現在、各大学に落語研究会というものがあり、中学・高校の教科書にも江戸小咄がのっている。近頃落語の寄席へ若いお客が多くくるようになった。誠に喜ばしいことだ。ぼくは一般のお客から「落語はどういうところがお好きでおいでになりますか」とアンケートの投書をいただいた。そのなかに「昔の言葉が覚えられるから」というのが多くあった。
われわれ商売人の若い咄家が聞いてもすでにわからなくなった言葉がある。土地の名前もわれわれはうっかり昔の町名をいって自動車の運ちゃんに聞きかえされる。
「妻恋坂」「湯島大根畑」「切り通し」。万世橋から上野までが「御成街道」。「
ついうっかり「二足三文だよ」といってしまう。これも下駄の鼻緒が二足分三文で買えた時代の言葉であるから、今は通用しないがついうっかり喋ってしまう。ためしに古い咄家が高座で使っている昔のことばを調べてみた。
「俺がいおうと思っていたがお株をとられてしまった」(先にやられて)
「いかなこっても」(何がなんでも)
「権助の話は裏がかえらねえ」(二度目にやることができない)
権助とは何ですかと聞きかえされて、作男で台所で働いている男だ。台所とは何です、勝手、といってやっとわかった。
昔の悪口には面白いのがずいぶんある。
今は恐妻家、女天下というが、昔は「からすの昆布巻」(かかあまかれだ)
「ずいぶん歩いたがまだよほど遠方なのかね」
「なーに、台屋のお鉢だ」(じき底、すぐ底)
吉原の料理屋からとる
「怠け者の節句働き」
五節句といって、一年に節句と名のついた休日が五つあった。一月、三月、五月、七月、九月である。三月三日の
相撲も
「片や三月二日、こなた五月の四日、互いに見合ってセックマイセックマイ」
昔、この五節句に仕事をしているような者は、不断は「引窓の紐」(くすぶってブラブラしている)といった。現在では引窓という物がなくなった。
都内を歩き廻って見ても鯉
江戸っ子は五月 の鯉の吹き流し
口先ばかりで腹わたはなし
口先ばかりで腹わたはなし
実にうまい表現だ。
少し意気ごんで喋ると、
「五月の空じゃあるめえし、そう大きな声をだすない」
なぞといわれる。
「竹屋の火事みたいにポンポンいうない」
昔は子供に大きな夢を持たせるというので、正月の凧上げ、五月の鯉幟りと大空を見せたものだという。
「今夜ひと晩泊めてくれねえか」
「駄目だよ、家は狭いし、蒲団が一枚しかねえんだ」
「いいよ柏餅で寝るよ」
まろび寝のわれは蒲団に柏餅
かわいというてさすりてもなし
かわいというてさすりてもなし
「北国の雷としよう」(きたなりゴロゴロ)
「百で買った馬みたいにどこでもゴロゴロ寝るなよ」
百というと一銭だからおそらく玩具の馬のことだろう。
「蒲団が短いから足だけでるよ」
「蒲団が短いのじゃねえ、お前が半鐘泥棒だからだ」
明治時代まではどこの町内にも火の見
江戸時代から東京は六尺を一間としてあるが、京都だけは六尺三寸から六尺五寸を一間としてあって、俗にまのびのしたことを「寸のび」とも「京間」ともいった。
「鰻の寝床じゃあるめえし、そんな細長い寝床はない」
入口が狭く奥行きの深いことをいう。
子供時分、本所、深川あたりでは蛙が鳴いたものだ。遊んでいて夕方になると、
「あばよ、しばよ、金杉よ」
「蛙が鳴くからカエロ」
なんといって友達と別れた。
子供の遊びも今とは違う。今のお好み焼きは昔子供の「文字焼」。これも「モンジヤキ」といって、冬の子供の社交場で、店先へ友達が、
「おくれ」
と入ってくると、なかにいる子供が、
「おくれ(暮)が済んだらお正月」
といってからかった。
「お庭の
食物の洒落だけを並べて見ると、
「甘酒屋の荷物」で、片方だけ熱い。片思いの恋
「宵越しの天ぷら」揚げっぱなし
「そば屋の
「お
「夏の牡丹餅」ござって(腐って)いる
「金魚のおかず」で、煮ても焼いても食えない
「しゃぶりからしの金平糖」角がとれて丸い
「
「木挽の弁当」きにかかる
「やかんの蛸」手も足もでない
「蛸の天ぷら」あげ足をとるな
「おでん屋のはんぺん」そんなにふくれるな
「南部の鮭」で、鼻曲りだね
「お歳暮の鮭」ぶら下がっている
「水瓶へ落ちた飯粒」白くブクブクふくれている
「あいつの話は白犬の尻尾だ」おもしろいよ
「落語を聞いても伊勢屋のおつけ」で実が入らない
「あいつときたら煮過ぎたうどんだ」箸にも棒にもかからない
「いざりのお尻だ」すれきっている
「蝉の小便」ずうずうしい
「いくら塗っても午蒡の白和えだ」白く塗っても地が黒い
「空店の恵比寿様」一人でニコニコしている
「雨の夜の火事」ポーッとしている
「春の夕暮」くれそうでくれない
「秋の夕暮」くれぬうちからほしがある
「あひるの卵」で、やりっぱなしでかえさない
「新しい
「いかけ屋の天秤」ですぎている
「石垣の蟹」穴を探す。これは競輪競馬にも使えそうだ
「忙しいせり呉服」大層背負ってるねえ
「牛と狐」こんなところへはモウコンモウコン
「牛のよだれ」だらだら長く続く
「行徳の
「柄の取れた
「おくや・け・こ」まぬけにふぬけ
「角兵衛の太鼓」万事胸にある
「
「火事場の
「鍛冶屋の向槌」トンチンカンで相槌を打つ
「かけた
「経師屋」はりにきている
「九州の入口だ」もじもじしている
「下駄屋の
「小娘紙袋」じき破れる
「コロップ抜き」ひねくれてる
「乞食の
「五月の桜」葉ばかりさまだ
「山桜だよ」はなよりはが先へ出ている
「材木屋の泥棒」きどってる
「桜に鶯」きが違う
「七月の槍」ぼんやりするな
「上手な易者」当てられどうし
「天神様の脇差し」そっくりかえってる
「天狗の干し物」はなへかける
「唐人のおしり」からっけつだ
「日ましの種」めがでねえ
「坊主の鉢巻」(つるつるすべって)しまりがねえ
「谷中の不作」しょうがねえ(昔は台東区谷中あたりが、生姜の本場であった)
「菜葉のこやし」掛けごえばかり(現在三河島が昔は摘菜の本場)
まだあるが、迷子の鳳凰で、きりがない(鳳凰は桐にとまる)
古きをたずねて新しきを知るというが、昔の言葉を少し直すと、現在使える洒落になる。また現在使っている言葉が何年か後には古典語となる。新しい悪口に、
「缶切りのない缶詰」話の底を割る
「ヤソ教の屋根」トンガラかるな
お使いにきた人にお小使いを、
「地下鉄の切符だ」やらなくってよい
「ぼくの喋っていることは十時過ぎの電車だ」押しも押されもしない