その一年

山川方夫




 遠く近く形をかえてつづいて行く両側の丘や森に、残照はもはや跡もなかった。風も冷えてきていた。低い山の裾をまわり、保土ヶ谷をすぎるころから、黄昏たそがれが深くなった。米軍の軍用トラックはいちだんとスピードを増しはじめた。
 並行して土手の向うを走っている東海道線の、下り列車の窓に明りが灯っている。小畑信二は薄暗いトラックのほろのなかで、あとへあとへと動く風景を見ていた。黒みをおびた沿道の松の枝が、ゆったりと波うつように揺れながら急速に小さくなる。両側の家並みはまばらになり、藁屋根の家や凝結した血のような古びた葉鶏頭やが、車のうしろに飛びのくように逃げて行って、追いぬかれたバスがぐんぐん遠くなった。
 トラックのなかには、いぶされたような脂じんだ臭気がある。ごわごわした防水の固い幌の内側にそれはこびりついて、毛唐の匂いだ、と信二はかるく眉をしかめた。雑沓する桜木町の駅前で人びとの視線をあび、次々とまるで検束されるようにトラックの後部に押しあげられたときの屈辱を彼は思い出した。たかだかと彼をかつぎ上げた米兵は大声で笑いながらひとまわりし、指で彼の尻の深みを突ついた。そして全員がトラックに入ると、鋭く口笛の音がきこえ、とんできた二十本入りの煙草の箱が信二の額にあたった。「サンキュウ、サンキュウ」マネージャーの安達はすぐ拾い上げて、幌のうしろに身をのり出しながら叫んだ。
 信二は指を鳴らした。彼はだまっていた。なにかをいったところでたぶん無駄だったし、要するにおれは戸惑っているにすぎないんだと思った。目白押しに幌の中に坐った人びとは愉快そうにおしゃべりをつづけている。信二はすこし滑稽をかんじた。彼らは、うすっぺらい朗らかさの波を立てつづけている池にすぎず、その池は彼の前で弧をとざしている。彼らは、信二の兄がトランペットを吹く楽団の連中、バンド・ボーイとして彼にその日から一回二百五十円を支給する約束をした人びとにすぎなかった。信二は彼らの仲間ではなく、また仲間になることをのぞんでいるのでもなかった。楽器ケースにはさまれたへこんだビールの缶を、信二は幌のうしろに投げた。
 兄は横板を半分に折った座席から立ってくると、跳びはねるような震動のなかで、彼の首に自分の絹のマフラアを巻いた。「めずらしがってちゃだめだぞ」と、兄は低くいった。
 茅ヶ崎の米軍キャムプに出かけるのも、彼はその日が最初だった。横浜を立つとき、街はおびただしい赤い光にまみれていた。夕映えは彼らの行先の西空をひろく染めて、金色にふちどられた雲の峯の下から、残照のまっすぐな光が車ののように放射状に幾条も空へのぼっていた。
 汚緑色の幌をつけた米軍トラックは、彼らを乗せおわると、はげしいその大夕焼けに向ってスタートした。火事のような桃色の光が溢れた駅前の広場はすぐ建物のかげにかくれ、街は西日にかがやきながら次々と道の両側を遠ざかった。
 落日は、信二に、ふしぎな渇望と喪失の味をあたえていた。あかあかと燃える夕焼けは彼を迎える次の季節の門のようで、同時にそれはあるものからの別離を示しているようにおもえた。だが、彼は過去を考えていたのではなかった。未来に向っていそいでいる現在だけがあった。まる四年間の平和がすぎたその年、十七歳の信二に、毎日は彼が追いつくよりも早くすぎて行った。兄のお古の小さな学生服は肱と背が黒く光り、彼はいつも空腹だったが、しかしその惨めさのなかで疲れていたのではなかった。彼はいそいでいた。毎日、越えなければならぬものばかりがあり、越えた向うになにがあるかなどは考えたことがなかった。信二は、ただいそいでいた。
「前を見ていろ、面白いものがあるぞ」
 兄がいった。もう、兄の表情がわからなかった。かすかな起伏のあるほの白いアスファルトの道路が、幌のうしろにはてしなく帯をころがすように繰り出されて、夜はその道を呑むようにして迫っていた。
 彼は幌の隙間に目をあて、光芒を投げて進むトラックの前をながめた。闇のなかに、目にうつるものがなかった。潮風を吹きつけてくる海が左手にあったが、その渚の線さえが見えなかった。
 やがて、エンジンの音がゆるんだ。車輪が砂利をはじき、警笛を立ててトラックは右折しようとして、ヘッド・ライトが間近な松林を照らし出した。うずくまった形の、巨大なものがそこにあった。
「戦車だ」と彼はいった。泥いろに塗られた大型の戦車が、松の間から、海の方向にななめに長い砲身をのばしていた。
「見えたか」と兄がいった。「でも、あれははりぼてさ、模型だ」
 兄は笑った。正面に赤い電飾のついたキャムプの門があった。それが目的の部隊だった。信二は、それまで茅ヶ崎のキャムプが、戦車隊のそれであるのを知らなかった。
「戦車隊は、白いアメちゃんばかりなんだ」兄は楽器のケースを引き寄せながらいった。「あれはきっと、看板がわりなんだな」
 信二は、いちど実物をとっくりと手でさわってみたいと思った。なぜか軍艦とか飛行機とかと同じに、戦車には彼の子供っぽい夢をくすぐるものがあった。ずっとあとになって、信二はそれがシャーマン戦車の型を摸したものだということを知った。信二はだが、結局は近くで戦車をながめる機会さえもてなかった。ときに遠い松林のかげに一二台の戦車の置かれているのがみえたが、戦車はいつも停っており、二度と同じ位置にいたことがなかった。


 演奏を開始する「音出し」は七時の予定だった。週に一度、そのキャムプの米軍兵たちのために、深夜までの数ステージをつとめるのがそこでのバンドの仕事だった。カマボコ兵舎のならぶ平坦なひろい砂地に煌々と数百燭光の照明がかがやき、頭に派手なターバンなどを巻いた日本人の女たちが、兵士たちと大げさな身振りで笑って触れあったりしていた。女たちはけわしい目をしていて、楽団員たちにながい視線は向けなかった。
 片隅にピラミッド型にドラム缶が積まれている。その前をうねる道の突きあたりに、夜を背景にしてかなり大きな黄いろい円形のホールがあり、ホールは、タンカース・インと呼ばれていた。
「おい、食いものをもらってこい、腹がへった」
 控え室にやっと荷物を運び入れると、ベースの小林がいった。バンド・マンたちは、トラックを降り、懐中電灯で一人一人顔を照らし出され形式的に人数をかぞえられてから、ふいに寡黙になり不機嫌な表情をうかべている。それが米兵や女たちの視線に耐えるためか、仕事にかかる気負いなのかは知らなかった。鍵のこわれた扉の前の通路をアルバイトらしい日本人の学生服のボーイたちが、金属の盆をもって速足に通りすぎる。食事は、やはり日本人の、これは揃いの純白のエプロンをつけた娘たちに申し出ればよかった。「八人かね」背の低い脚の太い娘は疲れたようなのろのろした口調でいい、とりについてくるようにといった。いもでるむっとした匂いの充ちたキッチンに入ると、彼は網戸の外を見ていた。女たちが、彼を恥じさせたのではなかった。彼は彼の空腹を恥じていたのだった。同じような感じの娘たちはなにもいわず、一様に表情がなかった。一人の注いでくれた珈琲が痛みのように腹に沁みた。信二の腹が鳴った。娘は笑い出した。眉のうすい、ひどく痩せた娘だった。
「あんた、ジャズは嫌い?」控え室で、いつのまにか横に来ていた安達が、玉子をのせたハンバーグのサンドイッチに齧りつきながら声をかけた。「もし嫌いじゃなかったら、頼みがある」
「ダーチー、よせよ」鏡に見入りながら兄がいった。
「いいじゃねえかよ」安達はずるそうな目で笑った。彼は皆に、米兵たちからと同様にダーチーと呼ばれている。「俺が坐っているつもりで準備してきたんだが、俺はいろいろと用もあるしな、坐ってるだけくらい、坊やで代用できるだろう」
「なんのことです?」と信二は訊いた。
「ドラマーが急にやめたんだよ。いろんな事情がありましてね」
「あんたがあまり文句をつけたからさ」と楽団の一人がいった。安達はそれに答えず、長い顎を左手でさすりながら、眼鏡越しに笑うような目で信二を見た。「でもな、どうもドラムが置いてないことには恰好がつかない。ここはキャバレエやクラブとはちがう、見た目の恰好だけついてりゃそれで文句ねえんだ。どうだ坊や、あんた、なにもしなくていい、ひとつさもドラマーみたいな顔して、ここでだけ太鼓のうしろに坐っててくれないかね」
 すっかり髪に櫛を入れた兄がそこに来ていた。「よせ」声は怒っていた。「俺はこいつをステージに出したくない」
「坐ってるだけ?」信二は兄を無視していった。兄の強い語調が反撥を誘っていた。彼は、兄に属しているのではなかった。
「そうさ、だいじょぶそれでごまかせるさ」
「止めとけ、面白いと思っているのか」と兄がいった。
「かまわない、なんだってやる」
 信二は兄を見ずにいった。安達は手をたたいた。
「よし、これで決まった。ペイを五十円ふやしてやる」安達は大げさにうなずき、唇を笑う形にした。そのまま細い目で信二をみつめていた。兄はだまっていた。
「いそげや」と安達がいった。
 安達の服は大きかった。ステージの幕のこちら側に、メンバアはすでに位置について、兄がトランペットの口をしめしている。
 マスターの、ピアノの荻村が、もう一度信二に注意をした。「ね、ベースに合わせてりゃいい、ね?」
 荻村はピアノに戻った。臙脂えんじの厚い幕の向うのざわめきが遠くなって、照明が幕にまるく当った。一心に彼は荻村をみつめていた。荻村はピアノに向ったまま、右の靴尖で床をたたく。コツ、コツ、コツコツ、コツコツ。兄がトランペットをもつ肩に力をこめ、テーマの第一小節を吹きはじめた。幕があがる。拍手が湧く。客席は彼をのみこもうとしてざわめく、大きくひらかれた赤黒い鯨の口でしかなかった。彼は夢中でワイヤアのブラシを使っていた。
 ふいに、全身がリズムに乗りきっているのがわかった。やっと首をあげて、フロアいっぱいに踊る人びとに顔を向けた。信二は、大きな呼吸をしていた。
 女たちのワンピースが、むき出しにされた醜い色とりどりのはらわたのようにうごめいて光っている。埃くさい熱気が吹きあげられ、帽子のない兵士たちは、大きな掌で女のそのあらゆる外側を愛撫して踊っていた。女たちの中には、サンダルや草履ばきの素脚もいくつか混っている。女たちはひどく元気だった。
 膝小僧のあらわな、こむらのたくましく膨れた顔をしかめたような女がくるくるとまわされながらステージの前でいった。
「このバンド、なかなかいいじゃんかよう」
「ああ、おらも好きだえ」一人が背を向けながら答えた。「はじめにやる曲が、好きだだ」もうひとつの赤い大きい唇がわめいた。
「歌がねえけどよう、まあ、悪かねえよう」
「ヘイ!」曲が終ると、女たちはわれがちにステージに駈け寄って幾度も同じものをリクエストする。ジルバがよかった。
 この光景は、予期していなかったのではない、と信二は思った。バンドを招ぶのは、兵士たちに十二時間の休みが出る日であり、その期限が翌朝の六時であることもわかっていた。「することは決まっている、キャバレエがわりにホールで踊って酒をのんで、お目あてのことをゆっくりたのしむのさ、ラストまで残っているのなんて、たいてい一組か二組しきゃいない」と兄はいった。
 歓楽が、ひとつの巨大な音響となって空間を充たしていた。熱っぽい騒音と体臭、それに温気。人びとは充分にたのしんでいるように思えた。陰欝いんうつや不幸はどこにもなく、活力にみちた肉塊が音楽に洗われつづけている。リズムは彼のなかにあった。だが、信二は快楽を全身に行きわたらせることができなかった。つとめて冷ややかに、彼は、リズムからこぼれ落ちまいとだけ意識していた。
 大きらいだ、鈍く光るドラムのペダルをみつめながら、信二は瞼のうえに滴る汗を手でぬぐった。彼はあえぎ、凌辱りょうじょくをうけたように自分が泥まみれの憤怒をなにかに叩きつけたがっているのがわかった。醜い、と彼は思った。目の前を踊って行く兵士の一人は、びっしょりと赤い毛の生えた掌で女の乳房をつかんでいた。女は細く白眼をむき、よだれのたれそうな唇でいつまでも笑っていた。信二は、自分の嫌悪と怒りの視野の中心にあるのが、けっして米兵の姿ではないのに気づいていた。かるい混乱のなかで、彼は予期とちがう自分にめざめていた。彼が嫌悪し、じ、痛切な憎しみをさえおぼえているのは、日本人の女たちなのでしかなかった。その逞しさがたまらなかった。なまなましい醜さがやりきれなかった。それらは女であり、それらが性器だった。彼は敗北をかんじていた。死んじまえ、こんなやつらなんか。息苦しく、屈辱は信二の喉につまっていた。
「そりゃ、いやなものさ」控え室にもどると、安達は信二の肩をたたいた。「そりゃおれたちだって日本人だ、日本人の女がいいように玩具にされているのをみて、腹の立たねえやつはいない」
 信二はうすく笑った。頬が薄皮をはったようにこわばり、安達の誤解をとくのも物憂かった。「でもな、すぐに慣れるさ、すぐ、なんてこたあなくなる、とやかく考えるのがばかばかしくなる」
「われわれみたいにね」と荻村が声をかけた。「そうさ、」とすぐに安達が和した。「そうさ、無関心こそがわれわれの衛生法でね、モラルですよ」バンド・マンたちの気がるな漫才じみたやりとりといえばそれまでだが、なぜかその言葉は信二の胸に深く刻みこまれた。だが、信二は、あとになって自分がその言葉を呪文のようにくりかえすことになろうとは、考えていたのではなかった。彼は充分に、自分が他人たちにたいし無関心であるとそのときは信じていた。
「美人は、一人もいなかったね」信二はわざと落着いた声でいった。
 安達は笑い出した。「へえ、いい度胸だ。こいつ、もう品定めをしてやがった」
 もと病院を改造したのだという天井のたかいホールは、三度目のステージのころから急激に客がへりはじめて、とたんに殺風景なものになった。青や赤の照明もながれず、それは屋内競技場に似ていて天井に鉄骨が組まれ、ステージのまるく張り出したフロアを見下ろして、三方にせりあがる階段教室のような席があった。一定の明るさの光の落ちているフロアとその席との境には、ぐるりとたくさんのテーブルが群がり、兵士たちはもっぱらその蔭の部分で酒を飲んだ。そこに黒いスーツの女がいた。
 その女はほとんどテーブルから立たなかった。かすかな微笑を頬にうかべたまま、女はフロアを動く人びとに気倦けだるげな視線を送っていた。黒いスーツの胸に真珠らしい首飾りを巻き、色白で首のながいその女はひときわ目立って美しい顔立ちをしていた。信二は、ふとその暗い片隅に吸われて行く自分を感じていた。さわがしい嬌声や叫びごえや、演奏やステップの音の雑然とした渦のなかに、そこだけぽっかりと音のない世界が穴をあけたように、女の周囲には特別なしずかな澄んだ空気があり、それが女を包んでいた。べつに、その美しさが信二を惹いたのではなかった。女は疲れた、無気力な表情をうかべていた。ぎらぎらした、なまなましい原色のあざとい他の女たちの印象とかけはなれて、黒いスーツの女には、ある稀薄な、退屈をわがものとした人のひそやかな落着きも感じられた。白い拳を口にあてて、女はちいさく欠伸をする。手をのばして、正面に坐っている兵士の胸からなにかをつまみあげて、それを肩を引くようにして床に落した。そのままながいこと床をみつめていた。頬の微笑を消さなかった。
 そのテーブルでは、ほとんど会話をしている気配は見えなかった。上流の人ではないにしても、黒いスーツの女は、中流の家庭の歴史と習慣を身につけている人のように思えた。若い未亡人を思わせるその黒づくめの装いのなかで、青白いなめらかな肌が冴えざえとしていた。
 最後のステージの客は三組しかなかった。二組は演奏中にフロアから去って行った。黒いスーツを着た女の組だけがのこっていた。
 相手は、金髪で縁なしの眼鏡をかけた、おとなしい少年のような感じの長身の伍長だった。信二は、女が、終始その相手以外の男と踊らなかったことに気づいていた。二人はだまったまま、滑るように床を動いている。上品で、正式なステップがつづいていた。
 ウェイトレスやボーイたちが、無表情にあたりを片づけはじめている。バンドは、ラストの「グッドナイト・スイートハート」をかなでていた。女は、小さな赤い唇をしていた。首のうしろで束ねた髪は長く、黒い滝のようにまっすぐに垂れた髪が、背中でゆっくりと左右に動いていた。
 曲は終ろうとしていた。だが手をとりあい、おたがいの瞳をみて、二人の脚はとまる気配がなかった。荻村が目で合図をした。バンドはモティーフをもう一度くりかえした。信二は呼吸をつめて女をみつめていた。
 二人は、フロアの中央に来ていた。アルト・サックスがコーダを吹きおさめて、二人は踊り止めた。バンド・マンたちは立ち上った。
 そのとき、出口に向かおうとする伍長の肱をとると、女はステージを振りかえって小さく胸の前で拍手をした。うながすようにそっと伍長に肩でふれた。伍長も手をたたきはじめた。人気のないホールのなかに、まばらな二人の拍手だけがひびいていた。幕が下りはじめた。バンドの人びとはいっせいに深く首を下げた。


