私の申し出を相手にしないでいた。「ひと月待って。私にも考えさせて」私はそれを当然だと思った。ひと月待って私はくりかえした。「あら、本気だったの、忘れてるかと思っていた」「すこしは真面目に、おれを正面から相手にしてくれたらどうだい、おれはもう空振りにはたえられない」と私はいった。「私、なにも考えてこなかったわ、考えたって同じだもの」富子は笑いながら答えた。「いままで、私はなんでもあなたのいうとおりだったわ、でも、これだけは駄目。別れるのはいや」私は、はじめて彼女に触れ、彼女と対立できた気がした。私たちは国電の線路に沿って歩きはじめ、渋谷から品川まで、しゃべりながら歩きとおした。はじめて明らかになった彼女と私の確信は、あまりにもちがっていた。彼女は従順で、貞潔で、善良で、無害で、つまり完全で、まずいことにそれを信じていた。私には、逆に自分のそれを信じないことが正義なのに。……たしかに、富子が最初の女である私は、それまで他の女に指一本からませた事実がない。だが、それは私の善良さを私が信じることにはならないのだ。私たちの話は喰いちがい、衝突することすらできなかった。私は別れたい意志を再認した。「そういういい方で君が納得できるのなら」私は不機嫌になっていった。「ぼくは、君に飽きたんだよ。もう、ひとつも好きじゃあない。すまないけど、ぼくは君から逃げたいんだ。二度と逢いたくない」
「私が、死ぬといっても?」と、すこしの沈黙のあと、富子はいった。私はびっくりした。「死ぬ? よしてくれ、冗談はやめとくれよ」
「だってあなたに逢えないのなら、生きてたって意味がないの」富子は泣きはじめた。私は困りきった。「ひとのせいで生きるとか死ぬとか、やめてくれよ、ぼくにはそんな考えそのものがだめなんだよ。……こまるな」八ツ山の陸橋に立っていると、道に白くなまあたたかく油くさい煙をくぐらせて汽車が通って行き、私はうろたえてざらざらした石の手すりをはなれた。富子はつづいてきた。私は彼女に触れないようにしていた。私は自分をいつでも夢中にさせてしまう、彼女の極度にやわらかい肉の微妙な感触をおそれていた。私はいった。「おれには女ならいい、だれだっていいんだ。だれにだってすぐカーッとなる。すぐおでこに平たいものをおしつけられたみたいに、なんにも考えられなくなる。おれは、そのときほど相手の人格を忘れることはないんだ。しかも、その相手の人格を無視した行為の連続が、愛の歴史になる。すくなくも相手はそういう。おれはわかんないよ。おれには、だからそんな『愛』なんて言葉が重荷になる」私にはそれも屈辱のひとつだった。「おれはべつに君じゃなくたっていいんだ、おれは君を最近は、間に合わせの、代理の愛人としてしか扱ってこなかったんだ。おれはそれがいやだ」トラックの光芒が私たちをくりかえし照らし出した。
「あなたがいないのなら、私は生きていたくないわ」「やめろよ」私は怒った顔でいった。私は内心おそろしさにふるえながら、でも頑張りとおしたのだ。「ぼくはぼくの思うようにしか生きたくない。それをやめるのは自分で自分をころすことだ。ぼくはひとつも君を死なせたくはないさ、でもぼくは結局は君の身代りにも、だれの身代りにもなれやしない。だれもぼくの身代りにはなれないのと同じことさ。これは、当然のことだろ?」

「へえ、あなたってヤクザね、おどろいたわ」私がいきさつをくりかえすと、真理子はウイスキィ壜を持ち上げながらいった。「つまりさ、つまりそれはあなたが、まだだれとも家庭をもつ意志がないってことなんだわ」
「結婚はしないね、めったに。経済条件もあるけど」真理子の言葉はよくのみこめなかったが、私は答えた。「こういっちゃ失礼だが、なんかワイセツでね、おれは結婚しているやつをみて、本気で羨ましいと思ったこともないんだ」「それは久保、君が臆病だからじゃない?」とおだやかに保井進がいい、真理子は姉さんぶり、「気楽な独りもんで、まだまだうんと浮気でもして遊んでいたいんでしょう」といった。「そういうことになるのか」と私は二人にいい、「これはだめだな、もう。つまり、君はまだほんとにひとを愛したことがないのさ」と進がつけくわえた。
「しようのないひとねえ」と、すると意外に上機嫌な声音こわねで、真理子が溜息まじりにわらった。彼女は早くもそうとうに酔っぱらってい、歌が出はじめたのはその直後だった。進がそれに和して、二人はいい気持ちそうにロシア民謡をかたっぱしから合唱した。
 私はあの夜の顛末を思いおこし、怒ったようなムキな表情を自分の頬に感じて、やっと真理子をそのときの顔つきとともにいきいきと思いうかべていた。保井家に向かう旧式の小型バスは震動がはげしかった。白バラを買って行こう、胸にあふれるほど、と私は思いついた。すると、私にははじめてその花が無益なこと、あの真理子がこの世にいないということが、肌をすり寄せていた隣りの客が忽然と姿を消したように、奇妙に納得のしがたい、しかし奇妙に真実味のあるものとして意識された。私はおかしなトリックをみたようにぼんやりした。涙は湧かなかった。他人たちというものは、つねに承認せざるを得ないものだ、と私は心のなかでいった。とくにその死は、どんなに意外であり不可解でも、そのまま永久に承認するほかはないのだ。……
 そして、私はすぐにその言葉が、かつての私たちのリーダーの保井進が、学生時代、仲間の一人が自殺したときに呟いた言葉なのを思い出した。私は次の停留所でバスを降りて、真理子が白バラを値切った駅前の花屋へと引き返した。

 真理子は棺のなかで、花に埋もれていた。死顔には斑点や苦悶のあとがなかった。棺に入れるとき、私はその両脚を抱えた。死体は硬直していて、仰向いても横をみても、屍臭を嗅がずに呼吸をすることができなかった。
 かけつけた実家の母の化粧で、蝋人形のような死者の若い皮膚は、いちめんに白墨のような白さの底に沈んだ。私は、真理子が一人娘だったことを知った。鼻腔まできれいにほの白く掃除されて、それはふだんよりも拡がり、奥のほうまでよく見えるような気がした。唇はどうしても閉まらず、陶器質のなめらかな前歯が天井からの光を映していた。歯は乾いていた。もともと彼女は鼻のしたが短かった。
 母は真理子の香水や化粧道具をつめたハンド・バッグを棺に入れた。棺に蓋をするまで佐藤は部屋の外に出ていた。「もうすんだか? 蓋はしたか」せわしなく葬儀屋といっしょに部屋を出入りする私に、低い声で彼はきいた。彼は柱に手をかけ、雨戸の開け放たれたままの廊下から樹々や凝った石の配置された暗い庭の奥を見ていた。「もう顔は見えない、蓋はとめてないが」と私は返事をした。「そうか、すまない。べつにお化けも泥棒もこわかないが、おれは、死人だけは、だめだ、こわい」と佐藤はいった。「気味がわるい、なんだか、マリに悪い気もするけど」「安心しな」と私は笑いながらこたえた。「棺の中にいるのは、もう、マリじゃないさ。マリの贋ものだよ」
 保井進が、目を伏せて横を通りすぎた。聞かれたと思い、私はちょっと当惑した。贋もの、それは白布をとり、死んだ真理子をながめたとき、まず私にきた言葉だった。夫として彼にそれが不愉快でも、でも仕方がない、撤回も弁解も嘘になるのだと思った。進は、私の目を見ないようにしていた。
 進は外出着の背広のまま、てきぱきと葬儀屋に指図をして、力を合わせかけ声をかけて棺を白木の棚に上げた。銀行員らしく薄地の紺の上下を着た進の、まあたらしい上等の靴下が、その家の中で彼をひどく他人めかせていた。彼は佐伯や女優たちと、あまった花をていねいに棺の上にならべた。劇団からの花籠も運びこまれてきた。
「佐藤」と進は呼んだ。「通知状をね、印刷屋からとってきてくれないか。本町通りだ。どうせいまから書いても、今日の最後のポストには間に合わないかな」