「寒いな、まったく」帰途のトラックの中で、荻村の声が吹きとばされ闇に消えていった。風は冷たく、はげしかった。風をさけるためには低くなっていなければならない。信二はスティックを入れた旧日本軍の銃弾入れの箱に腰を下ろし、行き場所のない両手を肩に組んで首をちぢめていた。
「もうすぐ冬だぞ、ダーチー、腕をふるってこんどからはバスでもオーダーしてくんなきゃ、たまんねえや」小林がいった。安達は眠っている様子だった。
 突然、背後にけたたましい音がひびいて、道路になにかが顛落した。トラックは急ブレーキをかけて停り、人びとは突きとばされたように床にのめり落ちた。「……やあ、うしろの板が外れやがったんだな」と安達はいい、闇の中でもぞもぞと床を這った。
 降りてきた兵士は板をとりつけると、「ハハン、遅すぎたと思うかね、お前ら」といった。日本人たちは無気力に笑った。
「人間をほうり出さないように頼むよ」安達はわざとらしい明るい声でいった。
「文句があるのか。なら歩いて行け」兵士は鋭く不機嫌な声でいった。
 幌のなかはしずかだった。咳をするものもなく、だれかが追従のような短い笑い声をあげた。兵士は胸をそらせていた。
 ライターを灯して、兵士は腕時計をながめた。「ふん、一時だ」前にまわって行く軍靴の音がとまると、ふいに聞きなれた物音がきこえてきた。兵士は、車輪に向って尿をほとばしらせているのだった。
「ばかにしている」信二は呟いた。「侮辱だ」
「なあに、ありゃ侮辱じゃない」安達はさえぎるようにいった。その声の位置で、さっきの笑い声が彼であるのがわかった。「習慣のちがいさ」と、のんびりと彼はいった。「やつらはいつだって車にするんだ、車にかけることがひとつもそれを汚すことや不謹慎にはならない。くさむらや木にむかってするおれたちとちがって、やつらには、ただ、ものを見せないようにやることが大切なんだ。そうなんだよ、だから、絶対におれたちみたいに道の端っこなんかじゃやらない」
「ふうん」と信二はいった。
「かんたんにムキになるなよ、坊や」安達は肩を寄せてきていた。「あいつらも運が悪くってな、気が立っているんだ。おれたちを送って、でもやはり六時までに帰営しなけりゃならない。当番の兵隊はだから皆ボヤいてばかりいるんだ」
「そんなことにも、いまに慣れるさ」どこか皮肉な声の調子で、兄がいった。トラックは出発した。すぐに速度をあげ、闇の中にエンジンは単調な唸りをたてはじめた。
「坊や、この次もあすこに坐っててくれるか?」安達はいった。「ペイを一挙、四百円にしてやる」
「ありがとう」と、彼はいった。
「ついでに、ドラムを覚える気はないかね」信二はだまっていた。
「なかなか筋がいいよ、あんた」
 安達は鼻を鳴らせて笑った。信二はだまったまま目をつぶった。あたらしい習慣が自分にはじまろうとしている。彼はそれに耐えるように、いまごろ日本人の女たちが見せているだろう姿態を想像した。やつらはへっぴり腰で、大げさに腰をふりふり突貫する。女たちは呻き、汗をながして調子をとる。だが、それがどうしたのだ。要するにやつらは貯めた金を一週間ごとに絶え間なく溢れさす一箇の蛇口なのにすぎない。そんなことはどうでもよい、どうでもよい。思いながら信二は、固く奥歯をかみしめるようにして目をつぶっていた。


 楽団は横浜のキャバレーが主な仕事だったが、そこでは信二はただ荷物を運んだり、譜を配ったりだけしていればよかった。茅ヶ崎には毎週水曜日ごとに通った。仕事をはじめる前のタンカース・インの舞台で、安達にそそのかされ、信二は一二度ドラムを打ったことがあった。鈍い反響をつたえるスティックの味はこころよかった。
「ダム・ビート!」彼がドラムをならべ終えて、ふとスティックを握ると安達がそう声をかけた。
「いっちょうぶったたけや、坊や。かまやしねえ」
 坊やはいつのまにか信二の呼び名になってしまっていた。信二はたたいた。両肱を胴に寄せて爪先きで拍子をとり、明るい電灯を映すサイド・ドラムを思いきり連打して最後にひとつシンバルをたたいた。その音がまだ耳のそばでふるえていた。
「よし、」安達は赤い床をふんで歩いてきた。「ドラムの第一発、それをダム・ビートっていうんだ、どうだ、いい感じだろう」
「気分はいい」と信二は答えた。
「力がある、なかなか」安達はスティックをさわりながらいった。「教えてやろうか、おれが」
「安達さんが?」と彼はいった。昔きいた米兵に右の手の腱を切られ、スティックを持てなくなったドラマーの話が、ふと彼の頭をかすめていた。その男の名前はきかなかった。それが安達なのかもしれないと彼は思った。
 安達はだが、いつもと同じ狡そうな笑顔をうかべていた。「坊や、これからはおれのこと、ダーチーって呼びなよ、友だちのダーチー」と彼はいった。
「でも、僕はプロになるつもりはない」
「いいじゃねえか、ただ好きでおれが教える。坊やがおぼえる、それだけの話だ」
 それだけの話だ、と信二も思った。安達の過去を聞くのは余計なことにちがいなかった。他人の物語や身の上ばなしはおれに無関係だ。彼にまかせられているのは、彼ひとりなのにすぎなかった。幕を越したざわめきが高くなった。開幕は間近だった。
「めずらしいな、あの黒の女が今日はもう来てるぞ」とステージに登ってきた荻村がいった。
「ああ、おれもみたぞ、いつものアメちゃんとまたいっしょだ」安達がいった。
「あいつは、いつも同じ相手なんだな」
「黒いスーツの女? いつもラストまでいる」と信二は荻村に声をかけた。
「そう、あの美人さ」荻村は答え、ピアノの蓋をひらいた。だれも、それ以上「黒の女」についていうものはなかった。そして、それが信二にとり、人びとが彼の目の前で彼女について交わした言葉の最初であり、最後だった。
 信二は、弾かれたように肩を硬くしていた。あの女、と唐突に彼は思っていた。そのころ、彼は女がスロオ以外は絶対に踊らず、それも金髪の伍長としかけっして踊ろうとしないのに気づいていた。女は、いつもそして喪服のような黒い服を着ている。あの野卑でそうぞうしい原色の喧騒の渦のなかで、そして、われわれの屈服のシンボルにちがいないその女たちのなかで、ふとその存在が信じられないような気のする女。ひとりの幻想の人物にちかい女……。おれが、安達の申し出をいいことにステージに出るのに乗り気なのも、そこにいれば彼女を充分に見ることができるからではないのか。
「黒の女」はバアとは逆の遠い隅のテーブルに坐っていた。黒いドレスを着て、いつもと同じように、彼女は楽団がスロオを演奏するときだけ伍長に腕をとられフロアに進み出てきた。トロットやルンバのとき彼女は先立って席へかえった。ジルバやヴギがはじまると、首をかしげ、肩をひいて笑った。伍長も従順にそのあとについて席にもどった。どのステージも同じだった。ただ、その夜は髪をアップにしていた。夜会巻きというのか、束ねた毛をたかくあげて、背を向けると呼吸いきをのむような見事な襟脚が二つならんでいた。
 ブラシの手は、ほとんど機械的に動いていた。信二は傾く心を意識していた。見定めようとするような視線を注いでいた。都会の女にちがいない、と彼は思った。年齢は二十五六だろうか。もう少し老けているのかも知れない。伍長と彼女とは、そういえばどこか姉と弟という印象も濃かった。女にはまるで年長の人妻が若い恋人にみせるような、やさしく大人びた挙措があった。切れ長でまなじりのあがった特徴のある眼で、テーブルに坐っているとき、心もち頤をひいて、その目がどこか遠くの高いところを眺めている。女は声をあげて笑うこともない感じだった。
 黒い服の女が、フロアを横切ってまっすぐにステージに近づいてきたのは、もう、相当に客の減ったころだったから十時はすぎていたろう。おどろいて信二は女をみた。女はしかし、彼のいる右袖とは逆のピアノに近く立った。
「ディープ・パープルをやって下さい」
 歯切れよく澄んだ声でいった。発音もきれいだった。荻村がうなずいて楽団員たちに合図をする。「ディープ・パープル」はスロオだった。
「なにようあんた、なにをリクエストしたんだよう」黄色い服の女がいった。
「ディープ・パープル」癖なのかすこし首を曲げて、女は伍長に腕をとられながら黄色い服の女をみた。
「どんなのよう。それ、おら知ってんけえ?」
「スロオよ。ふかむらさき」やさしく女はいい、顔をもどしかけた。そのとき信二と目が出逢った。信二は目をそらさなかった。
 黒い服の女は、しばらくはびっくりしたような瞳で彼をみていた。音楽がはじまるまでの数瞬間、女はふしぎそうに、怒ったような強い眼眸まなざしの彼をながめていた。
 胸がしびれていた。だが、信二は目を放すまいと決意していた。音楽がはじまり、伍長と踊り出そうとするそのとき、たしかに女は信二に頬笑んだように思えた。縁なし眼鏡の優等生のような伍長は、長身の胸を礼儀正しく離して踊り出した。
 信二は浮き立つような心で思っていた。たぶん、彼女はオンリーだろう。だが、もしかしたら、これは金や物に兌換だかんするための関係ではないのかもしれない。ぼくの夢のとおり、いいところの娘の、疎開族の彼女とこの青年の伍長は、真の恋愛、結婚に行きつくべき正式な約束のある関係であるのかもしれない。彼は、むしろ祝福すべきもののように二人をみた。伍長は、北欧系かもしれない。やはりちゃんとした教育をうけた上流の子弟に眺められた。
 ちょうど楽譜をくり、荻村のタクトを待つあいだで、彼の注視に気づいたバンド・マンはないはずだと彼は考えた。もう一度同じ策をつかった。ラストの起立した全員が礼をするとき、やはり拍手を送る彼女に顔を向けて、信二は首を下げなかった。
 幸福は、ひとつの冴えた痛みに似ていた。彼女が自分を記憶してくれただろうことで、彼の胸は躍っていた。興奮は帰途のトラックのなかでもつづいていた。
 十一月の終りの、ひどく寒い夜だった。安達の手腕なのか、それとも当然の処置であるのか、その帰りは霧粒に濡れた大型バスが衛門に停っていた。アヴェック・シートだった。信二は一番前の席に坐った。
 外套の襟を立てて、席にかがみこむように坐る兄たちをうしろにして、信二はしかし寒さを忘れていた。その夜も黒い服の女は最後のステージまで残っていたのだった。後ろ半分に楽器や譜の包みを置き、ほとんど満員のバスの中には、一人、町まで行くらしい若い兵士がいた。
 バスは小刻みに慄えながらまっすぐに海に向い、あぶれたのか、すでに仕事をすませたのか、道の端を点々と女たちが歩いて行く。女たちはたいてい一人ではなく、ひとつの外套にくるまった二人の女もいた。
 女たちは、日本人の無力をよく知っているのだ。追いすがるようにバスの両側にまつわりつき、彼女らは米兵に向ってだけ町までのせてくれるようにくりかえし頼みかける。でもバスはスピードをゆるめようとはしない。立ってきた兵士が、ガムを噛んでいる運転手の肩をたたいた。
「おれの女だ、たのむ」
「うそいえ、お前のは町のベッドで待っているじゃないか」
「でもあれもおれの女の一人だ」
「一人か? 女たちはピー・ウォーさわぐからまずい、一人ならいい」
 あから顔の一等兵の運転手は、二等兵らしい相手にえらそうに答えてやっとバスを停めた。彼は外へおどり出した。
「一人だ、おれを温めてくれるやつ一人だけだ」
 海の匂いをまぜたうすい霧がひややかにながれ入った。甘えたり口笛を吹いたりしてざわめく日本人の娘たちを横にならばせ、運転手はガムを吐き棄てると、にやにやして一人一人頤をもちあげて吟味をした。女は五六人いた。「黒の女」の姿はなかった。霧が、ヘッド・ライトの明るみのなかを動いていた。
 運転手はいちばん背の高い女をえらんだ。「お前の席はここだ」女は兵士の膝に浅くすわり、腕で首をまいた。
「ハハ!」振り向いて運転手は信二に笑いかけた。「命に気をつけなよ」バスが走りはじめる。二等兵はうしろの席で黙っていた。
 毛布のような外套を着た女は酔って目を細くしていた。臼みたいな尻をしていた。外套の下からかかえた米兵の金色の毛の生えた赤い大きな掌が、その胸をおさえている。首をふらふらさせ、「落っこっちゃう、抱くんならちゃんと抱いてな」と日本語で女はいう。道は、まっすぐに海岸に並行していた。
「くすぐったい、なにしんのよ」女は怒ったようにいった。運転手は喰いつくようにその唇に接吻した。力をこめた右腕がハンドルを握っていた。
 くっついた頬が信二の目の前にあった。運転手は強引に吸うのをやめなかった。女の顔はゆがみ、無理にもぎはなすと唾液が白く筋をひいた。「この、エテ公よう」日本語でいい、女はだが笑顔をつくっていた。「グッド」兵士は手をはなした。バスの床に、女はぶざまに仰向けにひっくりかえった。兵士は大声で笑い出した。
 咄嗟とっさに信二は目をそらせた。後部のバンド・マンたちをながめた。バンド・マンたちは睡っていた。死んだように、皆はかたく目をつぶって、睡っていた。二等兵は、無心に窓の外を見ていた。運転をつづけながら兵士はサイレンのように哄笑した。信二は顔をそむけた。なにもせず、なにもいわず、知らん顔をしていればいいのだ、おれもまた目をとざしていてかまわないのだ。彼はつよくシートの肱をつかみ、喘ぐようにうすく唇をひらいたまま、なにかが喉を下りるのを待ちつづけた。
「こうかね」命令され、女は従順にこんどはうしろから兵士の首にぶらさがると、ぴったりと頬をつけた。「そうだ、そうしていろ。おれは、お前といっしょに天国に行くことはできない。そうだろ?」前方を睨みながら兵士はなおも笑い、女は平然と尻をふってハミングで流行歌をうたい出した。
 女が、まったく彼をはじめ車内の日本人たちを黙殺して、眼眸での救いすらもとめようとしないことが信二をさらに深く刺した。無関心はおたがいどうしだった。たしかにバンド・マンたちや、占領軍従業員たちや、売笑婦たちやは、おたがいのあいだに完全な無関心の壁をつくっている。まるで、それが当然のことのように、それぞれの部落だけで生きようとしている。……信二はくるしかった。彼もそれに慣れねばならなかった。
 空気の引きしまるような夜だった。町まではまだ距離があった。額をガラス板につけて、信二は窓の外に目を落していた。ヘッド・ライトに照らされ、道を片側によける一人の女が目に入った。信二は呼吸をのんだ。「黒の女」だった。眩しそうに手をかざして、見上げる女の目がひかった。女の外套はグレイだった。今にもバスが停り、彼女がのりこんできてそばに立つ。ぼくの横に坐る。一瞬のうちに信二はそう空想した。だが、バスは速度をかえなかった。酔った女の卑猥なハミングと兵士の馬鹿笑いをのせ、バスは過ぎて行った。首をねじ向けて彼は窓のうしろをみた。女の佇立した姿はすぐ闇のなかにかくれた。「……ああ」と彼はいった。ひくい声は音にならなかった。
 信二は、かつてそれほどのはげしい空白を意識したことがなかった。空白は彼の横の席にあった。一人分あいた茶革のシートは、揺れているバスの明りをひっそりとうかべている。彼はそこに、はたされなかった自分の痛切な希望を見る気がした。そこに来てもらいたかった。その空間を彼女のしなやかな感触でめたかった。彼は、虚脱したようにシートの背にもたれた。
 銀鈴の鳴りつづけるような空白が彼を充たしていた。彼女がたった一人だったこと、そして殺風景な深夜の道をたどって行くということ、それがうれしいような、かなしいような気がしていた。信二は突然に気づいた。彼のかくされた肌が、ひりひりとするような寒風にあたっていた。十七歳の彼は子供だった。彼はひとつも少年を脱していたのではなかった。彼はその海岸の暗い道を、姉のような黒い服の女と二人きりで、手をつないでどこまでも歩いて行きたかった。冬の闇のなかへ消えて行きたかった。
 その夜は町でカマクラに行くのだという中尉がのりこみ、近道をしようとしてバスは小さな道に紛れこんだ。やけくそな運転手が飛ばしたので木の枝が窓を破り、アルト・サックスの青木が頭を切った。バスは三時すぎまで横浜に着くことができなかった。