「なあに、それならちょくせつ郵便局に持って行くさ」佐藤は張りきってこたえた。
 二人の住んでいたはなれで私たち三人は宛名を書き、だが小田富子の名は分担の中にはなかった。劇団の人びとを帰し、私と佐藤は通夜につきあうことにきめた。劇団の若い座長は、最後までしつっこく進に自殺の原因をたずねていた。「ぜんぜん、わかんないんだよう、あれこれ考えたってしょうがないだろ、いまさら」と、佐藤は叱るようにいった。
 十二時をすぎても、棺の置かれた部屋で真理子の母はうつむき、肩がふるえていた。声をたてて泣いているのではなく、涙ももうハンカチに浸みなかった。「カンゼオンナムブツヨウブツ、ウイ……」私は幼いころ、坊主の叔父に暗誦させられた般若心経を、うろおぼえのまま腹に力をこめて口ずさんだ。三十秒とそれはもたず、私は、かえって自分の空腹に気づいた。
 私はわざと手前勝手にふるまうのをよしとする性質だが、へんに他人というものに弱くて、こまめな世話やきや、お節介やに溺れやすい。それまで一時間ちかく線香の番をつとめてその部屋に坐っていて、私はでも、ついに真理子の母に声をかけることができなかった。なにか話しかけて気をやすませてやりたい、慰めてあげたいとは考えてみるのだ。しかしその都度、そっとしておいた方がむしろよいのだという気になってしまう。私は言葉をかけるのを断念した。有害であろうよりは、せめて無益であることを心がけるのが私の態度なのだ。
「お線香の番を、おねがいいたします」といって私は立ち上った。真理子の母はよれよれのハンカチに顔を埋めたままうなずき、祭壇ににじり寄った。終始、彼女はなにもいわず、なにも喰べなかった。
 はなれの部屋の中で、保井進は佐藤と向かいあって椅子に坐っていた。机に半分ほど減ったウイスキィ壜があり、二人は腕組みをしていた。私は、二人のあいだになにか重大な話のあったことをかんじた。佐藤は赤ぐろい怒ったような顔をしていた。酔いの顔に出ない進は、なみなみと注がれた机のウイスキィグラスをみつめていた。
「くたぶれちゃった、おれ、脚がしびれちゃった」脚は痺れてはいなかったが、私は二人のあいだの椅子に腰をかけて、脚をもみながら大げさに眉を寄せた。私は、なにも知りたくなかった。それはしち面倒で厄介な種類のことにきまっている。だが同時に、私はその奇妙に重苦しい沈黙も、彼らとわかちもちたくはなかったのだ。
 進がウイスキィを注いでくれた。私はいつもの回避策をつかった。「ああ、おれはねむくなっちゃったよ」沈黙はまだつづいていた。私は腕を屈伸させ、ついでに目をこすった。
「……おれは、マリとはちょいちょいしゃべったけど」やがて、佐藤は机をみつめながらいった。「私が不幸なはずはないじゃないの、とマリはよくいってた。つい二三日まえも、そんなことをきいた気がする」
 私は推測の正しかったのがわかった。佐藤の声はかわっていた。声音には、抑圧された忿懣がよどんでいた。保井進はうすく笑った。皮肉なとも、途方にくれたそれともみえる微笑だった。
「お前、原因がわかるか?」佐藤は私にいい、私は首をふった。「こいつは、心当りがないっていうんだ、保井は」と佐藤は低くいった。
 手をのばすと、進はラジオの上から真理子の写真をとり、だまってそれに見入った。彼の顔には困惑がうかんでいた。私は彼のとまどいを、彼の悲しみをおもった。私はわざと欠伸あくびをかみころした。私もまた、なにかの過ぎるのを待たねばならないのだ。
「保井」と佐藤はすこし大きな声でいった。「なんとかいえ。心当りがないだけじゃ、すまねえだろ? なにかいってくれよ」
「だって」保井進はわらった。舞台顔の写真をラジオの上にもどした。「困ったやつだな、このさい、ぼくがなにをいえばいいんだ」
「このさい、か」佐藤は呟いた。「ほんとうだな、どうもおれは無作法だな、わるい」佐藤は腰を上げた。「おも屋の方に行こう。ここだと、おれはよけい非常識になってっちまう気がする」
「おなかがへったよ」と私はいった。
 母屋は大掃除のときのようにところどころ襖がとりはらわれ、電灯があかるく畳を照らしていた。ほとんどの家の寝しずまったこの時刻に、黒ぐろとひろい庭からの夜風をうけ、人びとと酒を飲み、ものを食っていると、なにか自分たちが家という雰囲気や拘束から解放され、野営をしているのんきな旅人たちのように思えてくる。私たちが、玩具の人形たちのようにバラバラで、のんびりとした根のない存在のようにしか考えられなくなる。
 むつかしい顔の和服の進の父や、親戚や、似合わない新品の割烹着をつけたばあやなどが、佐藤と話していた。私は、そこに故人をしのぶ風景というより、人びとの得手勝手な好奇心のほうを多く見ていた。
 私は自殺の原因について、考えようともしない自分に気づいていた。人びとに反感をもつわけではないのだったが、死んだ真理子につき語ることは、私には、贋ものの真理子について語ることのような気がして、興がのらなかった。その夜は、しまいまでその感じがぬけなかった。彼女にはもはや出口がないのだった。……生きている人間に、出口があるかどうかはしらない。でも生きている人間には、すくなくともその幻影が、いや、出口をもとめて動く意志があるのだ。それすらもうしなっている真理子を探索して、けんめいに言葉をみつけ自分たちにだけ都合のよい納得をもとめようとするのは、なにかひどくかなしいこと、ひどく非道なこと、ひどく野蛮なこと、無防禦な彼女をなます切りにするのと同じことだ。そうではないといい、自分を主張し、投げつけられる一方的な言葉に抵抗することが、もはや彼女にはできない。私には、人びとの努力が、そういう葬送のやりくちが、ひどく空しく、ひどく不愉快なものにすら思えてきた。死者は、ひとつのそっとしておいてやらねばならぬ闇だ。私には、無言でうずくまったままの真理子の母だけに友情がかんじられた。おれは、ほんとうはあの母のように、じっと真理子の柩の前で畳に額をすりつけていたいのかもしれない、と私は思いついた。
 だが、私は通夜の席をはなれたくはなかった。もう一度、真理子の声をききたい、と私は思っていた。いつもの、あの姉さんぶった悪口か、馬鹿ばなしでいい。あの笑い声がききたい。
 私が人びとなみに真理子について考えてみたのは、保井家の便所に入ったときのことだ。その臭気が屍臭を思い出させた。でも私が彼女を想ったのはそれからではない。後架の前の壁に、精密なフランスの地図が、鋲でとめてあった。二年前、そこにはブラジルの地図が貼られていた。真理子は甲高い声で笑いながら、それは彼女の発案で、保井と二人で架空の旅をたのしむのだ、家のひともみな面白がっていると説明した。
 マリ子 あなたいま、どこを旅行中? 一人でどこに行っているの?
 ススム うん、パリにも飽きたんでね、ちょっと南仏に出かけてピレネの山を見てきた。ツールーズから、いまはモンペリエにきたところさ。このへんは、ちょっと湘南地方めいているよ。緑がとても綺麗だ。
 マリ子 あら、私も南仏。こないだカンヌからまたマルセイユに来て、すっかり退屈しちゃってるの。
 ススム そう? じゃあ、アヴィニヨンで逢おうか。ちょうどいい気候になってきたし、ちょっと北に行って二人でスイスを旅行しよう。
 マリ子 わあうれしい。この前イタリイに行ったときもスイスはとっておいたんだものね、あなたも私に無断でスイスには行かない約束だったわ。でも、お父さまたちにはないしょよ、ついてくるとまくのにまた手をやくもの。すてき、やっと二人でレマン湖であそべるのね、マッターホーンにものぼろう。ねえ、私、どんな服を着てったらいいと思う?