 信二は、生活とはひとつのくりかえしではないのかと思った。多かれすくなかれ、人びとはくりかえしによって生きるものだ。ドラムをたたくバンド・ボーイとしての生活が、彼にうまれていた。彼は、次第に慣れて行く自分を感じとれた。
 あくどい原色にいろどられた狂騒的なざわめき、汗と血、パンパンや兵士たちのがさつでなまなましいざわめきなど、彼は憎んだり苦しんだりする、無力でしかも貧しい現実に背を向けようとしていた。それらは彼という単独な密室をつつむ外殻への刺戟、外殻をきたえる季節の風雨にすぎないのだ。彼には外殻をかたくすることだけが仕事だった。彼は反感をもつ自分のその感覚を消すことで、反感をなくそうと努力していた。そんななかば意識的な無感覚が、外界に、そして外界への無力に慣れさせる結果をまねいていた。ただ、慣れるために自分がひとりだけの部屋をつくったのか、その逆かは、彼にもよく理解できなかった。そんなことはどうでもよかった。彼は貝殻にとじこもる貝のように、なにかを回避することを覚えはじめていた。
 ボーイや売笑婦たちから煙草を売りつけられたことが、信二に、そのブローカーを思いつかせていた。それなら兵隊たちと直接に取引きをしたほうが利潤が出る。彼は安達と組み、それを売る方にまわった。一カートンにして三百円の利益、一晩に三カートンを持ち出すのはわけなかった。
「お前、煙草でそうとう儲けているらしいな」ある日、兄がいった。彼はだまっていた。煙草はボストン・バッグに移したまま、教科書などといっしょに床の間の隅に置いてあった。
「なにに使うつもりだ」と、兄はいった。
「さあね」
「女か」
「そんな気の利いたものはないよ」
「……闇ブローカーになんかなりゃがって」
 信二はだまっていた。兄と争うつもりはなかった。なにかをいい出せば、きまって兄は敗戦以来、魂の抜けた人のように、一向に働こうとしない父を毒づく。そして病気で寝こんでいる母も母だとぶつぶついう。兄との口争いが結局は厄介などうどうめぐりでしかなく、つまりは兄の両親への悪態と愚痴になるのはわかっていた。信二はわざと欠伸をした。「出てってくれよ、勉強があるんだから」
「ふん。……ダーチーにいくら渡している」
「百五十円だね」
「折半かい」
「そういうことになっている」
「お前のことだ。きっとそれ以上のマージンでさばいているんだろう。キャバレエで売っているのか?」
「いろいろだよ、キャバレエはたたかれて損をするよ。前アルバイトしてた会社や店がある。学校でだって案外たかく売れる」
「ちゃっかりしてやがらあ」兄はほがらかにいった。「お前を見直したよ、お前はけっして損になるような取引きはしない男らしいな」
 信二は答えずに辞書をつかんだ。兄の物いいは、ときどき上官みたいになる。それがきらいだった。
 階下で、急に朝の空気を引き裂くような甲高さで、間貸し人の赤ん坊が精いっぱいの声をはりあげて泣きはじめた。「ひでえ声だ。ありゃ、猿の声だな」手すりにもたれたまま、兄は顔をしかめた。「気が狂いそうだよ」答えながら信二は、兄が自分になにをいいたいのかが知りたかった。
 兄は、語調を明るくした。「学生バンドも、もう流行おくれの商売だよ。でもおれはな、ペットを吹いてりゃあいい気分だ、世界の、どんな時代のどんな国の楽譜にも書かれたことのない高い音。な?」
「またアームストロングか」彼はわら[#「嗤−丿」、98-12]った。兄はときどきひどく酔ってその言葉をどなった。
「お前のドラムは、どうだい?」わざとらしい同じ明るさで兄はきいた。「毎週、習っているんだろう?」
「あんなの」と彼はいった。「ひとつも本気じゃない、ダーチーの御機嫌とりさ。いまやつにそっぽを向かれると困るからね」
 兄の心配はこのことなのだなと彼は思った。案のじょう、兄は安心したように口笛を吹いて階下へ降りて行った。教科書をとろうとして、気づいて信二はボストン・バッグの口をあけた。ペルメルが二カートンよけいに入っていた。
「……ちきしょう」と彼はいった。そんな親切をしたのにちがいない兄への、奇妙な怒りが彼をおそっていた。「よし、これだけの金は返してやる」彼は呟いた。「明日、返してやる」自分は自分だけでひきうけたい。自分という負担へのだれの手助けもほしくなかった。ぼくのほしいのはむしろ孤独を確実にする対象、つまりたんなる取引き相手か敵でしかないのだと彼は思った。
 山の上の大学では、同級の料理屋の伜が、いい商売相手だった。それと、ある保守政党の幹部の息子。彼はいつも外套の内ポケットに三万円ほどの百円札を突っこんでいた。
 信二は彼らに、一カートンあたり五百円の利益で煙草を売りつけるのに成功した。ひどく自分が抜け目ない男におもえる。自分の冷酷が充分に信じられるようなその感じがこころよかった。信二は熱心に冷血を希望していた。
「そうだ、僕らは組織をもっと拡大しなくちゃならないんだ」
「うん、もうすぐやつらは学内細胞の存在を正式に禁止するよ、それはわかっている」
 空のボストン・バッグをもち屋上にあがると、口に泡をためた学生が熱っぽい議論をかわしている。信二は彼らとの無縁をかんじた。そんなことはどうでもよい、一人一人がそれぞれ自分だけを幸福にしようとする、その努力以上のどんな責任の能力をあたえられているというのか。……だが、信二にはその反撥を、偶然そこにいた中学からの同級生に口に出すだけの子供っぽさはまだ残っていた。
「へんな男だなあ」と、その蒼じろい学生は答えた。「不幸な子供だ。君はバカだよ」
「仕方がない、僕は僕でしかないんだから」
 大学の校舎の屋上から、赤い煉瓦の塀をへだてたとなりの外国大使館の庭が見下ろされた。ほとんど葉の落ちた樹々の、まだらな骨のようになった枯れた色のあいだに、鉛いろに光る池があった。そこから鳥が立った。
 屋上の縁の石に胸をつけて、信二はふと口に出した。「ここから下に落ちたら、死ぬかね」
「柔道をやってりゃ、助かるかな」
「石切場らしいな、下は」
「なら完全だ、死ぬよ」
 答えて、友人は彼をのぞきこんだ。
「おい小畑、女にでもふられたのか?」
 びっくりして、彼は笑い出した。「ばかばかしい、おれはだれも愛さないよ」
 日射しは明るかった。暖冬異変といわれたその冬は、春のようなあたたかな日々がつづいていた。その年の授業が終るのも間近かった。眼鏡をかがやかせて、日向ぼっこをしながらノートをうつすのに余念のない姿もある。完備した自分のノートを考え、授業料もあとわずかだ、と信二はさわやかな気持ちで思った。なごやかな冬の陽をあび、屋上のコンクリートの表面に引きずるような音をたてて、五六人がならんでダンスのステップを習っている。教えている一人が手をちながら近づく。肱を水平にし、へっぴり腰でふらふらと歩いてくる一人が彼に声をかけた。
「おい、お前も習わないか? 踊れねえんだろう?」
「いくらだ?」
「一回、一人二十円」教えている学生が振りかえった。「どう?」
「スロオを教えてくれ」と、彼はいった。「スロオだけでいいんだ、そのほかはべつにおぼえたくない」
 ステップは簡単だった。だが、友達がいくらすすめても彼は他のステップは習わなかった。練習はその昼休みだけで充分だと思えた。
「もう巧いよ、あとはリードすること、実際にやって、音楽にのること」
「サンキュウ、あとは結構」
 兄の楽団でのアルバイトは、だれにもいってなかった。信二はほがらかに二十円を払った。ステップをおぼえた代価が、たったそれだけですんだのにも彼は満足していた。


 松林にかこまれた茅ヶ崎の米軍戦車隊は、周囲に有刺鉄線の高い柵を張りめぐらしてあった。それがときに野戦の設営地か、収容所にいるような印象をあたえる。けっして都会のそれのようなしゃれた金網が張られているわけではない。
 タンカース・インの裏口を出ると、その有刺鉄線をからませた柵をこえて、いちめんの幼い松の葉が幾重にも黒い雲をかさねたように輝き、高い、なにに使うのかがわからない一本の鉄柱の左肩に、北極星が冴えて停っていた。なだらかにふくらむ丘の向うにある町はずれの住宅地は、二三の遠い灯りとしか見ることができなかった。
 酸いケチャップ・ソースや香ばしいパンの匂いやらのなまあたたかく漂うキッチンの網戸の前を通り、乾いた砂の道を、山のようなドラム缶の前を抜けて歩いて行く。便所は、ホールから遠くはなれた松林の近くだった。
 キャムプに着くとすぐ、冷えるためか楽団員たちは便所へ行く。信二は彼らの帰るのと入れちがいにいつもホールを出た。それまでに譜面台や楽譜などを整えておく仕事もあったし、彼はそうして冷えびえとした夜を一人でぶらぶらと歩いて行くのが好きだった。ときどき、ウェイトレスたちが、網戸をあけ焼きたてのパンやロースト・ビーフなどをくれる。クリスマスの晩は小さな七面鳥の腿の肉をくれた。
坊やさん」と、娘たちは彼を呼んだ。「ありがとう」と彼はいちいち礼をいった。信二は、その娘たちの好意を、一番年少の自分への年齢的な親愛にすぎないと思っていた。
 キャムプの風景はいつも同じだった。あかあかと幾基かの照明が前後左右から彼を照らし出して、夜というより、それはいつも同じく低くせまく暗い空をもった真昼なのだ。つねに一定の明るさがやわらかく敷地を覆っていて、彼にとって、キャムプの風景は、いつも単一な夜のそれでしかなかった。
 その光のけむる空間に白くこまかな線をきらめかせて雨の降る日があり、天頂の星屑の高さをおしえて晴れたそれがあった。
 海からの風のつよい日など、さわさわと昼の明るさのなかでそれだけは冷えた夜の風が、洗いつづけるように彼の頬をゆすぶる。ゲートに群がる人びとを見やりながら、だが彼はゆっくりと歩く足をとめない。女たちは、それぞれの友人に招ばれてという形式でしか、衛門を通ることがゆるされない。大声で兵士の名を呼んだり、手を振って合図をして、門のそとでひしめく女たちのあいだに、信二は、いつも黒い服の女をさがそうとしていた。門に駈け寄って行く兵士たちのなかに金髪の伍長をみつけようとしていた。開始前にみることのできなかった日は、ステージの合間ごとに便所に行くふりをしてみつけ出しに行った。信二は見るだけのことでよかった。女は米兵によりへだてられてしまっている。それを確実にすることだけが、せめてもの彼の仕事だった。女を見る。沁みわたるように冴えた空白にとらえられて、彼はたたずむ。彼を吸収し、彼を無に帰してしまうそのイメェジが、彼にはひとつの生活の必要のようにさえ感じられた。自分を透明にしてしまう力に、彼はつねに渇いていた。


 荻村はいった。「坊や、試験勉強でたいへんだろ?」あわただしく松の内のすぎた水曜日で、信二はいつもの通り楽譜をかつぎに横浜の彼の家に来ていた。
「たいしたことはないです、授業はめったに休んでないから」答えながら信二は一反いったん風呂敷を背負いあげた。新曲のジャズの楽譜は、入手するのがまだ困難な時代だった。兵士たちから買うヒット・キットも新曲の全部がそろうというわけではなく、しぜん写譜が多くなって、楽譜の包みは重くかさばる一方だった。それを持ちはこぶのは信二の当然の仕事のひとつだった。
「だいじょぶ?」いっしょに表に出て、荻村はたずねた。「からだ、平気なのかい?」
「え?」
「兄貴が心配してたよ、元気ないからって」
「からだなんて、ひとつも悪かあない」
 兄のお節介に、信二はすっかり腹を立てて答えた。「ぜんぜん丈夫ですよ、僕」
 荻村は安心したように笑った。「なんだ、平気なのか。兄貴がやめさせたいなんていうから。……坊やは、じゃ、つづける気あんの?」
「ありますよ」と信二はさも意外そうにいった。嘘ではなかった。もう少し稼がねば授業料が払えないのを、彼は計算していた。なんといっても、このアルバイトがいちばん割りがいいのだ。
「そうか」荻村は考えこむ様子だった。「じゃあ、坊やはほんとにドラマーになる気なのかい?」
「さあ、そいつは」彼は口ごもった。「たたくのは気持いいけど」
「ふうん。ダーチーの話とちがうな」電車通りに出ながら、白マフラアの荻村は首をまげた。
「ダーチーの話はね、またちがうんだ。カレは坊やをわれわれのドラマーに仕立てたいといってるんだ、それでほかのやつを入れない」
「僕はバンド・ボーイですよ」と信二はいった。「ダーチーには、考えさせて下さいってぼかしてあるんですが」
「そうなの。でもそいじゃ弱ったな、ドラマーはどうしてもいるんだ」独り言のようにいい、荻村は車をとめた。夕暮れの街を、タクシーは桜木町駅へと走り出した。
「でも、ダーチーには、まだはっきりとはいわないでおくよ、その方が都合いいんだろう? あいつもへんにカッとくるところがある」
 荻村はいった。「どこでもバンドはここんところは目がまわるようにいそがしいし、どうせ、そんなにすぐ僕にもドラマーがめっかるわけじゃないんだ。いずれにせよ、もうすこしは続けていてくれるとありがたいね」彼はくりかえした。「ね、もうちょっとね」
「ええ、そうさせて下さい」
 胸にかかえあげた風呂敷包みのかげから、信二は強い眼眸で窓をすぎる賑わった街を見ていた。どうやら解雇の予告なのだと思えた。もうちょっとね。荻村の言葉を口の中でくりかえした。
 突然、熱いものが胸にながれた。「もうちょっと」だ。チャンスはわずかしかない。そのあいだにおれは彼女の肌を抱こう。彼女の肌を嗅ごう。絶対に一度彼女と寝てやるのだ。
 街を派手なコートを着た女をつれ米国の兵士が歩いて行く。新春のマ元帥の声明は、終戦以来五度目の新年を迎えた統治の安定を謳っていて、占領軍の兵士たちの町を行く姿は、すでに鎖つきの犬よりも目にしたしいものになってしまっていた。長い脚にまつわりつく靴磨きの子供をおいはらって、笑いながら、米兵は女の肩に腕をまわし、いっしょに飾窓に見入って大きな身振りをする。汚れた松飾りのついた町名の書かれた柱が幾本も窓をすぎる。車道にとび出てきた赤い外套の女が、歩道をふりかえっていやいやをするように笑って首を振った。タクシイが女の背のすぐそばを通り抜ける。歩道に、口を大きくあけ目をかがやかせたひどく淫らな米兵の顔があった。
 信二は、いまはわかっていた。金髪のあの伍長を、彼はあきらかに憎悪していた。思い出すまいとしていた光景が目にうかんだ。あれからもう一度、帰りのバスのなかから、海岸の道を歩いて行く「黒の女」をみたことがあった。グレイの外套を着た彼女は、帽子をかぶった金髪の伍長にしっかりと肩を抱かれて笑っていた。……黒い服の女を、やはり、自分は娼婦としてしか考えてないのか。信二は米兵に捧げられたその白い肌をなまなましく意識していた。彼のかなしみは自分の無力さであり、くるしみは嫉妬にちがいなかった。


「いったい、今日がなんの祝い日だっていうんだ」と小林がいった。彼はすこし怒っていた。「突然、泊りだなんて、……そんなの、ちょっとひどいよ」
「仕方ねえよ、相手は御機嫌さんで頼んでるんだ、やってやろうよ、こんだからのキャンセルがこわいよ」長い頤を突き出して安達が答えた。「なあ、マスター」
「仕方ないね」
 荻村はおとなしい男だった。「皆、いいね?」
「試験がある」と信二はいった。「明日の三時間目、英語の試験があるんですが」
「三時間目? なら午後だろ? だいじょうぶだ、朝の汽車で帰れる」
 安達はそそくさと外套をまた羽織った。「そうだ、宿を交渉してこなくっちゃあ」
「この前のとこかい?」と小林がいった。青木がそれにつづけた。「あそこ? クリスマスの。ひでえ宿じゃないの」
「だって、あそこしかねえんだものよ、宿なんての。兵隊も送ってくれやしねえし、もしあの宿でおことわりなんかくらったら、あんた、野宿でっせ」
 二月に入ってのはじめての水曜日だった。あとで知ったことだが、それは一部の幹部士官に、本国帰還の命令が出た日だった。兵士たちはたぶん、自分たちの送還も間近いと考えてよろこんでいたのだろう。それが、ちょうどその水曜日にあたっていた。
 でも士官オフィサーは信二たちの客ではなかった。楽団は兵士サージャントのために招かれていたのだった。本国にかえるのは士官の一部だったらしいが、兵士たちのはしゃぎぶりは異常で、早くステージをあけろという口笛や怒声が、控え室にいてもうるさいほどの始末だった。「えらいこったぞ、今夜は」兄はにやにやした。「だいたい、客が湧いていれば湧いてるほど、ジャズなんてえのはやりいいんだ」
 その兄のトランペットが、威勢よく「ドゥイング・ワット・カムス・ナチュラリイ」を吹きはじめる。その曲がテーマだった。幕が上りきる前から、兵士たちは声を合わせてどなっていた。
「……ナッチャーリィ! ナッチャーリィ!」
 信二も興奮してきていた。二本のスティックを使いながら、だが習慣のように、彼の目は沸きかえるように踊るさも愉しげな兵士と女たちの向うに、「黒の女」の姿をさがしていた。彼は、まだ、どうにも彼女に近づく機会をみつけられなかった。ただ、彼は茅ヶ崎にくるたび、いつも貯めこんだ一万円近い札束を内ポケットに入れてくることだけは忘れなかった。もし、いざという場合がきたとき、と彼は思っていた。金のないことが、現実に人になにをうしなわさせるかを彼は知っているつもりだった。
 排気のわるいホールにはほの白く煙草の煙がみち、真冬だというのに汗ばむような熱気が、米人特有の匂いや酒くさい呼吸とまざりあって、だんだんと濃度をましてきていた。「黒の女」は二度目のステージの途中に来た。彼女はステージに向って右手の――つまり、右袖でドラムを打つ信二にほとんど五六米の距離しかない、とっつきのテーブルに席をとった。信二は胸をときめかせた。たぶん特別に早い客足がホールをはやく満員にしたためだろうが、彼女がそんな近くに席をとってくれたことはなかった。めずらしく彼女は踊る人びとに明るい笑顔を向け、両手で拍子をとるように皆といっしょに拍手をする。横にいつもの伍長が坐っていた。
 信二は顔を伏せた。いつもの、彼女を見るたびに彼を拘束する絶望が、またも彼をとらえていた。彼女の肌を想うのには、彼女は見えていてはならなかった。乳房や尻や肌、性器としての女よりも、見えながら隔てられているものとしてその「黒の女」に、より貴重なもの、より熱意を向けうるもの、より恋をささげている自分がわかってくる気がする。臆病であり、幼さであり、逃避であり、不健康な夢への固執かもしれない。しかし信二は彼女をみて、化石したように自分が一箇の冴えた空白に占められて行く愉悦、充実した空白そのものに化して行く快感を捨てることはできなかった。彼は負けたかった。自分にではなく、彼は彼女に負けたかった。現実への無力な自分に、自分がすっかりふさわしくなりきること、自分が気化すること、彼女に完全に占有されてしまうことが唯一つののぞみであり、彼のねがいは彼が彼女を所有してしまうことではなかった。
 それが、いつもくりかえされる彼女を目の前にしての理解だった。信二は唇を噛んだ。結局、おれは彼女に指一本ふれることはできないだろう。指一本でもふれることは、彼女を彼女でなくしてしまうことだ。みろ、おれはいまそれをおそれている。スティックを持ちかえると、まるで怒りをたたきつけるみたいに、身をかがめ、彼は全身の力でドラムを撲りつけた。爪先きはドラムのペダルをふみ、夢中でワン・コーラスをたたいていた。「ホウ、」ふりかえって、小林が唇をまるめた。信二は肩をすくめ、舌を出した。
「巧くなったなあ、坊や」
 幕が下りたとき、小林はいった。「ダーチーの昔を思い出したよ、やつもちょうどあんなふうに、よく殺気立ったみたいにやったもんだ」
「小林」と荻村が低くいった。彼とは思えないような鋭く沈む声音だった。
「失敬」と小林もすぐにいった。
 信二は楽団員たちのルールを感じた。彼らはけっして安達の過去をいわず、安達もなにも語らなかった。レッスンのたび、けっしてスティックを握らない安達を、信二は兄の話の腱を切ったドラマーだとわかっていた。信二もそれにふれずにいた。だが、信二のそれは自分以外のものへの意識的な拒絶と習慣を守ってのことにすぎない。楽団員たちにとっては、そのようにたがいの過去や私生活にふれぬことは、ひとつの団結のための力であり、方法だった。いまは信二にもそれが快くないこともなかった。
 控え室で、安達は不機嫌な顔で椅子に坐っていた。「乱暴に打つばかりが能じゃねえぞ」と、彼はひくくいった。「坊や、ちかごろお前、力を入れてたたくと、きまってヒステリイ女みたいな打ちかたをしてるぞ」「今夜は、荒れそうだね」と、荻村がのんびりしたふだんの声でいった。客のことをいっているのだと信二は思った。
 荒れる気配は、たしかに濃く、いつもはけっして入ってこない士官が一人、ホールにやってきたのは次のステージの途中だった。入口に近い兵士たちがどよめき、二つに割れるのを信二は見た。透明な酒壜を片手にもち、真赤な顔をした一人の米兵が、白い歯をむき出して笑いながら入ってきた。縮れ毛のひどい鷲鼻の士官だった。
 あとで考えれば、彼は本国に帰る士官たちの一人だったのだろう。「ステイツ、ステイツ」という語のまざる兵士たちの私語を耳にしながら、だが信二はまだそんな事情は知らなかった。
 メキシカンのように首の太い、栗いろの髪の縮れたずんぐりとした男だった。信二は、はじめからその精力的な印象が、気にくわなかった。兵士たちの掛け声や口笛にこたえて士官は片手をふり、踊る人びとをかき分けてステージの前に歩いてきた。よくみると男は少尉だった。
 ちょうど、ホールにはラグの速いリズムがあふれていた。兄が顔を充血させ、けんめいにBフラットのハイ・ノートを吹きつづけている。兄の額は汗で光っていた。
 片手にジンらしい壜をだらりと下げ、少尉は彼をさけて踊って行く兵士や女たちをじろじろ見た。その目が、右隅のテーブルにとまった。
 信二は気をとられた。手の動きを忘れていた。少尉は、まっすぐに黒いドレスの女のいるテーブルに歩いて行った。テーブルにたたきつけるようにジンを置いた。
 首をかしげ、上目づかいに笑い、頭を左右にふる「黒の女」の動作で、少尉が踊りを申し込み、ことわられているらしいのがわかった。伍長が横からなにかをいい、少尉が大きく肩をすくめた。
 少尉はだが、あきらめたのではなかった。彼は駄々っ子のように首をふりふり、黒いドレスの女に近寄ると、いきなりその手をつかんで自分の方に引いた。椅子が音をたててころげた。
 スティックは完全にとまっていた。椅子をひいて、伍長も立上り、腕を組んだ。顔は蒼白で、怒っていた。しかし長身の伍長は縁なし眼鏡をとらなかった。腕力で上官と争うつもりはなかったのだ。
 他の女たちをめぐってなら、よくあることだったし、だれもなにもいわず笑って見ているのが普通だった。だが、その「黒の女」が伍長ひとりとだけしか踊らないと知っている筈の兵士たちが、黙って成行きをみているのが信二には腹立たしかった。ほとんどの兵士はそしらぬ顔で踊ったり、飲んだりをつづけている。
 女は困ったようなくるしげな微笑をうかべている。少尉は、その女を強引にフロアにつれ出して、胸を抱いた。膝をまげ、リズムをとるように肩をゆする。踊りはじめる。……しかし、女の脚は二歩目で停っていた。よろけながら、女は首をふった。「だめ、私は速い曲はだめなんです」信二はほとんど、その女の声を聞いたような気がした。
 女は、さも済まなさそうに眉を寄せて笑った。白い小さな頤をひいて、だが、女はてこでも動かぬという感じで少尉をみつめていた。少尉は首をふり、また踊り出そうとした。女は腰をよろめかせた。同じ笑顔のまままたなにかいって首をふった。
 二人はすぐ目の前にきていた。信二は前後を忘れていた。腰をうかし、こんど少尉が踊り出そうとしたら、ドラムを蹴とばしてとびかかるつもりだった。だが、少尉は腕をはなしていた。「ソリイ」彼は一言だけいい、女をはなれた。すぐ、肥った赤い服の女と踊る少尉の姿が見られた。
 テーブルに戻った女は、右手で左の肱のあたりをおさえていた。怒った顔ではなかった。伍長が身体をかたむけてなにかいうと、女はやさしく首をふった。いつもの気倦そうな微笑を頬にひろげていた。
 伍長は女を抱えるようにし、人波の奥を出口へと向っていた。テーブルには、ジンの透明な壜とならんで、一本のビールと、女のハンカチが置かれている。信二は、急に汐がひくように空ろになる自分の心を感じていた。ブラシを握り直していた。サイド・ドラムを打つ手には力が入らなかった。女は、少尉をさけ、伍長と散歩しに出たのだ、きっとまた帰ってくる。そう思いこもうとしていた。
 女は、しかしそのステージのあいだに姿を見せなかった。帰ってくるのか、もう今夜はあらわれないのか。信二はそればかりを思った。今日、あの女は長く髪を垂らしていた。真珠の首飾りをしていなかった。
 フロアを少尉に引っぱられて彼の前に近づいてきたとき、彼は女の顔をしげしげとながめることができた。女の眼にはかすかな隈があって、瞳を動かすと瞼はこまかな皺をうかべているようにおもえた。陶器のような、すべすべした白くながい喉があった。……控え室で、信二はじっとうつむいて坐っていることが苦痛だった。ステージに上り、彼はそっと厚い幕のかげからホールをのぞいてみた。兵士たちは減りはじめて、いくつかの空いたテーブルをボーイが拭っていた。ハンカチはまださっきのテーブルの上にあった。控え室の角をまがり、彼は裏口から表に出た。夜は氷をあてられたように冷たかった。思い直して信二は控え室に外套をとりに入った。便所に行くのだといえばいいのだ。安達が声をかけた。「おい、もう十分くらいしかないぞ、休みは」信二は予定どおり答えた。
 キッチンの前をすぎるとき、その網戸の裏口がひらいた。「坊やさん」声が呼んだ。「これ」白エプロンの瘠せた娘が、アルミニュームのコップをわたした。熱いチョコレートがはいっていた。
「熱くて」彼は笑った。甘く熱いどろりとした液はからだをあたためてうまかったが、彼の心はいそいでいた。
「どこに行くの? お便所?」娘は訊いた。眉のうすい造作の小さな顔の娘だった。
「散歩さ」と彼は答えた。
「そう、じゃあ、私がお便所に行くの、送ってきてくれない?」と娘はいった。
「だって、……」信二はいいよどんだ。「黒の女」のことが気になってそれをみつけられたらと思っているとはいえなかった。娘は、しかし簡単に誤解していた。「だいじょぶよ、もし時間が気になんなら、それ飲みながらいっしょに歩いていけばいいよ」
 娘はすぐ粗末なラシャのトッパアを着て出てきた。信二は仕方なく肩をならべてドラム缶の前を歩いて行った。
「その外套、ずいぶんちっちゃいねえ」娘は喉の奥で笑った。彼の胸ほどの背丈だった。
「だけどまだ新品同様なんだぜ。親父から買ったんだよ」
「へえ、お父さんから、買ったの?」
「うん、値切り倒して、月賦で」
「へえ、月賦で?……」
 みるからに胸のひらべたい小さな鼻の少女で、だが、よく見ると愛らしい顔立ちをしていた。前髪だけを出した白い布を耳のうしろで結んでいる。その白い頭をそらせ娘は笑い出した。「ほんとう。傑作だね」
「親父だって、金に困ってるもの」
「うん……」娘は、ふいに笑いやめた。ひくい老けた声でいった。「そいで、あんたんとこも、なかなかたいへんなんだろうね」信二はコップに口をつけた。
 コップは便所に着く前に空になった。娘が用を足すのを待ち、信二は衛門をながめていた。夜は親しかった。女とつれだった兵士が幾組も門を出て行く。伍長と「黒い女」はみえなかった。やっぱり、帰ってしまったのだろうか。彼はコップを指でくるくるとまわしながら、便所の裏を歩いた。独立した建物になっているその裏の粗い砂利の暗がりで、ときに接吻をしている男女を見ることがあったからだ。だが、そこにも人のいる気配はなかった。
 奇妙な物音がきこえたのはその直後だった。鋭い唸りのような音はすぐに途切れ、信二はなにかわからなかった。つづいて、こんどはあきらかな悲鳴が空気を裂いてきこえた。信二は便所に走りこんだ。
「やだよう」と、泣き出すような太い声が叫んで、信二はわざと大きな跫音あしおとをたててその扉をひらいた。「やだ、やだ」声が口を覆われたように押し潰され、壁になにかがぶつかる音がひびいた。目の前にまるまったひろい軍服の背中があり、その両側に厚ぼったい娘の褪紅のスカートの端がみえた。
「なにをするんだ」彼はせいいっぱいの大声でどなった。男は縮れた栗いろの髪をしていた。
 醜くあぶら汗をうかべた顔が振りかえった。あの少尉だった。「やめろ、なにをするんだ」信二は声をうわずらせて叫んだ。彼が腰にかじりつくと、やっと少尉は手を放した。
 真蒼になった娘は、細すぎる棒のような脚をしていた。からだに似合わぬ太い声で、「やだよう」ともう一度どなった。
「坊やさん」娘はひきつれたような声で泣きはじめた。かぶっていた白い布は床に落ちて泥に汚れ、かきむしったような髪をしていた。泣きじゃくりながら娘は押しつめられた隅で腰をぬかしていた。
 白い布切れがふわりと信二の靴に落ちた。引き千切られた娘のズロースだとはすぐわかった。
「……ガッデム」呼吸をきらしながら、ひどい鷲鼻の少尉はズボンの上をつかんでいた。睨み据えるような熱っぽい視線が信二をみつめている。信二はだまったまま、胸のふれあうような近くで睨み返していた。
 分厚いゴムのような唇をゆがめ、少尉がにやりとした。「じょうだんだよ」と、彼はいった。
「出て行け」英語でいい、信二は出口を指した。厚い肩をゆすり上げて、少尉は出て行った。少尉は、まだ喘いでいた。
 娘はすすり泣くのをやめなかった。ずりあがったトッパアを直してやり、力を貸して立たせた。「だいじょぶ? どこもなんともない?」娘はむせびながらこっくりする。「……帰ろう」と、彼はいった。
 娘は小刻みにふるえていた。支えるようにして便所の表に出た。「ボーイ」暗闇のなかで、声がひびいた。信二は娘の慄えがはげしく、大きなものになるのをかんじた。「行こう」と彼はいった。
「ボーイ」声はまた呼んだ。「話がある。今のことは、おれが悪かった」声はしつこかった。「来い、ちょっとこい」
「一人で帰れる?」と信二はきいた。「いや、いや」娘は震える目で見上げた。「じゃここで待ってな」
 信二は便所の裏にまわって行った。漁火のような煙草の火が光をまし、少尉の顔がうかび上った。煙草の火が闇にながれた。その瞬間、猛烈なパンチが信二の頤にとんだ。信二は仰向けに砂の上に倒れた。
 左の頤から唇にかけて、熱いものを貼りつけられたような鈍重な、そして痛烈な痛みだった。目の前に星が飛んで、信二はしばらくは起き上ることができなかった。おさえた掌にぬるぬるしたものがさわった。唇が破れていた。
 血は、口のなかにもあった。立ち上ると、彼は唾を吐いた。からだは不安定に揺れうごいた。彼は立っているのがやっとだった。
「ヘイ」声がいった。少尉は信二の腕をつかんでいた。「あの娘は、お前のスイートハートなのか」
「ノオ」はげしく彼はいった。
「違う? ふん、じゃお前はなんだって娘についてきたんだ。なんでおれをとめた。余計なことだとは思わないのか?」
「彼女は、僕の恋人じゃない」肩をゆすられると、骨にひりひりとした痛みが走った。呻いて、信二は頤をおさえた。
 少尉は声を大きくした。「おい、ウェイトレス、来い」
「なぜ呼ぶんだ」信二はあえいだ。「彼女は来る必要がない」
「かまわん」と少尉はいった。大声でまたどなった。明るみに出てきた娘は、寒そうに両腕でトッパアの胸をかかえていた。走り寄って信二にかじりついた。「血!」娘は理由を訊かなかった。おびえたように信二を強く抱いて、二人は脚でたがいに支えあうようにしていた。
「この少年は、お前のスイートハートだろう?」少尉はゆっくりと娘にくりかえした。「え? スイートハート? コ、イビト?」「……イエス」ふるえながら娘はいった。
「みろ、この卑怯者め」少尉はにくにくしく指をのばし、信二の額を突ついた。「娘のいったのをきいたか」
「ちがう、僕らは恋人どうしじゃない」屈辱をこらえながら、信二は低くいった。ずきずきとうずきが頭にひびいていた。「そうじゃない、ただの……」
「これはなんだ」少尉はアルミニュームのコップを出し、それで信二の頭をたたいた。「こっそりなんかもらっていたんだろう、え?」
 少尉はくすくすと笑った。「あそこに、落ちていたんだ」頤をしゃくった。信二はだまっていた。
「行け」少尉はいった。「おれは黙っていてやる。だからお前もだまっていろ。いいな」
「行こう」信二は娘にいった。歩き出そうとした。
「ちょっと待て」とまた声が呼んだ。声は陽気だった。
「なんだ、これ以上、なにがあるんだ」
「お前たちに恋人の習慣をおしえてやろう」たかい笑い声をひびかせると、少尉は上機嫌な顔で近づき両腕で二人の首をかかえこんだ。娘がまた叫んだ。
「よせ、なにする」信二は必死に抵抗しようとした。いつか控え室で兵隊に酒を無理に飲まされたことがあったが、この侮辱はわけがちがっていた。なにごとかわからず、娘はひらたい胸をそらせ切れぎれの声をたててもがいた。信二は首すじをつかまれ、おさえつけられ、ふりもぎることができなかった。少尉の力は凄まじかった。信二の唇にまだ涙のかわかない娘の頬がふれた。それが唇に寄って行った。「よせ」片手でけんめいにトッパアをおしはなして彼は少尉の腕に爪を立てた。もういちど叫ぼうとするとき、唇は重ねられた。にじりつけるようにして首が傾けられ、娘のつめたい唇が彼のそれの内にあった。やがて、歯と歯とが硬い音を立てた。少尉はやっと放した。よろめいて、信二はまた倒れた。
「畜生」信二は起きあがった。手が、拳大の石をつかんでいた。死んでもいい、咄嗟にそう彼は思った。彼はわけのわからない叫びをあげ、手をふりあげて少尉に突進した。
「なにをする気だ?」
 ずんぐりした少尉は、身がるに横に逃げた。よろけかけて信二は、顔の中央に赤いものがはげしく炸裂するのをかんじた。暗い空が回転して、それが崩れ落ちた。