 ……ばかばかしい。膝を折り壁をにらみながら、私は苦笑いをして、自分があさはかなラジオドラマ屋にすぎぬのを痛感した。でも、まるでままごと遊びみたいなたのしげな二人の生活からおして、こんな会話は充分にありえたのだ。彼らには、それらの名はけっして銀座や新宿あたりのバアや喫茶店の名前ではなく、地図は印刷されたただの色や線ではなかったのだ。
 地図はいいかげん古ぼけ、隅が枯れた梔子くちなしの花びらのような色になり捲くれている。私は、ふと指さきで地図を撫でた。はじめて疑惑に似たようなものを胸にうかべていた。真理子には、この地図は死んだ一枚の紙きれにすぎなくなっていたのか? 空想の翼も油がきれ、この夢の旅によろこびを失っていたのか。私は仔細にみた。気づいたとおり、地図には大きく、ななめに深い爪あとが交叉していた。
 するどいその線の痕が、爪のながい真理子の指を想い出させた。私は、空想の世界から顛落した真理子を、あらゆる錯覚や幻影やを失い、まるで翼をなくした孤独な鳥のように、じっとこの後架の壁をみつめている真理子をおもってみた。……知ったことじゃない、おれの。私は絶望をかんじながら心のなかでくりかえした。
 帰りしな、祭壇の前に真理子の母のすがたが見えなかった。煙は途切れていた。線香を立てにはいり、私はつよまった屍臭のなかに立った。濃い屍臭はねっとりと重くながれ、白布に一匹の蠅がとまっていた。
 となりの部屋には保井と佐藤しかいず、保井は家の者には寝てもらった、みんなが朝までよろしくお願いしますといっていたと告げた。
「ありがためいわくでね、どうも。みんな勝手なことをいうから」彼は笑った。
「あのお母さんは?」
「無理に寝るように、って、みんなでつれて行った」
「明日があるんだからな」佐藤はグラスを口にはこんだ。動作が、そうとうに酔ったことを示している。新しいウイスキィ壜も残りはすくなかった。
 遠くで柱時計が鳴り、腕時計をみると二時半だった。「おい、久保」と、佐藤はすこしわざとらしく、舌をもつれさせていった。「なんだよ」私は仕方なくこたえた。「保井はね、マリと喧嘩したことがないっていうんだ。あんた、どう思うね」
 私は警戒した。佐藤はなにかをいいたがっている、と私は思った。やつは、なにかをつかんでいる。マリの自殺について、おれのしらないことを握っている。
 彼の口調で、佐藤がそんなに酔っていないのを私は見抜いていた。だが、私はマリのことについては、なにもいいたくはなかったし、なにも聞きたくはなかった。
「ねえ、久保、どう思うね」くりかえす佐藤に、私は巻きこもうとする彼の気配をみた、私はそれに反撥した。
「いいじゃないかどうでも。本人がそういうのなら、そうにしとけよ」
「ばか、おれは妻帯者です。お前さんみたいな独身ものとはちがう。喧嘩しない夫婦がどこにあるかね」
「ないとはいえない。いや、おれはよくわかんないな」
 佐藤は、横目で保井進をみていた。どちらにも組まないぞ、おれは、と私は思った。おれはだれの味方にもならない。だれと同じでもないのがおれだからだ。
 佐藤はうつむいていった。「おれはね、だいたい、ここの夫婦がねえ、いや、こいつのやりくちが、気にくわなかった。まるで恋人どうしみたいにしてさ、なんだい、結婚して、もう何年になんだい」
「べつに特別な夫婦じゃない、どこにでもいる仲良しの夫婦だったさ」
 でも佐藤は、ふざけたような私の口調の相手にはならなかった。
「世の中に、純粋はない、そいつをこいつは知っていないみたいなんだ」
「そんなことはないよ」進は冷笑するようにこたえた。だが、なぜか佐藤は彼に顔を向けず、私の方に顔を上げた。「こいつは」と私に彼はいった。
「こいつは、こういうんだ。ぼくたちは愛しあっていた、ぼくはマリを愛し、マリもぼくを愛していた、ぼくたちは、いっしょに幸福な生活をきずきあげていたのだ、それなのに、突然マリは死んでしまった、ぼくにはまるっきりわけがわからない、とね」
「そのとおりだ」と保井進はひくくいった。「そのとおりなんだ。それは嘘じゃあない」
「お前は、マリに怒ったことはないっていったね」佐藤は、進に向きなおった。
「ない」と進はこたえた。「ぼくは、居丈高いたけだかな気持ちになることがきらいなんだ」
「でもお前にだって、感情があるだろう」
「ぼくはなんでも、二人の生活のために有害なことは避けてきたつもりだ」と進は落着きをみせて答えた。「なまの感情をぶつけることはね、ひとつの暴力だよ。ぼくは暴力をふるった記憶はない」
「すべて理性で処理した。すべてわかりあったというわけかい」
「平和のためにね。ぼくは平和主義者だからね、昔から」進は微笑をこわばらせた。「どんな人間にだって、その人だけの密室のような部分、わからない部分がある。ぼくはそこまで干渉することは、かえって行きすぎた悪いことだと考えるよ。いったい、君はなにをいいたいんだ?」
「……やめなよ、もう」と私は口を出した。だが、つぎに口を切ったのは進だった。進は真面目な顔をしていた。
「ぼくたちは、いつも協力しあって、いちばん合理的な解決をしてきた。おたがいに、人間だもの、たまには蟲の居どころの悪いときもある。そんなとき、ぼくはあいつの気分がかわるまでじっと待った。芝居でもなんでも、やりたいことをやらせた。しかし、ぼくはあいつを見限ったことは一度もない」
「まさに彼女が不幸だったはずはないね。でも、それで彼女は幸福だったかしら?」佐藤は皮肉な声でいった。
 私はだまっていた。私は保井進の頬がすこし紅潮するのをみた。早口で、彼はいった。
「幸福だったら、だれが自殺をする、と君はいいたいんだろう。しかし、ぼくにはどうすることもできなかった」
「すまんとは思わんのか?」
「ぼくにはあれ以上のことはできない。その意味で悪かったとは思えないね」
「おれはねえ、結局、お前がマリを殺したんだっていいたいんだ」
 進は笑い出した。「とくだな、死んだものは。こっちは生きのこらされた上に、人殺しの罪まできせられているんだ」進は私を振り向いて笑った。「ねえ久保」
 私はなにもいわなかった。どちらにも加担しない考えを、私はまだ捨てていたのではなかったのだ。だのに、私はいつのまにか、佐藤の言葉を聞く側にまわっていた。佐藤はいった。
「保井、お前は、お前の偽善にほんとに気がついてないのか。一言くらいすまないといったらどうだい」
 進の目が光った。彼は鋭い声でこたえた。
「ほんとのところぼくは、あいつの自殺は、あいつがあいつなりに、自分のスジを通したんだというようにしか思ってはいないよ」
「そこさ」いいかける佐藤に、進はおしかぶせるようにつづけた。「そうとしか、ぼくには考えられない。理由はわからない。もう、わかろうとも、わかりうるとも考えていない。すべては巧く行くはずになっていたんだ。自殺は、そんなあいつの、あいつひとりの、いわばわがままの結果だろう。黙って受け入れてやる以上の親切が、ぼくにはわからないね」
「おれの非難しているのはねえ」考えこむみたいに、佐藤は番犬のような太い首をかしげた。「なんていうのかなあ、そういうお前さんの自己中心主義、ってのかな、昔からの」と彼はいった。「……保井進は、ひとつも悪いことをしない男だ。責任感もえらく強いし、よく気のつく親切な男だ。それは演出をおれたちの仲間でやっていたころから変っちゃいない」佐藤は、ちらりと私をみてつづけた。「お前はね、保井、お前さん流の、善いことばかししてきた。でも、マリにはそいつはなんの役にも立たなかった。もしかすると、つまりお前はマリのためを思っているつもりで、マリを苦しめることばかりしてきたのかもしれないんだ。お前はそれにひとつも気がついていない。お前を偽善者だといいたいのはそこなんだよ。おれには、マリの気持ちがわかるような気がするんだ。マリは、ほんとにほしいものは、ひとつもお前からもらうことができなかった。なにをいってもなにをしても、みんな見当はずれになっちまった。それも、お前がへんてこに自分の中のつじつまを合わせるのにばかり熱中して、お前の外に出てきてはくれなかったからだ」