 教室の大きなガラス窓に明るいなめらかな陽があたっている。学年試験がきていた。信二はそれを受けた。わずかな不足には煙草の回転資金をあて、信二は身分証明書を手に入れることができていたのだった。もう、煙草のブローカーをすることもできない。彼は馘になった。横浜や茅ヶ崎はあの日が最後だった。
 ブザーが鳴る。机にかじりついていた二三人が顔をあげて、監督の教師をうかがう。信二はゆっくりと背をのばして、答案をもって教壇にあるいた。その学年の最後の試験だった。鞄と外套をかかえて、まだ正午ちかい山の上を、彼はぶらぶらと歩いて行った。
 さすがに心は明るく、空しかった。うねった石の坂道を下りきると彼は電車通りを駅と逆の方角に歩いてみた。古ぼけた小さな鳥居がある。そこを曲り、彼は音のない屋敷町に折れて行った。いちめんに砂利の敷かれたひろい車寄せに、一台の小型の外国車がとまっている。彼は大学のとなりの、外国大使館の門の前に出ていた。
 べつにあてのない散歩だった。いつか屋上からみた鉛を沈めたような池の、鈍くひかる水面の静けさが彼をさそっていた。
 戦災のためか表玄関は小さな赤い煉瓦の廃墟だった。ジープを洗っていた日本人の男に声をかけると、「ちょっと待って下さい」と彼は入っていった。
「いいでしょう、どうぞ」と出てきた彼はいい、信二の学帽をみて笑いかけた。「おたくのボート部はなかなか強いですね。一艘ここで寄付したんで、こないだお礼に来ましたがね」彼は善良で、話し好きな様子だった。
「そうですか」信二はお辞儀をした。一人で庭にまわって行った。枯れた芝の上に這松がならんでいて、その向うに池があった。陽ざしが眩かった。彼は自分が疲れているのを感じた。
 なだらかに池に下りる芝の上で、ながいこと信二はぼんやりとしていた。いつのまにか、彼は眠った。眩しいあたたかな光の注ぐのを感じながら、彼は短い夢をみていた。
 彼は横浜の山ノ手クリフらしいところにいた。その小綺麗な洋館と洋館とのあいだみたいな緑いろの芝生に、彼は横に寝ていた。彼の首は女の膝の上にあって、女は「黒の女」だった。「たいへん。ひどい怪我よ」黒い服の女はそういい、ハンカチで彼の鼻をおさえる。それがみるみる真赤な血で染まって行く。「心配することはないのよ」女は笑う。「だいじょぶ?」と信二はいう。「馬鹿ねえ」女は信二をあやすようにゆする。信二は青空をみていた。「どうしてあんなことをしたの? 弱いくせに」「――口惜しかった。僕は口惜し……」叫びかけて、信二は現実にかえった。ほとんど泣き出しそうになっている自分に気づいていた。池に銀いろの二本の水尾をひいて、鴨が置物のような姿勢のままで動いていた。
 もう、終ったのだ、と彼は思った。たぶん、ふたたびあの女に逢うこともできないだろう。おれが「黒の女」にみていたのは、姉のようなやさしさ、自分をそっくり抱きとってくれるやさしさ、自分を透明なからっぽにしてしまうしずかな光だった。おれは、おれ自身の喪失を、その力を、彼女にもとめていた。
 信二は、安達の誤解を思い出した。あの夜、意識をなくしていた信二を抱えおこし、さっそく宿へつれて行って介抱してくれたのが安達だった。安達は、だが、黒い服の女に惹かれている信二を知っていたのだった。「おれがステージのあいだ、いったいなにをしてると思ってるんだ?」と彼はふだんの笑顔でしゃべった。相手の男が小肥りの縮れ毛の少尉だとも、安達は娘に聞いたらしく、彼は信二がホールで「黒の女」と強引にダンスをしようとしたその粗暴を怒って、少尉を殴りに表に出たのだと理解していた。
「ちがう」と信二はいった。「そんなんじゃない」
「じゃなぜお前はおれに便所に行く、なんていった? 便所に行かなかったことは娘に聞いているさ。娘、あの、きれいになる前のシンデレラみたいな娘さ」安達は皮肉に鼻でわらった。「あんなやつのために喧嘩したことになっちまって、ばかなやつだ」
「だれのためでもない、喧嘩は、自分のためにしたんだ」濡れたハンカチで鼻を冷やしながら、信二はいった。
「ふん、理窟屋め、よくあの伍長に殴りかけなかったな」
 それを頭に描いたことがないとはいえなかった。信二はだまりこんだ。「おれはお前の内ポケットをみたよ」安達はいった。「え? 坊や。なんでお前あんなに持ってあるいてんだい?」信二は顔色がかわっていた。「ふん、あのパンパンでも買うつもりだったのかい? あの、『黒の女』をさ」
 答えられなかった。安達の声が低くなった。「……なんでえ、図星なのか」間を置いて、もう一度安達はいった。「そんなに好きなのか? あの女が」
 三日目には鼻は癒っていた。夕方になって、信二は荻村の家に行った。そこに安達がいた。応接間で、安達は外套を着ていた。
「坊や、もういいんだ」大きな風呂敷包みをかつぎあげようとする信二に、安達が声をかけた。「キャバレエには、おれが持って行くから」
「どうして?」信二は二人を交互にみた。
「やめてもらうことになったよ」と、荻村がいった。「さっき、きまったんだ」
「……まだ都合がある」と、信二はいった。
 荻村は困った顔をつくった。「兄貴が、どうしてもやめさせてくれ、っていってるんだ」
「でも、僕はまだ少し……」
「都合がわるいっていうが、その都合を小畑は金だと思ってるぜ、ちがうのかい?」安達はその客間のピアノの前に行って坐った。「おれも、坊やにやめてもらいたいな」
「どうして?」信二はくりかえした。
「どうしてって、事情がどうであれ、兵隊と悶着をおこされたらたまらねえ。運がわるいんだと思ってくれ」
「さいわい、」安達は革スリッパの脚をぶらぶらさせながらつづけた。「こないだのやつはまあ、相手が名乗りをあげてくれなかったからいいけど、こっちとしちゃもう坊やはつれて行けない」
「殴られただけです、一方的にこっちが」と信二はいった。
「かかって行ったのは忘れたのか?」
「……もうあんな馬鹿なことはしません。ぜったいにしません」唇を噛み、信二は低くくりかえした。「もう、なにもしない」
 安達はとりあわなかった。荻村は外出の黒い背広に着替えていた。彼はなにもいわなかった。ソファから立ち上ると、部屋を出て行った。
「……ドラムの稽古も止めよう。な?」とやさしく安達はいった。「坊やが、ドラムをたいして好きじゃないのもわかったのさ」
 信二は、固い表情でピアノの上の花瓶にいっぱいの、黄と白の大輪の菊をみていた。「……これ」かえってきた荻村が白いセロテープを貼った封筒をわたした。「退職金、小畑信二様」と、表に安達の下手くそなペンの字が書かれていた。
「入れちがいになるかと思って、母に預けといたんだけどね」と、荻村はいった。
 こまかな皺を寄せて池を風がわたった。よく見ると、睡蓮の葉かげの古い水に、一匹の緋鯉が沈んでいた。緋鯉は停っていた。
 あの娘は、おれの怒った無理じいのキスのことを、安達にいわなかったのかな。信二はそんなことを思ってみた。おれもいいたくはなかったから黙っていた。でも、もう遅すぎるし、そんなことはどうでもいい。あれはただの唇のおしつけあいにすぎなかった。娘の感情についても、仕方ないなとだけぼんやりと彼は思った。
 ヴェランダで、幼い少女と少年が人形であそんでいた。甲高い声をあげて、その五歳くらいの少年がよく刈り込んだ芝の庭に下りる。姉らしい八歳くらいの少女が、腕をあげてそれを招く。おどろくほど白い色の腕だった。外人の子供たちはそろって金いろの髪をしている。はしゃいで少年が地面を左右に走りまわる。
 少年は紺の縞のシャツに半ズボンで、少女は白い服に真赤な肩掛けをしていた。背広の外人の紳士が部屋を出てきた。信二に笑顔でうなずいてみせると、紳士は庭に下りて、笹のかげでころびそうになった少年をうしろから助けおこし、腕に抱いた。少女がなにかをいい、裸の梢をふるわせている銀杏の方を指さす。少女はその方に走り出した。影が落ちる。少年を抱いた紳士はかがんでその影を拾い、右の腕に持った。影とみえたものは赤い肩掛けだった。紳士は少女を追って池の向う側へと走った。
 信二は立ち上った。日射しが柔かくおとろえてきていた。門に足を向けて、彼は自分がいま、まったくすることをもっていないのに気づいた。新しいアルバイトを探さなくちゃあ、と彼は思った。つややかな赤い実を飾っている灌木の前を抜けて、彼は歩いて行った。


 兄たちの楽団は茅ヶ崎に行くのをやめ、相かわらず横浜のキャバレエを根城にして、立川、朝霞や、麻布の騎兵旅団などをまわっていた。兄はめったに家にかえってくることもなかった。すでに夏に入ったある夜、明け方に帰ってきた兄が安達の死を知らせた。座間のオフィサー・クラブで、彼は兵士の一人に殴り倒されスチームの太い鉄管で頭を打ち、一瞬意識をなくしたのだという。「だいじょぶだ」と本人がいうのでそのままトラックで東京に向ったのだが、そのうち意識が消え、病院へ運びこんだときはすでに完全に死亡していた。「トラックから振りおとされたことにしたさ、その方がどうせならまだ諦めもつくだろうからな、あいつの姉さんにしたって」と、兄はいった。
 信二が数ヵ月ぶりでバンド・マンたちに逢ったのは、安達の通夜の夜だった。深夜すぎに楽団員たちが二台のタクシーで川崎の安達の家に着いた。彼らは、それまでは仕事だった。
「よう坊や、久しぶりだなあ」小林が、まだ独身の安達の姉の出す座蒲団に腰を下ろしながらいった。「あの茅ヶ崎いらいだろう?」
「おれたちもこのごろ茅ヶ崎には行かないけど」小林は親しげに信二のそばにやってきてしゃべった。彼の呼吸にはかすかに酒の匂いがした。「なんでも、このごろじゃ夕方まで、辻堂寄りの海岸で上陸用舟艇の訓練をしてるってよ」
「敵前上陸の?」と信二は訊いた。朝鮮での戦争がはじまり、やがてひと月がたとうとしていた。
「タンクをのっけて?」と彼はいった。
「さあ、そこまで聞いてないさ。でも、なんでもまるで映画みたいだっていうぞ。こう、正面が四角くって、平たい板のさ、海のいろをした舟艇でさ、A3とかなんとか、そこだけは白くはっきりと字が書かれている、あれが猛烈なスピードで接岸したり待避したり、江ノ島のみえる海でぐるぐるまっ白な波を蹴たてて演習をやってるんだってよ。いいねえ。あの板は、接岸すると同時に前に倒れるようにできているんだ」
「小林さん、戦争に行ってたのかい」と信二はいった。
「よしてくれよ、荻村やあんたの兄貴と同い年だぜ、こうみえても」小林はくさったように口をまげた。「じょうだんじゃない、おれたちのなかで戦争を知ってるのは、ダーチーだけだよ」
「ダーチーが?」
「そうさ、やつはあれでポツダム中尉なんだぜ」
 信二は知らなかった。小林はあわてた顔になり、話をもとに戻した。「空には飛行機が舞ってる。沖には駆逐艦がずらり。ちょっといいなあ、おりゃ戦争ってやつは好きだな。ひりひりするくらい、あのころがなつかしいね。なんてったって、毎日がひどく充実していた」
 ふと信二は、小林と同じように、戦争をどこかでもとめている自分を感じていた。真紅の血が自分の胸にあざやかに散る想像には、ふしぎに鮮烈な感動があるのだった。六月二十五日以来、信二はおそれながら待ちつづけていた。
 一つの季節がすでにはっきりと背を向けたのを彼はかんじていた。バズーカ砲、F86F、ミグ15型。アメリカの弱さは意外だった。なにか容易ならぬ変化がおころうとしている。彼は、途方もなく厚い雲が、道の曲り角から突然姿をあらわしたようにその動乱を意識していた。かならず戦争はおこるだろう、そう彼は判断していた。感情には、たしかに期待もまざっていた。彼は戦争の夢ばかりをみた。異常事、――その、自分が完全に単独な存在でしかない事実のままに動きうる状況は、恐怖のそれであるとともにどこか彼の夢の世界にも似ていた。それは青空が地上に降りてきたみたいに、清潔で、眩しく、正確に人びとがそれぞれ単独であること以外にありえない、純粋な世界、原型の世界なのだ。
「でもなあ」と、青木がいった。「茅ヶ崎のキャムプも、いまは黒ちゃんや韓国兵が多いってな、夜な夜な望郷の黒人霊歌や、うら悲しい朝鮮民謡の哀調がきこえてくるっていう話だ、戦争はどうでもかまわねえが、おれはあの陽気なキャムプがなつかしいな、なんてったって朗らかで、わりかた質が良かった」
「じゃ、あそこの米軍は?」訊いたのは荻村だった。
 小林が答えた。「出征しちまったってよ、ぜんぶ。いまじゃ白ちゃんは教官だけだ。友達の話じゃ」
 だまって香を絶やさないようにしていた兄とつれだち、信二は一番電車で大森の家に帰った。電車にはまだ明りが灯っていた。
「女たちは、どうしているだろうね」
「さあ、……ついて行くやつも多いらしいね、小倉や福岡では、間借り代がピンとはねあがったってさ」兄は水いろに明けて行く空をみていた。けた月が空の中ほどにあって、色の浅くなった東の空の涯で、美しい淡い紅と青が、煙突の立ちならぶ地平から離れようとしていた。
「おれ、バンドをやめようかとも思うよ」と兄はいった。「どうも、おれはあの商売に向いてないような気がする」
「……そうかもわからないね」信二は、だが兄や安達やのことを思っていたのではなかった。「黒の女」は、けっして彼の内部からはなれていたのではなかった。
 そのころ彼のみつけていたアルバイトは、家庭教師と週一度のメッセンジャー・ボーイだった。会社の試作品や重要な書類などを、大阪や京都やの支社とか本社などに、直接汽車にゆられて運んで行く。仕事は、銀座裏の縦にばかり細長いビルの四階にのぼって行き、そこで顔の蒼黄いろい中年の男から受けとればよかった。「黒の女」はきっと九州にいる。信二はそれを信じていた。彼は仕事の行先きを訊くたびにだから落胆した。レシートの目的地は名古屋か、せいぜい関西かに限られていたのだった。彼の満十八の誕生日が過ぎて行った。兄はバンドをやめなかった。名古屋行きの仕事がきた。信二は名古屋で返信を横浜の本店に送るのを依頼された。代金は千円で、これはビルの男にだまっていればよかった。