「人間はみんな自分の皮膚の外には出られないよ。それがぼくの責任かい?」
「そうだ、その考えがお前の犯したまちがい、お前の罪のもとだ」
 進はだまりこんだ。私は畳の目を見ていた。
 私は、自分がすでに圏内に巻きこまれているのがわかった。私はなぜか部屋を出て行くのがおそろしい気がしていた。そのとき、自分の卑怯を意識せずに、部屋からのがれ出ることはもはやできなかった。私は、座を動くことができなかった。
「おれは腹が立っているんだ、お前のばかさに」と佐藤はいった。自分でも制しようのない火を感じている語調だった。「お前のやっていたのはねえ、自分の処理ばかりだ。感情を殺そう、つまり自分を消そうという努力だけだ。なるほどお前はいろいろと我慢もしたろう、でもそれはなんのためだ? 自分のためじゃないか。そんな非人間的な我慢や二人のあいだの事務的な調整が、なんで美徳だ。美徳とは効果の問題だ。相手のほしがっている自分のものをやることだ。お前だってマリを愛していたつもりだろう、いいか、でも、お前のは父親の、後見人の、自分の玩具への愛だ。夫のそれじゃない。マリに、お前はほんとの愛、ほんとのやさしさをもたなかった。はじめはそれでよかったかもしれない。しかし、マリはだんだんと耐えきれなくなってきたんだ。でもお前は、あいかわらずそういうマリとの関係を強情に守ることしか、それを大切にすることしか、考えなかった。お前の愛していたのはマリじゃない、マリとのそういう関係、そういう自分の玩具、そういうお前自身の満足、お前自身だけじゃないか」
「……まるで、ぼくがあいつの生活のすべてみたいないい方だな」と、やっと進は低くいった。
「責任をかんじろ、ちっとは」と佐藤はいった。
 責任。……私はそのとき、とてつもないことをおもったのだ。私は小田富子が処女ではなかったのを思い出した。それを、その後の経験で私は知っていたのだ。……だが、それは私のいい分にはならなかった。私は畳にねころがった。
「ねえ」私は哀願するような声を出した。「お通夜ってのは、徹夜でしなきゃいけないもんなのかい」
「え?」進は私をみた。「ああ。……寝たかったら寝てもいいよ、ぼくは起きているから」努力してふだんの冷静さをよそおった語調だった。佐藤も仰向けに寝ころがった。
「愛はすべての力なる神なり」とまだ佐藤はいった。「おれも責任をかんじている。友人として、もっと早くいうべきだった。すまない。おれにはさっきやっとそのことがわかったんだ」彼はたかく脚を組んで、私の目のすみで足首がぶらぶらとゆれ動いた。「おれも、ずいぶんむごいことをいった。腹が立ったらひっぱたきな。ゆるせとはいわない」
 ふいに私は思いついた。
「ね、保井、便所の地図ね、爪でばつをつけたの、あれはマリかい?」
「ああ」進は笑顔をつくった。「あれはね、結婚して、最初に貼った地図なんだよ。古ぼけているだろ? ひと月ほど前、またあいつがひっぱり出してきてね」
「爪のあとをつけたのは、だれだよ」私はくりかえした。
「マリだ」進は、遠くをみる目つきをした。
「貼って一週間くらいたったときだ。あいつ、一人で医者に行ったらしいんだよ。それで後屈で子供ができないっていわれてね、くさってその晩、地図にばつをつけたといってた。でも、それでも剥がそうとはしなかったんだよ」
「……コウクツなんて、手術をすりゃいいんだろう?」
「マリは胸がわるかったからな、そう簡単に手術はできない」と、佐藤が喉を仰向けた胴間声でこたえた。「マリ、でももうよかったんだろ?」
「……うん」進は、どこかうわの空の口調で返事をした。彼はなにかを考えている様子だった。
 庭の闇はふかく、開け放たれた廊下のすぐ近くに手をのばした楓の青いちいさな葉に、にぶく部屋からの光が当っている。座敷にはしばらく前から時間が停っていた。私は座蒲団を三つつなげ、一つを折って枕にして、明るい電灯の光を肱でよけて目をつぶった。私は眠ろうと思っていた。つかれと酔いの深さが意識された。私は寝つくことができなかった。
 私もまた、まちがいを犯したのではないだろうか。その考えが、私を荒天の丸木舟のようにゆすぶり、底知れぬ黒い海にのみこもうとしていた。私と進とはひどくよく似ている。まるで私自身のしゃべるのを聞くみたいに、私には彼のルールがよく理解できた。みずから引く自分というものの限界がよく同意できた。人間は、それぞれ皮膚にとざされた袋のひとつひとつでしかない、自分の外に出ることができない、だれをどんなに愛そうと他人にはなることができない、身代りになることができない。……私もまたそれを信じ、その信仰を固守しぬくために、邪魔な、それを無視してくる小田富子という存在を拒絶したのだ。彼女よりも、その信仰を愛したのだ。その信仰のくずれるのをおそれたのだ。
 だが、と私は思う。私は、かつて自分を裏切らない戒律を、ひとつでも見つけたためしがあったろうか。いつも裏切るのは、私自身だった。しかし私は頑固にそれを固執しつづけてきた。私は、まちがったのではないのか。女については肌のことしか考えぬというあのルールも、たしかに、いいかげんな自慰にすぎない。せまくるしいある臆病な強情からそれを認めようとしないだけで、私はいつも現実に目を蔽おうとしてきた。私もまた、保井進と同じように、そのために一人の女に死をあたえたのか。――私は、海の底に沈んでいた。私のなかに刃はあり、私はくろぐろとした深淵から、這いあがることができなかった。私は闇の中に溺れていた。私は、自分のなかの後ろめたさとの心中をせまられているのだった。這いあがろうといくら努力しても、私はどこにもなんの連繋もみつけることができなかった。
 目をさますと、電灯が消されていた。縁側の外に、曇り空のような白っぽい朝がきていた。佐藤の、あわただしげに往復する鼾が、すぐそばに聞こえる。冷たくしめやかな空気が、庭からじかに私を洗っている。
 硬い、頭にひびくような音が、ときどき庭の方で反響した。私は廊下に出た。保井進が、足もとの石をつかんでは、遠い石塀のそばの松の幹に向かって、けんめいに全力投球のストライクをほうっていた。彼はしばらく前からこうして石を投げているのらしく、顔を赧くしていた。
 庭に下りて、私は進に寄って行った。彼は呼吸をきらしていた。「やあ」と、彼は上気した声でいった。顔が汗ばみ、目の充血しているのはすぐわかった。
「なんだか、夢中になって相撲でもとりたいような気分だ」
 私は答えず、こぶし大の石をひろった。大きく腕をまわし、胸をはって私は全身の力をこめて投げた。石は近くの桜の枝をかすめ、二三枚の青葉がゆっくりと舞って落ちた。こころよい音がひびいて、私の石は松の幹の真中に当っていた。「ようし」と進はいった。
 私たちは五分間ほど交互に石を投げつづけた。白い割烹着のばあやが、棺の置かれている部屋の廊下に立ち、口をあけてそれを眺めていた。佐藤はまだ起き出さなかった。私たちは部屋にかえった。

 日が落ちると、雨が降りはじめた。私は雨傘をもたなかった。
 陰気な、霧のような小雨だった。色とりどりのネオンの輝く通りをすぎ、同じような飲み屋がならぶ細い小路に曲ると、舗装はつきゆがんだ土の道になった。はずれ近くの一軒に私ははいった。中年の女はたかい声をあげて迎えた。借金はない、と私は反射的に思った。