 彼はその商社の宿直室にひと晩泊った。あくる日、横浜には午後についた。桜木町駅の改札口を出ようとして、信二は、そして思いがけず、半年ぶりで「黒の女」をみたのだった。
 国勢調査やさまざまな催し物、いくつかのなんとか週間やらが重なって、賑わしくすぎたその月の終りだった。久しぶりに横浜の空気を嗅ぎ、秋の澄んだ空を列車の窓から眺めながら、彼は「黒の女」に向って出発したのにすぎなかったあの日を、それから駈けるように去った、しかし長い一年を、自分のなかに感じとることができた。一年、と彼は思った。ちょうど一年。彼はその一年の重みを肩に受けて、自分がかぎりなく地の下に沈みかけているような気がした。「黒の女」は、果実の中のむしばまれた核のように、自分のなかで固くくろく、果肉に喰い入ったまま凝固しかけている。肩をふって、窓から眼をもどすと、彼は単調な送信筒のような仕事のなかの自分にかえっていた。電車はホームに走りこんだ。信二は人波にもまれながら改札口を通った。
 天井のたかいドームは薄暗かった。正面に駅への入口のいくつかの穹窿きゅうりゅう形に切り取られて、あふれ出すように明るい青空が光っている。客はまぶしいその光を背負って入ってきた。そのなかに花の群落のようにかたまり、けばけばしい色彩の女たちがまざっていた。なにかを大声でいいあったり、笑ったりして歩いてくる。ひと目でそれとわかる職業の元気な女たちは、それぞれ手に大きなトランクやスーツ・ケースをつかんでいた。なにげなく見た信二の目がとまった。右の端をあるく女だった。
 信二は目をこらした。彼は胸がからになった。それがあの「黒の女」だった。
 女は、派手なチェックのスーツ・ケースを持ち、明るい緑いろの服の肩に、細かな毛穴のある黄のショールダー・バッグをひっかけて大股に歩いていた。ガムを噛んでいる。
 屈託のない表情で女は周囲に目を向けなかった。信二は立ちつくした。女はいちだんと背が高く、美しくて、溌剌としていた。信じられなかった。
 だが、やはりまちがいではなかった。見おぼえのある真珠の首飾りが、ながい首のしたに巻かれている。眦のあがった眼と、白い小さな頤があった。
「坊や、あんた、……坊やじゃない?」
 背の低い毒々しい唇が声をかけた。茅ヶ崎で、一二度煙草を売りつけようとした女だった。ほかの女たちの顔も思い出した。もう、間違いはなかった。
「いやあ、たしかに坊やだよう、すっかり大人っぽくなっちまって……あんた、いまどこの仕事してんの? このへんのキャバレエに出てんのかい?」
「……バンドはやめたよ」と、信二はやっといった。女は一人だけ立ちどまって、ガムを噛みながらなれなれしく笑いかけた。
「いまなにしてんのさあ、坊や」
「君たちこそ、なにをしている」
 立ちばなしの恰好をつくりながら、ようやく落着きをとりもどすのがわかった。信二も笑いかけた。「どこへ行くの? 御旅行かい?」
「なによう、のん気なこといって、御旅行かい、だなんてよう」肩をむき出しにした黄いろいワンピースの女は、ほがらかで、そしてひどく醜かった。「コーリヤでよう、はじまってっだろ? あたいたちねえ、茅ヶ崎がだめになってよ、ここで稼いでたんだけんどよう、さっぱりなんだえ、そいで皆で九州に行くことにしたんだ、あっちは兵隊でいっぱいだってからよう、金も、うんとおとすってからよう」女はトランクを置き、ネッカチーフの風呂敷をゆすり上げた。相模なまりをまる出しにしていた。
「出稼ぎかあ、まあ、うんと儲けな」
 かつて自分が女たちに、こんなに親しげに話したことはなかったと信二は思いついた。だが、どうやら、女もそれは忘れていた。
「御連中と、いっしょ?」と、かまわず歩き去る他の女たちに目を投げて信二はいった。「黒の女」は喉をそらせ、蓮っ葉に笑って、一人と高声で話している。「あの端っこの、背の高いの」と信二は赧くなる顔をそむけながらいった。「あいつも?」
「ああ、ユリけえ」女はいった。「仲間よ」
「いつも黒い服を着てたね」女が思い出したようにうなずくのを横目でみて、彼はいった。「いつもいっしょにいたろ? 伍長が」
 女は、首をかしげ、「ああ、ヘンダーソンのことけえ、のっぽの、眼鏡かけた、ブロンド」そしてすぐにつづけた。「死んじまったよう、コーリヤで。まっさきによ」
 女は、朗らかな表情をかえなかった。改札口をすぎたところにたまる仲間をみて、頤をしゃくった。「あのユリのやつよう、ありゃふんとは仲間じゃないだだ、器量がいくって、ここでもうんと稼いでただ。ヘンダーソンもしゃぶりつくしたしよう」女は、ふと田舎者らしく真剣な顔で声をひそめた。「ありゃよう、大きい声でいえねっけど、ああみえてひでえ慾ばりでよう、儲けがいいっせばどこへだって飛んで行くよ。ほんとだ」
「からだをたいせつにね」と信二はいった。
 手をふり、女は風船のように張った尻を振って改札口に駈けて行った。賑やかな仲間たちと合流したその女に、そして女たちに、群衆は好奇か軽蔑かの視線しか投げなかった。信二は女の親しげな多弁の意味を思った。女は、おれに一種の身内をみていたのだろう。女はへだてない信二の笑顔に、まるで数少ない仲間にめぐりあったような貴重な気やすさを愉しんでいたのかも知れなかった。
 信二はだが、すでにその群衆とかわらない目の自分をかんじていた。彼はもはやその女たちになんの連繋ももたなかった。
 だが、とそうぞうしい市電に揺られかけて、彼は気づいた。「黒い女」は元気だった。若く、張り切ったなめらかな肌も綺麗だった。眼蓋にも皺ひとつなく、彼女は充分に健康でぴちぴちとしていた。顔も想像していたより、はるかに美しかったといってもいい。だが、それこそがおれの幻滅の真の理由ではないのか。ユリがせいぜい二十一か二の若さで、そして、溌剌はつらつとしていたその事実が。
 ユリが、もし想像どおりの姿であったならば、あの黄いろの服の女のおしゃべりは、おれに悲しみと徒労の味わいだけをのこして「黒の女」をころしたろう。だがユリは、おれの「黒の女」ではなかった。いわば別人でしかなかった。「黒の女」は無きずなのだ。
「そんなに好きなのか? あの女が」ふと、彼は茅ヶ崎での、安達の狡そうな微笑を思いうかべた。ただひとり信二の「黒の女」への偏執を知っていた人間、それも死んでしまっている。いま、彼はひとりだった。あの「黒の女」にたいし、彼にはもはや仲間も敵もなかった。信二は兄やかつてのバンドの連中やがいる、横浜駅前のキャバレエに、あとで寄ってみようと思いついた。安達をもっと思い出したかった。……怒ったように、強い眼眸で彼は汚れた市電の床を見ていた。
 海に近い商社に行き用をすませ、彼は市電で横浜駅に向った。階段を降りて行くと、白服のボーイがクリーナーで黒い絨毯をこすっていた。信二は奥のステージに登って行った。
「めずらしいね」編曲を考えていたのらしい荻村が振りかえった。「どういう風の吹きまわしだ」
「みんな、まだなんですか?」と彼はいった。
「うん、兄貴もまだなようだな、でも二三人は来てるだろう」
「ふうん、もうドラムが置いてあるね」
 彼は寄って行った。「なんだい、ネジがゆるんでらあ、これじゃ音が甘いよ」
「新米でね」と荻村はいった。「メンバーはほとんど新米でね、苦労するよ」
 もとのメンバーで残っているのは、兄とクラリネットの中溝だけになってしまったことは兄もいった。「たいへんですね」と彼はいった。
「ダーチーがいてくれりゃ、締まっていたのになあ」荻村は兄と同じことをいった。
「そうですかね」
 信二は、彼らにとってのダーチーには興味が湧かなかった。彼はいった。「たたいてみようかなあ、久しぶりに。いいですか?」
 不透明な飴いろの革の感触が、彼を刺戟していた。
「いいだろう、かまやしない」
「ダム・ビート!」と彼は叫んだ。思いきりスティックをたたきつけた。調子が出ない。上着をとってくりかえした。「ダム・ビート!」
 ダム・ビート。半身を倒してたたきながら、信二はそう叫んだ安達を想っていた。ドラムの第一発。彼はドラムに自分を托していた。おれはおれのダム・ビートをいまだにたたきおわってはいない。
 信二はスティックをサイド・ドラムにほうり投げた。スティックはただのいらだたしげな騒音をしか生まなかった。彼は苦く笑った。「だめです」と彼はいった。「前よりも下手になった。そう思うでしょう」
 荻村は笑った。なにも答えなかった。信二は立ち上った。ドラムもまたおれを拒んでいる。おれを遺棄する、と彼は思った。彼はそのまま表に出た。
 短い地下にいたあいだに、光が急速に弱まってきているのがわかった。光はたしかに透明で重量感のない秋のそれだったが、でもすでに眩しさも軽快さもなくしている。いつのまにか街は夕暮れようとしていた。
 信二は駅のホームに上って行った。遠距離のホームに、緑いろの作戦衣をつけ、銃や袋を肩にかけた、一見して朝鮮行きとわかる米軍の兵士たちが溢れていた。兵士たちは煙草を吸い、だらしなくホームにしゃがみこんだりして、となりのホームにいる若い娘たちに口笛を吹いたりする。娘は娼婦たちではなかった。
 いかに戦況が好転しているとはいえ、それは戦場にのぞむ人びとの群れとは見えなかった。よく磨かれた銃は、鈍い光沢を放っていた。やつらは人ごろしに出かけて行く。信二はそう思ってみた。兎や鴨をうつみたいに、平たい顔の朝鮮の兵士たちをあの銃が殺して行く。そしてやつらの幾人かは、北鮮軍とのその闘いで永遠に消えてなくなる。ひとに指揮をとられて、狩猟のように人ごろしをするのも悪くないな。彼は笑い、靴でホームを蹴った。他人にたいする態度というものは、どうせ従うか、争うかしかないのだ。……遠くの線路を、急行のようなスピードで貨物列車が走り抜けるのが眺められた。長い貨物列車だった。迷彩のほどこされたシーツにおおわれていくつもつづくうずくまった象のような形は、砲身の長い戦車だった。五台目ごとに一人の鉄兜をつけた兵士が立ち、手をふって通り抜けて行く頬の赤い兵士もいた。銀いろの翼を蝉のように折りたたんだ飛行機がつづいて行く。信二はその銀翼がきらきらと日本の上空に照り映える日も間近いのだと思った。戦争はおこるにきまっている。
 どうでもいい、と彼は心の中でいった。どっちでも、かまやしない。朝鮮ではアメリカ軍は勢いを盛りかえしてきていた。マッカーサーは一挙に敵軍を殲滅せんめつすると豪語し、しかし信二には、戦争が日本に波及しない日を予想しての心の準備をすることはできなかった。信二は、あてどなくホームを往復して、出陣して行く米軍の兵士たちの列を見ていた。笑い声がおこり、口々にガムを噛んだ彼らは、たがいに話しあってまた笑った。笑いの原因は、こちら側のホームを這いずるように歩いて行く、一人の乞食のような汚れた風態の老婆にあるらしい様子だった。「ヘイ!」線路ごしに、兵士たちのひとりがチョコレートをほうった。それが老婆の前に落ちた。老婆は濁った目で兵士たちのホームをみて、それを拾い、肩にかけた袋にひょいと入れる。また歩き出そうとする。「ヘイ!」「ヘイ!」兵士たちはわれもわれもとキャンデイや煙草までを老婆にほうり投げた。ワインド・アップをしてぶつける目的のように速く投げる者もあった。丸刈りの日にやけたはだしの少年たちが、蟻のようにたかり拾いはじめた。
 信二はただ、濃いそばかすのういた桃いろの肌の連中、大きな掌、長い脚と透きとおったガラス玉のような眼とをもった連中、それら異質の動物たちの人生、そして方法が、けっして彼の皮膚の内側には入ってこないことだけを感じていた。彼はもはや、彼らにそれ以上の関心をもたなかった。
 彼は兵士たちに背を向け、重く光のよどみはじめた西の空をみつめた。彼はそこに落日をみようとしていた。彼の切望そのものに見入るように、赤く映えて空を降るそのかがやきをみたいと思っていた。





底本:「愛のごとく」講談社文芸文庫、講談社
   1998(平成10)年5月10日第1刷発行
底本の親本:「その一年」文藝春秋新社
   1959(昭和34)年3月
初出:「文学界」
   1958(昭和33)年8月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:Juki
2016年1月1日作成
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●表記について

「嗤−丿」    98-12


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