 私は、ガラス戸の外を二人の楽器をかかえた男が歩いて行き、向かい側の紅い灯をつけたバアふうの一軒の扉を押しお辞儀しながら中に消えるのを見ていた。男の一人は真赤なシャツを着ていて、もう一人は吹き出したくなるほど出っ歯の首相そっくりの顔をしていた。二人が消えたとき風景はとまった。私の目は動くものをさがすように小雨の道にすべった。
「なにぼんやりしてるんです」のんびりと無邪気な声がいった。「久保さん、おかあちゃんがなににしますかってきいてますよ」
 一列につめて四五人しか坐れない狭い飲み屋だった。鍵の手になったくらい隅で、二人づれの男が私をながめていた。
「なんだ、君たちもきていたのか」
 男は平山と佐伯で、さっきまで保井の家で受付けを手つだっていた仲間だった。「君たちがここを知っているとは、しらなかった」と私はいった。そこはちがう劇団のたまりで、真理子とも居合わせたことはなかった。私はむしろ真理子と縁のない人びとのなかに混りこみたかった。
「平山につれてこられたんですよ」と佐伯は人なつっこく答えた。
「なに考えてたんです?」と平山がいった。
「さて、思い出せない」
 私はそう答えてわらった。だが、私は佐藤の言葉を考えていたのだった。私は保井の家を夕食をすませて出て、まっすぐこの新宿の飲み屋にきた。やっと一人になれ、貝殻の中にかくれこむ貝のように、私はようやく自分の殻の触感を落着いてたしかめなおす時を得ていたのだ。佐藤の言葉は矢のように私を射て、肉がぜたようにそれが抜けなかった。一人になるとともに、痛みはあたらしく、なまなましくよみがえった。私はどうにかせねばならなかった。さもなければ私の心の安定は回復できないのだ。
 私には、自分になにかがはじまってしまっていることがわかった。膨脹した核のように、小田富子のことが私の頭をみたしていた。私は自分の誤ったおろかしいルールを破壊されるのをおそれて、彼女からのがれた。彼女は「死ぬ」といった。でも私は目をつぶって、強引に逃げつづけた。私は、自分の稚い誠実の妄想をまもるために、一人の女を犠牲にした。一人の生きている人間、一人の父や母の娘を、一人の姉か妹かを、一人の孫を、姪を、一人の同級生を、一人の女事務員を、一人の妻となり母となるべき健康な若い女を、殺したのだ。……その考えが、私にのしかかってきていた。保井進についての佐藤の指摘はひとごとではなく、私にも同じ物語りはあるのだった。
「ぼくね、マリの死んだ前の日、最後にここでマリとすこし飲んだんです」と平山は白木の台に肱をついた姿勢で私を見た。
「へえ、ぼくらと別れたあと?」と佐伯は明るい声でいった。「知らなかったなあ、そいつは」
「なぐさめてたんだ、おれ」平山は上目づかいに中年の女をちらちらと見やりながらいった。
「須野が、あんまりひどくマリをどなっただろう? だから」
「須野が?」私はそれを知らなかった。
「ああ」佐伯はちょっと困った顔になって私をふりかえった。「ご存知なかったんですか? ほら、久保さんのやつの本読みがあった日ですよ」
「あの日、マリは元気だったぜ、自殺の前の日だろう?」
「マリは、しゃべらなかったんだな、じゃあ」平山は暗い顔で考えこみ、いった。「なにね、たいしたことじゃないんですよ。あの日、来月の公演のキャストを内部で決めたんですけど、須野がマリをキャストから落したんです」
「へえ、そいつは知っていない」私はふと、保井にくどく理由をたずねていた須野の顔を目にうかべた。
「すると佐藤さんもまだ知らないかもしれない」と平山はいった。「マリが不満でぶつぶついったんですけど。……だまっててくださいね、すると須野がちょっと怒って、……」
 たしかに、それは小さな理由かきっかけのひとつではあるにしても大したことではない、本質的に、真理子の生命をゆるがすほどのことではない、と私は思った。マリは昔からそういった厳しさにはがんばりのきく性質の女だった。彼女は、自分だけで生きようとする女ではなかったのだ。自分だけのことだったら、だからけっして決定的な絶望などには陥ちこまない。……そう考えるのは私の癖みたいなものだったかもしれない。だが、原因などはわかりっこないのだ、という気持ちが私にはあった。私は気がちいさく、頭のなかも広くないのだ。
「とにかく、それは大したことじゃないさ」私はビールを干しながらいった。そのころはまだビールの苦さがわかっていた。「いまさらしようがない、須野に、気にしても健康にわるいだけだぞ、っていってやんな」
 私は、すぐに真理子のことは忘れた。私は自分についてしか考えていたのではなかった。痛いようなくるしさで、私は富子とのことを想っていた。なにをしても、なにをしゃべっても、なにを見ても、私はすぐその考えにもどった。
 酔いははやくまわった。だれも私をゆるさない。そして私は永久にゆるされない。真理子の劇団の二人と酒をのみながらも、私は気をはらすことができなかった。私は、すこし滑稽だったかもしれない。店に入ってきた他の劇団の女の子の、やわらかな尻の肉が、薄いスラックスをとおし私の腰にふれたりはなれたりしていた。私は向きなおって、結婚しようと口走った。色の浅黒い、柔毛の白く光る彼女の肉に私は魅力をおぼえたのだ。顔なじみではあったが、ついぞ馬面のその女などには惹かれたことがなかった。でも、愛には正当な代価を支払うべきだと考え、私はしゃべったのだ。「ぼくは、いま、どんな女性とだってうまく家庭をもって行くことが、できるような気がするんだ」ながい髪をふりみだして失笑して、アヴェックできた彼女は一蹴した。つれの男は私より腕力が上に見えた。私は残念ながら申し出を撤回した。
 それがきっかけで私は佐伯たちとその店を出たのだと思う。絹糸のような細い雨の中を、やけな大声で笑いながら、しゃべりながら、歌いながら、通行人の禿げ頭をなでて叱られたり、すっかり喜んで逃げまわったりしながら、私はからみつく自分の罪の記憶を忘れることができなかった。真理子のことなどは完全に念頭になかった。ついてくる平山も佐伯も真理子についてはなにもいわなかった。私は、彼らに勘定をもってやると見得を切っていたのにちがいない。彼らはおどろくべきつきあいのよさで私についてまわり、私たちはひどく酒をのんだ。
 長い時間がすぎ、私たちはデパートのうらの酒場のカウンターにならんでいた。目の前にハイボールのグラスが走ってきて、私はふいに気づいた。「さ、飲みましょう、こんどはぼくがもつよ、久保さん」平山の声がきこえた。佐伯のすがたが見えなかった。
「佐伯はどうした、逃げたか」
 と私はどなった。どうやら私はそれまでは流行歌を歌っていた。
「……やだなあ、まいてきちゃったんじゃありませんか。ぼくたち二人で」平山は景気よく笑うと、急に声をひそめた。「あんただけにきいてもらいたいんだって、いったでしょう」
 赤く濁った目で、平山は私をのぞきこんだ。「マリは、あいつは藤沢のホテルで自殺したんです。知ってましたか?」
 私は仰天した。
「ほんとか?」
「ほんとです。ばあやだとかいう婆あから聞き出したんです。保井さんがごまかしているみたいに、だから夕方に死んだんじゃない、マリは、藤沢で、昼すぎに死んでたんです」
「――そうか。佐藤は、それを知っていたね?」
 酔いがさめて行った。私は、ずり落ちかけた尻を椅子にのせなおした。
「知ってたでしょう。かれもいろいろと手をまわしてましたからね」
 平山はグラスを空にすると、手首でふってまた註文した。突然、あることが閃き、私は低くいった。
「なぜ藤沢に行ったんだ、マリが」
「それはわからない」平山はうすく笑った。
「マリはそこを知っていたのか?」
「知っていたんですね」目に近づけてグラスをふり、平山は笑顔のままでいった。
「男がいたんだね、マリに」と私はいった。
「いました」
「だれ?」
「ぼくです」
 彼は笑っていたのではなかった。唇をかたく噛むと、涙が頬をすべった。私は二重にびっくりした。平山がマリの男のこと、そして男がこんな具合に泣くこと。
「……おれ、一瞬、相手は佐藤か須野かなと思っちゃった」と私はいい、黒い厚木の横板に目をおとした。平山に、特別な感情は湧かなかった。
「そのことを保井は、……」
「ええ。知っていました。マリが話したんです」平山は無理に泣きやめようと鼻をつまらせながら答えた。「ぼくとのことは、一回だけです。まるで強姦でしたが、途中からマリは抵抗はしなかった」はなをすすり、彼は早口にしゃべった。「こないだの夜、ぼくはそっとマリと二人でさっきの飲み屋に行き、出てからまたせがんだんです。マリは絶対にいやだといい、ぼくは君のあのうめき声は忘れないぞ、旦那にいいつけるぞっていったんです」
「君は、真面目だったのかな」私は、意外な告白に呆れていた。真理子に進以外の男があったなんて、想像したこともなかった。
「さあ、真面目だったといいたいけど……」平山は悪党ぶっていいよどんだ。「……でも、そしたら、マリはしばらくして、急に道の真中で大声で笑いはじめたんです。あのひとは全部知っているわ、私が話したら、それで、それだけ? っていったわって、マリは笑うんです」
 くるしそうに、平山はグラスをあけ、私の分といっしょに註文した。
「相手の名前はいわなくてもいい、そう旦那はいったそうです。だから、いまとなると、だれもぼくが相手なのはしらない……」
「ぼくは、」と彼はいった。「だが、だれかにしゃべられずにはいられない気がしたんだ。しゃべったら楽になる気がして。……マリは、そして旦那が叱ろうともせず、君のしたいことをするのが、ぼくにもいちばんいいんだといったとぼくにいった。私はひどく自由なのよ、って。でもマリは、ひとつも幸福そうじゃなかった。……あのとき、マリは睡眠薬をもっていたんだ。箱は二つとも角が古くすれてたっていうから、ここしばらく、マリは持ちあるいていたのにちがいないんだ」
「君も藤沢に行ったの?」
「いいえ。ぼくは途中でタクシイを下りて帰りました。あんまり大声で、いやだ、いやだって狂人みたいに叫びはじめたんで、仕方なく帰ったんです。マリはたぶん、そのまま藤沢にふっとばしたんです」
「……どうもわからないな」私はマリの自殺に、この男の果たした役割りについてそう呟いてみたのだ。
「君とマリが、その藤沢のホテルに行ったのはいつごろ?」
「テレビの録画を撮ったときです。ロケに行ったんです。先月。ちょうどひと月前」
 ひと月前……古い地図をひっぱり出しまた壁に貼ったころだ。私は思いついた。爪のばつは、ほんとに後屈のためだろうか。
「新聞には、なにも書いてなかったな」
「銀行の頭取は、とても顔がきくそうです」平山はふだんの皮肉な顔にもどろうとしていた。
「保井は、ぼくにはなにもいわなかった。……いいたく、なかったんだろうね」
 私には、しかし穏便に事を処そうとする進の意図のかげに、いまさらそんな共通の傷を表立たせたところでという顧慮とべつに、進なりのある判断がこめられている気がした。彼は、すべてが巧く行くはずだったと語った。もちろん、はっきり解決のついたものとは思わなかったにせよ、彼にはマリのその事件は、自分にもマリにも、もはや手当てのおわった傷のはずだという考えがあったのではないのか。――とにかく、それは済んだことだ。済ませたはずのことだ。「すべては巧く行くはずになっていたんだ。自殺は、そんなあいつの、あいつひとりの、いわばわがままの結果だろう。……」彼は、ただ、しずかに真理子が傷から回復するのを待っていたのだ。処理はすんだ。他にぼくにどんなことができるだろう。あとは彼には手のとどかない彼女ひとりの内部でなにかが消え、なにかが過ぎて行くのを、彼としてはじっと手をこまねいて待つよりほかはなかったのだ。
 佐藤の言葉がよみがえった。「お前にはほんとうのやさしさがなかったんだ」やさしさ……しかし、そこで私の思考は反転した。進はでも、ほかにどんな態度をとることができただろう? 私は、はじめて進への同情を意識していた。その場合、彼と私とはちがう人間ではなかった。
 偽善者。と私は心の奥でいった。ふたたび小田富子の顔がうかんでいた。――富子は泣き、どうしても私の別れたい理由がわからないといい、私が逃げるように背を向けても歩き出さなかった。夜で、私は次第に速足になり、しまいに駈けるように駅のホームを遠くへ走って行き、とうとう富子をそのホームにのこしたまま駅から出た。私は同じ方向に向かう国電に、はなればなれに乗ることすら耐えきれなかったのだ。私は歩いて家に帰った。……私は思っていた。たしかに私も自分ひとりのつじつまを合わせるのに熱中して、それをおびやかす富子というひとつの現実を拒絶したのだ。それを正視せねばならないのだ。しかし、それで私はなにを守ったのか。卑劣な、愚かしい、自分ひとりでいたいというあつかましい無気力、自分ひとりでいられるという非人間的な妄想、仲間をもつことを悪だとするばかげきった臆病、そして私は保井進よりさらに勇気に欠け、さらに愚劣なのだ。私はリングにさえ上らずに逃げ出していたのだ。
「ぼくがマリを殺した」すると沈痛に奥歯を噛みしめるようにして、平山が低くいった。「ぼくはこの言葉を、あのおかあちゃんの店からずっと心の中で叫んでいた。あのおかあちゃんだけが、ぼくとマリとのことを、うすうす感づいているみたいなんだ。……ぼくは、マリをころした」
 独白は、むしろうれしげな語調にかわっていた。黒いベレをあみだにして、ほとんど恍惚とした目つきで彼は正面のウイスキィ壜の列のうしろを見ていた。小指をぴんと反らせ、グラスを口に運んだ。芝居を、私はかんじた。彼の色男ぶった陶酔が、そのからっぽないい気さが、私の額を急に内側からふくらませた。
 舌がひきつれ、胸のふるえだしたのがわかった。「平山君」と私はおさえた声でいった。「君は、どうしてぼくなら黙っていると考えたんだい?」
「どうして?……」鋭くいい、平山はあけた口をゆがめて私をみた。酔った目がさげすむように、私の肩や胸に動いた。「しゃべる気ですか?」
 いいふらされるのを、この男はあんがい期待しているのかもしれない。だが、私は彼をみつめたままでいった。
「おれは、しゃべらない約束はできない。こういうことについては、だれともなんの約束もしない主義だからね」
「……どうぞ、ご自由に」平山はうすく笑った。くるりと背中をみせ、やにわにグラスをとり重い木の扉にぶつけた。私はだまっていた。大男のバーテンが、黒い蝶ネクタイを左手でいじりながら台の前に立った。
「……もう終ったんだ。もう乱暴はしない」
 深く呼吸を吐いて、平山はカウンターにしがみつくように顔を伏せた。
「なにも終ってはいやしないさ」私はせいいっぱいの軽蔑と悪意とをこめていった。「君がマリを殺した。なにひとつ、このことについては、君のなかで終ることはないんだ」
 徹夜で飲むという平山をそのままにして私は表に出た。私は立ちすくんだ。雨ははげしかった。
 ネオンの消えかけた午前二時をすぎた町には、泥んこの道がうねり、光を消した二三台の小型自動車が雨の中に傾いて停っていた。私は背広の襟を立てると、煙草をくわえたままバアのひさしの下に立った。ひんやりとした空気が私を洗っていた。膝がしらは交互に力が抜け、どぶ板の上で脚がふらふらとゆれ動いた。私はもう、平山や保井夫婦について考えていたのではなかった。
 私は煙草の火が消えたのに気がつかなかった。私はからだを斜めにして、ときどき頬にふりかかる雨粒をかんじながら、街灯のしたの音をたてて雨に打たれている泥濘ぬかるみをみつめていた。私はいらだち、むしょうに憤ろしかった。私はそれを我慢していた。烈しい刃のようなものが、からだの中で交錯し、私を切り裂き、私を責めさいなむのをこらえていた。声に出していった。「おれは悪人だ」おれは不毛の、白痴の、人でなしだ。おれは、いつも誠実であり、正確であろうとしてきた。せめて他人にたいし無害であろうとすることだけが、ただ一つ可能な善であると錯覚してきた。だが、おれは一人の女を捨てた。向うのせいいっぱいの誠実をふみにじった。おれは二度と自分を真面目な男だとは思えないだろう。絶対に二度と自分に好意をもてないだろう。
「トン子」と私は呼んだ。おれはいやだ、おれは自分が悪人だと思うことにたえきれない。……あの、二年前の別れたあと、私は毎日、新聞の社会面をみるたびにびくびくした。女の自殺ばかりが目につき、不安は半年以上もつづいた。まる一年たったあとでも、ときに不吉な予感がして、緊張に顔を真赤にして新聞をくりかえし丹念にながめまわした。しまいには、ごく自然に病気かなにかで死んでくれたら、と彼女の死を待ちこがれるような気さえしてきた。彼女の死、それが、それまでは新しく生きることも死ぬこともゆるされない、ひとつの刑の期限のように思えたのだ。今日の告別式でも、私は富子を見てはいない。富子は死んでいるのではないだろうか。たとえ生きているにしても、だが、それは私から殺人者の名を免れさせはしない。おれは人ごろしだ。おれはそれを背負って生きて行かなければならない。
 私はそれから後のことはあまり書きたくない。私は常軌を逸脱していたのだ。小心と酔いが、私を狂いまわらせてしまったのだ。タクシイの客引きが、雨傘をさしかけてきてどこまで行くのかとたずねた。とっさに答えていた。「目黒、上目黒だ」小田富子の家は、その二千何番地かにあるのだった。
 そのあたりには、私は行ったことがなかった。記憶の中で富子の家の番地は、二千三百か八百か、それとも二千からとんで何番地だったか曖昧模糊としていた。運転手にどなりつけられ向かっ腹をたてた私は、小田という表札だけをたよりに降りしきる雨のなかを歩きだした。マッチをすり、手でかこって苦心しながら表札を見、番地をよむ。マッチはすぐに尽きた。私はあきらめずに人気ない深夜の屋敷町を彷徨した。人が通りかかればきき、灯りのついた家があればそこできくつもりだった。私は溺死体のように全身から滴をたらしながら探しつづけた。雨の中に、ときどき遠い道路をはしる自動車の音がひびいた。
 ポケットには二百円と小銭しかなかった。私は、なんの目的で自分がびしょ濡れのまま歩いているのか知らなかった。なにがなんだかわからない、わからなくたっていいんだ、理由なんか。私はそう思っていた。とにかく富子に逢いたいのだ。
 私は富子にみつめられたかった。私は、関係の回復をねがっていたのではなかった。ゆるされることにも、説得にも絶望していた。しいていえば、私は告解し、泣き出し、なにかをたしかめたかったのだ。富子の存在を、私の罪をたしかめたかったのだ。富子にさばかれたかったのだ。あやまりたかったのだ。しかし、その私の目に、白い女の肉の幻影が、誘導するようにちらついていたのも事実だった。富子を私は嗅ぎたかった。私は富子が私の目の前に立ちはだかり、醜いものを見るようにその目が私を刺し、その唇が私をののしるのを、ほとんど肉の欲求のように激烈にのぞんでいた。私はひざまずき、私は打たれる。いや、私はむしろ彼女のその白い手で殺されたかったのだ。――雨は坂になったアスファルトの舗道を打ち、私は人を、光を求めて歩きつづけていた。街灯の下に黒い人かげが曲ってきた。私はいさんで駈けて行った。人かげは胸をひらき、私の腕をつかんだ。
「あんただな、さっきからこのへんをうろついとるってのは」私は声が出せなかった。雨合羽の男はヴィニールの覆いのついた警官の帽子をかぶっていた。「このへんの人たちが」と警官はあたりを見まわしながらいった。「こわがっていま報らせにやってきたんだ」
 私は、赤い灯のついた小さな交番でしらべられた。もう一人の若い方の警官は、所在なげに手をうしろに組み、雨の降りしきる夜をみつめていた。私はやっと我にかえり、小田富子という女に逢いたいのだといいはってちょっと嘘をついた。「友人が死んで、それを教えに行くところなんです。番地がわからないんだ」
 私はけんめいに誠実な顔をつくった。
「それで、もう三時間も、一軒一軒見てまわっていました」
 びしょびしょの私をつかまえた中年の警官は、とたんに感動した様子になり、表紙の古ぼけた厚い大型の帳簿を出してきてたずねた。「その女性は、自分の家にいるんかね、つまり、小田という家にいるんかね?」
「そうです。親父さんの家です」口をとがらせて、黒いゴム合羽の中年の警官は指をなめなめ戸籍簿をくりはじめた。「……こう、あこも小田さんだな、代議士さんの妾のとこ」と彼はぶつぶつと口の中でいった。
「オジさん、広島だね?」ついいつもの癖を出して、私はとたんに後悔した。なれなれしい言葉といい快活な語勢といい、その場合、あまり適当なものとはいえなかった。
 やはりそれはたたった。たぶんその結果だった。
「おやあ、あんたも広島かね?」とさもうれしげに中年の巡査はいい、いっそう親身になった彼に私はそれから一時間以上もつきあわねばならなかった。小田という家はその二千番地台にとびとびに四軒あり、彼は、私をつれてまわってやるといいはじめたのだ。交番を出、仕方なく彼の雨合羽に半分入れてもらいながら、私は原爆後遺症の録音構成の仕事で行き、酒はうまかったなどと話さねばならなかった。
「そいでも、富子という女性はおらんかったがのう」と彼は首をかしげながらいった。絶対にまちがいはないのだと私はくりかえした。私は、そして不快げな寝呆け顔で応対に出てきたいく人かの男女たちのなかに、じっさいに富子に似た系統の顔もみつけたのだ。人びとはかならず複数で出てきた。だが、小田富子の顔はなかった。
 四軒めの小田家の門を出ると、警官は長嘆息をして声をかけた。「やっぱり、もう引っ越しとったんですなあ、そうじゃないんかねえ」
「そうかもしれません」私は弱々しくこたえた。すでに私はほとんど酔いもさめて、結局私を富子に逢わせなかった天の配剤に、感謝めいた安堵すらおぼえていた。
 警官はその私の態度を気の毒な落胆ととってくれた。バットを一本くれ、すまなさそうにしていたのは、むしろその「オジさん」だった。
「せっかく、雨の中を沢山えっと歩きまわったにのう」彼は合羽かっぱをゆすりあげていった。私は答えられなかった。目を伏せたまま私は頭をさげ、挙手の礼をする警官と別れた。ひどくわるいことをした気がして、彼といっしょに歩くのがつらくてならなかった。いく度もけつまずき、はねあがったりよろめいたりしながら、私は石ころの多い道を歩いて行った。ふと、それが、私の現実そのもののような気がしていた。
 雨は上り、夜は薄れていた。空がいちめんに白みはじめている。黒い狂気は消え、私はしずかな屋敷町の朝のなかに生れ出ようとしていた。くろぐろと揺れる木々が、濡れた緑の色をとりもどしはじめている。かるい音をたてて木々は雨をおとし、私の靴音は濡れそびれたながい石塀の肌をつたった。私はなにも考えなかった。ふかい疲労の霧があった。私はねむたかった。
「クボさあん、クボさん」と、すると太い男の声が呼んだ。私はふりかえった。中年の警官が合羽を脱ぎ、片手をあげ私を追って走ってくるのだった。彼は大きく肩で呼吸をして、生真面目な顔であえぎながらいった。「こ、これ。あんたの名刺入れ。机に、忘れとった。あんたが、あんまり早よう、歩きよるんでのう」
 私は感謝し、名刺入れをポケットにおさめた。下着までが濡れたのか、関節にへばりついた布地が重たかった。警官は、ふいに私の顔をのぞきこんだ。
「なんだ? あんた、泣いとるんか?」
 私はあわてて首をふった。私はけっして泣いていたのではなかった。善良な警官が私の顔のどこに涙をみつけたのか。ただ、私には朝の光がまぶしかった。

 バスは陸橋の手前を左に折れ、幅のひろい道路に出た。バスの内部には斜めからの弱まった光線が移動し、中央で二つに割れる扉がひらくごとに、埃っぽい風がなまぬるく流れ入った。保井真理子の告別式から、まる二日たった夕方ちかくだった。その日は一日じゅうむしあつく曇った天気だった。
 冬ズボンの膝の上に、原稿のはいった紙袋がのせてあった。私はまた放送局に出向かねばならなかった。告別式の日、あるプロデューサーが私にそれを依頼したのだ。私はなんでも屋で、いわば守備の巧い選手だ。ヒットも打たぬかわりに、穴もあけない。
 私は、運転手のすぐうしろの席に坐っていた。汚れた黒い板の床をみていた。富子に逢いに行き、雨の中をさまよい歩いた夜を思い出して、私はあれはきちがい沙汰だったなと思った。おかげで下宿のおばさんに服を強制的に洗濯屋に持って行かれ、すこし気早やなポロシャツに重いズボンというすがたなのだ。……小田富子は、引越していたのではなかった。私はその朝、それを知った。富子から手紙が来たのだった。
 住所をみて、私はしばらくは自分にうんざりとしていた。どうしてこう私はいつもズレているのだろう。彼女の住所は目黒だった。
 女学生じみた見なれた字が、見なれた白い封筒と無地の白い便箋に走っていた。趣味の点で、彼女は二年前と同じく充分に頑固だった。富子は、やはり真理子の告別式に来ていた。
「なぜ逢って下さらないのかということは、このごろでは考えないことにしました。私はかえって貴方の強情に敬意を表しています。(強情、やせ我慢、としか私には思えません。これは貴方の、一種の意地みたいなものだとしか)」
 冒頭をよみ、なぜおれに嫌われたのだというふうにはちょっとでも考えないのか、と私はむしろ驚嘆をかんじていた。どうして女ってやつはこうタフにできているんだろう。富子はあいかわらず自分の完全さを疑っていないらしかった。だが、私の気をとられたのはその言葉ではなかった。
「この一年半、私は全く貴方の消息をしりませんでした。ラジオも、わざと聞こうともしませんでした。私は貴方が好きです。いまでも愛しつづけているとは自信をもっていえます。それはあらためて気がつくまでもないことです。ですが昨日、マリの告別式で貴方をおみかけしたとき、私がどう思ったか、私は、瞬間、ああ久保さん、まだ生きてたんだな、と思ったのです。……」
 私はくりかえしそこを読んだ。ああ久保さん、まだ生きてたんだな、と思ったのです。……富子もまた、私の死を待っていたのか。――私は、自分の死がだれかに待たれているなどとは、考えてみたこともなかった。私が死ぬとしても、それはだれにも無関係な私だけのことだと考え、富子の目をそれに結びつけることもなかったのだ。もっぱら私は彼女の死ばかりをくよくよと心配していた。
「私には、貴方は依然として同じ距離にいます。それは、腹立たしいほどです。これがどうにかならぬかぎり、私には新しく生きることも、死ぬこともできないようなのです。チラリと貴方をみて、でも何故でしょう、私は反射的に身をかくしていました。絶対に、私はあのひとに逢ってはならないのだ。逢うことなんて、ありうることではないのだ。……私はそんな気がしたのです。私はへばりつくように門の外の塀にくっついていました。
 私は裏口から入り、保井さんのお父様にはお目にかかりました。私はそして、それとなく、貴方がまだ独りで、フラフラとあの下宿で暮していらっしゃるのをきき出しました。――でも、誤解しないで下さい。私はそれでいい気になり、うれしさのあまり手紙を書いているのではありません。私は、なぜ貴方は変っていては下さらないのかと思うのです」
 符合を、私はかんじていた。彼女もまた、かつての相手の徹底的な変化を、つまり、かつての相手の消滅を、心からねがっているのではないのか。私たちは、そういうおたがいの死の期待だけを力にして、それぞれの生を支えてきたのではないのか。……私は暗い夜の空にかかる、ひとすじの虹を空想した。その黒い虹の両側に、私と富子はいる。そして虹は、くらいそれぞれの死の予想である。
 私は思っていた。私のほしいのはけっして彼女のゆるしではなかった。(一度たりともゆるされるのをあてにしたことはなかったのだ。)彼女に関し私が手に入れたいとのぞむものは、いまは確実に、完全な別離以外にはないのだ。しかし、その完全な別離とは、つまり、相手の完全な消滅なのにすぎない。
 私たちは待っている。私たちは我慢している。私たちは、もはやそのようなおたがいの『死』の期待でしか、結びつくことができない。私は、はじめて私たちの関係が安定し、均衡をもったことをかんじた。やっと獲得でき、やっと明白になった、私と彼女とのただひとつ確実な関係、それは、それぞれの死への期待なのだ。そして、同時にそれはそれぞれの、ある自分への消滅の期待なのだ。
 富子の手紙はつづいていた。「貴方は、でもほんとにまだ意地をはりつづけるおつもり? 女は弱きもの、あんまり意地わるをしてはいけません。お会いしたいと思います。さりげなく、できたら二人の三百六十五日のうち、他の三百六十四日とは無関係な架空の一日のように、お会いしたいの。なんだか、私には貴方が、一人でほっておいたらあぶなっかしいような気がして仕様がありません(私はやっぱり、とてもケチなのです。それもたくさん手をのばして貯めこみたいんじゃなく、一度握りこんだらもう放すのがいや、といったお婆さんみたいなケチなのです。)
 もし、いらっしゃらなくても、私は貴方が来ないのを納得するためにも、一時間くらいはぼんやりと立っています。立っているから。……私の身勝手さに、すこし心配だけど、でも来て下さると信じています。わざと返事の余裕がないように、今日、といいます。午後六時に、渋谷の駅前で待っています」
 私は六時きっかりに下宿を出ると、いつものとおり本屋でしばらく新刊書の立ち読みをしてから、ラジオ・スタジオのある方角に向かうバスにのった。
 ふと、私は思っていた。おれは、かつて一度でも富子に本当の愛をもとめたことがあったろうか? おれはつねに自分たちの位置の明確さとか、輪郭とか、関係の距離とか均衡とか、そんな自分だけの納得を必死で追いもとめて、ついにそれらへの関心から、自由になることができなかった。……そのとき、突飛な考えが私の胸をはしった。おれは、むしろ真理子を愛していたのではなかったのか?
 ――どっちでもいい。思い、私は苦笑していた。それも、たぶん真理子が死に、彼女への感情にある輪郭がうまれつつあることで思いついた、たわ言にすぎないのだ。
 白っぽく暮れかけた六月のはじめのひろいアスファルトの道路を、バスは走っていた。バスは接岸するように歩道により、またスタートした。背の低いバスの車掌の女の子は、大きな気持ちよさそうな尻をしていた。私は仕事に考えを向けることができなかった。
 日は沈もうとしている。私はガラスの窓ごしに曇った空を見上げながら、ああ、梅雨がはじまろうとしているのだなと思った。





底本:「愛のごとく」講談社文芸文庫、講談社
   1998(平成10)年5月10日第1刷発行
底本の親本:「海岸公園」新潮社
   1961(昭和36)年9月
初出:「文学界」文藝春秋
   1958(昭和33)年5月号
入力:kompass
校正:荒木恵一
2018年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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